緑の海

 フロントガラスの緑が揺れていた。5月だった。母は私を乗せて山へ繰り出した。それからめちゃくちゃにハンドルを切った。
 ああ、と思ったのだったか。思わず手をかざしたのだったか。それとも母の顔を見つめていたのだったか。それとも、そのいずれもだったか。私は覚えていない。その時私は何を感じていたのだろうか。確か恐怖でも憎しみでも悲しみでもなかった。ああやっぱり母は私がいらないんだ、そういう一種の諦めだった。
 母のハンドルさばきで座席が震動した。私はなすすべもなく座席にはりついて、無表情で揺れ続けた。この車、こんなに速く走ることができたんだ。普段の母の運転は、母の人格を象徴するようだった。びくびくと走るのだ。父の顔色をうかがう時のように。あっちを見てブレーキ、こっちを見てブレーキ。母の運転はぎこちなかった。

 父は冷たい人ではなかったと思う。ただ、人の感情に少しだけ鈍いのだ。傷つき易くてバカな人なのだ。実に人間らしい人なのだ。多くの長子がそうであるように、真面目で、一人で抱え込むたちなのだ。
「子どもが不登校なんて、そんなこと、親戚に言うべきではない。自分達で解決すべきなんだ」
「お父さん、本を読んだから、お前の気持ち少し分かるようになったはずだ」
 母だってそうだ。悪い人ではないのだ。ただ、子どもだっただけなのだ。母は実に女性的な人なのだ。
「どこか行く?あなたが決めて。どうして決められないの。もういい、知らない」
 自分勝手でわがままで、そのくせ、人から怒られると頬をふくらます。
「あなたって、本当に魅力的な子ども。本当に、どうしてこんな風に生まれてきたんだろう」
 あなたの言うことを聞いていますという顔をしながら、早く話が終わればいいのにと思っている。そのくせ、誰かがそばにいないと何も決められない。
 父は気分屋な母のことを、放っておけない。そのくせ、どうして二人はいつもすれ違うのだろう。肝心なところをぼやかしたまま、時にはこういったかたちで。
「お前は何が食べたいんだ」
「分からない」
「蕎麦でも食べにいくか」
「知らない!」
「どうして怒るんだ。おれは何も悪くないぞ。勝手にしろ、ばか」
「お父さんはいつもそう。少し待ってほしかっただけなのに。ひどい人」
 今回のことだって、そのように、問題がこじれただけなのだ。
「私の育て方が悪かったから、あなたがこうなった、って、責められたのよ。ひどいわよね、お父さんは」
 私はどうやら出来損ないだったらしい。母は友達にそうする感覚で、私に愚痴を聞かせてくれた。
「あなたのおばあちゃんはねえ、あなたが生まれなければよかったと言ったのよ。不登校なんて、恥だって」

 事の発端は何だったろう。そう、私の靴が隠された、それだけだった。小さな小さな事件だった。誰々くんの教科書が破かれた、誰々ちゃんが階段から突き落とされた。田舎の小学校でよく起こる事件。それなのにどうして、私は学校に行けなくなってしまったのだろう。こうなって、もう5年が経つ。
 5年前のある日、教室に入るとそこは暗闇だった。押し入れの中のように濃い暗闇。私は立ちすくんだ。その上なぜか、そこら中に金色の目玉がぎょろぎょろしていた。これは何だろう。いつも通り扉を開けたはずなのに。反響する皆の笑い声はあちこちにこだまして、耳を刺した。
 その翌日から私は、登校する時刻がおとずれると、家の前にうずくまって動かなくなる子どもになった。体が重い。力が入らない。お母さんが悲しんでいる。なのに動けない。母が見かねて家に招き入れてくれると、今度は体から力が抜ける。私は這って廊下を移動した。匍匐前進する不登校児。
 それから1年経つと朝が憂鬱になった。起きられないのだ。母はこんな生活に嫌気がさしている。以前は呑気に笑っているような優しい人だったのに。いつから「行かない」と返事をすると、茶碗を割る音が聞こえるようになったのだろう。
 毎日は、行きも戻りもできない地獄だった。母にとっても、そうだったに違いない。父は母の愚痴を聞くのが嫌いなのだ。
「お父さんはひどいのよ、私を分かってくれない」
 父と母は時折、私のことでけんかをした。言い争う声が聞こえてくるたび、どうして自分は生きているのか不思議な気分になったものだ。2人の生活を狂わせたのは私だ。どうしてこんなものがと生んだ本人から問われて、アイデンティティに疑問を持たずにいられようか。

 そうこうしているうちに、フロントガラスの緑は揺れていた。母は私と心中する気だ。それ程に私は、恥ずかしいものに育ってしまったのらしい。一方で私は怒っていた。母は相手を責めるばかり。父は自分の保身ばかり。どちらも私の気持ちなど知ろうとしない。ただ、相手に「どうして?」と聞けばいいだけなのに。変なプライドで、私は決めつけられ、計りにかけられ、調理され、味付けされ、あげくの果てにばらばらにされ鍋に放り込まれなければならない。
「お前は、逃げているだけだ!」
 絶望するのなら一人でしろ。
「私ばっかりひどいわ。一緒に死のうか」
 どうして彼彼女の感情を尊重するために、自分の気持ちを押し殺さなくてはならないのだろう。
 いつの間にか、私はハンドルをとっていた。それから、アクセルをもっときつく、きつく、踏みしめた。タイヤは悲鳴をあげた。ギャルルルルルル。映画のような音を立てて、車はスリップした。母が悲鳴をあげた。痛い痛いと。私だって痛かった。窓ガラスに頭をぶつけて痛かった。けれどそう言えばあなたは間接的に黙れと言うだろう。私ばかりひどいわと。そうだ。そのままどこまでも行けばいい。目を閉じて。一瞬のこと。フロントガラスの緑が揺れていた。フロントガラスの緑が揺れていた。
 それから、目を開けた。そこには吹きだまった表情の母がハンドルを握っていた。私は相変わらず助手席に座って、全身をこわばらせていた。母はハンドルを切って私とぐしゃぐしゃになることを諦めたらしく、ブレーキを踏んだ。車は止まった。どこへも行けないまま。私と母は浅く息をしながら、頭上で木々が揺れているのを、じいっと感じていた。
 森は海で、私たちは微生物だ、そのようにどうってことないような出来事だった。きっと私たちがあのまま死んでも、世界は途方もなく、ここに在り続けるのだ。この、幸福にあふれたビーズのような葉っぱにくらべて、私たちの絶望は、なんて小さくて穢らわしいのだろう。
 外は温かいだろうか。私は呼吸がしたい。いや、もうしている筈なのに、息苦しくて仕方がないのだ。私と母は溺れそうになりながら、貝殻のようにもろい車のなかで、現実という鮫に見つからぬように、じっと息を殺していた。母は私と言葉をかわして傷つけられるより、アクセルを踏みしめる方が楽なのだ。彼女は、そういう麻薬のような悲哀を愛する、実に女性らしい女性だ。
 これは一種の夢なのかもしれない。しかし私は、母とこうして夢を見ているのは嫌なのだ。自分の悪夢を見たいのだ。私は母の夢から覚醒しつつあった。親子は、共に夢を見るものなのだ。それから、その夢は、いつか醒める。母はその時、深海を一人彷徨う明日に気がつくのだ。子どもを飼い馴らし、依存してきた母親は、ことのほか。
 けれど私はこの海を泳ぎ出さずにはいられないだろう。いつか、頭上を彩る太陽を探しに行こう。だって、私は2本の手と、2本の足を持っているから。きっとこの先に、私だけの季節があるはずだ。私が寝ても染みができぬシーツがあるはずだ。私が鼻をかむ音をからかわない人がいるはずだ。そう信じていなければ、私はこの貝殻の中で息をするのを止めてしまいそうだ。だからゆるしてくださいと私は神様につぶやいた。ゆるしてください。私のかみさま。それは誰だったのだろう。隣にいる女神は荒れ果てた肌をして、
「家に帰ろうか」
と微笑んだ。私は小さな泡を吐きながら、目の前のうなばらを見つめるので精一杯だった。
 ああ、なんて、小さいのだろう。
 5月だった。

緑の海

緑の海

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-31

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