ホタル川

 私の地元の広島には、「ホタル川」と呼ばれる川がある。ホタル川は市内に流れる太田川の支流の一つであり、本当の名を知っている者がほとんどいないような、ごく小さな川である。しかし、夏場にはホタルが見られるという理由から、そのように渾名されていた。
 2000年の夏の日、6歳の私は、親友のYと共にホタル川のそばを歩いていた。ほとんど日も暮れた時間帯だった。家からあまり遠くない公園、それも大勢で遊ぶという条件付きで、特別にそのような時間帯まで遊ぶことを許されていたのである。ホタル川は、公園からの帰り道だった。
 私とYは、その日あった友人達との出来事についてや、最近やったゲームについてといった会話を交わしながら歩いていた。話題が尽きことはなかった。話の途中でわたしがお道化てみせれば、Yはニヤリと笑ってわたしの肩をつつき、Yが怒ってみせれば、わたしはYの腹をつついて笑わせた。今となっては何が面白いのかはちっとも分からないことだが、その時はYとのそうしたやり取りが、どうしようもなく面白かった。
 話題はやがて、翌年から始まる小学校の事へ行き着いた。
「小学校、楽しみだね」
 Yはそう言って、笑いながら私の肩をつついた。私は笑って彼の指を払いのけ、彼の肩をつつき返した。
「いじめられるんじゃあないのか」
 私がそう返すと、彼は弾けるように笑った。それを見ると、私まで不思議と楽しい気分になった。ホタルが、あたりに飛び始めていた。ホタルの柔らかな光と、川のせせらぎの中、私とYは馬鹿の様に笑いながら歩いていった。
 そのうち、Yの家の辺りまで着いた。
「じゃあ、またな」
 彼はそう言って、家の方へと歩き出したが、何度か振り返りながら滑稽な表情をして、私を笑わせようとしていた。私は彼の仕草に笑いを堪え切れなくなり、思わず吹き出してしまった。
「またな」
 私は苦労して笑いを収め、してやったりという表情の彼に、別れの挨拶をした。帰路についた私も、彼も、また会えるという事に、全く疑いを持たなかった。私とYは親友だったからである。

 翌年、私は小学校に入学した。私はYの姿を探したが、彼の姿はその学校にはなかった。Yと私は、違う小学校へ進学していたのだ。私の学区には小学校が二つあり、私の親は近所の子供のほとんどが通う小学校ではなく、少し離れたところにある小学校を選んでいた。近所の子供たちが通う小学校は柄が悪いからというのがその理由らしかった。小学校に入学からしばらくして、私とYは一緒に遊ぶことは少なくなっていき、やがて会う事もなくなった。

 私とYが最後にホタル川を歩いた夏の日から、十数年の時間が経ち、大学生になった私は、またホタル川のそばを歩いていた。ホタル川は私がアルバイトに行く際、必ず通る道であった。その日も例にもれず、アルバイトの職場から帰宅すべく、ホタル川の側を歩いていたのだ。普段ならば自転車で通り抜ける道であったが、その日、私はたまたま自転車を修理に出していた。
 暑い、夏の日の夜だった。川の傍だというのに少しも涼しさは感じられず、ひたすらに蒸し暑かった。背中から滲んだ汗でシャツがじっとりと濡れ、言いようのない不快さが感じられた。早く帰宅し、シャワーを浴びたい一心で、私はせかせかと足を進めていた。
 ふと、私はホタル川の方を見やった。夏の日の夜というのに、ホタルは一匹も飛んではいなかった。十数年の間に、ホタル川は随分と汚くなっていたのである。オレンジ色の街灯に照らされた川面は、ホタルが住めそうもない色の水を湛えていた。今もこの川をホタル川と呼ぶ者が、一体どれほどいるのだろうと私は思った。そう多いとは、とても思えなかった。
 やるせない気分になった私は、街路へと視線を戻した。すると、少し向こう側に、私とあまり変わらない年頃の青年が歩いているのに気が付いた。ペンキの付いた作業着に身を包んだ彼は、Yに似ているように見えた。身体は大きくなり、顔も変わっていたが、確かにそれはYだった。
「Yちゃん」私は声をかけた。「久しぶり」
 彼は一瞬戸惑っていたが、すぐに私だと気が付いたようだった。
「Kちゃんか。久しぶり」
彼は一見して、疲れ切っているようだった。目元には小さなクマがあり、髪もボサボサになっていた。十数年ぶりの再会だった。
「今、何やってるんだい」
私は驚いた。私自身のその言葉が、想像以上に薄っぺらく、あっさりとしたものだったからである。しかし、私は彼の返事に、再び驚かされることになった。
「フリーターだよ」
 彼の返事は、私に負けず劣らず、薄く、あっさりとしたものだった。そして、それを聞いた私自身、特段の感想を抱くこともなかった。
「へえ、そうなのか」私は少し笑って答えた。笑うには努力を必要としていた。その事実自体が、私の心を打ちのめした。
 私は懐かしさから彼に声をかけたのが失敗だったことを、早々に悟った。私も、恐らくは彼も、互いに対して興味を持ってはいなかったのだ。私もYも、互いに興味や共感を持つには、あまりに離れすぎた存在になっていた。
「Kちゃんは、いま、何をやってるんだい」
 Yは、私に興味を持とうと努力している様子だった。しかし、その試みは失敗しているように見えた。
「今は大学生だよ。今日はバイトの帰りなんだ」
 私は笑顔に見えるよう、必死で顔の筋肉を動かした。
「そうなのか。Kちゃんも大変だな」
 彼はそう言って笑った。どこか、しぼんでいくような笑いだった。そこに、見るだけで私を楽しくさせた昔のYの面影は、少しも窺えなかった。反対に、今の彼の笑いは、どこかへ消えてしまいたくなるような、やるせない思いを私に感じさせた。
 耐え切れなくなった私は、ホタル川の方へ目を逸らした。夏の日の夜というのに、ホタルは一匹も飛んでいなかった。私は必死になって目で探したが、やはりホタルは飛んでいなかった。ホタル川は、見る影もなく変わってしまっていた。私の背から汗が滲みだし、私のシャツを濡らした。早くシャワーが浴びたい。私はそう思った。
 それから私とYは、ホタル川沿いに家への道を歩き続けた。話題は尽きようとしていた。私とYは必死で話題を探したが、やがてそれにも限界が訪れ、居心地の悪い沈黙が私たちの間に漂った。
 Yの家の辺りまで着いたとき、私は思わず安堵を覚えていた。大した距離でもなかったというのに、私は大変な疲労感を感じていた。彼の家の場所は、昔と変わっていなかった。
「それじゃあ」
 彼はそう言って、家の方へと歩き始めた。一度だけ振り返った彼に、私も「じゃあな」と別れの挨拶を交わした。またな、とは、私も彼もつけなかった。また会えるとも、会おうとも思わなかったからだろう。私はYの家に背を向け、家路についた。

 帰宅した私は、キッチンの椅子に腰かけて、マグカップに冷めたコーヒーを注いだ。コーヒーを一口だけ飲んだ後、タバコに火をつけた。煙を肺まで行き渡らせると、在りし日のYの姿が脳裏に浮かんだ。思い出の中のYは、やはり弾けるような笑い声でホタル川を歩いていた。想像上のYの笑い声は、私に楽しさも消えてしまいたくなるようなやるせなさも与えはしなかった。ただ、腹の底に沈むような、重い淋しさを私に与えた。
 私はもう、あの日の彼には出会えないし、彼もまた、あの日の私には出会えないのだと、私は悟った。口から煙を吐き出すと、脳裏のYはどこかへと消えた。タバコをもみ消し、コーヒーを飲み干すと、やがて、腹の底の淋しさも、どこかへと流れて行った。
感慨はなかった。ただ、少しだけ煙が目に染みたようだった。
(了)

ホタル川

ホタル川

私の地元には、「ホタル川」と呼ばれる川がある。市内に流れる太田川の支流の一つであり、本当の名を知っている者がほとんどいないような、ごく小さな川である。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-23

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