小学校の思い出(二宮金次郎)
週一回の朝礼の日はラジオ体操のあとに校長先生の大事な話があったが、それはすぐに忘れた。話をしている校長から数メートル離れた所に二宮金次郎の立像があって、私はむしろこちらの方を見ていた。登校、下校の際にも校庭を歩いていけば必ず目に入る。像の人物について先生から話を聞いた記憶はないが、聞かなくても充分に分かった。薪を背中に背負って、本を読みながら歩いているのを見れば、偉い人に違いない。母もそのように言っていたから間違いない。純真な子供の心に感じたことは消えずに残る。「尊敬する人は」と聞かれると、いつでも迷い無く「二宮金次郎」と答えた。
私は金次郎の像から、学校の勉強は大切であることを自然に納得していた。この小学校に6年生の夏まで通って色々な事を先生達から学んだ。
1年生の時は優しい女の先生。天気が良い日は毎日学校の裏山に連れて行ってもらった。そこには野原があって昆虫や花をとってきては先生に見せ、鬼ごっこや相撲取りをした。
2年生の時も同じ先生。野外での勉強は楽しかったし、野原で食べる弁当も美味しかった。
3年生の時は男の先生。母もむかし同じ小学校で習った老先生だ。母はこわい先生だと言ったが、ムチを持っている割には、恐くなかった。この先生にだけニックネームがあり、「チーパッパ先生」といった。算数の問題で、答えの出し方には幾つかの方法があり、そのどれに基づいても導き出せることを教えてもらった。私の考え方もその一つだと認められて嬉しかった。
4年生の時も男の先生。体の大きな先生で、まいにち本を朗読してくれた。子供達には「西遊記」の続きが待ち遠しかった。また先生はよく外で遊んでくれ、冬は校庭で雪合戦をした。私の氷の塊が先生の額に命中した時、先生はどこまでも私を追いかけてきた。氷を投げたから、私は先生の仕返しを恐れて必死に逃げたがとうとう掴まってしまった。が、先生は私をやんわりと雪の上に転ばしただけだった。
5年生の時は女の先生。若くてきれいな先生で、子供達にも人気があった。しかし、私はよい生徒ではなかった。野外写生の時間に、自分の好きなように描きたいと思っていた私は先生のアドバイスをしつこく思って、「もう描きたくない」と反抗してやめてしまったこともある。冬には金属製の鉛筆キャップにセルロイドを詰めてロケット弾を作りダルマストーブで熱して発射させた。誰かに当たれば危険だった。さすがに先生から「○○君がそんなことをするとは思わなかった」と言われて反省した。私はこの先生の存在により貧富の差を実感した。待ち遠しいお昼の時間が来ると、先生の弁当は赤、白、黄(デンブ、ハクマイ、タマゴヤキ)で、私の弁当は灰色、灰色、茶色(メザシ、ムギメシ、タクアン)だ。先生の弁当の方がずっと綺麗で美味しそうである。私が滅多に食べる事のない卵焼きも毎日有る。しかし、先生のも私のも真ん中に梅干が有ったのは嬉しかった。毎日、先生も子供達もみんなで美味しそうに弁当を食べた。
6年生の時は男の先生。でも、一学期間だけだった。先生が転勤してきて、私が転校することになったからだ。今日でみんなとお別れという日に、先生とクラスメート達はサツマイモを家から持ち寄って小使い室(用務員室)で茹でてもらい、それを食べながらお別れ会をしてくれた。先生の優しさが思い出される。
母校を離れて数十年になる。私は卒業前に転校したから「仰げば尊し」を歌うことはなかったが、恩師の面影がとても懐かしい。風の便りで先生が亡くなられたことを知ると寂しい。
私は郷愁にかられ、もしかしたら分かるかも知れないと思い、インターネットで母校を検索してみた。あった!ホームページに校舎の写真も載っている。昔のイメージと違ってはいるが嬉しかった。町村合併で村立から町立になっていた。校舎は同じところにあったが改築されたようだ。私の頃は一学年数十人だった生徒数は10人前後まで減っている。そして、期待しながら、目を凝らしてみたが二宮金次郎の像は見つからなかった。
今ではどの学校の脇を歩いても見かけない。二宮金次郎はどこに消えてしまったのだろう。その像は、懐かしい先生達の思い出と共に私の心にあるだけである。
2017年1月24日
小学校の思い出(二宮金次郎)