境界の告白

プロローグ

 或る公園に宇宙船が落下し、一人の少年が行方不明になり数年がたった、八月の上旬の頃、バス停で腕時計を確認した次に覚えているのは、自分が車椅子に座り一人の患者として医者との面談をしている最中であり、左腕に番号の書かれた腕輪をし、白い服を着けていて、その部屋が酷く殺風景とし私の目に映り、小さな机と、シワのないベッドが白化したサンゴの様に沈んでいる病院の一室であった。仕事の疲れで幻覚に囚われているのか、それとも既にバスの椅子に座り、うたた寝をして、夢に引き込まれてしまったのか。息を潜めて理解に苦しんでいると、厳格を暗示する髭を生やした医者が鋭い目つきで喋りだした。
「カスタリオ君、やはり、病状は悪化している。このままでは死より恐ろしい状況に陥ってしまうであろう……」医者は自分の指と指を絡めあって神経質そうに嘆いた。
 だが私に取って全てが把握できず、現実ではなく、引き続き夢を見ている感覚であった、けれども吸う空気や医者の肺がスゥスゥと浮き上がったり、車椅子の材質が皮膚で感じ取れる事、天井に張り付いた照明が少し眩しく思える事などから、もしかすると、実は覚めている現状であり、私はもしかすると危機的な、そう、冷汗をダラダラと掻かなければならない恐ろしい事実が起きようとしているのではないかと脳のアメーバが小声で述べ始めた。
「あの……申し訳ないのですが、カスタリオとは一体、誰の事を指しているのでしょうか? もしかすると、私に対して言っているのなら、それは間違いです。別の患者をこの診察室に呼びましたね。そもそも私の名前は『平井』と言って、病院に来る理由もないですし、非常に健康的ですし、そうそう、前回、会社で受けた健康診断も素晴らしく良い結果を得たのです。私としてもこの、車椅子に何故、座っているのかも分からないですし……ああ! もう時間です、会社に行かなければ、急いで行かなければ、今日はとても大事な会議あるのです」この時、ギチギチと鳴る異音を不快に感じた。それは私が語る中で聞こえた。
 私の言葉を聞いて医者は「やはり……」と呟いた。と同時にとても悲しそうな顔つきが陰鬱に、ブリキの様な表情として出来上がり少し姿勢を崩して「カスタリオ君、とうとう自我まで崩壊してしまうとは……なんて情けない。『ヒライ』とは一体なんだね? この国にその様な名称はないし、今までその様な発音さえも聞いた事がない、もしかすると、カスタリオ君が作り出した詩、そうです。詩的な格言から生まれた突発性の意味であろうか……それでも私には理解が出来ない。嗚呼、病人よ、肢体は床に伏せたままであっただけなら、どれだけ救いがあっただろうか……遂に恐れていたことが、一つの希望としてあった物がたった今、屑になってしまった。詩人よ、今のお前は矛盾だ」
 私の親切さを込めて述べた内容は否定された。それに加え私の名前も聞いた事ないと言うし、何となくだが、私を私と見ていないこの医者に或る種の恐怖が羽根としてフワリと額に沈んでいく。「貴方はオカシイ。私の名前は『平井』ですし、病気でもない、何処にも居る普通のサラリーマン、不動産屋の営業マンだ」再びギチギチと鳴る。
「妄想も甚だしい……困ったものだ、精神が狂ってきたのか……良いかね、カスタリオ君、私は君の心を治療する専門の医者ではない、主に蟲に侵された身体の肉を治す事に長けた医者である。話が通じないであろうが、何だろうが、カスタリオ君の治療を受けているからには、それを行う義務があるのだ……」
「何を言っているんだ、私の身体は健康だ。治療など受ける箇所なんてない」
 医者は黙り、腕を組んだ後「宜しい、予定通り今日の午後から手術を行おう」と私の方をチラリと見て言った。まるで『このキチガイ患者め……』とした瞳であった。流石にこれには頭にカチンときたので「私はオカシクないぞ! このキチガイ医者! さっさと私を帰せ!」と叫び車椅子から立ち上がろうとした瞬間である。コテンと転がり、カーペットが敷かれた床に倒れこんでしまった。それを見た医者は息を噴き出し、高笑いして手を叩いて笑った。どうして? 石の様に重たいのだ? この脚は……視線を二本の脚に目をやると、黒く艶のある甲殻で覆われた節で繋がっている細い脚が見えた。昆虫の脚に酷似していた。私は気管が波打って吐き気を覚えて顔をしかめた。そうすると、たまたまであるが、医者が使用している机に視線が送られた。医者の机は鏡の様にして反射する銀メッキで塗装されており、私の歪む表情を映す筈だったが……触角を垂らす蟻が顎をギチギチと鳴らし大きな複眼がこっちを窺っていた。
私の掴めない状態に医者は一言だけ「はっ」と述べて「何を今更驚く必要があるというのかね? カスタリオ君、なあに手術さえしてしまえば、良くなる……その、毒々しい脚だってノコギリかチェンソーで切断してあげるよ……」
「違う、私は……私は、こんな病気に陥っていない、今日だって、いつも通りに六時半に起床してパンと炭酸水を飲んで、ミントの味がする歯ブラシを丁寧にしごいて、紺色のスーツを身に着け、革靴を履き、バス停に向かったんだ……」
「ふぅん、『バステイ』とは何だ? それにカスタリオ君はパン何て食べ物は基本的に喰わない、だってカスタリオ君の好物は砂糖をまぶした生肉と、腐ったレモンだ。いよいよ、蟲に脳みそが侵食されたと思えるよ、カスタリオ君の語る内容は不快だ」
「違う、違う、違う、私は悪夢を見ているだけなのだ! 人が虫になるなんてあり得ないことだ」

 過去のページを捲るとする。
例えば、初めて彼女と出会ったのは私が二十三歳の時であった。懐かしいかと言えば懐かしいが、昨日食べたカップケーキの銘柄と味を思い出すのと等しいかもしれない。
それと彼女は排気口の下に居た。
と言うと豚の悲鳴が聞こえる、豚骨ラーメンの空調機の下に泥酔し、膝を抱えて意識がもうろうとして見える女の子が、脂ぎったアスファルトに座っていた。そして仮に、どんな美少女だとしても私は関わりたくないと思った。所詮、人間の体内の構造なんて、大きさは変わっても一緒だ。要するに汚泥の処理は一致しているので介抱している途中にゲロやゲップなんて食らってみろ、アルコールと豚足を混ぜ合わせた新種のカクテルで、真新しい私のスーツが台無しだ、中には美少女なら喜んでゲップやゲロを嗅いで上げます。と言う物好きもいるかもしれないが私からすると到底不可能の事で、私の三メートル目先に座り込む女を無視するのがしごく当然の事であった。
 それに私は家に早く帰りたくてしょうがなかった。
 私自身がほんの数分前まで会社の上司及び同僚どもと居酒屋でビールを飲み、酒が胃の底でトプン、トプンと揺らいで気持ち悪いのだ。それと、私よりも身長の低い、(車内でレゲエっぽい音楽を鳴らす)同僚の一人が「そう言えばよ、お前にあった時から言いたかったんだが、お前の人見知りは気持ち悪い、喋りだす口調もボソボソと言っていて、何が伝えたいのかがサッパリ分からない、あと、社内でネットサーフィンしている最中にニヤつくのを辞めろ、癪にさわる」同僚はそう言って水で割った泡盛をグビグビと飲んだ。
 別にいいではないか、この性格は生まれ持って生じてしまったのだから……ロシア人がビー玉に似た目玉をしているのと一緒だ。
「アップルパイが食べたい……」
 背油と混じって若い女の声が聞こえた。
 私はハッとして声の主を見ると、泥酔していたと思っていた、女の子がこっちを見ていた。どうやら、この女の子が私に向かって言ったらしく、再び「アップルパイが食べたい……」と言った。
 私は酔っ払いが述べる事を無視して立ち去ろうとした。関わりたくないと思った。
「どうして! 無視するんですか!」淡いスーツを身に着けた女の子が私の腕をガッシリと掴み起こった顔で言うもんだから「いや、無視するのが普通だろ」と答えてしまった。
「だから、アップルパイを食べに行きましょうよ」
「いや、アップルパイなんて置いてるお店、この時間帯はもう閉まっているだろ」
「あなた、バカですねー。この時間帯に置いてあるお店がある事を知っているから、アップルパイが食べたいって言ってるんです」
「それなら、一人で行ってくれ、私はお前と付き合うつもりはない」
「ちっ、ちっ、ちっ、奏は待っていたのです。奏とアップルパイを食べるに相応しい人物を!」女の子は自分の事を『奏』と言ったおそらく名前であろう……
「排気口の下でか?」
「場所は関係ありません。必要な事は誰とアップルパイを楽しく、たいらげるか、この一点だけです」
「はぁ……」
「それじぁ、聞くけどお前は酔ってんの?」
「はい奏は大変、酔っています」
「それでシメがアップルパイって、聞いた事ないぞ、絶対にオカシイ」
「では、世界で初めてウニやエビを食った方々はオカシイでしょうか? 否! オカシクありません! 何故なら美味いからです」
 彼女はふふんと自慢げに、誇らしげに私に微笑むと、私の腕を引っ張って、路地裏に連れて行った。
「いやー、このモヤシ炒め、中々と美味いもんでしょ」
「私が今食べているのはアップルパイか? なるほど、私が酷く酔っていてアップルパイがモヤシ炒めに見えているだけ……」
「しゃーない、まさかアップルパイのお店が七時半に閉まるなんて情報不足だったわ」
「やっぱり閉店してたわけか……もう私は帰るぞ」
「まあ、まて、まだ飲み足りないと見えるぞ、若者! 文句は聞く! さあ、今日は沢山飲んで全てをぶちまけろ!」
 彼女はそう言うと芋焼酎の蓋を開け私の口に突っ込んだ。

 口の中がヌチョヌチョとしてアルコール度数が強そうな汗がシャツに張り付いていた。頭の奥がグワングワンと鐘が響く、これは……二日酔いか……静かにため息を吐いて、腕時計を見ると午前十時であった。加えてどう見渡しても他人の部屋、緊張が走り上体を起こす。それとベッドの上に女の子が寝ていた。……とんだ失態だ。このまま私は足音を立てずに空気中に漂う窒素の物まねをして、緩やかに帰ろうと考え、足の先を猫の様にヒタリ、ヒタリと一歩ずつゆっくりと歩き、多分、玄関らしき方向を目指して進んだ。
 ピピピピピピピピピピ!
 電子音がうるさく鳴いた。アラーム? 私はそう思って無駄にドキドキする胸のまま女の子が眠るベッドの方を向いた。やはり音の先はあすこだった。白い腕がニュッと生えて
面倒くさいなぁ、と言ったふうに携帯を触って音は止む。女の子は目を擦ってマンボウを真似たあくびをした後、焦点のあっていない瞳で私を見た。
「誰?」
「ウソだろ? 覚えていない?」
「貴方なんて知らないわ……警察に……」
「まて、まて、確かに酒を飲んで記憶にないかもしれないが、この部屋に無理やり連れ込んだのは、あんただぞ!」
「そんな訳ないわ、だってアタシは昨日、会社の人達と居酒屋に行った後、すぐに帰宅したわ」
「いーーや、お前はすぐに帰宅なんてしてないね、豚骨ラーメンの排気口の下に座り、私を拉致ったんだ。そこら辺から、酔って覚えていないだけだろ!」
「じゃあ仮にそうしたとしても、部屋の中に入るなんて、あつかましい奴ね。取りあえず警察に電話するわ」
 女の子はそう言って携帯の画面をタップする。私は何故かこの時、焦っていた所為か「奏! 通報はよしてくれ!」と叫んでいた。
 するとだ。女の子はキョトンとした表情で私の顔を見て、携帯をポケットに入れながら頷いて「ふぅん。奏がねぇ……」と言った。
「貴方が言っていた事、信じるわ」
「そりゃあ、良かった」
「でも、もうアタシに二度と近づかないでね。さっさと帰って」
「お前、ムカつくな。言われなくても帰るよ。バカバカしい」
 玄関で靴を履いてドアを開けて外に出る。強い日差しが眩しい。
「はぁ、今日が日曜で良かった……」

 月曜日の夕方、仕事が終わり帰宅する。耳にイヤホンを差し込み、学生の頃から聞いている曲を再生する。向かう先は自宅ではなく、スーパーマーケットである。そこで夕ご飯を購入してパソコンの画面を見ながら食べると言ったごく当然の行為をする。スーパーマーケットに到着した私はコロッケと麻婆豆腐を選んでカゴに置いた。
「何時もこんなご飯を食べているの?」
 聞き覚えのある声が私に投げかけられた。傍に立つ声の発信先を見ると日曜日に警察に通報しようとした女だった。
「二度と近づかないで、ほしかったんじゃないのか?」
「アタシから近づく事はいいのよ」
「自分勝手だな。自己中だ」
「フフフ、自分勝手な女って嫌い?」
 この時、『彼女』は初めて笑った。
「そもそも人間として『自己中』が嫌いだ」
「それくらい、許しなさいよ。貴方、夕飯でも買おうとしてたの?」
「悪いか? コロッケと麻婆豆腐、美味いじゃないか」
「別に……そうねぇ、貴方、私のアパートに来なさい、ご飯を作ってあげるわ」
 頭の中が混乱する。まるで前回の対応と明らかに違う。何か怪しい。それに元々、私の性格からして見ず知らずの、しかも女の家に何て喜んでいくタイプではない。
「いや、遠慮するよ。またお前に騒がられたら、たまったもんじゃない」
「あら……」彼女は言葉につまり、少しだけ考えた後に「そういうタイプって強引なタイプに弱いんでしょ?」とクスリと笑い私の腕を掴み引っ張る。
「お前、意外に力が強い……」
「貴方みたいに栄養の偏ったご飯を毎日食べる習慣がない所為ね。それに貴方がひ弱過ぎるだけよ」
「はあ……」私はまたしても引っ張られて連れて行かれてしまった……

「おいおい、マジかよ。こんなクソ暑い日に鍋なんて」
「スタミナがつくわ。キムチ鍋、フフフ白菜が真っ赤になってる」
 私は深い、深い、ため息を吐いて汁を飲んだ。舌がヒリヒリした。
「まぁ、味は上手い」
「当然よ」
「しかし、お前、絶対に性格が捻じれているよな……」
「それは貴方もでしょ?」
「意味が分からない」
「貴方、所謂、イケメンの類に入るじゃないの、それなのに異性から逃げているって感じで……」
「キショい」
 私は白菜をゴフゴフと吐いて咳をした。
「訂正しろ。私は決して逃げている訳ではない。近づかないだけだ。危険地帯に覆われた柵から去る様なものだ」
「その危険地帯に居る生き物が、例えば、虎、豹、熊、ではなくて、ウサギ、ネコ、キツネだとしても、貴方は近づかない?」
「そもそも、私は生き物が苦手なんだ、喋らない物質、無機物の方が好きだ」
「ウソね。人は体内に有機物を投入しないと死ぬものよ」
「イケメンなのに勿体ないわ」
「顔は関係ないだろ」
「この話はやめだ。つまらない」
「そうね人は『中身』だもの」と言って彼女はフフフと笑った。
「それならお前はどうなんだ」
 私は話を変えたくて適当に言った。
 彼女は少し考える様にし、指を頬に押して「まぁ、これを読んでみて」と言って私にある一冊のノートを渡した。 
 ノートを開くと二枚目のページに『著者 奏 作品名 境界の告白』と書かれている。
 私はその先に書かれている文字を読み始めた。
 王は詩人を打った、病を打った、何故なら王の知識は消え去り、灯の欠片も残っていなく寄生された小さな虫によって支配されたからである……ムシジュジュジュギギギ……
 詩人は罪人であった。元は罪人であった。しかし、その彼の書いた詩は開花させた。まさにチョークで描いた線が生きて動いたのだ。彼の唄った言葉は閃光として輝き景色を作った。それによって刑を免れた。……ムシジュジュジュギギギ……
 王はそれを気に入り彼を玉座の隣に置いた。彼は真珠の様な白くて眩い詩を緩やかな舌で読んだ。素晴らしい、素晴らしい、琴を鳴らしオルガンを鳴らせ、……ムシジュジュジュギギギ……
 蟲は王の脳髄を駆け巡り腐らせ意識を奪い去った。詩人はその状況を詩にした。嗚呼、なんておぞましい、おぞましい、……ムシジュジュジュギギギ…
 私は後のページを開いたが何か黒い汁の様な物がこびりついて、読むことが出来なかった。
「何ですかこれ? 中学生の頃に書いた痛い小説モドキですか?」
「そうね、少し前に書いた小説よ。『奏』が書いた本よ」
「それにしても、面白くない文章ですね。まさに自分に酔って書いた文章ですよこれ、それに、個人的に、私は物書きをする奴等が嫌いなんです」
「何故」
「自分に酔っているからです。酔ってかいた文なんて、私が思うに現実逃避ですよ、空想や妄想に浸らないと自分を保てないから書いていると思います。それなら現実で行為しろ! 現実で叫んで見ろ! 誰もテメェの事なんて一ミリも関心なんてないんだよ! それに惹かれる奴等がいるとすれば、傷の舐めあい、自分の傷の見せあいっこです。本心はそいつの内容など見ていない、それを支持している自分が可愛いんです」
「随分、喋るわね。貴方は物書きに親でも殺されたのかしら?」
「違います。己を己を持って評価する、精神が嫌いなだけです」
「フフフ」と彼女は笑って「確かに貴方が言う事は否定できないわね……『奏』もそうした気持ちで書いたかもしれないわ」
「お前が『奏』って言う時、まるで他人の様に喋るが、『奏』ってお前自身の事だろ?」
「正解であって、正解じゃないわね。それがね……」
「でも『奏』が貴方を探して選んだとすれば、まあ、間違いなく、貴方はこれから苦労するわね」
 私は困った息をはぁと吐いた。
「お前、元、引きこもりか? 勘弁してくれ、この鍋をもう少し食ったら、もう私は帰るぞ」
「そう……また会えるよね? 平井くん」
 この瞬間に見せた彼女の笑みは何処か寂し気であった。

白黒の夢を見た。白い肌と白い歯、黒い髪の毛と黒い瞳は棚の奥に仕舞い込んでしましまった写真のようであった。懐かしい……そんな風に微かな感情とかすり傷を付けられたと思った。その中でも紙風船が浮いている光景は印象深かった。浴衣姿の少女の周りに漂う紙風船とそれを両手で受け取る白い手、と、雪の結晶が人の体温に溶ける様にして紙風船も静かに溶けて行った。白と黒の風景は何処かのカラスが一鳴きすると同時に風が舞って砂が夢を浅くして僕を起こした。
 どうやらコーヒーを飲みながら、うたた寝をしてしまったらしい、コップから熱は逃げ去ってしまい、僕は意味もなくコップの暖かい個所を探して指でなぞった。ひんやりとする陶磁器は少しだけ、僕の眠気を奪った。
 ふと、窓ガラスを見る。もう辺りは薄暗くなり、淡い街灯が踊り始めていて、帰宅する人々の影を作っていた。そして僕の詰まらない顔が硝子に映り気分が伏せてしまう、少しは笑えば良いのに自分に不貞腐れ、もう一度、冷めたコップを触った。

 感触は私の目を覚ましてくれた。病室のベッドの上で目を開いた事に気づいた医者が「手術は無事に成功しました」と静かに言った。しかし甲虫の爪が見えたので私は病室の窓を眺めた。硝子に一匹の黄金虫がトンとぶつかった。
「成功しただって?」ギチギチと音が鳴る。多分、顎がギチギチと鳴っているのだろう。この医者、まだ私の身体を治療していないに決まっている、
「はい、成功です、カスタリオ君、この手術は見事に成功を収めました」
「ならどうして、私の身体はまだ、甲虫の脚が生えているんだ!」
 医者は自分の口髭を軽く撫でた。また理解不能な事で腹を立て、怒りを湧き出す感情が言葉に色を塗った。
「蟲に侵食された箇所を切除しても、また生えなおしてくるのです。何度も、切除、切除、切除を繰り返しても、構築されるのです。本当に頭にキマス。だから考えたのです。むしろカスタリオ君の身体全てを蟲にすれば解決ではありませんか? そして実行した結果……最高の結果です。嗚呼、カスタリオ君は立派な蟲になりました」
 コツコツと脚を踏んで興奮気味に医者は語り、自慢げに手鏡を渡した。だが、私は頭に血が昇り手鏡を思いっきりにはたいた。すると腕はカマキリが餌を捕食するかの様に瞬時に伸びて手鏡はカッターで裂いた紙として床に落ち、割れた。それを意味するのは私の腕がもはや、人の腕ではなく、昆虫が敵を裂くために用意された異形物であった。医者はその光景を見てさも満足そうに微笑み「素敵だ。父親に初めて買ってもらったラジコンよりもワクワクする」目玉をピクピクと動かして言った。
「さあ! さあ! カスタリオ君も完治した事だ。王の玉座に報告しなければならない、無論! カスタリオ君も一緒に行くのだ」
 首の根元をガシリと掴み床に叩き落とした。私の苦しそうな唾を吐き出すと共に再び、首根っこを掴んでズルズルと歩き、病室の扉を目指して医者は進んだ。

 最初に思ったのは(ここが玉座?)であり、続いて病室から出た時に既に別の場所に居た事であった。しかし、私の考える能力は崩壊していた。もう無駄だ、私がサラリーマンだった事実さえも古い過去の出来事で、いや、もしかすると、それさえも私の妄想であったと思えるのだ。医者は髭を触り王と呼んでいるソイツを待っていた。
 団地に囲まれたポツンと存在する小さな公園、その真ん中にすべり台があって、風の代わりに暖色の紅葉がクルクルと舞っている。息はスウっと白くなり身体が徐々に冷たくなり、体温を奪っていく。その時、医者が傘をさした。雨が降るとも言えない空を見ると「そろそろ来るな……」と呟く。
 壊れたリコーダーが吹いた。それに私がビクリと身体を震わせた時である。快晴の空から、レーズンの箱、チョコレートの箱、キャラメル、飴玉、スナック菓子、スコーン、ワタ飴、ストロベリーのシユウクリーム、とか、他にも私が目に映らない種類のお菓子が降り注いだ。赤い傘の頭上にはガンガンと菓子がブツカリ、私の頭にもガスガスと遠慮なしに菓子が衝突する。
「キャハハハ」女の子の笑い声が聞こえた。
「王が参った」医者が静かに述べた。
 一人の女の子がすべり台の上を支配した。彼女はダッフルコートを身に着けていた。そして私に向かって「久しぶり、平井君」と言った。

 ヒントを与える。それは19××年の真夏の頃でもう少しで夏休みに入る前であった。もう少しと言うのは、三日後である。ここで注目して欲しいのは沖島小学校の生徒であり、共に小学校四年生で、少年、少女の魅惑の冒険となった事だ。事の発端は、夏休みが近づく五日前の夜に起きた。午後二十三時の針がまわった辺りである。沖島小学校から約六キロ先の南西の方向に鋼の円盤が落下しのである。墜ちた場所をもう少し詳しく説明するとマンタ公園にある時計塔の下の芝生であり、大きさを適当に教えるが、子供たちが手を繋いで円を作るとすれば百人程だと思う。その出来事以来、沖島小学校に通う四年二組の原内孝介が行方不明になっている。噂では落下した円盤は宇宙人の乗り物、(子供たちが小声で囁く宇宙船)に一人で覗きに行って、帰ってこないんじゃないかと言われている。そして夏休みが始まる三日前の午後の休み時間に赤い帽子を被った少年が言った。
「なぁ、今日の夜、みんなで探検に行こう。原内を探しに、宇宙船にさ!」

境界の告白

境界の告白

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-28

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