20170112-青春の日々~ギター賛歌

 西暦二千年。コンピューターの誤作動が懸念され、世の中が右往左往していたが、ようやく落ち着いてきた頃、俺は重い気持ちで中学の職員室の引き戸を叩いた。担任の先生は、すぐに俺に気がつき、やっと来たかと憐れむように見ている。俺は先生のそばに立つと目線をそらして言った。
「先生。俺、北海道釧路江南高校落ちました」
「うん。知っているよ。こっちにも通知が来たから。それで、札幌北斗高校へ行くんだろう?」
「はい。さすがに中学浪人はできないから」
「うん、それだったらいいんだ。なあ、井上」
「はい」
「絶対にくさるなよ。くさったらお前の人生は終わるから。俺はお前のポテンシャルは認めているんだ。だけど、お前はコツコツと積み重ねることが苦手だ。きっと、受験勉強も最近始めたんだろう。そうだろ?」
「はい。十月から……」
「やっぱりな。いくらなんでも、それじゃ遅すぎるよ」
「すみません」
「俺に謝ってもな……。いいか、井上」
「はい」
「真面目にコツコツ積み重ねれば、きっとお前の前途は開ける。だから、三年後の大学受験は期待しているぞ」
「分かりました。失礼します」
「うん……」

 俺は大学受験を考える気力はなかった。ただ、早く職員室を出たくて『分かりました』と言っただけだ。
 職員室を出て玄関まで歩く間、窓の外を見ると、誰が植えたのか赤い花が一本だけ、吹雪の中でもなお元気に咲いている。その力強さに嫉妬した。俺は学校から帰る時に、その花を落としてしまう。それが、中学時代の最後の登校だった。卒業式は出なかったから。

 後ろめたい気持ちで中学校の校門を逃げるように出て、吹雪の中を歩く。たぶん、今年最後の雪になるだろうが、もうすでに三十センチ近く降っている。息はマスクなしではできなくなり、視界は時おり見えなくなる。そういう時は、じっと立ち止まって待つしかない。もしも、横断歩道を知らないで渡ったら車に轢(ひ)かれかねないから。俺は、普段十五分で着く家までの一キロ足らずの距離を、倍以上かかってやっとたどり着いた。
 勝手口に積もった雪をスコップで除雪して、家の中へ入りオーバーを脱ぐと、電気店の店先からお帰りの声がした。こんな日も、店を開けている母がバカまじめに思えて、返事をしないで二階にあがった。
 タオルで頭をふいてから、ベッドに寝そべりこれからのことを考える。札幌の高校へ行くには下宿しなくてはいけない。アパート暮らしはきっと母が許さないだろうから。これからは、今までのような自由な行いはできないし、当然、楽器も思い切り弾けないだろう。俺は下宿という窮屈な集団生活に入る前に、長い間触っていなかったピアノを思いっきり弾くと決めた。そう、四歳年上の姉に負けるのが嫌で、弾いてなかったピアノを。
 姉の部屋に入って部屋の電気をつけると、カーテンから姉の甘い香りがする。俺はなにか悪いことをしているように、消臭スプレーをまき散らして荒々しくカーテンを閉めて、電灯を点けた。
 気を取り直してクリーム色のピアノカバーにくるまれたアップライトピアノに向かい、背もたれのないイスに腰かける。座った瞬間、低いと感じて少し高くする。そのころの俺は、百五十八センチしかなかったので仕方がなかった。落ち着いてけんばん板を上げて、赤いフェルトのキーカバーを取った。
 まずは、白けんばんに指を乗せて和音を出す。少しだけ調律がずれていたが、それほどでもないので我慢することにした。
 バイエルの教本を開き、最初から弾くことにする。はじめ同じリズムを刻んでいた右手と左手が、次第に違うリズムをうたい、身体がそれに反応する。気持ちいい。俺は、周りの音が聞こえないほど集中していった。
 俺はピアノを弾いてて思う。この音の洪水の中になにかあるとしたら、それは譜面に書かれていないアクセントと言う名の決まり事ではないのか。乗れない演奏には必ずアクセントが弱かったり、間違った場所に付いている。その感覚、センスがなければ、どんなに練習しようと、どんなに早く指が動こうとも意味はないのだ。そんな当たり前のことがようやく分かった。
 ふと、カーテンを開けて外を見ると雪景色が暖かい色の街灯に包まれていることに気づく。腕時計は六時過ぎを示していた。不意に、カレーのいい匂いがして台所へ行く。レンジを見ると分厚いトンカツがあり、俺は唾液を飲み込むとカレーを温めた。
 カレー皿に多めのごはんをよそおい、切ったトンカツを乗せ、温めなおしたカレーをかけて、フクシン漬けを乗せる。そして、コップいっぱいに水を満たし、いただきますと言ってスプーンを口に運んだ。
 その瞬間、口の中いっぱいに幸せで満たされる。ああ、俺は生きているんだと思うと、涙がこぼれた。泣きながら母の作ったカレーをお代わりした。

 それから、ピアノを無心に弾き続けて一か月。とうとうブルグミュラー、ソナチネ、そしてソナタも弾いてしまった。しかし、自分が思い描いていた音とは違って粒が揃わず、リズムも滑らかには弾けなかった。試しに、以前買ったお気に入りのピアノピースを弾いてみたけれど、ベートーヴェンの熱情は始めの数フレーズで挫折して、月光は第三章で全く弾けなかった。やはり、長い年月を掛けてコツコツやったものにしか手に入らない音があるのだと悟る。しかし、俺は姉の弾いて来た音をたどることで満足をしてしまった。ピアノを拭いて譜面を元に戻して姉の部屋を出た。
 俺が、ひとり暮らしの荷物を段ボールにつめていると、親父が、ヘソクリだよと言って封筒を差しだす。四万円入っていた。ありがとうと言ってポケットに入れた。


 三月の末日。灰色の雲が低くおおっているまだ寒さきびしい釧路から、俺はひとり札幌へ旅立った。これでふたりきりの姉弟は、姉は東京の大学へ、俺は札幌の高校へと家を出てしまった。列車の窓にいつまでも手を振る母が、寂しそうに見えた。
 釧路駅を出発した列車は、札幌駅に向けてガタンゴトンと規則正しく音を立てていて、座席は全て進行方向を向いてゆれて行く。座席が向かい合っていないのは、この列車の乗客の目的が観光などではないことを示しているのだろう。
 乗客は通路をはさんでとなりのシートには老夫婦が、手をつないで幸せそうに窓の外の景色を眺めている。だが、奥さんの顔色が少し悪い。きっと、最後の場所へ向けて旅立つのだろう。俺は目が合うと思わずおじぎをした。
 俺の背中の席にはメガネをかけたサラリーマンがひとり英字新聞を読んでいる。時おり、新聞をめくる音がするが、ゆっくりとめくるのでうるさくはない。きっと俺には無理だろうが、こういう大人になりたいものだ。
 前の席には、いかついオジサンがスルメをかじってカップ酒をなん杯も飲んでいる。そして事もあろうか、シツコク車内販売のおねえさんにからんでいる。助けてあげたいが、きっとあのオジサンは頭に来て殴りかかって来るだろう。そう思うと、何もできない。たぶん、他の人も同じ思いだろう。俺は、車窓から見える景色の中に、まだ溶け切らない灰色の雪をイライラして眺めていた。

 しばらくたつと列車は帯広駅に止まって、いかついオジサンは降りて行った。皆顔を見合わせ、よかったと笑みがこぼれる。その時、ふと思ってしまった。なぜ、あの人はあんな生き方しかできないのだろう。腕力で周りの人を従わせて来たのか、それとも天涯孤独で生きて来たのかは分からないが、きっと彼の最後を看取る者などいないだろ。俺には、彼の孤独な最後が見えたような気がした。
 そして、そのいかついオジサンと入れ替わりに若い妊婦とその夫らしき人が席に座った。男性が荷物を全部持っている。かなり重たいようで額には汗が噴き出ている。荷物を網だなに載せると、妊婦と顔を合わせ幸せそうに笑った。
 そんな風景をぼんやりしながら眺めていると、大きな荷物を背負った老婆が俺の前に立ち止まり、話しかけてきた。
「おにいちゃん、ここ空いてるだべか?」
「ええ、空いてますよ。どうぞ」
「ありがとな」
「いいえ」
 なまってはいるが、なんとも礼儀正しい。俺は少し微笑んでそう言った。相席はとかく気をつかうものだが、気のいい老婆でよかった。俺は席を少しだけつめた。
 老婆は荷物を網だなに上げようとしてるが、背が低くて上げられないで苦労している。俺は「手伝いますよ」と言って、代わりに荷物を上げた。思ったよりも重く腰に来そうだったが、なんとか網だなに上げた。俺は少し微笑みながら心の中でつぶやいた。力持ちおばあさんと。
「ありがとな」
「いいえ」
「そうだ。ちょっと待っでで」
 老婆はそう言うと、手さげ袋から小ぶりの包みを二つ出した。
「ほれ、おうちの畑で取れたアズキを使ったオハギだ」
「どうもありがとうございます。でも、誰かへのお土産じゃ?」
「ああ、娘の分はこの袋の中にぎょうさん入っているだで」
 老婆はそう言って、網だなの荷物を指さした。
「よかった。ちょうど、お腹が減っていたんですよ。それじゃ、いただきます」
 俺は包みを開けて、オハギにかぶり付く。
「ん! おいしい!」
「だべ? がははは。ところで、おにいちゃん。どこへ行くんだ?」
「僕は札幌です」
「そうか。高校へ行くんだべ? 頑張ってな」
「はい……」
「おれは青森まで行くんだ。娘が住んでんだ」
「へー、青森に嫁いでいるんですか?」
「そんだ。それで仕事もしてんだ。ほれ、放射線技師だか言う仕事で」
「頭いいんですね」
「なんせ、北大だからな」
「そりゃ、すごい!」
「うんだ。おれのほこりだ」
 そう言って老婆は、娘夫婦が遊びに来た時にとった写真を見せてくれた。小柄で賢そうな顔だった。その写真には、もう一組の家族が写っていたが、それは一緒に住んでいる息子家族だと言う。俺は老婆が孤独でないことにホッとして、残りのオハギをおいしくいただいた。
 それから老婆は孫の話をうれしそうにして、列車は乗り換えの南千歳駅に停車した。老婆はやはり礼儀正しく、「んだば、さよならな」と言って列車を降りて行った。
 これが、俺がばくぜんとだが医療放射線技師を意識した時だった。

 老婆の幸せそうな人生に思いを巡らせていると、いつの間にか列車は夕闇迫る札幌駅のホームに吸い込まれて行った。釧路駅を出てから四時間後のことだった。


 札幌に降り立ったのは三度目だった。一度目は中学の修学旅行。二度目は滑り止めの高校受験。そして三度目はその高校へ入るために来た今日である。俺は札幌駅の外に見えるオレンジ色の街灯を眺めて地下鉄南北線のホームへと降りて行った。約十分ほどして、地下鉄は静かにやってきた。降りる人を待って乗り込むと、やがて麻布行きのアナウスとともに静かに発進する。札幌の地下鉄は、車輪がゴムなので静かなのだ。
 北十八条駅で地下鉄を降りて階段を上り地上に出ると、溶け切らない雪が凍りついている。札幌は釧路と比べ暖かいが、積雪が多いからかも知れない。明るい街灯を頼りに足元に気をつけながら地図をたどって歩いて行くと、二階建ての大きな家が見えて来た。表札を見ると竹下と書いてある。玄関の五段ほどの階段を登りチャイムを鳴らしてしばらくすると、エプロンを着けたおばさんがニコニコしながら出て来た。
「井上悟くんでしょ? ごめんね、今、手が離せなかったから。さあ、どうぞ」
「こんばんは、竹下さん。これから、どうぞよろしくお願いします」
「やめてよ、頭下げられるなんて、なんだか照れくさいわ。それに、わたしのことは、おばさんでいいって」
 大家さんはそう言って、あはははと笑った。下宿の大家さんは人の良さそうな五十代の少し太ったおばさんで、笑うと前歯が一本抜けている。どうやら陽気な人のようだ。
「今から夕食だよ。さあ、中に入って」
 そう言って食堂に通される。落ち着いたブラウンの食卓テーブルには向かい合わせでイスが六つ。その奥には広い台所があり、おばさんが食事の支度をしている。そのテーブルの端に座ったが、いい匂いがして思わず唾液を飲みこむ。
「ごはんだよー」とおばさんが大声をあげると、二階からドタドタと降りて来て三人の男が食堂に入って来た。皆、百七十五から百八十センチほどあって、暖かそうなブルーのジャージを首までチャックを上げて着ている。
「紹介するね。彼は三年のAくん、それにBくん、それから二年の伊藤くん。皆、新しく来た井上悟くんよ。仲良くしてね」
 俺が「よろしくお願いします」と挨拶をすると、皆「おう、よろしく」と右手をあげてにこやかに応えた。どうやらこの中には不良はいないようで安心した。
 それから夕食を頂いたが、皆がそろったお祝いとして鳥肉がふんだんに入った五目ごはん、それにショウガのきいたハクサイの漬け物が振る舞われた。とてもうまくて、お代わりしたかったが遠慮してできない。まさに今食べ盛りなのに。――この晩はお腹が減って眠れず、後悔したのを覚えている。
 食事中、おばさんからこの下宿のシステムをあらためて説明を受ける。部屋は二階にふたつあり、ふたりひと部屋で二段ベッドがあるが、俺が上ということだ。
 そして、食事だが、昼はなし。そして、日曜は食事なしということだ。日曜は、七十円のインスタントラーメンが三食として二百十円。昼食はパン二個とジュースは必要だから四百円はかかる。ざっと計算して一万二千円。それに、お菓子だとか文房具代なんかで一万五千円にはなる。それに二日に一度銭湯へ行くと五千円ほどで、全部で月に二万円は必要だ。あとあと、これらがキツクのしかかるのを、俺はまだ認識していなかった。
 夕食後、四人でお茶をすすり話をすると、皆第一志望の公立を落ちてここへ来たようだ。互いの傷を舐めあい交友を深めるという、お決まりの負け組の会話だ。そしてこれからの人生を示す指標が目の前にある。俺は三年生の受験の成功を祈りたいような気分だった。
 それから、部活は全員入っており、三年生のふたりが野球部で五分刈り。二年生の伊藤先輩が軽音楽部で長髪。とても分かりやすい。お揃いのジャージは買い物に出かけた時に、皆で気に入って揃えたそうだ。三人は本当に仲がいい。
 俺たちは、お茶を飲み終えておばさんにごちそうさまと挨拶すると、二階に上がった。俺の部屋は、階段をあがって右側のドアを開けて中へ入ったところ。広めの窓に青いカーテンが掛けられていて、その前に机が二つ並べてあって、俺のは奥側。二段ベッドは外壁側。そして、クローゼットは奥にあった。

______ →南
|クベッド机|
|ロ   机|窓
||____|
| →階段 |
|トイレ|_|
|ゼ    |
|ッ   机|窓
|トベッド机|

 俺が机の前に置かれた二つの段ボールを開けて、中から衣類やら生活用品を出してゆく途中、下宿のおばさんが階段を登って来てドアを開けた。
「井上くん。あのね、言い忘れたけど、荷物が着いた時に二階まで運んでくれたのが二年の伊藤くんよ」
 と言う。向かいの部屋へお礼を言いに行くと、その人はやはり「おう」と言ってすがすがしく笑った。彼は、これから俺がなにかとお世話になる人だ。

 ふと見ると机の横にエレキギターが置いてある。どんな音がするか聞いてみたくなった。
「伊藤先輩、一曲弾いてくれませんか?」
「お、興味あるの? いいよ」
 そう言うと伊藤先輩はケースからギターを出した。それは、やや赤い木目をしている美しいもので、先輩はギターをアンプにつなぐと、まずジャーンと開放弦の音を響かせた。その音はひずみのない音でフォークギターのような生ギターに近いものだった。そしてレッド・ツェッペリンの『天国への階段』を弾いた。俺はそのなんとも言えない響きに鳥肌が立つ。まさに天国への階段だった。

 一曲弾き終えると先輩は感想を聞いてきた。
「どう? いい響きだろう?」
「はい、本当にいい響きですね、伊藤先輩」
 俺がそう言うと先輩はうれしそうに微笑んだ。
「楽器、なにかやったことあるの?」
「はい。フォークギターを中一から」
「そうなんだ。どう? 弾いてみる?」
 俺はお礼を言ってギターを借りた。ロックは時々聞いていたが弾いたことはなかったので、取りあえずフォークの曲を刻む。
「お! 長渕! いいねえ」
 しかし、エレキギターでフォークを弾くのはなんだか気持ち悪くて途中でやめてしまった。エレキを先輩に返して質問する。
「そのギターは、なんというんですか?」
「これ? これはギブソンのレスポールモデルのコピー品で、エピフォン製だよ。このエピフォンって言うメーカーは大分昔ギブソンの子会社になって、安くギターを販売しているんだ。これなんかは、四万円しないよ」
「ええ! そんなに安いんですか? 大丈夫かな?」
 俺はフォークギターを家に置いてきたが、それは日雇いのバイトをして買ったもので六万円のY製。すこしネックが反っていて高フレットに行くほど音が高くずれてしまう代物で、それはネックの反りを修正するトラスロッドでも直せなかった。その原因は、張った弦のテンションが高かったせいでもある。
「これでも、作りはしっかりしているよ」
「それなら欲しいなー。でも、チビでヤセの俺にはちょっと重いです」
「だったら、これなんていいじゃないのかな?」
 そう言って伊藤先輩はエピフォンのカタログを引っ張り出して、ページをめくり指差した。
「このSGってモデルですか?」
「どう? かっこいいだろう?」
「いいですねー。それに左右対称に削れていて、高フレットが弾きやすそうですね」
「だろ? それでこの重さ。レスポールよりもずいぶん軽いだろ?」
 そう言って伊藤先輩は、カタログに書いてある数字を指さした。
「え! 三キロ切ってる! これ! これにします!」
「よし、明日にでも一緒に行ってやるよ」
「ありがとうございます」
「ところで、アンプとシールド(電源コード)とエフェクター(音をひずませる装置)、それにソフトケース代で六万円は見ていた方がいいけど、お金あるの?」
「ありますよ。今月分の昼めし代と、親父にもらったヘソクリが。あははは」
「よし、あした買いに行こう」
 そして、俺は伊藤先輩にお礼を言って部屋をあとにした。これが最初に物欲に負けた時だった。

 そのあと、皆のあとに付いて銭湯に行ったのだが、その道中にはきれいなお姉さんの家があると教えられた。時々カーテンを開けて外を見るのだが、誘っているようで勘違いしてしまう。しかし、きれいな夜景を眺めているのだと言う。そんな説明を受けながら銭湯に向かったが、その日は、残念ながら姿を見せなかった。――後日、お姉さんを見かけた。確かに、きれいな人だった。
 銭湯の玄関に入るとくつ箱が壁一面にあって、自分のはき物を入れてふたに着いた板を抜き取ると、ふたがロックされた。なるほど、これは便利だ。
 男湯と太く書いてある引き戸を開けると番台があって、おばさんに三百円ほど渡して中へ入る。俺は、先輩たちにならって服を脱いだ。
 大事なところをタオルで隠し、脱衣所から洗い場の引き戸を開けて中に入ると、空いている所に丸いプラスチックのイスを出して座り、まず身体にジャグチから出したお湯を掛ける。かなり熱いので水と混ぜるように。
 それから全身をくまなく洗って右側の湯船に入る。左端の湯船は上級者向けのとても熱いお湯なので気を付けて。
 ウルケてきたところで、もう一度全身を洗ってゆっくりと湯船につかって出る。言っておくが、あまり長くつかっていると、すぐにのぼせるので注意が必要だ。なにせ、湯船の温度が高いのだ。もちろん、水でぬるくすることも可能だが、怖いオジサンにドヤされる。
 風呂から上がって、冷たいコーヒー牛乳をゴクゴクと喉をならして飲むと、すごく幸せだ。こうして、下宿へたどり着くころには、もう九時を回っている。今日は、一日いろんなことがあって疲れた。洗濯物をかごに入れて、はやばやと二段ベッドに登り、枕に頭を沈めた。
 ところで、この銭湯の娘は俺と同じクラスだとあとで知るが、時々番台に座った。のちに、銭湯であった時に、あっ! と口を開けて驚いていた。お互いに気まずかったのを覚えてる。

 翌朝、はやる気持ちで空を見上げるとくもり模様で心配したが、これから買い物に行くには傘はじゃまなので持って行かないことにした。
 おいしく朝食をいただいて、俺と伊藤先輩は地下鉄に乗った。札幌の大通り駅で降りて地上に出ると、南の方向へ少し行った所にその楽器店はあった。ウィンドウが大きくて中が透けて見えて、壁一面にギターが吊るされている。
 俺は、わくわくしながら中に入ると、すぐにお目当てのギター、エピフォンのSGモデルを見つける。伊藤先輩が「これ弾いていいですか?」と店員に聞くとすぐに弦のテンションを上げてくれた。
 SGモデルを肩にかつぐとレスポールよりもやはり軽い。アンプにつないでみると伸びやかな音が響き渡る。間にエフェクターというものをかませて音をひずませていろいろ試すが、どうやら基本はオーバードライブでOKのようだ。セレクターも使っていろいろ試してみると思い通りの音が出た。もう気分はランディ・ローズだ! (一九八〇年頃イギリスのカリスマヴォーカリスト、オジー・オズボーンが率いたバンドの初期メンバーで天才的ギタリスト。俺の憧れ。だけど彼はSGは弾いていない。)
 もうこの楽器を手放したくはなかった。俺はただちに一か月の生活費二万円。プラス親父のヘソクリ四万円。計六万円を差し出した。こうして生涯にたった一台のエレキギター、エピフォンのSGモデルが俺のものになった。
 この時、伊藤先輩が店員からなにか受け取ったのだが、あとで聞いてみると、紹介料の五パーセントだという。俺は気に入ったギターが手に入ったし、先輩は謝礼をもらったし、ふたりともホクホクだった。帰りに先輩がアイスワッフルをおごってやるといったが、俺は早く帰ってギターを弾きたかったので遠慮した。

 あとになって知るのだが、アイスワッフルはとてもうまくて、もしもその時食べていたなら、きっと病みつきになっていただろう。おサイフのためには食べなくてよかった。


 北海道札幌市の春は遅い。桜の花がまだツボミさえも着けていない街路樹を眺めながら歩く、下宿から高校までの一キロ足らずの距離。開いてる店は、コンビニと、モーニングとアイスワッフルが売りの地下鉄駅前の喫茶店Jの二店だけ。そのほかは、足早に先を急ぐ通勤の人たちと、道を掃除している人が数人いるくらい。俺は、きれいな町を提供してくれる人に軽く会釈をして、こもれびあふれる中をゆっくりと高校へと向かった。

 札幌北斗高校へ着いて鉄柵で囲まれた門を入ると、右手に大きなポプラが二本、白い花を咲かせている。俺は、これから三年間よろしくと言って玄関へ入って行った。
 玄関のくつ箱には右から順に一年、二年、三年と大きく書かれてあり、一年のくつ箱から自分の名前を探して、上履きにはき替える。壁に貼られたクラス分けの紙に従って、三階の一年B組の教室へと入って行くと、すぐに入学式だと教えられてあわてて後をついて行く。あやうく初日から遅刻するところだった。
 体育館へ入って行くと、身長の順に立たされたのだが、あの頃の俺は百六十センチにも満たないやせたチビで一番前。右の列の女子といい勝負だ。多分食うことも寝る間も惜しんで趣味の自動車工学の本なんて読んでいたからだろう。栄養失調ぎみだったかも知れない。だから、下宿して三食をきちんと取るようになってから急に身長が伸びて、二年最後の身体検査では百七十センチになったのだが。

 入学式は、進行役の教頭のマイクの号令で始まる。校長、生活指導主任、進路指導主任の順であいさつが続く。やはり校長の話が長ったらしくていらいらする。なぜ、大人は長い話をすると自分のステータスが上がった気になるのだろう。どうせ話をまともに聞いている人はいないのに。
 ようやく入学式が終わり後ろの列から順に教室に戻れと言われる。教室に入ると出席番号と名前が机にはられていて、それを見て席に着く。周りを見まわしていると、担任の若い先生が入って来た。その先生はこれから一年よろしくとあいさつすると、出席を取ってオリエンテーションが始まった。
 教室には知り合いの生徒が私語をするなんてことはなく、このクラス全員が生気がないのが分かる。それはきっと、志望校に落ちてここへ来たからかも知れない。

 そんなことを考えていると自己紹介の時間が来た。俺の順番は二番目で、大分あわてる。最初の人の話は聞いている余裕がなく、急ぎ頭の中でセリフを整理していると、すぐに順番が来た。俺は緊張しながら席を立った。
「名前は井上悟。道東の港町釧路市からやってきました。第一志望の公立を落ちてもっか傷心中です。それと、趣味はフォークギターでしたが、下宿の先輩に感化されてエレキギターを買ってしまいました。今月ピンチなので昼めしおごってください。どうぞよろしく!」
 あちこちで「俺も公立落ちたよ」や「しょうがないなー、おごってやるよ」と声があがる。よし、つかみはOKだ! もちろん、こんなことぐらいで奢ってくれるほど、世の中甘くないのだが。

 ほっとして数人の紹介が飛んだ。俺を現実に呼び戻したのは、この自己紹介だった。
「えーっと、わたしは平和美です。平清盛の××代目の子孫です。スピードスケートをやっています。どうぞ、よろしくお願いします」
 思わず俺は振り向いて見る。「へー」とどこかで声がした。俺も実際に歴史上の人物の子孫に会ったことがないので、マジマジと顔を見てしまった。
 その時、順番を飛ばして、おどおどと立ち上がった奴がいた。
「あのー、僕は源和久。源頼朝の子孫なんですけど……。ちなみに帰宅部希望です」
 おおっ! っと歓声が沸く。敵(かたき)同士の平氏と源氏がこの教室で出会ってしまった。これは大変なことになったと、ことの成り行きを皆息を飲んで見ている。
 すると平氏が源氏にたずねた。
「和久のカズは平和の和?」
「ええ、そうですけど?」
「源くん。わたしたちは名前に同じ和(わ)が付きますから、和を大切にしましょうね」
「よかった。よろしくお願いします」
 ふたりは歩みよって握手を交わした。その途端に拍手が沸き上がる。とにかく、血を見ないでよかった。

 場がなごんだところで次に席を立ったのは、オデコが出っ張っているメガネの男。
「えーっと、名前は南博(みなみ・ひろし)です。IQが百八十ありますが勉強が大嫌いで、趣味がどうでもいいことを覚えることなので役に立ちません。それから、フォークギターが大好きです。以上です」
 失笑が聞こえる。趣味が嘘でないことはこの高校へ来たことから分かる。俺は興味を持ち、ぜひ友だちになりたいひとりだと思った。

 自己紹介が一通り終わると、先生はこれから委員長などを決めると言った。確かに自己紹介でお互いを分かったところで委員長を決めていくのは効率がいい。担任を少し尊敬した俺だった。
 だが、誰もやろうと手をあげる人はいなかった。担任はため息をつくと、委員長を男子、副委員長を女子というように、男女交互に適当に決めていった。当たった人は不運としか思えない。
 部活などの勧誘は明日以降ということで、その日はそれで終わり帰路についたのだが、俺はどこにも入るつもりはない。それまでやっていた野球やスピードスケートは身長が伸びなくて中学であきらめたし、軽音楽部に入ることも考えたが、腕が悪いのでしり込みした。だから正真正銘の帰宅部である。


 最初の土曜日、昼飯を買う金がなくてお腹をへらした俺は、空腹に耐えながら下宿の自室で新しく買ったエレキギターSGを全開で弾いていた。すると、突然となりの部屋の伊藤先輩が勢いよくトビラを開けてどなった。
「おい、ちょっとは遠慮してくれよ!」
 と言われて、俺は「すみません」と謝った。
「共同生活ってことを、よく考えてな」
 そう言って、伊藤先輩は自分の部屋に戻って行った。
 確かに、俺は自分の家にいた時は、音量なんて気にしなかった。けれど、下宿した時から他の人のことを考えなければいけなかったんだ。ギターに夢中になってそれをおろそかにした自分が恥ずかしかった。

 反省して、アンプにヘッドフォンを接続してエレキギターを再開する。はじめはストロークから、そしてアルペジオでピックをなじませ、スケールの練習をした。ハイポジションのスケールはフォークギターとえらく違い、弾きやすい。そして、問題のチョーキング。これが一番難しい。
 どうしてもうまくいかず、伊藤先輩にさっきはどうもすみませんでしたと頭を下げて、教えてもらう。こうやるのだと弾いてくれて、俺もまねるのだが、中々うまくいかない。苦労していると、伊藤先輩は身体で覚えるしかないと言って、ふざけて俺の脇をくすぐる。きっと力を抜くんだと言いたかったのだろうが、この時はさすがにイラっと来た。――さっき怒鳴ったからそのコミュニケーション回復としてやったことだろう。先輩は気がきく人だった。
 それでも、少しずつエレキギターになれていって一か月を過ぎた頃、大好きなレッド・ツェッペリンの『天国への階段』を弾けた時は、伊藤先輩に報告しに行った。もう弾けたのかと驚いたが、目の前で弾くとえらく感心してた。
 そんなふうに、俺のエレキギターはサマになっていった。
 それと、この時こづかいゼロ円の魔の期間は過ぎ去った。その間、空腹をごまかすために水を大量に飲んだのだが、それのせいでお腹をこわし、余計に空腹になった。もう、こんなことはコリゴリである。

 そうして、コロッケパン二個にコーヒー牛乳という豪華な昼食をとり満足していると、ふと、フォークギターがむしょうに弾きたくなった。あいにく、フォークギターは実家に置いて来たのだ。そこで、友だちになったIQ(南博)に弾かせてくれないかとお願いすると、OKだと返事をもらった。持つべきものは友である。俺は、休日にIQの家におじゃまをすることにした。
 IQの家は、学校から電車を乗りついで五駅ほど離れた場所。距離で十キロほどもある。こんな遠くから毎日学校へ通っていたのかと驚いた。だが、東京都内では五十キロもの距離を二時間近くもかけて通う中学生もいるのだと、聞かされる。
 IQいわく。
「まあ、学校に行っているか、電車に乗りに行っているか、分からないけどね」
 確かに。
 でも、家が分からりづらいからと、休日にわざわざ十キロも離れてる下宿に迎えに来てくれたことに感謝した。

 IQの家は、駅から十分ほどの距離で、高台の途中の一軒家。クロムメッキされたドアを開けて入ると、おかあさんがようこそと歓迎してくれた。俺は挨拶すると、IQに連れられて二階の部屋に上がった。ひとの家にはあまり行ったことがなかったので部屋のようすをキョロキョロ眺めていると、おかあさんがおいしそうなショートケーキとカフェオレを持って来てくれた。俺はお礼を言ってかぶりついた。とても、美味だった。持つべきものはやはり友である。
 そうそう。部屋にはフォークギターのほかに、ホンダF1のミニカーが箱に入って飾られており、壁にはアイルトン・セナのポスターが貼ってあった。思わず黙とうすると、IQは黙って俺に握手を求めた。

 ひさしぶりのケーキをよく味わってから、ギターを弾かせてもらった。彼のフォークギターはあこがれのギブソン。数十万はするはずだが、これはおじさんからのもらいものという。うらやましいと思いつつも、ありがたくギターを弾いた。美しい響きだ。それにコクがある。俺は奥深い音に心ゆくまでひたった。
 五曲ほど弾き終えてようやく心が落ち着いて、IQとバトンタッチ。彼は、英語の曲を弾き語りした。やはり、IQ180はだてじゃない。気持ちよく聞きながら、IQのおかあさんが出してくれたお菓子を頬張っていると、テーブルの上にある英語のパンフレットに気がついた。
「ねえ、南。英語教室に通ってるの?」
「ああ、教会だけどただで教えてくれるんだ。十回くらい行ってみたけど、こっちのレベルに合わせて教えてくれるんだ。中々いいよ」
「ふーん……。ねえ、これ行ってみようよ」
 俺はその日のうちにIQをせかして教会に遊びに行ってみた。

 白壁のしっくいがきれいな小さな教会へ入ってみると、十数人の人が日曜の礼拝をしていた。IQが、説教をしている神父さんに話しかけると、俺たちはどうぞと奥に通された。
 中に入るとそこは教室のような場所で、あちこちで青い目の神父さんを囲んで英語を話している。俺たちに気がつくと「ハロー」と言ってIQにハイタッチをしてきた。俺も見よう見まねでハイタッチしようとしたが、途中でやめて会釈をする。
 輪に加わって片言の英語で会話らしきものをしていると、教室のスミにレスポールを見つけた。またしてもギブソン製。
「プリーズ プレイ」
 と言うと、神父は相好をくずしてギターをかついだ。太くて毛深い腕で弾いた曲はイーグルスの『ホテル・カルフォルニア』。神父は軽々とチョーキングして俺たちを楽しませた。間奏を弾き終えると俺にギターを渡し「ユー トュー」と言った。
 俺はサンキューと言って、続きから弾いた。この前先輩のレスポールを弾いた時にはテンションが高く、おまけに重たくて弾きづらいと思ったが、今回はそんな感じはしない。もしかしてエレキギターに慣れたのかと思いつつも、最後まで弾いてギターを返した。
「ブラボー」
 いつの間にか、教室の皆が拍手していた。俺はそんなにうまくないのにと、不可解に感じた。もしかして、布教活動の一環でヨイショしているのだろうか。とにかく、本物のギブソンのレスポールが弾けたのだ。手にはいい感触が残った。

 そんなふうに、ギターは一応人に聞かせても不快にさせないようになってきたが、俺の高校の成績は最悪だった。一学期の期末試験はクラスで最下位だったほどだ。それはそうだろう。俺はまったく勉強していなかったのだから。唯一よかったのは数学と化学だが、この二つは授業だけでも頭に入るから。
 それでも、このままじゃいけないと思い、夏休みに入って札幌よりは数段過ごしやすい釧路に帰省してからは真剣に勉強をしようとした。だが、いつの間にか教科書がギターに代わっている。そう、俺はSGを肌身離さずにいたのだ。この世にギターが発明されなければ、俺の人生はもっとすばらしいものになっていたであろう。非常に残念である。
 あと帰省して覚えているのは、たび重なる地震でゆがんだトビラやシャッターの修理、それに台所の換気扇と蛇口を新しくしたことくらいだ。本当は親父が修理すればいいのだが、うちのものには触りたくないと言う、面倒くさがりなのだ。それで俺が仕方なく直したのだが。
 そんなふうに、一年の夏休みは過ぎていった。


 釧路に比べて残暑厳しい札幌北斗高校にも、容赦(ようしゃ)なく一年の二学期がやって来た。涼しい釧路から帰ったから、余計に暑さが頭にしみる。クーラーがないので、下じきが唯一の命綱だ。
 ふと、教室に入るとどこか雰囲気が違った。平和美と源和久が楽しそうに話しているのを、皆興味津々で聞いている。
「……それでさー、あのおじさんには参ったよ。僕たちを夫婦だと思って、旦那さん、奥さんだから」
「それにあなた、調子に乗って腕なんか組むから、わたしは笑いが止まらなくて困ってしまったわ」
 その会話に、俺は口を出さずにはいられなかった。
「おい、おまえら。いつからそんな関係になったんだ? 教えろよー」
「なに? 井上くん。なんでもないって。夏休みの避暑地が偶然、同じ釧路湿原の別荘だっただけだから。それで少しボートなんかで遊んだだけだって」
 すると皆わーと寄って来てふたりを質問攻めにした。
 ふたりの話によると、平氏と源氏は釧路の湿原に避暑地があるのだが、隣に敵(かたき)の家があることを知らなかった。それは、両家とも名前を伏せていたからだった。そこで、平和美と源和久が鉢合わせ、両家が隣同士だってことが分かった。
 そのことを執事に話すと、いさかいがあったのは八百年も昔のことで、今はなんのわだかまりもないと言うことだ。とにかく、よかった。……よかったのだが、俺たちは気づいてしまった。ふたりが恋をしていることに。言葉にハートが乗っかっていて、明らかにふたりはホの字だ。
 しかし、ふたりはそのことに気づいていない。それは、きっと今まで経験がないからだろ。俺たちはふたりの恋のゆくえを、生暖かく見守ることにした。

 そして、季節はあっという間に秋を過ぎ、釧路よりも雪深い冬になった。下宿の一年は、雪かきが業務となっており、毎日のように降る雪にグチを言ってこなしていた。あれで、腕の力がついてギターに安定感がでてきたことは思わぬ収穫であったが。
 そして、雪国の冬の授業と言えば、スキーとスケートがあるが、全員で両方の授業を受けさせられた。俺はスキーはやったことがなかったので、スキーの授業を楽しみにしていた。
 まずは、スケートの授業があったが、スケート場は屋外にあり、名を円山スケート場と言い、地下鉄南北線を南下して札幌駅まで行って、東西線に乗り換え西に数駅行って丸山公園で下車して、徒歩十五分のところにある。クラスの総勢四十人が地下鉄に乗って移動した。
 貸しスケートは、スピードとアイスホッケー、それにフィギュアがあったが、俺は迷うことなくスピードスケートを選んだ。前に、一度アイスホッケーのスケートを履いたことがあるが、全然滑れなかったのだ。たぶん氷を蹴る方法が全く違うのだろう。
 思い思いに滑った後で、スピード組は一応タイムを取ることになった。俺は、ひさびさのレースにわくわくしたが、相手はなんとスケート選手の平和美。現役選手とやるのは、相手が女でもやはり不利である。それでも、一応は意地を見せたい。俺は、太ももをパンパンとはたいて気合を注入した。
 よーいドン、の掛け声でスタートした。はじめは筋力をようするので、当然のように平和美が先行した。やはり、かなわないかとあきらめかけていると、あれよあれよという間になぜか追いついて、おまけに追い抜いてしまった。俺は中学校の頃、一応スケート部だったけれど、中二でやめてそれ以来運動は全然してこなかった。だから、全然自信がなかった訳だが、現役の選手も大したことないじゃないかと思った。
 が、次の瞬間、俺はエッジを滑らせコーナーの壁に激突した。――そのあとのことは覚えていない。
 気がつくと病院のベッドの上で頭に大きなタンコブを作っていた。俺が気がついたのを見て、ホッとして涙ぐむ平和美がなぜかいた。

 そんな、記録にはまったく残らないが、皆の記憶に残った一年だった。


 札幌へ来て一年がたった。俺は赤点はあったが、補習でどうにか留年はまぬがれて、二年にあがった。二年のクラス分けは、進学組と就職組に分かれる。俺は一年のほとんどを最下位だったので、就職組に希望を出してもなんら文句を言われることはなかった。
 そして俺は一応まじめに始業式に出席した。俺の身長は一年で十センチ以上も伸びて百六十八センチになっていたので最前列じゃなく、中間くらいに立っていた。ようやくコンプレックスから解放された。

 生徒が全員整列したと思われた時、教頭の号令と共に始業式が始まった。やはり、去年と同じことを延々と繰り返し、ようやく式が終わった。苦々しい気持ちで教室に戻ろうと回れ右をした時、大きな山のような奴を見つける。あの太い腕でなぐられたら痛いだろうなと思い、なるべく近づかないようにしようと決めた。
 ふと、その隣の女子の列に長い黒髪が冷たい感じの美人を発見。また同じクラスになったIQ(南博)に何者かを聞いてみた。
「ああ、彼女は小田夏子。とにかく口が悪いんだ。関わらない方がいいよ」
 確かにそんな感じがしたが、美しいので気になって仕方がない。ワクワクしながら二階の教室に入ると新しい担任が待ちかまえていて、俺たちをにらんでいる。どうせ、就職組はワルばっかりだと思っているのだろうが、たんにやる気がないことを分かって欲しい。
 気分を悪くしていると短いオリエンテーションが終わり、例の自己紹介が始まった。

 いきなり俺の順番だ。あせっていて、名前は井上悟となんとか言えたが、自己アピールはなにも考えていなかったので残念ながら不発だった。しょんぼりしていると、IQがちゃかす。うるさいなとジェスチャーで指を立てた。

 すると、俺の後ろの席の山が立ち上がった。彼は足が長く、座っていると座高が俺らと変わらないので違和感がなかったが、立つとさすがにデカい。
「えーと、名前は大木雄二です。ドラムスをやってます。これからメンバーを集めて一旗あげようかと思っていますんで、よろしく!」
 百九十はあろうかと言うごついガタイで奴は頭を下げた。身体もでかいが言うこともでかい。それでいてジェントルマンだ。俺は手が痛い程拍手をした。
 俺は彼のドラムスの腕には興味があったが、話しかける勇気がない。背の大きさからも、ウデの差からも。

 そして、あの長い黒髪が冷たい感じの美人、小田夏子の順番が来た。
「名前は小田夏子です。趣味も特技も歌です。カラオケに行く時は誘ってくださいね。でも、平日はバイトがあるので日曜限定でおねがいします。以上」
 と目をキラキラさせて言った。よっぽど歌が好きなんだなーと思ったが、平日は遊べないって? 俺は夏休みぐらいしかバイトをしたことがないので、想像もつかない。
 すると、ちゃちゃを入れて質問する奴がいた。
「はーい! 恋人は?」
 あははは、と笑い声が聞こえる。ちょっとだけ唇のはしで笑って彼女は言った。
「いません。けれど、私は大人の男性が好きです。だから、あなたのようなガキは遠慮してくださいね」
 ゲラゲラと笑い声が鳴り止まなかった。先生が業をにやして「はい、そのくらいで静かに! 次」と言った。
 確かに口が悪いのだが、俺は大人の男性と聞いていろいろ思いを巡らせてしまう。あんなことや、こんなことを……。

 妄想していると、いつの間にか自己紹介の時間は順調に過ぎて、委員長を決める時間が来た。皆しんとする。一年の時と同じで皆やりたがらないのだ。「しょうがないなー」と言って先生が名簿を見始めると、夏子が手を上げた。そして無投票で当選したはじめの言葉がこれだ。
「まったく皆ガキね。内申書に書かれて就職に有利なんだから」
 そう言われても反応は薄かった。皆やるきがないのだ。俺はそんな奴らとは関係なしに副委員長に立候補した。皆、お前狙ってるだろと言って、にやけ顔で見るがその通りだ。口は悪いがこんな美人に、これからはどうどうと会話できるなんて、きっと皆は心の中でうらやましがっているだろう。
 副委員長に無投票で当選して、夏子の横に立つ。俺が百六十八、夏子も同じくらいだろうか。思わず顔がにやける。それをごまかすために、テキパキと書記、会計などを決めていった。

 思ったよりも順調に初仕事は終わり、無事解散となった。俺はこれからの学校生活に若干の期待を抱いて帰路に着いた。


 また、今年も残暑きびしい夏が来た。二年の二学期になっても、俺は相変わらずSGのとりこだ。俺たちの蜜月(みつげつ)状態はまだ続いている。
 だが、そんな俺たちに文句をつけてきた奴がいた。期末試験の点数がご丁寧に全員張り出されたのだが、それを見て夏子は言ってきた。
「井上くん、ちょっといい?」
 顔が怖いよ、夏子。
「な、なんすか、小田さん?」
「さすがに、この成績はないんじゃない?」
「ほおっておいて欲しい。それどころじゃないんだ。俺はとても忙しいんだ」
 そう言ったが引きさがらない。
「副委員長がそんな成績じゃダメでしょ!」
 夏子は大きな声でそう言った。
 俺はしめたと思ったよ。
「じゃ、小田さんが勉強を見てくれる?」
 ワクワクしながらこのセリフをはいた。だが、敵もさることながらすばらしい対応を用意していた。
「はい。サルでも分かる参考書」
 目の前には数学と化学以外の参考書が積まれた。ご丁寧に学校の売店で買った請求書まで付けて。このアマ……いや、夏子はいつも正しいのだが、これで俺の成績が上がることは考えられなかった。
 大体、期末試験だからといって教科書を開かないのだから成績がいいわけがない。夏子が四六時中付き添ってくれるのなら別だが、結局俺の成績が向上することはないだろう。
 それでも、夏子が買ってくれた参考書は家宝として受け取って、なけなしのサイフから請求書の金額を払った。また、しばらく昼飯抜きだ。

 そんなふうに夏子に泣かされていたが、俺はその頃、あらたな課題に取り組んでいた。それは、ロック曲の作曲だ。
 もちろん、ギターが今以上うまくなるように努力はしている。けれど、速いフレーズや身体的に指が届かない曲はあきらめている。それはピアノを弾いた時に痛い程分かった。俺の手は他人よりも大きくはないし、早くは動かない。だから、できないものは、いくら練習してもできないのだ。
 そして、もう練習したい曲がなくなった今、前々から興味があった作曲をすると決めた。

 俺は作曲をするにあたりネットであれこれと調べてみた。すると、大抵のサイトでは曲を作る時には、まずテンポを決めて楽器でコードを弾きながら、作曲、作詞、アレンジの順ですればいいと書いてある。俺はそれにならって曲作りを始めた。
 はじめ、譜面に書くのが面倒だったが、コードを書いて音符のオタマジャクシのシッポを省略して書くことにより、作曲のスピードが上がった。調子がいいと一週間で十曲も作ったことがあるくらいだ。
 そのうち、ついロック以外の歌謡曲も作ってしまった。聞かせられないのが残念だ。

 いい感じのが三十曲ほどでき上がったところで、伊藤先輩に聞いてもらった。次々と演奏すると先輩は真剣な顔をして俺に言った。
「井上、軽音へ入らないか?」
 正式名称、軽音楽部とは、クラシック以外の歌謡曲、ロック、フォーク、ジャズなどの音楽を演奏または歌う部で、その中で気の合う者同士がバンドを組むことがある。主に、ボーカル、ギター、ベース、ドラムスだ。そして、演奏する曲はたいていコピーで満足しているが、プロに近づきたい奴は当然オリジナルを求めている。俺はそのオリジナルを作る才能があると見られたようだ。

 翌日の放課後、俺は軽音の部室にはじめて足を踏み入れた。その部室は高校の裏庭にある一階建ての長い建物の一角。入り口を開けると、コンクリートにひかれた緑色のカーペットを、網入りガラスの光が明るく照らしてる。その八畳ほどの部屋に軽音の部員が大勢、俺の曲の良し悪しを吟味するために集まってきた。
 緊張の中で俺はSGでオリジナルを弾いた。はじめはぎこちなかったが、しだいに緊張が取れてきて調子が出てきた。だが、大勢集まっていた部員はひとり減り、ふたり減り、とうとう伊藤先輩と同じクラスの山、大木雄二だけとなった。
 俺はへこんで次第に声が小さくなって、もうやめようと思った時に、大木雄二が難しい顔をして俺の演奏をとめた。
「皆はダメだって思ったかも知れないけれど、アレンジしだいでよくなると思うんだ」
 そう言って雄二は、俺に握手を求めた。
 それが身長が百九十センチもあるプロ志望の雄二とはじめて組んだ時だった。ついこの前まで遠くにいた存在が、俺と組もうと言うのだ。俺はこれから起こることに胸躍らせていた。

 翌日、IQにこの話をすると、奴は少し寂しそうに言った。
「なんだか、井上が遠くへ行ってしまうような気がする」
「そんなことないよ。また、ふたりでフォーク弾こうぜ」
 そう俺が言うと、IQはちょっと涙ぐみ、ありがとうと言った。


 翌日の放課後から、俺は軽音の部室に通った。ほかの部員は部室がまたせまくなると嘆きながらも、俺の曲が聞くたびに変わっていることに驚いた。
 それは、雄二とのコンビで覚醒した。アレンジとはどういうものか分かった気がする。ギターだけの音の中に、ドラムスが加わるだけで音は厚さを増し、刻むビートによって新しい曲に変ぼうしていった。これはもう俺だけの曲じゃない。ふたりの合作だ。
 そして雄二は俺に注文をつけた。ハンパな奴は入れるなと。妥協すると全体の音が終わると。確かにそうだと思った。だから、ほかの軽音部員が加わりたいと言っても、悪いが断った。
 だが、ひとりだけ気になる女がいた。それは、夏子だ。彼女は始業式の自己紹介で、歌が好きだと言った。それも、彼女にはめずらしく目をキラキラさせて。だから、雄二に言った。
「一度、小田さんの歌が聞きたい。いや、好きとかではないからね」
 そうは言ってもバレバレなのだが。

 俺たちは、昼休みに夏子にごはんを急いで食べてもらい、軽音の部室まで引っ張って行った。
「まったく井上くんは勉強もしないで、こんなことばっかり。少しは参考書を開いてよね」
「まーまー今日はその話はなしで。で、小田さんはどんな曲好き?」
「そうねー。歌謡曲とかロックとか……」
 ロックと言う言葉を聞いて俺たちは喜んだ。さっそく雄二が女子にも人気のGLAYを叩き始めた。それに乗って俺が前奏を入れる。すると当然のように夏子は歌い出した。俺は彼女の第一声を聞いて、背筋がゾクゾクとした。雄二を見るとどうやら同じ感想のようだ。目が笑っている。
 彼女の声はハスキーで冷たい美人顔にはよく合っていた。そして、かすれたような歌い出しは、いっぺんで俺たちをとりこにした。加えてところどころではさむ絶妙なアクセント。高い音での悩ましい裏声。これで、まいらない奴はいないだろう。
 夏子は一番を歌いきって俺に抱き付いて来た。驚いた俺は胸をドキドキさせながら言った。
「小田さん。できたら俺らとバンド組んで欲しいんだけど?」
 返事は聞かないでも分かった。代わりに夏子は俺と雄二にキスをした――。

 ところで、夏子はバンドをやると返事をしたのだが、教室に戻る途中で自己紹介の時に言ったバイトのことを聞いてみた。
「小田さん。なぜ、そんなにバイトをしているの」
 夏子は、その問いに少し間をおいて答えた。
「わたし、親にネグレクトされて家を出されてるの。だから、ひとりで生きていくためにバイトしなきゃいけないんだ」
 これには驚いた。女子高校生がたったひとりで生きているというのか? そんなこと男の自分でも考えられない。なんて過酷なんだ。
 俺は、彼女に不用意に聞いて傷つけてしまったことを悔いて、頭をさげた。
「ごめんね、言いづらいこと聞いちゃって」
「いいよ、慣れっこだから」
 そう言って笑い飛ばした。
 雄二はその会話を黙って聞いていたが、心配顔で夏子に聞いた。
「それで、お昼休みには早弁して練習するとして、それ以外はどうする?」
「わたし、前にも言ったとおり日曜日はバイト休みなんだ。だから、日曜日は練習できるけど?」
「よかった。それで練習場所はうちでいい?」
「えっ! 雄二くんのうちって、そんな場所あるの?」
「うちは、一応おやじが貸しスタジオやってるから」
「えー!」
「しー。声がでかいよ」
 夏子と俺は大声をあげて驚いた。今までお金持ちのソブリを全然見せてなかったから分からなかった。軽音の奴らに教えなかったのは、ただで貸せと言う奴がいたら面倒だと思って。それが、俺たちには教えてくれるということは、当然ただで貸してくれるほどの将来性があると見込まれたからか?
 俺たちは、ブルジョワ雄二の申し出を、ありがたく受けることにした。

 俺は、午後の授業がはじまるわずかな時間、さっきのキスの意味を考えていた。
 夏子は、小さい頃からネグレクトに合っていた。だから、彼女を必要とするものをずっと欲していた。そして、たまたま好きな歌がそれに役立った。だから、彼女を歌わせる俺たちを救世主のように思いキスをしたのだろう。
 これからは、俺と雄二と夏子の三人で一緒に歩いて行こうと思った。

 そうして、俺たちは順調に練習を繰り返した。その中でも、日曜の貸しスタジオの練習はいろいろためになった。そこには、今まで使ったことがなかったエフェクターが置いてあり、メーカーの違いによっても音の性質が変わることが分かった。中でもBOSS OD-1は歪といい、温かみといい、すばらしい響きだった。俺はまた食費を切りつめて買おうと決めた。これで、またしても空腹な昼と休日が一か月続くのだが。
 そして、なんと言っても雄二の貸しスタジオに置いてあるドラムスは、新品でズンと腰に響くバスドラがなんとも心地よい。思わず抱かれたいと思った。音にだけど。
 極めつけは、各自がヘッドフォンをして自分の音を確かめながら練習できることだ。これは、大きな収穫だった。いつもは弾いている途中で耳がバカになり、やみくもに大きな音を出していたから。俺は、雄二が提供してくれた環境に感謝した。

 だが、夏子はそんな夢のような環境でも上の空だ。終始トビラの外に気が行ってる。よく見たらそこには雄二の父親がいた。まさかとは思ったけれど、雄二の父親にホレたらしい。これには、雄二も唖然としていた。雄二に、それとはなしに母親の話を出されて、ようやくあきらめたみたいだ。その日から、夏子は歌に集中した。とにかく、よかった。

 俺はこの時思った。夏子は親にネグレクトを受けて、いつしか親と同じ年代の人に恋をするようになったのではないかと。やっぱり俺ではダメかと。夏子に失恋した十七の夏だった。


 十月某日の日曜日。秋風が涼しく頬をなでる頃、学園祭の日が来た。生徒たちはそれぞれ思い思いの出し物で来客を楽しませた。喫茶店、メイドカフェ、執事カフェ、人形劇、カラオケルーム、金魚すくい、お化け屋敷、などなど。
 そして、最終日に体育館で軽音がバックバンドとなって紅白歌合戦が行われた。バックバンドのメンバーは三年生がつとめたが、これが高校生活最後の花舞台だと言う。だから皆気合を入れて練習をした。
 その舞台に俺たちのバンド、『ブラックダイヤ』が出させてもらった。バンド名は急きょ雄二が付けたのだが、俺も夏子も妙に気に入ってしまって、ずっと使い続けることになる。
 この学校の制服はブレザーなのだが、俺たちは全身黒ずくめの衣装で決めてオリジナルを演奏した。夏子はめずらしく冷たい顔を赤く染めて、楽しそうに歌っていた。ベースはやっぱりいなかったが、俺たちのバンドが一番輝いていた。その活躍があったからか紅組が優勝した。

 学園祭が終わって後かたずけをしていると、ひとりの女がなにか楽器をかついで軽音の部室まで訪ねて来た。
「すみません。わたしはO高校の生徒で石井光と言いますが、わたしをブラックダイヤに入れてくれませんか?」
 俺たちブラックダイヤのメンバーは、その声に、志願者が来た、と喜んだ。だが、よく見ると両手の甲に魔法陣のようなタトゥーが。俺と夏子はそれにビビッて固まっていたが、雄二は平然と口を開いた。
「そうだな。なにか弾いてみてよ」
「はい! 分かりました! すみません、誰かアンプを貸してください」
 そう言って光は楽器を袋から出した。それは左きき用のベースだった。軽音部の誰かが「おおー!」と歓声をあげる。いやでも期待がふくらむ。
 光は軽音のメンバーからアンプを借りると、皆が注目するなか弾き出した。はじめは一定のリズムで。続いてスタッカートに移行する。そして高い音と低い音の間を激しく行き来する。それはきっと悪魔の音楽。神と一番遠い所にある音楽――。だが、決して人を遠ざけるような冷たい音じゃなかった。
 雄二が光を制して言った。
「腕は分かった。次は合わせてみようか」
「はい!」
 なんとも小気味のいい返事だ。俺は取って置きのオリジナルのベースのパート譜を譜面台に出して、俺たちは弾き始めた。
 そして、一番が終わったところで光のベース音が重なってきた。その途端に音が分厚くなった。光の音は俺たちの音に寄り添い、だが決しておもねっていない。俺たちを新しい世界に導いてくれる。そう、彼女の刻みはまるでそうあるべきだと言う音を示してくれた。――言い換えると、譜面通りではないが、曲に血液を流した――。そして、俺たちが弾き終わると軽音部の人たちが歓声をあげた!
 こうして、光を加え俺たちのバンド『ブラックダイヤ』が完成した。

 ところで、この学園祭で弾いた時、俺にファンが着いた。奇特な人がいるもんだと夏子が驚いたのだが、放っておいて欲しい。
 ファン一号は、隣のクラスの仁藤直子。百六十二センチのおっとりとしたグラマーだ。俺はすぐに恋人にした。なにせ俺には、はじめての貴重な恋人だから。

 ある日の放課後、バイトの夏子を抜かしてほかのブラックダイヤのメンバーが軽音の部室に集まって練習を開始しようと準備していた。ふと気づくと、光の手や顔にアザがある。俺はただならぬことに光に聞いた。
「ねえ、石井さん。その傷は?」
「ああ、これね。階段を踏み外しちゃって。ドジね」
 光はそう言って笑ったが、俺と雄二は笑えなかった。だが、それ以上聞けず練習を始めた。

 あとで雄二と話したのだが、深刻な顔をして雄二は言った。
「あれはきっと虐待だ。しかも、性的な」
「ウソだ。そんな酷いことなんか親が子にできる分けがない。それにあんなに気が強い光が、むざむざそれを受け入れるわけがないよ」
「そうだと、いいんだが……」
 だが、雄二の言うことは間違いではなかったと、あとで知る。俺が浅はかだった。


十一

 順調に練習をしている中、突然、夏子が三日も学校を休んだ。心配になった俺は光をともなって学生名簿に書いてある住所に行ってみた。
 所々さび付いた古いアパートの一階に彼女はいた。玄関を叩くと「はい」と返事がしてドアが開いた。
 まず目に入ったものは、熱で真っ赤な夏子の顔。パジャマからはだけそうな小ぶりの胸。それに、おびただしいゴミの山。それを見て光が急いで自分のオーバーを夏子にかけた。
 俺はあせったが、ただちに掃除する手順を頭に描いた。深く息をすると俺は光に言った。
「石井さん、マスク着けて」
「はい!」
 そうして俺たちは風邪用に買ってきたマスクを着け、夏子のアパートに押し入った。光はまず、夏子の汗でグジョグジョになったパジャマを着替えさせて洗濯機をまわした。そして、押し入れの中のいらない洋服はすてて、いるものだけを洗濯機にかけていった。
 その間に、俺は買ってきたレトルトのおかゆを温め、卵を落とし、梅干しを一つ混ぜて、無理やり夏子に食べさせた。そして、買ってきた風邪薬を飲ませて布団に寝かせた。
 その一方で、光にはコンビニでゴミ袋を買って来てもらい、俺と一緒になって袋につめた。ゴミが床からあらかたなくなると、しぼった雑巾で床をふいた。
 そして、俺は冷蔵庫の中の賞味期限切れのものをゴミ袋に入れ、一度中身を出して冷蔵庫をふいた。
 最後に、ふたりして、台所とフロ場、それにトイレは、水で薄めたお酢で汚れを溶かし、磨き上げていった。
 以上、正味四時間の重労働だった。
 戦い終えると、俺は眠っている夏子に光を看病につけて、アパートをあとにした。もう、こんなことはコリゴリである。

 光は、この外泊を喜んでいた。はじめてのお泊り会だと。あとから、俺は光に感謝の気持ちとしてアイスワッフルをおごった。俺もこの時はじめて食べてみたけど、とてもうまかった。けど、二千円が消えた。

 後日、夏子は元気に登校してきて俺にお礼を言った。
「ありがとう」
「え? それだけ?」
「しょうがないなー」
 そう言って、夏子はキスをした。それも、ディープだった。教室中が黄色い悲鳴であふれる。
 俺は、唖然としながらも考えていた。夏子には、キスはたんなる挨拶なんだろうと。なんだか、せっかくのキスがむなしく思えた。でも、もう一度寝込んでも助けに行ってしまうだろう。夏子は大切な俺のディーバだから。

 そのころ、俺は恋人の仁藤直子には手も握れずにいた。夏子のことを思うと躊躇(ちゅうちょ)してしまうのだ。俺に、毎日お弁当を作ってつくしてくれるのに。
 この前、俺のどこがいいんだと聞いた。
「うーん。それはね、あなたの顔や性格が好きなったんじゃないの。あなたの、自分の才能を信じる力に魅力を感じたの」
「あのね言っとくけど、俺は自分の才能なんて信じていないんだ。だけど、自分の作品をとことん仕上げることには、どん欲なんだ。一曲一曲が俺の大切な子供なんだよ」
「うふふふ。やっぱり好きになってよかった。なにかを一生懸命につくりあげる。それがあなたの生きる力よ。まぶしいほどの光を放ち、全力で生きる力よ!」
 そう言って直子は、俺を抱きしめた。
 確かにそうなのかも知れない。俺は、いつも夢中で生きてきた。ギターを弾く時も、ピアノを弾く時も、作曲をする時も。それはきっとなんでもいいんだ。夢中になれることがありさえすれば。
 直子は、自分を一番わかってくれる。そう気がついたけれど、夏子への思いがまだ捨てきれない俺だった。


十二

 十二月に入った頃、俺たちは凍える寒さにも負けずお昼休みに軽音の部室で練習をしていた。ライブハウスWのイブに出演するためだ。本当は電気ストーブを使えればいいのだが、部室の経費が限られていて勝手に使うことは許されないのだ。しょうがないから、俺たちはオーバーを着て演奏した。当然、指は冷える。だから、ホッカイロをポケットに入れて時々指を温めた。
 それにしても、光が他校の生徒だから昼に来られないというのは苦しい。だがそれ以前に、夏子が平日にフルにバイトをしているのが中々メンバーが集まらない原因なのだが。それで、雄二がうちの貸しスタジオでバイトをしないかと夏子に言ったのだが、そんなにお世話にはなれないと断ってしまった。まったく、頑固な女だ。
 そんな中でも練習は日々続いて、どうにか決まるようになってきた。だが、それでも緊張してヘマをやらないとも限らない。雄二は失敗しそうな箇所を簡単にしてくれと言ってきた。雄二の言うことはもっともだ。それは、失敗は絶対に許されないからだ。途中で失敗したからと言ってやり直しは、即ジエンド。当然だろう。
 オーデションはイブの一週間前。俺は急いで譜面に手を入れて演奏をシンプルにして、それに合わせて皆、いく日も徹夜をした。

 時間はあっという間に過ぎてオーデションの日が来た。ライブハウスWは一応昔からメジャーへの登竜門ということで、場所が札幌の一等地にある。中に入ると黒い壁が全体をおおって、客席というものはなく、すべて立ち見で収容人数はおおやけには八十人。それで、お客から入場料を取って、いいバンドか悪いバンドかのカードを出してもらうシステムだ。
 出演するバンドは事前にオーデションされて選別される。今回も空きがあって、クリスマスイブの日に出演するバンドが審査されるのだ。
 俺たちはライブハウスWに入ると、そでにある楽屋に通された。中には同じようなオーデションを受けに来た連中が四組。彼らは、どうもとぎこちない挨拶をした。敵なのに挨拶するなんて、たぶん、俺たちを敵とは思えず仲間と思ったのだろう。俺も、同じ心境なのだから。
 オーデションは楽屋に入った順で行われた。まず、一組目がガンバレと応援されて出て行った。だが、防音壁からもれ聞こえる音は、残念ながら途中で止まってしまった。ボーカルの不安そうな声だけが聞こえる。俺たちは自分のことのように背筋が冷たくなった。その失敗が伝染して二組目も三組目も途中で止まってしまった。ようやく四組目がなんとか完走したが、元気のない演奏だった。
 そして、ついに俺たちの順番が来た。すると突然夏子が大声をあげた。
「よっしゃー、行くぞー!」と。
 俺たちも夏子の声に乗って「おおー!」と叫び声をあげた。その途端、震えがとまっていつものように演奏ができた。

 結果から言うと、俺たちは合格した。競争率五倍を勝ち上がったのだ。ただ、この競争率は知ってのとおり他のバンドがヘタレだったってことで全然いばれないのだが、とにかくライブハウスWのデビューが決まった。
「これが、俺たちブラックダイヤの最初の一歩だ!」
 雄二が引きしまった顔で言った。
「なに言ってるのよ。こんないい加減なオーデションで受かって。喜ぶ方がどうかしてるわ」
 夏子が憎まれ口をつく。その時、俺は見つけてしまった。夏子のミニスカのジッパーがしまっていないのを。俺が、夏子にそのことを言うと、真っ赤になってジッパーを上げた。雄二と光は、それを見てお腹をかかえて笑った。

 そして、いよいよブラックダイヤのデビューの日が来た!
 イブのライブハウスWは吹雪にもかかわらず、いつもよりもわいていたみたいだ。客にまじって元Nのメンバー、アツシが来ていたから。彼はここからデビューした人で数少ない成功者なのだ。
 俺たち四人は、オーデションの時とは違う大きな声で挨拶をして楽屋に入った。この挨拶と言うものは、自分を落ち着かせるのに役に立つようだ。今回は震えはなかったから。それを分からせてくれた夏子に感謝。
 そして、一番新参者だということで、俺たちの出番が最初に来た。暗いステージの中、準備をする。一瞬の静寂の中、俺たちブラックダイヤの演奏は、雄二のスティックの音で始まった。カッ、カッ、カッ、と。
 雄二と俺と光の音が舞台を整え、夏子が歌い出した。その途端ライブハウスWは歓声に飲まれた。熱気が俺たちに伝染する。そしてサビを皆で熱唱する。はじめて演奏したはずなのに会場は一体化した――。

 熱狂の中、俺たちブラックダイヤの演奏が終わった。楽屋に戻り四人でハイタッチをしてライブハウスデビューの成功を祝った。
 その時、楽屋にアツシが入って来て、皆ペコペコと挨拶をする。そしてアツシが夏子の前に立つと、周囲の音がぴたりとやんだ。一体なにの話をするのか、皆息を飲んでいるのだ。その中でアツシが口を開いた。
「今日が、ライブハウスデビューだって?」
「そうよ。でもいい加減なオーデションだったから、いばれないわね」
 俺は夏子の無知に気がついた。あのNのメンバー、アツシと知らないで言っている。彼も、そのオーデションをくぐって来たのに、と俺と雄二は固まった。
「ふふふ、ビックマウスだね、お嬢さん」
 それから俺たちは、あわてて夏子の頭を下げさせ、この人は元Nのアツシで、ここの出身者だと言うと、真っ青になって、ごめんなさい、ごめんなさいを連呼した。
「いいって。でも、その分じゃ、まだどことも契約をしてないよな?」
 そのアツシの言葉に、光が声を上げて泣き出した。俺はあまりにも突然のことに呆然としていた。それは、夏子も雄二も同じようだった。
 その日、アツシは、「今度、マネージャーを連れてきて、契約するね」と言って、去っていった。俺たちは、アツシの後ろ姿に九十度のおじぎをした。

 夢のようなことが起こってしまった。まさか、初ライブでスカウトされるとは。俺たちは、お互いの頬をいつまでもつねっていた。おかげで頬が腫れて下宿に帰ってオタフクと間違われて、さんざんだった。


十三

 昨日は夢のようなことが起こったなーと思い出して、下宿で晩ごはんを食べていると、電話がかかって来て後輩が出た。
「井上先輩。アツシって人から電話です」
 そう言って後輩は受話器を差し出した。俺はあわてて、ありがとうと言ってそれを受け取る。
「はい。ブラックダイヤの井上です」
「ぷぷぷ」
 後輩が笑いをこらえてる。今にみてろよ、後輩よ。いつか天下取ったる!
『ああ、井上くん? アツシだけど』
「きのうは、どうもすみませんでした」
『いや、いいって。それでね、契約の件だけど、メンバーは皆未成年だから親御さんの了承がいるんだ。で、君は釧路出身だって言っていたから、ほかのメンバーのハンコをもらったあとに、釧路に行ってハンコをもらうってことで、いい?』
「どうもすみません、お手数をおかけして。よろしくお願いします」
『よし、分かった。それで、こちらも色々準備があるので六日後の日曜、午後一時に井上くんの下宿におじゃまするから、メンバーも親御さんも皆呼んでおいてね?』
「分かりました」
 それじゃと言って電話は切れた。しかし、未成年だから親の了承が必要なのはわかったけど、ずいぶんと面倒くさいなと思った。
 俺はそんなことを考えながら食事の続きをすませ、夏子たちに六日後の日曜日に、俺の下宿に親と一緒に来るように電話をした。それとハンコも忘れずにと。夏子の親も、さすがに無視できないだろう。
 そのあと実家に電話をしたが、音楽事務所と契約だと言うと驚いていたが、涙声で喜んでくれた。心配かけてすまんと心の中で謝った。母は、口に出してはいなかったが、いつも赤点で補習を受けていることを気にかけていた。いつになったら、やる気になるのかと。

 母にいい知らせができて満足して二階の自室で寝そべっていると、おばさんが俺を呼んでいる。下に降りたら、石井さんって言う女の子から電話だという。俺は、すみませんと言って受話器を受け取った。
「もしもし、石井さん? どうした?」
『もしもし、井上くん? あのね、今から会えないかな?』
「えっ! それって愛の告白?」
『バカ! 冗談言わないでよ! 相談があるの』
「やっぱり……。その相談って、俺にだけ?」
『そう、井上くんだけに』
「……分かった。それでどこで会う?」
『地下鉄の北十八条駅の近くに、この前行った喫茶店Jがあるでしょう? そこでいい?』
「分かった。それじゃ、今から行くね」
 俺は、電話を切ってダッフルコートをはおりながら、考えていた。俺にだけに相談って、一体なんの相談だろう。まさか、契約のことじゃないよな? 俺は、光が抜けることを心配して、夜の雪道を急いだ。

 雪道に足を取られながら指定された喫茶店Jに着いた。この喫茶店Jには一度だけ来たことがあった。それは、光にアイスワッフルをせがまれておごった時だ。確かにうまいのだが、サイフに優しくないので封印していたのだ。
 そして、雪のシーズンになってはじめて訪れたが、構造をよく見ると豪雪地方にはよく合っている高床式の建物。階段を上がって中に入ると、大きなガラス窓から差し込むきらびやかな街灯。壁や床は暖かい天然木でできており、暖炉に似せた優しいぬくもりの石油ファンヒーター。フロアーには十個ほどの木製の丸いテーブルが程よく離れて置かれてあり、それぞれ四つのやはり木製の丸いイスが添えられてある。この店は、雪のシーズンにこそ輝く店だった。
 その奥の席に、光の姿を見つけた。
「よお、どうした?」
「ちょっと待って」
 ウエイトレスが、ただならぬ気配に遠慮がちにオーダーを聞いた。
「すみません。ご注文はお決まりですか?」
「カフェオレをください」
「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
「少々お待ちください」
 今の『ちょっと待って』で光が、人に聞かせられないことを言うのだと分かり、アイスワッフルを頼む気になれなかった。なぜ俺になんだと、心の中で逃げたいような気分だった。雑誌をパラパラとめくりカフェオレが来ることを恐れた。
 だが、俺のカフェオレは思ったよりも早く来てしまった。俺はミルクがいっぱいなカフェオレを飲んでもなお、胃が痛くなりそうになりながら、光の言葉を待った。

「井上くん、ごめんね。こんな時に」
「いや、気にしないで」
 それから光が話し出すまで、俺は待ち続けた。よほど言い出しづらい話なのだろう。その間に俺のカフェオレはなくなってしまった。
「わたし、性的虐待を受けているの。親から……」
 ようやく開いた口から出た言葉が、これだ。そして、光は声もなく涙した。
 やっぱりそうだったのかと動揺したが、光は俺を信頼して頼って来たんだ。それに応えなきゃ。そう思って深呼吸して光に問いかけた。
「デビューして、このことがもしも公になったら、バンドのメンバーに迷惑がかかると思ったんだね?」
 光はコクリとうなずいた。
 俺は「分かった、どうにかするよ。心配しないで」と言った。まったく、考えられないのに。
「取りあえず夏子のところへ行くかい?」
 その問いには、すぐに首を振った。
「夏子に迷惑をかける。それに知られたらいやだ」
 光はそう言って真っ青な顔を手でおおった。
「ああ、死にたい」
 背筋が冷たくなった。だが、ここでなにか勇気づけないとと思い、やみくもに言葉を探した。結局、同じような言葉しか出てこなかった。
「そんなこと言うなよ。絶対にどうにかするから」
 そして光の手を握りしめた。ならくの底に落ちていくものを、この世につなぎ留めておくように。

 俺は光と別れてから、どうしたらいいのかをずっと考えた。
 きっと光の父親は社会的立場があるだろう。間違っても性的虐待を自分から公にするようなことはない。では、光はなにを恐れているのか?
 もしも光が親元から離れてデビューしたら、本当に父親はあきらめるだろうか? たぶん光のおびえようから、簡単にはあきらめないと思う。なにかしら理由をつけて光に関係を迫って来るだろう。それが、もしもマスコミにかぎつけられでもしたら、近親相姦だと言って、おもしろおかしく書かれてしまう。きっと、そうなるだろう。そのことを光は恐れて、俺に相談してきたんだ。
 いっそ、父親を殺してしまえばすべては闇の中に。けれど、俺にはそんなことをするなんてできない。それに、きっと警察につかまってしまう。ダメだ……。
 待てよ。今、もしも警察や児童相談所にたれ込んだらどうなるだろ? 光は保護されて、父親は捕まるか厳重注意を受けるだろう。そして、光は未成年だから報道規制されて公にならない。それにそのあとに、光がデビューしたとしても秘密は守られるだろう。俺はない知恵をしぼってそう考えた。
 気づくと、もう明け方の五時になっていた。少しでも睡眠を取ろうと、目をつむった。

 翌日、学校の裏庭で光に計画を話して了解を取った。あとは、大人の配慮に期待するしかない。放課後、俺は震える手で公衆電話の受話器を取った。


十四

 俺の計画は実行された。父親は警察に逮捕され、光は児童相談所に保護された。そして、まもなく子供のいない一般家庭に引き取られた。普通、知られるのを嫌い遠くに引き取られることが一般的だが、光は札幌に住むことに強くこだわって、それは受け入れられた。なにもかもが、うまくいった。そう、思っていた。

 そして一段落した二月上旬、待ってもらっていたアツシに再度契約のお願いをして、日曜日に俺たち四人とその親たちがアツシたちと会う約束をした。場所は、大人数なのでおばさんに迷惑がかかるからと、地下鉄北十八条駅近くの喫茶店Jに了解を取って、変更した。
 当日、光には新しいおかあさんがついていたみたいだが、ほかのメンバーの親とも会ったことがなかったので、違和感はなかった。ただ、光の苗字が変わったのは確かだ。夏子の母親は、見た目は普通に見えたが、俺たちと会っても挨拶せずに、終始時計を気にしていた。
 俺は、まず親たちには事前に契約内容を話して、口をはさむことはよっぽどのことがない限りやめてほしいとお願いした。これだけの人数だ。皆で意見を言い合っていては収拾(しゅうしゅう)がつかないから。

 喫茶店Jで緊張しながら待っていると、約束の時間にアツシとマネージャーらしき人は現れた。俺たちは立ち上がって挨拶をする。
「はじめまして。音楽事務所Mの橘です。本日はお忙しい中お集まりいただいて、ありがとうございます。なにぶん、上のものが早く決めてしまえというもので」
「こちらこそ、俺のせいでお待たせしてしまって、すみませんでした」
「いいえ、まだ卒業まで一年以上ありますから。もっとも、ほかの事務所と契約するなら許しませんけどね。あははは」
 そう言ってマネージャーは名刺を配る。アツシはなぜかぶすっとした顔でそれを眺めていた。
「それじゃ、よろしくお願いします」
「その前に、ちょっと待ってください」
「なんでしょう?」
「私たちは、井上悟くん、小田夏子さん、大木雄二くんとは契約を結びますが、松木光さん、旧姓石井光さん、あなたとは結びません」
「……!」
「え! なに言ってるんですか! それに旧姓って、何のこと?」
 夏子が叫んだ。まるで食ってかかるように。けれど、俺に光に、それに雄二はなにも言えず固まっていた。雄二のギリッと奥歯をかむ音がする。
 夏子は、なおも叫んだ。
「なんで、光はダメなんですか!」
「これは、残念ながら決定事項です」
 マネージャーは、それ以上なにも言わなかった。俺はこんな場所で理由を言わなかったことに感謝した。だが、同時に大人の世界に失望した。世の中は決して子供のためにはできていないと。結局、大人のつごうのいいように作られているんだと。
 親たちはなにが起こったのか分からず、動揺している。そして、俺たちは誰ひとりとして契約を結ぶ気になれずその日の契約は、白紙に戻った。

 アツシたちが帰ってから、俺たちは親抜きで話し合った。
 夏子は、光が親から性的虐待を受けていた事実を知らなくて、それに苗字が新しくなったことを知らなくて、終始怒っていた。それを俺と光と雄二はだまって聞いていた。
 まくし立ててノドがかわいたのか、夏子がお代わりのカフェオレを飲んでいる時、俺ははじめて発言した。
「夏子と雄二はメジャーに挑戦してくれ。俺と光は抜けるから」
 この俺の言葉に、夏子と光が泣き出した。
 それが俺の出した結論だった。策を講じて、結局は光の前途を閉ざしてしまったのだ。俺がメジャーに挑戦するわけにはいかない。心の中で、皆すまないとわびた。

 光は自分のことでつらいと言うのに、俺の決断に泣きながら激しく食い下がった。
「なんで井上くんまで? 井上くんはメジャーに行くべきよ」
「いや、俺はメジャーには行かないよ。なんだかしらけて、やる気がなくなった。だから、もう曲は書けそうもないよ」
 やる気がなくなったのは事実だ。そう、表面上は子供のためにと言って、裏では平気で子供の将来を奪ってしまう大人の世界に失望して。
 それでもなお、光はしつこいくらい、俺のメジャー行きを訴えた。その心のやさしさに、俺もいつしか涙を流していた。ふたりして肩を抱き合って泣いた。光の両腕のタトゥーが力なく震えていた。

 後日、雄二と夏子には俺の譜面を全部あずけた。名前は、雄二名義にして好きに使ってくれと言って。そして俺は、エレキギターSGを叩き壊した――。


十五

 俺はエレキギターSGを壊してから魂が抜けたようになっていた。することがないので、夏子に揃えてもらった参考書を広げる。少しずつだが内容が分かっていった。
 そして、忘れもしない三月某日。二年の二学期の期末試験がめずらしく赤点なしに終わった翌朝。俺に電話がかかってきた。
「はい、もしもし」
『井上くん? 夏子だけど』
「なんだよ、学校で直接話せばいいのに」
『バカ! 光が死んだんだって!』
 そのあとのことは覚えていない。気がつくと俺はみぞれが降る中、火葬場の煙突を眺めていた。
 ああ、光が……、光が、煙になっていく――。
 そう思った途端、全身の力が抜けて俺はヒザを着いて泣いた。口をあほうのように開けて大声で泣いた。

 光は自殺だったようだ。ようだと言うのは、口どめされて誰も死因を知らないからだ。けれど、彼女はきっと自殺だ。自分の未来に希望が持てなかったから。
 その原因を作ったのは俺なのに、俺は光のことをちゃんとフォローしてあげずに、大人の世界に失望したなんてもっともらしい理由を付けて、自分の殻に閉じこもっていた。光が死ぬほど苦しんでいたのに。

 夏子が俺の肩に手をおいて言った。
「井上くん、話は大木くんに聞いたわ。光、苦しんでいたんだね」
「いや、それだけじゃないさ。まわりの目もずいぶん冷たかったみたいだ」
 雄二は目をふせて言った。たぶん、彼の耳にも入っていたのだろう。この時、はじめて世間の目を考慮しなかった自分の愚かさを知った。
「そうだったのか……。それなのに俺はなんてバカなことをしたんだ」
「井上くん、なんの話?」
「俺なんだ。光の親が捕まったのは、俺が密告したからなんだ」
「なんで、そんなこと……」
「報道規制されて皆に知られないと思ったんだ。だけど、アツシのマネージャーは知っていた。全然関係ないのに」
 俺の疑問に、雄二は答えた。
「それはたぶん、苗字が変わったから学校で噂になったんだろう。人の口には戸は立てられないから。それに、音楽事務所Mは契約前に身辺調査をしたんだろう。犯罪者だったりしたらまずいからな」
「そうだったのか。俺はそんなことも考えずに、密告をしたんだ。そうだ、俺が全部いけなかったんだ。この、俺が――」
 俺の意識はここで途絶えた。

 気を失った俺は病院で目をさました。釧路から駆けつけた母が心配そうに見ていた。母は、涙ぐんでよかった、よかったと言った。俺は、なんで泣いているのかわからないで起き上がろうとしたが、腕には点滴が二本つながっていることに気がつく。その時、光のことを思い出して再び泣いてしまう。俺はそんな状態を夜中になっても続けた。
 翌日、俺は精密検査を受けて診察室に入った。医者は言うには、どこも悪くない。たぶん、極度のストレスによってそれを回避するために意識がなくなったんだろうと言った。いっそ、そのまま死んでしまえばよかったのに、俺の身体はそれを許さないのか。絶望だけが残った。
 このままでは、身体まで壊れるからと、精神安定剤と睡眠導入剤を飲まされて、夢も見ずに死んだように眠った。
 精神安定剤を飲み続けて三日目、薬で朦朧とするなか、雄二が見舞いに来た。力なくベッドに横たわる俺の顔を見るなり、涙ぐんで言った。
「光は、お前の将来まで奪ってしまったことを悔いていたんだ。だから、井上。お前は音楽を続けないといけないんだ」
 そうは言われても、俺のしたことによって光の将来を閉ざし、さらには大衆にさらさせた事実には変わりはない。そして、足を引っ張って俺の未来を閉ざしてしまったことを、光は悔いていた。そのことを理解すると、ますます自分を許すことはできなかった。ああ、死にたい。
 退院した俺は、実家に帰ってもなにもしないでひとり引きこもっていた。ごはんも食べずに、水も満足に飲まずに、じっと布団をかぶって。そして、なにがこの結果を生んだのか考えていた。同じことを、いく日も。

 気が付くと、年度は明けて俺は三年になっていた。無理やり列車に乗せられ札幌に着くが、下宿に帰っても俺は相変わらず引きこもった。
 そして、学校を無断欠席して三日目、仁藤直子が夕方下宿にたずねてきた。
「ねえ、井上くん。なにがあったの?」
 俺は、まだ夕方だというのに、フトンにくるまって聞こえないふりをした。
「言いたくないんだったら、それでもいいけど、このままじゃ退学になっちゃうよ。だから、学校に来てちょうだい。お願い」
 俺には学校なんて、もうどうでもよかった。そして、なにも食べずに死にたかった。けれど、ギリギリのところで食べてしまう。そんなことを繰り返して、いつの間にか体重は五十キロを切ってしまった。
 そんな俺のかたくなな態度に覚悟を決めたのか、俺に言ったんだ。

「わたしを好きにしていいよ。だから、学校に来て!」
 直子はそう言って俺のフトンをはねのけると、セーラー服を脱いだ。俺が待てと言ってもやめなかった。そして、とうとう素っ裸になってしまった。
 直子は美しかった。頬を真っ赤にそめ、どこも隠さないで全身を俺に見せた。すべてを俺にささげると言った言葉がなによりもうれしかった。それだけで生きる力がわいてきて、俺は直子にはじめてのキスをした。そして、直子を抱きしめながら言った。
「もう、こんなことはやめてくれ」
「それなら、また元のように力強く生きてくれる?」
「ちゃんと生きるよ」
「学校も、来るよね?」
「ああ、行くよ」
「勉強もちゃんとして留年しない?」
「ちゃんとするよ」
「わたしのこと、大事にしてくれる?」
「大切にするよ、一生」
「一生って……、そこまで言ってないよー」
「そうだっけ?」
「まあ、いいわ。あははは」
 俺には大事な人ができた。俺は立ち直る決心をして、直子を一生大切にすると誓った。十七の春のことだった。

 光。許してくれ。俺は、まだ死ねないんだ。俺を大切に思ってくれる人がいる限り、そして俺を頼ってくれる人がいる限り。だから、君に謝りにいくのは、もう少し待っていてほしい。

 だいぶあとになって、光のタトゥーの意味が分かった。IQが知っていて言わなかったのだが、今は言うべき時だと思ったそうだ。
 光のタトゥーの魔法陣、それは身体を心と切り離すための呪文。光は苦しさから逃げるためにそのタトゥーを入れたのだ。

 神様、こんな悲しいタトゥーがあるのですか? もし、生まれ変わりを許されるなら、タトゥーを入れないでも生きて行ける人生を歩ませてください。
 そう祈って俺は光の墓に手を合わせに行った。タクシーに乗ってB霊園を目指すと、それは十キロほど郊外にあってかなり大規模なところだった。その中ほどにある光の名前がきざまれた墓は、新しい両親の代々の墓だった。養子縁組をしてたったひと月で墓に入れてくれたことに感謝をして、光の魂がやすらげるように祈った。


十六

 守る人ができて俺は就職を真剣に考えた。俺の頭でも入れるところ、そして食いっぱぐれがなくて、それでいて誰にでもどうどうと言える職業。俺は高校へ入った時に、列車で会った老婆の言葉を思い出していた。娘さんを『おれのほこりだ』と確かにそう言っていた。その言葉で俺は決めた。診療放射線技師になろうと。
 進路指導の先生に相談をすると、診療放射線技師になるには、大学か専門学校があり国立大学は百万円ていどと一番学費が安いが、今からセンター試験を受けるのは俺の成績では難しいと言われた。しかし、私立大学へ行くにはお金が国立大学の二倍はかかる。その点、専門学校は国立大学と同じ程度の学費で、しかも三年ですむ。そして、偏差値は50でしかも入試科目はたった二つ。俺は専門学校の試験を受けようと決めた。

 受験勉強も熱をおびる三年の二学期の教室、雄二と夏子がしばらくぶりに話しかけてきた。光の死以来、痛いものにさわるようにしていたから。
「おい、バンド本当にいいのか?」
「ああ、もうきれいさっぱりツキモノが取れたよ。だから、俺のことは気にしないでバンド、続けてくれよ」
「そんなこと言うなよ。お前の曲が必要なんだ」
「悪い。俺はもう書けないんだ」
 俺はそう言って参考書に目を戻した。心の中ではすまないと言って。俺のかたくなな態度にあきらめたのか、雄二たちは行ってしまった。
 そこで、ふと思い立った。夏子のために作曲のコツを伝えようと。俺はまる一日かけて大学ノートに記した。そして、翌日夏子に渡した。小田さんなら、きっとできるよと言って。

 俺が毎日勉強にはげんでいる中、直子はあの日のことはなにも聞かずに、俺の応援をしてくれる。中でも、お昼の弁当用に時々直子が焼いてくれるパンは絶品だった。程よい柔らかさのパン生地にレタスとハムがはさまれていて、口に入れるとなんとも言えない香りがして、食欲をそそるのだ。俺は、そんな直子の応援の中で医療専門学校を目指して、必死で勉強を続けた。
 その直子は、一足先に就職が決まった。テレビ塔の宣伝課で、案内や、販売促進、それに企画なんかをする仕事みたいだ。きっと、直子のことだから、先輩たちにかわいがられるだろう。俺は、直子が働く姿がはやく見たいと思った。

 そして俺も次の年、札幌の医療専門学校に無事合格した。お前では無理だ、やめておけと言う担任に逆らって受けたのだが、報告に行くとよく受かったなと言って涙ぐんで喜んでくれた。
 一番喜んでくれたのは直子だった。一年前のあの日、俺にすべてを捧げようとした彼女の期待に応えられて、とても満足している。俺は、直子を幸せにするための一歩を、歩みはじめた。

 光の墓にも報告に行った。
 もしもお前が生きていたら、こんな喜びを感じられたのに。もったいないな。今度生まれ変わった時は、普通の家庭に生まれて来いよ。待ってるから。ああ、そうだった。その前に君に謝りに行かなくちゃいけないんだ。ええい、面倒だ! 転生でも何でもして早くこっちの世界に来いよ! それじゃ、またなあ。
 そう言って、光の好きなアイスワッフルを供えてきた。

 光に報告へ行ってひさしぶりに教室で呆けていると、夏子と雄二がお別れを言いに来た。一足先に卒業してレッスンを受けると言うことだ。
 俺たちには語る言葉は必要なかった。ふたりとガッチリ抱き合い成功を祈った。そして、吹雪の中、それじゃ、行ってくると言う言葉を残して夏子と雄二は旅だった。俺は雪に埋もれそうになりながら、夏子たちを見えなくなるまで見送った。いつまでも、いつまでも。

 俺は、三月の卒業式に出席した。相変わらず校長の長い話には泣かされたが、今となってはいい思い出だ。蛍の光を歌って式を終えた。
 俺たちは、皆で校舎を出た。直子、IQ、平和美、源和久、それにたくさんの仲間たちと。俺たちは、皆で写真を撮って最後に握手をした。
 ふと、校舎の左手を見ると、ポプラの花がすでに咲いていた。俺は、三年間どうもありがとうと言って、学び舎をあとにした。それを見て直子が優しく微笑んでいた。

 ところで、四年上の姉だが、その歳、東京の文系の大学を卒業した。親は大学が重ならないでよかったと喜んだ。なにせ、ひとり一年で百万もかかるのだから。
 姉は東京の方へそのまま就職して法律家を目指すようだ。やはり、俺とは頭のできが違うようで、同じ両親から生まれたとは思えない。
 昔、あんなに好きだったピアノはもう弾いていないようだけれど、いつか一緒に弾いてみたいと思う。俺は、もう昔のように比べられるのをいやがったりしない。好きな音楽を心ゆくまで楽しんでみたいから。


十七

 高校を卒業した俺は下宿を出て札幌市内のアパートへ移った。と言っても、一駅離れているだけだが。幸いにも晴れの日に、直子と下宿の後輩たちが引っ越しを手伝ってくれた。
「いやー、ほんと助かるよ」
「いいえ。日頃お世話になっていますから」
「そうかー? 俺は、たいしたお世話はした覚えがないが」
「先輩。俺たち、先輩と同じ放射線技師めざそうと決めました!」
「本当か?」
「はい!」
 なんとも頼もしいものだ。俺は引っ越しの手伝いをしてくれたかわいい後輩たちに寿司の出前をごちそうした。

 四月になって俺は札幌の医療専門学校の門をくぐった。専攻は診療放射線学科。期間は三年。
 校舎は最新の設備が整い、それぞれのカリキュラムに合った講義が行われる。この専門学校には、医療事務学科、看護学科、診療放射線学科、保育学科のコースがある。そして決められた期間勉強して、国家試験などに受かれば、はれて資格が取れるのだ。俺は真新しい施設で勉強できることを喜んだ。
 入学式前に下見をしていると、目を引く看板がいくつかあった。皆だいたい、なんとか同好会と書いてある。どうやら、この専門学校にも普通の大学のように部活や同好会があるようだ。冷やかしで勧誘の波に飲まれていたら、いつの間にか古典ギター同好会の看板にぶちあたる。
「すみません」と言って立ち去ろうとしたが、ギターをかかえたすごいくせっ毛の女性が手を離さない。俺は、一瞬ひるむ。
「おねがいです。一曲、聞いて行ってください。おねがいです」と必死で嘆願された。
 ここまで頼まれたら、仕方ない。俺はしぶしぶ聞くことにした。
 その女性は、イスに腰かけていちど目を閉じると、十弦のクラッシックギターでバッハのシャコンヌをうやうやしく弾きはじめた。バイオリンでの演奏は聞いたことがあったが、ギターの演奏ははじめてだった。俺はその女性がかなでる美しくも荘厳な音に魂をゆさぶられた。時間にして約十四分。気が付くと、俺は手が痛くなるほど拍手をしていた。
 こうして、俺はクラッシックギターを始めることにした。これはたたき壊したエレキギターと違うんだと勝手に割りきって。

 俺にシャコンヌを聞かせてくれた女性は園田弥生。バッハのような髪が印象的な看護学科の二年生(看護師の資格は三年制)。彼女は、その風貌にはよく合っている太い音を出す。そのみなもとは大きな手にあった。彼女は、一フレットをセーハして、五フレットに楽々と小指が届くのだ。俺は園田先輩のギターにほれた。
 部員たった四人の古典ギター同好会に入った俺は、さっそくギターを買いに楽器店まで連れていってもらおうとした。

「園田先輩、ギターを買いに行きたいんですけど、付き合ってもらえますか?」
「ええ、いいけど。まさか十弦じゃないでしょうね?」
「はい、そのつもりです」
「やめておきなさい!」
 キッパリと言われてしまった。
「気持ちは分かるけど、あれは消音が難しいからやめたほうが……。ううん、絶対に無理だからやめて、お願い!」
 頭を下げられてとめられた。

 こうして泣く泣く六弦を買いに行った。あとで知ったのだが、消音をする場合、一弦を抑えながら十弦を消音しなくてはいけない場合がある。俺は、残念ながら手が小さいので不向きなのだ。
 新しく買ったクラッシックギターは美しく四六時中触っていたかったのだが、ギターを弾く時間が長くなり、高校の時と同じように勉強がおろそかになることを恐れて、部室にギターを置いた。そして講義が終わるとバイト前の短い時間、部室へ行って練習した。
 教本はソルの二十五のエチュード。はじめは簡単なアルペジオから。そしてセーハの多い曲へ。極めつけは無理な運指の連続技。これだけではない。早いトレモロが俺の行くてをはばむのだ。俺はそれらの難しい技を少しずつ自分のものにしていった。
 そして、季節はむし暑い夏になった頃、ようやく基礎練習が終わっていよいよバッハのシャコンヌに挑戦したのだが……、非常に難しい。十六分音符が高い壁のように俺の前に立ちふさがるのだ。さんざ格闘した末あきらめて、バッハのプレリュード、フーガ、アレグロからプレリュードをなんとか弾いて秋の定期演奏会を乗り切った。
 招待した直子は、俺が再びギターを持ったことに感激してか、楽屋で泣かれた。俺のギターを、あいしてくれてありがとう。そう心の中で感謝した。

 定期演奏会も無事終ってほっとしたのもつかの間、月曜日にアパートで夕飯をゆっくり食べている時だった。ふとテレビを見ると夏子が歌っていた。俺の作った曲に若干アレンジを加えて。
 作詞作曲者のテロップには俺の名前はなかった。代わりに雄二の名前が出ていた。俺は名前が出なかったことにほっとして、同時に少しの寂しさを感じたのだが、それよりもテレビにブラックダイヤの名前が出たことに感動した。その文字を見たときは、背筋に電気が走った。
 涙目で聞いていると、夏子の歌も雄二のドラムもより洗礼されたものになっている。そして、新しく加わったギターとベースは俺や光のような個性はないが、確かな技術で夏子の歌をサポートしている。もう、俺の場所なんてどこにもない。あるのは彼らの輝かしい未来と成功だけだ。
 俺は夏子たちの雄姿をDVDに録画した。それをいつか俺の子供に見せるために。さあ、これが俺の生み出した音だと――。

 夏子たちも頑張っているんだ、俺も直子のために頑張らなくちゃと、しっかりと医療専門学校に通った。教科は、英語、数学、化学などの基礎知識。解剖学、病理学などの人体の知識。放射線物理学、X線画像技術などの専門知識とその技能習得などなど、一年間でおよそ三十近くもある。
 その講師の言葉を一言たりとも聞き逃さないようにしていたので、一日が終わる頃にはぐったりと疲れている。それでも、部活で復活して、バイトに元気に行くのだから、人の身体はうまくできているものだ。
 バイトはファミリーレストラン。火曜から日曜の十八時から二十二時までのシフトでまかないつき。生活費が全額俺持ちなので、このバイトは大変助かる。でも、勉強する時間が日曜と月曜しかないので、講義を集中して聞いた。他のバイトの人も俺と同じような学生が多くて、お互いにはげまし合い、急用がある時にはシフトを融通し合った。皆いい仲間だ。
 たまの祝日には、俺は生気を補充するために直子とデートした。円山動物園、開拓記念館、札幌植物園、サッポロビール・ファクトリー(旧開拓使麦酒醸造所)、と行く所は多かった。俺たちは手をつなぎそれらを見ていった。
 俺はこの頃から直子との結婚を意識し出した。直子の笑った顔が見たくて。いや、本当は俺がやすらげるからだ。

 そして、俺は順調に二年になり秋の定期演奏会ではポンセの組曲イ短調を弾いた。これも、俺の好きな曲だが、調子に乗ってテンポが早くなり音がビビってしまい失敗した。園田先輩にさんざ説教されたのは、今となってはいい思い出だ。
 それでも、三年目はとうとうバッハのシャコンヌを弾いた。今度は、難しいところでしっかりテンポを落としたのでうまくいった。見に来ていたOGの園田弥生は「あと、三十年も弾けばきっとプロになれるね」と言った。それって、微妙なんですけど……。


十八

 高校を出て三年の年月がたった。俺は無事、診療放射線技師の国家試験に受かり、就職も決まって勤務地は俺の地元の釧路になった。やはり国立大学の奴らには遠くおよばない。医療設備だって限られているし、給料だってずいぶんと少ない。しかし、高校の頃の成績を考えれば文句は言えない。おとなしく故郷に骨を埋めるつもりで札幌をあとにした。
 列車の中で俺は思い出していた。思えば色んなことがあった。高校受験の失敗。親元を離れ札幌へ。おばあさんにオハギをもらったこと。下宿の先輩のエレキギターの音に触発されて、エレキギターを買った俺は勉強せずに弾きまくった。そして、エレキが掛けがえのない友だちを連れてきた。しかし、俺の浅はかな計略で大切な友の命を奪った。自暴自棄になった俺を救ってくれた人がいた。直子だ。俺はその直子の愛に報いるために生きている。そう思っただけで力がみなぎるのだ。
 俺は、直子のためにこの仕事をまっとうしようと、今一度決意した。

 列車が曇った釧路駅に着くと、中学時代の同級生たちが俺を笑顔で出迎えてくれた。その中に昔片思いだった前原悦子がいた。俺は照れくさそうにただいまと言った。
「おかえりなさい」
 悦子のその言葉で俺を待っていたことをさとる。だが、俺には約束した仁藤直子と言う恋人がいるのだ。ここで曖昧にはできない。
「今札幌で働いている彼女がいます。来年の六月になったら結婚しますので、その時はスピーチよろしく」
 急きょ結婚の話まで創作した。いつ結婚するのかは、おいおい決めればいいのだ。今は結婚相手がいることを宣言するのが大事だ。
 俺の言葉に同級生は皆しーんとなった。その時、昔の悪友が助け舟を出してくれた。
「そうか、よかったなー。これで釧路に永住してくれりゃ俺たちはうれしいよ。また、一緒に遊ぼうぜ」
 その言葉に皆の口が軽くなった。俺はどうにか歓迎の形で皆に迎えられた。

 前原悦子は確かに俺が好きだった女子だが、彼女は当時チビだった俺をバカにしていた。そして、釧路の進学校に落ちて、完全に見限られた形だった。それが、いつの間にか身長も伸び、診療放射線技師として釧路に戻って来てここに骨をうずめる覚悟だと言うのだ。結婚相手として意識しても不思議ではない。
 しかし、俺は悪友から聞いている。他の男子の第二ボタンをもらっていたことを。
 あれで余計にやる気をなくして、高校の時は成績が一気に落ちたと言っても言い過ぎでない。だから、間違っても悦子と付き合うつもりはない。
 悦子は俺が恋人がいる宣言すると姿を消した。ほっとした半面、胸がチクっと痛んだ……。

 恋人の直子だが、彼女は俺の給料が少ないことを考えて、結婚は三年後にしたいと言ってきた。それまでは遠距離交際となるが、心配だ。直子が他の男に乗り換えないか。まあ、信じるしかないのだが、お互いに。
 いろいろ心配事はあるが、診療放射線技師としての俺の社会人一年目が始まった。


十九

 釧路の病院に勤めて一年がたって、ようやく桜も咲きはじめた頃。ブラックダイヤの三枚目のニューアルバムが出た。
 俺は仕事を終えると、CDを買って自分の部屋にこもった。歌詞カードには夏子が作った曲が三分の一あり、あの日俺が送った大学ノートが役に立ったことを思わせる。その曲を聞くと、夏子らしいちょっと口が悪い歌詞と、ゆったりしたビートが、俺の魂を心地よくゆさぶった。ああ、これはミリオンセラー間違いなしだなと思った。
 そのCDを繰り返して聞いていると、突然、知らない番号から電話が入った。

「はい、もしもし?」
「ふふふ、ひさしぶり、悟」
「夏子!」
「元気だった?」
「ああ、夏子も元気だったか?」
「……うん、まあまあね」
「いやー今、ブラックダイヤのニューアルバムを聞いてたところなんだ。夏子の曲、すごいなー。絶対ヒット間違いなしだ」
「ありがとう」
「俺も鼻が高いよ。あ、でも誰にも言わないけどさ」
「ふふふ。ところで、相談があるんだけど。会える?」
「えっ! ……それで、どこで会う?」
「悟の地元でいい。今度の日曜に」
「分かった。それじゃ、小さい町だから駅前で待ち合わせで大丈夫だ」
「うん。……ねえ、誰にも言わないでね」
「ああ、分かった」
「それじゃね」
「それじゃ」

 一体なにがあったのだろう。深刻そうな声に、不安が走った。俺は、日曜が来るのが怖かった。

 次の日曜、釧路には珍しくひさしぶりに晴れた。本当、こんな日はめったにない。夏子はつばの大きな帽子とサングラスというこの天候に合った装いで、タクシーから釧路駅に降り立った。釧路空港から直接来たのだろう。大きなスーツケースには行き先のカードが付いていた。その荷物を見て、夏子はここに長期滞在するつもりだと分かった。忙しいブラックダイヤのヴォーカルがそんなに暇な分けわない。俺は、夏子の顔を見て動揺を隠しきれた自信がなかった。
 夏子は、まず俺の肩を抱いて再会を祝った。
「ひさしぶり、悟」
 高校の時は井上くんと言っていたのに、電話の時と同じように名前を呼んでいる。彼女の中でなにかが変わったと思った。
 俺たちは、釧路駅の喫茶店に入ってカフェオレを頼むと、ノドのかわきをいやした。そして、夏子は全部飲みほすと、深く呼吸をして話を切り出した。
「ねえ、わたしのCTをとって」
 そう、俺の目を見て言った。心なしか目が涙ぐんでいるようにも見える。夏子は、やはり身体に変調をきたしているのだ。CTと言う装置の名前を知っていることを考えると、どうやら前にも同じ検査をしたようだ。それを、もう一度とるということは、きっと俺に確かめてほしいのだろう。俺は最悪な結果を覚悟した。

 釧路駅の駐車場にとめていた中古のワゴンに乗って、俺のつとめる病院へ夏子を連れて行った。中に入ると、院長に電話をしてCTの使用許可をとって、急いで装置を立ち上げた。
 検査した結果は、俺は医者じゃないので断言はできないが、内臓のいたるところに転移した末期がんの画像だった。彼女にそれを伝えると「そう」と言ってタバコに火を着けた。日頃から心的ストレスがかかっていたのだろう。彼女は高校の頃はクサイと言って吸いたがらなかったタバコをおいしそうに吸った。
「わたし、この病院で最後を迎えるから」
 夏子はそう言って荷物を下すように肩の力を抜いた。
 俺はこの時、夏子を抱きしめた。もういいんだよと、受け止めるように。すると、夏子はせきを切ったように大声で泣いた。
 このあと、看護師に無理を言って入院の手続きをした。

 後日、夏子に確かめたのだが、夏子の主治医は病状と余命宣告をしなかったそうだ。もちろん、夏子のことを思ってのことだろうが、自分がそれを知らされないで、日々病状が悪化することに耐えられなかったのだ。
 しかし、俺ならすべてを教えてくれると思ったそうだ。そして、最後の時まで見とどけてくれると思ったらしい。
 その考えは当たっているが、夏子の顔を見ても笑っていなくてはいけない。そんな心と身体をまったく切り分けるようなことができるだろうか? 俺は、まるで修行僧にでもなったように、この苦行をしようとしていた。


二十

 次の日、直子が仕事をやめて看病に来てくれた。夏子が俺の病院に入院したと電話をすると、付き添いたいと言って。
 俺と夏子の関係を心配したからではないと思うが、まさか直子が付き添いに来てくれるなんて考えもしなかったので、俺は直子の決断に感謝した。もしも、俺だけが夏子をみとっていたら、きっと心が崩壊していたから。そう、今でも夏子は俺の中のディーバだから。

 夏子の闘病生活は穏やかだった。病室での名前を変え、長い黒髪をばっさりと切ってしまったから、ブラックダイヤの夏子だとは誰も気づきはしないでどうどうと廊下を歩いていた。
 そして、抗がん剤を使わず緩和ケアを優先したのも、穏やかだった理由の一つだろう。もしも、抗がん剤が病巣に合ったら助かるのだと言っても聞かなかった。そんな確率は数万人にひとりだってことをネットで調べたそうだ。そして抗がん剤がいたずらに体力を奪っていくことも知っていた。だから、彼女の希望を優先した。
 けれど、たった一つだけ彼女の希望を守らなかった。それは、最後の時を雄二に知らせたことだ。彼はすぐにかけつけ、夏子に抱き付いた。夏子はしょうがないな、と笑って一九〇もある雄二の髪をなでた。まるで子犬のように。
 それからの短い時間、夏子は必死で生きた。闘病している少女に、秘密でブラックダイヤの曲を歌ってあげたりして。俺と雄二は口で伴奏をして楽しんだ。まるで高校時代に戻ったように。

 最後に夏子は「ありがとう」。そう言って天国へ旅立った――。

 俺は夏子の人生を思い返していた。夏子は、親のネグレクトがあって苦しい幼少時代を送った。しかし、高校になってかけがえのない仲間に出会い、それまでの人生が嘘みたいに変わった。それは数少ない成功者に与えられる神様のご褒美。
 俺は短い人生を閉じた夏子をかわいそうだとは思わない。むしろ幸せだと思う。成功を手に入れて、仲間に見守られながら逝く。これ以上のことがあるだろうか?
 俺は夏子の最後に立ち会えたことに感謝した。

 もしも俺が死ぬ時、幾人の人が悲しむだろう? そう思うと肌寒く感じたが、その時はきっとブラックダイヤのメンバーが迎えに来てくれるだろう。そう、光、夏子、それとたぶん雄二の皆が(笑い)。そう思って俺と雄二は最後に夏子の手を握ってお別れをした。
 ふと見ると、ブラインドカーテンからこぼれる太陽の光が、夏子をやさしくつつんでいる。まるで天国への階段のように――。


二十一

 この頃思う。俺はギターを弾くために生まれて来たんじゃないかと。始まりはフォークギター。高校へ入ってからはエレキギター。専門学校へ進学してクラシックギター。どれも、青春の日々を彩ったギターたちだった。
 しかし、いつの日か弾けなくなる日が来るだろう。その時まで、俺は弾き続ける。そう決めた。
 最後に、俺がよく弾いていた曲をあげてお別れとしよう。

 フォーク。長渕剛『しゃぼん玉』『ろくなもんじゃねえ』。尾崎豊『I love you』『卒業』。かぐや姫『22才の別れ』『神田川』。さだまさし『精霊流し』。

 ロック。レッド・ツェッペリン『天国への階段』。イーグルス『ホテル・カルフォルニア』。オジー・オズボーン+ランディ・ローズ『Mr Crowley』『Crazy Train』。

 クラシック。JSバッハ『無伴奏バイオリンパルティータ第二番シャコンヌ』。MMポンセ『組曲イ短調』『ソナタ三番』。Jロドリーゴ『アラフェス協奏曲』『ある貴紳のための幻想曲』。

 以上。

(終わり)

20170112-青春の日々~ギター賛歌

20170112-青春の日々~ギター賛歌

134枚。修正20240413。青春の中でつまずきながら、それでも必死で生きて行く青年、井上悟。ギターは彼に生きるエネルギーを与えた。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-24

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