ちらうら
1
外に出て実際に体験することが、そんなにいいことだろうか。
自室に籠もって何時間も同じ体勢で妄想に浸っているのは、そんなに悪いことだろうか。
音も匂いも感触もないけれど、それがあるのとないのとで、何が変わる。
その差が何に影響するのだろう。
想像ってもっと豊かですばらしい。
この先二度と外に出られないとしても、想像力がなくならない限り何も心配はいらない。
世界は頭の中に広がっている。
広がりすぎてとても一度の人生ではまわりきれない。
大切な家族は、もうすでに頭の中。
気の置ける仲間も、尊敬する恩師も、苦手な奴も、これから出会う人間もみんな頭の中にいる。
自分が一人だなんて感じたことは一度もない。この先もきっとないだろう。
外の人間は、こちらに憐憫の目を向けることがある。
でも僕は、自分をかわいそうだと考えたことも一度もない。
むしろ外の人間に同情さえしてるほどだ。
きっと彼らは世間というものに縛られて、やりたいこともやりたいようにできないのだろう。
狭苦しい枠に収まっているちっぽけな自分を肯定するために、他の誰かを攻撃しないといられないのだろう。
その相手に僕がたまたま選ばれただけだ。
彼らの言葉に傷つけられることは、もうない。
僕はいつだって大切な人達がそばにいるし、外の人間とは比べものにならないくらい波瀾万丈で、楽しい人生を送っている。
経験なんてものは、想像力で補えるのだ。
頭の中では、人間としての生活だけにとどまらない。
鳥になって空を飛び回れるし、猫になってのんびり日向ぼっこもできる。
僕が作った僕に都合の良い世界だけれど、僕だって僕が次に何を考えつくのかわからない。
今日も、素敵な世界を旅しよう。
2
気が付くと、眼前に小さな女の子が立っていた。
少女は澄んだ笑顔でこちらを見ている。
何がおもしろいのかわからないけれど、楽しそうに嬉しそうに僕の顔から目をそらさない。
少女が口を開いた。何かをしゃべっている。
何を言っているんだろう。僕には少女の声が聞こえなかった。
なおも少女は口を動かして、僕に何かを伝えようとしている。
僕は顔を近づけてみたけれど、ほんの少し空気が擦れる音がしただけだった。
いや、それも気のせいかもしれない。
「ごめんね」
僕の一言に、少女は口の動きを止めた。
小さい前歯が唇の間からほんの少し見える。
しばらく不思議そうに僕を見つめてから、僕の手を取ってニッと笑った。
僕は少女の手を控えめに握り返して、ぎこちなく笑った。
少女は一言だけ何かを言い残して、そして消えてしまった。
その最後の言葉も、やっぱり僕の耳は捉えることができなかった。
そんな夢を見た。
目が覚めてもまだ夢の余韻が残っていて、しばらく不思議な気分だった。
しかし、思い出そうとすると記憶の端から崩れていって、そのまま少女の顔もぼんやりとしか浮かばなくなった。
家を出る頃にはすっかり頭が切り替わり、不思議な夢は生きていく上で必要のない情報として僕の中で処理された。
授業中も昼休みにも、それに意識が向くことはなかった。
結局、思い出されたのは、帰り道に少女の姿を見かけたときだった。
何かを探しているようで、ずっと地面を視線がすべっていた。
僕は手伝わないといけないと思った。
体は自然と少女の方向へ。
夢の中で会った少女が現実世界に存在しているという非現実感は感覚から抜け落ちていた。
とにかく早く見つけてあげないと。安心させてやらないと。
探し物はたぶんとても大切なものだ。少女にとっても、僕にとっても。
そんな気がした。
走り出していた。
声が届くくらいの距離まで近づいて、僕は途絶えた。
3
僕はとても頭が悪いから、きっとこの先、人の役に立つことはないだろう。
言わなくてもいいことを口走ってしまうタチだから、自分でも知らない間に誰かを傷つけるだろう。
僕の存在をこの世界は歓迎していない。
なんていうのはかなり大げさな言い方だけど、そういう心持ちで毎日過ごしているってこと。
世界っていうのは単純に、僕の周囲の人間って意味だ。
周りにいる人たちはみんな、家族も同級生も先生も近所の人も僕を快く思っていない。
憎まれているわけでも恨まれているわけでもない。
ただ、みんなにとって必要ではないというだけ。
僕は頭が悪いなりに、できるだけみんなの神経を逆なでしないよう努めている。
ドアを開けるとき、椅子を引くときはそっと丁寧に。
くしゃみや咳なんかも、下唇を少し噛むだけである程度は我慢できるようになった。
そうして、生活する上で発せられる音という音をできるだけ排除した。
耐える、ということは、頓馬な僕がみんなのためにできる、唯一のことだ。
いや、違うかもしれないな。本当は、もう一つある。もっと確実で……。
でもそれをしないのは、僕の大切な人がそれを望んでいないからだ。
彼女は僕の死を望んでいない。
彼女の言葉には、いつだって僕を思いやる優しさがこもっている。
そんな彼女を悲しませたくはないから、今日も現実を耐えるのだ。
彼女は僕の頭の中にいるのだから、僕が死ぬとき、彼女も消えるのだろう。
僕はひとりで生きることはできないから、彼女が死ぬとき、僕も消えるのだろう。
生も死も分け合った僕たちは、誰にも断ち切ることのできない絆で結ばれている。
寂寥感など微塵もない。
彼女が満たしてくれる。
彼女が笑っていてくれるなら、それだけで幸せだ。
4
不安になるくらいの白に囲まれていた。
無理やり醸し出した清潔感に居心地の悪さを感じる。
思わず逃げ出したくなったけれど、どうにも体が言うことをきかない。
ごめんなさい。
何を謝っているのかわからない。
ごめんなさい。
誰に向けているかわからない。
ごめんなさい。ごめんなさい。
状況をうまく理解できないまま、罪責感だけがまとわりついていた。
ごめんなさい。
わたしが何をしたのだろう。
ごめんなさい。
誰の許しが欲しいのだろう。
薬品の匂いが邪魔をして頭がうまく働かない。
気を張らないと、謝罪の言葉に思考が埋め尽くされる。
ごめんなさいの合間を縫って、自分がここにいるワケを思い出そうと試みた。
夕方だったと思う。
その日はとても暑い日で、太陽が沈んで少し薄暗くなってから犬の散歩に出た。
湿気を含んだ風をあびながらシェリーは舌を垂らしていた。
「もうすぐね、お父さんの誕生日なんだ」
肌ににじむ汗から意識を逸らそうと、私は話を始めた。
シェリーは聞いているのかいないのか、鼻を鳴らしてまた舌を出す。
その小さな反応が嬉しい。私を邪険にしないでいてくれるだけで、黙って隣にいてくれるだけで私は自分が幸福だと思える。
「去年はね、手作りのクッキーにしたの。でも、うん、あんまり喜んでくれなかったな。甘いもの、好きだと思ったんだけど」
床に散らばった光景を思い出す。
渡したクッキーはお父さんの口には入らなかった。
大きな足に押しつぶされて、砕けて、いくつにも分かれた小麦粉と砂糖の塊。
悲しい、と思った。食べてもらいたかったな、と少し落ち込んだ。
それなのに、割れたクッキーを拾い集める自分が笑っていることも自覚していた。
お父さんが私という存在を認識していることが嬉しい。まだ私は私でありつづけられる。
矛盾するような感情が同時に生じたけれど、それは混ざり合うわけでもなくて隣り合わせのまま体の内に居座った。
「今年は、どうしようかなあ」
ゆっくり顔を上に向ける。
電線だらけの空にため息をつく人は多いけれど、わたしにはこれが普通。
綺麗なものは、檻の中から少しだけ覗く程度がちょうどいい。
狭い世界に心地よさを感じながら、大切な家族と過ごせることが、わたしにとって幸せと呼べるものだ。
鼻の奥に小さな刺激が走った。
空も屋根も焼却炉の煙突も、景色はみんな水性だと昔から知っている。
「前みたいに、笑った顔が見たいね」
シェリーが同意するように顔をこちらへ向けるのを、わたしは横目で確認した。
聴き慣れたエンジン音が近づいてくる。
振り返ろうとして、留まった。
唸るような攻撃的な音。スピードは緩まない。
運転手がわたしを迎えにきたわけではないことを悟り、その場面を最後に、わたしは記憶を遡る作業をやめた。
いま自分が何をすべきか考える。
誰のために行動するのかと聞かれれば、当たり前のようにそれは家族のため。お父さんのため。
お父さんと私の小さな箱庭で、お父さんは管理者で神様で世界そのもので、わたしのすべてだ。
世界に拒絶されたら、わたしはそれを受け入れるしかない。
思い起こされた鈍い衝撃をかき消すように、一つの決断を噛みしめる。
するべきことは自明だった。
不思議と身体に痛むところはない。
ベッドから起き上がり、つやつやした床に足をおろした。
病院特有の不快なにおいも、足元の冷たい感触も、わたしの背中を押してくれるような気がする。
あの車にはきっと、クラクションもブレーキもついていなかったのだと思うことにした。
5
倒壊日和。
風のない空に崩壊の音が響く。
心地よい振動が僕の鼓膜を震わせた。
窓ガラスの破砕音が下方からものすごい速さで近づいてくる。
弾けるように、パン、パン、パン。
そのまま僕も弾けて粉々に飛び散ってしまえばいいと思う。
同時に景色が傾いて、無風の晴れ空の下で僕の髪がバサバサと後ろになびいた。
速度が増していく。空気が頬を切り裂くようで、痛かった。
だけど、目だけは閉じないように、最後の瞬間まで開けていられるよう、せいいっぱい神経を集中させた。
僕だけは、僕を見届けないといけない。無関心な世界に代わって、僕だけは僕を悼んであげよう。
迫りくる地面に、なぜか柔らかいぬくもりを期待して少し笑った。
ここへきて尚、他人から干渉されることを求めている自分が、どうしようもなく哀れだ。
死ぬことで僕は存在していることを証明できる。
泣きたくて、笑った。
せめて飛び散った僕を、ぼくの残滓を、誰でもいいから優しさで包んでほしかった。
ちらうら