花束と陽炎

直接的ではありませんが、死の描写が含まれます。
また、精神的に弱い人はあまり読まない方が良いかもしれません。精神的に少し暗いものを抱えた人間をキャラクターとして出しています。

一人目 個別性

 プロローグ

 暑い夏の日だ。今年がきっと一番暑い。きっとこの先も一生、今年が一番暑いと感じられると思っていた。汗が滲む。ゆらゆらと揺れている視界が綺麗だ。身体が鉛のように重くて、その場に座り込む。存在するのは遠い湖と自分と暑さ。今年は、きっと一番暑い。汗が、日差しが、陽炎がそれを証明している。僕は遠いあの湖を目指して、ゆっくりと体を傾けた。


 一人目 個別性

 崖の上に、一人の女性が立っている。少し時代を感じるロングスカートに、型崩れのしていないパンプス。背筋をピンと伸ばし、髪をなびかせるその様子はまるで絵画のようだ。歳を重ねて少し薄くなった色素が彼女の苦労を語る。どんな表情でここに立っているのだろうか。草木が擦れあう音がして、彼女は歩みだした。

 彼女は、真面目な女性だった。親の言うことをよく聞き、学校の提出物は計画的に終わらせて、余った時間は習い事に費やすような幼少期。思春期に入るとクラスの男の子に年相応な恋をして、親にも少しだけ反抗した。そして成人を迎えると、織物を主商品とする会社に就職。彼女の書くスカートの型紙は丁寧で繊細で、彼女の人格を表すような美しいものだった。彼女は自分の人生に不満など一つもなかった。やがて上司である男性と惹かれあい、結婚。息子を二人産み、家庭に入った彼女はスカートの型紙を書かなくなった。子供が小さいうちは、彼らの服を作る日々。彼女は、幸せとはこういうものなのだろうと考えた。このまま子供が大きくなって、お父さんが定年を迎えたら一緒にゆっくり老後を過ごそう。そして、孫と会えたらきっと自分はこの人生に満足するのだろう。そう彼女は思い、日々を過ごした。

 ある日、彼女が息子に手製の服を着せようとすると、息子はそれを拒んだ。ついにこの時が来たか、と彼女は感じる。家庭に入り時間が余った彼女は、息子のためを思い育児や子供の発達に関する本を読み漁っていた。息子は、本に書いてある通りに成長している。自分の予想した通りの行動をしている。そして自分自身も、あの本の通りに成長してきたことにも気付いた。本に載っている通りの息子への反応。本に載っている通りの夫の反応。やがて彼女は人間について興味を持ち、解剖学から精神発達論まで様々な本を読んだ。そこに載っていたのは、彼女の両親や友人、息子そして自分自身だった。彼女は恐怖を覚えた。私は自分自身の意思を持ち、自分自身の意思で人生を選択し、過ごしてきたはず。私と彼らは違う存在で、私の子供と彼らの子供は括られるべき存在ではないはず。彼女は個別性というものを見失い始めた。人間はポリス的動物である。ある人は何千年も前から、人間は個人ではなく集団であるとわかっていたらしい。自分と同じような人生を過ごしてきた人ばかりだ。何千年の歴史の中で、彼女の努力や苦悩、出産時の痛みさえ、埃よりも小さなもの。彼女が生まれた意味は種の存続以外に無く、その役目も終わりを迎えようとしていた。

 彼女は、小さなことに目を向ける生活を始めた。自分が、あまりにも小さな存在であるから。きっとあと少しで、存在すら忘れられてしまうから。スカートを織る時の、布が擦れる音。息を吸う時の、少しひやりとした感覚。忘れられてしまう、意識すらされないこと全てに愛しさを向けて過ごした。何回同じことがあっても、それらが愛しい。あらゆることに自分の存在が投影され、愛さざるを得なかった。そして彼女の人生を変えるニュースに出会う。世界一寿命の短い生物の存在を彼女は知った。彼女は夫に無理を言って車を出してもらうと、土煙が立ち、雑草だらけの湖へと向かう。暑い夏の日だった。夫に待っていてもらうように告げ、彼女は彼らに会いに行った。彼らは音も立てず、ただひらひらと舞っている。ふとその姿を遠くから眺めてみたくなって、彼女は高い崖を探した。

 ひらひらと舞う彼らの姿は、たったそれだけの距離で見えなくなってしまう。目を凝らしても、彼らはそこにはいなかった。代わりに視界がゆらゆらと揺れる。名前ですら、彼らの存在は奪われた。彼女は、個別性というものについてもう一度考える。そこに彼らは見えないけれども、彼らは確かに存在している。彼らの舞う姿は決して美しいものではなかったけれど、愛しいものだった。今、彼女の周りに存在するのは遠い湖と自分と暑さのみ。誰かの目に映らない今、何も変わらないまま、ただ風に吹かれている今、自分の存在は見えないものなのだろう。でも、確かに存在するのだ。彼女は初めて、自分自身について、そして個別性というものについて理解できた気がした。そして、ゆっくりと歩みを進めて、彼女は湖へ向かった。

花束と陽炎

なんか、考え出したらきりがないことってたくさんあるんですが、自分にとってそういうのってもはや愛しいんですよね。
答えも出ないし、苦しいんですけどね。
でも人間苦しんでる時って輝いてると思うんですよ。
幸せの感じ方もそれぞれですから、人によっては苦しいことも、幸せに感じられたり感じられなかったり・・・
生き辛いなぁと思います。ははは。
まぁ、生きるだけなら今の社会なんとかなるんでしょう。
それ以外のことを成し遂げてみたいものです。理想論ですけどね。

ちなみに、自殺を肯定するものではないです。ただ、自殺をする人たちにとって死というのは必ずしも悪いものではないし、その人にとっての自殺という選択に対する解釈を知らないのに、安易に否定するものでもないと私は思っています。
そして、どんな行動をするにしろ、背景があって意志があるなら、それは美しいものなのではないかと思います。
ま、死んじゃったら元も子もないんですがね・・・。

花束と陽炎

ーこの湖には、たくさんの人が訪れる。いろんな思いを抱えてあの崖から湖を目指していく。 その姿は悲しくて儚くて、美しい。ー 湖の近くに高い崖がありまして、そこが自殺スポットだっていう話です。 プロローグに出ている「僕」というのはここで事故死した男の子の地縛霊でして、自殺していく人間たちを眺めて生活しています。 「僕」は自分が死んだということについてまだ実感が湧いておらず、死というものに対しても否定的です。 しかし、飛び降りていく彼ら彼女らの抱える思いを見続けていると、だんだん考え方も変わっていきます。 死というものが、彼らにとってどんな存在であるのか。死とは必ずしも悪いものなのか。そもそも、生きるとはなんなのか? 死んでしまった後にこれらのことについて考え出した「僕」の切ないストーリーです。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-27

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND