涙の純度
涙の純度
彼女は歌手を目指している。しゃがれた声でシャンソンを歌う。駅前の廃れた飲屋街からさらに離れた工業地帯と住宅街の隙間。時間に忘れ去られたシャッター街の、お伽話に出すには余りに綻びが過ぎた小さな小箱。
夜の闇に塗れさせなければ決して人に見せる事の出来ない世界から隔絶されたその小さな箱の中で、スポットライトが照し出す小さなステージで今日も歌う。
酔っ払いの冷やかしの声も投げつけられるピーナツも気にはならない。恋人のいない寂しさも、食うに困る明日への不安も、年老いた母親の病状も、衣装の取れかけたスパンコールもステージに立って歌えればそれだけで全て忘れる事が出来た。
歌が好きで歌う事が自分の全てだった。
豚の様に太った体でソファから動こうとしないオーナーの前でひざまづいてする日課となった行為も全てが歌の為だった。
「歌わして欲しいの、お金なんていらないから」
化粧をしてオーナーの言う通りの服を着て扇情的に体をくねらせて見せる。
「もう良い、早くしろ」
オーナーはポルノ雑誌を手に取ると片手でめくり、黙り込んでベルトを緩めた。
彼女は服を着た豚の股ぐらに顔を埋めると、いつもの様に別の事を考え始める。
今日も母親の事だった。女手一つで彼女を育ててくれた母親は夜の仕事をしていつも疲れきっていた。年老いて寝たきりになり枯れ木の様に痩せ細って言葉すらもまともに交わせなくなって随分と経つが、思い出す母親の姿は綺麗なドレスを着てステージでライトを浴びたその姿だった。
表情にいつもの疲れは一切なく、マイクを持って歌う姿はまるでスター歌手の様に光って見えた。何も知らない子供の彼女にとって母親は本物のスターだった。
「来てはいけない」言いつけを破り、こっそりと後をつけた夜の帰り道。母親の様になるのだと固く心に誓った。
抱いた憧れに少しでも近付こうと、母親の化粧道具を黙って使い、真似事をしているところを見つかって叩かれた。
「気持ち悪い子!」
鏡を見ると下手くそな口紅がはみ出していて恥ずかしくなり目を逸らしたが、隠れて何度も何度も練習し、いつしか化粧をする時間よりも、鏡を覗き込む方の時間が増えた。
高校に行きバイトが出来る様になると、大人びた化粧をし内緒で買った服を着込み夜の街に出て、男の目を引いたり時には声をかけられたりする事が密かな愉しみになった。
声をかけて来たうちの一人から伝手を辿り、高校を卒業する前に母親と同じ夜の商売へと身を沈めた。
稼いだ金でボイストレーニングの教室に通い、グランドピアノの置いてある店で歌う様になれた。
時代が移り変わり自分の立てるステージの数が減り随分と歳をとっても、母親のあの姿を追い続けてステージに立つ事だけが生きる喜びだった。与えられた時間は場末のショーパブのショーの合間、他の人間から色物として扱われている事も知っていた。それでもステージに立っていたかった。
オーナーの部屋の壁は薄く。
……アイツなんなの?……。
ショーを控えた化粧室にいる女達の声が聞こえる。
……踊れない、歌は下手、歳は食ってる……。
彼女は一心不乱に頭を動かす。
……歳食ったおかま程この世の中で醜い生き物いる?……。
オーナーが頭を掴んで揺する。
……死ねばいいんだよ。迷惑なんだよね、こっちは本気でショーのクオリティ上げようとしてるのに……。
着けていた金髪のカツラがずれ、オーナーの舌打ちが響く。
……知ってる?アイツがステージに上がれる理由……。
彼女は自分の目から流れる涙の理由を探している。きっとえずいたからだ。
……色物枠だからじゃなくて?……。
笑い声が響く。
……知らないの?アイツ、あいつオーナーのさ……。
「五月蝿いぞ!お前ら!」オーナーが壁を殴りつけた。
「もう良い、戻れ」突き飛ばされる様にして彼女は部屋を追われた。ドアの前で振り返り、オーナーに懇願の目を向けると、金髪のカツラを投げつけられた。
「それを持って失せろ!」
ショーが始まる。ステージに向かう水着に飾り羽をつけた女達とすれ違いに顔を伏せた彼女は誰もいない控え室へと独り戻る。
「何か匂わない?」「栗の花の香水?」「変わった香水」背中から女達の笑い声が響いた。逃げる様に化粧室の扉を開くと、むせ返るような雌の匂いが立ち込めていた。兎の耳のカチューシャ、狼の着ぐるみ、背中につける蝶の羽、ボンテージスーツに警官の帽子と手錠。ショーに使う道具と衣装が散乱したその部屋はお伽話の裏側で、時間の止まった隠れ家だ。
裸電球が灯る薄暗いいつもの化粧台の前に座ると、鏡の中に見知らぬ化け物がいた。
カツラを被る為に短く刈り込まれた髪の毛、首と顔でちぐはぐな色のファンデーション。隠しきれない目の下のクマ。涙に溶けたマスカラが伝う痩せこけた頬。乱された赤い口紅がはみ出している。
「気持ち悪い子」
呟きはいつかの母親の叫びと重なって。
彼女は手にしていたカツラを鏡に映る自分に投げつけた。筋張った男の両の手で顔を覆い、肩を震わせ彼女は咽び泣く。壁は薄く、声は出せない。
女達が言った年老いたおかまの醜さが許せなかった。こんな場所で独り泣き濡れるしか方法は見当たらない事に我慢ならなかった。酒に焼けた声のせいにした才能の無さが憎かった。褒めてくれなかった母親が憎い、道具として扱う男たちが憎い。男として生まれついた事が憎い。普通の幸せを享受する奴らが憎い。汚れた、汚した汚された体が憎い。外見だけじゃなく、全てを憎む醜い自分の心の有り様が憎い。
世界から隔絶された孤独の部屋で、鏡を覗くと化け物がいる。目の周りは真っ暗に染められ、つけまつげが頬にへばりついている。溶け出したファンデーションと、拭った口紅が裂けた口の様。
きっと今の私は世界で一番惨めで醜い。
そう信じて疑わない彼女の頬を伝って零れ落ちたマスカラ混じりの黒い涙は、スポットライトを受けて光るスパンコールよりも美しい、純粋な哀しみの結晶だった。
涙の純度