けだもの

 10畳の広くも狭くもない部屋でひきこもる日々が続いた。それで何をしていたのかといえば、音楽を聴いていたのだ。しかしそれを聴いてかつてのように心を震わせることはなかった。不感症がすっかり日常を覆ってしまったのだ。
 だから冷たいとげとげの絨毯が敷き詰められたような家をぶらりと出たのだ。ここには逃げ場がない。すべての吹きだまりだ。

 外は夜だった。星は出ていなかった。遠い野球場の光が分厚い雲に照り返って不気味に黄色かった。ごうごうと唸る河は真っ黒で墨汁のようだ。浸れば体中の毛穴に黒がしみ込むだろう。空気が冷たく鼻の奥がつんとした。かすかに風が吹いていた。しかしその微風も脳みその埃を吹き飛ばしてはくれないようだった。一体これは何なのだろう。考えたって分からない。気がついた時には降り積もっていたのだ。もう、分厚く。手の施しようのないほどに。
 気がつくと、隣に子どもが立っていた。子どもといっても十代の半ばほどだ。それでも私には彼(いや、彼女かもしれない)が子どもに見える。私も随分年をとった。透明なまなざしの横顔にかつての自分を見た気がして、私はらしくもなく、その子に声をかけたのだ。
「何をしているの?」
「何もしてないよ。河を見ているだけだよ」
子どもは私に無感情な声で返事をした。全くその通りだ。出ばなをくじかれた私はしばし黙った。
 横目で観察したところ、その子はこの薄ら寒いのに、半袖に半ズボンという出で立ちだった。強い風に雲がさっと割れ、月明かりがその子の顔を照らした。まなこが茶色に透き通った。特徴的な鼻筋も青白く光った。全てがあらわになったというのに、私はその子の性別を特定することができなかった。短い髪のせいもあるだろうが、15才ほどにしては中性的な面立ちだ。
 無愛想な返事に大人としての理性を取り戻した私は、急にその子の身の安全が気にかかりこう言った。
「こんな夜に一人? 明日は学校なんじゃないの」
 案の定その子は私を警戒したようだった。ますます無愛想な目つきで私を睨み、挑戦的に言い放った。
「そんなこと、あんたに心配される筋合いない」
 全くその通り。私は家でぐうたらしている自分がもっともらしく子どもを心配している展開に、奇妙な面白さを感じた。私はこんな流れになったついでに、その子の名前を聞いてみた。
「どうだっていいでしょ」
やはりつれない返事であった。
「知らない大人に名前を教えるのは危険だもんね」
「そういうことだよ」
「何年生? そこの中学?」
「行ってないよ」
 私の問いに突然その子はしおらしくなってうつむいた。
「あ、そうなんだ。ごめん」
 まずいことを聞いてしまった。私も目線を落として、口をつぐんだ。
 二人の間に気まずい沈黙が流れた。足元の名もない雑草が私の足首をくすぐった。ふいに草をむしってかじりたい衝動にかられる。吸うと甘い蜜が出るのは違う草だったか。どうだろう。長いことここには来ていないのだ。いや、それどころか、どこにも。
 私はにわかにこの胸の閉塞感を誰かと共有したくなって、その子に訪ねた。
「行ってないって? 普段はずっと家にいるの?」
 すぐにやめておけばよかったと思った。
「引きこもりなんかじゃない! 教室入れないっていう意味だ!」
 その子は激昂した。子犬に牙をむかれたようで私は面食らった。
「そ、そう」
 それに教室に入れないのと引きこもっているのの違いが、私にはよく分からなかった。どちらにしても世間から置いて行かれたことに変わりはない。しかしこの子はそう思いたくはないのかもしれない。まだ若いだろうから同年代の子への羨みもあるだろう。よせばいいのに詮索したくなって、私は再び口を開く。
「帰らないの?」
「行き場なんてない」
 あまりに切羽詰まった言い方に、私は思わず笑ってしまった。
「あるでしょう」
 その子は肩をこわばらせて黙っている。握った拳がわなないている。初対面の人間を、こんなに怒らせたのは初めてだ。
「ないんだ」
「どういうこと?」
「言ったってあんたは分からないでしょ」
「そうかもしれない」
「そういうの大嫌い! 本音では私のことなんか知ったこっちゃないくせに、いっぱしの大人であるためにああだこうだ言うの!」
「……」
 私は息を呑む。いちいち、この子の怒り方には圧倒させられる。一回り大きい私に物怖じしないで向かってくる。凄い迫力だ。もしくは物怖じしているのを隠すための怒りなのかもしれない。
「あんたがこれから言うこと分かるよ。どうせいい両親じゃないかとか、先生に相談しろとか、友達に助けてもらえとか言うんでしょ。誰に言ったって分かりっこないんだから。誰もどうしようもないんだから。何したって無駄なんだから」
 そう一息に言い切るとその子はしゃがみこんだ。私は怒りを誘発したのは自分であるのに、どうすることもできずにうろたえた。肩を抱きたいがそうしたらますます警戒されるだろう。
 うずくまって泣いているのかと思った。だが違った。その子はきっと顔を上げた。唇を真一文字に結んでいる。なみだのなの字もない顔だ。
「きっと、あなたは強い子なんだね」
 私が関心と困惑をないまぜにしてそう言うと、その子はしぼりだすようにこう言った。
「違う。弱さを見せられないだけ」
「……」
「だから皆私を元気だと思ってる。普通にできるんだと思ってる。普通にできるのならとっくにしてる。どうして好き好んで普通じゃないふりをしなくちゃならないの? 皆から変な目で見られるし、友達はできないし、親からは泣かれるし、いいことなんて一つもない。怠けてるっていうやつもいる、どこに言ってもけだものになるしかないんだ」
「けだもの…」
 奇抜な表現に、思わず私はその言葉を繰り返した。
「そう、私はけだもの。私は世間からしたら人でも動物でもないの。肩書きを失えば人はけだものになる。けだものは、何をされても自分が不幸だなんて思ってはいけない。思い上がりになるから。けだものはそうされて当然だって思わなくちゃいけない。泣き言なんて言っちゃいけない。大丈夫なふりをして、生きて行かなくちゃいけない」
 その子は地面を転がった。私はぎょっとして後ずさった。その子はのた打ち回りながらこう叫んだ。
「私は大丈夫じゃない! 大丈夫じゃない! 私は人間だ! でも人間なんかになりたくない。あんな生き物、あんな生き物、みんなみんな滅びてしまえ! 矛盾なんか大嫌い。いい子であっていい子じゃない、そんな私を愛していながら嫌っている親が大嫌い。皆罪はない、けれどどうしようもない、私は大丈夫で大丈夫じゃない」
 千切れた草が舞い上がった。その子の顔に枯れた葉っぱがはりついていた。髪の毛はわらみたいにぱさぱさでゴミが絡み付いていた。その子は唸りながら、目以外の穴という穴から液体を垂れ流していた。涙の変わりのように。その姿は本当にけだもののようだった。
 その子はしばらく体を震わせながら「泣いて」いた。荒唐無稽なことだが、私はふと、その子は胸元に何か隠しているのではないかと思った。包丁か、大量の薬か、それとも毛むくじゃらの何かか。
 その子は濡れた目で私を見た。まるで大人のような目つきだった。
「素敵な世界はあるの?」
 すがるような声だった。私たちの周りには閑静な住宅街が、獲物をねらう獣のように根をおろしていた。私は下手なことを言えばそいつらの牙にのど笛を噛み切られるような気がして、みじんも動けなかった。世間だ。それは私に巣食った世間なのだ。
「お願い」
 その子は嗚咽して私の履物の裾を握った。私は黙りこくるしかできなかった。貧弱な私の中にある答えは否であった。だがそれをその子に伝えて何になる。いたずらに絶望へ突き落とすのか。だからと言って薄っぺらな希望を口にするのか。それこそこの子に対する罪になり得はしないか。
 しかし。
「素敵な世界は、あるよ」
 分かっていたことかもしれない。私が答えるとその子は自嘲的な笑みを浮かべた。見抜いているのだ。この子は嘘を見抜いている。覆い隠されたすべてをけだもののように息を潜めて、じいっと見つめているのだから。それが日常なのだから。
 この子はこれから、どうやって生きてゆくというのだろう?
「死にたいね」
 気がついたら私はそう言っていた。するとその子は、やっと安心したように、笑ってみせたのだ。

 川に落ちて死んだ猫。季節外れに咲いた花。車が吐き出す排気ガス。私の要塞である布団の中。私の部屋は子宮。エゴは胎盤。母は人格障害者。音楽は逃避で、夢で、皆の宇宙。私はけだもの。誰でもないもの。だけど、不幸じゃない。不幸じゃない。星は照って、明日はやって来て、死にたいけれどそれ程でもない。私の傷はないもので、皆の傷はないものだ。無視をして、知らないふりをして、そうして生きてゆきましょう。自分の極端さに気がついてしまったのなら、そんな自分を従えて、そうして生きていきましょう。

 足元に、得体の知れない動物が一匹、うずくまっていた。そいつは一直線に駆け出すと、水音を立てながら川に飛び込んだ。その姿は水底に沈んで、二度と浮かび上がってこなかった。

けだもの

けだもの

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-31

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