指先が触れている

 ぼくは忘れられなかった。街の喧噪の中にいても。目に焼き付いた青、深い緑、溶けそうなオレンジ。いつそんなものを目にしたんだろう。それらを口にしてみたい。葉巻にクルクル巻いちまって先っぽに火をつけたい。ぷかっとふかせばどんな味がするんだろう。あの時頬をかすめた地下鉄の残り香? それとも雨の日のコンクリートの匂い? 夜、窓を開けると漂ってくる甘ったるいニセアカシアの匂い? それかきみの髪の匂い。
 きみは自然の中に不格好な木みたいに立っていた。目が落ち着きなくキョトキョト動いていた。滑稽で痛々しいったらなかった。きみがぼくの街に越してきたら、言葉の端くれで容易く弾け飛んじまうんじゃないかな。青白い足はぶるぶる震えていた。足元に狼がいるみたいなんだな。ぼくは狼なんか怖くない。いずれどこかに行ってしまうことを知っているから。
 君の隣に立ってみることにした。すうすうする手が寂しかったので、繫いでみた。おずおずと。君の手は冷たかった。ぼくの手も冷たかった。暖め合うことはなかったけれど、それで満足だった。手を繫ぐことなんて女の子たちで散々経験したはずなんだけど、それとは何だか種類が違った。
 ぼくたちの内蔵にはハリネズミが住んでいて、永遠に咲くひまわりを探していた。何も食べられなかった。口にする食べ物は紙で出来ていた。誰かの唾液も接吻も、貪っても受け入れはしなかった。明けては暮れる夜を見守った。揺るぎようもなくやってくる夜。地球に端っこがないなんて恐ろしい話だ。どこにいても夜はやってくる。
 ぼくたちは手を繫ぎ続ける。長いこと繫ぎ続けたので、時々存在を忘れてしまう。きみがこちらを見ているのに気がつく。ぼくも見つめ返すけど気恥ずかしくてすぐに伏せてしまう。睫が簾のように影を落として、瞳孔は乱反射する光のようだ。それは太陽だったかもしれない。もしくは月だったかもしれない。閃光は心のバターを溶かした。そびえ立つビルディングの壁が、どんどん溶け落ちてゆくような感じだ。実はそこって廃墟でさ、外面は立派なんだけど中にはびゅうびゅう風が吹いてるんだ。でも壁が剥けるだけで、ぼくはほっとしたんだ。滴り落ちる朝を味わうことができたから。きみもそうだったらいいんだけど。
 きみの髪がひらひら揺れている。きみがぼくに何か言う。聞こえないけれど、声が電波のように発せられたのを感じる。皮膚がぷつぷつと粟立つ。吐いた息が霧となって森中を覆いつくしても、きみはぼくに何かを呟いていた。このまま途切れなければいいのにと思った。何が? 何がだろう。
 弱く握った掌は、いつ離ればなれになるか分からないぼくたちの関係を暗示するようだった。木がざわめいて小鳥の雛が落ち、すぐりの実を揺さぶり落とす。腕が凪ぐだけで繋がりは切れて、きみがすうっと消えてなくなりそうで、その手を強く握りたかった、けれどどうしてだろう、そうしたらぼくは壊れてしまいそうになる。きみもそうなんだろう、指は控えめにぼくの深爪をなぞるくらいだったから。
 だけど本当はどうだったろう? ぼくたちは心の奥底で強く抱き合っていた。歩けば歩くほど傷だらけになり、バカバカしい涙をだらだらと流し、顔は鼻水だらけになり、時には鼻血すら垂らしていた。それでも繋がっていた。体液の汚れをものともせずに、ぼくたちの指先は。
 出会った瞬間からきみは胸の中にするりと入り込んできて、鉄の扉を容易くこじ開けてしまった。ぼくはきみがそうするのを黙って見つめていた。幾重の扉に阻まれた心臓。ぼくの震えるハリネズミ。丸く切り取られた闇の中の空。そこに揺らぐ滲んだ菜の花。きみは最後の扉を開けて、それらにぎゅうっと抱きついた。血液に波紋が走った。初めて鼓動を感じたんだ。ぼくは涙が出そうだった。操縦する乱暴な車にはねられまい、ジャンクフードのソースに溺れるまい、微笑みながら毒づかれる文句に染まるまいとして隠してきたぼくを、きみがようやく見つけてくれた。ぼくたちは震える頬をなぞり合った。月の影のような仄白い肌々を。その瞬間って未だ言葉にできない。
 けれど風景は決して心を許そうとはしなかった。世界は薄汚れていて残酷で、ぼくたちは数々の鉄網状を引き裂かなければならなかった。両手は血に濡れたけれど、いずれは治るだろうと思った。二人でいると心強さが産まれるのだ。ぼくたちは飢えた犬のように鉄網状を探した。向こうにある滴るような色を啜りたかった、水面に両手を浸したかった、飛沫で体を洗いたかった。
 二人で長い旅に出た。雪も降ったし風も吹いた。ぼくは時々煙草をふかし、きみはとりとめもなく絵を描き、破っては風に舞わせた。朽ち捨てられた車を見つけた。シートに腰掛けてみた。だらしなく尻が沈んで、黴と苔のにおいが立ちこめた。土埃で汚れたフロントガラス越しに果てしのない大地が見えた。やがて歩き出すと、車は地平線に飲まれ見えなくなる。いつか。いつかあの車を囲うようにして、小さな花が咲きますように。
 ぼくたちは、ぼくたちは。強く抱き合うことができなかった。ぼくたちは、ぼくたちは、触れ合う指先で充分だった。ぼくたちは、けれどぼくたちは、お互いをかき抱くようにキスをしたかった。電撃のような強い衝動は避雷針からするすると地中に逃れていった。他の人にならナイフで切りつけることだってできる、丸めた紙くずを投げ付けられる。けれどぼくたちの暴力は、当たる前にふっと消えてしまうのだ。強い力は内側の球体のみを波打たせ、ぼくはそれが切なかった。出来ることなら離ればなれになりたいくらい、きみのことが愛しかった。どうしてきみを手に入れられないんだろう? この感情は何なのだろう? ぼくにもきみにも分からなかった。同じ海に沈み、粉々に溶け合ってしまいたかった。それは形ではなかったのだ。そういう関係って存在するものなんだ。
 ぼくたちは今でもどこだか分からないところで指先を触れ合わせて、バカみたいにぼうっと突っ立っている。どこを見つめているのか分からないし、この先も知り得ないだろう。ここには時間はないし、名前もないし、ぼくたちには形すらないのかもしれない。名前を呼び合うことはないし、愛していると呟き合うことすらしないだろう。だけど分かっているんだ。この手が離れやしないということだけは。どこにいてもこの感触だけは忘れないだろうということは。

指先が触れている

指先が触れている

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-31

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