いつか君にただいまを

いつか君にただいまを
 椛いろは

 第一章

 走れば軋み、飛べば沈む。おまけに所々に穴が開きかかっているおんぼろ校舎の木の廊下。 俺は、もうどこが壊れてもおかしくない木造校舎を走り抜けていた。
 年季の入った木からは特有のむわっとした匂いがする。今はそんなことに気を取られている場合ではない。俺は、生温い空気を押しよけるようにとにかく走った。

 予定された時間に遅れた時の、どうしようもないほど暗い気持ちは、他のことから生まれる絶望感とはどこか違う気がする。

 俺達は十月の始めにシンガポールへの修学旅行を控えている。四泊五日の日程はこれまでかというほどにみっちりと予定が詰まっていて、初の海外なのにあっという間に旅行が終わってしまいそうだ。
 その三日目は班別行動だ。それも、クラスを全て解体して学年を五つの班に分ける、という少し大掛かりなもの。
 それぞれの班ごとに現地ならではの体験をする。俺がいるのは第三班で、ウビン島という島に行くらしい。とにかくいろんな景色を見たかった、こんな適当な理由で希望調査票に三番と書き込んだら見事選ばれた。俺は当日そこで何をするのかさえ知らないから、当選した喜びと、本気で楽しみにしていたのに落選した人へのちょっとした申し訳無さ。それでも、選ばれたからには全力で楽しんでやろうと思う。

 扉を開けると、教室中の生徒が俺に注目した。ぺこっとお辞儀だけして席についたが、まだ始まっていないような雰囲気だったからとりあえず一安心した。
 それからすぐに、俺達は新しいクラスが始まった時のように自己紹介をすることになった。クラスも、男女も関係なく希望だけを基に班分けが行われて、顔すら初めて見た奴も結構たくさんいる。話せるやつといえば隣に座っている同じクラスの内村太一くらいだ。
「なぁ、内村。俺達ってウビン島で何するんだろう」
 内村なら行程を知っているだろうと思い、そう聞いてみた。
「えーっと、なんか自然を感じるって書いてあったような……。まぁ、そのうち説明あるんじゃない?」
「そういえばそうだな」
 帰ってきたのは、少し考えれば分かるような答えだった。そういえばまだ集会は始まっていないのだ。俺はまだ焦っているのだと、気付いた。
「それよりさ、今度新しい恋ゲーが出るんだ! 湊もたまにはプレイしてみないか?」
 内村はかなり重度のゲーマーだ。それも、自分が操る主人公がヒロインと恋愛をしていく、といった内容のものばかり。
「男二人でそんなゲームしても悲しくなるだけじゃん」
「いやいや、恋ゲーも舐めてもらっちゃ困るぜ。最近のは分岐が多いだけじゃなくてな。自分の知らないところでも物語がどんどん進んでいくんだよ」
「どうせギャルゲーだろ? 俺あんまり興味ない――」
 そのヒロインが清楚な感じならまだしも、内村が持っているゲームに登場するのは真っ黒に日焼けした派手な女の子ばかりだった。はっきり言ってそういう女子は苦手だ。

「はいはい! みんな静かにして! 今から修学旅行実行委員の本田さんに説明してもらうから!」
 第三班引率の堀本先生が手を叩いて皆の注目を引きつけた。俺は、内村の話題から逃れられて若干ほっとしたような気もした。
 本田は一枚の紙を手に、教壇の真ん中に進んでいく。俺はふと周りを見渡した。本を読んだりしている奴もいるが、この場にいるほとんど全員が教壇に立つ本田に注目している。普段は騒ぎまくっている野球部も今は大人しくしていた。説明を熱心に聞くほど修学旅行に対して真剣だからか。もしくは、本田がけっこう可愛いからか。やっぱり後者なんだな、と俺はうんうんと頷いた。

「それじゃあ説明しまーす。あ、まず私はこの第三班の日程を計画した本田真希っていうからよろしくー」
 早速なんやけど、と本田は黒板に番号を書き始めた。
「今から五分で二人組のペアを作って、ペアになった人達は番号の下に名前を書きに来てください」
  それじゃ、よーいドン! と本田が元気良く言ったのと同時に、皆が周りの友だちとペアを作り始めた。男子は大声でじゃんけんを始めるし、女子は大きな集団がグループに分かれ、そこからほどけるようにペアを作っていく。
 俺のペアはもう決まっているようなもので、内村に声をかけてみた。
「内村、俺らもペア組もうよ」
 すると、内村は明らかに申し訳無さそうな顔をした。
「あー……ごめん! ゲーム研究部の友達にどうしてもって頼まれて。ほんと悪い!」
「まじか」
「申し訳ない……」
「いや、気にしなくていいよ。俺は他のやつ探すから」
「ほんとごめんな!」
 気にするなって、と返す俺がいちばんこの不測の事態に焦りを隠せなかった。運悪く、仲が良い奴が本当にいない。
 もう大半がペアを作ってしまったようで、番号もそれなりに埋まってきていた。

「誰か、まだペア作ってない人いない?」
 この際、ペアなんて誰でも良かったからとにかく俺は声をかけまくることにした。
「ここらはもうみんな名前書きに行ったからな。そっちならいるんじゃないか」
 運動部同士でクラスを超えて集まったと思われる集団には、みんな当たり前のようにペアがいた。
 部活に入っていない俺は、どこか青春というものに置いてけぼりにされているように感じた。でも、今からそれを手に入れても遅くないはずだ。
「誰か、ペアまだの人いない?」
「こっちも多分いねえぞ」
「俺らのとこもいないと思う」
「そっか。ありがとう」
「もしかしてペアいなくて困ってる? 」
「まぁ一応」
「もしかしたら男子は奇数かもしれないな。先生に聞いてみたら?」
 ペアを作り終えて余裕のある奴はとても親切に俺のペア探しを手伝ってくれた。
「あ、そっか。ありがとう、聞いてみる」
 こういう状況からか、俺は名前もクラスも知らないような奴に簡単に話しかけられた。半ば自分に感心したが、そんなことを思っている場合ではない。俺は再び教室をぐるっと見渡す。

 一学年は二百四十人。班は五つ。各班に四十八人ずつ平等に振り分けられているとしてペアは二十四組できる。俺はふと黒板を見上げた。もう空いている番号は一つしかなかった。あまりに早すぎて俺は驚くとともに、強制的にペアを組むことになったのが誰か気になり始めた。そこには確かに一つだけ空白がある。ほとんど皆がペアを作り終えて、皆余裕のある顔をしていて、でも誰か一人だけ余っている奴がいるのだ。

 声をかけてもペアの人が見つからない。友達がいないように思われるのが恥ずかしくて、なるべく先生に頼りたくなかったが、もうそうするしかない状況になっていた。
「あのー、先生。俺ペア見つからないんですけど」
「そんなことないはずだけど……。ちょっと確認してみるわね」
 先生は眼鏡をかけると、名簿を開いた。
「あ、先生。調べなくて大丈夫ですよ」
 本田はそう言いながら、先生の名簿をぱたんと閉じた。
「え? 本田さん?」
 名簿を開き直す先生は驚いた顔で教壇に立つ本田を見上げた。本田は俺の方に一歩近づく。
「橋本くん。ペアおらんの?」
「まぁ、一応」
「そっかそっか、橋本くんやったんか」
「え、何が?」
 本田はひらりと黒板の方に向き直って、それから、最後の空白に「橋本湊」「本田真希」と書き込んだ。
「私とペアでもええ?」
 本田はそう言って微笑んだ。一瞬何が起こったのか分からなかったが、その柔らかな笑顔が不思議なくらい印象に残った。

「良かったな、湊にも春が来たじゃん!」
 これまでのやり取りを見ていたのか、自分の席に戻ると内村がからかってきた。俺は未だに少し困惑していた。
「ばーか。ただの余り物同士の成り行きだって」
「いやいや、こういうところから恋は始まるものですから」
「お前はゲームに影響されすぎなんだよ」
 俺達が話している間、本田は決して上手くはないが丁寧な字で旅程を箇条書きにしていった。
「このコースは自然とそれを守る設備を見学するということで、午前中はマリーナバラージという巨大な貯水施設に行きます。そこはレストランとかもあって観光地としても有名です。そこでちょっと早めのお昼を済ませて、ボートに乗ってウビン島へ向かいます 」
 本田が簡単な地図を書いて説明してくれているおかげで、当日何をするのかとても分かりやすかった。メモをとっている人もいて、部屋全体が一つの方向に向かって進みだしそうな、高揚感が溢れる勢いを感じられた。説明する本田も楽しそうだ。
「午後には一番のお楽しみ、カヤック体験が待っています」
 まさかのカヤック。
「まじかよ」
 内村はにやにやしながら肘で俺を突いてきた。俺は想定外の日程に驚きを隠せなかった。
「しかも、このカヤック体験。昼の一時から五時までとなっています」
「おいおい、まじかよ」
「うわー、良いなぁ。女子と四時間も二人きりなんて」
 そう言って内村は俺をからかった。こればかりは本当に予想もしていなかった。
 そもそもクラスの男子に人気がある本田と、俺なんかがこんな夢のような展開になってしまっていいのだろうか。なんて言ってみたけれど、正直なところ嬉しいし、とても楽しみだ。
「本当、他人事だからって」
「俺が代わりたいくらいだよ」
 内村は羨ましそうにそう言った。
「俺を余り物にした奴がいうセリフか?」
「それは、まあまあ。いろいろあったんだよ」
「いろいろって? 」
 秘密、と言って内村はそれ以上のことを教えてくれなかった。何かあったのだろうけど、絶対教えてくれないと思い、諦めて深く聞かないことにした。
 それより気になるのは、やはりカヤックの事だった。小さなカヌーみたいなものなのか、それとも湖とかで乗るボートのようなものなのか、名前は知っていても、それ以上は何も分からない。
 とにかく、俺は四時間もの間本田と二人きりになる。本当に大丈夫だろうか。やっぱり少し不安になる。自分が楽しめるかということも心配だけど、本田が楽しんでくれるかどうかの方が不安事項だった。

 夏休みが終わって少しずつ空気は穏やかになりつつあった。眩しかった空は少し高くなり、どこまでも伸びていた入道雲は輪郭がぼやけた雲の群れに変わっていた。俺の家は東京の下町で和菓子屋をやっている。家の前には小さな石橋がかかっていて、その下には浅い川が静かに流れている。
 俺の家は、決して繁盛しているとは言えない。でも、うちの店を気に入ってくれている常連もちゃんといるし、父さんは和菓子作りをこよなく愛している。中学卒業と同時に高校にも行かず家を継ぐことにしたらしい。そんな感じで俺のじいちゃんのじいちゃんの代から続いてる橋本堂は季節が変わるたびに新しいお菓子を作る。
 今は、ちょうど晩秋に向けた和菓子の準備に追われる時期だ。
「おう、湊、帰ったか。ちゃっと着替えて手伝ってくれ」
「はいよ」
 俺は店舗側から家に入る。厨房を通って引き戸を開けると、そのまま家に繋がっている。俺の家は和菓子を売る店舗と、お茶を楽しめる甘味処の両方を経営していて、父さんは主に和菓子作り、母さんは接客を担当している。俺は小さい頃から和菓子作りを手伝わされていて、簡単な菓子なら、もちろん父さんに技術は劣るものの作ることができる。こうやって学校が終わると家の手伝いをするのはもう当たり前のことになっている。
 俺は部屋のハンガーに制服を引っ掛けてからエプロンとマスクと三角巾をつけて、作務衣など当然持っていないから、そんないつもの格好で厨房へ向かった。

「やっと来たか。湊、俺は秋から冬にかけて花をモチーフにした練りきりを作ることにした」
 父さんは丁寧に、そして大胆に細工ばさみを入れていった。
「何種類かの秋の花で、橋本堂だけの練りきりを作るのはどうだ? まだ全然考えていないんだがな」
 目の前で出来上がっていく試作品を見れば見るほど、どこまでも繊細な作品に思わず息を飲んだ。
「これのモチーフは?」
「卵風味で甘さを抑えた練りきりで金木犀、その下のは、色だけ変えて紅葉を表現してみた。これ、お前は食べたくなるか?」
 父さんは新しいお菓子を作るたびに、こうして俺に感想を求めてくる。それなりのお菓子を作れるようになったからこそ、父さんのお菓子を支える技術がどれほど凄いかよくわかる。
 まだまだ俺は素人同然だ。そして、父さんはそういう素人からの率直な意見を求めてきている。だから俺は素直に、
「食いたくなるけど……。これ一つじゃいまいちぱっとしないと思うな」
「なるほどな」
 父さんは腕を組みながらお菓子を睨み続けている。
「他に何かないのか?」
「食べる側として思ったのが、もう少し小さいほうがいいと思う」
「大きさとバリエーションか。よし、お前も試しに一つ作ってみるか?」
「絶対うまくできないと思うけど」
「そんなこと言わなくても、湊の技術は俺が一番知ってる。一個くらいなら失敗しても食えばいいんだから。ほら、作れ作れ」
 俺は使い込まれた三角棒を握らされた。父さんの三角棒はどこまでも細かい模様を入れられるように角が線のように細くなっている。
 適当な大きさの練りきりを手にとる。ふんわりと餡を包み込んで丸く形作る。最近教えてもらった菊にしよう。三角棒を優しく当てて、溝を放射状に作っていく。均等に、でもある程度のばらつきを作るのが、自然に見せるコツだ。
「おお、菊か。お前も多少はうまくなったな」
「こっちのはできるんだけど、ハサミの方が……」
 店に並べるとなると怪しいところだが、それなりの菊ができた。ただ、こっちは模様を入れるだけの簡単な方で、難しいのは花びらをハサミで形成する方だ。
「じゃあ、もう一回教えてやるからハサミの方も作ってみろよ」
「うん」
「まず、俺のを見てろ。何度も言うが、細工ばさみは二本で一組だ。刃が反っているのと、まっすぐのやつと。真っ直ぐの方で切ると、花びらは下を向く。反ってる方は上向きになる。で、これをうまく組み合わせながら作ればいい」
 父さんがはさみを入れるたびに丸い練りきりから花びらが現れる。大きさも、切り方も、花びらの向きも変えながら、どんどん本物の菊の花に近づいていく。
「続きは湊がやってみろ」
 父さんが残した上半分に、俺もはさみを入れていく。だが、いくら俺が切っても花びらにならない。どれだけ丁寧に切っても、どれだけ父さんの動きを真似しても、練りきりに棘が生えるばかりだった。
「まぁ、最初はそんなもんだから気にするな」
 父さんが大きく笑う。俺も笑うしかないような出来だった。

「今日はもう戻っていいからな」
 それからすぐに父さんは、それが当たり前であるかのような調子でそう言った。
「もう?」
「ああ。お前も高校生だし、家の手伝いばかりさせてちゃ可哀想だからな」
「父さんがそんなこと言うの珍しいな。じゃあ俺、修学旅行に持っていく虫除けスプレー買いに行ってくる」
 俺はエプロンの紐をほどき、マスクを取った。
「おっと、その前に失敗作食ってけ」
「はいはい」
 俺は菊に見えない菊をひょいと口に放り込んだ。味だけはうまかった。同じ生地を使えば誰でもこの味になるから、やっぱり大切なのは造形技術とそれに伴う可憐な見た目なんだな、と思った。
 俺はそのまま裏口に置いてあるサンダルをひっかけて、早足で家を出た。家の前には小さな川が流れていて、その向こう岸には色んな老舗店が立ち並んでいる。小さな石橋がたくさんかかったその川沿いでは、あちらこちらの柳が秋色の風に揺れていた。

 今は、大半の中高生が部活に励んでいる時間帯だ。自転車のかごに野菜を詰め込んで買い物している人も、ベンチで楽しそうに話す人もみんな大人だ。少し周りを見渡しても学生の姿は見当たらない。立ち入ってはいけない場所に来て時のような、そんな悪いことをしているような気持ちになった。
 いつの間にか俺も高校二年、そしてこの一年ももう折り返し地点だ。うちの学校は都内の公立高校の中でも二番目くらいの進学校だから、この修学旅行を境に皆が受験モードに変わっていく。父さんは、将来のことを考えるときに橋本堂のことは気にするな、といつも言う。俺にも気になっている職業はもちろんあるが、伝統ある橋本堂を俺が絶やすわけにもいかない。
 近くのドラッグストアに向かう中、分岐だらけの未来を選べない情けなさに似たもどかしさを感じ、俺は大きなため息をついた。

 シンガポールの十月は、真夏の東京に加湿器を五メートルおきに設置したくらい蒸し暑かった。空港を出て最初の感想がこれだった。とにかく気温が高くて、空気はむわっとしていて熱帯に来てしまったんだな、という実感が高まった。
 修学旅行のしおりを見てみると、シンガポールの年平均気温は東京の八月のそれとほぼ等しいらしい。ただ、建物の中は馬鹿みたいに冷房が効いていて、パーカー無しでは風邪を引いてしまいそうだった。激しすぎる気温差と、長かった空旅が相乗して、俺は一日目からベッドに倒れこむように眠りについた。

 二日目はシンガポールの魅力を満喫しよう、ということでクラスごとに観光地を巡っていった。自分の中で何かを必ず見出して帰るんだ、と決めていた俺は、そういうことは一人旅でないと不可能であることに気付かされた。日本とは異なる宗教の寺院を見ても、多文化が混交するメインストリートを訪れても、確かに感じるものはたくさんあるのだが、カメラのシャッター音だとかクラスメイトの話し声だとかで自分の内面と向き合うことなどできなかった。こうして、俺は二日目の午前のうちにそういうことを諦めて、日本にないものを楽しむことに専念しようと決めた。そして、その日の夜はシンガポール名物のナイトサファリを楽しんだ。三つくらい車が繋がったトラムという乗り物に乗って、英語の説明を聞きながら夜の動物を間近で観察した。なかなか迫力があって面白かったが、少し眠かった。

 ホテルに戻ると、すでに他のクラスは今日の行程を終えてしまったようで、ロビーではたくさんの生徒がそれぞれの時間を過ごしていた。日本から持ってきたのであろう将棋駒とにらめっこしている奴。柔らかそうなソファの上で、お互いの顔を見つめ合ってイチャイチャしているカップル。この学校には個性的な奴が多いと思う。
 俺達はクラスで輪を作り、明日の起床時間を伝えられた。こうして点呼が終わり、解散と告げられた俺達は一斉に四方八方へと散らばっていった。
「なあ湊! あっちでこのホテル限定のアイス売ってるらしいけど、いまから買いに行かないか?」
 いきなり内村に捕まった。内村は、俺の肩に腕を回して右に引っ張る。バランスを崩しそうになった俺は、今度は左から肩を引っ張られた。見ると坂上康平がレジ袋を持って、にやっと俺の顔を覗き込んでいた。
「俺はもう買ったぞ」
「おーい、康平だけずるいぞ。ってかいつの間に買ったんだよ」
「ん? さっき。それと、ちゃんとお前らの分もあるからな」
 そう言って坂上は俺と内村にアイスのカップを放り投げた。
「ありがとう坂上」
「サンキュー康平。で、スプーンは?」
「あ……」
「おいおい、もしかして」
「うん、忘れた」
「相変わらず坂上は肝心な所で抜けてるよな。俺ナップサックに予備の割り箸入ってるけど、それで食う?」
 俺は学校指定のナップサックから割り箸を取り出して、さっきの坂上みたいに二人に投げた。
「俺、箸でアイス食うのなんか初めてだぞ」
 と、内村は困りながらも楽しんでいるように言い、
「いや、俺は何回かある」
 と、坂上は堂々と言った。それだけなのに、それが何だか面白かった。
「まぁ、そんな調子なら一回や二回あるだろうな。とりあえずどっか座ろうよ」
 結局、俺達は相変わらずいちゃいちゃしているカップルの正面の席を確保し、三人並んで割り箸でアイスを食べた。周りから見れば異様な光景だろうが、楽しかったから何でも良い。そういえば、今年のクラスが始まって一番はじめに声をかけてくれたのも内村と坂上だった。修学旅行のホテルの部屋も、それが当たり前であるかのように一緒になってくれた。いい友達を持って良かった、と心からそう思う。
 俺達は、みんなの視線を集めながら箸でアイスを食べ続けた。ミルクがしっかり効いた優しい味のアイスは俺達をふんわりと包み込むような甘さだった。

 ウビン島だ。カヤックだ。本田との四時間だ。本田は普段からよく俺に話しかけてきてくれるが、それは休み時間の十分間程度であって、流石に四時間も一緒にいることはない。会話を続けられるのか、という不安と何とも言えない高揚感。いろんな感情が湧いてくるが、平均すれば確実に楽しみだ。
「それじゃあカヤックに乗っていってもらいます。多少濡れるのは覚悟してね」
 サングラスが光るかっこいい女性の係員が、英語で大体こんな内容のことを言った。俺は背中をぽんと押される。
「じゃあ橋本くん先乗ってな」
「俺から?」
「うん。私が乗ってから橋本くん乗るよりも安定しそうやし」
「なるほど」
 俺は半分腰が引けながらカヤックの縁をしっかり持ち、そろそろと体を委ねる。
「あ! 橋本くんは後ろの席な!」
「本田は前がいいの?」
「そうやなくて、二人とも前の景色見えるようにな」
「そういうことか」
 俺はゆっくりとカヤックに乗り込んだ。始めははかなり不安定だったが、一旦乗ってしまうとバランスを取るのは不思議なくらい簡単だった。
「もう乗り込んでくれていいよ」
「はいよ!」
 そう言うと本田はひょいと、いとも簡単そうにカヤックに乗り込む。そして体ごとこっちを向いて「橋本くん。ここから四時間よろしく!」とうきうきした気分が伝わってくる声で言った。
「うん、よろしく」
 俺もそう本田に言った。普段ならありえないことが当たり前であるかのように行われても、それが修学旅行ならすんなりと納得できてしまうから不思議なものだ。

 桟橋を押すとカヤックは川の真ん中の方までゆっくりと横に滑った。そこは川と言ってもほぼ流れがなく、細長い湖のような場所だった。川の両端にはマングローブの根が複雑に絡み合っていて、顔を上げると空を覆い尽くすように木の枝が生い茂っている。耳を澄ませば日本では聞いたことのない鳥の声、大きく息を吸えば密林特有の空気。周囲の環境すべてが新鮮で、その点に関しては俺はとてもわくわくしていた。

 オールを静かな水面に沈め、ゆっくり水を押すとカヤックは静かに進み始めた。適当に漕いでいるのにかなりスピードが出た。
「これって思ってたより楽なんだな」
「せやな。私も、もっと力いるもんやと思ってたわ。あ! 橋本くん! あそこにおっきい蟹おる!」
 本田がマングローブの根の方を指差しながらはしゃいだ。俺はその指の向く方に目を凝らす。
「あ、本当だ。食べられるのかな」
「茹でたら美味しいんとちゃう?」
「確かに。でも焼いてもうまそう」
 マングローブの根と根の隙間に甲羅が丸い大きな蟹がいた。しかし、しばらくしないうちに水の中に逃げて行ってしまった。
「あ、あいつ逃げた」
「食べられてまう! 逃げな! って思ったんかな。それにしても、美味しそうな蟹やったな」
「そんなに食べたかった?」
「あはは、それは橋本くんもやろ」
 俺たちは一緒に笑った。しばらく経っても本田がずっと笑っているものだから、なんだか面白くなって俺もまた笑った。気まずくなるかもしれないなんて心配していたけれど、意外と普通に話せる。本田が思っていた以上に元気な女子だったから、俺が話題を提供しなくてもいくらでも会話が続きそうだった。
 せっかくの機会だから、俺はもっとこの女子のことを知ってみたいと思った。
「そういえばさ、本田ってどうして関西弁なんだ?」
「えー、聞いてまう?」
 本田は何かしらの事実が関西弁の裏に隠されているかのように言った。でも、顔は笑っていたから大したこともないだろうと思って、聞いてみることにした。
「うん。聞く」
「えっとな、私、中学卒業するまでは京都に住んでてん。でも高校受験直前にお父さんの転勤が決まって家族ごと東京に引っ越して来たってわけ」
「それは初耳」
「だってこの話あんまり人にせえへんし。しかも橋本くん友達少ないから噂でも聞かんやろうし」
 本田は思ったことを何でも言う性格のようだ。でも、あいにく俺はそこまで友達が少ないわけでもない。
「ちゃんと友達はいるから」
「えー、ほんまかなー? どうせ、内村くんと坂上くんと、私くらいじゃないん?」
 本田は体ごとこちらに振り向きながら馬鹿にするようにそう言った。ひどいことを言われたような気がするが、目はちゃんと良い意味で笑っていたから腹が立つこともなかった。
 それより、本田は俺のことを友だちと思ってくれているのだろうか。少しだけ、いや、内心けっこう気になって「俺は本田の友だちなの?」と聞いてみた。
「何だかんだ毎日話してるし、私は友だちやと思ってんねんけどな。もしかして橋本くんはそう思ってないん?」
 そんなふうに返す本田に、
「違う違う。俺も友達って思ってるから」
 と、反射的に答えた。気を遣ってとかではなく、本当にそう思っている。
「へー。そうなんかー」
 本田は俺の言ったことをあまり信じていないのだろうか、疑うような目で俺のことを見てきた。でも、よく見るとまた口元が笑っていたから、冗談なんだろうなと少しだけほっとした。
「でも、橋本くんってほんまに内村くんと坂上くんと仲良いよな」
「だってあいつらは俺の――」
「数少ない大切な友達。やもんな?」
「数少ないは余計」
 俺は吹き出してしまった。なんというか、本田はすごく楽しいやつだ。普段からよく話しているけれど、それでもいつも新しい一面を見ているような気もする。
 そして、本田の思っていることがそのまま伝わってくるような、そんな感覚になる。だから冗談であることもちゃんと伝わってきて、文字だけ見れば腹が立つようなことでも全く嫌気が差さない。
「俺ってやっぱり友達少ない?」
 俺は本田の冗談に乗っかってそんなことを聞いてみた。
「もしかして私が言ったこと気にしてるん? 私はな、ほんまに大事な友達は少ないもんやと思うで」
 友達というものの本質に迫っているような、本田の答えに俺は思わず、なるほどと言葉を漏らしていた。
「橋本くんさ、もっと自分に自信持ったらええのに」
「でも俺、自信持てるほど青春してないような気がするな」
「青春?」
「うん。青春。部活もやってないし」
「ふーん。あのさ、橋本くん、学校楽しくないん?」
「それはもちろん楽しいけど」
「せやったら、大人になってから思い出してみたら青春やったなって思えるんとちゃう? 青春ってあとから振り返って初めて青春なんやと思うで」
 高校生が言うセリフか、と思ったが言わないことにした。なんと言うか、本田の言葉が驚くほど素直に心の中へ染み渡っていったから。
 
 気がつくと、他の奴らの姿は見えなくなっていた。それでも俺達のずっと後ろで周りの写真を撮っている堀本先生が見えたから、俺達は安心してゆっくり漕いでいくことにした。
「そういえば橋本くんの家って和菓子屋やったよな? 進路どうすんの?」
 本田は再び体を俺の方にひねって話しかけてきた。さっきから俺達のカヤックは全然進んでいない。
「んー。父さんにはちゃんと大学行けって言われてるから、たぶんみんなと一緒で受験するんだと思う」
「そうなんや。でもやっぱり最終的には継ぐん?」
「そうなるんだと思う」
「そっか……。じゃあ私なんかよりずっと悩むことも多いんか」
 本田はカヤックを漕ぐのをやめた。それから腕を組んで、うんうんと唸りながら下を向く。
「みんなとそんなに変わらないと思うけどな」
 俺がそう言うと、そうかな、と本田はまだ俺のことを考えてくれているように返した。クラスには目標を決めている奴がたくさんいるのに、俺は未来の理想図を全く描けずにいる。
「私はおんなじ立場になったことないから分からんけど、もしそうやったらいっぱい悩むんやと思う。でも自分の家のことやから自分でなんとかしやな、って思って結局一人で全部抱え込むんやろうなって」
「うん。まさにそんな感じ。でも確かに、家のことちゃんと誰かに相談したことってないかも」
 ほかの奴とこういう話をするとたいてい無責任に、和菓子って良いなとか、家業あるなら仕事困らないじゃんとか言われるのがオチで、俺は正直うんざりしていた。そうやって簡単に言う奴は俺が置かれた立場を何も分かってくれなかった。
 本田が進路の話を持ちだした時はまたそうなるのかとため息をつきかけていた。でも、本田は違った。境遇が違うからあいつは俺の気持ちを完全に理解できないし、理解する義務なんて全くない。それでも頑張って考えてくれている。
「なぁ、本田。無理に一緒になって考えてくれなくてもいいからな」
「別に無理してへんよ。橋本くんが悩んでるようやから、ちょっとでも力になれたらなって、それだけ」
「そっか、ありがとう」
 本田は背もたれに肘を乗せて体をひねり、俺の目をまっすぐ見てきた。
「今度私の話も聞いてよ。それでおあいこ様にしよ」
 そう言って本田は、俺に見せるのがもったないほどの満面の笑みを向けながら、こっちに手を差し出した。俺は若干戸惑いながらもその手に自分の手を重ねてゆっくりと握った。本田の手は少し小さくて柔らかかった。静かな川の上で、俺達はしばらくそのままでいた。
 それから俺たちは握手し合った手をどちらからとなくほどいた。短かったような、長かったような不思議な時間だった。
 前に向き直った本田がどんな表情をしているのかは分からなかったが、自分の手をしばらく見つめてぎゅっと握ったのは見えた。俺は、温かみが仄かに残る手で再びオールを握りなおした。

 その日の夜。班ごとにばらばらにホテルに戻ってきたため、俺と内村が部屋に戻るとすでに坂上は帰ってきていた。
「おー、おかえり」
「ただいま。って、康平。またそのアイス買ったのかよ」
 坂上の左手には昨日食べたアイス。そして右手にはちゃんとスプーンが握られている。
「だってうまかっただろ?」
「まぁ、そうだけど。ってか今日は箸じゃないんだな」
 内村はそう言ってベッドにリュックを下ろす。それから坂上と何かを目で示し合わせて、うなずき合ったと思っていたら、
「さてと、湊さんよ」
 と、二人揃ってニヤニヤしながらこっちを見てきた。
「どうしたんだよ」
「まあ、そこ座って座って」
 二人揃ってそう言うから、俺は言われるがままに小さなテーブル前の椅子に腰掛けた。
「本田とのカヤックどうだったんだ?」
 何を言われるかと構えていたが、まさかカヤックの事だったとは思っていなかった。
「別に何もなかったよ」
 とても楽しかった、とも、仲良くなれた気がする、ともあえて言わない。
「でも、女の子とふたりきりで船を漕ぐというのは男なら誰もが憧れるシチュエーションだと思うけど」
「まぁ、確かに理想的だけど」
「恋は始まった?」
「別に」
 なんて言ったものの、実はちょっとだけ本田のことが気になり始めていたりした。自分の中でもその気持ちはまだはっきりとしていないから、もちろん二人には教えない。
「とにかく、お前らが考えるようなことは何もなかったから」
 これ以上思い出を話してしまうと、二人だけの楽しかった時間の価値が下がってしまうような気がして俺はそう言った。

 内村は少しがっかりしたような顔でため息をついた。内村ってこんなに何でもかんでも恋愛に繋げたがるやつだったかな、と俺は思った。この前の集会の時から変な気もするが、どうせ気のせいだろう。もしくは俺が敏感になりすぎているのか。考えても全然答えは出てこなかったから、とりあえず気のせいということにしておいた。その後は特にカヤックの話があがることもなく俺達は三日目を終えた。

 カヤックが終わってからは本当に何かもあっという間に過ぎていった。集団旅行というのは本当にのんびりしている暇がない。みんなゆっくり回りたいと思っているはずなのに、自分たちが計画したスケジュールに追われるように行動しなければならなかった。それでも、本田とは同じクラスだから忙しい中でもいろんな話をした。そして、気付けば、本田ともっと話ができないだろうかといつもどこかで思っている自分がいた。俺は、明るくて、冗談交じりに面白可笑しく話をしてくれる本田のことを完全に気に入っていた。
 帰りの飛行機はシンガポールのチャンギ空港を夜中の一時に出発する便で、みんな座席についた瞬間落ちるように眠り始めた。俺も飛行機が安全に離陸したのを確かめると同時にアイマスクを付けて背もたれに体を委ねた。

 帰国した俺は、五日で何も変わるわけがないのに、どこか懐かしいふるさとに帰ってきたような気持ちになった。唯一発見した変化といえば、新宿駅前の道路工事が少し進んでいたことくらいだ。俺達は最近出来たバスタ新宿で解散となり、それぞれが散るように帰路に着いた。

 このまま人の波に飲まれると切符売り場が混雑するんだろうな、と思って周りの人の間をすり抜けて行こうとした時、後ろから肩をぽんと叩かれた。突然のことにびっくりして、おそるおそる振り返ると、そこにいたのは本田だった。
「橋本くん! ちょっとだけ時間あれへん?」
「時間ならあるけど」
「ちょっと来てほしい所があるんやけど」
 走ってきたのだろうか、本田の息は少し乱れていた。そして、何故か手首にはレジ袋が掛かっている。
「今から?」
「うん」
「荷物いっぱいあるから遠いところは厳しいかも」
「すぐそこやから大丈夫」
「それなら別にいいけど」
 俺がそう答えると本田は「ついて来て」と早足でどこかに向かって迷いなく歩き始めた。俺はその背中を見失わないように追いかけていく。本田は、大きなキャリーを押しているのに前に何もないように人混みをすいすいと進んで行くものだから、何度も置いて行かれそうになった。一体、何を考えて、どこへ向かおうとしているのか。何一つ分からないけれど、とにかくついていくしかなかった。
 駅前でティッシュを配っている人や宗教団体の講演をしている人、歩道を渡った先の路地に寝転がる野良猫。色んな物を通り過ぎてたどり着いた先は後ろに木が生い茂る小さなベンチだった。ここは確か環境省みたいなところが管理している巨大な公園、新宿御苑の辺りだ。大都会の中でここだけ緑が密集していて、俺も小さい時はよく父さんに連れてきてもらった。
 シンガポールより随分冷たい風が古い葉をすくうように揺らす。ベンチに腰掛けた本田はどこか不安げな顔をしていて、俺の顔をちらちら見たあと息をゆっくりと吐いた。
「橋本くん。私のわがままに付き合ってくれてありがとうな」
「ここに連れてきたこと?」
「そのこともあるんやけどな。私のわがままはカヤックのこと」
「何かわがまま言った?」
「カヤック一緒になったこと」
「あれは別に本田のせいじゃないと思うけど」
 俺がそう言うと、ううん、と本田は首を横に振った。それを見て、俺はますます訳がわからなくなる。あれは完全に不可抗力だったはずだ。
「あれな、私が内村くんに、橋本くんと一緒にならんといてって前から言うといたからやねん」
 俺は思わず「へ?」と情けない声を漏らしてしまう。内村……?
「あ、そうそう大事な話の前に、橋本くん牛乳好き?」
「え? まぁ、一応好きだけど」
「はい、あげる。さっき買ってん」
 そう言って本田はレジ袋からパックの牛乳を俺に差し出した。 ますます訳が分からない。
「えっと……ありがとう。って、こんなの買う暇あった?」
「どういたしまして。あ、これな駅前のコンビニで急いで買ってきてん。まぁ、一緒に飲もよ」
 そう言うと本田は、パックの上の銀紙にストローを突き刺して、それから、頬が膨らむくらい大きく吸った。そして、とても幸せそうに飲み込む。どうしてこの状況になったのか全く分からないが、とりあえず俺も一口飲んでみた。うん。やっぱり牛乳は牛乳だ。
「ってか、なんで牛乳?」
「私、ちっちゃい頃から牛乳大好きやねん。美味しいし、栄養ありそうやし。あ、それと絶対メグミルク」
「どれも一緒だと思うんだけどな」
 そう言って俺はもう一口飲む。
「みんなそう言うし、どれも美味しいけどやっぱりメグミルクが一番やと思うな」
 幸せそうに微笑む本田。牛乳の違いは正直言って分からないが本人が満足しているなら何でもいいような気もする。俺はもう一口吸って、体中に染み渡らせるようにゆっくりと飲み込んだ。
「あっ、でも、ちゃんと味わってみたらいつもより美味しいかも」
「あ、分かってくれた?」
 うんうん、と俺は頷きながら最後の一口を飲み込む。本田も飲み終えたようで、お腹の前でパックを抱え込むように持っている。さっきから本田は下を向いて、ため息ばかりついているような気がする。どこか寂しそうな目をしながらもう一度息を吐き、それからゆっくりと俺の方を向いた。
「あのな橋本くん。私、橋本くんに伝えたいことあるねん」
「何?」
「あのな。その、私な……」
 本田は次の言葉を口にするのを、怖がっているかのように何度かためらう。本田は何度も目をそらしては、また俺を見る。そうして、俺達の視線がぴったり重なる。
「私、橋本くんのことがずっと好きでした。私と付き合ってください」
「え。ちょっと待って。ちょっと待って」
 本田に突然告白された俺は何度も、待って、と口にしていた。頭の中がこんがらがってうまく物事を考えられない。
「なんで、本田が俺なんか」
 必死に思考を巡らせて、俺は何とかそう言った。
「それ、説明させる?」
「うん」
「えっとな……って、これ、告白するより緊張するやん」
 本田は自分の胸に手を当てて、数回深呼吸をした。俺も、未だに現実を信じきれていない心を落ち着かせようと、本田に合わせて息を吐いた。
「私、橋本くんの全部が好きやねん」
「いや、だって俺なんか別に何も良いとこ無いし」
 顔の後ろの、耳の方からどんどん熱くなってくる。本当に、これは夢でないようだ。
「橋本くんがそう思ってても、私は橋本くんのことが好き。どこが、とか説明するの難しいけど、これが好きって気持ちやってことだけは分かるねん。それで、私の気持ちに応えてくれますか?」
 本田は心配そうな目で俺の目だけを真っ直ぐ見てきた。さっきから、告白された側なのにめちゃくちゃ緊張して声が震えてしまっている。でも、俺の答えはほぼ決まっていた。
「俺はーー」
 強くて冷たい風が吹き抜けて、秋色に染まろうとしている草木を揺らす。
 土から出てきたばかりの双葉を、俺はこれから大切に育てていこうと決めた。


 第二章

 金木犀のお菓子を楊枝で二つに割ると、中から綺麗な黄色い餡が顔を覗かせる。そっと口に入れると控えめな甘さが口全体に広がって、ふんわりとした香りはそっと鼻から抜けていく。口の中でほどけるように溶けて、全身へ広がる優しい甘み。私はそれをゆっくりと飲み込んで小さく息を吐く。それから抹茶を飲んで、もう一切れの練りきりを口に含む。
「どう? うまい?」
 向かい合わせに座った湊くんが尋ねる。
「うん! めっちゃおいしい!」
「そう、それは良かった」
 良い雰囲気の甘味処。すっきりとした甘さのお菓子。和菓子を引き立てる苦い抹茶。湊くんの家ってすごい。小学生みたいな感想だけど、とにかくすごい。
「湊くんもこれ作れるん?」
「簡単なやつなら一応な」
「めっちゃすごい!」
「まぁ、これの足元にも及ばないけど」
 私はもうひとつお皿にのっているモミジの練りきりを眺めた。素人目でもその細やかなお菓子に費やされた技術と労力が見て取れる。
「いつか湊くんの作った練りきり食べさせてな」
「そんなこと言われたら練習するしかなくなるから」
「私はゆっくり待ってるから安心してな」
「はいはい」
 そう言う湊くんの口角が少し上がった。多分これは作ってくれる顔だ。湊くんは面倒くさそうにしながらも大抵のことは引き受けてくれる。そういう優しさも、好きなところのひとつだ。

「あれ、真希ちゃんってもしかして関西出身?」
 湊くんのお母さんがレジの方から尋ねてきた。
「はい。京都から引っ越してきました」
「やっぱり? 関西の言葉って聞いただけですぐ分かるもんね」
「もしかして、変でした?」
「ううん。可愛くていいと思うよ。でもこっちで住んでてよく抜けないなって思ってね」
「これが私だ、って思ったらなかなか抜けなくて」
 抜けかけたことは何度もある。標準語になりつつある自分を何度も見てきた。でも、関西弁を良いと言ってくれる人がいる。関西弁であることによって真っ直ぐ生きていける自分がいる。私が私であるための、そして私の故郷は京都であるという証。
「そうなんだ。関西弁、いいと思うよ」
 湊くんのお母さんは優しく微笑みながらそう言った。伝えていないことまで伝わったような気がして私は少し嬉しかった。

 熱い抹茶を一口すする。口に広がる濃厚な香り、そして苦味。
「あれ、湊。もしかして彼女か?」
 それからしばらくして、店の奥から湊くんのお父さんらしき人がにやにやしながら出てきた。それを見ると湊くんは慌てて立ち上がり、お父さんの方へずんずんと歩いていった。
「もう、放っといてくれ」
 湊くんは顔を真っ赤にしながらお父さんを店の奥に押しやった。
「そうかそうか、湊もついに! 父さん感激して涙が出ちゃうよ」
「そんなキャラじゃなかっただろ」
「いやー、湊があまりにも素敵な子を連れてくるものだからね。君、名前は?」
「本田真希です」
 挨拶のタイミングを見計らっていた私は反射的に答える。
「真希ちゃんか。いい名前じゃないか」
 素敵だなんて言ってもらったことがなかったから、照れくさいような、嬉しいような気持ちになった。
「ありがとうごさいます」
「まぁ、ゆっくりしていってくれよ。湊、家上がってもらってもいいからな」
「ちょ、父さん早く戻ってくれ」
「お、嫉妬か? 全く、お子様は可愛いもんだな。ま、仲良くしてくれよ」
 そう言って湊くんのお父さんは大笑いしながら店の奥へと戻っていった。湊くんは相変わらず頬を赤く染めている。
「本田、上行こっか」
「あ、ちょっと待って。もみじのお菓子食べるから」
「あ、そっか。じゃあゆっくり食べていいよ」
「ありがとうな」
 私は金木犀の時のように、二つに割ってから口に入れた。もみじのお菓子は内側と外側で柔らかさが違っていた。ゆっくりと噛むと練りきりはそっと溶けていき、ほんのりとした甘さが私を包み込む。思わず笑みがこぼれてしまう。
「やっぱり和菓子はゆっくり食べたほうが美味しいよな」
 うん! と私は大きく頷く。湊くんは幸せに浸る私を温かい目で待っててくれる。本人も自覚していないのだろうけど、そういう何気ない優しさがやっぱり好きだなと思う。私は心の中で湊くんにそう伝えると、もう一切れをひょいと口に放り込んだ。
「ごちそうさまでした」
「さて、俺は皿片付けてくるからちょっと待ってて」
 湊くんはお皿を重ねて、その上に湯のみをのせた。私は立ち上がってその湯のみを持つ。
「私にも持って行かせてくれへん? 湊くんのお父さんにごちそうさま言いたいし」
「本田ってそういうとこちゃんとしてるよな」
「んー? 当たり前のことやない?」
「ほら、そういうところとか。ま、とりあえずついてきて」
「うん」
 湊くんに続いてカウンターの奥へ進む。群青色の暖簾をくぐると、そこには職人の世界が広がっていた。流しに突っ込まれたヘラ。ひっくり返して積み重ねてある鍋。規則正しく並べられた細長い金属の道具。この空間にあるもののどれか一つでも配置を変えた途端に張り詰めた空気がどこかへ飛んでいってしまいそうな、そんな感じがする。その中で、湊くんのお父さんは、先ほどとは全く異なる真剣な表情で何かをかき混ぜている。
「父さん。この皿、流しにつけといていい?」
「ああ。真希ちゃんも、そこ入れといて」
「はい。お菓子ごちそうさまでした。とっても美味しかったです。次来た時はちゃんとお金払うので、また食べさせてください」
「いいや、湊が世話になってんだから金なんて払わなくても食わせてやる。それに俺は金がほしいから和菓子を作ってるんじゃない。俺の作った菓子食って、真希ちゃんみたいに幸せそうな顔するやつを見るのが好きだからだ」
 湊くんのお父さんはそう言って、私達に背中を向けて作業を進めた。和菓子を作っている最中のお父さんは全然違った。
 湊くんに袖を少し引っ張られる。私はお辞儀だけして厨房を後にする。そのまま裏口へと周り、そこから家に上がらせてもらった。

 湊くんは私の前で、階段を上っていく。私はこの人といつまで一緒にいられるのだろうか。またこんなことを考えてしまった。湊くんの前ではそうしないように気をつけていたのに。
 最近はよくこんな後ろ向きなことを考えてしまう。いつか、こんなふうに遊びに来なくても毎日一緒にいられる日が来るのだろうか。絶対なんてないけれど、私は湊くんと絶対ずっと一緒にいたい。少なくとも私はそう思っているし、ずっとそう思い続けられる自信がある。湊くんもきっとそう思ってくれているのだろうけど、私は何故か強い自信が持てない。そして、私はちょっと不安になる。こうやって階段を上るように、湊くんがずっと高くて、手を伸ばしても届かないところに行ってしまったら、私はどうなるのだろうか。
「あれ、本田。どうかした?」
「え? あぁ、何でもあれへんよ」
 そう言われてどきっとした。どうやら私は心配されるような顔をしていたらしい。
「まぁ、何でもないんならいいけど。で、ここ俺の部屋だから、あんまり綺麗じゃないけど入って」
「うん。おじゃましまーす」
 湊くんの部屋は、まさに男の子の部屋って感じだった。本棚にはたくさん本、勉強机には開いたままの参考書、枕元には音楽プレーヤー。余計なものが全然置いてない。
「ま、適当に座っていいよ」
「ありがとう」
 私が座ると、向かい合うように湊くんも腰を下ろす。私は湊くんを見つめる。それに気づいた湊くんも私を見つめる。
「なあ、湊くん」
「何?」
「この部屋ちょっとだけ寒くない?」
「もう十一月の真ん中だしな。隣の部屋からストーブ持ってこようか?」
「あ、それは大丈夫」
 そう言って私はベッドにもたれかかる。折りたたみ式の骨組みの上に布団をおいたような簡素なベッドだった。顔を控えめに近づけてみると湊くんの匂いがした。
「湊くん。隣来てくれへん?」
「えっと……。わかった」
 湊くんは、そう自分に言い聞かせるように呟き、少しだけの距離をあけて隣に座ってくれた。さっき、未来のことを考えた時から、なんだか急に湊くんともっと近くにいたくなった。
「湊くん。掛け布団かけてもいい? 」
 湊くんは私が何を考えているのか分かったように小さく頷く。それから、私たちは顔だけ出して、体育座りの上から掛け布団を被せた。それでもまだ湊くんとの間に少しだけの距離が空いている。私は肩と肩がくっつくくらい近づいた。
「湊くん。もたれかかってもいい?」
「ほどほどなら」
「じゃあ、遠慮なく」
 私は湊くんに体を委ねる。湊くんも少しだけこっちに体重をかけてくれる。胸のちょっと下のあたりから鼓動に合わせて温かいものが溢れ出てくるように感じて、私はとても幸せな気持ちになった。この時間が終わってほしくない。もっとずっと湊くんのそばにいたい。心の底からそう思った。
「湊くん。大好きやで」
「俺も大好き」
「私な、湊くんとほんまにずっと一緒にいたい」
「うん、俺も」
「でも、ほんまにどこにも行かんといてな」
 私はそう言って湊くんの目を見つめる。それに気づいた湊くんは、私の額を前髪の上から撫でてきた。
「なんかさっきから本田女の子っぽいよな」
「それ、付き合ってなかったら怒ってるで」
「そういうことじゃなくて。今日の本田、何かを怖がってびくびくしてる感じがするってこと」
 どきっとした。私は湊くんに心の底を覗きこまれたような気がした。
「何か心配事でもあったりする?」
 湊くんは私の顔を覗き込むようにそう言う。これは言うか言わまいかとても迷った。捉え方によっては私が湊くんのことを信じていないように思われるかもしれないと考えられるのが怖い。でも、自分の中でずっと貯め続けて、それが悪い方に転がるのはもっと怖いから、私は躊躇いながらも言ってみようと思った。
「えっとな、私な、湊くんとこの先もずっと好き同士でいられるかって思ったらちょっと不安になるねん。もちろん私は湊くんのこと大好きやし、湊くんが私のこと好いてくれてるのも分かるねんけど」
「分かるけど?」
「なんて言うんかな、未来のこと考えたら不安になるって感じやねん。大好きやからこそ、もし関係が変わったらって考えたらめっちゃ嫌な気持ちになるねん」
 私は、思っていることをうまく言葉にできたと思う。湊くんは何かを考えているような顔でまだ何も答えない。しばらく沈黙が続いた。私は湊くんのことを信じている。でも、湊くんが私の言葉をそれとは逆に捉えてしまったらどうしようか。そんなことを考えていると、湊くんは布団の下で私の手の甲をつんと突っついてきた。
「何?」
「えっと、本田の気持ち全く分からないわけでもないし、俺も関係が変わったら嫌だなって思う。でも、次に俺たちの関係が変わるとしたら、それは結婚するときなんじゃないかなって、俺はそう考えてみた」
 そう言って湊くんは掛け布団の下で私の手を握ってくれた。私はぽかんとしていた。しばらくして我に返った私は、握られた手をぎゅっと握り返した。外側からも、内側からもぽかぽかしてとても気持ちよかった。

「それに俺も、何が起こるか分からない未来が不安だ、っていうのはよく分かる」
 湊くんはふとそんなことを口にした。
「湊くんも恋愛のこと……?」
 私は、間違っていたらちょっと恥ずかしいな、と思いながらそっと聞いてみた。
「ううん。進路のこととか、将来就きたい職業のこととか」
 やっぱり私だけが恋愛に対してびくびくしているのかもしれない。でも、今はとりあえずそのことを置いて、湊くんの話を聞こうと思った。
「そっか。やっぱり和菓子屋のこと?」
「うん。継がなきゃって思うけど、正直言って他の仕事にも興味あるし」
「そうなんか。やっぱりちょっとだけ未来に確かなもの欲しくない?」
 私は湊くんに聞いてみるように言ったけど、正直言って同意してほしかった。
 私は首を傾けて湊くんの肩に乗せた。温かい。ぽかぽかする。湊くんの、私が好きって気持ちが不思議なくらい鮮やかに伝わってくる。少しずつ、不安だった気持ちは消えていく。やっぱり湊くんと話すと、そんな気持ちは全く感じなくなる。
 心と心が繋がっている、とはこういうことを言うのだろうか。好きって気持ちが手を通じて、絶え間なくお互いを行き来する。
 話す前と比べると、驚くほど自信に満ちていた。次に関係が変わるのは、結婚するとき。私はこの言葉を忘れないように何回も頭の中で繰り返した。

 それから私達は五時前までいろんなことを話した。もう日は暮れかかっているようで、外を見ると随分暗くなっている。自転車でここまで来た私は、流石に帰りが心配になって帰らせてもらうことにした。
「今日はありがとうございました」
「おう! また来てくれよ! それと、これご家族にも食べてもらってくれ」
 湊くんのお父さんがかわいらしい大きさの箱に入った和菓子をおみやげにくれた。
「ありがとうございます! 私のお姉ちゃんが和菓子好きなんで、きっと喜ぶと思います」
「真希ちゃん、姉ちゃん持ちか。きっと姉ちゃんも美人さんなんだろうな。また今度連れてきてくれよ」
「はい! それではおじゃましました」
「あいよ! またいつでも来てくれよ、あと気をつけて帰れよ」
 湊くんと、湊くんのお父さんは店先まで出て私を見送ってくれた。私は自転車にまたがり、川沿いを走る。風に揺れる柳と、街灯の温かい光がとてもいい雰囲気を作っている。進む先、空の低いところに綺麗な月が出ている。東京だから流石に星は全然見えないけど、黄昏時のいろんな色が混ざる空に映える月はやっぱり綺麗だった。
 自転車に乗ると、空気は余計に冷たく感じられた。首元から服の中にひんやりとした風が入り込む。私は信号待ちの間にパーカーのチャックを一番上まで上げた。もう冬は目の前だ。そして、私達は一応進学校に通っているからこれからはあまり遊んでいられなくなる。ここから一年間、受験のために勉強し続けなければならない。湊くんと過ごす時間も機会も確実に少なくなる。でも、どちらか片方が浪人するよりは、二人の時間を削ってちゃんと勉強したほうがいいに決まっている。大学に行ったら、使えるお金も行動範囲も広がって、またいくらでも一緒に過ごせるのだから。
 信号が青になる。たくさんの人が一斉に動き出す。私も自転車を押して進む。東京の空気は冷たくて無機質で、誰のどんな事情にも決して同情しない、そんな雰囲気を街中に漂わせていた。

「真希おかえり」
 家に入ると早速お姉ちゃんが出迎えてくれた。八歳離れたお姉ちゃんは、半年後に結婚することが決まってから、どこか優しくなったような気がする。それと、東京に引っ越して二年足らずで関西弁が抜けた。
「ただいま」
 私がそう返すとお姉ちゃんはリビングに戻っていく。私もその後に続く。
「おかえり、真希。結構遅かったんだね」
「あ、お母さんただいまー。うん、思ってたより遅くなった。あと、これ湊くんのお父さんがお土産にって」
 私はさっきもらった箱を机に置く。お母さんとお姉ちゃんは興味深そうにそれを見つめる。
「ねえ、真希。これ開けていい?」
 お姉ちゃんが嬉しそうに尋ねる。
「ええけど、お姉ちゃん食べ過ぎやんといてよ」
「分かってるって。可愛い妹が太らないように私が食べてあげるから」
「ちょっと、ほんまに私の分残しといてな」
「まあまあ、とにかく開けようよ」
 そう言ってお姉ちゃんは丁寧に包装を破り、そっと蓋を上げる。箱には、小ぶりな饅頭が九つ入っていた。
「おいしそう。いただきまーす」
「ちょっと早紀。晩御飯食べれんくなっても知らんで」
 お母さんがそう言うにも関わらず、お姉ちゃんは一つ目の饅頭をひょいと口に放り込む。
「一つくらい大丈夫だって」
 お姉ちゃんは再び手を伸ばして二個目を手にする。
「お姉ちゃんほんまにアカンって! 私とお母さんとお父さんの分もちゃんと残しといてや!」
「大丈夫だって。あれ、お母さん。お父さんは?」
「今日は鹿児島の建築会社まで出張って言うてたで」
 お母さんはエプロンの紐を結びながら答える。私のお父さんは建築の仕事をやっている。その業界ではなかなか名前が通っている会社のようで、夜遅くまで帰ってこないこともよくある。家族が東京に引っ越してきたのもお父さんの転勤がきっかけだった。
 お姉ちゃんはそうなんだ、と返し二個目の饅頭を食べてから机に開かれた雑誌に視線を移した。
「何読んでんの?」
「ゼクシィ」
 そう言ってお姉ちゃんは表紙を私に向ける。幸せそうな女性の写真。羨ましいな、と純粋に思う。
「そっか。お姉ちゃんほんまに結婚するんか」
「何をいまさら」
「いや、来年の夏からこの家におらへんねんなって思ったらやっぱり寂しいわ」
 お姉ちゃんは来年の七夕の日に籍を入れる予定だ。今は半同棲状態で、一週間に一度くらいこうして家に帰ってくる。歳が離れている分ずっと頼りにしてきたから、高校生になっても家を出て行かれるのは少し寂しい。
「それは私もだけど、やっぱり幸せのほうが大きいかな」
 お姉ちゃんは何も怖いものなんてないような、そんな表情をして言った。
「いいなぁ。そう思えるのって」
「真希も今日橋本くんの家行ってきたんでしょ? 十分幸せじゃん」
 私はうーんと唸りながら頷く。もちろん湊くんといることはとっても幸せだし、湊くんが私のことを誰より好いていることもちゃんと分かっている。それにさっきの湊くんの言葉で私は自分に自信が持てた。でも、法律で結ばれた関係なら、そこに不安なんて何も無いんだろうなと思う。
「それはもちろん幸せやけど、ずっと一緒にいられる保証はないやん」
「真希は絶対が欲しいの?」
「あった方が安心できると思うし」
 ふふ、とお姉ちゃんは笑う。
「分かるなぁ、その気持ち。特に高校生なんて、大学で離れちゃうもんね。お互い色んな人に出会うわけだし、自分より気の合う人が現れたらどうなっちゃうんだろうって、私もよく考えたな」
 読んでいたゼクシイをぱたんと閉じて、お姉ちゃんは立ち上がる。でも大丈夫だよ、そう言って私の頭をぽんぽんと撫でた。
「ちゃんと相手のこと考えて大切に思ってたら、いつまでも仲良くいられるから。それと、不安になるのは仕方ないけど、橋本くんが隣にいる時はちゃんと幸せ百パーセントでいなよ」
 お姉ちゃんは微かに微笑むと、そのまま階段を上っていった。私はいつまで経ってもこの人には敵わないだろうなと思った。
 高校生のカップルは卒業するとほとんどが、それもどんなに仲がよくても大抵は別れてしまう。人はよく顔を合わせる人に好意を抱く、とか、高校生の恋愛なんて所詮はお遊びだ、なんていう一般論が私を過度に怖がらせているのかもしれない。私は別れるつもりも、お遊びで付き合っているつもりも全くない。好きになったら、ずっと好きでいられると思う。そうやってお姉ちゃんも結婚することになったのだから。
 湊くんの魔法の言葉が私の味方だ。

 でも、一つだけ分からないことがあった。どうして私は幸せなのに未来に怯えているのだろうか。

 ポケットの中で携帯が鳴った。私は、湊くんとはLINEも電話も全然しない。直接話したほうが楽しいに決まっているから、特に決めたわけでもなく自然とそうなった。他の友達においてもそんな感じだから携帯が鳴ること自体それなりに珍しいわけで、私は誰だろうと思って画面を開いた。
『今年もこっち帰ってくるんやろ? 今年こそ会って話そうよ』
 差出人の名前を見た瞬間、どきっとした。私は携帯を少し乱暴に机に置いて立ち上がる。寂しげに光る画面を決して見ないように階段を上り、自分の部屋へと駆け込んだ。

 電気をつけていないと部屋の中は真っ暗で、遠くの方のビルの明かりが波打つカーテンにちらちらと浮き上がっていた。私はベッドに飛び込み、布団に顔を埋める。ついさっきまであの人のことなんかすっかり忘れていた。その頃の気持ちなんて全く関係なく簡単に忘れて、過去のことにできていた。そんな自分がなんだかとても悪い人のように思えた。でも、今の私にとっては、あの人なんてただの中学時代の思い出に過ぎない。

 LINEの差出人は高野健哉。私の元カレ。私の初恋の人。

 昨日の夕方に木枯らし一号が吹いたらしく、一晩が明けて空気は全くの別もののように鋭く私の肌に突きつける。築九十年の校舎はそんな日でも変わらず、暖かい特有の匂いでもって私たちを迎え入れてくれた。
「湊くん、おはよう」
 後ろの扉から教室に入って、前の方に座る湊くんのところまで遠回りをしておはようを言うのが最近の私の日課。そう言うと湊くんはいつもにこっと優しく微笑みながらおはようを返してくれる。そのまま昨日の晩から暖めておいた話題を振りたくなるが、クラスのみんなに気を遣われたり、からかわれるのがあまり好きではないからそっと自分の席まで戻る。私たちの付き合いはそんな感じ。二人きりの時、それもまわりに人がいないときはとことんくっつくけれど、通学路では手をつながないし、湊くんを含めてみんなで話しているときは湊くんとも他の友達と同じように接する。湊くんが他の女の子と楽しそうに話していても何とも思わないし、私が男の子と仲良くしていても湊くんは何ともなさそうな顔をしていたりする。お互いのかばんの中や携帯は絶対に見ないし、一人の時間もしっかり確保する。これが私たちにとって一番心地良い距離だ。

 まだクラスの半分くらいしか登校していないけれど、隣の席のきゅーちゃんは今日も私より早く席についている。
「きゅーちゃん、おはよう」
 私はきゅーちゃんの小さい頭を撫でながら言った。
「おはよー、真希。あと、朝一番から頭撫でるな。背伸びなくなるから」
 きゅーちゃんはちょっとだけ怒りを含めた上目遣いで私を睨む。でも、それが全然怖くなくて逆に可愛いくらいだから、私はついつい頭を撫で続けてしまう。
「きゅーちゃんは今日も可愛いなぁ」
「別に可愛くなんかないし」
 きゅーちゃんの頬が少しだけ赤くなったところで、私は手を離して席につく。ようやく私から解放されたきゅーちゃんは視線をノートに移し、せっせと今日が提出の課題をやり始めた。
「あ!」
「なんか思いだしたん?」
「真希、また私のこときゅーちゃんって呼んだなー!」
「でも、もう結構クラスでも浸透してきてるやん」
「子供っぽいから嫌ー!」
 きゅーちゃんはちっちゃくてとても可愛らしい。本当にそう思うけれど本人はもっと身長が欲しいようで、体育の時間に列の先頭で腰に手を当てている時が自分の背を思い知らされているようで嫌らしい。クラス替え当初は席も近くなかったし、背の順で並んでも離れていた私ときゅーちゃんが仲良くなったのは二人共牛乳が大好きだったからだ。二時間目が終わってから購買に牛乳を買いに行くきゅーちゃんと、お弁当を食べてから牛乳を飲む私が意気投合するのには本当に時間がかからなかった。ただ、好きな味が微妙に違うのだが。

 きゅーちゃんはすぐに機嫌を取り戻したらしく、鼻歌を歌いながらノートを眺めている。また勉強の邪魔になるかなと思ったが、どうしても聞きたいことがあるからには聞いてみようと思った。
「そういえば、きゅーちゃんって冬休みの予定決まってる?」
「予定? 部屋の片付けして、おせちいっぱい食べて、こたつで寝る!」
「そっちやなくて、彼氏さんとの予定」
「あ、そっちか。ちょっと遠くまで遊びに行こうっていう話にはなったけど、結局なんにも決まってないな。それより、真希は? 橋本と遊びに行かないの?」
 その声がなかなか大きかったから、私は慌ててきゅーちゃんの口を手で塞いだ。近くの席の何人かは反応したが他の人たちには聞こえていなかったようで、私は安心しつつもう一度確認のために周りをきょろきょろと見渡した。湊くんは普通に坂上くんや内村くんと話しているから、聞こえなかったようだ。私はふうと息を吐いてきゅーちゃんの方に向き直る。
「きゅーちゃん、ちょっと声おっきい」
「ごめんごめん。で、二人でどこか行かないの?」
「遊びには行きたいんやけど、まだ決めてへんねん。おすすめの場所とかある?」
「おすすめかー。私は去年水族館行って、一昨年は動物園行ったな。生きもの見て歩くだけだったけど、意外と楽しかったな。動物ばっかりで参考にならないかもだけど」
「あ、そういう場所もありなんか。私、遊園地とかテーマパークとかにデートであんまり行きたないからちょうどええのかも」
「ほー。高校生の定番デートスポットには行きたくないと。私たちはよく行くけど、飽きないし楽しいから好きだな」
 湊くんと付き合い始めた頃から、デートに行くなら定番の場所とか友達がいそうなところにはあまり行きたくないと思っていた。デート先で知り合いと合うのは恥ずかしくて嫌だ。
「私はどっちかというと、紅葉狩りとか山登りとか自然と触れ合う感じのお出かけしてみたいな」
「それ老夫婦が言うセリフじゃん。なんか真希と橋本って初々しいのにもう何年もいるように見えるな」
「それって良いんかな?」
「別にカップルに一つの正解なんか無いと思うし、二人が楽しかったらそれでいいんじゃないの? 二人だけの正解に誰も首突っ込めないし、突っ込んじゃいけないと思うな」
 きゅーちゃんは何度も頷きながらそう言った。恋人の関係に正しい答えはないと思うけど、きゅーちゃんのこの言葉は正しいと思う。きゅーちゃんは、中学一年の時に初恋の人に告白して、それから高校が離れた今でも仲良く付き合い続けているらしい。もうすぐ四年目の記念日だから、一緒に遊びに行くんだってきゅーちゃんは何度も嬉しそうに言っていた。別に過ぎ去った月の数を数えるために付き合っているわけではないけれど、そうやって長く付き合っていて、そのもっと先まで見えるような仲良しな関係に私は素直に憧れる。そういう人が自分の身近にいると、自分もずっと湊くんと一緒にいられるんだという自信のような安心が芽生える。今の私なら、湊くんといる時はちゃんと幸せ百パーセントで過ごせそう。

 授業が終わって私達は別々に教室を出て、横に並んで昇降口に向かう。
「湊くん。一緒に帰らへん?」
「今日も帰ろっか。あ、でもその前に、俺職員室に用事あるから校門前で待ってて」
「うん、分かった。じゃ、また後で」
 私は下靴に履き替えて校門へとゆっくり歩いて行く。部室があるのは校門とは反対方向で、放課後の生徒の大半はそちらに向かって流れていく。私は、中学の時はバドミントン部に入っていたが、この学校にはラケットを使う部活が卓球とラクロスしかなくて、私は結局どこの部にも入らなかった。でも、今までずっと体を動かしてきた私にとって帰宅部というのはなかなか体が満足してくれない。だから、最近は昼休みにきゅーちゃんや他の子を誘って中庭でバドミントンをして遊んでいる。
 部活に入らなくて後悔しているわけではないが、毎日運動場で走っている人やひたすら楽器と向きあっている人を見ると、その一生懸命な表情が驚くほどに眩しくてそういう姿に憧れる気持ちが少なからず心のどこかを占めている。
 校庭沿いに植えられたイチョウはその葉をひらひらと落とし、冷たい風に吹かれて遠くの方まで舞っていく。私は制服の上から羽織ったコートのポケットに手を入れて歩く。校門のそばには真っ赤に色付いた紅葉の木が、校舎とともに歩んできた時間の重みを表しているかのように堂々とそびえ立っている。私はその下で思わず立ち止まった。見上げると鮮やかな紅い葉が何枚も重なって、傾く気配を感じさせる日の光をほのかに染めていた。
「本田、おまたせ」
「あ、湊くん早かったんやな。なあなあ上見て! めっちゃ綺麗やない?」
「確かに。京都の寺とかもこんな感じだった?」
「うん。綺麗なお寺いっぱいあったな。あ、でも一番綺麗やったのはおじいちゃんの神社やった」
「本田のじいちゃん家って神社なの!?」
 湊くんは文字通り目を丸くした。記憶を探り返しても思い出せないから、たぶん言ってないのだと思う。
「たぶん言うのは初めてかな。うん。それで、私のおじいちゃんの家は神社やねん。めっちゃいい所やから大学行って時間の余裕できたら行こ!」
 私がそう言うと、湊くんは少しだけ口角を上げて頷いた。見方によってはにやけているようなこの表情は、湊くんが内心は嬉しがっている時のものだ。私の胸は少しだけ大きく鳴る。
 私の頬もきっとほのかに赤くなっているのだろう。そう思うと湊くんとまっすぐ見つめ合うのが少し恥ずかしくなって、紅葉を見上げるふりをして視線をそらした。しっかりと色づいていて、でもどこか輪郭がかすれているような、そんな幻想的な紅葉。すると数枚の葉が艶やかに、そして軽やかに宙を舞い、私たちを囲むように降ってきた。私はすごく特別な体験をしているような気持ちになった。
「なあ湊くん。なんか私達だけの世界に来たみたい」
「俺たちだけの世界か。あったらいいかもな」
 私の胸はきゅんと踊る。いろんな想像だとか妄想だとかを胸にそっとしまい、少しだけ校門の方へ歩いて湊くんの方へと振り返る。
「あんまり寒いとこおるのもあれやし帰ろっか」
「ちょっと名残惜しいけど帰るか」
 湊くんが小走りで私に追いついて、それから二人で並んで歩き出す。校門を出ると、湊くんはいつもさり気なく車道側を歩いてくれる。私は気づかないふりをして静かにその優しさを受け取る。

「なぁ、本田。ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「よっしゃ、なんでもええよ!」
「そんな張り切ってもらって悪いけど普通の話で、簡潔に言えばバイトのお誘いってことになるんだけど」
「え! 湊くんバイトしてたん!?」
 湊くんの口からバイトの誘いという言葉が出るとはこれっぽっちも思っていなかったから、私はとても驚いた。それなのに湊くんはもう私がそのことを知っているかのような表情をしている。それから、何かを思い出したようにかばんの中を漁り始め、目当ての紙を見つけると、それを私に差し出した。
「先着一名和菓子屋バイト……?」
「うん。毎年こんな感じでチラシ作ってバイトの人探してるんだけど、本田やってみる? ちゃんとバイト代出るから」
「湊くんの家ってお父さん一人でやってるんじゃなかったっけ?」
 私がそう言うと、湊くんはチラシの下の方にある説明書きを指差した。
「毎年十二月の第一日曜日に近所でイベントみたいなのがあって、うちの店もお菓子売ることになってるんだ。それで、簡単な作業だけ手伝ってくれる人を毎年雇ってるってわけ。餅丸めたりするだけなんだけど、来る?」
「行きたい!」
 私は、言ってから気づくほど即座に返事をした。もともとバイトをしてみたかったから、迷う必要がなかった。知っている人の所で、簡単な作業をして、お金をもらえて、湊くんともっと仲良くなれるなんて条件が良すぎると思う。「帰ったらお母さんにもバイトのこと言うとくから、オッケーもらったらまた連絡するな」
「じゃあ俺も本田がやる方向で父さんに言っとく。あ、本田、携帯光ってる」
 湊くんに言われて私はリュックサックを前に持ち直す。私はペットボトルとかを入れておけるようなメッシュのポケットにスマホを入れているのだ。
「湊くん、ちょっとごめんな」
「はいよ」
 ロックを解除して、LINEを開いた私はしばらく固まってしまった。
『最後に会ってちゃんと話さへん?』
 携帯の中身を見ないように少し離れて待っていてくれた湊くんの方を見て、私はスマホをコートのポケットに突っ込む。
「どうかした?」
「ううん、何でもあれへんよ。ただの友達からのLINEやったから」
「ならいいけど……」
 私は、普段なら絶対こんなことしないけれど、湊くんと手を繋いだ。人前で手を繋ぐことに抵抗があったが、それでも湊くんを感じていたくなった。何も知らない湊くんは少し驚いたような、でも少し嬉しそうな表情で歩く。その表情が私を余計に迷わせる。言った方がいいのか、言わないほうがいいのか。返事をすべきか、無視すべきか。こうやって湊くんのそばにいるのに、今は湊くんのことが大好きなのに、健哉くんから連絡が来るような状態でいいのだろうか。何も分からない。もう断ち切ったはずなのに。
 それから駅までは本当にすぐだった。私達はいつも通りバイバイを言って反対方向の電車に乗った。スマホを取り出しても返事など思い浮かぶわけもなく、寂しそうに返信を待つ既読の文字だけをずっと眺めていた。

 お風呂から上がった私はコップに注いだ牛乳とともに自分の部屋へ向かい、スマホを取り出した。いつもは授業の予習と復習をしている時間だが、今日は気分が乗らなくてペンを握る気にはなれなかった。一応勉強机に向かってはいるが、意識はずっとあのLINEにあるし、私の手にはスマホが握られている。夕飯を食べている間、どうしようかとずっと考えていたところ、私は一番身近で一番頼れる人がいたことを思い出した。私はすがるような思いで電話帳からお姉ちゃんの名前を探した。

「もしもし、お姉ちゃん? いま大丈夫?」
「はい、もしもし。……ん、違う違う、妹だよ。あ、ごめんね、真希が電話って珍しいね」
 何回かコールが過ぎてから、電話は繋がった。そしてすぐにお姉ちゃんの声の向こうで男の人の声が聞こえた。きっと今も一緒に過ごしているのだろう。
「うん、どうしても聞いてもらいたいことがあるねん」
「真希も悩める乙女になったのか。ちょっと感心」
「ちょっとお姉ちゃん、私は真剣なんやからな」
「ごめん、ごめん。そんなの真希の声聞いたら分かるよ。で、どうしたの?」
 電話の向こうで足音と扉を閉める音がする。お姉ちゃんはきっと相手の人がいない場所に移動したのだと思う。婚約相手だろうが、ちゃんとプライバシーを守ってくれるところが、お姉ちゃんのしっかりしているところだと思う。
「あのな、最近元カレからLINE来るねん。年末京都に帰る時会おうって内容のやつ」
「おっと、それは予想を超えてきたね」
「私も、思ってもなかった。なんでまだ連絡してくるんかな」
「んー、それは相手がよっぽど真希のこと諦めたくないのか、もしくは真希に原因があるかのどっちかでしょ」
 お姉ちゃんは当たり前であるかのようにそう言ったけれど、私はその言葉を聞いてはっとした。自分に原因があるとはこれまで全く考えてこなかった。そんなことないと思うけれど、絶対かと聞かれるといまいち自信が持てない。
「私に原因あんの……?」
「そう決まったわけじゃないけど。あ、一つ聞きたいんだけどいつ別れたの?」
「高一の二月らへんやけど」
「どっちから?」
 私はその頃の記憶を探り出す。
 一緒の高校に行こうって決めてた私達は、私のお父さんの転勤で引き裂かれた。でも引っ越しても高一の二月までは確かに付き合っていた。
 五百キロも離れた場所同士を結びつけるのは携帯電話だけだった。毎日メールをして、時々長電話をしたりもした。お互い連絡だけは絶対に欠かさないようにしようと約束していたのに、その頻度は少しずつ目に見えて少なくなっていった。そうなっていくことに当時の私はもちろん寂しさを感じていたが、それと同時に少し諦めのような感情も抱いていた。そして引っ越して最初の一年が過ぎようとしていた去年の冬頃にはすでに私の気持ちはどこかに消えようとしていた。その頃から私は数日に一回来るメールに返信を返さないことが多くなっていた。
「どっちからやったかな……。離れていったのは私からやけど、結局自然消滅みたいな感じで終わった気するけど」
「なるほど。もしかしたらそういう別れ方だったからなかなか諦めきれないのかもね」
「でもそんなこと言われても、もう終わったことやのに」
 顔を会わせないと疎遠になっていくというのは、仕方ないけど当然のことなんだなと実感した。どれだけ好きで、どれだけ相手のことを思っていても、気持ちは簡単に変わることを身を持って感じた。
「まあ、女子はすぐ切り替えられるけど、男子は一途だからね」
 お姉ちゃんの言葉に、私は自分が残酷なことしてしまったかのように思えて来る。それでも、好きじゃなくなってしまったからには仕方ないことだと思う。でも、その後の友達としての付き合い方を私は知らなかった。
「これからどうしたらいいんやと思う?」
「とりあえず、そのメールの返信は保留ということで。どうしても返しておきたかったら、彼氏がいるとでも送ったら良いと思うよ」
「んー、なるほど。じゃあ面倒くさいことなったら嫌やし今は放っとくわ」
「わかった。でも、その子との友達関係も、橋本くんとの恋人関係も、最終的に未来を決めるのは真希自身だってこと忘れちゃだめだよ。逃げ出さずに勇気出さなくちゃいけない時もあるかもしれないって覚えといてね」
「うん、ありがとう。それじゃ、また今度」
 私がそう言うと、お姉ちゃんは優しくおやすみと返して、電話が切れた。
 未来を決めるのは私自身……。お姉ちゃんの言葉が心の中で何度も繰り返される。これからの私の行動次第で誰がどんな思いをするか決まる。でも、どうせなら私も湊くんも健哉くんもみんな納得して前に進むほうが良い。だから、同情というわけではもちろんないけれど、私は健哉くんのLINEをブロックして突き放す気にはなれなかった。そして私は、湊くんにはこの話をしばらく秘密にしておこうと思った。

 湊くんの家の近所の商店街では、毎年十二月の第一日曜日に年末に向けた催しが行われる。湊くんの家もお餅や饅頭を売ることになっていて、普段の数倍のお菓子を扱うためどうしても助っ人を呼ぶ必要があった。私は、お母さんの許可ももらい、三日間だけお手伝いさせてをもらうことになったのだ。
「じゃあ急いで湊くんの家行くから。また後で!」
「晩ご飯俺ん家で食べるってちゃんとお母さんとかに伝えといて」
「りょーかい。電車来るから行くわ!」
 私はすでに電車が滑り込んできているホームへと階段を駆け上がる。電車の本数自体はそれなりにあるが、今は五分の待ち時間さえ無駄にしたくなかった。私は閉まりかけたドアに体を挟まれそうになりながら、なんとか電車に乗りこんだ。
 今日は学校が終わった今から夜の十時くらいまで作業して、土曜日である明日は朝から晩までその続きをする。そして私はその流れで、作ったお菓子を売る手伝いをすることになっている。三日間働き詰めのバイトだが、私は微力であっても和菓子作りを手伝えることにとてもわくわくしていた。
 数個の駅を飛ばして、電車は速度を落とし始める。私は床においたかばんを肩にかけてドアに近づく。

 和菓子屋の扉を引くと、ふんわりとした香りとともに湊くんが店の奥から顔を出した。私は湊くんに手招きされるままに、そっと暖簾をくぐった。
「なあ湊くん。私三十分でここまで来られた自分にちょっと可能性感じた!」
「って、なんの可能性だよ」
「牛乳を飲み干してから人の家まで早く行く選手権の日本代表になれる可能性」
「なにそれ。ってか、ほんとに牛乳好きだよな」
「うんうん」
 湊くんと話していると、奥から足音が近づいてきた。その音の聞こえる方に視線を向けると、湊くんのお父さんが手を粉で真っ白になった手を払いながら出てきた。
「おー、真希ちゃん久しぶり」
「こんにちは。二週間ぶりくらいですけど、お久しぶりです」
「ま、とにかく三日間よろしく。結構大変かもしれないけど、ちゃんと飯とバイト代は出すから、頑張ってくれよ」
「はい! よろしくお願いします」
 私がそう言うと、湊くんのお父さんはにこっと笑顔で返事をして厨房の方へと戻っていった。残された湊くんは店のカウンターに置いたエプロンと三角巾を私に差し出す。
「とりあえず、これつけて、手洗って。つけたら始めよっか」
「はいよ!」
 私はエプロンを被って、三角巾をきゅっと結ぶ。そういう一つ一つの布から湊くんの家の匂いがして、私はまた少しだけ湊くんの家族と近づくことができたように感じて少し嬉しくなった。

「よっしゃ、じゃあ真希ちゃん、まずは俺が見本になるから、よーく見といてくれ」
 私はそう言う湊くんのお父さんのごつごつとした手を見つめる。
「まず、大福でも作るか。生地はもう作ってあるから、こうやって真ん中に餡を乗せる。ここは俺と皆とがするから、真希ちゃんにはそれを綺麗に丸めて仕上げる作業をお願いしたい。今日のところはとりあえず五百個だ」
 湊くんのお父さんの手は大きくて日焼けをしていていかにも男らしいって感じなのに、その手から生まれるお菓子はとても繊細だ。優しく生地を持って、ふんわりと両手で丸める。私はその丁寧で心のこもった作業についつい見とれてしまう。そうしてあっという間に五つの大福がトレーに乗せられた。素人目でもわかるほど洗練された手さばきに感動する一方で、私が手伝ってこれと同じものを作れる自信がない。
「本当に私みたいな素人が手伝って大丈夫なんでしょうか」
「ん? あ、そのセリフ毎年聞くけど、みんなちゃんと作れてるから大丈夫、大丈夫。どうしてもうまく作れないんなら、全部下手にしちゃえば、どれが綺麗でどれが汚いかなんて分からないから!」
 湊くんのお父さんはそう言って大声で笑い飛ばした。
「え!? ホンマですか……?」
「冗談、冗談。ちゃんと俺と湊が手伝うから。真希ちゃんは普通に作っていってくれていいから。それじゃあ、早速だけど始めようか」
 私は、湊くんのお父さんから餡を乗せた生地をを受け取る。私はさっき見せてもらったようにそれを優しく大福の形にしていく。
「こんな感じでいいてすか?」
「おー、なかなか上手いな。湊が初めてやった時の十三倍は綺麗だ」
「そんなに俺の大福下手だったのか」
「多分湊の二十七倍は筋が良いんだろうな」
 そう言って湊くんのお父さんは大きな声で笑う。この人はきっと私の四十一倍関西に向いてると思う。

 傍から見れば本当に単純な作業だけど、この仕事にはそうと感じさせない何かがあった。少しだけ休憩を挟みながら、ひたすら大福を丸めた。五時に店のシャッターが閉められ、六時頃からは晩御飯を期待させる良い匂いが厨房の方まで漂ってきた。もう誰も言葉を発することなく手のみを動かし続けた。出来上がった大福を入れるトレーは何段にも積み上がり、おおよそ三百個が仕上がった頃、ご飯ができたことを告げる湊くんのお母さんの声で張り詰めていた空気が一気に解かれたように感じた。
「よし、とりあえず飯食うか。おい湊、手洗うのに洗面所連れて行ってやってくれ」
「ん、わかった。じゃあ本田、ついてきて」
 湊くんのお父さんが白い帽子を外したのを見て、私も三角巾をポケットに突っ込んでエプロンの紐を緩める。
 湊くんの後について家に入ると、美味しそうな肉じゃがの匂いがした。私はその匂いにつられそうになりながら洗面所へと歩く。
「本田お疲れ。和菓子作りどう?」
「思ってたより大変やけど、想像してたよりずっと楽しいで」
「そっかそっか。それは良かった」
 その時、ズボンのポケットに入れてあったスマホが震えた。私は少し嫌な予感がして、湊くんに気づかれないように画面を見つめた。
『これは二人のためやねん』
 私は視線を画面から前方に移し携帯をしまう。もう別れたのに、一体何が残っているというのだろうか。当時の思い出さえ少しずつかすれてきているのに、今更健哉くんが言いたいことの中に私のためになるようなことがあるとは思えない。言いたいことがあるならさっさとLINEで送ればいいものを、どうして会うことにそんなにこだわるのだろうか。何を考えているのか分からなさすぎて嫌悪感さえ感じる。もうこの際、湊くんに言ってしまえば、元カレと密かに連絡を取っているという罪悪感のような後ろめたさくらいからは解かれるのかもしれない。
「なぁ、湊くん」
「どうかした?」
「あのな……。……いや、やっぱなんもない。ごめん」
 いざ言うとなると言葉が詰まる。もし言ってしまえば、どんな理由であれ私の心の中で健哉くんの占める領域が大きくなっていることを知られてしまう。私は返信を返す気も、会う気もないが、ここでLINEをブロックして繋がりを完全に断ち切ってしまうと、向こうが何を言いたかったのかもやもやしたままになると思う。気持ち悪いと感じるところもあるけれど、今の状況で終わってしまうといっそう健哉くんの事が忘れられなくなると思った。いろいろ論理が欠けているような気がするから、湊くんが私の気持ちを納得してくれるか分からない。だから私は急に不安になって、言葉を止めた。言ってしまうと、私達の関係が今のものから変わってしまうような気がして、怖くなった。
 それから私達は特に言葉も交わさずリビングに向かった。私達にしては珍しく気まずかった。いや、単に私の後ろめたい気持ちが私にそう思わせただけだろう。なんとも言えない状況に、少し複雑な気持ちになった。

  食卓はサンマの塩焼きと肉じゃが、きゅうりの酢の物と味噌汁という純和食で彩られていた。みんなでいただきますを言ってみんなでご飯を囲む。私のお父さんは仕事で遅くに帰ってくることが多いから、私は家族そろって晩御飯を食べることが少ない。だから、こうしてみんなでご飯を食べることが、当たり前のことだけどとても嬉しかった。湊くんのお母さんもお父さんも私を受け入れてくれていたようで、私自身居心地が良かったし、湊くんも楽しそうだった。食卓を囲むすべての椅子が人で埋まっているどうか、これが結構大事なんだなって思う。
  晩御飯を食べてからは再び作業に戻った。何百個も大福を丸めてきたから、かなり素早く丁寧に作れるようになってきたと自分に感心する。それから結局一時間足らずで今日の分を作り終えることができた。私は見たこともない数の大福を得意げに眺めた。湊くんのお父さんが生地と餡の量を同じにして、私はそれを丸めるだけだったが、それでもかなりやりがいはあった。時計を見ると、もう九時を回っていた。私はエプロンと三角巾を外して、湊くんのお母さんが運んでくれた手提げかばんを湊くんの部屋に取りに行く。
「本田、今日はお疲れ」
「湊くんもお疲れ様。やっぱり湊くん作るのめっちゃ上手かったなあ」
「一応、何年も手伝ってるからな。そうそう、これ父さんがあげるだって」
 湊くんの部屋に入って電気をつける。振り向くと湊くんの手には缶のりんごジュースが二個。湊くんが一本ひょいと投げるものだから、私は慌てて受け取る。
「おっとっと、ありがとう。んーっと、そうや、湊くんも貰ったんやったら今開けて乾杯しよよ」
「いいかも。あ、ちょっと待ってて」
「どうしたん?」
「ワイングラス持ってこようと思って」
「そこまでしたら私らあほやん」
「こんな時くらいあほになってもいいじゃん。取ってくるからちょっと待ってて」
 そう言うと湊くんは楽しそうに立ち上がり、部屋を出た。
 私は今の間にLINEをもう一度確認しようと、スマホを取り出す。私が早く既読をつけても、あるいはしばらく放っておいても、健哉くんから届くLINEは必ず一日一通だった。画面には健哉くんからのメッセージだけが、返信を乞うように悲しげに表示されている。どうせ何をしても毎日送られてくるなら、試しに返事を返してみてもいいのかもしれない。私は恐る恐る文字を入力する。
『今の私は彼氏がいるから健哉くんとは会えない』
 私は自分の言葉を何度も見返した。短くて、淡白で、それでいて向こうの心を折るだけの威力を持った言葉。少し震える指先を「送信」の文字に近づけようとした時。
「おい湊、そんなもん何に使うんだ」
「別になんでもねえよ!」
 扉の向こう、階段の下から湊くんのお父さんの声が聞こえて私は反射的にスマホをしまった。湊くんが階段を上がってくる足音に隠れて、私はほっと安心のため息をついた。
「本田おまたせー。シャンパングラスならあった。はい、こっち本田の」
「別に私はグラス欲しいなんか言うてないのに」
「まあまあ、気分気分。飲みたくないなら俺が本田のジュース飲もうか?」
「それはあかん! せやったら飲まれる前に、もう入れとく」
 私はプルタブを引いて、りんごジュースをシャンパングラスに入れた。入れてみると、ただの缶ジュースがやけに透き通って輝いているように見えた。
「なかなか良い雰囲気出てない?」
「悔しいけど、確かに。ちょっと美味しそうに見える」
「やっぱり俺、本田の扱い上手くなったと思うな」
 湊くんはそう言ってご機嫌そうにジュースを注ぐ。私はちょっと悔しいような、嬉しいような気持ちになった。
「もう、ほんまに湊くんは……。それじゃ、今日のお仕事お疲れ様ということで乾杯」
「お疲れ様。乾杯」
 グラス同士がカランと澄んだ音でもってぶつかり、淡い琥珀色の水面が揺れる。普通のりんごジュースなのにちょっと特別な感じがした。
 私は慣れない仕事の疲れを癒やすようにぐっとジュースを飲み込む。湊くんを見ると、調子に乗って小指を立てながらグラスを傾けていた。そして、何故かドヤ顔。びっくりするくらいひょうきんで、私はジュースを吹きそうになるのをこらえて飲み込んだ。
「もう、湊くんシャンパングラス持った途端あほになりすぎやわ」
「本田も最後の一口くらいやってみたら? 貴族みたいな気分になれるから」
「何言うてんのよ。貴族のシャンパングラスにはりんごジュースやなくて、牛乳が入ってんねんって」
「それ、本田の好きな飲み物入れただけじゃん」
「夢やって、夢。でも、もしそうやったら今頃世界はもっとええように変わってたんやろなぁ」
「うん、変な方向に変わってたと思う」
 私達は笑いながら残りのジュースを一緒に飲み干した。今度湊くんを私の家に呼ぶことがあれば、ワイングラスに牛乳を入れて出してやろうと思った。

 さすがにこれ以上帰るのが遅くなると、お母さんに叱られそうなので私はおいとまさせてもらうことにした。思い返すとすごく濃い半日だったように思う。湊くんの家にどっぷり浸っていたからか、みんなとすごく仲良くなれたような気がする。明日は朝から晩まで手伝うことになっていて確実に疲れると思うけれど、楽しく働くことができそうだ。
 外に出ると思わず身を縮めてしまうほどに冷たい空気が襟元の隙間から服の下に入り込んできた。あまりに急いでいたから、マフラーも手袋も持ってきていない。私がコートのポケットに手を突っ込んていたとき、湊くんのお父さんは薄そうな作務衣姿で外に出てきた。それでも何ともなさそうな顔をしているから、私は尊敬を超えて恐ろしささえ感じた。
 そんな感じでみんなわざわざ店の前まで出て、私が曲がり角を曲がるまで手を振って見送ってくれた。下町の人情ってこういうことを言うのだろうなと、高校生なりにそう思った。

 いつもバイバイを言って別れて、しばらくすると漠然とした不安を感じる。十秒先でさえ何が起こるか全く分からない、この世界に対しての不安なのだろうか。いや、そんなに大きな話じゃなくて、湊くんとの未来に対してのものだと思う。なぜだろう。私はもっと楽感的な人間のはずなのに、この話題に関してだけは調子が悪い。どうしてだろう。湊くんへの気持ちはずっと一生変わらないって思っているのに。
  私はふと、何か忘れていることがあるような気がしてスマホを開く。そこには案の定、返しかけのメッセージが表示されていた。かなり迷ったが、私から気を逸らしてくれることを期待してそれを送信した。残酷なのかもしれないけど、もう好きじゃなくないし、今は湊くんのことが大好きだから仕方ない。
 そんなことを考えていると、どんなふうに好きじゃなくなって別れたのかをもう一度確認したくなって、やたらと重いトーク履歴をスクロールしていった。流れていくように自然消滅したからか、昔の履歴を消すのさえ忘れていたようだ。
 今見ると馬鹿馬鹿しい会話を当時は本気でしていたことを思うと、あの頃は本当に子供だったなと思う。そんな時、私のある言葉が目に止まった。あまりにも驚いて、しばらくそこから目を離すことができなかった。そして私は今まで感じていた不安がどこから生まれているのか分かったような気がした。
 その言葉が未来の結末を語っているように思える。私はスマホを抱え込むようして俯き、ぎゅっと目を閉じた。
『高校生になっても、大人になっても、その先もずっとずっと大好きやからね!』
 あの頃は本気でそう思っていた。それなのに転校して顔を会わさなくなっただけで簡単に好きな気持ちは消えていった。そして、今の私は、湊くんに対して同じことを思っている。今の好きな気持ちは絶対に無くならないって。私達は他のカップルとは違って死ぬまで一緒にいるんだって。絶対に別れないって。
 二つの事実が私の胸を締め付ける。ずっと大好きって思っていても気持ちは離れていったのに、私は湊くんに対して何を思えばいいのだろうか。どんな気持ちを抱いて、それをどう表現したらいいのだろうか。
 あの頃は自分が子供だなんて微塵も思っていなかった。でも、高校生になった今思うと、中学生の私は子供だった。子供の恋愛をしていた。だから、湊くんを愛している今の自分も大人になって振り返ってみるときっと子供なんだと思う。子供の恋愛をしていたんだって思うのだろう。中学生の時の子供の恋愛は、引っ越してしばらくしてから別れるという結末だった。
 じゃあ、私の今のお付き合いは……。
 五年後の私は、十年後の私は、変わらず湊くんのことを愛していますか……?
 私は窓ガラスの向こうで光る高層ビルを見る。これまでに感じたことのない、大きくて強力な不安が私の胸を締め付ける。
 明日には必ず会うことになるが、湊くんの顔を今すぐ見たい。今すぐ湊くんの胸に飛び込みたい。今すぐにでもこの不安を、ここから連なるたくさんの不安を和らげてほしい。
 好きなのに、大好きなのに、私は未来に怯えてしまっている。付き合っている人との未来に自信を持たなくちゃいけないのに。

 でも、一つだけ分かった。私の不安は健哉くんと別れたという事実から生まれていたのだ。

 イベント当日の朝。流石に今日もエプロンを用意してもらうのは悪い気がしたから、手提げかばんにエプロンと三角巾を突っ込んで家を出た。一昨日の夜に私がメッセージを返してから健哉くんからLINEは届いていない。あの帰り道から、私の気持ちはかなり落ち着いた。今までたくさん不安になってきたけれど、そういう時はいつもすぐにその気持ちは収まる。特に湊くんの顔を見ると。昨日も例のごとく湊くんと話すと、私達はずっと愛し合っていられるんだという自信が生まれた。私は、私の作った幻想に苦しめられていただけだったのだと、今は思う。
 空は冬らしくどこまでも澄みきっている。今の私の気持ちは真っ直ぐだ。不安に思うくらいなら、これからは重たいくらいの愛を湊くんにぶつけてやろうと思った。

 店の前にはワゴン車が止まっていて、湊くんのお父さんがせっせと何かを運んでいる。私はそれを見ると、走って駆けつけた。
「おお、 真希ちゃんおはよう。早速で悪いが車に和菓子乗せるの手伝ってくれ」
「はい!」と返事をしながら私は走って店に入る。店のカウンターにはたくさんのトレイがラップをかけられて並んでいた。
「あら、真希ちゃん、おはよう。ちょっと運ぶの手伝ってくれない? 厨房のお菓子全部出してきてほしいの」
「このまま入って大丈夫ですか?」
「ちょっとくらい大丈夫だから早く早く」
 お母さんに促されるがままに私は厨房に入る。
「湊くん、おはよう。どれ運んだらいい?」
「おはよう本田。とりあえず一昨日の大福移し替えてくれない?」
 湊くんが指差す方には、給食のパンが入れられていたような黄色のトレーが積まれている。私は菜箸を近くの引き出しから取り出す。二日間ずっとここにこもりっぱなしだっから、もうどこに何が直してあるのかある程度分かるようになってきていた。
「なあ湊くん。ここ入れられるだけ入れてもええ?」
「いいけど、大福同士くっつけないように気を付けて」
「はいよー」
 私は大福を傷つけないように移し替えていく。自分でも驚くほどすいすいと作業できるようになっていた。普段、湊くんの家の和菓子には添加物を入れたりはせず、その日作ったものをその日味わってもらうことを基本にしている。ただ、今日のイベントのように大量のお菓子が一度に必要となる時は仕方なく少量の添加物を加え、その旨を箱に記載して販売する。イベントの日は湊くんのお父さんも朝早くから準備と接客にあたるため、当日に作って売ることが難しいのだ。昨日の晩御飯の時、お父さんはそんなことまで教えてくれた。私は雇われてここで働いているわけだけど、それ以上に、温かい心の結びつきが少しずつ形作られてきているような気がして安らかな気持ちになった。

 それから私達は和菓子とか長机とかパイプ椅子とか色んな物を車に積み込んで商店街へ向かった。少しずつ道は細くなっていき、同時に人も増えてきた。下町の台所でもあるこの商店街のイベントは、私の想像以上に賑わうものらしい。
 商店街に着くと、早速荷物をおろして順に机に並べた。周りでは同じように机を用意していたり人や、あるいは商店街に店を持っていて、店前をほうきで掃いている人もいる。みんなが一つの大売り出しに向けて作業していると思うと、昔から続く人同士の結びつきや商売に対する熱意が感じられた。
「それじゃ、金の方は俺と母さんがするから、湊と真希ちゃんはお客さんにお菓子渡してくれ」
「あの、どれが箱で、どれを紙の袋に入れたらいいんですか?」
「あー、そういえば教えてなかったな。ま、湊に聞いて、適当にやってくれ。じゃ、今日一日頑張りますか!」
 湊くんのお父さんはそう言って、一本締めのように大きく手を叩いた。何もかも初めての体験で、すべてが新鮮に思えてとてもわくわくしてきた。
 私と湊くんはお菓子を並べてある方の長机について、お客さんを待つ。周りでも同じようにいろんな物が売られていて、少しずつ商店街に賑わいが出てきた。
 お客さんを待って十分ほど経った頃だった。
「今年も橋本さんのとこ店出してたのね。あら、湊ちゃん久しく見なかったけど、大人っぽくなったわね」
「あ、寺西さん、どうもご無沙汰してます。なんか買いますか?」
 寺西さんと呼ばれたそのおばあちゃんは白髪とメガネがよく似合う小柄な人だった。寺西さんはしばらく悩み、肘にかけた鞄から財布を取り出し和菓子を指差す。
「そうねぇ、じゃあどら焼き三つとこっちの大福も一箱頂こうかしら」
「まいどあり。父さん、どら焼き三つと大福一箱」
「おう。って寺西のばあちゃんじゃねえか。最近顔出してなかったけど元気でやってたのか?」
「当たり前でしょう。私がこの年でくたびれるとでも思っていらっしゃるのかしら」
 寺西さんはお釣りを受け取りながらそう言って笑う。見たところ、湊くんのお父さんと寺西さんはそれなりに親しいらしい。
「本田はそこの紙の袋にどら焼き入れて。大福は俺がやるから」
「はいよ」
 私はトレイのラップを少しだけめくって、どら焼きを袋に詰める。横を見ると湊くんは慣れた手つきで紙の箱を組み立てて順に大福を並べていく。横目で見て何より驚いたのは、一昨日作った大福が全く固くなっていないことだった。味と賞味期限の方は添加物に任せるほかないけれど、柔らかさの方は秘伝のやり方でしばらく最高の状態を保てるらしい。詳しくは教えてくれなかったけれど、湊くんのお父さんはそういう入り込んだ話もしてくれた。
 私は湊くんから大福の箱を受け取り、どら焼きと一緒に紙袋に入れて寺西さんに手渡す。
「ありがとうございました」
「ありがとうね。ところで湊ちゃん、この可愛らしいお嬢さんはどなたかしら?」
 私はどう答えようか迷っている様子の湊くんを横目で見つめる。
「あー、えっと……。そのー、学校の友達です」
「あら、そうなのね。てっきりガールフレンドなのかと思っちゃった。それじゃ、また今度お店の方にも買いに行くからね」
 寺西さんはそう言って私達の店をあとにした。やり取りを全部聞いていた湊くんのお母さんはさっきからずっと微笑んでいる。私は恥ずかしさを紛らわすために、和菓子買って行きませんか、と大きな声でお客さんに呼びかけた。

 みんなで代わる代わるお昼休憩を取って、そのまま午後も続けて働いた。机の上の和菓子は着実に減っていって、私達の後ろには空のトレーが何重にも積み重ねられていた。接客の仕事も少しずつそれらしくなってきた頃、トレーの整理をしていた私は誰かに背中を突っつかれて、反射的に振り返った。
「やっほー、真希。ちゃんと働いてるか見に来たよ」
「え! きゅーちゃん! こんなとこまでどうしたん!?」
「こんなとこも何も、私の家そこなんだけど」
「そこってこの近くなん?」
「近くっていうか、今真希の目の前に見えてる漬物屋。私のひいばあちゃんが漬けてるの」
 私はゆっくりと漬物屋に視線を向ける。朝早くから全くお客さんが絶えることがなかった店だ。それよりも、もっと突っ込みたいことが。
「なぁ、きゅーちゃん。きゅーちゃんの家は漬物屋なんやろ?」
「だから、そう言ってるじゃん」
「きゅーちゃん……。漬物屋……」
 ちっちゃいきゅーちゃん、もろきゅうのきゅーちゃん、漬物屋のきゅーちゃん。私は思わず吹き出してしまった。
「ちょっと真希! 何考えてるのか私には分かってるんだからなー!」
「いや、だってさ、漬物屋のきゅーちゃんって……面白すぎるわ」
 全然笑いが止まらない。そして、私はついついいつもの癖できゅーちゃんの頭を撫でてしまう。
「ちょ、真希! 撫でるな! 私の五センチを返せ!」
「気にしたらあかんって」
 私がそう言うと、きゅーちゃんは身長、身長と言いながら私をぐらぐら揺らした。本当に良いキャラしてるな、と思った私は、そのことを言葉ではなく行動で伝えようと今度はきゅーちゃんの額を撫でる。
「やめろー! 前髪はげる!」
「ほんとお前は昔から声でかいよな。これでも食って静かになれ」
 湊くんはトレイからお手頃な大福をひょいと取り出して、それをきゅーちゃんの口の前に突きつけた。それに気づいたきゅーちゃんは大きく口を開けてがぶっとかぶりついた。私は湊くんの突然の行動に、あからさまに驚いてしまった。
「え? 湊くん、何やってんの……?」
「もう、彼女の前でこんなことしちゃだめじゃん」
「違う違う! 本田、これはそういうのじゃないから! 単純に俺ら、物心ついた時からの幼馴染ってだけだから」
 私は湊くんときゅーちゃんを交互に見つめる。
「って、橋本は真希にこのこと言ってなかったの?」
「別に自分から言うことでもないだろ?」
 確かに、ときゅーちゃんと湊くんは二人の間で何か納得したように頷き合った。私は湊くんときゅーちゃんが幼馴染であったことを初めて知った。そう分かった今でも、湊くんの行動に対する驚きで鼓動が早い。そんな中、私がかなり焦っていたことに気づいていない様子のきゅーちゃんは、ポケットから小銭を取り出して、湊くんのお父さんの元へ歩いていった。
「おっちゃん、お金払う前に食べちゃってごめんなさい」
「全く、何回目だよ。まあ、それはどうでもいいけど、久しぶりにおばあの漬物食いてえな。漬物と大福一箱交換してくれたら、さっきのやつもついでにチャラにしてやるけど、どうだ?」
「じゃあ、行ってきます!」
 きゅーちゃんはそう言うと走ってお店に戻り、レジにいたお母さんらしき人と何かを話すとすぐにビニール袋を提げて帰ってきた。
「お母さんがオッケーしてくれました! 」
「お、ありがとな。おばあにも伝えといてくれ。湊、ということで大福一箱」
 湊くんは、へーいと答えてせっせと大福を詰める。
「また美味しい和菓子食べさせてくださいね!」
 きゅーちゃんはいつも通り、元気よくそう言った。本当に明るくて、毎日が楽しそうで、そういうところが可愛くて大好きだ。

 それから二時間ほど働いたところで、木琴か何かで弾むように演奏された「ふるさと」が流れてきた。もう何十年も前から使われているような、古めかしい音色だった。湊くんのお父さんを含め、周りの様々な店が片付けを始めて商店街のイベントは終わっていった。イベントが終わってもしばらくは、空気に残る活気が余韻に変わって、疲れたけれどまだもう少し働いていたいような気持ちになった。

「ねえ、真希」
 私もトレイを重ねて車に運び終わった時、聞き慣れた声がして後ろから服を引っ張られた。振り返ると、先ほどとは真反対で暗い顔をしているきゅーちゃんがいた。
「きゅーちゃん、どうしたん?」
「ちょっと来て」
 きゅーちゃんはそう短く言うと、一層強い力で私の服を手繰り寄せた。
「え、でも」
 いくら片付けが終わったとはいえバイトの身が一人だけ勝手な行動をするわけにもいかず、私はそう答えた。すると、湊くんのお父さんが「別に片付け終わったから、ちょっとだけなら好きなとこ行ってきてもいいけどな」と、予想とは異なる言葉をかけてくれた。
「おっちゃんもそう言ってるし、来て」
 きゅーちゃんは返事も待たず、私の手を引っ張って走りだした。私は、普段のきゅーちゃんからは想像できないほどの強い力に驚きながらも、されるがままについて行くことしかできなかった。これから何が起こるのか期待もあったが、全く見当がつかなくて少しだけ怖く思う。片付けをする人の間をすり抜け、脇の小さい道に出て、どんどん商店街から離れていく。
「なあ、きゅーちゃん。どこ行く気なん?」
 私がそう聞いてもきゅーちゃんは何も答えない。それでもきゅーちゃんは必死に走り続けるものだから、これから何をされるのかと私の中でだんだん不安な気持ちが大きくなってきた。そしてきゅーちゃんはまた道を曲がった。その先が行き止まりだと分かった時、私達はどちらからとなく自然と走るのを止めた。

「きゅーちゃん、どうしたん?」
 私がそう聞いてもきゅーちゃんはまた何も答えない。それから私の手を放してとぼとぼと歩いたと思うと、きゅーちゃんは突き当りの塀にもたれかかって下を向いた。
「ねぇ、真希。どうしようもなく辛い時ってどうしたらいいと思う?」
 きゅーちゃんの声が、先ほどとは桁違いに暗い。私はきゅーちゃんの様子を伺うようにゆっくりと答えた。
「なんか辛いことあったん?」
「……全部終わった」
「えっと、何のことかあんまり良く分からへんねけど」
「だから全部終わったの。はぁ、なんでこんなことになっちゃったんだろな。……私は本気で好きだったのに」
 弱々しいきゅーちゃんの言葉で私は何が起こったのか察してしまった。そして私は、自分のことでもないのに急に悲しい気持ちになった。
「私らさ、本当なら次の水曜日で四年目だったんだ。その日は私の家で一緒にご飯食べようって話になっててさ……」
 きゅーちゃんはポケットからくしゃくしゃになった便箋を取り出した。「航太へ」と大きく書かれたその上に、きゅーちゃんの涙がぼろぼろと落ちる。
「でも昨日、別れようってLINEが来てさ、私が電話しても出てくれなかった。結局、他に好きな人ができたって、それだけLINEで送られてきて……。私は航太のことだけずっと見てきたのに。一緒に大人になろうって決めてたのに。嫌だ、嫌だ、嫌だ! 離れたくない! 他の人のところになんて行ってほしくない!」
 きゅーちゃんは手紙に顔を押し当てて泣き叫んだ。苦しくて、悲しくて、痛くて。喘ぐように泣く姿に、私は胸を締め付けられような思いになる。かけられる言葉なんて無かったから私はきゅーちゃんを力いっぱい抱きしめた。気付けば私も泣いていた。

 私達はしばらくそのまま抱きしめあった。聞こえるのはきゅーちゃんの泣く声だけ。それでも、きゅーちゃんの気持ちが驚くほど強く伝わってきた。
「どうしよ真希。涙全然止まらないや……」
「別に無理に止めやんでええやん。止まるまで泣こよ」
「ありがと真希……。私、さっき橋本の前で辛いのにいつも通りにするのが一番しんどかった。心の中の空っぽの部分が叫んでた。でも、真希とこうしてぎゅってしてたら、真希の優しさが傷を覆ってくれてるみたいでちょっとだけ痛くなくなった」
 それでもきゅーちゃんは喘ぐように泣き声を上げる。少しでもきゅーちゃんの傷を優しく覆ってあげることができたら、と思い私はいっそう強く抱きしめた。
「きゅーちゃんは、本当に航太くんが好きやったんやね」
「勝手に過去のことにしないでよ。振られた今でも、私は航太のことが大好きなんだから……」
 きゅーちゃんはそう言ってまた涙を拭った。私は何気ない自分の一言がふとした瞬間に相手を傷つけることを知り、きゅっと口をつぐんだ。
「私これからどうしたらいいんだろ。私の気持ちはずっと続いているのにさ、もうどこにもやり場なんてないし。ねえ真希、やっぱり私は諦めなきゃいけないの?」
「別に今は……」
「お願い、答えて。真希がうんって言ってくれたら私頑張って諦められそうな気がするから」
 こんな時に「うん」なんて言えるはずがなかった。それに好きって気持ちはそんな簡単に諦められるものでもない。
「本当は自分でも分かってるんだ。お付き合いは二人の気持ちがあって初めて成り立つものだって。だから航太が他の人を好きになった今、どれだけしんどくても私は航太のこと諦めなきゃいけないんだって。そう分かってる。ねえ、真希。うんって言って」
「私は、そんなにすぐ諦めやんでもいいと思う」
「なんで」
「だってさ……」
 いざ考えると理由が見つからない。考えても分からない。私は高校に入ってすでに一回別れを経験しているはずなのに。
 ……違う。私は振られた方じゃなくて、振った方だったんだ。今まで振られた側の気持ちなんてまともに考えたこともなかった。でも、もし健哉くんもこんな風に痛みを和らげようと必死だったとしたら。LINEでの自然消滅という中途半端な終わり方に心をえぐり取られていたとしたら。好きじゃなくなったから仕方ないのだけれども、どうしてあの時の私は電話すらしてあげなかったのだろうか。こういうことは自分の声に乗せて伝えなきゃいけないことを、私はこの瞬間に痛いくらい叩きこまれた。
「なあ、きゅーちゃん。どうしても諦めやな辛いって言うんやったら、やっぱり航太くんと直接話した方が良いと思うねん」
「直接……。でも会ってくれるかな」
「きゅーちゃんが四年間愛し続けた人なんやろ? どんな人か私は知らんけど、そんな人やったら絶対会ってくれるって」
「そういえば、航太、四年付き合っててもずっと優しかったな」
 きゅーちゃんは遠くを見るような目でそう言った。今この瞬間も、きゅーちゃんと航太くんの思い出は過去の物になり、どんどん遠ざかっていっているのだ。きっとこのことはきゅーちゃんがいちばん感じているはずだ。もう二度と二人の話を現在形で語ることができなくなった現実に、逃げ出したいくらい辛い思いをしているのはきゅーちゃんなんだ。私はきゅーちゃんをもう一度強く抱きしめた。
「体って便利やと思わへん?」
「どういうこと……?」
「きゅーちゃんのこと全然慰めてあげられへんけど、こうやって抱きしめてたら私がきゅーちゃんのこと大事に思ってることくらいは伝わるやん」
「うん。ちゃんと伝わってるよ」
 きゅーちゃんも私の背中に強く手を回した。
「あのね真希。私、辛いけど、会ってこようかな」
「うん、そうしたらええと思うよ。言い残して後悔するのはもっと辛いと思うしさ」
「真希、ほんとにありがと」
 きゅーちゃんはそう言って最後にもう一度大きな声で泣き喚いた。頭では諦めようと思っているのに、それでもなお心は航太くんを想い続けている。残酷すぎる現実に、きゅーちゃんの心が泣いていた。

 私は現実を思い知らされたような気がする。どれだけ仲が良くても別れは突然訪れるものだし、いざそうなってしまうと、もう取り返しがつかない。四年付き合っていて、色んな思い出をたくさん作っただろうに、別れの際は数行のLINEなのだ。想像以上にカップルという関係は脆くて、綻びを繕うことなんてできないものだということが分かった。
 そんなふうに考えてしまうと、やっぱり未来は怖い。私と湊くんがずっと一緒にいられるかどうかなんて、これっぽっちも定かではないのだから。もちろんずっと一緒にいたいけれど、天の運命に逆らうことなんてできない。
 だから、私は、湊くんとの縁を信じる他なかった。他人の破局が、人事には思えなかった。

 湊くんの家ですき焼きを食べさせてもらって、もう帰るという時。私は店先で湊くんと話し込んでいた。帰ろうと思うけれど、余韻で心の中がいっぱいで、やっぱりまだ帰りたくなかった。
 仕事が終わった達成感というか、冬の夜空の虚しさというか、今の私はとても複雑な気持ちだった。一昨日は私が不安になる原因が分かり、今日はきゅーちゃんが別れたことを知った。四年も付き合っていたのに別れるときは呆気無くて、好きという気持ちは私の思っている以上に脆いんだなと分かった。でも、私の場合はそんな脆い感情である割に昔の好きという気持ちが未だに不安という形で心の中に残っている。色んな事が起こって、色んな事を思って、今の私はなんとも言えない気持ちになっていた。
「本田どうかした? そんなに明日からの学校嫌?」
 湊くんにそう言われて私は慌てて首を振る。どうやら私はいろんなことを考えると難しい顔をしてしまっているようだ。
「ううん、そんなんやなくてな。ただ、色んなこと学んだなーって思ってただけ」
「まあ俺にとっては家の手伝いだったけど、本田にとっては初めてのバイトだったんだもんな」
「んー、それもあるけど、もっと深いことも学べた気がする」
 湊くんはふーんと言いながらも、何のことか知りたそうな顔をしている。私はそれに気づいていないふりをして、それ以上は何も言わなかった。
「じゃ、私そろそろ帰るわ。三日間ありがとうな。ほんまに湊くんに助けられっぱなしやったわ」
「うん、こちらこそ。本田が来てくれて嬉しかった」
「私も湊くんと一緒やったし、めっちゃ楽しかった。じゃあまた明日」
 私達は向い合って手を振り合いながら、そっと手のひらをくっつけた。それだけなのに、魔法にかかったみたいに幸せな気持ちになれた。
  それから私は道を曲がるまでの間、何回も湊くんの方を向いては手を振った。寒い中、湊くんもずっと店の前で私を見送ってくれた。時折強く吹く風にどこからか落ち葉が運ばれてくる。私の前を通ったそれは、そのまま隣を流れる小川へと落ちていった。そしてすぐに石橋の影に入って、急に姿を消してしまったかのように見えなくなった。

「ただいまー」
「おかえり。あ、ちゃんと手洗いや」
 お母さんは机に広げた広告を見ながらそう言った。私は何を見てるのか気になって、わざと近くを通る。
「何それ、不動産?」
「ああ、これはな。今朝届いとって、暇やさかい見てたんよ」
「ふーん。あ、私このままお風呂入るわ」
 どういうわけか机には不動産の広告ばかり広げてあった。それもコピー用紙に印刷したようなものばかり。ただ、それ以上の何かがあるわけでもなかったから、私はそのままお風呂場へ向かった。今日もお父さんは仕事でいない。

 肩までお湯に浸かると、本当に三日間のバイトが終わったんだなと思う。達成感と充実感とそれから少しの喪失感。大変だったけど、いざ終わってみるとやっぱり少し寂しく感じる。
 明日からはまたいつも通りの毎日が始まる。きゅーちゃんは明日学校に来るのだろうか。私でさえまぶたが腫れているのに、あれだけ泣いたきゅーちゃんはきっとすごいことになっているのだろう。
 そして、私は初めて、大好きな人に振られた人の気持ちを真剣に考えた。もし、健哉くんが、私にうんと言わせようとしたきゅーちゃんと同じ想いを持って私と会おうとしているならば、ちゃんと最後に会って話した方がお互いのためになるのかもしれない。ただ、健哉くんからのLINEはあれ以来届いていない。もしかすると、今の私に彼氏がいることを知って諦めてくれたのかもしれない。ただ、それを知る由などどこにもないから、私は再びLINEが来るまでしばらく待とうと思った。

 十二月中旬、二学期の期末テスト、最終日、最終教科が終わった教室はいつもの数倍も明るい話し声で満たされていた。私はきゅーちゃんの机に駆け寄った。
「なあ、きゅーちゃん! 約束通り三人でお昼ご飯食べに行こ」
「だから、頭撫でるな。って、美保どこいったの?」
「提出物出してへんから職員室行くって言うてたで」
「そうなんだ。じゃあ、私たちも職員室行ってみるか。……って、真希。それ以上撫でたら私本気で怒るからな」
 ごめん、ごめん、と私はきゅーちゃんの肩をぽんぽんと叩く。きゅーちゃんが航太くんと別れて二週間、きゅーちゃんは少しずついつも通りに戻ってきている。

 職員室までの道のりは想像以上に険しかった。テストを終えた喜びを大声とノリで表す野球部が廊下を占領していたり、大量に積み上げられたノートが崩落して何故か拾うのを手伝わされたり。やっとの思いでたどり着くと、そこには長蛇の列。そして私はその列に飲まれて、抜け出せないでいる美保を見つけた。どうやら列が速く進む上に、他の人のエナメルバッグが邪魔をして身動きが取れないらしい。
「美保、そっから出られへんの?」
「あ、りーちゃん。助けて。美保一方通行だったの気づかなくて」
「ちょっと待って。それって、列に乗って一回職員室入ったらいいんとちゃうん? もう片方の扉から出てこれそうやし」
「あ、そっか。りーちゃん頭いいね」
 なるほど、なるほど、と美保は呟きながら職員室に入る。
「あ、美保。昇降口集合やから!」
「うんー」

 外に出るとすぐに冷たい風が首元に入り込んできた。私はマフラーを巻き直しながら美保ときゅーちゃんを待つ。この間まで綺麗に葉を色付かせていたイチョウも紅葉も枝だけの寒そうな姿になっていた。
「おまたせ。美保まだ来てないの?」
「あー、もしかしてまたさっきみたいになってるんかな」
「かもね」
「これは三分コースかもしれへんで」
「いや、私は五分だと思うな。って、あれ。美保もうあそこにいるじゃん」
 きゅーちゃんに言われて見ると、美保は小走りで私達の元へ来ていた。でも、隣を歩く人とほとんどスピードが変わらない。私ときゅーちゃんは顔を見合わせて笑ってから美保の方へと歩いていく。
「美保、歩いてるのと変わらないじゃん」
「あれ? 美保はけっこう頑張ったつもりだったんだけど」
「今ので!? ……あれ? そういえば、美保メガネ変えた?」
「わー、きゅーちゃん気づいてくれた!」
 美保はそう言うと、嬉しそうにきゅーちゃんとハイタッチをした。きゅーちゃんは元気な子で、美保はどちらかというとおとなしい子。二人は去年のクラスが一緒だったようで、全然タイプが違うのにとても仲が良い。唯一の共通点といえば二人共小さめということくらいだろうか。
「なあなあ、ちっちゃいものクラブのお二人さん。どこ食べに行く?」
「ちっちゃいものクラブ言うな。じゃあ、私びっくりドンキー」
「美保は別に小さくても気にしてないけど。あ、美保サイゼリヤがいい」
「私はガストがええと思う。ということで見事に分かれたからじゃんけんで決めよか。じゃあいくでー。じゃんけんホイ!」
 私達はお互いの手を見て一瞬無言になる。大事な昼ごはんがかかった勝負は美保の一人勝ちで幕を閉じた。
「あ、美保勝っちゃった。じゃあサイゼリヤで。あそこのピザ美味しいんだよね」
 美保は嬉しそうにスキップしながら鼻歌を歌ったりしている。テスト終わりの学校は解放感で溢れている。

「きゅーちゃん。りーちゃん。語りっちしない?」
 注文した料理を一通り食べ終えた頃、美保は突然そう言った。
「語りっちか。私は身長の話題以外ならしてもいいと思うな」
「りーちゃんは? どう? 語りっち」
「ちょっと待って。語りっちって何なん!?」
「あれ、真希知らないんだ。まぁ、普通にみんなで色んな事について語り合うこと。大体は恋バナなんだけどね」
 私はきゅーちゃんの口から恋バナという言葉が出てきてどきっとした。でもきゅーちゃんは、 語りっちしようよ、なんて言うものだから、私は私だけが敏感になり過ぎているのだなと気付いた。
「じゃあ、私もしてみよかな」
「オッケー。それじゃあ、始めよー。美保は将来の話しまーす。美保ね、将来保育士さんになりたくて大学もそういう所に行こうって決めてて、それなりの覚悟もあるんだ。でも、りーちゃんやきゅーちゃんとは確実に違うところに行くわけだから、やっぱりすごく寂しくて。どうしたら自分の道を突き進めると思う?」
 私は美保のセンチメンタルな一面を初めて垣間見た。わざわざ自分から語りっちを持ちかけて話すということは、美保はこのことでずっと悩んできたのだろう。
「私もそう思う時よくあるな。いつかみんなと離れなきゃいけないって思うとすごく悲しくなる。でも、離れても会えないわけじゃないし、美保が良ければ私はいつでも会いに行くよ」
 私がいろいろ考えていると、きゅーちゃんは優しい笑顔でそう言った。
「私も美保ときゅーちゃんとはいつまでも親友でいたいしさ、大学行ってもこうやって一緒にご飯食べに行ったりしようよ」
「きゅーちゃん……。りーちゃん……。私たち大きくなっても友達だよね?」
「当たり前じゃん。私らが離れるのは死ぬ時か小惑星が降ってきたときだけだから大丈夫だって」
 私もきゅーちゃんと考えていることは同じだけど、小惑星の方はよく分からない。天然なのか、わざとなのか分からないけど、おもしろい子であることは確かだ。
「じゃ、次私ね。私みんなに聞きたいことがあるんだ」
 きゅーちゃんはそう言って鞄から鉛筆とメモ帳を取り出した。
「好きってさ、なんだと思う?」
 私はきゅーちゃんの唐突な質問にびくっと体ごと反応してしまった。
「えっと、きゅーちゃん……? そういう話しても大丈夫なん?」
 そう聞きながら、私は横目で美保を見た。別れた話は美保も知っている。だから、私と同じことを思っているだろうか、心配そうにきゅーちゃんを見つめている。
「あ、そういえば言ってなかったな。私ね、あの泣いた日の晩に航太の家行って、寝る直前まで二人でずっと話してたんだ。喧嘩したこととかは忘れちゃってたのに、綺麗な思い出だけはちゃんと覚えてて。結局状況は変わらなかったんだけど、直接面と向かって別れようって言われて、私もちゃんと切り替えなきゃって思えたから……。うん、だから、私はもう大丈夫かな」
 そう言うけれど、きゅーちゃんの表情はどこか上の空で寂しそうに見えた。
「そうやったんか……。きゅーちゃん、ほんまに強いわ」
 私だったら二週間でここまで立ち直ることはできないと思う。
「うんうん。ほんとに。美保だったらくじけちゃってそうだもん」
「みんな私のこと持ち上げすぎだって。そんなのいつまでも好きだったら航太も困るじゃん」
 きゅーちゃんは昔の笑い話のように、懐かしむように笑いながらそう言った。それからジュースを一口飲んで、澄み切ったような、それでいてどこか陰りのあるような表情を見せた。
「きゅーちゃんさ、やっぱりまだ気持ち残ってるやんな?」
 私は決してきゅーちゃんの心の傷をえぐり返すことのないように慎重に聞く。
「それはもちろん。まだ半分は残ってると思う。でも、私もう航太のことで泣いたりしないと思うな。それで、まず、真希は好きってなんだと思う?」
 考えてみると、これはどこにも答えがない問題だ。そしてきゅーちゃんは私なりの答えを求めている。だから私は、私が湊くんに対して思うことを素直に言葉にしようと決めた。
「私は……好きっていうのは心の声やと思うねん」
「ほぉ、心の声か」
 きゅーちゃんはそう相槌を打ってメモ帳を開く。
「りーちゃん小説家みたいだね」
「どっちかというと美保の方がそういうタイプやん。で、それは置いといて。私は、好きっていうのは頭の中で生まれてるんやなくて、心が誰かを好きって叫んでるんやないかなって思うねん」
「りーちゃんかっこいいわー」
 美保が頬に手を当ててそんなことを言っている中、きゅーちゃんは黙ってメモ帳に書き込んでいる。
「きゅーちゃん……? 何書いてるん?」
「真希が言ったこと。私は放っといてくれていいから、まだあるなら続けてほしいな」
「あ、うん。それでな、心は好きって言うてるのに頭ではもう嫌って決めつけて別れるからみんな辛いんやないかなって。私は体の距離がそんな離れてなかったら、よっぽどのこと無い限り好きやなくなることなんかないと思うねん。それでもたくさんの人が別れていくのは、心の叫び声を抑え込んで頭で考えてるからとちゃうかなって思ったりする」
 私は一般論のように言ったものの、本当はきゅーちゃんただ一人に向けてそう言った。
 私は、今でも航太くんの心はどこかできゅーちゃんを求めているのではないかと本気で思っている。ちょっと良いなと思う人が出てきて、頭が勝手にその人のことを一番好きだと思い込んでいるだけではないかと。でも、航太くんのことを四年もそばで見てきたきゅーちゃんに、無関係である私がこのような勝手な考察を伝えるのはあまりに無責任に思えた。それでも伝えたかったから、遠まわしに思いを届けた。
 きゅーちゃんは真剣に鉛筆を動かしている。私の考えていることがそのまま全部きゅーちゃんに伝わっていればいいのにと思った。
 
「じゃあ、美保にとっての好きって何?」
 きゅーちゃんはメモ帳のページをめくりながら聞いた。
「うーん……。美保は、好きっていうはその人とならキスの先のことしてもいいって思えることだと思うよ」
 私は美保の口から飛び出した強烈な言葉に、思わずジュースを吹きそうになった。
「ちょっと! 急に何言うてるん!」
「だって、あんなこと大好きじゃなかったら絶対できないでしょ?」
「確かにそうやけどさ……」
 きゅーちゃんはきゅーちゃんで、また真面目にメモをとっている。
「ちょっと、きゅーちゃん。それはメモ取らんでもよくない?」
「いや、私は何だって吸収するタイプだから」
「ちょっと美保、きゅーちゃんがそういう色に染まったらどうすんの」
 美保は、全くおかしいことなど言っていないと主張するようにえへへっと笑ってみせた。
「美保の言い方が悪かったのかな。結局美保が言いたいのは、好きだったらその人と痛みでも恐怖でも何でも乗り越えられるんじゃないかなってこと。だから、そう思えるのが好きって気持ちじゃないかなって考えてみたよ。そこでたまたま例に出したのが……」
「それ以上言わんでええから!」
 美保の突然の発言に慌てたり驚いたりして私は無駄に疲れてしまった。コップに半分ほど残っていたジュースを飲み干して、それでもまだ喉が乾いていたから席を立った。
「あ、私もジュース入れに行こうかな」
「きゅーちゃんのも一緒に入れてこよか?」
「大丈夫、大丈夫。私、氷入れなかったり、ジュース混ぜてお気に入りのやつ作ったり、注文多いからさ」
「そうなんや。って、きゅーちゃんらしいな」
 店内にはうちの学校の生徒を含め、これでもかというほど多くの高校生で埋め尽くされていた。公立高校はテストの日程が統一されている上、このあたりは高校が密集しているのだ。うちの学校は進学校だけど、テストが終わるとみんな気晴らしに遊びに行く。湊くんも今頃内村くんや坂上くんと遊んでいたりするのかなと少しだけ思いを馳せてみたりする。
「きゅーちゃん、先行くで。って何やってんの」
 きゅーちゃんは美保に抱きつかれていて、ソファ席から抜け出せなくなっていた。
「ちょっと待って、美保が離してくれない!」
「きゅーちゃん柔らかいね」
 美保はきゅーちゃんに頬を擦り付けながら、そんなことを言ったりしている。
「柔らかいとか言うな!」
「もうあんたらどんだけ愛し合ってるん」
「こんなの完全に一方的じゃん! 美保ー! 離してー!」
 仲良しで、いつも通りの光景に自然と頬が緩む。しばらく捕まっているだろうから、私は笑顔だけ残してドリンクバーへ向かった。

 私がジュースを入れ終わった時、きゅーちゃんはようやく美保から解放されたらしく、どれを混ぜようかなんて呟きながらやってきた。
「ほんまに混ぜるん?」
「私こういうの好きだから」
 よし決めた、と言ってカルピスとジンジャーエールを半分ずつコップに入れた。きゅーちゃんは何においてもこだわりが強いから何も言わないでおくけれど、その絵の具の溶き汁みたいなジュースを私は決して美味しそうだとは思わなかった。
「さ、上手くできたし戻ろ」
 きゅーちゃんはご機嫌そうに前を歩く。私は適当な考え事でもしながら、とてとて歩くきゅーちゃについていく。

 ガシャン! とガラスが割れる音が店内に響いた。私ははじめ厨房で皿洗いの人がお皿を割ったのかなと思った。でも、それはすぐに違うと分かった。目の前に飛び散るガラスの破片、そして棒立ちのまま動かないきゅーちゃんが目に飛び込んだから。
「お客様! お怪我はありませんか!?」
 店の人が走ってきゅーちゃんのもとへと駆けつけた。周りの席の人が皆、私達の方を見る。
「きゅーちゃん、大丈夫?」
 きゅーちゃんはぼんやりとしていて何も答えない。
「りーちゃん! きゅーちゃん! 何かあったの!?」
 音を聞いたのであろう、美保も心配した様子でやってきた。
「きゅーちゃんがコップ落としてもうてん」
「怪我してない?」
「たぶん、大丈夫やと思うけど」
「お客様。こちらは私共で片付けさせて頂きますので先にお席の方へお戻り下さい」
 いつの間にか店員は三人に増えていて、それぞれがガラスを拾い集めたり、床を拭いたり忙しそうだった。どうせできることが何もないなら、ここにいるより戻ったほうが片付けの邪魔にならないような気がした。
「すいません、ありがとうございます。ほら、きゅーちゃん。割ったもんは直らんし、戻ろよ」
 私は背中をぽんぽんと叩いて、そう促した。それでも、きゅーちゃんは動かない。いや、きゅーちゃんは震えていた。
「りーちゃん、きゅーちゃん、戻ろうよ」
 割れたコップの向こう側から美保も催促する。
「ごめん、美保。そっちから先戻っといて。私らあっちから回って戻るから」
 何か嫌な予感がする。私はきゅーちゃんの顔を覗きこんだ。そして気づいた。
 きゅーちゃんはぼんやりしていたのではない。虚ろで悲しそうな目で、目の前の二人組を確かな意思を持って見ていた。一人はどこにでもいる感じの男の子。もう一人は男の子にピッタリくっついている今風の女の子。二人はカップルのようで、周りに人がたくさんいるにも関わらずポテトを食べさせあったりしていた。でも、ありふれたと言えば悪い気もするが、そんなカップルのことを、どうしてきゅーちゃんがずっと見ているのか分からなかった。
「きゅーちゃん、戻ろっか」
 私はきゅーちゃんの手を引こうとした。でも、きゅーちゃんは無言で私の手を振り払った。こんなことをされるのは初めてだったから、私の心の中で驚きと困惑が渦巻いた。何か言葉をかけようと思ったけれど、今のきゅーちゃんには何も届かない気がする。どうしようかと考えを巡らせていた時、ポテトの女の子がふと言った。
「ねえ、航太。あの子達さっきからあたし達のこと睨んでない?」
 そんなはずない、と思った。たまたま名前が同じだけの別人だ、とも思った。でもきゅーちゃんの頬を涙が流れて、そしてそれが全てを物語っていた。
「誰だよ、あいつら。ってか、そんなの放っとけって。俺達がラブラブで羨ましいんだろ」
「あ、そっか! やっぱりあたし達世界一愛し合ってるもんね!」
 ポテトの二人組はこっちに見向きもせず、腕を組み合った。それから、見つめ合って、指を絡め、互いの背中に腕を回す。まだ、あれから二週間しか経っていないのに。私は言葉を失ってしまった。
「真希……。こんなことなら始めから好きになんてならなくちゃ良かった……」
 この上なく残酷な現実に、きゅーちゃんの心が悲鳴を上げているのが伝わってきた。
 私は、頭に流れる血が熱くなってきたのを感じた。でも、こんなところでその怒りをぶつけても、もう何も良い方向には動かない。私はきゅーちゃんを抱きかかえるようにして、席に連れて帰った。いろんな人がこっちを見てきたけれど、そんなことを気にしている場合ではない。
「遅かったんだね……って、きゅーちゃん何があったの!?」
 きゅーちゃんはソファに座ると同時に机に突っ伏した。声は上げていないものの、過呼吸気味に荒く息をしている。
「好きにならなかったら、こんな悲しい思いしなくて良かったんだ」
 きゅーちゃんは低い声で暗くそう言った。
「りーちゃん、きゅーちゃんどうしたの?」
 美保は気遣うように、机に身を乗り出して小さな声で私に聞いた。
「えっとな……。きゅーちゃん、美保に言うてもいい?」
「美保なら別にいい」
「そのな、きゅーちゃんの元カレが新しい彼女とおって……」
「新しい彼女? まだ別れてから二週間くらいだよね?」
「せやけど、かなりイチャイチャしてたから彼女なんやと思う」
 美保はうーんと唸って、それから「それは美保でも引いちゃう」とだけ言った。四年の付き合いは、たった二週間で跡形もなく新たな恋へと切り替えられてしまうものなのだろうか。どうして好きって気持ちはこんなにも壊れやすくて、新しく築きやすいのだろうか。

  少しして、きゅーちゃんは悲しさを溜め込みすぎて重くなった体をゆっくりと起こした。
「また迷惑かけちゃった。ごめん」
「謝らんでいいから。それよりきゅーちゃんほんまに大丈夫?」
「うん。って、泣かないって決めてたのにまた泣いちゃったな」
 きゅーちゃんは目をごしごしと袖で拭いた。
「あー。ほんとに何もかも終わったな。元に戻れる可能性も無くなったし。みんなからいろんな好きの正体聞いて、航太に伝えたら私への好きを取り戻してくれるかな、とか思った私が馬鹿だった」
 机の上で開きっぱなしになっているメモ帳に目をやった。そこには私と美保以外にもたくさんの人に同じことを聞いて回った跡が残っていた。それにざっと目を通すと、ひとつだけ明らかに欠けていることがあることに気づいた。
「あのさ、きゅーちゃん。これ一つ大事なこと忘れてへん?」
「何が? 十分頑張ったと思うんだけど」
 きゅーちゃんは怪訝そうに私を見る。私はメモ帳と鉛筆を手に取った。
「きゅーちゃんにとっての好きって何?」
 え、と戸惑いながらも、きゅーちゃんは何かに気がついたように目を見開いた。
「一番大事なのは自分の好きってこと?」
「私はそう思ってる。今のきゅーちゃんにこんなこと聞くの酷やしお節介やと思うねんけど、それでも自分の気持ちが一番大事かなって」
「じゃあ、美保ならどうする?」
「あ、美保!? んー、美保だったら……一応書いておくかも」
 きゅーちゃんは「そっか」とだけ呟いて、目を閉じた。実際、私もこうやって聞かれて口にするまでは何が自分の好きであるのかあまり考えたことはなかった。こうして口に出す答えは、その度に変わることがあるかもしれないけれど、その時点での思いの結晶であることは確かだ。自分の頭で勝手に考えだした部分もあるし、好きって気持ちは説明なんてできないのではないかと思ったりもする。けれども、言葉という形あるものにすることで、好きという気持ちに実体を持たせることができるような気がするのだ。
「どうする? メモしとく?」
 きゅーちゃんは私をまっすぐ見つめて頷いた。
「じゃあ言うよ。私にとっての好きは……好きは……。……やっぱり航太に対する気持ち。それ以外の何でもない。どう説明していいかなんて分からないけど、この気持ちは絶対好きなんだってことだけは分かる」
「きゅーちゃん……。そうやけどさ……」
 私はメモしながら、きゅーちゃんの様子を伺う。
「分かってる。でも、好きなんだから仕方ないじゃん。諦めようって思って諦められるものでも、新しく誰かのこと好きになろうと思っても簡単にできることじゃないじゃん。やっぱり半分どころか全部残ってた」
 きゅーちゃんは再び机に伏せてしまった。助けを求めようと美保の方を見ると困ったような顔で、逆に助けを求められそうだった。
「はー。あの子とこれからいろんなことするんだろうな。手つないで、腕組んで、ハグしてキスして、それから……。嫌だ……。私以外の人と息切らしながらそういうことするって考えたら気持ち悪くなって吐きそうになる……」
「未来のことは考えたらあかんで」
 自分で放った言葉が自分に返ってくるような気もしたけれど、とにかく自分から辛くなるのは良くない。
「でも、好きって気持ちは結局そこに辿り着くんだから、考えちゃうじゃん!」
 きゅーちゃんは今まで以上に強い口調でそう言った。しかも何一つ間違っていない。きっと、美保の意見が一番本質に近いのだろうし、生物的に考えると、愛は子孫を残すための過程なのかもしれない。でも、少なくともそういう行為はもっと大人になってからのことだと、私は思う。
「そんなんまだまだ先の話なんやし、今はいいやん」
「本当に先の話だと思う?」
 きゅーちゃんは暗いけど通る声で、怖い目をしながらそう言った。
「去年の夏、航太が私の家に遊びに来た時。私、もう少しでされそうになったんだ」
 初めて聞いた話に、私は驚きを隠せなかった。私は、その話の続きが気になって「それで?」なんて風に聞いていた。
「私も途中までは、別にいいかな、なんて思ってた。でも、航太が私の服の下に手を入れようとしたところで急に怖くなってきて、思いっ切り蹴飛ばしちゃった」
 こんなにも身近な人が一年も前に初めてを捧げようとしていたことを知って、あれは私達からそんなにかけ離れた行為でも無いことを実感した。でも、今、湊くんとできるかと考えると、きゅーちゃんと一緒でやっぱり怖い。
「で、結局きゅーちゃんしてへんねんな?」
「うん……。でも、別れるって分かってたら、あの時しとけば良かった。全部航太に捧げれば良かった」
「ちょっと、きゅーちゃん。しっかりしいよ」
 この短時間でどんどん弱っていくきゅーちゃんを見ていると、そのうち倒れるのではないかと心配になる。
「やっぱり人間なんてあれができれば、誰でもいいのかな」
 きゅーちゃんはもう何もかもどうでもよくなったような口調でそう言った。どんどん悪い方向に沈んでいっているように見えた。
「そんなことない。そういうのは大好きな人とするもんやもん」
「でも……」
「でも、やない」
「でも、私の体も、真希も、美保も、世界中のどんな人のでも受け入れられるようにできてるじゃん! 航太の体だって誰とでもできるようになってるじゃん! 好きって何なの! もう何も分からない!」
「きゅーちゃん。確かに体はそう作られてる。体はとにかく子孫を残そうとする。でもさ、人間には心があるやん。いくら体がその行為自体を求めてても、大好きな人以外とは絶対できひんやろ?」
「それは、もちろんそうだけど」
「せやからさ、全然上手いこと言われへんけど、そういうことしたいから好きってことやないと思うねん。体だけやなくて、心の奥も、自分の嫌なところも、汚いところも、知られたくない過去も、何もかもさらけ出せるっていうのが好きやと思う。子孫作るためって言ったらそれまでやけど、私はやっぱり愛ってそれだけのためにあるんやないと思うねん! だから誰でもいいわけない!」
 私がそこまで言い切ると、きゅーちゃんは涙でいっぱいの目を指で拭って、くすっと笑った。
「もう、そんなに大きい声で言わなくても聞こえてるよ」
 それからきゅーちゃんは大きな声で笑い始めた。泣いたり、怒ったり、笑ったり、激しい感情の変化に私は戸惑った。
「どうしたん?」
「なんだろ、これ。なんか心が洗われたみたい」
 きゅーちゃんはメモ帳と鉛筆をポケットに入れて、すごく晴れ渡ったような目で私を見てきた。
「ちょっと真希に当たっちゃって、思ってもないこと言い散らかしちゃった。ごめんね」
 ただ沈むだけの、二週間前のきゅーちゃんとは違っていた。本当に強い子だなと、私は心の底からそう思った。
「私も全然うまく伝えられへんでごめんな」
「ううん。ちゃんと伝わってきたよ、真希の気持ち」

 美保はきゅーちゃんの頬を優しく撫で続けている。さっきまで美保とのスキンシップを嫌がっていたけれど、今はその手に自分から近づいてさすってもらっている。
「今は美保のなでなでも気持ち良いな」
 きゅーちゃんは目を閉じて、心地よさそうに美保の方へもたれかかった。膝枕の形になった二人は、お母さんと小学生のように見えた。
「ねえ、きゅーちゃん」
「何、美保?」
「美保はね、傷を癒やしてくれるのは時間だけだと思うんだ」
「うん」
「だから耐えるしかないんだけど、辛い時は美保とりーちゃんのことも頼っていいんだからね。だって美保たち死ぬまで親友なんでしょ?ね、真希?」
「うんうん。それか小惑星が降ってくるまでやんな。な、きゅーちゃん?」
「うん……。二人共ごめん。ありがとう」
 きゅーちゃんの目は相変わらず潤んでいるし、時折言葉も弱々しく震えている。でも、きっときゅーちゃんはもう航太くんのことで泣いたりしないだろう。なんとなくだけど、その目からはそんな決意が感じ取れた。

「ただいまー」
 玄関には平日なのにお姉ちゃんの靴があった。ここ最近は帰ってくる頻度も減ってきていて、二週間に一度、それも土日にしか顔を見せることはなかったのに。
 それに、いつもならリビングから出てきて私をお出迎えしてくれるのに、今日はそれもなかった。どこか変な感じがしたけれど、寒かったからとりあえずリビングへの扉を開ける。
「あ、真希帰って来てたんだ。おかえり」
「うん、ただいま。あれ、お姉ちゃんの前に散らかってる紙何なん?」
 机の上には大量の書類のようなものが所狭しと散らばっている。私がそう聞くと、お姉ちゃんは台所にいるお母さんの方を向いて何か目配せをした。私はあの紙に一体何があるのか気になったけれど、お母さんは静かに首を振った。
「あ……真希。ごめん、また後で知ることになると思うから。えっと、その、とにかく今はダメなんだ」
 お姉ちゃんは慌てて紙を束ね、それを少し強引に棚に突っ込んだ。
「ちょっと、お姉ちゃん。感じ悪くない?」
「そうだよね。ごめん。でも、本当に今は言えない」
「何なん、それ」
 何かを隠しているのに、その存在を明らかに認めているのに、それでも何も教えてくれなくて私は少し腹が立った。お母さんは知っているのに、私には教えてくれない。姉妹の間柄で一体何を隠そうと言うのだろうか。そして、どうしてお姉ちゃんはあんなに悲しそうな顔をしているのだろうか。私は何も分からない。

 今日は久しぶりにお父さんが帰ってきた。久しぶりに家族みんなで晩御飯を食べた。湊くんの家で食べた時も幸せだったけど、やっぱり自分の家が一番落ち着くし、自分の確かな居場所がここにはある。
「じゃ、私一番風呂もらうなー」
 早く風呂から出て、冬休みの宿題を先に進めてやろうと思った。私が椅子を引いて、立ち上がろうとした時、
「真希、話があるからまだ座っていなさい」
 と、お父さんがいつになく低い声で言った。
「話って?」
「実はな…… 」



 くらくらする。
 いっその事なら、このまま貧血で気を失ってしまえばいいと思った。そして、目を覚ました時には何もかも全部変わっていればいいのに、と私は心からそう思った。



 第三章

 テストが帰ってきて、はしゃいだり、嘆いたり、喚いたり、それぞれが結果と向き合っては何かしらの声を放っていた。頭が良い、とクラスで有名な奴の周りには人だかりができていて、皆がそいつの点数を驚きの言葉を添えて教室中に知らしめる。ほんの少し勉強が得意な俺はそいつの点を上回っていることが普通にあって、こっそり喜んでいたりする。でも別にクラスに自分の学力が知れ渡る必要もないし、誰かに凄いと言われるのもあまり好きではないから、俺は自分の成績の話を他人にしない。
 それは本田に対しても同じことだった。もともとお互いのプライベートには干渉し合わないようにしていることもあってか、俺達は成績や進路の話をほとんどしたことがなかった。
 最近知ったが、本田はけっこう成績がいいらしい。この学校という場所では、どうやら成績が良い奴は有名人になるようで、どこからか噂でそんな話が流れてきたのだ。
 もし俺と本田の学力が同じくらいなら、一緒の大学に行きたいなんて思っていたりする。進路選択に恋慕の情を織り込むのはあまりよろしくないのかもしれないけれど、最近はそういうことばかり考えている。それでも、一番大切なのはそれぞれの志望校なわけで、本田の進路を無理に捻じ曲げる気なんてこれっぽっちもない。
「それじゃ、これで二学期の物理の授業は終わり! みんなお疲れ様、と言いたいところだけど冬休みの宿題出すからちゃんとやってこいよー」
 先生はスーパーに置いてあるようなカゴからそこそこの厚みをもって積み上げられたプリントを取り出す。みんなは「えー」と、溜め息まじりに面倒くさそうな顔をした。先生はそれを聞くと、何やらグラフのようなものを黒板に書き始めた。
「そんなこと言っても一年後センター試験なんだから仕方ないだろ。はい、で今書いたのはセンター試験における物理の得点別人数の大まかなグラフなんだけど、見てもらったら分かるように、取る人は本当によく取ってくる。それも、他の教科に比べるとそういう人が多いっていうのが特徴なんだなー。これが何を示しているか分かるなー、本田」
 物理の大山先生は無作為に生徒を当てては何かしらの発言をさせる。しかも答えられないと何かと面倒くさいことになる。みんなそれが分かっているから、いつ自分の番が回ってきてもいいようにある程度の答えを頭の中で用意していたりする。俺は、本田もすぐに答えるものかと思っていた。でも、本田は何も反応しない。それどころか先生の方すら見ず、頭を抱え込んで下を向いている。
「おーい、本田ー? 起きてるか?」
 教室はしんと静まり返り、皆の視線が集まる中で本田は小さく頷いた。前髪に隠れてどんな目をしているのか見えないけれど、いつもの本田と違うことくらいは簡単にわかった。
「おい、どうしたんだ。体調悪いのか?」
 大山先生は教壇から降り、本田の席へと近づいて顔を覗きこむ。それでも何も話さない。ただ、体調が悪いわけでないと示すように首を横に振るばかり。一体どうしたというのだろうか。
「とりあえず何か話そうか。何でもいいから思うこと言ってごらん」
 その時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。その音がやたらと大きく響いて、大山先生はしぶしぶ教壇に戻った。
「まぁ、とりあえず授業はこれで終わりということで。しんどそうだったら担任の先生に教えて、先帰らせてやれよ」
 学級委員長の挨拶と共に大山先生は教室をあとにした。今日の本田はどこかおかしい。いつもならわざわざ俺の席の前まで回ってから自分の席につくのに、今日はおはようさえも言ってくれなかった。今日は明らかに雰囲気が違う。

 ホームルームが終わると、本田は誰とも話さず淡々と教科書をかばん詰め込んでいた。このままでは、本田は一人で帰ってしまう。今日を逃すと、何があったのか教えてくれなくなるような気がして、俺は自分の荷物をさっとまとめて本田の席に向かった。
「本田。本当に大丈夫?」
 本田はそこで初めて俺の存在に気づいたかのようにゆっくりと視線を上げる。
「別に体調が悪いってわけやないねん」
「じゃあ、何かあったの? もし何かあったら、何でも聞くからさ」
「いや、これは湊くんには言われへん。もう、私帰るわ。じゃ、また明日」
 本田はそう言ってリュックサックを肩にかけて、立ち去ろうとした。俺は反射的にその紐を掴んだ。
「何なん?」
 本田はいらっとしているような口調でそう言った。
「一緒に帰ろうよ」
「今日は一人で帰らせて」
「本田。逃げてるだけなんじゃないか?」
 本田は怪訝な表情を俺に向けた。俺もどうしてこんな言葉をこの状況で口にしたのかよく分からなかった。
「私が何から逃げてるって言うん?」
 俺は自分で言い出した言葉の中身を必死で考えた。とにかく、いつも通りの本田に戻ってほしかった。
「逃げてるっていうか、その……」
 考えるあまり黙りこんでしまっては本田に帰られてしまいそうだったから、とにかく何か言葉を絞りだそうとした。でも、本田に何があったのか知らない俺はその続きを口にすることができなかった。
 そんな俺の姿を見て、本田は大きくため息をついた。さっきからずっと、指で机に円を描いていて、まともに俺の方を見ていない。
「はぁ、そんなに帰りたいんやったら一緒に帰ろよ。昇降口集合な」
 本田はそう言うと先に教室を出て行ってしまった。残された俺はなんとも言えないような気持ちになった。話していてあんなに面倒そうな顔をされるのも、あんなに逃げられるのも初めてで、戸惑いを隠せなかった。

 校門を出て、それからしばらく俺達は黙って歩き続けた。何があったのか聞きたいけれど、また本田が逃げてしまうような気がしてなかなか言い出せなかった。でも、こうやってお互いが噛み合っていないまま、他の話をする気にはなれなかったから思いきって聞いてみようと思った。
「なぁ、本田。何があったのかそんなに教えたくないのか?」
 本田は俺の方を一瞬ちらっと見たと思うと、また下を向いて、道端の石ころを蹴りながら歩き始めた。
「今は言いたくないねん」
「そっか」
 俺はあまり会話を続けるのが得意ではないから、こういう時なんて返せば良いのか分からない。再び沈黙が流れ、周りには二人の足音とそばの道を走る車の音だけ。
 しばらく歩いて、先に口を開いたのは本田の方だった。
「なぁ、湊くん。明日さ、放課後時間ある?」
「時間ならあるけど」
「せやったらさ、私の家来いひん?」
「本田の家に、俺が?」
「そう。私の家に湊くんが。お母さんが、お世話になってるしご飯食べに来てって」
 今の本田はちゃんと俺の目を見ている。ついさっきまであんなに機嫌が悪かったのに、今はそうであった気配すら消えかかっている。俺はますます本田の心の中が分からなくなった。でもご飯に誘うということは、俺が何かをやらかしたからああなってしまったというわけではないようだ。
 もし時間があれば何があったのか明日聞いてもいいのかもしれない。俺の返事は誘われた瞬間に決まっていた。
「じゃあ、食べに行ってもいい?」
「よし! お母さんに言うとくな。それで、明日お昼ご飯食べたらすぐに来てほしいな。湊くんと二人きりでまたいっぱい話したいし」
 本田に起こったことは話してくれないのに、他の話題ならいつも通りたくさん話をしたいらしい。何があったのか気になるが、執拗に聞くとこ自体が本田を傷つけているかもしれないと思い、もう聞かないようにしようと思った。
 本田は俺の前でスキップをしていて、そのリュックサックが嬉しそうに揺れている。
「あ、本田。また携帯光ってる」
 本田は相変わらずリュックサックのドリンクホルダーに携帯を突っ込んでいた。LINEだろうか、緑色の通知がかすかに見て取れた。
「うわ、またか。どうしよ」
「俺待っとくから、見てもいいよ」
「ありがとうな。こんな時間に送って来るってお母さんかな」
  本田はスマホを取り出し操作し始めた。すると、画面の光を反射する本田の目が、離れて見ていた俺でも分かるほどに驚きの色に変わった。表情全体が、何かとてつもなく重要なことを知ってしまった時のような、そんな色に変わった。そのまま本田はゆっくりと顔をおこし、俺の目をまっすぐ見つめた。
「なあ、湊くん。中学校の時付き合ってた人とかおる?」
 全く予想もしていなかったような唐突な質問に俺は少したじろいだ。
「俺は本田が初めて付き合う人だけど」
 本田は「そっか」とだけ言い、一歩俺の方に近づいてまた目を見てきた。
「湊くん。私、中学校の時に付き合ってた人おってん」
 初めて聞いたけれど、別に驚くことでも、気にするようなことでもなかった。今は今。過去は過去だ。
「それで?」
「それで、最近その人からLINEが送られて来るねん」
「でも、どうして今さら」
「今まではヨリ戻したがってるんかな、とか思ってたんやけど……。今来たLINEで全部分かった」
 俺は、本田が元カレと連絡をとっていても別になんとも思わない。友達として仲良くやっているんだな、くらいに捉えられる。東京と京都は五百キロも離れているから、それで再び恋愛感情が生じることはないと思う。
 そんな中、元カレの話題をわざわざ出してまで本田が何を言いたいのかと考えると、変に緊張してしまう。
「なんかな、元カレはな、新しく気になってる人がおるらしいねん。だから、年末に私が里帰りするときに会って話をしたいって」
 何気なく聞いていたが、流石にこれは引っかかった。ヨリを戻したいから会いたいならまだ分かるが、新しく他の人を好きになろうとしているのに会いたいなんて訳が分からない。
「ちょっと待って。それ、どういうこと?」
「だから、新しく他の人に突き進むために私と会いたいって言うてんねん」
「だから、なんか論理的におかしいって言うか。普通、他の人と結ばれたいのに元カノと会うっておかしい気がするし」
「向こうはな、新しく好きな人ができたみたいなんやけど、私とは自然消滅で別れたから私と付き合ってた過去を上手いこと消化できてへんみたいやねん。だから、最後に会って、ちゃんと直接別れの言葉伝え合って、過去の恋っていう風に消化して、それぞれの未来に進んで行きたいらしいねん」
 東京に引っ越してきて、遠距離恋愛に耐え切れず自然消滅してしまったのだろうか。いくら過去の人とはいえ、一度は自分が好きになった人なのだから、その人が心の中から完全に消え去ることはないのだろう。と言っても、これまで誰かと別れる経験をしたことがない俺にはどうしてもよくわからない部分が少なからずあるのだが。
「じゃあ、本田は消化できてるの?」
 俺は逆に本田に聞いてみた。俺は、気になることはいつもその場で聞くようにしている。
「消化してるんかな。でも、体の距離離れたら絶対別れてしまうっていう固定観念ができてしもて、湊くんとの未来も不安に思うようになってもうて」
 本田は不安になることを申し訳なく思っているのだろうか、そんな顔をしている。でも、この時俺は本田の表情にどこか寂しさや悲しさが混じっているようにも感じた。何の根拠もないけれどどこか雰囲気がそういう感じだった。
「そういえば初めて俺の家来た時もそんなこと言ってたよな。ほんと、もっと前向きに考えたらいいのに」
 本田はこのことに関しては少し性格が変わる。それだけ遠距離恋愛からの破局が本田に彫りつけたものは大きいのかもしれない。
「よう覚えてるな。そのな、湊くんの顔見てる時はこの先もずっとこうしていられるんやって思うねんけど、家帰ったりして一人になったら余計なこと考えて勝手に不安になったりすんねん」
 付き合っていて、お互い大好きだって分かっているのに不安になる。全くそう思わないか、と聞かれるとすぐに首を縦に振ることはできないと思う。でも、俺はあまり未来のことを考えない。だから、本田のこの気持ちを完璧に理解してあげられないのかもしれない。どこに遊びに行こう、だとか、今度はいつ一緒にご飯を食べよう、とかそんなことは時々考えたりするけれど、俺達の関係がどんな方向に転がっていくかということを考えたりはあまりしない。
「どうしてそんなに後ろ向きになっちゃうんだろうな。どこかに理由があると思うんだけど」
「んー。私も私の気持ちよく分からへん。でも、もしかしたら私にとっての消化しきれてへん所がこの不安な気持ちなんかもしれへん。上手いこと過去のことにできてへんから、好きやったのに別れたっていう事実が未だに心に引っかかってて、それを根拠にして勝手な未来の想像を生み出してるんかも」
「そっか。で、結局元カレと会ってくるの?」
 俺が一番気になるのは、本田が元カレと会うのかということだった。一回元カレと会ったくらいで本田の気持ちがそちらに傾くことはないと思うが、それでも多少は気がかりだ。
「んー、湊くんは私に会ってほしくないんやろな。でも、もしかしたら会うかもしれへん」
「そっか」
「彼女が元カレに会いに行くって感じ悪いかもしれへんけど、このままじゃあかんって気もするねん。遠距離になって、自然消滅で中途半端に終わって、それ以来、体の距離が離れたら別れてまうってびくびくするようになって。湊くんとも離れたら終わってまうって考えるようになってもうて」
 本田は立ち止まって、それから俺の方に振り返った。その時の目は、今までに見たことがないほど強い意思を帯びているように見えた。 そして、俺はそれだけで次に本田が何を言い出すのか分かってしまった。
「私、決めた。里帰りするとき会ってくる。湊くんとのこれからに自信持てるようにちゃんと過去のことにしてくる」
 きっとそう言うだろうなと思っていた。ちゃんと目的が会って元カレと会うなら俺は安心して本田を送り出せる。
「そう言うと思ってた」
 俺がそう言うと、本田は驚いたような目をした。
「なんや、始めからそう言おうって思ってたこと分かってたんか。それでな、湊くん。あんまり好ましくないと思うけど……。改めて、会ってきてもええ? 」
 本田が元カレに会いに行く、ということだけを考えるといい心地など到底しないが、本田の思いを受け取った今、俺の答えはもう決まっていた。
「ちゃんと消化してきてくれよ」
「湊くん。ほんまに嫌やない? 湊くんが止めたら私行かへんよ」
 本田は何度も同じことを聞いてくる。
「いや、行ってきていいよ。本田がそれで前向いて、俺らが本当にずっと仲良しでいられるならさ」
「湊くん、ほんまに嫌やったら嫌って言ってな!」
 行くと決めておきながら本田はまるで止めてほしそうに何度もそう言った。でも、俺はあえて止めなかった。本田が不安から解放されるなら、一回元カレと会われるくらいなんともない。
「会ってきてください」
「え、自分から頼むん!?」
「だから、さっきから言ってるじゃん。確かにあんまり好ましくないかもしれないけど、ちゃんと本田が不安取り払って帰ってきてくれるって信じてるからさ」
「湊くん……。私、頑張って消化してくる。ありがとう」
 本田はそう言って、歩きながらも俺に体を寄せてきた。俺が本田の方を見ると、本田も俺の方を見上げてきた。本田は必ず克服して帰ってきてくれる。俺は本田のことを心から信じている。これを乗り越えられたら、俺達の好きという感情はきっともっと強く大きくなる。
 そして、年が明けて本田が帰ってきてくれた時、俺が伝えるのは、おかえりの一言だ。

 次の日も学校は午前のうちに終わり、俺は急いで家に帰った。昼ごはんを食べて、すぐに駅へと向かう。忙しいけれど、本田の家に行けることが嬉しかったりする。バイトに来る時の本田も同じような気持ちだったのかもしれない。

「あ、湊くん! こっちこっち!」
 改札前で本田が大きく手を振った。人目もはばからずぴょんぴょん跳ねている。
「そんなに跳ばなくても気付いてるって」
「いや、これは喜びの舞いやで」
「なんだよ、それ」
 本田は今までに見たことがないほど嬉しそうに俺を出口の方へと招く。
「早く行こよ」
「本田の両親って怖くないよな?」
「もしかして、お前には娘をやらん、って言われへんかびくびくしてるん?」
 本田はそう言って馬鹿にするように笑った。もしそう言われたら立ち直れないんだろうな、とか思いながら俺も笑った。
「そんなこと言われたら俺しばらく学校休むだろうな」
「大丈夫やって。湊くんやったらぎりぎり言われへんと思うわ」
「ぎりぎりかよ」
「まあ、お父さんもお母さんもそこそこ優しいから大丈夫やって。あ、でも、お姉ちゃんが思ったことずばずば言う人やからな。ちょっと強敵かもよ」
「あれ、本田って姉ちゃんいたんだ」
 俺は本田のことを知っているようで、案外全然知らないのかもしれない。
「あれ、言ったことなかったっけ。早紀
 っていうねんけど、めっちゃ頼りになるお姉ちゃんやねん」
「へー」と答えながら、俺は本田の姉ちゃんの姿を想像してみた。とにかく、どんな人であっても今後のために仲良くなれたらいいと思う。今日をきっかけにして少しずつ本田の家族に溶け込んでいけたらいい。

 本田の家は駅から少し離れた高台の住宅地にあった。同じような形の家が並び、同じような道が繰り返され、一体どこを歩いているのか分からなくなった。今度は駅から一人で来て、なんて言われたら半日あってもたどり着けないような気がする。
「あ、そうそう湊くん。さっきあんだけ聞いてきたけど、夕方までお父さんもお母さんもお姉ちゃんも家におらへんねんな」
 どう挨拶をしようか、どんな話をしようか。そんなことを考えながら歩いていた俺は拍子抜けした。
「お父さんとお母さんは仕事で、お姉ちゃんは大学?」
「あ、ちゃうちゃう。お姉ちゃんはもう大学卒業してて、今は婚約相手と同棲してんねん」
「同棲してても、今日はこっちでご飯食べるんだ」
「いや、湊くんが来るって言ったら、どんな人か会ってみたいって言われて急遽来ることになっててん」
「なんかまた期待されてる気がする」
 俺がそう答えた時には本田はもう家の鍵を開けようとしていた。そして、改札の時と同じように俺を招く。
「こんなこと言うの失礼かもしれないけど、本田ってたまに話聞いてないよな」
 本田はそう言われて初めてそのことに気付いたような表情をした。
「あ、なんかごめん」
「いや、俺が話下手だから別に仕方ないんだと思うけど、やっぱり最後まで聞いてほしいなって」
「分かった。今後気を付けるわ」
 思っていた以上に申し訳無さそうな顔をしたから、なんだか俺の方まで悪いことをしてしまったような気持ちになった。でもそう思ったのも束の間、本田はけろっと元の表情に戻った。そして、玄関の横に咲く花を指差した。
「なあなあ、湊くん。この花めっちゃ可愛くない?」
「確かに。これ、なんて花?」
「山茶花。聞いたことあるやろ?」
「聞いたことはあるけど、山茶花ってもっと赤くなかった?」
 本田の横で咲くのは可憐なピンク色の花だった。小さな木に可愛い花をたくさんつけている。椿だったか、山茶花だったかうろ覚えだが、確か冬に咲く赤い花があったはずだ。
「私も気になって調べてみたんやけど、ピンクの山茶花もあるらしいねん。あ、せや。冬は花の和菓子作らへんの?」
「あー、そういえば秋はそんなのあったよな。どうなんだろ。父さんそんな話してなかったけど、この山茶花の和菓子作ったら綺麗かもな」
 俺は頭の中で出来上がった練り切りを想像してみる。ふんわりとした平たい花びらを作るのはかなり難しそうだが、父さんならちゃっと作ってしまいそうだ。
「うんうん。でも、作る予定はないんかー。なー、湊くん作ってよ」
「あれけっこう難しいんだって」
「湊くんやったらいけるって」
 本田は期待を込めた目で俺を見つめる。別に作ってもいいけれど、それが人前に出せるレベルのものになるか分からない。いや、限りなく不可能に近い。
「ってか、なんで本田はそんなに作ってほしいの?」
 俺は作ってくれるように必死に目で訴える本田にそう聞いた。
「美味しいから、綺麗やから。もう一つはピンクの山茶花のこと調べてる時に見つけたんやけど、花言葉が素敵やから」
「どんな花言葉?」
「それは和菓子作ってくれたら教えるわ」
 本田は交換条件のようにそう言ったけれど、ネットで調べたら花言葉くらい簡単に分かることに気づいていないようだ。話の腰を折ってしまうだろうからそのことは口にしなかったが、やっぱり本田はどこか抜けているような気がする。
「じゃ、しばらく考えとく」
「うん! よろしく! とびきり上手なの期待してるで」
「ハードル上げるなって」
 俺がそう言うと、本田はいつものように笑った。最近、本田が冗談を言う時のパターンのようなものがぼんやりではあるが分かってきたような気がする。
 いくら昼間とはいえ、やっぱり冬の空気はとことん冷たい。俺はかじかみ始めた手に自分の息を吹きかけて温めた。
「あ! ごめんごめん。私は手袋してたからええけど、湊くん何も付けてへんから寒いよな。さっさと中入ろっか」
 本田は慌ててポケットから鍵を取り出し扉を開ける。俺は、本当に気遣いのできる人だな、とありがたく思うと同時に、彼女でありながら尊敬の念を抱いた。

 他人の家というのは、決して悪い匂いというわけではないが、何かしら独特の匂いがする。ただ、自分の家のそれはほとんど感じない。
 本田の家はいかにも女の子の家を思わせる、そんなふんわりとした匂いがした。玄関の壁には本田が小さい頃に描いたのであろう家族の絵が貼られていた。四隅のテープはまだ透き通っているから、きっと黄色くなる前に時々貼り替えているのだろう。本田の両親はきちんとした人なのだろうか。そうなら、本田のちゃんとした性格も説明がついた。
「湊くん、何きょろきょろしてるん?」
 あまりにも人の家をじろじろ見過ぎてしまったようで、本田は不思議そうに尋ねてきた。
「いや、綺麗な家だなって思って」
「まあ、お父さんが綺麗好きやしね。仕事休みの日とか進んで掃除するねん」
「そうなんだ」と返しつつ、俺は頭の中で勝手に本田のお父さんを作り上げていく。きちんとしていて、綺麗好きで、なんだか厳しそうな感じがする。本田は冗談で言ったが、果たして俺は認めてもらえるのだろうか。初対面でいきなり娘の彼氏を追い返すなんてありえない話だけど、そんな馬鹿なことを考えていると、本当に大丈夫かなと少しずつ自信がなくなっていく。
「なあ、本田のお父さんって本当に怖くない?」
「何を心配してるんよ。背高くて、筋肉質で、口調は硬めの敬語やけど、なんも怖いとこなんかないって」
「ちょっと待って。条件揃ってないか?」
 本田のお父さん像がますます強面に変わっていく。そろそろいかついサングラスをかけ始める頃だ。
「良いお父さんの条件揃ってるよな」
「どうしてそうなるんだよ。うわー、ちょっと憂鬱になってきた」
「ほんまに湊くんおもろいわ。さ、早く私の部屋行こ」
 本田は笑いながらとんとんと階段を上がっていく。俺は完全に本田の調子に飲まれてしまったようで、さっきから好きなように遊ばれている気がする。それでも、昨日の学校での不機嫌な様子に比べれば、いつもの本田が戻ってきてくれたようで嬉しかった。でも、どうして昨日はあれだけ期限が悪かったのだろうか。もう聞かないと決めたけれど、やっぱり気になる。

 階段を上がりきって、左に曲がってその突き当りが本田の部屋だった。扉には、これまた幼少期に作ったのであろうか、「まきのへや」とがたがたの平仮名で書かれた木製の看板が掛けられていた。
「ちょっと待ってな、まだ入らんといて。いかがわしい物無いか見てくる!」
「言い方悪いな」
 本田は俺がそう言い切る前に扉を勢い良く閉めた。途端に、中からは足音や何かが倒れる音や悲鳴が絶え間なく聞こえてきた。なかなかすごいことになっているのだろう。
 それから五分ほどしてようやく収まったかと思うと、本田が少し乱れた後れ毛を耳に引っ掛けながら出てきた。
「どうぞお入りください」
「息切れてるけど」
 はあはあ言いながら、執事のように手を後ろに回して頭を下げている姿に思わず笑ってしまった。
 本田の部屋は先ほどの苦労の甲斐あってか、とても綺麗に片付いていた。床も机も窓際の三段ボックスも無駄なものがなく、かと言って何もない無機質な部屋というわけでもなかった。窓とは反対側には大きなクローゼットがあって、少しだけ扉が開きかかっている。きっと散らかっていたものを全部あの中に詰め込んだのだろう。そんな姿が簡単に想像できた。
「あ、湊くん。飲み物持ってくるわ。牛乳でいい?」
「ありがとう。って、本当に牛乳好きだよな」
「そのセリフ何回目やろな」
 本田はそのまま部屋を後にして扉が閉まる。俺は特にすることもないから、とりあえず立ち上がった。
 部屋の真ん中に置いてある小さなテーブルの周りを何周か歩いたとき、勉強机の上の写真立てが目に入った。勝手に触わって壊してはいけないから、俺は自分の顔を写真に近づけた。本田のを含め四人が、バドミントンのラケットを手に満面の笑みを向けていた。中学の部活の時に撮った写真だろうか。

「お待たせー」
 別に悪いことをしていたわけではないが、俺は反射的に体を起こして本田の方を見た。
「びっくりした」
「そんな慌てて何してたん?」
 俺は何故か焦りながら写真を指差す。
「いや、写真見てただけ」
 本田はまるで俺を疑っているかのように「ふーん」と言って扉を足で閉めた。そのままお盆を机に置いて、再び俺の方を見上げた。
「で、ほんまは何してたん?」
「だから、何もしてないって」
「へー。そっかそっか」
 本田は相変わらず俺が何かしていたと思っているかのようににやにやしている。
「あ、湊くん。牛乳飲もよ」
 本田はお盆に載せられた二つのグラスを机に置いた。どういうわけか牛乳はワイングラスに入れられていた。俺はいつかのりんごジュースを思い出した。
「何これ。あの時のお返し?」
「いや、昔の貴族を再現してみてん」
「それまだ言うのか」
 本田は相変わらず牛乳への愛が止まらないようだ。ワイングラスに入った牛乳なんか今まで見たことがない。それどころか、人の家に遊びに行って真っ先に牛乳を出されたことすらない。
 俺達は無言でグラスの縁をそっと触れさせた。それから二人合わせてゆっくりとグラスを傾ける。傍から見れば本当に馬鹿らしいけど、この際二人が楽しかったら何でも良かった。
 俺達は半分ほど飲んだところで一旦グラスを机に置いた。
「てか、本当に何これ」
「何なんやろな。私も分からんなってきた。ってか、湊くん、口の周り真っ白やで」
「いや、本田も真っ白だって」
 俺がそう言うと本田は「え!?」と驚いたように言った。
 そして俺達は口の周りに牛乳をたっぷりつけたまま笑い合った。一緒に牛乳を飲んだだけでこれだけ楽しくなれるのは、きっと本田以外にいないだろう。
「そういえば、中学の時の私どうやった?」
 グラスが空になった頃、本田はふと尋ねてきた。正直言って元気な可愛い子だと思ったが、俺にそんなことを直接言える勇気などない。
「髪短かったんだな」
「うん、あの頃は髪邪魔やったからな」
「そういえば俺、本田がバドミントン部だったこと知らなかった気がする。多分、本田のこと知ってるようで、全然知らないのかも」
 近くにいるから本田の全てを知っているように感じていたが、ちゃんと考えてみると俺は本田の家族のこととか昔のことは全然知らないのだ。知っていることなんて全体の三割もあれば良い方かもしれない。
「確かに、私も湊くんのことたくさん知ってるふりしてるんかもな。まぁ、でもこれからゆっくり知っていけたらええかなって思うわ」
「そうだな」
 俺が最後に取っておいたセリフを言われてしまった。でも、本田もそう思っていてくれたならそれでいい。なんて、かっこつけてみたものの、やっぱり素直に嬉しかった。思わず頬が緩んだ。

 最近日が落ちるのがとても早い。五時前にはもうかなり暗くなってくる。俺の部屋の時と違ってちゃんと暖房を付けてくれたからとても快適に過ごすことができた。それに本田と話しているとあっという間に時間が過ぎていった。
 もともと、部屋の明かりは付けていなかったから、沈む日に応じて部屋の中もそれなりに暗くなってきていた。机を挟んで座る本田の顔が見づらいというくらいだった。
「本田、電気付けないの?」
「いや、いい。電気付いてたら話されへんと思うから」
 本田はいつになくか細い声でそう言った。はっきりとは見えないが、どことなく寂しそうな面持ちだった。
「何の話?」
「これは最悪な話」
 俺は本田の顔をもう一度見たけれど、ずっと下を向いていて俺の方を見てくれない。恐ろしく強大で、どうあがいても抗えない、そんなどす黒い何かがもうすぐそこまで迫ってきているような気がする。
「それで、何?」
「ほんまに聞く? って、いつか言わなあかんねんけど」
 聞きたいけど、その先に待ち構えるものが怖くて聞きたくない。でも、聞かなきゃいけない気もする。
「じゃあ、聞く……」
 部屋の暗さで本田の顔は全然見えなかった。それでも、何かおかしいことは分かった。少し口を開いたかと思うと、またきゅっと閉じて下を向く。
「湊くん……。昨日はごめんな。冷たくして何回か傷つけたかもしれへん。今日は頑張ったんやけど、昨日の学校の時とか最悪やったよな」
 そういえば昨日の本田は特に機嫌が悪かった。でも、それが最悪な話ではないことは直感的に感じた。本当に何を言われるのか分からない。気付いた時には、胸の鼓動がかなり早くなっていた。
「確かに昨日はいつもと違ったよな」
「昨日は耐え切られへんだねん……。それで、その後は現実から目逸らしてた。必死にいつもどおりの自分を振る舞ってた。でも、もう限界やわ。その日が刻々と近づいてるんやなって思ったら悲しすぎて……。湊くんは、一番言いたくない人やけど、一番言わなあかん人やから」
 本田は泣きそうな声でそう言った。
「何があったの?」
「私な……春休みにな……」
 本田はそこまで言って袖で目をこすった。見ると大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていた。
「本田……?」
「待って。全部言わせて。今逃したらもう言われへんと思うから。あのな……、私な、春休みに転校しやなあかんねん」
「え? 今なんて……」
 俺は反射的に聞き返した。本田の言葉の意味は分かっているはずなのに、全然頭に入ってこない。
「春になったら、福岡に引っ越さなあかんねん……」
 本田はそう言って大泣きしながら俺に飛びついた。
 本田が福岡に……? 転校……?
 冷たい汗が俺の背中をすうっと流れ落ちる。そんなこと信じられない。きっとこれは夢だ。そう自分に言い聞かせようとしたけれど、俺の胸に顔を押し当てる本田の頬が熱くて、それが妙な現実味を醸し出していた。
「福岡ってどうして……」
「私のお父さん建築士なんやけど、転勤が決まってん。一昨日初めて聞いたんやけど、京都から東京に転勤が決まった時点で二年後に福岡行くこと決まってたらしい」
「じゃあ、俺と本田は出会った段階で離れる運命にあったってことかよ」
 現実はどうしてこんなにも残酷なのだろうか。受け入れたくないし、そもそも受け入れられない。
「そういうことになるな……。湊くん、ごめん……」
 本田は俺の腰に腕を回して、俺との距離をもっと近づけるように腕の力を強めた。少し痛いくらい強かった。どうしようもない悲しさを紛らすように俺も本田を抱きしめた。
「本田は何も悪くない」
「でも」
「だから、本田は何も悪くないって」
 もう泣いてしまいたかった。でも、どれだけ泣きたくても、泣きそうになっても、涙は一滴も出なかった。あまりに悲しすぎて呆然とすることで精一杯だった。
「私湊くんと離れて生きていけるか分からへん。不安すぎるねん」
 本田は弱々しい声でそう言った。
「それなら俺だって。なあ、本当にもうどうしようもないのか?」
「この状況で私に何ができるん」
 少し苛立っているようにも聞こえた。きっと、誰のせいにもできなくて、どこにも気持ちのやり場が無くて、いろんな感情がごちゃごちゃに混ざり合っているのだろう。
「本田だけ東京に残るとか」
「高校生でそんなこと許してもらえるわけないやん。お姉ちゃんは結婚して新しい生活送っていくし、東京に私の居場所なんかどこにも無いねん」
 俺は自分がどれほど軽薄な考えを持っていたかこの瞬間に痛感した。普通に考えれば簡単に分かることなのに、どこかに希望があると思い込んでいた結果だった。こうやって現実はもう良い方向には動かないことを本田に実感させて、余計に悲しませてしまった。
「ごめん。適当なこと言って」
「湊くんまで申し訳ない気持ちにさせてもうたな。こちらこそごめん。でも、ほんまに湊くんとのこれからが不安や。それでも私、引っ越しても湊くんと死ぬまでずっといたい」
「それは俺も思ってる」
 どこからか必ず希望の光は差し込んでいるはずだ。真っ黒で自分がどこにいるのかさえも分からないような空間を見渡して、僅かな光の息遣いを感じ取る。
 死ぬまでずっといたい。この本田の言葉で分かった。今俺が考えるべきことは、本田の引っ越しを食い止める方法ではない。大人の事情はそう簡単に動かせないから、無理に決まってる。俺が模索しなければならないのは、どうやったら一生本田と過ごせるかということだ。
 本田はいつも前を向いていた。俺はその姿をずっと近くで見てきた。だから、本田が挫けそうになっている今、前を向く手助けをするのは俺だ。もちろん俺もこの上なく悲しい。本田の転校が現実であると思うたびに、胸がぎゅっと握り潰されるように痛む。でも、本当に辛いのは本田だ。俺よりずっと痛いし、苦しいはずだ。ここで一緒に痛がっていてはそこまでだ。俺が前を向いて本田を引っ張ってやらないと。
 俺は本田の顔を両手で掴んで、俺の顔のすぐ前に引き寄せた。本田は口を半開きにして俺の目をぽかんと見つめる。
「残りの三ヶ月でどうやったら一生一緒にいられるか考えよう」
「考えるって、考えたところで私は福岡行くねんで」
「高校最後の一年離れただけで俺達はおしまいなのか? 大学もある、就職もある。またいくらでも同じ場所で生きていけるじゃん」
「湊くん……」
「だから三ヶ月でまずは大学のこと考えようよ。頼み込んで下宿させてもらったら東京来れるじゃん。一年離れても、四年一緒にいられる。お互い働き始めて収入も安定してきたら同棲だってできる。一年耐え抜いたらきっと俺達はもっともっと仲良くなれるだろうからさ」
 本田の目からまた涙が溢れ始めた。俺は人差し指でそれを拭ってやった。
「なんで湊くんはこんな時に前向けるん……?」
「だって前向きで楽しい本田にいつも救われてきたからさ、今度は俺の番かなって思ったんだ」
 本田と付き合う前の俺はきっとこういう時前向きになれなかっただろう。変われたのも全部本田のおかけだ。
「そっか。やっぱり私ら一緒やないとあかんなって思うわ」
「うん、それは絶対。だからさ、大変だと思うけど一緒に一年耐えようよ。乗り越えられたら本当に死ぬまで一緒にいられると思うんだ」
 不安だらけだけど、俺達は乗り越えなくてはならない。でも、これは一人で耐えぬくのではない。俺達二人で耐えていくのだ。どうしても寂しい時は電話もできる。顔が見たくなったらビデオ通話もできる。そうやって、お互いの心を満たしていきながらであれば、一年くらい何たってないだろう。乗り越えた先には何にも代えられない最高の幸せが待っている。
「湊くん。絶対将来結婚しよな。私そのためなら一年乗り越えられるから」
 本田は涙声でそう言った。
「うん。悲しいけど無理にでも前向いて頑張ろうよ。二人で泣いてその場でうずくまってるより全然良いと思うんだ」
「うん……」
 本田の目はまだ潤んでいて、時々涙が筋となってこぼれ落ちている。つい十五分前まではこのまま本田と進級して、本田とともに卒業していくものと思っていた。いや、そうなることが当たり前すぎてそんなことをまともに考えたこともなかった。でも、もうその当たり前は俺達にとって夢物語でしかない。そう思うと、胸を引き裂かれるような思いになって、思わず涙が溢れそうになる。でも俺は本田の前で泣かないように必死にこらえた。俺が泣いてしまっては、きっと本田を引っ張ってあげられないから。
「約束しようよ」
「約束……?」
「俺と本田が次の一年間二人で協力して乗り越えるってこと」
 俺は小指を立てる。それに気づいた本田は大きく頷いて、まだ止まらない涙を拭って、俺と小指を交わした。
「湊くん。大好き。優しいところが好き。真面目なところが好き。勉強も、和菓子も、一生懸命なところが好き。私の冗談に引っかかってくれるところが好き」
 本田はそう言って俺に体重を委ねてきた。思わず俺はバランスを崩し、仰向けで床に寝転がる形になった。起き上がろうとすると、本田は俺の体の上に跨るように乗りかかってきた。
「ちょっと、本田」
 本田は黙ったまま顔を近づけてきた。もうくっつきそうといったところで、本田は一旦躊躇ったように顔を離し、そして今度はそのままキスをしてきた。頭が真っ白になって何が起こったのか分からなかった。
「湊くん。もう一回」
 本田は俺の返事など待たずまたキスをしてきた。その感触だとか、その時の気持ちだとか、そんなものを表現する余裕はなかった。
「湊くん、もう一回」
 でも、全然嫌なものではなかった。むしろこのままずっとこうしていたい。だから、本田がまた唇を離そうとした時、俺は唇が離れないように本田を強く抱きしめた。驚いた様子だったが、本田も体の力を抜いて俺にすべてを委ねてくれた。二人の体の輪郭が溶けて一つになったように感じた。
 少しして、本田は一旦顔を上げて大きく息を吸った。そして、本田はまたぼろぼろに泣いた。
「でも、やっぱり私、福岡なんか行きたくない。このままここでいたい。湊くんと離れたくない!」
 涙がとめどなく溢れ、俺の顔に落ちてくる。俺ももう限界だった。ひと粒こぼれると、堰を切ったように一気に涙が出てきた。自分の意思ではどうしようもなかった。
「俺も本田と離れたくない。会えなくなるのが怖い」
「なんで私がこんな目に合わなあかんの……。なんで神様はこんなに残酷なん……。なんでこの世にはずっとずっと続くもんが一つもないんよ……」
 全くその通りだ。永遠なんてどこにもない。始まってしまえば、必ず終わる。何だってそうだ。それは恋愛においても。
 ……でも、恋愛は一つだけ違う。

  まだ前を向ける。

「なあ、本田。俺は、本田との今の付き合いが永遠である必要はないと思う」
「ようそんなひどいこと言えるな」
 本田は引きつったような顔で、悲しそうな目をもって俺を睨んできた。
「違う。そういうことじゃない。確かに永遠がほしい時はあるけど、永遠がないからこそ先に進めるって思うんだ。東京での高校生活はもうすぐ終わるけど、福岡での生活も一年したら終わる。大学生が始まるし、また俺とも過ごせる。関係は続かなきゃ嫌だけど、環境は変わっていくものだと思うんだ。二人で変化しながら死ぬまで一緒に仲良しでいようよ」
 俺は本田をもう一度抱きしめた。本田も答えるように俺の背中に腕を回した。
「もう、泣かせやんといてよ。ってなんで言うた湊くんも泣いてるんよ」
「なんでだろ」
 本田は少し笑いながら俺の涙を指ですくい取った。二年前から決まっていた話が急に方向を変えるとは思えない。それなら、もうどこまでも進めるだけ進んでやろうと思った。本田と二人でなら走り切れる。こんなに面白くて、可愛くて、気が合って、正直で、何より一緒にいるだけで楽しくなれるやつをこんなところで失うわけにはいかない。

 真っ暗な部屋で抱き合っていると、下からドアの閉められる音がした。足音は階段を通って少しずつ近づいてきた。
「やばい、お姉ちゃん帰ってきた」
 本田は俺を突き飛ばすように立ち上がって、慌てて電気を付けた。
「ちょっと本田。俺のTシャツの胸のところ、本田の涙で色変わってるんだけど」
「大丈夫やって。私の袖も涙でびしょびしょやし」
「そっか。って、それも本田の涙じゃん」
「バレたか」
 本田は相変わらず所々に冗談を交えてくる。あれだけ泣いたあとでも本田はいつも通りに振る舞う。本田がこうだから、話が一通り終わった今、俺も自分の行動の裏に引っ越しの話を置かないようにしようと思った。
「そういえばさ、本田。俺てっきり忘れてたけど、今日って本田の家にご飯食べに来たんだったよな」
「え! 忘れてたん?」
 本田は大袈裟な身振りを交えてそう言った。いつもはこんなことしないから、いつも通りを振る舞おうと頑張っているのだと分かった。
「いや、忘れてたわけじゃないんだけど」
「なんや、良かった良かった。お姉ちゃんも帰ってきたことやし、私らも下行こか」
 本田は、はい、と言って俺に手を差し伸べた。その上に手のひらを重ねて俺も立ち上がる。
 本田は本当に強い。いつもこうやって俺を引っ張ってくれる。前向きな空気を分け与えてくれる。でも、いつも強いからこそ本当に苦しんでいる時に誰も気づいてやれない。だからこそ、そういう時一番近くにいる俺が異変に気づいて、逆に引っ張ってやらないといけない。
「私の顔見つめてどうしたん?」
「いや、本田って強いなって思っただけ」
「そう? あ、湊くん。下行く前にもう一回だけハグしたい」
「うん、しよっか」
「湊くん! 大好きー! むぎゅっ」
 本田は腕を広げて勢い良く俺に飛びついてきた。よろけそうになりながらも俺はしっかり本田を受け止める。
「今度は効果音付きかよ」
「幸せを表現してみてん」
「じゃあ、俺も幸せを表現してみる。本田、大好き。むぎゅっ」
 本田はまだ少し赤い目で思っいきり笑ってみせた。これから先、俺達が引っ越しの話を考えずに共に過ごすことはないだろう。そうやって、気にしているうちにあっという間にその時が来てしまうだろう。でも、だからこそ、これからの俺達は今まで以上に強く結ばれていく。
 俺は本田をもう一度強く引き寄せた。

「へー。君が橋本くんか」
 俺達がリビングに下りてくつろいでいるとすぐに、背がそこそこ高くてしゃきっとした女性が現れた。短く揃えられた髪に端正な顔立ちで、どちらかというとかっこいい感じの人だった。
「えっと、橋本湊です。本田のお姉さん……ですか?」
「あ、そうそう。早紀っていうからよろしくね」
「よろしくお願いします」
 なんと言うかすごくあっさりした人だ。
「そうだ、橋本くん。メアド交換しようよ」
 本田の姉ちゃんは、それが当たり前であるかのようにポケットから携帯を取り出した。
「え、メアドですか?」
「そう」
 俺は戸惑いを隠せなかった。初対面でいきなり連絡先を交換しようと言われたのはこれが初めてだった。どうしようか迷って本田の方を横目で見たが、首をかしげて不思議そうに俺を見た。まるで俺がおかしいようだった。単に関西の人がこうなのか、それともこの家の人がこうなのか分からないが、とりあえず俺はスマホを取り出した。

「あれ、橋本くん、メアドにローマ字で真希とか入れてないんだね」
「そんなの入れませんよ!」
「ふーん」
 言いたいことを伝えると、すぐに他のことに関心を示すような態度。なんだろう。俺は、こういうからかい方をどこかで見たことがあるような気がする。そう思って本田の方を見ると、にこっと笑い返してきた。全然自覚がないようだ。
「はい、登録し終わったよ。じゃ、試しに何か送ってみるね」
「あ、はい」
 俺もちょうど本田の姉ちゃんのメアドを打ち終えた。
 そのまま待っていると、メールはすぐに届いた。
『真希の部屋の扉は防音じゃないからね。今度ハグする時は気をつけた方がいいよ』
 俺はゆっくりと顔を上げる。本田の姉ちゃんはにやにやしながら、ウインクをした。あれを聞かれていたのかと思うと急に恥ずかしくなって頬が熱くなった。
「これからは気をつけます……」
「ん? 湊くん? って、お姉ちゃんまた何か変なこと送ったん?」
「さーね。気になるなら橋本くんに見せてもらえばいいでしょ」
 本田は見せてと言わんばかりに四つん這いで俺の隣にやってきた。俺は体育座りで顔を伏せたまま、スマホだけ本田に見せた。
「あちゃー。聞かれてたんか」
「俺、もう恥ずかしくて本田の姉ちゃんの顔見れない」
 俺がそう言うと本田の姉ちゃんは大笑いした。俺は顔を上げて、それから、恥ずかしさを隠すために少し目を細めた。これがクリスマスツリーの前で、周囲の皆がべたべたいちゃいちゃしている中で見られたのならまだしも、本田にしか見せない自分を本田のことを一番良く知っている人に垣間見られてしまったことが恥ずかしくてたまらなかった。
「まあまあ橋本くん。大好きな人とのハグは気持ち良いもんね」
「俺もう、めちゃくちゃ恥ずかしいです」
「まあまあ、もう一回ハグしてみたら恥ずかしくなくなるかもよ」
「え?」
 本田の姉ちゃんは俺を弄ぶようにそう言った。俺をからかう時の表情が本田と本当によく似ている。
「ほらほら、ぎゅってしなよ」
「ほらほら湊くん。ぎゅってしよー!」
 本田まで乗ってきて、よく分からない状況になってきた。でも、本田の姉ちゃんと違って冗談とそうでない時の差がはっきりしていて俺も焦らずに済んだ。俺は言葉だけさっきの本田の真似をしてみた。
「じゃあ、ぎゅっ」
 気付けば俺は笑っていた。彼女の家族と会うことに少し構えていた部分があったが、いざこうして話してみると拍子抜けしてしまうほどに楽しい人だ。
「湊くん。ぎゅっ」
 本田も効果音だけ発して、満面の笑みを俺に向けた。
「ちょっと待って。あんたら初々しすぎるよ」
 本田の姉ちゃんは手で口を押さえて必死に笑いを堪えている。
「やれって言うたんお姉ちゃんやん」
 本田は照れながら、少し怒っているように言う。この姉妹は見ているだけで楽しくなれそうだ。
 リビングの扉が開いて、冷たい外気が入り込んでくる。
「ただいまー。ちょっと遅なってもうたわー」
「あ、お母さんお帰りー!」
「おじゃましてます。橋本湊です」
 俺はとっさに立ち上がってお辞儀をした。本田の母ちゃんは少し驚いて、それから俺をじろじろと眺める。少し試されているように感じた。
「噂には聞いてたけど、なかなか真面目そうな子なんやな。ま、よろしくなー」
 本田の関西弁をもっときつくしたようなそんな話し方をする。真面目そうに見えたならいい方か、と俺はとりあえず安心した。
「あ、せやせや。真希と湊にはあとで野菜切るのとか手伝ってもらうから、また呼ぶわ」
 そう言って、大きな買い物袋を提げて台所へ消えて行った。本田は「えー」と面倒くさそうに言っていたが、俺はなかなか嬉しかった。一緒に料理ができることもそうだが、何より名前で呼んでもらえたことが。本田の家族に受け入れてもらっているのかな、と心を踊らせる。
「橋本くん、橋本くん」
 本田の姉ちゃんは俺を手招きする。少し近づくと耳元で「二人で料理してるところ写真に撮っといてあげるからね」と言われた。懲りない人だなと思ったが、決して嫌には思わなかった。
「じゃあ、お願いします……」
「素直でよろしい」
 もうこの人に隠すことなんて何もない。素直になればいいか、と思った。
「またお姉ちゃん湊くんに何か言うたん?」
「さーね。ほらほら、もうすぐ始まるだろうから台所行ってきな」
 本田の姉ちゃんはそう言って俺達の背中を押した。
 三ヶ月後に本田は福岡へ行ってしまうわけだけど、今は今だ。せっかく本田や本田の家族とも仲良くなれるのに無駄にするわけにはいかない。この限られた時間を心の底から楽しんでやろうと思った。

「なあ、湊くん! 聞いて聞いて!」
「何か良いことあった?」
「この前の九州の地震の影響でお父さんの転勤、しばらく保留になってん!」
「マジで」
「ほんまほんま! もうめっちゃ嬉しいねん!」
「ちょっと、まだ信じられないけど……」
「私もはじめ信じられへんだ。でも、なんか難しそうな書類見せてもらってな。地震で喜ぶの不謹慎やけど、もうめっちゃ幸せ! ほら湊くん! ぎゅってしよ!」
「うん。俺も嬉しすぎて涙出てきた」
「せっかく残れるんやから笑およ!」
 本田は相変わらず勢い良く俺に飛び込んでくる。俺は本田を受け止めようと足に力を入れた。でも、本田はすっと俺をすり抜ける。驚いて振り返ると本田はずっと遠くにいた。そこは駅のホームだった。まもなく新幹線がやってくる。本田はさっと乗り込んで悲しそうに手を振った。
「本田!」
 俺は必死で走った。でも、扉は無情にも閉められた。新幹線が動き始める。どんどん加速していく。どんどん離れていく。
 慌てて目を覚ますと、枕元の時計を見ると夜中の三時だった。そして、すぐに全部夢だと気がついた。冬なのにパジャマは汗でびしょびしょになっていて、このままではもう一度寝られそうにもなかったから、着替えようとクローゼットを開けた。
 ぼんやりとした意識の中で俺は自分が泣いていることに気がついた。袖で拭いてもまた溢れてくる。前向きになろうなんて言ったものの、やはり本田がいなくなってしまうことを受け入れられなかった。単なる空元気に過ぎなかった。あと三ヶ月したら受験勉強もあるから一年間会えなくなってしまう。俺達が今まで付き合ってきた時間の何倍も長い。それまでに本田と色んな所に行って、色んなことをしたい。でも、楽しい時間を重ねるほど転校は確実に辛くなる。どうしたらいいのか分からなかった。色んなものに板挟みにされて、俺はその場でうずくまって泣いた。

 冬休みは短そうに見えて意外と長かったりする。でも、俺には時間がない。半ば焦り気味の俺は、初日の朝からエプロンに三角巾といういつもの格好で厨房にいた。
「なぁ、父さん。これ作れる?」
「ん? ああ、ちょっと待ってろ」
 父さんはそう言うと適当に生地を丸めて鮮やかにはさみを入れていった。ただの、団子に切れ目が入ったかと思うとそれが花弁へと生まれ変わっていく。何年かかっても叶わないな、なんて思っているうちに出来上がった。
「これでどうだ? で、こんなもの作れってまた急にどうしたんだ」
「いや、俺にこれの作り方教えてほしくて」
「またどうしたんだ?」
「いやー、そのー」
 父さんに言うのは照れくさくて、濁らせていると「本気か?」と真剣な目で俺をまっすぐ見てきた。俺の覚悟を問うよう厳しい目だった。
「もちろん本気」
「よし、じゃあ俺がみっちり叩き込んでやる」
「ありがとう、父さん」
「今日はやけに素直じゃねえか。じゃあ、始めるぞ」
 こうして俺の秘密の特訓が始まった。なんとしても間に合わせなければならない。

 巨大な寒波がやってきて寒さに震えていると、季節が戻ったようにまた暖かくなったり、なんだか忙しい日々が続いていた。本田の家でご飯を食べてから曜日が一周して、今度は本田が和菓子を食べにやってきた。年の瀬ということで少しだけ値段を下げて営業していることをどこからか聞きつけたらしい。
「ほんまに美味しいなぁ。もう最高」
「それは良かった」
「って、湊くんなんでエプロンなん? お手伝い?」
「んーっと、まあそんな感じかな」
 本田は「ふーん」と言いながらお茶を飲む。じろじろ見られていると食べにくいだろうから、俺は少しだけ店を見回す。やっぱり自分の家の店ながらなかなかいい雰囲気を醸し出していると思う。
「あ、そういえばいつ里帰りするか分かった?」
「んー、たぶん二十九日からやと思う。また決まったら言うわ」
 本田はもう一口練り切りを口に入れる。前来た時から、練り切りの虜になったらしい。
 冷たい風が店の中に入り込んでくる。扉が開けられたのを見た俺は慌てて立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
「あはは。橋本がちゃんと仕事してる」
 来店と同時にその客は指を指しながら笑ってきた。
「いつもしてないみたいに言うな」
「え!? きゅーちゃん!」
 本田は嬉しそうに勢い良く立ち上がるものだから、椅子が後ろに倒れそうになった。本田はそれをぱっと直して、はしゃぎながら手を握りに行った。バドミントン由来の反射神経だろうか。
「やっほー真希。あ、おばちゃん、こんにちは。苺大福二個くださーい」
「本当に昔から元気よね。ちょっと待っててね、すぐ持って行くから」
 俺の母さんは昔からこいつのことを気に入っている。そして、俺の物心がついた頃には家族ぐるみの付き合いになっていた。幼なじみというより、従兄弟くらいの感じがする。
「真希はなんでいるの? お家デート?」
「それもあるけど、和菓子安くなってるって聞いたから来てみてん」
「まじか。私と一緒じゃん。って、せっかく二人きりだったのに私邪魔しちゃったな」
「別に気にするなって」
 俺がそう言うと、本田も繰り返した。友達がいるなら、そいつらも含めてみんなが楽しむ。これが俺達の形だと思う。
「はい、おまたせ。苺大福二つです」
「わー、ありがとうございます! あ、お金、お金」
 ごそごそとポケットを漁ったかと思うと、代金ぴったりの小銭を母さんに渡した。
「はい、ぴったり確かに受け取りました」
 どうして、普段と値段が違うのに必要なお金が分かったのだろうか。不思議に思っていると、また扉が開いた。
「わー、きゅーちゃんもりーちゃん偶然だねー」
「期待してたら、美保もほんまに来てくれた!」
「うわ、すご。みんな集まってきたじゃん」
  苺大福を頬張りながらそう言った。その表情が幼い時から全く変わってなくて笑えてくる。
「ん? 橋本どうしたの? 」
 口の中に大福をまるごと詰め込んで、ハムスターみたいに頬を膨らませている。
「いや、子供の時からお前は何も変わってないなって思っただけ」
「な! これでも食べ方は綺麗になったんだからな!」
「食べ方じゃなくて表情が」
 なんて言ったものの、そこまで綺麗な食べ方とは思えない。言うとまたうるさくなるだろうから、言わないが。
「じゃあいいや。って、橋本まで私を子ども扱いするなー! 私もちゃんと成長してるんだからな!」
「ほんと、俺にケーキぶちまけたあの頃に比べたら成長したよな」
「そんな昔の話持ってくるな!」
「え、その話めっちゃ気になる! 湊くん教えてよ」
 本田まで食いついてきて、言わなければならない雰囲気になってきた。小さい幼馴染の方に目をやると、言うな、と訴えかけてくるように首を横に振り続けている。
「確か小学校入りたての頃だったかな。こいつの誕生日に、家に呼ばれて一緒にケーキ食ってたんだけど、どういうわけかケーキの切れ端が俺の顔に飛んできて。それで、こいつの顔もケーキだらけになってて」
 恥ずかしがっているのだろうか、ただでさえ小さいのに、椅子の上で体を丸めて膝に顔を埋めている。
「それから、二人一緒に風呂に突っ込まれて、仲良くお湯に浸かってたところまでは良かったんだけど、途中からシャワーで水かけあって一緒に風邪引いたって話」
 今でもどんな食べ方をしたらケーキが宙を舞うのか分からない。でも、こいつは確実に成長したし、腐れ縁のように小中高と共に過ごしてきたからちゃんと大人な所があるのも知っている。ちんちくりんなところは変わっていないのだが。
「ほんまに湊くんときゅーちゃんって仲良いよな」
「は!? 別に仲良くなんか……いや、仲良いか。一応何回も裸の付き合いしてるわけだし」
「誤解を招くような言い方するなよ。まあ確かにきゅーちゃんとは仲良いのかもな」
「うんうん。って、橋本まできゅーちゃんって呼ぶな! もうここ最近誰も名前で呼んでくれないじゃん!」
 やっぱりみんなでいるときはみんなで楽しむべきだ。そう思っていることがみんなに伝わっているのだろうか、みんなも俺と本田が付き合っていることを気にせず普通に話してくれる。変な気は、遣わなくて遣われないのが楽でいい。

 盛り上がっていると、再び扉が開いた。
「おーっす湊。元気にしてたか?」
 内村だ。後ろには坂上もいる。
「まさかとは思ってたけど、本当に来るとは。そういえば、二人共俺の家くるの初めてだっけ?」
 どうして今日に限ってこんなにクラスのやつが来るのだろうか。
「うんうん。ちょっと広告見てたら和菓子も食いたくなってきてな」
「広告?」
 俺がそう聞くと、内村はスマホを取り出して画面を俺に向けた。LINE公式アカウント。橋本堂……?
 俺は慌てて厨房に向かった。
「ちょっと、父さん。公式アカウントって何?」
 父さんは長机の方を指差した。いつもなら大量の資料が積まれていたはずの場所にパソコンが置いてあった。
「資料のデータ化に成功しちゃって、その勢いでLINEにも進出しちゃいましたー!」
 父さんはちゃらけてそう言った。
「そんなの初耳なんだけど」
「そういえば湊には言ってなかったな。ま、せっかくみんな来てくれたんだから、みんなのところ戻って楽しんで来いって」
 父さんはそう言って俺の背中をぐいぐい押した。うまくまとめられてしまって、結局何も聞き出せなかった。

 俺が戻ると、一つの机を囲んで座るみんなが俺を待ちくたびれたように見てきた。いつもなら集まることがない組み合わせを不思議に思いながら、俺はエプロンと三角巾を取った。たまにはこういうのも良いのかもしれない、と思い俺も席についた。

 十二月は本当にあっという間に過ぎていく。カレンダーを見ているといつの間にか本田の里帰りの日になっていた。品川から十時ちょうど発の新幹線で京都に帰るということで、俺はホームまで見送ることにした。決して忘れることがないよう紙袋をかばんに詰めて、俺は家を出た。
 駅まで歩いている時も、電車に乗っている時も、俺の頭をよぎるのは本田の元カレのことばかりだった。元カレは本当に過去を消化するためだけに本田と会うのだろうか。その行動の裏には何かしらの本意があるのではないか、と。でも、本田の意志は硬いはずだから変なことは起きないだろう。そうは思っていても、余計な心配事ばかりが頭の中に溜まっていく。

 本田とは品川駅で合流することになっていた。ただ、人が多すぎて、どこにいるのか全く分からなかった。しばらく歩き回っても見つからなかったから、逆に俺が止まってみることにした。それから少しすると、「湊くん! やっと捕まえられた!」と、いつものように元気な声が聞こえてきた。その方を見ると、大きなキャリーバッグを押した本田が目に入った。
「あれ、本田一人?」
「うん。毎年私とお姉ちゃんだけ帰ってたんやけど、今年はお姉ちゃん一日から仕事や言うててな。でも、見送りには来てくれたで」
 本田は人混みの向こうの方を指差した。俺でも全く見えないのに、俺より背が低い本田に見えるというのだろうか。
「何やってるの真希」
 本田の姉ちゃんは本田が指差した方とは真反対からやってきた。
「あ、全然違ったわ」
 俺と本田が笑っていると、本田の姉ちゃんは腕時計を気にし始めた。
「そろそろ改札入っといた方がいいと思うよ。真希まだお弁当買ってないんでしょ」
「うわ! 忘れてた! 急がな!」
 本田は慌てて駅弁屋に向かった。焦りながらも、何だかんだ言って楽しそうなのが本田らしいと思った。

 発車を知らせるベルがホームに鳴り響く。同じように見送りに来た人や、次の新幹線を待つ人でほとんど身動きが取れなかった。そんな中、俺はなんとか本田に紙袋を差し出した。
「何これ?」
「開けたら分かるから」
「そっか。ありがとうな。じゃあ、行ってきます!」
 本田は車内に一歩入って、それから振り向いて敬礼をしてみせた。
「いってらっしゃい。頑張って消化しきって帰ってきてくれよ」
「分かってる分かってる。じゃあ、また来年な。良いお年を。お姉ちゃんも良いお年を」
「うん。おじいちゃんによろしく」
「はいよ!」
 笛が鳴り、扉が閉まる。本田はいつまでも扉の前で立っていて笑顔で手を振っている。俺も本田がちゃんと頑張ってくれることに期待して精一杯の笑顔で手を振り返す。新幹線はゆっくりと動き始め、少しずつその速度を上げていく。滑りだすように一番後ろの車両が駅から抜けて、俺は一つため息をついた。
「本田、本当に大丈夫でしょうか」
「確かに心配だろうね。そうだ、橋本くん。喫茶店寄って帰ろうよ」
「でも、俺今お金持ってないです」
「私が奢ってあげるからさ。どう?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

 本田の姉ちゃんが連れて行ってくれたのは、大人な雰囲気のおしゃれな喫茶店だった。一人なら気になるけれど入れないような所だ。本田の姉ちゃんはそんなところに慣れた様子で入っていくから、素直にかっこいいなと思った。
「好きなの頼んでいいからね」
「えっと、じゃあココアで」
「じゃあ、私はレモンティーで。すいませーん。ココアとレモンティーください」
「分かりました。少し待っていてくださいね」
 白いひげを生やしたおじいさんがグラスを磨きながら答えた。なんと言うか、理想の喫茶店をそのまま現実にしたような感じがする。
「橋本くんさ、真希のこと好き?」
 本田の姉ちゃんは俺の目だけを見てまっすぐ聞いてきた。これは濁らせてはいけない質問であるような気がして、俺は少しだけ下を向きながらも正直に答えた。
「好きです……」
「うん。そっか。あの日、引っ越しの話も聞いたんだよね?」
「はい。でも、まだ受け入れられなくて」
「そりゃ、そうだよね。でも、真希もああ見えて必死に頑張ってるんだよ。前の人とは遠距離になった途端に別れちゃって、好きじゃなくなったのは真希のほうだけどそれが先入観みたいになっちゃっててね」
「はい、それも話してくれました」
 本田は自分のことをちゃんと話してくれた。たとえ、それが自分の非であろうがなかろうが、思ったことはちゃんと言ってくれた。
「だから、無かったことにするってのとは違うけど、今回元カレに会いに行ってちゃんと昔のことにして、自信持って福岡に行こうとしてるんだよ」
「本田が俺達二人のために頑張ってくれてることは本当によく伝わってきます。でも、本田と会えない毎日がやってくるのがとても怖いんです」
 マスターがそっと飲み物を持ってきてくれた。俺はぺこっとお辞儀だけして、熱いマグカップを両手で受け取る。息を吹きかけて少しだけ冷ましてから口を近づけた。
「確かにそれは怖いと思う。人はよく顔を合わす人に行為を抱くって言うしね。私も怖かった」
「早紀さん……も似たような経験あったんですか?」
 本田の姉ちゃんはレモンティーをすすりながら頷いた。マグカップ越しに見ていたその表情は昔を懐かしむようなものだった。
「私が大学一年生の時。彼氏がね、二年間イギリスに留学するって言い出してね。それでその翌月にもう出発しちゃって」
 もし、本田が突然留学すると言い出したら。本田の行動力ならあり得る話かもしれない。でも、留学なら悲しい感情よりも応援する感情の方が湧き出てきそうな気がする。
「俺なら、応援するかなって思います」
 俺がそう言うと、黙ったまま俺の目の奥を眺めるように見てきた。何かまずいことを言ってしまったのかな、と少し不安になり、それを紛らわすようにココアをもう一口すすった。
「私も応援してた。でも、不安だった。何がだと思う?」
「彼氏が他の女と遊んでないか、とかですか?」
「一応外国だし、それはないかなって思ってた。私が不安に思ってたのは私自身だった」
 私自身。俺はその言葉を無意識のうちに復唱していた。
「どういうことですか?」
「私が耐えられるか分からなかった。と言うか、耐えられないと思ってた。そのうち近くにいる男にグラッと傾いちゃいそうだなって」
 本当に好きな人はちゃんといるのに、その人のことが大好きなのに、気持ちは傾いてしまうものだろうか。俺にはその心の移り変わりがよく分からなかった。
「それは僕はよく分かりません」
「あの頃の私はパニックだったと思う。急に彼氏が外国に行っちゃって、彼氏のことよりも自分のこととか私達の関係ばっかりに目がいっちゃってた気がする。それで、今になったら思うんだ。私彼氏のことだけを真っ直ぐ考えれてなかったな、って」
 自分たちの関係を気にするのと、相手のことを見つめる、というのは似ているようで全く違うのかもしれない。そして、俺は気づいた。
「俺も引っ越しの話を聞いてから、ずっと続いていたい、というよりも、別れたくない、って思うようになってました。そういうところは早紀さんの経験とよく似ているのかなって思います」
 自分が何より願うことは同じでも、そこまでのアプローチが違えば、それは全く異なる結果を生み出すのかもしれない。本田の姉ちゃんの言葉を、俺はそう自分なりに解釈してみた。そして、また甘いココアを一口すすった。
「そうかもしれないね。私が思うに、遠距離恋愛で大事なのは相手を信じている自分のことをまず最初に信じているかどうか、ってこと思うんだ」
 経験から放たれる言葉にはそれ相応の重みがあった。この言葉は自分の中で大事に育てていくべきものだ、と直感的に感じた。本田の姉ちゃんはマグカップをそっと置き、両手の人差し指を立てた。そして、それらをくっつかくっつかないかぎりぎりのところまでそっと近づけた。
「まず、これが近距離恋愛の場合ね。二人は丸い世界の中心にいる。好きって気持ちがこもった絵の具を塗っていくってことにしよう。二人は真ん中にいるから、外に向けて絵の具を塗っていく。そうしたら意識しなくても自分たちの足元も塗れてたりする。時々お互いの顔に絵の具で落書きなんかしてもいい。そうして自分たちの世界を好きの色でいっぱいにできる。隙間なんてどこにもない」
 本田の姉ちゃんはそこまで言い終わると、レモンティーをもう一口飲んで、今度は指同士を離した。
「今度は遠距離恋愛ね。二人は丸い世界の両端にいる。近距離と同じように筆で色を塗ってたら自分の好きは自分の周りだけで終わってしまう。こんな時、どうしたらいいと思う?」
 そう尋ねる本田の姉ちゃんはすごく優しい目をしていた。きっと、遠距離恋愛でそれなりに苦労してきたのだろう。だから、俺に対してここまで丁寧に話をしてくれているのかもしれない。その優しさも相乗してか、たとえ話もすんなりと入ってきた。
「えっと、好きが入った絵の具をどうにかして相手の近くに塗ったらいいと思います」
「どうやって? 離れたらそんな頻繁に会いに行けないと思うよ」
「あ、そっか……」
 俺はまたその方法を考えた。自分の手で相手の近くに自分の好きが詰まった絵の具を直接塗れないなら、何をすればいい。実際あと三ヶ月で俺達は遠距離恋愛の身となる。離れて暮らす本田に俺は何をすればいいのだ。
「絵の具を何かに詰めて相手に投げつけちゃえばいいんだよ。防犯用のカラーボールみたいな感じで相手を自分の好きの色で染めちゃえばいい。でも、届かせて破裂させるにはそれなりの勢いをつけて投げなくちゃいけない。私はね、その勢いっていうのが、自分の気持ちにどれだけ正直になれるか、ってことだと思うんだ。大好きって気持ちも、相手に対する不満も、好きな所も嫌いな所も何一つ隠さず伝えられる力だって思うんだ」
 俺ははっとした。当たり前のように思うことだけどすごく大事なことだ。お互いが心地良いと思えて初めて一緒にいる価値が生まれるのだから。
 絶対、我慢したらだめなんだ。
 でも、俺にはまだひとつだけ分からないことがあった。
「好きを詰めて投げるって、何に詰めたらいいんですか?」
「それは手紙しかないと思うよ。電話もいいと思うけど、手紙はずっと残るからね。でも、ただ送るなら、相手のことを思うのはもちろんだけど、自分のことを信じられるように思いを込めて送らなくちゃいけない。結局、私は毎月手紙送ってたけど、ほとんど自分のために送ってたな。また一ヶ月相手のこと信じていられますように、って神様にお願いしながら」
 机に両肘をついて、手のひらに顎を載せながら俺の反応を伺ってきた。俺は最後の一口をちびちびと飲みながら、絵の具の喩えを自分の中に吸収させていった。
 本田の姉ちゃんは俺がどれだけゆっくり理解していっても温かい表情で見てくれていた。スプーンでレモンティーを何度も混ぜながら、俺を待ってくれているようだった。喫茶店に入ってからの、この短時間で驚くほど自分の気持ちが確かになったように思う。意思が固まった証として俺はそれを本田の姉ちゃんに伝えることにした。
「俺、本田のことが本当に好きです。だから、どれだけ遠くに行ってもこの気持ちしっかり届けます」
「うん。そうしてあげるといいよ。私が橋本くんに伝えたかったのはそういうことだからね」
 そう言ってすっと伝票を手にして、立ち上がる。見た目だけじゃなくて、中身もかっこいい人だな、と心の底から思った。

「ごちそうさまでした。また来ますね」
 本田の姉ちゃんがそう言ってお釣りを受け取るところを見ていると、左の薬指に婚約指輪がはめられていることに気づいた。本物の幸せを手に入れた証に、俺は内心羨ましさを覚えた。
「さ、行こっか」
「ココアごちそうさまでした」
「どういたしまして。橋本くんの助けになれたならとりあえずは良かったよ」
 そう言って扉を開けてくれた。カランとベルの音が鳴って、俺も本田の姉ちゃんに続いて外へ出た。大晦日ということもあり、沢山の人が楽しそうに歩いている。新たに始まる次の年への期待と、もう二度と戻ってこないこの年を惜しむ感情が混ざり合っているようにも感じられた。
「それじゃ、橋本くん。私、行くところあるからここでさよならね」
「はい。今日はありがとうございました」
「そうだ。いいこと教えてあげよっか」
「なんですか?」
「私ね、さっき話してた彼氏と結婚するんだ。じゃあ、また今度ね。良いお年を」
 本田の姉ちゃんは相変わらずあっさりとその場をあとにした。残された俺はしばらくその背中を眺めていた。
 今年の後半は本当にいろんなことが起こった。本田と付き合って、その家族を知って、幼馴染との意外な繋がりを知って。本当に楽しかった。広い歩道の真ん中でその余韻に浸りながら、まだ今年が終わってほしくない、とそう強く思った。


 第四章

 お弁当を食べ終えてすぐに名古屋に到着して、もうあと四十分ほどで京都に着く。私と同じように里帰りするのだろうか、周りの席では小さな子どもたちが座席の上に立って、高速で流れる景色を見つめていた。子どもは本当によく笑うなと思っていると、ふと思い出して、湊くんからもらった紙袋を開けてみることにした。
 その中には小さな箱が入っていた。これは練り切りを売るときに使う箱だ。バイトでずっと見てきたから分かる。私は練り切りが大好きだから、わくわくしながら蓋を開けた。

 中にはピンクの生地で、花の形に作られた練り切りが入っていた。ただ、いつものような繊細さや再現性は正直言ってどこにも無かった。でも、私はこれが何の花か、見た瞬間に分かった。
 これは、湊くんが初めて私の家に来た時に教えてあげたピンク色の山茶花以外の何物でもなかった。花びらの形はいびつで、そうと言われて初めて分かる程度の出来だったが、きっと湊くんは一生懸命作ってくれたのだろう。その跡はちゃんと残っていたし、下手でもそれだけで嬉しくなれた。
 蓋に箱を重ねようとした時、私は蓋の裏にメモが貼り付けられているのを見つけた。箱だけテーブルに置いて、一文字ずつメモを追っていった。
『花言葉を送ります』
 あの時、湊くんに花言葉を伝えようと思っていたのだが、少し恥ずかしくなって言えなかった。湊くんは、それを私の大好きな練り切りに乗せて送ってくれた。嬉しくて、愛おしくて、こういうことができるところも大好きだ。胸をきゅんと踊らせながら、噛みしめるように花言葉を呟いてみた。

 ピンクの山茶花。
 花言葉は、ひたむきさ。困難に打ち勝つ。

 そして、永遠の愛。

 第五章

 今年の桜は少しだけ早咲きだった。三月の二十日には色んな場所の色んな桜が満開になり、その様子は連日ニュースでも流れていた。
 本田が東京を去る日が刻々と近づいていた。二日後に福岡へ出発することを考えると、未だに現実味が無く想像できなかった。

 俺達は高校生としての最後のデートをすることになった。満開の桜の下で弁当を食べたりしながら日が暮れるまで話をしよう、ということで二人の意見は一致した。場所は新宿御苑。俺達の始まりの場所だ。
「湊くん、おまたせー。なんとか間に合ったわ」
 駅前で五回ほど腕時計を眺めた時、本田はいかにも春らしいすっきりとした格好で現れた。
「おはよう。って、十分も遅れてるけど」
 俺が笑いながらそう言うと、本田は「バレてたか」と言いながら謝ってきた。
「湊くんとお出かけや思ったらなかなか着ていくもん決まらんでん。そや、どう? この格好十分遅れた価値ある?」
 そう聞かれて、俺は少しだけ離れて本田の格好にざっと目を通した。着飾りすぎないおしゃれ、と表現するのが一番だろうか。春を思わせる淡いピンクの上着を腰に巻きつけて、七部丈のTシャツと、すっとしたジーンズという組み合わせだった。
「似合ってると思うよ」
「そう言うと思ってたけど、やっぱり嬉しいわ」
 本田は満面の笑みを浮かべて、早く行こうよと言わんばかりに歩き始めた。今日も本田は本田だな、と思いながら俺はその様子を見ていた。
「本田」
「どうしたん?」
「そっち反対方向なんだけど」
「うわっ、恥ずかし」
 本田はそう言って慌てて俺の元へ戻ってきた。冗談であろうが、本気であろうが、やっぱり本田と一緒にいると楽しくて、自然と笑みがこぼれる。

 俺達は数ある桜の内、端っこの方の、人がまばらな木の下に座ることにした。真っ青な空と、ほのかなピンク色に染まる花との対比がとても綺麗だった。
「あー、心が洗われるわ」
 本田は芝生の上に、大の字になって寝転んで目を閉じた。
「レジャーシート敷く?」
「今はいいわ。なぁ、湊くんも寝転がろよ。芝生の上で寝たら春と一つになってるみたいに感じるで」
 広場を優しい風が走り抜けて、ふんわりと本田の髪を揺らした。本当に気持ちよさそうな顔をしている。
「じゃあ、俺も寝る」
 芝生は少しだけちくちくしたが、一度体を委ねてしまえば特に気にならない程度だった。俺も本田と同じように両手足を広げて、そっと目を閉じた。子どもたちが走り回ってはしゃぐ声や、大人たちが楽しそうに歌う声、そして、風が芝生を撫でる音がよく聞こえた。
「最高やない? このまま寝てまいそう」
「確かに。そういえばさ、秋に見た紅葉もこんな感じで俺達の上一面に広がってたよな」
「校門前のあれか。あれもめっちゃ綺麗やったよな」
「うん。でも、俺、桜の方が好きかも」
 目を開けると空いっぱいの桜が春の匂いとともに揺れていた。ぽかぽかした空気と、爽やかな日差しがまた一層気持ちいい。
「私もそうかも。桜のほうが私らに合ってる気がする」
「なんとなく分かるかも」
 今日は会話がどこかゆったりとしている。大したことは話していないのに、十分幸せになれた。これは、きっと、隣にいるのが本田だからだ。
 俺は伸びをするように両手をもっと大きく広げた。そうしたら本田の指にぶつかってしまって、俺は少しだけ本田から離れた。
「え、なんで離れるん? ちょうど良い距離やったのに」
 本田の方を見ると、ほっぺたを膨らませながら何か言いたげに俺を見つめてきた。何を思っているのか大体察した俺は、元の場所に戻った。
「本田ってもしかして寂しがりやさん?」
 俺は本田がいつもそうするように、冗談っぽく言ってみた。
「うん……」
 図星であるかのように頬を赤らめて小さな返事とともに頷くものだから、全く予想していなかった反応に俺は少し焦った。返す言葉が思い浮かばなかったから、とりあえず手の甲を本田の指先に乗せてみた。
「なんか、色んなものと繋がってる感じがするわ。このまま春に溶け込んでまいそう」
「分かる気がする」
 そんなことを言っていると、ぐー、っとお腹がなった。でも、俺ではない。顔だけ横に向けると、本田はお腹に手を当てて遠くを見ているような目をしていた。
「まだ十一時だけど、お弁当食べる?」
「いや、もうちょっと頑張るわ」
「頑張ってその先に何が待ってるんだよ」
 俺は笑いながら本田に突っ込んだ。本当にいつも変なところで意地を張る。
「お腹鳴らへんようになる能力が手に入るかもしれへんで」
「あ、結構気にしてるんだ」
 俺がそう言うと、またお腹がなった。それもさっきより大きくて長い。本田は恥ずかしがっているのか顔に手を当てて、こっちを見ようともしない。
「一応、私も女子やもん」
「なんか女子って男子よりずっと苦労してる気がする」
「そう? まあ、気にしなあかんことは多い気するけど」
「お腹の音とか?」
 俺がそう言うと、本田は少しだけ間を空けて口を開いた。
「うわー。もう知らんからな。恥ずかしいことえぐり返すのはいくら彼女相手やいうてもあかんと思うで。じゃあな、私もう帰る。バイバイ」
 本田はそう言うと、立ち上がって手提げかばんを肩にかけて走ってどこかに行ってしまった。俺も起き上がって追いかけようと思ったが、本田の弁当はちゃんと残されたままだったから、おとなしく帰って来るのを待とうと思った。
 と言っても、俺は少し焦っていた。きっと帰ってきてくれるだろうけど、その後の雰囲気も心配だった。帰ってきたらちゃんと謝ろうと決めた。でも、本田のことを考えれば考えるほどに、時間が経つのが遅く感じられた。


「わっ!」
「うおっ!」
 後ろから急に大きな声を出されたものだから、俺は体ごとビクついて、恐る恐る後ろを見た。
「心配したー?」
「何だ本田か。良かった良かった」
 てっきり酒で酔っ払った大人に絡まれたのかと思った。
「湊くん、これ食べようよ」
 そう言って本田はレジ袋から細長い袋に入ったものを取り出した。
「なにこれ」
「桜クレープやって。一緒に食べよ」
 ひょいと投げられたそれを俺は両手で包み込むように受け取った。ひんやりとしていて、アイスとクレープの中間のような感じがした。
 包みを破いて、初めて食べるそれを少しだけかじってみた。冷えすぎているのか、中のアイスが少し固かったけど口の中で溶かすといい感じになった。そして、ほんのりと爽やかな香りが広がる。よく分からないけれど、これが桜味なのだろう。ただ、一度そう思ってしまえば、不思議と確信が湧いてきた。
「桜味って初めて食べたけど、これ美味しいな」
「私も初めてや。買って正解やったかも」
「うん。ありがとう。それとさ、さっきはごめん」
 謝るなら今しかないと思った。
「気にせんでええのに。ちょっと脅かしてみただけやで」
 本田が笑いながらそう言うものだから、俺はなんだか拍子抜けしてしまった。
「え? そうだったの? 俺、結構焦って不安になったのに」
「そらまあ一応女子やから多少気にするところはあるけど、私はそんなにやで。でも、中にはそういうこと言われるの嫌がる人もおるから、他の人には気を付けた方がええんとちゃう?」
「うん、分かった」
 やっぱり本田は大人だ。色んなことの本質を理解しているように思う。冗談と人を傷つける言葉との微妙な差のことにおいても。彼女以前に、俺は本田のことを尊敬している。

「本田はさ、本当に東京の大学でいいの?」
 帰る時間が近づくにつれ、俺達の話題はより現実的に、そしてより切実なものへと変わっていった。
「うん。もう決めてん」
 そう言う本田の口調はとても強い意志が込められている様子だった。
「そっか」
「湊くん。私な、湊くんと結婚するために東京戻ってくるから」
「そんなこと言ってくれるの本田だけだと思う」
 ここまで一途に俺を想ってくれて、涙が出てきそうになった。
 この三ヶ月で本田の気持ちは本当に強くなったと思う。はじめは泣いていたり、自分の運命を嘆いていたりしたけれど、最近はしっかり前を向けている。俺も、はじめは空元気だったけれど、今は心の底から本田を信じている。そして、本田の姉ちゃんの言葉通り、自分のこともしっかり信じている。
 俺達は再び桜の下で寝転がった。今度は大の字じゃなくてぴったりくっついて。そして、周りの人にバレないようにこっそり手を繋ぐ。
「なんか周りの人こっち見て笑ってへん?」
「多分、手繋いでるのバレてるよな。どうする? 離す?」
 俺がそう聞くと、本田はゆっくりと首を横に振った。
「もう今日くらいは人に見られてもいいやん」
 本田は俺の手をいっそう強く握った。俺もぎゅっと握り返した。
「うん。なあ、本田」
「何?」
「高校生の時から付き合って結婚って確かに少ないけど、それでもそういう人がいることは確かだからさ、別に夢でも何でもないと思うんだ」
「うん」
 桜越しに、薄桃色に色付いた夕日が本田の頬をほんのりと染める。
「だからさ、これから一年自信持って生きていこうよ。俺達なら大丈夫」
「うん、私らなら。あのな、湊くん。私さ、私らには桜が似合うって言うたやんか」
 そう言えば午前中そんなことを言っていたような気がする。俺は「うん」とだけ答えて頷いた。
「桜はすぐに散って、またすぐに葉っぱでいっぱいになるやんか。もし今の私らが桜の花やったら、結婚してからは葉っぱになるんかなって思うねん。恋が愛に変わるって感じで、華々しさはすぐに無くなっても、そっから先ずっと鮮やかな葉っぱ付けてたいなって思うねん」
 本田の姉ちゃんも喫茶店でたとえ話をしていた。見た目とか性格は違えど、そういうところはちゃんと姉妹なんだな、と思った。
「俺もどきどきわくわくだけが好きって気持ちじゃないって思うんだ」
 確かに本田と一緒にいると胸が踊るし、隣にいるだけで幸せになれる。でも、これはきっと本田と付き合ってそれほど月日が経っていないからだと思う。どきどきする気持ちは少しずつ無くなっていくものだと思う。
 でも、恋愛的な高揚感が消えたとしても俺は本田のことが好きだと思う。高校生が本質なんて語るものじゃないと思うけれど、恋が愛に変わるのは好きの種類が変わるときだと思う。恋愛的な好きから人間的な好きへと移り変わっていく時に、それでも相手を愛し続けられるか、これが分かれ道だと思う。
 結局、本田の話も同じことを言っているのだろうと、そう俺なりに解釈してみた。

 少しずつ周りの人が帰る準備を始めた。春でも夜にかけて寒くなるから、俺達も帰ることにした。一年間会えないから、といって特別長く一緒にいるわけでもなく。そうしてしまうと、これが俺達にとっての最後になってしまう気がして。だから、何か特別なことはしたくなかった。
 本田は二日後に東京を去る。この三ヶ月で本田と共に成長してきた俺は、ちゃんと笑って送り出せそうだ。

 本田の両親は引っ越し業者とともに車で福岡に向かい、どうしても友だちに別れを告げたいと頼み込んだ結果、本田は新幹線で博多に行くことになった。出発は午後六時。俺達は駅までの道を無言で歩いていた。あれだけ気持ちは固まっていたはずなのに、いざ別れの時が近づくと悲しさがどんどん膨らんできた。
「本田。一年ってどれくらい長いんだろうな」
「お正月から、大晦日までやろ?」
「そういうことじゃなくてさ」
 そこまで言って俺は気づいた。本田もいつになく寂しそうな表情をしていたのだ。寂しいのは俺だけじゃなかった。
 それでも、本田はいつもの調子で冗談を言ってくれた。
「ごめん、本田。なんか今日の俺、調子悪いや」
「ううん。それとな、湊くん。今までずっと前向いて頑張ってきてくれたけど、別に寂しく思ったり悲しく思ったりするのは悪いことやないと思うねん」
 本田の口から意外な言葉が飛び出して、俺はもう一度、今の自分の気持ちに向き合ってみた。前向きな気持ちはあるものの、正直言って寂しさがかなりの領域を占めていた。
「でも、前向かないとだめじゃん」
「でも、寂しさは抑えこまれへんやろ?」
「それはそうだけどさ」
「だから寂しさは抑えこむんじゃなくて、利用したったらええと思うねん。最近思い付いてんけど、寂しかったら寂しい分相手のこと想ったらええと思うねん。そうやって、二人がまた会える日まで頑張ろよ!」
 俺ははっとさせられた。一見前を向く妨げになると思われる感情すらまえに向くために利用できるとは。きっと本田は今まで考えて続けてきたのだろう。
「本田。ありがとう……」
「ちょ、湊くん! 泣いたらあかんで!」
 そう言われて俺はこぼれそうになった涙をぎりぎりのところで止めた。一応出てないか確かめるために目を拭った。
「危な……」
「今日は笑ってバイバイしよ」
 本田はそう言ってとびきりの笑顔を向けてくれた。俺も頑張って笑い返した。それから、どちらからとなく手を繋いで駅まで歩いた。

 新幹線は今までどれほど多くの別れを見てきたのだろうか。それが、短期間のものであれ長期間のものであれ、あるいは永遠のものだとしても、今までたくさんの寂しい想いを運んできたのだろう。
 本田が乗るのは二本後の新幹線だった。俺達はホームの隅の方で、何かを話すわけでなく、ただ並んで前の方を眺めていた。俺が本田の顔を見ると、本田はそれに気づいてにこっと微笑み返してくれた。そしてすぐに、アナウンスがホームに響き渡り、次の新幹線が滑りこんできた。ゆっくりと減速して、止まったかと思うと、すぐにたくさんの人が乗り込んでいった。笛が鳴り、扉が閉まり、間もなく駅から出て行った。
 俺はホームの電光掲示板に目を凝らした。あと五分もしない内に本田とは離れ離れになってしまうのだ。

「なあ、本田。一年間これを持っててほしいんだ」
 俺はかばんからヘラを取り出して本田に差し出した。
「これって和菓子作るときのやつ?」
「そう。本田が一番気に入ってる、練り切りを作るときに使うやつ」
 俺はそれを本田の手のひらに重ねた。そして本田の目を見つめた。
「大事にするわ。ありがとう」
 本田は俺にきゅっと抱きついた。俺も本田の背中に手を回す。体をくっつけると、言葉はなくともいろんなことが伝わってきたように感じた。
「湊くん。入試直前までは毎月手紙書き合おな」
「うん。たまにはLINEもしような」
「寂しくなったら電話でもいいやんで」
 俺達は、これから先、俺達が繋がる方法を確かめるようにそう言い合った。これからの一年で俺達は好きが混ぜ込まれた絵の具をお互いの周りに塗り合ってその範囲を広げていかないといけない。そして、心の底から相手のことも自分のことも信じ合って生きていかないといけない。

『新幹線をご利用いただきありがとうございます。まもなく、二十三番乗り場に、十八時ちょうど発、のぞみ四百一号、新大阪行きが到着いたします。安全柵の内側までお下がりください』
 本田は急に寂しそうな顔をした。ここで泣いてはいけない、と俺は本田の頬を両手で掴み、俺の目だけを見つめさせた。
「本田、いや、真希。俺は真希がちゃんと帰ってきてくれるって信じてるから。一年間、真希のただいま待って頑張るから」
「私も湊のおかえり目指して一年間頑張るから。絶対待ってて」
 一本芯が通っているような、そんな強い目をして、本田は俺をしっかり見つめてきた。
 本田が乗る新幹線が見えてきた。誰も見てないことを確認してから、俺は本田にそっとキスをした。驚いた様子だったが、しっかり受け入れてくれた。

 これから新しい俺達の付き合いが始まる。俺達の本当の信頼度が試されている。そして、俺達が結婚するための最初の試練だ。
 扉が開いて、本田は一歩ずつ足を進めていった。
「じゃあ、湊くん。また一年後」
 本田はヘラを振りながら、とびきりの笑顔を俺に向けた。
「また一年後。って、ヘラでバイバイしてる人初めて見た」
 俺も笑いながら手を振り返す。
「やろ? 世界で私らだけのバイバイやで」
 そう言って微笑む顔は、今までで一番輝いていた。
「本田らしいな」
「違う違う。私ららしいねん」
 本当にその通りだ。これが俺達の形だ。俺達の好きの色だ。
 笛が鳴らされる。扉がゆっくりと閉まっていく。
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
 俺達は手を振り続けた。新幹線が動き出すと、俺も歩いて手を振り続けた。
 本田はあっという間に遠くに行ってしまった。気づけば新幹線の後ろ顔だけが遠くに見えていた。

 俺にとって本田がどれほど大切か、これからの一年で思い知ることになる。だからこそ、逆に遠距離恋愛を利用してしまえばいい。本田が帰ってきた頃には、俺達の好きは今の何倍にも強くなっているはずだから。
 俺はひと粒だけ流れた涙をそっと拭って、前を見た。



 今年は初雪がクリスマスという、恋人たちにとっては最高の日となった。夕方から降り始めたかと思うと、その勢いは夜が深まろうと衰えることを知らず、しんしんと東京に雪が降り積もっていった。
「はあ。なんでクリスマスなのに私が橋本なんかとお酒飲まなくちゃいけないのさ」
「いや、飲もうって言い出したのお前だろ?」
 俺はそう言ってグラスを傾ける。こうして誰かと二人で酒を飲むのは初めてだった。
「そういえばさ、橋本。こんなものあるんだけど見る?」
 そう言ってボロボロのメモ帳を取り出し、俺は少しだけ机に体を乗り出してそれを覗きこんだ。
「何それ?」
「昔ね、私がみんなから好きって何か聞いてて。その時、真希はなんて答えたと思う?」
 こいつは今さら本田の話を持ち出してくるのか。でも、あの頃の本田が何て答えたのか気になって聞いてみることにした。
「何て言ったんだ?」
 二十五歳になった今でも本田と付き合っていた頃のことは鮮明に思い出せる。自分でも本当に仲良しだったと思う。とは言っても、本田が福岡に行って四ヶ月で捨てられたのだが。
「さあ、何でしょう」
「だから教えてくれよ。そういえば、お前と本田も仲良かったよな。きゅーちゃんとか呼ばれてたじゃん」
 あの頃のこいつは、確かきゅーちゃんと呼ばれることを少し嫌がっていたような気がする。
「それが今でも呼ばれてるんだな」
 俺はそれを聞いて驚いた。今日の夕方電話がかかってきて、高校卒業以来初めてこいつと会ったが、未だに本田と連絡を取り続けているのだろうか。
「今でも電話したりしてるの?」
「ううん。普通に直接会って遊んでるんだ」
「え? 本田って今どこに住んでるの?」
「東京だけど……。それさえも知らなかったの?」
「うん。もう別れてからは全然」
 俺は本田に振られてからショックの余り、連絡を取ることすらできなかった。とりあえず東京に住んでいることは分かったが、どんな仕事をしているのかも、今彼氏がいるのかも何も知らない。
「そうなんだ。それで、あの頃の真希ね、好きって気持ちは心の声だって言ってたんだ」
「心の声?」
「そう。要するに頭で考える物じゃないって言いたかったんだと思うよ」
 俺は「そうなんだ」とだけ返して、またグラスを傾ける。あんまり酒に強くないから、俺は少ない酒をちびちび飲んでいった。
 好きが心の声なら、本田の心は遠距離恋愛四ヶ月目で俺を必要としなくなった、ということだ。あれだけ結婚しようと言い合っていたことを思うと、やっぱりあの頃の俺達は子どもだったんだな、と抗うことのできない運命に諦めのような感情を抱いていた。そして、思い出すたびに今でも何故かとても悲しい気持ちになった。もうあれから七年以上経っているのに。
「なあ、きゅーちゃん」
「だから橋本まできゅーちゃんって呼ぶな。で、何?」
「今彼氏とかいるの?」
 きゅーちゃんは、はぁとため息をついて、馬鹿にしたような目で俺を見た。
「彼氏がいたら橋本なんかと一緒に酒飲んでないって」
「そっか。って、なんで俺を誘ったんだ? 本田と飲んだら良かったんじゃないのか?」
「真希、彼氏とデートだって。だから、仕方なく橋本を誘ってみたの」
 デート……。その単語を聞いて体がぐらっと傾いたような気がした。
 どうしてこんなにも俺の胸は痛み出すのだろうか。振られてしばらくは立ち直れなかったけど、俺はもうとっくの昔に諦めた。それなのに、どうして。本田が俺のことを好きでなくなった以上、もう好きでいることは許されないと思って自分の好きを無理やり抑えこんだはずのに。
「ん? どうしたの?」
「いや、なんで本田に彼氏がいることがこんなに辛いんだろうなって思って」
「もしかして、まだ諦めてないの?」
「諦めたはずなんだけど。……よく分からなくなってきた」
 本当に自分の気持ちが分からない。でも、本田に彼氏がいるなら、たとえ俺が本田のことをまだ好いていたとしても、その想いが形になることはない。自分が何を思っているのか、そして、自分は何をしたいのか。全然分からない。
「それが真希の言う心の声ってやつじゃないの? 橋本の心はまだ真希を求めてるのかもね」
 そう言われると、急にそんな気がしてきて、余計に自分の気持ちが分からなくなった。
「分からない。でも、もしかしたらそうなのかもしれない」
「そっか。こんなこと、今の橋本に言うのは酷だけど、もしかすると真希今の彼氏と結婚しちゃうかもね」
 俺はどきっとした。俺達はもう十分結婚できる年齢だ。そのことを改めて思い知らされた気がした。
「そうだよな。別におかしくない歳だもんな」
「そうだね」
 俺ははっとした。やっぱり、俺は本田との付き合いをまだ引っ張っているのだろうか。
「橋本も彼女作っちゃえば、真希のこと忘れられるかもよ」
「俺も今まで何回も作ろうとしたし、チャンスもあったんだけど、結局付き合えなかった」
 少しずつ、俺の心の中で答えは決まってきていた。でも、今の本田の状況がそれを許さない。
 なんて、思っているということは、俺は確実に本田のことを諦められていない。そんなこと始めから分かっていた。でも、もうどうしようもない。本田も結婚して、俺の家に結婚式の招待状が届くのも、そんなに遠い話ではないような気もするのだから。
「どうしたの? そんな難しい顔して」
「いや、本田の結婚式招待されたら行った方が良いのかなって」
「あー、真希のことだから昔のことなんか気にせず招待してくるだろうね。でも、行ってあげるべきだと思うよ」
 小さな幼馴染はうとうとしながらそう言った。目はぼんやりとしていて、いつ寝てもおかしくないような状態だった。
「おい、ここで寝るなよ。俺連れて帰らないからな」
「えー。橋本、お持ち帰りしてよ」
「相変わらず誤解を招く言い方好きだな。もう今日はお開きにするか」


 外に出ると、一面雪景色だった。俺はまだ足あとの付いていないまっさらな雪の上を歩きたくなって来た時とは違う道で駅に向かうことにした。幼馴染ちゃんは外の寒さで目が覚めたらしく、一人でまっすぐ駅へと向かったのだ。
 まだ雪は降り続いていたから、頼りないながらも折りたたみ傘をさして歩いた。

 ホワイトクリスマスということで、駅前の広場には二人で一つの傘に身を寄せ合うカップルで埋め尽くされていた。
 俺はその間をすり抜けるように歩いた。でも、とあるカップルを横切るときに、何かとても懐かしい感じがして俺は歩みを止めて振り返った。そして、俺はその彼女と目が合った。
 七年経っていてもすぐに分かった。

 本田だった。

 本田も俺に気づいた様子だった。でも、驚くのではなく、何故か寂しそうな目をしていた。
「何見てるの?」
 本田の彼氏であろう男が本田の肩に手を回した。
「いや、なんでもあれへんよ」
 本田がそう答えると彼氏はひらりと向きを変えて歩き出した。本田はずっと俺の方を見ていたが、最後は彼氏についていくように歩き出した。俺は二人の後ろ姿を呆然としながら眺めていた。

 最寄駅から家までの歩き慣れた道が、今日はやたらと長く感じられた。本田の顔を見て、俺はやっぱり本田のことが大好きだと分かった。でも、彼氏を見てしまったことで、今まで味わったことのないほどの強烈な虚しさに襲われた。
 雪が降ると街は急に静かになる。俺が雪を踏んだ時の、きゅっという音以外は何も聞こえない。こうして歩いていると、別に死ぬわけでもないのに本田との思い出が走馬灯のように頭の中をぐるぐると駆け巡り始めた。俺のことを好きだと言ってくれたことは何回もある。でも、俺は今一人だ。あの頃の言葉は嘘ではないけれど、気持ちは変わってしまうものなのだ。

 もうすぐ家につくという時だった。急に着信音が鳴って、俺は一人で驚きながらスマホを取り出した。画面に映る本田の名前。俺は焦りながら緑色の通話アイコンを押した。
「もしもし」
「あ、湊くん! 湊の家行ってもええ?」
 本田が突然そう言うから、俺はどう答えていいのか分からなかった。何を考えているのか全く読めない。
「どうして?」
「どうしても言わなあかんことあるねん!」
 本田は息を切らしながらそう言った。今さら本田が俺に言うことなどあるのだろうか。
「彼氏いるのに俺の家来ていいの?」
「とにかく行くで!」
「ちょ、どういうこと」
 そこで電話は切れた。たった二十秒の電話だった。マイペースなところも、関西弁も、高校の時と何も変わっていなかった。
 わけが分からなくて戸惑っている裏で、久しぶりに本田と会えることを期待している自分も少なからずいた。

 本田は電話を掛けてきてから三十分でやってきた。移動が早いところも昔と全然変わってない。
 風邪を引いてはいけないから、俺は話を聞く前に本田を部屋に招き入れた。父さんと母さんは、大人になった本田が来たということでリビングに連れ込もうとしたが、俺はなんとかそれを阻止することができた。
「湊くんの部屋すっきりしたな」
「勉強机無くなったしな。とりあえずコート脱いだら? ハンガーあそこに掛かってるから」
 俺はカーテンのレールを指差した。
「あ、あれか」
 本田が再び俺の部屋に来るなんて、ついさっきまで絶望の底にいた俺には想像もできなかった。こうして本田とまた話せただけで、内心とても嬉しかったりする。
 本田はコートを掛け終えると、何故か正座で俺の真正面に座った。本田は俺の目だけをじっと見つめてきた。
「まず湊くんに報告することがあります」
 本田は何故か敬語で、ゆっくりと言葉を紡ぐように言った。敬語だから余計に嫌な予感がして手汗が滲んだ。
「私な、福岡の高校の時からさっき一緒におった人と付き合ってきてん。それで、さっき結婚を申し込まれてん」
 鼓動が早くなって、手が震えてくる。どうして、嫌な予感はこうも当たるのだろうか。
「それで?」
 声も震えてしまっている。聞きたくないけれど、聞かなきゃいけないのだろう。俺は血の気が引ける思いで本田に聞いた。
「断りました」
「え?」
「だから、断ってん。もう別れてきた」
「なんで?」
 俺は混乱して逆にそう聞き返していた。
「あそこで湊くんに会ってもうたから」
 本田はそう言いながら、頭を床に付けた
 俺は本田に、頭を上げさせようとした。でも、本田はもっと深く土下座した。
「私寂しすぎて、その時優しくしてくれた人に気持ち浮つかせてもうてん。はじめは罪悪感でいっぱいやったけど、気づけば心地よく思い始めてる自分がいた。湊くんとの約束破ったことずっと後悔してたけど、もう湊くんは許してくれへんやろな思って、後悔忘れるためにその人と仲良くしてた。湊くんのこと忘れようとしてた。でも、気付けば彼氏連れて東京の大学行ってた。ずっと、どこかで湊くんと会えへんかなって思って暮らしてた。湊くんのこと忘れることなんかできひんだ!」
 本田は何度もごめんと謝りながら、泣いた。約束を破った上に他の男と付き合っていた本田に腹が立たないわけはなかったが、こうしてまた俺の前に現れてくれたことへの安心感のほうが何倍も大きかった。
「本田。とりあえず顔上げて」
「もう湊くんに合わせる顔あれへん」
 本田はまた泣きじゃくった。俺は本田の体を無理やり起こして、昔駅のホームでやったように俺の目だけを見つめさせた。
「本田。おかえり」
「私はおかえりなんか言われる資格ないのに。湊くんのこと裏切ってもうたのに」
「確かに俺は裏切られた。でも、不思議と本田のこともう一度だけ信じてみてもいいかなって思えるんだ」
 本田はまた涙をこぼした。俺の好きはたった七年間で消えることも、弱まることもなかった。
「湊くん。ほんまにごめん。こんな私で良かったら、もう一回やり直してくれませんか……?」
 本田はどれだけ後悔しているかは、表情を見ればすぐに分かった。俺は本田を今まで一番強く抱きしめた。
「俺も本田とやり直したい」
 俺がそう言うと、本田は泣きながら俺にキスをしてきた。泣きながらも、こんなに幸せそうな本田を見たことがない。
「湊くん。予定より六年も遅くなってもうた……。ただいま」
 今まで散々世の中の残酷さを見させられてきたが、この瞬間はそんなことも全て忘れてしまうほど幸せだった。本田が六年も他の男の物になっていたことに対しては胸が痛むが、帰ってきてくれたなら何でも良かった。

「あのな湊くん。私な、キスと最後のあれだけは六年付き合ってても一回もしてないねん。と言うか、できひんだ。でも、今思ったらほんまにせえへんで良かったなって思うねん」
 本田は聞いてもいないのに突然そんな話を始めた。でも、彼氏と色んなことをしてきたのだろうなと諦めていたから、そのことを知ってけっこうほっとした。
「湊くんのためにちゃんと取っといたで」
「恥ずかしいこと言うなって」
 本田はえへっと笑ってみせた。顔は大人っぽくなって、髪も下ろすようになったけれど、仕草とか口調は本当に昔のままだった。そう思うと、俺達の本来の関係に戻れたんだ、と安心感でいっぱいだった。
「今日の私テンション高いから、暴走しそうになったらちゃんと止めてな」
「もしかしたら止めないかもな」
「冗談やって。そんなんこれからいつでもできるやん。あ、そや。私のかばん開けてみて」
 本田は自分のかばんを指差した。俺がこれを開ければいいのだろうか。とりあえず開けて中を確認してみた。すると、見覚えのあるものが姿を見せた。
「これ。俺が渡したヘラじゃん」
 駅のホームで俺が渡したやつだ。本田との思い出は七年前のこととは思えないほど鮮明に思い出せる。
「うん。なんか自然と持ち歩くようになっててな」
「それが本田の心の声ってやつ?」
 俺がそう言うと、本田は頬を赤く染めた。そして、俺に「なんで知ってるん!?」と半ば尋問のように聞いてきた。
「いや、今日の晩さ、きゅーから始まってちゃんで終わる背低い誰かさんと居酒屋行ってて、その時メモ帳見せてくれたんだ」
「うっわ、きゅーちゃんやりよった。もう、そんなこと言うてた思ったら、恥ずかしすぎるわ」
 本田は照れた顔を隠すように、俺の胸に顔を埋めてきた。昔と変わらない仕草が、すごく愛おしくて、俺は本田の頭を撫でた。

 時計を見るともう十一時だった。いくら本田も都内に住んでいるとはいえ、流石にそろそろ帰らないとまずいような気もしてきた。
「本田、電車の時間大丈夫?」
「んー? あ、もうこんな時間か」
 本田は時計を見てものんびりとごろごろしている。俺は手を引っ張って起き上がらせようとしたが、本田は眠たそうに目をこすって、何かを訴えるような目で俺を見てきた。
「今日は湊くんと寝たいな」
「着替え持ってないだろ?」
「じゃあ寝る時だけ湊くんのパジャマ借りて、明日の朝今来てる服で帰るわ」
「って、そもそも父さんと母さん許してくれるかな」
「私らもう大人やで。結婚できる年なんやから、大丈夫やって」
 本田はそう言って俺のベッドに潜り込んでしまった。これは俺が父さんたちに話をつけてこないとダメなのだろう。
「じゃあ、聞いてくるけど。ちゃんと風呂入ってくれよ」
「んー、よろしくー」
 俺が再び部屋に戻ってきた頃には、きっと本田は夢の中だろう。まあ、幸せなら何でもいいかと思い、俺は階段を降りてリビングに向かった。


「湊。これもついでに家の中持って行って」
「これ以上は、手足りないって」
 真希は残りのレジ袋を全部俺に押し付けてきた。その一方で真希は牛乳二本を大切そうに抱え持っている。
「じゃあ、真希が鍵開けてくれよ」
「はいよ」
 俺達はあれから二年後の十月に結婚した。高校の修学旅行で俺達がカヤックに乗った日に。
 付き合っている時から嫌なところはとことん言い合ってきたからか、一緒に暮らすようになっても全然我慢することはなかった。結婚生活は我慢の連続だ、なんて言われるけど毎日とても幸せに暮らせている。

「ほら湊くん、先入って」
「はいはい」
 俺達には家に入る時の大切なルールがある。
「早く早く」
 真希に促されるがままに、俺は先に家に入ってレジ袋を置いた。
「ただいま、湊」
「おかえり、真希」
「はいはい、次入れ替わって」
 俺は外に出て、真希が家の中に入った。今度は、俺が後から家に入る番だ。
「ただいま、真希」
「おかえり、湊。よし、晩御飯の準備しよか」
 俺達にとって「おかえり」と「ただいま」はすごく大切な意味を持っている。だから、二人一緒に帰ってきた時は必ずこうやって家に入るようにしている。傍から見れば馬鹿らしいのかもしれないけど、これが俺達の好きの形だ。

 結局、俺は橋本堂を継がないことになった。就職活動をどうしようか迷っていた時に、父さんが「家業でお前を束縛する気はない」と言ってくれて、俺は一般企業に就職することになった。大学で勉強したこともそれなりに役立っているし、給料もそこそこだし、毎日充実している。これまで何度も、家に親孝行としてお金を送ろうとしたのだが、その度に父さんは頑なに断ってきた。きっと父さんはまだまだ現役で働くつもりなのだろう。

 最近、真希との話でよく話題になるのが家と子どもの話だ。二人の貯金と照らし合わせながら、大体いつ頃に何をするか少しずつ決めている段階だ。家族計画だとか、女性の出産適齢期だとか、今思うと家庭科や保健の授業は馬鹿にできない。昔習ったことを思い出しながら、二人でまた新しく勉強している最中だ。

「湊は唐揚げ作ってくれへん?」
「じゃあ、真希はポテトサラダとみそ汁よろしく」
 俺達は狭いキッチンで一緒に料理をすることが多い。一人でやった方が早く片付くが、それでも一緒に料理を作る。
「はいよ! あ、牛乳入れやな!」
「今日の献立のどこに牛乳入れるんだよ」
 俺は笑いながら、肉に揉み込むタレを作っていく。冗談だとは思うが、一応心配だったので見てみると、本田はもうコップに牛乳を注いでいた。
「ちょ、ほんとにそれはだめだって」
「冗談に決まってるやん。これは今私が飲むやつ」
 真希は牛乳パックを冷蔵庫にしまうと、元気よく一気に飲み始めた。
「あー、染みるわー」
「ほんとに牛乳好きだよな」
「そのセリフ何百回目やろな」
 真希は口の周りを牛乳で真っ白にして、微笑んだ。いつもなら全部一気に飲み干すのに、半分飲んだところで真希はコップを置いた。
「残りの半分、湊にあげる」
「ありがとう」
 俺は残りの牛乳をゆっくりと飲んだ。最近は、真希のおかげでメグミルクの美味しさが分かってきたような気がする。
「湊、サンタさんのひげみたいになってるで」
「真希もな」
 俺がそう返すと、真希は案の定、初めてそのことに気付いたように驚いた。それから、俺達は顔を見合わせて思いっきり笑いあった。
 牛乳のまろやかな味が幸せな心を優しく包み込んでくれたように感じた。

 おしまい








 

いつか君にただいまを

いつか君にただいまを

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-22

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