僕らは共犯者

 創業七十年の歴史で、二階の床が抜けそうだ。
 二階建ての社屋は、一階が事務所であり、その上のワンフロアを倉庫にしている。剥き出しの床板にはずらりと書類が並び、月毎・年度で綴じられている売上実績や商品在庫の記録は、超高層ビル群のように堆い。足の踏み場もないとはまさにこの惨状。わたしはなるべくビルがドミノの末路を辿らぬよう、けれど作業の手は素早く、てっぺんから崩しながら目当てのファイルを捜索中である。
「桜庭さん、あった?」
「ありませーん」
 四十台半ばの先輩事務員とファイルを引っくり返しているが、支店長が要求する一冊は見当たらない。A4サイズ、表紙は白の厚紙、横綴じでページ数は平均五十から六十。数冊重ねれば鈍器にも成り得るだろうそれを、抱えては下ろし、抱えては下ろしと、なかなか腰にも厳しい作業を繰り返す。被った埃が上げ下ろしの動きで舞い上がり、先輩に至ってはマスクを装着していた。
 当社の歴史を総浚いするには、圧倒的に時間が足りなかった。しかし、スーツの上にトレンチコートを着込み、薄地のマフラーを巻いている支店長の姿はまさしく海外マフィアのそれであり、ましてや部下である若手の営業マンを叱責する声は、仁侠映画で恫喝する極道者のように濁って太い。女性社員には極めて紳士的である支店長だが、毎日そうとは限るまい。もちろん、「すみませぇん支店長、見つかりませんでしたぁ」と職務放棄をすることは、一社会人の沽券に関わる。冷静になれ、桜庭雨音、相手はたかがファイル一冊。創業して間もない時期の記録を掘り返せと命じられたのなら上目遣いと猫撫で声のコンボも辞さないが、わたしたちが捜し求めているのは先々月の在庫管理記録である。入り口から程近い場所に置いたに違いない……と救済を願いながら紙の高層ビルを崩していると、やっとこさ、目的の「彼」とご対面できたのである。捜索開始から二時間四十分、ブラウスにスカートの装いである事務員には、過酷な重労働だった。
「お疲れ様、桜庭さん。支店長が、少し長めに休憩取りなさいって」
「わあ、ありがたい。腕も腰もバッキバキですよ」
「本当にね。ぎっくり腰にでもなったらどうしてくれるんだか」
 給湯室で電気ポットに水を注いでいると、同じく休憩にやって来た先輩が言った。わたしは疲労が浮かぶ顔で笑みを作りながら、満タンになったポットの蓋を閉める。左手を捻り、手首の内側に固定されている盤面を一瞥すれば、針が示している時刻はちょうど昼の十二時。どこか飲食店にでも行こうか、と予定を立て始めたところで、先輩の肩がこつんとぶつかってきた。
「ねえ、桜庭さんて、営業の辰巳君と付き合ってる?」
 直球である。二児の母で、上の子は高校生だというが、とてもそうは思えない若々しい顔立ちが迫る。化粧品特有の香料が鼻腔を刺激し、さらに濃厚なヘアスタイリング剤によって上塗りされる。睫毛はいっそ刷毛のようにボリュームがあって、「家庭に入ってからも女を棄てずに磨いています」と言いたげな潤った風貌は、あと数年も経てば三十路の大台に乗る自分を間接的に急かしているように思えて、居心地が悪い。
「ただの噂ですよ」とここは障りのない模範解答。微笑みを添えて。
 すると二児の母は、来週放送のトレンディドラマが待ちきれないといった面持ちで目を輝かせた。期待を煽る発言は慎んだ筈なのに、模範解答ですら彼女の脳内ではスパイスに等しいらしい。これは何をどう答えても都合良く……あるいは、こちらにしてみれば不都合な受け取り方をされるのだろう未来が過ぎった。
 営業部で実績を上げている辰巳英一郎は、社内随一の叱られ役である。彼が居るところ、支店長の罵声あり。出る杭は打つ、いや、打ち壊す勢いで日々怒号を放たれている彼だが、メンタル面はとにかくタフだ。打たれて折れた杭は生やせばいい、いつしか彼はそんなふうに豪語し、事実、入社してから今日まで、氏の口から「もう辞めたい」とは一度たりとも発せられたことがない。
 容貌も爽やかで、仕事に差し支えるからと染髪していない短髪は艶と鮮度がある。学生時代は運動部に所属し、体つきも立派で長身、笑顔のたびに覗く白い歯は、世代の古いコマーシャルを髣髴とさせる。性格も優しい。これだけの特徴を列挙するだけでも、否応なく人柄は見えてくるものだ。実のところ、こうした交際を疑う声は半年前からあったが、彼とは親しいがそれは同期入社だからで、お付き合いはしていなかった。
「みんな疑ってるわよ? 辰巳君と桜庭さん、たまにお昼一緒だったりするじゃない?」
「同期入社ですから、タイミングが合えばお昼ご飯くらいなら」
「羨ましいわぁ。誘ってもらえるの?」
「……まあ」
「いいわねえ、私も誘われたい。ご飯奢っちゃう」
 好青年は得な生き物だ。無条件で人妻に食事をご馳走してもらえるのだから。
「逆に誘ってみるといいですよ。あの人、話好きですから」
「営業さんトーク?」
「あの支店長にしごかれてるだけあって、言葉選びはセンスがあると思います」
 何様だろう、とは言うなかれ。
「女を褒めるのも上手なの?」
「それは、褒めて……」もらいたいのか、と半ば反射的に口から飛び出しそうになるのを、寸前で堪えた。「──いえ、あの、上手だと思います。楽しい会話をしてくれる方なので」
「ふぅん」
 その後も先輩事務員による辰巳英一郎氏の賛辞が行列を起こし、わたしは一字一句丁寧に耳に入れてから、すぐに流した。種の保存という名目において辰巳英一郎は逸材であるのだろう。しかし、理想と現実は易々と結びつかぬもので、つまり彼は好みの男性ではないのだ。一刀両断にするのも憚られたので、社会人になってから磨いたお愛想を活用し、その場を凌いだ。
「辰巳! お前また取引先に連絡してねえだろう!」
「あっ、すみません! 今します!」
 事務所に戻ると、早速「叱られ役」が怒鳴られていた。暖房の風を丸ごと押し返してしまうような圧のある叱責が飛び、比較的ゆったりとしている室内に緊張感を加える。辰巳さんもちょうど外回りを終えて帰社したらしい。コートを脱ぐ暇もなく電話機に手を伸ばし、縦に長い体を折り曲げながら、オフィスチェアにぎゅうぎゅうと押し込んでいる。窮屈そうだ。そして受話器を握る傍らで、空いている手を使って携帯端末を操作する。器用だな、と様子を窺いながら着席すると、事務員用のデスクに置き去りにしていたわたしのスマートフォンがぶぅんと震えた。
『昼飯奢るから、えんとつに行こう』
 えんとつとは、老舗の洋食店の名前。
 振り返ると、電話応対中の辰巳さんの背中が見える。彼はひらりと手を振った。

 ○

 その日はなるべく、縦長に伸びた突起物を目に入れたくなかったのに。
「二階の散乱っぷりを思い出してうんざりする」
 口を尖らせる。ランチメニューのホットコーヒーで体内を暖めても、心はそうもいくまい。カントリー調の店内の、窓際の席からは、国道を挟んだ向こう側にフレンチレストランが見える。あちらの駐車場は閑散としているが、こちらはお昼時のため大盛況だ。「社会人になったら昼休みはえんとつで食え」と地元企業の先輩方が挙って薦めるくらいに、洋食店えんとつは馴染み深い名店なのである。
 デミグラスソースの半熟オムライスは本日も非の打ち所なく、雲を口に含むことができたらこんな食感がするのではないだろうかと連想するようなやわらかさだった。そういえば、人生で五回ほど搭乗した飛行機では、窓を開いて雲を食べられたらいいのにと稚拙な妄想をしたものだ。
 それはさておいてもだ。文句たらたらなわたしだが、えんとつは贔屓にしている店だ。「じゃあラーメン屋でも良かったのか」と辰巳さんに問われたら、そんな馬鹿なと即答した。トレードマークの煙突は、店名になるほどだ、威風堂々と屋根から突き出していて遠目でも位置が把握できる。車の助手席で、縦長のそれを見た瞬間、事務所の二階で連なっていた紙の塔を想起し眉間がぐっと寄ってしまったが、洋食店に罪はない。美味い物は美味い。
「麺の気分じゃなかったわ」
「じゃあ文句言わない。あと、律儀に俺の話にも乗っからなくていいから」
「聞いてたの?」
「あのな、給湯室は事務所の裏口側だろ。俺、裏口から戻ったから」
 なんたること、盗み聞きされていたようだ。
「いつもは表から帰ってくるのに、どうして今日は裏口なの」
 今度は辰巳さんが口をつんと尖らせる。駄々を捏ねる子どものよう。
「領収書切り忘れてばつが悪かった」
「……いい年の大人のくせして」
「うるさい。そうしたら、給湯室が女子会ムードだろ。あそこ、仕切り作るべきだと思うぞ。通りづらいってみんな言ってる」
「パーテーション置いても、声は通るもの」
「そうなんだよな」
「だったら、我慢して。わたしだって、乗り気だったわけじゃないの、わかるでしょ」
「桜庭が俺に微塵も興味がないんだな、というのはびしびし伝わってきた」
「女同士はね、いろいろ大変なの。気に入られようなんて思わないけど、気に食わない、なぁにこの子、可愛くないわねなんて睨まれたら職場ではやっていけないの。円滑な人付き合いのためには、謙虚さを演じる必要もあるんです」
「ほーお。それで、デザートは?」
「フォンダンショコラが食べたい」
「すみません、追加お願いします」
 わたしと同じ年代と思しき女性の給仕がやって来て、追加注文を細長い伝票に書き足してから笑顔で去る。テーブルの端に伏せられた紙を、辰巳さんがぺらりと捲った。
「奢るなんて言わなきゃ良かった」途端に渋い顔をするので、わたしは声を立てて笑う。「一口あげるから。ここのフォンダンショコラ、美味しいのよ。今の時期しか出してくれないの」
「冗談だよ。デザートの追加ぐらい気楽にしろ、ちゃんと払う」
「そういうの、わたしはいいけど他の女性にするのやめたほうがいい。絶対に誤解される」
「事務の奥様方にか? 俺はそこまで紳士じゃない」
 辰巳さんは煙草のソフトケースから一本取り出し、咥えたそれにジッポライターの火を持っていく。炙られた先端は、彼が呼吸をするごとに発光する。以前、パトカーの赤色灯に似ていると指摘したら、身に覚えがないのに後ろめたい気分になるからやめてくれと嘆かれたことがあった。
 煙草が燻り、暖房の風でたちまち吹き消される。辰巳さんは、その行く末をじっと凝視し、けれど口調は苦々しい。
「そもそも、偏見で見られるのは好きじゃないんだよ」
「ああ、弟もよく言ってる。人格を一方的に否定されるのは構わないけど、先入観で固定されるのは苦痛だ、悪人扱いされるほうが余程ましで、理想を押し付けられるのは迷惑だ、って。正解?」
「全面的に同意するな」
 フォンダンショコラが来た。しっとりとした生地に、フォークの先端を埋める。
「まあでも」灰皿の窪みで弾いた煙草から、灰が落ちる。不思議なことに、切断された灰は形を崩さず留まっているのである。角砂糖のようであり、吸殻で潰すと灰は灰でしかなく、砂浜で波に削られていく城のようにも見える。正体は単なる灰だ、役目を終えた廃棄物だ。視線が引き寄せられて、そんなふうに、節榑立っている指とその動きを眺めていたら、彼は言った。
「桜庭と噂になっているうちは、安泰だろ」
 視線を上げる。ほう、と薄いくちびるから紫煙が逃げていく。
「辰巳さんが?」
「桜庭も。そういう約束で、俺らはこうしてる」
 わたしは頷いた。
「そうね。でも、たまに不安にもなる」
「露見しないかどうか?」
「嘘なんて、ちょっとの刺激で崩れてしまうわ」
 砂のように。灰のように。
 辰巳さんは一笑した。
「そうならないために、立ち回ってるつもりなんだがな」
「本当に、タフね。不倫なんて、高度すぎて隠せる気がしないもの、わたし」
「俺は好青年なんだろ? 普段から猫かぶりはしとくもんさ」
「本当は泣き虫で、酒に弱くてすぐ酔っ払って、麻雀は負け越してるし勝負強さもなくて、とことん情けない人なのにね。スーパーマンの素養があるのに活かし切れていないの。まあそれでも、人間味があって、わたしは好ましいと思う」
「じゃあ、偽装結婚でもするか」
「やめてよ。わたしとセックスできる?」
 いずれは孫の顔を、と母にせがまれる日も遠くないだろう。わたしはどうしたって弟との子どもを産めないのだから、偽装結婚を受け入れるのならカモフラージュの一環として伴侶との子どもを儲けなければならない。わたしは弟を愛している。実の弟に愛欲を抱く破綻者である。だが、最愛の男との子どもは望めない。かといって、隠れ蓑にしている辰巳英一郎と子どもを作るのか。
 辰巳さんは、誰もが騙されるであろう爽やかな微笑みを湛えた。
「抱けるか抱けないかなら、抱けるよ」
「顔を隠せばできてしまう?」
「人妻を寝取ってる最低男に、今さら誠実さなんて求めなけりゃ大概はどうとでもなる」
「……さすが、最低」
「どうも」
 辰巳さんが、吸殻で、灰の塊を押し潰した。

僕らは共犯者

僕らは共犯者

姉と同僚の話。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-23

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