酔狂
書籍に成る前に少しの期間公開しました。
後数日で掲載終了します。
居酒屋に向かう足
駅前外れの薄暗い路地を入った場所を、今夜も男は疲れた様子で歩いていた。
足が自然と向かう、習慣は恐ろしい!
仕事が終わって真っ直ぐに自宅に戻ればお金も使わずに済むのに、何故か毎日飲み屋に足が向く。
男の名前は大林篤彦。
仕事は地元の市役所に勤める公務員。
年齢は三十九歳、子供が三人いる。女、女、そして男。
三人目で男子が生まれて篤彦も両親も跡継ぎが出来たと喜んだ。
篤彦は長男俊彦が生まれてから、何か役目を終えたというか安堵したのか、真っすぐに家に帰るよりも飲み屋経由が多くなっていた。
妻翔子の実家も車で一時間程度の場所にあり、篤彦の両親も半時間の距離と割と近いので、双方の両親が訪問してくることも多く、また双方の実家に篤彦らも行く事も多々ある。
今年の春から長女麗子は高校生、次女真央が中学二年生、長男俊彦が六年生になった。
篤彦が飲み屋に行く回数が増え出したのは、麗子の受験が意識され始めた二年前からである。
それまでは週に一、二度だったが、受験勉強に影響が有るといけないので、自宅で飲む回数も量も減らし、居酒屋通いが増えていた。
筋肉質の身体で体力がありそうに見える篤彦なので土木課勤務となり、昼間炎天下で働く事も多くあった。
アルコールは元来好きな人間なので、自宅で飲んでも毎日ビールを最低三本は飲み干す。
反対に妻翔子の実家は両親も兄弟も全く飲まない家庭で、翔子は結婚当初、晩酌そのものが今一つ理解出来なかった。
篤彦は学生時代から野球部、柔道部に属し、体育会系の友人と昔は飲む事が日常に多々あって、就職してからも現場の人間と飲む機会が多かった。
当時、酒を飲み過ぎると怒る妻翔子に、一日にウイスキーをグラス一杯にするからと約束して結婚した。
そこで篤彦は最初から水割りを作らず、大きな徳用ボトルのウイスキーをグラスになみなみ一杯入れて、ストレートで飲んでは少し減ると氷を浮かべる事を繰り返した。
最初は濃いウイスキーだが少しずつに飲み頃になるといった苦肉の策を労して、満足していた。
ある朝翔子がゴミ置き場に空き瓶を数本持って行くと、近所の主婦に「お宅には随分とウイスキーの瓶がありますね」と言われて「主人が一杯だけだけど毎晩飲みますから」と答えると「毎日一杯だけなのに、こんなに沢山毎回空き瓶が出来るの?」と驚かれた。
「はい」と答えると「家の主人も飲みますけれど、月に一本程度ですよ。それでもかなり飲んでいる方だと思いますよ」と言われて「十五センチ程のグラスに一杯しか飲みませんよ」と話した翔子に「えー!毎日そんな大きなグラスに一杯ですか?」とその主婦は驚いた。
気になった翔子は自宅に戻ると友人に、ウイスキーの飲み方を尋ねて真相を知ったのだった。
夜帰った篤彦に問いただすと、篤彦は真顔で「翔子と結婚したかったから、約束を守るために無理な飲み方をしていたのだよ」と告白して許しを得たのだった。
翔子は呆れて、自分が近所で恥ずかしい思いをしたと篤彦を責めた。
それ以降は、翔子も適当に篤彦に酒を飲ませるようになったので、篤彦も多少は遠慮して飲む様に変わったのだ。
そんな篤彦でも現在は主任の役職が付き、給与も多少は増えていた。
しかし子供三人の塾のお金のしわ寄せなどは篤彦に来ている。
居酒屋きむらはそんな篤彦には理想に近い居酒屋で、料金が安くて酒の種類も豊富、最近では店主の木村康三とも飲みながら話が出来るから時間も潰せる。
今夜も二番目の娘の塾が終わるまでここで待機し、真央の塾が終わると一緒に帰宅するのだ。
去年塾帰りの子供が変質者に悪戯された事件が、他府県で発生して話題となったので、それから翔子は週に二回ある娘の塾帰りのガードを篤彦に頼んでいるのだ。
篤彦は小遣いを貰って(きむら)で時間を潰しては、真央の塾の時間迄待機をするのである。
酒好きな篤彦にはありがたい習慣になっていたのだが、この事が篤彦を予想もしていなかった世界に誘うことになるのだった。
篤彦が(きむら)に始めて行ったのは三年前、地元の土木関係の業者に「プライベートで行きましょう」と言われて来たのが始まりである。
業者との癒着が有ると役所で問題になるので、あくまで割り勘でと念を押しての飲食だった。
高松興業は総合建設業だが一緒に行った男は土木工事の関係者で、篤彦と話が合った。
年齢も近いので仕事上でもよく話をする関係となった。
この男森本一樹は篤彦よりも一年先輩の同じ高校の野球部であるが、同じクラブに属していながら、お互いの記憶には殆ど無かった。
篤彦は飲み出すと止まらないので一樹のペースに填ってしまい、割り勘の予定が森本にご馳走になってしまったのである。
最初からの森本の作戦に篤彦は填って、その後仕事の便宜を図った事も屡々起こった。
高松林蔵は森本ら社員には、役所の人間で酒好きな男が居たら手なずけておけば将来役に立つと常々論じていた。
それ以来時々誘われる篤彦だった。
元々酒が大好きな人間だが最近は子供の塾通いの出費の為、時間は有るが酒を飲む小遣いが無いのである。
今夜も(きむら)で娘を迎える時間の九時迄時間を伸ばすために、ちびちびと飲む予定で汚れた暖簾を入った。
(きむら)でアルバイトをしている女子高生の敦子が「いらっしゃい」と笑顔で迎え入れた。
古ぼけた店内には客がふたり、隅のカウンターで飲んでいるだけで誰も居ない。
「親方は?」と敦子に尋ねると「忘れ物で、自宅に帰っています」と答えた。
「ビールをお願い」と言うと、敦子はおしぼりを手渡し、箸を篤彦の前に置いた。
直ぐにビールの栓を抜いてグラスを篤彦に手渡す。
ビールを注いでくれる敦子。
一気に飲み干したいが、止める篤彦。
給料前で小遣いが無いので今夜は二本しか飲めないのだ。
カウンターに皿に盛られて並んでいる料理の中から、なるべく時間が持つ物を自分で探す篤彦。
そこに常連客の足立敏一が入って来ると「いらっしゃい」と敦子の明るい声がした。
敦子は度々この足立には飲み物をご馳走して貰っていたから随分と愛想が良い。
六十歳前後の足立はこの近辺の町に三店舗の宝石店を構えている。
毎晩最後にこの町にやって来ては何処かの居酒屋、飲食店、スナックで一時を過ごして、夜遅く自宅に帰って行く。
羽振りも良く、(きむら)のバイトの子らにも飲み物をご馳走するので人気者になっていた。
抱く妬み
しばらくして(きむら)の親方木村康三が用事を済ませて戻って来た。
二人を見て「いらっしゃい」と挨拶すると「足立さん、今日は良い鰺が入っているよ」と足立に声をかける。
篤彦には言わない。
それは篤彦が注文しない事を知っているからだ。
「じゃあ、それお願いします」と上品に注文をする足立に「刺身も出来るけれど、焼く?」と尋ねる。
「いえ、刺身でお願いします」と答えると「お刺身一丁!」と威勢の良い声で奥の調理場に鰺を持って消えていく。
足立はすかさずバイトの敦子に「ジュースでも何でも飲んで下さいよ、大将もビールでも飲みますか?」と声を掛けると奥から「いつも、ご馳走さまです」と明るい返事が返ってきた。
篤彦は何度もこの店で足立とは合っているが、羨ましさ一杯の目をしてこの様子を見ていた。
自分もお金が有れば、沢山飲んで沢山食べて人にもご馳走するのにと心では思っていた。
そんな気持ちを知ってか知らずか?足立はお構いなく次々と料理を注文する。
足立の気前の良さはこの界隈では有名である。
食べ物屋、飲み屋でもその贅沢な振る舞いは、宝石販売と云う派手な商売柄当然のことと思われていた。
今夜はもう一人、篤彦には気さくに話をしてくれる金沢守一が丁度その時間にやって来た。
時間を持て余して、ちびちびと飲もうとしていた篤彦には、グッドタイミングな人の来店だ。
「今晩は。大林さん、久しぶりです」と言いながら横に腰掛ける守一に「今晩は」と挨拶をすると、奥から康三も「いらっしゃい」と声をかける。
敦子が箸とおしぼりを差し出して注文を尋ねると守一は篤彦のビールの銘柄を確かめて「これと同じのを」と注文した。
すると篤彦は急に飲むピッチを上げるのだ。
「今日は、暑かったですね」と話を始める篤彦。
敦子がビールを守一のグラスに注いで「何か、作りましょうか?」と尋ねると「家に帰って食べないと行けないから、軽い物で、サラダとエイのヒレ」と注文をする。
篤彦は守一の飲むのに合わせて、ビールを飲み干し「一杯目は美味しいでしょう」と笑顔で言うと守一が自分のビールを注いでくれた。
篤彦は予想通りの行動に、上手く行ったといった表情で世間話を始める。
直ぐに始めのビールは無くなり、二本目を注文する守一。
サラダがカウンターに届いた頃には、篤彦は既に二杯目を飲み干していた。
自分のビールは既に空になっているが注文はしないで、最初注文したスルメで時間を潰していた。
守一は篤彦の思惑はわからず、飲み友達のひとりとして付き合っている。
話が合うので楽しいお酒になって嬉しいのだ。
五十代後半の守一は、近くに事務所を構え全国に介護用品のネット販売をしている。
発送は別会社に委託していて、事務所には数人の社員が居るだけなので小さな建物であるが、篤彦は何度か事務所の前を車で通ってそのことを知っていた。
社長とは名前だけで、商店街の店主と変わらないと半ば馬鹿にしている部分もあった。
土木、建築の仕事をしているので、大きな店構えとか有名な会社とか商店を見ると立派だと感じる習性が篤彦にはあるのだ。
離れて飲んでいる足立には高級品を扱う店を沢山持っていて、羽振りが良いのでお金持ちのイメージが篤彦にはあるのだった。
しばらくして、足立が勘定を済ませて店を出て行くのを見届けると康三は「次の店に行くのだな、お金持ちは毎日楽しそうだな」と言った。
「毎晩数軒の店に行く様ですね」篤彦が羨ましそうに話すと、守一が「元気で良いですね」と笑う。
「タフだよ、あの足立さんは酒も女も」と康三も笑った。
そのとき、この店では見かけない一人の女性が入って来た。
急に康三が上ずった声で「いらっしゃい!」と言うなり、篤彦から遠く離れたカウンター-の席に案内した。
手にスプリングコートを持って、ベージュのスカートに白のフリルの付いたブラウス姿、年齢は三十歳程度だろうか?髪は少しブラウンのセミロング、綺麗な女性である。
篤彦も守一も始めて見る女性だが、康三は何度か会っている様子だ。
守一は「私も、そろそろお勘定」とアルバイトの敦子に言うと、康三が美人の女性の前から戻って来る。
守一は支払を済ませると「お先!」と篤彦に挨拶して店を後にした。
「今日は暇だね」と敦子に小さな声で言うと「今、来ている綺麗な女の人ね、大将の彼女よ」と教えた。
「えー、そうなの?」確か康三は前の妻と離婚をして約三年。
遊びの女性や風俗遊びはしていた様だが、今回は素人の女性と思われた。
女性は有馬晴美三十一歳、少し離れた町のデパートの輸入雑貨のフロアで働いている。
子供が一人いるが、別れた亭主に引き取られて現在は独身状態となっている。
数ヶ月前この店に一人で哀しそうにやって来たところを康三が目を付けて、優しくしたのを切掛けとして付き合っていた。
「結婚するのでは?」と敦子が言う。
「えー、そうなの?随分歳が離れているね」
「離婚の後、彼女がこの店に来たところに大将が目をつけたのよ」
「そうだったのか」と驚く篤彦。
守一に結構ご馳走になったので、後一本飲めば満足だと時計を見ながらビールを注文する篤彦、九時迄後半時間になっていた。
すると、五人の団体が入って来て、店は賑やかになり康三も調理場に消えた。
晴美は康三に軽く会釈をして(きむら)を出て行ったが、料金を払う様子も無いので篤彦は二人の関係は進んでいると思った。
九時前になって二組の客が来たところで篤彦は、ようやく時間が近づいたので店を出ることにした。
結局ビール二本とスルメだけで、三時間粘った事になったが守一に奢ってもらったのでほろ酔い気分となっていた。
お金の有る人は羨ましいなと思いながら、娘の塾に向かおうと店を出ると足立が飲み屋の女の子と一緒に向こうへ歩いて行くのが見える。
もう、三軒目の店に行くのか?スナック?キャバクラ?
足立さんは宝石商だからお金持ちだからなと、半ば諦めた様に独り言を飲み込んで塾に向かった。
塾の近くのスナックビルから、先程一緒に飲んでいた金沢守一がほろ酔いで出て来たところに会った。
「このビルの店に行っているのですか?」と篤彦が訪ねると、「はい、このビルの五階の(チェリー)というスナックに行くのですよ。
また一度行きましょう」と微笑みなが言った。
そこに「もりちゃん、また来てね!」と頭上から声が聞こえる。
見上げる守一は右手を振るので篤彦も見上げると、若い綺麗な女性がこちらに向かって手を振っている。
守一と別れた篤彦は、あんな小さな会社の社長も毎日スナックに行くのだと、羨ましい気持ちが募るのだった。
美人のママに一目惚れ
数日後(きむら)で再び会った篤彦と守一。
守一は先日の話は忘れていたが、篤彦は覚えていて自分から話を切り出す。
「先日の(チェリー)と云うスナックに、今日は行かれますか?」と尋ねると急に思い出した様に「ああ、この後行きますか?私は妻が待っていますから九時過ぎには帰りますが、それでも宜しければ」
「僕も早く帰ります」と合わせる篤彦。
帰っても今夜はお風呂に入って寝るだけで、暇なので飲みに行きたい篤彦。
先日のビルから手を振っていた(チェリー)の女性は好みだったので、守一に出会うのを待ちかねていたのだ。
守一も一人で飲むよりも二人で飲んだ方が楽しいから(きむら)で篤彦に会うとついつい側に座ってしまうのだ。
守一は殆ど毎日飲みに出て来て、ここで飲むか近くの小料理屋しみずに立ち寄る。
事務所から自宅への通り道であり、少し立ち寄って帰る感じなのだ。
深夜まで飲む日は月に二、三度である。
篤彦は職場の集まりがあるので、食事は要らないと翔子に伝えて、昨日貰った小遣いを胸に簡単に食事を終えると二人はスナックビルを目指した。
七時に開店する(チェリー)はバイトの須美子が店を開けて、八時にママの亜佐美がやって来る。
金曜日はもう一人バイトの佐恵が入店する。
須美子は四十代、ママは三十代の前半、篤彦のお目当てはどうやらママの亜佐美の様だ。
八時前にスナックに入った二人を、須美子が「社長さん、いらっしゃい」と笑顔で向かえ入れて、おしぼりを手渡した。
篤彦は店内をキョロキョロとして、先日の女性を探していると「お客さん始めてね」と笑顔で須美子が言ってきた。
「細身の女性いましたよね」と聞くと「亜佐美ママね、もうすぐ来ますよ」と笑顔で返してきたが、薄暗い店の中でも綺麗に見えない女性と思った。
篤彦は心の中で自分なら絶対に八時迄には来ないなと、守一が早い時間からここに来ている事に呆れていた。
守一がここに来るのは開店が早くて値段が安い事と、気さくなママの性格が好きだったからだ。
守一は、篤彦は亜佐美をお気に入りだと直ぐに話しの内容で判った。
しばらくして亜佐美が愛想良くやって来ると「守ちゃん、いらっしゃい」と笑顔で挨拶し、篤彦に気づくと「いらっしゃい」と微笑んだ。
先日は暗闇の中で、頭上を見上げての姿だったが、今ここで見るとやはり亜佐美は篤彦の好みの女性そのものだった。
早速守一は篤彦を紹介して、二人対二人で上機嫌の篤彦だったが、しばらくすると常連客が来ると亜佐美がその客の処に移動してしまった。
急に不機嫌になる篤彦だが、須美子はお構いなしに守一に話しを会わせて楽しそうである。
月曜日は自分が遅番でママが七時に店を開けると須美子に聞いて、次回は月曜日で早い時間に来ようと篤彦は考えた。
九時に帰る守一の時間を測った様に、亜佐美は自分達の前に戻って来て会話を始める。
篤彦は守一が帰ると自分のところには亜佐美は付かないし、また守一のボトルは飲めないと考えて守一と一緒に帰る事にした。
二人は亜佐美に見送られて店を出たが、帰り際に「大林さん、私のボトル飲んでも良いですよ」と守一は笑顔で言った。
「ありがとうございます」とお礼を言ったが、簡単には飲めない。
無くなると新品を入れなければならないので頂きますとは言えないのだ。
守一と別れた篤彦は間近で見た亜佐美に益々興味を持ってしまった。
帰り道に「今晩は」と前方から夜の帝王様が声をかけてきた。
「今晩は。これからどちらに?」と返答すると、足立は、前方の(チェリー)のあるスナックビルを指さした。
いつの間にか篤彦の中では足立敏一は、夜の帝王と思う様になっていたのだ。
別れてから篤彦は振り返って、もしかして足立は亜佐美に?あの帝王が亜佐美を知らない筈が無い、必ず会いに行ったと決め付けていた。
自宅に帰った篤彦に翔子は相手もしないで、子供の勉強、試験の成績に頭を悩めている様子。
次女の成績が良くないので、来年の受験が心配なのだ。
篤彦は一人で冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲み始めるが、発泡酒で美味くない。
「貴方のお酒も減らして貰わないと駄目だわ」と突然ぼやく翔子。
「真央の成績が悪いから、私立も考えないと駄目よ」
「テスト悪かったのか?」
「散々よ、私立に行くとなれば麗子の大学とで大変な出費よ、貴方の給料では節約は必死よ、飲み代、煙草代は確実よ」と機嫌が悪い。
篤彦は直ぐに風呂に逃げ込んだ。
湯船で世の中不公平だよな、今も夜の帝王は亜佐美と楽しく話をして高級な酒を飲んでいるのか?チクショー!と心で叫ぶと湯船に頭迄沈める篤彦だった。
月曜日を待ちわびて(チェリー)に向かう篤彦。
先日は三千円を払っただけで殆どは金沢守一の奢りだったから、小遣いはまだ余裕が有る。
七時五分に店に飛び込む篤彦「いらっしゃい」と笑顔の亜佐美に迎えられて篤彦は微笑んだ。
「先日聞かなかったのですが、ママはこの店いつから?」
「三月からよ、どうしたの?」
「知らなかったので」
「以前は大阪で働いていたのよ、独立は始めてなの」と話が盛り上がる。
篤彦には理想の女性に近い亜佐美である。
大きく胸が開いた服装に自然と目がそこに行ってしまう篤彦。
しかし篤彦の楽しみは直ぐにかき消された。
「いらっしゃい」入り口の方に目をやって亜佐美が微笑む。
そこには一番警戒していた夜の帝王が篤彦に会釈をして苦笑していた。
お互いに何でお前がここに居るのだ!と思っていた。
「お知り合いなの?」と笑顔で聞く亜佐美に足立は「これ、お土産」と手に持ったケーキの包みを渡した。
足立に「いつも、いつもすみませんね」とお礼を言いながら受け取る亜佐美。
それからの三人はお互いが意識をしているのか、話がぎこちない状況になってしまった。
しばらくして須美子が来るとその場の空気が変わって「これ、足立さんに頂いたのよ、分けて出してあげて、大林さん甘い物は?」と尋ねる亜佐美に「はい、頂きます」と答える。
「これ、高いケーキですよね、この近辺では売って無いですよね」と須美子が包みを開けながら言うと「そう、うちの店員に並ばせて買って来ました」と自慢の様に言う足立。
狙いは亜佐美だと篤彦は感じていた。
この辺りの美人のママといわれる人との噂が絶えない足立が、狙っているのは明らかだと思う篤彦だ。
駅前再開発事業発表
結局ケーキを食べ始めると二人客が来て、篤彦の相手は須美子にいつの間にかなっている。
楽しく無い篤彦は「お勘定!」と告げて、不機嫌に出て行くと亜佐美が見送りに追い掛けて来た。
「ごめんなさいね、また食事に行きましょう」と明るく耳元で囁いた。
すると直ぐに篤彦は機嫌を良くして「連絡先知りませんが」と言った。
亜佐美は見計らった様に「はい、これ連絡先」と名刺を差し出して、「また、電話してこの辺りのお店知らないのよ」と微笑む。
「私は沢山知っています」と答えて篤彦は機嫌良く帰ったのだった。
見送って戻ると足立が「大林さんよく来るの?」と尋ねた。
「二回目よ、何している人?」
「ああ、役所の人で、建設かな?土木?だった」
「そうなの、役所なの」
「毎日飲んでいるよ、彼!」
足立はこの亜佐美と何とか関係を持とうと最近足繁く通っていたが、亜佐美は足立の事は近所の店のママとか、お客の噂を聞いて知っていたので、売り上げの為にと適当に相手をしていた。
篤彦は(チェリー)を出ると(きむら)に足が向き、ビールを一本飲んで帰ろうと入ると「いらっしゃい」と声がして、カウンターには康三の彼女有馬晴美が座っていた。
奥の小さな座敷に三人程のお客が、何か意味ありげに話しているようだ。
バイトの敦子が「タイミング悪いわね」と笑う。
「あそこの客、余り見ない客だね」
「建設関係の人よ、加納建設の社長」
「よく知っているね?」
「ここ三回目よ」
篤彦は加納建設自体知っているが、社長には面識が無い。
康三が篤彦は料理を頼まないからと晴美と話をしている。
ビールを注文して、一杯飲み干すとトイレに向かう篤彦に座敷の声が聞こえた。
駅前の再開発の話をしているようだ。
何故?知っているのだ?まだ発表は未だなのに?役所でも一部の者しか知らない話を!そんな事を考えながらトイレに行く篤彦。
ビールを一本飲んでしまうと、ほろ酔い気分で店を後にする篤彦。
お金が有れば次に行きたい気分だがと、思いながら帰った。
翌日役所で駅前再開発事業が発表と、それに伴う人事が発令された。
篤彦は駅前開発事業担当企画室係長に任命されて、自分でも驚く人事である。
今後約十年以上を費やして行う事業だから、篤彦の年齢が理想なのかと勝手に理解する。
土木課、建築課から人員が選抜されて組織が発表となった。
篤彦は実質的な行動部隊のトップの位置だ。
市長は形だけのリーダー、部長も兼任で課長は現場には殆ど行かないだろうから、現場監督の監督的地位になった篤彦。
意外な人事に鼻高々で、全容人事組織の発足が決まれば、役所の近所で懇親会を行う事も会わせて決まった。
飲む事が大好きな篤彦には最高の舞台だ。
二日後、翔子が携帯に「貴方、自宅にお届け物が色々来たわ」と電話をしてきた。
「建設会社だろう?」
「それ以外も届いているわ」
「まあ、役得だ」と笑う篤彦。
これも立派な汚職だが、これから業者の選定までには時間があるから、貢物がエスカレートしてくることは必至だと微笑む篤彦。
付け届け位は貰っても良いだろう。
ハムの詰め合わせ、コーヒー、海苔と頭を駆け巡る。
翔子はもらい物で喜ぶだろう。
自分が毎日飲んで帰るので不機嫌だが、多少は機嫌が良くなるかな?と考える篤彦。
加納建設は隣町の中堅の建設会社で、社長は加納為吉である。
名前は為吉だが年齢は五十代前半と若い。
父親の急死で昨年から社長に就任して、今回の都市開発事業の元請けを狙っていた。
十年前まで大手の建設会社で働いていたが、実家の会社に戻ったのだ。
本来は五年程修行の為に外で働き、加納建設に戻る予定だったが、能力が高いので勤め先の大手建設会社が中々為吉を離さなかったので、やっと四十歳になって加納建設に戻ることになったのだった。
大阪の本社で課長職を勤めていたが、数年後に親父の急死で社長職を継承した。
駅前再開発事業を獲得するのは為吉にとっては初の大事業。
自分が以前勤めていた大手の建設会社大正建設の時に既に計画の情報は知っていた。
事業は行う事は判っていたが、時期が判らなかったが、最近に成って、時期も判明したので裏で色々地元の有力者と対策をしているのだった。
ライバルの高松興業でも再開発事業に向けての会議が社長室で行われていた。
林蔵は役所の人事を見て「森本課長、君の後輩の大林君が重要な地位に就いたではないか、私が日頃から言っている事が現実になったのだよ」
「流石は社長、先見の明がお有りです」
「世辞は良いから、このチャンスを生かせ!」
「はい、心得ています。一応自宅には挨拶の品を贈りました」
「森本君、強敵は加納建設だ。我が社か加納が本命だが気をつけろ。上役とかから横やりが入るから」
「はい、気を付けます」
「大野市長、泉部長は市会議員の有力者から手を廻す」
「社長、今判っているのは大手のデパートの誘致、駅の新築、高層マンションの建設が決まっている様です」
「地元の商店街の反対が既に始まっている様だ」と安住部長が発言する。
こうして、駅前再開発事業争奪戦が始まった。
ベッドで「社長、店には来てくれないのですね」亜佐美が話す。
「私と君の関係が世間に判らない方が、何かと便利でね」加納が肩を抱きながら言った。
「どうして?」と甘えた様に言う亜佐美。
大阪のクラブのホステスだった亜佐美に近づいて、店を出してやると愛人関係になっている加納為吉が、郊外のラブホテルの一室で楽しんでいた。
「いよいよ、駅前再開発事業が発表されたから、夜の活動も大きくなる。敵方の人間も亜佐美の店を使うかも知れないから情報を流して欲しい」
「それなら仕方無いわね」そう言いながら為吉の頬にキスをする。
「私の店に今来ている客で建設関係の人いたかな?」と言う亜佐美の身体を再び求める為吉。
「そうだわ、一人いたわ」
「そうか、一人いたか」と言いながら胸を触る。
「そうよ、役所の大林って人、私に興味が有る様だわ」と亜佐美が話すと、胸を掴む為吉の手に力が入って「痛い!」と叫ぶ亜佐美。
「おい、今何と言った?」
「役所の大林って人よ」
「おいおい、それは大物だ」と起き上がる加納に「そんなに偉い人には見えなかったわ」と不思議そうに言った。
「駅前再開発事業の企画室係長、現場責任者だ!」
「そうなの!」
「上手に付き合って、いつでも利用出来る様にしておいてくれ」と加納は思わぬお宝にこの日は興奮して亜佐美を抱いていた。
思惑
数日後(地元の工事は地元の業者に)と一部の市民団体が、駅前にプラカードを持って現れた。
勿論加納建設の差し金だったが、全く同じ事を高松興業も画策していて、先に駅前を占拠されたので役所の前での同じ様な運動を開始した。
大手の建設会社も乗り出して来て調査を開始して、争奪戦が徐々にエスカレートしていった。
「あの男で大丈夫でしょうか?」
「あれで良いのだよ」水戸助役と泉部長、長田課長の三人が料亭(松葉)で秘密の会合をしていた。
「あの大林は、大酒飲みで有名だ、必ず失敗をする。それも新聞に載る程の事をな」と泉部長が言うと「それを、盾に一気に市長を追い落とす」と水戸が言った。
「追い詰められた時に、市長の不正問題を大林に囁けば彼は苦し紛れに警察に暴露をする」
「それで市長も終わりだ。警察が必ず裏付け捜査を始めるからな」と笑う水戸助役。
「あの大林は酒飲みで、子供が三人いていずれも受験の年齢、お金と酒は彼の必需品ですよ」と言って三人は大笑いをした。
この駅前再開発事業を推進しているのは大野市長の一派である。
水戸助役は反対派で、水戸は地元の科学会社、鉄鋼関係と密接な関係が有り、次期市長の座を狙っていた。
水戸は、駅前再開発事業の責任者の泉部長を抱き込み、生活課の課長長田と三人で大林を現場責任者に推薦し、罠を仕掛けて待っているのだ。
「大手の三俣建設も乗り出して来た様です」
「そうか、三俣と加納、高松の争いだな。泉君は賄賂を貰ってはダメだよ」
「はい、勿論です。課長の小柳と大林に権限を任せる予定ですから」
「小柳課長は?」
「この男は真面目な男です。次長に昇格させると、一層正義感が強くなると思います。必ず彼が大林の不正を暴くようになるので、面白くなりますよ」
「マスコミ対策は?」
「地元の記者にいつでも書かせる準備も出来ています」
「大林の行動は誰か監視しているのか?」
「専属の探偵を雇っています、黒田と言うベテランです、今のところは自宅に挨拶程度の物が送られたとの報告が入っています」
「大野市長の汚職暴露も時間の問題だろう。大林から芋づるだ」と三人が笑う。
この駅前再開発事業の利権争いに、様々な人々が捲き込まれている事を大林は全く知らない。
今夜も(きむら)でビールを一本飲んで、次女のお迎えの時間調整をしている。
客は疎らで篤彦の知り合いは一人もいない。
守一は来てないのかと思うが、自分も最近は会議が多くて、ここには久々だった。
バイトの妙子の「いらっしゃい」と元気な声に、入り口を振り向く篤彦。
守一であれば一杯はご馳走になれると期待したのだ。
今月も小遣いが既にピンチになっている篤彦である。
翔子には色々理屈を付けて小遣いを貰うのだが「貴方の給料が上がってから考えます」の一言で終わっていた。
今月の給料から昇給する予定を早々と宣言していた篤彦。
確かに係長職になったから上がる筈なのだ。
今店に入って来たのは残念ながら探偵の黒田で、いきなり篤彦の近くに座ってビールを飲み始めた。
そこに待ち人守一がやって来たので、篤彦は「こんばんは」と愛想よく微笑む。
一杯飲まして貰おうとの思惑が見え隠れしている。
「あれから(チェリー)に行かれたのですね」
「はい、一度行きましたが、直ぐに帰りました。お客が多かったので」と適当に話す篤彦。
早速ビールを注いで貰うと、嬉しそうに「おつかれさま!」と乾杯をする。
これで九時迄粘れると心の中では微笑んでいる篤彦。
聞き耳を立てる探偵黒田は、守一が建設関係の人間と見ていた。
関東の三俣建設の人間だろうか?黒田は聞き耳を立てながら小型のカメラで撮影をする。
しばらく飲んだ守一が(チェリー)に誘うと「残念。子供のお迎えなので、今夜は帰らないと、また次回お願いします」と後ろ髪を引かれる思いで篤彦は別れた。
毎日飲みに行けて幸せだなと思いながら塾に向かう篤彦だ。
守一は一人でスナックのビルに入って行った。
黒田は守一を尾行してスナックを確かめるが、入店はしなかった。
お金が必要なのと、顔を覚えられる心配があったので、店の写真を撮ってその場を立ち去った。
建設会社は加納建設 加納為吉 五十一歳、隣町の建設会社
高松興業 高松林蔵 六十六歳、地元の建設会社
三俣建設 関東の大手の建設会社、JRとの繋がりが強い
市長 大野益三 駅前再開発推進。 助役 水戸康次 次期市長狙い。
課長 小柳和夫 再開発課長。 部長 泉 太郎 再開発部長、反対派。
係長 大林篤彦 再開発現場長。 課長 長田信司 生活課課長、反対派。
探偵 黒田康隆 助手 大泉杏。
加納為吉の愛人 加山亜佐美 スナックチェリーのママ。
市長は篤彦の人柄も何も知らない。
部下の推薦で任命しただけ、口上は仕事熱心で真面目、建設畑一筋で適任だと聞かされていた。勿論推薦人が目論んでいるスキャンダルを知る筈もない。
自分が将来建設会社から貰ってしまう賄賂が暴露されるとは考えてもいない。
大野市長に駅前再開発を進言した人間が、賄賂を取りまとめて渡していた。
建設会社を始め、デパート、土地を事前に買い集めた不動産会社等、この事業で潤う連中が地元の有力者富田喜一に話を持ちかけて成立した事業。
勿論、富田も駅前に大きな土地を所有しているので潤う。
会社も経営している元々の地主だ。
海岸近くには広大な土地を倉庫業で運営をしている。思惑が一致して、冨田が大野市長を動かしたのである。
その様な渦中に捲き込まれた事を全く知らない篤彦。
反対派は、現市長が沢山の賄賂を貰ってこの事業を推進していることは判っているので、苦々しく思っていた。
中々ガードが堅く、切り崩せないので回り道でも、との思いがあっての今回の作戦なのだ。
篤彦は次女を伴って自宅に帰ると、いきなり翔子が「本当に、勉強しているの?」と真央に怒鳴りつけた。
先日のテストの用紙を握り締める手が怒りを露わにしている。
篤彦は自分にも火の粉が飛んで来るのを察し、二階に行こうとすると「毎日、毎日お酒を飲んでいるお父さんがもう少し子供の事を考えてくれたら、こんなに悪い点数を・・・」と翔子は声を詰まらせた。
「仕方が無いよ」と言う篤彦に「この点数見てよ!」と差し出す。
点数は十点と書かれている。
「これは?百点満点か?」と真央に尋ねるとすまなさそうに頷いた。
その夜は暗い空気が家中を包んでいった。
その後は話もしない翔子、塾に行ってもこの点数なら、私立は間違い無いと、それもレベルの低い学校だと嘆くばかりだった。
誘惑のゴルフ
翌週末になって篤彦は、今までしたこともないゴルフのバッグを持って、タクシーで帰って来た。
「貴方、それ何?買ったの?」と驚いて尋ねる翔子に「同僚に貰ったのだ」と答えた。
「えーそんな高価な物を、それにゴルフなんてしないでしょう?」
「これから、するのだよ」
「何処にそんな余裕があるのよ」
「俺も現場責任者だ。今度コンペがあるから、練習して参加するのだよ」と急にゴルフに目覚めた篤彦に、驚き困惑する翔子だった。
週初めに篤彦は(チェリー)に顔を出したところ、亜佐美にゴルフを誘われたのだ。
ゴルフはしないと言う篤彦に「私の知り合いが使っていたクラブが有るのよ。男性用は使わないから差し上げるので一緒に行きましょうよ」
「でも僕は一度もゴルフをしたことは無いですよ」
「大丈夫よ、私が教えてあげるわ」
「えー、本当ですか?」
「金曜日、早めにお店にいらして、クラブ持って来るから。殆ど使ってないから新品よ」
「ママが教えてくれるなら、始めようかな」
「じゃあ、決まりね。早速日曜日に行きましょう」
「えー、日曜日ですか」
日曜日には翔子の実家に行く予定が入っていたが、無視することに決めた篤彦だった。
加納に「上手くいったわ、喜んでバッグ持って帰ったわよ。後はお任せを」
「頼むよ、酒飲みを扱うのは得意だろう」
「田舎の役所の人間は堅物が多いらしいわよ!」と電話口で笑う亜佐美。
新品のセットを少し使い古したバッグに入れて渡したが、篤彦は全く気が付かない。
超高級品のゴルフセットを貰った実感は全く無く、亜佐美と練習に行ける!それだけが頭の中を駆け巡った篤彦だった。
五月の連休明けの爽やかな日曜日に、朝からそわそわする篤彦に翔子は「実家に行くのは昼からよ、何しているの?」と不思議な顔で尋ねる。
「今日は、これからゴルフの練習」
「えー、実家は?」
「帰ってから行こう、夕方で良いだろう」
「昼食べて直ぐに行くと話したのに」と怒る翔子。
車で半時間程の近い実家だが、翔子は完全にペーパードライバーだから、運転は出来ないから篤彦の運転で行かなければならない。
「自分で運転して行けば!急ぐなら」と言い放たれて「なるべく早く帰ってきてよ」と言う以外に無い翔子だ。
篤彦は、しばらくして時計を見ながらゴルフバッグを肩に出て行こうとしたところに「何処に行くの?」と翔子に声を掛けられたが「近くの打ちっ放し」とだけ言って出かけた。
自宅の近くに亜佐美が迎えに来ているので見つからないか、後ろを振り向きながら運動靴にゴルフバッグを担いで約束の場所へ向かった。
約束の場所に着くと大きな外車が止まっていた。
篤彦がママは、どんな車で来るのだろう?と周りを見ていると突然その外車の窓が開いて「大林さん、トランク開けるから、バッグを乗せて」と亜佐美の声がした。
「凄い、車ですね」と驚きながら開けられたトランクにバッグを乗せる篤彦。
中にはピンクのゴルフバッグが載せてあった。
「乗って下さい」と言われ慌てて助手席に乗り込む篤彦。
ママのショートパンツにゴルフウェア、上下もピンクで統一したスタイルに見とれていると、車は勢いよく加速して走り出した。
近くの打ちっ放しに行くと思っていた篤彦だが、車はすぐに高速に乗り込んだ。
「何処に行くのですか?」
「郊外の練習場よ、町中より山の中が良いでしょう」と微笑む亜佐美が可愛い。
夜も綺麗だが、昼間は健康的な美しさを感じる篤彦。
「ママ、それにしても凄い車ですね」
「これ?借り物よ、大林さんを乗せる為に借りたのよ」
「そうだったのですか、ママの車だと思いました」
「小さなスナックでは儲かりませんわ」と微笑む横顔に篤彦は、自分でも信じられない状況になっていると、勝手な解釈をしていた。
二人は、しばらくして山中のゴルフ練習場に到着した。
全く何も知らない篤彦は運動靴だが、亜佐美は完全なゴルフスタイル。
ショートパンツから出た白くて綺麗な足に、篤彦は生唾を飲み込んだ。
「運動靴なの?」と篤彦の足元を見て驚く亜佐美に「えー、運動靴ではダメ?」
「ゴルフにはゴルフシューズよ」と自分の足を見せる亜佐美。
靴より綺麗な足に見とれている篤彦は「そうなのだ、全く知りませんでした」と頭を掻きながら笑う。
「今日は仕方無いわね」と二人は練習場に入って行ったが、既にそこで加納為吉が練習をしていた。
亜佐美は、為吉に目で合図をすると二人は隣に陣取った。
篤彦は(きむら)で為吉をチラッとは見ていたが気が付かない。
為吉は如何にも初めてなのが判る篤彦の運動靴を見て思わず笑いそうになった。
「一度、打ってみて」と亜佐美が笑いながら、横の椅子に腰掛ける。
離れた隣の椅子に加納も腰掛けて、篤彦の打つのを見守る。
服装も場所も異なると、篤彦は加納の事は全く判らなかった。
「僕ね、昔野球していたのですよ。止まっている玉は打てますよ」と笑いながら一球目。
全くの自己流のスウィングは大きく風を切って、空振り。
「あれれ、当たらないですね」と笑う篤彦「次は当てますよ」の言葉もむなしくまた空振りした。
亜佐美が「基本だけ教えますわ、私も上手ではないのでね」と篤彦の後ろから手を添えると、香水か化粧品の匂いが篤彦の本能を擽る。
胸が身体に触れると、もう篤彦にはゴルフの事は考えていない状況になっていた。
「頭を動かすから、見えなくなるのよ、ボールを打つまで玉から目を離すから空振りよ」と教えられて「じゃあ、もう一度打ってみます」とスゥイングを始める。
野球をしていた篤彦は、当たれば力強くボールは綺麗な孤を描いて山中に飛んで行った。
「ナイス!」と手を叩く亜佐美に、気を良くして何球か打つが半分は良く飛ぶが、半分はチョロか空振りになった。
しばらく打つと「痛いな」と言い始める篤彦は、手に豆が出来たので中止にする。
亜佐美がトイレに行ったと思ったら「はい、これを飲んで」とビール缶を差し出された。
酒大好きの篤彦は汗を拭きながら、一気に飲み干すと「美味い」と嬉しそうに「運動の後のビールは最高ですね」と言った。
「そうね!お風呂とビールが、コースに行ったら最高ですよ」
「温泉とゴルフに行くのが判る気がします」と話す篤彦の頭の中は、亜佐美と温泉とゴルフに行っている姿を想像していた。
「これ、買って来ました」と手袋を差し出す亜佐美。
「手袋があれば、豆が出来難いですね。すみません」とお礼を言うなり早速着ける篤彦。
すると、今度は良い玉が飛んで自分でも喜びの表情になった。
「始めてでその感じなら、直ぐに上達してコースに出られますよ」
「そうですか」と嬉しそうな篤彦。
加納と亜佐美は目で合図をし合うと、これで篤彦は手の内に入れたと喜ぶのだった。
標的に成った篤彦
缶ビールを次々と飲んで篤彦はすっかり出来上がってしまい、練習を終る頃にはゴルフの練習よりもビールを飲む方に力が入る篤彦。
篤彦は亜佐美の服装にも興味を示す。
ビールを飲む篤彦の前で練習を始める亜佐美に、色っぽさを感じて、こんな美人とゴルフに行けるなら最高だなと考えていたところに、亜佐美が笑顔で「練習されて上達したら、コースに行きましょうよ」と誘ってきた。
「えー、ママとですか?」
「当然よ、大林さんのコーチですからね」そう言われて一層酔いが廻る篤彦。
しばらくして、亜佐美は酔っ払って全く練習出来なくなった篤彦を連れて帰ることにした。
車に乗り込むと「大林さん、一、二ヶ月で本コースに行きましょうね、練習して下さい」
「近くにゴルフ場ありました?」
「私の知り合いが北陸の方でコースの会員権持っているのよ」
「北陸って、日帰り出来ませんよ」
「勿論お泊まりよ」
「えー」と驚く篤彦は酔いも手伝ってか頬も紅潮していた。
勝手な想像をしている篤彦を横目で見て、車を発進させる亜佐美。
家に戻った篤彦を見て、怒り狂う翔子。
実家に行く準備をして待っているのに、赤い顔で帰って来た篤彦に完全に怒り狂うのだった。
翌日から篤彦は頭の中に、亜佐美の姿がちらついて困っていた。
兎に角ゴルフの練習をしなくては、全く話にならない。
だが靴も無い状態ではどうしょうもない。
お酒も飲みたい、ゴルフの道具も欲しい、練習にも行きたい篤彦だ。
しかし、お金を節約しようと思っても夕方になると居酒屋に足が向いてしまう。
(きむら)の暖簾を入ると、いつもの様に守一が飲みに来ていた。
隣の客と楽しそうに話をしているので「こんばんは」と軽く会釈をして篤彦は隣に座った。
聞こえて来る話の様子から守一の取引先だとわかった。
しばらくするとゴルフの話になっているのを聞き、守一はゴルフもするのだなと羨ましい気持ちになった。
亜佐美とも知り合い、酒も毎日飲んでゴルフもするのか?篤彦は嫉妬の気持ちが込み上げてくる。
顔では笑って仲が良い事を装っている自分が恐いと思う篤彦である。
しばらくして、守一は(チェリー)に行くと言って客と一緒に出て行った。
それを見送る篤彦には面白くない気分だけが残った。
またそこに足立がやって来たので篤彦の苛つきは最高潮になり、何に怒っているのか判らない自分にまた腹が立つのだった。
翌日も篤彦は(きむら)に足を運ぶが昨日から機嫌が悪い。
原因は亜佐美とゴルフに行きたい。
しかし靴を買う金もないし勿論練習に行くお金も無い。
酒を飲まなければ練習に行くお金はなんとかなるのだが、それ程の情熱はない。
一人で練習に行く程の情熱を持つほどゴルフが好きな訳でもないのだ。
そんな事を考えていると「大林、久しぶりだな」と森本が背中を叩いた。
「森本先輩、ご無沙汰しています」と挨拶をする篤彦だが、今の自分の役所での立場を考えると、森本と肩を並べて飲むのは実は迷惑なのだ。
「先輩、一緒に飲むのは誤解を生むのでは?」とはっきりと言い切る篤彦。
「そうか、忘れていた。大林は今では駅前再開発の重要な役職だったな、すまない。今夜を最後にするよ」と笑う森本だが直ぐに篤彦のグラスにビールを注いだ。
酒に目がない篤彦は注がれたビールを一気に飲み干した。
特に今日は初夏の様な暑さだ。
空かさず篤彦のグラスにビールを注ぐ森本。
仕事の話は一切しない森本に、篤彦はついゴルフの話をしてしまった。
「ゴルフ始めたのか?」
「付き合いで仕方無く始める事になったのだが、全く知らないので困っているのですよ」
「道具は持っているのか?」
「一応クラブだけは買ったのだが、安月給なので中々だよ」
「大林、靴は幾つだ」
「足の大きさですか?」
「そうだ、俺と同じだった?」と野球部の時を思い出した様に言う。
森本はチャンスと思い、ゴルフシューズを贈ろうと考えていたのだ。
「二十六だよ、同じだったかな?」と答える篤彦に「同じだ、俺二足あって、一足は殆ど使ってないのだが、使うか?」
「それは良くない。汚職になる」
「大袈裟だな、古い靴だから気にしなくても良い。その靴俺には合わないのよ、直ぐに豆が出来るから」と嘘の話を作る森本に「殆ど使ってないから、綺麗だし水虫も無いから安心しろ」と言われると、篤彦はその靴が欲しくなってしまった。
「自宅に持って行くよ、奥さんに渡せば良いか?」
(お金無いのに買うと翔子が五月蠅いから、先輩が持って来てくれたら、いい訳が簡単だ)ともうすっかり貰う気持ちになっている篤彦だった。
結局酒をたらふくご馳走になって篤彦は上機嫌で、森本は上手く事が運んだとの心境で(きむら)を出て行った。
森本は本当の自分の足のサイズは二十五だったが、全く信じ切っている篤彦を笑って見送ったのだった。
翌日、わざわざ新品を買って、少し汚して、篤彦の自宅に持って行った森本に「貰って良いのですか?最近急にゴルフをやる様になって驚いています。ありがとうございます」と翔子は何も疑わずに受け取った。
探偵黒田の下働きをしている大泉杏は、既に森本をマークしていたので、篤彦の家に何かを持って行った事は直ぐにカメラに納めていた。
数日後、役所で工事の規模と、二ヶ月後から入札を受け付けて、元請け各社が決定になることが発表された。
具体的な規模が発表され、いよいよ各社は争奪戦に突入する事になったのである。
駅前の一部に旧国鉄用地が何も使われずに存在している。
その土地を売却して、ステーションデパートを建設し駅はその中に組み込まれる。
デパートには東京に本店を置く、日本でも一、二の大型店が進出すると発表された。
このデパートは三俣建設との繋がりが強く、この発表で三俣建設の名前が大きくクローズアップされることになった。
加納建設と高松興業は一気に劣勢との評価が新聞を賑わせている。
大野市長には何処が落札しても関係無く賄賂が入るようになっているので問題無いが、建設会社にとっては死活問題である。
翌日から、市民団体のアピールが一層大きくなり、一般市民の関心を誘った。
(公共工事は地元の業者に)のプラカードが町の各地に張られた。
区画整理事業
翌日の地元の新聞には、加賀デパートが進出とデパート名を大きく書かれた記事がすっぱ抜かれて掲載された。
三俣建設が有利との評論が新聞紙面に踊っている。
加納建設と高松興業を煽るために、新聞社に流したのは助役一派であった。
「これで、二社が慌てて、色々大胆な事を始めると思いますよ」泉部長が木戸助役に囁く。
「あれは、嘘か?」木戸助役が尋ねる。
「半分本当ですよ」と笑う泉部長。
案の定、翌日から市民運動はさらに拡大して、大野市長の耳にも五月蠅く聞こえだした。
大野市長は直接建設会社からは貰っていない。
富田が開発推進のご本尊であり、関係する会社を選んで賄賂を要求し、その流れで駅前再開発事業発足によって多額のお金が大野市長には入っていた。
勿論、決定した建設会社から再び賄賂を貰える仕組みになっているので、何処に決まっても大野は困らない。
「二ヶ月後の入札迄に、各社の見積もりを知る必要が有る」と為吉は亜佐美に話した。
「そう、大変ね」と亜佐美。
「大きな仕事だ、身体を張ってでも情報を仕入れて欲しい」
「それって、あの酒飲みと寝ろという意味?」
「それも視野に入れて頑張って欲しい。亜佐美が入っているビルが買える程の礼はする」
「えー本当?五階建てのビルが貰えるの?」
亜佐美が入っているスナックビルは五階建ての小さいビルだが、各階には一軒から二軒の店が入っている。
一階はワンフロアーのスナック、二階は二軒、三階はワンフロアー、四、五は各二軒。
そのビルが買える程のお礼と聞き、亜佐美は俄然気合いが入った。
「せめて、失敗しても一階のスナック(京)位のお店は欲しいわ」
「判った、亜佐美の活躍次第では考えよう」
「そう、ありがとう」とキスをする亜佐美。
亜佐美は客と寝る事に抵抗は無い。
大阪のクラブでも上客にはその様にして虜にしてきたのだ。
加納もその中の一人だったので深い思いはないが、今は加納に店の資金を出して貰っているので浮気は無かった。
翌日、もう一つの計画発表が役所から発表されると高松興業も加納建設も驚きを隠せなかった。
それは駅前再開発と併用している駅北地区の区画整理事業の計画であった。
区画整理の本来の目的は、法律で定義されている内容としては良い様に述べられている。
第一章 総則
(この法律の目的)
第一条 この法律は、土地区画整理事業に関し、その施行者、施行方法、費用の負担等必要な事項を規定することにより、健全な市街地の造成を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「土地区画整理事業」とは、都市計画区域内の土地について、公共施設の整備改善及び宅地の利用の増進を図るため、この法律で定めるところに従って行われる土地の区画形質の変更及び公共施設の新設又は変更に関する事業をいう。
2 前項の事業の施行のため若しくはその事業の施行に係る土地の利用の促進のため必要な工作物その他の物件の設置、管理及び処分に関する事業又は埋め立、若しくは干拓に関する事業が前項の事業にあわせて行われる場合においては、これらの事業は、土地区画整理事業に含まれるものとする。
3 この法律において「施行者」とは、土地区画整理事業を施行する者をいう。
4 この法律において「施行地区」とは、土地区画整理事業を施行する土地の区域をいう。
5 この法律において「公共施設」とは、道路、公園、広場、河川その他政令で定める公共の用に供する施設をいう。
6 この法律において「宅地」とは、公共施設の用に供されている国又は地方公共団体の所有する土地以外の土地をいう。
7 この法律において「借地権」とは、借地借家法 (平成三年法律第九十号)にいう借地権をいい、「借地」とは、借地権の目的となっている宅地をいう。
8 この法律において「施行区域」とは、都市計画法 (昭和四十三年法律第百号)第十二条第二項 の規定により土地区画整理事業について都市計画に定められた施行区域をいう。
上記は表向きの定義だが、この法律を利用して市は工事費の削減、土地の所有者は利権争いの温床になっているのも事実だ。
全国各地で区画整理法の名の下に施行されて、泣いた人、笑った人様々なのだ。
この事業も、富田が先祖から引き継ぎ所有している古い借家が、駅北の住宅密集地に沢山点在しているが、古くからの家賃が据え置きされていて苦慮していたのが解決されるのだ。
数日後、市役所に未来の町の予想図が開示されると、市民はその表向きの美しさに感嘆した。
駅北には大きなマンションが数戸建設され、海岸に向かって三車線の幹線道路が駅北から高速道路迄繋がっている。
駅が入るステーションデパートを中心に、地下通路で繋がるショッピングビルが、駅前広場、地下駐車場、昔からの商店街の一部を取り壊して誕生している。
市民の反応は上々で大野市長も鼻高々である。
マスコミにも良い記事を書く様に頼んでいた効果が出たのだ。
今の世の中マスコミを味方にすれば白も黒に変わる歪な世界だ。
一般の人々は真実を知らされないままに、偶像を追い掛けさせられているのかも知れない。
甘いゴルフ
マスコミが騒ぎ立てれば、今まで見向きもされなかった事柄が注目される。
昔からペンは凶器と言うが、新聞、ラジオ、テレビ、雑誌、最近ではネットも凶器になっていると思われる。
「大野さん、大々的に発表しましたな」と朝一番にかかった市長室の電話の声。
相手は富田喜一。
「後は区画整理の方で上手く進めて下さいよ」と市長。
「私自身が委員に入る予定ですから、上手く進めますよ」
「幹線道路も富田さんの倉庫の前まで延ばしておきました。将来は湾岸開発も行えば、ただの倉庫が宝の山になりますな」と笑う大野市長。
「たっぷり、お礼はしますよ、これまで以上にね」と富田も負けてはいない。
富田に声をかけられた業者が、陳情と云う名目の賄賂を集めて大野市長に富田を通じて手渡してから既に数年が経過して、ようやく実現の日の目をみたのだ。
大野市長三期目の大事業の発表となったと、地元のマスコミは挙って褒め称える放送、記事を書いて事業の成功を待ちわびた。
「区画整理事業との併用には驚きました」
「今後この計画を見ると二十年は仕事が溢れているな」と高松興業で社長の林蔵は、森本と矢継ぎ早の計画に呆れて話し合っていた。
翌日役所では、駅前再開発事業と区画整理事業は合同事業として行うと発表されると、人員が増強された。
上層部に泉部長、小柳課長が次長に昇格して、何と大林は総合企画室課長代理になっていた。
自分の部下に松井係長、大門係長が付くなど、篤彦自身も何がどうなっているのか訳が判らない状況であったが、役所では知り合いに「大林さん、凄い出世ですね」と口々に言われて,いつの間にか鼻が高くなっていた篤彦だった。
夜自宅で大いに喜ぶ篤彦に翔子が「お給料は大きなアップよね」とにこにこしながら尋ねるので「これが辞令だよ、上がっているよ」と辞令と別に添付されている書類を差し出すと、それを見て「何よ、大袈裟に言って,一万円しか上がってないわよ!」と怒り出した。
「仕方が無いよ、代理手当だと言われた。頑張れば代理が外れるから、頑張れと部長に激励されたよ」
「僅か一万円でたいそうな名前の役職を貰ったのね。馬鹿みたい!貴方ならお酒飲む係がお似合いよ」と今夜も酒の匂いをさせている篤彦を小馬鹿にする翔子。
「貴方が酒と煙草を止めてくれたら、昇給が無くても、大きな出世よね」と嫌みを言うと、片付けを始めた。
「大林の給与は上げていませんから、これから付き合いも増えて飲む機会も増えるので、時間の問題だと思います」
「泉君の策略の巧さは天下一品だな」
「助役、その後建設会社の動きは?」
「それが不思議でね。大林の先輩の森本がいる高松が彼の自宅に届け物を一度届けただけなのだよ」
「加納はどうですか?」
「全く何も無いらしい」
「警戒しているのでしょうか?」
「市長に気づかれているのでは?」
「それは絶対に無いと思います」木戸助役と泉部長が話している。
富田はこの助役にも声をかけ、賄賂を贈っていたので、助役も駅前再開発と駅北区画整理都とも推進している。
富田にはどちらが勝っても自分が潤う作戦なのだった。
富田にとっては、推進するのは市長でも助役でもどちらでも良く、自分の土地の有効利用と、長年の借家を纏めて店子を追い出したいのが本音なのだ。
そして高層マンションを、駅から三分の駅北に建設して賃貸収入を得るのが目的だ。
既に一階に大手の住宅会社大正住宅の支店が入居する事が約束されていた。
大地主富田喜一の思惑と、市長とライバルの助役の思惑が一致して今回の駅前再開発事業&駅北区画整理事業が施行になったのだった。
篤彦は、泉部長達に絶好の標的として利用されているとは全く思っていない。
今夜も(きむら)でビールを飲みながら次女の迎えの為に時間を調整している。
「大林!」と森本が偶然を装って入って来ると「森本先輩先日はありがとうございます。自宅迄持って来て貰って」
「どう、サイズは合った?」
「はい、ぴったりでした。殆ど使われてなかったですね」
「何処が合わないのか、豆が出来たのだよ」
「ありがとうございました。一応道具は揃ったのですが、全く練習してないので」
「コースに行くのか?」
「はい、一応行こうかと考えています」
「一度、練習見てやろうか?」
「本当ですか?助かります」と篤彦は教えてくれる人が見つかって、これで亜佐美とのゴルフ旅行が近づいたと思った。
九時まで飲んで次女を迎えに向かう篤彦。
探偵の黒田がいつの間にか篤彦の後ろを尾行している。
スナックビルの前で守一がゴルフの帰りの恰好で車から降りてビルに入って行った。
良く見ると車に乗っているのは亜佐美である。
篤彦は、守一と亜佐美がゴルフに行ったのだと思った。
自分より先に守一を誘ったのか?と怒りが込み上げた。
守一は、偶然亜佐美と出会って自分の店に誘っただけだったが、篤彦には車の中の亜佐美の服装が見えないので、一緒に行ったと思い込んで嫉妬が増大していた。
篤彦は何故か金沢守一にはライバル心を持ってしまう。
小さな事務所の会社の社長が毎日飲み歩いて遊んでいる事への嫉妬が、心の底に絶えず有った。
「パパ、何か嫌な事でも有ったの?」次女の真央が塾に迎えに来た篤彦の機嫌の悪さにその様に尋ねた。
その日は自宅に戻っても不機嫌な篤彦に、翔子も嫌みをいつもの様には言えない状況だった。
土曜日になって、森本が車で迎えに来ると篤彦は道具を持って乗り込んだ。
森本がその道具を見て「大林、凄い道具持っているな」と驚いて、ドライバーを手に取ったのは、練習場で篤彦がバッグを開けた時だった。
「貰ったのだけど、良い物なのか?」
「これは外国製の高級品だよ、それに新しい」
「そうなのか?」
「誰に貰ったのだ?まさか建設関係の人間か?」と早くも賄賂を貰ったのかと思う森本。
「ははは、関係無いよ,建設とは無縁の女性だよ」
「そうか、汚職になるから気を付けないとな!」と汚職を誘おうとしている森本に忠告される篤彦。
「お前にゴルフを誘ったのは女性か?」
「そうじゃない。今後仕事の関係でゴルフくらい出来ないと恥ずかしいだろう」と篤彦は誤魔化した。
誘惑
道具は最高でも全く下手な篤彦のゴルフを見ながら、心の中では笑い転げている森本。
「直ぐに上手になるよ、そのクラブに負けない様にな!」
「早くコースに行きたいのだよ」と打ち続けたが「ビール飲んでも良いか」と森本に尋ねる篤彦。
森本は運転するので飲めなくても、少し運動をすると汗が噴き出し我慢ができない。
篤彦がビールとスポーツドリンクを買って戻って来ると、森本は篤彦のクラブを丹念に調べていた。
森本はこのクラブは新品で、態と汚れを付けて古く見せているのでは?と調べていたのだ。
自分がゴルフシューズでやった事を別の誰かもしたのでは?と疑いを持っていた。
篤彦は練習を止めてビールを飲み始めると、「このクラブ使ってみても良いですよ」と森本に勧める。
森本は早速篤彦のクラブで打ち始めると、打球は鋭い勢いで孤を描いて飛んで行った。
「ナイスショット!」
「ナイスショット!」とビールを飲みながら声援を上げる篤彦には、既に練習する気持ちが消えていた。
「高級品は違うよ、素晴らしい」と数十球を打って満足そうに言う森本。
その日の夕方森本はこのクラブの話を高松に話した。
「賄賂だな」
「でも、調べたのですがその形跡は有りませんでした」
「女に貰ったと言ったのか?」
「はい」
「どんな女だ」
「判りません」
「もしかして、加納は女を使ってきたのかも知れないな」
「社長、ゴルフが全く初めての男に高級クラブを贈って女を用意するでしょうか?」
「そうだな。態々ゴルフに誘わなくても、ホテルに誘えば事は足りるな」
「クラブの良い悪いも判らない男にあの高級品は」と二人は奇妙な話に考え込んでしまった。
篤彦は少し練習に行っただけだが、上達してコースに行けると思ってしまった。
五球に一球が真っ直ぐ飛んで正確に距離も出たので大丈夫と単純に考える篤彦は、練習もそれきりで休みの日に昼間から自宅で発砲酒を飲み続けていた。
翔子が塾の先生との面談に出掛けたのをチャンスと、冷蔵庫のビールを全て飲み干してしまい、上機嫌で高鼾になっているところに翔子が戻って来た。
戻って来た翔子は塾の先生の真央に対する苦言で苛立っていた上に、テーブルにある無数の空き缶を見ると、寝ている篤彦に「貴方、何を考えているの!酒しか能が無いの!馬鹿!」と逆上した。
夏の特別補修コースを勉強すれば、公立に受かりますから補修を受けて下さいと言われて、またお金が必要だと思っていた矢先の篤彦の姿に激怒したのだった。
翌朝、朝から篤彦に対して言葉を発しない翔子に「小遣い!」と篤彦がぼそっと言うと、
「今月は、もう終わりよ、塾の費用捻出の為よ、飲みたかったらお強請りでもして、飲ませて貰えば」と言い放たれて、二度に分けて貰っていた月の遣いを一度に減らされてしまった。
篤彦は自分でも飲み出したら止まらない馬鹿だとの自覚はあったが、昨夜の飲み方は翔子を刺激してしまったと反省しつつ役所に向かった。
財布には五千円札一枚の寂しい篤彦。
それでも夜には飲みに行きたくてどうする事も出来ない。
付けで飲むか?いや、払える見通しが無い、五時前になるとその事だけを考えている篤彦。
「大林君、明日から業者面談があるから、よろしく頼むよ」と泉部長の言葉に、泉の意味ありげな微笑みが今後を暗示していた。
そんな部長の言葉より、今からどうするか?の方が心配の篤彦の携帯に「大林さん、上手になりましたか?」と女性の声「あっ、ママさん!」と声が弾む。
「最近店、ご無沙汰だから、今夜食事でも行かない?」
「えっ、ママさんと食事?」
「嫌?」
「そんな、行きたいですが、今持ち合わせが…」
「何、言っているの?私が誘ったのだから、私がご馳走しますわ」
「えー、そんな事良いのですか?」
「美味しいお店見つけたのよ、少し郊外だけど。役所の近くにお迎えに行きますわ」
「は、はいー」と上機嫌になった篤彦はトイレに駆け込んで髪をチェックしていた。
「協力のお礼に、店のフロアーを変更してあげるよ」と昨日の昼間にラブホで加納に言われて、亜佐美は張り切っていたのだ。
同じビルの三階が丁度空室になっていることを、加納は事前に調べていたので亜佐美のやる気をそそる意味でそう話したのだった。
加納にとっては亜佐美以外にも若い愛人が最近出来たので、亜佐美の一人位惜しくは無かった。
翌日に亜佐美は既に自分の知り合いを通じて、従業員の目星を始めていたから手際が良い。
役所の近くに亜佐美の外車が停車したのは五時半前、篤彦のそわそわした様子を前島希は直ぐに泉部長に伝えた。
希は泉が用意した篤彦の役所内の監視役で、何か変わった事が有れば連絡する様にと言われていた。
泉はその連絡を聞いて探偵黒田に連絡をすると、大泉杏が外車に乗り込む篤彦を目にして尾行を開始した。
大泉は、その外車のナンバーを黒田に連絡をして、持ち主の調査を依頼した。
その二台の車を見送る希は、泉に報告をして褒められ役割を果たせたと感激していた。
「部長、私にその様なスパイ行動出来ますか?」
「大丈夫だよ、君の事は考えているから、頑張ってくれ」この二人も愛人関係なのだ。
役所に入って二年目の希を操る事くらい泉には簡単な事だった。
篤彦を乗せた外車は郊外のステーキハウスに滑り込んだ。
杏はステーキハウスが見える位置で待機する。
店が小さいのと高級そうなので入店が出来なかった。
篤彦は亜佐美に「ママさん、あの頂いたクラブって高級品なのですね」と尋ねると「大林さん、ママって呼ばないで欲しいの、亜佐美って呼んで」と甘えた様に言って「知り合いの使い古しだから、気にしなくて良いのよ、私使わないから」と誤魔化す。
側に亜佐美がいるだけで、頬が紅潮してしまう篤彦。
「私は飲めないけど、お酒飲んで下さい」
「はい、頂きます」予め頼んであったのか、料理が運ばれて来るとビールも一緒にテーブルに並んだ。
何故?亜佐美が篤彦にここまでするのかを考えていない篤彦。
酒が飲めてうれしいのと自分に好意を亜佐美が持っているのだと勝手な解釈をしていた。
酒豪
ステーキを美味そうに食べて、ビールを浴びる程飲む篤彦を呆れた顔で見る亜佐美は、こんな男を何故重要なポストに就けたのだろう?飲んで無い時でも特別賢い話をする訳でも無いと感じていた。
体育会系の大学から役所に入った能無しだと思うが?と思っていたら急に「お客さんの金沢さんとの関係は?」と尋ねる篤彦に「別に唯のお客さんよ、何か?」と微笑んだ。
「金沢さんですがね、ママ。亜佐美さんの事を他の店で色々話していますよ」
「えー、本当なの?どんな話?」
「詳しくは知りませんが、店を開く前の話とか家賃の話」と篤彦は適当に話したが、亜佐美には心辺りがあったので、篤彦の話を信じてしまった。
「そうなの、口が硬いと思って話したけれど・・・」と亜佐美は不安な顔になった。
篤彦は、日頃から羨ましく思っていた亜佐美と、一緒にゴルフに行く様な関係の人間をなるべく排除したかったのと、酔った勢いも手伝って、口を滑らせたのだった。
篤彦が沢山飲むので、長い夕食になってしまった。
「お店に行きましょうか?」と亜佐美が時計を見る。
「私持ち合わせが無いのですが」と急に酔いが醒めた様に言う篤彦に「いつでも良いのよ、気にしないで行きましょう」と笑ってカードを店員に渡して勘定を済ませた。
勿論カードは加納建設の会社のカードなのだから、亜佐美には痛くも痒くも無い事だ。
店の外で見張っている大泉のところに黒田から電話で「その車の持ち主、大阪の人間だ。荒井誠、職業とかは判らない」と連絡が届いた。
「運転しているのは女性です」
「荒井の妻か愛人だな」
「所長、今出て来ました,尾行します」
しかし、車は町に戻ってスナックビルの前で篤彦を降ろすと走り去ってしまった。
大泉が「食事で別れました。大林はスナックに一人で入っていきました」と報告をすると「今日は何も無い。終われ」と黒田は指示をした。
しばらくして、駐車場に車を置いた亜佐美がスナックに戻って来た。
丁度その時一階の(京)のママと一緒になった。
「おはようございます」と挨拶をすると「頑張っているわね」と返事が返ってくる。
もうすぐ私もママと同じ大きな店に変わるのよ!と言いたい気持ちを押さえて、エレベーターに乗り込む亜佐美。
スナック(京)はこの辺りでも老舗の部類に入り、絶えず五~六人の女性を置いて繁盛している。
亜佐美はこのママを目標にライバル心を燃やしていたのだ。
店に入る直前、金沢守一から(今から,三人空いているか?)とメールが届いたが(ごめんなさい、今夜は予約で一杯なの)と送り返した。
亜佐美は守一とは会いたく無いと思っていた。
店には三人の客と篤彦がいて、須美子が四人の相手で忙しくしている。
「ママ、待っていました!」と酔った客が亜佐美を見て叫ぶと「いらっしゃいませ」と愛想笑いでカウンターの中に入る。
亜佐美は一人静かに飲んでいる篤彦の前に来て「これ、昇進祝いよ」と高級ブランデーの瓶を置くと「えっ、私の?」驚きながらも篤彦は嬉しそうな顔になった。
「そうよ、課長さんになられたのでしょう?」
「いやー、代理ですよ」と頭を掻く篤彦。
普段は絶対に飲まないだろう高級ブランデー。
亜佐美が直ぐさま「ロック?」と尋ねる。
瓶を手に取り眺めながら「これは高いでしょう」と言う篤彦。
流石に酒の値段はよく判るようだ。
篤彦は目の前の棚を見廻して「ママ、この酒一本も無いね」と言うと「これは特別高いから無いわよ、飲んでみて」とロックグラスを差し出された。
匂いを嗅いで「良い匂いだ」と味わいながら飲み始めるが「美味い」と口走ると一気に飲み干す篤彦。
呆れた顔で見守る亜佐美。
幾らすると思っているの?その様な飲み方すると直ぐに無くなると心で叫んでいた。
篤彦は、今夜は自宅に電話をしたので帰る気もなく、明日からの企業面談の事も今は心の片隅にも無かった。
しばらくして三人の客と交代に,足立が入って来て篤彦の近くに座ると「凄いお酒飲んでいますね」とボトルを見て言った。
「プレゼントです」と既に酔っ払っている篤彦が笑顔で言う。
「昇進祝いを頂いたのでね」と小声で言うと「建設関係の祝いか」と聞く足立に横で須美子が頷いた。
その夜は閉店まで上機嫌の篤彦は、歌を歌って飲んで最高の一時を過ごすと近距離をタクシーで帰って行った。
亜佐美は三杯目から安物のブランデーに変更して飲ませたが篤彦は全く気づかず、半分以上を飲んで帰った。
鱶の様な飲み方だわ、と篤彦が帰った後須美子と亜佐美は呆れながら片付けをしていた。
翌日企業面談が始まった。
泉部長、小柳次長、大林課長代理の三人が入札する企業の為に事前面談にて詳細を説明する。
二日酔いか、寝惚けているのかぼんやりしている篤彦を見て、二人は側に近づかない。
アルコールの匂いが残っているからだ。
女とステーキを食べてたらふく飲んだからだよ。
本当に馬鹿な酒飲み野郎だと思う泉部長。
それでも今日からの面談で大林の酒好きを相手に印象づけるには、最高のタイミングだと喜んでいた。
十時にトップバッターで三俣建設の大阪支店長松沢、阪神統括部長清水が役所の応接室を訪れて面談になった。
いきなり松沢が篤彦に笑いながら「お酒がお好きな様で」と言うので、泉がこれは幸先が良いな、上手く事が運びそうだと喜んでいた。
午後から二社の面談が行われた。
明日は加納建設、翌日が高松興業の順になっていた。
翌日篤彦の自宅に早速、日本酒の詰め合わせが三俣建設から届いた。
翔子は六本も届いたので当分自宅で飲ませるか?と考えるが酒飲みの習性で、外に行くのだろうと、何も言わずに台所の戸棚に隠してしまった。
加納建設も高松も自宅には何も贈らない。
実弾攻撃に入る準備に取りかかるのだ。
小遣いが無くても毎日飲んで帰る篤彦に「貴方、飲み屋さんで付けしてないわよね」と翔子が言った。
「安心しろ,無いから」
「じゃあ、お金も無いのに毎日飲めるのは?」
「偶々、業者の打ち合わせがあったのだよ」
「お小遣いあげるから」と三万円を差し出す翔子には、多少恐い気持ちがあったのだった。
騙される賭けゴルフ
だが、篤彦は亜佐美とゴルフ旅行に行くのに、お金が必要になっていた。
小遣いも無しに旅行に行く事は絶対に出来ないので、どの様にしてお金を工面するか苦慮していた。
いい訳は、再開発の視察旅行と前振りはしている篤彦。
北陸金沢に行く事は決まっているが、日時が決まっていないと翔子には話して準備は整えていた。
翌週役所の職員が集まり、懇親会が行われて大野市長も参加し事業の成功を祈願した。
泉達は、集まりでは上位の席であることに大いに満足している篤彦は飲み過ぎてしまうので、自分たちの思惑は必ず成功すると喜んでいたが、集まった職員は良くあれだけ飲めるよ、タダ酒だから?と囁き合っていた。
篤彦は小遣いが無いので、中々(チェリー)には行けず、亜佐美に対する思いが募っている。
あの金沢が亜佐美に近づくのは先日の嘘話で阻止出来たと思っていたが、会いたい気持ちがゴルフ旅行に行きたい気持ちに完全に変わっていた。
それは「森本先輩、近い内にゴルフ教えて貰えないかな?」との電話になって現れた。
「あれから、練習に行ったのか?」
「いえ、誰も行かないから、飲み友達ならいるのですがね」
「来週の日曜に行きましょうか?」
「ほんとうですか?」
「打ちっ放しは面白くないでしょう、ショートですがコースに行きましょう。友人を誘いますよ」
「コースですか?高いのでは?」
「大丈夫ですよ、今回は私が出しますよ。まだ大林君は楽しめる段階では無いので、お金貰うのが気の毒ですから」
「幾らなのです?」
「一万程度で行けると思いますよ」
「一万円なら大丈夫です」
「下手なメンバー探しておきます。そう言う僕も下手ですがね」
「お願いします」と嬉しそうに電話が終わった。
日曜日になり、森本が自宅に迎えに行くと篤彦は散歩かジョギングに行く様なスタイルで出て来た。
野球の帽子を被って、全くゴルフに行くスタイルにはなっていない。
こんな男が何故?あの様な高級クラブを持っているのか不思議になる森本だ。
「二人は既に現地に行きましたよ」
「そうですか。僕下手なので迷惑をかけるので、申し訳ない」
「大丈夫ですよ、二人共初心者と変わらないお爺さんですから」
「年寄りですか」と嬉しそう。
高松興業の最高顧問で社長の兄、高松林一と友人の畑山である。
二人共ゴルフはベテランで常に最低でも八十台前半のスコアで廻る人達だ。
車に乗り込むと「ゴルフはホール事で争うルールとスコアで競う時が有るのですよ。
「今日は海岸の短いコースですから、簡単です」
「それは何故ですか?」
「山、谷が無いので」
「歩くのも楽ですね」と全く異なる回答をする篤彦。
その二人の車を大泉が尾行していたのを、全く二人は知らなかった。
簡単な挨拶を交わして、コースに出る四人。
本当にお爺さんだ、歩くのも大変だなと思う篤彦だった。
高松は篤彦に仕事関係と思われないように林と名乗っていた。
杏は四人の写真を隠れて撮影するが、まさか篤彦の腕前でコースに出るとは思わず、打ちっぱなし程度と思っていたので、コースには出られなかった。
老人二人が何者かが気にはなったが、この場ではこれ以上は判らないと、車で待機することにした。
「チョコをしますか?」と高松(林)が言うと篤彦は「僕は甘いものはいりませんよ」と答える。
何も知らないので教える森本が「違いますよ!一枚千円で、遊びで賭けるのですよ」
「えー、それは駄目なのでは?」と篤彦が慌てて言う。
「誰でもしていますよ、気にしなくても」
「いえ、私は始めてなので」
「そうですね、一ホール終わってから考えて下さい」と高松が言った。
「一ホール終わればお手並みが判るから、そこでハンディを付けましょう」と今度は畑山が言う。
「じゃあ、年寄りから打ちますよ」と一球目を打つと、目の前の池にボールが飛び込んで「あちゃー」と大きな声をあげる高松。
次に打った畑山はチョロで目の前五十メートルに転がる。
「今日は調子が悪いな」と悔しそうな顔をする。
次は篤彦の番。
「頭を動かさないでボールを見て」と森本がアドバイスをすると、打球は百メートル程飛んで真っ直ぐ転がった。
「ナイス、ショット」と三人が褒め称える。
森本は、良い玉をフェアウエィに転がし「ナイスショット」の声。
その後高松が打ち直しで森本の後ろに転がした。
1番パー4のミドルホールは、森本が6、畑山が7、高松(林)が8、篤彦が9と殆ど変わらない。
「こんなものですよ、一打チョコ一枚、ハンディは林さんと畑山さんは三枚、私は五枚でどうですか?今のホールなら大林君が勝ちで、森本君から二枚、林さんから二枚、私から一枚貰えるのですよ」と畑山が言う。
「兎に角、一番勝った人が取る。同点は次のホールに負けた人の分を持ち越し」篤彦はこれなら勝てそうだと思ってチョコをやることにしたのだった。
三人は訳の判らないハンディを作って、二番ホールに向かう「ここは短いですね」と向こうの旗を見て篤彦が言う。
初夏の太陽が背中を照らすと早くもビールが飲みたい篤彦。
森本のアドバイスを聞きながら打つと、綺麗な孤を描きグリーンに向かって飛んで行く。
「これは、凄いナイスショットだ」と全員が手を叩いた。
初心者の篤彦でもショートアイアンんのような短いクラブは比較的に正確に当たるのだ。
三人は直ぐに目で合図をすると、森本がグリーンの側のバンカーに放り込む。
畑山はホームランでOB、高松はチョロと芸をして篤彦を安心させた。
「僕が一番近い、これはいただきですね」と篤彦は上機嫌だったが、中々グリーンに乗せきらないのを見て、森本は「しまった」と言って2打目を再びバンカーに入れ、畑山は打ち直しの球をバンカー、高松の2打目はホームランと三人がまるで漫才の様なゴルフをしていた。
2番を終わると篤彦は6、森本は5、高松と畑山は9と篤彦が圧勝。
森本は「このホールは大林の勝ちだな。俺から四枚、後の二人から各六枚ですよ」と言われて、篤彦は頭の中で(ひとホールで一万六千円も?儲かったの?)と怪訝な顔になっていた。
気が大きく成った
「本当に疲れるな」
「下手なゴルフをするのも練習になるのだよ」
「高松さんは上手にバンカーに放り込むからね」畑山と高松が午前中のラウンドを終わりトイレで話をしている。
側には黒田がトイレに入ってその話を聞いている。
大泉と交代をする為にやって来たところで、直ぐに二人を見つけトイレに付いて来たのだ。
賭けゴルフをしている事は明らかで賄賂だと思う黒田だが、今の処実証は無いので取り敢えず録音だけは終えると、二人の後を追って食堂に戻った。
そこで森本と一緒に生ビールを美味しそうに飲んでいる篤彦の姿が目に飛び込んだ。
上機嫌な篤彦は、午前中だけで十万儲けていると森本から聞くと旅行代から解放されそうだと思った。
いつもならビールを浴びるほど飲む篤彦が二杯で止めたから森本は驚いた。
「大林さん、午前中にボロ負けしたので取り返したい、レートを二倍にして貰えませんか?」と高松が提案すると「林さん、僕は良いですけれど、年寄りを虐めるのは好きじゃあないなあ」と篤彦が笑う。
森本が「この二人は資産家ですから、お金には困っていませんよ、負けず嫌いな性格がたまに傷ですがね」と笑う。
「それじゃあ、心配無いですね」と微笑む篤彦。
このコースはパー5のロングホールが無いから、比較的歩く距離は少ない。
特に初心者の篤彦が相当沢山叩いても遅れてしまう心配は無かった。
高松達はこれでロングホールあったら、こちらがギブアップだと心で笑っていた。
午後も張り切る篤彦は、徐々にコツを会得したのか上手になって来た。
心の余裕もあったが、元々野球をしていた体育会系の人間なので、スポーツの才能はあったのだろう。
「午後は上手になりましたな、これは大差が・・・」
「倍にしたのは失敗ですな」と高松と森本が笑いながら言う。
三人は午前中と同じ様なプレーをしなくても良くなって来たので助かっていた。
時々チョロとホームランがあるが、スコアは纏まっている篤彦。
これはゴルフが好きになり、誘えば直ぐに飛んでくるだろうと思えて、上手く作戦が成功したと喜ぶ森本達だった。
18ホールを上がって結局篤彦が大勝となった。
「今日は調子が悪かった、来週リベンジお願い出来ますか?」
「喜んで、年寄りの方から沢山頂いて申し訳ないです」と笑うが篤彦は来週もゴルフに行きたいと考えていたのだ。
お金は森本が車の中で,封筒に入れて渡した。
結局三十八万円のお金を篤彦は貰って、意気揚々と帰って行った。
これは始めから用意されていた金額で、森本達には多くもなく少なくも無くもなかったが、篤彦には大金が手に入った事になった。
「来週はハンディが無くなりますね」篤彦がと笑うと「トータルでは、少しは貰えるでしょう」と森本が話し、篤彦達は自宅に戻るまで、ゴルフの話に明け暮れた。
人間お金を持つと態度が変わるらしい。
翌日、篤彦は仕事が終わるなり待ちわびた(きむら)に行く。
康三が「大林さん、瓶ビールだな」と出そうとしたが「今夜は生で」と康彦が言うので「珍しいね」と驚いた。
瓶ビールなら中身が見えないから、粘るのに便利である。
またグラスに注ぐ度に泡が出て美味しいが、生ビールは傍目から直ぐに量が見えるのと、泡が無くなって美味しく無いのでいつもは飲まない篤彦なのだ。
それが今日はいきなり生ビール。
直ぐに一杯を飲み干す篤彦に「おおー凄い飲み方だな、暑いからな」と笑った。
「今日はもう夏ですよ」と二杯目を注文する。
バイトの敦子が入って来て「大林さん、珍しいわね、生?」と驚いた顔で言った。
五人の団体が入って来て忙しくなったが、合間を縫って三杯目を注文する篤彦。
目の前に珍しく刺身の盛り合わせを敦子が運んで来て「今日は刺身も食べるのね」と不思議な顔をした。
篤彦の頭は来週もゴルフで儲かるから、これからは楽しく飲めると思っているので上機嫌になっていた。
そこに守一がやって来て、篤彦の隣に腰掛け「こんばんは」と挨拶をするなり「珍しいですね、生ですか?」と尋ねる。
「いつもご馳走に成っていますから、一杯ご馳走しますよ」と生ビールを注文する篤彦に「すみませんね」と守一は遠慮がちに言った。
しばらくして、篤彦が「次は(チェリー)ですか?」と守一に尋ねると携帯のメールを見せられた。
そこには、もう店に来ないで欲しいと云った内容が書かれていた。
「私には何の事なのか判らないのですが、突然この様なメールが届いたので、もう行きません」と守一は憮然とした態度になった。
篤彦は自分が喋った事が原因だと判ってはいたが「何が有ったのでしょうね?」
「行く店は沢山在りますから、別に構いませんが、気分は良くないですね」とご立腹の金沢守一である。
しばらくして守一は、何処に行くとも告げずに(きむら)を後にした。
篤彦は亜佐美の店に向かうが、今度は足立が陣取って自分の店の宝石を、安価で分けてあげると亜佐美と須美子の二人を前に話をしていた。
足立は、篤彦を見て迷惑そうな顔を一瞬したが「いらっしゃい」と笑顔の亜佐美を見て、何かを感じ取ったようだった。
しばらくして「これ、良いでしょう?」と並べられた宝石の中からブレスレットを取り上げて篤彦に見せる亜佐美。
「十万円が半額なのよ」と欲しそうに言う亜佐美に「ママには世話になっているから、僕がプレゼントしますよ」と酔った勢いも手伝い、いきなり篤彦が言ったので、三人の顔が驚きに変わった。
「えー、大林さん本気?」と聞き返す亜佐美。
篤彦の懐事情は加納から聞いて知っている亜佐美だから二人以上に驚いていた。
「本気だよ」と言いながら財布からお金を出す篤彦に、三人は先程よりももっと驚いて一瞬会話が消えてしまった。
少し間が空いて「良かったですね、ママさん」と笑いながら礼を言う足立。
内心自分がママに原価以下で売って感謝される筈のところを、篤彦がヒーローになってしまったので、全く面白くない足立は、表面上はにこにこしていたが内心はご立腹状態だった。
亜佐美は当然篤彦にべったり、自分の前には須美子が・・・
しばらくして足立は形だけの笑顔とお礼を言うと店を出て行ってしまった。
足立が帰ると「これ五万は安いわ、多分十二万以上すると思うわ、ありがとう大林さん」と亜佐美が言った。
ブラデーの高級品をがぶがぶと飲み干す篤彦が今夜は上機嫌で「ママ、ゴルフ練習上達しましたよ、コースも行きました」と話した。
「えー、もうコースに行ったの?」驚く亜佐美。
「小さな所ですが」
「凄いわね上達が。。。。早めに行けるわね」と言うが須美子の手前、目で合図をする亜佐美だった。
有頂天
上機嫌で帰った篤彦に翔子は「毎日毎日、よく飲めるわね」と文句を言う。
「今日は業者の集まりだ、仕方が無いだろう。あっそうだ!これ車代だって」と封筒を差し出す篤彦に「千円貰っても毎日出ていたらお金が続かないでしょう」と言いながら封筒の中身を確かめると「えっ、こんなに車代って貰えるの?」と急に笑顔に変わる翔子。
自分で一万円を封筒に入れて持ち帰った篤彦に、いつも怒る翔子が「役得なのね」と喜んでお金を戸棚にしまい込んだ。
それまでの嫌みが消えて「お腹、減ってない?お茶漬け?」と言うから、篤彦は思わず笑ってしまいそうになった。
「時々これから業者の集まりがある様だよ」
「そうなの?毎日でも良いわね」と喜ぶ翔子。
何と単純な女だ!もし足立から宝石でも買って渡せばどの様に変わるのだ???
篤彦は、湯船に浸かっても、亜佐美の喜ぶ顔と翔子の喜ぶ顔が交互に出て来る。
ゴルフの練習に行かなければ。
来週も勝たないと旅行の費用が捻出できないと考える篤彦なのだ。
土曜日、珍しく自分から近くの練習場に向かう篤彦。
自分でもコツを掴んだ気がしてくるから不思議だ。
「上手く飛ばせるな」と独り言を言って練習をしていると、隣の男性が「良いクラブをお持ちですね」と褒めてきた。
「貰った物で中古ですよ」
「新品と変わらないですよ。その様なクラブを頂けるなんて凄いですね」と何度も何度も同じ事を言う。
篤彦は自宅に帰ると、始めてインターネットでクラブの値段を調べると仰天してしまった。
亜佐美さんは知らずに自分にくれたのだろうか?ブレスレットの比ではないよ、どうしよう、言うか?誤魔化すか?と悩む篤彦になっていた。
翌日、森本が迎えに来て、前回と同じゴルフ場に向かう。
「今日は,最初から二倍でお願いしますよ」と言う高松。
「今日のハンディは私が四で二人が二でお願いしたいのですが,宜しいですか?」
「先週勝たせて貰いましたから良いですよ」と自分のゴルフに自信を持ち始めた篤彦が言った。
最初のホールから篤彦のボールは真っ直ぐに、フェアーウェエイのど真ん中を転がる。
「ナイス」
「これは、練習されましたね」と笑顔の高松。
今日は少し楽にゴルフが出来ると喜んでいた。
それでも二人はバンカー、森本は右のコースに放り込んで、最初のホールから篤彦に三万をプレゼントしていた。
気合いの入る篤彦は昼休みもビールを飲まずに、真剣にプレーをする。
始めから今日の負けは三人で五十万と少しと決めているから、調整をしていきなりカップをかすめる上手いショットを打つ高松と畑山。
篤彦は自分のスコアが良いから、この二人が先日とは異なるショットを打っていることが判らない。
先週より数段上手な篤彦に合わせて二人がスコアを調整するので、森本は見ていて笑ってしまいそうになった。
篤彦は平均トリプルボギーまで上達していたのに、三人は若干驚いていた。
「今日も負けました」
「上達が早い、若いから」と二人が褒め称える。
今日も大泉がゴルフの服装で見張りに来ている。
「間違いなく賄賂を渡していますね。でも金額が判りません」
「金額が判れば良いのだが」
「先週から大林の金遣いが荒くなっていますから、相当貰っていると思われます」と電話で黒田に連絡をしている。
篤彦は車の中で五十二万円を貰って「こんなに勝たせて貰って良いのかな?」と喜び顔。
「今度はハンディ無しで対決になるだろうな」と森本が言う。
「仕方が無いです。沢山勝たせて貰ったから」と笑顔で封筒をバッグに入れる篤彦は、亜佐美の笑顔を思い出して微笑んだ。
翌日、早速チェリーに開店と同時に入る篤彦。
「早いわね、先日はありがとう」とブレスレットを見せる亜佐美に「似合っていますね」と微笑む。
「そう、嬉しいわ」と笑顔の亜佐美。
「いつ行きます?」
「何処に?」
「ゴルフ旅行ですよ」
「もう、コース大丈夫?」
「はい、練習しましたから」
「そうなの?でも誰か誘わないと行けないわね」
篤彦は二人で行けると思っていたのに、亜佐美が四人で行く話をしたので急に暗い顔になった。
「大丈夫よ、夫婦を誘うから」と言われてまた急に笑顔になって話を詰めようとした時、扉が開いて足立が入って来た。
足立は篤彦を見て気まずい気分になり、篤彦ももう少しで話を決められたのにと残念な顔になった。
しばらくして「足立さん、安いネックレス有りませんか?」と急に篤彦が切りだした。
「どなたかにプレゼントですか?」
「女房ですよ」
篤彦は亜佐美とゴルフ旅行に行くので、翔子の機嫌取りにプレゼントをしようと急に思い立ったのだ。
先日のお車代の喜び様で思いついたのだった。
「予算は?」
「三万程度で」
「それなら、今店に良いのが有りますよ、店員に持って来させましょう」
「えっ、わざわざ?」
「商売ですから。明日は定休日だから今日の方が良いです。あっ!お金はいつでも良いですよ」
「いいえ、今払います」と財布から直ぐに三万を差し出す篤彦。
「お金持ちね,大林さん」と亜佐美が不思議そうに言う。
「品物見なくて良いのですか?」
「見ても判りませんから」と笑う篤彦。
「急にお金持ちになったのね」と亜佐美が繰り返し聞くので「ば、け、ん」と言いだした篤彦。
「競馬で当たったの?」
「はい万馬券を取ったのですよ」
「凄いわね!先週のレース?」
「今週も当たりましたから」
亜佐美はすかさず「金持ちね、ボトル無いわよ」と空瓶を振って見せた。
「同じの、有りますか?」
「これは流石に無いわ」と別のブランデーを見せたが「じゃあ、今夜は焼酎の最高級品で、お願いします」と言う篤彦。
今夜も最後までここで飲む予定だ。
先程の話を決めてしまわなければ、今夜は帰れない。
翔子への土産はあるから,少々遅くても大丈夫だと篤彦は考えたのだ。
しばらくして足立の店員が、綺麗にラッピングをしたネックレスを持参したので、上機嫌になった篤彦は焼酎をどんどん飲み干すのだった。
噂は恐い
たっぷりと飲んで閉店まで頑張ったが、足立が帰った後に六人の団体が来て最終まで帰らなかったので、亜佐美とゴルフ旅行の話の続きが出来なかった篤彦。
ボトルだけが二本目が空いただけで終わった。
酔っ払って家に帰った篤彦は、二階には子供たちは勉強中だが、上機嫌で「ただいま!」と大きな声を出した。
「貴方!何時だと思っているの?毎日毎晩よく飲めるわね、臭い」と怒る翔子の顔の前に篤彦は足立宝石店の袋を差し出す。
「何、これ?」と袋で中身が判った翔子は急に声のトーンが変わった。
「業者が奥様に、と言ってくれたのだよ」
「えー、それって賄賂」
「大丈夫だ。ハムを贈るのと同じ位だと言っていたよ」
「安い物なのね、ブローチ?」そう言いながら包みを開くと(お世話様です 愛する奥様)と書いた紙が入っていて「わー、ネックレスよ!ハムの値段では無いわよ」と早速取り出すと胸にあてている。
三面鏡の所に行って「わー、綺麗だわ、こんなの欲しかったのよ」と上機嫌に変わった。
「ありがとう」と篤彦に抱きつく翔子に呆れる篤彦。
先程までの怒りは完全に消えてニコニコ顔に。
篤彦はその豹変振りに笑いを噛み殺しつつ風呂に向かった。
お金は人を変えてしまう。
自分専用の口座を新設して篤彦はお金持ちになった心境。
夕方いつもの様に(きむら)に行っても、飲み方が変ったのが康三にも判る。
「大林さん、今夜から手伝って貰うのでよろしく」と奥から有馬晴美を呼ぶと「あっ、美人さん」と驚いた表情に「バイトの敦子が受験で毎日入れないから、手伝って貰う」と康三は説明した。
晴美が奥に消えると「実は一緒に住んでいるのだよ」と康三が小声で話す。
「結婚?」
「籍はまだだ、色々有ってね」と笑う。
「それはおめでとうございます」と言った時に五人の団体が入って来た。
「富田さん、お久しぶり!帰って来たの?」と康三が懐かしそうに話すと「ご無沙汰しています。今度転勤で戻って来ました。また寄らせて頂きます」と言った。
「出世したな」と笑う康三。
富田喜実、地元の曉信用金庫に勤めているが、親の威光も有って出世も早い。
本人も中々口が上手く、上司のウケも上々で今回本店の部長で戻って来た。
今晩は同じ行員の部下を連れて飲みに来た様で、景気よくご馳走している。
しばらくして康三が「あの富田って男、大金持ちの息子だ。富田喜一って駅前にも沢山土地を持っていて、海岸の方には倉庫を沢山持って居る」と言うと、「大金持ちの息子だ。地権者の名前の中に富田って有ったよ」と篤彦が話した。
「ゆくゆくは社長だな、銀行でもやり手らしい」と二人は囁きながら話をした。
そこに守一が「こんばんは」とやって来て、篤彦に「今夜も生ですか?」と言うと最近の様子が変わって来た篤彦を感じ取った。
その守一も最近飲み屋さんでの空気が変わった事を感じていた。
(チェリー)の出入りをしなくなってから、他の店でも店主の態度が変わっているのを感じていたのだ。
亜佐美が他のスナックの人間に、世間話の様に守一の事を確かめたのが、そのことが伝言の様に守一が悪いというイメージになって広がっていたのだ。
篤彦の嫉妬が守一を悪者にしてしまったのだが、人の噂の怖さを守一が味わっていたのだ。
自分を陥れたのが隣に座って居る篤彦だとは知る筈もない。
篤彦は時計を見ながら今夜には日程を決めなければと、亜佐美の出勤時間に合わせて店に行こうと考えている。
「今夜も(チェリー)か?」と嫌みを康三に言われて出て行く篤彦。
足立が各店で噂を流しているので、殆どの店で篤彦が亜佐美にお熱だと知れ渡ってしまっていた。
目の前で五万もするブレスレットを即金で買われた足立は、相当なショックだったから、他の店で喋っていたのだ。
そのことは康三の耳にも入っていたが、流石に本人には言えなかった。
「あの大林君、相当ママにいかれているよ」と守一に笑って話す康三。
「美人ですからね、でもパトロンが居ると思いますよ」
「えー、それなら彼は貢君か!」と驚くニュースに「一度も見た事がない、一度どんな女か見て来るか」と康三が笑った。
夜の世界は噂話が本当になる事が多い。
守一の話も事実とは異なるが、真実の様になって伝わっていた。
亜佐美が店に入った数分後に篤彦は到着してカウンターに座ると、須美子の様子を伺っている。
運良く客が二人入って来て須美子が応対をしたのでやっとママに例の話を聞く。
「ママ、例の事だけれど、いつ行ける?」
「私も調べたのだけれど、七月の連休は?」
「真夏ですね」
「嫌?」
「僕はいつでも良いですよ」入札の少し前に合わせた日程に篤彦は気づかない。
「その時期なら僕もまだ暇だから、大丈夫。盆を過ぎると忙しいからな」と仕事の事を考える篤彦だが、真夏でも亜佐美と行けるなら嬉しいのだ。
しばらくして客が増えたので、早々に店を出る篤彦に「また、来てね」と亜佐美が送り出すと、「暇な時に来ます」と上機嫌で帰って行った。
家に着くと翔子が「貴方、具合が悪いの?風邪?夏風邪は気を付けないと」と矢継ぎ早に言った。
「たまたま、暇だった」と答える篤彦。
翔子は篤彦の酒の匂いを嗅いで、何処も悪くはないわと呆れて台所に消えた。
駅北区画整理事業の会合に富田喜一が委員として推薦されて役所を訪れると、大野市長を始めとして、木戸助役、泉部長と蒼々たる役職の人間が砂糖に群がる蟻の様に挨拶にやって来た。
会合に先立って、大野市長と富田が市長室に入って行く。
しばらくして応接間のテーブルに、駅北の住宅地図が拡大された用紙が広げられた。
そこには赤いペンで、区画整理後の地図が書き加えられていて、駅北の一等地に富田の土地が集約され、今までの多くの小さな借地が見違える好立地に変貌していた。
「大野さん、ありがとう」
「まだ図面だけですよ、実現しましょう」と微笑む二人。
建設会社の思惑
会合で初めて富田喜一を見た篤彦は、これが(きむら)で見た善実の父親か、老獪な人間だと思った。
今後何度か地元説明会を開催して、地権者の意見を聞く事になるが、殆どの住民は役所の提示する事に感心を示して見入るだけになるのが通例なので、報告では住民は極めて賛成が多いですと報告され、事業は前進する事になる。
しばらくしてから、住民が騒ぎ出すがその時は時既に遅で、どんどん進捗してしまうのだ。
富田の様な人間が結局大きな利益を得て、一般の住民は泣き寝入りになってしまう。
この様な法律を利用して利権を得る人間が、日本各地に散見されるのも事実なのだ。
市長が見せた青写真に沿って図面が作成されて、住民説明会へと進んで行く。
中には富田程露骨では無いが町内の役職の人とか、口五月蠅い人にはある程度の優遇も充分に考えての図面になってしまう事が多い。
富田は事実市長に、この事業が滞りなく進むように有力者、口五月蠅い人には事前に話をして理解を得る様にと話していた。
数日後、有力者、口五月蠅い人達が人選されて、意向に沿った図面の修正作業が行われると、篤彦を筆頭に職員がその人達に囁きをする予定だ。
その事前工作によって住民説明会の時には、この人達は大きな声で「町が綺麗になる事は良い事だ。大賛成」と論じる様になる。
このように一般住民には意味が良く理解されていない段階で、行政作業が進展してしまうのだ。
一般住民は、気が付けば庭の土地が減っていたり、お金を徴収されたり、意味不明の事態になって初めて気が付く事になる。
喜ぶのは悪い奴達だ。
駅前再開発、駅北区画整理、この二つの事業に大きな利権が渦巻いているが、そのど真ん中に居る篤彦は全くその事を感じていない。
百万近い現金、高価なゴルフクラブ、高価な酒を既に賄賂として着服している事も理解していない。
今度は美人のママと温泉旅行に出掛ける準備をしているから、何を考えているか判らない。
一週間後、森本から二人がリベンジをしたいと話していると電話があった。
勝ち逃げは駄目ですよと言われたら、篤彦は行かなければ仕方が無いと思うのだ。
半分はもう一度儲けたい、半分は悪い事をしているという罪悪感が存在していた。
しかし結局は日曜日に行くと約束をしてしまう篤彦だったが、行くと決めたら勝たなければならないと思い、土曜日に練習に行くと決めた。
篤彦は、自分でも上達していると感じるようになっていた。
実際空振りは皆無になり、チョロもめっきり数が減って、それなりに上達していた。
当日になって「今日は、ハンディは森本君だけ2付ける事でいいですね?」
「はい、毎回勝たせて貰っていますので、良いですよ」と自分のゴルフに自信が出来てきた篤彦。
始まると、篤彦はこの前よりも上手になっていたので、三人は上達が早い、流石に野球をしていたと感心した。
それでも三人は上手く点差を調整して、篤彦が幾ら勝てるかを計算しながらプレーを続ける。
「まいったな、毎回上手に成られて、もう敵いませんな」
「本当だ。若いから覚えも早い」
「今度はハンディを貰わないと勝てませんな」と三人は話を合わせる。
帰りの車の中で封筒を手渡されて「また、勝ってしまった、悪い気分だよ」と言葉と裏腹な笑顔の篤彦に「入札迄もう少しだな」と意味ありげに言う森本。
しかし篤彦は「忙しくなるとゴルフが出来ないな」と全く取り違えの返事をするのだった。
今日も五十万を貰って嬉しそうな篤彦だが、その様子を黒田が撮影していた。
翌日「これは、高松林一だ」と助役の木戸が黒田の持参した写真を見て叫んだ。
「一度ゴルフ場で会った事がある、その昔はプロを目指していた男だ」
「そんな男が何故?大林の様な男とゴルフをするのだ?レッスン?」泉部長が不思議そうな顔で言う。
「もう一人は知らない男だな。年寄りだが、高松の関係者か?」
「見た記憶が無いですね」
「探偵には,何が目的か探らせろ、加納の動きは?」
「全く有りませんね」
「不思議だな、加納は諦めたか?そんな事はないだろう?必ず大林の近くに居てチャンスを狙っていると思われる。引き続き大林を監視して、決定的証拠を掴め」
「入札間近になるともっとも露骨だろう」と三人はお互いに市長のスキャンダル近し!を感じる。
篤彦は百五十万もの大金を貰っているので贅沢な飲み方に変わってきたが、そのことを亜佐美が「あの男最近変よ、お金沢山持っているわ」と加納に伝えた。
「どれ位だ」
「馬券が当たったと言っているけれど違うと思うわ。あの男の性格から、百万以上持っていると思うわ」
「何故だ?」ラブホのベッドで煙草を吸いながら為吉が尋ねる。
「私に五万、奥さんに三万のプレゼント、良い酒を次々飲んでいるし、お客の話でも(きむら)での飲み方が変わったと聞いたわ」
「そうか、高松の実弾の可能性が有るな」
「三俣建設は?」
「仕掛けて来るか?半々だな」
「大きな仕事なのに?」
「大手の建設会社は手が空いていたら取るが、この地区に来られる下請けが幾つ在るかが問題なのだよ」と言うと煙草を消すと、亜佐美の胸を触って「お前ともしばらく休みだ」と絡みついた。
翌週その三俣建設の行動部隊が東京を出て現地に入って来た。
下請けの調査会社の名目で、リマプロスト建材関西支店長の小山内宏五十五歳が部下の清水を伴ってやって来た。
三俣建設は、事前調査で加納建設と高松興業は調べている。
勿論役所の人々の資料も手元に揃っていた。
大林篤彦三十九歳、無類の酒好き、奥さん翔子、三十八歳、子供が麗子、真央、俊彦の三人、攻略はこの男が一番簡単と調査書には書いて有る。
泉部長、小柳次長の資料も揃っているが、小柳次長の所には、迂闊に近づくな!堅物の為直ぐに公表の恐れが有る、酒も煙草も全く無縁、攻略は危険。
泉部長は兼務と、裏で何処かと既に取引が有る可能性が有るので、敬遠されたしと書かれていた。
小山内には攻略の為の調査費の名目で充分な資金が用意されている。
早速、情報にある(きむら)に初お目見えと、その日の夜から偵察に訪れた。
市長追い落とし作戦
この小山内は九州の生まれでお酒がめっぽう強く、大林の飲み方にも興味が有った。
地黒か酒焼けなのか判らない浅黒い顔をしている。
「小山内さんとおっしゃるのですか?」と晴美が初めての客に尋ねる。
「当分この町に住みます。仕事が終わるまで」と小山内は答えてビールを飲み始めた。
時計は六時過ぎ、予定ではそろそろ大林が来る頃だと掛け時計に目をやる小山内だ。
今夜の大林は会議が長引いて、中々役所を出られない状況になっていた。
役所の本会議で反対派の政治団体に市長が追求を受けたので、その対策の協議を行っていたのだ。
「何でも反対党の連中も、調査網を持っているらしいから気を付けないと泥沼になってしまうからな」
「入札を同時にするから、この様に追求されるのだよ」結局元請けも三回に分ける方が良いのではないかとの意見が大勢を占めて、駅北区画整理事業、幹線道路事業、駅再開発事業と建設元請けも三分割の提言を纏めて大野市長に提出する事で決着をみた。
八月末に駅前再開発事業の入札、十月末に幹線道路事業の入札、十二月末に駅北区画整理事業の入札に分かれた。
勿論総ての事業を一社独占も充分有り得る。
三俣建設の下で高松興業と加納建設が仕事をする場合も充分考えられるが、その逆は有り得ない。
高松興業の下で加納建設、その逆も有るかも知れない。
この事業に政治政党が興味を持ち、政権転覆も視野に入れての攻撃体勢に入ったのだ。
篤彦を取り巻く環境は日々窮屈になっているのだが、当人は極めて呑気に今夜も早く会議が終わらないのかと時計を気にしていたのだ。
大野市長達は政権政党の流れで、助役も同じ政党からの支持を受ける予定だ。
反対政党が、スキャンダルを絶えず探して市長追い落としを目論でいる。
勿論元請け候補の三社の行動にも目を光らせている。
助役達は反対政党がスキャンダルを暴いても狙いは同じだから、マスコミに流すのと同時にこの政党にも流して一気に市長を追い落とす予定だ。
料亭(松葉)に夜遅く泉達三人は集まると、現状の進捗具合を話会って今後の対策を練っていた。
「三俣が確実に参入したとの情報が入っています」
「三つ巴が確定したな」
「今日事業を三分割したのでのですが、一社独占になるでしょうか?」
「熾烈な争いになりますよ」
「あの男の金遣いが荒くなったと聞いたが、本当だったか?」
「はい、間違い無い様です」
「高松からお金が出たと思われます」
「加納の動きが判らないですね」
「彼(大林)の行動は?」
「最近は(きむら)とスナック(チェリー)のママにお熱だそうです」
「いつからだね(チェリー)に行きだしたのは?」
「発表前ですから、事業とは関係無いとの報告が入っています」
「そうか」
「唯、回数は相当増えている様です」
「お金が入ってママを口説くのか?」と木戸が笑う。
「引き続き加納が接触して来るのを待とう」
「一番天辺で暴露しないと効果が市長まで届かないからな」
「はい、市長に実弾が渡るから、その時暴露だ」お礼の金が必ず市長に渡るのを知っているのだ。
入札を落とした企業が、裏金を渡して工事が始まると決め付けているのだ。
小山内も今夜は空振りだと(きむら)を後にして、情報の入っている(チェリー)に向かった。
初めての客に警戒をしながら、亜佐美は建設関係の人間なのか探りを入れる。
先日、加納に「君も気を付けないと、加納の手先だと暴露されたら統べてが終わるからな!大林に教える時期は私が指示をするが、それまでに他の人間に悟られると終わりだから気を付ける様に」と釘を刺されていた。
最低でも三階の店は貰わないと割りが合わないと思う亜佐美、その為新しい客には慎重になっていた。
その日の篤彦は部下の松井と大門の二人を誘って、小山内と入れ違いに(きむら)にやって来た。
「今夜は僕がご馳走する。何でも食べてくれ、これから僕の代わりに色々お願いしたいので頼むよ」
「課長代理の為なら、何でもしますよ」
「僕も例え火の中水の中ですよ」と調子を合わせて飲み始める二人。
今夜も黒田が役所から尾行をして、数分遅れて(きむら)にやって来ると、話が微かに聞こえる場所で飲み始めていた。
晴美が店(きむら)に入ってから急に客が増加した。
今も十人程度の客がテーブルで騒いでいる。
少し美人が居ると客足が良いのだろうか?先日までは六十男と高校生のバイトだったから、劇的な変化かも知れない。
金曜日、土曜日は三人体制に変わり、特に金曜日は満員になる場合も有るのだ。
三人はかなり飲んでから、篤彦は亜佐美の所に行きたいので二人と別れることにした。
部下達には好きな物を注文させたので結構な金額にはなったが、篤彦は躊躇なく支払った。
「ご馳走さまでした課長!」「ご馳走さまです、課長」と二人が挨拶をして店の前で別れた。
「結構飲みましたね」
「お金持ちですね、領収書貰うと思いましたがね」
「あの店で二万は沢山飲んでいますよね」
「課長まだこれから、何処かに行きましたよ」
「違う、代理」
「その代理の実家ってお金持ちですかね」
「違うと思いますよ。確かお父さんは昔の国鉄に働いていたと聞きましたよ」
「僕達に奮発してくれたのですね」と帰りながら話す二人の会話を黒田が聞き耳を立てて聞いていた。
篤彦が亜佐美の店に入ると、店内が若者の団体で騒がしい。
カラオケが大きな音で鳴り響いて「いらっしゃい」の声が聞こえない程だ。
今夜はバイトの佐恵と須美子とママの三人が店に入っている。
ここでも小山内は入れ違いに出て行ったので、今夜は会う事は無かったのだ。
カウンターの隅に座る篤彦に亜佐美が「ごめんなさい、佐恵の友達なのよ」と申し訳無さそうに言う。
「今夜は遅いわね」
「ママ、封筒有る?」
今夜もお車代を翔子に渡してご機嫌を取る準備に入る篤彦だ。
これでお車代は三回目だった。
北陸視察旅行
七月になると、篤彦の頭はもはや亜佐美との旅行の事しか考えていない。
一週目に再び森本がゴルフの誘いをしてきた。
今回は異なる人の参加だと言うが、断る理由もないし亜佐美とのゴルフの練習になると簡単に受けてしまった篤彦。
高松興業の一番の下請け企業尾上建設の尾上浩司と、同じく土木の下請け坂下土木の坂下清孝の二人だ。
二人共五十代後半の男だが、高松や畑山の様な器用なゴルフは出来ないので、ホール毎のスコア勝負で一番スコアの良い人の総取とし、ハンディは総てのホールで一打を篤彦に与えられることになった。
ハーフで一ホール一万なので九万円の三倍、総て勝てば二十七万が転がり込む。
総て負ければ十八万の損だが、篤彦は十八万程度なら構わないと強気で考え、総て負ける事はないとの自信も有った。
早速スタートしたが、ハンディの分だけ篤彦が勝つホールが目立つがハーフを終わってみると、篤彦が十万勝つ程度だった。
昼食時に二人が「三倍にしませんか?」「取り返したいから」と持ちかけた。
前半で勝っている篤彦は負ける気がしていない。
すんなりと承諾して午後のラウンドが始まると「駄目だ、力んでしまう」とOBを連発の二人、森本もハンディ分負けている。
結局上がって見れば八ホールを篤彦が取って、大勝した篤彦は上機嫌でゴルフ場を後にした。
帰りの車で現金を手渡されて「こんなに、勝って良いのかな?」
「大林に素質が有ったのだよ」と褒め称える森本だが、篤彦が確かに回数を重ねる事に上手くなっていることも感じていた。
「先輩、普通のコースに行けばどの位で廻れるかな?」
「そうだな、ここはロングが無いから、普通のコースは百二十位では廻れるのでは?」
「それって、普通?」
「まあまあ、だな」
それを聞いて益々上機嫌になった篤彦は、今日も賄賂を懐にしまって帰って行った。
大泉がこのゴルフの同伴者達の写真を撮って、持ち帰っていたのは言うまでもない。
翌日泉部長の元に写真が届いたが、この二人には面識が無く判らない。
元請け会社の人間には時々会うが、下請けになると全く会う機会が無かったので、泉には判らなかったのだ。
泉は黒田に写真の人物の調査を依頼すると、木戸助役の元に行って「高松が積極的ですが、加納は全く動きません」と報告した。
結局、篤彦はこのゴルフを含めて合計約二百万円の賄賂を高松興業から貰った事なったのだった。
篤彦は、通帳の数字を見ながら、自分はゴルフが意外と上手なのだと思いつつ、これは違反行為で犯罪だとの認識は持っていたので、賭けゴルフの話は誰にも話さないようにした。
しかし、お金を持った篤彦は飲む事に益々セーブしなくなり、毎晩遅くまで飲んではお車代を三回に一回は翔子に渡すようになっていた。
始めは喜んでいた翔子も、家で殆ど食事をしないので夕食は篤彦の分は作らなくなった。
月に十万円程の車代は大きな収入になり、真央の夏休みの特訓授業料が思わぬ収入で補えた。
七月二週目になると、手分けして行う駅北区画整理の住民説明会の日程が発表され、益々忙しくなる様相だ。
篤彦はAブロックの説明会に行く予定になっている。
Aブロックはもっとも駅に近い一等地であり、この場所には富田喜一の大きな土地が最良の場所に仮換地として図面に掲載されていたのだ。
図面を見ていた篤彦は、何処からこの場所に移されたのか?とAブロックの図面を探すが、旧の図面には小さな土地が数カ所あるのみで、富田の土地は何処にも見当たらない。
小柳次長に尋ねると「上から、足らずは買われると聞いている」
「えー、お金を出されるのですか?」
「土地を売らないと、工事費でないからな」
「それは、そうですが」
「大林君が心配しなくても良い事だ」と小柳次長に言われて、疑問に思いながらも引き下がる篤彦。
小柳が泉部長に報告に行くと「酒しか興味が無いと思っていたが、見ていたのか?」と笑う。
富田からは市長側にも助役側にも、賄賂が手渡されているので、富田の要望にはどちらも異議を唱えない。
小柳は泉部長の指示で、富田喜一が土地を購入と添え書きをした。
篤彦には少し注意が必要だと泉は気を引き締めることにした。
助役の木戸にも事実を報告すると、木戸は早速富田喜一に連絡をし、善後策を講じて説明会で追求されない様にした。
その日の夕方黒田が「車の持ち主が判りました」と泉部長に電話をしてきた。
「スナックの女性が乗っていた外車の持ち主は、大阪の暴力団系の不動産会社の荒井誠です」
「暴力団の女か?」
「可能性は高いですね、別嬪の筈ですよ。荒井は、昔相当際どい商売で儲けた男ですね」
「そんな男が何故?田舎町に自分の女の店を出すのだ?」
「それは判りませんが、少々困りものですね」
「あの大酒飲み、先に暴力団に殺されるかも知れないな」
「本当ですよ。女に手を出せば殺されても仕方が無いです」
この話で亜佐美はこの再開発には関係の無い女と認識されるようになった。
同時に、スキャンダルの前に篤彦が暴力団の女に手を出して、統べての計画が狂う事を恐れた。
翌日、泉部長は「飲み屋の女には気を付けた方が良いな、私の知り合いが先日スナックの女性と関係を持って、その女の彼氏が暴力団で死にかけたよ」と篤彦に聞こえる様に話した。
当人は全く気にする様子も無く、他人事の様に聞いていた。
亜佐美が暴力団員の彼女だとは考えてもいない篤彦なのだ。
篤彦が待ちに待った連休が迫った日に亜佐美から「道具が有るから、車で行きましょう、お友達乗せて行きますから」と連絡があった。
「そうなのですか」と気落ちした返事の篤彦は、二人の旅行気分で行けると思っていたので段取りが狂ってしまった。
当日、篤彦は、翔子に北陸の区画整理事業の視察旅行で、ゴルフが付いている。
お土産を買ってくるからと言って、意気揚々とゴルフバッグを肩にかけて自宅を出て行った。
尾行の探偵
「ゴルフバッグを持って家を出ました」大泉が黒田に連絡をする。
「一人なのか?」
「今は一人で、迎えの車も来てないですね」
「歩いているのか?」
「はい、あっタクシーを呼んでいました」
「見失うな」と黒田との連絡。
また賭けゴルフをするのだろうか?いつもは森本が迎えに来て、海岸のゴルフ場だが方向が異なる。
タクシーは駅に向かっていたのだ。
「電車に乗る様です。駐車場に車を入れてきます」
「見失うな」
大泉が駅前の駐車場に車を入れて来ようとパーキングに向かった時、あの外車が篤彦の近くに停車した。
同時に、駅から男女のゴルフバッグを持った人が現れて、男の方が篤彦に近づき「こんにちは、大林さんですか?」と声を掛けた。
「はい、一緒に行かれる方ですか?」と挨拶をする。
連れの女性がお茶を買って近づいてきたので「はじめまして、大林です」と挨拶をすると「迫田真理です、彼氏の山田さんです、よろしくね!」と笑顔で挨拶してきた。
山田は篤彦と同じ位の年齢、真理は亜佐美より少し若いが、亜佐美の方が断然綺麗に見える篤彦。
三人の道具をトランクに載せると、篤彦が助手席に乗って、山田と真理が後ろに乗り込んだ。その時、大泉が外車を発見して駅前で待ち合わせていた事に気づき、慌てて駐車場に引き返した。
「私の昔からの友達なのよ、真理さん」と亜佐美が篤彦に説明。
真理の彼氏が山田だと教えられていたが、少し年齢に開きが有る様に篤彦は思った。
外車は軽快に発進、大泉は苛々しながら料金所から車を目で追っている。
駅のロータリーを廻って、左の方向に走る亜佐美の車を目で追って、料金所を慌てながら出て行く大泉。
亜佐美の車は混雑で完全に見えないが、方向はこの方向に間違い無いと、渋滞の車の最後尾につける。
年齢が近いので、山田と篤彦は比較的に話が合う。
特に山田も野球をしていたとの話でお互い親近感を感じる。
仕事の話は何故かお互いが聞かない。
自分の事を聞かれると困るから敢えて聞かないのだ。
ゴルフの話になると、篤彦は、最近賭けゴルフで度々勝っていることもあり、上手くなったと自分では思っているので自信があるように話した。
スコアを尋ねられると、百以内で廻れる様になったと話すが、森本が誘ってくれるゴルフコースはパー六十のショートコースなので話が食い違うのだった。
亜佐美は加納の用意した山田とは、事前に打ち合わせをしているので殆ど予定の範疇の話に安心して車を走らせている。
高速に乗って最初のサービスエリアに入ると、篤彦はビールを数本買って早速飲み始めるのだ。
山田も付き合って飲むが、篤彦の飲み方に驚く。
篤彦は助手席から真理と交代して後部席に移動していて、後部席は酒盛りの場所になっている。
大泉は外車を尾行して高速に入り、完全に離されていたと思っていたが、逆に追い抜いていた。
電話で黒田に高速に乗ったと思うのですが、見失いましたと連絡をしたところ、やむを得ず諦めて次のインターで引き返すことになった。
大泉がバックミラーを見ながら、出口の方にウインカーを出そうとした時、亜佐美の車が横を走り去る。
「あっ、あれ同じ車だ!」と口走って速度を上げて追いつく、ナンバーを確認すると間違い無い。
「見つけました」と黒田に連絡する大泉の声が弾んでいる。
「何処に行くか判れば、教えてくれ、行ける場所なら私も行くから」と黒田の声も弾んでいる。
暴力団との付き合いをしているのだろうか?それとも建設関係?一緒の二人は何者?と尾行の大泉は色々な事を考えていた。
ゴルフに行くには遠いと考え出した大泉「所長、一泊するのでは?」
「何処に向かっている?」
「このまま行くと北陸に行きますね」
「よし、私は電車で向かう」と黒田も北陸に行く事にする。
暴力団の女と付き合う大林。
これで建設関係の人間と一緒なら大きなスクープになると張り切る黒田。
車は途中二度程トイレ休憩と食事でサービスエリアに入る。
大泉がおにぎりを買って車で待機、いつ出発しても尾行の出来る体制で待つ。
午前中から飲み始めた二人は、昼食ですっかりと出来上がり、午後のドライブは居眠りの中。
「予想通りね、二人共寝てしまったわね、真理さん大丈夫?」
「これ有りますから」と薬を見せる。
山田は真理との付き合いしている男性では全く無かった。
真理は亜佐美の友人で、山田は加納が用意した男で、ゴルフが出来て酒が飲める。
仕事はフリーター、若い女と一泊でゴルフを付き合って欲しいと頼まれただけで、気が合えば好きにすれば良いとの話しで参加していた。
目的はゴルフの人数合わせと、一緒に行く人間は無類の酒好きだから、適当に付き合って遊ぶことだけだ。
ただし、仕事の話は絶対にするなと言われていた。
温泉と若い女、お金、ゴルフと山田には嬉しいアルバイトだった。
加納は、亜佐美には自分の会社の下請けの、ゴルフ好きで酒好きの男を用意したと話していた。
二人共酒を相当飲むから、睡眠薬を飲ませれば何も無く終わるのだが、亜佐美は篤彦を籠絡して自由に操り、加納の仕事を有利にする役目があるので、篤彦を眠らせる訳には行かない。
加納はもしもの場合を考えて、山田を使っている周到な男だ。
加納は自分ではこの山田には会っていない、下請けの会社を通じて探したので、自分との繋がりを探られる心配は全く無かった。
「加賀インターで車は降りました」
「宿泊旅館が決まれば教えてくれ」
「はい」
「今、電車の中だ」
黒田と連絡をする大泉は、人のプライバシーを探るのに興味があり、この探偵の仕事は天職とばかり今日の不倫の捜査には興奮を隠せない。
亜佐美が高速を降りた時、篤彦が目覚めた。
「もう到着ですか?」
「もうすぐですよ、よく寝ていましたわ」
「はい、夜寝なくても大丈夫です」と篤彦が言うと、「恐いわ」と笑う亜佐美は、もうこの男は興奮して寝ないだろうと考えていた。
露天風呂付き客室で
車は片山津温泉の大きな旅館の玄関先に滑り込んだ。
係が出て来て、トランクを開ける亜佐美。
ここでようやく山田が目覚めて「おお、大きな旅館ですね」と嬉しそうに言う。
時間は三時半、外は夏の太陽がギラギラと照りつけて車の中とは別世界だ。
「いらっしゃいませ、加山さまでしょうか?」
「はい、よろしくね」と車のキーを係に渡すと手ぶらで館内に入って行く亜佐美。
「凄い、豪華な旅館ですね」
「ほんとう、亜佐美奮発したわね」と真理が囁く。
明日朝早く、ここの送り迎えでゴルフ場に行くので、バッグは総て旅館のフロントが預かる。
旅行の鞄だけを持って、仲居が四人を部屋に案内をする。
「三階のお部屋が、山田様。五階が加山様のお部屋になっています」
「えー、離れているのね」と真理が言うと「お食事は同じお食事処でございます」と説明する。
亜佐美が小声で「貴女の部屋にはお風呂が無いのよ」と囁く「あっ、そうか」と気が付く真理。
真理達は三階で降りると、別の仲居がエレベーターの前で待っていて二人を連れて行った。
「三階と五階って離れていますね」と不思議そうに言う篤彦に「聞かれたら困るわ」と微笑むと「なるほど」と言いながら照れ笑いの篤彦。
五階の部屋は、露天風呂付の大きな部屋で、風呂場から柴山潟の湖面が一望出来る。
丁度目の前に浮御堂が見えて、夜には絶景になると仲居が説明をする。
今夜は星空ナイトクルーズの予約も頂いておりますと、二人に伝えた。
亜佐美は、折角の北陸温泉を仕事とはいえ楽しみたかったので色々調べていたのだ。
観光地も回りたいのだが、ゴルフがあるのでこのクルーズだけにしたのだった。
尾行の大泉はこの旅館に宿泊しようとしたが満室で断られて、館内に入る事が出来なかった。
北陸新幹線の開通で、ホテルはどこも満室でビジネスホテルも中々泊まれない状態だった。
大泉は、加賀温泉駅に黒田が到着するのを待つ事にして、駅前の旅館案内所で宿泊場所を探した。
黒田が大阪からサンダーバードで到着するのは意外と早く、夕方には到着の予定だ。
ビジネスホテルに祭日でたまたま空きが有ったが、普段は一杯ですがと係が笑う程北陸の旅行業は熱いのだった。
露天風呂付の部屋で仲居の説明が終わると、早く露天風呂に入りたい衝動の篤彦だが、窓辺の椅子に座って亜佐美は柴山潟を見ている。
柴山潟の水面は静かで、旅館のパンフレットには虹色の噴水と書かれている。
元来柴山潟は、加賀三湖のひとつで、加賀三湖とは石川県南部の小松市加賀市に点在する三つの潟湖、今江潟、木場潟、柴山潟の総称である。
江沼郡はこの三湖と近隣の川に由来する。
今江潟の全面と柴山潟の約六割は一千九百五十二年から一千九百六十九年にかけて干拓され、主に農地として利用されている。
干拓以前は梯川から加賀三湖、動橋川は自然の水路としてもつながり、至近の大聖寺川まで約3kmの陸路を経て現在の石川県と福井県の県境の大聖寺川河口に至るまで船での移動が出来たと言われる。
主に旧東谷奥村を水源とする二級河川動橋川が流れ込み終え加賀市に存在する。
承応年間に潟の中から温泉が湧き出しているのが発見され、埋め立てが試みられたが果たせず明治時代になり、ようやく端の方から埋め立てられ片山津温泉として利用された。
今江潟と同時期に干拓され約三分の一が残り、潟から日本海に至る二級河川の新堀川はこの時砂丘を切り開きできた放水路である。
片山津温泉はこの柴山潟を利用して宿泊客の誘致に取り組み、柴山湖を自転車で廻るサイクリングロードの整備で周辺の施設巡りを楽しめる。
浮御堂、噴水、屋形船の運行、夜には七色のカクテル光線に噴水が虹色に輝いて、柴山潟を観光スポットに変身させる。
四人は夕食の後、星空クルーズを申し込んでいるのだが、亜佐美は、山田は多分来られないと三人に変更していた。
山田は部屋に入るとしばらくして、気まずくなったのか大浴場に一人で向かった。
真理も荷物を片付けると大浴場に向かう。
篤彦は痺れを切らせて「露天風呂、結構大きいですね」と亜佐美を誘おうとする。
亜佐美が「この部屋高級ね」と言うと「私が総て出しますよ」と言う篤彦に「大林さんお金持ちね、でもこの旅行は私が支払いますから」と笑って返した。
貸金庫に財布を入れる篤彦が「亜佐美さんも、金庫に入れますか?」と聞いてきた。
「はい、使います」と亜佐美が椅子から立ち上がってバッグを持って金庫の側に行くと、
篤彦が金庫の鍵を渡したので「先にお風呂で、待っていて」と意味ありげに言った。
「そうですか、じゃあ」と言いながら洗面台の方に向かう篤彦。
篤彦が風呂場に消えたのを確かめると、貸金庫の中の分厚い財布を見た亜佐美は、凄いと思いながらそれを手に取ると、中には五十枚程の万札が入っていた。
クレジットカードと一緒にネットバンキングのカードが入っていたので、亜佐美は口座番号を慌てて書き写した。
運転免許証も一緒に入っているので、生年月日も書き写した。
風呂場から鼻歌が聞こえる。
亜佐美は篤彦の秘密を盗み取った心境になっていた。
自分の財布を金庫に入れると、慌てて衣服を脱ぎ始める亜佐美。
自分達以外に篤彦に賄賂を贈った企業がいる事は明白だ。
早く篤彦を自分の自由にしなければ、お金を貰っている方に気持ちが行くのではと、亜佐美はスナックビルが遠のく気持ちに焦りを感じた。
栗色の髪をアップにして、バスタオルを巻き付けて「お待たせ」と風呂場に入って行った。
篤彦は予想通りの亜佐美の裸体を目の当たりにして、風呂桶の自分自身が既に興奮状態になっているのを感じた。
求めすぎる篤彦
「篤彦さん、恥ずかしいわ、向こうを向いて下さいね」と優しく言われて、背を向ける篤彦。
湯船に亜佐美の足が入る音に、敏感に反応をする篤彦。
「篤彦さんとこの様な関係になるとは、思わなかったわ」といきなり背中に抱きつかれる。篤彦は、亜佐美の乳房が背中に押しつけられるとたまらない興奮を覚えた。
「亜佐美さん、始めて会った時から好きでした」
「私もよ!」
「ほんとうですか!」
アルコールの醒めた篤彦は、興奮しているので露天風呂からそのままベッドに流れ込んでしまうのだった。
手慣れた亜佐美の艶技にすっかり骨抜き状態の篤彦。
翔子とは完全にレス状態だったので、一気に燃え上がってしまったのだった。
食事処で、睡眠薬を酒に混入して山田に飲ませる。
元来酒好きの二人は、地元北陸の日本酒に進むと、完全に出来上がった山田は「眠くなって来たな」と大きな欠伸。
それを見て微笑む真理と亜佐美。
「山田さん、部屋に戻りましょうか?」と真理は薬が効いたと思って誘う。
山田は勘違いをしているが、食事処を真理に連れられて出て行く。
真理は亜佐美の方を振り返えると目配せをして、酔っ払ってふらふらの山田を支えながら廊下を歩いて行った。
「亜佐美さん。もう一度お風呂に入ってから、クルーズに行きましょうか?」とやけに元気な篤彦に「そ、そうですね」と相づちを打つ亜佐美だが、またSEXするの?酒飲みは嫌いよ、長いから・・・と考えていた。
案の定再び求める篤彦、酒を飲んでも元気溌剌状態。
この人薬でも飲んできたのかも?と考える亜佐美だが、その予想は当たっていた。
数日前(きむら)でのこと
「若い奥様で、大将大変でしょう?」と篤彦が聞いた。
「今は良い薬が有るからな」
「効果有りますか?」
「大林君は若いから、必要無いだろう?」
「でも一度試してみたいですね」
「そうか、分けてやろうか?」
「はい、お願いします」
「君の様な若い人が飲むと困るぞ!」と笑いながら康三に譲って貰っていたのだ。
お疲れ気味の亜佐美と依然元気な篤彦が浴衣姿でフロントに来ると、真理が亜佐美に「予定通りよ」と耳打ちした。
三人は旅館のマイクロバスで、遊覧屋形船の乗り場に向かった。
色とりどりの浴衣を着た人達で殆ど満員状態になって、夕闇の柴山潟に出港していくと生暖かい風が頬に当たる。
「亜佐美、どうしたの?元気が無いわね」と真理が尋ねる。
「ちょっとね」
「食事の時は元気だったのに、食べ物にでもあたった?」
「元気で困るのよ」と耳打ちすると真理が口を押さえて笑い転げる。
湖をカクテル光線が包んで、遊覧船に合わせて噴水が吹き上がると色が七色に変化して、暗闇の水面にその光が映る豪華な水上ショーが繰り広げられた。
前方の岸壁近くで今度は花火が打ち上げられて、夜空を大輪の花が覆うと「綺麗!」「素敵!」と船の観客らから次々と感嘆の声があがって、ナイトクルーズは最高潮。
篤彦は何処から持って来たのか、ワンカップのお酒を飲みながら花火を見て楽しんでいる。
部屋の冷蔵庫から、カップ酒二本と白ワインの小瓶を持って来たらしいが、一本目を飲み終わると二本目を浴衣の袖から取り出して飲み始める。
それを見て呆れる亜佐美は、酒もSEXも人並み以上なの?と困惑した顔になっていた。
遊覧船の中で三本の酒を飲んですっかり上機嫌なこの男風呂に入ると酔いが醒めて、普通に戻って再び飲めるのか?二日酔いは無いのかな?と亜佐美が見ていると「何か付いていますか?」と微笑みながら手で顔を触る篤彦。
「凄い飲み方に驚いています」
「えっ、三本ですよ」と言い放つ篤彦に「夕食の時にあれだけ飲んだのに?」
「あれは、お風呂とトイレに捨てましたから」と笑って話すと、側にいた女性が話を聞いて笑うのだった。
しばらくして遊覧船が岸壁に戻り「綺麗でしたね」と真理が言うと「お酒が美味いです。この様な雰囲気で飲むと沢山飲めますね」と意味不明の事を言うのだ。
三人がナイトクルーズの最中、旅館には黒田と大泉が亜佐美と一緒に来た山田の正体を確かめに来ていた。
記者を装って仲居に尋ねると「あの人、有名人ですか?」と聞いてきた。
「有名な歌舞伎の役者さんですよ」と適当な名前を言うと、「歌舞伎知らないから、本名だったから、判らなかったのね」と直ぐに仲居は宿帳の名前を喋り出した。
「住所も関西になっている?」
「その通り、大阪の岸和田」
大きなホテルでは中々調べられないが、田舎の旅館は仲居を使えば直ぐに調べられるのだ。
「女性と同伴でしょう?」
「はい、でも美人では無いですよ。連れの女性は美人さんですが別の部屋ですから」
「あの女性は芸能人の様だから、山田さんがあの女性となら考えられるけれど、迫田さんとは」と言い出すので、迫田はそんなに美人では無いのか、垢抜けしていないのだろうと黒田は思った。
少しお金を渡すと、仲居は宿帳を奥でコピーして黒田に持ってきた。
自分がまるで芸能記事でも書いている気分になっていた仲居に「また、週刊誌が発売されたら、贈ります」と黒田は笑いながら旅館を出て行った。
大泉はそのまま館内を散策して回ると、山田達の部屋と大林達の部屋の値段が相当異なる事に気づいて、これは何か理由が有る筈だと考えながら帰ったのだった。
夜のクルーズから戻ると「大浴場に行きませんか?」と真理が亜佐美を誘いに来た。
亜佐美は「行くわ」と直ぐに返事をして「大林さんも大浴場に行って来れば」と篤彦に声を掛けるとさっさと出て行った。
部屋の風呂に入ってまた楽しもうとしていた篤彦の希望はむなしく消されたのだった。
クルーズの最中、亜佐美は篤彦の目を盗んで真理と打ち合わせしていたのだ。
「助かったわ、また求められそうだったから」
「飲んでいるのに元気なのね」
「薬飲んでいるのでは?」
「大変ね」と二人の会話と笑い声が大浴場の入り口まで続いた。
好意を持ち始めた亜佐美
篤彦も部屋で一人は暇なので、大浴場に向かうが烏の行水のごとく早々に大浴場を出ると早速生ビールを飲み始めた。
部屋付けで飲めるので、大浴場の出入り口の臨時ビヤガーデンは風呂上がりの客には好評。
殆どの人が一杯で帰るが、篤彦は違うのだ。
「お客様お強いですね」
「夏の温泉は暑いから、水の様に入ります」と一気に五杯の生ビールを飲み干して、上機嫌で部屋に戻るが亜佐美は戻っていない。
亜佐美はなるべくゆっくりと戻る予定で、髪の毛を洗ったり、サウナに入ったりで時間を潰していた。
部屋に戻った篤彦は、一人苛々しながら冷蔵庫のお酒を飲み始めたが、低床のベッドに寝そべってテレビを見ながら飲んでいると、そのまま眠ってしまった。
亜佐美が風呂から戻って静かに扉を開くと、室内が静かでテーブルにはお酒の瓶と缶が散乱し、枕元にも日本酒の小瓶が見えた。
酔っ払って眠ったか、作戦成功だと思って簡単に片付けると安心して眠る亜佐美。
明日は七時半には食事をして、ゴルフに出掛ける予定で目覚ましをセットした。
夜明け前「うぅ」といきなり唇を奪われた亜佐美は寝ぼけていた。
朝早く目覚めた篤彦が亜佐美のベッドに来ると、眠っている唇に口づけをして来たのだ。
されて驚いて起き上がろうとした亜佐美だが、布団の中に手が有って抵抗出来ない。
篤彦は早く寝たのと薬の影響もあり、普段の朝でもあそこが元気なのに今は大変な状況になっていた。
亜佐美は、口づけが終わると、直ぐにベッドに潜り込んでくる篤彦に「待って、何よ」と言うが、興奮している篤彦は「亜佐美さん、好きです、大好きです」と浴衣の中に手を入れて来た。
完全に目覚めていない亜佐美を半ば強姦の様に犯す篤彦に、昨夜の二回は艶技だった亜佐美だが今回は完全に負けてしまった。
乱れに乱れた二人。
流石の亜佐美も本気になってしまい「すみません、元気過ぎて我慢が出来ませんでした」と言う篤彦に対して「大林さん、タフね」と完全にお疲れモードになってしまったのだった。
ゴルフ場でも調子がでない亜佐美に「どうしたの?」と真理に言われ、「力が入らないのよ」と答える亜佐美。
篤彦は以前見た時とは段違いに上手になって、迷惑にならない程度にラウンドを進める。
ロングコースは刻みながらでもスコアが纏まる様になり、ミニのコースで廻っていたからアプローチも結構上手なのだ。
山田は睡眠薬の影響で熟睡をしたので、軽快なゴルフをする。
休憩の茶屋で、生ビールを三杯も飲む篤彦に「本当にタフだわ」と半ば呆れ顔の亜佐美。
ゴルフ場のクラブハウスには黒田と大泉が尾行して来ていたが、大した収穫も無く帰って行った。
篤彦は暴力団の女とその友達二人とゴルフ旅行をし、大林篤彦はその暴力団の女と一夜を共にして、翌日ゴルフを楽しんだ。
友達の一人は山田と名乗るもので、見かけの感じでは大した人物では無いが職業等は後日調べると報告された。
加納は亜佐美と篤彦に関係が出来て、篤彦が亜佐美の虜になればそれで目的は達成出来るので、この旅行は成功だと考えていた。
篤彦は、帰りの土産物店で、自宅への土産を買うと「これ似合いますよ」と亜佐美にもネックレスを買い求めたが、昨夜の支払を亜佐美が総て払ったので、気が引けたのだ。
だがその好意が、亜佐美の気持ちを変化させてしまったのだった。
女の心は判らない、亜佐美が篤彦に優しさを見い出してしまったのだ。
「これ、買って頂けるの?」
「はい、ほんの気持ちですよ」
旅行代金は総て加納のカード払いで全く亜佐美は使ってないのだが、篤彦は亜佐美が自分に好意を持っていて、散財させてしまったと思っていた。
土産物屋のネックレスでそれ程高価で良い物では無いが、その気持ちが嬉しく感じる亜佐美。
今まで付き合った男は自分の身体を目的に近づくか利害関係の男性が多く、純粋に恋愛の対象で求める男がいなかった。
篤彦の始めから自分の事を好きだと求めて来た純粋さ、そして朝の荒々しいSEXに亜佐美は心の中の何かが変化していくのを感じた。
それは翌日の加納への報告に早速現れた。
亜佐美は篤彦が沢山のお金を持っていた事を報告しなかった事のみならず「二、三度誘わないと手の内には入らないわ、酒を沢山飲むから寝てしまうのよ」と報告した。
「大酒飲みだからな」
「そうよ、お風呂に入っただけで何も無いのよ」と言って笑った
「急がないと、入札に間に合わないな」と加納が言うので、亜佐美は篤彦と再び旅行に行きたいと伝えたのだ。
篤彦は夜になって(きむら)にやって来ると、大将にお土産を渡し「大将、あの薬もう少し分けて貰えませんか?」と笑顔で言った。
「役にたったのか?」
「元気過ぎて困りましたけれど、ばっちりでした」
「誰と?奥さん?」
「馬鹿な事を!」
「俺の知っている女?」
「それは言えません」と笑いながら早速生ビールを飲み始めた。
この康三に喋ると、一夜でこの界隈の人々に知れ渡り、役所にも知られると思う篤彦。
その時(今夜は、来ないの?)と亜佐美から珍しくメールが届いた。
(もうすぐ、行きます)と返信をした篤彦の顔を見た康三が「嬉しそうだな、彼女か?」と言うと篤彦は「違いますよ」と言いながら照れていた。
そこに、リマプロストの小山内がやって来て篤彦を見つけると、ようやく会えたな!と言った表情をした。
ひとつ席を空けて篤彦の横に座った小山内は「よくお見かけしますね」と始めて会ったのに篤彦に声をかけた。
「そうですか?自分は毎晩来ていますから」と篤彦が微笑むと、小山内が「大将、日本酒の珍品有りましたよね」と康三に聞く。
中から「これですか?」と康三が指を指すと、「それそれ」と小山内が答えて一升瓶を冷蔵庫から取り出して小山内に渡した。
小山内は、自分で取り寄せさせた珍しい日本酒だと説明すると「おお、珍しい酒ですね、私も飲んだ事ないです」と早速反応を示す篤彦に「一杯飲まれますか?」と言った。
「えっ、頂いて良いのですか?」
篤彦の目の前にグラスが置かれて、注ぎ出す小山内だが、全く事前調査のままで、酒に目がないと思った。
一杯注ぐと篤彦は匂いを嗅いで、少し飲むと「旨い」と一言言うと一気に飲み干した。
「大林さん、その酒は・・・」と話す康三の言葉を遮って「良い飲っぷりだ!もう一杯」と空いたグラスに注ぐ小山内。
街の未来図
それは、康三がたった二度会っただけの小山内に事前にお金を貰って、ネットで二本のみ落札して買った超高級品のプレミヤ付きの日本酒だが、そんなことも知らない篤彦は水の様に飲むのだった。
康三は二杯目を注いだ時、この小山内は篤彦が目的でこの酒を自分に買わせたのだと思った。
建設関係の人間で、篤彦を狙ってここに来たのだと感づいていたが、晴美から「沢山客が来てくれたら、儲かるから良いのでは?」と囁かれたので、その後も篤彦にはその事実を言わなかった。
康三は良心の呵責を感じてはいたが、晴美の言葉に負けてしまったのだ。
その夜、篤彦は小山内と二人で一升瓶を空にすると「ご馳走になりました。もう一軒行きましょう。今度の店はご馳走しますよ」と小山内を引っ張って(チェリー)に向かった。
小山内は夏なのにスーツを着て、紳士を決めている。
(チェリー)に入ると「お掛けしましょう」と亜佐美が小山内からスーツを預かると、小山内はトイレに向かった。
その隙に亜佐美は、素早くポケットの名刺入れを取り出し身元を調べて、洋服掛けに吊したのだ。
亜佐美は今トイレに入った小山内が、先日来た事を覚えていて、篤彦目的でここに来たのでは?の疑問を持ったのだ。
亜佐美はメールで加納に小山内のことを尋ねると、しばらくして(その会社は、三俣建設の調査専門会社だ)と返事が来た。予想は的中したと思う亜佐美。
篤彦が狙われているのだと思う亜佐美は、目の前で意気投合状態の小山内と篤彦を見て心配になった。
亜佐美は、小山内がこの近くに住んでいるとわかったので、眠っても大丈夫だと考え小山内のグラスに睡眠薬を混入した。
篤彦を守ろうと思った亜佐美は、この場で教えたいが酔っ払っているので、危険だと察して咄嗟に思いついたのだ。
篤彦のブランデーを飲み始める小山内も酒が強いが、薬を飲まされた小山内はしばらくして大きな欠伸をすると「今夜は調子が悪い、負けました。退散します」と言い出した。
店を出ようとした小山内の足がふらふらとしているのを見た亜佐美は、幸い客が今帰ったので手の空いた須美子に「須美子さん!送って、直ぐそこのマンションだわ」と言って見送ったのだった。
店の中は亜佐美と篤彦だけになった。
「亜佐美さん、ゴルフ楽しかったです」
「私もよ、また二人だけで今度は旅行に行きたいわ」と亜佐美が甘えた様に答える。
「行きましょう、亜佐美さんとなら何処でも行きますよ」
お金も持っている篤彦は、亜佐美の言葉に気に入られたと感じていた。
「私が決めても良い?」
「勿論、夏休みが有りますから、平日でも」
「店があるから、盆休みになるわね」
「店の盆休みを早くすれば?」
そう言われて亜佐美がカレンダーに目をやった時、二人のお客が入って来てしまい、篤彦と亜佐美のふたりの時間は消え去った。
篤彦は話が途切れて、昨日の今日なので自宅に帰ると店を出て行った。
翌日(昨日のお店に同伴の人には気を付けて、建設関係の人よ)と亜佐美が早朝から篤彦にメールをしてきた。
亜佐美の親切に驚く篤彦は(ありがとうございます、注意します)と返信を送ると、自分の廻りにも業者が近づいて来たのだと、始めて感じたのだ。
亜佐美は親切で良い女だと改めて好きになってしまう篤彦だった。
黒田は、調査で山田の身元が判明したので、木戸助役の所に報告があった。
「あの大林、連休に暴力団の女とその友人、フリーターの男と四人でお泊まりゴルフに北陸まで行ったらしいよ」
「呑気な男だな」
「報告によれば、贅沢な部屋に泊まって、酒をたらふく飲んでご機嫌だったらしい」
「でも、変ですね?お金は誰が払ったのでしょう?」
「そう言われたら、変だな?暴力団の女が払う筈無いな」
「酒飲み男が大金を持っている筈が無い」
「探偵の報告によると、大林と暴力団の女は豪華な露天風呂付の部屋で、後の二人は普通の部屋だったそうだ」
「変な話しですね」
「それがよく判らないのだよ」
「誰が払ったのか調べられないのか?」
「黒田にもう一度調べて貰おう」
木戸と泉は、黒田の調査報告にあった建設関係の影の代わりに暴力団の女と付き合う大林を、半分は馬鹿だと思い半分は危険な男だと思いだした。
再開発、区画整理、幹線道路工事
三俣建設(大手) リマプロスト建材関西支社長 小山内 部下 清水
加納建設(隣町、中規模)社長 加納 スナック(チェリー)加山亜佐美
高松興業(地元、中規模)社長 高松林蔵 顧問 高松林一 その友人 畑山 課長森本(篤彦の先輩)□坂下土木(下請け)尾上建設(下請け)
市長を追い落とす企みを持つグループ
木戸助役 泉部長 長田課長 黒田探偵社 黒田 大泉杏
七月の末に入札予定の企業の事前プレゼンテーションが行われた。
各企業は、再開発事業の骨子の説明を、大野市長を始めとして、木戸助役、泉部長、小柳次長、大林課長代理、松井係長、大門係長ら一同が集まった中で説明を行った。
午前中、三俣建設は、東京から来た建設企画部長本田と課長水沼が、スライドを上映して各種の説明を行った。
スライドは日本各地で三俣建設が行った実績の紹介並びに、今回の再開発後の駅前の未来予想図をCGで再現しており、大野市長が「これが数年後の町の姿だな」と絶賛した。
大野市長を含め全員は、三社に対して利害関係が無いので、呑気に映画でも見ている気分で眺めていた。
午後は加納建設の松井部長と牧課長がイラスト画を配布して、駅前の未来図を示した。
「加納社長は来ていないのかね」と大野市長が泉部長に尋ねる。
「急用で、来られないと連絡を聞いています」と泉が答える。
最後は夕方になり、高松興業が社長の林蔵を筆頭に安住部長、森本課長、神戸係長が説明会場に姿を現すと、篤彦は愕然とした表情に変わっていた。
汚職の職員
篤彦が見た林蔵は、あの賭けゴルフ場の林と名乗った老人にそっくりだったのだ。
「どうしました課長代理」と隣に居た大門係長が、篤彦の顔を見て尋ねた。
「何でもない」と答えるのが精一杯で、自分はあの社長と賭けゴルフをしたのか?わざと負けてお金を貰ってしまった?
目の前で模型を使って、説明する高松興業の話が遠くに聞こえる篤彦。
しかし、その後社長が説明を始めると別人だと気づいた篤彦だが、林に酷似しているので関係が有る人物に間違い無いと思った。
説明が終わって高松興業が帰ってからも、呆然と考え込む篤彦の姿は、それを見た泉部長が、大門係長に「代理どうしたのだ?」と尋ねる程だった。
亜佐美は、篤彦の大金を見たので、篤彦のネット銀行の口座を確かめようと試みるのだが、パスワードがわからす、誕生日でも開かないのでつまづいていた。
次回会った時に聞いて見れば意外と喋るかも知れないと亜佐美は思った。
篤彦の口座に大金が振り込まれていたら大変な事になると心配していたのだ。
夜になって篤彦は深刻そうな顔をして(チェリー)にやって来た。
須美子の前に二人の客がいたのを幸いに、亜佐美はボックスに篤彦を呼ぶと「どうしたの?疲れた顔をしているわ」と聞いた。
「亜佐美さん、僕、罠に填められたかも知れない」と篤彦はぽつりと言った。
篤彦にはこのような相談が出来る相手がいないのだが、亜佐美だけには話せる気がしたのだ。
先日の小山内の事を教えてくれて、ゴルフ旅行も一緒にした亜佐美だけに、唯一彼女には秘密を話しても良いのではと思ったのだ。
篤彦は今日の役所の話と、賭けゴルフの話を亜佐美に詳しく話した。
亜佐美は、先日の大金の出所は、高松興業との賭けゴルフだと確信した。
亜佐美は篤彦が自分を頼りにしている事が嬉しく、自分も高松興業と同じ立場の人間である事を忘れてしまっていた。
須美子はボックスで話している亜佐美が気になって、自分のお客の話など殆ど聞いていない。
二人が急に仲良くなっているのを見ると、昨日も亜佐美が篤彦の事を話していたのを聞いていたので、尚更二人は男女の関係ではないのか?と疑いが生まれていた。
「一度、整理して、知り合いに相談してみるわ」
「お願いします」
いつもの元気は全く無く、ビールを一杯飲むと篤彦は帰って行った。
篤彦は野球部の先輩だと信用していたのに「騙された」「騙された」と独り言を言いながら自宅に帰って来た。
帰ってくるなり翔子が「貴方、具合悪いの?打ち合わせは無いの?」とお車代を充てにして言うので篤彦は「当分無い!」と怒った様に言い放つと自分の部屋に引き籠もった。
今更返金するお金が無いし、贅沢な飲み方をして車代として翔子に渡して、土産も買った。
後輩にもご馳走したし、装飾品も買ってしまった。
五十万以上は使ってしまった篤彦は、賄賂を貰った汚職の職員になってしまったと頭を抱えてしまった。
お金を貰っただけではなく、賭けゴルフをした事実も露見すれば、役所を首になって、警察に逮捕される。
これ以上お金は使えないし、返済の目処は全く無い篤彦は昨日から苦悩している。
その日も仕事は上の空で夕方になるとお酒が飲みたくなって来る。
財布に入っていたお金は恐くなり口座に戻したので、五千円札一枚の寂しい財布に戻っていた。
森本に連絡する勇気も無い篤彦は、お金が有れば騙したな!総て返す!と勢いよく叫んで終わりと思うのだが、今の篤彦にとって五十万は大金なので用意は出来ない。
篤彦は、もやもやした気持ちで(きむら)に行くと「生ビールだね」と康三に言われ「瓶で」とか細い声で返事をした。
康三が「瓶?」と聞き返して「肴は?刺身?」と更に尋ねると、篤彦の「エイのひれ」と昨日までとは違った返事に怪訝な表情になるのだった。
完全に元に戻ったか?と調理場に消える康三。
そこに「こんばんは」と守一が声を掛けて篤彦の隣に座ったが、篤彦は「こんばんは」と元気の無い返事を返した。
「珍しい、瓶ですか?」と微笑みながら自分も瓶ビールを注文して篤彦のグラスに注ぐ、いつもの光景に戻ってしまった。
そこに富田善実が一人でやって来ると「疲れるよ!」と溜息をついて腰掛けた。
「いらっしゃい、何が疲れたのですか?」と康三が富田に声をかけると冨田は「馬鹿な部下の、面倒を見ていると疲れますよ」と溜息を吐いた。
康三はいつもの冨田の口癖が戻ったと思った。
それは、冨田が以前この店に度々来店した時に溜息ばかり出しているので、最初は本当に疲れているのかと思って聞いていたが、いつも同じ言葉を溜息混じりに言うので、口癖だと判ったのだった。
篤彦は、世の中にはお金に困らないこの冨田の息子のような人間もいるのに、自分がたまたま贅沢をしたお金が犯罪だったとは何て不運なのだと思った。
自分は五十万で逮捕されるかも知れない状況に苛立ってくると、篤彦は思わず「日本酒下さい」と叫んだ。
飲まずには帰れない気持ちが頭を持ち上げると、もう止まらなくなった篤彦は「もう一杯」とショットで次々と飲み干した。
結局酔いが廻って、勘定で五千円札が消えて、僅かなお金しか残っていない。
亜佐美に会いたいがお金が無い篤彦は、酔った勢いも手伝い、コンビニで自分の口座から(チェリー)に行くためのお金を引き出したい衝動と戦うこととなった。
(きむら)を出てコンビニに向かって歩いては踵を返す、また歩いては踵を返す変な行動をしている篤彦に、向こうから歩いてきた足立が「大林さん、どうされたのですか?」と笑いながら尋ねてきた。
篤彦は誤魔化して「いや、何処に行こうかと、迷って」と答えた。
足立に見透かされて「(チェリー)では?」と聞かれた篤彦だが、「いえ、今夜は別の店に行くか?考えているのですよ」と答えた。
「(きむら)さんは、行かれたのですか?」
「今、出て来たところです」
「私はママに会いに行きます」と足立は微笑み(チェリー)のビルに向かって歩いて行った。
思案をしていた篤彦だが、ここで心が決まるとコンビニに向かった。
篤彦は、ATMからなるべく少ない金額と思い一万円を引き出したが、取引明細を見るなり「うそー」と大きな声をあげると、廻りの人が怪訝な顔で篤彦を見た。
篤彦は再び確かめようとATMの操作をすると、しばらくしてから「なんでーー」と再び叫んだ。
その声に「どうしました?」とコンビニの従業員がやって来たのだった。
振り込み
「いや、何でも無いです、済みません」と店員に謝って、恐々と店を出る篤彦。
「何、何、何?」と独り言をぶつぶつと言いながら歩く篤彦は、完全な変な男に廻りからは見える。
酔っ払っているのか?異なるコンビニに向かう篤彦、少し離れたコンビニに入って、再びATMの前に来てカードを差し込んで、大きく深呼吸をして暗証番号を押す、残高照会。
今度は声こそ出さないが、心で叫んでいた!「何が起こったのだ」この口座は誰も知らないはずだ。
自分が賭けゴルフで貰ったお金を入金して作った口座で、誰にも知られるはずがない。
宝くじを買たり、馬券を買う事もしていないのに、誰が自分の口座にお金を振り込んだのだ?
誰かが間違えて振り込んだのか?この前の残高は覚えていないが、少なくとも五百万は増えていると思う篤彦。
通帳も無いので、パソコンで調べなければ誰が振り込んだか判らない。
間違えて振り込んだ人間は今頃困っているだろうな、どうすれば良いのだろう?
兎に角早く調べようと、酔いも醒めてしまい、篤彦は急いで自宅に戻った。
「今夜も早いわね」
「少し調べ物があるので」と階段を駆け上がって、パソコンを立ちあげる。
部屋に誰か来ないかを絶えず気にしながら、ネット銀行の口座を開く。
AKとイニシャルの人物からの入金になっているが、今日の十一時、AKって誰?心辺りが無いが、この口座を知っている人間はいないはず。
AKからの五百万の入金はその夜、篤彦の眠りを妨げて、一睡も出来ずに翌朝を迎えた。
警察に行くか?口座を調べられる、翔子に判ってしまう。
篤彦が出した結論は、ネット銀行から問い合わせがあるだろう、五百万もの大金の振り込み間違いをすれば誰でも気が付くから、今日にでも連絡があるか、銀行の方で操作をして元に戻すだろうという事に達した。
篤彦がその結論を出した時、既に夜明けになっていた。
恐くてお金は使えないと思う篤彦は、財布に一万一千円を持って役所に向かったが、何時まで待ってもネット銀行からの問い合わせはなかった。
帰りにATMでもう一度調べれば多分元の持ち主に返却されているだろう。
篤彦は、仕事が手に就かない一日が終わると(きむら)に向かったが、昨日と同様に瓶ビールにスルメの侘びしい飲み方をしていた。
そこに小山内がやって来て「先日は、寝てしまって」と挨拶をしたが「別々の勘定でお願いします」と敬遠気味に言う篤彦。
「どうされたのですか?」
「小山内さんは、建設関係の方でしょう?立場上、同席は困るのですよ」
「ああ、判ってしまいましたか」と笑う小山内。
ビールをちびちびと飲む篤彦、豪快に飲む小山内。
先日とは異なる風景がそこには繰り広げられていた。
小山内の前には刺身、天ぷらが並び、生ビールが次々と運ばれる。
「大将も、奥さんも一杯飲んで下さい」とご馳走酒を振る舞う小山内。
篤彦はスルメを噛みながら、一本目のビールをゆっくりと飲んでいる。
真央を迎えに行くと今夜は約束をしていたので、九時迄ここで粘る予定だった。
小山内は、早いピッチで飲んで「お勘定」と言ってから「お先に、スナックに行きます」と(チェリー)に行く事を告げて出て行った。
カウンターの上には小山内が食べた沢山の皿が散乱している。
二本目のビールを飲み始める篤彦は、亜佐美に会いたいがお金が無い、お金を使えないと自分に我慢を強いている。
そこに(最近来てくれないわね、今夜は来ない方が良いわ、先日の男が来ているわ)と亜佐美がメールで知らせてきた。
そのことはわかっていたが、(ありがとうございます、また行きます)と亜佐美の親切に感動してメールを返した。
九時になったのに合わせた様に、勘定を済ませて店を出る篤彦。
篤彦が店を出ると晴美が康三に「以前と飲み方変わったわね、大林さん」と言うと「あれが普通だよ、今夜は子供のお迎えで帰る、何年もあの飲み方だ」と康三が微笑む。
「先日までの飲み方は?」
「お金でも入ったのだろう、馬券が当たったのは本当の話だったのかも」と康三も馬券話を信じてしまった。
篤彦は、真央を迎えて、二人仲良く帰っていたが、自宅に近づくと「ここから、帰れるだろう、お父さんカップの日本酒買ってくる」と言う。
「家の戸棚に、お母さん日本酒沢山隠して居るわ」
「えー」と驚く篤彦。
「以前に誰かが贈ってきたのよ」
「沢山か?」
「六本有るわ、一升瓶っていうのかな?大きいの」
しかし篤彦は「冷たいのが飲みたいから、買って来る」と自宅前で別れてコンビニへ向かった。
コンビニのATMで、五百万が持ち主に返却されている事を確認したかったのだ。
亜佐美の元にも変な事があった。
「先日の連休に、役所の人間と北陸の温泉に行ったでしょう」と聞いた事の無い女性の声で電話があったのだ。
「貴女誰なの?」
「また、電話するわ」それだけの話をして電話が切れた。
大林さんの奥様?違う、声が若い?誰が見ていたの?不安になる亜佐美。
カウンターの小山内?それは無い。では役所の人間?
亜佐美と篤彦の事を知っているのは加納為吉と山田、真理、他に誰が知っているの?
亜佐美は自分も誰かに見られているのだと、はじめて警戒をする必要に迫られた。
「店に電話をしておきました」
「ありがとう、明日から大林の動きを注意して見張ってくれ」
泉はラブホテルで前島希から「暴力団の女と温泉旅行に行ったのは、少し違う様な気がします」と言われたので、希に揺さぶりをかけさせたのだった。
もしも亜佐美が暴力団の女でなければ、何処かの建設会社が贈った賄賂代わりの女と思われるからだ。
篤彦はコンビニで冷酒を三本買ってから、ATMに向かって大きく深呼吸をして残高を調べる。
画面を見る篤彦の顔色が見る見る変化していく。
コンビニをどの様に出たのか自分でもよく判らない篤彦。
今買った冷酒を、ラッパ飲みをして「何が何だか判らんぞ!」と夜空に向かって叫ぶ。
蒸し暑い夜は、これから二夜連続の不眠を暗示していた。
口座の大金
何がどうなっているのだ?その夜も眠れないAKって誰?自分の口座は誰も知らない。
AK、AK、AK、明夫、彰、・・・数え上げたら切りがない。
名字加藤、春日、・・・加納?加納建設?あそこの社長の名前は?と急に起き上がって、手帳を調べ出す。
加納為吉かTKだな、加納建設が私しか知らない口座にお金を振り込む?それは有り得ない。
自宅の口座なら考えられるが、役所の振り込みとかがあるが、自分の口座は最近作ったから、やはり間違い?二日で一千万も間違いで振り込んで気づかない?
女の名前も考えられるが、知らない。
その時「あっ」と口走る。
篤彦の脳裏に亜佐美の顔が浮かんだ。
「確か、加山亜佐美って言っていた、するとAKだ」と独り言を言う。
翔子は、篤彦が酒を飲むので鼾が五月蠅くて眠れないと、最近別の部屋で寝るようになったから一人なのだが。
勉強をしている真央が「寝言が聞こえるわ」と言い「今夜は飲む量少ないと感じたわ」と麗子が答えているのが聞こえる。
結局一睡もしないで朝を迎える篤彦は、九時か十時に亜佐美に尋ねてみようと思った。
亜佐美がその様な大金を持っている訳はないが、AKのイニシャルが気に成る篤彦だ。
でもいきなり一千万振り込みましたか?とも聞き難い。
口座を知っていますか?それも変だとまた考えてしまう。
その日は、役所の仕事中も絶えず考えていて、電話を出来ないままで結局夕方を迎えてしまう。
直接 (チェリー)に行って聞こうか思ったが、今日は金曜日なので店に行ってもお客が多くて変な話しは出来ないと、篤彦は思い切って電話をすることにした。
希は朝からその篤彦の様子を絶えず観察をしている。
篤彦は何か考え事をしていたが、予想をしていた亜佐美からの電話は無かったので、希は昨夜の電話の効果が無かったのかと思った。
玄関の片隅で電話をしている篤彦を遠くから観察をする希。
「亜佐美さん、ネットバンキングの事、判ります?」
「はい、知っていますよ、急に銀行の話?」
「知らない人の所にお金間違えて振り込む人いますかね?」亜佐美はその話の内容を直ぐに理解した。
先日、亜佐美は加納為吉に話していた。
「高松興業が賄賂を贈った様ですよ、それも多額なのであの男は贅沢に成った様ですよ、彼の通帳を偶然見てしまいました」
「通帳を見たのなら、口座を知っているのか?」
「携帯の中でしたから、ネットバンクですね」
「私にも教えてくれ」と亜佐美は口座を加納に伝えていたのだ。
加納為吉が篤彦の口座に現金を振り込んだのは明白だ。
もうすぐ自分に、篤彦に対しての要求を提示してくる事が確定だと亜佐美は思ったが、金額が幾らなのか判らない。
「大林さんの口座にお金が入ったの?」
「いえ、まあ、その、そうですね」とぎこちない話し方だ。
「間違いなら銀行から連絡が有るでしょう、しばらく手を付けずに待って見たら如何ですか?」
「そうですね、口座が露見しても困るから、警察にも言えないのです」
「大林さん、警察は駄目ですよ」
「しばらく、様子を見た方が良いですね」と亜佐美と話をして幾分落ち着いた篤彦はそのまま、飲み屋さんに足が向かっていた。
「森本君、あの酒飲みの男、様子はどうだね」高松林蔵が森本に尋ねると「私共の与えたお金は相当使ってしまったと思います」
「まだ気が付いてないのか?一度確かめておいた方が良いな」
「はい、一度ゴルフに誘ってみましょう」
「気づけば来ないだろう」
「先日のプレゼンで気づいたと思うのですが、反応は有りませんから」
「兄貴と私はよく似ているから、判るだろう」
「多分、判ってもお金を返金出来ない状況で困っていると思いますね」
会話が終わるとそのまま(きむら)に向かう森本、篤彦の顔が目に浮かぶ。
怒るに怒れない状況の篤彦が、どの様な事を話すのか?考えただけでも笑ってしまう森本だった。
だが(きむら)に篤彦は来ていなかった。
篤彦は(きむら)に向かう途中で、小山内に出会って強引に焼き鳥に連れて行かれたのだ。
「一度、私の話も聞いて下さいよ、賄賂は渡していませんが、話くらいは良いでしょう」といきなり話した小山内に驚いて、付き合って焼き鳥に入ってしまった。
「お金を貰って便宜を図ると、汚職ですよ」
「声が大きいですよ、そんな事はしていません」
「大林さん、ゴルフされるのですか?」といきなり聞かれて「しません、しませんよ」と否定をする篤彦は、小山内が賭けゴルフの賄賂を知っていて、調べに来たと思って対応したのだが、篤彦の勘違いであった。
小山内は篤彦のとんちんかんな受け答えに、賄賂を要求していると勘違いをしてしまう。
酒を飲む毎に二人の話は食い違って、全く意味不明の会話は単なる酔っ払いの二人に見えるのであった。
(きむら)では森本が篤彦を待っていたが、何分待っても来ないのであきらめて出て行った。
結局焼き鳥のお金は小山内が全て支払ったので、篤彦はご馳走になっていて、これも賄賂と同じなのだが篤彦には全くその感覚はない。
篤彦は「私は行く所がありますから、これで」と言うと小山内が小指を立てて「彼女ですか?」と笑ったが、酔っ払うと本音が出るのか否定もしない篤彦に変わっていた。
篤彦は(チェリー)を覗いたが、金曜日で店内は満員、須美子も妙子も酔っているが、勿論亜佐美も少し酔っている様に見えた。
亜佐美は篤彦を見つけると「大林さん、いらっしゃい」とカウンターに席を作って、場所を空けた。
「盆休み、長くしたのよ」と亜佐美が指さす方を見ると、壁のカレンダーは一週間以上休みになっている。
九日から十六日までの日曜日から次の日曜日までがマジックで赤い印が付けられていた。
「判るわね」と篤彦に目で合図をする亜佐美、旅行に行こうと以前に約束したと言いたそうな目だ。
篤彦は少し前とは違ってお金が全く無い状況に変わっている。
口座には一千二百万程の現金は有るが、一千万は意味不明のお金で怖くて使えない。
残りのお金も高松興業からの賄賂だから、全く使えない篤彦には旅行に行くお金は皆無に等しいのだ。
亜佐美と再び旅行に行きたい気持ちは強いが、行く事が出来ない事情なのだ。
接待の罠
篤彦は亜佐美と話がしたいし、亜佐美も篤彦と話がしたいのだが、お互いの気持ちをあざ笑う様に一向に帰らない客ばかりで、後ろのボックスにも客が一杯である。
妙子と須美子がボックスの客の相手をして、カウンターの客を亜佐美が一人で相手をしているのでとても篤彦の相手は出来ない。
カウンターの三人は代わる代わる歌を歌い、ボックスでも歌うから、カラオケの止まる時がない。
(行きたい場所、山陰、大山、出雲)と書いた紙を亜佐美が微笑みながら篤彦に渡した。
篤彦はしばらく飲んでいたがとても話が出来ないので、店を出て行った。
亜佐美が追い掛けてきて「ごめんなさい、そこに行きましょう、お願い」と小声で甘えた様に言う。
その言葉に篤彦の心は大きく揺れた。
お金を返済するより、使ったら?の気持ちが鎌首を大きく持ち上がるのを感じながら帰って行った。
昨晩はお酒が気分を大きくしていのだったが、翌朝になると、駄目だ!駄目だ!使えない、今なら使ったのは五十万程だから、返済出来ると考え直した。
「最近元気が無いわね、具合悪いの?」と翔子に言われて「別に、大丈夫だ」と返事をすると「最近、お車代の打ち合わせ無いのね」と最近無くなったお車代の催促をしている様に、
翔子の中ではお車代も立派な家計のひとつに変化していたのだ。
役所に行くと「課長代理はいつ休まれますか?」と大門から先に聞かれた。
役所の中では交代で盆休みをすることになっている。
「みんな、盆に休みたいだろう、俺は早めに休んで盆は出るよ」と篤彦が言うと「代理、それで良いのですか?」
「八日から十二日で良いよ」
「みんなが喜びます」と勝手に判断している。
何故か希だけが、篤彦と同じ休暇を希望したので、すんなりと休みの順番が決まり、課内の皆が上機嫌に変わった。
「部長、大林代理が八日から十二日に夏の休暇を取りましたので、私も同じにしました」
「それはすまないね」
「何か有ると思うのです」
「何故なのだ?」
「最近考え込む時が多いので何か有ると思います」
「それで、監視の為か?」
「はい」
「もし、何処かに出掛ける様なら、費用は出すから、調べてくれ」
「はい、お任せ下さい」前島希は自分では完全に探偵になっている気分である。
先日亜佐美に電話をしてから、楽しくなっている様だ。
篤彦はメールで自分の休みを亜佐美に連絡をすると、心は亜佐美との旅行気分に浸るのだが、お金の事を考えると急に気分が滅入ってしまい、その日も仕事の間中考えている。
「課長代理」と呼びかけられて我に返る篤彦、先日から臨時職員の事務で採用した間島玲奈が声をかけたのだ。
「どうしたの?」
「仕事無いのですが?何か有りませんか?」廻りの連中は、現場とか調整に出ており、不思議と誰もいなかった。
「前島さんは?」
「何処かに行かれました」
「そう、適当にしていて、僕も今、仕事無いから」と微笑む。
役所ではこれから忙しくなることを見越して、臨時の事務員、現場調査員を期間バイトで多数採用していた。
民間なら忙しくなってから採用するのに、事前に採用する杜撰な金使いは、幾ら税金を徴収しても追いつかないと採用されている間島玲奈が思う程だ。
篤彦達職員からすると、これが常識と思っているから、玲奈が呆れるのも無理はなかった。
希は部長の部屋に書類を届ける恰好だけして、篤彦の行動の報告に来ていた。
「メールをしてから、ニヤニヤしていますから、例のスナックの女性だと思います」
「それなら、盆休みの間に会うな、間違い無い」
「あのママが建設関係と繋がれば宜しいのですが?」
「引き続き頼むよ」
篤彦と亜佐美は完全にマークされている。
黒田探偵にもこの情報は流されて、二組で尾行する事になっていた。
「今月いよいよ、駅前の再開発の入札が始まり忙しくなるので、帰りが遅くなったり、休みも出たりする可能性があるよ」と篤彦が翔子に言うと「母子家庭の様なものだから好きにして、亭主元気で留守が良いだわ!」と嫌みを言いつつ微笑んだ。
本当なら怒る筈がにこにこ笑う篤彦、心の中では亜佐美との山陰の旅を描いていたのだ。
「それより、お車代当てにしているのよ、もう打ち合わせは無いの?」
「いや、これからまた増えると思う。視察旅行に行くと先方から高額のお車代が出るかも知れない」
「えー、遠方に行くと貰えるの?」
「そうだよ、役所から交通費が出るのに、先方も予算を計上しているから、くれるのだよ」
「わー、凄いわ、遠い所に行けば良いのね、でもそれって税金の無駄使いね、良いわね倒産の心配無い職場は!」ともう貰った気分になっている翔子だった。
篤彦はこれで亜佐美との旅行も大手を振って見送られて行けると考える。
いつの間にか、お金を返すと云う気持ちが遠ざかって行くのだが、夜ベッドに入ると汚職で逮捕されるのか?恐ろしい、使うのを止めようと思うのだった。
篤彦は、翌日も心配で口座を確認したが残高の変化はなかった。
いったい誰が間違えて送ったのだ?その様な事を考えながら、月曜日を迎えた。
「今日は連絡が有るだろう、土日は金融機関が休みだからな」と玄関で独り言を言う篤彦に「口座に振り込まれるの?お車代?」と先日の話を覚えていて翔子が尋ねる。
お前は呑気だよ、俺は身も細る思いだよと思う篤彦を「酒が飲めれば良いのでしょう」と笑いながら見送る翔子だった。
いつも通り役所まではバスに乗って行っているが、その日は早朝から黒田が尾行を開始していた。
近日中に動きがあるとの情報を、黒田は入手していたのだ。
三俣建設なのか?高松興業?加納建設なのか?黒田には判らないが、接触があるだろうと推測された。
「代理、小山内様と云う方からお電話です」とバイトの玲奈が篤彦に伝える。
先日焼き鳥で飲み過ぎたが、役所に電話をしてくるとは大胆だな、と思いながら受話器を取ると「大林さん、単刀直入に言います、明日の夜、時間頂けませんか?」
「何の用事ですか?」
「関西支社長の籠屋がご挨拶をと申しておりまして」
「こちらに来て頂ければ宜しいのですが」
「食事でもと思いまして、上司の泉部長、小柳次長もご一緒にお誘いしてありますので、是非に」
「それなら、伺います」安心の表情に成って聞く。
「駅前の(松葉)に六時でお願いします、このことは役所内で言わないで下さいね」
「はい、判っています」
篤彦は(松葉)は一度だけ行ったことはあるが、高級店なので自分のお金では一度も行ったことは無かった。
部長も、次長も行くのなら問題は無い、美味しい料理を味わえて、酒も飲める、三俣建設は大手だから、影では色々細工をやらないのだと思う篤彦だった。
個人宴会
三俣建設は堂々と役所に電話をしてきたが、これも作戦だった。
篤彦は元来酒好き、内緒で誘っても中々来ないだろうと考えた小山内と籠屋は、一計を講じて公然と篤彦に誘いをかけてきたのだ。
泉部長も小柳次長も実は呼んではいなく、篤彦一人の狙い撃ちを決行したのだった。
翌日、料亭(松葉)に向かった篤彦を上がり口で待ち構えていた小山内。
「大林さん、済みませんどうぞお上がり下さい」
「部長達来ていますか?」
「まだですね、個別にお呼びしていますので」そう言われて奥の座敷に案内される篤彦。
座敷に係が案内して小さな部屋に入ると「はじめまして、三俣の関西支社長の籠屋と申します」と名刺を差し出された。
篤彦も名刺を差し出し「ご招待をして頂きまして、ありがとうございます」とお礼を述べると座敷机の上座を勧められた。
「ここは、部長に」
「それが、泉部長さん急用で来られないのですよ」
「小柳次長に・・・」
「小柳さんも大林さんに任せると、自宅に帰られました」
「えー、私だけですか?」
「まあ、そう言う事になりますな」と籠屋が言うと、小山内はその部下と思しき男と入って来て「少人数の方が、本音で話せますよ」と言う。
篤彦は、困った状況になったが、今更帰れない、明日小柳次長に報告も出来ないと思って仕方無く座ると早速料理が運ばれて来た。
籠屋が「今夜は初めてですし、堅苦しい話は止めて、懇親会と言う事で。小山内はご存じでしょうが、こちらにいるのが小山内の下で働く清水です」と紹介をすると、清水も名刺を取りだして挨拶をした。
座卓の上には豪華な料理が所狭と並んで、篤彦の食欲を誘う。
「男三人では、色気が無いので、大阪から連れて来ました、お前達入れ」と籠屋の一声で、三人の女性が入って来た。
「新地のクラブの女の子達だ、君たち挨拶をしなさい」雰囲気に圧倒される篤彦。
クラブの女性は次々と名前を言って挨拶をすると篤彦の両隣に座る。
「大林さん、我が社は大野市長さんとも気脈を通じていまして、大林さんが心配される事はないですよ」
「それは?どう言う意味ですか?」
「この事業は我が社に任せると、内々には決まっているのだよ」
「えー、本当なのですか?」
「入札は形だけのものだよ」そう言って笑う籠屋。
「だが建前は入札だから、この事は誰にも話して貰ったら困るよ」と籠屋が言ったタイミングでビールが運ばれて来た。
「堅苦しい話はこれ位にして、今夜は楽しく飲みましょう」と各自のグラスにビールが注がれると「再開発事業の成功を祈って、乾杯」と小山内の発声で皆が飲み始めた。
遠慮がちに飲み始めた篤彦に、新地のクラブの女性達が篤彦の両方からビールを勧める。
しばらくするとエンジンがかかって来た篤彦、飲み方も速くなった。
小山内と籠屋は上手く事が運んだと微笑みながら目で合図をしていた。
「そうですか、大野市長が決められているのですか?」
「そうだよ、泉部長も小柳次長も知らない話だがね」と籠屋が言うと小山内が「大林さんと大野さんだけですよ」
「そうなのですか?重大な秘密ですね」
「世間の目があるので、形は入札となっていますがね」
「なる程」と篤彦はますます飲み方が速くなった。
大胆な服装の女性が篤彦の目線の先に、大きく胸が空いた服装で挑発をしている。
「日本酒にしますか?」
「そうですね、貰いましょうか」ともう完全なタダ酒を飲む、おお酒飲みに変化していた。
籠屋は適当に飲んでいるが、小山内は篤彦のペースに会わせて飲み干す。
みどり、かえで、さちの三人の女性は、流石に新地のクラブの女性だ!篤彦を飲ませる位訳無い。
段々ペースが上がる篤彦に「これは少ないが、今日の車代です」と清水が封筒を渡す。
「あっ、車代ね、家内が喜びます」と無造作にズボンのポケットにねじ込む。
「さあ、一気に飲んで」と女性に言われて日本酒の一気飲みをはじめだした篤彦と小山内。
しばらくして籠屋は席を立って、別の部屋に移動すると、そこにはクラブのママ、本間朱音が籠屋を待っていた。
ここの(松葉)は泊まり客も対応しているので、朱音と籠屋は宿泊の予定なのだ。
小山内と最後まで勝負だと、張り切りすぎる篤彦、廻りの女性も二人の飲み方に呆れる。
状況によっては篤彦の相手も考えていた女性達だが、今夜はその用も無くなったと飲み比べを見ているだけだった。
十二時を過ぎて、二人が倒れてしまうと「引き分けね」とかえでが言ったが、その言葉に反応して、篤彦が「まだ飲める」と起き上がった。
流石の小山内ももう起き上がれなかった。
「大林さんの勝ちね」と言うと「お風呂に入って帰ります」とふらふらで立ち上がる篤彦。
清水が「お風呂に連れて行ってあげて下さい」と三人に指示をする。
当初から、篤彦と一夜を予定していた女性達は、三人がかりで風呂に連れて行く。
風呂場で裸にされて「君達も、一緒に入ろう」と言い出す篤彦に、三人もお風呂を付き合う事になった。
この様子を黒田と大泉が、遠くから撮影をしている。
風呂場は撮影出来ないが、四人が風呂場に入る姿は携帯のカメラで撮影されていた。
篤彦は風呂に入ると酔いが醒めて来て、風呂場の女性達に「ハーレムだな、夢か?」と触って「夢ではない!」と興奮し始める。
風呂場で水遊びを楽しんですっかり酔いが醒めた篤彦は、タクシーを呼ぶとそのまま自宅に帰ってしまったので、全員驚きの表情になっていた。
小山内は完全に眠りの中、清水はタクシーに同乗して篤彦を自宅に送り届けると再び(松葉)に戻った。
「化け物ですわ」
「あれだけ飲んで、風呂に入ると家に帰るって、凄いですわ」と三人の女性は高鼾の小山内を見ながら口々に言った。
自宅に帰ると「貴方、遅かったわね」と翔子が起きて来た。
「お風呂入ってきたの?」
「料理旅館(松葉)だよ、お車代、ズボンのポケットに入っているよ」
「そうなの」と嬉しそうな表情をして翔子は、篤彦が脱ぎ捨てたズボンのポケットから封筒を探し出した。
薄い封筒を見て「一万円ね」と言いながら封筒を開いたところで、翔子は黙り込んでしまった。
「どうしたの?千円か?」と尋ねる篤彦に、その場にへたり込む翔子。
出雲大社に向かう二人
「........」何も言わない翔子の手に持っている封筒を取り上げた篤彦は「お金では無かったのか?」と中から紙切れを取り出した。
「何!小切手?」と数字を数える篤彦は「百万!」と言うなり、一気に酔いが醒めた。
「貴方、これは汚職よ、直ぐに返さないと」
「本当だ、車代が百万とは驚きだな」そうは口走ったが、自分の口座の一千万も建設会社が故意に贈ったものだと思った。
口座を知らないのに?調べた?自分にどの様な権限が有るのだろう?業者の選定には確かに口は挟めるが、決めるのは部長とか次長、上には市長がいるから、何の力もない自分に何故?と疑問が大きくなって来た。
今度は翔子が眠れない。
翌朝、取り敢えず篤彦が小切手を役所には持参せずに、先方に電話で問い合わせて見る事にして出かけた。
しかし、篤彦が自宅を出てしばらくすると小山内が翔子に電話をしてきた。
「昨日のお車代は、役所の幹部の方には全員差し上げています。内密にして生活費にお使い下さい」
「こんな大金頂けませんわ」
「奥さんが辞退されると、差し上げた全員に迷惑が及びますよ。市長さん、助役さん、泉部長さん、小柳次長さん達も同罪になってしまいますよ」
「えー、主人の上役の人全員ですね」
「そうですよ、これが表に出れば大変な事になります。何処でも有る事ですので心配されずにお使い下さい」その様に言われて、翔子は慌てて篤彦に電話をした。
篤彦も翔子の話を信用して、小山内に電話をするのを控えた。
翔子も篤彦も赤信号みんなで渡れば、の心境に変化してしまったのだ。
これは役得よね、何も心配無いわ、お金も沢山必要だから頂いてしまおう、これは汚職では無い、お車代だと解釈をしてしまう二人。
しかし、依然一千万の振り込み人は、誰なのか全く判らない。何処からも問い合わせが無いのだ。
結局篤彦も亜佐美との旅行が近づいてくると、口座のお金を使わなければ小遣いも、翔子に渡すお車代の用意も出来ないと思うようになった。
篤彦の性格は優柔不断なので、遊びたい、恐い、の気分がその時に応じて変わってしまう。
亜佐美に「先日間違えた振り込みって、金額多いの?」と尋ねられて「多いから心配」と答えると「これだけ時間が経過しているのなら、もう大丈夫よ」と言われた。
「そうでしょうか?」
「振り込んだ相手は大林さんの事知っていますよ、もうすぐ挨拶が有るのでは!」
「建設関係ですよね、でも何故?私の口座を知っているのかが不思議なのですよ」
「調査網が有るのかも知れませんよ」
「もしも建設関係だったら、どの様に対処すれば良いでしょうね」
「もう、使ったのでしょう」
「はい、少しだけ知らずに使ってしまいました」
「もう、少額も多額も同じですよ、とことん貰っても罪は同じよ」
「でも・・・」
「返せないのでしょう?」
「はい、知らなかったので、知っていたら使いませんでした。罠に填められたのです」
亜佐美は篤彦が賭けゴルフに誘われて、賄賂を掴まされて使ってしまったと思っていた。
少なくとも自分と北陸に行った時は、賄賂だとは気づいていなかった。
結局亜佐美は篤彦に、貰った物は返さずに貰うしか仕方が無いと説いた。
篤彦は、その様に言われて一旦は腹を括るが、時間が経つと不安が鎌首を持ち上げるのだ。
その様な篤彦を亜佐美が後ろから押したのが、山陰の旅行だった。
二人は亜佐美の外車で、中国道から米子道に入り今宵の宿である玉造温泉に向かった。
勿論この二人を前島希と黒田、大泉のペアの2台の車で尾行している。
全員、今回は亜佐美の黒幕が登場するのでは?暴力団か建設会社のどちらかが現れるのでは?と考えていた。
篤彦は旅行中も賄賂を使うかどうかと思案しているが、亜佐美に会うととことん貰ってしまおうと勇気が出てしまう。
篤彦は車の中で、学校の先輩の森本に騙されて、賭けゴルフをしてしまった事を包み隠さず亜佐美に話していた。
亜佐美は自分に篤彦が正直に教えてくれた事が嬉しかった。
自分は加納の手先とは言え、間抜けで酒を飲むしか能の無い篤彦だが、自分を頼っている事を嬉しく思ったが、上手に立ち回って建設会社から多額の賄賂を貰うのも悪くは無いと話して、汚職をそそのかせた。
だが何故各社共、篤彦に賄賂を贈るのか?近づくのか?確かに酒を飲むとだらしなくなるので、情報を簡単に漏れ聞くことができるかも知れないが?亜佐美にはそれが良く判らなかった。
それは木戸助役達の文章に起因していた。
大野市長の名前で建設各社に通達した書類には、実質工事の現場責任者の意見を最重要な選択肢として、工事業者の餞別を行うとの文章が記載されていた。
泉部長達の推薦した篤彦がその任に就いたから、各社のターゲットが篤彦に集中したのだ。
勿論、その書類は泉部長達が特別に作って、各社に通達をしたものだった。
何も知らない大野市長は、現場の意見が一番だから反対はしないだろうと、作戦が今のところ成功している。
「暴力団の女が大林と関係を持っているのに、肝心の暴力団出て来ませんね」
「案外、建設会社に雇われているのかも知れないな」と尾行をする黒田と大泉の会話。
前島希は泉部長に褒めて貰う為に、探偵を進んでしているが、本職では無いので接近し過ぎてしまう。
「変ね、同じ車が絶えず付いて来るわ」と亜佐美に気づかれた。
「用心の為に、速度を上げてみるわ」亜佐美がアクセルを踏み込むと、高級外車は飛ぶ様に走り出す。
慌ててアクセルを踏み込む尾行者達2台の車は、速度を上げるが到底追いつけない。
「ここに、入るわ」と後続を引き離して、サービスエリアに流れ込む亜佐美。
猛スピードで通り過ぎていく前島希、しばらく走ると「何!」と一瞬閃光が走った。
自動速度取り締まり装置の前を、勢いよく通過した希は写真を撮られてしまったのだ。
もう一組の黒田達は、この装置には気が付いたので速度を落として通過してから再び加速したが、今度は覆面パトを追い越してしまった。
素人探偵の希に翻弄されて黒田は御用になった。
そこを「覆面パト多いわね、捕まっているわ」と横目で見ながら亜佐美の外車が通り過ぎて行く。
自動車の助手席から、大泉が亜佐美の外車が通り過ぎるのを見て「追い抜いていたの?大失敗だ」と叫んでいた。
黒田は覆面パトの中で切符を切られて、苦々しい顔になっていた。
尾行の二組は完全に亜佐美に、翻弄されて見失ってしまった。
夕方、亜佐美の車は玉造温泉の大きな旅館に滑り込むと、昼間も酒を飲んでいない篤彦に
珍しい事も有るのだと、亜佐美は驚いていた。
愛を感じ始めたの?
篤彦は旅館に到着するのを待ちかねていた。
康三に貰った薬を飲んでいたからだが、先日康三に「お酒を飲まなかったら、とても元気で良かった、晴美をものにしたのもこの薬のお陰だよ」聞いたから試してみたいと思ったのだ。
実に単純な篤彦、その為に酒を朝から一滴も飲まずに我慢していたのだ。
亜佐美が篤彦は調子が悪いのだろうか?と考えていた。
部屋は二人の希望で露天風呂付、尾行の二組は完全に消え去って、楽しい一時を過ごす事が出来たのだ。
篤彦は満足が出来て、亜佐美も艶技ではない本当の姿で篤彦に接するほど満足をしたのだ。
お互いに満足をしてからの夕食となった。
「酒を飲まないと効果絶大」と独り言の篤彦と疲れた様子の亜佐美。
篤彦は、待ちかねた様に飲み始めると「余り飲まないで」と亜佐美が甘い囁きをするので、飲むのをセーブする。
明日は出雲大社に参拝予定の二人は、もしかして縁が結ばれるのでは?とこの時同時に考えていた。
今回も加納建設のカードを使って遊ぶ二人だ。
篤彦に「旅館代は私が出すわ、気にしないで」と亜佐美が言う。
「本当に良いのですか?」
「賄賂のお金で泊まるのは嫌よ」と笑うが、どちらも同じ賄賂のお金なのだった。
翌日、二人は午前中に足立美術館に向かった。
足立美術館は昭和45年、地元安来出身の実業家、足立全康氏によって開館。
日本画の巨匠 横山大観 をはじめ竹内栖鳳、川合玉堂、富岡鉄斎、榊原紫峰、上村松園などの近代日本画と、安来出身の陶芸家 河井寛次郎、料理人として陶芸家としても名を馳せた北大路魯山人の陶芸作品、林義雄、武井武雄らの童画を集め、およそ13000坪の大日本庭園が融合した美術館である。
近代日本画壇の礎を作り上げた横山大観に注ぐ足立全康の情熱は人並みはずれ、数々の逸話が残るほど。
横山大観のコレクションは世界一の規模を誇り、その数なんと120点。
常時20点余りを展示しており、繊細かつ大胆な作品を鑑賞することができる。
「絵画も素晴らしいけれど、日本庭園が素敵よね」と亜佐美が言うと酒には興味があっても絵画には全く興味がない篤彦だが、亜佐美に腕を引かれて見学しているので、悪い気はしていない。
亜佐美は篤彦の純粋さと、自分を好きだと言う真実の言葉に好意を持ってしまった。
勿論SEXも艶技無しで楽しめるのも良かったのかも知れない。
加納為吉とのSEXは艶技そのもので、自分を利用しているのが見えすぎて本気で好きにはなれなかった亜佐美。
足立美術館を出ると、二人は昼食に向かう。
「もう飲んでも良いよね、暑くて」と微笑む篤彦。
レストランで早速生ビールを注文する様子に、子供の様だと思いながら微笑む亜佐美。
微笑んでいたのは最初だけで、次々と飲み出す篤彦に驚いた表情になってくる。
「大丈夫?」
「暑いですから」と笑いながら大ジョッキを三杯も飲んで、嬉しそうな篤彦。
ほろ酔い気分で篤彦は歩き、二人は出雲大社に向かっているが、二人を見失って遠い所迄来てしまった前島希も出雲大社に参拝に来ていた。
偶然は恐ろしい「あれ?前島君じゃ?」篤彦が希を先に見つけて声をかけた。
「あっ、そうか僕と同じ休みだったね」
「代理さんは、お一人ですか?」
篤彦は、偶然亜佐美がトイレに行ってそれを待っているところだった。
「友人と来たのだが、二日酔いなので旅館において僕一人で来たのだよ。前島君は一人で?」
「は、はい」
「遠い所に一人で、ドライブが好きなのだね」と微笑んで、トイレの方向を見る篤彦。
亜佐美はトイレから出たところで篤彦と話している希に気付き、戻らずに別の方向に歩いて行った。
「僕はそろそろ、旅館に戻るよ、気を付けてね」
「は、はい」希は急に篤彦に会ったので唖然として、尾行の事も忘れていた。
慌てて、篤彦を捜したが人混みの中で再び見失ってしまった。
楽しい亜佐美と篤彦の旅は無事に終わって、二人は以前にも増して親密になってしまった。
黒田は免停、多額の罰金で今後の調査にも支障を来す事態に陥る散々な尾行となった。
前島も後日警察からスピード違反の呼び出しが来て驚くことになるのだが、今はまだ知らないので、唯尾行の難しさを思い知るのみであった。
亜佐美は加納が幾ら位の金額を振り込んだのか知らない。
篤彦は、一向に誰からも連絡が無い不気味なお金を使う事も出来ない上、警察にも言えない状況に苦慮したままお盆を迎えた。
役所もお盆は職員が半分しか出勤していない中、前島希が警察からの呼び出しを受け、悲痛な声で「急に用事が出来まして、明日午前中休ませて下さい」と伝えて来た。
「暇だから、良いよ」と笑顔で言う篤彦だが、希はニコリともしない。
暇な篤彦の机の電話が鳴り響いた。
「課長さん、楽しんで来ましたか?」と聞き慣れない声。
「どちら様ですか?」
「貴方の口座に、お振り込みをさせて頂きました加納建設の加納為吉と申します」
「えー」とは答えたが声が震える篤彦。
「側に何方かいらっしゃるでしょう?用件は後程」
「君、失礼だな」
「ご挨拶ですね、賭けゴルフは良いのですか?」
「い、いや、それは」
「また近い内にお目にかかりましょう」と電話が終わった。
加納建設が振り込んだのか、一千万とは多いな、他の建設会社は百万、二百万程度なのにと考える篤彦。
普段なら神経を研ぎ澄ましている前島希に見破られるところだが、今はその様な余裕は全く無い希だった。
今後何を要求するのだろう?亜佐美に今後を相談したい篤彦は亜佐美の携帯に電話するが話し中だった。
丁度その時、加納が亜佐美に次の指示を電話していたのだ。
盆が開けるといよいよ入札が近づくので、為吉も動き出したのだ。
「酒飲み男の肝っ玉を掴んだか?」
「お酒ばかり飲んでいて、はっきりしない男ですわ」
「亜佐美の言う事を聞く様になっていれば、それで良い」
「お金沢山振り込まれたのですか?」
「大した事無いが、負けられない。手段は選ばず勝たなければ、面子もあるのだ」
加納建設は高松興業とは親の代からのライバル関係で、今回のプロジェクトは為吉が社長になってからの大規模な事業だから力が入っている。
亜佐美は加納為吉が益々嫌いな人間に変わって来ていた。
純粋な篤彦を見ていると、加納の腹の黒さに嫌気が込み上げていた。
母の事故
篤彦は加納建設にお金を返す段取りで、役所の仕事を抜け出して向かった。
何度か電話で返金を申し出たが、高松の賭けゴルフのお金は受け取るが、私の金は受け取らないのか?と言われて困り果てて、加納の会社を訪れたのだ。
立派な応接室に案内され、事務員がコーヒーを運んで来て、ようやく為吉が現れた。
「はじめまして、加納と申します」と強面の加納が名刺を差し出した。
篤彦は遠慮気味に「開発企画室課長代理の大林です」と名刺を差し出す。
「わざわざお越し頂かなくても良かったのですよ、返金の必要は全く有りません」
「そうは、言われましてもあの様な大金は受け取れません」
「賭けゴルフのお金は受け取っても、私の金は受け取れないと?」賭けゴルフを暴露するとでも言いたげな加納である。
篤彦は気が弱い性格で、お酒に走るのもその性格の裏返しかも知れない。
加納に「気分的なものですよ、高松さんが賄賂を渡した結果、仕事が高松に行くことになれば、賄賂がその要因になるでしょう。だから両方から貰えば大林さんも不公平は出来ないでしょう。」と加納の変な理屈で一方的にまくし立てられて、総ての入札が終わる迄篤彦がその金を預かることになった。
ただし、便宜はせず、入札が終われば返金するという何とも意味が分からない話となって篤彦は帰されたのだった。
結局少しの間預かる事になってしまうからよほど気が弱い。
聞いている篤彦もよく判らない理屈を論じられて、渋々納得して事務所を後にした。
「亜佐美、あの男に金を使わせてくれ」
「どうしたのですか?」
「今日返金に来た、高松の金は使ったのに」
「それは賄賂とは知らなかったのでしょう?」
「使った事に変わりはない」
「わかったわ」とは話したが亜佐美は篤彦にその様な事を要求する気は無かった。
高松興業の森本が二社の情報を教えて欲しいと連絡してきた。
篤彦は、賭けゴルフで騙した事を追求すると、警察に行くか?週刊誌に密告か?困るのはお前だと逆に脅された。
困り果てる篤彦に、さらに夕方には小山内からも「お車代、奥様喜ばれたでしょう」と笑いながら情報の提供を求められた。
篤彦は既にノイローゼのような気分になり、五時を回るとそそくさと逃げる様に(きむら)に向かった。
会いたい、誰かに聞いて貰いたいと思うが話せるのは亜佐美だけである。
篤彦は(きむら)に向かう途中で「今から、食事に出て来ませんか?」と亜佐美に電話をした。
「今、準備しているので、半時間後なら」と亜佐美の返事。
「じゃあ(きむら)に六時で」
「(きむら)は駄目なのでは?」
「そうか、じゃあ(天津)と云う中華で待っています」亜佐美は篤彦の話したいことが判っているので、場所を変えたのだ。
その篤彦の後ろを大泉が尾行していた。
大泉が篤彦に遅れて店に入ると、既に篤彦は生ビールのジョッキを口にしていた。
飲み方が荒いので、余程気分が悪いのか?と思うと同時に、四人席に一人で座っているところを見ると誰かを待っていると大泉は予想した。
篤彦は直ぐに二杯目を飲み出した。
カウンターから時々視線を送る大泉は、扉が開く度に視線を上げる篤彦を見て女性を待っていると感じた。
きっと出雲に行ったスナックのママだろうと思った大泉の勘は的中した。
肌が大きく露出した涼しそうな服装で亜佐美が入って来ると篤彦が手を上げた。
大泉の場所から二人の席は離れていたので、会話は全く聞こえない。
深刻そうな篤彦の顔だけが、大泉の方に向いている。
「困りました。三社から貰ってしまって、三社共情報の提供を求めて来ました。どうすれば?」
「お金も使っていたら返せないから、貰えば」
「情報はどの様にすれば?」
「総て教えてあげれば良いじゃない、大林さん困らないでしょう」
しばらく考えて「ガラス張りですね」と微笑んだ。
亜佐美の助言で、急に元気になった篤彦だが中々お金は使う気持ちにはなれない。
汚職の二文字が脳裏を掠めて、少なくとも加納の振り込んだお金は合法的では無いと言う思いが、篤彦の心を大きく支配していた。
数日後、そんな篤彦の気持ちを知っていたかの様な事件が起こるのだ。
「大林さん、警察から電話です」と間島玲奈が驚いた様に告げた。
篤彦は”警察”の言葉に、生唾を飲み込む程の驚きを感じた。
受話器を持つ手が震える。
「はい、大林ですが」
「実家のお母様が交通事故で、蒼井総合病院に搬送されました」
「えー」予想した事とは異なる話を聞かされ、今度は別の驚きが篤彦を襲う。
篤彦は大急ぎで蒼井総合病院に向かった。
受付で尋ねると、今手術中だと告げられそこへ向かうと、警官が二人長椅子で待っていた。
「息子さんですか?」
「はい、母は大丈夫でしょうか?」
「自転車で走行中に、乗用車に引っかけられて」
「容体は?」
「今、手術中ですが、骨折ですね、他は大丈夫だと思います」
「妻は来ていないのですか?」内心来る事は無いと思っていたが、尋ねていた。
「連絡しましたが、留守の様です」
「相手の運転手は?」
「それが、ひき逃げなのです」
「ひき逃げ!」昼間にひき逃げする程車が少ない場所?」
「お母様に状況を聞く為に待機しています」と二人の警官が言った。
しばらくして、手術室から出て来た母の紀子は「篤彦、来てくれたのかい、急に後ろから引っかけられて」とだけ話して病室に運ばれると、警官が紀子の事情聴衆を始めた。
紀子は現在一人で暮らしている。
数年前に父親の亡くなった時に、篤彦は紀子と一緒に住もうと考えたのだが、翔子の反対で出来なかったのだった。
紀子は年金生活だが、身体は元気で友人達とゲートボールをして楽しむなど、反って一人で気楽な生活をしていた。
その母親が交通事故で入院となると、忽ち生活の事が緊急の課題になるのは必定だった。
篤彦には妹明美が一人いるのだが、東京に嫁いで中々関西に帰る事は少ない。
紀子はひき逃げの車はシルバーで少し大きな車だったと言ったが、ナンバーは見ていない。咄嗟の出来事で殆ど記憶に無いと警察に報告していた。
「お母さん、何故あの様な場所に行ったの?」
「い、いや友達がいるのだよ、それより仕事大変なのだね」
「これから、入札とか色々ある。珍しいね、お母さんが仕事の話をするのは?」
「大きな仕事を任されていると聞いていたから、心配になったのだよ」
篤彦は全く気が付かなかったが、実は母紀子は息子が仕事で賄賂を貰っているのでは?と心配をしていたのだった。
濡れ手で賄賂を
実は、紀子は女性の呼び出しに応じて、事故現場に自転車で来て車に引っかけられた。
結局呼び出した女性には会っていない紀子。
そのことを篤彦に聞く訳にもいかずに、その日から約四十日の入院とリハビリになると医師から言われた紀子。
翔子はひき逃げと聞いて、入院費はどうするの?私も忙しいので病院には行く事が出来ないと篤彦に最初から釘を刺した。
「大丈夫だよ、お袋さん貯金を持っているから、入院費は自分で工面すると話していたよ」と翔子に話してしまう篤彦。
篤彦の頭には、自分の口座のお金で入院費を工面する事が描かれていた。
紀子から「ひき逃げだから、何処からも入院費出ないね、困ったね」と言われた篤彦。
「事故の保険が出るから、大丈夫だよ」
「いつの間に、そんな保険に入っていたの?」
「一人暮らしだから心配だったので、入ったのだよ」
「こんな事故に遭って使う事になって、すまないね」と紀子は篤彦に恐縮していた。
病院は、交通の便が悪い郊外にあったので、翔子は中々この病院には行けないし行く気もないが、篤彦にはそれも幸いした。
車で家族揃って見舞いに行くが、翔子も紀子も入院費の事をお互いに話に出さないので、篤彦は助かっていた。
結局篤彦は予想もしない母の事故で、加納に貰ったお金に手を出してしまった。
「亜佐美さん、母が交通事故に遭ってお金を使ったので、もう返金出来なくなりました、どうしたら?」と相談すると「もう、貰うしか方法は無くなったわね。交通事故ってひき逃げ?」
「はい、災難です」と元気が無い篤彦。
亜佐美の脳裏には、もしかして仕組まれた事故では?と疑問が生まれていた。
あの男なら殺人でもするかも知れないと、加納為吉の顔が浮かんでいた。
入札間近の夜、加納から他社のプランを教えて欲しい!との連絡が篤彦に入る。
同じ様に小山内からも全く同じ要求、高松興業の森本も全く同じ、まるで時間を測った様な三社の行動である。
加納は、亜佐美の正体を篤彦に明かさせずに各社の情報を探らせる役目をさせている。
篤彦と亜佐美の関係を継続させて、今後の二つの入札を有利に導き出そうと考えているのだ。
しかし、亜佐美は適当に情報をねつ造して、為吉に伝えている。
篤彦は、亜佐美には総ての事を話して、今後の展開と三社を手玉に取る作戦に切り替えていた。
駅前再開発の各社のプランは篤彦によって、情報を共有することとなり、各社は自分の情報を出しているとも知らずに、相手の情報を貰って対策を立てる状況になってしまった。
お互いが敵の情報に翻弄される奇妙な状況で「入札迄に修正を急げ」「社長、入札価格は幾ら位を目処に?」と各社は他社の構想を分析して、良い処は取り入れる手法に変更されて、入札の日を迎えることになった。
「大林君、これは?」
「三社共殆ど同じだ!」泉部長と小柳次長が会議室で唖然として、書類を見ている。
「私にも何がどうなって、この様な結果になったのか?全く判りません」
「大林君、最初のプレゼンの構想の良い部分を集めた様な感じだが?」
「はあ、似ていますね」と篤彦は惚ける。
「価格も殆ど同じだ」と泉部長が書類をテーブルに投げ出して、頭を抱えた。
篤彦は、誰が計画をしても情報がこれだけ漏れれば、当然他社の良い部分を採用して練り直すので各社同じになるのは当たり前だと心の中で、笑い転げていた。
「これなら、市長一任になるだろうな」
「そうですね、決めるのは市長ですね」と小柳と泉が相談をして、明日纏めて大野市長に報告に行く事になった。
早速夕方篤彦に小山内から電話があった。
「入札結果は?」
「市長一任になりました」
「何!どう言う事だ」
「甲乙が付けられないのですよ、金額もプランも」
「どう言う事なのだ!」
「判りません。私もこれから徹夜で整理をして、明日資料を持って市長に説明に行きます」
「判った、情報助かる」と言われて電話が終わった。
しばらくして森本も加納も同じ様な内容の電話を掛けて来た。
前島希はその様子を全て観察していた。
席を離れてロビーに向かう篤彦の様子を尾行しながら伺っている。
希の報告を聞いた泉部長は、木戸助役に話した。
「今夜か、明日には大きな実弾が市長に届きますよ」
「資料の作成はあの酒飲みにさせたか?」
「二人に任せました。私は網に入る二人を・・・」
木戸助役は大野市長に、入札の結果と一任の経緯を説明し、駅前再開発室の大林課長代理が明日資料を纏めて持参すると告げた。
夕方になって「大林さん、我が社が有利な様に書いてくれ、口座にはその代金を入れたからな」と加納為吉が電話をしてきた。
残業になった篤彦の仕事を不思議と前島希が手伝うと言い、大門、松井を含めた三人も篤彦と一緒に残業して資料を整理する。
「これって殆ど同じですよ」と大門が言うと希も「金額が多少違う程度ですね」
「市長どの様に選ぶのでしょうか?」と四人が雑談をしながら資料を作成していた。
丁度その頃、富田喜一の自宅では加納為吉が訪れて密談をしていた。
勿論時間をずらして、高松興業の社長も三俣の籠屋も冨田宅を交代に訪れては密談をしていたのだ。
「貴方、大変よ!自宅に届け物」と息を切らした声で翔子からの電話。
「どうしたのだ?」
「色の黒い小山内さんがケーキの箱を置いて帰ったの」
「ケーキ?」
「中は札束よ」
「何!」篤彦は慌てて部屋を出て行く!希だけが、賄賂が篤彦の自宅に届いたと感づいた。
しばらくして部屋に戻ると翔子から「貴方、今度は森本さんが・・・」と再び電話。
「言わなくても判る、帰ってからだ!」と携帯を切る篤彦。
建設会社も必死なのはわかるが、自分に貰っても何も決断は出来ないと思う篤彦。
総ては市長が決める事だと、自分に言い聞かせる篤彦は、賄賂の渦の中に完全に捲き込まれている自覚と、貰えるものは貰ってやると言う開き直りの気持ちも芽生えていた。
賄賂、賄賂、賄賂
「もう、あの酒飲み男は私の言いなりだよ」
亜佐美に為吉が次の指示をするために電話を掛けて来た。
「どうしてですか?」
「私が振り込んだお金を使っているからな」
「何故判るのですか?」
「あの男のお袋さんが交通事故で入院したからな」
「よくご存じですね」
「当然だ、私が仕掛けたからな」
「えー」と亜佐美は驚いた声を上げた。
「一度使い始めたら、もう止まらないだろう」
「そこまで、しなくても・・・」
「念には念だ」
「もう、亜佐美から要求を出して良い、駅前開発は終わったから、次の区画整理と幹線道路計画に焦点は移る。頼んだぞ」
「加納さんの手先だと本性を言うのね」
「そうだ、お前に惚れているから、後の事業はいただきだ」
電話が終わった亜佐美は、仕事の為なら人も殺すのでは?と思う程、為吉に対する嫌悪感を持ったのだった。
篤彦が自宅に戻った時は、既に日付が翌日になっていた。
「お疲れ様」と翔子が玄関で出迎えた。
「凄いわ、二百万も入っていたわ」
「両方でか?」
「違うわ、ケーキの箱」
二人は話しながらリビングに入る。
「森本は?」
「小さな物だから、何かしら?お金では無い様よ」
「小切手?」
「違うわ、小さい物よ、それよりこのお金どうするの?」
「貰っておけば!」
「大丈夫?」
「この前の小切手は?」
「置いているわ、気持ち悪いから、使えない」
「この現金は足が付かないから大丈夫だ、領収も書いてないだろう?」
「ケーキ貰って、領収書は書かないでしょう?」
「そうだな」そう話して応接台の上においてある小さな包みの開ける篤彦。
「おい、これカードだ」
「えー、クレジットカード」と言いながら驚く翔子。
「自由にお使い下さいって、メモが入っている」
「恐ろしい世界だな」と呆れる篤彦だが、使ってしまおうとも考えていた。
そう思うと恐くなるのが加納建設だった。
お風呂に入りながら、三社の内どれに決まるのだろう?市長一任だけれど、漏れた二社が怒って賄賂を世間に暴露する?色々考えると冷静では無くなる篤彦だった。
風呂から上がってビールを一挙に飲み干すと、明日の市長の決断に委ねる以外に道のない篤彦は、持ち帰った仕事が手に付かなかった。
その深夜、大野市長と富田喜一は密談をしていた。
結論は三社に振り分けて、分担で工事を発注する事で意見の一致をしていた。
今回のプランでは三社が殆ど同じで決定が出来ないのと、三社共に賄賂を貰う為に、次回の工事で引きつけようとの観点からこの苦肉の策に決めたのだ。
そうとは知らない篤彦は、一生懸命徹夜で資料を纏めていた。
篤彦は、自宅でも殆ど眠らずに何とか資料を完成させて、眠気眼で役所に向かった。
午後一番に泉部長が纏められた資料を市長に持参する予定で、いよいよ翌日が決断の日となり、今夜、関係者は眠れない夜を過ごす事になる。
昼休みに亜佐美から「大丈夫?」と心配の電話が篤彦に入り、急に元気になる篤彦。
「疲れます、また温泉に行きたいです」
「私もよ」
「秋は旅行には最適ですから、是非」
「何処か、場所決めて」その甘えた言葉にますます元気が湧く。
午後になって、予定通り泉部長が大野市長に資料を持参すると「明日、十時に発表するから」と簡単に言う大野市長。
泉部長は早速その様子を木戸助役に伝えた。
「既に市長には多額の賄賂が渡っているだろう」
「何処に決めると思いますか?」
「加納が有力だろう」
「何故です?」
「あの為吉って社長、手段を選ばない性格だから、相当大きなお土産を提供していると思う」
「尻尾を掴めますかね」
「加納も、高松も、富田の爺の処に行った様だ」
「あの爺さんが絡んでいますね」
「区画整理も幹線道路も、爺さんへの最大の貢献事業だからな」
「駅前にも沢山土地持っていますから」
「探偵も増やしたよ、黒田だけでは心許ない」
いよいよ、追い落としの準備完了の気配だ。
五島伸吾探偵事務所は主に大野市長の動向を監視していたので、富田喜一が市長の自宅を訪れた写真を木戸達に提供していた。
「この写真は、富田と市長が何かを話した重要な証拠写真になる」
「何を企んだと思いますか?」
「富田の爺さんは我々にも近づいているから、全く判らんが、自分の所有の物件が高値で売れたり、利用出来るのなら何でもすると思う」
「今回の計画は富田の爺さんの為の計画と言っても過言ではない。駅北のガラクタが集められて一等地になり、幹線道路は営業倉庫に直通、将来は海岸開発計画、駅前の土地には大きなビル、最高だろう」
「我々も恩恵には・・・」
「市長は私達の何十倍だ」と苦々しい笑みを浮かべる木戸助役。
「大林は幾ら程貰っているのだ!」
「調査によりますと、一千万は貰っていると思われます」
「先日、母親がひき逃げに遭ったと聞いたが?」
「それも怪しい事故ですね」
「相当悪い連中かも知れませんな」
「もう少し詳しく調べて、殺人でも行っていたら、大野さんも終わりだ」
「詳しく調べます」この二人の会話は遠からず的中していた。
加納は大阪で働いていた時から、暴力団の連中と関係があったので、それを使って今回のひき逃げ事故を引き起こしたのだ。
加納の黒い部分の仕事を受け持つのが荒井とその一味だ。
車も加納の名前で買わないで荒井の名義で買う周到さ、亜佐美に与えていても加納の姿が見えない様にしている。
今後区画整理で立ち退き交渉にも一役買うと、富田に恩を売る作戦だから、駅北区画整理事業は加納建設がいただけると決まった様な物。
ここは、昔からの飲食店も多く、中には癖の悪い連中も散見されて、立ち退きに難癖をつけては多額の立ち退き料とか休業補償を家主から頂戴しようと考える入居者も数多く居るのだ。
駅北区画整理事業の説明会が各町内会で開催されると、住民は意味が判らず唖然と聞いている中、建設関係の人間が紛れ込んで「町が綺麗に成れば最高だ!」「火事に成っても速やかな対応が出来る」「地価が大幅に値上がる」と数人が叫んでいる。
何も理解していない町民は、地価が上がるならと半分は納得して帰宅するのだが、地価が上がれば税金が増えるから、市の税収が増加するのだ。
住んでいる場所の地価が上昇したからと言って、売り飛ばして他方に引っ越す人は殆どいないから、住民の持つ財産を削り取って、道路、公園を整備、町を綺麗にした市長と褒め称えられる。
地価がうなぎ登りの時代はそれでも納得出来るが、長期に渡る地価の下落時には住民は自分の敷地が減少するか、減歩率に合わせてお金を徴収されるだけで、一部の人はこの騒動に紛れて儲ける訳だ。
その筆頭が富田喜一、町の役に携わる人達への便宜を受けて儲かる人は何処にでも存在する。
一般の住民は固定資産税が増税されて、将来は相続税でも苦しめられて、住みよい綺麗な町造りとは相反して、住み難い苦しい環境に無理矢理住む事を強要されるのだ。
本来なら市が買い上げて、道路でも公園でも綺麗にすれば良いのだが、予算が無いからこの法律を利用して合法的に行おうとする。
その中に悪い奴らが蠢いて、利益を得ようと画策している。
富田喜一は駅北の多くの借地の取り纏めを頼み、図面では駅北の一等地に大きな区画を与えられることが既に約束されていた。
住職夫人
翌日大野市長が、駅ビルとJRの高架工事は加納建設、駅前の商業ビルは三俣建設、再開発ビルと道路工事は高松興業と発表した。
目玉の高層の駅ビル工事が加納建設に決まると、為吉は「苦肉の策か!」と呟いた。
面白くないのが高松興業で、三分割とは形だけであり、六割は加納建設で残りを六対四で分けた形なので、一番の貧乏くじを引いたことになる。
三俣も同じく敗北を認めたものの、大手としての面子があるので、高松興業と共に次の幹線道路計画と区画整理事業に伴う工事受注に力を注ぐ事になった。
この発表と同時に駅北の正面に、富田ビルが建設されることになり、このビルの商業施設と駅が地下道で通じるようになる。
駅北の区画整理後の活性化の後押しとして、地下にもショッピング街等の建設が行なわれることが決まったのだ。
「これで駅北区画整理事業も箔が付きますな」
「すまないね、大野市長、気を遣ってくれて嬉しいよ」
「次の選挙が終われば、湾岸開発構想を打ち出しますよ」
「おお、それは嬉しい、是非頼みますよ」と発表の後、市長室から富田に電話をする大野だ。
傍目から見れば素晴らしい町の発展の様に見えるが、実情は目を覆うばかりの汚職と強欲の渦巻く醜い世界。
「素晴らしい市長さんだ。町の玄関が綺麗になって、大都市並の景観に変わる。素晴らしい市長だ」とマスコミが絶賛するが、これも裏から手を廻して書かせた記事。尾びれ背びれが付いて、やがては空を飛ぶかも知れない。
翌日正式に大手の(加賀デパート)が出店を決定したとの報道がマスコミを賑わす。
大阪以西に初の出店と大きく報道された。
「本当に出店したのだな」
「はい、私も驚きました、冗談だと思っていましたから」
「だが駅ビルから地下で繋がる駅北は高騰間違い無い」
「助役、これもあの富田の爺さんの仕業でしょうか?」
「判らんが、可能性はあるな」泉部長と木戸助役は新聞記事を見ながら疑心暗鬼の表情。
篤彦はようやく時間が出来て、母紀子の入院している病院に行くと「篤彦、お前に聞きたい事があるのだけれど」と紀子が切りだした。
何もしないでベッドに寝ていると、先日ある女性から篤彦の汚職の話で呼び出されたことを思い出し、とうとう篤彦の顔を見ると紀子は我慢の限界になったのだ。
「何?何か買って来るのかい?」
「おまえ、最近出世して課長になっただろう?」
「違うよ、代理」
「同じだろう?」
「違うよ、代理はあくまでも代理で、給料も殆ど上がっていない」
「そうなのかい、じゃあ何故代理になったのだよ」
「そこがよく判らないのだよ、土木の仕事が自分には合っていて、現場の親方と一杯飲みに行くのが一番好きだったのだけれどね」
「しかし、おまえの飲み方は異常だよ。高校で野球部の時に覚えたお酒は、どんどん量が増えたが、昔から風呂に入ると酔いが醒める不思議な身体だよ。それでも健康診断で一度も引っかからないのだから、誰に似たのだろうね」
「酒の話か?」
「違うよ、おまえ今回の仕事で何か悪い事してないだろうね」いきなり紀子に言われて驚く篤彦は「何をするのだよ、悪い事って?」と聞き返した。
すると紀子は手招きして篤彦の耳元で「お。し。ょ。く」と囁いた。
篤彦は一瞬血の気が引いたが、笑いながら「冗談は止めろよ、そんな恐ろしい事」と窓の外に目を向けてしまった。
その仕草に紀子は汚職の話は本当だと直感した。
子供の時から、嘘を言うと直ぐに後ろを向く癖を紀子は覚えていたのだ。
「ここの支払は誰が払ってくれているの?ひき逃げで犯人が逮捕されてないから、おまえかい?」
「ここの支払くらいの蓄えはあるよ」
「翔子さんがよく出したわね」と言ったが、紀子はここの支払も賄賂から払っていると直感した。
翔子が、自宅から離れているとはいえ、事故から一度しか顔を見せずにお金だけ支払う事は考えられないのだった。
自分の入院費の工面の為に、篤彦が賄賂を使っていることを思い、その夜から紀子は苦悩し続けることになった。
それとは反対に翔子は、カードは判るから使え無いが、現金の賄賂は領収書が無いので露見されないと篤彦から聞いて大喜びし、毎日上機嫌だ。
二百万の現金は人の心も変えてしまう。
九月の第二週に、またまた驚きのニュースを大野市長が発表した。
幹線道路は湾岸から高速を結ぶ南北に走る片側二車線の道路だったが、今度は東西にも幹線道路を建設して通行をスムーズにすると発表した。
富田は将来の湾岸開発を見据えて、従来から渋滞する国道の通行量の緩和も考えて大野市長に進言したのだ。
この時までは、冨田は、計画が自分の思い通りに進み、何も支障は起こらず、自分の子供善実が事業を継承する時には、富田の地盤は盤石になる筈だと思っていた。
駅北の二丁目には芳香寺と呼ばれる古いお寺が、江戸時代から町の片隅にひっそりと在った。
九月の第三週に駅北区画整理事業の説明会が、このお寺の本堂を借りて行なわれる事になった。
事前に、場所を借りる為に寺を訪れた篤彦達に住職の松谷吉司が応対した。
「場所を貸しますが、私共はこの事業は納得していません」
「はい、それをご理解頂く為の説明会です」
「このお寺は江戸時代には今の倍の広さがあり、境内には草花が咲き乱れて、神々しい匂いに檀家の方々は癒されていたので、現在の名前が付いたと聞いています、その先祖代々の墓地を移動する様な事には絶対に賛成は出来ません」と四十代の住職は強い口調で篤彦に言い放った。
その時丁度、住職の妻浅子がお茶を入れてやってきたが、その浅子の顔を見た篤彦と大門は一瞬言葉を失ってしまった。
着物姿の浅子の美しさに見とれてしまったのだ。
篤彦には、その浅子が住職とは十歳以上の年齢差がある様に見えたので、まさか妻ではないのではと思ったが、住職が浅子を紹介したので間違い無かった。
亜佐美には感じない清楚な雰囲気に篤彦は癒される気持ちがしたのだった。
住職が区画整理に反対だと言う事は、充分理解したが何とか説得して住民と一緒になって町造りを行う気持ちにさせたいと篤彦は思った。
区画整理を利用して私腹を肥やそうとしている人達、自分の財産の値打ちを上げようと画策している人達がいる事なぞ篤彦はまったく知らないのだった。
似ている若奥様
芳香寺での説明会には、賛成派の手先と思われる人が数人と、この連中とは真っ向反対する政党の数十人が集まり、お寺の本堂の広間には、役所の説明が始まる前から異様な空気が張り詰めていた。
何でも反対を唱える人民党の市会議員団を始めとして、県会議員も二名程駆け付けて住職とヒソヒソ話をしている。
ここの担当の篤彦と大門、その他役所の人間三人が登場すると一斉に賛成派の人達の拍手喝采となった。
反対の人間は憮然とした態度で睨み付けるので「これまでの説明会と雰囲気が違うぞ」と小声で囁く篤彦。
大門は、急こしらえの演台に資料を置き、市の職員が白板を用意すると説明を始めた。
反対派は何も言わないで大門の説明に耳を傾けているが、賛成派は話の区切りで拍手喝采をする異常な雰囲気を感じる篤彦。
一通りの説明が終わると、賛成派の送り込んだ連中が「これで、町が綺麗に成る!」
「私の土地の価値も上がる、早く進めてくれ!」と口々に叫んだ。
そこで、住職の松谷が立ち上がって「今大きな声で、私の土地の価値が上がると発言された方、どの区画に土地をお持ちですかな?」と問いかけたが、先ほど元気に声を上げた連中は誰一人答えられない。
「この説明会に、関係の無い方が紛れ込まれていますね。意味のない発言をされない様にして頂きたい」と住職が発言すると一気に賛成派は静かになった。
数人の住人が質問をしたが、殆どの人は無言で聞いている様子を見た住職は「役所の方々、質問が少ないのは賛成ではないのですよ、判らないから質問できないのですよ」と再び発言した。
「君たち、住民が静かだから、賛成だと勘違いしないでくれよ!」何でも反対の人民党市会議員が発言する。
「皆さん、判らない方は挙手を!」と住職が発言すると、一斉に住民の手が上がった。
篤彦が数回の説明会では見た事も無い光景がそこにはあった。
住職が「皆さん、判らない事柄は毎週土曜日にこの寺で丁寧にお教えします。次週から集まって勉強して下さい。住民の皆さんの得になる区画整理にしましょう」と呼びかけると説明会は大いに盛り上がり、篤彦達は丁重に追い返されてしまった。
「なんだ?ここの雰囲気は?」
「本当ですね、初めてですよ、この様な空気を感じたのは?」
「これは今後大変な事になるかも知れない」と市の職員達は口々に異様な雰囲気を感じながら役所に戻って行った。
土曜日の臨時出勤でもあり、役所に戻るとすっかり夜になってしまったので、篤彦は資料を自分の机に置くと直ぐに飲み屋に直行した。
肩が凝った説明会で飲まずには帰宅できない気分なのだ。
(きむら)に行くと「遅いわね、何処かで飲んで来たのですか?」と晴美の明るい声に「仕事ですよ、区画整理の説明会で」と答える。
「ああ、役所に土地を寄付する変な法律の道路整備ね」
「よく知ってるようだけど、それは誤解ですよ」
「そうでもないわ。私のお爺さんが昔騙されたと怒っていましたから、よく覚えていますわ」
店の中には数人の客が、かなり酔いが廻ったのか大きな声で話している。
そこに康三がカウンターに来て「遅いな、もうスナックの時間じゃないか?」と笑った。
篤彦は今夜の説明集会の出来事と、住職とその妻浅子の話を康三にした。
「そんなに綺麗な奥さんなのか?」と身を乗り出して聞いた康三が「芳香寺か?前の女房の実家は確か芳香寺だったな、一度法事に行ったよ。でも十年以上前だから、今の住職の父親だな」と話したところ、隣の客が口を挟んで「芳香寺の美人の奥さんの話か?」と赤い顔で言う。
「知っているの?」と康三が聞くと「おいらの家は檀家だ、よーく知っている、あの美人の奥さんは先代の住職が育てた可哀想な娘さんだ」と続けた。
「何それ?」
「あの奥さんは、お寺の境内に捨てられていたのだよ。その子を住職は可哀想に思って育てたのだよ」
「それは美談だね」と康三が言うと「今の住職と随分年齢が離れているけれど、何か訳でも?」と今度は篤彦が聞く。
「今の住職がその子に惚れてしまったのだが、そうなると養子ではあるが子供同士になってしまうから結婚が遅れたのだよ」
「あれだけ、美人なら私でも惚れるよ」
「今は美人だけれど、住職が惚れたのは奥さんが子供の時にだよ」
「えー、また早い」高校生の時に恋をしたと聞いて呆れる二人。
不思議な話を聞いて日本酒を飲み始める篤彦は、説明会にも本堂の横で椅子に座って、美しい着物姿を見せていた浅子を思い出していた。
あの綺麗な奥さんが捨て子?住職と小学生の頃から恋愛?亜佐美とは正反対の美しさを持つ浅子を思い浮かべると、篤彦は急に亜佐美に会いたくなってきた。
でも何処か二人は似ている気もする篤彦。
しばらく飲んで、ふと時計を見ると十一時を過ぎていたので、慌てて勘定を済ませて(チェリー)に向かった。
丁度ビルの下に客を見送った亜佐美が降りて来ていて、篤彦を見つけるなり「遅いわね」と嬉しそうに言うと、篤彦はその亜佐美の顔を真剣に見つめた。
「何よ、何か顔に付いているの?」と微笑む。
「ママ?姉妹は?」
「どうしたの?いきなり、何処かに私に似た人見たの?」
「まあ、そんな感じかな」
「まだ暑いわね、早く店に入ろう」と篤彦をエレベーターに押し込む。
熾烈な争い
「何だか変な雰囲気ね!」と急に笑い顔になるとビールを出して飲み始める亜佐美に、普段では見られない雰囲気を篤彦は感じた。
そこに足立が若い女性を伴って入って来て、空気が一気に変わっていつもの和やかな雰囲気になった。
二人は急に安堵感を感じて普段の会話に戻ったのだった。
翌日篤彦達は泉に昨夜の説明会の報告をすると「人民党に恰好の場所を提供してしまったか?反対派が結成されなければ良いのだが」と部長が口走ったが、その予想は的中し、その週の半ばに大野市長の大声となって表れた。
JRの駅北前に(住民無視、大企業と一部の資産家の利益の為の区画整理と駅前開発は即刻中止)(金権絡みの開発は即時中止)(市長は資産家の手先!)(幹線道路は建設会社の利益と一部の資産家の利益だ!)と大きな看板が突如掲示された。
大野市長が「あれは?私を名指しの看板だ!何とかしろ!」ともの凄い勢いで建設課にやって来たのだ。
篤彦はまだどの様な物が掲げられているのか見ていないので、大門達と取り急ぎ視察に出掛けた。
現場に着いた三人は「これは凄いですね、プラカードとは異なりますね」と言いながら
「電車からも良く見える、駅前を廻ってみよう」と更に車でその他の場所を見回った。
大門が「小さな物は前から在りました」と言う。
「あのお寺に向かえ」と篤彦が気になっている芳香寺に向かうと「代理!」と大門が指さす先には、寺の塀に沿って立て看板が乱立していた。
それを目で追った篤彦は、あの着物姿からは想像もできないトレーナー姿の浅子が、住職と一緒に看板を地面に打ち付けているのを見つけた。
「代理、震源地はここですね」と大門が言うが、その言葉が篤彦には遠くに聞こえた。
あの姿を見ると今まで以上に亜佐美に似ていたからだ。
年齢は五~六歳程若く見え、子供はまだいない様子の浅子から、篤彦は脳裏に捨て子の文字が蘇ってきて、複雑な気分になった。
「代理、このお寺から再度の説明会の希望が来ていますよ、どうします?」
「わかって貰えるまで説明するのが我々の勤めだ」と背筋を伸ばす仕草の篤彦。
「本当にこの事業で市長は私腹を肥やしているのですかね?」
「わからない」
「役所にも儲けている人が沢山いる様な気がしてきますね」と大門に言われて、びくっとする篤彦。
確かに自分を始め上層部の人は少なからず貰っている事は、小山内から聞いているから、額が問題だろう?と考えていると、自分もいつの間にか相当の金銭を貰ってしまったと急に思い出した。
母親の口座に五百万を入院費と生活費として振り込んだから・・・・・。
あっ、口座調べていない。
その後も加納建設から再び多額の金額が振り込まれているのでは?と考えていると「代理、もう帰りますか?」の声に我に返る。
「そ、そうだな、一応部長に報告しておこう」
帰る途中で「近所のコンビニで、降ろしてくれ、歩いて帰る」と急に口座が気になりだした篤彦。
コンビニのATMで残高確認した篤彦は、表示された金額に愕然とする。
全く変化が無いのだ。
確かにお袋の口座に五百万金したよな、間違い無い!間違い無い!と念仏の様に言いながらコンビニから歩いて役所に戻る篤彦。
早速パソコンを開いて入出金を確かめようとした時「課長代理、これどうしましょう?」と希がのぞき込む様にパソコンを見ている。
篤彦は慌てて閉じて「どうしたのだ?」と尋ねたが、聞かなくても判る様な事を態々聞きに来るので怪しまれていることが判った。
これはみんなに見られていると思い始めると、銀行のページを二度と開く事が出来なくなってしまった。
希は早速、泉部長に「あれは確かにネット銀行のページを開いていました」と報告した。
「何故判るのだ?」
「帰って来た時、コンビニで降ろして貰ったと言っていました。そして小声で間違い無いと繰り返し独り言を言っていましたから、推測ですがコンビニで口座の金額を見て驚き、会社に帰って何処から幾ら入金されたかを確かめたかったと思います」と自慢の様に話す。
「どのくらいの金額だと思う?」
「何百万単位だと思います」
「実弾攻撃が大きくなったと言う事だな」泉は早速木戸のところに向かった。
だがこの入金は少し前のことで、加納は母親の見舞金だと考えての入金だった。
高松興業も三俣も今度は一歩も引く事はなかった。
勝った筈の加納建設も三分割に機嫌は悪く、この後の工事は総て頂く!の気構えを見せていたのだ。
そのころ大野市長と富田喜一は富田の自宅で作戦会議の真最中。
それは例の看板問題だ。
「調査によりますと、二丁目の芳香寺の住職が先頭に立って、人民党の連中が一緒になって後押しをしている様です」
「寺の住職か、何処かの坊さん大学を出た跡取り男だろう」
「それが違う様です。東京の国立大学を出たインテリの様です」
「頭が良いのか、それは困りものだな。対策は?」
「役所としましては、何も出来ない状況でして」
「わかった、対策を考えよう。大野君も対策を考えてくれないと前に進まない」と二人は区画整理事業に思わぬアクシデントの発生だと考えて、双方で緊急に対策を考える事になった。
その日の夜、加納の自宅に富田が芳香寺の一件の連絡をして、借りを作る事になった。
それは、加納の暴力団との付き合いを以前から知っていたので、それを利用して、裏から脅して反対派を解散させてしまおうとの企みだった。
だがこの暴力団も人民党の連中には手を焼いているのが現状で、この時はまだ加納の耳には芳香寺の反対派の実体が入っておらず、正確には把握してなかった。
「富田さん、持ちつ持たれつですよ、頼みますよ」と加納。
「駅前は君の処が一番だっただろう?」
「三分割は駄目ですよ、独占でなければ。富田さんの為の工事ですから」
「判った、坊主は頼むよ」
「はい、昔の知り合いに頼んでおきます」
冨田はこの時一番頼りになるのは加納建設だと思っていた。
三俣建設の小山内も翌日富田に面談を求めると、三俣の名前がこれでは地に落ちます、次回の入札には是非とも我が社をお願いしますと言って、大金を置いて帰った。
同じく高松興業も大野市長に、是非高松興業を推挙願いたいと同じく賄賂を持参していた。
どちらも成功報酬は別に用意されている。
勿論全て工事費に上乗せに成るので、市民の税金が使われるのだ。
浅子は捨て子
「看板には市長も慌てていたでしょう?」
「人民党の皆さんのお陰で、効果が出ました、市長の面子はまる潰れですね」と芳香寺の応接でお茶を飲みながら住職と人民党市会議員団のリーダー金子は、嬉しそうに話している。
「裏の調査は進んでいますか?」
「関西支部からその道のベテランに来て頂いて、調べ始めています。資金の流れも次第に解明されるでしょう」
「特に駅北の異常な仮換地図に私は大きな疑問を持っています」
「判ります、富田喜一の存在でしょう?」
「三箇所の事業統べてが、富田の有益になっている様に感じるのですが?」
「兎に角、富田がこの町の主要な土地を持っている事は事実ですから、ある程度は仕方がないのですが、裏に賄賂、利権が渦巻いているのを解明すれば、一気にこの事業を潰せます。頑張りましょう」
そこに浅子がコーヒーを運んできた。
コーヒーを差し出された金子が「すみません。それにしても羨ましい。ご住職の奥様は若くて美しい」と褒め称えると浅子は微笑んだ。
住職が「干支が同じなのですよ」と話す。
「それでは十二歳も違うのですか?」
「長い間一緒に住んで居ますので、親子の様な兄妹の様な関係の夫婦ですよ」と笑う住職。
数十年前、中学生の吉司(元住職)が学校に行こうと門に向かった時、赤ん坊の泣き声がしたのでよく見ると、門の裏に置かれた籠の中に赤ん坊がいたのだ。
吉司はその産着の赤ん坊(浅子)を抱き抱えて家に戻り「親父、門の裏にこの子が・・・」と台所の扉を開いた。
そこにいた母の富子が「どうしたの?その子は?」と驚いたように言った。
「扉の裏に、籠に入れられて泣いていたのだよ。これが一緒に入っていた」と吉司が手紙を差し出した。
富子は手紙を手に取って読むと吉司に「しばらく預かって欲しいと書いて有るよ、生活が楽になったら必ず引き取りに来るらしい、その子の名前はあさこちゃんだって」と手紙の内容を伝えた。
「どうするの?」
「お父さんに聞いて見るけれど、多分檀家の何方かだろうね。お父さんは優しいからしばらく預かる事になるだろうね。檀家の何方か判らないけれどね」
これが吉司と浅子の最初の出会いである。
その後何年過ぎても浅子の親は迎えに来ないし、手掛かりは手紙に書いてあった母親の名前があきこと言う事だけだった。
浅子が段々と成長してますます可愛くなると両親も吉司も浅子を手放せなくなって、実子として育てる事にした。
父吉正も後々になってこのことを浅子が知ると余計に苦しむと考え、物心が付いた頃には事情を浅子に話して理解をさせていた。
だが、吉正は、吉司が高校三年生の時に、浅子が好きだと告白されて、驚くとともに予想しない状況になってしまったと悩んだのだった。
相手は小学生、それも入学したばかりの低学年の浅子を息子が好きになったと言う。
吉正は、浅子が理解が出来る年頃になってから考えることにしようとは吉司を東京の大学に追い出したが、夏休みとか長期の休みに入ると直ぐに帰って来て、浅子と遊ぶ息子に両親は呆れるのだった。
何処の誰とも判らない捨て子を将来嫁に貰っても良いのだろうか?由緒有る芳香寺の歴史に傷が付かないだろうか?と可愛い浅子を捨てられる筈も無い吉正の苦悩は長年に渡って続いた。
当の浅子は吉司の告白を知らないが、知ったとしても理解出来る年齢ではない。
両親は檀家の名前を端から調べて、あきこを探して何とか身元だけでも判ればと時間の許す限り調査をしたが、判らなかった。
吉司が大学を卒業して戻って来た時も、浅子はまだ小学生だった。
吉司は坊主の修行と浅子の勉強を教える先生をしたので、浅子の成績はどんどん上がって行った。
吉司と浅子は、歳の離れた仲の良い兄妹だと檀家の中でも有名になっていた。
やがて浅子が捨て子だと知っている人も少なくなり、そのうちに誰も口にしなくなった。
中学、高校と成長する度に美しくなっていく浅子を、目を細めて見守る吉司だが、浅子には自分の気持ちをなかなか告白出来ないでいた。
しかし、両親は既に吉司の気持ちは浅子が知っていて毎日を過ごしていると思っていた。
父は吉司に「結婚が決まる迄は一線を越えるな、お前達は兄妹なのだから、結婚出来ると決まってから自由にしなさい」と教えていた。
成績も良い浅子は、その後大学に進学することになった。
育てて貰った手前中々大学に行かせて欲しいとは自分から言えない浅子の気持ちを吉司が代弁してくれたのだ。
そんなことがあり、浅子も吉司に好意を持ち始めるようになった。
それでもなかなか自分の気持ちを伝えられない吉司である。
吉司が始めて浅子に気持ちを伝えたのは、病に倒れて明日も判らない吉正の病室のベッドで、父が「吉司、お前は浅子さんと結婚したいのだろう?」と浅子もいる前で言われたのがきかっけだった。
この時初めて吉司の気持ちを知った浅子となかなか言い出せなかった吉司。
二人の結婚を待たずに肺がんで父吉正はこの世を去った。
母富子もまるで父の後を追うように、心臓病でこの世を去った。
結局二人の喪が明けるまで結婚が延期されて、昨年ようやく二人は晴れて結婚をした。
浅子の両親も親戚もいないので、友人達だけの祝福を受けたささやかな結婚式だった。
吉司はその後、浅子の身元調査の資料を見つけたが、流石に浅子には見せずに蔵の奥に封印したのだ。
富田の監視を続ける五島伸吾から木戸助役宛てに、富田の面談した人間のリストと時間が届いたので、木戸助役と長田課長は泉部長を交えて状況判断を進めていた。
その中で、区画整理事業の反対派に芳香寺の住職の存在が大きくなった事が記されていた。
「この坊主は使えそうですな」
「富田と大野は相当困っている様子だ」
「この坊主達に情報を流すのは如何でしょう?」
「富田から大野市長への賄賂の実体を?」
「人民党に流すのは少し腹が立つし、今後助役が市長になられた時に力を持っていると困りますよね」
「地元のテレビ局を取材に行かせるか?」
「今後の町の発展を反対する理由の名目で取材させては?」
「スクープ記事を書く雑誌社にも目星は付けていたよね」
「はい、週刊誌を二社程」
「では地元テレビに寺の取材、週刊誌に小ネタを出して、呼び寄せてスクープ記事を書かせて、この町を全国規模で注目させるか?」
「面白くなって来たな」
長田課長、泉部長、木戸助役は自分達の計画が予定通りに運んでいると喜んでいる。
「大野派の名前と人数の把握、今後その連中は出世レースから外すから、リストを作成しておいてくれ」
「はい」
長田課長が大野市長派と呼ばれている人員のリストの制作に取りかかった。
木戸は自分が市長に当選してから、この三事業は行う、何処かの建設会社には大野市長と心中して貰わなければ、最終的な始末は出来ないと考えている。
今一番の候補は高松興業だと目論んでいる。
理由は、一番の候補と思われる加納建設は相当な賄賂を出す気配を感じるのと、富田の爺さんとの繋がりが強いので失敗すると思われることであった。
正しい町造りを推進する会
地元のケーブルテレビ局に一通の投書が舞い込んだが、その数日後「駅前の反対派の看板は芳香寺の住職を中心としたメンバーで、重大な反対理由を掴んでいるらしい」とチーフデレクターの安井が投書を読んで叫んだ。
「それって、役所の幹部の汚職ですかね?」駒井が逆に安井に尋ねる。
「市役所には世話になっている身分だから、迂闊な取材は出来ないな」
「ケーブルですからね」
安井は自分の後輩の勤める関西のテレビ局に、情報を提供して取材させる方法を考えた。
報道機関として自ら取材をしたいが、大野市長に直接被害が出る事は報道出来ないという安井のジレンマが、関西のNVSテレビの加瀬の元への連絡になったのだ。
加瀬は安井を尊敬しているので、この申し出を快く受諾して独自で取材を行うと言った。
一方、東京の週刊誌クローズの編集部にも投書が届いて「これって大阪の近くの町よね」と町田綾音が隣の窪田真希に尋ねる。
「そうよ、今PCで調べた。一度も行った事無いわ、近くに有馬温泉、UFJ」
「良いわね、デスクに話してみるかな」
週刊クローズは政治、経済、芸能、スポーツと何でも取材して記事にするスクープ専門の週刊誌である為、全国から沢山の投書が毎日山の様に届く。
しかし取材の許可が下りるのはその中の数パーセントで、記事になるのはそのまた十分の一だ。
綾音と真希は最近コンビを組んで、ヒット記事を連発していた。
この投書が綾音の目に止まったのが幸いだったのか?不幸だったのか?編集長は最近の二人の記事にヒットが多かったので取材を許可したのだ。
木戸と泉の思惑は的中し、月末にテレビ局と週刊誌の取材が始まったのだった。
テレビは早速駅前の看板を撮影して、反対派と推進派の存在を画面に映し出して、今後の進捗を長いスパンで取り上げる番組として簡単に紹介をした。
区画整理はその地域に土地を持っている人達が対象で、賃貸で入居している人には直接の被害は生じないので、簡単に「町が綺麗になって、生活が便利になる事はとても良いと思います」と答える。
綾音と真希はテレビが伝えない物を探して、記事にしなければ読者に受けない。
駅前のビジネスホテルに一週間の予定で宿泊先を決めると、二人は早速掘り下げた記事を書こうと役所の人達が集まりそうな場所を探した。
大野市長が「テレビに出ていたな、例の看板と開発の件が」と木戸助役に尋ねる。
「そうですか?知りません」
「確か大阪のNVSテレビだった、ここには取材の申し込みは無かったのか?」
「聞いておりませんが、良くない放送でしたか?」
「一部の住民の反対を押し切って、行われるのが正しいのか?とか曖昧な内容だった」
「市長で有名になられると今後は国政に行かれるのもよろしいかと」
「国会議員か、木戸君も煽てるのが巧いな」
「まだ五十代ですから、お若いですよ。この事業を成功させて有名になられれば可能性は充分ありますよ」
「そうなれば、後継は君だね」
「市長は民政党と交際が太いので、後一押しですよ」
「そうか、有名か、有名な」と独り言を言いながら窓の外の風景に目を向けた大野市長は「おい!あれは何だ?」と突然窓の外を指さした。
慌てて窓に近づく木戸の目に大きな幕(金権腐敗の市長は退陣せよ)が見えた。
(一部の地主の為の区画整理は即刻中止)と書かれている。
「許可したのか?」と大きな声で木戸に言うと、木戸助役は「直ぐに調べて来ます」と慌てて出て行った。
市役所の広場には五十人程の人達が集まって、これから駅前に向かって歩く様だ。
しばらくして「市長、デモの届けが出ている様です」と木戸が大きな声で駆け込んできた。
「主催は何処だ」
「(正しい町造りを推進する会)です、代表は松谷吉司と書いてあります」
「誰だ、聞かない名前だな」と大野が言ったが木戸はその時直ぐに、芳香寺の住職だと気づいたが「誰でしょう?調べさせます」と市長室を後にすると泉部長に「早く、テレビ局と雑誌社に連絡して、デモを取材させろ」と語気を荒めた。
テレビ局は直ぐには対応出来ないとの返事だったが、雑誌社は現地に取材に入っていますので連絡をしますと返事が返って来た。
「探偵に撮影させて、持ち込め。絶好の機会だ」と興奮の木戸助役。
連絡を受けた黒田と大泉が早速ビデオカメラを片手に、デモの行列に追いついたのは、その十五分後だった。
市長室には大野市長の腹心の新田部長、足立次長、元岡次長等が集まった。
「急に騒がしくなって困るよ」
「しかし、テレビにも取り上げられて、注目されるのも悪くはないですよ。市長の論理が認められれば大きな功績なりますから」
「そうです、区画整理も駅前開発も幹線道路も町の発展には欠かせない事柄ですから」
「特に駅北の戦前からの、老朽化した家屋を綺麗にやり直すのは、美観、消防の面からは今やらねば駄目でしょう」と大野市長を持ち上げる。
駅前に行進するプラカードと横断幕を持った人数は、行進を進める度に人数を増やして、警察官の誘導に沿って「住民不在の、区画整理と駅前開発は即時中止」「一部の資産家の為の区画整理は止めろ」と大きな声を上げながら行進をしている。
その行進の中に、いつの間にか綾音と真希も一緒に潜り込んで、意味も判らずに叫んでいた。
「みなさん、駅前で終わりましたら、お寺にお集まり下さい。今後の運動の日程とコーヒーを用意しています」と綺麗な女性が最高に大きな声を出してみんなに告げた。
「今の綺麗な女性は?」と綾音が尋ねると隣の初老の女性が「知らないの?芳香寺の若奥様よ、綺麗な人でしょう?」と教えてくれた。
「ですね」と答える綾音は、この人は絵になる、決まりだわと心で叫んでいた。
年齢はそれほど変わらないので、彼女に共感を持てるのと雑誌は美しさも哀れさも必要だと綾音は思っているのだ。
あの女性にもうひとつ何か?読者に訴える何かがあれば、今回も頂だと思いながら真希に、浅子の写真を撮影しておく様に指示をする綾音。
二人はこれまで絶妙のコンビでスクープを沢山獲得してきたのだ。
しばらくして駅に到着した一行の前で、住職の松谷吉司がハンドマイクを片手に演説を始める。
説法は得意技の松谷住職は道行く人の足を止めて、聞き入らせる。
二人の記者もこの住職が語っている事が本当なら、この三事業は住民無視の事業になると思った。
演説の側に立つ住職の妻浅子の美貌とスタイルに見とれる人達。
加納建設に頼まれた暴力団数名が遠くからこの様子を見ていた。
美人姉妹なの?
篤彦と大門も遅れてこの演説を聴く為に、群衆の中にやって来たが、一番先に目に入ったのは浅子の姿だった。
「似ている」と独り言を言う篤彦に「誰が?似ているのですか?」と大門が聞くと「何でも無い」と急に我に返る篤彦。
しばらくして集会は解散になり、集会に参加した人々は芳香寺に向かったが、中にはそのまま自宅に帰る人もいて、三十人程度が芳香寺に到着した。
綾音は「あの奥様綺麗な方ですね、最近結婚されたのですか?」と寺の境内に入った所で隣の女性に尋ねた。
「浅子さん?産まれた時からここの人よ」
「結婚で嫁いで来られたのでしょう?でも住職とは随分歳が離れていますよね」
「あの奥様はこのお寺に捨てられていたのよ」と隣の初老の女性が綾音に教えた。
「えー、捨て子?」綾音には最高のお膳立てが見つかったのだ。
その日の夜に、綾音は編集長に最高の記事が出来そうですと伝えて原稿に着手した。
(妙齢の美女、隠された過去を背負って行政と戦う)と表題を決めている綾音。
「少し老けていませんか?」と表題を見た真希が茶化すと「このフレーズが良いのよ」
「でも妙齢って二十歳前の美しい女性の事でしょう?」
「いいのよ、読者を引きつけなければ駄目だから」
「それより勝ち目はあるのですか?反対派」
「私の感だと、そろそろ投書の主が次のネタをだしてくれるわよ」と綾音が笑った。
夕方になって「それより、飲みに行きましょう」
「そうね、聞き込み開始ね。居酒屋が良いわね」と二人は夕食を兼ねて駅前の路地に向かった。
「あの服、役所の服じゃ?」と真希が向こうから歩いてくる篤彦を見て言うと「同じ店に行きましょう」と篤彦に付いて(きむら)に入って行く二人。
綾音は図々しく、篤彦の横に腰掛けると「ここなら、料理が良く見えるわ」と言いながらカウンターの料理に目を移しながら、篤彦の観察をしている。
「いらっしゃい、はじめてね」と晴美が二人に声をかけると「はい、東京から来ました」と三十代半ばの綾音と三十過ぎの真希は明るく答える。
「何が美味しいのですか?」と尋ねると篤彦が「みんな美味しいですよ」と横から答える。
「このお客様はこの店の主の様な方ですから」と微笑む晴美。
篤彦が役所の建設関係だと服装で直ぐに判った二人は、これは取材のチャンスとばかりに積極的に直ぐに話に入る。
隣の篤彦が今回の騒動の中心人物だとは知る筈も無い二人は、何か情報は無いものかと「今日昼間駅前でデモをしていましたね。いきなりだったので驚きました」と話を振る。
「やあーあの時来られたら、驚かれますね」
「はい、でもお坊さんでしょうか?お話上手でしたね」と綾音が言うと「綺麗な女性の方がリーダーの一人なのですね」と真希が尽かさず口を挟む。
「あの女性は住職の奥様ですよ」
「随分お歳が離れている様に見えました」
「実は私も最近聞きました」と言う篤彦。
「集会の話は本当なのですか?」
「そんな事ありませんよ。役所は一部の資産家が有利になる様な事はしません」
「でもあの話も満更出鱈目では無い様に聞こえましたが」
「駅の北をご覧になったでしょう?戦前からの住宅が沢山在って景観も悪いし、火事とか地震の緊急時が発生すれば大混乱するのは必至でしょう」
「それは理解出来ますが、あの住職さんが訴えられた通り、一部の人が利益を得るのは良くないと思います」そう言われて篤彦も、もしかして自分もその片棒を担いでいる?とふと考えた。
その時、入り口から亜佐美が入って来て「お待たせ」と篤彦に言う。
綾音と真希は、亜佐美の顔を見て、飲み屋のママさんと同伴か?結構な身分だと唖然とした。
亜佐美がここに来るのは二度目だ。
篤彦と亜佐美はカウンターから奥のテーブルに移ってしまったので、二人は話が途切れたが亜佐美を見て話す。
「似ているね」
「うん、化粧を濃くして老けたら」
「何故?」
「親戚?姉妹?」
「世の中には自分に似た人が三人いるらしいから」
「これで、姉妹だったら大変な記事が出来上がるわ」と言うと早速綾音は晴美に、亜佐美の店を聞き出した。
「後で行こうか?」
「綾音さんは納得するまで調べる人だからね、お供致します」と真希が言うと、二人は飲むより食べる方に集中した。
しばらくして篤彦と亜佐美は店を出て行った。
この二人は秋の旅行の段取りを話し会っていたのだ。
篤彦の心が休まる亜佐美との時間は僅かなものになっていた。
役所では来月から増員を予定する程次々と仕事が増えていたのである。
駅前再開発に伴う立ち退き交渉が、来月から本格的に始まり、来年になれば今度は幹線道路用地の買収作業も始まるのだ。
区画整理も駅前再開発も反対派の勢力が日に日に増大しているのが、手に取るようにわかった。
それは、人民党が本部から専門家を呼んで町の各地で勉強会を始めたので、住民に知識が備わってきた事も大きいのだ。
加納の雇った暴力団も人民党との直接対決は避けている。
知的集団に暴力は負けてしまうから、迂闊に手を出せない状況なのだ。
見かねた富田は加納に、反対勢力が一向に沈静化せず、逆にどんどん膨張していると苦言を呈した。
民政党の幹部もテレビ報道を見て人民党の行動には、手を焼く時も度々あるので事態を注視し始めた。
大野市長には逆風が強くなりつつあった。
二度目の説明会に芳香寺に行った篤彦達は、以前とは全く異なる熱気とその参加人数に驚いた。
次々と飛ぶ質問に対して、答えに苦悩する篤彦達。
特に駅前の一等地に富田喜一の土地が何故綺麗な角地で、それも大きな区画で在るのか?という事に質問が集中した。
お金を足されて大きな区画を取得されたと聞いておりますと答えるのが、精一杯の篤彦に「それでは何故?優先に富田さんが購入出来たのですか?」と澄み切った声が本堂に響いた。
浅子が発言したのだ!一度も発言していなかった浅子の声に本堂が静まり返る。
「そこの、経緯は私も把握していません」と汗を拭きながら答える大門。
その様子を携帯のカメラとボイスレコーダーで収録する綾音。
緊迫の場面に篤彦は背中に冷たい汗を感じていた。
眠れない夜
「あの質問には驚きましたね」説明会を終わって帰ろうとしている大門が篤彦に話した。
その時浅子が「主人が、個別にお話がしたいので宅の方にお越し頂けませんか?」と先程の凜とした態度とは様変わりで優しい声をかけて来た。
「は、はい」と答える篤彦、近くで見る浅子は益々亜佐美に似て見える。
「ご案内します」と言うと本堂から、暗くなった通路を通って自宅の応接間に篤彦と大門を招き入れた。
「代理、私、今夜九時には帰らないと・・・。今夜は結婚記念日で」と大門がそわそわして言いだした。
篤彦は自分にもその様な時間が有ったのか?と遠い昔を思い出したが、お見合い結婚の篤彦には、恋愛を翔子とした記憶が無かった。
「大門、帰れよ、一年か?」
「はい」と嬉しそうにお辞儀をして、急いで出て行く大門。
入れ替わりにコーヒーを二つお盆に載せて入って来る浅子が「お連れの方は?」と尋ねられ、
「彼、今日結婚記念日なので帰らせました」と篤彦が答えた。
「そうなのですか?結婚記念日でしたか?」と微笑む浅子。
「もう少しお待ち下さい。住民の方の質問に捕まってしまった様で」とコーヒーをテーブルに置く浅子に「似ている」と独り言の様に言う篤彦。
「何が?でしょう?」
「私の知り合いに、奥様がよく似ていらっしゃいますので」
「そうなのですね、その方はお幾つ位の方でしょうか?」
「三十歳過ぎだと思います」
「この辺りの方ですか?」
「いいえ、大阪だと聞いております」
「そうですか、大阪ですか」と落胆の表情を見せる浅子に、篤彦はこの浅子も口には出さないが両親、肉親を捜しているのだと感じた。
「ご兄弟は?」知ってはいたが篤彦は意地悪な質問をしてみた。
「判りません・・・」と言うとそのまま部屋を出て行った浅子の後ろ姿に、悲しさと寂しさを見た篤彦だった。
しばらくして「お待たせしました」と住職が応接に入って来て「大林さん、単刀直入に聞きますが、説明会でも妻がお聞きした富田喜一さんの土地購入の件を調べて頂きたいのですよ」と言い放った。
それを聞いた篤彦は「えー!」と驚いた。
反対派から推進派の情報の提供を求められたのだ。
「大林さんも不思議だと思っていらっしゃるでしょう?」
「はあ、いえ」と見透かされたと思う篤彦。
「貴方の立場上、難しいのは判っていますが、何か釈然としないのはお判りでしょう」
「はい」と返事をしてしまう。
「じゃあ、こうしましょう。貴方が真実を知っても報告は頂きません。大林さん自身が真実を知れば良い事にしましょう」と言った後、南無阿弥陀仏と唱えて住職は部屋を出て行った。
入れ替わりに「お待ち頂きましたのに、変な話しですみません」と浅子が入って来た。
篤彦は「いえ」と言いながら残ったコーヒーを飲み干して「それでは、失礼します」と部屋を出ようとすると「あの、先程の私によく似た方のお名前とか住所判りますか?」と尋ねられて、自分の想像が的中している事を確信した。
「駅前のスナックビルの(チェリー)と言う名前の店のママさんです」
「スナックのママさんですか」と失望の顔を見せる浅子に「名前は確か加山亜佐美さんです」
「亜佐美さん、それは本名ですか?」
「多分間違い無いと思いますよ」
「亜佐美さん、亜佐美さん」と二度程独り言の様に言う浅子。
篤彦はそれ以上の事を話せなかった。
亜佐美には姉妹も両親もいない事を、話してしまうと、浅子の微かな希望を消してしまう様で控えたのだ。
芳香寺を後にして自宅に向かって歩く篤彦の頬を、芳香寺の土塀を伝って秋の夜風が撫でていた。
篤彦は、浅子にも肉親が見つかれば良いがと思うが、三十年の歳月は長いと感じた。
篤彦自身も区画整理で、富田喜一の土地が余りにも良い立地になっている事、すなわち小さな土地を多数集めて駅北の好立地に変わり、地下街で繋がる事実を知っているのだ。
その事まであの住職は知っているのだろうか?駅ビルのデパート加賀と地下街で結ばれて、自動的に富田ビルの入居条件は格段と上がる。
あの住職が言う様に一度調べてみるかな?篤彦は自分の仕事とは真逆の調査を始める事にしたのだ。
「あの役所の人、富田の事調べるでしょうか?」と浅子が住職に尋ねると、動揺していることを見透かされたように住職から「あの男に何か聞かれたのか?」と聞かれてしまった。
「実は私によく似た人を知っていると話していました」
「浅子に似た女性?」
「はい、私より少し年上でスナックのママさんらしいです」
「スナックのママか?」
「でも生まれは大阪だそうです。駅前のスナックビルの(チェリー)と言う店だと教えてくれました」
「お姉さん?と思っているのか?」
「いいえ、急に似ていると言われて動揺しただけです」
「実は私も調べ、親父も色々調べたらしいが、判らなかった」
「いいのです。私が急に言われて動揺しただけですから、大阪の水商売の方は考えられません」と否定をする浅子。
しかし、床に着くと浅子、亜佐美、浅子、亜佐美と繰り返し脳裏に浮かぶ二つの名前にあきこ?お母さん?浅子は眠れない夜を過ごす。
同じ事を探っていたのが綾音と真希の二人。
「この二人が生き別れの姉妹だったら、絵になるわね」
「綾音さん自分の取材に酔っていませんか?」
「まあ、その気分もあるわね、でも第一弾は先日のタイトルで行くわ」
「推測で書いて大丈夫なの?文章は最初が肝心なのよ、読者が引きつけられないと買ってくれない」
「綾音さんとしては、今後の展開は?」
「そうね、生き別れの美人姉妹が推進派と反対派に別れて戦うのよ」
「でもスナックのママよ、この争いには関係無いわね」
「そこよ、何か関係が?」
「あの大林とか言う役所の男の彼女だったら?」
「それ行けるね!真希冴えているわね」
二人は勝手な筋書きを作って楽しみながら仕事をしている。
今夜も(きむら)に行って情報の収集を考えていた。
「来ているよ」
「ほんとだわ」と暖簾をくぐると目に入った篤彦の姿に、半分安心した様な二人。
そこに二人を押しのける様に、数人の団体が入って来た。
「いらっしゃい」と中からその顔を見て康三が声をかけた。
「久しぶり、忙しくて今夜は後輩を連れて来ました、それとこれお土産」と包みを差し出した。
「富田さん、いつも、いつもすみません」と会釈をしながら受け取る康三の姿に、二人は説明会であがった富田を思い出して、まさかこの人?とカウンターに座りながら、その男の顔をしっかりと見ていた。
父は交通事故死
それを見ていた篤彦が二人を見つけて「違いますよ」と声をかける。
「あっ、こんばんは」と会釈をしながら篤彦の隣の席に腰を降ろす二人に「君たち何者?よく合うね」と尋ねた。
するとカウンターから「この人達東京の人だよ」と康三が言う。
しまったと言う顔の二人に「でも先日、芳香寺で見かけたよね」怪訝な顔の篤彦。
二人は「は、はい」と返事をしなければならなくなった。
「実は、探偵社の者です」と咄嗟に言いだした綾音に驚きの表情の真希。
もっと驚いたのは本職の黒田で、声がギリギリ聞こえる場所で飲んでいて、同業?と顔を上げた。
「その探偵さんが何を調べているの?」
「実は女の子です」その言葉に真希はもっと驚いた顔になる。
「三十年程前に捨てた子供を、捜しているご婦人がいらっしゃいまして」
「えー、捨て子」今度は篤彦が飲みかけのビールのグラスをカウンターに置き直して、聞き入る。
それで芳香寺にいたのか?と勝手に解釈した篤彦が「見つかったの?」と聞く。
「姉妹を探しているのです」
「姉妹ね、じゃあ三十歳位の女性だね」とは言ったが、亜佐美は年が違うので関係が無いとすると、浅子さんが候補か?
「お金持ちのお母さん?」
「は、はい」と曖昧な返事の綾音に「これ以上は個人情報で教えられません」と横から真希が助け船を出した。
しばらく一緒に飲んでから「大林さん、スナックに連れて行ってよ」と綾音が言い出すと「行こう」と篤彦は立ち上がった。
篤彦は二人に亜佐美を見せて、その反応を見たい気持ちもあったので連れて行こうと思ったのだ。
奥のテーブルで後輩と大きな声で楽しそうに飲んでいる富田を横目で見ながら店を出ると、篤彦は二人を伴って(チェリー)に向かった。
「あの奥のテーブルで飲んでいた富田って人は、あの説明会で話題になった冨田喜一の息子さんだよ」と教える篤彦。
「じゃあ、大金持ちのおぼっちゃま」
「そう、でも本人も地元の信用金庫の部長職だからな」
「中々なのね」
「彼は人受けが良いから、好かれているらしい」と評論をしていると、三人はスナックビルの前に到着した。
そこに「こんばんは、お久しぶり」と前から歩いてきた金沢守一が会釈をしてきた。
「最近会いませんね」と挨拶を返したが、守一は「体調が悪くて」と言うとそのまま行ってしまった。
自分が嘘の話を流して(チェリー)を追い出した事が篤彦の頭を過った。
その(チェリー)に入るとママが一人でお客も一人だった。
「いらっしゃい」
「須美子さんは?」
「子供さんの具合が悪くて。今夜は美人連れですか?」と二人を見て微笑む亜佐美。
「この二人は恐い、恐い探偵さん」
「えー、探偵さんが何故?大林さんと?」
「(きむら)で会ったのだよ。東京から人探しに来られているのだよ」
「まあ、遠くから大変ね」とおしぼりを手渡す亜佐美。
今までいた客が「お後が入らしたので退散」と入れ替わりに帰るのを亜佐美が見送って行った。
「本当に似ているわね」
「そうね」と綾音と真希が話す。
「でしょう、私もよく似ていると思いますよ」と篤彦が言う。
そこに戻って来た亜佐美が「何が似ているって?」と口を挟む。
「芳香寺の奥様とママがよく似ていると」
「芳香寺ってお寺?」
「ママは妹さんいないの?」
「昔はいたらしいけれど、小さい時に病気で亡くなったって聞いたわ。殆ど記憶は無いけれど、それが何か?」
「いえ、余りにも似ていらっしゃるので、もしかしてと」と綾音が言うと篤彦が「大金持ちの奥様が姉妹を捜していらっしゃるらしいよ」と言った。
「そうなの、世の中にはお金持ちでも子供を捨てるのね」
「失礼ですけれど、ママのお母様は?」
「もう随分前に亡くなりました。苦労をして私を育ててくれましたが、病気でもう十年になるかな」と遠い昔を思い出す様に話す亜佐美は寂しそうな雰囲気だ。
「お母様のお名前教えて頂けませんか?」
「亜紀子と言いますが?話が、湿っぽいですよ、飲んで」と焼酎の水割りを作り始める亜佐美。
篤彦と綾音たち三人は、妹がいたが子供の時に亡くなったのなら、残念ながら他人の空似だったかと思っていた時「その芳香寺の奥様って、幾つなの?」と亜佐美が急に聞きだした。
「ママさんよりも四~五歳若いかな?」
「何故?私と姉妹かと聞いたの?」
「実は奥様捨て子なのですよ」と篤彦が答える。
「捨て子、捨て子なの?」と考え込む亜佐美。
「どうしたの?」と尋ねる篤彦に「何でも無いわ、さあ飲んで」とグラスを各自の前に並べる。
「乾杯」と綾音が言うと「何に乾杯?」と篤彦。
「そうだ、早く探し人が見つかります様に」と三人がグラスを合わせる。
翌日から篤彦は時間が出来ると、密かに区画整理の仮換地の経緯を調べ始めた。
今月末には幹線道路の入札が決まって、年末にはいよいよ区画整理事業が入札される。
あの住職が言う様に富田喜一が優遇された事実が発見出来れば、大きく反対派が優勢に変わる。
しかし、中々簡単には判らない。
富田の土地は細かくて、借地権とかも発生して複雑になっている。
集めれば本当に今の仮換地の区画以上に、なるかも知れないと思う篤彦。
でもこの三事業は総て富田喜一が、もの凄く徳をする事に気が付き始める篤彦。
市長と富田が組んで?この事業を計画していたら?自分にも多額の賄賂が入っている。
何故?自分が今の地位になったのだ?土木畑で育って係長になるのがやっとだったのに、いきなり課長代理?しかも三事業の中枢に位置している事は何か理由があるのか?と調べていると疑問点が自分の存在にまで発展していった。
一方亜佐美は遠い昔の事を思い出していた。
それは、母が妹を連れて病院に駆け込んでからしばらく経過して、妹が亡くなったと聞かされて子供心にショックを受けた記憶だ。
自分はその時叔母さんの家に預けられていた様な気がしていた。
亜佐美には微かに父親の記憶が残っていて、それは父が病院のベッドに横たわる姿だった。
それから数ヶ月後、母と亜佐美は大阪で暮らすことになり、夜の仕事に出掛ける母を見送った記憶が残っている。
母は生活の為に水商売をしていたのだ。
そんな母も、長年の仕事の疲れと肝臓病を患い十年前に亡くなった。
亜佐美が知っているのは父の交通事故が転機になって生活が苦しくなり、やがて父が亡くなり、妹も病死して、母が生活の為に水商売に身を投じた事である。
そして自分もその道に進んだのだった。
真実は何処に
妹は本当に病気で亡くなった?亜佐美は仏壇の父の遺影は何度も見たが、妹の遺影を見た記憶が全く無かった。
母は半年に一度位の割合で、子供の頃自分を連れて大阪から一時間程離れた町に行った記憶が蘇っていた。
小学生の高学年になってからは一度も無かったが、それ以前に何処かのお寺の様な処には行った記憶は微かに残っている。
もしかして、芳香寺の奥様って?妹?いや、それは絶対に無いと敢えて否定する亜佐美だが、
心に大きく動揺が広がったのは事実だった。
富田喜一の思惑としては、自分のビルの一階には大正住宅の店舗を入れて、地下は加賀デパートと結んでJRと直結する商店街を計画している。
上層部はマンションの建設、今までの飲食店の店子は地下の飲食店街に高い家賃を取って入れる。
払えない店子はこの機会に追い出す計画で、その選別も加納建設とバックの暴力団に依頼していた。
元来地下は市の持ち物の筈が、富田の所有に変わっているのを、区画整理には記載されていないので篤彦は知らない。
駅前にも大きな商業ビルを建設する富田は、この計画が上手く進めばこの町の玄関口を自分のビルで占拠出来るのだ。
高校は野球部、大学は柔道部と体育系の篤彦は、数字に弱く路線価と仮換地の図面を見ても良く理解出来ない。
単純に合計すると旧来の富田の土地は今度の駅北の土地より小さい、路線価が今と将来は異なるから尚更理解出来なくなっている。
時間が出来た時に資料を見て、調べる篤彦だが、中々短時間では地図が記憶に留められない上に、計算が出来ないのが実情だった。
「お母様の具合は?」と亜佐美が篤彦に尋ねる。
篤彦は区画整理の仮換地の事を亜佐美に相談しようと、店が始まる前に夕食を食べに誘ったのだ。
亜佐美はあの加納が行っただろう交通事故で、篤彦の母の容体が気になっていたのだ。
「日にちだけですよ、ボルトが身体に入っていますが、支障は無いようです」
「そう、それなら良かったわ」と安心した顔になった亜佐美だが、母親が病院と聞くと自分の母の事を思い出してしまう。
篤彦が仮換地の話をすると「写メで保存してゆっくりと調べるか、誰か判る人に委ねたら良いわ」とアドバイスをした。
「写メか、気が付かなかった、ありがとう」と急に元気になった篤彦はビールを一気に飲み干すいつもの姿に戻っていた
「月末の入札も、この前と同じ様にするの?」
「はい」
「でも今度は分けられないでしょう」
「そうですね、でも情報は公平に流そうかと」
「それは危ないと思うわ、今度は怒ってくるわよ」
「一発入札だから、私には判らないと言いますか」と微笑む篤彦。
「それの方がまだ良いわね」
「実際入札結果は私が見るのは遅い方ですからね」
「誰が最初に見るの?」
「小柳次長と泉部長ですよ」
それだけ聞いた亜佐美は、篤彦の情報として加納に伝える事が出来ると思った。
「次回この前話していたお寺にはいつ行くの?」
「予定はありませんが?何か?」
「いえね、自分に似た人を一度見てみたいから、好奇心よ」と笑いながらグラスのビールを飲み干す亜佐美。
心の不安を打ち消す様に「頼まれていたか」と独り言の様に言う篤彦は、先日の住職の南無阿弥陀仏の言葉が頭を過ぎった。
翌日の昼間に綾音と真希は芳香寺を訪れて、本格的な取材に入った。
「君たちは、週刊誌の記者だったのか?」と驚く住職に「私達は住職さん達の味方です。ほら来週号の見出しです」とタブレットを取り出して見せる。
(妙齢の美女、隠された過去を背負って行政と戦う)のタイトル文字を見せる。
「これは誰の事?」と不思議そうに見入る住職に「決まっていますよ、奥様ですよ」
「えー、浅子の事を書くのですか?困りますよ」
「住職の強い味方が全国から来ますよ」
「でも浅子の事を書かれると困るな」
「浅子さんの両親とか姉妹が見つかるかも知れませんよ」
「それはそうだが、さらし者の様で困りますよ」
「私達が調べていますが、汚職の匂いがします。それに住職が言われている通り一部の資産家が利益を得ている構図も見えて来ました。ここで叩けばこの事業も市長も潰れます。ご協力を」と二人がお辞儀をして頼み込む。
「君達の調査でも汚職の匂いと、一部の資産家の利益が判ったのか?」
「はい」と真希が返事をすると「世論を味方にすれば、振り出しまで戻せるかも知れません」と力説する綾音。
「記事を事前に見せて貰って、私が納得すれば、協力しよう」と住職が二人の説得に折れた。
住職が浅子を呼びに中座をした時に、来週の原稿をタブレットの画面に出す真希。
しばらくして今日は着物姿の浅子が、住職と一緒に入ってきた。
事情は粗方話しているのか浅子が「私が行政と戦うと書かれているのですか?」と聞いて来た。
「題名というか、見出しですよ。中身はこの町の今回の三事業の不可解な部分を追求する内容になっています。実名は使えませんから奥様もA子さんにしています」
「でも、変な事書かれると困ります」
「ここに、来週の原稿がございます。お読み頂いて不都合な部分は訂正しますので、目を通して頂けませんか?」とタブレットを浅子に手渡す。
「一部実名が入っていますが、支障は無いと思います。それでも悪ければ変更致します」
浅子はタブレットを手に持って文章を読み始めた。
その様子をじっと見つめる綾音。
文章の半ばから、浅子の動揺が手に取るように判る綾音。
真希も手をぐっと握り締めて様子を見ている。
その様子に不思議さを感じた住職が「浅子、何か変な事が書いてあるのか?」と浅子の手からタブレットを取り上げる住職。
読みながら顔色が変わる「君達、どうして知っているのだ?」と二人を凝視して住職が話す。
「知りませんよ、推測で書きました」と言う綾音。
「推測って、出来る事と出来ない事があるだろう、何故だ!」と問い詰めた。
さらに浅子は「貴女方は何か知っているの?知っていたら教えて下さい!お願いします」と涙声で言いだしたのだった。
憶測
「本当に何も知りません。私達はもしかしてと考えて書いただけです」
「浅子の母の名前を君達が知っていること事態理解出来ない」
「亜紀子さんがお母さんでは?と思って書いたのですが、その根拠は役所の大林さんにも聞かれたと思いますが、奥様に似ているスナックのママのお母さんのお名前なのですよ」
「えー」「えー」と二人が同時に声を上げた。
「でも私達の取材では、そのスナックのママ亜佐美さんには妹さんがいらっしゃったが、小さい時に亡くなられたと聞きました」
「お母様に尋ねれば」と身を乗り出す浅子。
「残念ですが、お母様はもう十年前に亡くなられています」と綾音が答えると落胆の表情で、住職に縋り付いて浅子は涙を流した。
「他に何か知っているのか?」
「お父様は交通事故で亡くなられて、お母様は大阪で水商売をされて亜佐美さんを育てたと聞きました」
「君達は浅子を試したのか?」
「すみません。他に方法が無かったので。でもこれでお二人が姉妹の可能性が高くなりました。今はDNA検査で直ぐに判ります、調べて見ては如何でしょう?」
「兎に角今日は帰ってくれ、余りの衝撃に私も浅子も心の安定が必要だ。また連絡する」そう言うと住職は浅子を庇いながら部屋を出て行った。
「驚いた。本当に当たるなんて」
「綾音さんの勘は凄いですね。この文章もよく考えましたね」と二人は半分笑いながら半分驚きながら芳香寺を後にした。
「九割は姉妹で間違い無いわね。これで姉が賛成派なら、最高なのだけれどね」と綾音は天を仰ぎ見た。
「姉にも教えるの?」
「黙っているわ。だって妹さんの気持ちが整理出来ないと会えないでしょう」
「そうよね。自分だけ捨てられたのだから複雑よね。でも奥様は必ず会いに行くわよ」と半ば晴れ晴れしい顔をして二人は帰って行った。
二人が帰ったお寺の一室でようやく落ち着いた浅子に話しかける吉司。
「どうする?会いに行くのか?」
「まだ信じられないわ」
「そうだよな、三十年近くも会ってない姉にいきなりお姉さんとは言えないよな。取り敢えずDNAを調べて置いた方が良いか」
「そうですね、もしもの場合があるからね」
二人の話では母親は亡くなっているので、親族は姉と二人きりと考えると早く会いたい気持ちも浅子にはあるのだ。
「浅子の名前は亜沙子でお姉さんが亜佐美、お母さんが亜紀子なら全員亜が付くわね」
「益々正解ね。綾音さん天才ですね」
「お姉さんは何故この町に来たのだろうね?」と綾音が急に言い出した。
「大阪のクラブで働いていたと、先日あの酒飲みの大林さんに聞いたでしょう?」
「あの店を誰かに貰った?知り合いもいないのにこの町に来る必要無いでしょう?」
「そうですね。店でも貰えば来るかもですね。あの美貌ですから大阪でも充分稼げたでしょうね」
「店の経営ってリスクがあるからね。まさか妹がいるから来たと言う筈は無いわね」
「もしかして、今回の開発に関係あったりして」と笑う真希だが、気になり「いつ来たって言っていた?」
「最近?」と綾音に聞いた。
「今年と聞いたわ」
「それに、あの酒飲みのお兄さんと仲が良さそうよ」
「面白くなって来たわ。もう一週間取材許可貰おう」と言って、早速二人は駅前の商店街の取材に向かった。
「どうなっているのだ?加納社長」と苛立ちながら電話をする富田喜一。
「人民党が入り込んでいて、お寺の連中を脅せません」
「幹線道路の事業は君の所に行く様に取りはからったのに」
「駅前の開発の立ち退きは順調に進むと思います」
「反対派の切り崩しを考え無ければ、私の計画が上手く運ばないよ」
「報道関係も取材に来ていますから、迂闊な事は出来ません」
使い易い加納に、富田は以前よりも親密になっている。
だが面白くないのは高松興業と三俣建設である。
高松林蔵は受注工事が今の駅前再開発の一部だけなら、報復を考え無ければ気が収まらないと思う様になっている。
「加納は相当手荒な事をしている様です」
「予想はしていたが、あの為吉はフェアな男では無い。調べでは大阪の時も地上げに暴力団を使っていたと聞いている」
「社長、最近反対派が増えてきましたので、区画整理は時間が必要になると思われます」と森本が言うと「森本君、君の後輩は駅前開発の情報はくれたが、次は?」
「次も貰えると思いますが?」
「もう少し薬が必要なら使え、幹線道路は分ける事はなさそうだからな」
「今度は加納に負ける訳にはいかない」と気合いが入る林蔵。
この高松興業の神戸係長は、木戸助役と懇意にしているのを社長も森本も知らない。
以前神戸は役所の建設集会に出席し、その後の懇親会で木戸助役と同じテーブルになった。木戸助役は神戸が自分の娘と同級生だった事が偶然判り意気投合して、その後も時有る事に声をかけていたのだ。
その為高松の情報は神戸を通じて木戸に入っていた。
「泉君、高松は次回の入札落とせなかったら、何か暴露してやると息巻いている様だよ」
「まだ、早いです。汚職で市長が追求されるのはもう少し先でなければ、富田の爺さんが捲き込まれると困りますね」
「そうだ、爺さんの世話になって私の市長職も応援して貰わなければ」
「どうしますか?」
「君と小柳次長が、最初に入札結果見るのだな」
「はい」
「細工をして、高松も入れる様にすれば?」
「小柳君が堅物ですからね」
「体調不良にでもなって貰え」と笑う木戸助役。
入札も有って無い様な物だと泉部長は苦笑いしながら、この様な事が世間に知られたら絶好のスクープネタになるだろうと思った。
早速泉は先程の助役との事を希に頼み込むと希は「面白そう、任せて下さい」と微笑んだ。
泉の役に立てるのと、堅物の小柳次長に意地悪出来る事が面白いと早速作戦を考え始める前島希だ。
入札の前日篤彦は、事前の各社のプレゼンの情報を各社に流すと、亜佐美の店に来て「自分が判る範囲の情報は三社に公平に流しましたよ」と話した。
「怒られない?」
「自分は見ることが三番目だから、限界ですと付け加えました」
「どうなるか楽しみね」と微笑む亜佐美。
そこに小山内が久々に入って来て「こんばんは」と篤彦に挨拶をしてカウンターに座る。
「明日入札なのに余裕ですね」
「三俣は今度も駄目だと思いますよ」
「えー、小山内さん弱気ですね」
「地元が有利ですよ」と微笑む小山内。
何か意味があるのか、落ち着いている小山内に不気味さを感じる篤彦。
確かに大手の建設会社だから、情報も確かなのだろうと考えていると、急に篤彦の耳元に来て「注意された方が良いですよ、調べているところがある様です」と囁いた。
不安
小山内が落ち着いているのは、警察が調べていると言う意味か?と背中に冷たい物を感じる篤彦。
流石に大手だな、何かを掴んだのだと思った。
自分も危ない、汚職で逮捕になるのか?亜佐美の顔も酒も統べてが、遠くに消える気分になった。
篤彦はいつ警察に呼び出されるのだろう?明日か?明後日か?自分が逮捕なら、泉部長も小柳次長も貰っているので同じだ。
目の前の小山内が教えてくれたではないか?贈った方も逮捕だろう?何故落ち着いているのだ?と疑問を感じる。
落ち着かない時間を過ごして自宅に帰った篤彦に「また高松の森本さんが、これを」とケーキの箱を見せる翔子。
「困ったな、俺何も出来ないのに、こんなに貰っても」困惑の表情で箱を見る。
「逮捕されたら金額は関係無いわ。もうかなり貰って使ってしまったわ。真央の塾もマンツーマンに変えたのよ」
「えー、それって高いだろう?」
「ケーキ半分も使わないわ」と微笑む翔子に呆れる篤彦。
逮捕されるのは自分で翔子は逮捕されないから?離婚か?と疑いたくなる篤彦が翔子の顔を見ると「何か顔に付いているの?」と聞くので「欲って書いてあるよ」と苦笑いした。
「役得よ、気にしていたら生きて行けないわ」と開き直る翔子。
そう言われても恐くて、眠れない夜を過ごす篤彦。
翌日の駅前、駅北開発室の中で、異変が起こっていた。
朝の十時頃から、机に居るのは希とバイトの間島玲奈と数人の女性、泉部長のみで、他の男性は代わる代わると席を立って、何処とも無く消える。
しばらくして戻るが、中々戻らない職員も多く、篤彦もその一人に含まれていた。
泉部長が遠くから様子を見ながら苦笑いをしている。
希が朝からお茶の中に何かを入れて、職員が交代でトイレに行ったと判っていたから笑ってしまったのだ。
近くの男子トイレが満員になると別の階に行くから、中々戻って来ない。
十一時の入札開始に、高松興業から来るが小柳次長は対応出来ないだろう?と泉部長は思っている。
時計と小柳次長の動きに目を向ける泉部長「小柳次長、どうしたのだ?そろそろ会議室に」
「それが部長、お腹が痛くて、あっ!また来た」
「そうか、私が受け取っておく、気にしないで、ゆっくりとな!」と笑いながら肩を叩くと、小柳次長は慌てて走って行くと向こうから大門が来た。
反対にこちらから松井が小柳を走って追い越し大門とすれ違って行った。
部長下剤の効果は?と書いたメモを渡しに来る希に、微笑む泉部長は悠然と会議室に向かった。
これで自分が自由に出来ると喜ぶ泉部長。
高松興業に続いて三俣建設がやって来て「部長さんも事件に巻き込まれない様に気をつけてくださいよ」と小山内に意味不明の事を言われて「小山内さん、事件って何の事ですか?」
「まだご存じでは?大林課長にお聞きになれば判るかと」と言うと入札を済ませると、気になる笑みを浮かべて帰って行った。
泉部長は篤彦の賄賂が事件になったのか?予想より早い、これは大変だと思った。
でも本人は朝からお腹を押さえてトイレに走っていたよな?警察に引っ張られた形跡は無い。
今の話は?しばらくして最後の加納建設の入札を受け取って、デスクに戻った。
篤彦の机を見るといないので、またトイレに行ったのか?希を呼んで「大林君は?」と尋ねる。
「先程、警察の方が来られて、一緒に行かれました」
「えー!」と驚く泉部長の顔色が大きく変わった。
泉部長が助役の所に駆け込んだのは、入札の処理を予定通りに行って直ぐだった。
「大変です、大林が警察に引っ張られました」
「何!誰が?教えたのだ!」
「判りません。贈った建設会社が言う訳ありませんから、私達が雇っている探偵と私達以外は知らないはずだろう」
「はい、でも最近はマスコミも嗅ぎつけて、とは言っても我々が教えたのですが」
「高松が怒っているが、まだ今日の結果は出ていないから、警察に言う事は考えられない」
「何処から漏れた?兎に角次の対策を打たなければ、漏らした建設会社か特定できれば、あの酒飲み男を人身御供にして、我々の身の安全を確保だ」
「はい」二人は緊急事態に右往左往状態になった。
綾音と真希は今回の入札結果を聞く為に夕方市役所を訪れていた。
勿論建設会社の加納と高松の担当者が訪問していた。
入札の結果南北線は加納建設、東西線は高松興業に決定しましたと大門が発表した。
三俣は選に漏れた為に連絡が行かなかったのだ。
「三俣建設は馬鹿にしているのか?」大野市長が怒りを露わにする。
「はい、意味不明の入札金額に驚いています」
「そうだろう、他社の十倍の金額を書いて入札するとは馬鹿にしている」と怒るが、書類を持参した泉は入札時の小山内の不適な言葉、それに続く大林が警察に連れて行かれた事に恐怖を感じていたのだ。
「森本君、あの後輩に直ぐにお礼をしなさい。今回の入札が落ちたのは彼の尽力だよ」と電話連絡を貰った林蔵は上機嫌。
「はい、早速彼の行く飲み屋に今晩行ってお礼をしてきます」
「そうだ、お酒の最高級と、お金を包んでな!」
「はい、心得ました」高松興業は活気に溢れていた。
加納建設では「何故?高松と分けなければいけないのだ」と怒りを露わにしていた。
「判りません」
「爺さんのところに行って来る」憮然とした態度で出掛ける為吉。
「大野市長、これはどうなっているのだ」と苦言が大野市長に伝わったのは、夕方遅い時間だ。
「私もよく判らないのだ。何故分れたのか?加納さんの所一本の予定だったのだが、同じ金額になっていたので仕方が無く」大野市長は誤る一方になっていた。
夕方須美子に亜佐美が電話で「今日、私店出られないので、休んで貰える?」
「どうしたのですか?」
「私もよく判らないのだけれど、警察が出頭する様にと言って来たのよ」
「えー、警察が!ですか?」
「それも大阪の警察よ、仕事にならないわ」
「事件ですか?」
「私に覚えは無いわ」
「そうですか、気を付けて」と言うしか術が無い須美子。
あの若さで店を持って、何かあると思っていたけれど、警察沙汰になる問題だったのか?と次の職場を探さないと駄目かも知れない考える須美子だった。
マジックミラーの女
大阪の警察に向かう亜佐美は、何が起こったのだ?と不安になるが行かなければ判らない。
憮然とした加納の元に電話が入ると、為吉は急に「富田社長、今回は仕方が無いので引き下がりましょう。次回は必ずお願いします」と言うと富田の自宅を出て行った。
為吉が荒井に「私に取り敢えず当分電話はするな」と言った。
「はい、もう一つ重要な事を」
「何だ」
「私の名前で買われた外車にも目を付けられて、現在の持ち主の加山亜佐美さんが事情聴取されます」
「何!亜佐美に警察の手が廻った?」為吉の声の高さが変わった。
亜佐美が自分の事を警察で証言すれば、その時点で加納と亜佐美の関係が表面に出てしまう。
暴力団荒井の雇った男が、ひき逃げの犯人の疑いで府警に連れて行かれたのだった。
荒井は雇った男に自分が車を与えていたので追求を受けた上、他にも車を数台持っているとの指摘を受け、その関連を調べられた。
篤彦は警察に連れて行かれたが、それは、警察が母親の入院先の蒼井総合病院近くの監視カメラに該当の車が映っていたのを発見して、その関連の説明と母紀子と一緒に事情聴衆を受ける為に呼ばれていたのだ。
篤彦は、始めは汚職の捜査かと、おっかなびっくりだったが、母のひき逃げ犯の事とわかったので、急に元気になると犯人逮捕を迫る勢いに変わっていた。
紀子は篤彦と一緒に大阪府警に行って犯人の面通しをされていた。
紀子は歩けない足で篤彦の手を借りて犯人を見たが「あの様な男の人は全く知りません」と答えていた。
だがひき逃げの状況と男の証言から、運転を誤って当てたとは府警は考えていなかった。
計算された事故の様な感じがしていたのだ。
男の名前は権藤で年齢は三十五歳、車の名義は荒井誠、二人共暴力団。
府警の交通課の前田は、この事件が単純なひき逃げ事件では無いと権藤を追求した。
権藤と荒井の関係、荒井と大林紀子の関係、権藤と紀子の関係と腑に落ちない部分が多かったのだ。
前田が着目したのは、何台かの車を荒井が持っていた事だった。
その中には高級外車もあり、普通なら、高級外車は自分が乗る筈と思うが、今は女性に貸しているとのことなので、尚更不審が増大したのだったが、警察は、荒井が車を貸しただけでは、罪には問えないので帰した。
荒井は帰されて直ぐの時間に加納に電話をしてきたのだった。
加納は自分に繋がる事は総て遮断しなければならないが、まさか亜佐美が府警に呼ばれた事は計算外の事だった。
権藤には罪を被って貰う事は、荒井が事故を依頼した時から決まっていた。
捕まれば権藤の失敗と、荒井からは言われて引き受けているから、全面的に殺意を言わない。
警察が何度尋ねても逃げた理由は恐くなったからで、相手は全く知らない叔母さんとしか権藤は答えないのだ。
事実、権藤は紀子も篤彦も全く面識の無い男である。
紀子はここで、この場所に行った理由を喋れば直ぐに犯罪に結びつくことが判ったが、それは口が裂けても言えないのだ。
それは息子が汚職をしている事を教えるから来いと言われた事実であった。
言えばこの男はひき逃げ以外の罪で逮捕されるが、篤彦も逮捕される可能性があるからで、勿論篤彦にも言える事ではなかった。
前田は「これは関連が無いかも知れませんが、この権藤と同じ様に荒井から車を借りている人間が二人いますので、念の為にご覧頂きたいと思っています」と篤彦達に言った。
「はい、判りました」
「一人は今到着しましたが、もう一人は今向かっています」と前田が二人をマジックミラー越しで見せた。
「知っていますか?」と尋ねる前田に首を振る紀子。
「大林さんは?」
「知りません、見た事も有りません」
「そうですか、関連が無いのかも知れませんね」しかし紀子は犯罪に巻き込まれているのを確信していた。
「何をされている方ですか?」
「バーテンですね、でも半分は暴力団員です」
「そうですか、暴力団員が二人ですか?」
「車の持ち主が暴力団員ですからね、でもこれから来られる方は女性で、暴力団の人では無いと思いますよ」と前田が話す。
しばらくして「今、来ました」と係が伝えた。
「じゃあ、通せ」と警官との会話。
カーテンを開いた向こうに見た人は・・・「あっ」と口走る篤彦、マジックミラーの向こうに亜佐美の姿。
「どうしました?知り合いですか?」と尋ねる前田に紀子が「知りません」と遮る様に言い切る。
「大林さん、知り合いの方?見た事がある人ですか?」
「・・・」篤彦はどの様に答えれば良いのか?頭が変に成りそうだった。
今、知っていると答えると亜佐美はどの様になるのだろう?亜佐美の外車の持ち主と母をひき逃げした車の持ち主が同じ?その様な偶然は絶対に無い。
どの様に答えればと考えていると紀子が「篤彦、知らない人だよね」と念を押す様に話す。
「はい、知らない人です」と答えたが前田がメモ書きを見て「同じ町でスナックを経営されている人ですよ。知り合い若しくは一度か二度会われたのでは?」と再度尋ねた。
「・・・・・・」窮地に立った篤彦、額から汗が噴き出る。
「調べれば直ぐに判りますよ、正直に答えて下さい」
「・・・」無言の篤彦に「お前、知っている人なのかい?」と紀子が心配になって尋ねる。
もう、どうする事も出来ないと篤彦は「知っています、私も飲みに行くスナックのママさんです」と答えた。
「そうですか。意外なところで繋がりましたね」と嬉しそうな前田。
「でも、母のひき逃げとは全く関係が無いと思います」と必死で庇う篤彦。
「関係が有るか?無いか?は私達が調べます」
「でも、全く関係が無いと・・・」言葉が消える篤彦。
「足が悪いのに長い間ご苦労様でした。おい、病院迄送って差し上げろ」
「あの、関係がない・・・」と言う篤彦を連れて部屋から出る警官。
篤彦は亜佐美が心配で、戻りたいが車に押し込まれて府警を出て行かされた。
「加山亜佐美さん、乗られている外車の持ち主荒井さんとの関係は?」
「大阪のクラブのお客様ですが?何か?」
「あの様な高級車を何故借りているのですか?」
「それは荒井さんが使えと言って、貸して下さいました」
「それは、借りていると言うより貰ったが正しいのでは?」
「私に好意が有ると言いますか、男女の関係の代償に頂きました」
「実は荒井さんが貸した車でひき逃げを起こした男がいまして、そのひき逃げされた女性の子供さんは、貴女をよくご存じの方なのですよ」
亜佐美は最初に話された内容で統べてが判っていた。
加納が雇った暴力団員がひき逃げをして、篤彦の母を撥ねた事実だった。
加納が使う暴力団
警察が犯人を突き止めた事実。
しかし、亜佐美は鏡の向こうに篤彦と母紀子がいて、自分を見ていたとは思ってもいない。
ここで亜佐美が真実を話す事は簡単なのだが、そうなれば加納の存在が明るみに出て篤彦が今度は汚職で逮捕されてしまう。
亜佐美は篤彦を守る為に、事実は口が裂けても言えない状況になっていた。
加納は全く異なる事を考えていた。
亜佐美の処分をしなければ、自分の身が危ないと思い始めていたのだ。
亜佐美は前田に荒井とは男女の仲だったという事で、最後まで押し通して疑いを避けようと必死だった。
暫くの尋問後、結局前田は亜佐美を解放して、今後の動向とこれまでの経緯を調べようと決めた。
夜の九時に亜佐美はやっと解放された。
篤彦は、亜佐美に電話もメールも出来ない状況になった。
警察に知られて亜佐美が窮地に陥ったら大変と考え、変な行動を差し控えなければならなかった。
亜佐美からの電話を待つ篤彦だが、亜佐美は篤彦がマジックミラーの向こうにいた事は知らないから、このことを自分から篤彦に電話することは考えられない。
前田は部下の刑事達を使って、亜佐美の周辺と篤彦を調査する事を上司に進言した。
「これは単なるひき逃げ事件では無い様な気がします」と言う前田の言葉が上司を動かし、
翌日から、亜佐美の廻りを刑事が調べ始めた。
篤彦は心配で、心配で、亜佐美が警察に逮捕でもされていたら大変だと思った。
唯、母親をひき逃げした暴力団と、亜佐美に関係がある事は偶然なのか?と亜佐美との出会いの記憶を辿った。
しかし、亜佐美から篤彦に近づいた形跡はない事を思い出した。
金沢守一に教えられたから、亜佐美が自分に近づいて関係になった訳では無い、自分が惚れたのだと言い聞かせる。
母のひき逃げと亜佐美は関係が無いと思いたいのだが、亜佐美が何故?あの暴力団の男から高級外車を借りているのだ?と言う疑問は残った。
役所に行くと会う人、会う人が口々に「警察何だったの?」と質問をする。
「母のひき逃げの犯人が見つかったのですよ」と笑顔で答えると「そうなの、良かったね」と声を揃えて言う。
その話は電光石火で希から泉部長に伝わった。
しばらくして上機嫌の泉部長が「大林君、良かったね、母上のひき逃げの犯人が見つかったそうだね」と自分も安心したと言いたい表情で篤彦を労った。
九時半になり待ちに待った亜佐美からメールで(当分、私に近づかないで、汚職が露見する恐れ有り)と連絡があった。
(どう言う事、会えないの?)と送ると(警察が動いているから、気を付けて)と返事が届いた。
篤彦はひき逃げ事件の関係から亜佐美が警察から監視されているのだと思った。
加納は、亜佐美には(当分、連絡はするな)と亜佐美を敬遠する態度になっていた。
荒井に対しても連絡も取れない上、もう使えない男と考えた。
このままでは、今後の仕事に影響すると考え、以前大阪で使った別の暴力団(銀成会)の力を使おうと連絡を取っていた。
加納は出来るなら使いたく無かったが、今の状況では致し方ないと思っていた。
「加納さん、久しぶりだな、困り事かね」
(銀成会)はお金で手荒い事も平気で行うので、加納も余程の事にならないと使わない様にしていたのだ。
恐喝、レイプ、殺人と請け負う仕事はどの様な事でも、お金次第で請け負う。
会長の丸山銀三とは、大阪の会社の時に一二度お世話になったが、やり方が恐い部分も多く流石の加納も使うのを躊躇うのだが、加納は荒井とその部下の失敗で窮地に落ちっていたので、致し方のない行動に走ったのだった。
実は、三俣建設はひき逃げ事件の情報を知っていたので、加納建設はもうすぐ終わりだと決め付けていたのだ。
小山内も暴力団関係との付き合いがあり、加納の昔からの行動を調査していた。
加納と暴力団の交際に的を絞っていたところ、その小山内の情報網に(銀成会)に対する加納の動きが入ったのだ。
何かがあると睨んだ小山内は、理由を調べていたら、荒井の手下のひき逃げ事件が飛び込んで来た。
何と轢いた相手が大林の母親だったので、小山内は直ぐに入札に絡む事だと気が付いたのだ。
小山内は関西支社長籠屋に「加納建設はもうすぐ終わります、ここは泳がせて様子を見ましょう」と話して幹線道路の入札に法外な値段を提出したのだった。
加納はひき逃げの権藤と荒井、そして亜佐美の始末を(銀成会)に依頼しなければ、枕を高くして眠れない状況に追い込まれていた。
特に荒井は自分との接点の人間、権藤は事情を知らずにひき逃げを実行している筈。
荒井を消せば取り敢えずは、亜佐美と荒井の線は消えてしまう。
加納は取り敢えず荒井の始末の依頼を(銀成会)に頼んだ。
加納は荒井が消えても状況の改善が進まなければ、次の方策を講じなければならないと考えていた。
府警の数人の刑事達は、亜佐美をマークしながら調査もしていた。
数日後「前田さん、大林さんと加山亜佐美の仲は、男女の関係だとの証言が出ました」
「あの時の態度が変だったので何かあると思ったが、その線か。不倫だな」
「お互い、利害は無い様です。大林は飲み友達の紹介で亜佐美に会って好意を持った様です」
「亜佐美の荒井との仲は?」
「大阪のクラブ時代には、荒井は度々店に行って亜佐美を指名していた様です」
「外車で身体を要求したのか?」
「亜佐美もパトロンの様な男は何人かいた様です」
「大阪のクラブの女だ、一人や二人はいただろう。だが今の大林とは相当違うがな」
「そうですね、お金も無いでしょう?役所の課長代理ですから」
「なら、本気の恋か?」クラブの女性が本気であの大林に惚れるのか?前田達は疑心暗鬼の世界に陥っていた。
交換条件
前田は二人の恋愛を信じてなく、必ず何か裏があると踏んでいた。
だが前田達の捜査の糸がぷっつりと切られる事件が翌日発生した。
「前田さん、荒井誠が水死体で発見されました」
「何!何処で溺れたのだ」
「今朝、道頓堀に浮かんでいた様です」
「見張りは無かったのか?」
「巻かれてしまった様です」
「身体から大量のアルコールが出て、酔っ払って河に転落した様です」
「捜査を担当した警察に行くぞ」
前田と二人の刑事は状況を聞き取りに、大阪南警察に向かった。
しかし、解剖の結果は大量のアルコールと道頓堀の水が体内から検出されて、死因は溺死となっていた。
「荒井が殺されたと考えると、理由は何だ?」
「大林さんの母親を誰かに頼まれてひき逃げをしたとしたら?」
「だが大林さん自体、それ程重要な人物だとは思わないが?」
「係長その大林はあの亜佐美と恋愛関係ですよ」
「事件性が無いとしたら、余りにも関連が多すぎるな」
「もう一度権藤を叩きましょうか?」
「無駄だろう、あの男は何も知らない。お金でひき逃げを行っただけだと思う」
荒井が亡くなったので完全に暗礁に乗り上げてしまったひき逃げ事件だ。
加納が荒井に頼んでいた仕事を(銀成会)が嗅ぎつけて、そのまま自分達に任せろと加納に迫ってきたのは、荒井が水死した三日後だった。
荒井の仕事を手伝っていた連中が(銀成会)に流れて喋ってしまったのだ。
銀成会の丸山には面白い仕事に思えたのか、部下を連れて早速調査に訪れたのは翌日の夜。
荒井の手下の状況説明で、丸山は反対派の芳香寺と人民党の連中を弱体化させれば良いのだと考えた。
加納の自宅を訪れて、対策を話す丸山は駅北に自分達の借りの事務所の設置を要求した。
反対派に睨みをきかせる為に必要だと言われて、加納は富田に電話で相談をしなければならない状況に追い込まれた。
加納から相談を受けた富田は、今の膠着状態を脱する為に自分の駅北の借家を丸山に与える事にしたのだ。
その結果、数日後には突如として、暴力団の事務所が駅北に出現する事になった。
驚いたのは芳香寺の反対派だ。
駅北に大きく出ていた看板が撤去され始めたのである。
看板用地を提供していた地主の所に、暴力団が行って嫌がらせを始めると、怯えた地主は二つ返事で用地提供を一方的に打ち切ったのだ。
元々お金を貰わないで、反対運動の一環として場所の提供をしていたので、脅しには為す術が無かった。
それをみた富田は「おお、やれば出来るじゃないか加納君」と褒め称えたが、加納には嬉しさ半分だった。
大野市長も大いに喜んで「目障りな看板が無くなって、すっきりした」と大喜び。
取材中の二人は、ようやく週刊誌が発売されて、反対派の気勢が上がる筈が正反対の状況になり、それは、次週号に暴力団の強硬姿勢に反対派が縮小か?の記事を書かなければならないと思う程であった。
丸山は次の切り崩しの提案を持って再び加納の自宅を訪れた。
その提案は駅北の反対派の有力な住民を、纏めて移住させる提案だった。
今の土地の二倍から三倍の広い土地を与えて、移住させると言う案だ。
駅前に比べれば格段に安い土地だが、反対の人達は居住が目的だから、土地の価格には拘りが無いのでは?と丸山が提案してきたのだ。
丸山には個人的にやり手の弁護士が付いているので、その案は上手く住民の気持ちを汲み取ったものだった。
「加納さん、建設は得意分野だ。貴方の会社で無料にて建設してやればどうだ」
「えー、無料で住居を提供するのですか?」
「まあ、場所にもよるが、駅北の土地を捨てさせるには、今の古い家が大きく綺麗な家に変われば文句を言う人は誰もいないだろうと、顧問弁護士の木下が言うのだよ」
「なるほど、区画整理で駅北の土地を買い取る訳ですな」
「そうだよ、十倍の土地と家を与えれば、住民は納得するのでは?」
「判りました、富田さんに相談してみます」
「良い案だろう?弁護士はモデル住宅を建てて見せれば必ず成功すると話していた」
「判りました、それも頼んでみましょう」
「最近は電車より車だ。郊外に新築で車のガレージ付の家だよ」加納は丸山に言われて、これなら反対派が一気に減少すると自信を持ったのだった。
翌日加納は丸山の提案を持って富田の自宅を訪れ話をした。
「それは面白い提案だ。それをもう少し大きく考えれば、土地の交換が成立するな」
「・・・」富田の考えている事が理解出来ない加納。
「判らないのか?」
「はい」
「私の持っている土地と反対派の土地の交換だよ」富田は自分が広大に所有している湾岸の一部を交換の対象に考えたのだ。
「土地の価値は大きく異なるが、海の見える風光明媚な場所に庭付きの一軒家を持てるなら最高だろう」
「はい、幹線道路が出来ますから、駅まで数十分ですね」と加納は富田の悪知恵に驚きの表情を浮かべながら笑った。
加納が帰ると直ぐに富田は大野市長に電話で、仮換地の図面の変更を依頼した。
大野市長も目障りな反対派を抑え、駅北の区画整理事業の進展が見込めると大いに乗り気になった。
富田は頭の中で、駅前のビルを当初の二倍にして、大正住宅に自分の湾岸の荒れ地の開発をさせて、区画整理事業でも儲けることを思い描いた。
夕方大野市長は、区画整理事業の担当者数人を呼んで、図面の修正に着手を始めた。
反対派の人数も土地の大きさも判らない状況での、完璧な絵図面の作成を依頼された設計部隊の面々は「変な、変更だね」と不思議そうな顔で作業にとりかかった。
「富田さんの土地が2倍に拡大されて、駅北の住宅が大幅に減っているね」
「買収でもしたのか?」
「そんなにお金持って無いだろう?」と口々に話ながら市長に言われた図面の作成を開始した。
大正住宅は富田に言われた提案に大喜びで、早急に未来予想のパンフレットの作成に取りかかった。
二日後大正住宅の担当者が「湾岸の土地は調整区域で住宅の開発が出来ませんが?」と伝えて来た。
「そうだったか?忘れていた、構わん許可は出る」と言い切る富田。
大野の元に、富田が電話で開発許可を早急に出してくれと頼み込む。
「お礼は充分にしますよ、次期選挙資金も任せて下さい」そう言われて大野は早速関係部署の部長を呼びつけた。
圧力に屈す
「市長、こんな海岸の荒れ地の開発許可を出すのですか?」と堀部長。
「駄目かね」
「そうですよ、先日の様な大きな地震が来るとひと呑みですよ」
「後は業者が対策をするだろう」
「しかし、二束三文の土地に開発許可を出して、何処かから追求を受けませんか?」
「堀君、君も次の助役の地位が目の前なのに、堅い事を言わずに富田さんに協力した方が良いよ」と微笑む大野市長。
「実は区画整理をスムーズに進める秘策なのだよ」
「えっ、こんな荒れ地の開発許可が区画整理に役立つのですか?」
「ほら、君の息子にどうだね、もうすぐ結婚だろう?」と大正住宅の家のパンフレットを見せながら微笑む。
「市長、どう言う意味でしょうか?」
「大正住宅が、一軒提供してくれるのだよ、君の気持ち次第だがな!」
「えー、こんな大きな家を貰えるのですか?」
「不満か?」と不適な笑みを見せる大野市長。
「ゴミ処理場にもポストが空くな」と惚けた大野市長は、今納得して家を貰うか?ごみ処理場に行くかと堀に迫った。
結局堀部長は大野市長に押し切られて、家一軒の賄賂で許可を承諾してしまった。
駅北の目立つ場所に、大正住宅のモデルハウスの建設が始まったのは、しばらくしてからだった。
ごみの様に密集した駅北の場所で建設は進められ、十二月の頭迄に完成させろとの命令に業者は夜も交代で作業を進めた。
岩場と雑草の湾岸の土地から少し離れた一番好立地の場所で、しかも許可無く立てられる場所が選ばれ、綺麗に整地がされると、ここにもモデルハウスが同じ様に建設が始まった。
「君の家がもうすぐ完成するよ」と堀部長に大野市長が笑って伝えたのは十二月の初旬。
開発の許可が取れて、建設が出来る場所の入り口にモデルハウスは完成を急ぐ。
十二月の半ばから、パンフレットを持って、丸山が雇った営業マンが反対派の自宅を訪問する予定になっていた。
芳香寺では毎週土曜日に反対集会を開かれ、人民党の市議団を中心に勉強会を行っていた。
駅前の看板が無くなった痛手は大きく、人数も減少気味だ。
「この週刊誌を見て下さい。この町の事業の事が書かれています。まだ内容は市側が悪いとは露骨には書いていませんが、今後取材が進めば悪行が書かれると思います」と人民党市議団のひとりが言うと「まだ一回だけの記事に、ここの奥さんが登場しているだけで、反対の記事では無いと思いますが」と住民の一人が発言する。
「今、取材を進めていると思います。次の記事では大きな進展があると思います」と答えてはいたが、肝心の二人は東京に戻っていた。
編集長から、もう少し事態が進んでから再び取材に行けと言われたからだ。
綾音と真希は色々事態の急変があれば教えて欲しいと、浅子に頼んで東京に戻っていた。
先日、浅子の元に二人から来年早々には取材に行くと連絡があり、その時「お姉さんに会われましたか?」と質問をされたが「まだです」と浅子は答え、会いたい気持ちと、会いたく無い気持ちの狭間で気持ちが揺れていると話していた。
その亜佐美は篤彦との連絡はもっぱらメールのみで、会う事が無くなっていた。
(汚職の捜査が入っているから駄目よ、お金も使わないで)と亜佐美にメールを貰ってはいたが、その捜査を篤彦は、母親のひき逃げ事故の捜査だと思っていた。
母紀子は蒼井総合病院を退院して、役所の近くのリハビリの病院に転院した。
松木外科なら篤彦は直ぐに行けるからだが、幾ら近くても翔子は行く様子も全く無かった。
そんな中、亜佐美が見舞いに紀子の元を訪れた。
亜佐美は何事も無く花束とケーキを持参して「いつも、大林さんにはお世話になっています、お怪我をされて災難でしたね」と紀子に話した。
言われた紀子は、亜佐美が篤彦を好きなのだと直感で感じ取っていた。
篤彦は、昼間電話で亜佐美が見舞いに来たと聞いた時は、警察は大丈夫なのか?と心配をしたが、夕方病院に立ち寄った篤彦に「あの亜佐美さんって人は良い人だね」と紀子に言われて、何事も無かった事がわかりに安心したのだった。
自分と仲の悪い翔子の事は敢えて口に出さない紀子は、酒に走るのも無理は無いかと諦めの心境だった。
亜佐美はあの警察署での取り調べの後、直ぐに加納に連絡して荒井に車を返していたので、荒井の溺死の事は全く知らなかった。
また、その後は加納とも全く連絡が途絶えていた。
前田刑事が(チェリー)に乗り込んで来たのは十二月に入ったある日の七時過ぎだった。
全く動きが無い亜佐美を揺さぶる手段に出たのだ。
幸い客は無く、須美子からは今夜は遅くなると連絡が入っていたので開店は亜佐美一人だった。
「あっ、刑事さん」と驚く亜佐美。
前田は「今夜は、半分は客で、良いですよ」と若い刑事と一緒にカウンターに座る。
「大林さんとは会われていませんね」
「はい、お客様ですから気まぐれですわ」
「そうですか?私共の調べでは片山津温泉に行かれていますよね」といきなり言われて亜佐美は驚いたが、開き直って「お友達と四人でゴルフですよ」と答えた。
「でもね、一緒に行かれた山田さんって言う人が、亡くなられた荒井さんの知り合いってご存じですか?」
「えー!荒井さんが亡くなられたのですか?」再び驚いた亜佐美。
「ご存じ無かったのですか?」
「はい、車は直ぐにお返ししました、その後は連絡もしていません」
「道頓堀川にて水死体で発見されました。もう先月の始めだったと思いますよ」
「全く知りませんが、殺人ですか?」
「一応は酔っ払っての事故ですね」亜佐美の頭には加納の顔が浮かんでいた。
あの男が殺したのよ!間違い無いわ、私も狙われているかも知れないと考えていると「何か疑問点でも?」と前田が尋ねる。
「いいえ、驚いただけです。これでも一度は男女の関係になった方ですから」と本当は何もないのだが、冷静さを装ってそう言った。
「あの山田さんが荒井さんの知り合いだという事も知らなかった?」
「はい、それも知りませんでした」
前田たちは、ビールを一本注文してそれを二人で飲むと客が入って来たので帰って行った。
「我々は間違っていたかも知れない」と前田が口走ると「亜佐美は関係が無いと?」若い刑事が言った。
豪華なマイホーム
「だが、俺は荒井が殺されたと思っている」
「誰が殺したのでしょう?」
「先程のママは知っているな、顔色で判った」
「それでは、見張っていたら犯人に出会いますか?」
「いや、逆だ。あのママが狙われる可能性が高い」
「危険ですね」
「人数を増やして、亜佐美の行動を見張れ、必ずホシが近づいて来る」
前田の予想は的中していた。
その日から数人の刑事に亜佐美を交代で監視させ、その情報は逐次前田の元に届く様にした。
加納は丸山に亜佐美の始末を依頼していたが、丸山は刑事がうろついているから危険なので、時間を置いて実行しますと報告していた。
亜佐美も荒井の死を知って、自分の身の危険を感じ始めていた。
亜佐美はその日から、出来るだけ一人の時間を減らすことにして、自宅のマンションも移るようにした。
警察に加納の事を喋るのは簡単だが、篤彦が逮捕されてしまう危険性があるのでそれは出来ない。
一方丸山から報告を受けた加納は、亜佐美の篤彦に対する気持ちを知らないので、自分の事をいつ警察に話すか心配が増大していった。
十二月の十日に、駅北のモデルハウスのシートが取り払われて一般の目に触れた。
「素晴らしいわね」
「大きいわね」
「こんな家に住みたいわ」と見学に来た人々の目を引いた。
人通りのない海岸近くのモデルハウスも同時に完成して、オープンになった。
そこには唯一、堀部長が家族を伴って、役所を休んで訪れていた。
「親父、これが俺の家か?」
「そうだ、真優さんと住むには大きいが、お父さんからのプレゼントだ」
「ありがとう」
「唯、少しの間はモデルハウスとして、見せる事になっている」
「見せるくらい何でもないよ」と大喜び。
喜ぶ息子とは正反対に堀部長の表情は暗い。
賄賂を貰ってこの奥の海岸の荒れ地の開発許可を出してしまった後悔が頭を過ぎっていた。
富田は「モデルハウスが完成したから、いよいよ切り崩しだな」と上機嫌で加納に電話で連絡をしていた。
加納は亜佐美が喉に刺さった小骨の様に感じて、毎日憂鬱な時間を過ごしている。
丸山の雇ったモデルハウスの営業マン達が、各家庭の訪問を始めたのはその日の夕方からだった。
「大正住宅の区画整理地区特別担当の向井です」と駅北の古ぼけた家を訪問していた。
「大正住宅の人が何か用なのか?」
「はい、駅前に我が社のモデルハウスが出来たのはご存じでしょうか?」
「知っているが、私には無縁だ、区画整理で庭が小さくなるだけでも頭が痛い、今でも小さな家がもっと小さくなるよ」
「それがですね御主人!今のモデルハウスに住めるのですよ」
「向井とか言ったな、何を寝惚けた事を言っている。そんな場所も無いし、金もない、帰ってくれ」
「御主人!今のこの家と、あの住宅を交換出来たら?考えますか?」
「あの様な大きな家がここに建てられるか?よく見てから言えよ」
「ここではありません。郊外の五十坪以上の土地にあの家を建てて、今お住まいの自宅と交換出来るのです」
「えー、あの家が無料で?」
「はい、駅まで十数分で見晴らしが素晴らしく、老後は最高の場所です」
「何処なのだ?」
「はい、今度の幹線道路計画にある高速道路から浜手に行かれた場所です。既に一軒モデルハウスの建築が終わっています。一度ご覧になりませんか?気に入ればその区画に来年度希望の住宅を建設致します」
「本当に、あの家が?自分の物に?無料で?」
「はい、明日お迎えに参りますから、見学にいかれましては?」
「判った、見るだけ見てみよう」
この様な営業でこの日の内に十五軒の家が、明日見学に行く事に決まったのだ。
翌日、見学を断った数少ない住民の一人が、芳香寺に連絡にやって来た。
話を聞いた住職の松谷は驚いて、人民党に問い合わせをするが、具体的な事は判らないとの返事だった。
海岸のモデルハウスを見た住民達は「今は殺風景だが、数年後湾岸開発で素晴らしい場所に変わるそうだ」「家は住むのが目的、こんな広い家に住めるのなら、今の家は売却だ」
「本当に建築費は要らないのか?」と口々に話す。
モデルハウスには、大きな車と庭、二階建ての住居、屋根には太陽光発電と、薄汚い家に住んでいる人達には夢の様な話だ。
「個数限定ですので、無くなり次第終了となります。仮契約をお早めに」との向井の言葉に我先にと契約署にサインをする。
坪三千円程度の土地を我先に欲しがる群集心理。
その様子を遠くから富田が車に乗って眺めている。
平均二十坪から三十坪の地主が僅か十五万の土地を買っているから、思わず笑い出す富田。
二千万以下で交渉した住宅なので、地主たちが持つ今の土地の価格でも充分儲けが出る富田。
将来大きな区画となれば坪単価二百万から三百万には確実に上がるから、ぼろ儲けの算盤勘定が出来るのだ。
「初日は大成功だと報告が入りました」
「上手く事が運んだな、加納君は頼りになる」と車の中で加納と話す富田は上機嫌。
しかし丸山の雇っている弁護士は中々頭が切れると、凶暴な丸山の繊細な一面を垣間見た加納だった。
週末の芳香寺の集会で異変が起こり、住職を始めとして人民党の面々も驚きの表情になった。
それは、集会に集まった人数が大きく減少してしまったのだ。
「みんなはどうしたのだ」
「判りません、加藤さんも、近藤さんも米田さんも来られていませんわ」浅子が面々の顔を見ながら住職に伝える。
「先日の大正住宅の事が原因では?」
「駅前に出来たモデルハウスの事ですか?」
「多分、あの家を郊外に建ててくれると言う話ですよ」
「郊外って何処なのですか?」
「私は断りましたから、それ以上は判りません」
「無料で、あの様な大きな家を貰える筈が無い」と松谷住職が怒る。
「皆さんの土地の値段は坪百万程度で、平均でも二千五百万から三千万の価値の土地になると思うが、それを売り飛ばして郊外に?」
「あのモデルハウスは、注文住宅では無いので、意外と安価で出来ると思いますよ」と人民党の一人が発言する。
だが集会の空気は暗く、反対派の意気が落ちているのがその場の人達にはよく判った。
モデルハウスの怪
話のなり行きを聞いていた浅子が、これは大事件だと思い綾音に電話をしたのは、まだ本堂で話が行われている最中だった。
マスコミの力で暴露して貰わないと、自分達だけでは難しいと思ったのだ。
本堂では「駅北区画整理の中で、地価の高い場所の切り崩しをされたな」
「我々の場所では声がかからない」と住民と一人が叫ぶ様に話す。
人民党と住職は今後の対策を練り、広範囲に反対派を集めようと、従来の駅北一丁目、二丁目の住民から三丁目、四丁目、五丁目までの住民にも反対運動に巻き込む事で一致した。
明日から人民党の選挙カーで広範囲の住民に呼びかける事になった。
また住職と浅子は、明日からモデルハウスの実体の調査に行く事になった。
翌日駅北の区画整理反対派の切り崩しが成功したとのニュースは、篤彦達にも伝わった。「何が起こったのでしょうね?」
「駅前に出来たモデルハウスが関係している様ですよ」
「モデルハウス?」と話しているところに設計の一人が「区画整理の仮換地図が少し手直しされたので、持って来た」と言って篤彦に渡す。
「減歩率でも変更したのか?」
「駅前の一丁目、二丁目が多少変わっただけだ。建設会社に送って説明を頼む」
「判った」と受け取った篤彦は図面を見て「何だ?これ?」と声をあげる。
希がその声に反応して駆け寄ってくる。
「駅前の富田さんの土地が従来の三倍近くになっている」
「本当だ、何故だ?」
「一、二丁目の住宅がごっそりと減っている」
「これは?どう言う事だ?」
それを聞いた希は早速泉部長の所に行って状況を話した。
泉部長も寝耳に水の出来事に驚いて、木戸助役の所に駆け込む。
「富田の爺さんと加納が組んで、市長を動かしたな」
「しかし、三倍は凄いですね」
「何か荒技を使ったのか?」
「判りません」
大野市長の不意打ちの様な区画整理の変更に、篤彦達も市長追い落とし派も虚を突かれた感じで、対応策を考える事になった。
翌日朝「飛行機で行来ますから」と綾音が芳香寺に電話をして来た。
彼女らをお寺に宿泊させる事にして、年末迄の長期取材となった。
泉部長に情報が入ったのは午後になってからだった。
「富田の爺さん、駅前の土地を住民から買い取った様です」と泉が木戸に報告した。
「えー、住民が売ったのか?相当高い値段で?」と木戸が驚く。
「違いますよ、海岸の二束三文の土地を貰って、住民が交換した様です」
「何処の土地だ」と市の地図を出してくる木戸。
「ここです」と指を指す泉部長「泉君、ここは断崖絶壁の荒れ地だよ。坪五千円もしないだろう?」
「助役五千円もしませんよ、三千円程ですよ」
「何故?坪百万もする土地と交換って?」
「それがよく判らないのですよ」
「意味不明だな、もう少し詳しく調べてくれ。何かからくりが有る様だ」
二人は意味不明の出来事に驚きの表情だった。
海岸の荒れ地には今日も数名の駅北の地主が訪れ、現地見学をして堀部長のモデルハウスを眺めると「大きいわ、見晴らしも良い」と口々に言っている。
「老後はこの様な環境で生活をしなければな」と夫婦連れを含めて数人が仮契約を済ませて帰って行った。
浅子と住職は、記者の到着を待って、彼女らと一緒に駅前のモデルハウスを訪れた。
「君達は大正住宅の社員か?」と一件人相の悪い係に尋ねる住職。
「我々は委託社員で大正住宅の正社員ではありませんよ」
「このモデルハウスは、宣伝用か?」
「お客さんは、この辺りの地主の方?」
「そうだが、一丁程有る」吉司がお金持ちの様に威張って言った。
「えー、そんなに広い土地をお持ちの方ですか?」
ここの社員は、駅前の地主が来訪したら巧い話しをして、海岸のモデルハウスを見学させるのが目的で雇われているだけなので詳しいことは聞かされておらず、勿論松谷住職が反対派の旗頭とは知らない。
「妹も百坪程の家に住んでいる」と三人を紹介する住職。
「ご兄弟?似ていませんね」
「当たり前だよ!義理だから」と笑うと「そうでしたか、失礼しました」
「百坪もお持ちでしたら、大邸宅を建設?」と言いながら、マニュアルに無いのか言葉に詰まった。
「一番下の妹は小さな家だよ」と松谷は咄嗟に話を作った。
「綺麗な妹さんですね、独身?」と浅子を見て問いかけると「昨年結婚してね、家が小さいとぼやいている」と次から次へと話す住職に呆れて聞いている綾音。
「それなら、このプランは最高ですよ」
「どんなプランなのだね」
「はい、郊外にこのモデルハウスと同じ仕様の家を提供致します」
「えー、こんな綺麗な家が貰えるの?」と浅子も綾音も驚きの声をあげる。
「お兄さん、嘘でしょう、妹の土地は二十五坪程よ」
「はい、それだけ有れば大丈夫でございます」
「私は四十坪、妹は百坪有るわよ」と綾音が調子に乗って喋る。
「百坪にはこのプランは適用していません、御主人は工場か何かでしょうか?」
「そうだけど、何かプランが有るのか?」
「詳しい上司は本日は留守ですので、明日にでも連絡させて頂きます」
「まあ、いいや、下の妹の家だけでも、大きくなるのは良い事だ」
「それでは、明日現地見学に行きますので、午後一時にここに集まって下さい」そう言ってパンフレットを手渡す係の男。
パンフレットには風光明媚な高級住宅地を貴方に、大きな庭と邸宅保証と書かれて、モデルハウスの写真と海岸からの景色が掲載されていた。
「素晴らしい環境の場所ね」と浅子が言うと「もう大勢の方が契約されています。残りが少なくなっていますよ」と笑顔で見送ってくれたのだ。
「これね、多くの反対派がいなくなったのは」
「どうやら、からくりが有る様だな」と住職が言うと「これは面白い記事になりそうです」と嬉しそうな綾音。
「宿泊費は要りませんから、良い記事をお願いします」
「判りました、でもお寺に泊まるのは始めてだわ」
「真希、幽霊が出るかも知れないわよ」
「嘘、恐い」と二人は楽しんでいる。
翌日泉部長が木戸助役に「凄い事が判りました」と報告に来た。
「何だった?」
「富田の爺さんの海岸の荒れ地の開発許可願いが出ていました」
「何!三千円の土地の開発許可?」
「そうです」
「担当長は堀部長だな」
「はい」
「何か賄賂を貰ったな」
「おそらく相当な物を貰ったと思います」
「市長と心中が決まったな」
「詰め寄られて、仕方無くしたのでしょうね」
「だが、誰が考えたのだろう?奇抜な作戦だな」と二人は呆れていた。
転落死の女
亜佐美を絶えず付け狙う男数人がチャンスを狙っていたが、刑事が亜佐美の廻りに見え隠れしているので中々そのチャンスが訪れない。
しかし、丸山に雇われた連中は諦める事はないから、亜佐美は絶えず危険に曝されている。
十二月の忘年会シーズンに入って(チェリー)も団体の来店が増えているので、丸山が送り込んだ人間が紛れ込んでも判らない日もあった。
亜佐美は常に警察の目を感じながら、帰りは以前のマンションの方向に一旦は向かうが、そのマンションで別のでタクシーに乗り継いで、店から反対方向にある新たに転居したマンションに帰っていた。
亜佐美が以前住んでいたそのマンションに、ある女性が引っ越してきたのは今月の初めだった。
その女は亜佐美と同じくらいの背格好で顔は全く似ていないが、仕事は同じくスナック勤めの女性だった。
二十日の日、亜佐美はいつもの様にタクシーで二時頃店を後にして、元のマンションに着くと、裏手で待たせていた別のタクシーに乗り換えた。
その女性も丁度亜佐美と同じ時間にマンションに帰り着きエレベータに乗り込んだが、亜佐美と同じ様な白い服にコート姿であった。
後ろを付けて来た男が同じエレベーターに乗り遅れると、すぐに元の亜佐美の部屋の階で待機していた別の男に連絡を取った。
連絡を受けた男は、女がエレベータから降りたところを襲って、そのまま階下に身体を放り投げたのだ。
深夜の二時半、暗闇の中二人の男は姿を消して、下の駐車場には白い衣服が真っ赤に染まった女性の、死体が残った。
朝まで発見されずに、新聞配達の人が見つけて警察に通報、マンションの周りは野次馬と報道陣で大変な騒ぎになった。
酔っ払っての転落?殺人?地元の警察は被害者の所持品が全く無いので、物取りの犯行の可能性もあると判断し、事故死と殺人と物取りのどれなのか特定できないままで捜査を開始したのだった。
被害者の名前は長谷川香織。最近このマンションに引っ越してきたばかりで、夜の務めなので昼間は殆ど近所の人は見かけることが無く、どのような人物かは判らなかった。
市役所でも殺人か事故か判らない若い女性の転落死の話題が出ていた。
「本町第一マンションで、若い女性が転落死したらしいわ」とバイトの間島玲奈が希に話している。
それを耳にした篤彦が「何があったの?」と尋ねた。
「私自転車で通勤しているでしょう。そしたら通り道が人で溢れていたのよ。それで聞いて見たら本町第一マンションから若い女性の転落・・・・・・」と聞いている途中から篤彦の顔色が見る見る変わると、慌てて課内から飛び出して行った。
「代理、どうしたの?」
「凄い勢いで顔色を変えて、走って行った」
「何?」
「本町第一マンションに知り合い?」
「えー、女性?」と二人は呆れた顔になった。
そのことを希は早速泉部長のところへ報告に向かった。
篤彦はタクシー乗り場に向かいながら、亜佐美の携帯に電話をするが、鳴るだけで応答が無いまま兎に角急いでマンションに向かう篤彦。
警察官が現状保全の為に監視体制を取り、縄を引いていたので中に入れない状況。
「どの様な女性が転落死したのですか?名前は判りますか?」矢継ぎ早に聞く篤彦に警官が「貴方知り合い?」と職務質問の様に尋ねた。
「その女性か判りませんが、知り合いがこのマンションに住んでいて、連絡が取れないので、どの様な女性か聞きたくて」焦る篤彦。
「年齢は三十歳位で水商売風、美形、それ以外は判らない。死亡時間は今日の二時頃だ。それより詳しい事を聞きたいなら、本署に行きなさい」
「あ、り、が、と、う」とは答えたが、益々亜佐美が転落死か?それとも誰かに突き落とされた?あの警察のマジックミラー越しに見た亜佐美の姿が蘇る。
タクシーに乗り込んだ篤彦は、もう自分がどの様な事になっても構わない。
身寄りの無い亜佐美を自分が引き取って供養をしなければなどといろいろな思いが頭を駆け巡って、篤彦を警察署に導いていた。
警察に着いた篤彦は「転落した女性の身元は判りましたか?」と力なく質問をした。
「先程判明しましたが、貴方知り合い?」
篤彦はそれには答えず心臓の高鳴りを感じながら恐る恐る更に尋ねる。
「その女性の名前は?」
「名前は長谷川香織さん、三十歳だが、知り合いか?」
「そうですか、知らない人です」と答えると一気に全身の力が抜けてしまったのだった。
役所では「代理が何故?顔色を変えて出て行った?」と泉部長が希に話している。
「判りません、水商売風の女性の転落死に関係が有るのかしら?」希の言葉に泉部長が「例のスナックの女?」
「そうですね、可能性高いですね」と希が言い終わらないうちに泉部長は助役の部屋に走って行った。
篤彦が亜佐美に電話を掛けた時は、亜佐美は前田刑事の訪問を受けていたので、電話に出られなかったのだった。
前田は転落死の女性が亜佐美と間違われて殺されたと推察して、地元の警察とは別の動きをとっていた。
前田は亜佐美に「完全に貴女は狙われていますが、警察も警護の限界ですので、このまま亡くなった事にして身を隠して下さい」と提案した。
最初亜佐美は難色を示したが、店の件は警察で取り敢えず処置するから、身を隠してと必要に説得されて、一時身を隠す決断をした。
亜佐美には犯人が判っていたので、危険は人一倍判るのだ。
亡くなった女性の身元がマスコミで発表されない様に細工を頼む前田。
地元の警察も前田の助言で、直ぐに身元が判明したので従う他無かった。
前田が殺人だと断定して告げたので、犯人に警戒されないようにマスコミ発表では殺人という事を差し控えた。
長谷川香織の遺体は、愛媛から両親が駆け付けて引き取ったが、酔っ払っての転落だと告げられて「馬鹿な娘だ、田舎に居たら良いのに、変な男に騙されて、水商売に入るから・・・」と声を詰まらせて帰って行った。
篤彦は取り敢えず亜佐美では無かったと安心したが、今更ながらこの事件で自分が亜佐美に惚れている事を実感させられた。
須美子の元に警察が向かったのはその日の夕方。
須美子は転落死が亜佐美だと聞かされて気が動転していたが、前田はまだ殺人犯が現れる可能性が残っているので、店をそのまま開店して欲しいと頼み込んだ。
自分一人では無理だと言う須美子だったが、婦人警官を二人投入し、刑事も交代で客の振りで入るから、犯人逮捕に協力をと言われると、多少の好奇心も手伝って須美子は引き受ける事にした。
亜佐美しかわからない店の要領は、須美子には内緒で亜佐美が前田に教えたので、商売には支障が無かった。
亜佐美にとっては加納が逮捕された時、篤彦に被害が及ぶ事だけが心配の種だ。
荒れ地の住宅
転落の当日、浅子と綾音達三人は指定の時間に駅前のモデルハウスに向かった。
もみ手をして三人を迎えた係の男達は、バスに三人を乗せる。
今日は眼鏡をかけて、栗色の鬘を付け、普段は着ない様な服装をした浅子。
「これなら、判らないでしょう」と住職の前でくるりと一回転をして見せた。
バスには集会で何度か見かけた男女数人乗っている。
浅子は、この人達も同じ様に言われて、見学に行くのねと見ていると「何処かで見た事あるかしら」と声をかけて来た女性がいた。
「私は、お婆さん知らないよ」といつもの浅子とは別人の様な喋り方をすると「すみません、間違えました」と引き下がった。
しばらくしてバスは海岸の分譲地に到着した。
広々とした場所に、駅前と同じモデルハウスが建っている。
庭とガレージが付いていて、駐車している高級車が雰囲気を醸し出している。
「わー、お父さん素晴らしいわ。伊藤さんが契約したと話していたけれど、判るわ」と言う声が聞こえた。
説明する係が「如何ですか?この住宅が貴女様の物でございます」と揉み手で浅子に近寄って来た。
「この家が建てられるのは?何処の場所?」と逆に浅子に聞かれ、その係りの男は困った顔をしたが、気を取り直して「はい、向こうの海岸の近くでございます」と話した。
「見せて貰えますか?」
「は、はい勿論です。まだ整地がされていませんので、自然のままですが、綺麗な分譲地になります」と言うと車に案内して三人を乗せると海岸の荒れ地に向かった。
浅子達は一目見て、これは?何?海岸の断崖絶壁の上の雑草地だ!と驚いたが「ここが綺麗になるのですか?」と尋ねと、「はい、綺麗に整地されて、安全柵も設置されますので小さなお子様も安全です」と微笑みながら男は答えた。
浅子は、こんな土地が何故?開発出来るの?坪幾らの問題では無いわ?詐欺だ!と考えていた。
綾音と真希は密かに写真を撮影している。
これは、大きなスクープになりそうだと直感で判ったのだ。
「ご契約を」
「そうね、今夜主人と相談してから決めるわ」
「はい、よろしくお願いします。直ぐ近くに幹線道路のインターが出来ますので、日本全国に高速道路で繋がりますよ」と右手を指さす。
一応色々な手続きと、今後の事を聞いて三人は呆れて帰途に就いた。
帰りのバスの中で、亜佐美の転落死の事故の話をしている初老の女性がいた。
聞き耳を立てた浅子は、三十歳前後、水商売の女性、などの言葉が聞こえると、いつも頭の片隅にある姉の姿が浮かび、抑えられない程の胸騒ぎを感じた。
「今夜でも、見に行きますか?」と心配そうに綾音が言うと、黙って頷く浅子。
一度も会った事がないが、実の姉の可能性が非常に高いその女性が転落死かも知れない。
浅子は先程までの、住宅詐欺の事を完全に忘れてしまった。
そんなことより姉の安否が心を襲い、会いに行かずには我慢出来ない状況となった。
もし姉が本当に亡くなっていたら、自分が遺体を引き取って、お寺で供養をしなければと胸騒ぎが収まらなかった。
夜、七時に三人でスナック(チェリー)に行く事にした。
住職は法事の供養に出掛けて夜迄帰らないから、浅子の不安は夜まで続いた。
夕方戻った住職に「姉に会って来ます」といきなり告げて急いで出て行った浅子に吉司は唯驚いていた。
亜佐美に連絡が出来ない篤彦に(しばらく姿を隠すわ、私の代わりに亡くなったらしいの、私は死んだ事にしておいて)と亜佐美からのメール。
(何故?)
(危険だと、警察が言うから、暫くの間よ)と篤彦は待ちわびたメールを受けてようやく顔が安堵の表情になった。
加納は、丸山から「上手く消せたよ、お金頼んだよ」と電話があったので「確認したら振り込む」と返事をした。
確かに亜佐美のマンションで女性の転落死が報道されている。
しかし、全てに慎重な加納は自分の知り合いに頼んで(チェリー)の様子を伺わせることにいた。
自分で確かめるような危険なことはしないのだ。
今夜、意外な人物が(チェリー)に集合しようとしていた。
いつも通り七時に須美子が店を開けたが、既に婦人人警官が着飾って二名入店していた。
「意外と、感じ出ているでしょう?」
「ほんとうね、本職の様ね」
「私達、以前大阪のクラブでも潜入捜査したからね」と笑う。
「こちらが、あけみさんで、そちらがユミさんね」と確認する須美子もワクワクしていた。
ママを突き落とした犯人が来る可能性があると思うと、興奮を隠せなかった。
開店後しばらくして足立敏一が「久しぶり」と言いながらケーキの包みを持って入って来た。
「今日は?ママは遅番?」と尋ねる足立は、あけみとユミを見つけて「新人?」と立て続けに質問をした。
「足立さん、知らないの?」と須美子が尋ねる。
「何が?」
「転落事故よ」
「今朝の事故?」
「そうよ、ここのママなのよ」
「えーーー」驚きの表情で声を出した足立。
「私も聞いて驚いたのよ」
「店休まないの?」
「あのママ、雇われだからね。オーナーがあの二人を捜してきたので、休めないのよ」
「葬式とかは?」
「実家の愛媛から両親が引き取りに来られたのよ、だから何もなし」
「何故?転落?」
「昨夜相当飲んでいたからかな?いつもと同じ感じで別れたのよ」としみじみと語る須美子。
他の婦人警官は事情を知っているから、平然と聞いている。
ママの話題で飲み始める足立もしんみりとした通夜の様な気分になっていた。
その時、扉が開いて綾音と真希が、そして少し遅れて浅子が入って来るなり「あっ!」と須美子が絶句し、続けて足立も一目見て「あっ」と緊張した顔に変わったが、直ぐに亜佐美ではないと判り「探偵さん、いらっしゃい」と須美子は笑顔に変わった。
「そこの彼女も探偵さん?」と須美子が尋ねると、
「違います、私に似た方がいらっしゃると聞きましたので」と浅子が言った。
「えっ、ママの親戚の方?」
「違いますが、気になったので探偵さんに、連れて来て貰いました」
「本当によく似ていますよ、その髪の色も」と言われて浅子は、朝から鬘をしたままでとってなかったことを思い出し、驚いて頭を触った。
対面
「折角お越し頂いたのに、ママはもう来ませんよ」
「何かありましたか?」
「今朝マンションから転落死されたのです」
「えーーー」悪い予感が的中したと驚く浅子。
しばらくして落ち着くと「ご遺体は?」と怖々尋ねる。
「葬式も通夜も実家で行われるそうです」
「実家?」異なる話に不思議な顔になった浅子。
「はい、愛媛からご両親が来られて、引き取られました」
「えっ、愛媛が実家ですか?」
「はい、その様に聞きましたよ」
「あれ?変ですね、お母さんは亡くなったと聞きましたよ」と綾音が言うと須美子は「あれは嘘だった様です。警察の方が教えて下さいましたから」と答えた。
その話を聞いて浅子は自分とは関係が無い他人の空似だっと思い、急に嬉しくなってきた。
三人は交代で歌を歌って楽しそうに過ごし、足立も浅子に惹かれて中々帰らないで歌を聴いていた。
その時、見知らぬ男が入って来てカウンターに腰掛けた。
婦人警官は直ぐに、暴力団関係の人間だと感づくが、男もあけみに唯ならぬ気配を感じて、ビールを一本飲むと直ぐに帰ってしまった。
その連絡を受けて直ぐに刑事が尾行したが逃げられてしまった。
丸山が部下から連絡を受けると加納に「加納さん、ママは来ていませんが、刑事はいましたよ」と伝えた。
「刑事がいたのか?」
「はい、加納さん危ないところでしたね」
「助かった、ママはいなかったのだな」
「はい、いなかったです。代わりに婦人警官がいたけれどね」と電話で笑った。
加納は警察が転落事故とは考えていない事が判明したと思った。
当分亜佐美に関連する事に顔を出さない様にしなければ、危なく墓穴を掘るところだったと反省をしていた。
夜も更けて三人は(チェリー)を後にした。
浅子は自分の姉だと思っていた亜佐美が全くの他人だと判って、半分は嬉しく、半分は寂しかった。
でもマンションから転落死だとは、不幸な話だとは思いながらも一度は会いたかったと思った。
一度でも自分の姉だと思った人だったからだ。
「残念だわ、浅子さんがお姉さんとの涙の対面を記事にしたかったわ」と歩きながら綾音が言うと「姉はそうは簡単には見つからないわ」と微笑む浅子の頬を、十二月の夜風が冷たく叩いた。
お寺の前まで歩いてきたところで「夜更けにお寺の前に誰か立っているわ」と真希が叫んだ。
女性の様に見えたその人物に浅子が「何か御用でしょうか?」と声をかけた。
振り返った顔を見て「わー」「わー」と綾音と真希が同時に驚いた声を上げて二人は抱きついた。
浅子は余りの驚きに声が無い!「幽霊?」と綾音が言うと「間違いない」と真希が答えて動かない、いや動け無いのだ。
「貴女ね、ここの奥様?」とその女性が尋ねてきた。
ようやく落ち着きを取り戻した浅子は「はい、亜佐美さんですか?」と言った。
「この様な夜更けにすみません、狙われていますので、こっそりと来ました」
直ぐに落ち着くと、浅子は木戸を開けるとその女性に寺の中に入る様に促した。
何か事情がある様子なので、応接間に通して改めて挨拶をした。
「松谷浅子です」
「加山亜佐美です」
「私達今、貴女の店に行って来たのよ」綾音が言った。
「ビルから転落死をしたと聞いて帰ったら、お寺の前に立っているから驚きますよ」と真希が言う。
「すみません。あの方は私に間違われて殺されたと思います」
「えー」
「殺された」二人が驚きの声を上げた。
「はい、警察の話では突き落とされたと。それで私はいつ殺されるか判らない身なので、それまでに一度、私に似ていると伺った奥様に会いたかったのです」と亜佐美が説明した。
「私も、転落死されたのがママかと思って、思い切って店に行きましたの」
「警察の方の勧めで身を隠しているのです」
「でも並んで見ると似ているわ」綾音が今更の様に二人を見比べる。
そこに住職の吉司が入って来て挨拶をした。
しばらくして吉司が「これが、浅子が入っていた籠に有った手紙です」とクリアケースに挟んだ古ぼけた手紙を持ってきて差し出した。
亜佐美がそれを手に取って見るなり、みるみる顔色が変わると、大粒の涙が頬を伝って流れだした。
しばらくして「これは母の文字です、間違い有りません。浅子は私の妹です」と涙声で話した。
それが判ると、住職は綾音達を連れて部屋を出て行った。
二人に時間を与え様とする吉司の配慮だった。
「何故?私は捨てられたの?」涙声で聞く浅子に「私は最近まで知らなかったのだけれど、お母さんは浅子の幸せを願って、ここに預けたのよ。何度も引き取ろうと考えたと思うわ。私も何度かここに来たかも知れないわ」
「じゃあ、何故?」
「貴女の幸せそうな顔を見たら引き取れなかったのよ。お父さんが事故で亡くなって、生活がやっとだったから、小さな浅子がいたら働けなかったと思うわ」
「お父さんは、どんな人?」
「優しい人よ、交通事故で、ひき逃げされて亡くなったの」
「ひき逃げ?」
「お母さんがいつも同じ事を話していたから覚えているわ」
「お父さんってどんな仕事をしていたの?」
「建築設計の仕事かな」
しばらくすると、二人はようやく姉妹の会話に変わっていた。
お互い心が通じ合ったのか、笑い声が聞こえる様になり、そのまま亜佐美はお寺に宿泊させた貰い亜浅子と一緒に枕を並べた。
昨夜は殆ど眠っていないだろう、そんな幸せをお互いに感じていた。
翌朝綾音と真希は寝床で「良かったね」
「感動したわ」
「次の原稿はこれをテーマに書くけれど、亜佐美さん何故?命を狙われるの?」
「そこが判らないわ、身を隠す様に警察に言われるのは、余程の事だわ」
「何を取材する?」
「昨日の荒れ地の開発許可も叩けば相当なボロが出るわね」
「でも、あの姉妹も気になるな」
「ところで最初に手紙をくれた人は、何処の人だろう?」
「反対派?賛成派?」
「どちらでもないかも知れないわね」
「でも殺人事件まで起こると、これは大きな事件になるわね」
「でも警察は亜佐美さんが亡くなった事にして捜査をしているでしょう?」
「纏めてみましょう」とノートに書き出した。
加山亜佐美、松谷浅子――――姉妹、亜佐美は何者かに命を狙われている。
反対派が狙われるなら浅子の方だが、スナック経営の亜佐美が狙われている?
富田喜一は荒れ地を駅北の地主達に交換を迫って、既に二十軒近い交渉が成立している。
この事業を行っているのは大手の大正住宅。
反対派は大きく切り崩されて、今月末の区画整理の入札阻止は難しい状況。
区画整理を始めとする三事業は大野市長の肝いりで進展している。
一番儲かるのは富田喜一、交換で得た土地が沢山富田に転がり込む。
坪千円から三千円の土地と駅前の土地の交換は、富田に有利だ。
他に何があるのだろう?殺人までする様な事があるのだろうか?
「役所の勢力図を調べてみようか?」と起き上がる綾音。
「亜佐美さん、何か隠しているわね」
「そうよね、命を狙われる何かをね」二人の意見が一致した。
役所の取材
二人は市役所に取材に行って、区画整理の取材場所を聞くと、篤彦の部署を案内されて三階に向かう。
玲奈が名刺を受け取って「代理!マスコミの方が区画整理の取材に来られていますが」と篤彦に伝えた。
「えー、マスコミ?週刊クローズの記者か?」
「はい女性が二人です」
「聞かれても困るから応接に通しなさい」と篤彦は名刺の名前をはっきりと見ないで案内させた。
もうすぐ入札で建設会社からの問い合わせが多く、特に急に大きくなった富田の土地の事が圧倒的に多い。
高松興業が何度も尋ねるのだが、高松興業は驚く程の変更に対応が出来ない状況となっていたのだ。
三俣は全く入札には参加の意思がない状況で、加納が墓穴を掘るのを待っているのだ。
小山内はそれでも長谷川香織の転落死が、加納の仕業だとは思ってはいない。
逆に加納の過去の仕事の全貌を調査していた。
昔の大手の建設に就職していた時代に遡って、不審な行動は無いのか?篤彦の母親のひき逃げを依頼する男だから、他にも何かあるはずと目論見を付けていた。
もう一つ何か大きな事を掴めば一気に加納建設は葬る事が出来る。
今のひき逃げ事件は、何者かが荒井を始末して揉み消してしまったので、小山内は当てが外れた状況になっていた。
加納為吉の調査資料を受け取って、小山内は過去の経歴を調べ始める。
大学を卒業しても家業の加納建設を継がずに、大阪の大手の建設会社大正建設に就職か?修行だな。
入社二年目にいきなり係長に出世か?大手の大正建設では異例の早さだな?
その後は二十八歳で課長、加納建設に戻る前には部長か?部長職を断って家業を継いだのか?相当なやり手だな。
経歴を読みながら、でも普通係長になれるのは三十歳前後だよ、その年齢では課長か?と不思議そうに履歴書を見る小山内。
今度はネットで大正建設の業績推移と、大きな工事の状況を調べる小山内は、異例の出世に何かを感じたのだ。
大正建設は今の大正住宅の親会社だな、今では住宅の方が大きくなっているが親は親だな。
例の海岸の住宅も加納の口利きの可能性が大きいな。
約三十年前かとネットを見ていると、大阪の玄関口大規模再開発構想の文字、メインの駅ビルから数棟のビル群の建設、一般にアイデアを求めて見事桂木樹一郎さんの構想が採用、賞金一千万獲得、施工は大正建設の記事を見つけた小山内。
事業規模数千億円か、当時としては破格の事業だな。
この事業の獲得に尽力したのか?と不思議そうに記事を見終わる小山内。
だが今の時点で決め付ける事は出来ないが、何か臭うのだが決定的な事は何も判らなかった。
応接に入った篤彦が「君達、探偵さんでは?」と驚いた声をあげる。
「ごめんなさい、実は編集記者です」と二人は篤彦にお辞儀をして謝った。
「ところで東京の記者さんが何の取材?」と尋ねる篤彦に最初の記事が載った本を開いて見せる二人。
「この記事は読んだよ、芳香寺の奥さんの事だけれど、中身は区画整理と駅前開発の事が書かれているよね」
「そうですが、この第二弾を新春号に掲載する予定なのです。私達が見ても富田さんが異常に利益を得る様に見えるのですが?」
「そうですね、確かに見えるでしょうね」と困惑の表情。
「富田さんの海岸の荒れ地が何故?開発許可が出ているのですか?」
「もう、調べたのか?」
「はい、現地にお寺の奥さんと一緒に行って来ました」
「そうですよ、あの様な場所の開発って変でしょう?」と横から真希も怒った様に言う。
「私が、開発の許可を出す訳ではないので、今開発審査会に堤出されているのは確かです」
「それって通るのでしょう?」
「何とも言えませんが、出す人によっては通り易いですね」
「誰が出したのですか?」
「都市開発部長の堀部長です」
「そうですか、話は変わりますが、今回の三事業、駅前再開発、幹線道路、駅北区画整理事業は加納建設、高松興業、三俣建設が競っている様ですが、噂では三俣建設は全く入札にならない様な金額を提示したと聞いていますが、本当ですか?」
「早耳ですね、本当です、多分二社に敵わないと諦めたのでしょうね」
「一度その辺りも取材してみます」
「大林さん(チェリー)のママさんとは懇意にされていた様ですが?転落死はご存じですよね」
「はい」
「ご存じなのに落ち着かれていますね」と言われて顔色を変える篤彦に「ご存じなのですね」
「何を!ですか?」
「亜佐美ママが無事だと言う事ですよ」と言って微笑んだ。
篤彦はこの二人も亜佐美の無事を知っていると安心したのか「何処に居るかご存じなのですか?」と尋ねた。
「はい、一緒に住んでいますわ」
「えー何故?君達と?」
「私達芳香寺に滞在していますので」
「えー、亜佐美さん芳香寺に?」
「はい、そうですよ、涙のご対面に感動しました」
「???」怪訝な顔の篤彦に「姉妹だったのですよ」と微笑むと「えー。本当ですか?良かった」と篤彦は満面の笑みを浮かべた。
二人はこの大林は亜佐美の事を愛しているのだと確信して、堀部長の所に取材に向かったが、堀は忙しい事を理由に取材を拒否してしまった。
その後役所の中で色々取材を行った二人は、大野市長派と木戸助役派の存在を突き止めて、自分達の雑誌社に送った手紙の主が判ったのだった。
二人は夕方になって、小山内の会社に取材の申し込みを入れると、小山内も彼女達に用事があったのか、(きむら)で会おう、食事をご馳走すると上機嫌だった。
亜佐美は芳香寺で、浅子とお寺の中の片付けを手伝いながら楽しく過ごしていた。
始めて肉親に会った浅子は、亜佐美に甘えて姉妹である幸せを満喫している。
人民党の活動によって、三丁目、四丁目、五丁目の住民達が芳香寺に徐々に問い合わせをしてくる様に変わって来た。
電話の応対をしている浅子を真似て、亜佐美も住民の悩みを聞いている。
加納に利用されて、賛成派の手助けをしていたとは思えない自分に驚く亜佐美。
夕方(きむら)に綾音と真希が行くと、小山内は既に奥のテーブルに座って待っていた。
「早速ですが、三俣建設さんの幹線道路の入札金額が法外で、入札を降りられたのかと思いまして、その辺りの事情をお聞きしたくて」と切り出した。
「なるほど、驚かれたのですね、その答えになるか判りませんが、この記事を調べて貰えませんか?」と古い大阪駅前再開発事業の記事を差し出した。
過去の疑惑
「これが今回の入札と関係があるのですか?」と不思議そうに尋ねる綾音に「この事業を落札したのは大正建設ですよ」
「大正建設?」
「そうです、大正住宅の親会社です。この大正建設に勤めていたのが、加納建設の社長加納為吉さんです。何か感じませんか?」
「判りました。調べてみましょう」と綾音は何かを掴んだ気分になっていた。
「もうひとつ、この再開発事業は公募の建築設計コンテストも行われたのですよ」
「この記事の桂木樹一郎さんの案が決まったのですね」
「しかし、私の記憶ではこの桂木さんはその後目立った作品は無いですな」と再び何かを伝えたい様な小山内の言葉。
その後は小山内のお酒のピッチが上がる。
「スナックに行きますか」と小山内は上機嫌。
二人は(チェリー)の様子も心配なので、小山内を誘って店に行った。
月末近いのに大勢の客が入って、須美子も婦人警官も忙しくしていた。
前田がカウンターで一人で飲んでいて、三人を目で追っている。
綾音と真希は、他に変な客はいない様だと安心した顔で歌を歌い始めて、小山内はもくもくと飲んでいる。
小山内は今夜の目的は達成したから、後はこの二人が何かを掴む事を祈るだけだ。
明日の入札は勿論高価格で形だけの入札にする予定にしている。
入札結果を見たら、綾音と真希は東京に帰って行った。
小山内からの宿題を調査するのと、年末年始の休暇の為、その休みに原稿を仕上げて、新年の最初の本に掲載予定だ。
(荒れ地に群がる亡者達)と言うサブタイトルで、海岸の荒れ地を記事にする予定だ。
駅北区画整理事業は、加納建設が落札して、高松興業には不思議と三丁目、四丁目、五丁目の仕事が追加で発注された。
もう完敗だと諦めていたのに、舞い込んだ仕事に「あの男が気を遣ってくれたのだ。森本君良い後輩だな、お礼をしておきなさい」と林蔵は上機嫌になっていた。
その理由は幹線道路から駅北地区への道路工事も含まれていたからだ。
翔子は年末に森本から「お正月にお召し上がり下さい」と和牛のすき焼き肉を貰って大喜び、牛肉の下には万札が束で敷かれていた。
富田が「高松にも何か仕事を与えないと、我々の邪魔をする。適当に分け与えて置いてくれ」
「はい、駅前以外は譲りましょう、お金に成りませんから」と加納と富田は美酒に酔って話していたのだ。
「一応入札は行ったが、三俣は全く同じく価格が法外だったな」
「何故?この様な入札をしたのだろう?」
「二社には敵わないと諦めたのでしょう」
「何か理由がある様に思えて仕方が無いが、また来年の話だ、良い年に成るよ」
「はい、楽しみです。木戸市長の誕生ですね」
泉部長と木戸助役も来年が自分達の年になると夢を見て、仕事が終わった。
「結局、獲物は引っかかりませんでしたね」
「罠にかかると思ったのだが、残念だった」
「来年はママに生き返って貰いましょうか?」
「かなり危険だが、完全ガードで、守ろう」
前田刑事と婦人警官と仲間達が、来年は亜佐美を囮に使った犯人逮捕を目論んでいた。
その亜佐美は浅子との生活が楽しくて、芳香寺に滞在してそのまま正月も迎える事にしていた。
仕事納めの後、篤彦は(良かったですね、妹さんが見つかって)
(ありがとうございます、楽しい生活を送っています、落ち着いたらゆっくりとお会いしたいですね)
(はい、私も是非会いたいです)
(良いお年をお迎え下さい)と久々のメール交換をして終わった。
東京に帰った二人は過去の資料を引っ張り出して、小山内の話した大阪駅再開発、一般公募デザインコンテストの概要を調べていた。
優勝賞金一千万、佳作百万が五名、優勝の桂木樹一郎は大阪の建築デザイナーで、後にも先のも有名な作品はこの作品のみ、他の作品は無い様だ。
「変ね、これだけの賞を取る人が、他の作品が全く無いのは?」
「何か資料は無いの?」二人はパソコンと睨めっこで探すと「綾音さん、無理よ!」と叫ぶ真希。
「半年後に亡くなっているわ」
「えー、半年後か、二十五歳か、無理だわね、他に作品無い筈よ」
「この人神奈川の出身だわ、家族がいたらそこから何か判るかも」
「来年早々行きますか?」
「明日行く」
「この押し迫った時期に?」
「何か手掛かりがあるのよ、小山内さんは感づいているけれど、調べられないのよ。私達には膨大な資料が見られるから、調べて欲しいと託されたのよ」
「マスコミ業界の強みね」
二人は二十九日の押し迫った日に、車で茅ヶ崎の桂木の生まれた地に向かった。
桂木は茅ヶ崎で生まれたが、建築デザイナーを目指して勉強をして、大阪の建築会社に就職、町村建設の建築設計部に在籍して勉強をしていた様だ。
啓二と言う弟が茅ヶ崎に今も住んで、地元の工務店で大工をしていた。
「今頃、兄貴の事を聞きに編集社の人が来られるとは」と驚きを隠せない啓二。
もう年内の仕事は終わって、年末年始の休みに入っているので、逆に暇な啓二は「兄貴が亡くなって三十年位かな?」と亡くなった年月を思い出す。
「兄貴が建築の仕事をしていたので、自分も大工になったが、兄貴に才能が有ったとは思えないのに、大きな賞を貰って、あの時は家族全員が驚いたよ」
「それ程、驚きだったのですか?」
「建築デザイナーと言う肩書きで町村に入社したけれど、殆ど下働きだったと思うよ」
「町村建設に入社したお兄さんが何故?大正建設から応募したのですか?」
「よく判らないけれど、引き抜かれたとか話していたよ」
「大正建設に引き抜かれた?」
「そうです、兄貴も酒が好きで、大阪の飲み屋で大正建設の社員と仲良くなったから、転職したと話した事がありましたよ」
「町村建設は今では小さな建設会社になっていますよね」
「昔兄が就職した当時は、大正建設より規模が大きかったかも知れませんよ」
「この大阪再開発で大正建設は大きくなったのね」真希が話すと綾音が「お兄さんは病気で亡くなられたのですか?」
「いいえ、事故です。工事現場の視察中に足を踏み外して、転落死でした。大きな賞を貰ってこれからという時でしたから、残念でした」
「事故ですか」と念を押す様に綾音が言う。
それだけ聞いて二人は桂木の家を後にした。
「真希、大正建設に誰かいたわよね」
「そうだ、加納建設の社長だ」と叫んだ。
二人にはようやく、小山内の今回の意図が理解出来てきたのだ。
過去の真相
「年が明けたら、町村建設に取材に行こう、何か判るかも?」
「昔の事知っている人いるかな?規模が小さくなっているからね」
「運次第だわね」
二人は大スクープの期待を持って東京に帰って行った。
芳香寺では姉妹が楽しい正月を迎えて、吉司も花が二つ咲いた様で明るい正月だと大いに喜んでいた。
篤彦の自宅は、寝ては酒、起きては酒、恒例のマラソンを見てお酒を飲むだけのいつもと同じ正月風景である。
篤彦の仕事のお陰で家計が潤っている翔子は文句一つ言わないで「もう飲まないの?お酒はたっぷりと有るわよ、ほら」と日本酒の瓶を出してきて篤彦に見せる。
篤彦は、これが隠していた酒か?どれも銘酒で手に入らない物だと酒を見て思うと、「冷やで飲むぞ」と嬉しそうに言った。
翔子は、この人酒以外に興味の有る事は無いのかしら、女の話も無いし、私達はレスだし、今更嫌だけどねと思いながら、グラスにその酒を注ぐと、篤彦は口からグラスに行って飲むなり「旨い、最高だ!」と上機嫌だ。
そんな篤彦の方も、好きな女がいるのだと話したらどんな顔するだろう?と翔子の顔を見たのだが、翔子は「満足そうね」と笑いを返している。
この夫婦は全く別の事を考えている状態だった。
富田の家では、大野市長と加納為吉が呼ばれて新年会が開かれ、大いに盛り上がっていた。
「富田さん年明けには、開発許可が出る予定ですから、楽しみにして下さい」と大野市長。
「もう二十五軒位は契約終わりましたよ、市長のお陰だ」と加納が言う。
「いや、加納君のアイデアが良かったよ」三人は我が世の春を満喫していた。
タクシーで帰る大野市長に冨田から菓子折りが手渡されたが、自宅に帰って開けてみると数百万の現金が入っていた。
年が明けて待ちかねた様に綾音と真希は関西に向かった。
町村建設は和歌山が地盤の建設会社に縮小して存在している。
綾音が町村建設に昔の大阪駅再開発の事をお聞きしたいと電話でお願いすると、お爺さんがその話なら得意だと孫の町村弓弦が答えた。
何度も聞かされているのか、弓弦は話を聞いてくれる人が嬉しいのか?即座に歓迎してくれたのだ。
到着すると予想した通り三十歳位の「祖父から、何度も聞いています。最近は聞く人がいないので寂しそうですから、是非聞いてあげて下さい」と自宅の離れに二人を案内した。
「お爺さん、こちらの雑誌社の人が大阪再開発事業の話を聞きたいのだって」
「おお、聞きたい、そうかそうか」嬉しそうに招き入れた。
弓弦は「半分呆けていますよ」と言って八十歳を超えているだろう町村丈太郎に会わせた。
足が少し弱っている様だが、それ以外は健康そうな丈太郎。
「何処の雑誌?」
「週刊クローズです。私が町田綾音、この子が窪田真希です。よろしくね!お爺さん」と声をかけると丈太郎は嬉しそうな顔をした。
「この雑誌知らんな、有名か?」
「はい、結構有名ですよ」
「大阪再開発事業は町村建設が工事をする筈だった」といきなり話し出す。
「負けたのですよね」と言うと「違う、負けたのでは無い、盗まれたのだ」と恐い顔になった。
「盗まれた?」
「そうだ、そのうえ死んじまった」
「誰が?ですか?」
「あいつは天才だった、町村の宝だった」と言うといきなり泣き出す丈太郎。
「あれ、これは話が聞けないわ」
「何故泣くの?お爺さん」
「これが泣かずに話せるか!」
「はい」と返事をする二人。
意味不明の泣き場面で、丈太郎は近くのハンカチで鼻をかむ。
何が何だか訳が判らない二人は、困ってしまうと「少し尋ねて来ます」と真希が離れを後にして、事務所の方に歩いて行った。
「すみません、お爺さん泣いてしまって、話を聞けないのですが?」弓弦に尋ねた。
「いつもですよ、昔の事を話す時は感情が先に入ってしまって、泣いてしまうのですよ、待って下さい、半時間もすれば詳しく話しますよ。僕には本当なのか判りませんが、興味有る話かも知れませんよ、記者さんの意図と合えば良いですがね」
「はい」
「大阪駅再開発事業の不正?かも知れません」そう言われて真希は「頑張ります」と言うとまた離れに向かった。
そこにはまだ泣き終わらない丈太郎の姿がある。
「いつもこうだって。半時間程で話し出すらしいわよ」と真希が笑うと「半時間も?」と腕時計を見る綾音。
しばらくして「昔は大阪の南に大きな本社が在ったのだよ。地元は和歌山だが、わしのお爺さんが大阪に出て、それを親父が大きくしたのだよ」と急に話し出した。
「まだ、半時間経過してない」と呟く綾音。
「関西では一、二の大きな建設会社になったが、お爺さんは、息子の丈司が若くして病死してから和歌山に舞い戻ったよ」と言うとまた泣き始める。
しばらく泣き続けると急に「あの事故さえ、無かったら、和歌山に戻る事は無かった」
「事故って?」
「建築現場から落ちた?」
「馬鹿、それは違う人でしょう」
「あっ、そうか判らなくなっていたわ」と二人が漫才の様なトークをしていると「建設現場から転落死したのは、桂木だろう?」
「よく知っていますね」
「当たり前だ、我が社にいた男だから知っている、酒飲みの馬鹿な男だ」
「でも賞を獲った人でしょう?」
「馬鹿な、あんな酒飲むしか能の無い男が賞を獲れる訳が無かろう」
「それでも実際貰っていますよ」
「あいつは、醉狂になったのだよ」と怒る。
「醉狂?」
「そうだ醉狂だ」
「それ何ですか?」と真希が尋ねる。
「いつも、仕事が終わると酒を飲みに出掛けて、夜更けまで帰って来ない。ある日酒に酔って狂ってしまったのだよ」
「酒に酔って狂う?」
「そうだ、お酒を楽しく飲んでいた時は良かったのだが、悪の誘いに酒の勢いで走ってしまったのだ」
「それで、醉狂なのね?上手に表現するわね」
「桂木の飲み友達が、大正建設の男だったのだ」
「えー、それじゃスパイ?」
「そうだ、スパイと言うかも知れない。だが町村建設ではその事実を知るまで時間が掛かった」
「桂木は、大正建設に転職してしまった」
「そうだ、コンテストの作品と一緒に転職してしまった」
「お爺さんの会社の桂木さんの作品では無いのね」
「あの男はあの様な図面は描けない。あの様な作品を描けるのは智正以外いなかった」
「智正さんの他の作品は無いの?」
「コンテストの作品以外は桂木が処分してしまったらしい」
「えー、それじゃあ、その智正さんの作品は無いの?その後また描けば?」
「もう描けなかったのだ。死んでしまったからな」と言うと再び泣き出した丈太郎。
「この話の中の大正建設の男は加納ね、間違いないわね」
「加納が桂木を酒に酔わせて、智正さんの図面を盗ませた。そして見事コンテストで優勝したが、智正さんが邪魔になって現場で殺害だわ」
「恐い男ね、加納って奴」と言う。
すると泣き止んで「そうだ、加納為吉という男だ」
「お爺さん、その智正さんって、病気で亡くなったの?」
「馬鹿な、加山は交通事故でひき殺されたのだ」と恐い形相に変わった。
「えー、今誰って?言いました?」と聞き直す綾音に「加山智正、彼は天才だった」とはっきりと言う。
二人の背中に鳥肌がたって、額に汗が滲み出ていた。
天才建築家?
「お爺さん、その加山さんって、奥さん居たの?」
「綺麗な奥さんがいたよ」
「子供さんは?」
「彼が病院に運ばれた時、確か小さな女の子と、まだ産まれて間も無い子供が居たよ」
「奥さんの名前覚えている?」
「名前は覚えて居ないが、旅行に行った写真は貰ったよ。綺麗な奥さんだと自慢して、一枚貰ったよ」
「今、有りますか?」
「有る、有る」と戸棚からアルバムを持って来る丈太郎。
「最後の方に貼ってある、新婚旅行に北海道に行った時の写真だ」と綾音に手渡す。
アルバムを最後から捲る二人の目が三ページ目で止まって「浅子さんだ!」と叫んでいた。
「どうした?浅子って名前では無かったと思うがな!」と言う丈太郎。
「違うの、加山智正さんの、娘さんにこの写真がそっくりなのよ」
「今なんと?何だって?」と驚いて聞き直す丈太郎。
「娘さんを知っているのよ」
丈太郎は驚きながら「お嬢さん達、会わせてくれないか?その娘さん達に。謝らなければならないのだよ」と悲痛な声で頼んだ。
「何を?ですか?」
「智正君が亡くなって、会社も大変な状況になってしまい、気が付けば奥さんが消えてしまっていて。何もして上げられなかったから、乳飲み子を抱えて大変だっただろうと心配していたのだよ。奥さんも元気なのか?」
「いいえ、奥さんの亜紀子さんは十年程前に亡くなられて、今は姉妹が一緒に・・・」と言いながら今度は綾音達が泣いてしまった。
「どうしたのだ?君達が泣く事ないだろう?」
「今、お爺さんが教えてくれた乳飲み子が浅子さんというのですが、実は捨てられていたのです」泣き声で話した。
「えー、何と可哀想な事を、それでも無事だったのか?」丈太郎も涙声で驚く。
「はい、お寺の住職に拾われて、今では結婚されています。お姉さんの亜佐美さんとは三十年近く離れていて、最近やっと再会できたのです。芳香寺というお寺に住んでいます」
「そうだったのか、苦労をかけたなー。あの時もう少し早く気づけば援助出来たのに・・・」と今度は丈太郎が再び大声で泣き出した。
二人は恐ろしい過去を知ることとなり、加納に対する新たな怒りが込み上げてきた。
丈太郎から亜紀子が写ったアルバムの写真の写メを撮らせてもらい「少し落ち着いたら迎えに来ますから待っていて、お爺さんの仇を私達がとってあげるからね」と強く言った。
「加納を懲らしめてやるわ」と二人は丈太郎に希望の言葉を残して和歌山から、篤彦の市役所に向かった。
この時二人は加納が亜佐美の愛人だった事を全く知る筈も無かった。
大スクープを持って役所に行った二人
「大野市長に取材お願いします」と受付で言う。
「事前にお約束の無い取材はお受けできません」
「そうなの、それじゃあ来週号に驚く記事が載っても知らないわよ」
夕方の役所はもう帰宅準備の真っ最中で、新年会に行こうとしている職員も多数見られる。
「税金泥棒だわね」
「ほんと、仕事しているの?」と二人は受付に聞こえる様に話す。
市長に連絡を取った受付が「市長は新年会がありますので、半時間ならと申しております」
「そう、新年会に行けるかな?」と微笑む二人は市長室に向かう。
「失礼な記者さん達だな」と開口一番苦言を言う大野に「時間が無いそうなので、単刀直入に申します、市長さんは加納建設から賄賂を貰っていますか?」と唐突に綾音が言った。
いきなりそう言われた大野は「何を失礼な事を言うのだ」怒った。
「失礼でも何でもありませんよ。もうすぐ世間で加納建設は袋叩きに合います。その時賄賂を市長が貰われていたら、ご一緒に!ですよ」強い口調で言う。
「何を馬鹿な事を言うのだ、私は忙しい。そんな話を聞く暇はない」
「そうですか?海岸の荒れ地の開発許可を出したのも、加納建設の賄賂も過去の社長の事件も我が社では掴んでいますよ、来週号が楽しみですね、それでは失礼します」と踵を返すと「待ってくれ、もう少し詳しい話を聞かせてくれ」と大野が慌てて言い出したが、「新年会が始まりますよ、みなさん市長を待っていますよ」と微笑んで二人はそのまま帰ってしまった。
大野は「おい、今夜の新年会は急用で中止だ!」と叫ぶなり富田のところに電話をして、大急ぎで向かった。
「どうされました?」富田が驚きの表情で迎えた。
「大変だ、週刊誌の記者が富田さんの海岸の土地の開発許可は違法だと」
「市長、その様な週刊誌に惑わされてはいけません。行政はもっと強くならなければ、住民は行政に弱いから、開発は行うことで問題は無いですよ。何処を開発しても構わないのですから、怖がる事はありません」
「そうですか、開発の問題は毅然とした態度でいきましょう。でも加納建設の事は困りました」
「どうしたのですか?」
「今までの手荒な行動がマスコミに知られた様です」
「それは、駄目ですね」
「過去の悪行も暴露すると言っていました」
「そうですか、そろそろトカゲの尻尾にしますか。彼は過激だから危険はありましたからね」と話して、富田は自分の安全を考え始めた。
大野市長も自分が危ないと危険を感じている。
「何処にしますか?」
「三俣か?」
「大手の方が良いだろう」
「高松は?」
「小さな工事向きだな」二人はどの様に加納建設を取り除くかと検討に入った。
木戸助役に五島伸吾探偵から、二人の動きが変わったと連絡が入った。
「泉部長。二人は加納と手を切る準備に入ったらしい」
「そろそろ、爆発させて二人を葬りましょう」
「もう時期だな、富田さんに会いに行くか?」
「あの男は?」
「酒飲み男は使えない」
「何故だ?」
「母親をひき逃げしたのは、加納の仕業のようです」
「警察問題になるだけで、こちらが危険です」
「本当に手荒い男だな」
「もう一人の探偵は?」
「黒田は、あの酒飲み男に価値が無くなったので、今月から打ち切りました」
「近日中に富田さんに会って来るよ」木戸助役はいよいよ市長の追い落としに乗り出した。
和歌山の町村丈太郎は二人が帰ってから、そわそわと落ち着かない。
「弓弦、わしを連れて行ってくれないか、一言子供さんに謝らなければ、死んでも死にきれないよ」と孫に訴える。
「場所は判っているの?」
「ああ、芳香寺と云うお寺に拾われて、結婚もしているそうだ」
「爺ちゃんがいつも話している、天才建築家の子供さん?」
「女の子だったのだな、下の子供は産まれてそれほど日にちが経過していなかったから、性別は知らなかった。病室でも大人しくて泣かない子供だった」
「生活が苦しくなって、捨て子をしたのか?」
「確か、大阪の西の方の町に、お姉さんが嫁いでいた様な事を聞いたから、姉を頼って行ったと思っていたが、違った様だな」
「姉には、乳飲み子を抱えた妹を助ける余裕は無かったのだろうと思うね」
「だから、弓弦連れて行ってくれ、頼む」
弓弦は、八十歳を過ぎた丈太郎の頼みを聞かない訳にはいかないと思った。
スナックに出勤
日が暮れてようやく綾音と真希は芳香寺にやって来たが、二人に話すべきか?話さないで置くか?決めかねていた。
亜佐美と浅子が仲良く二人を迎えた。
「新年早々、良い取材出来ましたか?」とご機嫌な顔で亜佐美が微笑む。
口まで出かかる言葉を飲み込む綾音「この町の市長って本当に悪い奴だわ」といきなり怒り出す。
「どうしました?大きな声をだして、本堂まで聞こえますよ」と微笑みながら浅子も上機嫌で二人に言うと「今夜はすき焼きにしますからね」と台所に消えた。
後を追う様に亜佐美が追い掛けて台所に消えた。
明日からスナックにカムバックの予定なので、今夜が最後の姉妹の夕食になるらしく、お酒も肉もたっぷり買い込んできたらしい。
「スナックの仕事大丈夫ですか?」すき焼きの鍋を囲みながら亜佐美に尋ねる綾音。
「婦人警官が中に二人入っていますから、それと外には数名の刑事が見張ってくれるそうです」
「世の中には悪い奴が沢山居ますね、大正建設の悪も・・・」と言いかけて、しまったと言う顔をする真希。
空かさず「大正建設って、今モデルハウスの大正住宅の親会社ですよね」と住職が尋ねた。
「大正建設の人は大阪のクラブの時には、大勢来て下さいました」と亜佐美が話した。
「そうなの?加納さんって言う加納建設の社長も大正建設に務めていたのよね」と綾音は亜佐美と加納の関係を知らないから聞いてしまう。
「そう?その人知らないわ」と惚ける亜佐美だが、そのぎこちない話し方で綾音は知っている?と直感で判ったが、何故?知らないと言うのか?それまでは判らない。
亜佐美は自分と間違われて殺された長谷川さんは、もしかして加納に殺されたのかも?と疑っていた。
だが、自分と加納の関係は篤彦が逮捕されてしまうことになるので絶対に言えないのだ。
篤彦の母親をひき逃げする男だから、自分を殺す事は充分考えられる。
今、加納には自分が邪魔な人間になっているのは間違いないので、篤彦を守らなくて良ければ、直ぐにでも警察に駆け込みたい亜佐美だった。
「お姉さん、ここに住んでよ」と浅子が甘えた様に言うと亜佐美は「毎日夜遅いから、ご迷惑をかけるわ、片づけて眠るのは三時だからね」
「五時には起きるからな」と笑う住職。
お酒も入って五人は楽しく団欒し、食事を楽しんだ。
綾音が寝床で「言えなかったわね」
「言ったら、あの姉妹加納を殺しに行くわよね」
「両親の仇だものね」
「でも週刊誌が発売されたら、二人に判ってしまうわね」
「そうね、だから困っているのよ。加納は糾弾したい、殺人は時効だから、文章のみが武器よ」
「加納の様な悪い奴、その後も同じ様な事をしているのでは?」と言うと考え込む綾音は、先程の亜佐美の加納の話の時を思い出していた。
「転落死の女性、亜佐美さんが前に住んで居たマンションで亡くなったのでしょう」
「そう聞いたわ」
「顔を知らない連中、例えば殺し屋なら、亜佐美さんだと思って殺す可能性有るわね」
「だから、スナックに警察が罠を仕掛けたのね」
「もしもよ、加納が亜佐美さんを狙ったとしたら?」
「何処にも接点が無いわ、加納と亜佐美さん」
「うーん、何か有る様な気がするな。すき焼きの時の態度が気になる」と考え込む綾音。
そのまま二人は静かになって寝たかと思われたが、突然「そうだ!」と綾音が大きな声をあげた。
綾音は眠らないで考えていたのだ。
「何よ、驚くわ、寝ていたのに」と真希が怒ると「大阪のクラブの売れっ子が、こんな町のスナックのママしているのは変だわ」
「そう言われれば、慣れない町での店の経営はリスクがあるから、やらないわね。もし店を出すなら馴染みの多い大阪よね」
「でしょう、誰かパトロンがお金を出したのよ」
「綾音さん、明日調べましょう」
「そうね、ここで加納が登場すれば、完璧ね」二人は空想を膨らませて眠りに就いた。
翌日亜佐美は篤彦に電話で「今日から、店に戻るわ」と伝えた。
「大丈夫?」
「警察の人が多数で守ってくれるから大丈夫だと思うわ」
「気を付けてね、店に行っても大丈夫かな?」
「大丈夫だと思うわ」
「妹さんと一緒で楽しいでしょう?」
「あっ、昔大林さんに聞かれた事あったわね、両親の事を。あの時は適当な嘘を言っていたの、本当は、母は十年前に亡くなって、父は交通事故で亡くなっていたのよ。ごめんなさい。」
「良いですよ、誰でも話したく無い事はありますから、気を付けて頑張って下さいね」
「はい。会いたいわ」
「僕もです。」
亜佐美は子供の頃から父の死を認めたくなかったから、よく嘘を話していたのだ。
それ程大きな出来事でショックだったから、いつも父は生きているが口癖になっていたのだった。
刑事たちは事前に亜佐美と綿密な打ち合わせを行い、須美子には警察が事情を説明していた。
亜佐美は、店に七時前から婦人警官の二人と一緒と入店して、準備を始めた。
今夜は須美子が店に入らなくても大丈夫なので、休んで貰う事にした。
女性四人は今の店では多すぎて、時間を持て余すからなのだが、この状況が続くと須美子にとっては働く時間が無くなるので困るのだった。
いつまで続くか判らない警察の捜査に対して、須美子は、年末迄は自分が店の経営者になった気分で、婦人警官らを指図していたのに、今度は亜佐美に休めと言われて怒りが込み上げていた。
そんな時須美子の携帯に「小山内だけど、知り合いと四人で新年会するので、席を九時にお願いします」と連絡があった。
「私、今夜は休みよ、ママに言いなさいよ、もう来ていると思うわ」
「ママって?」
「転落死のママよ」
「えー、転落死では無かった?」
「そのようね、今夜から店に出ているわよ」小山内はそれを聞いて、これはチャンスだと思った。
自分の勘が正しければ、このことを加納に教えれば面白い事が起こる。
小山内は早く加納が逮捕されて貰わなければ仕事が転がり込んで来ないから、亜佐美が生きているという情報に飛びついたのだ。
小山内は、非通知で加納に「(チェリー)のママ亜佐美は生きていますよ、注意されたし」と話した。
「君は誰だ!」と加納が語気を荒く言う。
「事情を知る者だと思って下さい、では」と言い放つ。
加納は事情を知る者?誰だ?丸山のところの誰かが仲間の失敗を売ったか?
加納は勝手に想像を巡らせるがその可能性は充分に考えられた。
頼まれた仕事で仲間が報酬を貰った事に妬みを持つ、殺し屋もいるから有り得る。
早速丸山に連絡をして、事実を確かめろと強い口調で命じた加納は相当に気が立っていた。
勿論大金を支払っていたから、加納には大事件なのだ。
芳香寺の来客
丸山は木下弁護士に相談を投げかけた。
「木下、加納は少し危険な状態になっている、どうする?」まだ若い弁護士木下は「多分、市長と相当悪い事を進めていますから、共倒れをさせた方が宜しいかと思います」と答えた。
「あの町はどの様になるのだ?」
「私が調べた感じでは、今の市長の後継を狙っているのは木戸助役ですね。でもこの男は小者ですから、長くは持ちません」
「それじゃあ、土地を持っている富田はどうなる?」
「この爺さんの使い道はありますが、最後はお陀仏になって貰いましょう」
「お前は何を考えているのだ?」
「親分にあの町の市長になって貰おうかと思っています」
「おいおい、冗談は止せ、俺は暴力団だ、行政は無理だ」
「親分は日頃から行政を批判されています。今ならあの町が手に入りますよ」
「お前は本当に恐い男だな。だが俺は判らんからお前がなれ、資金は援助する。お前のやり方を見て勉強する。そうなれば俺でも出来るかも知れない」と二人は町の乗っ取りを画策し始めていた。
「本当に間違えて殺したのか?」と丸山が尋ねた。
「可能性は有りますね、自分が見てきましょうか?」
「お前が直々に見に行けば安心だ、もし失敗していたらどうする?」
「もう、殺す必要は無いでしょう、警察に捕まって貰いましょう」と涼しい顔で言う木下。
丸山自身も暴力団の親分で一生を終わりたくない気持ちが最近芽生え始めていたから、木下はそれを知って敢えて助言をしたのだ。
篤彦は(チェリー)に行かないとこれ以上我慢出来ない情況になっていた。
役所を終えると、いつもの様に(きむら)で飲んで勢いを付けて、開店と同時に(チェリー)に飛び込んだ。
「いらっしゃ、、、い」と亜佐美は篤彦を見て声を詰まらせた。
篤彦が「ご無沙汰です」とカウンターに座ると婦人警官のユミがおしぼりを渡して「いらっしゃい」と愛想よく声を掛けてきたが、篤彦は婦人警官だと聞いているので微笑む事が出来なかった。
「転落死を聞いた時は驚いて、警察に飛び込みました」と篤彦が言うと「ごめんなさい、心配をお掛けしまして」と水割りを作り始める亜佐美。
綾音と真希はスナックビルの持ち主を訪ねて、カラオケ喫茶に入っていた。
このビルのオーナーは、近くの別の自分のビルで自らカラオケ喫茶をひらいて商売をしていた。
「(チェリー)の契約者はね、今のママ加山亜佐美さんだよ」と書類を見ながら答える。
「私も雑誌に載るのか?」
「まあ、時と場合ですが?」
「契約金は別の人が持って来たと思うな。僕が始めてあのママに会ったのは開店の前日だったからね」
このオーナーは六十後半の頭の禿げた丸顔の男だが、年齢よりは若く見える童顔だ。
「それじゃあ、雇われママ?」
「雇われではないよ、名義が彼女になっているからね」
「それってどう言う事なの?」
「時々有るよ、自分の愛人に店をさせる会社の社長さんとかね」
「あっ、そうか判った。亜佐美さんは誰かに店を貰ったのね」
「この人知りませんか?」と加納建設のメモを渡すと「私は、建設会社の人は知らないな」と言う返答だったので、二人は適当に歌を歌い始めた。
しばらくして「この人だよ、お金振り込んできた人は」とオーナーが帳面を持って来た。
「誰ですか?」
「荒井誠って人ですよ」と言われてメモにして店を出る二人。
二人は荒井の事は知らないが、メモした電話番号にかけると「何方ですか?」と中年の女性の声がした。
「荒井誠さんは?」
「去年死んだわよ、何用事、お金なら無いわよ」と言う。
「病死ですか?」と訪ねて見ると「あの馬鹿、飲み過ぎて河に落ちて死んだのよ」
「そうですか」と電話は終わったが、早速綾音は編集部に荒井の事件の事を調べて貰うように依頼した。
亜佐美に荒井誠と言う男性の存在、何者?今回の転落事故と関連が有るのでは?
意外と早く編集部から連絡が入った。
流石に、全国ネットの編集記者達の情報はすごい。
荒井誠は亜佐美に外車を貸していて、元愛人、荒井誠の手下の権藤が大林篤彦の母親をひき逃げした。
警察は荒井の溺死を殺人と見て捜査をしている。
荒井の後ろに別の誰かがいて、女性の転落死もその人物に関連が有るのでは?と捜査をしている等の情報を教えてくれた。
「そうなのだ、荒井もその人物に殺されたのか?亜佐美さんも狙われているのか?」
「荒井、亜佐美さん、大林さん?」
「三人が繋がっているの?」
「事件の根っこが同じか?」
しばらくして「判った!」と綾音。
「そう、あいつよ!加納だわ」大きな声になった。
「でも証拠が無いわね」
「昔も今も悪い奴」
「仮説よ、加納は亜佐美さんを大阪のクラブで見つけて、この町に連れて来た?」
「荒井の愛人だった亜佐美さんを荒井が連れて来た?」
「荒井と加納は友達?」
「その可能性は有るわね」
「じゃあ、もしも加納と亜佐美さんが愛人だったら?」
「えーー、自分の父親を殺した男の愛人?それは少し恐い話ね」
「私なら、判った時点でその男を殺して自殺するわね、耐えられないわ」
「確認出来るまで、話さない様にしましょう」
二人は冬空の夜道を芳香寺に向かって話ながら歩いて帰った。
だが数日後、二人の予定とは異なって、和歌山から町村丈太郎が孫の弓弦の車で芳香寺にやって来た。
丈太郎は、出迎えた浅子を見て「おお、間違い無い、間違い無い、智正の娘さんだ」と叫ぶと直ぐに土の上に正座をすると「どうか、私を許して下さい、よく大きく成長されて、感激に耐えません、私がもう少し早く気が付いていましたら、こんな事にはならずに・・・」と泣きながら地面に額を押しつけた。
この余りの光景に訳が判らない浅子は「お爺さん、どうされたのですか、寒いのに、その様なところに座られたら冷えますよ、どうかお立ち下さい」と肩に手を差し伸べると「ありがとうございます、私を許して頂けるのですか?」と丈太郎は顔をあげた。
「説明していただかないと、何も判りませんわ」と浅子が言うと、「貴女が下のお嬢さん?亜紀子さんにはお二人のお嬢さんがいらっしゃったけれど、もう一人の方は?」と丈太郎は廻りを見廻した。
浅子は少し理解が出来たのか「お母さんのお知り合いの方ですか?」と急に笑顔になって「中にお入り下さい、寒いですから」と二人を招き入れた。
「僕は孫の弓弦です、和歌山から参りました」とこの時初めて隣にいた弓弦が名刺を差し出した。
浅子は二人を応接に招き入れると、台所でお茶の用意をしてから、再び戻って来た。
「母をご存じの方のお話を聞けるなんて、嬉しいです。姉も今から呼びますから、お待ち頂けませんか?」
「お姉さんにも謝らなければ今日は帰れません」
「何を誤るのですか?」
「私がもう少し早く手立てをしていたら、貴女方親子は苦しまずに済んだのです。探したのですが判りませんでした、救いは子供さんがご無事だった事」
「待って、詳しい話は姉が来てから聞きますわ」と浅子は携帯で亜佐美に電話を掛けた。
「和歌山から、お母さんの知り合いの方が来られているのよ、お話があるから、来られる?」
「お母さんの知り合い?女性?」
「違うわ、お爺さんよ、お姉ちゃんにも謝りたいのだって」
「謝る?」
「兎に角来て、一緒に聞きましょう」
「判ったわ」亜佐美は母の知り合いに会うのは多分始めてだろうと考えていた。
全てを知った
亜佐美の記憶では、母の知り合いも父の知り合いも一度も見た記憶が無かった。
微かに親戚の叔母さんの存在は記憶に残っていたが、その人の名前も住所も記憶には無かった。
亜佐美は急いで着替えて芳香寺に向かうと、監視の警察も一緒に移動した。
厳重体制で守られている亜佐美に対して、前田刑事はその後の捜査で女性殺害は亜佐美を確実に狙った暴力団関係の仕業だと判ったので、警戒がより厳重になっていた。
その犯人の暴力団員が何処の者かの見当は付いてはいたが、逮捕までは進めない。
その暴力団を雇った人物を逮捕したいのだ。
それが荒井殺しも、依頼したと決めていたのだ。
浅子は亜佐美が来るまでは話を聞かないと決めて、コーヒーとお菓子を用意して丈太郎に持っていく。
「お気遣いは結構です、私は貴女に蹴られても殴られても耐える覚悟で来ております。親切にしないで下さい」と言い切る。
弓弦も「祖父の念願が叶ったのです、好きにさせてやって下さい」と言う。
浅子は「はあ」と困り果てる。
綾音と真希がいたら、この様な展開にはならなかっただろうが、二人は加納建設の取材に出掛けて留守だった。
しばらくして亜佐美がやって来て「遅くなって済みません」と応接室の扉を開けると同時に丈太郎が椅子から降りて、床に正座をし「お姉さんですか?どうかこの年寄りをお許し下さい」と床に頭を擦りつけて誤った。
その時前田刑事もお寺の中に入って、面会の人間を確かめようと隣の部屋に来ていた。
亜佐美はその老人の姿に驚いて「お爺さん、止めて下さい、訳も判らず、その様な事をされても困ります」と言った。
「お嬢さとお母さんを苦しめた爺さんを叱って下さい」と言う丈太郎は昔の出来事を話し始めた。
「お二人のお父さんは天才建築設計家でした」
「えー、父が建築設計の仕事をしていたのですか?」浅子が驚きの表情で言う。
「そうです、あの大阪の駅前の奇抜なビルを設計されたのは、貴女方のお父様です」
「うそー、建築の仕事だとは聞きましたが、そんな話一度も誰にも聞いた事無いわ、勿論母にも」と亜佐美が驚く。
「あの建物は懸賞金の出るコンテストの作品で、建設会社はお抱えの設計士に渾身の作品を描かせていたのです」聞き入る二人の顔が真剣になった。
「私共の町村建設にはお父さんがいて、素晴らしい作品を描いたと知ったライバルの一人が、お父さんの同僚をそそのかし図面を盗み獲ったのです」
「えーそんな」と驚きの声をあげる姉妹。
「それを知ったお父さんは、同僚を問い詰めに行く途中交通事故に遭われて亡くなられました」
「そんな事」と今度は青ざめてきた。
「担ぎ込まれた病院で、お母さんと三人でお父様に対面されたと思います」
「私、覚えてるわ、その病院」と顔面が硬直している亜佐美、浅子はもう呆然と聞いている。
「盗んだ同僚がコンテストで優勝しました」
「そんな、無茶な事、その男は許せません」と恐い顔になる亜佐美。
「でもその盗んだ桂木という男もしばらくして、現場の転落事故で亡くなっています」
「えー、それって?殺された?」
「多分、そうだと思います」
「父も殺された?」
「多分そうだと思います、ひき逃げでしたから」
丈太郎はその後、父智正の仕事の話を色々と二人に聞かせて、その有能さを話しきった。
「大正建設に敗れた我が社は、その事故の件とか入札で混乱していて、私も貴女達の事をすっかり忘れてしまい、気が付いた時には亜紀子さんも貴女達も行方が判らなくなっていました。心辺りを探したのですが、見つかりませんでした。お許し下さい」
「そんなにお爺さんが責任を感じる事ではないわ、悪いのは大正建設です」
「浅子さんをこのお寺に捨てたとお聞きして心配していましたが、今日お目にかかって安心しました」と丈太郎は目頭を押さえた。
「もう、終わった事です。お爺さんが責任を感じなくても良いですよ」と浅子がようやく落ち着いて優しく言葉を掛けた。
「大正建設が父の図面を使って、ビルを建てたのですね」亜佐美はクラブで働いていた時、大正建設の人も数名来ていたと思い出す。
勿論加納為吉も大正建設の人間だったと考えている。
「企業ぐるみの犯罪ですね」と浅子が言うと丈太郎が「いいえ、中にとんでもない男がいて、出世のためなら手段を選ばず、暴力団を使って犯行をしていた様です」と答えた。
亜佐美はこの老人の口から恐ろしい言葉が出て来るのでは?と背中に冷たい物を感じた。
頭の中で加納がその時代に大正建設に在籍していたのだろうか?随分前の事だからまだ学生?と自分の考えを必死で否定しているのが自分でも判った。
少なくとも数年間愛人として過ごした加納が、父親の仇で無い事を?と祈っている亜佐美。
「お父さんはその男に殺されたのですか?」浅子が尋ねると「その男が犯人かは証拠がないのでわかりませんが、桂木が会っていた男は知っています」
「誰ですか?その男は今も大正建設にいますか?」と浅子が次々と質問をする。
「もういませんよ、三十年近く前の事ですから、随分出世して若くして管理職になっていましたね」亜佐美の顔色が変わった。
昔、加納が我が社では出世頭だと自慢していたのを思い出していた。
亜佐美はもう聞くのに耐えられなくなり、トイレを装って応接を後にすると、呆然として本堂に向かって歩いて行った。
「お爺さんが犯人だと思う人は誰ですか?」
「はい、加納為吉です。今は実家の加納建設の社長に納まっています」
「えー、加納建設なの」と驚く浅子。
隣の部屋でこの話を聞いていた前田は、数分後には、府警に連絡をして加納建設と加納社長の行動の調査を指示していた。
前田はその話を聞いても、亜佐美を狙っているのが加納だとは思っていなかった。
亜佐美はあの加納社長が父の仇なの?どうすれば良いの?父の仇に抱かれた私は?と考え込んでいた。
しばらくして、亜佐美の姿は芳香寺から消えたが、浅子は姉が何故急に消えたのかが理解出来なかった。
亜佐美の携帯に何度か連絡したが返事が無い。
町村丈太郎は弓弦と一緒に帰って行ったが、間際に「お母さんのお姉さんが、多分この町に住んでおられると思いますよ」と言った。
「名前判りますか?」
「それが、忘れてしまって、また思い出したら連絡します」と帰って行った。
乗り込む敏腕弁護士
(お姉ちゃん、急に居なくなって心配よ、私を一人にしないでね、それからお爺さんがこの町に、お母さんのお姉さんが住んでいる筈だと話していました。連絡下さい)とメールを送る浅子。
亜佐美はそのメールを見て、浅子を一人に再び出来ないと先程まで加納を殺して自分も死のうとの考えを切り替えた。
三十年近くも一人で過ごした妹を再び一人には出来ない。
例え加納が父を殺した犯人でも共倒れは出来ないと思う。
直ぐに警察に行こうか?と思ったが、篤彦の泣く顔が浮かび亜佐美は躊躇った。
篤彦に洗いざらい話してみようか?それで二人の仲が終わっても仕方が無い。
このままでは加納は平然と次の犯罪を、犯すだろう?と考える亜佐美。
「大林さん、時間空かないの?旅行に行きたいわ」と電話をしたのは翌日の昼だった。
亜佐美は今回の旅行で総てを話して、篤彦に委ねる決心をしていた。
「嬉しい話ですね、忙しいからな」
「一晩で良いのよ、有馬温泉でも良いわ!行きたい」と甘えた様に言う亜佐美。
「有馬なら、夕方から行って翌日の昼には帰れるな」と嬉しそうな篤彦。
「じゃあ、行きましょう、善はいそげで来週行きましょう」
「急いでいますね」
「早く行きたいから」
「土日にしましょう」
「はい、予定組んでみます」と嬉しそうに亜佐美は返事を返した。
篤彦は話を聞いてどんな顔をするだろう?怒る?逃げて行く?加納に怒鳴り込む?と色々な事を亜佐美は考えた。
加納が父を殺した事迄教えると決めている亜佐美は、覚悟を決めていたのだ。
もし、浅子のメールが無ければきっと殺しに行っただろうと思った。
でも母の姉は何処に居るのだろう?母が頼って会いに行った?微かな記憶が亜佐美に残っていた。
前日加納建設に取材に行った綾音と真希だったが、加納は二人に会わなかった。
丸山に「週刊クローズの記者が、ウロウロして困っている、何とかして欲しい」と頼むと、二人を待たせるだけ待たせたが、結局会わずに追い返したのだ。
丸山は加納からの依頼を木下に相談すると、木下に「これはチャンスですよ、この記者を利用しましょう。私にお任せを」と言われて困惑した。
確かに自分ももう年齢的に暴力団の親分で終わるのは口惜しいと、木下が言う様に表舞台に立ちたい気持ちが芽生えていたのだ。
木下は綾音と真希に会うのと(チェリー)の様子を見る為に大阪から兵庫県までやって来た。
いきなり弁護士から電話を貰った二人は、木下の建設業界の汚職の問題を究明している者同士、意見の交換を行いたいとの申し出に、大いに興味をかき立てられたので会うことにした。
駅前のホテルのロビーで待つ二人は、目の前に現れた三十代後半の木下の姿が輝いて見えた。
自分達と同世代の人間が、同じ問題に取り組んでいるのかと、木下の話が始まる前から共感していた。
名刺を差し出した木下が、早速本題に入ると、色々な事を調べている事が判って二人は驚いた。
加納の大正建設時代の悪行を話し出したのには、もう二人は仰天の表情で聞き入っている。
それは自分達が丈太郎から聞いた話よりリアルで、より鮮明な事柄が多かった。
丸山から加納の事を聞き取っている木下には知っていて当然の話をしたのだが、この男はすごいと二人は感銘を受けた。
「木下さんは今後どの様にされたいのですか?」
「乗りかかった船ですから、この町の市政が変わるまで頑張りたいです」とまるで自分がこの町の政治をする様な言葉を口にした。
二人が木下と別れた後、綾音は「これは良い記事が出来るわ、腐敗した市政を一新する風雲児登場、変わる町だわ」と言って自分の言葉に酔っていた。
夕方まで、色々な情報を調べる為に木下は、荒れ地を見学、区画整理の現場も視察して、反対派の看板の有る芳香寺にもタクシーを飛ばした。
案内の運転手が「ここの奥さん別嬪だよ、でも捨て子だったらしいよ」と話した言葉に木下は「捨て子?」と不思議そうな顔をした。
運転手は「そうだよ、お寺の門の裏に置かれていたと言う話だ」と付け加えると、今度は幹線道路が出来る場所に車を走らせた。
「結局、大地主の富田ってお爺さんが儲かるらしい」と話を続ける。
「そうなのですか?」
「この道も富田の爺さんが土地を沢山持っている海岸まで結ばれるのだよ」と呆れた様な話し方をした。
木下にはこの話も自分には重要な情報だった。
元々、丸山とは裏だけの繋がりなので、表世間では木下には全く暴力団の影も見えない。
それが木下には助かっていたと言うより、始めからその様に丸山と接していた。
夜になって木下は(チェリー)の場所を探していた。
「この辺りに(チェリー)というスナック在りませんか?」と尋ねた相手が足立だった。
「私も、今から行くのですよ、案内しますよ、どちらから?」
「友人に教えて貰ったのですが、美人のママがいると聞きましたので、こちらに来たついでに一度寄ってみようかと」
足立は木下を伴って店に入ると「いらっしゃい」と言うのと同時に「ママの美人の噂を聞きつけて来られたお客さんですよ」と紹介しながら振り返り「誰だった?」と木下に尋ねた。
「木下と申します」と木下が亜佐美に名刺を差し出すと「まあ、弁護士さんですか?」と名刺を見て亜佐美が驚いたように言った。
「噂の通りに美しい方ですね」と木下が亜佐美を褒める。
亜佐美は「ありがとうございます」と言葉を返しながら、そっと名刺をユミに手渡した。
ユミは直ぐに署に紹介をとるメールをした。
木下が「今日町を視察してきました。区画整理とか再開発とか、騒がしいですね」と微笑むと「私も去年からこの町に住んでいますのよ、本当に騒がしいですわ」と亜佐美が微笑んだ。
そこに篤彦が入って来ると「いらっしゃい」とお店の娘に扮した女刑事の二人も篤彦には面識があるので話し易いのか声をかけた。
しばらくすると篤彦が亜佐美を手招きして「取れました、五時ね」と耳打ちした。
「ありがとうございます」と亜佐美が微笑むと「内緒話ですか?」と木下が直ぐに反応した。
「大林さんとは、その様な関係ではありませんよ」と笑ったので、直ぐにこの男が役所の男だと木下には判った。
この男の母親を怪我させたのか?と考える木下は、来月になれば何度も会えるよと思っていた。
思い出の母
近所の病院に移動した篤彦の母紀子にようやく退院の許可が出た。
篤彦は忙しい役所を母の退院を口実に休むため、迎えの日を土曜日と決めた。
元々役所は休みだが、三事業の関係で忙しい篤彦の部署は、このところ土曜日は毎週出勤になっていたのだ。
退院の話を翔子にしても「そう」と言うだけだった。
翔子も子供達も一度も病院には顔を出さない。
翔子は以前一度だけ紀子と喧嘩をしたことがあったが、余程気に入らないのか、紀子に会うのを極端に嫌っているのだ。
篤彦は亜佐美に、今度の土曜日に母が退院するので、自宅に連れて行ってから迎えに行きますと伝えたら亜佐美から「おめでとうございます、手伝いに行きましょうか?」と連絡してきた。
篤彦は、妻の翔子は見向きもしないのに、他人の亜佐美が手伝いに来る?と思うと嬉しくはあったが流石にそれは断った。
篤彦が家に帰ると翔子が「今度は幾ら貰えるかな?森本さん奮発してくれたわね」と次の催促を言った。
翔子に「もう入札は終わったから、盆暮れくらいだろう」と答えると「えー、もう無いの?視察は?無いの?」と今度は車代をもらう事を考える翔子。
篤彦は呆れたがチャンスとばかり「土曜日、近くだが泊まりだ」と言った。
「何処なの?」
「和歌山」
「そう、食費位にはなるわね」と目論む翔子に呆れるが、上手く話せたと渡りに船だと篤彦は思った。
最初に出した(荒れ地に群がる亡者)の原稿は編集長の、インパクトが無い!を理由に没になったが、綾音達は次の原稿は自信があった。
新進気鋭の弁護士が、腐敗した市政を一新する為に乗り込む話に変わったからだ。
これで加納達の悪行を書けると喜ぶ綾音。
大野市長が追い込まれる時期が刻一刻と近づいていた。
「堀部長が出されていた開発許可が本日認められました」と新田部長が市長の部屋に飛び込んで来た。
審査会は無事通過だとは判っていても安心はできないので、この報告に大野市長は喜び、すぐさま富田に電話で伝えて、工事は早く始めて区画整理を進めようと上機嫌だ。
大野市長は加納建設には連絡をしない。
富田が高松興業に電話で、「市役所の人間に御社を紹介をして貰ってね」と話を切り出し、湾岸の荒れ地の造成工事を依頼した。
これを聞いた林蔵は「森本、お前の後輩は役に立つ、今度は富田のお爺さんの海岸造成工事を我が社に廻してくれたぞ」と森本に言った。
「えー、本当ですか?あの工事は加納建設の独占だったのでは?」
「彼は力があるのだよ、ゴルフは下手だが恩は返す男だ。今後もあるからお礼は充分にするのだ!判ったな」
富田は役所の意向で高松興業になった事を強調したかったのだが、これが篤彦の功績に高松興業では変わっていた。
加納の耳にいつ聞こえるか?富田も大野も戦々恐々として週末を迎えた。
金曜日の夕方「貴方、嘘を私に教えたわね」といきなり翔子から電話があった。
篤彦は、明日の有馬温泉が?しまった!と一瞬顔をしかめたが、続けて翔子は「森本さんが、持って来られたわ」と嬉しそうに言うのだ。
「何を?」
「またお肉よ、今度は特上A5よ」と上機嫌の声
「見ただけで判るのか?A5って?」
「馬鹿ね、肉の種類じゃないわ、束が五って事よ」
篤彦は「えーーー」と近くにいた希に十分聞こえるほど大きな驚きの声をあげた。
電話が終わって、篤彦は何故?森本が何度もお金を持ってくるのだ?もう入札は終わった、
自分には何も出来ないのに何故なのだ?とその日の仕事終わりまで考えていた。
自宅に帰ると翔子は上機嫌で「これ明日からのお小遣いよ」と封筒に入れて篤彦に渡した。
篤彦は、一度で年収程のお金を貰うと、こんなに機嫌が良くなるのかと思った。
翔子の変わり様を見て「明日、母退院だけど」と言ってみたが「そう、おめでとう」で話は終わらされた。
二人の仲の悪さは最高だと今更ながらに驚く篤彦だった。
翌日朝、退院の為に車で迎えに行く篤彦は「そのまま、和歌山に行くから」と翔子に伝えた。
翔子は「はい、気を付けて」と言うが、頭の中は今から銀行に貯金に行く準備をしていた。
篤彦が病院に到着すると看護師が「奥様お綺麗ですね」と微笑んだ。
奥様?翔子が来たのか?ガソリンスタンドで給油と洗車をしてここに来ただけなのに、その間翔子が先回りして?と考えながら篤彦は病室に向かって歩いていると「おはようございます」と亜佐美が笑顔で声を掛けて来た。
「加山さんが、殆ど片づけてくれたよ。荷物を車に運んで」と嬉しそうに紀子が言う。
杖を付きながら、エレベーターに向かう横を亜佐美が付き添って、雑談をしながら歩いて行く。
気を使って来てくれたのかと嬉しくなる篤彦。
荷物を総て車に載せると、亜佐美も母紀子の横に座って病院を後にした。
「ありがとう、助かったわ、男では気が付かない事が多いから」と紀子は上機嫌で亜佐美と話しをしている。
篤彦が、亜佐美は母に何を喋ったのだろう?今から旅行に行くのに変な事喋ってないだろうな?と考えていると「加山さん今から、有馬温泉に友達と行かれるそうだ。篤彦近いから、送って差し上げなさい」と紀子がいきなり言った。
篤彦が驚いていると「嬉しいわ、助かります」と調子に乗って亜佐美がお礼を直ぐに述べた。
自宅に戻ると、久々の我が家に「落ち着くわ」と大きく背伸びをする紀子。
「お母様、私はまだ時間がありますから、少し家の中をお掃除しますわ」と亜佐美は掃除を始めた。
冷蔵庫の品物は殆ど賞味期限が過ぎていて、全て廃棄となり直ぐにごみの袋が一杯になった。
篤彦も荷物を降ろすと、掃除しながら片付けを始めたが「お袋、これはどこに」と一つ一つ尋ねながら片付けている。
二人の様子に目を細める紀子は、こんな綺麗な心の優しい女性が篤彦の嫁なら良かったと思うのだった。
一時間程で片付けが終わると、お茶を入れて持って来る亜佐美に「ありがとう、助かったわ、一人暮らしで、暇に任せて片づけ様と思っていたのに」と紀子が嬉しそうに言う。
「足が悪いですから、無理をされない様にして下さいね」と亜佐美の言葉に目頭を押さえて「ありがとう」とお礼を言う紀子。
亜佐美にはこれから篤彦に総てを話さなければ行けない覚悟の旅行なのだが、紀子が自分の母親になった様な思いを感じていた。
自分の母が、長年の水商売の不摂生と過労で、若死にしてしまう無念な気持ちを語った言葉が、今も亜佐美の耳に木霊の様に残っている。
「お酒も沢山飲んで、無理をしたから、こんなに早く死んじゃうよ。亜佐美は身体に気を付けて、長生きをしなさいよ」と病院のベッドで亜佐美の手を握りながらそう言った亜紀子を思い出していた。
長い接吻
夕方二人は有馬温泉に到着して「大林さん、実は大事なお話があるのですが?」
「えー、何ですか?恐いな」背筋を伸ばして見せる篤彦。
「飲む前に聞いて下さる、それとも明日帰る前?」
「どんな話か知らないけれど、先に聞こうかな」と座敷机の前に座る篤彦。
「これからお話しをしますが、私を許せない場合はここでお別れして下さい」
「えー、泊まれないの?」
「場合によっては、無理になるかも知れません」と真剣な表情の亜佐美。
いきなり、頭を下げて「ごめんなさい」と謝って話が始まった。
「どうしたのですか?」亜佐美の態度に驚く。
「私は加納建設の加納為吉に頼まれて、大林さんに近づきました」
「えー」予想もしない告白に声が変わる。
「勿論私は彼の愛人でした、あの外車も加納が私に買ってくれた物ですが、事件が起こってから返しました」
「それで、荒井誠と言う男が名義を貸していたから、警察に呼ばれたのか?」
「何故?知っているの?」と驚く亜佐美。
「実は大阪の警察に母と一緒に呼ばれたのですよ、その時、亜佐美さんを見て驚きました。まさか加納社長の・・・」と言葉を濁した。
「始めて大林さんに会った時は、全く知らなかったのですが、加納社長から近づく様に指示されてからは加納の指示に従って近づきましたが、お会いする内に大林さんの人柄に惹かれてしまいました。それは本当です」
「・・・」
「今は、大林さんの事が好きです」
「・・・」
「もうひとつ。加納に頼まれた荒井の指示で、お母さんが事故に遭われたのです」
「ええ-、何が目的ですか?」
「あなたに賄賂を使わせる為です」
「そんな、無茶な!死んでいたかも知れませんよ」
「そんな無茶をするのが加納です。私の命を狙っているのも加納です」
「何故?貴女は仲間でしょう」
「知りすぎたからです」
「間違われて殺された長谷川さんは浮かばれませんね」
「加納は暴力団を使って恐い事を次々としています。それは昔から同じなのです」
「昔から?」
「最近判ったのですが、私の父も加納に殺されていたのです」
「ええー、それは!」篤彦の表情が大きく変わる。
「はい、私は何も知らずに父の仇の愛人になっていたのです。それを先日知ることとなり、私は、加納を殺して私も死のうと覚悟しましたが、妹をまた一人にしてしまうので、諦めました」
「何と悪い男だ」と怒りの表情「今は、あの町の三事業に加納は必死ですが、私は彼に復讐がしたいです」
「懲らしめてやりたいですね」
「はい、あの男に父が殺されて生活が苦しくなった母は、浅子を捨てて、水商売の道に入りましたが、身体を壊して亡くなりました。父は天才建築設計家と呼ばれていて、大阪の駅前再開発のビルの設計は、父が残した作品だったのですが、加納が盗んだ様です」
「あのビルの設計はお父様が?それは凄いですね」
「でも名前も何も残っていません。幻ですね」とそこまで話すと、亜佐美は感極まって泣き崩れた。
「よく、話してくれましたね、ありがとう」と亜佐美の肩を優しく抱き寄せた。
「嫌いになったでしょう、加納の女と判って」
「そんな事無いですよ、正直に話して貰えて益々好きになりましたよ。加納に対する復讐を諦めてくれてありがとうと言いたいです」
篤彦の気持ちが判ると安心して「総て話してお腹が空きましたわ」と涙を拭いてお腹を触る亜佐美。
その後は二人で部屋の露天風呂に入ると食事の前に愛し合う。
隠し事が無くなった亜佐美は本気で篤彦に甘えて燃える。
篤彦も亜佐美の本気の態度に、自分を忘れてしまう程燃えていた。
その後は浴びる程飲んだ篤彦は、加納建設を懲らしめてやると言うより、犯罪で逮捕に持っていきたい篤彦だった。
自分が犠牲になっても亜佐美の仇を討ってやりたいと思う。例え自分が収賄容疑で捕まっても構わないという気持ちで燃えていた。
富田は大正住宅に荒れ地の開発許可が出た事で、各住民との仮契約を本契約に変更し、工事終了後の区画を契約者達に振り分けて調印を行った。
結局三十二人の住民がこの大正住宅の家を貰って、我が家を売った事になった。
富田は自分の計画が進んだ大喜びで、これで駅前の自分の区画は大きくなるのだ。
数日後意を決意して、篤彦は警察に行く為に身辺整理を始めた。
自分が警察に行って賄賂を貰った事実を述べれば、後は芋ずる式に数々の犯罪が表面に出て加納は終わりだろうと考えていた。
それは亜佐美には内緒で実行する予定なのだ。
当日の朝「翔子、元気で。子供達は任せた」と告げると「貴方は、いつも子供達は私任せじゃないの」と篤彦の計画を知らない翔子は、篤彦の言葉の意味がわからない。
そんな翔子は相手にしないで仕事に向かう篤彦は、今夜は驚くだろうな?どんな顔をして怒るのだろう?そんな事を考えていた。
夕方辞表を提出して、警察に行く予定の篤彦。
篤彦の思惑に叛して、昼の休み時間に役所の中が突然騒がしくなった。
「大変よ、警察が来ている」との声がどこからか聞こえた篤彦は、「警察?」と役所内を見回すと、役所の中が騒然としていた。
「何が有ったの?」
「市長が収賄容疑で、連れて行かれたの」と女性が教えた。
「えー」
そのニュースは直ぐにマスコミが報道した。
週刊クローズが、大阪の敏腕弁護士が市の不正を暴くとの見出しで、この弁護士の話とこの町の実体を大きく暴露してしまったのだ。
加納建設と大野市長の贈収賄事件として取り上げられたが、加納為吉には余罪が満載の記事まで掲載されたので、本の発売と同時に警察が逮捕に踏み切ったのだ。
木下弁護士は事実を総て知っているから、証言も確かなもので、二人が逃げる術は閉ざされていた。
週刊クローズは馬鹿売れ状態となり、木下弁護士は正義の味方扱いでマスコミが挙って取り上げた。
夜になって篤彦は、呆気にとられて役所を後にすると、気の抜けた様に(きむら)に行ったが、店の中では市長逮捕の話と木下がヒーローになって、加納は極悪人になっている話で盛り上がっていた。
飲む気が失せた篤彦はそのまま(チェリー)に向かった。
「いらっしゃい」と亜佐美が笑顔で迎えてくれたが、婦人警官の姿が見えない。
「彼女達は?」
「もう辞めたわ、須美子さんも他の店に行ったから、募集しないとね」
「じゃあ、刑事はもう来ない?」
「多分ね、加納が逮捕されたからね」
「実はこれを今日出して、僕が警察に行く予定だった」と篤彦は内ポケットから辞表を取り出すと亜佐美に見せた。
「えー、大林さんが?」それを見て驚く亜佐美。
「僕が賄賂を貰った事を告白すれば芋づる式に加納の過去の犯罪も表に出るでしょう。そうすれば亜佐美さんのお父さんの仇も討てると覚悟を決めていたのだが、かっこ悪いね」と苦笑いの篤彦。
亜佐美は急に涙目になって「ありがとうございます。そこまで考えて頂いて感謝しています」と涙声で言った。
亜佐美は「店、休むわ、二人で祝杯をあげましょう」と扉に鍵をかけ、篤彦に近づくなり抱きついてキスを求めた。
「本当にありがとう」と言うと篤彦の唇が吸い寄せられた。
亜佐美だけしか判らない篤彦の優しい心、それを噛みしめる様な長い口づけ。
もし加納が篤彦に贈った賄賂の事を供述すれば、今夜が最後のキスになる事を二人共知っていた。
亜佐美は、その時は自分も篤彦の弁護の為に恥を忍んで法廷に出ようと心に決めていた。
加納のプライド
早々と契約を終わった富田は、海岸の荒れ地の整地作業に着手した。
契約も終わったのと、市長の逮捕と加納の逮捕で住民を不安がらせない為の苦肉の策だ。
高松興業もこの先の展開が恐いので、先に代金を頂かないと出来ませんと強気に出たが、
富田は即金で振り込みをして直ぐに工事が始まったので、契約をした住民は安心をして見守っていたのだ。
週刊クローズの翌週号では、木下弁護士の談話が掲載されて加納の過去の悪行が洗いざらい暴露されたのだ。
何故こんなにこの弁護士が知っているのだ?と言った疑問が警察にもあったが、今やヒーロー扱いでマスコミにも登場して雄弁に語っているので誰も疑わない。
一方大野市長は、警察で尋問を受けると、加納からの賄賂や海岸の荒れ地の開発許可を強要した事実を自白した為、翌日には堀部長が任意で警察に連行された。
再び役所は騒然となり、篤彦も覚悟を決めて毎日を送っている状況が続いた。
「翔子、収賄でいつ逮捕されるか判らないので、覚悟して置いてくれ」
「貴方が逮捕されても、お金は返さないわよ、もう使ってしまったから。それに領収書は無いわよ!貰った証拠もない、現金だからね」
「渡した方が供述すれば、駄目だ」
「でも森本さんは逮捕されていないわ、大丈夫よ」
翔子は、高松興業が事件になっていないから、自分は大丈夫と決めている。
篤彦は加納から貰っているから、いつ呼び出しがあるかと戦々恐々だ。
呑気な翔子にも腹が立つが、加納が、賄賂に手を付けさせようと母親をひき逃げして怪我を負わせた手法は、断じて許し難いと思う篤彦だ。
そんな時、篤彦に一人で生活をしていた母紀子が転んだとの知らせが入った。
仕事中だったので手間取ったが、急いで病院に駆け付けた篤彦に紀子が「篤彦、来てくれたのか、骨折では無かったよ、打撲だった」と嬉しそうに言う。
「二日程で帰れるそうだわ」
「誰が連れて来てくれたの?」と救急車でも呼んだのかと思っていると「篤彦が直ぐに出られないと思って、頼んだのだよ」と微笑む。
そこに花瓶に花を入れて、病室に戻ってきた亜佐美が「今、いらしたの?」と微笑んで「骨折では無かったのよ」と教えた。
「何故?亜佐美さんが?」驚く篤彦。
「お母様から電話を頂いて、タクシーでここに」
「えー、すみません」と頭を下げる篤彦。
篤彦が、亜佐美の住むマンションから、この病院までなら結構な料金だと思ったところ「料金なら大丈夫よ、いつも使うタクシーだから、貸し切りにして、安くして貰ったから」と篤彦の考えている事を先に言われてしまった。
しばらくしてから医師が来て「一度事故に遭われていますから、足腰が弱っています。一人暮らしは危険ですから、家族と住んだ方が良いですよ」と微笑みながら言った。
紀子は「一人の方が気楽ですから」と気丈な言葉だが、篤彦の家の事情を知っているので先んじてそう言ったのだ。
「それは、危ないですよ。息子さんも考えてあげて下さい」と医者がアドバイスをした。
篤彦は、妹の星明美はとても母を引き取る筈も無いし、翔子に話すしか道は無いのかと思案に気持ちが沈んだのだった。
「もう、今日は良いわ、二人共帰って」と紀子は二人を病院から帰らせた。
二人の関係に気づいている紀子は、今なら亜紀子が篤彦の車で一緒に帰られると、気を遣ったのだった。
役所に戻った篤彦に「警察の方がお待ちです」と希が伝えると、いよいよ来たかと神妙な面持ちになった篤彦。
応接に入ると、前田刑事が若い刑事を一人連れて待っていた。
神妙な面持ちの篤彦に「大林さん、お母さんのひき逃げを指示した人間が判りました。加納です」と前田が告げたが、篤彦は既に知っていたので「はい」と言っただけで全く反応しなかった。
「その後お母さんの容体は?」
「先ほども家で倒れて、病院に運んで来ました」
「中々、治りませんね。お歳をとられてからの事故は大変です。お大事に」と言うと二人は帰ってしまった。
覚悟を決めていた篤彦には拍子抜けだった。
加納は、今更篤彦の様な小者に賄賂を贈ったこと等言う気もなく隠したのだ。
自分は高名な人間には、賄賂を贈って関係を築いたと、最後までプライドを高く持っていたのだ。
加納は、暴力団(銀成会)の事をもし話せば家族も殺されるかも知れないとの不安が常にあったので絶対にしゃべらず、総ての罪を死んだ荒井誠に着せて供述を終えていた。
夜、亜佐美に会いに行った篤彦は、役所で刑事が来て逮捕されるかと思ったと話すと「加納はプライドが高いから、大林さんは網から溢れたのかも?」と亜佐美は笑った。
「改めて、今日はありがとうございました」と御礼を言うと「良いのですよ、私お母様の事好きですから、死んだ母を思い出します」と微笑んだ。
「もう、加納が供述して大林さんが逮捕される事は無いと思いますわ」
「でも、急に木下って弁護士が出て来て、綺麗に解決しましたね。でもよく調べたね」
「そうですね。でも昔の事まであの歳で知りすぎですわ、何か裏が有りそうですね」と言いながらグラスを合わせる亜佐美は、篤彦といる幸せを感じていた。
翌日朝自宅で篤彦が「昨日お袋が倒れて病院に運ばれて、幸い打撲だったのだけれど、医者が一緒に住まないと、今後も有りますよと言うのだ。どうしよう?」と翔子に切り出した。
翔子は「そうね、貴方はお酒しか飲まないから、何処で寝ても同じでしょう?お母さんと暮らせば、そう長くないだろうし」と全く動じず平気な顔で返答したのだ。
するとめったに怒らない篤彦が「おい、何と言う事を言うのだ」と珍しく怒ると、翔子は「じゃあ、離婚でも良いわよ、私お母さんと住むならそちらを選ぶわ」と平然と離婚を口にした。
「そんな!生活はどうするのだ」驚いて怒る篤彦。
「この家は貰うわ、そして毎月二十万貰うわ、子供が成人するまで」と考えていたのかと思う程簡単に言う。
「何故?そんなに簡単に要求がでるのだ?」さらに驚いて声が大きくなった。
「前から考えていたのよ、お母さんが事故で入院してからね。身のまわりの世話なんて死んでも出来ないからよ」
篤彦は会話を止めて役所に向かった。
篤彦が、翔子のとんでもない発言に、取り敢えず自分一人でお袋と一緒に住むしか方法は残って無いと思い悩みながら役所に着くと「選挙ですよ、木戸さんが立候補されます」と職員が気勢をあげていた。
大野市政を引き継いで、悪いところは改めてクリーンな市政を遂行すると、木戸助役が発表して職員の喝采を浴びた。
変わり身の早い奴らだと、篤彦が苦々しく見ていると泉部長が、来週からの選挙運動頼むよと肩を叩いた。
離婚の目論み
だが、週刊クローズの最新号では(市政改革に望む、若き敏腕弁護士)の表題で木下弁護士の市長立候補が大きく取り上げられた。
驚いたのは木戸助役だ。
役所には既に辞表を提出して確勝ムードだったのが一変すると、完敗状勢に変わってしまった。
「勝ち目が無いな」
「そうですね」と話す泉部長と木戸助役だが、泉部長も変わり身が早い。
「長い間、お勤めご苦労様でした。今後はお孫さんの顔でも見てお過ごし下さい」ともう縁を切る段取りは、流石にサラリーマンだ。
まだ五十代後半で、職を失う窮地に一気に追い込まれた木戸は、まさに天国から地獄。
結局紀子との同居は、解決策はなく、篤彦が住むと言ったが、紀子がまだ若いから一人で良いと押し切った。
それを聞いた亜佐美が時々紀子の自宅を訪れたので、紀子は上機嫌で楽しく過ごしている。
その後の選挙戦は、結局マスコミも連日、選挙の模様をテレビで流したが、人民党の候補者との一騎打ちも形だけで木下の圧勝に終わった。
いよいよ乗り込んで来たのだ。
その後、堀部長も逮捕されると、賄賂に貰った家も没収された。
勿論開発許可は取り消しとなり、綺麗に整地されていた土地は、何も建築出来ない状況になった。
富田と契約した住民は、富田の家に押しかけた。
大正住宅は土地があれば家は建てますので、何処でも場所を指定して下さいと住民に伝えたが「馬鹿な土地はあるが許可が取り消されている」と興奮する住民は役所に押しかけた。
富田は外出を控えて家に籠もっているが、毎日の様に住民が押しかけるのでノイローゼ状態になった。
喜一は息子善実に、「自分に若しもの事があっても驚くな。罪は自分が総て背負っていくから、お前は残った土地を守れ、素晴らしい場所に大きなビルが建設されるからな」と言った。
富田喜一は、逮捕された加納と大野の供述が、ぽつりぽつりで早く進まないので、自分のところにいつ警察の手が廻るかという危険を常に感じていたのだ。
荒れ地の開発許可は早々に取り消されたが、他の部分は時間も経過しているから、中々裏付けが困難だろうと思っていた。
しばらくして警察から任意の出頭依頼が来た当日、喜一は自ら市長と加納建設の罠に填められたと思った。
相当な賄賂を贈ったのに、志半ばでこの様になったのは、本当の二人を知らなかった自分の失敗だと思った。
その後、喜一は死んで皆様にお詫びをすると遺書を残して自殺をしてしまった。
自宅には警察が捜査に入ったが、殆どの証拠の品は処分されており、二人が強要した証拠のみが残されていた。
善実は巧みに「父は市長が逮捕されてから、悪の片棒を勝がされたと悩んでいました」と涙を流しながら語ったので、事実を知らない人々は完全に騙された形となった。
それを知った大野と加納は、牢獄であの爺さんに完全に一杯食わされたと歯ぎしりをした。
騙された住民達もやり場のない状況に追い遣られたが、善実は大きな土地は無理だが、自分の相続で取られる土地を無償で住民に提供する事にしたので、結局財産は減らずに善実は相続する事に成功したのだ。
木下は世論を味方に市長に当選して、いつの間にか暴力団の弁護士から市長の座を射止めた。
区画整理事業も駅前再開発も幹線道路計画も、大きな変更点も無く進められた。
加納建設は規模がかなり縮小して、息子が跡を引き継ぐ事になった。
加納が落札した部分は再入札されて、今度は三俣建設が七割、高松興業が三割の仕事を手に入れた。
勿論木下市長には多額の裏金が入ったが、表向きはクリーンなイメージを保つため、その様な素振りは全く見せない。
反対派の芳香寺に配慮して、富田の土地を縮小して減歩率を下げての決着に持っていった。
木下市長と富田善美の会談の結果、当初三倍のビル用地が二倍に減って、駅前の三十軒の家は湾岸近くの住宅地に、一回り小さな住宅が建設される形で一応の決着になった。
高松興業の林蔵は、結局三事業の半分以上の工事を落札、その功績は篤彦のお陰だと感謝していた。
森本が篤彦の自宅に大きな果物籠を持って訪れたのは、大野市長の逮捕から半年以上経過してからだった。
翔子は、今頃になってまた貰えるとは思ってもいなかったので大いに喜んだが、森本は「御主人には大層お世話になりました、今回の事業で我が社の多大な業績の上昇は御主人のお陰だと社長も申しまして、色々なお礼を込めましてお礼の品を持参しました。今後は加納建設の例も有りますので、一先ず終了とさせて頂きます。ありがとうございました」と言った。
重い果物籠を受け取る翔子。
最近篤彦は、自宅に帰る回数も少なくなって、母親の実家に泊まる事が多くなっていた。
翔子の耳には、御主人の実家に若い女性が出入りしているけれど?どなた?と言った声が聞こえていた。
母紀子の面倒を見ている介護の人?昼間篤彦がいない時間に来ていると聞いていた。
翔子は、人から夕方には帰って行くから、御主人とは交代でお母さんを見ている様ね。
母親には保険金が入った様だから、雇ったのだろう?等の話を聞いて、あの酒飲み男に女性が出来る筈はないから、居ても飲み屋の女で金目的よ、小遣いに少し上乗せのお金で何も出来ないわ!と考えている。
篤彦は、加納に貰ったお金は殆ど手を付けておらず、母の治療費と実家の各所に手すりを付けた程度の出費をしただけだった。
翔子は森本から受け取った重い籠の中の果物を取り除いて、札束がぎっしりと入っているのを見つけると、「わー、凄い、幾ら有るの?」と顔を綻ばせた。
「えー、二千万」と束を数え終わって、思わず札束にキスをする翔子。
「三千万貯まった!」と通帳の金額と目の前のお金を見て、今だわ!離婚を切りだして、このお金は内緒にして、毎月二十万貰えば楽勝だわ、あの様な婆さんの面倒をこれから一生面倒見るのはごめんだわ、大嫌いだからねと勝手な想像を膨らませる。
翔子は、現金は鞄に詰めて明日貯金に行こうと思うが、分散して預金をしなければ怪しまれると考え、通帳を取り出して分散を計画した後、便箋に離婚の条件を書き綴った。
これも書いて驚かそう(実家では、若い女性と楽しく過ごされている様で、母親の面倒を見るだけが目的では無いように思うのも原因)「これでよし」と微笑む翔子。
因果は巡る
翌日朝自宅に着替えを取りに戻った篤彦に「この様な生活は続けられないわ、私はお母さんとは住めないから、前にも言ったけれど離婚が良いと思うわ」と翔子が封筒を差し出した。
「これは?」と突然封筒を突き付けられて驚く篤彦に「一応条件を書きました、隠れていても判るのよね」と意味ありげな言葉を付け加える翔子。
篤彦は中を見ないで、役所に急いだ。
役所でようやく、封筒を開いて驚きの表情に変わる。
離婚の条件と理由
①お母さんとは性格が合わないので、今後も一緒の生活が無理。
②実家では、若い女性と楽しく過ごされている様で、母親の面倒を見るだけが目的では無いように思うのも原因。
③家と僅かな貯金は私と子供達が慰謝料として貰う。
④毎月二十万の養育費は俊彦が成人になるまで支払う事。
⑤車は、自由に貴方が使う。
と書かれてあり、翔子は知っていたのだ!亜佐美との仲をと考え込んだ篤彦は、今夜亜佐美に相談してみるか?とため息をついた。
木下市長は丸山と久々に会っていた。
「中々会えませんでしたが、ようやく落ち着きました」
「しかし、お前は天才だな、見事目的を達成したな」
「マスコミを使えば簡単ですよ、親分も紳士に変身出来ますよ」
「本当か!」
「毎日の様に取材にマスコミが来ますから、何でもこちらの好都合で書いてくれますよ」
「親分が私の後に入られては?」
「俺が市長?」
「そうです」
「何も判らんがな。人を殺すか怪我を負わすのなら得意だが」
「大丈夫ですよ、行政は廻りが総て行います。市長は実際に何もしなくても、廻りますよ」
「本当か、お前は頭が良いからな」
「大丈夫ですよ、二人で乗っ取りましょう」
「暴力団のシマとは違うぞ」
「似た様な物です。僕の任期中に駅前も綺麗に変わるでしょう」そう言いながらも次の野望に燃える若い木下だ。
丸山も悪く無い構想だと色気を見せていたのだった。
芳香寺の反対派の看板は撤去されて、穏やかなお寺の風景に戻って、時々亜佐美が泊まりがけで訪れる。
父智正の墓と母亜紀子の墓をこの芳香寺に建てようと、いつの間にか二人は決めていた。
加山家の墓としてここなら供養が出来るし、毎日会えると浅子は喜ぶ。
両親の記憶が何も無い浅子には、感無量の心境だった。
元々、両親の墓も無く亜佐美が二人の位牌を守っていただけで、父の実家も何も知らなかった。
和歌山の町村丈太郎に尋ねても、父の生まれが九州の熊本だと判った程度で、それ以上の事は全く判らなかった。
夜に亜佐美の店に行った篤彦だが、実家迄車で帰らなければ行けないので酒は飲めない。
「妻が、離婚を切りだしたよ、前からその様な話は出ていたけどね」と封筒を差し出す篤彦に「えー、これって」と驚く亜佐美。
「そう知っていた様だ」と封筒の中から手紙を取り出して読み始めた亜佐美に話す。
「見つかっていたのね」と諦め顔の亜佐美。
「どうなさるの?」
「仕方が無いから、条件を飲もうかと」
「お母様と仲が悪いと修復は難しいわね」
「亜佐美さんの様に仲が良かったら、良かったのですが」と言うと、亜佐美はノンアルコールビールをグラスに入れて篤彦に差し出した。
それを篤彦は一気に飲み干すと「母に相談して決めます」と店を後にした。
篤彦が翔子の手紙を紀子に見せると「親に似ない子供はいないね」と紀子がぽつりと言った。
「何の話?」
「翔子さんも性格が冷たいのよ、母親も冷たい人だと有名だったのよ」
「翔子のお母さんって、雅美さんだったかな?」
「お前たちの結婚の前に、お父さんと打ち合わせに行った事があるのよ。その時に近所の人から聞いたのだけどね、なんでも昔乳飲み子を抱えた翔子のお母さんの妹が、主人が交通事故で亡くなって頼るところが無くて尋ねてきて、仕事に出たいから、子供をしばらく預かって欲しいと頼んだらしいわ。しかしその妹を追い返したそうだよ。妹さんは家の前で泣き崩れていたそうだ」と話した。
話を聞いている篤彦の顔からみるみる血の気が引いていった。
話に聞いていた亜佐美の母の話そのもので、篤彦は強烈な因果を感じたのだ。
「どうしたのだ?篤彦気分でも悪いのかい?」
「お母さん、驚かないで聞いて下さい」
「何を恐い顔して」
「亜佐美さんと翔子は従姉妹です」
「えーー、何だって、本当かい?」今度は紀子が驚いた顔になった。
「どうなっているのよ、翔子さんと別れたら亜佐美さんと再婚すれば良いと思ったのに、わー恐ろしい事だ」
「まだ、確定ではありませんが今のお母さんの話が本当なら多分・・・」篤彦は言葉を濁した。
「亜紀代さんって人の話聞いたけれど、何処から嫁いで来た人だったかしら?」と思い出そうとする紀子。
篤彦も何処か翔子と亜佐美に、似ているところが有ると思い始めるから不思議なものだ。
亜紀代、亜紀子、亜佐美、亜沙子なら、総て同じ様に亜が付いていると考える。
篤彦は恐い気持ちもあったが、翔子と亜佐美が従姉妹かどうかは確かめる以外道は無いし、確実でなければ本人にも話せないと思った。
篤彦は紀子に口止めをして、戸籍を調べようとしたが中々個人情報の関係で閲覧が出来ず調べられなかった。
翌日、篤彦が自宅に戻ると「条件呑んでくれるの?」と翔子が尋ねてきた。
「実家の若い女性は、お袋が世話になっている介護の人だ。俺が留守の時に様子を見に来ているだけだ」
「そう!」と素っ気ない態度の翔子は、適当に書いただけなのに必死だわ、馬鹿じゃないの?と心の中で笑った。
通帳にはたっぷりと現金があるし、あなたは口五月蠅いお母様と楽しく過ごしてよと翔子は思っている。
もう大金を貰って数日経過するけれど、一度も話が篤彦から出なかったので、あの森本さんは賄賂の話をこの人にはしてないと考える翔子。
今までの僅かな蓄えから一変して、三千万以上のお金を手にした翔子は強気になっていたのだ。
「離婚はともかく、少し聞きたい事があるのだが」
「何よ」
「翔子のお母さんの事だけれど、妹さんはいたのかな?」
「何を今頃聞くの?」
「気になってね」
「離婚と関係無いわよ、私はこの家に住むからね。お母さんは三人兄妹で、今の里を継いだ兄の渡辺雅夫、と次が母の雅美、妹は私も殆ど見た事がないけれど、母は不潔だと毛嫌いしていたわ」
「何故?」
篤彦がなんでそんなことを聞くのかと不思議そうな顔をしながら翔子は「お爺さんが外で産ませた子供だからよ」と言い放った。
「愛人の子供か?」
「実際は違うのよ、母のお母さんは早く亡くなったらしいから、後妻だったと思うわ」
「名前知っているか?」
「聞いた事無いけれど、母に聞けば判るわ」
「悪いけれど、聞いてくれないか?条件は飲むから」
「離婚と関係あるの?」と変な事を尋ねると翔子は思う。
「少しね」
「そう、判った」と言うと翔子は直ぐに実家連絡した。
しばらくして電話を終えた翔子は「変な事聞かせるから母が怒っているわ、余程嫌いみたいよ。お母さんが病気の時、既に愛人として、付き合っていた様よ、子供も産まれてね。追い出したのに思い出させないでと言われたわ」と言った。
「それで?」
「腹違いの妹は亜紀子だって、消息は知らないと言っていたわ。母親と一緒にお爺さんの死後出て行った様だわ」
「ありがとう、荷物は片付けに来るよ」
翔子の「届け用意して置くわ」との言葉だけ聞くと、篤彦は実家に向かった。
敏腕弁護士市長
週刊クローズは連続して木下市長のインタビューを掲載したことで、売り上げが伸びたので綾音と真希の一連のスクープに対して、編集長から金一封と会社から表彰が与えられ、二人は有頂天になっていた。
今ではマスコミ各社が取り上げるが、最初はほぼ独占で大野市長と加納建設の事件を取り上げたから、素晴らしい功績に成ったのだった。
その後も木下はこの二人の要望は優先して聞いてくれていた。
駅前の商店街との折衝も市長自ら行って、調整も上手く進んだ。
助役を退職した木戸だけは、五十八歳で職を失い途方に暮れていたのだ。
自分が仕組んだ企みで、己が失職してしまったから、全くお笑いの世界の様な顛末に自分でも笑えるくらいの有様だった。
泉部長は今では、木下市長の飼い犬の様な働きをしている。
丸山の姿がチラホラとし始めたのは、それから半年以上経過してからであった。
丸山は木下から「一般人としてこの町に貢献すれば認められますよ。僕が良い職を探しておきますから、身なりも暴力団とわからない様にして言葉使いも変えて下さい!お願いしますよ」と言われて、専門のコーデネーターを付けて特訓をしていた。
丸山も一般の社会で認められて人生を終わりたいと思うのが本音の様だ。
実家に戻った篤彦は紀子に「間違い無い、従姉妹だった。亜佐美さんのお母さんは苦労した様だ」
「どうして?」
「後妻の子供で産まれた様だよ」
「それで、姉たちに追い返えされたのね、可哀想にね」
「二度追い出されたのだよ、多分!父親の亡くなった後と旦那さんが事故で亡くなった後」
「そんな、無茶な事」
「亜佐美さんのお母さんは、子供を預かって欲しいと頼みに行ったのだろう。自分が働く為に姉の嫁ぎ先にね、意外と近いからね。翔子の実家が北村でお母さんの産まれたのが渡辺だけれど、遠いからそこには子供は預けられないからね」
「可哀想にね、それで妹さんを寺に捨てたのね」と紀子は目頭を押さえる。
篤彦は折り込みチラシの裏に簡単に描き始めた。
① 亜佐美と浅子の母親が亜紀子、父親が加山智正、加山さんは加納に殺された。
②翔子の母親が北村雅美、兄が渡辺雅夫 二人の母をBとして父をAとする。
③父Aは病弱のBとは別に亜紀子の母と愛人関係になる。子供亜紀子が生まれて、病弱のBが亡くなって、二人を自宅に迎え入れる。
④急に妹(亜紀子)と継母(亜紀代)が来たのに怒る兄妹(渡辺雅夫と北村雅美)は、父Aが亡くなると亜紀子と亜紀子を一緒に追い出した。
⑤亜紀子は加山智正と結婚して、亜佐美と浅子が産まれた後、事故で智正は亡くなる。
⑥仕事をしたかった亜紀子は姉(北村雅美・翔子の母)を頼って嫁ぎ先に行って、下の子浅子さんを預かって欲しいと頼んだが、無視されて困った亜紀子さんはお寺に浅子さんを捨てた。
「こんな感じだな」と篤彦が書き終えた紙を紀子に見せると「翔子の性格が悪いのは母親譲りだね」と笑う紀子。
「お母さん、離婚するよ。翔子はどうしてもお母さんとは一緒に住めないらしいよ」
「悪いね、私の為に、財産はどうするのだい?」
「家も、貯金も翔子に渡すよ、子供がいるからね」
「貯金総てかい?」
「大して無いですから、子供三人の学費に消えていますよ」と言いながら、森本に貰った賄賂も塾代に使う程だから、貯金は無いよなと考える篤彦。
「車は僕が貰います。誰も運転しませんから」
「養育費も払うのだろう?」
「月、二十万要求されています」
「それだけ渡して、大丈夫なのかい?」
「節約すれば、ギリギリかな?」
「再婚も出来ないね」と微笑む紀子。
「誰と再婚するのだよ」と惚けると「お母さんの目はまだまだ見えていますよ」と紀子は微笑んだ。
東京の綾音と真希が都内の居酒屋で「真希、私達もしかしたら利用されたのかも?」
「そう、私もそれを考えていたのよ、あの木下市長に填められた!」
「今ではマスコミに改革派の旗頭の様に祭り上げられて、有頂天よ」
「考えてみたら突然現れてきて、一気に市長の座を射止めたでしょう。色々と知り過ぎよね、それで編集長にその話をしたのよ。そうしたら時のヒーローのお陰で売れたのに、今更調べる記事書いて批判を浴びたいのか?賞も貰って最高だろう?そう言われたわ」
「それもそうだわ、自分が書いたヒーローが偽物でしたとは書けないよね」と半ばやけ酒状態の二人。
世間は二人の思惑とは大きくかけ離れて、木下は知名度が上昇して行き、いつの間にか丸山も三大事業推進プロジェクト審議員の名目で参画していた。
日曜日、自宅で自分の荷物を整理する篤彦。
翔子も積極的に片付けを手伝うので、早く消えて欲しいからなのか?と思いながら殆どの物を置いて行こうとすると翔子は「処分するのもお金がかかるのよ、持って行ってよ。箱に入れて置くから」と嫌みな言葉を吐いた。
その頃亜佐美は、紀子を連れて近くの公園に散歩に出掛けて楽しい時間を過ごしていた。
「従姉妹でもこう極端に違うと恐いわね」と紀子が喋ってしまった。
「従姉妹って?」
「篤彦から何も聞いて無いのかね」
「何を?ですか?」
「篤彦の嫁の翔子さんと亜佐美さんが従姉妹だって話し」
「えー-!」そうすると、自分が子供のころ母と尋ねた親戚の家が、大林さんの奥さんの実家!考えられない偶然を聞き戸惑う亜佐美。
篤彦の離婚は直接自分には関係ないが、世の中の恐ろしさを感じる亜佐美は急に暗くなり、無口になった。
「脅かしてしまったね、知っていると思っていたから、すまないね」と謝る紀子に「お母様に聞くまで知らなかったので驚いただけです。大林さんも私に気を遣って話さなかったと思います」そうは話したが心の動揺は収まらない亜佐美。
心の中では篤彦が離婚したら、自分と再婚も可能性があると思っていたからだった。
翌日篤彦の部署に木下市長が丸山を連れて挨拶にやって来た。
木下が紹介した丸山は強面なので、職員一同緊張の面持ちで挨拶を聞いたが、今後この事業が終わる迄、何年間も顔を会わせると紹介された。
夜、篤彦は(チェリー)に行くと「今月中には、離婚成立だよ」と話した。
「そう」とあっさりとした感じの亜佐美。
「今日役所でね、再開発事業の審議員と言う新しいポストが出来たの。我々の仕事を監視する役で丸山と言う男が就いたが、恐い感じの人だった」
「丸山?年齢は?」
「六十歳位かな、暴力団の様な人だよ」
「丸山下の名前は?」と聞かれて、手帳を取り出す篤彦。
「銀三だって、将棋みたいな名前だね」と笑う篤彦。
しかし、対照的に顔色が変わった亜佐美だった。
その後はその話は終わって客も数人入って来て、二人の世界は終わってしまった。
篤彦には亜佐美の顔色が変わった事は判らなかった。
その数日後、亜佐美は拘置所の面会室に向かっていたのだった。
お強請り
加納は起こした事件が多すぎて、しかも慎重に警察も捜査をしていることもあり刑がなかなか確定しない。
加納が拘置所に入ってから随分時間が経過している。
大野市長の刑が確定した後も、加納はまだこの拘置所にいたのだ。
「久しぶりね」と話を始める亜佐美に「今頃、何をしに来たのだ、笑いに来たのか?」
「そんなに暇じゃあないわ」
「じゃあ、何をしにここまで来たのだ」
「聞きたい事があったからよ」
「何を?」
「喋れないから、頷くだけで良いわ」
「銀三って知っている?」と尋ねると見る見る顔色が変わる加納。
亜佐美はもう頷かなくても理解が出来たので、そのまま「元気でね」と言って、呆然としている加納を残して、拘置所を去った。
加納は銀三が自分を狙っていると勘違いをして、怯えていたのだ。
亜佐美は昔、加納に銀三の事を聞いた記憶が残っていたのだ。
手荒い仕事をする暴力団で、二、三度利用したが、最近は恐くなって、使ってないのだと加納に聞いた男の名前が記憶に残っていたのだ。
その男に最近は有能なブレーンが出来て、仕事が綺麗になったとも聞いたことを思い出した。
あの木下市長は丸山のブレーン?と考えていた時に、突然綾音が電話で「何か変わった事ない?」と聞いてきた。
「何が?」
「木下市長さんよ」
「どうしたの?」
「私達彼に上手に利用された様なの」
「今のところは何も無いわ」
「そう、責任感じちゃってね」と亜佐美の考えを裏付ける様な内容だった。
一ヶ月後、篤彦は正式に離婚が成立して、母親の実家が我が家に変わった。
亜佐美と従姉妹の問題は、それ以後はお互い口に出さなかった。
「お母さんの年金と、僕の給料のから養育費を引いた残りで生活ですから、贅沢は出来ませんよ」篤彦が紀子に話す。
「判っているよ、私が死んだらこの家を売ってマンションにでも移ればいいよ」
「お母さんには長生きをして貰わないと、お父さんの分まで」
「月に十万少々しか残らないのよね、篤彦の給料」
「課長なのに、少ないのだね」と紀子が言うと「代理だからね」と笑った。
駅前の工事は進み始めて、幹線道路も立ち退きが進んでいる。
区画整理も転居が徐々に始まって、駅前を中心に町が変わろうとしていた。
日曜日、亜佐美はいつもの様に紀子の家にやって来ると、三人の楽しい一時を過ごす。
「篤彦の少ない給料で生活しているから大変なのよ、お風呂の修理にもお金がね」と悔しそうに言う紀子。
「大林さん、少しお話が」と亜佐美は篤彦を呼んで家の表に出た。
「実は、大変危険な事なのですが、木下市長に自分は銀三さんを知っていますと、話して貰えますか?」
「えー、銀三さんってあの審議員の?」
「はい、そして私以外にも、何人か知っています。でも市長の気持ちで総てを伏せる事が出来ますと言って見て下さい」
「そして、返事が来たら、総て忘れましたありがとうございますとお礼を言うのです」
「何ですか?それ?」
「大林さんが裕福に成れる筈です」
「・・・」不思議な話に唖然としている篤彦。
亜佐美には丸山銀三と木下市長が、加納とマスコミを利用して市政を乗っ取ったと思ったのだ。
今更辞める事は出来ないから、多少の要求なら呑むと考えたのだ。
翌日早速機会を探っている篤彦。
飛び回る木下市長が「明日、誰か現場を視察にお忍びで連れて行ってくれないか?」と課内に来て叫んだので、思わず篤彦は手をあげた。
「代理が行ってくれるか、半日の予定だ、十三時に」と若さ溢れる行動力に、篤彦は自分より二つ若いだけなのに大きな違いを感じる。
明日、この機会に亜佐美が言った事を実行してみようと思う篤彦。
銀三さんを知っています。
他にも知っている人がいます。
市長のお気持ちで総てを伏せます。
何だ?これ?と思いながらも篤彦は明日話してみると決めていた。
翌日篤彦は、車に木下と秘書を乗せて湾岸から見て回る。
「今日は海が綺麗だな」と背伸びをする市長に篤彦が「私は銀三さんを良く存じています」とさりげなく言うと、木下は背伸びを途中で止めて睨み付けた。
秘書に、缶コーヒーを買って来いと命ずる木下に「他にも知っている人が数人いますが、私は市長のお気持ちで総てを伏せる自信が有ります」と次の言葉を言った。
「つまり、私を揺すっているのだな」
「いいえ、そんな気持ちは全くありません。市長と仲良くしたいだけです」
「今更、引けないだろう、近い内に代理の気持ちを汲み取ろう」と言うと木下は篤彦の肩を軽く叩いた。
意味が理解出来ない篤彦だったが、後日結果が表れて驚くことになるのだった。
「丸山さん、厄介な男が現れたよ」
「どうしたのだ」
「親分を知っていると脅迫してきました」
「誰だ!」
「親分に教えると顔に出て直ぐに判ってしまいます」
「殺そうか?」
「今は暴力団ではありません、政治家です。それに複数の人間がこの話を知っています。下手をすると我々が加納と同じようになってしまいます」
「どうするのだ」
「多分出世が望みでしょう任せて下さい。それでも駄目なら消しましょう」
「判った」と丸山と木下の話は終わったが、丸山は篤彦がその人だとは知らない。
一ヶ月後、新たに人事が発表されると、篤彦は自分でも驚く二階級特進の次長職になっていたのだ。
代理では無いので、給与も大きく上昇して驚いている篤彦に「これで、文句は無いだろう」と木下からメモ書きが届いた。
「驚きよ!篤彦が次長に」紀子は大喜びで亜佐美に伝える。
亜佐美は自分の予想に自信はあったが見事的中して今更の様に驚いていた。
「お母様、実はもう一つ、驚く事がありますのよ」
「何、判ったわ、子供が出来た!でしょう?」微笑みながら言う。
「えー、お母様が何故?」
「前から知っていましたよ、二人の関係は!結婚しなさい、篤彦も喜ぶわ」
「ありがとうございます」と亜佐美は喜びの声を残して電話を終えた。
亜佐美は直ぐに浅子に電話で「浅子、お姉ちゃんね、子供が出来たのよ」と伝えた。
「えー、お姉ちゃんも?」
「えー、浅子も?」
「わー、凄い同じ時期にお母さんだ」と喜ぶ浅子。
「ところで、子供のパパは勿論、大林さんよね」
「そうよ、篤彦さんよ」
「わあー、初めてだ、お姉ちゃんが篤彦さんって呼んだのは」と盛り上がる二人。
数年後、町の景観は大きく変わり、駅前には大きなステーションデパート、地下には商店街、その先には大きな富田のビル、上層階はマンション、二階三階は大正住宅の支店。
富田善美は銀行を退職して、父が悪行の限りをして命を賭けて残した財産を涼しい顔で引き継ぐと、悪びれる仕草も無く(きむら)にも顔を出す。
康三達が羨望の眼差しで見ている事を知ってか知らずか、親以上の肝の据わった態度である。
駅の正面にも富田ビルが建ち、駅北の区画整理の用地は綺麗な区画で仕切られて、芳香寺も駐車場の一部が小さくなっていた。
木下市長は二期目の途中で市長を引退すると、丸山銀三が後継市長に立候補して、木下の応援で楽々当選した。暴力団の親分から、市長になったのだ。
余勢で、木下は県知事に立候補の発表をした。
数ヶ月後、子供を抱いた亜佐美と浅子が、木下の演説を聴いていた。
「あの男達に、お父さんは殺されたのかも知れないのよ」
「証拠が有ればね、今では闇の中ね」結局権力を持った者が自由に世の中を渡るのだと痛感していた。
篤彦は「子供が成人するまで、元気で頑張ってね」と亜佐美に言われたので自重するようになり、昔程酒を飲まなくなった。
酔狂になる前に救われた篤彦!今は母紀子と子供真美と妻亜佐美に囲まれて存分に幸せを感じていた。
完
2015.12.25
酔狂