ファウストの憂鬱、悪魔の微笑

1

 俺が『ファウスト』を初めて読んだのは小学六年の頃で、第一章まで呼んだ所で本を置いたのを憶えている。
 それは文体が、或いは内容が難解だったからではない。その本はある程度平易な文章で書かれていたし、幼い頃から本の虫だった俺には何の苦も無く読めた。
 問題は内容にある。
 早熟だった俺は当時、早く大人になりたいと思っていた。
 特別な事件や動機があった訳ではない。子供であることを理由に大人に意見を無視されることは数えきれないほどあったし、そういうものであると諦めも付いていた。ただ、子供ながらに、子供だからこそ、軽視される理由が「子供だから」というのは耐え難かった。
 故に、俺は大人になる事を望んだ。言葉に説得力のある、経験を積んだ、誰からも認められる大人に。
 そして、『ファウスト』の主公であるファウスト博士。彼は知識も権威も持ちながら、学問のみに捧げた人生を悔い、悪魔メフィストフェレスに若さを望んだ。
 当時の俺は、老ファウスト先生に全く共感を覚えられなかったのである。
 俺ならば。
 俺ならこんな風になど、絶対にならないのに、と。

 ***

 それは、笑い声だった。
 くすくすと、楽しげな。それでいて、何処か嘲笑するような。圧倒的な高みから、見下し嘲笑うような。
 くすくす、くすくすと、笑う声。
『Mein Meister ……』
 声の隙間に、そんな単語が混じる。
 ――マイスター。何だっけ。聞いた事がある。
 ――ああ、確か、ドイツ語だ。
 ――意味は、達人、師匠とか……先生、だったか。
 考える間にも、くすくすという笑いは続く。
 ――そういえば、これは誰だろう?
 今更ながら、そんな疑問が脳裏を過ぎった、その時だ。
 不意に、笑い声が途絶える。
 そうして、愉悦を含んだ声色で。

『……リョーゴ。』

 名前を、呼ばれた気がした。
「あ……?」
 浮遊感と共に目を覚ます。同時に、無遠慮な大音量が耳に飛び込んできた。
「おい、亮悟! 何寝惚けてんだよ、授業終わったぜ」
「ホント良く寝てるね。いい加減起きなよ遠原」
「……あー……?」
 頭を掻いて、俯せていた机から身を起こした。頭に鈍い痛みがある。最近ずっとこの調子だ。
 改めて周囲を見回せば、何の変哲もない普段通りの教室だ。通い慣れた俺の高校、自分のクラス、二年B組。進級から一月、未だに慣れない教室への違和感さえ、寸分違わずいつもの通りである。
時間は既に放課後に突入し、人もまばらになり始めていた。
 そして、俺の目の前には馴染みの友人が二人。
「悪い、完璧に寝てた」
「見たら分かるよ」
 二人の内の頼れる方、小林が苦笑する。相変わらず見本のような綺麗な笑顔だ。内心小さく感心しつつ、俺は二人に訊ねた。
「あのさ、今マイスターとか言ったの、お前等?」
「はぁ? 何それ、何語だよ」
 大袈裟にそう言ったのは、阿呆な方の友人、中谷だ。阿呆な方というのは決して悪口ではない。純然たる事実である。
「だよな。中谷がそんな言葉知る訳ないか、中谷だし」
「おい、何だよそれ?」
 俺にも小林にも笑われ、あからさまな膨れ面を作る中谷。そういう所が幼く見られる一因だと思う。
「大体、そんなの誰も言ってねーぞ。事故で頭おかしくなったんじゃねぇの?」
「そんな軟な頭はしてない、お前と一緒にするなよ」
「何だとコイツ! ホント可愛げねぇな!」
 べし、と頭をはたかれる。勿論ほんのお遊びで、痛いとすら思わない。
 ひとしきり笑ってから、少し真面目な声に戻って、小林が俺に訊く。
「でもさ、本当に大丈夫なの? 怪我とか」
 心配そうなその声を、つい頭の隅でさっきの笑い声と比べてしまう。俺は適当に相槌を打った。
「ああ、まあ……」
 我ながら歯切れの悪い返事だ。案の定、中谷が顔をしかめた。
「何だよ、どっか悪いのか?」
「いや。実は良く覚えてなくてさ、その事」
「覚えてないって、下校中の事故だったんでしょ?」
 小林がそう促す。確かにそれはその通りだ。しかし。
「ああ、下校してて……その後は病院のベッドの上だ」
「はあ?」
 解せぬと顔で語る中谷だが、それが事実なのだから仕方がない。俺だって解せない。
 俺は一週間ほど前、ゴールデンウィークの終わりに事故に遭ったらしい。らしいと言うのは先述の通り、気が付いた時には病院のベッドだったからである。事故前後の記憶が全く無く、どんな事故だったのかというのにも覚えがない。見知らぬベッドで目覚めた時には、すわ何事かと相当混乱したものだ。
 加えて不幸な事には、目撃者も居なかったのだという。俺はただ倒れている所を通行人に発見されたそうだ。特別危ない目に遭ったような覚えも無いので、正直な所、本当に事故だったのかも今となっては定かではない。
「医者は軽い記憶障害じゃないかってさ」
「記憶喪失ってヤツか?」
 中谷の問いに軽く頷く。俗っぽく言えばそんな所だ。
「ま、他に記憶が無くなってる訳でもないし、ちょっと頭痛はあるけど、怪我もほとんど無いから大丈夫だろうって」
「ふうん、結構適当だな」
「そんなもんだろ。大した事じゃない」
 実際に検査を受けて、それでも何事も無いのだから、医者としても手の施しようが無いのだろう。結局検査の為に三日ほど入院し、大事を取って何日か自宅で様子を見、本日晴れて登校と相成った。学校に行かなかった日数は、連休と合わせれば二週間を軽く超える。
 ゴールデンウィークが明けたらクラスメイトが事故に遭っていたという事実は、周りの目にはさぞ大事にも映っただろう。だが特に何もなかった俺の実感としては、精々遅れた分の勉強が面倒臭いといった程度だ。
「ふうん。まあ、何かあったら言ってよ」
「ああ、ありがとな」
 あくまで親身な小林に微笑んで、俺は荷物を持って席を立つ。
「じゃあ俺、部活行くから」
「あれ、お前部活なんてしてたっけ?」
 中谷が随分今更な事を訊いた。だがこれに関しては、阿呆の中谷からでなくても頻繁に訊かれるのだ。取り立てて反応する事も無く、普通に答える。
「ああ、文芸部に」
「文芸部ぅ? お前が? 初耳だぜ?」
 大げさに驚く中谷とは対照的に、小林は相変わらずの笑顔でしれっと言う。
「僕は知ってたけど」
「え、マジかよ!?」
「うん。一年の時も行ってたよね、たまーに」
 小林の言葉に、俺は軽く頷く。
「ウチの部、基本ユルいからな。掛け持ちオッケーだし、原稿さえ出してりゃそれで良いし」
「ふーん……なんつーか、パッとしねぇなー」
「いや、ねぇ?」
 不本意ながら彼等の気持ちも良く分かる。文芸部の知名度など、何処の学校でも低いものだ。しかし、ここは部員としての面子が勝った。
「地味で悪かったな」
 そう抗議すると、まあまあという小林の中立の笑み。
「何にせよ、無理はしない方が良いと思うよ?」
「ああ……まあ運動するわけでもないし、今日は顔出すだけで帰るから」
じゃあな、と席を離れる俺に、後ろから声が掛かる。
「気を付けろよ」
「ああ」
 俺は背中越しに、中谷に向けひらひらと手を振った。
 小林は勿論だが中谷も、阿呆とは言え決して悪い奴ではないのである。

 ***

 教室を出て、俺は真っ直ぐに部室へと向かった。
 文芸部の部室は、一昨年建て替えられた部室棟の二階の一角にある。まだ真新しい部室棟はその全室に冷暖房完備の豪華さだ。一般生徒の知名度こそ低い文芸部だが、ある理由からこの一等地に、優先的に部室を持てることになっていた。
 ――部室棟に来るのも随分と久し振りな気がする。
 ゴールデンウィーク中にも部活はあったので、実際にはここに来るのは一週間かそこらぶりだ。とは言え、何だか妙に感慨深いものがある。教室ではそんな事を考えもしなかったのにと部室棟を見上げていると、背後から声を掛けられた。
「遠原君」
 振り返ると、見知った顔が立っていた。
 大人しめの顔立ちに、切り揃えられた肩口までの髪。前髪は長い部分だけヘアピンで止められており、きっちり膝下丈のスカートは校則のきついこの学校でも珍しい。
「ああ、栗原。久し振り」
 栗原知佳(ちか)。俺と同じ文芸部の二年生であるが、その生活態度は真逆に近い。何せ初等・中等科では学級委員、ここ高等科ではクラス代表常連という、絵に描いたような優等生だ。その噂は高校から編入の俺でも、一年の間に嫌というほど知らされた。
 久し振りに会った優等生は、心配そうに俺の方を窺う。
「怪我はもう良いの?」
「まあな。そもそも大した怪我してないし」
「そっか、よかった」
 自分の事のように顔を綻ばせる栗原。その様子は可愛らしいと言って差し支えないだろう。
「じゃあ今から部活来るの?」
「ああ、そのつもり」
「ほんと? きっとみんな喜ぶよ」
「面白がっていじられるの間違いじゃなくて?」
「あー……そんな事ない、と思うよ……?」
 否定しきれず微妙な笑みを浮かべる栗原に、俺は一つ苦笑を零す。栗原の言葉を信じられない訳ではないが、何せ文芸部は曲者揃いだ。希望的観測は抱くまい。
「あの、じゃあ……」
「ん?」
 栗原は俺から少し目を逸らして口を開く。
「その、部室まで一緒に、」
 栗原が言いかけたその時だ。
「ああーッ! 遠原ぁっ!!」
 音が波であることを再確認させるような大音量が廊下に響く。
 驚いて俺と栗原が肩を震わせたと同時に、俺達の目の前には人が立っていた。流石は我が校の誇るスプリンター・藤澤夏希。外でやれ。
「うっさい藤澤。こっちは怪我人だぞ?」
 分かりやすく顔をしかめてみせれば、「ソレだよっ!」との音波攻撃。思わず耳を抑えた俺に、藤澤は遠慮なく畳み掛ける。
「お前何だよ事故って、もう良いのかよ? 怪我とかホントに治ってんの?」
 騒々しい口調とは裏腹に、その眼は妙に真剣味を帯びている。厚意だろうそれを無碍にする訳にもいかず、俺は渋々頷いた。
「大丈夫だって皆に言って回ってる所だ、何度も言わせるな」
「あたしは聞いてないぞ!」
「言ってる時に来いよ」
「何だよ、相っ変わらずふてぶてしい奴……」
 拗ねたようにふいと視線を逸らす藤澤。そして、小さくぽつりと一言。
「……心配して損した」
「何?」
「何でもないッ!」
 わざわざ訊き直してやったら怒られた。理不尽である。
「まあまあ、二人共その辺に、ね?」
「なんだよちーちゃん、コイツの味方ぁ?」
 栗原の制止に、藤澤がふてくされたような声を上げる。
「私は文芸部の味方です。早くしないと遅れちゃいますよ」
 顔が広く敵の少ない栗原らしい、優等生の返答だ。これには流石に藤澤も口をつぐんだ。
「あー、まあ、じゃあ行くか」
 何となく俺がその場を仕切って、俺達は部室へと足を進めた。

 ***

「ちわー」
 形だけの挨拶をして、俺はドアを開けた。
 目前に広がるのは懐かしの文芸部だ。部屋の中央には会議用の細長いテーブルをくっ付けた大きなテーブルが鎮座する。その上は相も変わらず、歴代の部員によって持ち込まれた本で雑然としていた。部屋そのものが綺麗なだけに却って目に付く。というか掃除はしなかったのか。
部室には既に先客が二人居た。その内の一人、背の高い方がこちらを振り向く。それに合わせて、緩い癖のある長髪が揺れた。
「あら、遠原じゃない久し振り! 相変わらず両手に華ね、羨ましい」
 三年生の副部長、櫻井朱莉沙(ありさ)先輩。驚いた顔をしつつも、台詞の後半にはからかうような声色が混じっている。
「別に、」
 口を開きかけた俺に先んじて、女子陣が慌てて否定する。
「そそ、そんなんじゃないっすよ!」
「な、何言ってるんですか先輩!」
 本気で言い募る二人の顔は、心なしか赤い。そりゃそうかと溜め息を吐き、俺は改めて先輩に抗議した。
「……別に、そんなんじゃないですけど」
「あらそ。朴念仁ね」
 つまらなさそうにしたのも一言だけで、先輩はすぐにまた悪戯な笑みを浮かべる。
「それで何、事故ったんだって? なっさけないわねーもー!」
「どーもスミマセン」
「全くよー、あんたが居なきゃ真澄とナッちゃんくらいしかイジれないじゃないの」
「え、あたしは入ってるんですか!?」
 頓狂な声を上げる藤澤を横目に、俺は先輩に向けて再び溜め息を吐く。
「勘弁してください。部長をいじってれば充分でしょう」
「やーよ、真澄ったら最近可愛くないんだもの」
 部長のあの態度は最近に始まった事ではないと、思いはしたが黙っておく。言質を取られると厄介だ。厄介というのは櫻井先輩がではなく、部長がである。
「そういえば、部長は?」
「ああ、真澄なら今日は図書委員よ。帰って来次第、こっちの連絡事項伝えるって。それまでは適当にしてて良いわよ、三人とも」
「はい」「はーい」
 女子二人はすんなりと頷き、各々の定位置へ向かう。藤澤は本棚に本を物色に行き、手に取った本をぱらぱらと捲っては元に戻す。栗原は机の端に座り、私物の文庫本を鞄から出した。
 俺も席に着こうかと荷物を置いた所で、つつつ、とこちらに寄ってくる者があった。
「遠原さん」
「並川」
 声を掛けて来たのは、もう一方の先客だ。数少ない文芸部の新入生、寡黙な一年、並川沙弥。口数の少ないコイツの方から話しかけてくるというのも珍しい。
 切り揃えられた前髪の下からこちらを見上げ、並川は短く言った。
「平気?」
「あ? ……ああ、まあな」
 唐突過ぎて一瞬何の事かわからなかったが、すぐに事故の話だと思い直す。我が道を往くコイツまでもがその話とは、俺の事故欠は余程センセーショナルに映ったようだ。
「そう。良かった」
「おう」
 頷きに頷きで返し、会話は終了。相手が並川ではこんなモノである。むしろ、今日は会話として成立しているだけマシかも知れない。
 何事も無かったかのように元の席に戻り、分厚いハードカバーを読みだす寡黙な後輩。俺も今度こそ席に着き、暇を潰すべく近場の一冊を手に取る。少し古い、洋物のハードなファンタジーだった。こんなものを持ち込んだのは一体どんな人物だったのか。
 俺が本を読み始めて数分も経たずに、再びドアの開く音が部室に響いた。
「すみませぇーん、遅れましたぁ~」
 間延びした声が部室に響く。ちらりと視線だけを向けると、ウチの新入生その二が入り口に立っていた。彼女の動きに合わせ、ふわふわしたウェーブの髪が肩の上で揺れる。
「あら遥ちゃん、いらっしゃい。遅かったわね、今日はどうしたの?」
 出迎え担当と化した櫻井先輩が彼女、島崎遥に寄って行く。俺は本に視線を戻し、何とはなしに二人の会話に耳を傾けた。
「はい~、宿題を忘れちゃって~」
「ちょっと、また? 今月何回目よ」
「はい~、五回目ですかねぇ」
「……大物ね」
「居残りだって、流石に怒られちゃいました~」
「それは災難だったわねぇ」
 えへへー、と照れ笑う声が途絶えると、「あれ?」という呟きが聞こえる。そして、こちらへ向かって来る足音。
「遠原先輩、お久し振りです~」
 俺が顔を上げると、ほわんとした島崎の顔が目に入った。今まで読んでいたものがシリアスな展開だっただけに、そのギャップに付いて行けない。我が事ながら、恐らく俺はかなり微妙な顔をしている事だろう。
「相変わらず間延びしてるな、お前……」
「酷い事言わないで下さいよ~。わたし、これでも普通に喋ってるんですよぉ?」
「じゃあもう何も言う事は無いな」
 ひらひらと手を振ってやると、先輩ヒドイ~、と騒ぎ立てる後輩。初めて顔を合わせてからこっち、妙に懐かれているようだったが、この手のタイプは正直持て余す。
 どうしたものかと思っていると、ガチャリ、と三度目のドアの音がした。すかさず櫻井先輩が出迎える。
「あら、お帰り真澄」
「ああ朱莉沙、お疲れ」
 落ち着いた中音が桜井先輩に答える。
 満を持しての部長のご登場だった。
「その様子じゃ、また生徒会長様にこき使われたのかしら?」
「ああ、間宮の人遣いの荒さには脱帽するね」
 三年生、芥川真澄先輩。文芸部部長にして、部で一番の稼ぎ頭である。
 稼ぎ頭というのは比喩でも何でもなく、この先輩は短編長編ジャンルを問わず書き捨てるように話を書いては、年間通して四、五本の作品で受賞して来るのである。他校では零細部として隅に追いやられがちな文芸部だが、彼女の業績のお蔭でうちでは十分な部費と部室が割り当てられている。文芸部が冷暖房完備の一等地に居を構えられるのも、パソコン・印刷機を筆頭とした備品の豪華さも、偏にこの人の権威によるものだった。
 因みに、某芥川先生とは何の関係も無い。
 部長はそのまま櫻井先輩と二、三談笑すると、俺に目を留めた。
「ん? 何だ、久し振りだな遠原。事故だっけ? ようやく復活か」
「はあ。お陰様で」
「さぞや筆の進んだことだろうな、羨ましい」
「はは、そりゃあもう」
 そこで俺の身体の調子より筆の進み具合を気にする辺りが、何とも芥川先輩らしい。つられて笑った俺を見て、話し相手を取られた櫻井先輩が絡んで来る。
「何よー遠原、あたしの時とは随分態度が違うじゃない?」
「そりゃあ『帝王』に逆らうほど馬鹿じゃないですよ」
 芥川先輩の通称、『帝王』。
 曰く、本気を出した芥川真澄に喧嘩を売れる人物は居ない、という。
 それは文芸部内に止まらず、彼女と親しい人なら大抵は知っている渾名だ。勿論面白半分ではあるが、半分はあくまで半分なのである。
 だがしかし、先輩はそんな俺達を見て苦笑した。
「馬鹿言ってないで、連絡伝えるぞ。他の皆も読書中悪いが、ちょっと聞いてくれ」
 頷くなり返事をするなりの反応を返し、俺達文芸部員は部長付近に集合した。文芸部が最も聞き分けの良い瞬間である。
 芥川先輩は幾つかの事務的な連絡をして、最後にこう付け加えた。
「それから前に言ってた通り、明日の土曜日はウチで蔵書の虫干しをする。手伝いに来る奴は?」
 ――そうか、そんな行事もあったっけ。
 完全に不意討ちを食らった俺をよそに、他の部員は次々と参加表明をする。
「はい、わたし行きます!」
「やった、虫干しだ!!」
「わたしも行きます~」
「わたしも」
「ま、いつも通りね」
 櫻井先輩の締めで、計五人。主催の芥川先輩は勿論参加で、俺以外は全員参加の流れだ。
「遠原は? 退院すぐだし止めておくか?」
 芥川先輩が俺に訊ねる。少し考えた後、俺は端的に答えた。
「いや、行きます」
 特に用事もないし、体調もまあ大丈夫だろう。何より先輩の家の虫干しは、古書に触れる絶好の機会である。
「じゃあ全員参加という事で、連絡は以上だ。後は適宜解散してくれ」
 部長の号令になっているんだかいないんだか、よく分からない一声が掛かる。
 俺達はわらわらと帰り支度を始めた。

  ***

 何となくの流れ解散で、俺達は部室を後にした。部員全員で移動の時は大抵俺がしんがりを務めるが、今日もその例に漏れなかった。
 部室棟から出た所で、俺の前を歩く藤澤が急に立ち止まる。何事かと思えば、ご丁寧にも藤澤本人が解説をくれた。
「あ、靴紐踏んだ」
 間抜けな呟きと共に、しゃがみこんで靴紐を縛る藤澤。何とはなしに隣を抜けようとした俺だったが、お蔭で嫌でも目に入るものがあった。
 膝と足首の、サポーター。
 このところ文芸部に入り浸ってはいるが、藤澤の本業はスプリンター、陸上部のエースだ。怪我さえしなければ、今も大会に向けてグラウンドを走り回っていた事だろう。
 二月ほど前、一年の終わりから取れないサポーターを見詰めながら、俺は藤澤に訊ねる。
「お前さ。いつになったら走れるんだ、その足」
「え?」
 驚いたように声を上げ、慌てて紐を結び終える藤澤。縦結びになっているのにも気付かずに立ち上がり、心なしか不自然に歩き出す。
「あ、ああ、これね。この間医者に見せに行ったんだけど、競技の方はまーだストップ掛けられてて。もう少し様子見だってさ。でも経過は悪くないらしいから、多分もうすぐかな」
「ふうん」
 藤澤に並んで、俺は何となく相槌を打った。
 俺は運動には疎いし魅力も感じないが、普段からあれだけ活発な藤澤だ。きっと堪える休養だろう。流石に見ていて痛々しいものがある。
「早く走れるようになると良いな」
「え、あ、うん」
 途端に藤澤はきょどきょどと視線を彷徨わせる。訝る俺の前でえー、とかうー、とか唸った後、ぱっと顔を上げたかと思うと、焦ったように笑みを浮かべる。
「あ、あたしちょっと用があるからあの、先帰るわ!」
「え?」
「ま、また明日なー!」
 捨て台詞の後はまさしく脱兎の如くである。そうやって酷使するから治りが遅いのではないだろうか。
「……面倒臭い奴」
 あっという間に小さくなる後ろ姿を眺め、俺は溜息を吐いた。
「遠原君」
 そんな俺に、栗原が声を掛けて来る。
「どうしたの?」
「ああ、藤澤が……」
 言おうとして、言葉を切った。アレは何と言うべきだろうかと一瞬考え、結局無難にお茶を濁す。
「いや、何か先帰っちゃって」
「そっか……」
 神妙な顔で何事か考え込む栗原。暫くの間そうしていたが、やがて彼女は俯きがちに、恐る恐るといった調子で言葉を紡ぐ。
「じゃあ遠原君、その……よ、良かったら、」
 語尾をすぼませて俯く栗原に、何となく次の台詞を察した、
 その瞬間。
 ――ずきり、と。
 目の奥、頭の中央が軋む感覚。すぐ目の前にいる筈の、栗原の声が遠のいていく。
「えっと、あの、い、一緒に、帰らない?」
 余りの痛みに頭を押さえる。
 ――何だ? 頭が痛い。栗原は何て?
 聞こえた筈の栗原の台詞が殆ど頭に入って来ない。
 ――一緒に? 何? 帰り? 痛い。痛い。
 考えようとしても、反響するような痛みが邪魔をする。
「ゴ、メン。ちょっと俺、頭痛くて……」
 何も考えられずにそう返せば、栗原がこちらを向く気配がする。
「あ、だ、大丈夫!? 顔すごく青いよ!?」
「ああ、多分……」
 最近多いあの頭痛だろう。ただ、こんなに痛んだ事は無かったけれど。
「悪い、俺もう少し休んでから帰るから」
 先に帰れと言う前に、栗原が食い下がった。
「ならわたしも、」
「いや、悪いけど」
 遮った俺の言葉に、栗原がびくりと肩を震わせる。
 拙いな、と思う。思ったより強い声音になってしまった。フォローを入れようとするが、それさえ痛みで満足に出来ない。
「ごめん、喋るの、キツくて」
 やっとの事でそれだけ言うと、栗原は小さく呟くように言う。
「ううん、その、ごめん……」
 ちらりと栗原を窺えば、申し訳なさそうに俯いている。今にも泣きそうな表情だ。
 もう一言、何か付け足そうとしたが、それより先に栗原が口を開いた。
「その、ごめんね、お大事に!」
 それだけ言うと、彼女も駆けて行ってしまった。ローファーではさぞや走りにくいだろうと、どうでも良い事が頭をよぎる。
「あー……」
 思考が痛みで鈍っていく。
 ――酷い顔をさせてしまった。頭が痛い。させた俺が言うのもなんだけれど。割れるように頭が痛い。後で埋め合わせをしなくては。痛い、痛い、痛い。
 ――頭が、痛い。
 くすくす、と。
 耳元で、あの声が笑った気がした。

2


 文芸部部長、『帝王』芥川先輩。
 彼女の文章力には、それ相応の背景がある。
 彼女の祖父は重度の読書狂いであると同時に、本の蒐集家であったそうだ。旧家のお坊ちゃんだった彼は、その財力にものを言わせ、本を買い集めてはずらりと書棚に並べ、悦に浸っていた変わり者だという。
 馬鹿でかい洋館にも収まりきらず、最終的にはその為に蔵を一つ建てたという膨大な量のその蔵書は、未だに芥川家の所有物だ。とは言え、今の芥川家はただの中流階級の家庭であるので、その管理は祖父直々に読書狂を伝染(うつ)された孫娘――即ち、芥川真澄先輩に委ねられている。
 だが、それだけの本の手入れなど、当然人一人の手で済むものではない。
 一方で、古書を実際に目にし、手に取る機会というのはなかなかに少ない。出来る事なら実際に見てみたい、触ってみたい、読んでみたいというのが文芸部員、否や本好きの性である。
 そんな利害の一致から、俺達文芸部員は定期的に、芥川家の蔵書の虫干しを手伝っているのであった。
 が。
「ホント人遣い荒いよなー……」
 俺は現在、本を抱えて芥川家の敷地を彷徨っていた。
 結局、昨日の頭痛はあれから三分と経たずに収まった。家に帰ってからも再発する事は無く、今朝は痛むどころか大変爽やかな目覚めを迎えた程だ。
 欠席しようにも理由が無く、連絡するのも面倒臭い、何よりこの行事は嫌いじゃない。
 そんな訳で予定通り虫干しに参戦した俺だったが、例によって例の如く、三年生の先輩方にこき使われる羽目になった。仮にも怪我人なので手加減があるかと思ったら、どうやらとんだ甘い読みだったようだ。
「こっちは怪我人だって分かってんのかな」
 意味が無いと分かりながらも、そうぼやかずにはいられない。
 因みに頼まれた用事とは、干し終えた蔵書の収納だ。本館の大書庫にしまって来いと、大判の分厚い本ばかり、六冊ほど渡された。確かに男手が欲しい仕事だし、勢いで受けてしまったのだが、如何せん俺は方向感覚が鈍かった。
「ここが蔵の裏だから、確かあっちの……」
 虫干しにはこれまでも参加してきたが、大書庫とやらには行ったことがない。おまけにこう広いと自分がどちらを向いているかも分からなくなる。芥川先輩に教わった道順をうろ覚えで復唱しながら、俺は建物の角を曲がろうとした。
 ――途端に、ずき、と頭に痛みが走る。
「痛っ、」
 短く鋭い痛みに、思わず目を閉じ――瞬間、何かにぶつかった。
「うわっ!」
 結構な衝撃の大きさに本の重さも相まって、俺は盛大に尻餅をついた。同時に抱えていた本も辺りにぶちまけてしまう。
「やば」
 慌てて本を拾いながら、何にぶつかったのかと目線を先へ上げる。
 驚いた事に、俺がぶつかったのは人だった。
 あまりに何の反応も無いので、てっきり何か物にぶつかったのだとばかり思っていた。
 向こうは俺より少し年上、大学生くらいだろうか。身長の高い、まあ美青年と言える部類だろう。服装と言い髪型と言いやや不良っぽい香りはするが、精悍な顔立ちの所謂イケメンだ。
 彼は何故か怪訝な顔でこちらを見ていた。が、見ているだけで一向に手伝おうともしなければ、声を掛けてくる素振りすら無い。
 流石に少し腹が立って、俺は彼に声を掛けた。
「ちょっと。黙って見てないで、何とか言ってくれても良いんじゃないですか」
 途端に彼はぎょっとした顔で背後を振り向いた。まるで後ろに人がいるのが当然であるかのような態度だ。勿論、彼の後ろに人など居ない。
 青年は更にきょろきょろと周囲を見渡す。そして誰も居ない事が分かると、ようやく俺の方を向いた。一体何にそこまで驚いているのか、イケメンが随分と間抜けな顔になっている。
 青年は自身を指さし、信じ難いと言わんばかりの顔で訊いた。
「……えーっと……もしかして、俺、か?」
「他に誰が?」
 何を言い出すのかと白い視線を向ければ、彼は露骨に視線を逸らした。
「あー……えっと」
 ふらふらと視線を彷徨わせる青年。戸惑っているのがよく分かる。
「いやまあアレだ、ちょっとボーッとしてて。スマン」
 暫し考えた後、彼はそんな適当な事を言って、胡散臭い笑みを浮かべる。
 ――うん。明らかに怪しい。
 挙動不審を絵に描いたような反応だ。怪しすぎてむしろやっぱり怪しいなどという人間を、俺は初めて目の当たりにした。
「アンタ誰だ? 芥川さんちの人、にしては今まで見かけなかった気がするけど」
 そう問えば、彼はまた少し考えてから答える。
「あーいや、俺は……そう、真澄の兄貴だ」
 ――何故それを言い淀む。
 突っ込みたい気持ちを抑え、俺は真面目に追及する。
「部長の? 聞いた事ないけど」
「ああまあ、アイツ俺の事嫌ぇだしな」
 青年が初めて躊躇わずに言葉を紡いだ。そんなに嫌われている自覚があるのか。だが、その割には妙に軽い口調でもあるようだ。
 俺の疑惑の視線を気にも留めず、彼はにかっと笑って見せる。
「という訳で、真澄の兄、芥川真綸だ。以後ヨロシク」
「ふぅん……」
 今更自然な笑みを浮かべた所で、怪しさに拍車が掛かるだけだ。それが顔に出ていたのか、青年が自分の言動を棚に上げてむっとする。
「何だよその顔は。さっきから初対面の年上に向かって失礼だぞ、少年」
「そいつはどうも。何せ先輩から伺った事も、お顔を拝見した事もなかったもので」
 知人の家に挙動不審な見かけない成人男性がいたら、誰だって怪しむだろう。
「……お前が今まで見えてなかっただけだろ」
「え?」
「こっちの話。何でもない」
 やけに良い笑顔で返す青年。駄目だ、やっぱり胡散臭い。
 だが胸中だけで怪しんでいても仕方がない。俺は一つ、彼を試してみる事にした。
「それじゃあ、真澄先輩のお兄さんの真綸さん。本館の大書庫ってのは何処ですか」
「……イヤミな奴ね、お前」
 呆れたように溜息を吐いた後、彼は何故かにやりと笑った。そして、俺が歩いてきた方向を指し示す。
「残念ながら本館はあっちだ。付いて来いよ、少年」

 ***

 不良っぽい自称真澄先輩の兄に連れられ、芥川邸をうろつく事数分。
「はい到着」
 俺は無事に本館の大書庫へと辿り着いていた。
「はあ」
 書庫の大きな扉の前で、ざまあ見ろと言わんばかりに得意げな青年に、俺は溜息のような返事を返す。
 ――この人本当に芥川さんちの人だったんだな……。
「何だよその顔」
 目は口ほどに、という奴だろうか、俺の視線に気付いた彼がこちらをじろりと見る。
「いえ別に。ありがとうございました」
 形式的に礼を言うと、青年はまたにいっと笑う。
「気ぃ付けろよ。そこ、偶に凄いモンあるからな」
「凄いモン?」
 おう、と彼は何故か楽しそうに頷く。
「絶版本なんてざらにあるし、文庫の初版本とか文壇の同人誌とか、後は」
 一度言葉を切り、彼は人を食ったような笑みを浮かべる。
「呪われた本、とかな」
「……はいはい、ご苦労様です」
 ノリノリの青年には悪いが、その笑いには見覚えがあった。
 三年の先輩方が、俺達後輩をからかう時の笑みである。
 反応の薄い俺に拍子抜けしたのか、青年は困ったような顔になる。暫し言葉を探していた彼だったが、一つ息を吐くともう一度言った。
「ま、悪い事は言わねぇ。気を付けろよ」
「あー、どうも」
 悪ふざけに構っている暇は無い。早く片付けて戻らなければ、先輩に何を言われるか分かったものではないからだ。
 大きく重い扉を、体で押すようにして開ける。
「うわ……」
 その雰囲気に、思わず溜め息が漏れた。
 天井の高い部屋、その壁一面が本棚だった。
 光源は採光の窓が天井に小さくあるだけで、昼間でありながら薄暗い。差し込む外の光に、部屋の埃がキラキラと舞う。そんな中幾つも立ち並ぶ書架は、これも三メートル近くあるだろうか、まるで迷路にそびえる壁のようだ。
 不安になって部屋の奥を覗いてみれば、隣の部屋への通路が見える。奥行きは普通かと安心したのも一瞬だけで、何とその向こうに見えるのも書棚のようだ。
 どうやら大書庫の名は伊達ではないらしい。
「しまって来いって……適当で良いんだよな?」
 一人呟いた所でどうしようもない。
 しばらく考えた結果、部屋の隅にでもまとめて置いて、後で先輩にしまって貰うのが良いという結論に達した。
 入り口からすぐ分かる、邪魔にならない壁沿いに本を置く。壁沿いと言いつつ、実際は壁も本棚である。
 それが妙におかしくて、一人微笑んだ時だった。
「……スタ……」
「え?」
 声のようなものが聞こえた。
 最初は気のせいかとも思ったが、静かに息を潜めてみれば、声はよりはっきりと聞こえてくる。
「……マイ……マ……スター」
 俺は声の主を探して、書庫の奥へと進む。
 誰か居るのかと口を開こうとした、その時。
 声が、聞こえた。
 真後ろから、はっきりと。

「Mein Meister ――リョーゴ。」

「お、前ッ!」
 驚いて振り返った先には、既に誰も居ない。ただ本棚が立ち並ぶだけだ。
 だが、確かに聞こえた。あの声だ。
「誰だ!? ここんとこ俺の事呼んでたろ!? 誰だ、何処に居るんだよ!!」
 残響を残して、広い部屋は静まり返る。
 緊張感のある沈黙。それが妙に意図的なものに思えて、俺は知らず身構えていた。
 ……かたん、と、小さな音がした。
 驚いて音の元を探す。上の方からしたようだと、顔を上げて周囲を見回す。
 そうして見つけたそれは、酷く不思議な光景だった。
 少し先の書棚から、一冊の本が落ちてくる。その高さ、およそ三メートル。
 ――ああ、落ちる。
 そう思った時には、一人の少女が本を受け止めていた。
 当然、元から居た訳ではない。コマ落としのように、そこに、唐突に現れたのである。
 ――本から出て来たのだ、と思った。
 腰まで届く長い黒髪、装飾の多い中世の貴族のような男装、それにケープの付いた黒い外套。一見俺達と同年代の美少女だが、片眼鏡の奥の鳶色の瞳は計り知れぬほどの知性に満ち、同時に狡猾さを窺わせる。浮かべた妖艶な微笑が、こちらに向けられ――

 そして、思い出す。
 あの日、俺は事故に遭ったのではない。
 彼女に会ったのだ。

 気付けば、彼女はゆっくりとこちらに向かって来ていた。本を抱きかかえ、彼女は俺の目の前に立つ。そして芝居がかった動作で、優雅に一礼して見せた。
 呆気に取られる俺をよそに、ゆっくりと顔を上げた彼女が口を開く。
「お初にお目に掛かります、(マイスター)
 マイスター。その単語には覚えがある。ここ数日、何度も何度も耳にした。
「あれは、お前が?」
「ええ。いえ、正確にはその以前にも、何度かお目通りを叶っておりますが」
 くすり、と微笑む彼女。途端に、背筋を冷たいものが走った。
「ああ、私の(マイスター)! 初めてお会いしたあの時から、再び貴方にお目に掛かるこの日の事を! 一体どれだけ、どれほどまでに心待ちにした事か!」
 硬直した俺には見向きもせず、彼女は踊るようにくるりくるりと回る。
「お、前……」
 俺の呟きに、彼女はくるりともう一度回ってこちらを見る。見透かすような、抉るような目だ。その視線にぞくりとしながら、俺はどうにか、一つだけ問いを声にした。
「お前は、何、だ」
 一瞬、鳶色の瞳が見開かれた。だがそれはすぐに細められ、彼女の蕩けるような笑みの一部と化す。
「ああ素晴らしい、その通りです。私は人ではありません。『誰』ではなく、『何』が正しい。流石は私の見込んだ主です」
 上機嫌の彼女が俺の手を取った。問い詰める暇も抵抗する暇も無い。
空いている手で持つ本を示し、彼女は言う。
「どうかこの本をお取り下さい、(マイスター)。それだけで良いのです。ただそれだけで、貴方の望みは叶うでしょう」
「望み……?」
 彼女の細い指先が俺の手を這う。
 その感触も光景も、何処か艶めかしかった。
「さあ、どうかこの本を……」
 彼女が言う。本を、と。
 ――本を?
 ――ああ、本を取れば良いのか。
 気付けば俺は彼女の持つ本へと手を伸ばし、そして。
 突如瞬いた強烈な閃光に、身を竦めて目を瞑った。
「な、何……!?」
 我に返って初めて、自分がおかしかった事に気付く。知らずにうたた寝をしていて、転ぶ夢で起きたような、急速に現実に戻される違和感。
 慌てて周囲を見渡したが、特に何事も無い。
 ただ一つ、彼女の形相を除いては。
「邪魔をしないで頂けますか」
 そう言う彼女の顔には、先程までの妖艶な微笑は無い。射抜くような冷たい視線で、俺の背後を睨み付ける。
「――いや、驚いたぜ」
 唐突なその声に驚いて振り返る。
 そこに居たのは先程の青年――自称、芥川先輩の兄だった。
「最近フィスがうるさいとは思ってたが、何だこりゃあ。一般人じゃねーのかよ、少年」
「あ、いや、アンタ」
「貴方には関係ありません」
 答えに詰まる俺を待たずに、ぴしゃりと彼女が言い放つ。
「仮に万が一あったとして、オーナーならまだしも、貴方にとやかく言われる筋合いはありませんよ、マーリン」
「あん? 何のつもりだフィス」
 マーリンと呼ばれた青年は、彼女と知り合いで間違いないようだ。フィスと呼んだ彼女の事を、遠慮のない視線でねめつける。
 しかし彼女は微動だにせず、きっぱりと答えた。
「私の主は、この方です」
「そりゃあ、謀叛と見て良いんだな」
「お好きなように」
 くすりと微笑み、大げさに両腕を広げて見せる彼女。
「……だから気を付けろっつったのによ、少年」
 ぶわり、と。
 部屋の中を、物凄い強風が吹き荒れた。咄嗟に顔を腕で覆う。
 ――採光用の小窓しかないこの部屋で、何故。
 俺の疑問をよそに、吹き荒れた風は次第に弱まっていく。そろそろと腕を戻すと、目の前の青年の服装ががらりと変わっていた。
 額の輪飾りに、ゆったりした暗い灰色のローブ。そう、あれはいつだかに読んだ、ドルイド僧の格好に近い。
 コスプレ云々とは最早問うまい。彼はさっきまで、確かに普通の服を着ていたのだから。
 だが、本で読んだドルイドが持っていたのは木の杖だ。今の彼が持つようなものではない。
 あんな、両刃の剣などでは。
 青年は剣を高々と掲げる。まさかとは思ったのだが、嫌な予想は良く当たるものだ。
 彼はこちらに向け、目一杯剣を振り下ろして来た。
「うわッ!?」
 思わず身を竦めた俺に、彼女がタックルをしてきた――いや、腰を掴まれたのだ。目の前には白刃が迫る。
 とん、と彼女が床を蹴ると、俺ごと彼女の身体が舞い上がった。
 一拍遅れて、青年の剣が俺達の居た空間を袈裟切りに切りつける。
 彼女に支えられてふわりと着地した先は、三メートルはあろうかという例の書棚の上だ。
 驚いて声も出ない俺を後目に、彼女は不敵な笑みを浮かべ、あろうことか青年を挑発する。
「太刀筋が冴えませんねぇ。しばらくお目に掛からぬうちに以前より甘っちょろくなったのでは? 若作りの倉庫番殿」
「……テメェ」
 歯噛みする青年に向け、くすくす、と、ここ数日間で聞き慣れた笑い声が響く。上品でありながら嘲りを含んだ笑いだ。
「では定石通り、次はこちらからという事で」
 宣言した彼女の口から流暢な異国語が流れ出す。一音節、二音節。三音節目でパチン、と彼女が指を鳴らした。
 瞬間、辺りが真っ赤に染まる。ゆらゆらと揺れるそれは、どう見ても燃え盛る劫火だった。
「も、燃えて――」
 呟いた瞬間、はっとした。ここは名に違わない大書庫なのだ。俺は慌てて彼女の肩を掴む。
「おい止めろ、本が!」
 しかし彼女はこちらを一瞥しただけで、またすぐに下に視線を戻してしまう。
「ご安心下さい。燃やすのは彼だけです」
 そう言った彼女の横顔は、先程までとはもう違っていた。策略と奸計に満ちた、燃えるように紅い瞳。漆黒の髪をなびかせ、獲物を狙う鋭さで嘲笑する。
 ぞわりと背筋を震わせたのは、今度こそ恐怖だった。
「何だよ、お前何なんだよ……!?」
 叫んだ俺を、彼女は再びちらりと見遣る。そうしてまた、くすりと、あの笑みを零した。
 瞳を紅く染めた彼女は、宣誓するかのように高らかに謳う。
「私は『ファウスト』の写本、メフィストフェレス。(マイスター)・遠川亮悟様の忠実な僕です」
そうして俺を振り返ると、にこり、と場違いにも程がある無邪気な笑みで付け加える。
「どうぞフィスとお呼び下さいな、(マイスター)
 その笑顔に一瞬毒気を抜かれたが、混乱はすぐにぶり返した。
「何、だよそれ、分かんねぇよ!」
 俺が声を荒げて詰め寄っても、彼女は平然と笑っている。
「ええ、順を追ってご説明させて頂きますとも。ですが暫しお待ち下さいませ、すぐにあのご老体を灰に変えてご覧に入れますので」
 彼女が一点を指差す。見れば一面の炎の中、青い光の壁が出来ていた。その中心で、剣を突き立てた青年が吠える。
「舐めた事抜かしてんじゃねぇぞ若造!」
 呼応するように青い壁が広がって、彼の周囲の炎を消した。
 彼は剣を構え直し、敵意を込めて彼女を見据える。
 そんな彼を見下ろして、くすくすと嘲笑する彼女。
 一触即発の二人に、俺は情けなくもくずおれる。
 ――ああ、俺、死ぬのかな?
 俺が巻き添えの覚悟を決めた時だ。

「そこまでだ!」

 凛と響いた制止の声に、二人の動きがぴたりと止まる。同時に炎も剣も、煙のように消えてしまった。
 何事も無かったかのように静まり返った大書庫に、こつこつと静かな足音が響く。やがてその持ち主が、書棚の合間から顔を出した。
「……何事だ、これは」
 そう静かに問うたのは、『帝王』――芥川真澄先輩だった。
「マスミ、」
「オーナー!」
 青年が呼ぶより早く、フィスと呼ばれた彼女が明るい声で先輩に呼び掛ける。ふわり、と重力を無視したように飛び降りると、音も無く先輩の傍に着地する。
「お聞き下さい! この老体、倉庫番の分際で私の邪魔をしようとするのです。オーナー、どうか御制裁を!」
「老体って、お前なぁ」
 眉間に皺を寄せるその姿は、部活で部長をしている時と何ら変わらない。
「大体、あんなところで何をやって――」
 やれやれとこちらを見上げた先輩は、しかし俺と目が合うと途端に表情を凍らせた。
「……遠原?」
「え、あ、どうも……」
 戸惑う俺を、何故かフィスが紹介する。
「ええ。私の主、遠原亮悟様です」
 勝手に肩書きを付けるな、と言うかマイスターって何だ、そもそもお前のってどういうことだ。そんな突っ込みを、俺は思わず呑み込んだ。
 先輩が見た事もない厳しい表情で、俺を静かに睨み付けていた。『帝王』の名に相応しいその眼力にたじろいで、とにかく申し開きをしようと、俺は当ても無く口を動かす。
「部長、あの」
「――良い。」
 書棚から一冊の本を抜き取って、芥川先輩が静かに言う。
「話がある。黙って付いて来い」
「……えーと」
 俺は恐る恐る口を開いた。
「その前に、ここから降ろして欲しいんですけど」

  ***

「私の祖父は、ただの蒐集家ではなかった」
 先輩は真面目な顔でそう切り出した。
「彼はその膨大な蔵書に紛れさせ、一つの書庫を受け継いでいた。受け継ぐ、と言っても血縁からではない。祖父の前の持ち主は、彼の恩師だったそうだ」
 先程の書庫での一件の直後、俺は薄暗い、書斎然とした部屋に通されていた。こちらの長椅子には俺、その隣にはフィスと名乗った彼女が座り、ローテーブルを挟んだ向かいには、二冊の本を抱えた部長が悠然と腰掛けている。その背後には、当初部長の兄を名乗っていた青年が控えていた。
「その書庫に収められているのは手書きの写本。複数の時代の何人かの手によるそれは、ジャンルも知名度もばらばらだ。だが、普通の『本』ではないという点では共通している」
 一度言葉を切った先輩は、背後の青年を親指で示す。
「例えばそいつ」
「おい、ソイツ呼ばわりか」
 青年が先輩を睨むが、先輩はどこ吹く風で説明を続ける。
「そいつはこれだ」
 先輩は抱えていた本をテーブルに置く。百科事典ほどの大きさで、厚みもそこそこ。だが何よりも特徴的なのは、その古さだ。
「古い本ですね」
 思わず口走った。芥川家の蔵書には古いものが多いが、これは歴史資料として博物館に飾ってありそうな勢いだ。しかし、不思議とぼろぼろだという印象は受けない。そこには確かに、歴史を刻んだ貫禄があった。
「これは『アーサー王伝説』の写本。そして、そいつはこれの……そうだな、化身といった所か。その原型(キャラクター)は魔術師マーリン――若き日のアーサー王を育てた大魔術師、という事になっている」
「という事って、お前なあ」
 青年が再びケチを付けるが、先輩は振り向きもせずに軽くあしらう。
「お前の見た目と性格で、大賢者マーリンだと言う方が無理がある。遠原のあの目を見ろ、欠片も信じて貰えてないぞ」
 自覚は無かったが、どうやら余程酷い目をしていたらしい。不本意だという顔で、マーリンだという青年は言う。
「俺達写本は登場人物としての記憶や性格と、物語そのものとしての性格と記録を併せ持つ。俺のコレは、アーサー王伝説の冒険譚としての性格が強く出てるんだよ」
 不機嫌そのものの顔は確かに大賢者からは程遠い。むしろ思い出されるのは、阿呆な方の俺の友人だ。
「……何か失礼なこと考えてないか」
「いや、別に。あ、じゃああの剣は?」
 話題を逸らそうと、俺はさっきの書庫で、彼が使った剣の話を持ち出す。魔術師マーリンの持つものではないが、アーサー王伝説の剣と言えばやはりアレしか思い付かない。
「おう。皆様御存知、正真正銘のエクスカリバーだ」
 マーリンこと青年は、二、三歩後退りながらぞんざいに腕を振る。再び腕を掲げた時には、その手に西洋の剣が握られていた。フィスが現れた時と同じ、まるでコマ落としだ。
「俺達は物語に出てきたアイテムやら技やら、そういうのを具現化出来る。この剣やフィスのさっきの攻撃は、その顕現の一種って訳だ」
 こんこん、と剣先で床を叩くマーリン。俺はぎょっとして床を見るが、そこには傷一つ付いていない。
「俺達は基本的に、現実には何も影響を与えられねぇよ」
「あんな事が出来るのに?」
 先程の閃光や炎を思い出してそう訊くと、マーリンは肩を竦める。
「そういうモンだろ、本ってのは」
 苦笑交じりのその台詞に、俺は何となく察した。
 つまり、彼等はあくまで『本』なのだ。単体では現実世界に何も影響を与えない。
 という事は――

「だから、我々は読み手を欲する」

 静かに、隣に座る彼女が言った。その顔にはうっすらと笑みを湛えてさえいる。だというのに、彼女が言葉を放った瞬間、部屋の空気が凍りついたようだった。
「……フィス」
 窘めるような先輩の声で緊張が解けた。何故かマーリンまでほっとしたような顔をしている。
 一つ深呼吸をして、俺は今までの話で分かった事を確認する。
「えっと……つまりこのフィスは、その写本の『ファウスト』版で、キャラクターはメフィストフェレスって事ですか」
「……その通りだ」
 頷いた先輩は、何故か俺に不審な視線を向ける。
「遠原。お前、さっきから信じられないとか有り得ないとか、その類の台詞を発さないな?」
「それはまあ、にわかには信じ難いですけれど」
 ちらりと隣、そして先輩の背後を見遣る。
 ――先程書庫で巻き込まれたアレは、確かに現実なのだ。
「こうして目の当りにしてしまったら、もう何も言えないでしょう」
「流石(マイスター)、物分かりのおよろしい事で」
 フィスが顔を綻ばせた。そこに先程の冷たさは無い。少し安心した俺は、重ねて彼女に問う。
「でもおかしくないか? メフィストフェレスは男の悪魔だろ」
 それを受け、フィスは可笑しそうに笑った。
「ええ、確かに私は悪魔です。悪魔に性別など些細な問題でしょう? これは単に、主の最もお気に召すであろう恰好をしているだけです。あるいは――」
 言葉を切って、こちらに身を寄せてくるフィス。
「貴方を最も籠絡しやすい恰好を、ね」
 怪しげな笑みを浮かべて、彼女は俺の頬をつい、となぞる。
「お望みとあれば男の姿にもなれますが……(マイスター)、まさかそちらのご趣味が?」
 俺は顔をしかめてその手を払った。
「止めろ。そんなもの無い」
「ええ、それを聞いて安心致しました」
 妙に楽しそうに笑うフィスに、俺は加えて苦言を呈す。
「あと距離が近い」
 相手がどんな美人であれ、触れられるのも顔が近いのも苦手だ。
 そう言うと、フィスは困ったように笑う。手の掛かる子供を相手にする時の顔だ。
「つれない物言いですねぇ。私の(マイスター)――読み手だというのに」
 再び出てきたその単語に、俺はすかさず質問する。
「その読み手って、つまり何なんだよ?」
 何となく、彼等に必要なものだというのは分かった。だが具体的にどういう役割なのかは、話を聞く限りさっぱりだ。
「古来より、良書は読み手を選ぶものです」
 それだけ言って、フィスは意味深な笑みを浮かべた。それ以上語る気は無いようで、腕と足を組んで背もたれに凭れる。
「君は『ファウスト』の写本に相応しい読み手として選ばれた。何せ当の本が言うのだから、間違いはないだろう」
 仕方ないといった調子で、代わりに芥川先輩が説明を引き継いだ。
「彼等は言わば、意思を持った本だ。私は彼等の所有者だが、彼等はそれに優先する主――読み手を選ぶ」
「それが貴方です、我が(マイスター)・リョーゴ」
 投げた説明に再び口を出すフィス。どうやら言いたい事しか言わないらしい。
「ついでに言えば、あの老いぼれは写本の一冊目にして総括、書庫の倉庫番。オーナーたるマスミの役目は書庫の管理者かつ司書という所です」
「ああ? 誰が老いぼれだガキ」
 じろりと睨むマーリンを、フィスはやはり無視して話を進める。
「ですから、私が貴方のものになるには、あの二人の許可が要るのです。如何にあのご老体が憎らしかろうと、それが手順ですから」
 俺はフィスの話を聞く一方、今更ながら二人が「ご老体」「若造」と罵り合う意味を理解する。
『アーサー王物語』の舞台は中世初期の五、六世紀、成立で見ても十二世紀頃だった筈だ。
 一方『ファウスト』はその成立も舞台も、中世ももう終わろうかという十五、六世紀である。
 物語としての経歴を見るなら、マーリンは随分と年嵩だ。
「まあだから」
 先輩の声に、否応なく我に返らされる。こんな時まで『部長』効果は絶大だった。
「所有者である私としては、他に選択肢はない」
 先輩は、抱えていたもう一冊の本をテーブルに乗せる。
 拍子に箔押しされたその題名は、『ファウスト』。
「遠原亮悟。君に『ファウスト』を貸し出そう」
 先輩は、随分あっさりとそう言った。流石に予想外だったのか、マーリンが慌てて問い質す。
「おい、良いのかよ」
「仕方ないだろう。私はあくまで『所有者』で、読み手を決めるのはお前等本の方なのだから」
「……ま、お前が言うなら俺に異存はねぇよ、(マスター)
 やれやれと言わんばかりにマーリンが肩を竦める。彼の読み手であるらしい先輩は、わざとらしい呼称に嫌そうに顔をしかめた。そうして見ると先輩とマーリンは確かに良いコンビだ。
 だが、それが読み手だと言うのなら、俺はフィスとこういう関係を築かなければならないのだろうか。正直に言って、それは荷が重すぎる。
「待って下さいよ。読み手って言われても、俺は何をすれば良いのか」
 慌てて言う俺を、フィスがくすくすと笑う。
「何という事はありませんよ。普通の本を読むのに何を気負う必要がありますか? 我々写本だって同じ事です」
「ま、この場合は俺達を見たり会話したりってのが出来るようになるのと、ちょっとした主従契約関係になるってのも含まれてるけどな」
 さらっとそんな事を言うマーリンに続き、フィスもおどけた口調で付け加える。
「ですから、ちょっと便利でお喋りな本を手に入れたとでも思って頂ければ良いのです」
「お喋りな本って」
 良く言う。そんなもの、普通に考えたら絶対に有り得ないだろう。
 だがフィスは、逆に面白そうに笑う。
「可笑しいですか? 文学とはいつだって、人に語り掛けるものでしょう」
「それは」
 一理ある、なんてものではない。真理と言っても過言ではないだろう。
 やはり彼女は、紛れも無く良書なのだ。
「まあ後は、本そのものの管理責任だな」
 一つ息を吐いて、先輩がこちらを睨み付ける。
「良いか遠原。その本はあくまで『貸し出し』だ、最終的にはこちらの書庫に戻してもらう。期限は特に設けない。明日でも一年後でも、返却のアテさえ確かにしていてくれるなら、死ぬまで持っていても構わない。
 だが、もしも彼女とその本に、傷でも付けようものなら」
 容赦はしない、と目で語る部長は、恐らく本気なのだろう。一ミリたりとも破こうものなら、あっという間に芥川先輩の敵に回る事になる。『帝王』の名は伊達ではない、どんな目に遭うかなど想像もしたくない。
 そもそも、危険を考えるならフィス自体だって相当危ない。書庫で見せたあの力に加え、フィス自身の性格。文字通り悪魔的なそれは、読み手として御するには到底手に余る。
 だが。
「それよりも、俺の身の方が心配ですよ」
 俺は、『ファウスト』の写本を受け取った。
 強いてそれらしい理由を挙げるなら、好奇心と矜持だ。
 見た事の無いものへの知識欲。そして、遠い昔の忸怩たる思い。
 ――俺ならば、あんな風にはならないのに。
 くすくすと、声が響いた。もうすっかり聞き慣れた、あのフィスの笑い声だ。
「さあ、これで晴れて私は貴方のものですね、(マイスター)・リョーゴ」
 嬉しそうに、楽しそうに、しかしどこか嘲るように、フィスは笑う。
「さて、如何致しましょうか、(マイスター)。私は貴女の望みを叶えるもの、貴方の僕です。見た所、美少女の同級生から思いを寄せられているご様子。しかも二人も! お気付きでした?」
「……ああ」
 表情豊かにそんな事を言うフィスに、俺は極限まで顔をしかめた。苦虫を噛み潰した顔というのは、こういう表情を言うのだろう。
「おや、ご存じだったのですか。それはお見逸れ致しました、てっきり気付いていないものだと」
 殊勝に一礼するフィス。それはそうだ、俺だって莫迦ではない。優等生の栗原がわざわざ俺に構う理由にも、藤澤が小さく呟く俺を案ずる台詞にも、大体の見当は付いている。
「それで、どうです? (マイスター)も青い盛りでしょうし、手始めに二人とも手籠めにしてしまいましょうか」
「……いや、遠慮する」
 そもそもあの二人については、敢えて見ない振りをしていたのだ。今更手籠めだなんて、悪い冗談も良い所だ。
「ほう、ならあの可愛い後輩のお嬢さん方でしょうか」
「いや」
「それでは三年のお姉様方? いえ、飾りの女共など適当に見繕いますので、まずは手っ取り早く酒池肉林というのは如何でしょう!」
 さり気なく自分の持ち主を売るような発言さえするフィスに、マーリンが身を固くするのが分かった。だが、その心配は杞憂だ。
「いいや。そういうのは良い」
 俺は変わらない調子で首を横に振った。
「ふむ。では(マイスター)、貴方のお望みは?」
 問いかけるフィスは悪魔そのものだ。
 ――貴方の望みを叶えましょう、その代償に貴方の魂を頂きます。
 そんな事は分かっている。それでも俺が彼女の読み手になったのは、一つの考えがあったからだ。
 俺は彼女に望みを告げる。
「俺が欲しいのは、書きたい本が書けるだけの知識だ」
 それを聞いたフィスは、きょとん、と目を見開く。完全に毒気の抜かれた顔は初めて見た。
 一拍おいて、彼女はつまらなさそうに溜め息を吐いた。
「そうですか。では」
 そう言うと、フィスはおもむろにその手を俺へと近付ける。そこに何か不穏なものを感じて、俺は彼女の手首を掴んだ。
「何をする気だ?」
「ですから、手っ取り早く知識を与えて差し上げようかと」
「それは『知識』じゃなくて『情報』だろ」
 俺はフィスを牽制したまま言う。
「俺が欲しいのは『知識』だ。欲しいものを欲しいだけ、自分で集めて練り上げた、俺の知識。それ以外は何も必要ない」
 そう、何も。
 だから、彼女達の好意にも蓋をした。人間関係を壊さない程度に、無視をして、時には邪魔をした。
 例えば聞こえない振りをしたり、タイミングをずらしたり。こちらから思わせ振りな態度を取って、逃げさせたことも何度かある。
 だって、それは俺には必要のないものだから。
「ほう」
「へーえ、こりゃ面白れぇ」
 先輩が小さく息を漏らし、マーリンがにやりと笑う。
「だからフィス。お前に叶えて貰うような望みなんて、俺には無いんだ」
 言い聞かせるように、俺は彼女の手を離した。
 罠に嵌めたようで申し訳ないとは思う。それでもこれが、かねてからの俺の本心だ。
 フィスは呆けたような顔で暫く俺を見詰めていたが、やがてゆっくりと俯いた。
「フィス?」
 流石に堪えたのだろうか。いやそんな筈はないだろうが、何か思う所があったのか。
 何か声を掛けるべきかと迷っていると、フィスが小さく呟いた。
「……素晴らしい」
 ゆっくりと上げたその顔に浮かぶのは、笑顔。これ以上ないという至福の笑みだ。
「それでこそ我が主です――あの方と同じ事を仰るのですね」
「あの方?」
「我が原初の主、ファウスト様です」
 その台詞に、背筋を冷たいものが駆け降りる。
「あの方も貴方と同様に叡智を追い求め、そして生きる楽しみも、苦しみさえも失って、最後には私に縋り付いて来たのですから」
 フィスは――悪魔メフィストフェレスは、堪え切れないといった様子で肩を震わせる。
 押し寄せる悪寒を抑えて、俺は小さく呟いた。
「……俺は、ファウストにはならない。」
「ええ、ええ、良いでしょう。それでこそ、悪魔の腕の見せ所ですから」
 くすくすと、フィスは笑う。嘲りを隠そうともせずに。
「どんなに高尚な知識欲であろうとも、欲は欲。その強欲さと、欲を欲とも思わぬ傲慢さ、正に私の主に相応しい。私が教えて差し上げましょう、一つ一つ、じっくりと、丁寧に。
 そして、その暁には――」
 妖艶な、恍惚の笑み。愉悦に浸るそれは、紛れもない悪魔の微笑だ。
 圧倒的なその雰囲気に当てられながら、俺は頭の片隅で思う。
 ――ああ、罠に嵌められたのは、どちらだろう。

「必ずや、貴方の魂は、私のものに。」

ファウストの憂鬱、悪魔の微笑

ファウストの憂鬱、悪魔の微笑

ラノベ的ハーレムものに斜めから挑戦してみようとしたもの。 分量にして一章くらい、続きを書く気はあんまりないです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-21

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  2. 2