The Second Game × Another World
0:確信と確認
「あのさ」
「先生、何でしょう?」
「君が日拳を始めてけっこう経って……わかってきたとは思うけど――」
男は、極めて冷静だった。
これから事実上ルールの無い格闘技の試合に向かっているにも関わらず、まるで自宅の中を歩いているようなリラックスをした状態だった。
「日拳の稽古を毎日続けて、日拳の試合で勝っても、何千万円のファイトマネーなんか貰えないし、オリンピックの金メダリストみたいにマスコミがいっぱい集まることもない」
男はそう言うと笑った。
「はい。確かにそうだとは思います。でも、最強は――」
男の弟子は、笑い返す。そして、自信に満ちた表情で言い切った。
「先生に教えて頂いた、先生の、日拳です」
「うん」
男は、その答えが返って来て当然という様子だった。
「そしてそれを、世間に広く知らしめることができる機会が、こうして来たわけだ」
「はいっ!」
男の表情が先程までよりやや引き締まり、廊下の空気が少し張り詰めた。
「それを考えると、一回戦の相手は最適と言えるだろう。あの男の強さと実績は、世間に広く知れ渡っている」
「そうだね、父さん」
長い廊下を歩いていた〈二人〉が立ち止まると、そこには大きな扉。そして、トラックスーツの男が数人立っていた。
「失礼します。ボディーチェックの方を……すみません、出場選手全員にお願いしていまして」
「ああ、聞いてるよ」
「すみません。リングの近くでは時間をかけられないので、ここで入念にすることになっています」
係員達が男の道着や手元をチェックし終えると、弟子が扉を開こうとする。それを一瞬、男が制した。
「あ、待って。父さんはここまでだよ。言っただろ、リングまで行けるのは試合をする俺と、セコンドの川上君だけだから……」
「?」
「ごめんごめん、川上君。さあ、扉を開けてくれ」
弟子は今度こそ重い扉に手をかけ、開いた。扉の中には深い闇が広がっている。
廊下よりもほんの少し埃っぽい空気を感じ、男は拳を握り締めた。
幼少期より振るい続けた、どんな奴でも倒せるように鍛え続けた拳を握った感触は、今日も変わらず良好だった。
「あ、さっき日拳を続けても何千万円も貰えないと言ったけど、ありゃちょっと間違いだった」
握った拳を開く。
この拳は、間違いなく頂点に届くと確信をする。
「今からするのは日拳の試合じゃないけど、勝てば二億貰える」
男の軽口に弟子は、また笑みをこぼした。
「二億じゃ済まないですよ。最終的には三百億円です」
笑いはするが、冗談だとは思っていない。
そして、金だけじゃない。
道を見失っていた自分が辿り着いたこの若き師匠が最強であることも、揺るがないと思っている。
「じゃあ、行こうか」
暗闇を抜けると、光と歓声が師弟を迎え入れる。
会場に満ちた熱い空気を吸うと、男の気持ちはこれまでよりも更に高ぶった。
『ああ――いよいよベッドインだ』
『今、このベッドに向かって来る男とのセックスが終わっても、また次の相手とのセックスが待っている』
男は、極めて興奮をしていた。
この狂おしい程の高ぶりは、いつからだろうか。
あの記者会見場に、遅れて入った時――用意された自分の席に座るため、参加者達の後ろを通った時からか。
彼らの放つ強者のオーラが肌に触れ、彼らの周囲の空気を吸い込み、海綿体に血液が猛烈な勢いで流れ込んでいくのを実感した。
いや、その前かもしれない。思いがけず会見前に味わうことになった『ペッティング』の刺激もなかなかだった。
そういえば、先に行われた第一試合も、どんなポルノビデオよりも興奮を催す最高のモノだった。片手の無い忍術の使い手と最強の喧嘩師という、耳にしただけなら失笑モノの数合わせマッチかと思いきや、蓋を開けてみれば本当の殺し合いとなった。
あの第一試合の勝者――原始的な戦い方の喧嘩屋と、自分はどんなセックスをするのだろう……
どうしようもないこの高ぶりについてあれこれ考えを巡らせていると、遂に本番の相手が同じ空間に入って来た。
金網に囲われたリング。誰も邪魔をする者がいない二人だけの時間が、これから始まるのだ。
これまで自分がボクシングの世界で戦ってきた連中に比べると、目の前の相手はだいぶ細い。顔付きは、世間一般で言えば二枚目の部類に入るだろう。
だが、この男はおそらく、自分が戦ってきた誰よりも美しい技術を持っている。
セコンドが伝手を使って集めた、相手の過去の試合映像を見た時からこの男の持つ全てを自分にぶつけて欲しいと、全身の細胞が求めて止まないのだ。
そして細胞達は、この男に自分が持つ最高のパンチをぶち込んでヤりたいとも叫んでいる。
御馳走を前に呼吸がより荒くなるのを感じ、男は拳を握り締めた。
試合やそれ以外の場所でも振るい続けた、どんな奴でも倒した拳の感触は、今日も変わらず良好だった。
『俺が陰陽トーナメントという快楽の海から上がった時、客達はやはりボクシングこそが最強の格闘技だと思っていることだろう』
握った拳を開く。
この拳で、ボクシングが最強だと確認をする。
試合開始のカウントダウンが始まった。
目の前の対戦相手は、構えを取る。ボクシングでは見られない構えだ。
ああ――最初の一撃は何なのだろうか?
構えを見ただけで妄想が止まらない。
カウントダウンは進む。
でも、大丈夫。こっちもお前に極上の一撃をプレゼントするから。
「そう……一人じゃない。いく時は、いっしょだから……」
最強の格闘技は何か!?
空手、ボクシング、キックボクシング、ムエタイ、散打、テコンドー、
柔道、少林寺拳法、中国拳法、日本拳法、古武道、サンボ、
合気道、相撲、アマチュアレスリング、プロレスリング、
ブラジリアン柔術、カポエイラ、ジークンドー、
多種ある格闘技がルール無しで戦った時……
スポーツではなく……
目付き金的ありの『喧嘩』で戦った時――
最強の格闘技は何か!?
その答えの一端が、
このトーナメントでわかる。
陰陽トーナメント一回戦 第二試合
日本拳法・佐川徳夫 対 ボクシング・石橋強
1:未知との遭遇
試合開始のブザーと共に、オーソドックスに構えた石橋は距離を詰めた。
石橋強はその見た目に反してヘビー級とは思えないスピードを持ち、当然フットワークも使う。
佐川徳夫は両の拳を中段に構え、迎え撃つ。
石橋の左ジャブ。がら空きの佐川の顔面めがけ、拳を放つ。
「「「ワァッ!」」」
会場は沸いた。
佐川は石橋の左ジャブに合わせ、左の拳を開いての横面打ち。
石橋の放った拳が空を切るのと同時に、彼の頬は佐川に張り飛ばされた。
横面打ちにより佐川の体は流れるが、そこから体勢を戻す動きと共に、次の一撃が繰り出された。
直突き。
拳を回転させない、最短距離で突き込む縦拳が、最強ボクサー・石橋強の顔面に命中したのだった。
陰陽トーナメント一回戦第二試合のファーストコンタクトを制したのは、日本拳法・佐川徳夫であった。
「よっし!」
佐川のセコンドの川上はこれ以上ないクリーンヒットがいきなり出たと、金網を掴み歓喜する。だが、対する石橋のセコンドであるデビル塚山は冷静でいる。
むしろ、笑みすら浮かべていた。
(変態野郎がイケメンに迫ったらビンタを喰らったか。笑えるな)
自らがセコンドを務める選手が試合の立ち上がりに失敗したにも関わらず、笑っていられる。
これはデビル塚山にとって、石橋強への絶対的な信頼に他ならない。
(初撃はまず佐川が取る。これはまあ、揺るがないはずだ)
そう思っている間に、佐川を追う石橋の顔面に強烈な前蹴りが直撃した。
デビル塚山はイベント会社・コングスリーパーと契約をしている総合格闘家。総合を始める前は、ボクシングの世界でベルトを獲った。付け足せば、ボクシングで世界を獲ったという肩書のおかげで、総合格闘家として契約できていると言えるか。
だが、
『お前らコロポックルがやっているのはボクササイズだ』
『お前らはボクサーじゃねえ』
と、彼はそのキャリアを否定されたことがある。
そう、今もまた、佐川徳夫から腹へのミドルキックや強烈なフックを喰らい前進を止められたリング上の男、他ならぬ石橋強に対して言われたのだった。
そして口撃だけならまだしも、デビル塚山は石橋強と実際に拳を合わせ一撃の下に沈められた――が、何の因果か、今こうしてセコンドとして試合を見守る立場になっている。
(最初は打たせるとは思ったが、想像以上にもらってるな……)
フックの後にやや後退をした石橋は、構えは解かないがその場で止まる。
対する佐川も自分から攻めるようなことはせず、試合開始と同じ中段の構えで対戦相手の次の動きを待っていた。
(だが佐川よ。ある程度攻撃をして、お前の方が驚いてるんじゃねえのか?
石橋はヘビー級の中でも特別。こんな奴、普通はいねえからな)
デビル塚山が持つ石橋への信頼。
その根拠は――
頑丈だ。攻撃を止めた佐川徳夫がまず思ったのは、石橋の身体の頑丈さだった。
(なるほど。情報の通り)
しかし、塚山が予想した程の驚きはなく、あくまで確認ができたという程度のものだった。
佐川徳夫は当然、石橋強のボクシングでの試合映像を見られるだけ見て試合に臨んでいる。映像から、異様なまでの打たれ強さを持っていることを知ったし、一度も試合でダウンをしたことがないというデータも得ている。
だが、対戦相手の情報を仕入れたのは、それだけではなかった。
(進道塾の高野は重量級じゃなかったから効かなかった――とかじゃないな。
今出した俺の直突きも中段蹴りも、あの身体にはほぼ効果が無い)
佐川徳夫は知っていた。
石橋の太い首を覆う筋肉は、頚椎を意識できないレベルで強靭であることを。
石橋の肋骨が常人とはかけ離れた異形――分厚い甲羅の如き一枚アバラであることを。
知っていて、それを確認できたから、次の手に移った。
佐川徳夫がこの試合で初めて自ら前に出る。
確かに最初は、攻撃を自らもらうように仕向けた。
あの左ジャブも、相手にとってはカウンターを合わせやすいようなものだった。
その後の奴を追う展開でも、本来ならもう少し強く踏み込めた。相手の迎撃を容易にするために……
そうだ。自慰行為に及んでしまったのだ。
マゾヒスト・石橋強にとって、必然性の無い痛みなど自慰でしかないのに――
しかし、ここまでのやり取りで、最早そのようなことはなくなるだろうとも思った。
この対戦相手は、想像よりもずっと素晴らしい。
トーナメントの参加者の中で体格的には下の方だが、目を見張るような技術がある。
映像の中で見た時より、実際に身体で味わうとより強く感じる。
ボクシングの世界でもこいつのようなパンチを打てる者はほとんどいないだろう。
蹴りも、この前戦った高野よりも当然重い。もっと、他の技も見せて欲しい……
スピードもセンスも一級品だ。これなら俺が本気で攻めに行っても、必然性に満ちた、これ以上無いカウンターをくれるだろう。
股間に血が流れるのを感じると、極上の対戦相手が自ら攻めに出てくれた。
よし、今度はこちらも全力でお迎えしよう。
コロポックルや猫なら掠っただけでも逝ってしまうような、『神の拳』ウォーレン・ウォーカーにくれてやろうと思っていた、最高の左ジャブを打ってあげる。
佐川の前進に合わせて石橋もステップイン。
大砲の如き左ジャブを放った。
佐川は次の瞬間、石橋の左手首を右手で掴み、左の掌で右頬を張りつつ、そのまま巻き込むようにして石橋の巨体をリングに転がした。
最強ボクサー・石橋強がリングに背を付ける初めての姿を衆目に晒した瞬間だった。
どぐちゃっ
面踏み蹴り。倒れた石橋の顔面を、佐川は全力で踏み付けた。
日本拳法の試合ならここで一本だが、まだ止めない。
どぐちゃっ
もう一度、面踏み蹴り。石橋の頭が跳ね上がる。
そして、
ズガッ
ダメ押しの下段の足刀蹴りで、石橋の頭を物のように蹴り飛ばした。
佐川徳夫の足刀蹴りは、彼の実兄・佐川睦夫のセコンド、菅野祐太郎――ヘビー級の肉体を持つ進道空手三段――を沈黙させた実績が直近である。
だが、そんな実績を知らずとも観客のほとんどはその威力を尋常ではないものと思わされる。そう、普通の人間なら、この攻撃をまともにもらえば死んでしまうと……
「サバキ?」
山本空は、佐川徳夫の一連の動きを見て思わず声を上げた。
その鮮やかさは、彼にある男の姿を思い出させた。
相手の攻撃を流しつつ体勢を崩し、一撃。浮かんだのは、進道塾にいた頃、父・山本陸と並び自分では絶対に勝てないと思っていた男、喧嘩王・上杉均が『サバキ』を使う様だった。
「――捕撃の形です」
空の声に冷静に反応をしたのは、中国拳法・玉拳の里見賢治。
「相手の攻撃を捕らえ、関節技や投げ技で反撃をするという日本拳法の型です。
投げ技を用いた場合は、今のように続けざまに打撃を繰り出します」
里見は解説をしながら、それを実質世界最強のボクサーとも言われる男のジャブに対して当たり前のように行った佐川徳夫のセンスに、脅威を感じた。
「なっ……」
だが、それ以上の脅威を感じたのは、次に見た光景に対してだった。
対象は佐川徳夫ではなく、石橋強に対して――
「立ち上がる、か」
「すげぇーな。このトーナメントはこんな奴ばっかかよ!」
生野勘助と共にリラックスした様子で試合を観戦していた、一回戦第七試合を控える反町隆広はリング上の光景に感嘆の声を上げた。
「「「オオオオォー……」」」
会場はざわめく。
本来なら一撃でももらえばそれで終わりに違いない攻撃を三発も受けたにも関わらず、石橋強は平然と立ち上がったのだ。
鼻からの出血――若干の変形も見られるが、石橋は問題無さそうにファイティングポーズを取った。
不死身のバケモノ。
一回戦第一試合に出た工藤優作という喧嘩屋も、どんな攻撃をもらっても平然と立ち上がり戦い続け、勝利を手にした。
石橋強が工藤優作と違うのは、その不死身ぶりを既に世に知らしめていたことにある。
そんな既知の情報があったからこそ、
『やっぱりこいつは肩書の通り……いや、それ以上のバケモノだ』
観客が、陰陽トーナメントの参加者である強者達が、対峙する佐川徳夫が、石橋強に驚愕を隠せなかった。
そんな中、佐川徳夫の目は見逃さなかった。
石橋強は今、猛烈な性的興奮に襲われている。
荒れる息はダメージや体力の消耗によるものではない。口元からは僅かにだが笑みが漏れており、口角が上がるのを抑えている様子だ。
下半身を見れば、何か股間に異物感を覚えているようだった。ファウルカップの存在があるからか外から見ただけでは顕著にはわからないが、勃起をしているのだろう。
そして、石橋は、愛おしい者に対してするかのように、熱い眼差しをこちらに向けていた。
何もかもが見え過ぎる佐川徳夫の目は、石橋の興奮ぶりを十二分に知ってしまった。
「――おぞましいな」
だから、佐川は心の中ではなく、そう口に出した。
戦っている最中に勃起し出したという高野照久の話を聞いた時は、何かの冗談かと思ったが、本当だったとは……今まで、こんな奴には出会ったことはない。これまで倒して来た奴らは、自らの無力さに悔しがるか絶望するか、何が起きたのかわからなく呆けるか、意識を飛ばされて沈黙するかといったところだ。
だが、こいつは違う。
初めて見るパターンだが、いずれにせよこう思う。
不快だから、さっさとぶっ殺そう。
ファウルカップが壊れないかと心配になるくらい、石橋は自分の勃起具合に驚いていた。
驚いているのは一物に対してだけではなく、佐川の技・戦い方にもだ。
ボクシングをしていては決して味わえない彼の攻撃の数々は、行動に支障は出ないが確実に自分にダメージを与えている。
「――素晴らしいな」
だから、石橋は心の中ではなく、そう口に出した。
そうすると、口中に溜まっていた血が少し漏れた。気が付き、残りは飲み込む。甘露に思えた。
呼吸がよく通るようになると、顔面を襲う痛みが鼻を中心に増したように感じる。
痛みは瞬時に快楽になり、更なる衝動が股間から全身に広がる。
最早、全身がペニスになりかけている。
抑えきれない衝動から、石橋はその場で細かなステップを踏み、上半身を揺らす。世界一のサイズであるヘビー級のペニスと化した石橋は、再び突撃の準備に入る。
快楽の海から波飛沫を上げ、怪物が襲いかかる。
(今の攻撃で仕留められなかった以上は、出し惜しみは無しでいくしかないか)
石橋強はボクシング以外の格闘技の知識、それらへの対策は不十分だと事前情報から結論付けていた。だが、フィジカルは常軌を逸している。
ボクシングには無い打撃で早めに片付けることができなかった場合、佐川徳夫は石橋強を仕留める方法をシンプルに二種類の方向性から考えていた。
そして、再び近付いてくる敵の姿を見て、舵を切る方向を決めた。
陰陽トーナメント一回戦第二試合は早くも次の局面に移行する。
2:またの名をサラベリー
「お前にとっても悪い話じゃないと思うんだけどな」
陰陽トーナメントの開催数日前、トーナメント参加者全員がマカオに滞在している中でのことだった。
佐川徳夫を訪ねてきたその男は、同じ陰陽トーナメント参加者の一人、古流武術・富田流の入江文学。
今まで全く面識のなかった古流武術の男が、日本拳法の天才に対しある申し出をしてきたのだった。
「理由が無い」
「こちらにはある。石橋はウチの流派と因縁作っちまったからな。まあ、不肖の弟子の不始末なんだが――それを、効率的にどうにかしようっていうわけだ。
それが、佐川徳夫。あんたの得にもなる。これは、ウィンーウィンの話だぜ」
(こいつのセコンドの川原が川上を連れ出したのも、このためか)
無論、二人の間に面識はなかった。だが、入江のセコンドの川原卓哉は違った。
川原と佐川のセコンド・川上竜は日本柔道の世界では旧知の間柄だった。
日本からの飛行機の中では川原が接触してきて佐川を交え話をしたが、今回は川原が二人だけで話がしたいと川上を連れ出し、その後で入江がやって来た。
入江が持ち出したのは、石橋強の表に出回っていない情報を与えるというもの。
なぜ、そのようなことができるかというと、入江の弟子・佐藤十兵衛と、その友人・高野照久がそれぞれ石橋強と戦ったことがあるからだという。
それも、表には出せない、何でも有りの『喧嘩』により勝敗を決したとも入江は付け加えた。
(そういえば、石橋が合同会見に遅れたのは誰かと戦っていたからと噂で聞いたが、本当だったというのか)
「流派に仇を為した輩が現れたら当然そいつを仕留めなくちゃならんが、今は陰陽トーナメントがあり、そのトーナメントの配置でも互いに離れていてすぐには戦えない。なら、トーナメントで自分より先に仇為した奴と戦う人間の手助けをしてやる――富田流は合理的なんだよ」
佐川は入江の表情を読む。
(苦しい、な)
だが、入江が自分に対して石橋の情報を与えたいというのは本当のようだった。
石橋がトーナメントの中で厄介な存在だと入江は判断している。
早めに敗退、勝ち上がるにしてもダメージを追って貰いたいと思っているのだろう。
だから、一回戦で最初に奴と戦う自分の所にこの話を持ちかけた。
佐川はそう思考する。そして、口を開く。
「――気になるところはあるが、あんたの話を受けよう。
石橋のボクシングでの試合映像は見てきたが、それだけでは足りないと思っていてね」
入江は笑う。そして、携帯電話を取り出し、佐川に差し出す。
「ありがとよ。じゃあ、今から戦った張本人の高野と話してもらう。
まあ、石橋にぶっ飛ばされた上に彼女が不細工という何重にも可哀想な奴だが、きっと役に立ってくれると思うぜ。
十兵衛は石橋に顎を砕かれて入院中で話せないから、十兵衛が石橋戦で得た情報についても高野から聞いてくれ」
「わかった」
電話の向こうからは若い男の声がした。
「もしもし。佐川さんか? 俺は、進藤塾の高野照久だ」
高野照久。名前だけなら聞いたことがある。大晦日のデスバトルに出ていた現役のプロ選手のはずだ。そして進藤塾――空手家、か。
「早速だけど、君は石橋強と戦ったと聞いたが、そもそもどういう状況で?」
「――去年の大晦日、デスバトルの試合会場を出た後だった。あいつに勝負を挑まれたよ。そこで両者合意の上で……まあ、喧嘩だな」
「何だそれ、無茶苦茶だな。石橋の奴、何でそんなことを」
「俺が空手家で蹴りを使うから、俺と戦うことで蹴り技を知りたいとか言っていた」
その後も、高野との話は続いた。
そして入江の言う通り、佐川は対戦相手について様々な情報を得ることができた。
石橋はボクシングの試合と同様、ルールの無い戦いでもまず相手の攻撃を受ける。
ヘビー級の中でも際立って異様なフィジカルを持っている。
ダメージをもらうと勃起した――つまり、痛みで性的興奮を覚える。
ボクシング以外の格闘技の技術に対し知識は無い。
急に相手の動きが手に取るようにわかるような状態になる。高野もその状態になった直後に敗北をした。
自分の置かれている状況を理解して考え得る範囲で最適な対応を取るように努められる。つまり、頭は回る。
ホテルの中で喧嘩を売った佐藤十兵衛は、寝技に対応できない石橋に対し三角絞めで勝負を決めようとした。が、技をかけられたまま共に高所から落ちたり、次にかけられた時には、持ち上げたまま横に振り回しホテルのロビーにあったピアノに叩き付けた。
そうして拘束が解けたところでダメージが抜け切らない佐藤の顎を砕いて勝負は終わったそうだ。
「石橋はボクサーとして文句無く最強。だが、ボクシング以外の格闘技への知識はほぼ無いと言っていい」
「なるほど。ボクシング以外の格闘技の知識は無い、と」
会話の最中、佐川は要所で意図的に高野の言葉を拾い、それを口にする。これは、高野のためではない。狙いは、電話中の自分の前に座っている入江だ。
高野に偽の情報を喋らせ、それを自分にインプットさせる。つまりは、自分を『ハメる』可能性を考慮してのことだ。
だが、会話の最中に入江の反応を見ていても、そのようなことを感じさせる挙動はなかった。
「――だいたいわかったよ。ありがとう」
その後もしばらく会話を続け、佐川は電話を切った。
電話を入江に返すのと同時に、高野が嘘を言ってこなかったことから込み上がった一つの感情をぶつける。
「入江さん。あんたは俺が、石橋より弱いと思っているだろ?」
その言葉からは、静かだが、確実な怒気を感じた。だが、入江は冷静に返す。
「ん……そんなことはないさ。さっきも言ったろ。これは、富田流の……」
佐川は見逃さなかった。
入江が否定の言葉を口にする直前に、頬を緩ませたのを。
『さっきも言ったろ』と言い始めた時、一瞬こちらから目を逸らしたのを。
「あ、もういいや。色々と、トーナメントが始まればわかることだし、お互いに勝ち上がればよりはっきりする」
「ああ、だなっ!」
今度は、入江は笑みを隠さなかった。こいつからしたら、もう目的は達成したし、こちらの心中などお構いなしなのだろうと佐川は思った。
「ま、頑張ろうぜ。それにあれだろ? お前はやっぱ決勝では仲の悪~い兄貴と戦いたいだろうし、そのためにも一回戦は楽に勝ち上がりたいもんな」
もう、佐川は入江の表情を読むようなことはしない。
だが、このままでも癪なので、こう返す。
「入江さんこそ頑張ってくださいよ。一回戦のシラットの櫻井は素性がよくわからないけど、隣から勝ち上がってくるのはあの川口か金隆山だ。この二人と入江さんの体格差を考えたら、やっぱ使うしかないんでは?」
「ん? 何を?」
今度は佐川が笑った。
「――煉獄」
入江から、笑みが消えた。
「いや、あの体格差だと逆に煉獄はダメか。初手をきっちり打ち込むのがあの技の肝だし……」
もう、佐川は入江の表情を読むようなことはしない。
入江は少し溜めてから、返す。
「まあ、見とけよ。お前が上がってきても、煉獄ぶち込んでやるから。
――健闘を祈る」
煉獄。知っている。対策は練ってある。
部屋を出て行く入江の背中を見て、刺してやろうという気持ちが心の奥から湧き上がってくるのを感じた。
いや、まだだ。まずは、今得られた情報を整理し、川上が戻ったら石橋を攻略するプランを教えるか。
誰かに対し順序立てて説明をすることで、自分もそれをより理解できる。
弟子を持って自分は益々強くなっていると佐川は実感している。
そして既に、頭の中で石橋を倒すイメージはほぼ出来上がっていた。
佐川はリングの上で、細かなステップを刻み始めた。
試合の空気が変わるのを多くの人間が察した。
(先生、いよいよ仕掛ける気ですか。石橋を倒すー―おそらく、一番目のプラン……)
佐川のセコンド、川上竜は唾を飲み込む。
この人は、やると言ったことを必ずやる。やれる人なのだ。
世界最強のボクサーを倒す方法。
間違いなくそれを、実行するだろう。
そのために先生は、石橋の懐に飛び込んで行くのだ。
会場内の観客の多くはこれから、先程以上に激しい打ち合いが展開されることを期待していた。
佐川はステップイン。石橋はジャブで迎撃をせんとするも佐川はほんの少し身体を傾けて回避。
そして、石橋が二撃目を放つより前に、佐川は対戦相手の捕獲に成功したのだった。
密着した体勢。石橋の首を両の腕で挟み、両手で後頭部を押さえる。
石橋の頭は自然と下がり、佐川は自らの体重を乗せた。
「ッ!」
その体勢に即座に反応をしたのが、一回戦第四試合を控える川口夢斗陣営だった。
川口夢斗の育ての親にしてキックボクシングの師・川口拳治の眉間に皺が寄るのと同時に、リング内では次の動きが起きる。
掴まれた石橋だったが、そのままでも構わず右の拳を振るう。
佐川の脇腹に拳を突き刺し、拘束を解かせようという狙いだった。
だが、その動きに合わせ、佐川は自らの左足を後ろに引く。
すると、佐川の足の動きに連動して石橋の身体がバランスを崩す。放ったパンチは佐川の脇腹に届くが、不完全な状態で出されたそれでは、ダメージは全くと言っていい程通らなかった。
「首相撲ッ!」
川口夢斗は声を上げる。
それは、自分達親子が磨いてきた技術だった。
夢斗がベルトを持つ『立技』というイベントでは、膠着の原因となることで規制をされている技術だった。
また、多くのキックボクシングのイベントでも、よりアグレッシブな試合展開を生むために排されつつある技術だった。
ファンの間でも、その攻防が続くのを嫌う者がいる一方で、これこそがキックボクシングの醍醐味と言う者もいる技術だった。
キックボクシングの源流――ムエタイの真骨頂とも呼ばれる技術、首相撲だった。
「ああ、上手く持っていけばあの強烈なパンチを封じられる。そしてー―」
佐川は、引いた左足で膝蹴りを放つ。石橋の腹に強烈な一撃が突き刺さった。
石橋にその膝蹴りの痛みが走った直後、二撃目の膝が入れられる。
「組んでの膝蹴りは、日本拳法の試合の決まり手にもある。顔にも、胴にもブチ込んで一本になるがー―この動きは完全に、俺たちがやってきたそれだ」
それだけ言うと、川口拳治は沈痛な面持ちになる。
そして、夢斗に聞こえない声でこう漏らした。
「佐川の奴、ここまで仕上げたというのか……」
この『佐川』は、リング上で戦う佐川徳夫を指しているわけではない。
川口拳治が口にした『佐川』は、かつて同じ道場で汗を流した男。
今は亡き、佐川雅夫を指していた。
「ううっ……ふっ」
さらなる膝蹴りをもらい、石橋はその痛みを存分に味わっていた。
身体の動きをコントロールされながら、打撃を一方的にもらい続ける……確かにこれは新たな快楽だ。
だが、この程度では最早満足はできない。射精もできない。
佐川がこのまま膝蹴りを続けて自分を倒すつもりなら、がっかりだ。
自分の求める最高のセックスは、こんなものではない。
それでも佐川がこのまま続けるというなら俺はー―
佐川の首相撲でのコントロールに対し、石橋は純粋な筋力で抵抗を試みる。
規格外のヘビー級が持つ首と背中の筋肉が全開となり、押さえられている体勢から無理矢理に身体を起こそうとする。
佐川は先程までに比べて石橋を引きつけ続けるのが苦しくなる。だが、構わずに再度膝蹴りを放った。斜め下の角度から脇腹に突き刺すような膝蹴りだった。
「「「オオッ!」」」
多くの観客が声を上げた。ここまで劣勢の石橋が反撃に移れるかもしれないと思ったからだ。
佐川の膝蹴りの後、石橋は佐川の両脇に腕を差し込むことに成功した。
差し込んだ腕は佐川の背中の部分でクラッチ。石橋の方から相手に密着することで、佐川に膝蹴りを出させない。
だが、佐川は冷静だった。
即座に石橋の首に回していた腕を解く。そのまま、脇に差し込まれた石橋の腕の上に自分の腕を置いた。
次に佐川がその体勢のまま腰を落とすと、石橋の身体もそれに続いてしまう。そこで、石橋のクラッチは緩む。
二人の密着状態が先程より解消されると、佐川の腕は再び石橋の首に回った。
(また膝か)
石橋がそう思った瞬間、佐川の膝が打ち込まれ――なかった。
佐川が膝蹴りのために上げたと思った右足は、石橋の足を刈り取った。
それは、柔道でいう大外刈りだった。
この攻防が行われたのはロープ際。陰陽トーナメントのリングはロープを張られた上に四方を金網が覆っているというものだが、それらに邪魔をされることなく佐川の投げは綺麗に決まったのだった。
倒された石橋は起き上がろうとするも、佐川は許さず石橋の上に覆いかぶさる。
そして遂に、佐川が考えていた石橋強を仕留める方法のうちの一つが実行された。
「横四方?」
「いや……」
一回戦第六試合を控える、柔道・関修一郎陣営が、佐川の仕掛けた技について真っ先に声を上げた。
柔道の抑込技の一つ、横四方固。仰向けの相手に対し横向きに乗り、両の腕で首と足を固める技だ。
だが、佐川が見せた動きはそれとは少し違った。
「ほー、そうくるか」
反町隆広はその光景を見てニヤリと笑う。
佐川は両足で石橋の右腕を挟み込みながら固める。そして、右腕を石橋の左腕に絡める。
「総合の技術とか関係なく、ボクサーの両腕を封じるって話なら、アリなんじゃねえの」
反町が言い終えると、それに合わせたかのように、佐川がフリーになっている左の拳を石橋の顔面に叩き込んだ。
当然一発でそれは終わらず、続けて拳が打ち込まれる。
観客がその光景に歓声を上げ始める頃には、リズミカルに拳が石橋の頭を打ち続ける状態になっていた。
日本拳法は、昭和初期から存在する日本の総合格闘技と称されることがある。
その日本拳法の天才・佐川徳夫が見せたそれは、世界で広がる現代の総合格闘技においてある有名選手が見せた必殺の体勢。
寝かせた相手の両腕を、両足と片腕で拘束。
自らは自由に使える腕を一本残し、それで相手の頭部を攻撃する。
これを、その有名選手の名前を冠してこう呼ぶ。
マット・ヒューズ・ポジション
3:笑いながら怒る人
富田流・入江文学の所に意外な訪問者がやって来たのは、陰陽トーナメント出場者達がマカオについて二日ほど経ってのことだった。
入江は考えていた。
十兵衛が石橋に負けて入院したことで、開催前から自分達が有利になるように仕掛けをするのが難しくなっているのは大きい。
厄介な連中をトーナメント前から削るにしても、どう進めるべきか……
いざトーナメントで戦うことになった場合、ゴングの前からアドバンテージを得るにはどうすれば良いのか……
カワタクは陽側の選手を中心に何らかの情報を得てくると単独行動を取っているが、どんな情報が手に入るかは未知数だし、期待もそこまでできない。
そんなことをホテル近くのカフェで考えていた入江に話しかけてきた人物がいた。
「よお、富田流」
陰陽トーナメント出場者。一回戦第五試合で上杉均と戦う予定の、合気道・芝原剛盛だった。
「なッ! ……ッ!」
背後からの突然の接触。気配を全く感じることもできなかった入江は思わず席を立ちそうになる。
「慌てなさんな。襲いに来たわけじゃねえんだかんよ」
芝原は入江の肩をポンと叩き、空いていた椅子に腰をかけた。
「俺に何の用がある」
入江の声と態度に明らかな警戒の色があることを芝原は感じた。
それもそのはず。
芝原剛盛は、日本で武に身を置いている者なら知らぬ者はいない超大物だ。日本全国に道場を持ち、合気道イコール芝原剛盛という認識すら持たれる、まさに生きた伝説とも称されている男だ。
富田流とは、入江文学の父・入江無一が梶原柳剛流の梶原隼人と真剣での勝負をした時の立会人を芝原が務めたことで関わりがある。文学自身も、無一が芝原に対し一目置いていることを会話から感じ取っていた。
だからこそ、警戒をしないはずがない。
「用といっても、軽い報告だよ」
芝原は笑った。入江の顔は険しいままである。
「梶原の『屍』を封じてきた。少なくとも、大会の本番前に誰かが『屍』の餌食になることはない。梶原柳剛流と一番因縁のある富田流には教えとこうと思ってな」
コーヒーの残ったカップに手を伸ばした入江の手が止まる。
そして、芝原の顔をグッと見据え、声を上げた。
「あんたが屍を知っているのはわかる。だが、なんでそんなことをわざわざした?」
入江は知っている。芝原剛盛は陰陽トーナメント主催の田島の定義に従えば『陽』に分類されている。
だがそれは表向きの話。この男は『陰』側にも通ずる。
現代日本において、真剣同士の勝負に立ち会うような男だ。それ以外にも、この男の表には出せないような話を入江も『陰』の者としていくつも知っている。
それならば、なぜ。
梶原を泳がせておけば、自分は労せずトーナメント前に邪魔な存在を排除できるのではないか。自分だけ屍を警戒していれば良いはずだ。
少なくとも自分はそうすると、入江は思った。
「オイラはこのトーナメントの参加者で一番現役生活が長い。色々経験をしてきた。
お前ら小僧っ子共よりずっとな」
「年寄りのそういう話は一番嫌われるぜ」
入江に口を挟まれても、芝原は構わず続ける。
「――そんなオイラにとっても、この陰陽トーナメントは今まで生きてきた中で最高の舞台だ。おそらく、これ以上の場所はもう、この先の人生じゃ用意はされないだろうよ。
だから……」
芝原は立ち上がる。
「田島に協力するってわけじゃないが、この舞台を崩させはしねえのさ。
好き勝手はさせねえよ。
それによ、田島の野郎もまだ詰めが甘いから、説教がてら助言もしてやるつもりさ」
そう言って芝原は去って行った。
入江は芝原がこの話をわざわざ自分にしに来た真意に気付いた。
そして、何も返せないままで芝原を見送ってしまったこと自分の状況を客観視して、思わず笑いが出そうになった。
「あのジジイ、俺に釘を刺しに来やがったのか」
芝原の「好き勝手はさせない」は、自分に対して言ってもいたのだ。
『陰』側の人間に、裏で他の参加者を潰すような真似をさせない。それこそ、梶原が『屍』を使おうとするのと同じように。
『陽』側の視点でいう不正に当たる行為をしようとしても、あの芝原剛盛が目を光らせているというプレッシャーは大きい。
そもそも、芝原が自身の人生でどうこうなどという言葉で飾り立てながら、不正を取り締まろうというのが本心なのかもわからない。
当然、芝原本人が不正をしないという保証もない。
梶原の屍を封じたというのもブラフなのかもしれない。
または、梶原と手を組んだ可能性もゼロではない。
入江は歯噛みする。考えれば考えるほど不安要素が浮かんでくる。
だが確実なのは、芝原はまだ動く気でいることだ。手駒不足なこちらは、ますます不利になる。
やはり父さんが一目置いていた芝原剛盛は、強い。
大会最高齢だから。最も小兵だから。そんなことは全く問題にならない。
トーナメント前の行動の更なる方向転換と、芝原剛盛への警戒を強めざるを得なくなった入江はカフェを後にする。川原と合流し、改めて話し合うことに決めたのだった。
今はどんな手でも、やれることはやらなければいけない。
入江と芝原が言葉を交わしたその日の夜、陰陽トーナメントに新たな規定が設けられた。
『選手及びその関係者が試合外で正当な理由なく暴行を行った場合、不戦敗とする』
新規定の発表がされる前日、デビル塚山は大会関係者が滞在するホテルの近くにあるレストランにいた。
派手な内装の個室。豪勢な中華料理の数々を前にしているが、塚山の箸はあまり進んでいない。
向かいの席には見知った顔の男と、ほぼ初対面の男の二人が座っている。
「まずは反町に話だけでも聞いてもらおうと思ったが、ダメでしたよ。大和プロレスの連中ががっちりガードしていやがった。あれは、このトーナメントが終わったら本格復帰させる気でしょうね。大和に」
そう言いながら料理に手を伸ばしたのが、肥満体型の見知った顔の男。
コングスリーパー社の社長・中島だった。元選手にして格闘技イベント会社の社長を務めるこの男は、業界内でもやり手と言われている。大晦日の金田保対佐藤十兵衛によるデスバトルを仕掛けたのは記憶に新しく、塚山のボクシングから総合格闘技への転向にも一枚噛んでおり、一部の関係者からは仕事の早さ・上手さと共にダーティさも持ち合わせているとも評されている。
マカオには選手とその関係者より少し遅れてやって来ており、飛行機から降りたその足で陰陽トーナメント参加者と接触を図っていたと今も話をしていた。
「まあ、大和プロレスにはあの生野勘助がいますからね。車椅子に乗ってはいますが興行でのアレコレに関しちゃ百戦錬磨で、今も健在でしょう。
下手に反町に手を出して生野を怒らせるのは、ウチとしてもちょっと……」
中島の隣に座る、ほぼ初対面の男が口を開く。穏やかな口調だった。
痩せ気味で背の低い中年の男で、肥満体型な元格闘家の中島の隣にいるせいもあり余計に小さく見える。だが、その顔付きは決して険しくしている風には見えないのに、得も言われぬ迫力のようなものを塚山に感じさせた。
男の名は槌屋。コングスリーパー社の役員で、塚山にとってはこれまで遠目から一度か二度見たことがあるという程度の人物だった。
「社長も、槌屋さんも、そろそろ本題に入ってくれやしませんかね」
反町でダメならカブトはもっとダメだ。みたいな話を中島と槌屋が続けようとしていたので、塚山はそれに割って入った。
そもそも、こうして三人で食事をすることになったのも、中島から大切な話があると言われて呼び出されからだ。
「ああ、すいませんでしたね。塚山さん、まずはこれを見てもらえますか」
槌屋は数冊の雑誌を、ページを開いた状態にして差し出した。
その多くが格闘技の専門誌で、中には写真週刊誌の類もあった。いずれの記事にも中島の写真が載っている。
『陰陽トーナメント出場者をうちのリングにも上げたい』『石橋強を間違いなく参戦させてみせる』『石橋はボクシングよりも総合の方が輝く。その場所はフォルテッシモしかない』などの中島の発言が見出しとして使われていた。
「――俺に石橋を口説けと? コングスリーパーと契約をするように――」
話の流れを推測した塚山が怪訝そうな面持ちで聞くと、槌屋がニヤリと笑う。
「ええ、それもいいとは思いますけどね。だが、ウチの狙いはそこではない」
「それってどういう……なっ、これは?」
槌屋が差し出した雑誌の隅に、思いもよらぬ文章を見つけた。
『まだ練習を始めて日も浅いですが、石橋の総合格闘技への適性は間違いなくあります。
悔しいですが、自分が転向した時よりもずっと期待できますよ。陰陽トーナメントの次はフォルテッシモに出て欲しいと思っていますし、その時は力になりたい。
(中島社長が石橋獲得を宣言したことについて)もちろん、賛同しますよ。俺も出来ることは何でも協力するつもりです』
それは、陰陽トーナメント出場を控える石橋の特集記事の最後、セコンドのデビル塚山へのインタビュー記事だった。このようなインタビュー、塚山本人は受けた覚えがない。
塚山が困惑の色を濃くすると、中島が雑誌を取り上げ、言った。
「これくらいお膳立てをしておけば、『フォルテッシモで万全な状態で活躍してもらうためにも、大怪我をする前に早めにタオルを投入したんだろう』と多くの人間に推測してもらえる。
塚山、お前が工藤戦で早めにタオルを投げてもな」
中島が言い終えると、隣の槌屋が茶に手を伸ばしながら、先程までより強めの口調で中島の言葉に付け加えた。
「だから、頼みますよ」
それは、一言だけだったが、とてつもない重みを感じた。
塚山は特に言葉を返さないが、頭の中で冷静に状況を整理する。
コングスリーパー社のバックには、日本最大の暴力団・板垣組がいる。
板垣組はこの陰陽トーナメントに工藤優作という喧嘩屋、忍術の梶原を選手として送り込んでいる。
石橋強のセコンドのデビル塚山はコングスリーパー社と契約をしている選手。
工藤と梶原は第一試合、石橋強は第二試合に出場し、互いに勝てば二回戦で当たる。
板垣組の選手が有利に勝ち進めるよう、塚山も協力をしろという話だ。
「社長、塚山さんはわかってくれてるんですよね?」
「ええ、当然ですよ。彼もこの世界は長い。板垣組さんのために、動きます」
「それなら良かった。仏頂面で、納得して頂けてないのかと不安になりました。
ウチとしてもそういうのは困るんでね」
槌屋はコングスリーパー社の役員らしいが、実態としては板垣組の人間だ。
先程からこの男が口にしている「ウチ」とは、コングスリーパー社のことではない。板垣組のことを言っている。
「板垣組の選手を勝たせたいのはわかってますよ。ただ、その狙い通りに事を運んでも、コングスリーパーは叩かれるんじゃないですか。自分達の興行に石橋を万全な状態で出すために、早めにタオルを投げて陰陽トーナメントに水を差した、と」
塚山の意見に中島は苛立ちの表情を見せた。
「あのな――」
「ウチはそこを問題にしてはいません」
中島の言葉を遮り、槌屋が言い切った。
「フォルテッシモより、工藤が陰陽で優勝して田島を倒す方がずっと効率良く稼げる。
そう、上は判断しています」
三人が座る席に沈黙が訪れた。
その沈黙を破るように、椅子を引く音がレストランに響く。
「では社長、後は頼みます。私はこれから別の打ち合わせがあるんで、ここで失礼しますよ」
「ああ、吉田さんの所ですか。吉田さんにも澤さんにも、宜しくお伝えください」
槌屋は立ち上がり、これから板垣組だけの打ち合わせに足を運ぶという。
この男が本来所属するコミュニティに向かうのである。
「槌屋さん、ひとついいですか」
席から離れようとする槌屋を塚山が呼び止めた。槌屋は足を止め、塚山の方を見る。
「コングスリーパー社と契約をしている選手なら、第四試合の川口もそうでしょう。
あいつらにも協力してもらうんですか?」
塚山の質問に槌屋は一瞬笑みを浮かべた。そして、静かに口を開いた。
「――素人が口を出してんじゃねーよ」
席に座るのは二人だけになる。沈黙は続いた。
「まったく、ヒヤヒヤさせるなよ」
槌屋が席を外したことで、中島は姿勢を崩し、先程までより砕けた雰囲気になる。
「納得が行かないのは俺だって同じだよ。だが、お前だってわかってるだろ。
結局、俺たちはあいつらには逆らえない」
酒を口に運ぶ中島。塚山は相変わらず箸が進まない。
「田島の言葉を借りれば、『陰』側の人間の力がなければ興行は成り立たない。それくらい俺だってわかりますよ」
「だろう? お前がボクシングに限界を感じて総合に転向するとなった時、騒いだお前のタニマチたちを黙らせたのは誰だ? 板垣組だろう」
総合への転向を働きかけた側のあんたが言うのか、と塚山は苦笑する。だが、事実ではあった。
「フォルテッシモやフェノメノン、コングスリーパーの興行での話なら、俺ももう少し強く出られるんだけどな。実際、それで俺を煙たがってる人間も板垣組にはいる。
だが、今回はダメだ。完全に、工藤を使った大きなシノギのために板垣組は全力だ。
邪魔するようなら、覚悟しておけ。いや、既に覚悟をしてどうにかなる問題ではなくなっている」
中島は決定的な言葉を使わないが、今回の件で板垣組の意向通りに動かないと『消される』という可能性もあるのだろう。
塚山も、それくらい充分に察していた。
「工藤……板垣組からは二人出ているじゃないですか。梶原とかいう忍術の。あいつのことはいいんですか」
「いいか、絶対に他に漏らすなよ。梶原本人は知らないだろうが、板垣組は工藤を勝たせるつもりでいる。梶原のセコンドの澤も工藤の勝ちのために動いていて、梶原の情報は常に筒抜けだ」
実際、中島も元競技者であることを買われ梶原の使う『金剛』への対策に協力をしていた。それだけ、板垣組の本気度を実感しているのだ。
「だったら、石橋本人をここに呼んで、完全に片八百長になるように仕込んじまえば良かった気もするけどな」
「お前、わかってて言ってるだろ。あいつは現役格闘家を襲撃するような奴だぞ。いくらヤクザが脅してくるとはいえ、そんな話に乗ると思うか?」
もちろん塚山は理解した上で言っていた。襲撃をされた本人でもあるからわかっている。石橋はヤクザに屈するような男ではない。
「だが、そういう働きかけが難しいのは、石橋に限った話じゃないんだ。これは、お前がさっき槌屋さんにした質問で、川口にも話をするのかってとこにもつながるんだが……」
「この陰陽トーナメントのバックの存在?」
塚山はそう口にした。自分が石橋のセコンドとしてこのトーナメントに関わることになってから、その存在については肌で感じていたからだ。
考えてみれば当然だ。マカオという場所での、実質制限の無いルールによる過激な格闘技の大会。田島が賞金の大半を個人で出すとはいえ、莫大な金が動く話だ。
田島の言葉を借りれば、『陰』側の人間の力がなければ興行は成り立たない。
先程自分が言った言葉を、頭の中で繰り返す。
この陰陽トーナメントも、『陰』側の人間が当然支えている。それも、板垣組よりも強大な力を持った誰かが。
「そうだ。選手が大会主催者の田島に『板垣組から脅迫を受けた』と報告でもしたら、板垣組は排除されるだろう。そうなったら、板垣組の息がかかった選手の失格も有り得る。
だから、裏で動くのはリスクがあるし、確実な所にだけ仕掛けるんだよ」
俺はその確実な所なのか。と塚山は喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「まあ、何にせよお前が石橋に後でぶちのめされようが、工藤戦のことはよろしく頼むぞ。
まずは一回戦の佐川戦を乗り切らなきゃだが、石橋ならいけるだろ?」
皿の多くを空にした中島だったが、まだ箸は止まらないでいた。
塚山はその食欲に呆れつつ、中島の言葉に対して今度は強く口に出した。
「ああ、勝つさ。石橋強は最強だからな」
だから、工藤とかいう喧嘩屋にも、田島にも勝つぜ。
と続けたかったが、ここでこれ以上ゴネて中島と言い争うのも嫌だと思い、止めた。
そして、席を立ち石橋の所へ戻ることにする。今頃あいつは、コングスリーパーの伝手を使って集めた佐川徳夫の過去の試合映像を、目を輝かせて観ていることだろう。
石橋強は最強。
デビル塚山は、そう信じている。
石橋は自分のことをセコンドとして全く信用していないようだが、自分は信じている。
自分のことを侮蔑の言葉を浴びせた後に殴り倒し、自分のことを競技者扱いせずに見下しているあの男を、信じている。
石橋は自分のことを認めてはいないだろうが、自分は同じ競技者として、信じている。
石橋がボクシングの最強を証明してくれると、信じている。
佐藤十兵衛の工作により石橋のセコンドを務めることになったデビル塚山だったが、佐藤の目論見が失敗に終わってなお石橋の所にいる。
塚山自身もなぜそうなっているのかは理解できていない部分がある。石橋に対しては死ぬほどムカつくと思っているのに、だ。
ただ一つ確実なのは、自分が最強だと信じている男が、自分が身を置いていた格闘技の最強を証明する姿を見てみたいという気持ちがあるということだった。
そんな塚山の胸中を知らず、中島は去り際の彼に念を押した。
「塚山。無事に日本に帰りたきゃ、従えよ」
塚山はあまり得意ではない笑顔を作り、感情を押し殺して返す。
「任せてくださいよ。従います」
従う気は無かった。
石橋を優勝させる。その為には何ができる。
死ぬほどムカつく男のために、デビル塚山は考える。
4:強しっかりしなさい
佐川の拳が、幾度も、幾度も、石橋の顔面に突き刺さる。
――パウンド。両腕を拘束された石橋は抵抗できず、ひたすらに攻撃を許し続ける。
会場は大いに沸いた。
絶対有利の体勢になった佐川徳夫の一方的な攻撃。
ここからの逆転は無理。このまま試合は決まるだろう。観客の多くがそう思い始める。
(さて、後は彼らが動いてくれるかどうかだな)
佐川はパウンドを打ち込みながら思考する。
陰陽トーナメントに選手本人のギブアップによる決着は無い。リングの外にいるジャッジが二人共勝負は決まったと裁定を下すか、セコンドのタオル投入により決着をする。
このままパウンドを続ければ、おそらく先に勝負が決まったと判断をするのはジャッジだろう。このトーナメントに参加する選手達のセコンドも、相当に覚悟が決まっているはずだから、タオルは最後まで投げないはずだ。
ならばこのまま、パウンドを続ける。
さっきは出し惜しみはしないと思っていたが、この状態に持っていけたなら『アレ』を出す必要はない。『アレ』はこの後、金隆山あたりと戦うことになった時まで使うのは待とう。
このまま勝つ。このまま打ち続け、試合の決着を待つことにする。
「石橋ッ!」
この体勢は不味い。
デビル塚山は金網を掴み狼狽する。
石橋が負けるとすれば寝かされた時だとは考えていたが、佐川がここまでやるとは想定外だった。ここまで、現代の総合格闘技の動きができるとは……
マット・ヒューズ・ポジション……塚山はボクシングから総合格闘技に転向し様々な総合の技術を学んできたが、この状態になったら脱出はほぼ無理だと練習の中で実感していた。
後悔が襲う。
もっと、セコンドとして、コミュニケーションが取れていたら……石橋はトーナメント当日まで、コングスリーパー社が用意したトーナメント参加選手達の映像を見られるだけ見ていた。だが、塚山が掴みや寝技への最低限の対策を教えると申し出ても全く乗ってはこなかった。直接的な言葉は使わなかったが、自分が格闘家だと認めていない奴から教わることなど無いという心持ちだったに違いない。
石橋はトーナメント参戦が決まった後に総合格闘技経験者をセコンドとして欲していたことから、ボクシングに無い技術への対策やその習得を考えていたのだろう。
だがデビル塚山という、徹底的に見下し、侮辱もした存在がセコンドに就いたことでそのような気は失せてしまったのかもしれない。
わかっていた。俺より遥かに強い石橋が、俺がたとえ石橋に無い何かを持っていたとして、頼ろうとは思っていなかった。
思っていなかった。だが、俺はセコンドだ。見下されていようが、侮辱されようが、自分自身悔しくてたまらないが、今は石橋が勝つために全力を尽くそうとは思っている。
自分の中でも未だに解釈しきれていない部分があるが、思っている。
そして、それなのに何もできない自分自身に苛立ち、また金網を掴んで揺すり、どうしようもない気持ちになる。
その刹那だった。
「――――金網」
揺らしたことで多少波を打った金網の動きを見て、塚山は一瞬冷静になる。
塚山の思考は回転する。一か八かだが、できるかもしれない。
それは極めて単純な指示になる。実行したとして効果は曖昧である。
石橋が自分の言葉に従う可能性がそもそも低いだろう。
だが俺は石橋強のセコンドだ。勝利のための最善は尽くす。
何かを教えてやるなどという関係にはなれていないが、声を張り上げてやるくらいはできる。
佐川が気付く可能性もあるから、まずは『何を』を排除した、たった二文字だけを発することにした。
そのために、塚山は息を吸う――
さっ、最高だっ!
さっ、最高過ぎる!
石橋はパウンドを打たれながら、射精寸前の快楽を味わっていた。
両腕を拘束され、ひたすらに固いものをブチ込まれ続ける……これはまるで、俺と義母さんがした初めてのセックスではないか!
脱出、抵抗を許さないピストン運動……義母さんが溺れていた快楽を今、自分も享受しているのだ!
陰陽トーナメントに参加をしてよかった……幼い頃の甘美な体験を、違う立場から再びしているなんて……
もう、このまま果てても構わな……
(いや、まだだろう?)
一瞬、脳内に溢れていた快楽のスパークの中に、ノイズが混じった。
ああ、アイツか。
極限まで痛みを感じると降りてくるアイツは、快楽の権化であるにも関わらず、冷静だ。
そして、更なる先の快楽のために語りかけてくる。
しかしアイツの声は、その一言で終わった。
今この時も佐川が自分の顔面を殴り続けているが、石橋はふと思う。
一言で終わっただけなら、まだここは絶頂の時ではないのだろう。
アイツの言うことなら信じてみるか。
なぜならアイツとは、俺自身のことなのだから。
少し残念な気もするが、脱出しようと思った。
だが、それは容易ではないとすぐに理解する。石橋は自分が仕掛けられているのはマット・ヒューズ・ポジションという脱出が極めて困難な総合格闘技の技術だとは知らなかったが、その困難さを実感している。
拘束をされていない下半身をよじったり、跳ねさせたりして動かすも、結局は上半身をしっかりと抑えられているから無駄な足掻きとなる。
脚をバタつかせても金網に当たり空しく音を立てるだけだった。
こういう時、アイツならなんと言ってくれるだろうか?
そう思った瞬間、声が聞こえた。
脳内に語りかけてくる「アイツ」ではない。
リングの外から声を張り上げた、「あいつ」だった。
「蹴れっ!」
声が聞こえた直後、石橋はその指示の通り、近くにあった金網を思いっ切り蹴っていた。
声の主の意図を、一瞬で理解をしたつもりだ。
ズガシャッ!
という大きな音と共に、その反動で石橋の巨体が大きく跳ねた。
これにより、石橋を拘束していた佐川の体勢が崩れる。パウンドのために拳を振り上げていたせいもあり、両の手で体勢維持のための動きができなかったことも佐川にとって不運だった。
まずは佐川の脚による拘束が緩み、石橋は腕を引き抜く。
抜けた腕で佐川の股間に手を伸ばす。狙いは手近なところ……金的。
「チッ」
佐川はマット・ヒューズ・ポジションを完全に解き、転がるようにして石橋から退避。
そしてリングの中央付近で、立ち上がった。
「――チッ」
次いで、二度目の舌打ち。
目線の先には、同じく立ち上がり、ファイティングポーズを取る石橋強の姿があったからだ。
顔面を血まみれにしながら、石橋強はやはり笑っていた。
笑みは、快楽の余韻によるものではない。
コロポックルの声を聞き、その声に従ったことで窮地を脱した自身を笑っていた。
リングの外にいるそいつに視線を送ったり、言葉をかけたりすることはない。
だが、少しだけ、ほんの少しだけ、思った。
セコンドとしては、評価してやろうじゃないか。
石橋は更にニヤつく。
それに気付いたのか、佐川が苦々しい顔をしているのが石橋には見えた。
どうやら佐川は前に出ようという様子。
再び組み、寝技に持ち込もうとしているのかは分からないが、少なくとも石橋としてはそれをさせてはいけないと思う。
だから、戦い方を変える。
それはボクシングの枠から出るものではない。
だが石橋は、それでボクシング以外の格闘技を封じられると確信している。
ここから石橋が見せた動きに、試合を観戦する強者達の多くが、改めてこのボクサーの厄介さを思い知らされることになる。
佐川は前に出ようとする。狙いは再びの寝技の展開。それも、先程のように金網際ではなく、リングの中央だ。
石橋はボクシング以外の格闘技の技術を身に付けていない。
金網を利用したマグレを今度は起こさせない。
そのために石橋に再び近付き、倒す。
先程よりは警戒をされるだろうが、打撃を織り交ぜてのテイクダウンを石橋は防ぐことができる可能性は低い。
石橋に接近、オーソドックスの構えでの左の胴突きを放つ。
さあ、来い。
右は拳を開いた――開掌拳で石橋のカウンターパンチを捕らえる準備をしている。そこから、再び掴んでテイクダウンを――
できなかった。
石橋はカウンターを出さなかった。僅かな距離をバックステップして回避し胴突きをもらわなかったのだ。
そして、左に回るサイドステップを踏む。その動作と同時に、軽めの左ジャブを放った。
佐川は回避。体勢を立て直し、追撃をさせまいと警戒をするが、石橋はまた回る。
脇をしっかり固め、両腕で壁を形成し、回る。
その壁の隙間から佐川のことをしっかりと見据え、回る。
ヘビー級の巨体でありながら、軽量級ボクサーよりも軽やかなステップで、回る。
佐川が石橋の腹に狙いを定めての前蹴りを放つも、バックステップで石橋は回避。
そして佐川が蹴った脚を下ろす動作に合わせ接近し、飛び込み気味の左ジャブ。それも二発。
顔への被弾を右腕でガードした佐川は、斜め下から振り上げる横面打ちを繰り出す。
石橋はダッキングで回避しつつ、お返しとばかりに左のボディアッパーを放つ。
この時、佐川の左脇腹は大きく空いており、ボディアッパーが突き刺さるかと思われた。
「「「オオォォォォォォ!」」」
「さすが、先生だ……」
観客は佐川の動きに沸き、セコンドの川上は安堵した。
佐川は左膝を上げて石橋の拳を迎撃していた。ボクシングであれば反則となる防御方法である。
石橋は再びのバックステップで打ち合いを始める前と同じ距離に戻っていた。
(石橋め。ここに来て、戦い方を変えやがった)
佐川は無理に追うことはしない。
(これは思っていた以上に、キツいかもな)
佐川はこの試合の中で、初めて明確な痛みと向き合っていた。
その痛みは、石橋の左ジャブ二発を防いだ右の前腕に渦巻いていた。
行動に支障は出ないだろうが、ヘビー級ボクサーのジャブは防いでもダメージは有る。
当たり前のことだとは思っていたが、石橋を捕らえられずにまたこのような展開が続くのは良くないと判断をする。
寝技に持ち込まんとする佐川に対し、迎え撃つ石橋は距離を保ちつつの――
(アウトボクシング。あのビデオで見ていたのと、同じか)
佐川の頭に浮かんだのは、陰陽トーナメント参戦が決まってからかき集めた石橋のこれまでの試合映像の中で、最も印象に残っていたある試合だった。
そして、石橋強との戦いに備えていた他の陰陽トーナメント出場者達も、同様の試合を思い起こした。
佐川が、無双と呼ばれた日本拳法の王者・夏木陽一に圧勝したことで世にその強さを知らしめたように、石橋もまた、ある一つの試合で世に石橋強の恐ろしさを振りまいたことがあったのだ。
それは、ウォーレン・ウォーカーが最強の王者としてボクシング界に君臨する少し前のことである。
ボクシングの魅力は、豪快な殴り合いやノックアウトではなく、打たれずに打つ華麗なテクニックであると、メディアや専門家がこぞって発言をし始めたことがあった。
それに流されウォーレンを筆頭にアウトボクサー達が人気選手として台頭し始める中、その拳を振り回しKOの山を築き、やはりKOこそがボクシングの魅力であると試合で体現をする反逆者がいた。
当時のWBOヘビー級世界第十位。
イギリス出身、シド・ベイカントという名のインファイト至上主義のボクサーである。
当時の新たな流れが肌に合わないファンは一定以上いて、シドは彼らにとって期待の星であった。そこに目を付けたプロモーターは、シドの世界前哨戦として石橋戦を決めた。
石橋はその時既に、圧倒的な強さを持ちながらジム関係者やプロモーターとろくにコミュニケーションを取れず大きな後ろ盾を持たない扱いにくい選手になっていた。
「誰がこの嫌われ者を倒すんだ?」という期待もあった中で、プロモーターはその嫌われ者をシドに退治させることで世界戦の弾みにしようと目論んだのだ。
だが、試合は最終ラウンドでの石橋強のKO勝ちに終わった。
いつものように石橋は相手に打たせる傍から見れば異様な様子見をしつつ試合を進めるかと思いきや、違った。
最初のラウンドから最後のラウンドまで、シドの周囲を回り続け、絶妙なタイミングで細かなジャブを打ち続けた。シドの豪腕が石橋にクリーンヒットすることは一度も無かった。
最後は、シドが最終ラウンドで破れかぶれになり突っ込んできた所を、下がりながらのテンプルへの左フックで意識をふっ飛ばし試合を終わらせてしまった。
そして、採点をした三人のジャッジペーパーを見れば、三人ともが一ラウンドから九ラウンドまでフルマークで石橋が取っていたのだった。
――そう。
最強ボクサー・石橋強は、アウトボクシングをしても強かった。
余談だが、この試合により石橋はボクシング界の流れに乗り人気を得られるかと思いきや、これまで以上に疎まれる存在になってしまう。
石橋もこのシド戦で大衆が今求めるボクシングのスタイルで戦えることをアピールしようという狙いがあったのだが、皮肉なことにその完璧な強さから人気選手達とはより戦わせたくないと判断されてしまったのだ。
(だが、甘いな。俺はあのボクサーとは違う)
佐川も攻め方を変えることにした。
このまま相手にアウトボクシングを続けられて自分がそれを追うだけでは、捕獲には手間取るし、無駄にダメージを受ける。
だから、変える。
この試合ではもう使わないと思っていた『アレ』を、やはり使うことにした。
両手を、開掌拳をやめて握拳に。
立ち方においては、やや前傾姿勢でボクサーのように構える。
前後のステップを容易にし、細かな出入りをできるようにする構えだ。
そして、アウトボクシングに徹する石橋に向かっていく。
佐川が放ったのは、左の横打ち。狙いは石橋のこめかみだったが、石橋はL字にした右腕でしっかりとガードをした。
「――ッ!」
だが、打撃を受けた右前腕を、これまでとは異質な痛みが襲う。
その痛みで一瞬反応が遅れた石橋に、佐川は右の直突きを飛ばした。狙いは石橋の顔面ど真ん中。
石橋は両の腕で壁を作り、ガードする。被弾したのは右の手首付近だったが、やはり通常の打撃とは違う痛みが襲った。
突然起きた出来事に石橋は大きめのバックステップで佐川からこれまで以上に距離を取るが、佐川はジリジリとそれを追う。
試合の流れがまた変わるのを佐川は感じ取った。
『アレ』の効果は充分だ。
今度は、佐川が笑みを浮かべる。
5:牙を突き立てろ
石橋の反応がおかしい。佐川の放った何ということはない打撃に対して、ガードしていたにも関わらず命中後に一瞬だが硬直を見せた。
その後、距離の取り方も変わった。おそらく、あの佐川の何ということはない打撃に対し警戒を強めてのことだと上杉均は考えた。
「中高一本拳だ」
そして、佐川徳夫が使ったであろう手の名前を口に出した。
「そうか。拳の形を変えたんだ。貫手や一本貫手と違って、中高一本拳ならオープンフィンガーグローブを付けていたらパッと見ではわかり難い」
「ああ、試合を見ている俺たちはもちろん、佐川と試合をしている石橋でもすぐには気付けないかもしれん」
上杉の言葉に橋口は即座に反応する。
中高一本拳――握りこぶしを作る上で、中指だけを突出させて握り込み、中指の第二関節のみを打突部位とする『拳』である。
「――佐川徳夫の父、佐川雅夫は元々空手をやっていたからな。使えても不思議ではない」
上杉は腕を組み、顔をしかめた。
佐川雅夫のことはよく知っている間柄だ。だが、それをここでこれ以上口にはしない。
今は、佐川徳夫がより厄介な存在になった事実に、歯噛みをした。
(どうだ石橋。ボクシングにはない、拳撃だろう)
佐川の拳は上杉の予想通り、中高一本拳を形作っていた。
そしてそれを、石橋の身体に突き立てている。
石橋強対策の第二の矢――中高一本拳による攻撃は、既に充分に効果が現れており石橋が取っていたアウトボクシングのリズムを崩しつつあった。
佐川は先程までより大胆に距離を詰め、深くは踏み込まずに左の拳を飛ばす。
石橋はバックステップで距離を取るが、カウンターを飛ばしては来なかった。
佐川は続けざまに左の拳をダブルで打つ。
今度は石橋は距離を取らず、左のフックを佐川の二発目に合わせて放つが、佐川はその左フックに右フックをかぶせた。
右フックは石橋のこめかみ付近に当たる。
やはりその一撃は、中高一本拳によるものだった。
「ぐっうぅ……」
佐川の拳を受け、石橋はこれまでに感じたことのない痛みを味わっていた。
飛んで来るのは普通のパンチのはず。だが、痛みは普通ではない。これまでと変わっている。
面による衝撃というよりは、一点に破壊力が集中した、突き刺されたような痛み……
(握り拳の形が変わった? 空手? 日本拳法にもそういうやり方がある?)
佐川が放つ拳の正体を快楽というノイズに邪魔されながらも予想するが、同時に対策も考える。
(この形状を最大限活かすのは、痛みを与えることか? いや、破壊だ!)
おそらく佐川は一点を刺すようなこのパンチで、人体の急所を狙ってくる。空手や拳法の類にはそのような攻め方があったはずだ。自分の打たれ強さへの対策として、急所への一点攻撃を選んだのか。
それは甘やかな快楽であることは間違いないが、トーナメントはまだ一回戦。
ここで体の一部を失うようなことは、破壊されるようなことは、許されない。
石橋がそう思った瞬間、またも佐川の拳が顔面付近に飛んできた。まっすぐに飛んでくるストレート――一瞬だが、中指が突出していることが見て取れた。
そのストレートを、上体を前に倒し回避。ダッキングだ。
(受けずに回避を重視! 結果として佐川の手数が増えるなら、こっちがカウンターをぶち込める機会も増える!)
石橋は方針を決定。拳をしっかりと握る……こちらは全ての指をちゃんと握り込む、小細工無しの拳だ。
(トーナメントは一日四試合。後のことを考えれば指を完全に立てない拳も正解ではあるか)
佐川の出す拳の変化に気付いたトーナメント参加者は上杉均だけではない。
シラット・櫻井裕章。この男の頭の中に、中高一本拳の知識は存在していた。それは、前向性健忘になる前――沖縄での師匠との記憶と共にある。
櫻井は佐川の取った選択に理解を示している。
中高一本拳ではなく、指を真っ直ぐに立てた貫手ならより深く突き刺さり確実な破壊が見込める。
だが、その分指を負傷する可能性も高まる。ボクサーの石橋が相手なら、仮に目を狙った場合、その軌道を見切られることがあるだろう。そして額で受け止められ、更に負傷の可能性はグッと上がってしまう。
複数の試合を一日でこなすトーナメントに臨むなら、相手を破壊するにしても少しでもリスクを減らす手を取ることは間違っていない、と櫻井は思う。
(だが……)
その中で、疑念も浮かんでいた。
「五味さんはどう思います?」
召琳寺拳法・三代川祐介の陣営も、佐川が出し始めた新たな攻撃の正体に気付いていた。
三代川は佐川の意図について、セコンドとは別に同行している五味勘助に聞く。
「バケモノみたいな打たれ強さの相手なら、やるさ。俺らだって石橋に対し剛法で勝負するなら、同じ攻め方をするだろ」
五味の返答に三代川は無言で頷く。
召琳寺拳法の打撃――剛法――も、対戦相手の急所への攻撃を得意としている。三代川陣営でも、対峙する陰陽トーナメント出場者の内、フィジカルで大きく上回っている選手に対してはこの急所への攻撃は大きな武器になると考えていた。
「しかし、このやり方は――」
五味も櫻井同様、佐川の攻め方に違和感を覚えていた。
(鎖骨っ!)
ロープ際に追い詰められていた石橋は、佐川の中高一本拳が鎖骨を狙っていると直感し、素早いフットワークで佐川の横に回り、攻撃を避けた。続けざまにジャブを放ちながらのステップで逆に佐川をロープ際に追い詰めるように回り込むが、今度は佐川の振り向きながらの中段足刀蹴りが襲ってきた。
(やるぅ! だが、今の俺にそれは当たらない!)
蹴りは簡単に回避できた。
今は互いにスピーディなステップと打撃を繰り出し合っている。だがその中で、石橋は佐川の攻撃がやや単調に思えてきた。拳の握りを変え、こちらの急所を狙い撃っての打撃が増えてきたからなのだろうと石橋は考える。
与えてくれる痛みは極上だが、その狙い過ぎの打撃の連続に、石橋は少し萎えかける。
リング中央まで下がった石橋を佐川が追う。これまでより更に大胆なステップインで、左の拳を放ってきた。
中段から突き上げるような一撃。その拳はやはり中高一本拳――その狙いは――
(目だろっ!)
石橋はスウェーバックでその拳をまたも回避。
もはや上体を動かしただけ。佐川の二の矢を石橋は攻略しつつあるように思えた。
「空君は玉拳を学び、空手以外の技を身に着けました」
次にリングで起こった光景を見て、里見賢治はセコンドであり玉拳の門下生でもある山本空に諭すように声をかけた。
この男は、櫻井裕章と五味勘助が抱いていた佐川の攻め方への疑念に対する、答えを持っていた。
「なので、流派こそ違いますが、佐川徳夫の今の攻め方を参考にするべきでしょうね」
「「「オオォォォ!」」」
佐川はスウェーバックで回避した石橋に、組み付きに行った。
上体を反らしての回避行動の直後は重心が後方に偏っている。よって、ステップワークが容易にできなくなり、組み付かれる隙を生む。
――佐川は、これを狙っていた。
中高一本拳での攻撃を連発し、石橋にこの拳の威力と急所への攻撃を狙っていることを刷り込んだ。
攻撃を回避させながら、リングの中央にまで逃げることを待っていた。
攻撃に慣れさせ、スウェーバックだけで安々と回避をさせた。
その瞬間を狙い、寝かせに行くと決めていた。
一つの技への集中が、
他への意識を疎かにした。
左の拳を引いた直後、石橋に対し体当たりをするかのように佐川は組みに行った。石橋は容易に倒れ、テイクダウンを許してしまった。
そしてグラウンドの展開に移る。佐川は石橋のバックを取り、両脚を石橋の胴に回しおんぶのような体勢になる。そして、石橋の太い首に腕を回した。右の前腕を石橋の喉に押し付け、左腕で右をしっかりとホールドした。
「「「「ワアァァーッ!」」」」
佐川が仕掛けた技に、会場はまたドッと沸く。
「今度は蹴る金網はないぜ」
佐川の右前腕が、石橋の気管を潰す勢いでを圧力をかける。
「ここは、リングの真ん中だ」
その技は、バックチョーク。
気管を絞め上げ呼吸を止める、必殺の絞め技だった。
『まんまと引っかかっちまったな。屈辱だな』
首を絞める――という技で、頚動脈を絞めるスリーパーホールドに対し気管に圧をかけるチョークは、より苦痛を呼ぶ。
『あの打撃はおとり。本命は、こっちだったんだ』
その苦痛は、石橋にとっても初めての経験だった。
だからその苦痛は、「アイツ」を呼び寄せてしまった。
『このまま佐川にこの技をかけてもらえば、絶頂と共に果てることも可能だろう。
だが、ここで終わろうと思うなよ。さっきも言っただろ?
まだだろう?
快楽の海の、底の底は――』
佐川のバックチョークが与える苦痛により意識が飛びそうになればなるほど、アイツの声はより鮮明に石橋の脳内に響き渡る。
(そうか、そうだよな……まだ、だ。まだイクのは、早い……)
石橋の意識がアイツの呼びかけに反応する。
『そう、まずは――』
(――佐川を倒してからだ)
『佐川徳夫を倒してから射精しよう)
石橋とアイツの会話が脳内で成立。
これは、石橋強の異能の発動を意味した。
「ッ!」
チョークを仕掛けている最中の佐川は石橋の変化に一瞬驚いた。
技を仕掛けられていた石橋が小刻みに身体を揺らし始めたからだ。揺らすというよりは、痙攣に近い。
失神? 抵抗?
仮に前者だとしても、佐川は陰陽トーナメントに臨むに当たり絞め技に入ったら相手のセコンドかジャッジが勝負を判断するまで技を解かないと決めていた。
なので、技は続行する。
後者だとしても、そんな風に身体を動かしたところで、脚でしっかりと捕獲している体勢のバックチョークからは逃れられない。
やはり、石橋はボクシング以外の攻防をまるでわかっていないと佐川はほくそ笑む。
このままではあと数秒で失神をするという状態。そんな石橋の脳内では高速で会話が行われる。
(どう脱出する?)
『柔道やら総合格闘技には、この技への脱出のセオリーがあるのだろう。
だが、それをする必要はない。もっと簡単な方法がある』
(ほう、具体的には?)
『簡単だよ。まずは、拳を開こうか』
(ああ、わかったぞ)
『だろ? さあ、佐川は今、俺をバックから激しく攻めているよな。だから、奴の息を感じるよな。興奮しちゃうよな。だから――』
だから、位置は、見えずともわかる。
狙いは、呼吸をしている鼻から、斜め上の位置。
「ダメだぞ徳夫」
軍隊格闘・佐川睦夫は控室から実の弟を叱責した。
絞め技や関節技を仕掛けた側が注意しなければならないことについて、弟がそれを怠っていたからだ。
それは、『陽』側なら甘くなりがちになる一点。
一つの技への集中が、
他への意識を疎かにした。
石橋の左の中指が、佐川の左目を突いた。
「あっ……ぐっ!」
激痛の後に左の視界が無くなるのとほぼ同時、佐川は石橋に指を入れられたと理解。
頭を振り、これ以上指を深く突き立てられるのを防ぐ。
そして、判断をする。
陰陽トーナメントは実質的なノールール。寝技を仕掛けた側は、このような技で脱出を試みることがあるとは当然意識をしていた。
しかし、自分はそういった脱出法への意識が薄れていた。
これは完全に自分の落ち度である。
その上で、石橋に対しこの技をかけ続けるべきなのか?
自身の頭の位置を変えたり、石橋の姿勢をコントロールし、目を守りつつ技を継続するのか?
他の技へ移行するのか?
技を解き、石橋から離れるのか?
初めて実戦で眼球への攻撃を受けた佐川は、石橋の更なる『陰』寄りな寝技対策の存在を危惧し、決断した。
佐川は、バックチョークを解き石橋から離れた。
そしてすぐに自分の状態の確認――視界に赤が混じっている。出血を確認しつつ、立ち上がって石橋の追撃を警戒する。そして、できれば距離を取るための攻撃を放ちたいと考える。
石橋は拘束が解かれると、転がりながら佐川から離れる。
転がった勢いでそのまま立ち上がると、ファイティングポーズ。
佐川がまだ立ち上がる途中であるのを見て、すぐさま特攻。
飛び込み様の右ストレートを佐川は不格好な姿勢ながらガード。
だが、次の一撃は、違った。
左の視界が不明瞭な佐川は、まず顔面へのガードを意識した。新たに出来た死角をもう一度突いてくる、石橋の右のパンチが飛んでくると予測した。
そこに、最強ボクサーのパンチが直撃。
当てたのは左のボディ。いわゆる、レバーブローだった。
「ぐふっ……」
この試合初めての佐川へのクリーンヒット。
そして続けざまに二度目のクリーンヒットが炸裂。
「先生っ!」
レバーブローで身体をくの字気味にしてしまった佐川の顔面に、石橋の右アッパーが命中。
ふっ飛ばされた佐川はロープ際まで後退。飛びそうになる意識の中、背後からセコンドの川上の声を聞いた。
『上出来。さあ、今まで散々殴ってもらったんだ。たっぷりお返しをしないとな』
(わかっているよ。滅多打ちだ)
『だが気を抜くなよ。佐川の技は豊富だ。一撃で形成を逆転する技を隠し持っている可能性も充分にある』
(それもわかっているよ)
ロープにもたれ掛かることでダウンを防いだ佐川は、また構えた。
だから、オーバークロックした状態の脳で反撃を想定しつつ、石橋は近付く。
『わかっているなら大丈夫』
そう、大丈夫。石橋強は無敵だが、この状態ならさらに無敵。
その状態とは――
変性 意識 状態
トランス
6:スピリチュアル・オーバーヒート
佐川は左目から出血をしているが、眼球の損傷までには至っていなかった。見えなくはなっているが、それは指が触れたことによる一時的なもの。佐川が観客達のどよめく声を聞いた頃には、すでに視力は戻りつつあった。
(石橋に指を突っ込まれ、下の目蓋の裏が少し裂けた状態だ。あと、頭を動かした時に抜けた石橋の指先が目尻を切っていきやがった……しかし……
問題は、目ではない!)
問題は、目ではない。
問題は、パンチによるダメージである。
あのウォーレン・ウォーカーが逃げ続けた、実質世界最強のボクサーのパンチは、たった二発で佐川に多大なダメージを与えていた。
この試合が始まってからというもの、佐川が一方的に攻撃を当て続けていたにも関わらず、石橋のその二発は観客達に『形成逆転』を印象付けた。
佐川も観客達の反応を感じ、彼らは今不利なのは自分だと思っているのだと察する。
(――だが、大丈夫。俺はまだやれる!)
しかし、当の本人はダメージを認めながらも、自分が逆転されたとは思っていない。
その根拠は、背にしたロープに身体を預けた時、足がまだ踏ん張れていると感じたからだ。
ロープの反動に身体がそのままもって行かれず、踏み止まることができた。
(だからやれる! やれるっ! やれるっ!!)
両の腕で顔面をしっかりとガードし、石橋を見据える。ガードは固めるが、亀のように丸まることない。重心は前傾気味にしないことで、ある技を出しやすくする。
その技は、普通の格闘技の試合では、反則を取られる技である。
しかし、日本拳法では使用が認められている技である。
直撃すれば、そのまま勝ちにも繋がる技である。
ロープ際の佐川に石橋は接近中。あともう少しでその技の有効射程圏内。
最強ボクサーのステップワークといえど、ボクシングという競技をやっていただけではこれへの対処は不可能と佐川は判断する。
ましてや、この試合でその技を佐川はまだ出してはいなかったから、学習もされていない。
そう、佐川は確信し、技を繰り出す準備をする。
その佐川の確信を、石橋は打ち砕くことができる。
今の石橋強は、佐川が狙うその技を実際に見ずとも、もらわずとも、予測をし被弾を防げる状態にあった。
「脇を締めてのガード。接近してもパンチのカウンターの可能性は少ない。ダメージを考えれば相打ち覚悟で――なんてことはしないだろう」
石橋はつぶやき、接近は止める。
「――なっ!」
佐川は驚愕する。ガードの隙間から見えたのは、歩みを止めた石橋の口が細かく動いている様だった。
「焦りが見て取れる。追撃をさせないため、回復のため、俺を近付けないための前蹴り? いや……逆転のための金的か? そういや日本拳法のビデオにあったな。こいつらは、金的を当たり前のように使う」
脳内で高速処理された情報を、石橋は自ずと口にしていた。
無論、佐川に聞かせるわけでもなく、極めて小さな声で、もう一人の自分と会話をしていたのだ。
「警戒するべきは金的。逃がしはしないが、蹴りの距離には入らない」
その極めて小さな声は、佐川がこれから出そうとしていた技が金的であることを、確かに言い当てていた。
「な――なぜ、わかるっ⁉」
極限までの苦痛を受けトランス状態に至った石橋の集中力は、相手の表情、呼吸、目線、全身の細かな動きを余すところなく読み取る。そして、そこから次に相手が取る行動を正確に予測することができる。
最早、異能である。
その読み取る過程で漏れ出た石橋の声を、佐川の『目』もまた、捉えてしまった。
佐川徳夫の常人離れした目は、マウンドに立った投手の腕の腱の動きを捉えてしまう。
その全容を知らないままカメラ越しに『煉獄』を見て、使われている手とメカニズムを解き明かしてしまう。
微表情や動作から嘘を見抜いてしまう。
そして、読唇術で言葉を読んでしまう。
最早、異能である。
その異能故に、常人なら見逃してしまう石橋の口の動きから《石橋が自分の動きを読んでいるということ》を知ってしまったのだ。
だから、佐川は動揺をしてしまった。
彼が常人であったならば、しなくて済んだ動揺である。
石橋からただならぬものを感じた佐川は、逃げることにした。
背中にはロープと金網がある。だから、逃げるなら横だ。
当然、今の石橋はそれを予測していた。左に飛んだ佐川に対し、その着地点に先回りしたかのような、斜め前へのステップを石橋は踏んだ。
横への動きをしている最中の相手は、蹴りを出せない。
だから、ステップとともに繰り出した石橋の大砲の如きパンチが、邪魔されることなく佐川の顔面に襲い掛かった。
石橋の拳は固めていたガードの隙間をこじ開け、佐川の顔面ど真ん中に直撃。
この日、三発目のクリーンヒットとなった。
石橋強の異能が、佐川徳夫の異能を飲み込んだ。
石橋からの三発目の攻撃を喰らった佐川は、移動を止められそのままロープ際で石橋のラッシュを受け続けている。ガードは固めているが、滅多打ちという状況だった。
「またもらいやがった。――目は、見えているのか?」
それを見ながら橋口はそう漏らした。
「目よりも、先にもらった二発がまだ効いていることが大きい。
被弾後に距離を取っての戦いに移行しようとしたが、技を思うように出せず逃げることを選択してそれも失敗。捕まってしまった。石橋が追撃に向かってから、明らかに動きが悪かったからな」
上杉は橋口の言葉に対し、自分なりの分析を返した。
「天才も、一度綻びが出れば脆いのか……いや、石橋の拳をまともに貰えば誰でも……」
橋口はヘビー級ボクサーの恐ろしさを改めて口にしたが、上杉はむしろ、その前半部分を受けて思いを巡らせた。
上杉も、里見賢治という天才を知っている。
劣勢に立った天才が何を見せ、どうそれを切り抜けるのか。
上杉は佐川の次の一手に注目していた。
「あっ、あの人……鋭敏になってるんだ」
弟が続けざまに相手の攻撃を被弾している様を目の当たりにした佐川睦夫。彼が口にしたのは、意外にも対戦相手の石橋についてだった。
「うん、教えてもらいながら、動いてるんだ」
彼の常人とはかけ離れた思考がどのような過程を経てその結論を出したのかは知る由もないが、ともかく石橋の今の状態が尋常ならざることになっていると察知をしていた。
「大雑把に言えば、あの人、ガイド機能搭載だよ。父さん」
「ガイド機能搭載だよ。父さん。
ガイド機能搭載だよ。父さん。
ガイド機能搭載だよ。父さん」
石橋はラッシュの最後に、強烈な右ストレートを放った。
ガードをしていた佐川は顔への直撃を逃れるが、その一撃で吹っ飛ばされる。
そしてそれが、この試合初めてのダウンとなった。
天井を向く佐川徳夫。陰陽トーナメントにあたり佐川の試合をビデオで見ていた選手達が、初めて見る彼の姿だった。
「おっしゃ! 乗っかれ!
パウンドだっ!」
その光景に反町はすぐ声を上げた。
石橋は反町の言う通り、倒れた相手へ追撃に向かう。
「これで終わりか。――やはり石橋のパンチは一発でももらったらダメだな」
「川上……」
入江文学は追撃にかかる石橋を見て、苦々しい顔をする。
セコンドの川原がトーナメントでも上位と見込み、自身も勝ち上がられて欲しくない方と思っていた石橋の勝利が近付いていると思ったからだ。
石橋も自らの勝利が近いことを悟った。
寝転がって俺を誘っている恋人に対し、上から乗っかって突っ込んでやることにする。そして、何度も何度も自分のすごいモノを打ち付けてやろうと思っている。
ボクシングをしていては決して使用はできない技、マウントパンチで佐川を破壊し、射精をしようと心の中で決めた。
その時だった――
『まだだっ!』
仰向けに倒れていた佐川徳夫の足が動き、近付く石橋の脚を刈り取ろうとした。
トランス状態にある石橋は、佐川の足がわずかに動いたのを察知し、接近を止めて接触を回避。
だが石橋は、確かに倒したはずの佐川がまだ動き、反撃をしてきたという事実に驚愕してしまった。
その一瞬の隙に、佐川は体操の跳ね起きのような動きで勢いよく立ちあがった。
「「「「ウオオオオオオオォ!」」」」
巨大な歓声に呼応するかのように、立ち上がった佐川はゆっくりと構えを取った。
足元はまだおぼつかない。上体も揺れており、視線もまだ定まっていないが、佐川は確かに立ち上がり、再び戦おうとしている。
「さ、さ、が、わの……佐川の、日拳は、負け、ない……」
口から血を垂らし放ったその言葉は、石橋に向けて言ったものでなかった。
自分自身への誓い。そして、その自分に、最強になるための技と最強を目指せる精神を授けた父親への誓いだった。
そして、誓いを立てたその相手が席から立ち上がり、声を荒げているのを知る。
「そうだ徳夫ッ! 佐川の日拳は負けない!
たかが最強のボクサー如きに、負けるはずがない!
俺は――俺達は、そういう鍛え方をしてきたはずだっ!」
佐川徳夫が聞いた声の主は、佐川雅夫だった。
いつもは落ち着き払っている父が、人目を気にせず、感情を露わにして叫んでいる。
その声に佐川徳夫は一瞬安堵。そして、砕かれかかった魂にまた火を付けられたような気持ちになった。
だから、拳を再び握り、ファイティングポーズを取っている相手を迎え撃たんとする。
「佐川の日拳は負けない」
今度ははっきりと、対峙する石橋に対し、言い放った。
天才日本拳法家が今、『最強』という頂に向かい、また階段を上がろうとしている。
踏み込まんとする段に待つ障害物は、石橋強。
口にした言葉を証明する頃には、その障害物は片付けられているだろう。
『落ち着け。まずは相手の状態を確認する。
立ち上がったが、奴のダメージは明らか。これが蝋燭の最後の炎かもしれない』
トランス状態にありながら驚愕していた石橋だったが、すぐに佐川の状態を確認する。
『幼少の頃から鍛え続けていたのだろう。生半可な鍛え方じゃない。俺の拳を打たれてもこれくらいはやれるんだ』
(そうか……美しいな。そんな奴を、俺はますますイかせてやりたい……)
石橋は対戦相手の佐川に独特の敬意を払い始めていた。これまでのように技術を褒めるのとはまた違う心の動きに連動し、トロトロと脳の一部が溶けるような感覚に陥る。
『この美しさの源はどこに……ん?』
(どうした?)
『――佐川を立ち上がらせた《何か》を、感じた』
(そういえばあいつが構え直す前に、わずかだが視線を観客の方にやったな)
『ああ。視線をこちらに戻した瞬間、乱れていた呼吸が整った。姿勢も安定しやがった』
感じた《何か》について、石橋は答えを得た。
佐川徳夫は天才ではあったが、自分一人で強くなったわけでないのだろう。
奴が口にした『佐川の日拳』という言葉――『佐川』とは、単に『佐川徳夫』だけを指すのではないのだろう。
『佐川』の一族が磨き、身体に叩き込んできた『日拳』ということなのだろう。
こいつに、それを叩き込んだ人間がいる。
こいつを、鍛えた人間がいる。
こいつを、立ち上がらせる人間がいる。
こいつに、負けることは許さないと教え込んでいる人間がいる。
『そうか、お前には、いるのか。
――――絶対者が)
トランス状態にある石橋は、その状態にある彼にしか言語化不可能な、何らかの『繋がり』のようなもの見た。目の前に立つ佐川徳夫とリングの外の《何か》が、強固な何かで結び付いている。
いや、繋がるとか、結び付いているとか、そんな甘っちょろい言葉では説明できない。
石橋のルールで言えば、佐川徳夫は『縛られている』のだ。
その答えを得た瞬間、石橋の思考にノイズが混じり始めた。
それは、心の奥底からふつふつと湧き上がる感情によるものだった。
佐川徳夫には、絶対者がいる。
俺は絶対者を求めている。
絶対者が自分にはいないのに、相手にはいる――妬み?
絶対者という概念を相手も持っている――同類を見つけた喜び?
絶対者の命令を受け立ち上がってくる相手の美しい様――性的興奮?
否、その全てが違った。ファイティングポーズを取っている自分の拳がギリギリと強く握られているのは、怒りによるものだった。
佐川徳夫は、俺のために立ち上がったわけでなかったのだ。
他の誰かのためにこの戦いに身を投じているのだ。
意識を、戦いの中にあって、対戦相手ではなく他の者に向けていたのだ。
――それが、許せなかった。
だから、絶叫した。
「佐川ァァァ!
俺を見ろォォォ!」
「石橋?」
その様に、セコンドのデビル塚山は困惑した。しかし今の彼に石橋の気持ちを理解することも、適切な言葉をかけることもできない。
観客達も何事かとざわつき始める。ダウンから立ち上がった一方を見て、もう一方が叫んだ。彼らも当然、リングの二人の抱えるものを理解はできないだろう。
だが、次に何が起こるかを予想する者は徐々に出てきた。石橋の絶叫の後、リングで再び二人は向かい合っており、試合開始と同じようにその流派の構えを取っている。
試合開始時と違うのは、両者共にダメージを受けていること。
そして、それはリングの中の当事者である二人の頭にも浮かんでいる。
陰陽トーナメント一回戦第二試合の決着は近い。
佐川徳夫は、父という絶対者の存在を抱えながら、優勝を目指す。
石橋強は、まだ見ぬ新たな絶対者の存在を得るために、優勝を目指す。
「いいぜ。見てやるよ。
ただし、倒れて動かないお前の姿をな」
佐川はそう言って笑った。
石橋はそれを見て、笑い返した。
そして、つぶやく。
「ファイナルラウンドだ」
7:能動的三分間
最強の日本拳法家――
佐川徳夫は、天才である。
最強のボクサー――
石橋強は、不死身である。
リングの上には、二つの確固たる事実が屹立し、相対している。
この事実と事実がぶつかり合い、潰し合い、食い合い、やがてそこに立つ事実は一つとなる。
その時が今、近付いている。
試合を見ていた強者達もその時が――決着が近いと予想をしていた。
(佐川のあのダメージだと、ここから勝負を決めるにしても、打ち合いは避けるな。
まずは組み、そこから最小の動きで最大の効果を狙う技……)
入江文学は、自分が今の佐川の状態で石橋と相対したことをシミュレートする。そこから導き出した結論は――
(膝で金的。そのまま転がして絞め技に移行、今度こそそれで終わらせる)
「佐川があのダメージで石橋の打撃にどう対処するか……
石橋が強引に詰めてくるなら、打撃を捌き、組んで寝技か?」
「試合を見ているオイラ達が簡単にそう予想しているんだ。そのくらいの想定は石橋だってしているだろ。石橋が一番警戒するのは寝技の展開に持ち込まれること。詰めるのはリスクを伴う」
合気道・芝原の陣営も佐川の狙いはまず組むことにあると予想する。
「親父、石橋はまたアウトボクシングをすんのかな」
川口陣営は石橋の次の動きを予想する。
「あるな。佐川に組まれないようにして、離れた距離から削りきるか。回復を許さないくらい打ち続け、佐川が痺れを切らして前に出ればそこを仕留めるという手もある」
「ああ、次にデカいのを当てれば石橋の勝ちだろうよ。相打ち覚悟での打撃勝負になっても、最後に立っているのは石橋だ」
それぞれの陣営が次の展開を予想するも、共通するのは『佐川は組みたがる』というものだった。
両者の試合が始まってからのこれまでの戦い方と、消耗の具合を見た上での帰結――技の引き出しの多い佐川なら、この展開ならそうすると多くの者が思った。
リングの上で対峙する当事者達は、動いた。
まず先に動いたのは、佐川だった。オーソドックスに構え、やや慎重に前に出始める。
「これは……」
佐川の狙いに気付いたのは里見賢治。
自ら前に出ることで相手の次の一手を引き出し、それに対しまた自らの次の一手を返す。
里見の頭の中には、佐川の「次の次」について複数のパターンが浮かぶ。
佐川は、更なる動きを見せた。
急速に間合いを詰めての、飛び込んでの左の突き。
オーソドックスに構えていた佐川が繰り出したそれは、伝統派空手の刻み突きに近かった。
しかし、同じくオーソドックスに構えていた石橋は、前に出していた左手で佐川の拳を叩き落とす。パーリングである。
最小限の動作でのパーリングで、佐川の右の拳での追撃への対応も容易にする。
だが、佐川の次の手は――
確かに右の拳で繰り出されたものだったが、パーリングでの対応やカウンターを合わせようとしていた顔面付近への攻撃ではなかった。
腰の位置から斜め上の角度に向けて突き上げるような、胸部への掌打だった。
それは石橋のガードを抜け胸に命中するも、ダメージは無いに等しかった。
得られたのは、石橋の態勢を崩す程度であり――
「当て身ッ!」
その一連の攻防に声を上げたのは、芝原剛盛。
芝原は、佐川の動きに自身の流派に通じたものを見出し、思わず声を出さずにはいられなかったのだ。
(佐川の野郎、当て身で崩してから組む気かッ!)
合気道では、開祖が口にしたという『当て身七分、投げ三分』などという言葉が一人歩きする程、当て身――打撃――を重用する。
まず当て身で相手を崩し、投げに入る。
佐川もそれと同じことをする気かと、芝原は次の展開を息も忘れ見守る。
胸を押され体勢を崩された石橋は、再び構え直そうとする。
そして体内に、怒りの炎が上がったのを感じた。
もう、そんな甘っちょろい攻撃で満足はできない!
倒すんなら、もっと体全体でぶつかって、押し倒してみろ!
その怒りを拳に乗せて佐川の顔面にぶち込んでやろうとする。そんな石橋の視界に入った佐川は、組もうとするでもなく、足を止めて構えていた。
体勢を立て直そうとする石橋に対し、真っ直ぐに構える佐川。
腰を据え、脇を締め、少し右の腕を引いた。その時、石橋と目が合い――
その瞬間、石橋の中の炎が消えて失せた。刹那の時間で起きたことではあったが、石橋は理由に気付く。
そして、背筋に冷たいものが走る。これは――恐怖だ。
その単語が石橋の頭の中に浮かんだ瞬間。突き出された佐川の右の拳が、顔面にめり込んでいた。
波動突き。
これにより石橋は、リングに大の字に倒れた。
純然たる、パンチを受けてのダウンだった。
この試合を見ていた者達が、これまでの石橋の試合を見てきた全ての者達が、初めて目にする光景――石橋がパンチでダウンしたという事実を飲み込んだ彼らの脳内に、もう一つの事実が再び深く刻み込まれた。
最強の日本拳法家――
佐川徳夫は、天才である。
「「「「佐川アァァァーッ!」」」」」
「波動突き」
ダウンした石橋の姿に目を丸くしている山本空を横目に、里見賢治は佐川の出した技の名を口にした。
その声に気付き、空は里見の方を向く。
「波動拳などとも呼ばれています。縦拳による直突きと違うのは、最初は拳を開いたままの縦拳で突き出すのですが、徐々に指を閉じていき、相手に当たる時に握り込まれた状態になります。全身の捻りと、手首のスナップを効かせることも重要で、ちゃんと決まればその威力は見ての通りですね。その名の通り、波に打たれたような衝撃が襲います」
だが、真に恐ろしいのは突きの威力ではなく、あの場面で石橋を崩してから余裕を持ち打つ準備に入った佐川のセンスにあると里見は背中に寒いものを感じた。
握り込んだ右の拳に、腕に、肩に、そして全身に伝わった感覚が、今のは会心の一打だということを佐川に教えた。
だが、ここで佐川は気を抜かない。
仰向けに倒れた石橋の頭は遠い。もし前のめりに倒れていたのなら、首にそれをするつもりだったが、この状態では狙うのは股間だ。
一歩踏み出て、二歩目でそのまま石橋の股間を踏み付けると決めた。
そして――
ダンッ。
鳴ったのは、佐川がマットを踏み付けた乾いた音。
その音の響きが、沸きに沸いていた会場を一気に静まり返らせる。
否。
観客達が静まり返ったのは、リングの中で動く影を見たからだ。
佐川の足が迫る最中、石橋がロープ際に身体を横転させ、ロープを支えに立ち上がったのだ。
最強のボクサー――
石橋強は、不死身である。
さらに少しの沈黙の後、会場は再び火山が噴火したかのごとく震えた。
「「「「「ウワアァァァァァァ!」」」」」
立ち上がった石橋は、息を小刻みにしながら、佐川を見つめる。
呼吸はやや乱れているが、自分でも不思議なくらい興奮はしていない。
とはいえ、萎えているのではない。
ただ、この最高な相手の存在を感じていたいと思ったのだ。
最高の一撃を見舞ってなお相手が立ち上がってきたのを見て、佐川は深く呼吸をした。
不思議と、焦りは覚えていない。
ただ、この相手の頑丈さ、そして強さに敬意のようなものを感じ始めているとわかった。
「本当に素晴らしい打撃とは、もらうと意識が吹っ飛んで感触を味わえないんだな。
――佐川徳夫、お前は最高だ。だが、残念。絶対者に従っている者が、絶対者には成り得ない」
「石橋。お前の発言の意味はわからないが、本気で言っていることはわかる。その思想も俺には理解できないが――勝利を目指しているということだけは、伝わってくる」
佐川の言葉に石橋が頷くと、両者はほぼ同時に距離を詰めた。
次に両者は、ほぼ同時に右の拳を振るった。
佐川は最短距離で突き込む縦拳。
石橋は、弧を描くフック。
先に命中したのは佐川の拳。石橋は先のダウンのダメージがあったのかグラつくが、倒れるには至らなかった。
その直後に石橋の拳が命中。体勢を崩しながらの一発だったが、佐川も蓄積したダメージが大きく後ろに倒れそうになった。
そこを石橋が追う。
「行けぇ! 石橋ィ!」
セコンドのデビル塚山は金網を掴み絶叫。
先程のダウンでは言葉を失っていたが、このような相打ちの展開なら石橋に分があると確信していた。それ故、最大のチャンスがやって来たと思い声を張ったのだ。
よろけている状態の佐川にもう一撃だ。それで佐川がダウンをすれば、もう起き上がれないだろう。倒れたところで意識があろうとなかろうと、石橋が追い打ちを決めたりマウントパンチでも始めれば確実に終わる。
石橋の左の拳が伸びたのを見た時、塚山はそう思った。
佐川徳夫は、天才である。
顔に飛んできた石橋の左の拳に対し、佐川は横から右前腕をぶち当てて、そのまま右の掌を滑らせ石橋の手首を掴んだ。
そして、左手を捕らえた相手の拳に添え、固めた。
ここに来て、立ち関節技で石橋を制したのだ。
「ぐあッ……」
石橋はその痛みに激しく勃起した。先ほどのダウンの前後では快楽をちゃんと感じる暇がなかったが、関節技による強烈な痛みは石橋の身体に深く染み込んだ。
佐川は石橋が痛みを感じた一瞬で次の技に移行をする。
手首を極めた状態は維持し、自らの下半身を石橋から少し離す。続いて、手首を極めながら相手の身体をコントロールし、石橋の上体をくの字気味にする。
そして――
どぐちゃっ
右の膝を、石橋の下がった頭に叩き込んだ。
一撃を加えた後、右手で石橋の左腕を捕らえたまま、左手で石橋の髪の毛を掴み再び膝。
そして次々と、膝。膝。膝。
セコンドがタオルを投げるまでそうする?
いや、拘束している腕の力が無くなるまでそうするのだ。
――膝を叩き込んだ回数が二桁に達してしばらくした時だった。
拘束していた腕の力が無くなるどころか、佐川の道着の襟を石橋が思い切り掴んできた。
石橋強は、不死身である。
石橋は、何度も何度も佐川の固いモノを打ち込まれている間、快楽を貪っていただけではなかった。
石橋は考えていた。
実はこの試合の前から、この陰陽トーナメントで勝ち上がるために新たな戦法を身に着ける必要があると考えていた。
例えばマウントパンチは決まればまず勝てるだろうが、組み技のスキルがある者を相手にした時に、そもそもマウントパンチを打ち込む態勢に至れるのだろうか。
グラウンドの展開は石橋にとって鬼門。
ならば、立った状態で今まで以上にパンチを当てやすくするためにはどうすれば……
その答えは――陰陽トーナメントのリングを目の当たりにして浮かんだ。
その答えは――シンプルで、原始的とも呼んでいい方法。
その答えは――実行すれば、必ず勝利を『掴める』と思った。
石橋は考えていた。
考えていた答えを今ならば、実行できると思ったのだ。
「うおおおおおおおおおおッ!」
佐川は石橋が力強く道着を掴んだことに一瞬驚いた。その一瞬の間を突き、石橋は佐川をロープ際まで押し込んだ。これまでのダメージと、膝を連発していたことによる疲れで佐川はそれを許してしまう。
掴まれていた髪がブチブチと引き抜かれるが、石橋にとってその痛みはモーターを回転させる燃料になる。
ロープ際に背を付けるまでに至った佐川は、これでは膝が出せないと思い離れようとする――が、石橋はまだ道着を掴んでいた。
(そっちが掴みに来たのなら、こっちも離さないよ)
血まみれの石橋が笑った。
石橋強は、不死身である。
佐川は石橋の狙いがわかった。
右手は石橋の左手が邪魔で使用できない。
なら、奴の狙う『それ』を防ぐのは左手だけでしなけれ――
佐川の左手が上がるよりに先に、石橋の右アッパーが佐川の顔面にめり込んだ。
無茶苦茶なフォームで放った一発だが、直撃だった。
これで終わるかという一撃。
だが、石橋は佐川の腕を道着越しに掴んだ状態にあり、さらに背中をロープに押し込んでもいる。
故に、石橋はまだ終わることを許していない。
だから、佐川にもう一撃アッパーをぶち込んだ。
今度は、佐川の手は防ぎには動かなかった。
それを確認すると、石橋はもう一撃アッパーをぶち込んだ。
佐川の全身から力が抜けるのが伝わってくると、素早く掴む場所を佐川の道着の右肩の部分に変えた。
そして、もう一撃アッパーをぶち込んだ。さっきよりもフォームは安定していた。
打ち易くなったことを確認すると、石橋はニヤリと笑ってからもう一撃アッパーをぶち込んだ。
石橋強が考えた陰陽トーナメントを勝ち抜くための新たな戦法は、相手をスタンドの状態で掴んでから殴るというもの。
それは、総合格闘技の技術にあるクリンチアッパーの体勢になっていた。
「野郎、こっち側に近寄ってきやがった」
その光景を見た反町は、そうつぶやいた。
石橋が今見せている技術は、反町がプロレスを離れてから戦ってきたフィールド・総合格闘技にあったものである。
反対側のブロックの強者が試合の中で進化を見せたのを知り、反町は笑った。
「近寄ってきたならきたで、ぶっ飛ばしてやる」
「ふん……」
「先生、どうしました?」
その光景を見た陰陽トーナメント主催者・田島彬は笑みを浮かべた。
田島も、表の世界では総合格闘技の選手で通っており、実際その技術はよく知っていた。そして、過去に石橋からかけられた言葉を思い出し、表情を崩さずにはいられなかった。
「前に石橋と会った時、ボクサーのアイツが総合の俺をケンカで倒すとか言ってきたよな。その石橋が今、総合の技を使いやがった」
田島とアリは以前、石橋に襲撃されたことがある。その時、石橋は田島にそのようなことを叫んでいた。
「――あの時、車で撥ねといてよかったろ」
そう、田島はアリに軽口を飛ばした。アリは言葉を返さず、渋い顔をする。
しかしアリは感じ取っていた。自分が尊敬する師匠は今、リング上の石橋強に対して警戒の念を強めたと。
殴った回数を頭の中で数えなくなってからしばらくして、石橋は佐川を解放した。
佐川の身体は力なくリングに倒れ込み、そのまま動くことはなかった。
完全なる失神状態になっていたことは誰の目から見ても明らかだった。
佐川徳夫は、天才である。
その天才が、不死身に捻じ伏せられた。
無論その事実は、天才のセコンドを務める川上竜にも圧し掛かっていた。
「うっ……うっ……」
川上は泣いていた。あふれ出る涙の理由は、必ず優勝できると、あの仁王・関修一郎すらも倒せると信じていた師匠が倒れる光景を見たくなくて、視界をぼやかせるためなのかもしれない。
川上はタオルを投げることはしなかったが、石橋が佐川から離れて追い打ちを仕掛けないまましばらく立っているのを見た二人のジャッジは、ほぼ同時に手を上げた。
二人のジャッジのその判断は、試合終了を意味する。
「よおぉっし!」
デビル塚山が歓喜の声と共に金網を殴りつけると、それに続くかのようにゴングが打ち鳴らされた。
さらにそれに続き、観客達は会場を破壊せんばかりの盛大な歓声をあげた。
石橋はリングから出て、塚山から血を拭うためのタオルを受け取った。
「だいぶ打たれたな」
そう声をかけられ、その後もいくつか塚山は言葉を発していたが石橋には聞こえていなかった。石橋の頭の中では今大きな渦が巻いており、その言葉達が入る隙などなかったのだ。
石橋は、試合中に射精をしていた。
それは、佐川の波動突きでダウンを奪われた直後のこと。意識が飛んでいた時に達しての射精であったため、快楽はほとんど味わえなかった。
だが石橋は今、また勃起をしているわけでもないのに、得も言われぬ気持ち良さを感じている。
確かに激闘により全身のあちこちが痛むが、その痛みによるものでない。
マゾヒズム由来とは違う、別の気持ち良さだった。
「――とにかくドクターに見てもらう。おい、聞いているのか?」
「あん? うっせーよ」
その気持ち良さの正体について考えている最中、耳に入ってきた塚山の声に石橋は不愉快そうに返す。だが、塚山は怯まない。
「確かにお前は不死身の最強ボクサーだが、相手もまたとんでもない化け物だったんだ。化け物同士が全力で戦って、どっちもボロボロになっちまった。まあ、それでも勝ったのはお前だけどよ……とにかくダメージが――」
「あっ……」
石橋は目を見開いた。塚山の今の言葉を聞いてのことだ。
「そうか、そうだったのか。これは……」
「おい、どうした?」
心配をする塚山を無視して石橋は、感じていた気持ち良さの正体がわかり、感情が溢れた。それは、自分にも純粋なスポーツマンの心根が有ったのだというおかしさのようなものだ。
石橋強は、互いに全力を尽くした上での戦いに勝利したことによる、達成感に打ちひしがれていたのだ。
『陽』側とされながらも濃い『陰』も同時に孕んでいた者同士の戦いが決着した。
その勝者の心の中には今、陽の光が差し込まれている。
一回戦第二試合
勝者
ボクシング・石橋強
7.5:君の名は?
石橋強の選手控室に今いるのは、デビル塚山だけ。石橋は試合後にドクターチェックを受けていた。塚山も付き添いを申し出たが石橋に追い出され、先に戻ってきたという状況である。
彼は、焦っていた。
このままでは、板垣組の連中が来る。
石橋が勝ち上がったことで、二回戦では工藤優作と石橋の試合が実現する。これにより、板垣組は自分に早期にタオルを投げ入れるとか、棄権を促すように石橋を説得することを強制してくるだろう。
大会本番前に反抗的な態度を取った自分に対し、板垣組は間違いなく念押しをしに接触してくるはずだ。
塚山は、そう考えていた。
「ふざけるなよ……ここまで来て、邪魔をさせるかよ」
塚山は、石橋の優勝を信じている。自分を侮辱し、殴り倒した石橋の強さを信じている。
自分でもなぜかそう思っているのかわからないのに、石橋のために動こうとしている。
「やはり、運営にチクるのが最善……か」
板垣組は他陣営に圧力をかけ工藤が勝ち進みやすくなるように工作をしている、そして自分はそのことで板垣組から脅迫を受けている、と大会運営の田島に報告をする――塚山はこれを、大会前に中島と板垣組の槌屋に呼び出された日から考えていた。
しかし、塚山はこの日までそれを躊躇していた。
その報告さえすれば、陰陽トーナメントの期間中は大丈夫だろう。だが、トーナメント後に無事に日本へ帰れるか? それでなければ、日本に帰ってから無事でいられるか?
報告すれば、日本最大の広域暴力団を敵に回すことになる。
石橋を勝たせたい――だが、自分の命を崖っぷちまで追い込んでまでは――
塚山はこの日まで、葛藤していたのだ。
しかしこうして石橋が勝った以上、躊躇はしていられないと思ったその時だった。
控室のドアをノックする音が聞こえた。
「誰だっ?」
ドアをすぐに開けることはせず、塚山は慎重に確認をした。
「塚山様でしょうか。お渡ししたいものがございます」
(聞いたことがない声――この口調――会場のスタッフか?)
そう判断するが、まだ信用はしない。
「一人か?」
「はい? ええ、私一人で伺いましたが――」
ドア越しの声を聞き、塚山は深呼吸。
(スタッフを脅して付き合わせているなら、新規定に抵触する恐れがある。いや、板垣組の槌屋だけなら工藤の関係者じゃないと言い張って平気でやるか……)
そして、更に慎重にいくことに決めた。
「悪いが、ドアを閉めたまま話す。渡したいものがあるとか言ったよな。それは何だ? というか、誰からの物だ?」
塚山がそう聞くと、ドアの向こうでは少しの沈黙があった。そして、返答が来る。
「メ、メモ用紙になります。えーと……大変申し訳ございません。渡された方のお名前を頂くのを忘れてしまいました……たしか、黒いスーツを着ていた方でした」
(スーツ……やはり槌屋か中島か? そして――メモ?
くそっ、どうする?)
真偽を確かめるためにドアを開こうかと思った直後、意外な内容で声の続きが聞こえた。
「そ、それではドアの隙間からお渡ししてもよろしいでしょうか? 厚くない紙ですし……」
(こいつ、もしかして俺が怒っているから対面したくないとでも思っている? それか、さっさと終わらせたいと? それとも、紙の内容さえ伝えれば俺が従うから問題ないとか? いや、理由はどうでもいい。こちらがより安全に済むなら好都合!)
「わかった、それで頼む」
すると、隙間から二つ折りにされた紙が出てきた。
開くと、そこに書かれていたのは携帯の電話番号と一文だった。
『板垣組から助かりたければ、連絡をしてこい』
予想だにしない内容。塚山は息を飲む。
「誰だよこいつ……」
まさか主催の田島? いや、それならこんな回りくどいことをするか?
一瞬考えた後、塚山は再び深呼吸をして今度は電話番号の方に目を向けた。
あまりにも唐突。これを書いた者の正体はわからず、真の目的もわからない。
だが今は、一パーセントでも助かる確率が上がるなら、なんにでも縋ってやる!
そう決意し、書かれた番号へ電話をした。
数回の呼び出し音の後に相手が出たようだ。向こうからの声は無い。
「デビル塚山だ。――お前は誰だ?」
塚山の声にはやや焦りがあった。この間にも、板垣組が動いているかもしれないと思い、最悪の場合これすらも罠の可能性すらあると今更になって頭に浮かんだからだ。
だが、電話の向こうから聞こえてきたその名前に、塚山は更に頭の中がかき回されることになる。
その声は男の声だった。男は塚山の声から焦りの色を感じ取ったからか、電話の向こうで嘲笑っているかのような口調で、名乗った――
「梶原修人だ。デビル塚山、連絡してくれたことを嬉しく思うぜ」
8:ザ・サードマンズ
「単刀直入に言えば、俺はあんたを信用できない。俺は板垣組に追い込まれている立場だが、あんたも板垣組なんだろ? それがどうして――」
「俺も板垣組の敵になっているんだよ。聞いていないか? 俺はトーナメントの第一試合が決まった段階で板垣組から切り捨てられていた。奴らは工藤を勝ち上がらせる気だったからな」
塚山の言葉を遮り、梶原は自分の状況を語り始める。そして、それは塚山が中島と槌屋から聞いていた話と合致していた。
このトーナメントにおいて梶原は板垣組から工藤を勝ち上がらせるための捨て石扱いにされ、役目が済めば死んでも構わない――いや、積極的に処分をするつもりであったという。
それが現在、工藤に試合中に毒を盛ってその解毒と引き換えに窮地を脱して会場から出ることに成功しているとのことだ。
「梶原さんのことはわかった。だが、板垣組から逃げている人間がなぜ、そしてどうやって俺を助けるというんだ? 派閥の人間を作っていて、この会場に残しているとかか?」
塚山の問いに梶原はほとんど間を置かずに答えた。そして、その口調は電話の向こうで笑みを浮かべているのだと塚山に想像をさせた。
「板垣組で派閥? そんなしょぼいもんじゃねえよ。この大会の出資者にしてマカオの、いや、この世界の『裏の大物』である、タン・チュンチェンの協力を得ている」
いきなりの途方もない話に、塚山は言葉に詰まった。
だが、すぐに気付く。その『裏の大物』などという漫画の世界のような存在は、確かにいると。
中島と槌屋に呼び出されたあの日、中島が言っていた。板垣組が裏で派手に動けない理由――
この陰陽トーナメントのバックの存在。
田島の言葉を借りれば、『陰』側の人間の力がなければ興行は成り立たない。
それが、タン・チュンチェン。梶原修人は、板垣組よりも強大な『陰』とのパイプがあるのだ。
「すぐに俺がそれを信じるかといえば、難しいな。だが――」
「だが、今は信じはせずとも縋るしかないだろ? お前にそれしか道はない。それ以外の道を歩めば、即詰みだろう。既にこの電話が始まった段階で、板垣組の……工藤の控室には見張りが向かっている。会見場とかで見かけなかったか? アリという、田島の付き人をやっている若い男だ」
梶原の言葉は具体的だった。そして、「既に塚山のために動いてやっている」ということも同時に伝えてきた。
「わかったよ。縋るさ。それに、信じてやってもいい。
だけどよ、梶原さんは俺に何を求めるっていうんだ? 俺が石橋からもらう賞金の一部か? いや、石橋が手にする賞金そのものか?」
そう、そこだ。最大の謎は、梶原が石橋陣営に助け舟を出す理由だ。この男が今とっている行動について、どのようなメリットがあるというのか。
塚山はそれを問い質そうとする。
「ああ、そうだよな。これはしっかり言っておこう。
デビル塚山、お前が日本に帰ってからの話だが――お前が声をかけて集まる格闘家、何人くらいいる?」
「何度も繰り返させないでくださいよ……こっちから行くしかないでしょうが! だいたい、あの野郎が組に従う気が無いって最初に言ったのは槌屋さんじゃないですか」
「落ち着け吉田。状況がどうあれ、慎重に行かなきゃいけないのは変わらない。
こちらが指示をするまで、絶対に部屋から出るな」
工藤優作陣営の控室で、板垣組の吉田は荒れていた。
第二試合が終了してからすぐに、吉田は塚山の所へ行き板垣組の命令に従うよう詰めるべきだと電話越しに槌屋に対し進言を続けている。
槌屋は思った。こいつは、石橋の試合を見て工藤の勝ちを信じきれなくなっていると。
正直に言えば槌屋の中でも吉田と同じ理由で焦りがあった。石橋強は工藤と同じくらいに、不死身の化け物だ。自分はそこまで格闘技に明るくはないが、石橋はその不死身さに加えて確かな格闘技の技術があるのはわかる……工藤と石橋がぶつかったとして工藤が勝てるかと聞かれたら、胸を張って「勝てる」と言える自信は、ない。
だが、ここで自分が吉田に先走らせることを許して、取り返しのつかない事態に陥ってはいけない。
下手に規定に抵触し、工藤を失格させては元も子もない。
(塚山が既に主催者に俺達のことを報告している可能性は捨てられない。主催者側がこちらに釘を刺しには来ていないが、こちらが動いたら潰す気なのかも知れない。ともかく、慎重に行くべきだ。まったく……ここまでしなきゃいけないのも――)
澤の裏切りが大きい。
吉田が工藤に打ち込まれた毒の解毒剤を求めに梶原の下へ向かった時、澤は完全に梶原側の人間になっていたと報告を受けた。この会場で板垣組から逃げ果せるために、主催者側に板垣組の裏工作を教えた可能性が非常に高い。
そして、槌屋の予想は当たっていた。
今、工藤陣営の控室の外には田島の側近の男――アリが立っている。
アリを動かしたのは田島だが、田島がなぜそう命令をしたかといえば、タン・チュンチェンからの連絡を受けてのことである。
「安心しろ、吉田。ウチの人間はきちんと向かわせる。俺も、行く。
大事なのは、あいつに『板垣組からは逃げられない。だから従うしかない』と思わせることだ。だから、お前は部屋から出るなよ」
そう言うと槌屋は通話を切る。吉田はまだ納得がいかないといった面持ちだが、槌屋の言い付けを守り部屋からは出ないことにした。
そして、この控室の本来の主である工藤優作は、解毒を終えて腰を落ち着けている。今の会話のことなど我関せずといった様子で、第三試合が始まってもいないのにじっとモニタを見つめていた。
――ガラスの割れる、音がした。
その音が頭に響いて、佐川徳夫は目を開いた。
横を見れば、弟子の川上が落としたコップを慌てた様子で拾おうとしている。
「す、すいません。先生の手が動いたので、驚いて……」
川上はそう言うと、笑った。無理やりに作った笑顔だった。
佐川徳夫が今いるのは、ベッドの上。横になっていた。
弟子の言葉に反応し身体を起こそうとすると、全身に痛みが走った。
「ッ……そうか、俺は……」
その痛みが、彼に今の状況を教えた。
自分は、陰陽トーナメント一回戦で、石橋強に――
「負けたんだ」
そうつぶやくと、川上の作り笑顔が崩れた。泣きそうで、震えていて、何を言えばいいのかわからなくなっている面持ちだ。
弟子のその表情を見て、佐川が語りかける。
「俺に、失望した?」
川上は、それを聞いてより困惑の色を濃くする。
「最強を目指していたのに、無様に負けて……そんな奴、いらないよな。もう、ダメだろう?」
川上は、答えられない。
だが佐川は、それを川上だけに言っているわけではなかった。
自分の父親に向かっても言っていたのだ。
そして、父・佐川雅夫が敗北した自分の前に、二度と現れることはないと確信をしていた。
父が今どこにいて、どうなっているのか、そんなことは頭にない。
ただ、佐川の日拳の最強を証明できなかった者の前には、二度と姿を見せないということだけはわかっていた。
捨てられる。
兄が、そうだったように。
そう思った時、ふと、頬を涙が伝った。
俺は最強になるため、鍛錬を重ねてきた。そして、最強になる道の途中で、躓いた。
兄が、そうだったように。
捨てられる。
「そんなことはありません!」
弟子が声を張り上げた。その頬は、師匠よりもずっと多くの涙で濡れていた。
「先生に教えて頂いた、先生の日拳に、間違いはありません!」
「でも、俺は負けたんだぜ。俺は、弱かった。そんな師匠に――」
「でも自分はもっと弱い!」
弟子の振り絞った声に、佐川は驚き声を失った。
「だから自分は、まだ強くなれるんです。なりたいんです。先生、俺にこれからも日拳を教えてください!」
コップを拾おうとしていた弟子の手は、師匠の手に重なっていた。激闘を終えた師匠の手に、弟子はまだ強さを感じていた。
柔道から離れ、新たに始めたボクシングで挫折をし、その挫折をさせた張本人に弟子入りをした川上竜だったが――今は、ブレていなかった。
「は、ははは……」
泣きじゃくる川上を見て、佐川は頬を綻ばせる。
「すごいな川上君。負けた師匠を労うこともせず、自分が強くなることだけ考えてるのか……」
そして、笑った。
「いいぜ、最強を目指そう。君も、最強になる夢をまだ見ているんだろう?」
そう、俺も。まだ、見られるんだ。その夢を。
「はっ、はは……はい! そうだ! 飲み物、落としてしまったし代わりを持ってきます! 失礼しますっ!」
自分の師匠はもう大丈夫だと安心した川上は、そう言うと控室から出て行った。
「――ダメだ。やはりどちらかわからない」
新しいミネラルウォーターを手にして控室に戻ろうとしていた川上は、意外な人物と出会った。その人物とは、師匠と共に陰陽トーナメント開催前に対峙したことがある男。
「君が父さんなのか、もう一人の弟なのか。いや、徳夫なのか……」
軍隊格闘・佐川睦夫。師匠の実の兄、狂人と知らされていた男であった。
「な、何を言って……」
「やはり監禁して観察を……色々と試して……もし、どちらでも無ければ……」
佐川睦夫も、川上と会っていたことを覚えている。その時に、川上がもう一人の弟か父親であると勘付いていた。
加えて、今はこの男こそが佐川徳夫だという可能性も頭には浮かんでいた。
なぜなら、石橋と徳夫の試合で徳夫が敗北をした姿を見たから――いや、佐川睦夫の思考を読み取れる者など、この世にはいない。
(くっ! これは、もう戦うしか……)
川上は睦夫の言動から身の危険を感じ、そう判断し構えを取ろうとした。
その瞬間、佐川睦夫は一気に川上に詰め寄った。
「まったく……新しい飲み物取りに行く前に、落としたのを先に片付けろよな」
そう言って、佐川はベッドから起き上がり、川上が落としてそのままにしていた紙コップを拾い上げた。
そういえば、目が覚めてからずっと、異様に喉が渇いている。喉だけではない、唇もだ。
おそらくこの渇きは、全身に及んでいるのに違いない。
果たして、この渇きは普通の飲み物で潤うのかなと佐川は考える。具体的にこれとは言えないが、全身の血を砂に変えてしまう猛毒が回るのを防ぐような、特別な液体が必要だとふと思った。
――ガラスの割れる、音がした。
石橋強の控室には三人の男がいた。
現在、会場では一回戦・第七試合の選手が入場している。
石橋は自身といずれ戦うことになる者達に夢中になっているが、塚山はセコンドらしく石橋と各選手の対策を立てるなどの会話はしていない。
その塚山が会話をしている相手は、この部屋にいる三人目の男だった。
「しかし、アレだな。日本のヤクザというのも期待した程じゃなかったな。俺が映画で見たヤクザ達は、みんな強かったぜ。そして、格好良かった」
その男は、日本人ではなかった。塚山が梶原と電話を終えてからしばらくして、陰陽トーナメントのスタッフが連れてきた、面識の無い男。
彼の名はバルトロメウス・バッツドルフ。その素性は明らかにしていないが、間違いなく、強者の側にいることが塚山にはわかっていた。
「映画のヤクザはだいたい強くかっこよく描かれてるもんだからしょうがねえだろ。現実はそんなもんだよ。卑怯で、群れなきゃならなくて、とにかく金、金、金だ」
「そうか? でも、俺はヤクザ映画ホントに好きなんだよ。ほら、お前らの国で人気の、千年に一度の美少女とか呼ばれてるアイドルがヤクザの組長になってマシンガン持って――」
よりによってそれかよ。せめて、八十年代にやった方だろ。
と、突っ込みたくなるが止める。最初に会った時よりもだいぶ打ち解けてはいるが、この男の服の裾に付着する血液が、もう一歩踏み込んだ会話をするのを塚山に躊躇させていた。
バッツドルフは、梶原と協力関係にある陰陽トーナメント出資者のタン・チュンチェンが遣わせたボディガードだ。本人から、そう説明を受けた。
既にその仕事を十二分にこなしており、塚山がドクターチェックを終えた石橋を迎えに行った時に、塚山に近付いてきた板垣組の人間を実力で排除している。
この板垣組の人間というのが、槌屋直属の部下である武闘派組員の関根と、工藤よりは数段落ちるが板垣組専従で重用されている喧嘩屋・小堺だった。二人は槌屋が格闘技団体『立技』の関係者ということにしてマカオに入国させており、状況に応じてある程度自由に動かせる人間として控えさせていたのだ。
塚山への「説得」を行おうとした二人だったが、横にいたバッツドルフがまず最初に近付いてきた小堺の鼻を裏拳で潰し、怯んだ関根の股間に膝蹴りを喰らわせて悶絶をさせた。
そして、
「ここは俺が片付けておくから、ツカヤマは今のうちに石橋を迎えにいってやれ」
と、余裕綽々と言った様子で言ってのけたのだ。
その後、槌屋が向かわせた二人がどうなったか塚山にはわからなかったし、バッツドルフに聞こうとも思わなかった。だが、部屋の外でその後騒ぎが起きた様子はなかったし、それ以降中島や槌屋からの連絡や接触がなかった事から、どういう決着となったかは想像できた。
しっかりと『片付けた』のだろうと塚山は思った。
「まあ、悪さをしたハゲを捕まえるよりは楽しい仕事ではあるけどな。トーナメント終了まで、よろしく頼むぜツカヤマ」
「なぜ、デビル塚山を利用しようと? あいつに、そこまでの価値があるんですか?」
澤信望は、梶原が塚山との電話を終えてからしばらくして、改めて問うた。
「状況が状況だ。決死の覚悟で動くだろ」
「というか、梶原さんの狙いがまだ掴めていません。板垣組乗っとりに関わる事なのはわかるんですけど……」
梶原は笑う。
「今の板垣組のシノギ――日本の『表』の格闘技興行を、俺達の板垣組にした後も維持し発展させるためだな。まずはプロ選手達を手懐けておく必要がある」
「なるほど。しかし、陰陽トーナメントの後に、日本で格闘技の興行をやって儲けられるんでしょうか?」
澤がそのような疑問を感じたのも無理はなかった。間違いなく史上最高の面子を揃えて、日本国内では開催不可な規模とルールで行われた陰陽トーナメントを見た人間が、その後行われる普通の格闘技興行に満足ができるのかと思ったのだ。
「そこはやり方次第だ。陰陽と同じことは出来ないし稼げないだろうが、見せ方でいくらでもやり様はある」
そう言うと梶原は咥えていたキセルの先端を見つめ、数瞬思考した。
「塚山とは帰国後に話を詰めておこう。まずは、板垣組を手にする過程でコングスリーパー社の現体制を表からも見えるレベルで崩す。そして、契約選手達を不安がらせ、宙に浮かせる。そいつらを、塚山に捕まえさせるんだ。新たに出来る組織に入れば安心だぞってな」
澤は梶原の話を頷きながら聞いていたが、やがて新たに浮かんだ疑問を口にする。
「狙いはわかりましたが、なぜ格闘技興行にこだわるんです?」
自分も戦う人間だから、シンパシーでも感じているんですか? と続けようとしたが、梶原が言葉を遮り返答する。
「タン・チュンチェンとの関係の中で、プラスになればと思っている」
出てきたその名前に、澤は自然と身が引き締まる感覚がした。
そうか、梶原さんは、この後もタン・チュンチェンと関係を続けて板垣組乗っとりにその力を借りる気なんだ。
「タンは板垣組の――日本の裏社会の力を味方側に持ってこようとしている。そのために俺を利用しようとしているわけだが、奴が好きそうなものの一つも持っておこうと思ってな。機嫌取りみたいなもんだよ」
澤は梶原の言葉に納得する。
タン・チュンチェンは、陰陽トーナメントの出資者。そして、闘う者・強者に対して特別な感情を持っていると梶原は推測していた。それを、澤も聞いている。
「そうか。日本の格闘技界をタンに差し出して、機嫌を――」
「そこまではしない」
梶原は、キセルを握りながら澤の言葉を止めた。
「日本の格闘技界を仕切るのはあくまで、俺――俺達の板垣組だ。その実権、儲けは板垣組のもの。タンにはその一部を握らせはしても、やりはしないよ」
梶原はまた数瞬思考する。顔は険しくなく、澤から見れば少し楽しそうにすら思えた。
おそらく自分が手掛ける格闘技興行のことを考えているのだろう。
その表情は先程、工藤をたまらなく気に入っていると言った時と同じ感じだった。
そして、澤は思う。
そうだ、梶原さんも、そうなのだ。
梶原さんもタンのように、闘う者・強者に対し特別な感情を持っている人なのだ。試合の内外で策謀を巡らせ倒そうとし、致死の毒物まで喰らわせた相手を、気に入っていると後になって言える。
一見すれば矛盾した、しかし確かな『尊厳』を感じさせる何かが、心根にある人なのだ。
自分にはそれを完全に理解はできないが、この人が仕切る格闘技興行を見てみたいとは思った。
いや、そのようなカタギの立場になってどうする。
俺はこの人が仕切るのを手伝わなければと澤は思った。
陰陽トーナメント開催後、板垣組に分裂騒動が起きたことは有名である。
組が大きく揺れたことで、関連組織・事業にも波は広がり、当然コングスリーパー社も興行の開催が危ぶまれるまでの状態となった。
そして追い討ちに、複数の週刊誌が板垣組とコングスリーパー社の黒い関係を大々的に報道した。
報道の影響でコングスリーパー社が地上波放送を打ち切られ、興行が完全に開催できなくなって数か月経った時だった。複数の企業役員・国会議員・大学教授・現役選手・元選手・指導者などが集まり、全日本プロフェッショナル格闘家協会の設立を宣言した。プロ格闘家達の権利を守るための組織として、大きく注目を集めた。
そして、連盟の趣旨に賛同した有名企業が名乗りを上げ、新たなイベント会社がその企業の子会社として立ち上がり新格闘技興行の開催が決定した。
日本の格闘技界は、巨大なショックの後に新たな展開を迎えつつあった。
9:とうとくおごそかでおかしがたいこと
「だから、何度も言っているだろ。ウチと関わりある『佐川』は二人いるって。海外で戦っている方の佐川と、ヒットマンやってる方の佐川だよ――わかったわかった、海外の方な」
格調高い椅子にかけた、スーツ姿の男が電話で話している。電話の相手は男の部下らしく、要領を得ない部下からの報告に男はいら立ちを隠しきれていないようだった。
ようやく通話を終えた男は、自分のことを憮然とした面持ちで見ていた人間の存在に気付く。
「――これは会長。すいませんでした、急に仕事の電話が入ってしまいまして」
「会長は勘弁してくださいって。その呼び方、結局慣れなかったですし」
「それを言うなら、そちらも敬語はやめてくださいって。俺と塚山さんの仲じゃないですか」
ここは日本。青龍ホテル内のバーで、この日は二人のために貸切りとなっている。
新たに椅子にかけたのは、デビル塚山。全日本プロフェッショナル格闘家協会の会長を務める総合格闘家である。
陰陽トーナメントから二年近くが経って、日本のプロ格闘技は活況を呈していた。
陰陽トーナメントと同じ刺激を観客には与えられないが、陰陽トーナメントとは別の刺激を与えることに成功した日本の格闘技界の中心にいるのが、全日本プロフェッショナル格闘家協会である。
協会員は有名無名を問わず既に三百人を突破しており、最早協会所属選手無しの格闘技興行は日本では有り得なくなっていた。
協会はコングスリーパー社のスキャンダルがあった後に立ち上がったこともあり、協会所属の選手はクリーンな運営をする興行にしか参加をしないという理念も掲げていた。また、選手個人も反社会組織との関わりを許さず、格闘技界以外の人間で協会に関わる人間も社会的地位のある人間ばかり。それが、世間から支持をされている理由でもあった。
「何か飲みます? あ、酒は控えているんでしたっけ……」
「ああ、水をもらえれば」
塚山が向かい合う相手は、協会の最高顧問を務める男。ただし、協会のホームページを含め表に見えるところには一切名前が載ってはいない。
男は、日本最大の暴力団・板垣組の大幹部だった。
「ちょっと聞こえたが、海外で戦っている佐川ってあの?」
「そう、マサオ・サガワです。いよいよヘビー級のベルトに挑戦らしいんで、向こうのプロモーターと話を詰めているとこでして」
向こうの裏社会の人間は自国の人間がベルト巻いてなきゃ許さないことが多いからこっちルートで話を付けないとね――と、いうようなことを板垣組の男は漏らす。
端的に言えば、日本のプロ格闘技興行のほぼ全ては板垣組――それも、分裂騒動の末に誕生した新体制の板垣組の息のかかったものとなっている。クリーンな運営・反社会勢力の追放は建前であった。
「総合に転向して一年もせずにベルト挑戦。やっぱ柔道の代表クラスの才能は違うんですかね」
「そうでしょうよ。何でリングネームを佐川雅夫なんてのに変えたのかは知らないが、間違いなくアイツは強い」
「ええ、強いですよね。時々精神的に不安定なところを見せるんですが、まさか薬でもやってるんですかね? まあ、やっててもいくらでも揉み消せますが、海外の興行になると難しいかな……」
二人が話題にしているのは、川上竜のことだった。
陰陽トーナメント大会中に姿を消した川上だったが、その一年後に突如姿を現し、総合格闘技への転向を表明した。そして、リングネームを『佐川雅夫』と変え、破竹の勢いで白星を重ねた。現在は、アメリカ最大の格闘技団体のタイトル戦線に絡んでいる。
塚山は雑談のため川上の話題を振ったが、『ヒットマンの方の佐川』については触れなかった。いや、これについては聞かなかったことにしている。
この大幹部とは協会立ち上げの前後から何度も顔を合わせ、向こうから敬語も使わなくてよいとも言われそうしているが、やはり『裏』の部分については踏み込み過ぎないように塚山はしていた。この男は物腰は柔らかく、あの槌屋よりもずっと若いが、時折見せるその筋の人間らしきオーラは尋常ならざる物があると感じている。潜ってきた修羅場がそうさせているのかなとも思った。
「さて、本題に入りますか。来週の会見なんですけど、この通りに進行します。で、会長――塚山さんのコメントはコレです」
男の部下がテキパキと書類を取り出し、塚山に渡した。書かれていたのは、来週マスコミに向けて行われる記者会見についてだった。
この会見で塚山は、全日本プロフェッショナル格闘家協会の会長の座を降りると発表をするのだ。
「――だいたいわかった。こんなことの打ち合わせのために板垣組の大物の時間を使わせて悪いな」
「何をおっしゃる。格闘技興行は、新体制となった板垣組のシノギの中でも重要な位置にありますからね。それに、俺も塚山さんも、立ち上げ前から動いていた協会が新たな局面を迎えるんだ。力が入りますよ」
書類に目を通し終えた塚山に板垣組の男がそう話すと、塚山は目を細めた。
立ち上げ前――か。
陰陽トーナメントを終えて帰国した塚山は、バルトロメウス・バッツドルフをボディーガードに付けながら青龍ホテルでの寝泊りを続けた。これも梶原からの指示で、タン・チュンチェン所有のこのホテルならば板垣組は手を出せないからここを拠点に動けと言われたのだ。
梶原が言った「動け」とは、コングスリーパー社と契約をしている選手を中心に、格闘家達を新たに立ち上げる協会に勧誘をしろというものだった。
具体的な指示を貰った時には既に協会設立に向けた流れは出来上がっており、やがてコングスリーパー社も板垣組もめちゃくちゃになり選手達は見事に己の明日を案じ始めた。
それからは何もかもが梶原の狙い通りになり、塚山が指示の通りに動いて一段落した頃には日本の格闘技界は一新されていた。気が付けば、よく働いた褒美にと塚山は初代会長の座をもらってしまっていたのだった。
あのマカオで、塚山の周囲にいた者達の運命は様々だった。
コングスリーパー社の役員も務めていた板垣組の槌屋は、社のスキャンダルが取り立たされてしばらくした後、地方都市のビジネスホテルで自殺しているのが発見された。その遺体にいくつもの外傷が認められたが、ともかく自殺として処理をされた。
槌屋と共に塚山を追い込もうとしていた板垣組の吉田は、分裂騒動の抗争中に命を落とした。
コングスリーパー社の代表だった中島は、スキャンダルの直後に代表を辞任。しかし、今はちゃっかりと協会の裏方として働いている。決して表に名前も顔も出ないが、今まで通りダーティな興行師のスキルを発揮している。蛇足だが、流石に以前よりは痩せたようだ。
バルトロメウス・バッツドルフは塚山のボディーガードの任が解けてからも日本に何度か来ており、その度に塚山の家に転がり込んでヤクザ映画のDVDを観たり、一緒に酒を飲んだりした。つまり、友人関係になってしまっていた。
それでも彼が日本で何をしているかは教えてくれなかったが、最後に会った時に「次勝てば俺もやっとA級に昇格できる」というようなことを言っていた。塚山には彼の言うA級が何を意味しているのかは知る由もなかったが、あれから半年以上音沙汰がない。
そして――
塚山がセコンドを務めた石橋強は――
「――繰り返しますが、あくまで『立ち上げから協会を軌道に乗せるまでが自分の役目だと思っていた』というスタンスでいてくださいね。協会内部がゴタついていると邪推されるのは避けたいんで……塚山さん、聞いてます?」
「あ、ああ……聞いてるさ。最後は新会長の梅拳とがっちり握手だったな。まあ、俺よりずっと人気が有るあいつがトップなら世間的にも大丈夫だろ」
塚山は少し焦ってもう一度渡された書類に目を通す仕草を見せる。
「もしかして、さっき俺が協会の立ち上げ前がどうとか言ったから、その時のことを思い出していました?」
塚山は黙ってしまった。
「まあ、無理もないですよ。あの時から今日まで、本当に色々あった。
そして、あの陰陽トーナメントは本当にすごかった……塚山さんも、石橋強のセコンドとして関わって、今があるわけですからね。
本当に、お疲れ様でした」
「ああ、俺の今があるとか、板垣組のあんたが言うなよって気持ちもあるがな」
そう言って苦笑した。本心だった。
「ははは。でも、石橋強……強かったですね」
「そりゃあ強いさ。あれ以上に強いボクサーを、俺は知らない」
「そういえば塚山さん、石橋とケンカして負けたって噂、本当なんですか?」
塚山はまた黙ってしまった。
「――本当だよ。あいつが俺を襲撃したみたいな形だったが、完敗だった」
ようやく口を開き、そう言った。どうせこの男に知られたところで、どうということはない。板垣組の大幹部様に嘘を付けないという本音もあったが。
「はぁー――となると、何でそんなことがあったのに石橋のセコンドに?
マカオでも、石橋のために槌屋達に反抗したそうじゃないですか」
嫌な質問をされたと塚山は思った。そして、これも答えなきゃならないのかと顔をしかめたくなる。
困ってしまう最大の理由は、その答えは、陰陽トーナメントから時間が経った今でも自分の中で上手くまとまっていないことにある。
侮辱されて殴り倒されてまた侮辱された――それでも、セコンドとしてあいつの勝利を願った自分の気持ちを、整理ができない。
ただ、石橋強が最強だと信じている自分がいたことだけはわかってはいたのだが――
だから、塚山は投げやりにこう返した。
「俺自身、今でもセコンドをやった理由はわからないでいる。金のため――ってのもあったんだろうが本当のところは……誰か教えてくれないかと思ってるよ」
投げやりだが、本心でそう言った。
板垣組の男はそれを聞いて少し考えた。そして、
「うーん。塚山さんの求める答えかはわかりませんが……昔、組長にこんなことを聞いたことがあります。あの陰陽トーナメントでは、多くの人間が強さや戦うことに関して、損得抜きの何かを原動力に動いてたんじゃないかと思ったんです。
そしたら、梶原さ――いや、組長はこう言ったんです」
板垣組若頭・澤信望は、少し息を吸ってからこう続けた。
「抽象的な答えでいいなら、『尊厳』のためだろうな――と。金より大切な、尊厳を守るためなんじゃないか――と。そう言いました」
尊厳。その一言に、塚山は胸を突かれたような感覚になった。
「塚山さんは、俺と違って戦う側の人だ。俺より、この意味がわかるんじゃないですか?」
澤のその言葉を、塚山は噛み締めている。突かれたような感覚はやがてなくなり、気が付けば胸はスッとしていた。
「そうか。そうだったのかよ……」
一人納得した様子で、塚山は自嘲気味に笑った。
デビル塚山はボクシング出身の格闘家である。
ボクシングという格闘技に、自分なりに誇りを感じているし、ボクシングをしている全ての人間に一定の敬意を抱いている。
そして、ボクシングが最強の格闘技だと信じ、それを証明したいと思っていた。
それくらい、ボクシングについて特別な思い入れがあった。
――だが、自分ではそれは叶わなかった。
だから、自分に代わり、しかも自分が身を投じていた場所よりもずっと相応しい場所――陰陽トーナメント――でボクシングの最強を証明しようとしていた石橋強に――
敬意。いや、それよりも更に大切な物を抱いていたのだ。
ボクシングの最強を証明するのに最も相応しい最強ボクサーへの『尊厳』が、マカオで塚山を動かしていた。
「若頭、ありがとうございます」
「ん? あ、ああ。そうですね。打ち合わせもこれで済みましたし、お送りしましょうか」
澤は塚山からの礼の言葉が一瞬何に対してのことかをわかりかねていたが、塚山が席を立ちあがりたいのだと察し、部下に合図をし帰りの車を出させようとした。
「じゃあ、会見の方は頼みます。それが終われば……トーナメントですか。そちらも頑張ってください」
「ああ、やってやりますよ」
デビル塚山は半年後に日本で行われる中量級の異種格闘技トーナメントへの参戦が決まっている。協会の会長を辞するのも、このトーナメントに集中をするためだ。
試合形式は国際的に普及している総合格闘技のルール。当然陰陽トーナメントに比べれば制限だらけだが、広く誰もが参加できるルールでの勝負にも価値があると塚山は思っていた。
さあ、次は自分自身の尊厳のための戦いだ。
そしてこれは、ボクシング最強の証明に再び自分が身を投じる戦いでもある。
おっと、あの野郎からしたら俺がやっているのはボクシングじゃないんだったな。
「――だがよ、コロポックルにだって意地があるんだぜ」
板垣組の人間が運転する車の中で、デビル塚山はそうつぶやいた。
最強の格闘技は何か? その答えの一端になってやると思い、強く拳を握り締める。
The Second Game × Another World