ストレイ・エンタテイナーズ
前口上 -プロローグ-
――いらっしゃい。お兄さん、見ない顔だね。何処から来たの?
へえ、ニューヨークから。歓迎するよ。ようこそグレイフォートへ。
この街は初めて? そう。ここは良いよ? 何せここは『お客様の為の街』だからね。
目まぐるしい毎日に楽しむことを忘れてしまった人達も、ここに来ればまた胸を高鳴らせる。この街はそういう街なんだ。僕等この街のホスト役は、それを目指しておもてなしをしている訳だね。だからこの街では何でも楽しめる。文字通り「何でも」だ。
ショッピング? 基本中の基本だね。ブティック街もあるし、大通りには週に一回露店市が立つ。海沿いの遊歩道にもお店が出てるけど、あそこは何より景色が良い。お勧めだよ。
他にも遊園地、美術館、水族館に動物園。規模はそう大きくないけど、一通りの娯楽施設は揃ってる。夏なら海にだって入れるしね。
ゆっくり休みたいなら、ホテルの部屋でごろごろっていうのもアリだ。どのホテルも、君を貴族みたいにもてなしてくれる筈だよ。
そうそう、値段も手頃だろう? ちょっと考える事もあるけど、手が出ないほどじゃない。この街はリゾートだけど、高級リゾートは目指してないからね。もっとも、路地裏でのスリリングな体験がしたいなら、ちょっとばかり高くつくかもしれないけど。
うん、言ったでしょ、「何でも楽しめる」街だって。大きな声じゃ言えないけどね、向こうの裏通りじゃ掛け金がちょっとアレな違法賭博なんて良くあるし、その更に奥じゃあキレーな夜のおねーさん達が金づる……おっと失礼、スポンサーを探してニコニコ手を振ってたりする。
勿論、バックについてるのはそういう筋の人達さ。でも彼等もこの街じゃやっぱりエンターティナーでね。首を突っ込みすぎない間は、むしろ歓迎してくれる。何たって、お客の飛び入りがある方が儲かるって事を、向こうは先刻ご承知だしね。
かといって、調子に乗って深入りすると帰れなくなっちゃうかも……なんてね。
まあ最後は自己責任だから、火遊びがしたいなら気を付けて。
え、ここ? ここは違うよ、合法カジノ。この街では市の認可を得た、きちんとしたカジノっていうのが結構あってね。折角だし、一度は遊んでいくと良いよ。豪華なカジノホテルでVIP気分を味わうもよし、ウチみたいな掛け金上限の低いカジノで気負わずゲームを楽しむもよしだ。ディーラーに旅行者だって言ったら、こっそりサービスしてくれるかも……あ、勿論イカサマは厳禁だから、ドリンクとかゲームの助言とか、そういう意味でね?
とにかくこの街は華やかで刺激的。非日常を楽しみたいならこれ以上の場所は無い。まるでショーに飛び入り参加したような、煌びやかな世界がここにある。是非楽しんで行ってくれよ。
……え? 何、観光じゃない? 仕事の都合でこっちに住む?
――……そうかぁ。
そりゃあ、ご愁傷様だねぇ。
さっきと話が違う? そりゃあそうだよ。ここに住むって事なら話は別だ。
グレイフォートは観光にはもってこい。まるでショーの世界に迷い込んだような街。でもだからこそ、人も街もクセが強くてね。
平穏な毎日を送るには、少しばかり騒がし過ぎるんだ。
1 - Deal the cards
アメリカ合衆国の東海岸沿いに位置する小さな街、St.グレイフォート。州こそ違えど大都会ニューヨークからもほど近いその街は、知る人ぞ知る観光都市だ。街への来訪を歓迎する垂れ幕にも綴られた売り文句は、「皆がみんなもう一度、笑って胸を高鳴らせることのできる街」。一通り以上の娯楽施設をそろえたこの観光都市の一番の売りは、その昔、市民運動を経て勝ち取ったという合法カジノだ。
しかし、この街のカジノの歴史は、カジノ合法化の歴史より遥かに長い。賭博がまだ違法だった頃からグレイフォートには多くのカジノが存在し、またそれらを運営する反社会的な勢力も多かった。
その名残もあり、観光地区以外のグレイフォートは治安が良いとは言い難い。加えてそもそもこの街自体、来るものを拒まないという性質を持つ。それが観光都市としての最大の強みである一方、路地裏に迷い込み、運悪く法の向こう側を体験してしまう観光客も常に――それも少なからず――存在していた。
ダニエル・エアハートことダン少年も、余所者ながらその辺りの事情は心得ている。だから、駆け出した路地の先が所謂恐喝の現場だったのは、偏に不運の成せる業だった。
「おいガキ、来い!」
腕を引かれ、柄の悪い男達の中心に引き込まれるダン。先に絡まれていた少年が、気弱そうな視線を彼に向けた。どうにか転ばず踏みとどまったダンは、深く被ったパーカーのフードの下から男達の様子を窺う。二十代くらいの男が三人。腕に入れ墨のある中肉中背と、筋肉質な大柄と、ナイフをちらつかせるパンチパーマ。大柄な男がリーダー格のようだ。
「何ガンくれてんだよ、ああ? 見世物じゃねぇんだよ!」
そのリーダー格がダンの肩をどついた。衝撃に合わせ、ダンは数歩後ずさる。勢いを殺すための行為をよろけたと見てか、取り巻きの男達がニヤ付いた笑みを深めた。
――中の下。かな。
心中で下した評価は、自身の経験則に則ってのものだ。男達を脅威でないと見なしたダンは、フードの下で「この後」を考える。
厄介事に巻き込まれるのは勿論御免だ。ただ、逃げるにあたって騒ぎにだけはしたくない。こんなチンピラより余程厄介な彼に見つかっては困るのだ。
だがそんなダンの心情を、チンピラ達が知る筈も無い。
「おら、何とか言ったらどうなんだよ! 詫びくらい出来んだろぉ!?」
「何だぁ、ビビってんのか? まあ無理もねぇけどなぁ」
「大体顔なんか隠しやがって、生意気なんだよ! 脱げよそれ!」
理不尽な理屈でフードへと手を伸ばすリーダー格。途端、されるがままだったダンが勢いよくその手を払う。
「やめろ!」
「なっ……テメェ!」
反抗的な態度が癪に障ったのか、リーダー格の男は無理にフードを脱がそうとする。対するダンは慌てたようにフードを押さえた。しかしその行動が余計に男の不機嫌を煽る。
「コイツ! おい、見てんじゃねぇ手伝え!」
リーダー格の一喝で、他の二人がダンを抑えにかかる。大の大人と少年の体格差に加えた多勢に無勢。フードはあっけなく剥ぎ取られ、ダンの素顔が露わになる。日に焼けた肌に、灰色がかった銀の短髪。しかしリーダー格の目を引いたのは、それ以上に目立つ特徴だった。
「――おい、何だあ?」
リーダー格の頓狂な声に他の二人拘束の手が緩む。
「コイツ、目が赤――」
しかし男の台詞は続かない。緩んだ拘束を振り解いたダンが軽く跳躍、ベルトに挟んで隠し持っていた拳銃を、男のこめかみ目がけて振り抜いた。
「がっ!」
急襲を受けた男は碌な抵抗も出来ないまま崩れ落ちる。そのまま男が起き上がって来ないのを見届け、ダンは残りの人間に冷ややかな目を向けた。
「て、てめぇ!」
我に返ったパンチパーマがナイフを振り上げる。ダンは刃を拳銃で受け止め、空いている手で男の手首を掴んであらぬ方向へと捻った。あっけなく手放されたナイフを蹴り飛ばし、パンチパーマの体勢を崩しながら、こちらへ向かって来る刺青の男の方へ突き飛ばす。
「ぎゃっ!」「うおおっ!」
勢い余ってもつれ合う二人。どうにか体勢を立て直した時には、少年の銃口は彼らへと向けられていた。
ダンは標的を見据え、一歩、歩を進める。
「ひッ……く、くそっ!」
少年の異様な迫力に負け、声を上げて逃げ出す男達。ダンはその背中に照準を合わせる。騒ぎは起こしたくなかったが、厄介なこの特徴を見られてしまっては仕方がない。ゆっくりと引き金を絞ろうとしたその瞬間、
「や、やめて!」
腕を押しやられ、大きく狙いが逸れた。放たれた弾丸が無駄に地面を抉る。驚くダンに食ってかかったのは、先に絡まれ縮こまっていた筈の少年だった。
「何もこ、殺さなくたって!」
必死な形相の少年を、ダンの暗赤色の瞳が捉える。そこに一瞬前までの驚愕はもう無かった。代わりにあるのは僅かな逡巡。この少年を『的』と見なすかという迷いだ。
「ひッ、」
冷たい視線に怯えた少年が、小さく声を上げた――と同時、ダンは自分の元来た道を見やる。何かに気付いたように息を呑むと、少年へと飛びかかった。
「うわあっ!?」
悲鳴を上げた少年ごと、ダンは倒れ込むように身をかわす。軽い破裂音と共に、今まで二人の立っていた地面が浅く爆ぜた。
「な、何が――うわ!?」
起き上がろうとする少年を更に突き飛ばし、ダンは近くの路地へと駆け込んだ。その後を追うようにもう一つ、軽やかな足音が響く。
突き飛ばされた少年が起き上がった時には、路地は本来の静けさを取り戻していた。
「助かっ、た……?」
残されたのは、一人呟く少年のみ。
夢かと疑うほどの束の間の攻防。それが現実である事は、少年の目の前に倒れ伏す男が証明していた。
――失敗した。
ダンは走りながら舌を打つ。『対処』を躊躇ったせいで、三人も目撃者を作ってしまった――いや、倒れた男を含めて四人も、だ。おまけにその騒ぎでまた彼を呼び寄せてしまった。
背後に響く足音は乱れる様子も無い。追手の彼とはこの小一時間ほど鬼ごっこを続けている。思えば随分と長引いているものだ。運良く一度は撒いたものを、つくづくさっきの発砲は失敗だった。
彼について、ダンの知る所は少ない。ちらりと窺った限りでは、彼の獲物はアサルトライフルか、それより取り回しのしやすい騎兵銃。物騒なこの街でもそうそう手に入るものではない、どこかの組織の所属だろう。その心当たりがダンにはある。
そして、その銃を抱えての長距離走でありながら、こちらを付かず離れずで追って来る手腕。人通りの多い道にこちらを出さない、ギリギリの威嚇射撃による誘導。追手はこの街を熟知し、市街戦にも慣れている。
要は準備も手際も段違い。ダン自身、徐々に追い詰められている自覚はあった。
だが止まる事は出来ない。こちらが止まれば向こうは容赦しないだろう。これまでの威嚇射撃を鑑みれば一撃で致命傷、という事こそ無いだろうが、怪我を顧みてくれるほどには甘くないはずだ。まず足に命中てられて、逃げられなくなった所を連れ帰られる。
――それでは駄目だ。生きているだけでは駄目。
――絶対に、捕まってはいけない。連れ戻されてはいけない。
不意に背後から、ぼすっ、と鈍い音が響く。それはダンにも聞き覚えのある音だった。
ただし、こんな街中ではなく、かつて駆けた戦場で。
ダンは咄嗟に脇道に駆け込むと、滑るように地に伏せる。同時に耳を塞いで口を開けた。
一拍おいて襲ってきたのは、目を瞑っていても感じる閃光、耳を塞いでも響く衝撃。
――スタングレネード!
殺傷性の低い制圧用とは言え、市街地で、しかも子供一人に対して使う代物ではない。
衝撃をやり過ごして前を向けば、駆け込んだ小道は数メートルで先細り、とても通り抜けられるものではない。動揺を一呼吸で沈めると、そっと窺うように元来た道へと戻る。
手榴弾の直撃を受けたごみ捨て場には可燃物でもあったのか、火の手が上がっていた。俄かに明るくなった路地でまずダンが認識したのは、自分へと向けられたカービンだった。軍用でもあるそれの銃身には、取り付け式のグレネードランチャーが付いている。
次いで響いた声に誘われるように、ダンの意識はその使い手へと移る。
「――やーっと追い付いた。」
炎に照らされた追跡者の顔は意外にも若い。どう贔屓目に見ても二十代、十代だと言われても納得出来る。癖のある黒髪に黒縁の眼鏡、加えて端正なその造作は、一見すれば物騒な路地裏には似つかわしくない。だが軍用銃、ランチャー、加えて腰には大口径の自動式拳銃まで揃えた男が真っ当な人間である筈もない。
何よりその顔に浮かんだ暗い笑みは、明らかに『こちら側』のものだった。
「ガキの鬼ごっこにしちゃあ悪くなかったんだけどな。……銀髪に赤い目。間違いない、と」
青年はダンに不躾な視線を向ける。一通り眺めると、促すように銃を軽く振った。
「仕方ないから身の安全は保障してやる。諦めて投降しろ」
青年の言葉に、ダンがピクリと反応する。
昔から、嘘を見抜くのは得意だった。殆ど直観的なそれが、これまで間違っていた事は無い。その直観でもって見て、彼の言葉に嘘は無かった。
しかし、と少年は考える。彼が自分を追っているなら、そしてその目的が自分の予想通りなら、『脱走者』の自分にそんな事は言えない筈だ。それに、そもそも今までの発砲は何だというのか。威嚇は威嚇なのだろうが、あれは「当たっても良い」威嚇だった。
強烈な違和感にダンはしばし戸惑う。が、結局は青年の促しを切って捨てた。
「断る。」
口約束の保障など信用ならない。言葉に嘘がなかったとしても、敵意が本物なら意味は無い。
短い返答を受けた青年は、にやりと口角を釣り上げる。
「訊いてんじゃねぇんだよ、ガキ。」
青年がおもむろに引き金を引いた。ダンのすぐ足元を抉った弾丸は、明後日の方向へ跳弾する。ダンは青年を見据え続けていた。この近距離であの照準なら当たらない。それを判断できるくらいの経験はあった。
「……多少の度胸はある訳か。つまんねーなぁ」
身じろぎ一つしないダンを見て青年が言う。彼は銃を構えたまま近付くと、ダンに向けて無造作にその銃を突き付けた。
「武器を捨てろ。両手を挙げて立て。」
青年の端的な命令に、ダンは一拍だけ逡巡する。そして、慎重に場所を見て銃を置いた。身体から少し離した、右足の少し先。銃から手を引きながら、ちらりと青年を窺う。向こうの視線はまだダンから外れない。
ダンは殊更ゆっくりと両手を上げる。膝を立て、出来るだけ緩慢な動作で、時間を掛けて身を起こした。直立すると、青年の視線を真っ向から受け止める。
その瞬間の、彼の拍子抜けしたような表情を、聡い少年は見逃さなかった。
――今だ。
右手でカービンの銃身を掴むと、一気に右腕を伸ばし身を屈めた。
「なッ!?」
青年の小さな驚きの声と、数度連続する発砲音。勢いで引き金を引いたのだろう、銃身を掴む手に振動と熱が伝わる。発された弾は懐に潜り込んだ小柄な少年には当たらず、近くの壁を抉るだけで終わった。
ダンは屈んだ姿勢から右足を伸ばし、踵で先ほどの拳銃を手前へ蹴る。地面を滑った拳銃は、持ち主の左手へと収まった。同時に右手の銃身を引き、そのままの至近距離で、銃を持つ相手の手を狙う。
「――ッ!」
息を呑んだ青年は咄嗟にカービンから手を離す。間一髪で銃弾は避けるものの、彼の獲物は完全にダンの手中へ収まった。
「チッ!」
一つ舌打ちした青年は、しかし腰の拳銃に手を伸ばす。それを見たダンは咄嗟にカービンを青年へと放り投げた。
「うおっ!?」
思わぬ投擲に怯んだ青年の脇を抜け、ダンはその背後、来た道を戻る。一番手前の路地へ入ると、振り向かずに走った。
背後からの足音が聞こえないのを確認して、ダンは走りながらパーカーを被る。これで人の中に紛れられる。取り敢えずは、大通りに。それだけを考えて少年は走る。何の当ても無かった。
いや、当てだけではない。
あるのは『捕まってはならない』というタスクと、それを実行するための小さな武器だけ。それ以外は何も無かった。勝算も、希望も。
街を駆け行く少年は、小さく呟く。
――ああ、いつも通りだ。
***
そのカジノは、グレイフォートという観光都市にありながら、観光客の為の店ではない。
その店の名は、『カジノ・ショーメイカー』。
ゲストを迎える労働者にも、息抜きの場は必要だ。街一番の大財閥であるショーメイカーの手で直々に誂えられた『市民の為の遊技場』は、数十年の歴史を誇る、グレイフォートでも老舗のカジノである。言うまでも無く、その歴史はカジノ合法化よりも長い。
今では店の名物でもある三人の凄腕ディーラーのお蔭で、市公認のガイドブックにも載り、旅行者のゲストも増えた。『ショーメイカー』には地元、市外を問わず、果ては海外からも、多くの客が訪れる。
しかし客足が増え名物店となっても、カジノの根底にある思想は変わっていない。『ショーメイカー』のゲストは店での振る舞いのみで量られる。店の外での善行も悪行も関係なく、客の器を量るのは百戦錬磨のディーラー達だ。姑息な詐欺をはたらく輩にはそれ相応の『天罰』を。そして身近な者の小さな幸せを願う者には、ささやかな『幸運』を。
その理念は、今日も一つのテーブルで実現される。
店内中ほどに位置するブラックジャックのテーブルで、一人の男が迷っていた。顔馴染みの男達と卓について、早二時間。時間的にも金銭的にもこれが最後の一戦だった。掛け金は小遣い程度の額だが、男にしてみれば紛れもない自分の小遣いだ。つい熱くなって手持ちの殆どを賭けてしまったが、全額棒に振ってしまう訳には行かない理由が彼にはあった。
他の仲間は全員受けるか降りるかしてしまっている。迷っているのはもう自分のみ。焦りと緊張に堪りかねた男は、テーブルの向こうのディーラーをちらりと窺う。
これまた顔馴染みのディーラーは、収まりの悪い黒髪をオールバックに撫で付けた若者だ。卓を降りれば人好きのする青年で、男も含め常連ならば一度は彼と備え付けのバーで酒を共にした事があるだろう。だが今は自らの仕事に徹し、ただ上品な微笑を浮かべるのみだ。その胸には『ショーメイカー』のスタッフの証であるプレートが光っている。「ジャック・ローウェル」と名前の記されたそれは、このカジノ独特の不正対策の一つだった。
結局、繕ったような笑みからは何も読み取れず、男は手札に視線を戻す。目の前に広がるのは五枚のカード。手持ちにはA、2、4、5が並び、テーブルに置かれたオープンカードは3、手札の合計は未だ15だ。ここから合計をより21に近付けつつ、かつ21を超えないよう勝負を進めて行かねばならない。
一方で倒すべきディーラー・ジャックの手札は三枚で、そのうち明かされている手札は名前の通りのJだ。ディーラーは手札の合計が16以下なら問答無用でカードを追加しなければならないというルールがあるため、彼の手札は17以上と見て間違いない。このままでは男の負けは決まっている。
男が上手く6以下のカードを引ければ「6枚でバーストなし」で手役を狙え、さらに丁度6ならエース・トゥ・シックス――AとJのブラックジャックにも劣らない、高い手役が成立する。しかし7以上を引いて21越えすれば問答無用で負けである。今はトランプ2デッキを使っての勝負の終盤、全てのカードを使い捨てるブラックジャックの特質上、今までの勝負を思い返せば残りのカードの大雑把な検討は付く。狙い目である6以下のカードは、恐らく多くは残っていないというのが男の予想だった。
であればいっそ勝負を降りて、賭けた金の半分を確実に返して貰う手もある。ここのハウスルールでは、降伏は冒頭のディーラーの手札の確認後、いつでも出来ることになっていた。
男にしてみれば、金は出来れば多い方が良い。おまけに勝ちが無い訳ではない。しかし仮に勝負に負けてしまえば、明日は――。
「つかぬ事を伺いますが」
考え込んでいた男に、不意にディーラー――ジャックが声を掛けて来た。
「娘さんはお元気ですか?」
唐突な質問に、男は戸惑いつつも答えた。それこそ、彼が負けられない理由だ。
「ああ。明日で六つになるんだ」
「お誕生日でしたか。それはおめでとうございます」
上品な笑みのまま軽く頭を下げるジャックを、男はしばし見つめ――やがて、決意したように言う。
「……もう一枚、貰おう」
「どうぞ」
伏せたままのカードが男の前に置かれる。
男は震える手をカードへと伸ばす。生唾を呑み込む音が、拍を早める鼓動が煩くて敵わない。
そっとカードの角をつまみ、そして一気に表へ返した。
現れたのは――ハートの6。
男の手役が、そして勝利が確定した瞬間だった。
「やった! やったぞ!」
席から飛び上がってガッツポーズをする男。実際にやった事はと言えばカードを一枚引いただけなのだが、遊技場ではご愛嬌だ。一緒に卓についていた男の知人、そしてテーブル周りのギャラリーからも笑いが零れ、温かな雰囲気が周囲を包んでいく。
「おめでとうございます。勝負の女神から、娘さんへのプレゼントでしょう」
微笑むジャックはごく僅か、ほんの微かに声を弾ませる。それはまるで、悪戯に成功した少年のような響きでもって。
「どうぞ、娘さんに素敵な誕生日を」
感極まった男から平均以上のチップを受け取って、ジャックは上機嫌で卓を離れた。足取りも軽い彼に向け、「お見事でした」と脇から声が掛かる。
「おう、シャロン。お嬢さん方の相手は良いのか?」
先程までとはうって変わって粗野な口調で言うジャックに、声の主はにこりと笑ってみせた。
レモンを思わせる華やかな金髪と、ライムのように瑞々しい翠の瞳。ディーラー仲間のシャロン・オースティンは、その中性的な顔立ちと紳士的な物腰から、ファンの女性達の間で『王子嬢』と渾名されている。その名に恥じない爽やかな笑みで、彼女はジャックへ歩み寄る。
「少し手が空いたので。――相変わらず良い目、いえ、腕ですね」
「何の話だ?」
わざとらしく空とぼけて見せるジャックに、苦笑を零すシャロン。
「さっきの常連さんと、その前の手癖の悪い詐欺ヤローの話です」
綺麗な顔でしれっと暴言を吐く同僚を特に窘めるでもなく、ジャックはけらけらと笑う。
「おーおー、あいつぁ酷かったぜ。勝手に大盤振る舞いして自爆して、挙句にちゃっちいイカサマなんか仕掛けようとしやがってよ。思わず勝負の女神様にチクっちまった」
言いながら手首を軽く捻ると、その手中にハートのクイーンが忽然と現れる。シャロンはそれを受け取って、訳知り顔で頷いて見せた。
「ははあ。『勝負の女神の名の下に』実力行使って訳ですか」
「よせよ人聞きの悪い。俺はあくまで告げ口しただけ、ってな」
悪びれずに答えるジャック。しかしそのしたり顔は長くは続かず、すぐに表情を曇らせる。
「しっかし最近、ああいう阿呆が多すぎやしねぇか? こないだなんか、あわや暴力事件ってのもあっただろ。賭博場はオトナの社交場、どんなに負けが込もうとも、出して良いのは口までだ。客としてのマナーも守れねぇ奴がこうも増えてるってのは、単に世も末ってだけじゃあなさそうだ――と、俺は踏んでるんだが?」
オマエは何か知っているだろう、と問うジャックの視線を、シャロンは躊躇なく首肯する。
「ええ。ですから」
言葉を区切り、シャロンが足を止める。カジノに併設されたバーの中、カウンターを指し示して彼女は言う。
「その件で話があるそうですよ。オーナーから」
その瞬間、ジャックは盛大に顔をしかめた。
「オーナーだぁ? まーた来てんのかよ、あのボンボン」
「――聞こえているぞ被雇用者」
飛んできた声に、ジャックはいよいよ肩を落とした。信じたくない一心でカウンター席を窺うが、しかし現実は非情なもので、予想通りの人物がそこにいた。
輝かんばかりの金糸の髪に、純白の三つ揃えに劣らない白磁の肌。神々しいほどの白と金で統一された出で立ちの中、晴れた空と同じ色の瞳がアクセントを添えている。
ヴィンセント・ショーメイカー。
カジノ・ショーメイカーのオーナーにして、ホテル・観光業をメインに据えたグレイフォート最大の複合企業体、ショーメイカー・コンツェルンの若き御曹司。
VIPらしい荘厳さを漂わす青年は、不敵な笑みを浮かべて言う。
「オレがいつオレの店に来ようがオレの勝手だろう」
「へいへい、どーもスイマセンね若旦那」
ジャックは頭を掻きながら青年の隣に腰を下ろす。抵抗するだけ無駄だろう。社会的立場の問題以上に力関係の問題だ。傲慢な友人でもあるこの青年の強引な頼みは断れないという事を、ジャックは経験的によく知っている。
しかし、そうして改めて間近で見た上司の顔は、普段より幾分か覇気に欠けていた。
「と、言いたい所だが。今回は『理由』がある。不服ながらな」
苦々しげに柳眉を寄せるヴィンセント。彼には珍しいその様子だけで、ジャックが用件を察するには十分だ。
「また厄介事かよ」
「おかしな動きをしているホテルがある」ヴィンセントは神妙な面持ちで頷いた。「それなりに伝統あるホテルなのだがな。最近妙に柄が悪い連中が出入りしているらしい。この街では物騒な事態への備えは必須だ、警備員として荒くれやら元傭兵やらを使う場合は確かにある。だがそれとして許容するには、連中、余りに躾がなっていない」
「あー……けどよ、そりゃ慣れてないだけって事もあんだろ」
ジャックが何とも言えない顔をしたのは、自分も言わばそのクチだからだ。今でこそ一角のディーラーとして名を馳せているジャックだが、元を辿れば行く当てのない孤児だった。大成するまでの間は浮浪児時代とのギャップに苦しめられた記憶も多い。似たような境遇の雇われ警備員達がもし間違いを犯しているのなら、こちらが正してやればいい――そう庇いたくなるのが人情というものだろう。
しかしそんなジャックの言葉に、ヴィンセントは首を横に振る。
「旅行者に被害が出ている。それも連続してだ。客を傷付ける警備員など論外だろう」
「……そりゃあな」
応じたジャックの瞳が細められる。この瞬間、彼等を庇護する余地は無くなった。何の罪も無いゲストに手を挙げる――それは観光に依って立つこの街では一種の禁忌だ。それが「間違い」ならば徹底して灸を据えねばならないし、そうでないならそれなりに、それ以上の「対処」をする必要があるだろう。それに、とジャックは隣のオーナーの顔を盗み見る。
察するにどうやらこの若社長、この事態を余程腹に据えかねているらしい。それはそうだろう、ゲスト相手の暴力事件などが続けば、この街のアイデンティティが揺らぎかねない。常日頃から突拍子もない事を言い出すバカ社長だが、街への愛着と貢献は本物だ。街の誇りを踏みにじられて黙っていられる男でないのは、きっとジャック自身が一番良く知っていた。
「――それに詳しく聞いた所、どうもスタッフだけではないようですしね」
唐突なソプラノに振り向けば、彼等の背後にはいつの間にかショーメイカーの王子嬢・シャロンが陣取っている。綺麗な顔にファンが見たらある種卒倒ものの哀愁を湛え、彼女は続けた。
「ホテルマンをしているお客様から伺った話ですが。お勤め先のホテルの前で暴れていた連中を窘めた所――連中、『ふざけんな、俺達は客だ』とのたまったそうで」
その証言に、ジャックは思わず頭を抱える。
「ったく、冗談じゃねぇな」
その男達の言葉が事実なら、今この街にはガラの悪い雇われ人だけではなく、ガラの悪い客までもが集まっているという事になる。幼い頃からグレイフォートの裏道で過ごしたジャックの経験上、こういう時には厄介事が――それも、大掛かりで面倒臭い厄介事が起きる可能性が非常に高い。
そしてそれは、ジャックの上司たるヴィンセントも心得る所である。
「まあそういう訳でな、貴様らにはしばらくはこちら側の働きをしてもらう。今ここにおらんあの小舅は一先ず先行して動かしているが、奴にも改めて伝えておけ」
この場に居ない男へ親しみの籠った皮肉を向けつつ、若きカジノオーナーは特命を下す。
「オレの街で蛮行を働く輩に情けは無用だ、手加減無しで掃討しろ――とな」
予想通りの傲岸不遜な物言いに、しがない騎士は肩を竦めるしかなかった。
ワガママ若社長の要求を素直に受け入れたせいか、その後の退席は思いの外あっさりと認められた。ジャックは一服しようと通用口へと向かう。こんなキナ臭い上に面倒臭い状況、煙草でも吸わねばやっていられない。
道すがら、自分とは反対に通用口から入って来たであろう男と出くわした。スーツ姿にビジネスバッグという出で立ちは一見すれば会社員だが、彼もまたジャックの同僚の一人だ。以前から腐れ縁の友人だったという事実に目を瞑れば、むしろ上司と言った方が正しい。
『ショーメイカー』のフロアチーフ、ダグラス・ゴドウィン。浅黒い肌はネイティブアメリカンの血が混じっているせいだと、いつか本人が言っていた。今日は一日顔を見なかったが、バカ社長曰くの「先行調査」から丁度帰った所だろう。眼鏡の奥、フロアでは決して見せない素のしかめ面を、ジャックはへらりと気の抜けた笑みで迎える。
「よう小舅。今帰りか?」
「こじゅっ……誰がだ!」
「そう怒んなよダグ。俺の発案じゃねぇし、まあ何だ、言い得て妙だ」
すれ違いざまに肩を叩くと、そのまま出口の方へ向かうジャック。その様子に、ダグラスは慌てて彼を呼び止める。
「おい、何処へ行く? 仕事はどうした」
「きゅーけー。バカ社長にゃ許可貰ったし、頼もしいフロアチーフ様もご帰還だし、開店からこっちずっと出ずっぱりだったんだ。ちょっとくらい良いだろ?」
「待て、俺は帰ったばかりで!」
「はいはい、頑張ってー」
ひらひらと手を振れば、ああもう! と苛立った背後から聞こえてくる。天を仰いでいるだろう友人を想像し、ジャックは笑みを深めた。
***
人気の無いビルの屋上で、トニーは大きく紫煙を吐き出した。それをそっと攫った夜風が、彼のくすんだ金髪も揺らしていく。
夜を照らすグレイフォートの歓楽街を横目に、彼が見つめるのは暗い裏路地だ。闇の中に二つ、三つと浮かぶ小さな部屋の灯かりだけでは、夜道を照らすには頼りない。様子など大して分かる筈も無い路地を、それでもトニーは眺め続ける。その足元には黒いカバーの掛けられた、細長い物体が置かれていた。
唐突に電子音が鳴り響いた。トニーは懐から携帯を取り出す。
「ん、俺や」
西訛りの強いイントネーションは、多様な人種の揃うこの街でも珍しい。小さく頷きながら、トニーは電話の声に応える。
「そか。まあ、そないなとこやと思っとったけどな……了解、ほな」
苦笑いで電話を切ると、再び煙を吐く。今度は溜息が主だった。
電話はチームの偵察担当者からだった。彼が捜していたのは、組織の稼ぎの主力商品を無断で横流ししていた男。同じ雇われの身だったその裏切り者が、前情報通りに見つかったという。そこまでならば喜ぶべきだが、肝心の男は既にブツを売却していて、金も全額カジノですった後だというから笑うに笑えない。
電話によれば、今からその裏切り者を、ここから見える通りに追い込むという話だった。
その場にしゃがみ、トニーは足元のカバーを外す。現れたのは細身のスナイパーライフルだった。消音器が取り付けられ、安全装置を外せばすぐにでも撃てる状態だ。トニーは地面に伏せるようにライフルを構え、そのスコープを覗く。安全装置を外しながら、先ほどの指示を思い返した。表通りから三本入った、街灯の二つ目。
「……あれか」
街灯に照らされた路地に、若い男が一人駆け込んできた。その後を悠然と追う、銀髪の男の方には見覚えがある。寄せ集めである自分達を、何となく束ねる立場にある男だ。
「ようやるわ、ホンマ」
追手の男によって、裏切り者は路地の壁際に追い詰められる。何か派手な動きがある訳ではない。追手の男は文字通り「追い詰めた」だけだ。それが出来るだけの心理術と、何より気迫を、あの男は持ち合わせている。
思い出して背筋を粟立たせたトニーだったが、軽く頭を振ると煙草を消し、狙撃の態勢に入る。自分がここに居ることはあの男も知っている。いつ狙撃の指示があってもおかしくない。
体中の力を抜いて、狭い視界と引き金に添えた指先とに全てを集中する。呼吸は深く長く、そして少なく。
追手の男が右手を挙げた。それが合図だった。
トニーは指先にそっと力を込める。
銃声は響かず、くぐもった音が漏れるだけ。しかし、スコープの狭い視界の中、壁際の男の頭部に――頭部だった所に、赤い花が咲いていた。ずるりと崩れ落ちるその身体を見届けて、トニーはスコープから目を離す。
「――やれやれ」
殺していた呼吸と一緒に、思わず言葉が漏れた。立ち上がって、背を伸ばしながら天を仰ぐ。
良い夜だった。天気も狙撃の邪魔をしないし、何より風が優しい。トニーは新たに煙草を咥えると、安ライターで火を点ける。自分にとって外す距離ではないとは言え、無事に仕事を終えればやはり安堵は覚えるものだ。
不健康な煙を味わいながら、そう言えば、と不意にトニーは思い出す。追手の男の連れである、年端もいかない少女は今頃どうしているだろうか。ある時世話を任されて以来、何故か懐かれてしまっている。表情には乏しいながら、無邪気に慕ってくれる様子に悪い気はしなかった。昔亡くした妹に、何処か似ているせいもあるだろう。
あの男はあの子を一人で外には出さないと言っていた。彼が連れていないのならば、一人で拠点にでも残っているのだろうか。もう夜も遅い、寝ていてくれればいいのだが。
考えながら、手は慣れ親しんだ後片付けの手順を辿る。意図せず触れた銃身はまだ熱を残しており、その感触にトニーは思わず眉をひそめた。温い金属から逃げるように、狙撃手は思考を巡らせる。
お土産に何か買って帰ってあげようか。前に買ってあげたキャンディは随分と気に入っていたようだった。なにも特別なものではない、グローサリーで買った普通のキャンディだ。それが心底物珍しかったのか、違う味もあると言ったら目を輝かせていたのを覚えている。
たった今人を殺したライフルを背負って、トニーは決めた。
――あのキャンディを買って帰ろう。また喜んでくれると良いのだが。
***
エイベル・ブラッドバーンは落胆していた。原因は目の前の男の器の小ささにあったが、落ち込む理由は他にあった。
エイベルはフリーの殺し屋だった。一月ほど前、この街での仕事で下手を打ち、死に体となるほどの大怪我を負った。そのエイベルを拾って、何かと世話を焼いてくれたのが『ヴィヴェンツィ商会』だ。街の裏側とも深く繋がる彼等は怪我の治療や寝食の世話のみならず、リハビリ中だったエイベルの技量を見込んで、護衛として雇ってもくれた。そんな商会に、そして何より世話を焼いてくれた上司達に、エイベルは返し切れぬほどの恩を感じていた。
彼等のお陰で怪我も完治し、初めて一任されたのが今回の仕事だ。曰く、「提携・資金援助を頼んで来たホテルがあるがどうもキナ臭い。交渉担当としてウラを探ってくれ」という。相手方の用心棒と荒事になる可能性を考慮し、エイベルに白羽の矢が立ったのだった。
自分の能は人殺しだけだと自負するエイベルに、それ以外の仕事を任せてくれたのは彼らが初めてだった。殺し屋という職に不快感を抱いている事を、彼らは見抜いていたのだろう。それがエイベルには嬉しかった。何としても期待に応え、良い報告を持ち帰りたいと思っていた。
だが、とエイベルは改めて目の前の男を見る。向かいのソファに座る、見るからに虚飾に塗れた男。三十路頃だろうが落ち着きが無く、高級そうなスーツにも着られているという印象だ。
バローネという名のその男こそ、このホテルのオーナーで、エイベルの上役に援助を依頼した張本人だった。
「今、我がホテルの売り上げは順調に伸びている最中です。前年度の同時期と比べれば実に二倍以上の利益になる。まあそれもこれも発案者たるあの男と、それを雇った私の慧眼によるものですがね。加えてそちらの援助を頂ければ、系列として展開できます。必ずや、投資以上の利益を約束しましょう!」
エイベルの白い目に気付く素振りもないまま、バローネは意気揚々と話し続ける。
会談も半ばを過ぎた辺りから、バローネの話は仕事のそれではなく、ただの自慢話になっていた。それも性質の悪い犯罪自慢である。実に下らないその自慢話の内容は、しかし社長たるバローネの人間性を量る以上に、このホテルの実態を量るに十分なものだった。
こちらも真っ当な身分ではない、ホテルに併設したカジノの条例違反な倍率に関しては目を瞑ろう。不正を悟られぬほどの手腕であれば、むしろ歓迎さえしても良い。だがバローネ率いるホテルのやり方はイカサマというにはあまりにお粗末で、当然のように発生するクレームは恐喝と腕力で叩き潰すという有様だ。加えて無暗に私兵や用心棒を雇っては、それなりの躾も施すことなく放置して、街の均衡を崩しているのも頂けない。
更にはこうして直接会った事で、エイベルはこの男にある種の警戒心を覚えていた。いや、この男に、というのは正確ではない。経験上、しくじりそうな相手や場所には敏感だ。この場所、このホテルが正にそうだった。
正直、ここと手を組むのが良い選択だとは思えない。だがエイベルの仕事はその有様を報告する所までだ。今この場で判断を下す事ではないし、そもそもその権限もない。それに相手に見込みが無いとはいえ、顔合わせで粗相があっては商会の名に傷が付く。
一抹の不安と膨大な不満を堪えるエイベルを置き去りに、バローネの自慢話は山を越え、申し訳程度のこちらへのおべっかに切り替わっている。どうやら今日はそろそろ解放されそうだ。
それから喋り続けること五分ほど、ようやくバローネが締めの言葉を口にした。
「それでは、宜しく頼みますよ。Mr.ブラッドバーン」
ずいと、無遠慮に差し出されたバローネの右手。半ば呆れつつ、エイベルはその手を儀礼的に握り返した。
「こちらこそ、宜しくお願い致します」
こういう時、生来表情に乏しい自分は得だとエイベルは思う。愛想笑いで顔を引きつらせる心配をせずに済むからだ。
一礼して部屋を出たエイベルは、廊下を進みながら思案する。経過を伝えに一度商会の元へ戻るべきか。しかし日々仕事に追われる彼等は、明日に備えてもう休んでいる頃合いだろう。
「うん?」
ふと気配を感じて、エイベルは脚を止める。見ればエレベーターの向かいの窓際に、少女が一人立っていた。窓を開け、半ば身を乗り出すように外を眺めている。
小柄な身体はエイベルの胸までもなく、人形のようなふわふわした黒いドレスを纏っている。それが所謂ゴシックロリータと呼ばれるものだと、ファッションに疎いエイベルは知らない。更に少女は室内だというのにつばの広い大きな帽子を被っていた。帽子の後頭部の側には黒く長いベールが付いていて、髪の毛の一筋すら見えない。
エイベルの足音に気付いたのか、少女がこちらを向いた。帽子のせいでエイベルと目は合わない。合わなかったが、少女の方から「おにいさん」と声を掛けて来た。
「おにいさん、しらない人。あたらしいようじんぼうの人?」
「……いや」
立場上は似たようなものだが、あの男の部下とは認めたくない。エイベルの小さなプライドをよそに、少女はさらに言葉を紡ぐ。
「あのね、おねがいしてもいい?」
「お願い?」
「ハンカチ、落としちゃった。だいじなものなの。おにいさん、拾ってきて?」
窓の外を指差す少女の表情は相変わらず窺えない。だがその声には本気の困惑が滲んでいる。それを察したエイベルは、否定的な声音にならないよう細心の注意を払って疑問を投げた。
「……自分で行けば良い、のでは?」
「いけない」少女は静かに首を振る。「わたしはね、ひとりでここから出ちゃだめなんだって。ほんとは、ハンカチも拾いに行きたいし、外にあそびにも行きたいんだけど。でも、だめなの」
俯く少女の様子に、エイベルの脳裏で一人の知り合いが重なる。この街で出来た友人の、病弱な妹。あの子も満足に外に出られず、寂しそうに外を眺めているばかりだ。理由は違えど、さぞもどかしい思いをしている事だろう。あの子も、この少女も。
エイベルは肩を落としたままの少女の頭に、そっと、帽子の上から手を添えた。
「なら、一緒に行くか?」
「え?」
「拾いに行くだけならすぐだろう。誰かに見つかったら説明してやるから、一緒に行くか?」
「――うん、行く。」
答えた少女の声は僅かに、しかし確かに弾んでいた。
***
「っちゃー……何アイツ。流石ってヤツ?」
銀髪に赤い目の少年が去った路地裏に、一人残された追跡者の青年。彼は少年が駆け込んだ路地をただ見詰めていた。その表情は少年を追っていた時とは別人のように気怠げで、標的に逃げられた悔しさらしいものは微塵も感じられない。
現状、青年に逃がした獲物を追う気は無かった。流石に騒ぎ過ぎた自覚がある。加えて折角良い遊び相手だと期待していた所を、あんなに真面目くさって逃げられては興醒めも良い所だ。
「これだから、ガキの相手は嫌なんだよなぁ」
やれやれとぼやきながら、振り返ってカービンを拾う。至近距離で撃たれた上に、投げつけられて取り落としてしまったが、どうやら壊れてはいないらしい。確認して、軽く息を吐く。
――これで武器まで壊していたら、あの人に何を言われるか分かったものじゃない。
「クライヴ君!」
唐突に名前を呼ばれ、青年が顔を上げる。道の先に一台の車が停まっていた。開いた運転席の窓から、三十路手前といった風情の男が半身を乗り出している。
「ああ、どうも」
見覚えのある運転手に、ぺこりと頭を下げるクライヴ。しかし男はそれを歯牙にもかけず、凄い剣幕で怒り出した。
「『どうも』じゃないですよ、何してるんですかこんなに派手に! それも銃まで持ち出して! 一般市民に通報とかされたら洒落になりませんよ!」
「あーあー分かったって。早々にお説教とか勘弁してよ、イワンのばーか」
「またそうやって! 大体僕の名前はイアンです、ロシア文学みたいに言わないで下さい!」
「はいはい、分かりましたー……っと、あれ?」
気のない様子でひらひらと手を振って、クライヴは車に近付いた。そこでふと、助手席が空いているのに気付く。彼はやや目を細め、イアンに訊ねた。
「あの人は?」
それを聞いたイアンは、付き合っていられないとばかりに首を振る。
「リンさんなら別件でどうしても手が離せないそうです。でなきゃ真っ先に飛んで来てますよ、貴方に大目玉食らわせに」
その言葉に、剣呑だったクライヴの表情が弛緩した。
「あ、そ。まあそんな所か」
素っ気なく、しかし何処か満足げに頷くと、クライヴは後部座席のドアを開けた。我が物顔で乗り込む彼に、イアンが声を掛ける。
「ただし、そのリンさんから伝言を預かってます」
「え? ふぅん、何て?」
「『言い訳は聞かん、覚悟は良いな』――だそうで」
一瞬きょとんとしたクライヴだったが、すぐにぷっと吹き出して笑いだす。
「っはは、了解デス。そりゃ相当怒ってんね」
「当然でしょう! 君ね、」
「はいはいはい、後で聞きますよ。いーからさっさと出して下さい」
とことんまで悪びれないクライヴに、大きな溜息を吐くイアン。
――彼の相手がまともに出来るのは、我らが上司くらいのものだ。今夜の事は運が無かった、そう、犬に噛まれたとでも思っておこう。
諦め半分の判断を下し、イアンは中央地区の拠点へ向けてアクセルを踏み込んだ。
***
裏路地から見上げた狭い夜空は、生憎の曇天だった。
「んだよ、野暮ってぇなぁ」
やれやれ、とジャックは煙草に火を点す。裏通りに面した通用口の脇。それが彼の定番の喫煙所だった。万に一つでも客の目に付きうる場所で従業員が煙草を吸うなど言語道断、というのがオーナーの方針だ。愛煙家のジャックは随分肩身の狭い思いをしていた。
「……あん?」
ごそりと物音が聞こえた気がして、ジャックは耳をそばだてる。再び、ごそり。やはり聞き間違いではないらしい。音を立てるという事は向こうに身を隠すつもりは無い、同時にやましい所も無い、筈だ。そう思いつつも、ジャックは身体を緊張させる。気を抜けばすかさず襲い来るこの街の冷たい一面は、幼い頃から身をもって知っていた。
程なくして路地の先から現れたのは、意外にも良く知った顔だった。
「あれ。ジャック兄」
あっけらかんと声を掛けられ、拍子抜けするジャック。ノア、と思わず名前を零せば、幼さを残した相手の顔に笑みが浮かぶ。
「何だ、お前かよ」
「何だとはご挨拶だなぁ」
ノアは心外だとばかり両手を広げた。好奇心の強そうな瞳と毛質の柔らかそうな髪は揃いの胡桃色で、見る者にしなやかな野良猫を思わせる。歳の頃は十七、八といった風情のノアは、ジャックにとっては路地裏時代からの知り合いで、長い付き合いの弟分だ。その見慣れた顔は、しかし見慣れぬ荷物を携えている。街を駆け回るのが仕事の少年には到底不釣り合いな、重厚感たっぷりのアタッシュケース。見るからに重そうな手荷物を本人はそう気にしてはいないのか、ノアは普段と変わらぬ様子でジャックに歩み寄った。
「シケた夜だね」
「全くだ。厄介事ばっか増えやがる」一つ煙を吐いて、ジャックは思い出したように続ける。「お前んとこも大変らしいな」
「そうそう。かれこれ半月くらい探し物してんだけどさ、手掛かりなんかまるでナシ。最近じゃギリギリの囮使ったりして――あ、そうだ」
ノアがふと、手に持つアタッシュケースに目を遣る。同時に、ジャックの脳裏には警報が。
「これ、」
「いらねえ。」
食い気味に答えたジャックに、慌ててノアが弁解する。
「悪いモンじゃないって! ただちょっとウチで処分するのは都合悪いっつーか面倒っつーか」
「お前んとこで処理できねぇとかよっぽどだろ!」
「そんな事ねーってば、大丈夫大丈夫」
「とにかくいらねぇ!」
全力で拒否するジャックだが、ノアにそれを聞き入れる気は無いらしい。あまつさえアタッシュケースを振りかぶると、
「よーしジャック兄、いっくぜー!」
「馬鹿いらねえっつって――」
投げた。勢いもタイミングもパーフェクトな一投だ。放られたアタッシュケースはジャックの顔面めがけて飛んでいく。
「うおぉっ!?」
間一髪でジャックが避け、アタッシュケースは彼の後方の陰へと消えた。
「「あ。」」
次の瞬間、物陰から鈍い音が響いた。続けて何かが倒れるような物音。
「あーあー、おいどーすんだよ……あ?」
愚痴るジャックが向き直った先に、既にノアの姿は無い。十数メートル離れた先に、遠ざかる背中があるだけだ。
「野っ郎……!」
追いかけようかとも考えるが、それには差を付けられ過ぎている。ジャックは苦々しげな舌打ちを零すと、被害の確認のために物陰を覗き込んだ。
そうして、彼はそれを見つける。
「おいおい冗談だろ……」
そこには、一人の少年が倒れていた。日に焼けた色黒の肌、短い銀髪は土埃で汚れている。すぐ傍には彼を襲った凶器――ノアの放ったアタッシュケースが、ぱっくりと口を開けていた。ついでにその中身だった筈のものが、衝撃で辺りに散らばっている。
それは、袋詰めされた大量の白い粉だった。
言い逃れの出来ない場面を前に、グレイフォート一の『ラッキー・ガイ』を自称するジャック・ローウェルは天を仰ぐ。
「あー……厄日か、今日は。」
2 - Open your cards
『あなたはだぁれ?』
響くのは、か細い声。迷いなく澄んで、それでいて――どこか、不安そうな。
胸に迫った得体の知れない衝動に、押し出されるように声に応える。
「僕は――」
呟いた自分の声で、ダンは目を覚ました。
重たい瞼を擦りつつ、半身を起こす。そこで初めて、自分がベッドに寝ていた事に気付いた。
「ここは……?」
慌てて辺りを見回せば、そこはアパートの一室だった。そう広くはないワンルームだ。自分が寝ているベッドに背を向けるようにしてソファ、その向こうに見える反対側の壁には申し訳程度のキッチンユニットが付いている。
有り得ない、とダンは思う。自分は逃亡者だ。元いた場所に連れ戻されるならともかく、こんなごく普通の一室に連れて来られる理由など無い。そもそも昨晩はどうしたのだったか、追っ手を撒いて、それから――?
必死で記憶を辿っていると、不意に衣擦れの音が聞こえた。驚くダンの前で、一人の青年がのそり、とソファから身を起こす。
「何だ、起きたのか?」
欠伸交じりで言う青年に反射的に武器を向けようとして、ダンは自分が丸腰である事に気付いた。銃ばかりか、隠し持っていた筈のナイフ類も無くなっている。ぱたぱたと身体の各所を探るダンを見て、青年は悪戯っぽく笑う。
「そう来るだろうと思って、物騒なもんは一通り預かったぜ。ま、そう警戒するなよ」
青年は締まらない顔のまま、両手を挙げてダンの方へ向かって来る。敵意も武器も無いというアピールのようだった。
「俺はジャック、『ショーメイカー』ってカジノでディーラーをやってる。お前は?」
「……ダン」
簡潔に答える。フルネームを名乗りたくない時は、いつも愛称だけを告げる事にしていた。
「ダン。ダンねぇ。この辺じゃ見ない顔だな。どっから来たんだ?」
「……武器はどこ」
無視して問えば、ジャックは大袈裟に肩を竦めて見せる。
「おいおい、無視すんなよな。折角助けてやったのに」
「助けた?」
「お前、ウチの店の裏で倒れてたんだよ。ほっとけねーから拾ってきたんだ」
ひらひらと手を振るジャック。その様子を見ていたダンが、今、と呟く。
「何か隠したね。嘘、ではないけど」
「お? 何だ、お前そういうの分かるクチかよ」
仮にも俺ぁディーラーなんだがな、と嘯くジャックを、ダンは敵意を込めて見詰める。
「あー分かった分かった、悪かったよ。実を言うとな、お前は俺のダチがぶん投げた鞄に当たってぶっ倒れたんだ。ほら、そこの」
ジャックが指差す先には、重厚なアタッシュケースがあった。成程あれに当たったのなら、中身によっては最悪死んでもおかしくないだろう。再びジャックを睨み付ける。
「おいおいやめろよ、悪気があった訳じゃあねぇ、ありゃあ不幸な事故だった。ただ、だったら尚更放っておくのもどうかと思ってな。仕方ないから拾ってきた」
危険な目に遭わせたことは認めるが、あくまで事故だと言い張るらしい。一応、その言葉に嘘は感じられない。
ダンは改めて、品定めするようにジャックを見る。わざと不躾に全身を見回して、それでも笑みを崩さぬ青年の前に、ダンはやがて根負けの溜め息をついた。
「助けてもらった事には感謝する。けど頼んだ訳じゃない、恩を着せるのはどうかと思うよ」
「おお、正論だ」
茶化すジャックに、ダンは眉をひそめる。が、何も言葉にはしないまま、掛かっていたタオルケットを剥ぎ取りベッドを降りた。ジャックの前に歩み出ると、彼を見据えて言い放つ。
「武器を返して。出て行く」
「当てはあんのか」
間髪入れない問い掛けに、ダンは一瞬何と返すべきか分からなかった。その沈黙を図星と取って、ジャックがすかさず言葉を続ける。
「何となく分かるんだよ。途方に暮れてる奴ってのはな」
「……追われてるんだ。」仕方なしに、ダンは部分的に事情を明かすことにした。「向こうは手段を択ばない。関わると巻き込まれるよ」
危険を提示すれば引き下がる――そう考えての事だったのだが。
「はっ、そりゃあいい」
ジャックの顔に浮かんだ不敵な笑みは、見るものが見ればすぐ分かる。場数を踏んだ勝負師の笑みだ。
「ダンだっけ? お前は知らねぇだろうけどな。この街での厄介事に俺等を巻き込まないなんて、大損も良い所だぜ」
意味ありげなその言葉も、ダンには真意を掴みかねる台詞でしかない。
事ここに至って遂に、少年の理解は及ばなくなった。ジャックと名乗るこの青年が、味方なのか敵なのか。言動上は敵である確率は限りなく低そうだが、自分の味方に付く根拠もない。何故こんなにも自分に構うのか。
ここまで訳が分からないのなら後は直感に任せるに限ると、ダンは素直に訊ねてみる。
「何が目的?」
「そんな計算高い奴だったら、夜中に銃持ってぶっ倒れてるガキ拾ったりしねーよ」
それを言われると返す言葉が無い。その言に嘘はないので尚更だ。不服そうなダンをよそに、ジャックは何故か楽しそうに指示を出す。
「取り敢えず、まずはシャワーだ。埃まみれじゃ連れ歩けねぇからな。準備が出来たら付いて来い。取り敢えず」
言葉を切って、ジャックは茶目っ気たっぷりに笑って見せる。
「この街で一番美味い朝飯を食わしてやるよ」
***
エイベル・ブラッドバーンは腹を立てていた。勿論、顔には微塵も出さずに。
彼は現在、予定外にもバローネのホテルを訪れていた。彼が居るのは会議室のような一室で、他には誰もいない部屋だ。妙に陰気だったので、エイベルは勝手にブラインドを開けた。
本来ならば今日の仕事は、昨夜の成果を上司に報告に行くだけのはずだった。散々だったミーティングを仔細漏らさず伝えてやる気満々で床に就いた昨夜だったが、ホテルからの「大至急来てくれ」との呼び出しに朝の安眠を妨げられたのだ。
商会の立場を考え呼び出しには応じたものの納得のいかないエイベルは、ホテルまでの道中、いつもと変わらぬ鉄面皮の奥で延々と不服申し立てを行っていた。まず昨夜の打ち合わせからして、全く益が無いまま終わったのだ。そのくせ妙に長引いたせいで、睡眠時間が足りていない。先方のせいで寝不足の所を、電話一本で一方的に叩き起こされた形の自分には、十分に苛立つ権利がある。
――そもそも殺し屋は職業上、朝には強くないというのに。
そういう訳でホテルに着く頃には既に相当の不平不満を溜め込んでいたエイベルだが、ホテル側の所業はそれだけでは終わらなかった。朝食も終わらぬ早朝に人を呼び出しておいて、謝罪はおろか碌な挨拶も説明もせず、唯一あったのは「説明があるまで待機」の指示のみ。彼を部屋まで連れてきた案内役はすぐに出て行き、それからこうして三十分ほど待たされている。
これはもう裏側とか表側とかいう問題ではない。裏の仕事の長いエイベルにも分かるレベルで、普通にとっても失礼である。自分が肩入れしているのはあくまで商会であってこのホテルではないのだ、無礼に目を瞑る義理は無いと、声を大にして主張したい――
がちゃり。
唐突に背後から響いたドアの開く音に、エイベルは驚いて立ち上がる。普通ノックくらいするものではないのだろうか、という疑問は、入ってきた男を見て消え去った。
色の褪せたような銀髪を後ろに固めた、四十路くらいの男性。スーツにアスコットタイという着こなしにも隙が無い。一見細身だが、その実十分以上に筋肉がついているだろうことは、重心のぶれない歩き方からよくわかる。厳めしい表情からは、感情らしいものは読み取れない。
だが、何よりもエイベルの意識を引いたのは男の目だった。
自分と同類の――人殺しの眼。
「君がブラッドバーン君かね」
確認の態でありながら、有無を言わさぬ低い声音。緊張感がぴり、とエイベルの肌を刺す。同時に、昨日会った社長が自覚していなかったであろう実態を悟った。
――この陣営の本丸は、恐らくこちらだ。
本能的に姿勢を正したエイベルを見て、男は「……良いだろう」とひとりごちる。
「メストだ。暫くの間、私の指示に従ってもらう」
エイベルへ向けて、挨拶のための右手が差し出された。エイベルはすぐさまその手を取ると、軽く握ってそれに答える。
否、という選択肢は無い。最早商会の体面以上に、この男の存在の方が問題だった。この手の人間は手段としての戦争を躊躇しない。少しでも拒否の態度を見せれば、その矛先は自分のみならず商会そのものへと向くだろう。
ここから先は、どうあっても事を荒立ててはならない。
先方が席に着くのを見て、エイベルも再び腰を下ろす。メストと名乗った男は前置きも無く本題に切り込んだ。
「君に、この街の案内を頼みたい」
「……案内、ですか?」
思わぬ内容に、エイベルの片眉が上がる。彼の疑問を首肯し、メストは続けた。
「昨日、ここから子供が一人逃げ出した。銀髪に赤い目の子供だ。年端もいかぬ幼子だが、何分希少な人材でね。現在部下が総出で探しているが、君にもその手伝いをして貰う。勿論、別途報酬は出す」
「それは……構いませんが、一口に探すと言っても。何か目処は?」
あくまで淡々とした説明に、流石のエイベルも声に若干の動揺が混じる。対するメストの言葉は変わらず端的だ。
「この街で人が集まる場所は」
「人ですか」エイベルは少し考え込む。「今日は第二日曜ですから、メインストリートで市が立ちます。露店も多く出ますし、規模はちょっとした祭り並みかと」
そう口にしてしまってから、もっと「こちら側」の情報を出すべきだったのではと思い至る。しかし、窺い見た先のバローネは表情一つ変えずに頷いた。
「ではそこへ」
「……はあ」
溜息のように曖昧な返答は、エイベルにしては珍しい。一方のメストは、それ以上説明を加えることもなく席を立つ。
「多少荒事になるかも知れないが、準備の程は? 必要な装備があれば用意させるが」
「いいえ」
こちらも立ち上がりつつ即答するエイベル。遠慮からでも警戒からでもなかった。元来、武器を必要とするスタイルではない。
「結構、ではすぐに出る。時間が惜しい」
身を翻して部屋を出ようとするメストを、エイベルがあの、と呼び止める。
「一つ聞いても?」
「何か?」
そう答えるメストの顔からは、やはり感情は読み取れない。
「その子供というのは、一体」
「ああ」
その問いに、メストが初めて表情を変えた。剣呑なほど目が細められ、その口元がにい、と歪む。
「大事な大事な、『被検体』だ。」
歪なそれが笑みだと気付くまで、エイベルはかなりの時間を要した。
***
市警のダウンタウン地区分署のすぐ隣に位置し、「タウンで最も安全」を売りとするデリカテッセン。爽やかな朝の雰囲気に満ちた店内に、今朝に限っては人の寄り付かない一角が出来ている。店内後方、通りに面した席に陣取るその元凶は、手にした資料に突き刺すような視線を向けていた。
組まれた長いしなやかな脚に、後頭部の低い位置で無造作に束ねられた黒髪。細い黒縁の眼鏡の奥で、怜悧な瞳が光っている。ダークスーツに咥え煙草という出で立ちはどう見ても男のものだったが、僅かながら確かに丸みを帯びる胸元がその判断に待ったをかけていた。
「ジャン・メイヤー。ヘッドショットで一発、か」
紫煙と共に吐き出された物騒な呟きが、男性と言うには澄んでいる。それだけが、辛うじて彼女の性別を表していた。
備え付けの灰皿に煙草を置き、彼女は資料と机上の地図とを見比べる。
「……全く、」
「良くやるよね、ホント」
指先で地図を辿っていた男装の麗人の背後から、独り言に割り込む声がある。彼女の振り向いた先には、緩い癖毛の、眼鏡を掛けた青年が立っていた。
「クライヴ」
呼びかける彼女の視線が幾分か和らぐ。クライヴは手にした紙コップの一つを手渡すと、躊躇いなくリンの隣の席を埋める。
「良くやるって言うか、やりすぎって言うか。どっちにしろ最近マズいですよ、この街。外からヤバい連中が相当数流れて来てるし、例の新種の薬物やって暴力沙汰起こしてるの、この街のチンピラっていうか外の連中の一部でしょう? おまけにそいつら馬鹿やった後で大半が死体で上がってて、そのうち数体は明らか他殺って。こんだけナワバリ荒らされちゃあ上がうるさいとかより前に、流石に沽券に係わるでしょう。さっさと潰さなくていーんですか」
部下の苦言を受け、リンはわざとらしく「なんだ」と返す。
「思ったよりも分かってるじゃないか。てっきり昨晩のは知らずにやらかしたのかと」
棘を含んだその返事に、流石のクライヴも笑みを崩す。が、崩した先は反省の表情というよりも駄々っ子のそれだ。
「だから昨日から謝ってるじゃないですかぁ。大体手段を選ぶなってアンタが言ったんでしょ」
「謝って済むなら我々も銃も用無しだ」言いながら左肩を叩いて示すリン。その下には、スーツに隠れたショルダーホルスターがある。「それに、わざわざ祭りをしろと言った覚えはない」
「あの程度。言うほどハシャいでないですよ」
あくまで悪びれない部下に呆れの溜息を吐き、コーヒーを一口含むリン。クライヴもそれに倣ってカップに口をつけると、「で?」と上司に先を促す。
「ああ、最優先は変わらず銀髪赤目だ。『殺人人形』なんて証言は信じ難いが、それが薬関連で唯一の目撃情報だしな。そこを押さえればひとまず上も――」
「ああいや、その前に、です」
話を遮るクライヴを、リンは訝しげに見る。心当たりの無さそうなその様子に、だから人間やめてるって言うんだ――とは内心に止め、クライヴは溜息交じりに言う。
「朝飯。いい加減俺も腹減りましたし、アンタだってどうせ、昨日の件から碌に食ってないんでしょう。折角だし、休日返上の可愛い部下に奢ってくれても良いんですよ?」
小首を傾げるクライヴに、しかしリンの反応は冷たい。
「辞書を引け。『折角』と『可愛い』の使い方が間違ってる」
「ご丁寧にどうも。ついでにアンタの辞書に『超過勤務』って書き加えておきますよ」
苦笑しながらメニューボードに手を伸ばすクライヴを、リンはやんわりと制止する。
「いや。私はこれから中華を食べに行く」
「朝飯に中華ぁ?」思わず声を上げたのは、取り合わせの珍妙さにではない。「どうせ『招龍軒』でしょ、完全に仕事じゃないスか」
「一石二鳥と言え」
『招龍軒』は街のメインストリートに面した中華料理屋だ。個人経営の小さな店だが、その筋では名の通った情報屋として知られている。『銀髪赤目』の情報目当てで利用しようという事だろうが、その為だけに食生活を犠牲にするほどクライヴは勤勉ではない。
「俺は嫌ですよ、朝から中華とか」
「じゃあお前は食ってから来い」
意外にもあっさりと引き下がったリンは、何故か財布を取り出しながら言う。
「そうだな。メインストリートの方を回って、昼にはこちらと合流しろ。遅れるなよ」
そうして一〇ドル札を一枚机に置くと、止める間も無く店を後にした。
「……そういうことじゃないんだけど」
残されたクライヴがぽつりと零す。奢ってくれとは確かに言ったが、それはあくまで口実で。彼としては、偶には息抜きがてら食事でもと、遠回しながら気遣ったつもりだった。それに気付かない人ではないのに、仕事となるとそれしか優先しないのだ、あのワーカーホリックは。この一〇ドルにしたって、どちらかと言えば詫び代のつもりなのだろう。
結果として口実だけが叶ってしまった訳だが、まあ貰えるものは貰っておこう。クライヴはあっさり居直ると、冷めてきたコーヒーを一気に飲み干す。
「んじゃ、河岸でも変えますか」
どうせ大通りに出るのなら、ここより好みの店がある。あちらなら食べるついでに雑踏の監視も出来るし、ここより治安がユルい分、当たりを引く可能性も高い筈だ。『銀髪赤目』に限らずとも、思わぬ釣果があるかも知れない。
運試しくらいにはなるだろうと、クライヴは一〇ドル札を手に席を立つ。
選りにもよってジョーカーを釣り上げる事になるとは、微塵も思わずに。
***
それは、この街ではよくある光景だった。
埃っぽい路地裏で、周囲を囲まれ暴行を受ける男。助けを求める声を発する暇すら与えない暴力の雨。男にとっては幸運なことに、刃物の類は見受けられない。しかし殴られ続けた男の顔には、そこら中に血が滲んでいた。
集団暴行。あるいは私刑。そういう風に呼ばれるべきそれは、この街では比較的よく見受けられる。膝をついた男の手足が縛られているのも、それなりに恨みを買っていればままある事だと言われるだろう。
そうでありながら、それは明らかに「普通の光景」ではなかった。
普通と呼べない理由は三つ。
一つ目は、現在が爽やかな朝であること。
二つ目は、一人に対して十人以上で囲むその人数差。
そして最後の一つは、筋肉質で大柄ないかにも柄の悪そうな男を囲んでいるのが、青年と呼ぶのも躊躇われるほどの少年達であることだった。
「がはっ! 止め、たすけ――」
悲鳴じみた男の言葉を、少年達の中でも年嵩の一人が鼻で嗤う。
「『助けて』? はっ、どの口が。俺等の仲間に手ぇ出したのはそっちだろうが!」
言い終えるや否や、鋭いローキックを一つ。喧嘩慣れしているらしい一撃は、容赦なく男の腹を抉る。悪態すらつけぬまま、男は丸まるように体を折った。
今朝は顔への強烈な一撃で目を覚まし、そこから訳も分からず殴られ続けている男だが、少年たちの罵声を聞けば状況にも薄々察しが付く。これは昨晩の仕事のツケだ。昨夜攫おうとしたあの少年が、彼らの仲間だったということだろう。只でさえ妙な邪魔が入ってケチが付いたというのに、その上こんな報復が待っているとは。男はただただ己の不運を呪った。
だから男は気付いていない。少年達の視線はただ冷たく、男の無様を嘲笑うものは一人も居ない事に。そして男が弱るのに合わせ、少年達の暴行も徐々に弱まっている事に。
それは異様な光景であった。暴言の勢いはそのままに、殴る蹴るの間隔だけが開いて行く。怒号は絶えず響かせつつも、止めの一撃は冷静に避ける。 その統率のとれた冷酷さに、怒声の中心で呻く男が気付けるはずもなく。
かくて男の気力が尽きようとした時、少年達の冷酷さの大元が、彼等の本性が顔を出す。
「――よし、ストーップ。」
はい皆やめやめー、と、辺りに気の抜けた声が響いた。途端、少年達の手が一斉に止まる。
男は不意に止んだ暴行に困惑しつつ、痛む身体に鞭打って顔を上げる。周囲の少年達の関心はもう男には無いようで、その視線は現れた一人の少年へと軒並み注がれていた。
胡桃色の髪と瞳のその少年は、しなやかな歩みで男へと近付いて来る。男の正面まで進み出ると、半身を折って男に顔を近付けた。その表情に、満面の笑みを貼り付けて。
「なあオニイサン。挨拶もなしに突然拉致ってこんだけボコって、ホント今更で悪いんだけどさあ――あんた、何処の人?」
酷薄な笑みに、ぞくり、と男の背筋を冷たいものが駆け降りる。身を強ばらせる男を見て、少年は満足げに上体を起こした。
「ああ悪い、訊くときはこっちから名乗るのが礼儀だもんな」
芝居がかった動きで肩を竦め、少年は言う。飄々とした笑みを崩さぬまま、朗らかに。
「俺はノア。一応このチームを仕切ってる……ってもまあ、俺らはしがない街の悪ガキ集団なんだ。行き場に迷った連中が徒党組んでるってだけの、よくある集まりさ。けどな、俺等の機動力を買って、酔狂にも面倒見てくれてる人らが居てよ」
そこでノアは一度言葉を切る。男を見据える視線が、少年らしからぬそれへと変わる。
その名前を出す瞬間だけは、彼は路地裏の少年ではなく。
「俺らの上はリベラトーレ。ポートマフィアのリベラトーレ・ファミリーだ」
グレイフォートの『リベラトーレ』といえば、NYにも顔が利くほどの、歴史と伝統あるポートマフィアだ。経済力と影響力、そして武力――圧倒的な組織力でグレイフォートのチンピラ・ゴロツキの類を制し、時には御しているリベラトーレは、言わば街の「裏方」の総元締めだった。一般市民への知名度も高く、同時にそれなりの畏怖と支持も確立している。
ノアが率いているのは名目上、そのリベラトーレの下部組織に当たる。少年達で構成されたチームは所謂『年少組』に近いが、しかし一般的なそれより遥かに自由度が高い。その理由は、ノアとリベラトーレのボスとの奇縁にあった。
ノアは父を知らず、水商売をする母親に半ば見捨てられて育った。それでも絶望することなく、人好きのする性格でいられたのは、妹の存在があったからだ。妹の笑顔を見れば自然と笑顔になれた。体が弱く病気がちな彼女を守りたいと思っていた。
母が帰って来なくなり、妹と二人でいわゆる浮浪児になってからも、その関係は変わらなかった。朗らかで頭の回転の速いノアの周囲には、自然と同じような境遇の子供が集まった。
そんな折、病に倒れた妹のため、当時の仲間と共に高級車を襲撃したのが 年前。その高級車に乗っていたのがリベラトーレのボスだった。襲撃こそ失敗に終わったものの、彼らの機動力とチームワークを見込んだボスは、襲撃を不問に付す代わりにとノアとその仲間達をスカウトしてきた。
結論として、ノアは彼を除いたグループの全員と妹の保護を条件にリベラトーレの傘下に下った。妹と仲間を守れるのならと、汚れ仕事を回される覚悟も、捨て駒としての覚悟もした上での結論だった。だが実際には、回されるのは主に地味さ地道さ故に避けられるような、彼らの得意とする仕事ばかり。ノア達はボスの期待以上の成果を上げ、報酬は契約上の金額に幾許かの色を付けて支払われる。傷害事件に関わる回数はむしろ減り、生活の余裕に伴い仲間も増えた。良い寄生先を見つけたものだと、内心ノアはほくそ笑んでいた。
そんな矢先、ノアの妹の病状が悪化した。大病院に緊急入院し辛うじて一命は取り留めたものの、完治までに見込まれる治療費は総額1万ドル。路地裏暮らしの未成年であるノアに払える額ではない。途方に暮れるノアに、ボスはいつになく厳しい顔で告げた。
――今回の費用も今後の治療費も全て、我々が支払う用意はある。返済は必要ない、君のこれまでの活躍と、これからの働きに報いるものだ。
――だが、それはつまりそういうことだ。マフィアに金を工面してもらった、その事実は一生拭えない。
君は、それで良いか、と。
それは彼からの最後通牒で、きっと彼なりの、最大限の優しさだった。
以来、ノアは自らリベラトーレを名乗るようになった。そこに、彼自身の誇りを乗せて。
そんな彼の背景は、語らずとも気迫に現れる。ノアに睥睨される男は、少年らしからぬその迫力に息を呑んだ。しかし、すぐに我に返って叫ぶ。
「し、知らねぇ! 知らねぇよそんな奴!」
「あ? そういうの、却って腹立つんだわ。煽ってんならそう言えよ」
「ほ、本当だ! 俺ぁ余所者なんだ! この街には来たばっかりだし、その、リベ……なんだ、お前の上役も知らねぇ! ただ良い仕事があるって聞いて、それで!」
「……はあ?」
男の泣き言に、ノアは思わず間抜けな声を上げた。引き締めた表情も年相応のものへと崩れてしまう。
この街の『こちら側』で、リベラトーレを知らない人間がいるはずがない。余所者であろうと場数を踏んだ業界人なら、現地の最大勢力として必ずチェックを入れるはずだ。
「おい、まさかアンタ、本気でなんにも知らねーのかよ」
ノアにしてみれば呆れの一言だったのだが、男は我が意を得たりと顔を輝かせる。
「そ、そうだよ、俺はホントに、ホントになんにも知らねぇんだ! ただ雇われただけでさぁ!」
素性の知れない雇い主に攫って来いと言われた、目を付けたガキがマフィアだなんて知らなかった。そう喚き散らす男を睨み付けるノア。しかし、やがて大きく溜息をつくと、がしがしと頭を掻いた。
「そうかぁ、知らないのか。知らないんならしょうがねぇなあ」
緩んだ語気に、男の表情が明るくなる。それを横目で眺めつつ、お前ら、とノアは笑顔で少年達に呼び掛けた。それは、先程までとはうって変わって生気に溢れた――獰猛な笑みだった。
「このおっさんにみっちり教え込んでやれ。この街で『リベラトーレ』に楯突いたらどうなるか、ってな」
「の、ノア!」
手加減なしの集団暴行(リンチ)の現場を後にするノアに、一回り小さな影が駆け寄る。ノアが振り返ってみれば、昨夜、件の男に絡まれたという少年、マシュが弱々しく袖を引いていた。
「あの、そ、そこまでしなくても……僕は無事だったんだし」
窺うようにこちらを見上げる少年の頭を、ノアは笑ってわしわしと撫でる。最近居ついたばかりのまだ幼い少年は、いわばチームの末の弟のようなものだ。
「優しいなぁ、マシュは。でもそういう事じゃねぇよ、これはメンツの問題。適当に見逃して舐められて、第二第三のお前がもっと酷い事されないとも限らないだろ」
そう、とノアは思う。このチームの、と言うよりは、『リベラトーレ』の下部組織としての問題だ。仲間がやられたのを放置したなんて知れれば、我らがボスが外聞的にも人道的にも黙ってはいない。黙っていないとは文字通りで、ボスの折檻は殴る蹴るにちょっと耐えれば済むという話ではないのだ。路地裏生活の長いノアとしては、いつぞやのような二時間半のお説教コースだけは避けたい所だった。
「大丈夫、やって精々半殺しだ。後でお前に謝らせなきゃなんねぇしな」
優しい微笑で物騒な事をのたまったチームリーダーの下へ、また別の少年が歩み寄る。
「ノア」
「おう」チームでも古株の彼に向け、ノアはぞんざいに返事をする。「何かあったか」
「いや、昨日保護した子な、今朝がたいつの間にか出てっちまって」
「保護した子?」
「あ、そういやお前居なかったな」怪訝そうなリーダーに向け、少年は経緯を説明する。「おっきな帽子にふわふわのドレスみてぇの着た女の子で、家出か迷子かだと思ってさ。不安そうにしてたから、俺らで一晩匿ってやったんだ。でも朝起きたらもう居なくて……」
後味の悪そうな少年とは対照的に、ノアの表情は変わらない。チームとしてはこの街の弱者には手を差し伸べる方針だ、少女を助けた事に異存はない。だが、出て行った人間の世話まで焼くほどお人よしの集まりでもない。さしたる興味も示さず、ノアは言う。
「ま、本人が出てったんならしょうがねぇだろ。それよか本題は」
「悪い、そっちは全然だ」
「そうか……」
今度は落胆の色を隠さないノア。仲間の言葉は、彼らに託された「仕事」が進んでいないことを意味していた。
ここ最近、街の一部を騒がせていた失踪事件。その主な被害者は身寄りのない浮浪者や孤児であったため、未だ大きく表沙汰にはなっていない。とは言え消えた彼等と同じような境遇の友人知人にとっては一大事である。事が大きくなる前に早々にその不安の受け皿を請け負ったのが、街の顔役であるリベラトーレであった。ボス直々の指示により、ノアとその仲間達は消えた人々の周囲を探っていたのだ。
そこに舞い込んだのが、今回のマシュの誘拐未遂である。直接身内に手を出された屈辱は許し難いが、未遂であるならこれ幸いと、マシュと一緒に転がっていた実行犯をこってりと絞り上げる予定だったのだ。それが実際に蓋を開ければ先ほどの体たらくである。分かったことと言えば精々が、誘拐犯達は街の外から来た連中だというくらい。それだって端から予測はついていたことだ。泣く子も黙るポートマフィアに真っ向からケンカを売る大馬鹿者は、ノアの知る限りこの街には居ない。
「せめてあの男が何か吐いてくれれば……」
「ねぇな。野郎、本気でなーんも知らねぇもん」
少年の希望的観測を切って捨てるノア。あの程度の男が深い事情を知れる程度の組織なら、今頃は連中のアジトだって割れている。彼は単なる捨て駒だと、ノアは殆ど確信していた。
とは言えそれは同時に、現状の手掛かりがほぼゼロであることを意味している。状況を打開するためには、人の街で好き勝手をしている連中に直接事情を聞かねばならない。
「余所者も、お前を助けてくれたみたいなのばっかりだと良いんだけどなぁ」
マシュの肩を叩きながらぼやく。昨日の一件はマシュ本人から詳しく聞いた。腕の立つ、銀髪に赤い目の少年――それだけ目立つ容姿でありながら自分達が素性を知らないのなら、彼もまず間違いなく余所者だろう。
「そいつに会ったら礼言わないとな」
そうマシュに笑いかければ、彼も嬉しそうに笑い返す。その肩を押してマシュを傍らの少年へと預け、ノアは一人、大通りの方面へと歩き出した。その頭にあるのは、既に仕事の事だけだ。
目ぼしいアテは既に洗い切ってしまい、幸か不幸か何も出なかった。ここから先はノーヒントで仕事を進める必要がある。唯一の手がかりは余所者の暴挙。だが、ノアのチームはこの街とリベラトーレという文脈の中でこそ最大限の能力を発揮出来る集団だ。余所者の大人相手では、所詮子供と舐められ軽くあしらわれるのが精々だろう。
「もう余所の手ぇ借りるか? あんまやりたくねぇんだけどなぁ」
少なくともヒントを探すための足掛かりは、その筋の人間の手を借りた方が効率が良さそうだ。この街に出入りする人間の集まりや動きについて押さえていそうな事情通。かつ、自分がリベラトーレの一派と知らないか、あるいは知っていても情報提供を拒まない派閥の人間。ついでに言えば借りは小さく済む方が良い。
「あー……昨日聞いときゃ良かったなあ」
心当たりが無いではないが、完全に二度手間だ。とは言え、現状ベストなのは彼だろう。
「まあ何だ。無駄足踏ませんなよぉ、ジャック兄サン?」
***
「だからどうしてそう毎度厄介事を持ち込むんだ君は!」
「仕方ねぇだろ今回はノアが悪りぃんだよ!」
朝の光に調度品が柔らかく照らされる『ショーメイカー』のホールに、けたたましい怒号が響く。襟首を掴んで子供のような言い合いをしているのは、既に子供とは言い難いディーラー二人。上品なはずの朝の雰囲気が、今や完全にぶち壊しである。
――おかしい、チンピラの喧嘩を見に来た訳ではなかったはずだ。
「えっと……」
当事者そっちのけの口喧嘩にダンが途方に暮れていると、残りの一人――シャロンと名乗った女性が声を掛けて来た。
「ダン君、でしたね。アレは放っておいて、取り敢えずこちらへ。話を聞きましょう」
「……はあ」
背中を押されるように、備え付けのバーへと案内される。カウンターの中では、男がグラスを磨いていた。三十路も半ば頃の穏やかそうな男だ。彼はシャロンに向け、困ったように笑いかける。
「朝から元気だねぇ、あの二人も。お蔭で事態は何となく分かったけど」
「ええ、酷いものです。モリソン、彼に何か――そうですね、いつものサンドイッチでも」
シャロンの言葉にああ、と頷き、モリソンはダンへと微笑みかける。
「ダン君だっけ、そこに掛けてくれるかい? 僕はジョージ・モリソン、このバーのバーテン兼マスターだ。よろしくね」
促されるまま椅子に座ったダンの前に、モリソンは慣れた手際でグラス一杯の水を出す。続いてフランスパンとバター、ハム、チーズ、レタス、トマトと食材を次々に並べ、全て出し終えた所で調理を始めた。
手と包丁を洗うと、流れるような手つきで具材を切り、はさみ、形を整えていく。目にも色鮮やかなサンドイッチが皿に盛られるまで、僅か五分足らず。
「はい、出来た」綺麗に並べられたサンドイッチを出しながら、モリソンが微笑む。「変なものは入れてなかったでしょ? 安心して食べて良いよ」
言われてようやく、この調理ショーが自分への配慮であった事に気付くダン。たどたどしく礼を言うと、モリソンは「どういたしまして」と更に相好を崩した。
「さあ、どうぞ。彼の料理は何でも絶品ですから」
何故か誇らしげなシャロンに促され、ダンはサンドイッチを一口頬張る。途端に口に広がる野菜の瑞々しさに、程良い塩味。外側の歯ごたえに反して中はふわふわのフランスパンがそれを引き立たせる。
「……美味しい」
思わず呟いたダンに、やはりシャロンが胸を張る。
「でしょう!」
「だろ!? 美味いよなジョージさんのメシは!」
取っ組み合いの中どうやって聞きつけたのか、駆け寄ってきたジャックが話に割り込む。その襟首を、ダグラスと名乗った喧嘩相手の青年が鷲掴んで引き戻した。
「お前は人の話をきちんと聞け!」
「痛ってぇよバカ引っ張んな!」
そのまま、今度は比較的近くで取っ組み合いが始まる。軽く身を引くダンに、シャロンが頭を下げた。
「すみません、アレさえなければ完璧な朝食だったんですが」
「…………。」いや、謝る暇があるなら止めて欲しい。「あの、止めないの? あれ」
「生憎と、バカにつける薬の持ち合わせがなくて」
辛辣なコメントと共にシャロンがゆるゆると首を振った時だった。
「――おい。朝から何だ、うるさいぞ貴様ら」
唐突に響く横柄な声。ホールの方から現れたのは朝日に眩しい金髪に純白の三つ揃え、髪の一本から革靴の先に至るまで、既に一分の隙無く整えたヴィンセントだった。身支度こそ完璧であるものの、眠気が残っているのか不機嫌そうなのはご愛敬だろう。
「何だよヴィンス、また泊まりか? あの王様みてぇなベッド使わねーなら俺にくれよ」
思わぬ上司の登場に、ジャックは意外半分、渋面半分で軽口を叩く。
『ショーメイカー』の建物は、小さなカジノホテルだった昔の名残で、上階に幾つかの客室を持つ。現在は客を通すことはないが、オーナー様のご注文とあれば話は別だ。そんじょそこらのスイートよりも豪華な自室を持つショーメイカーの御曹司だが、自分が初めて任された店にはやはり愛着があるのか、何かと理由をつけては泊まっていくことが多かった。
「まあ色々と都合があってな。くれてやっても良いが貴様のボロアパートでは床が抜けるぞ」
ふん、と鼻を鳴らすヴィンセントはカウンターへと歩み寄る。ダンに一瞥をくれると、その隣に無遠慮に腰掛けた。彼がそのままモリソンへと視線を送ると、モリソンは一つ頷いて先ほどと同じサンドイッチを作り始める。
「で? 結局何の話だ」
「ああ、いや――」
「ジャックがまた厄介事を拾って来た、という類の話ですよ」
答えようとしたジャックを遮って、シャロンが一部始終を話し始める。確かに彼女の方が上手く解説できるだろうと、出会ったばかりのダンでも思う。
一通りの事情を聴いたヴィンセントは、実に下らなさそうに首を振った。
「その程度の情報でどうしろと。じゃれあう暇があるならさっさと事情を聴き出せば良かろう」
溜息交じりにそう言うと、ヴィンセントは再びダンを見る。正面から見据える。
「おい少年。話を聞いてやる、大いに語れ」
「……いや、でも」
今のダンには、当初とは違う逡巡があった。確かに状況は行き詰まっている。誰かの助けは許されるのならなら欲しい所だ。そして彼らは恐らく敵では、悪いひとではないのだろう。しかし、であればこそ、自分の都合で危ないことに巻き込んでしまうのは本意ではない。
話すべきなのか。話して良いのか。判断も決心も付きかねて、ダンは視線を逸らす。
そんな様子を見てか、はん、と鼻で嗤う声。はっとしたダンがヴィンセントへ顔を向ければ。
「見縊るなよ、小僧。」
その整った顔に浮かぶのは間違いなく笑みで、声色にも笑いが混じっている。しかしその態度の本質が「笑う」行為ではないことを、ダンは一目で理解していた。
「聞いた所、多少の心得はあるようだがな――断言しよう。
この街では、我々の方が強い。」
どぎつい笑みの中、鋭い視線にダンはびくりと身を強張らせる。殺気ならば大概受け慣れているが、彼の放つそれはどこまでも純粋な威圧だ。見下されるのではなく、ただ格の違いを、身の程を知らされるようなその目に、ダンは言葉を失った。声の出ない口がはくり、と動く。
「まあまあヴィンス、その辺で」
不意に穏やかな声が間に入った。固まってしまったダンの様子を見かねてか、モリソンが若きオーナーをやんわりと窘める。
「そうやって怖がらせたら、上手くいくはずのものもご破算になるだろ? ダン君、君も君だ。あんまり僕らを――彼を甘く見ない方がいい」
それはあくまで柔和で、しかし確かにうっすらと、誇りを滲ませた声だった。
そんな声音のまま、モリソンは語る。この街の人間だけが知る、もう一つの「ショーメイカー」の話を。
街を代表する名士であるショーメイカー、そしてその運営する『カジノ・ショーメイカー』には、もう一つの顔がある。それは裏の顔と言うよりは、都市伝説的な「物語」として、街の噂話を彩る顔だ。
街を歩く人に聞いて回れば、それらはいくらでも飛び出してくる。
――悪どいやり口で有名な高利貸しが破産した。どうもショーメイカーでボロ負けしたとか。
――チンピラ数人に絡まれたが、通りすがりのショーメイカーのディーラーが一人で撃退してくれた。
――少し前まで闇カジノで暴利を吹っかけていた連中をある日を境に見かけなくなったのは、業を煮やしたショーメイカーの仕業だ。
――ショーメイカーは裏側の連中とも繋がりがある。ただし立場が危ないのは連中の方で、うっかりすると上がりを全部合法的にはねられちまうらしい。
――ここ数年で悪徳警官を一掃し市警の体制改善に成功した若き市警本部長は、ショーメイカーが送り込んだ浄化作用である。
――市警本部長のみならず、政治家も検事も弁護士もショーメイカーを敵に回してはやっていけない。陪審員の選出さえ、その気になればショーメイカーの意のままだ。
すなわち、『この街は今も人知れず、ショーメイカーの手によって守られている』。
あるいは、『この街は、正真正銘ショーメイカーのものだ』。
それはもはや、公には属さず俗にも染まらない、一つの『権力』の名前だった。
「で、そんな噂の八割が事実だ。残りのうちの一割は話に尾ひれが付きすぎてて、もう一割は話が足りない」
さらりと言ってのけるモリソンの表情に、冗談の色は少しも見られない。あくまで真摯な、けれど優しげな顔で続ける。
「この街で、彼より強い人はいないよ。物理的にではないけれどね。だから安心して話すと良い。大丈夫、手に負えないと踏んだらきちんと放り出すさ」
ある意味無責任なことを言って、再び完成したサンドイッチを出すモリソン。受け取ったヴィンセントはダンのことなど気にも留めていないかのように、サンドイッチを頬張り始めた。背後を見れば、ジャックはダグラスのきつい視線を努めて受け流そうと鼻歌を漏らしているし、シャロンはそんな二人を呆れ交じりの笑みで眺めている。
そんな彼らが可笑しくて、ダンは小さく息を吐く。それはともすれば笑いと呼びうる溜息なのだと、少年自身自覚があった。何故だか酷く、安心していた。
「……この街に来たのは一週間くらい前だ」
ダンがそっと口を開いた。そう大きくはない少年の語りに、場の全員が静かに耳を傾ける。
「ここに着いてすぐ、偶然昔の知り合いに会って、仕事を紹介して貰った。その人の所で傭兵を集めてるって言ってたから。でも」
一瞬の逡巡を見せるダン。しかし覚悟を決めたのか、「クスリ」と小さく零す。
「変な薬を、打たれそうになって。それで、逃げて来た」
「変な薬、とは?」
ダグラスの促しに、ダンは首を横に振る。
「分からない。そいつは、筋肉がどうとかで――とにかく『強くなれるんだ』って言ってた。でも僕の知り合いと一緒に居た女の子が『クスリは絶対飲んじゃだめだ、大変なことになって死んじゃうよ』って、先に教えてくれてた。多分、副作用が大きいんだと思う」
「その子は飲んじゃダメ、と? 薬を『打たれそうに』なったのでは?」
シャロンの疑問に、今度は首肯するダン。
「上司みたいな人に突然一人で呼び出されたんだ。最初は『これを飲め』って。いらない、嫌だって言ったら無理やり注射を打たれそうになって、それで逃げ出したんだ」
「……おいおいそれ、結構ヤバい薬じゃ、」
「下らんな。」
ジャックの台詞を遮る、切って捨てるような声。ヴィンセントだった。
「益の無い上面白くもない話だ。だが、貴様の話には分からんことが一つある。」じろり、とダンをにらむヴィンセント。「貴様、結局どうしたいんだ」
「……どう、って?」
「そんな状況、普通さっさと街を出るだろう。告発したいのなら警察だ。なのに、どうして貴様はここに――いや、昨日の時点でこの街に居た?」
「それ、は……」
「その雇い主の元に戻る気でもあるのか?」
「そんなの無いよ」ダンは即座に否定する。が、その語気は続かず、視線は再び下へと落ちる。「ない、けど」
「『けど』何だ、希望があるなら言えばいいだろう」
しびれを切らしたのか、ダンの肩を掴んで自分の方を向かせるヴィンセント。ダンの赤い目を正面から捉え、言う。
「もう一度だけ訊く。貴様はどうしたいんだ」
晴れ渡った空と同じ色の瞳。それが帯びているのは、先程のような威圧ではなく誠実さだ。真っ直ぐな視線に堪えきれずに、ダンは目を逸らした。
「分から、ない」
――そんな事、考えたことも無かったから。
消え入るような声を受け、ヴィンセントはあっさりと少年を開放した。
「そうか。なら、こちらの好きにして構わんな」言い放つと、ヴィンセントはくるりと後方を振り返る。「ジャック。貴様、こいつに嘘を見抜かれたとか言ったな」
「え? あ、いや、そうだけどアレは!」
すわお小言かと身構えるジャックだったが、間髪入れずに「構わん」と言い放つヴィンセントの関心は既に少年へと戻っている。
「ダンと言ったな、お前はウチで働くと良い」
「は?」
「ヴィンス!?」
本人以上に驚くダグラスを無視して、ヴィンセントはあくまで高圧的に命令を放つ。
「ウチの看板ディーラーの嘘を見破る目、イカサマ狩りには持って来いだ。その才能、我が『カジノ・ショーメイカー』で存分に振るうがいい」
「いや、でも、」
「それが嫌なら」ダンの言葉を遮り、語気を強めてヴィンセントは言う。「お前がどうしたいのか、今日中に結論を出せ。それまでジャックがお前を見る。監視の意味も込めてな」
「はいよ、任せろ」
ニヤリと笑ってジャックが頷いた。応えてこちらもにんまりと頷く雇用主に、ダグラスが声を荒げる。
「ヴィンセント!」
「何だ、口答えか?」
「当然だ、何故わざわざ爆弾を拾うような真似――」
「分からんか? 言ったろう、『面白くない話だ』と」ダグラスに指を突きつけるヴィンセント。「こいつの追手はこの街の敵だ。この街の敵は我々の敵、それを倒すのは我々の責務だ。思い込みは良くないが、おそらく先日の件とも無関係ではあるまい。分かったらさっさと調べにかかれ」
そう一息で畳みかけると、御曹司はおもむろに席を立つ。
「車を待たせているのでな、オレはもう出る」
「ああ、では私もそろそろ出ないとですね」
つかつかと歩を進めるヴィンセントについて、シャロンもバーを後にする。あっという間に遠ざかる背に、モリソンが「いってらっしゃーい」と間延びした声を投げかけた。
「さて、じゃー俺等も――」
「待て。」
地を這うような声と共に、席を立とうとしたジャックは襟首を掴まれる。その背後には、笑顔とは到底呼べぬ笑いを貼り付けたダグラスが。
「お前はその前にやる事がある。そっちの少年もウチのオーナーにスカウトされたのなら手伝って行け」
「あー……何ですかねぇチーフ殿?」
「モリソン曰く、日本での馬鹿への罰は決まっているらしいな」
嫌な予感を隠せないジャックに向け、ダグラスはあくまで笑顔を崩さず実刑を告げる。
「ここの掃除をしてもらおう。床に自分のアホ面が映るまで、みっちりとな」
いっそ爽やかなダグラスに向け、ジャックは顔をしかめて親指を突き出した。勿論、下に。
「こんの小舅め!」
***
無事に裏切り者を始末した翌日。狙撃手トニーが迎えたのは爽やかな朝などではなく、これ以上ないほど不穏な急の招集だった。
他の雇われ連中と共にホテルの一室に集合すると、銀髪をオールバックに固めた彼らの上役は相も変わらぬ淡泊さで告げたのだ。
『銀髪赤目の子供を探し出して連れて来い』。
その指示は、寝起きのトニーを青褪めさせるに十分だった。
それから数時間の後。一人でホテルを飛び出したトニーは、グレイフォートの街をひた走っていた。この街に来て日の浅い彼だが、それでも裏の住人なりに知りうる情勢というものがある――曰く、「『招龍軒』には情報が集まる」と。
そんな微かな記憶を頼りにどうにか件の中華料理屋を探し出した時には、既に早朝とは言い難い時間であった。
妙に人通りの多い大通りを横切って、トニーは「招龍軒」へ足を踏み入れる。
こぢんまりとした店内には、思ったよりも客が多い。そのくせ、店員らしき人間は二人しか見られない。カウンターの向こうの調理場に、いかにもという中華系の男が一人。もう一人はフロアをくるくると動き回る、同じく中華系の女性だ。真っ赤な中国服が絵に描いたように似合っている。深いスリットからは、眩いばかりに白い太腿――ではなく、真っ白な七分丈のチノパンが覗いていた。
彼女はトニーと目が合うと、にっこりと来店の挨拶を口にしようとする。
「ハイ、いらっしゃ――」
「アンタがシュエリー・ヤオか?」
トニーは開口一番そう切り込んだ。「招龍軒」の看板娘、シュエリー・ヤオ。それが、トニーの聞いた「情報屋」の名だ。
「銀髪に赤い目をした子供について情報が欲しい」
畳みかけるトニーにきょとんとした顔を向けたシュエリーだが、すぐにちッちッという舌打ちと共に人差し指を左右に振る。随分と古典的な反応だ。毒気を抜かれたトニーに向けて、シュエリーは愛想よく笑う。
「お客さん、ここは料理屋ね。まずは席に着いて料理を頼む、他のお話はそれからよ、狙撃手のお兄さん」
漫画のような中華訛りに、しかし笑うことは出来なかった。脈絡なく告げられた「狙撃手」の単語にトニーは苦々しく舌を打つ。こちらの素性はもう割れている、後ろ暗い事情をその筋に流されては厄介だ。下手なことは出来ない。ここは素直に従っておくべきだろう。
「ほんなら、何か適当に頼むわ」
「おススメは麻婆セットよ」
ずい、と渡されたメニュー表に目を遣る。麻婆豆腐をメインに小品数点のセットメニューだ。中華料理はよく分からないが、そこそこ値が張る代物だった。
「……じゃあそれで」
「はいただいまー! あ、お席はソコねー」
満面の笑みで身を翻すシュエリーに、トニーは軽く溜息をついて席に着く。
多少手痛い出費だったが、背に腹は代えられないし出し惜しみをしている場合でもない。何しろ急いでいるのだ。何としても自分が見つけなければ。他のメストの手先に捕まれば、まずあの子に先は無いだろう。
幸いにも、頼んだ料理はそう待たずにやってきた。
「お待たせしたねー」
香辛料のたっぷり利いた麻婆豆腐の良い香りが漂ってくるが、トニーにそれを楽しむ余裕は無い。早く情報をと彼女を促す。
「それで?」
「ん?」
そのままニコニコと動かないシュエリーは、『食べるのが先だ』と言外に伝えてくる。根負けしたトニーは、仕方なしに料理に手をつけた。一口食べた瞬間、その表情が一変する。
「……美味い」
「謝々! お兄さん良い舌持ってるね」
「そらどーも……やないわ、銀髪赤目!」
天真爛漫な笑顔にうっかり流される所だった。確かに料理は美味しい、正直に言って味わわないのは勿体無い。だが今は、今ばかりはそんなことを言っていられる場合ではないのだ。
「頼むわお嬢さん、こっちは急いどるんよ!」
「そうだったね、ごめんよ。エー、銀髪に赤い目の子供あるね」
ふむ、と一拍おいて、シュエリーは笑う。
「残念ながら、直接の情報は持ってないね」
「はあ?」
思わず上げた声に自分で驚くトニー。我ながら凄い声が出た。きっと凄い顔もしているだろう。その予想を裏付けるようにシュエリーが慌てて「まあ待つよろし」とトニーを収める。
「ただし、ある。さっき全く同じ事を聞いて来た人なら、そこに」
示された方向を見て、トニーはハッとする。見覚えの無い人間だった。身内ならば適当に話してガセ情報を掴ませて誤魔化すつもりだったが、見ず知らずの人間が、何故。
睨むような視線のトニーに、すかさずシュエリーが畳み掛ける。
「紹介が?」
さり気なく出された手は暗黙の内のチップ――もとい追加の情報料の要求だろう。
「……頼む」
「謝々」
手の平に乗せられた硬貨ににこりと微笑むと、シュエリーは唐突に声を上げた。
「ショッチョーさーん! ちょっといいね! この人がー!」
突然の大音量に思わず身を竦めるトニー。随分と雑な「紹介」もあったものだ。
奇妙な発音で呼ばれた当人は、呼び方への苦言を呈しつつこちらの席へと向かって来る。
「おいシェリー、その呼び方間違ってるって言わなかったか?」
「ショッチョさんも私の名前違うねー」
「こっちは愛称だろ。皆そう呼んでる」
シュエリーに促され、その人物はトニーの前の席に着く。
「どうも、リンと呼んでくれ。君は――さて、名前を尋ねても良い人種かな?」
そう言ってにやりと笑ったのは、ダークスーツの良く似合う男装の麗人だった。
***
「待てこのひったくりー!」
道行くノアの背後から、不意に若い男の声が響いた。振り返れば、女物のバッグを抱えた小汚い男がこちらへ駆けてくる所だ。
ひったくり程度の軽犯罪、この街の裏道では毎日のように起きている。それこそ、一々首を突っ込んでいては身が持たないほどだ。しかし犯人を追っているのが知った顔である事に気付いたノアは、一役買って出ることにした。
こちらへ駆けて来るひったくりの脚を目掛けて、袖口に隠し持っている投擲ナイフを投げる。細いナイフは回転しながら、狙い通りの的に命中――はせず、男のズボンと皮膚一枚を切り裂いて道の端へと跳ねていった。それでも突然の痛みに驚いてか、ひったくりの男はバランスを崩して転倒する。
「いってえぇぇ!」
転がる男の叫びに、大袈裟な、と呆れるノア。自画自賛だが、今のは上手く掠らせた自信がある。それこそ威力も怪我も大したものではない。あの程度の痛みでよくもまあそこまで騒げたものだ。
「ああ、追い付いた……って怪我!?」
息を切らせて現場に到着した警官が、ひったくりの足元を見てぎょっとする。
「たいしたモンじゃねーよ、大袈裟だなーアオヤマさん」
「ノア君!? ちょっと何してくれてるの!」
声をかければ途端に慌てる警官、アオヤマとはちょっとした顔見知りだった。おろおろと無駄な動きをするアオヤマを、ノアは親しみを込めて笑い飛ばす。しかし遅れて姿を見せた中年刑事に声を掛けられると、その表情を強ばらせた。
「ノア坊」
釘を刺すような声の主は、こちらも見知った刑事、ジェフだ。現場到着こそアオヤマより数歩遅れを見せたものの、息はさほど上がっていない。何ならあと一、二キロは鬼ごっこが出来そうだ。ベテラン刑事の抜け目の無さに舌を巻きつつ、ノアは挨拶を交わす。
「どーもジェフさん、ご無沙汰」
渋面を崩さぬジェフは、道の端に転がるナイフにちらりと目を遣った。
「ありゃあお前のか」
「なんだよ、捜査協力じゃん。ほら、早く手錠手錠」
そう笑って誤魔化すノア。促すようにジェフがアオヤマに目を遣れば、犯人を連行するアオヤマの挙動の不審さに輪がかった。その様子を見ていたノアは、相変わらずだなと苦笑を零す。
「てかジェフさん、ひったくりとかどうしたんだよ? 担当違いだろ?」
アオヤマが顔見知りなら、ジェフはそれこそ古い付き合いだ。リベラトーレ傘下に加わる前、ただの不良のクソガキだった時代から、何度も世話になっている。ノアの記憶が正しければ、ジェフの担当は集団犯罪の類だった筈だ。
「ああ、さっきそこで、偶々居合わせちまってな。現行犯って奴だ……お前はやるなよ」
「そんなだっせぇ事しねぇって」
「ださくなくてもやるな」
「それはどうかなー」
へらりと笑って応じれば、ジェフの眉間により深い皺が寄る。
「あんまり調子に乗るんじゃねぇぞ? 今のこの街はどっかおかしいからな」
「知ってるって。なあ、その件だけどさ」
すす、とジェフに近付くと、ノアは声をひそめて訊ねる。
「捜査。進展ないんですかねぇ? お巡りさん」
「教えると思うか?」
「ふーん、ねーんだ」
わざとらしく煽るノア。それをしばし眺めていたジェフだが、やがて溜息と共に頷いた。
「……否定はしねぇよ」
瞬間、ノアはにやついた笑いを引っ込め本気で天を仰ぐ。
「あーマジかー使えねぇなーもー! 頑張ってくれよお巡りサン!」
「分かっても教えねぇよお前等にゃあ。戦争おっぱじめられたら堪ったもんじゃねぇ」
「ジェフさんらがちゃーんと仕事してくれんなら、俺らもそこまでの事はしねぇって。まあそれはそれとして、ツケはきちっと払って貰うけどな」
にやりと笑ったノアに、いよいよジェフが頭を抱えた。
「お前、俺達が何だか忘れてるだろ」
「おっと。じゃ、今のは聞かなかったことに」
「分かったから早く行け――ああいや待て」
払いかけた手を止めて、不意にノアを呼び止める。
「エマの嬢ちゃんは元気か?」
「……ああ、お陰様で今は大分。もう少ししたらまた帰って来るってよ」
「そうか、良かったな。ならもう用はねーよ」
今度こそ、しっしっ、と手を振るジェフ。そのままノアには興味を失くしたかのように踵を返すと、ジェフさぁん、と遠くから呼ぶアオヤマに一喝。
「ああん? 情けねぇ声出してんじゃねぇよアオヤマぁ!」
その様子を見て、ノアは思わず笑いを零す。
「大変だねぇ、ジェフのおっさんも」
その大変な中、表向きには敵ながら、大事な妹を気遣ってくれる辺りに彼の人の良さが滲み出ている。
やむを得ず道を踏み外す連中も大勢いる事を、あの刑事は良く知っている。悪党憎し一辺倒の警官ではない所には好感が持てた。取引相手としては勿論、知人としても。
「――さあって、本題本題っと」
遠ざかる背中を見送って、ノアは再び歩き出す。彼等との邂逅は予想外だが有り難かった。これで当面はジャック一人に的を絞れる。
目指すは一つ、カジノ・ショーメイカー。気分は正に一目全賭けである。
***
良く晴れた日曜日、グレイフォートのメインストリートには市が立つ。露店の色とりどりの屋根が道の端を彩り、地元民も観光客もこぞって通りを埋め尽くす。昼時ともなれば尚更だ。
その人混みの中を、ダンとジャックは歩いていた。パーカーのフードを目深にかぶり、ジャックに手首を掴まれ引かれて行くダンの様子は同行というより連行である。
「良かったのかな」
ぽつりとダンが零す。
「んー、何がだ?」
「その……掃除」
ダンの指摘を受け、きょとんとするジャック。一拍おいて「真面目かよ」と笑い出す。
「ありゃあどうせ意見の通らなかった小舅の八つ当たりだよ、放っとくのが一番だ。そもそも清掃スタッフは別に居る、仕事を奪っちゃ悪りぃだろ?」
ダグラスに、ジャック曰くの理不尽な掃除を命じられた後。二人はとりあえず掃除をする態を取り繕い、モリソンとダグラスが備品を仕入れに行くのを見送ってからカジノを出て来たのだった。
「昼食のためだけにわざわざ外に出なくても」
「昼飯、もそうだが、ちょいと買い出しにな」
「買い出し?」
「弾丸。」
ジャックの言葉にダンがぴくり、と肩を震わせた。それを見なかったことにしてジャックは続ける。
「お前の銃、予備どころか装填分も残り少なかったからな。ヴィンスはああ言ってたが、逃げたいんなら必要だろ」
「それは……」
「なあ。どうなんだよ、実際のとこ」
そう言うと、ジャックはぐるり、と半回転してダンの行く手を阻んだ。
「お前さっき話してた時、相手の名前を一切出さなかったろ? こっちを巻き込まねぇようにっていうか、お前がばらしたくねぇって感じだったな? その割に『戻る気はない』って言ったのは本気。つーことはお前相手方んとこへ、戻らないにしてもまだ何か関わる気だろ。だからこの街からも逃げなかった」
違うか、とフードの中を覗き込まれ、ダンは視線を落とす。
「……巻き込んで悪かったとは思ってる」
「ッだーもう、そうじゃねぇよ!」
ぼそりと落とされたダンの呟きに、ジャックは額に手を遣り天を仰いだ。
「お前がただ逃げ切りたいだけなら、このまま運び屋やら逃がし屋やらの連中に頼んで一件落着だ。幸運にもこの街じゃあそういうのに事欠かねぇからな。けど、お前はそれじゃ困るんだろ? じゃあ何をしたいのかってのが分からなきゃ、手の打ちようが無い」
「――分からない、んだ」
言ってみろと促されたダンは、しかし首を横に振る。
「今こんなことを言ってる場合じゃないのは分かってる。無事に済ませたいのなら今すぐにこの街を出るべきだ。だけど……それでも、」
言葉に詰まるダン。その先を言うことは酷く躊躇われた。
本当は分かっているのだ。言うべきではない。そんなことを気にする余裕など無い。赤の他人を巻き込んでまで、果たさねばならない義理もそもそも無い。諦めてさっさと街を出ろ、そう何度も言い聞かせた。
「……今までこんな事なかったんだ」
力なく呟く。再び口を噤もうとしたダンの肩を、ジャックが掴んだ。驚いて彼を見れば、その瞳はどこまでも真摯だ。かつて少年とここまで向き合ってくれた大人が居たか、疑問に思えてしまうくらいに。
「それでも、やりたいんだろ?」
その一言に、はっとする。
――そう、それでも。どうしても。
――そういうものを、「やりたいこと」と呼ぶのか。
「や……約束、が。」
沈黙の後、ようやく、それだけを口にした。
「約束?」
おうむ返しにジャックが呟く。それがいやに深刻そうに聞こえたのは、後ろめたい思いがあるからだろうか。少年は自分でも分からぬまま、慌てて否定する。
「大した事じゃないんだ。ハンカチを貸してあげた子に、『次に会ったら返すね』って言われて、それだけで」
でも、とダンは俯き拳を握る。
――たった数日、一緒に過ごしただけのあの子は、何故だか酷く脆く見えた。
「それだけだけど、どうしても、破っちゃいけないような気がするんだ。破ったら、あの子は」
「これか」
不意にジャックが口を挟んだ。ダンが顔を上げれば、彼は何故か小指を立てている。咄嗟には意味が分からず呆けていれば、ジャックが小指を揺らして再度訊ねる。
「女かって聞いてんだよ」
「え? うん、女の子――」言いかけて、言葉と仕草の意味に気付いたダンは眉根を寄せる。「そういう意味じゃないよ」
「おーおー、そーかよ。ま、女絡みじゃしゃーねーなぁ」
「だから、」
言いかけたダンの言葉を遮って、ぐい、とその頭に手を遣るジャック。そのまま頭をぐしぐしと、フードの上からかき回す。
「お前のやりたいことは分かった。俺が一肌脱いでやる、女の泣くとこなんか見たかねぇしな」
「でも、あの子は」
「いーから黙ってま、か、せ、ろ。大体その程度でうじうじしやがって、どーにでもしてやるよそんなの。俺を誰だと思ってんだぁ?」
ぐりんぐりんと頭を捏ね回し仕上げとばかりにその肩を叩けば、ダンの顔にうっすらと、しかし確かに安堵が滲んだ。
ジャックはそこにすかさず畳みかける。
「で、可愛いのか」
「……綺麗な子だったよ。人形みたいに」
「成程、美人系か」
真面目くさったジャックの答えに、ダンは冷めた視線を送る。
「そもそも、顔をじろじろ見たことはないよ。見せるなって僕らの上役……えっと」そこで一瞬、言葉を選ぶダン。少し考えてから先を続ける。「僕らの上役で、あの子の、保護者? だった奴に言われてるらしくて。いつも大きい帽子を被ってたから」
「ほー。訳アリの匂いがぷんぷんするぜ、ったく」
ディーラーになる以前からも色々な人間を見て来たジャックだが、顔を隠すというのは十中八九後ろ暗い所のある奴の行動だ。後ろ暗いのはその『保護者』なのか、あるいは。
――顔に傷があるとかの、可愛いもんじゃなさそうだしなぁ。
とは言え大口叩いて引き受けた以上、既に撤退の文字は無い。暗い想像を軽く頭を振って追い出し、ジャックは呟く。
「顔が見えないくらいの帽子ねぇ。……ああ、例えばあんなか?」
人混みの中、ふと目に留まった少女をジャックは指で示す。誘われるままそちらを見て、ダンは大きく息を呑んだ。
体格から見て年端もいかない少女だろう。真っ黒なゴシック調のドレスに、長いベールの付いた大きな帽子。
気付けばダンは、少女に向かって駆け出していた。驚くジャックの声も彼には届かない。彼女を見失わないように、それだけを考えて人混みを駆け抜ける。
――何故あの子がこんな所に。信じ難いが、でも、あれは――
辛くも追い付いて少女の腕を引けば、相手は身を強ばらせてこちらを向く。その帽子の下、固まった表情を見て、しかしダンの疑念は確信に変わった。
「アンネ……!?」
思わず名前を叫んだダンを見て、人形じみていた少女の顔に生気が宿る。そこに浮かぶのは安堵の表情。
「――ダン!」
大きな帽子のつばが曲がるのも気にせず、少女はダンに飛びついた。
ストレイ・エンタテイナーズ