傀儡の恋

「くぐつ傀儡の恋」



『僕』

 僕は、彼女に恋してる。

彼女は、いつもそこに立っている。
誰かを待つように、この大きなショッピングモールの二階、一番目立つマネキンの置いてある、ファッショントレンドの中心みたいなところで、ずっと辺りを見回しながら立っている。
時にキョロキョロと誰かを捜すように。
僕は、どの入り口から入っても、必ず最初にそこを見る。
彼女がいるかどうか、確かめるためだ。
エスカレーターから上がっても、二階の通路を歩いても。
彼女は、いつもそこにいる。
ああ、彼女だ。彼女がいた。僕の心臓はドキドキと早くなり始める。

 彼女はとても魅力的だ。
彼女は、いつも違う服を着ている。流行の最先端のような服だ。
そして、それはいつもとても似合っている。今日は、つばの広い白い春めいた帽子。
髪は肩くらいまでのセミロングを、少し外巻きにカールさせている。
明るい感じがして、僕は大好きだ。
瞳はとてもパッチリとしていて、大きい。睫毛も長く、とても魅力的だ。
鼻はツンと高く、すっと通った鼻筋が、いかにも凛とした感じを与える。
唇は、少々控えめではあるが、薄くもなくしっかりとしている。
僕は彼女の表情一つ一つを見逃さないようにうっとりと遠くから眺めている。

今日の服は、黄色い水玉模様のブラウスに、白のフレアスカート。
素晴らしく、春を感じさせる明るいコーディネートだ。
胸のふくらみは、張りがあり、ツンと上を向いている。
腰のくびれは細く引き締まり、ヒップもきゅっと上に上がっている。
少しオレンジがかった黄色のパンプスが、アクセントになっていて、僕は彼女の全てに見惚れるように眺めてしまう。

彼女の名前は知らない。僕はいつも彼女を遠くから見るだけ。
彼女も多分、僕の名前も知らない。
僕がいることすら知らないかもしれない。
彼女は、いつもそこにずっと立って、何かを待っているようにしている。
恋人でも待っているのだろうか。そう思うと僕は嫉妬で胸を掻き毟られるようになる。

僕は遠くで見ているが、いつも矢も盾もたまらず、必ず彼女の方に近づいてしまう。
でも、彼女に話しかけたりはできない。彼女は僕のことを知らないんだから。
そして、その前を、チラリと彼女の方を見ただけで必ず通り過ぎてしまう。
ああ、また前を通り過ぎただけだ。
声をかけようといつも思うのだが、それができない。
しかし、引き返すのもみっともない。
でも、また会いたい。

明日も来よう。彼女はいるだろうか。
僕は、胸をときめかせながら足早に立ち去る。


『私』

 私は彼に恋してる。

 彼は、いつもここに現れる。
私が立っているずっと向こうから現れて、少し離れたところで立っている。
私は彼がどんなに遠くから現れてもすぐにわかる。
エスカレーターから上がってきても、二階のずっと向こうの通路から歩いてきても、どこから来たって、すぐに見つける。
少しくらい格好が違ったって、私にはすぐわかる。
ああ、彼だ。彼が、また来た。あの颯爽とした歩き方で。
私の心はときめき始める。

 彼は、とても魅力的。
少し日に焼けた浅黒い肌も素敵。
身長は180cmくらいかしら。結構大きい方だと思う。
私もまあまあ背が高い方だけど、多分私がヒールを履いても、彼なら私より背が高いと思う。
 髪は短く刈ってはあるけれど、短すぎず、長すぎず。横と後ろはサッパリしてて、トップだけ、少しツンツンと立てるようにしている。
スポーツマンっぽくて好き。
眉毛は太くて、精悍。瞳は切れ長で少し鋭い感じ。
鼻筋はしっかり通っていて、きりりとしている。
唇は薄く、無精髭なんて全然生えていない。

 がっしりとした体つき。いつもTシャツとGパン。
今日のTシャツにはUmbroという文字と菱形のマークが入っている。
サッカーでもしているのかしら。
Gパンは少しヴィンテージっぽいキズやかすれがはいっていてオシャレなの。
履いているのはいつもコンバースのスニーカー。少しよれている感じが格好いい。

 彼の名前は知らない。私はいつも彼を遠くから見るだけ。
彼も多分、私の名前も知らない。私が見ていることすら知らないと思う。
彼は、いつも遠くで少し立っていたかと思うと、必ず私の方に近づいてくる。
でも、私に話しかけたりはしない。だって、彼は私のことを知らないもの。
そして、私の前を、チラリと私の方を見ただけで通り過ぎてしまう。
私は思わず声をかけようとして、いつも躊躇する。
ああ、彼がまた行ってしまう。

次に会えるのはいつだろう。
私は、胸をときめかせながら待っている。


『不審死』

菅原広司は、眉間に皺を寄せて立ち尽くしていた。
この50代半ばを過ぎた、浅黒い肌の男は、傍目にはどうみても警部補の肩書きをもつ刑事には見えなかった。
何処かの農夫のように、額に深い皺を刻み込んだその刑事は、開店前のショッピングモール二階、婦人服売り場の前に突っ立ったまま、額に手を当てて考え込んでいた。

「スガさん、もう行きましょう。もうじき開店です。また店長から苦情が来ますよ。」

部下の立花健志が菅原を急かすように声をかけてきた。
30歳前後の若々しく、また逞しい体躯をした男だった。

「一件ならいい。二件目も、まぁまだあるかもしれねぇ偶然だ。しかしだ、しかし三件目ともなると、どうにもこりゃぁ…」
そう、菅原はブツブツと呟きながら、そこにファッショントレンドの先端のように誇らしく立った美しいマネキン3体をじっと眺めていた。
「なんで、ここなんだ?全く同じ場所とは…」
立花が菅原の袖を引っぱった。
「まぁ、スガさん。歩きながら考えましょう。」
菅原は仕方ない、といった風に現場を後にした。
「まったく、まいりましたね、スガさん。最初の売り場主任はただの過労による心不全。検死の結果もそうだった。夜中に突然倒れたらしく、残業と睡眠不足、心神消耗による過労。事件性も特にない。ただの捨てヤマとばっかり思ったんですがねぇ。」
立花が、ブツブツと文句を言うように漏らした。
「健志よぉ。2人目も、3人目も、同じ場所で心不全で死ぬか?みんな過労か?どんな職場だよ。検死の結果だって、正式には原因不明なんだろうがよ?結局、よくわかんねぇから心不全ってぇだけでよぉ。」
それに対して、立花が口を尖らせた。
「そうは言ってもスガさん、全部誰も見ていない夜中の話です。発見するのはいつも朝の警備員。殺人、っつったって、人を原因不明の心不全みたいに殺す方法って、あるんですか?検死もかいくぐって。薬物なら何か残るでしょ。外的要因も見当たらない。どう見たって、事故なんですよ。場所が一緒、ってだけで、三件重なっても、捨てヤマは捨てヤマ。そう、割り切りましょうよ。」

菅原は、大きくため息をつきながら、頭のてっぺんを掻き毟った。

「…割り切れねぇなぁ…」


『僕の恋』

僕は今日もまた、ここに来ていた。
もちろん、彼女に会うためだ。
エスカレーターから降りた瞬間、彼女のことが一目で分かった。
今日も随分、春めいた格好をしている。
黄緑色のTシャツに細身のローライズジーンズ。活動的なファッションも、彼女にとても似合っている。
ぴっちりとしたシャツで、豊かな胸のふくらみがより強調されている。
丈も少し短いので、腹部の肌が少し見えている。
僕は少し嫉妬してしまった。僕以外の人に、そんな刺激的な部分を見せて欲しくない。
そんな勝手な妄想を抱きながらも、僕は彼女の何も知らないのだ。
それならば話しかけてみればいいものだろうが、その勇気は僕にはない。

せめて名前が知りたい。彼女は、なんという名前なのだろう?
頭の中だけで妄想は膨らむが、それを実行に移せる勇気があれば苦労はしない。
今日も遠くから彼女を眺めているだけの僕がいる。
もっと近くで見たい。
けれど、近くでじろじろ見るのは、あまりにも失礼だし、周りの目も気になる。
少しずつ近づいては見るものの、あまり凝視することはできない。
時々、目を逸らしながら、また少し見惚れる。

彼女が少し、こちらを見た気がした。
一瞬目があった気がして、僕は慌てて目を逸らした。全く僕は勇気のない男だ。
しかし、彼女の美貌とスタイルの良さ、全てをどう見ても、彼女に恋人の一人や二人、いたって全くおかしくない。
そう考え始めると、意気消沈してしまう。

僕は、結局じりじりと近寄った挙句、近くまで行くと、すっと何事もなかったように通り過ぎてしまうただのでくの坊だった。
一番近くに接近した時、彼女の艶やかな唇を見て、僕は思わず興奮してしまった。
僕は、そっと彼女の目を見ながら会釈をした。
情けない話だが、それ以上の接近を、いまはできないのだった。


『私の恋』

私は、今日もまたここに立っている。彼を待ちわびて。
彼は、いつ来てくれるかしら。
今日は少しスポーティなファッションにしてみたの。彼はどう思ってくれるかしら。
くるりと一回りして、自分の姿を頭に思い描く。
私は美しいかしら。彼が見て、喜んでくれるくらい。

来たわ。彼が来た。エスカレーターを昇って。
今日の彼は、Tシャツの袖を肩にまくりあげて、二の腕を見せている。
しっかりとした筋肉、逞しそうな腕。
ああ、あの腕に抱かれたい。私をぎゅっと抱きしめて欲しい。

彼は、またずっと遠くにいる。
時々、こっちを見るようにしているけど、私を見てくれているのかしら。
私は、気にしないようにしながらも、彼の方を見た。
少し目があったような気がして、思わず俯いてしまった。
バカな私。ちょっと目配せでもしてみればいいのに。

彼が少しずつ近づいてきたわ。私の方に。
私に会いに?まさか。そんなはずない。
彼みたいな素敵な人が、私を気にかけてなんか、いるはずがない。
それでも少しずつ近づいてくる彼。私の鼓動が高鳴る。
ほんのすぐそばまで来たわ。
話しかけたい。
ああ、でも、なんて話しかけたらいいのかわからない。
私は、少し迷って彼から目を逸らした。

それがいけなかったの。
彼は、またすっと何事もなかったかのように、私の前を通り過ぎていった。
ああ、私はなんて愚かな女。
彼に近づきたくてたまらないのに。彼と、話をしたくてたまらないのに。
でも、今日の彼は少し違った。私に会釈をしてくれたの。
私の目を見ながら。私も会釈をしたわ。
でも、その時にはもう彼は足早に立ち去っていた。私の会釈は、彼に見えたかしら。
伝わったかしら。
私が彼を気にしていること。


『捨てヤマ』

菅原は、どうしても納得がいかなかった。ここまで偶然は重なるものなのか。
もう一度よく状況を整理してみることにした。

一人目
販売促進課主任、鈴木健吾(38)。
3月9日の夜、翌日のセールの準備で忙しく、最後まで残業。
一人残るといって他の従業員を全て帰らせ、セールの最終点検をしていたらしい。
その後の目撃がないので、どのような業務をしていたかは不明。
最後に目撃したのは同課の後輩社員。
被害者(事件性は不明だが、ここでは仮にそう呼ぶ)は、ディスプレイをチェックするからといって、彼を帰らせた。それが午後10時。
その後、警備員が午前2時に販促室を訪れた際は電気がつけたままになっており、周囲一帯に声をかけたが誰も返事がなかったため、忘れたのかと思い、消灯しセキュリティロックをした。
翌朝午前6時、警備員が店内のチェックに回っている際に、婦人服ディスプレイの前でうつ伏せに倒れている被害者を発見。
即時、救急車を要請したが、搬送後、死亡を確認。
検死の結果は不明で、過労による心不全と判定。

二人目
マーケティング部、佐野亮介(29)。
残業は常時9時~10時を越す状態で、3月16日も次の販売企画書を作成していた。
上司が10時に先に帰宅する旨を伝えると、あと30分くらいで帰るとの返事だったので、セキュリティロックを依頼して帰宅。これが最後の目撃者となる。
被害者は、常時机の上でパソコンに向かって業務をすることが多く、売り場に出ることはほとんどないとのことだった。
その後、午前2時に警備員がマーケティング室を訪れた際は、パソコンの電源は切られており、部屋の電気も消してあった。セキュリティロックだけがされていなかったため、帰宅の際の掛け忘れと思い、ロックした。
翌朝午前6時、警備員が店内のチェックに回っている際に、婦人服ディスプレイの前でうつ伏せに倒れている被害者を発見。
即時、救急車を要請したが、搬送後、死亡を確認。
これも検死の結果は不明で、過労による心不全と判定。

三人目
販売課班長、岸本景子(45)。
3月26日の業務で金銭出納のミスがあり、その収拾に追われていたため残業。
10時を過ぎた時点で、翌日に回すように上司が指示したが、翌日も業務の事情で手が回らない旨を伝え、全て収拾した結果を上司の机に置いておくので先に帰宅して欲しいと伝えた。
上司は、あまり遅くならないように指示し、帰宅。これが最後の目撃者。
被害者はその後、自分の机で出納確認をしていたと思われるが、どのような行動を取ったかは不明。
午前2時に警備員が明りのついたままになっている販売課室を訪れたが、業務の途中の状態で誰もいなかったため、先日までの2件の事故を思い出し、店内を捜索。
午前2時半に、婦人服ディスプレイの前でうつ伏せに倒れている被害者を発見。
即時、救急車を要請したが、搬送後、死亡を確認。
これも検死の結果は不明で、過労による心不全と判定。

3人の共通点は、午後10時~午前2時の間に、その行方をくらましたこと。
発見時の場所が、全て婦人服ディスプレイの前であったこと。
その際の状態が、うつ伏せでほぼ同じ方角を向いており、体勢もほぼ同じであったこと。
死亡は搬送後確認されたが、死亡推定時刻は3人ともほぼ午前0時前後であったこと。
検死の結果が全て不明で、外的損傷はなし。
窒息、刺傷、出血、鬱血、等の特殊な要因もなし。薬物の反応もなし。
全て心神衰弱による過労等を原因とした心不全、と判定せざるを得なかったこと。

「まったく、どういうこった…」
全部が全部、同じような死に方じゃねぇか、とぼやきながら、菅原は報告書の束を机に投げて、煙草に火をつけた。
場所も、時間も、原因も、体勢や向きまでも、全てが同じであるのに、他殺の要因が一切ない。
そんな話が三件も、たった半月の間に起こりうるのか?

警備員の調査や、侵入者の有無、不審な人物の洗い出しなども形式上は行ったが、もちろん不審な点はない。
この奇妙な一致以外に事件性を問えない以上、どれほど不気味な一致であっても捜査上は、捨てヤマである。
それにいつまでも関わっているほど警察もヒマではない。

「スガさん、まだいたんっすか。」
立花が、疲れた顔で捜査一課の扉を開けた。
はぁ、とため息をつきながら、そこらで買ってきたのだろう、サンドイッチやコーヒーなどの入ったコンビニ袋を机に放り投げた。
「スガさん、まだあの件、気になってるんっすか?もう、さんざん部長に言われたでしょ。もう捨てヤマは放っといて、他の仕事しろって。俺まで怒られちゃいましたよ。」
菅原は、煙草をふかしながらぼそりと言った。
「健志、これ、捨てヤマだと思うか?」
立花は、少し呆れたように答えた。
「確かにスガさんの気になってることはわかります。でも、しょうがないじゃないっすか、事件性がないんですから。もう、やめときません?」
菅原は、ふぅーと煙を吐いて煙草をもみ消した。

「オレにゃ、納得がいかねぇ…」


『僕の勇気』

僕は今日もまたここに来た。どうしても彼女に会いたい。
毎日彼女を見ないと、もう居ても立ってもいられない。
先に二階にあがり、通路を走って婦人服売り場に向かった。
遠くからでも彼女が居るのが分かった。
僕はほっと胸をなでおろし、また遠くから彼女を眺めていた。

今日の彼女は、白に青のラインが入ったワンピース。
少し体にフィットした感じのスリムなイメージを与える、爽やかな出で立ちだった。
美しい。彼女は、本当に何を着ても似合う。
その表情、顔立ち、体のライン、どれを見ても完璧だ。

今日の僕は、いつもと少し違っていた。
いつまでもこんな遠くから眺めているだけの日々は耐えられない。
もう1ヵ月近く、こうやって彼女を遠巻きに眺めている。
近寄っても、そそくさと通り過ぎるだけの情けない自分と、今日、決別しようと心に決めてきたのだ。
それでも僕は、勇気を振り絞るのにたっぷり小一時間は悩んだ。
なんて声を掛けよう。
「こんにちは」だけじゃ、どうしようもない。
いきなり「好きです」とも言えない。
ただ先日、少しだけ会釈をした。全く接点がないわけでもないような気がしてきた僕は、なけなしの勇気を振り絞って一歩を踏み出した。

彼女は、僕に気がついていないようだった。
僕はどんどん彼女に近づく。
彼女の美しい姿が、どんどん大きくなっていく。
僕の胸の鼓動は、限界までに高なった。僕は、一直線に彼女に向かって行った。
そのまますれ違ってしまおうか、とふと弱気な心が僕に話しかけた。
いやダメだ。このままじゃ何も変わらない。
僕は、そんな弱気を一蹴して、彼女の前で立ち止まった。

「こんにちは、よく会いますね。」
僕の声は震えていたと思う。
彼女は驚いたように目を丸くしていた。
その後、少しだけ伏目がちに小さく答えた。
「ええ、そうですね。」
彼女が、僕を認識している。初めて会ったという反応ではない。
いつもよく見かける、その中の一人に僕は入っていると言うことに、僕は大きな勇気を貰った。
さらに僕は勇気を振り絞って言った。
「どなたかお待ちなんですか?」
彼女は少し悩むように首をかしげると、小さな声で言った。
「ええ、少しだけ。」
僕の心は何を考えているのかわからないくらいにぐちゃぐちゃになっていた。
誰かを待っているんだ。
それはかすかな絶望でもあり、しかし、それが完全なる絶望ではないことも分かっていた。
僕には、もうこれ以上ここにいる気力も勇気も果てかけていた。
「そうですか、会えるといいですね。」
それだけ言い残して、僕は彼女に小さな会釈をして、そそくさと逃げるようにその場を去った。
これは希望なのか、絶望なのか、自分でも全く分からなかった。
ただ、僕は一歩踏み出した。
これからまだ、何かしら希望はあるはずだ。


『私の勇気』

私は今日もまたここに立っている。
早く彼に会いたい。彼は来てくれるかしら。
彼は毎日きてくれるはず。
私はじっとエスカレーターや二階の通路を見る。

ああ、彼が来た。
二階の通路を走って私のいる方に向かってくる
。遠くからでも彼が来るのが分るの。
私は嬉しさのあまり飛び上がりそうになった。
彼はまたずっと遠くに立っている。
こっちを見ているのかしら。それとも誰かと待ち合わせているの?

彼はいつものTシャツにデニムのズボン。
逞しそうな体。
ああ、彼と話したい。彼に触れたい。彼に抱きしめてもらいたい。
今日の彼は、いつもと少し違う。かなり長い時間、遠くにいる。
いつもなら、近寄ってきて前を通り過ぎてしまうのに。
でも、この間は会釈をしてきたわ。私と彼は、全く面識がないわけじゃないの。
そう思ったら希望がわいてきた。
もう1ヵ月近く、こんな感じの日々を送っている。
私、もう耐えられない。彼と話したい。でも、一体何を話せばいいの?

そんな気の弱い私が、悩んでいる間に、気付くと彼が私の方にどんどん近寄ってくる。
彼の逞しい体が、今、正に大きくなっていく。
私の胸の鼓動は、限界までに高なった。
彼は、一直線に私に向かってきた。ああ、どうしよう。
そのまますれ違ってしまうのではないかと、私の心が不安に感じた瞬間、彼は私の目の前に立ち止まった。

「こんにちは、よく会いますね。」
ああ、なんてこと。彼が私に話しかけてくれた!
私は、思わず返す言葉を失うくらい、気が遠くなっていた。
彼の目を直視できない。嬉しすぎる。
やっとのことで小さな声を私は絞り出した。
「ええ、そうですね。」
なんて気の効かない返事なの。こんなにも嬉しいのに。
でも、私の中では天使が駆け巡っていた。彼が、私を認識している。
初めて会ったという声のかけ方ではない。
いつもよく見かける、その中の一人に私は入っていると言うことに、私の心は天にも昇る気持ちだった。
「どなたかお待ちなんですか?」
ええ、そう。待っていたわ。私はあなたを。
そう答えればよかった。そう答えるべきだった。
なぜ、その言葉が口から出ないの?
私は首をかしげると、小さな声で言った。
「ええ、少しだけ。」
私は、自分で自分をなんて意気地なし!と罵倒した。
なんて返事なの。
私が待っていたのは、あなただというのに。
私は、自分がどう答えていいものか、もうわからなくなってしまっていた。
おろおろとうろたえる自分の心を制御することもできず、ただじっと彼を見ていた。
「そうですか、会えるといいですね。」
彼は、それだけ言い残して、私に小さな会釈をして、足早に去って行った。
ああ!私のバカ!会いたいのはあなたなの!
なぜそれが言えなかったのか、自分でも何がなんだか分からなかった。
これが恋というものなのか。私は混乱していた。

ただ、私は彼の一歩が心から嬉しかった。
自分の答えたことは十分ではなかったけど、これからまだ、何かしら希望はあるはず。絶対に、あるはず。
私は、とても疲れていた。もう、立っても居られないくらい。
ふらふらとその場にしゃがみこんでしまいそうになった。
眩暈もした。気がつくと、お腹も凄く空いていた。
ダメ、気持ちも体力も落ちてる。
今日は美味しいものを食べよう。


『残業』

まさかこんな時間になるとは思っても見なかった。
徳井重雄は、慌てて書類の修正をしながら、気ばかりが焦っていた。
こんな企画資料、明日が休みでさえなければ、余裕でできたはずのものなのだが、それもしかたない。
明日は法事でどうしても休まなくてはいけないのだ。
そのためには、今日中にこの草案だけでも完成させて、提出して帰らなくては間に合わない。
夜も11時を回り、同じ課のものは全員帰ってしまった。
10時くらいに警備員が来て、
「徳井さん、あとサービス部で藤崎のお局様だけしか残ってません。他は帰っちゃったんで、最後になったら電気と施錠、ちゃんとお願いしますね」
と声を掛けて行った。
徳井も、最近の不審死の件は知っていた。
事件性はないとかで、警察の捜査等はほとんど入らなかったが、同じ時刻に同じ場所で3人が心不全という不気味な事故は、社内でも噂になり、なにか怪しいものでのいるのではないかなどという、風潮まがいの都市伝説らしきものまで小耳に流れてくる。
もちろん、何かあるなどとは思ってはいなかったが、それでも会社で一人きり最後になるのは居心地のいいものではない。
とにかく、早くこの仕事を片付けなければ。
焦りはつのる。早くこの場を後にしたい。

日も変わろうかと言う頃になって、やっと徳井はほぼ全ての仕事を終わらせて、机の上の片付けに入った。
ほっと一息つきながら、最後の荷物を片付けた時、かすかに遠くに女性の声が聞こえた。
そういえば警備員が、藤崎のお局様だけ残ってるとか言ってたな、と片隅で思いながら、つぶやいた。
「あの年増姉ちゃん、まだいるのかよ。なにやってんだ、こんな時間まで。」
そう言いながら、徳井は自分の荷物をまとめた。


「……きゃーーーっ……」


?悲鳴?まさかね、この時間にそれは怪談だ。勘弁して欲しい。
徳井は、気にしないようにしながら、そそくさとコピー機の電源等を確認して回った。


「……きゃーーーっ!……」


確かに聞こえた。間違いない。
藤崎に何かあったのか?
徳井は、しぶしぶサービス課の方に向かった。
売り場に一番近い場所にあるサービス課の小部屋は、電気が消えていた。
なんだ、もう帰ってるじゃないか、そう思ったとき、売り場に電気がついているのが見えた。
もしかして売り場で何かをしているのか?

「藤崎さーん…」
声を掛けながら、徳井は売り場に入って行った。
電気はついているが、人の気配はない。
おかしい。絶対信じない、と言いながらも都市伝説のような気味の悪い記憶が頭をよぎる。
帰ろう。そう思ったときだった。

「………たい…」

女の声がした。
徳井はびくりと体を震わせた。
幻聴?いや、しかし確かに聞こえた。
やっぱり藤崎はこのどこかで仕事をしているのかもしれない。
「藤崎さーん」
再度声を掛けながら、売り場の奥に入ってみる。
夜中の店内は、昼間のあの賑やかさとのギャップからか、異様なほどに気味の悪い空間を演出する。
服や、雑貨はいい。問題はマネキンだ。
どうにも、これを夜中に見るのは気味が悪くて仕方ない。
それがたとえセクシーな下着を着た女性のマネキンだったとしても、この薄暗がりの静けさの中では、ある種、化け物のようにしか見えない。
もう一度声を掛けようとした徳井に、再び女の声が聞こえた。

「……けて……早く……たい……」

徳井は、これは明らかにどこかに藤崎がいて、何かに挟まれたとか、困難な状況にあっているものだと思った。
「藤崎さーーん!どこですかー!」
そう叫びながら、売り場の中央に小走りに近づいて行った。
返事はない。
一番見通しの良い、婦人服売り場の入り口、センターモールの中央に立って、徳井はもう一度藤崎の名前を呼んだ。
自分の声だけが、広い売り場にこだました。

中央の3体の美しいマネキンが、徳井を見下ろしている。
昼間はあんなに華やかに着飾ったマネキンも、いまやただの薄気味悪い人形だ。
徳井は振り返り、藤崎の姿を捜して辺りを見回した。
もう一度、大声を張り上げようとしたその瞬間、後ろに人の気配を感じた。
「なんだ藤崎さん、いたん…」
振り返りながら、そう言いかけた徳井は、そのまま言葉を詰まらせて、えぐっとつばを飲み込んだ。
そして、目を見開いて一歩だけ後ずさった。

徳井にできたのは、ただそれだけだった。



捜査一課に立花がどたどたと駆け込んできた。
「スガさん!出ました、四件目!」
菅原は、煙草をふかしながら沈痛な顔で答えた。
「聞いてるよ。またあそこだろ。」
ふぅっと煙を大きく吐いて、煙草をもみ消しながら菅原は聞いた。
「で、死因は。」
立花は、あれ、もう知ってたのか、といった顔をして菅原を見た。
立花が気にしている以上に、菅原はこの件に執心のようだ。
「まだです、が、発見当時の様子から見て、今までと全く同じかと。」
大きくため息をつきながら、菅原は右を見て言った。
「これを偶然で片付けていいもんですかねぇ。部長。四件ですよ。四件。これでも、捨てヤマですかねぇ。」
少し大きめのイスに、どっかりと座り込み、部長と呼ばれたやや白髪の混じった大男は大きなため息をついた。
どうしたものか、と途方にくれたようなため息だった。
「ガイシャ、といっていいのかわからんが、とにかくガイシャに職場と被害の状況以外の共通点は一切ない。原因もわからん。怨恨、金銭、男女関係、持病、なにもだ。通り魔的に、無差別に殺しているにしても、その方法がまったくわからん。死因がわからんのだ。外傷も一切なし。侵入の気配すらない。こっちゃ、なにをどうしたら良いってンだ?スガさん。」
そりゃそうなんですが、と菅原もため息をついた。

3人でしばらく沈黙した後、菅原がぼそりと言った。
「部長、ちぃとでいいんですが、これに時間を割かせていただいちゃぁ、イカンですかね。」
伏目がちにじっと考えていたが、やがてやむを得ないといった風に菅原に尋ねた。
「スガさん、どうする気だい?」
菅原は、もみ消した煙草の吸殻をもう一度持ち上げて、まじまじと眺めながら、少し考えて答えた。
「死亡時刻がほぼ同じなんですわ。わたしゃ、その時間、ちぃと張り込んでみようかと思いましてね。その時間に、何かが起こっているのは確かなんですよ。」
ポスッと吸殻を再び灰皿に捨てて、菅原は目を上げた。どうですかね?と。
「あまり多くの時間はやれんぞ。だいたい夜中だ。スガさん、無理も大概にしとかなきゃ、アンタが心不全になっちまうぞ。」
ちぃたぁ鍛えてますんで、と言いながら、菅原は席を立った。
立花が不安そうに、その背中を見つめていた。



『僕の春』

今日は絶対もっと話をする。
僕は、そう決意して、何十回目かのショッピングモールに出かけた。
もう、僕の恋心は、煮詰まっていた。
家で何を考えていたって、何も始まらない。
彼女の美しい顔立ち、スタイル、その全てが体全身を走りぬけ、居ても立ってもいられなくなるばかりだ。
しかも、一人で考えていると、悪い想像ばかりが湧き上がってくる。
それなら、少しでも実行に移すべきだ。

エスカレーターを上がって、遠目に彼女を確認する。
僕にはすぐわかる。中央の一番華やかなマネキンが3体立っているところ。
その下に、いつも通りに彼女はいた。
スプリングセールの真っ最中、彼女もまた素晴らしく春らしい、爽やかなファッションだった。
ピンクの春物のセーターに、膝丈程度の、スリットの多く入ったベージュのフレアスカート。
いつ見ても美しい。口紅も艶やかなピンク色。化粧は厚すぎず、爽やかな印象。
ピンクのセーターは、春らしく少し胸元が大きく開いていた。
少し屈んだらその豊かな谷間が見えそうだ。
僕はそれを想像しただけで、胸が高鳴るのを感じた。
彼女は時折、ひらひらとそのスカートをなびかせながら、少しだけ左右に、何かを待つように行ったり来たり歩いている。
時に嬉しそうに上を向いて後ろに手を組んで、時につまらなそうに下を向いて、石ころを蹴るようにポーンと脚を上げたりする仕草が、たまらなく魅力的だった。

僕はしばらくその姿を堪能した後、ぐっと拳を握り締めて彼女に颯爽と近づいた。
彼女は、僕に気付いたようだ。
少し照れくさそうに、でも何か嬉しそうに微笑を浮かべながら、じっとこっちを見ている。
もしかして僕を待っていてくれたのだろうか?
そんな淡い期待を胸に、僕はそのまま真っすぐ彼女に向かっていき、目の前で立ち止まった。

「また、会いましたね。こんにちは。」
彼女は少し首をかしげるようにしてこちらを見ながら、微笑した。
「そうですね。こんにちは。」
その後、少しの沈黙の後、二人同時に話かけた。
「いつもここに・・・」
「よくこちらに・・・」
完全に同時にしゃべり始めたことに少し可笑しくなった僕は、くすりと笑ってしまった。
彼女もくすくす笑っている。僕は続けてしゃべった。
「いつもここに居られるんですか?よく見かけるもので。」
彼女はどう答えたものかと、少し思案しながら首をかしげた。
「そう、、、大抵はここにいますわ。一応、私、ここに雇われておりますもの。」
僕は少し驚いたように言った。
「ここの方だったんですか。僕はてっきりどなたかとの買い物の待ち合わせでもされているのかと思いました。…彼氏とか…」
彼女は、ちょっと大きく目を見開いたかと思うと、艶っぽく笑った。
「とんでもない。私なんかに彼氏なんかおりませんわ。うふふ。」
僕は、心の中でぐっと握り拳を作った。
よしっ、彼女はフリーだ!
僕の口からは、恥ずかしげもない言葉が、さらさらと流れ出た。
「そうですか、こんなにお綺麗なのに。」
彼女はとても嬉しそうに、両手を合わせた。
「まぁ、お上手ね。お世辞でも嬉しいわ。」
僕は大きく手を振って、答えた。
「とんでもない!お世辞だなんて。今日着られている服も、凄くお似合いです。春らしくて。」
彼女は、少し屈んでスカートの裾をつまみ上げながらポーズをとった。
屈んだ瞬間に、豊かな胸元の谷間がチラリと見えた。
「そう?私が選んだんじゃないんだけど。春らしくて気に入っているわ。褒めてくださって、ありがとう。」
僕は照れながら俯いた。
ここまで来たら、もう勢いだ。勇気を振り絞ってどんどん行くしかない。
「もし、よろしければ、またお話をしに来ても構いませんか?お仕事の邪魔でなければですけど。」
彼女は、少し考えてニッコリと微笑んだ。
「いいですよ。私でよければよろこんで。」
僕は、そこまででもう完全に息切れをしていた。
振り絞るだけの勇気は振り絞った。
もう十分とは言わないけど、もう限界だ。
「それじゃ、僕、少し買い物があるんで、これで。」
そう言って、頭を下げた。
彼女は、小さく首をかしげるような魅力的な仕草で会釈をして言った。
「ええ、またお待ちしていますわ。」
僕は、ニッコリと微笑んで、颯爽とその場を去った。
颯爽とした歩き方で、そこを去る、それが僕に残された最後の全力だった。
僕の心の中は春の蝶のように飛びまわっていた。



『私の春』

今日も彼は来るかしら。
今日、もし彼の方から近づいてきてくれたなら、私はどんなに幸せかしら。
もう彼を見つめるのも何十回目か。
彼が来てくれる時間を心待ちに待って、待って、待って、私はようやく彼の姿を見つけた。
エスカレーターを上がってくる彼を、遠目に確認する。
私にはすぐわかる。いつものTシャツとは違うけど、いつものデニムのズボンとは違うけど、それでも私にはすぐわかる。
逞しい体つき、背が高くて凛とした歩き方。
あまり見つめるのは失礼かしら。私は、胸が高鳴るのを感じた。

私はどうしようかと少し左右に歩いてみた。ひらひらとスカートをなびかせながら、少しだけ左右に、何かを待つように行ったり来たりしてみる。
彼が近づいて来たらどうしよう、そう考えると嬉しくてたまらない。
いや、でもそのまままた通り過ぎてしまったらどうしよう、そう考えると切なくなる。
まるで足元に石ころがあるように、ポーンと拗ねたように蹴る振りをしてみる。

彼はしばらく遠くに立っていた。
まだ?まだ来てくれないの?私はじっと待っていた。
彼は、ぐっと拳を握り締めるようにしたかと思うと、私の方に颯爽と近づいてきた。
彼が来たわ!思わず彼の方をじっと見てしまった。
見つめすぎたかしら。
私は少し俯いて、でも嬉しさを隠せない私は、静かに微笑を浮かべていた。
ホントに近づいて来てる?私の方に?
ああ、来て、早く。
そんな期待を抱いて、私は胸をときめかせていた。
彼はそのまま真っすぐ私に向かって来て、目の前で立ち止まった。
そして、その太いけど、凛とした優しそうな声で話しかけてきた。

「また、会いましたね。こんにちは。」
なんてこと!話しかけてくれたわ!
私は照れ隠しのように少し首をかしげるようにして彼を見ながら、微笑した。
やっとのことで言葉が出た。
「そうですね。こんにちは。」
次に何をしゃべったらいいの?
この機会を逃さないために、私は何を言ったらいいの?
少しの沈黙の後、私と彼は一緒に話かけた。
「よくこちらに・・・」
「いつもここに・・・」
まったく同時に話しかけてしまったことに少し可笑しくなった私は、くすくすと笑ってしまった。
彼もくすりと微笑んでいる。彼がすぐさま続けて話しかけて来た。
「いつもここに居られるんですか?よく見かけるもので。」
えーと、私はどう答えたら良いのかしら。
ホントは「あなたを待っていました」って言いたいの。
でもそれはあまりにも唐突だわ。私は少し思案しながら首をかしげた。
「そう、、、大抵はここにいますわ。一応、私、ここに雇われておりますもの。」
私らしくない、ちょっと気取った言い方。本当は今すぐ抱きつきたいのに。
彼は少し驚いたように答えた。
「ここの方だったんですか。僕はてっきりどなたかとの買い物の待ち合わせでもされているのかと思いました。…彼氏とか…」
驚いた。私に彼氏が?いるわけないわ、私が好きなのはあなたなんだもの。
でも、彼が私にそんな事を聞く、ということは、もしかして彼も私のことに少し興味があるってことよね?
私は嬉しくなって少し大人っぽく笑った。
「とんでもない。私なんかに彼氏なんかおりませんわ。うふふ。」
彼の目が輝いたような気がした。
もしかして、私がフリーだってこと、喜んでいるのかしら。
だとしたらなんて素晴らしいこと!
もしかしたら、私たちは心が通じ合えるかもしれない。
いえ、でもまだわからないわ。
だって、まだお話をするのだって、たったの二回目ですもの。
その時、彼の口から天使の様な声が聞こえた。
「そうですか、こんなにお綺麗なのに。」
私はあまりの嬉しさに、両手を胸の前で合わせて答えた。
「まぁ、お上手ね。お世辞でも嬉しいわ。」
キレイ?私、キレイ?
彼が私を「お綺麗」だなんて言ってくれた。
ああ、もう私は天にも昇る気持ち。
彼は大きく手を振って、答えた。
「とんでもない!お世辞だなんて。今日着られている服も、凄くお似合いです。春らしくて。」
私は自分の服を今一度思い起こした。
少し胸の開いたピンクのセーターに、ベージュのフレアスカート。
ここは少しセックスアピールをしてみたり、してはダメ?
私は、少し屈んだ。背の高い彼からすると、私の胸元が少し見えるかしら。
恥ずかしいけど、ちょっとだけ。
それからスカートの裾をつまみ上げながら、ほんの少しモデルのようにポーズをとってみた。
恥ずかしい。
でも、彼が似合っていると褒めてくれた服だもの。
大丈夫。私は少し自信が出てきた。
「そう?私が選んだんじゃないんだけど。春らしくて気に入っているわ。褒めてくださって、ありがとう。」
彼は少し照れたように俯いた。アピール成功かしら。
彼、私を綺麗だと、魅力的だと思ってくれているかしら。
ああ、ドキドキする。こんな気持ちは今まで初めて。
今は、彼と何を話していても幸せ。
私が浮かれていると、彼が話しかけてきた。
「もし、よろしければ、またお話をしに来ても構いませんか?お仕事の邪魔でなければですけど。」
私は、勢い込んで「もちろん!」そう答えたかった。
でも、がっついているように見えたら恥ずかしい。
ちょっと間をおいて、上品な笑みを浮かべて答えた。精一杯の我慢。
「いいですよ。私でよければよろこんで。」
私はもう有頂天だった。
彼がまた来てくれる。私のところに。
ああ、また彼と話せる。
そう思っただけで、私の心臓は口から飛び出そうだった。
本当は、いつでも来て。たくさん来て。何回も来て。ずっと待ってる。そう言いたかったけど、喉の奥でグッとこらえた。
「それじゃ、僕、少し買い物があるんで、これで。」
彼はそう言って、頭を下げた。私は、小さく首をかしげるようにして、今できる精一杯魅力的な仕草で会釈をして言った。
「ええ、またお待ちしていますわ。」
なんて上品で爽やかな分かれ方。
彼は、ニッコリと爽やかに微笑んで、颯爽とその場を去っていった。
その颯爽とした後姿を見ながら、私は眩暈で倒れそうになっていた。
ああ、疲れちゃった。でも爽やかな疲れ。
今日も美味しいものが欲しいわ。
私の心の中は春の蝶のように飛びまわっていた。


『確信』

菅原は、今までの資料に全て何回も目を通した。
確かに、どうしようもない。
部長の言うように、これは捨てヤマだ。
しかし、異常すぎる。四件はないだろう。
しかも全てが死因不明。深夜0時。同じ場所。

全てが過労死ではないかという疑いを掛けられているためか、四件目が出る前に店長は更迭されたようだ。
しかし、四件目は出た。
本当に過労死であるならば、その企業体質そのものに問題があることになる。
遺族も黙ってはいまい。何件かの遺族が、警察に捜査を何度も依頼してきた。
その事件性をはっきりさせて欲しいと。
過労死であるならば企業を訴える腹積もりであることも仄めかしていた。
しかし、こちらに答えられる事項は少ない。
あまりにも状況証拠も物的証拠もなさすぎるのだ。事件性を問うには困難すぎる。
しかし、菅原には納得がいっていなかった。なにか、訴えるものがあるのだ。
これは異常な事態だと。
ここまでの状況が四件、偶然に重なる確率は、それこそ何億分の一なのではないか?
何かが暗躍している。菅原は、そんな予感に常に捕らわれていた。
あのショッピングモールのどこかに、何者かが、どのような手段を使ってかはわからないが、四件の殺人を犯している。
その強迫観念のようなものに菅原は捕らえられていた。

あれから、被害者周辺の情報を再度洗いなおした。
怨恨、金銭、借金や男女関係、様々な状況を設定して聞き込みも行ったが、まったく目ぼしい結果は出なかった。
菅原は、何度も読み返した資料を、バサリと机の上に置いて、その机の上に脚を組んだ。
もう、灰皿には納まりきらないほどの吸殻がもみ消してあった。

ガタンとドアが開いた。
「スガさん、まだ居たんっすか。張り込むんじゃなかったんっすか?」
立花が大きな体をゆすって、大きな声で誰も居ない部屋に響き渡る声を張り上げた。
「やぁかましいなぁ、お前の声は。健志、誰も居ねぇんだから、もうちぃと小さな声でしゃべってくれや。こっちゃぁアタマが痛ぇんだ。」
スンマセン、と小声で言って、立花は自分の席に座って帰り支度を始めた。
くるりと振り返って、菅原に話しかけた。
「スガさん、今日はもう帰りましょうよ。今日は張り込み、しないんでしょ?昼間、しっかり休んでおかないと、夜中の張り込みはキツイっすよ。なんならオレも行きましょうか?」
菅原は、けっ、と口を鳴らして言った。
「ただの捨てヤマに、2人も人を使ったってんじゃ、オレがクビになっちまわぁ。お前はもういいからよ、これには首突っ込まなくても。張り込みは明日からだ。ああ、今日はもう帰るよ。心配すんなって。」
「そんならいいんっすけど…。」
じゃ、お先に失礼します、といって立花は帰っていった。
菅原は、立花の背中にぴらぴらと手だけ振って見送った。
明日は、何者か見極める。明日が無理でも、明後日には。
絶対に、あの場所で何かが起こっているはずだ。

菅原は、火をつけようとした煙草をぎゅっと握りつぶした。


『僕たちの約束』

今日の僕は、自分でもイケてると思うくらい凛々としていた。
昨日の会話で、強い手ごたえのようなものを感じていたのだ。
また今日も、彼女に会いに行く。そこで話をする。
そして、今日は食事に誘うのだ。
前進に次ぐ前進だ。
僕の心は、蝶のように浮かれてひらひらと舞い、蜂のように彼女と言う素晴らしい獲物を狙っていた。
もしも本当に、彼女を手に入れることができるとしたら、僕は何だってするだろう。

僕は、ショッピングモールの二階の通路を早足で歩いていた。
遠くから彼女を捜す。
もう、かなり遠くからでも僕は彼女を捜すことができるようになっていた。
他の客なんかどうでもいい。
何が目の前を通り過ぎようが、どんなに彼女が遠く小さかろうが、彼女の波動を感じるのだ。
颯爽と近づく僕の目に、彼女の素晴らしい姿が輪郭をはっきりさせつつ映ってきた。
今日は少しいつもと違う、キリリとしたファッションだ。
襟の大きい白いブラウスに、タイトな紺のスカート。
横には少し大きめのスリットが入っていて、太ももが少しだけ覗いている。
春のスーツ、といった感じの凛とした出で立ちだった。
僕は相変わらず、まず遠目に彼女に見惚れた。
十分に彼女を美しさを堪能した後、颯爽と近づいていった。

「こんにちは、お元気ですか?」
僕はできる限り爽やかに、ニッコリと笑った。
彼女は、もうぼくが来るのが分かっていたかのように、遠くからずっと僕の方を見続けていた。
「こんにちは。私は元気。あなたはいかが?」
彼女は小首をかしげて明るく言った。
「ええ、もう元気いっぱいですよ。またあなたと話ができるかと思うと。」
照れ笑いをしながらも、僕の口からは、恥ずかしげもなく浮かれた言葉が出た。
「そう。私も元気。楽しみに待ってたわ。いらっしゃいませ。」
そう言って、彼女は冗談っぽく、恭しく頭を下げた。
「今日は、随分凛々しい格好なんですね。何かの面接でもあるんですか?」
彼女は、自分の今の格好をチラリと見るようにして言った。
「ううん、そういうわけではないの。今日はこういう格好の日。似合わないかしら?」
飼い犬が飼い主に「褒めて」とねだるような大きな瞳で、上目遣いに僕の方を見る。
その視線に僕はごくりとつばを飲み込んだ。
あまりにも魅力的過ぎる。
「いや、凄く似合ってます!どんなファッションでも似合うんですね、えと…」
そう言って僕は思わず言いよどんだ。
そういえば、僕は彼女の名前を知らない。
なんてことだ、一番大事なところを押さえていなかった。
これを聞かないと始まらない。
彼女は、どうしたの?といった風に首をかしげてこちらを見ている。
「…えと…、ごめんなさい。そういえば、名前を伺ってなくて。僕の名前は、佐藤爽太といいます。よければ、教えてもらってもいいですか…?」
彼女は、そういえばそうね、とでも言った感じで右手を口に当てながらくすりと笑った。
「佐藤爽太さん。いいお名前ね。颯爽とした感じが、いかにも名前通りで。あ、ごめんなさい、私、、、真木麻里絵といいます。宜しくお願いします。」
そう言って、彼女は深々と頭を下げた。
「麻里絵さん、麻里絵さんもいい名前です。よかったぁ、名前が聞けて。」
僕は、もうこれだけで目標を達成したような気分になっていた。
いやいや、今日の目的はこれだけで終わってはいけない。

それから、僕と麻里絵さんは、少しの間他愛もない会話をしながら小一時間が経った。
楽しい時間は早すぎる。
でも、これ以上、彼女の仕事の邪魔をしてはいけない。
僕は、本来の目標である「食事に誘う」を意識した。
「麻里絵さん、えっと…できたら、是非今度お食事でも一緒にどうですか?都合が悪くなければですけど…」
彼女は、くっと首をかしげて、ぱぁっと表情を明るくした。
「ええ、喜んで!」
そういった途端、いきなり彼女の表情が少し曇った。
「どうか、しましたか?」
彼女は、少し俯いて考えるようにした後、恐る恐る、という感じで言った。
「…でも、私、閉店まではここを離れられません。それに…足が悪いので、あまり遠くには行けないんです…」
彼女はとても申し訳なさそうに、俯いた。
「大丈夫です。閉店って何時ですか?それからでも構いませんし、休日とかがあればそれでも構いません。足が悪いんですか。それは大事を取らなきゃ。僕、車持ってますから、そこまでちゃんとエスコートします。なんなら抱いてでも…」
僕は、そこまで言って思わず赤くなって照れてしまった。
次の言葉を出せずにいる僕に、彼女が少し嬉しそうに言った。
「ありがとう。凄く嬉しい。閉店は9時なんです。休みは、、、ちょっと取れないかもしれないから、9時以降でもいいですか?」
僕は勢い込んで答えた。
「全然、大丈夫です!じゃ、閉店の9時以降にお迎えに来ます。」
そう答えると、今度は彼女の方が真っ赤になって恥ずかしそうに言った。
「足の方は、上手く歩けないかもしれないから、抱いていってもらっていいですか?私を…私をさらってください。」
彼女は、言ってしまった!という表情で真っ赤になって俯いた。
僕は、あまりの興奮に、嬉しさをこらえるために太ももを強く強くつねった。
もう、たまらない。この彼女の魅力はなんだ。
僕は、その時、頭から湯気を出していたかもしれない。

「じゃ、じゃぁ、いつにしましょう?都合のいい日とか、悪い日、ありますか?僕の方は合わせます。」
彼女は、少し遠い目をしたが、悩みを振り切るように答えた。
「ごめんなさい、少し時間が欲しいんです。一週間後ではダメですか?」
僕は、明日、明後日の話ではないのか、と少しガッカリしたが、それでも確約さえ取れればいつでも大丈夫だった。
「かまいません。じゃ一週間後の水曜日、で構いませんか?僕もそのくらい時間があった方がいいお店、予約できるかな。」
僕は、自分に納得させるように言った。
「はい、分かりました。来週の水曜日、夜10時にここでお待ちしています。」
そこまで聞いて、僕は少しどうしたらいいか悩んだ。
「あの、、、でも閉店後って、お客の僕は入れませんよね。どうしたらいいでしょう。」
彼女もそこまでは考えていなかった、といわんばかりに、うーんと少し斜め下を向いて考えた。
しばらくして彼女が口を開いた。
「大丈夫。正面とかは全部しまっちゃうけど、裏の搬入口は24時間開いています。警備員に、業者の振りでもして…そうですねぇ…「マネキンの搬送に来ました」とでも言って入れば、すんなり通れると思います。出る時は搬出口があって、そこは警備員がいませんから、そのまま出れます。多分、これでいけるんじゃないかな。」
僕はその手順をしっかりと頭の中に入れて頷いた。
「わかりました。じゃ、来週水曜日の夜、麻里絵さんをさらいに来ます。」
僕は言ってから照れながら、右手を差し出した。
彼女は、ニッコリと笑って僕の右手を握り返してくれた。
少し冷たい、でも、愛しい手だった。
「はい、お待ちしています。」
僕は、小さく会釈をして、また颯爽とその場を立ち去った。
僕の心は満足感でいっぱいだった。
来週の水曜日。僕は一週間が長くて仕方ないような気がしていた。

僕たちの恋は、間違いなく前進している。


『私たちの約束』
 
ああ、一週間後。
ついに彼と、爽太さんと約束してしまった。
「私をさらって」なんて、よく言えたわ、と自分を褒めてあげたかった。
でも本当にさらって欲しかったの。私を。私の全てを。
爽太さんの腕で、しっかりと抱きしめて欲しかったの。
一週間後には、2人だけの世界。
ああ、待ち遠しいわ。待ち遠しい。
でも、今のままではダメ。多分、体力が持たない。

そう、しっかり食べて、栄養を取らないと。



『写真』

菅原の執着ぶりが、立花にはわからないでもなかった。
もちろん、立花自身にはそこまで執着するつもりはない。
しかし、確かに不審な点が多すぎる。それは間違いない。
ぼんやりと、自分の机で昼食のパンをかじりながら、立花は目前の山積した業務のことを考え始めていた。
「おぅ、健志。」
声を掛けてきたのは菅原だった。
「スガさん、今日は昼からですか。」
菅原は、机の上にボソッとなにやら食品の入ったスーパーの袋を放り投げて、どっかとイスに座り込んだ。
「ああ、今晩から入るんでな。その前に、ちょっと現場に行って昼の様子と、ちょぃと聞き込みをしてきた。」
菅原は胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
ふぅーと美味そうに一息、吐き出したかと思うと、内ポケットから写真を2枚取り出した。
「なぁ、健志。暇な時でいいんだが、ちょいと頼まれてくれねぇか。」
立花は、イスから立ち上がり、菅原の方に向かった。
「なんです?」
菅原は、近づいてきた立花に、ひらひらとその2枚の写真を手渡した。
そこには、精悍な体つきをした、一人の男が写っていた。
一枚は上半身だけのアップ。もう一枚は全身を写したものだった。
スポーツマンタイプで、少し日に焼けた浅黒い肌をしている。
身長はかなり高い。180cmくらいは多分あるだろう。
髪は短く刈ってはあるが、てっぺんだけ、少しツンツンと立てるようにしている。
顔立ちを見ると、眉毛は太くて精悍。瞳は切れ長で少し鋭い感じ。
鼻筋はしっかり通っていて、きりりとしている。
 がっしりとした体つき。TシャツとGパン。
TシャツにはUmbroという文字と菱形のマークが入っている。
見るからに爽やかそうな印象の青年だった。
「この男が何か?」
菅原は、またふぅーと煙を吐き出した。
「そいつ、何してると思う?」
写真の中の青年は、にこやかに笑っている。
誰かに話しかけているようにも見える。
少し手を開いて、かすかなゼスチュアつきで。
「いや、わかりませんけど。誰かと話でもしてるんです?」
立花は、首をかしげて写真をひらつかせた。
「ふん、そう見えるだろ。そうなんだよなぁ。話してるんだよ、誰かと。」
「誰かと?誰かと、って。これ、スガさんが撮ったんじゃないんですか?」
立花は不審そうに尋ねた。
「そうだよ。オレが撮った。確かにこいつぁ、オレが写真を撮ってる間も、夢中で誰かとしゃべっていた。」
 菅原は、どうにも解せない、といった顔をしながら、咥えていた煙草を一気に一吸いして、灰皿にもみ消した。
そして、思い切るようにほうぅーと吐き出して、言った。

「それが、コイツの前にゃ、誰もいねぇんだ。」
菅原は、イスをぐっとリクライニングさせた。

「キレーな服着たお人形さん以外にはよ。」

立花は、言葉をなくしてじっと写真を見ていた。
見る限りでは、不審者のようでも変質者のようでもない。
実に爽やかな、普通の青年だ。
菅原が、ポツリと言った。
「それぁ、今回の現場だ。」
立花が、ぐっと眉根を寄せるのを見て、菅原が続けた。
「どう思う?」
立花は、再び写真に目を落として考えるように息をついた。
「どう思うといわれても困りますが…、じゃ、なんですか、こいつはあの四件の現場で、真昼間から、マネキンに向かって話しかけ続けてるってわけですか?写真を撮られても気付かないくらいに夢中になって?」
「ま、正確にゃ、お人形さんはもっと高い位置に飾られてるからなぁ。マネキンの足元で、そっちの方を向いて嬉しそうに話しかけてるってわけさぁ。」
立花が再び眉根を寄せた。
「つまり、幽霊とでも話をしていると?」
菅原は、笑い飛ばすようにリクライニングを起こし、机に肘をついた。
「ばぁか言ってんじゃねぇよ。幽霊なんかいるもんかよ。ただ、どう考えても奇妙だろ?見る限りでは、ヘンなヤツにゃ、見えねぇだろ。妄想癖か?なぁにを見て話してるんだ、こいつぁ。30分も楽しそうに話したかと思うと、爽やかな顔して、さっさと立ち去りやがった。」
ふむ、とため息をついて、立花はその写真を目の前に持ち上げて、ひらひらとかざした。
「で、スガさん。これをどうしろっていうんです?」
菅原は、肘をついたまま机の上で組んだ手の上に顎を乗せながら、上目遣いで橘を見た。
「悪ぃが、ちぃとそいつの身元を洗っといちゃぁくれねぇか。どうも、気になって仕方ねぇ。時間のある時でいいからよ。」
立花は、小さく頷いて左手でOKのサインを出した。
「いいっすよ。やっときます。片手間でよければ。」
「ああ、かまわねぇ。悪ぃな、忙しいのによ。」
そう言って、菅原はガタンとイスから立ち上がり、小便が近くていけねぇや、と呟きながら、立花の肩をポンポンと叩いて部屋を出て行った。
立花は、残された2枚の写真をじっと眺めていた。


『張り込み』

菅原はその晩、閉店と同時に、裏の通用門から警備員に警察手帳を見せて店内に入った。
バックヤードでは、店員たちが、少しでも早く帰ろうと、後片付けに右往左往していた。
菅原は、看板や商品を持って走り去る店員たちを避けながら、店長室に向かった。
二階の中央、明りのついた小さな部屋にノックをして入った菅原は、小さく会釈した。
「失礼しますよ。」
そこには小太りの少しハゲかかった男が机を前に神妙な顔で座っていた。
ふと顔を上げると、ああ、といった風に席を立ち上がった。
「菅原さん、すみませんねぇ。こんな時間から。」
菅原は上着を脱いで、手に持つとひらひらと手を振って言った。
「いやいやぁ、店長。これぁアタシの好きでやってることなんでね。気にせんといてくださいや。」
菅原は、よっこいしょと言いながら、店長の向かいのイスに腰を掛けた。
「まぁ、アタシなんぞの老兵は、最前線に立つのはもうしんどくてねぇ。ここでゆっくりさせてもらいながら、ちぃと見張らせてもらいますよ。お気遣いなく。」
店長は、複雑な表情をしながら、頷いていた。
心境的には確かに複雑だろう。
これが全て過労死と言うことになると、訴えを起こそうとしている遺族が数家庭ある。
本来なら、過労死ではない別の原因があってくれた方が企業的には都合が良いのだが、それが現場や就労場所などの原因では元も子もない。
できれば、それぞれに心因性の疾患などがあってくれるのが一番良いのだろうが、それがないのは司法解剖で明白になっている。
企業で雇用する立場としては、どのような結果に転がるかは、非常に微妙な関係性の中で綱渡りしているのである。
今回の菅原の張り込みも、その結果如何では「他に犯人がいる」という、最も理想の結果になる可能性も秘めているし、逆にこれで完全に過労死以外の選択肢がなくなる可能性もある。
というより、その可能性の方が十分に高いのだ。
店長は、祈るような表情を秘めながら、菅原に案内をした。
「宿直用の部屋がありますんで、そこを使ってください。布団やテレビもありますし、今は誰も使ってませんから。」
そう言うと、菅原は小さく手を振って答えた。
「いや、アタシゃ現場の近くに寝袋を持って行かせていただきたいんですがね。できるだけ現場が見通せて、少し物陰になったようなところが一番いいんですが。かまわんですかねぇ?」
店長は、表情を変えずに頷いた。
「いや、それは全然構いはしませんがね。警備員には言っときますんで。」
「そりゃぁ、助かります。じゃ、アタシはこれで失礼させてもらって、早速店内に入らせていただきますわ。店長も早くお帰りになってくださいや。」
すみません、宜しくお願いします、と店長は小声で返して頭を下げた。

菅原が店長室から出た頃には、店員たちの片付けもすっかり終わり、遠くから、お先に失礼しまーす、お疲れ様―、という声のやりとりが聞こえた。
二階のバックヤードを歩くと、途中にマネキン置き場のような場所があった。
非常灯の薄明かりの中、そこにいる女たちは、どれも何も着ていない。
頭や腕のないもの、上半身だけのもの、全身全裸なもの、瞳がキラリと反射してまるで生あるものかのごとくに、こちらを見ているもの、それらの間を縫って、菅原は店内への入り口を捜した。
やっと見つけた大きな出入り口から店内に入ると、もうほとんど灯りは消えていた。

昼間は人でいっぱいな分、それほど広く感じなかったショッピングモール内も、暗く静まり返った夜の風景は、全く違うものに見えた。
人っ子一人いない店内。
動くものの何もない、BGMもアナウンスも流れていない静かなだだっ広い空間。
寝袋を片手に、菅原は思わず店内入り口で立ち止まって、辺りを見回してしまった。
確かに、こりゃぁ寂しいや、とひとりごちて、店内へと入っていった。
菅原が入ったのは、紳士服売り場の入り口だった。
黒いスーツを着た男たちが何人も並んで、菅原を見下ろしている。
まるで今にも威嚇してきそうな、そんな気迫のようなものを感じて、菅原は思わず後ろを振り返った。もちろん、誰もいない。
カジュアルジャケットを着た男、スポーツシャツを着た男、皆が、菅原をじっと見ているようだ。
居心地の悪さに、思わず早足になった菅原は、そのまま紳士服売り場を通り過ぎ、さらに下着売り場を突っ切った。
昼間なら、恥ずかしくなるような下着姿の、美しいプロポーションをしたマネキンたちが、色とりどりの下着を身にまとい腕を上げ、悩ましくポーズをとっているのを見て見ぬ振りをするように通り過ぎるのだが、夜中のこの淑女たちは、その目を光らせて幽鬼のようになだれかかってきそうな気がして、菅原は足早に通り過ぎた。

問題の婦人服売り場に近づいた。
そこに並ぶ美女たちは、下着売り場の淑女たちより遥かに粛々とした恐怖を感じさせた。
一段と高い位置に並ぶ美女たちに、菅原は常に見下ろされ、囁かれているような気になった。
あなたはここにいてはいけないの、何をしに来たの、さっさと帰って、女たちがそう囁きあっているような妄想にとらわれながら、菅原は下を向き早足で現場にたどり着いた。
そこには、最も美しいと思われる3体のマネキンが、春らしいファッションでじっと立っていた。
3人とも、菅原の方をじっと覗き込むように見ている。
菅原は、今までの妄想のような恐怖を振り払うように頭を左右に大きく振って、わざと大声で咳払いをした。
その音がこだまのように店内に響くことで、全ての邪気を振り払えたような気になった。

「ここかぁ…」
菅原は、足元を見つめた。
ここが、四人の倒れていた場所。
3体のマネキンの前、センターモールと呼ばれる、昼間は最も華やかな場所。
菅原は腕時計を見た。
今、9時45分。
他の従業員が残っているのかどうかは知らないが、少なくとも店内は非常灯のみが灯った、仄かな暗闇。問題の共通時刻、午前0時まではまだあと2時間少々ある。
もちろん、今日からの張り込みで、いきなり何かが起こるかどうか、可能性は低い。
それでも、菅原は待ってみたかった。
菅原は辺りを見回して、センターモールの左手側、婦人服がたくさん吊られた商品棚の方に足を運んだ。
そこから現場を見通せるかどうか確認する。また、現場に戻って、そこから菅原の寝袋が見えるかどうか確認する。
大丈夫、ここなら現場からは見えない。こっちは、現場が丸々お見通しだ。
よし、と頷いて菅原はそこに寝袋を敷いた。
もそもそとその中にもぐりこむと、もう一度腕時計を確認した。
午後10時。
今から4時間はじっとそこを見ていてやる。
それを過ぎたら、少し仮眠を取ろう。
そう考えながら、菅原は視線を3体のマネキンに向けた。
さすがにセンターモールに配置されるだけのことはある。
そのマネキンたちは、夜闇の中でも、妖艶な美しさを放っていた。
まぁ、一生に一度でいいから、あんな女を抱いてみてぇもんだ、などと苦笑しながら、胸ポケットの煙草に手を伸ばした。
おっと、ここは完全に禁煙だ。こりゃ痛ぇ。
煙草なしでの4時間は、キツいねぇ、とぼやきながら、胸ポケットに煙草をしまいながら、菅原は現場を監視し続けた。
静寂があたりを包む。
菅原が寝転んでいるところからは、センターモールの3体以外のマネキンが見えないことが、一番安心できた。幽霊や化け物の類を全く信じない菅原でも、やはり闇は恐ろしい。
その中で、人形とはいえ、何者かに見下ろされているかと思うと、ぞっとする。

時計の針は、いつもの2倍ゆっくり進んでいるのではないかと思うくらいに遅かった。
菅原は何度も腕時計を見た。10時10分。20分。30分。
やっと30分か、そうため息をつきながら、何度か体勢を入れ替えた。

少しだけ、うつらうつらとしかけた菅原は、はっとなって腕時計を見た。
11時45分。
何事も起こっていない。
もうすぐ問題の共通死亡時刻だが、何か変わったことが起こる気配はない。
侵入者はもちろん、従業員や警備員の足音も聞こえない。
ほっと、胸を撫で下ろした菅原の耳に、カタン、と小さな音が聞こえた。
バックヤードの従業員か?それとも警備員?
耳を澄ませたが、それからは何も聞こえなかった。

カタン、カタン、カタン

5分くらい経った頃、また同じ音が聞こえた。
菅原は、上半身を少し起こして、現場の方をじっと見た。何も変わりはない。じっと目を凝らしてみる。
いや、センターモールの3体のマネキンのうち、一番前に立っているマネキンがほんの少し揺れているような気がした。

カタン、カタン、カタン

左後ろのマネキンも揺れているように見える。
菅原は、見間違いではないことを確かめるようにじっと目を凝らして彼女たちを凝視した。
揺れているようにも見えるが、そうでないようにも見える。
やがて音はしなくなり、全くの静寂が菅原を包んだ。
少し鼓動の早くなった自分を抑えるように、胸をぐっと強く押して息を吐いた、その時。

「……ゃー……」

悲鳴の名残のような、ちいさな声が、確かに菅原に聞こえた。
菅原は、ビクリとなって、上半身を完全に起こした。
耳をそばだてる。目が宙を泳ぐ。
現場は?変化はない。

「……いゃー……」

また聞こえた!確かに、女の声。
やや悲鳴のような。菅原は、辺りを見回した。
心臓の鼓動が早まる。じっとりと手の平に汗をかき始めている。
ごくりと固唾を飲む。

「……けて………たい……やく……」

間違いなく悲鳴だ。しかも、急を要するような女の悲鳴。
助けて?
菅原は、周囲をくまなく見渡した。何も変化はない。
しかし、これは急を要する。
冷や汗をかきながら、すっくと立ち上がった菅原は、バックヤードや従業員の部屋に誰かがいるのかと思い、走り出した。
心臓の鼓動がどんどん高鳴る。
元来た通路を戻ってバックヤードに入る。一斉に首のないマネキンたちがこちらを見たような気がする。
邪魔をするように立ちふさがるマネキンたちを掻き分けて、従業員のいそうな部屋をくまなく確認する。
誰もいない。声も聞こえない。
腕時計の時間を確認する。
11時55分。

「…やーっ……やく……はや……!」

4度目の悲鳴。明らかに店内から聞こえる。
菅原は現場を離れたことを少し後悔した。慌てて同じ通路を走って戻る。
異様な形相で立ちふさがる裸のマネキンたちを蹴散らして、菅原は現場に駆けつけた。
はぁはぁと息が切れていた。
菅原は今まさに現場に立ち、3体のマネキンを背に、周囲全てを見回した。

「おーい!誰かいるのかー!!!」

菅原は、精一杯の大声で叫んだ。
静寂の店内に、凄まじい反響でその声はこだました。はぁはぁと荒い息をしながら、菅原は何度も周囲を見回した。
心拍数が上がる。誰かが助けを求めている。
この現場じゃないのか?
混乱した頭の中を、ぐちゃぐちゃと思考が駆け巡った時、

ゴトン!

真後ろで音がした。
菅原はビクリ!と振り返り、思わず目を疑った。
3体のマネキンのうち右後ろの一体が倒れて落ちているのだ。
肩くらいまでのセミロングの髪を、少し外巻きにカールさせた、美しいマネキンだった。
思わず一瞬そのマネキンに見惚れるように端正な顔をじっと見つめたが、はっとそれどころではないことに気付き、菅原は一心に大声で叫んだ。

「誰だーっ!誰かいるのかーっ!」

倒れた彼女には手も触れず、菅原は周囲に叫び続けた。
得体の知れない恐怖が菅原を包んでいた。
だらだらと脂汗をかきながら、菅原は胸ベルトの拳銃に手を掛けた。
何か、何か得体の知れないことがここで起こっている。
もう一度大きく叫ぼうとして、菅原はぞくりと背中に気配を感じた。
拳銃を手に、勢いよく振り返った菅原を見つめて、それは艶やかに囁いた。

「早く、食べたい。」


『拳銃』
 
 警備員からの救急要請で、病院に搬送された菅原の死を知ったのは、翌朝早くのことだった。
立花は、息せき切って病院の霊安室に駆け込んだ。
 そこには、白い布を全身に掛けられた、一つの遺体が安置されていた。
「スガさん…、まさか。」
 白布をゆっくりとめくった立花の目には、穏やかな顔をした菅原の青白い顔が映った。
じわりとわいて来る涙をグッとこらえるように、ゆっくりと白布を戻し、立花は呟いた。
「スガさん、何で…、何で…?」
行き場のない悲しみと怒りのような感情が、立花の心に渦巻いた。
手の平に爪が食い込むほどに拳を握り締め、立花は霊安室を後にした。

ガックリとうなだれるように、霊安室の前のベンチに腰を下ろす立花に、ポンと誰かが手を掛けた。部長だった。
「まいったなぁ…。まさか、スガさんがなぁ…」
そこまで言って、部長も涙をこらえるように声を詰まらせた。
「部長、スガさんは、どういう状況で…?」
立花はかろうじて声を絞り出して聞いた。
不思議となんとなく、答えは分かっているような気がしていた。
「例の現場で発見された。夜中の2時だ。スガさんが気にしていた四件と全く同じ場所、同じ体勢で警備員に発見された。外傷はない。発見された時は既に心肺停止からかなり経っていた様だ。」
痛々しい声で、予想通りの報告を聞いた立花は、言い返した。
「スガさんの追ってた通りじゃないですか。まったく同じだ!これ、本当に捨てヤマなんですか!?スガさんまで、過労死ですか!?」
苛立ちを隠せぬように、立花はベンチの脚を蹴りつけた。
部長も、なんと答えたら良いか分からないようだったが、ぼそりと一つの情報を漏らした。
「スガさんは、うつ伏せに倒れた状態で発見されたが…」
立花は、部長の顔を見上げた。
「…手には、拳銃を握っていたらしい。」
立花は、目を見開いて言った。
「何か!何か、危険があったんだ!何者かに襲われるとか、身の危険を感じたんだ。じゃないと、拳銃なんてもちませんよね!?」
勢い込んで、立花は部長に食ってかかった。
「もちろん、それは考え得る。ただ、まだ死因が確定していない。これがまた原因不明と言うことになると、我々も推察のしようがない。」
ごうを煮やしたように立花は叫んだ。
「とにかく!これは捨てヤマなんかじゃありません!オレがスガさんの後を継いでこの件の捜査を進めます!もっと人員を、少なくともオレが自由に動ける許可をください!」
部長は、止むを得まい、という表情でため息をついた。
「いいだろう。この件は、正式に不審死として事件扱いとする。お前が主となって動け。もしもスガさんのように、現場の張り込みをする場合は、必ず2名で行え。一人での張り込みは禁止だ。」
立花は、深々と頭を下げて、ありがとうございます!と叫んで、走り出した。


『捜査』

その後、立花は今までの状況、目撃情報、死因、その時の状態、様々な視点から捜査を開始した。
菅原の検死結果は出たが、予想通り、原因不明、ということだった。
立花は、状況を何度も何度も洗い直し、現場確認も何度も繰り返した。
それは、菅原が見せた執着を遥かに超えるものだった。
しかし、その立花の旺盛な捜査にもかかわらず、糸口は全く見えないままだった。
疲れ果てた状態で、捜査一課の部屋に戻った立花は、どさりと体をイスに投げ出して、宙を仰ぎ見た。
「…スガさん、何があったんですか。まったくわかりませんよ。教えてくださいよ。ねぇ、スガさん…」
大きくため息をついて、机の上に散乱した関連資料をパラパラとめくった。
そこにクリップで留められた2枚の写真。
この奇妙な青年に、菅原は何故か疑問を持っていた。
この青年に何か?
全ての情報を精査しつくした立花にとっては、それは藁をもすがる情報であった。
確か調べたはずだ。写真の下にメモが貼りつけてある。

佐藤爽太、23歳。東南大学大学院生。住所は和泉町か。
経歴や、周囲の情報等もある程度調べてあるが、大した情報はない。
不審な点も見られない。
現場でスガさんが、一人で誰かに向かって話しかけているという、奇妙な行為を目撃した以外は。
もちろん、五件の死亡推定時刻、午前0時のアリバイも取ってある。
最初の現場主任の件だけは、自宅で寝ていたということだったが、それ以外の四件に関しては、研究室で深夜まで実験、友人と飲み会、ゼミの打ち合わせ兼飲み会で教授宅、など、全てにアリバイがある。疑う余地はない。
「やっぱり、張り込むしかないんですかねぇ、スガさん…」
菅原が死んで5日目。明日で6日になる。
立花は、明日の夜から、張り込みを行おうと決意していた。
今度は2名、万全の体制で臨む。

「部長、明日の晩から入りますんで、小寺を連れて行きますがいいですか。明日はちょっと遅れてきます。」
立花がわざと大きな声を張り上げて問いかけると、部長は無言で頷いた。
菅原の追って来たものを、絶対に見極める、立花はその覚悟を漲らせていた。
一緒に張り込みをする小寺は、二つ下の後輩で、ラグビーをやっていたこともあって、これも立花と負けず劣らずがっしりとした体格をしている。
その夜に現れるものがなんであろうとも、何としても確保する。

菅原は、最後の力で拳銃を握り締めていた。
何かの危機に遭遇したとしか思えない。過労死なんかでは絶対にない。
立花にはその確信があった。
深夜0時、今晩から勝負を掛ける。


『待ち合わせ』

僕の心は、今までになく弾んでいた。
何かにとり憑かれたかのように、部屋の中をうろうろと徘徊しては、ベッドに座り込みニヤニヤと笑う。

今日は、約束の晩。
深夜2時まで開いている、小洒落たイタリアンレストランも予約してある。
後は、夜10時、閉店後の店内に上手く入り込んで、彼女と落ち合い、エスコートするだけだ。自分も洒落た格好をしようと思ったが、彼女は「爽太さんは、そのTシャツにジーンズっていうラフな格好が一番似合っているわ。格好いい。」そう、言ってくれたので、あえて持っている中で一番センスのいいTシャツとデニムのヴィンテージを着ていくことにした。
中古だが、自慢のシルバーのランドクルーザーも、しっかりと磨きを掛けた。
心が躍って仕方ない。
もうすでに、2人は付き合っている、と言ってもおかしくないくらいに接近していたし、何度も会話をしていたが、それでも一緒に食事するのは初めてだ。もしも勇気があれば、僕はその場で正式にお付き合いをお願いしようと思っている。
ああ、僕はあの美しい彼女の前で、どんな顔をして食事をすればいいんだろう。
どんな話が気が利いている?
そうやって何度も部屋をうろついているうちに時間が経っていく。ふと時計を見ると午後9時半。
そろそろ行こう。遅れるのは最低だ。
僕は車のカギをチャランと握り締め、部屋を出た。

僕はランドクルーザーを、ショッピングモールの裏の通用門に一番近い一般駐車場に置いた。
時間もちょうどいい。閉店から45分。
従業員らしき人影も減って、搬入口には業者らしき人影が一人二人見えるだけだった。
僕は、いかにもその業者の一人のように、そしていつもの作業のように通用門から中に入った。
ドアを開けるなり、守衛室があった。
警備員が一人、部屋の中で何かを書いている。
「ちわーす。マネキンの搬送に来ましたー。」
そう声を掛けると、警備員はこちらを振り向きもせず、
「ああ、サカイさんね。そこに名前だけ書いといて。遅くまでご苦労さん。」
と答えた。
はい、と答えて名前を帳面に書く振りをして、お世話になりますー、と言いながらそのまますっと中に入った。
簡単なものだ、ショッピングモールの警備なんて。
僕は、その後彼女と出るはずの搬出口を確認した。
荷物がたくさん置いてあり、大きな自動扉がある。
今も数人の業者が何かを搬送しているようだ。
ここからなら警備員は関係なくそのまま外に出られる。
通路を確認しながら僕は目的の場所に向かった。心は躍っていた。
彼女はちゃんと待っていてくれるだろうか。
またあの笑顔を僕に見せてくれるだろうか。

バックヤードを進むと、大勢のマネキンたちに出迎えられた。
どうしたの?こんな時間に。デートのお誘いかしら?
そんな風にマネキンたちが噂をしている。顔のないマネキンが豊かな胸だけをこちらに向けて笑ってる。
全裸のマネキンが、恥ずかしいからあまりこっちを見ないで、と囁いている。
僕は、くすくすと笑いながら、マネキンたちの間を通り過ぎた。
僕は、少し大きなドアから、店内に入った。
店内は、まだ煌々と灯りがついていた。
いつも訪れる昼間の店内と違って、静かで広い。
何かそこが僕たちだけの世界のような気がして、僕は小躍りしながらセンターモールへと向かった。
黒いスーツを着た男たちが羨ましそうに笑っている。
下着の女たちが、恥ずかしそうに囃し立てる。
僕は、遠くからセンターモールを見通した。
いた。彼女がいた。
彼女も僕に気付いたようで、小さく手を振っている。
麻里絵さん!と大声で叫びたかったが、周りの静けさが僕を制した。
僕は小走りに彼女に走り寄った。

今日の彼女は、殊更に美しい。
まっ白な、レースのついた短い丈のワンピース。
それはまるでウエディングドレスのようだった。
頭には花嫁さんのような綺麗な白い髪飾り。僕は思わず立ち止まって見惚れた。
いいのだろうか、僕はこの人と一緒にいても。
彼女は少し首をかしげて僕が近づくのを待っている。
「麻里絵さん、お待たせしちゃったかな。」
彼女は、ううん、と首を振った。
その仕草だけで僕は昏倒しそうだった。
「いいえ、私も今仕事が全部終わったトコ。良かった、来てくれて。」
僕はニッコリと笑って、彼女を下から上までしっかりと見つめた。
彼女は少し恥ずかしそうに手を胸に当てた。
「麻里絵さん、今日、凄く綺麗です。僕のこんな格好じゃ、不釣合いだ。」
彼女は、嬉しそうに、でも大きく首を振って言った。
「ううん、そんなことない。爽太さんはその格好が一番似合うの。私はその格好の爽太さんがいい。だから気にしないで。」
僕は、少し俯いて照れながら、心は鳥のように羽ばたいていた。
ああ、なんて幸せなんだ!
2人とも少し俯いて、顔を赤らめた。
僕は大きく息を吸って、言った。

「じゃ、行きましょうか。お姫様。僕が、ご案内いたします。」
そう言って、僕は少しおどけて恭しく礼をした後、彼女に手を差し出した。
彼女は、高貴な淑女のように、僕の差し出した手に右手をそっと乗せた。
「どこにでも、連れて行って。さあ、私をさらって逃げて。」
2人は、お互い顔を見合わせて、ふふっと笑った。
僕は勇気を振り絞って、彼女をぐっと抱き寄せて、肩に左手をかけ、右手を彼女の太ももの後ろに回し、力強く抱き上げた。
彼女の体は、思ったよりも随分軽かった。
彼女は、その両腕を僕の首に回すようにした。

さあ、行こう。
僕は、来た道を、彼女をしっかりと抱いたまま歩き始めた。
下着の女たちが、お似合いね、とひそひそ話をしながら楽しそうにこっちを見ている。
黒いスーツの男たちが、羨ましそうに僕を見る。どこでそんないい女を捕まえたんだ?やるじゃないか、色男。
そう言って笑っている。
バックヤードに入ると、裸のマネキンたちが一斉に拍手をしながら出迎えてくれた。
幸せな僕たちを祝福するように、頭と手のない女が体を揺すっている。
全裸の美女が、さも賑やかそうに手をたたいている。
僕は意気揚々と、マネキンたちの祝福の中を通り抜けた。

そう、僕らはまるでウェディングロードを歩いているような気分だった。



『急転』

立花と小寺は、9時半すぎに店長の部屋に訪問し、挨拶をした。
小太りの店長は、菅原さんにはお気の毒なことで、と言葉を濁した。
疲れきった様子の店長とは、儀礼的な会話だけを済ませて、張り込みに入る旨を伝えた。
店長は力なく、宜しくお願いいたします、とだけ言って、帰っていった。
立花は小寺を連れて店長室を右に出た。
と、そこで店長が、左に行って大きなドアを出た方が現場に近いですよ、と教えてくれた。
「そっち側は、マネキンがいっぱいいましてね。夜中は気味が悪いんです。」
そう店長は苦笑いをして去っていった。
バックヤードの通路を歩きながら、小寺が話しかけてきた。
「夜中の店の中って、気味が悪いですよね。静かで、マネキンだけが妙に生きてるように見えて。」
立花は、はん、と鼻で笑って小寺の肩をバシンと叩いた。
「なに情けないこと言ってんだよ!スガさんの無念を晴らすんだ。マネキンごときにビビってんじゃねぇよ!」
はっはっは、と大声で笑い飛ばしながら、立花は店内へのドアを思い切り景気よく開けた。
さあ、何が出てくる?オレがとッ捕まえてやるっ!
ドアを入ると、そこは既に婦人服売り場だった。少し行けばセンターモールの現場にたどり着く。
立花はのしのしと歩いていった。
大柄な小寺が、体を小さくして後ろからとぼとぼとついて来る。
立花は、通りすがりにちらりと婦人服の商品が吊られたコーナーを見た。
「そこが、スガさんの寝袋のあった所だな。そして、こっちが現場、と。」
ずかずかと歩いて、立花はセンターモールの現場に立った。

「?」

何かおかしい。微妙な違和感がある。
なにか足りないような気がする。
一番目立つ、このセンターモール。華やかな服をまとった美しいマネキンが2体。
立花は、少し立ち位置を変えて、また周囲を見回した。
やはり何か足りない。

そこへ、どたどたと太った警備員が走ってきた。
警備員は、立花たちに慌てて会釈をして、それからマネキンたちを見上げて大声で言った。
「しまった!やられた!」
額の汗を拭き拭き、警備員が顔をしかめた。
「刑事さん、すんません!マネキン泥棒ですわ!ここのを一体、やられました!さっき、白い服を着たマネキンを担いだ、若い男の後姿を見かけたんで、もしやと思ったら!まだいるかもしれない!追いかけます!」
太った警備員は、慌てて踵を返して走っていった。
立花は腕時計を見た。午後10時。
「小寺!一緒に追うぞ!」
そう言って、立花は走り出した。


『逃走』

僕は、ゆっくりと階段を下り、予定通り一階の搬出口にたどり着いた。
彼女は僕の腕の中で嬉しそうに僕を見つめていた。
彼女は僕に話しかけた。
「ずっと抱いたままで、重くないかしら。ごめんなさい。」
僕は、息を荒げることもなく、さらりと答えた。
「全然、大丈夫ですよ。ていうか、麻里絵さん、すっごく軽いです。重くなんかありません。」
彼女は、うふふ、と照れくさそうに笑って、
僕の腕にまわした手に力を込めた。
僕はそのまま、彼女の胸に顔をうずめたい衝動に駆られた。

僕は、慌しく作業する業者の横をすり抜けて、自慢げに彼女を抱いたまま、駐車場に停めたランドクルーザーに向かった。
助手席の前で、彼女を一旦下ろして、カチャとロックを外した。
助手席のドアを大きく開けて、僕は彼女がゆったりと座れるように、悪いと言っていた足にさわらないように、助手席の背もたれを大きくリクライニングした。
再び彼女を抱き上げて、そうっと助手席に乗せた。
彼女は、満足そうに僕の顔を見ていた。
顔と顔が近づく。僕は彼女に口づけをしたくなる衝動をグッとこらえながら、ゆっくりと顔を離した。
静かに、助手席のドアを閉めて、車の前を回り、僕は運転席のドアを開けた。

その時、彼女が不意に言った。
「急いで!急いで逃げて!」
僕は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
しかし、彼女は目を大きく見開いて、焦ったような表情で僕に懇願した。
「急いで車を出して!いやなヤツが追ってきてる。爽太さん!早く!」


『追跡』

立花は小寺を連れて、警備員の後を追った。
だだだっとバックヤードに突入すると、マネキンたちの群れが、立花たちを出迎えた。
マネキンたちはまるで立花たちを邪魔するかのように、林立し、前をふさいでいるかのようだった。
顔のない裸の胸が、カラカラと笑ったような気がした。
イヤなやつらねぇ、全裸の女がそう言って邪魔をしてくる。
立花は苛つきを隠せぬように、2~3体のマネキンを薙ぎ倒して走った。
小寺はまるで妖怪でも見るように、マネキンたちを見上げていた。
それでもなんとかマネキンの障害を乗り越えて、警備員と立花たちは一階に駆け下りた。
搬出口から走り出た立花の目に、銀色のランドクルーザーが飛び込んで来た。
警備員が、叫んだ。
「ああ!あれだ!」

よく見ると、ランドクルーザーの助手席に白い服を着た女が座っている。
そして助手席を閉めたかと思うと、若い男がぐるりと前を回って運転席に向かった。
立花はその顔に見覚えがあった。
菅原の見せたあの2枚の写真、誰に向かって話すでもなく笑いかけていた爽やかそうな青年。
間違いない、佐藤爽太だ。
立花は大声で小寺を呼んだ。
「小寺!佐藤爽太!佐藤爽太だ!オレの机の上に写真がある!重要参考人で出頭させれるようにしといてくれ!オレはアイツを追う!」
ランドクルーザーの青年は、慌てるように車に乗り込み、エンジンを掛けたかと思うと、ものすごい勢いで急発進させた。
立花は、全力で近くに停めてある自分の車に向かって走った。
遠隔でロックを外し、運転席に飛び乗ると、タイヤを鳴らしながら猛然と発進させた。

遠くの出口で、ランドクルーザーが右に曲がったのが見えた。
「っくしょう!逃がすかよ!」
リアホイールを滑らすように急回頭して、立花の車はランドクルーザーを追った。
ランドクルーザーの曲がった方向に行くと、随分遠くにそれらしきテールランプが見て取れた。
立花の車はレガシィB4、ランドクルーザーより走行性能は明らかに高い。
市街地での追跡で追いつけない気はまったくしなかった。

立花は、ウィンドウを下げ、簡易の赤色灯を車の屋根に貼り付けた。
サイレンを鳴らしながら猛然とスピードを上げ、ランドクルーザーを追跡する。
それでも立花の頭の中は整理されていなかった。
これが菅原の件とどのような関係性があるのか、佐藤爽太という青年がどのような立場の存在なのか、まったくきちんと整理はされていなかったが、とにかく何か関係があるような気がして、絶対に見失わないよう、全力で神経を集中させた。
距離がかなり縮んできた。


『護る』

僕は、彼女に言われるままに急発進で車を出した。
その理由ははっきりとはしなかったが、彼女の緊迫した声が僕のアクセルを強く踏ませた。
彼女は、助手席で不安そうな顔をして少し震えているようだった。
美しい長い睫毛を微妙に震わせて、やや潤んだ目をしながら、後ろを気にしている。
彼女を怯えさせるものを、僕は許さない。
絶対逃げ切ってみせる。
僕は、制限速度など無関係に、その大容量のエンジンを吼えさせた。
邪魔な車を右に左にかわしながら、猛然と飛ばした。
やがて信号が赤になり、無意識にスピードを緩めた時、彼女が叫んだ。
「止まっちゃダメ!追いつかれちゃう!」
僕は思わずアクセルを踏んだ。
幸いにも交差する道から車は出てこず、僕の車は赤信号を完全に無視して、突っ切った。
彼女は、ぶるぶると震えていた。
そしてすがるような目で僕を見つめて言った。
「怖いの。アイツ、ずっと私に付き纏っているの。だからお願い、逃げて!」
僕は彼女に、なるべく優しく聞き返した。
「ア、アイツって何者なの?」
彼女は、怯えたように首を振ってポロリと大粒の涙をこぼした。
「わからない。警察の人なんだけど、ずっと私に付き纏っているの。イヤなやつ。私、なんにも悪いことしてないのに!」
彼女の大粒の涙を見て、僕は猛然と怒りが沸いてきた。
公的権力を乱用するヤツか。
最悪だ!絶対に逃げ切ってやる!
彼女は、僕が護る!

やがて、後ろから猛スピードで赤いランプが近づいてきた。
僕は、ちっと舌打ちをして呟いた。
B4か。市街地は厄介だな。前に回られたら止まらざるをえなくなる。
それなら!と僕は思い切りアクセルを踏んで、信号をことごとく無視し、山側の片側一車線道路に急カーブを切った。
エンジンは唸りをあげてやや勾配のついた山に向かう道を走りぬけた。
前を走る車を車線をはみ出して猛然と追い越し、ランドクルーザーは狂った熊のように走り続けた。
熊には熊の走る道がある!逃げ切ってみせる!
僕は、怯える彼女に向かってニッコリと微笑んだ。
「大丈夫!麻里絵さんは、僕が護ってみせる!」


『失踪』

立花は少し焦っていた。
ランドクルーザーが山側の方向に進路を変えた。
市街地でなら、いつか追い越して前をふさいでやるつもりだったが、山道はヤバい。
ワインディングロードなら、B4の方が明らかに勝っている。
が、追い越すことも難しい。
追い詰めて、追い詰めて、その先が悪路になった場合が問題だ。
「ちぃっ!」
高らかにサイレンを鳴らしながら、立花は寂れてきた一本道を、ランドクルーザーを追って走り抜けた。
だんだんと民家が少なくなり、道がくねってきた。
立花は、マイクを握って叫んだ。
「前の車!止まれ!前の車、車を路肩に寄せて停車しろ!」
しかし、そんなことが通じるくらいなら、もうとっくにサイレンと赤色灯で停車している。
ダメか、と舌打ちをしながら、立花の車はランドクルーザーを鼻先に捕らえていた。
ワインディングロードでそうそう引き離されることはない。
クラクションを激しく鳴らしながら、立花は、頭に車のナンバーを記憶した。
延々とくねった道を、鼻先に捕らえながら追い続けた時、ランドクルーザーが急にハンドルを切った。林道に突入したのだ。
「ちくしょう!」
思わず立花は叫んだ。
ランドクルーザーの青年は、さも熟知しているかのように、林道を熊のように疾走した。
最初は舗装されていた道も、段々と部分部分が砂利道となり、やがて完全に舗装が途切れてしまった。
こうなってしまうと、車高の低いB4にはあまりにも不得手だ。
段差や、轍を軽々と乗り越えていく「ランドクルーザー」に比べ、立花の車は徐々に、徐々に、その距離をあけられつつあった。
やがて、ナンバーが読み取れないほどの距離になったかと思うと
、あっという間にテールランプだけの存在になってしまった。
立花は、ハンドルをバン!と叩いて追い続けたが、やがてはそのテールランプすら見失ってしまった。
そこから延々と車を走らせ続けたが、ランドクルーザーの影は全く見当たらなくなってしまった。途中の分岐点で他の林道に入った可能性もある。こうなってしまってはお手上げだ。

立花はやむなく車を停車させ、悔しそうにバン!バン!とハンドルを叩いた。
ハンドルに突っ伏したかと思うと、おもむろに携帯を取り出して小寺に連絡を取ろうとした。
圏外だった。

「くっそ!どうしょうもねぇ!」
立花は悔しさを滲ませながら、車をUターンさせた。



『僕たちの愛』

僕は、後ろを気にしながらも、少し安心していた。
かなり引き離したはずだ。途中の分岐点もどちらに行ったか、多分ヤツにはわからないはずだ。
しかし、それからも用心に用心を重ねて、しばらく悪路を走り続けた。
さらに道なき道を少し強引に突っ込んでいき、真っ暗な山中に入り込んでやっと僕は車を停車させた。
彼女は横でまだ少し不安そうに震えていた。
「麻里絵さん、もう大丈夫。ヤツはここまでは追って来ない。もう心配ないよ。」
彼女は潤んだ瞳を僕に向けて、今にもすがりつきそうに言った。
「本当に?もう大丈夫?怖かった。怖かったわ。」
彼女は、ギアに手を載せた僕の手の上に、震える手を重ねた。
僕はその手を強く握り返した。
彼女はその手に、もう片方の手を重ね、両手で僕の手を包み込んだ。
「ありがとう、爽太さんのおかげだわ。本当にありがとう。」
潤んだ瞳を見つめていると、僕はその儚げな彼女の両肩を抱きしめたくて仕方なくなった。
僕はこの勢いを借りて、勇気を振り絞って言った。

「麻里絵さん。僕は、君が、好きだ。」
彼女は少し驚いたような顔をしたが、やがてやわらかな微笑を浮かべて僕を見つめ返した。
「麻里絵って呼んで。私も、あなたが、大好き。大好き!」
彼女が、僕の腕の中に飛び込んできた。
僕は、彼女の両肩を強く抱き、そのまま自分の胸に彼女を引き寄せた。
「麻里絵、好きだ。大好きだ。ずっと、ずっと、好きだった。」
彼女は、顔を上げ僕の方を向き、本当に嬉しそうにニッコリと微笑んだ。
「爽太さん、大好き!大好き!大好き!もう、私、ずっと我慢してきたの。もう我慢できない!」
そう叫んで、彼女は僕の胸に顔をうずめた。

そして彼女は微笑んだ。



「たまらなく、美味しそうで。」


『発見』

-半月後-

和泉町から約40km離れた山林の中で、銀色のランドクルーザーが発見された。
林野調査に入った林業組合の職員が、道ともいえないような木々の生い茂った山の中で、ポツリと停まっている車を発見したのである。
車の中には、リクライニングした運転席に男性の遺体。
半分腐乱していた。
助手席には、女性のマネキンが一体寝かされていた。
男性の身元は、着衣に入っていた運転免許証から、和泉町の大学院生、佐藤爽太であることが確認された。
司法解剖の結果、外傷、薬物使用等はなく、ほぼ衰弱死であろうとの判断だった。
非常に見つかりにくい場所にわざわざ入り込んでの衰弱死と言うことで、おそらく覚悟の上の自殺ではないか、との推定が採用された。
他に目立った所持品はなかった。
助手席に置かれたマネキンは、半月放置されていたとは思えないほど、艶々と美しく薄い微笑を浮かべたままだった。

立花は、特に異議を唱えなかった。
マネキンの窃盗という罪はあったにしろ、それ以外になにもこの遺体を問い詰める根拠がなかったからだ。
菅原の疑問も、もうその口が語ることはなかった。

ただ、佐藤爽太のマネキン窃盗事件以後、例のショッピングモールの現場での不審死はぱったりとなくなった。
ほぼ10日間に渡って、立花と小寺による張り込みは行われたが、なんの異常もなく、張り込みは打ち切られた。
立花にとって、これはあまりにも不本意であり納得のいかない収束の仕方であった。
佐藤爽太の失踪と、不審死の終息が完全に同時期であることなど、彼が何らかの関係を持つであろうことは、立花でなくとも想像がついた。
しかし、そこには明白な関連性を示す何の証拠もなく、ただ彼は突然、センターモールのマネキンを盗み出し、逃走した挙句、山中で自殺した。それだけだった。

「立花さん、あのマネキン、どうします?ショッピングモールの店長は、もう要らないって言ってるんですけど。」
小寺が、立花に歩み寄りながら問いかけた。
立花は、答えるのも面倒臭いと言った風に吐き捨てるように言った。
「…ああ、あれか。窃盗品だから、持ち主に返却するのが筋だが…要らねぇだろうな。処分だな。とはいっても、でかいしな。マネキン業者でも呼んで引き取ってもらえ。後は好きに処分してもらってくれ。」

立花は、机に深々と座り込み、組んだ手に額を乗せて、大きなため息をついた。
それは哀しくも、あきらめのため息と言わざるを得なかった。

ちらりと見た菅原の机には、まだ一輪挿しにバラの花が一本、赤々と咲いていた。


『~epilogue~傀儡の恋』


 私は彼に恋してる。

 彼は、いつもここに現れる。
私は彼がどんなに遠くから現れてもすぐにわかる。
どこから来たって、すぐに見つける。
ああ、彼だ。
彼が、また来た。
あの颯爽とした歩き方で。

私の心はときめき始める。。。



(完)

傀儡の恋

傀儡の恋

恋する僕と、恋する私。時を経て二人の恋はその形を成していく。同じ時期、刑事菅原は三件の不審死を追っていた。二人の恋と、不審な連続死、ある共通の場所から始まる、不可思議な現実と虚構を描くサスペンスホラーです。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-07-20

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