卑屈なみどりちゃん!
二話,妊娠
隣のクラスの女の子が妊娠した。相手は国立大学に通う大学生で、一年ほど付き合っていたらしい。その子はずっと隠していたんだけれど、給食中に突然吐いて病院に運ばれたことで発覚し、学校に親が押しかけてきたり、いろいろと騒ぎになった。流産するかという話になったけれど、結局産むことを決めて、今は休学して病院に入院している。
「私、子供がほしいって気持ちが分からないんだけど」
理科室で、同じ班になったみどりちゃんが言う。
「佐倉もやっぱり、子供は欲しいって思う?」
「欲しいよ」私は答えた。「だって、可愛いじゃん、子供。みどりちゃんは子供、嫌いなの?」
「いいや、嫌いじゃない。どっちかって言うと、好きだと思う」
みどりちゃんはウニの口をピンセットでくりぬきながら呟く。今は理科の授業中で、みんな白衣を着て『ウニの生態実験』をしている。
「でも、私の子供ってことは、私の遺伝子を引き継ぐ人間ができるわけよね。そんなの、可哀想なんだけど」
また、みどりちゃんが卑屈になってる。
「自分に似てるのが、可愛らしいんじゃない?」
「そりゃ、佐倉は良いわよ。スタイルも良いし、顔もちっちゃい。うちの高校のミスグランプリだもん。よっぽどの不細工と結婚しないかぎり、ぱっちり二重の可愛らしい子供が生まれてくるでしょうよ」
ウニをビーカーの上に載せ、塩化カリウム水溶液を数滴垂らす。
「なんか、当たり前のように言うじゃない。子供が産みたいって。何歳になるまでに生みたいとか、そんな話をするじゃない」
「まあ、自分の人生プランとか考えてたら、年齢を意識したりするかもね。この間、沙樹はそれが原因で彼氏と別れたって言ってたし。沙樹、二十三までに子供産みたいけど、彼氏はあんまり乗り気じゃないみたいで。あ、沙樹の元彼、大学生だったんだけど」
「どうでも良いわ」
さらさらとウニの精子がビーカーに流れ落ちるのを眺めながら、みどりちゃんが言った。
「そうじゃなくてさ、世間一般的に子供を産むのって当たり前って感じだけど、みんな自分の遺伝子にどれだけ自信があるの? って思うのよ」
「遺伝子って……」
「遺伝子って言い方が悪いなら変える。顔が嫌いとか、スタイルが悪いとか、そういうコンプレックスってないの? あなたの顔って完璧なの? もしも悩んでることがあったとしたら、そんな簡単に子供なんて生めないと思うんだけど。だって、子供も悩むかもしれないんだよ」
「……まあ」
「私、ときどき思うもの。どうしてお父さんとお母さんは私を産んだんだろうって。私の両親、お世辞にも良い遺伝子を持っているとは言えないわ。そんな遺伝子を持った子供が生まれたら、きっと子供は苦しむかもしれないって、ちょっとは考えたりしなかったのかなって不思議に思うのよ。こんな顔や体で生まれるくらいなら、いっそ生まれない方が良かったって何度も思ったしね。それで親を憎んだこともあったわ」
「でも、親が産んでくれなかったら、みどりちゃんはここにいなかったんでしょ? だったら、普通に良かったんじゃないの?」
みどりちゃんが私を見てる。そして首をかしげる。
「そりゃ、そうよね」みどりちゃんが言う。「佐倉みたいにミスグランプリで、可愛いくて完璧な顔の人だったら、たぶんわかんないよ。こんな顔なら、生まないで欲しかったって考えること」
「失礼な」私は反論する。「私だって当然コンプレックスはあるよ。それを乗り越えて今があるんだから」
そう言ったら、みどりちゃんは少し黙った。
「そうね、ごめんなさい。別に、佐倉にコンプレックスがないって言ってるわけじゃないの。——いや、誰にだってコンプレックスはあるのよ。それは分かってる」
ぽつりと、呟くようにしてみどりちゃんは言った。
「そうよ。結局そうなのよ。悩みの大きさなんて、主観的なものだもの。誰だってコンプレックスを持ってる。私からしたら本当に些細だと思うような、目尻にあるちっちゃなほくろを、手術して取り除きたいって悩んでいる人もいる。胸が大きいことを本当に嫌だって思う人がいる。他人から見たら羨ましいと思うことを、本人は真剣に悩んでることがある。それは分かってるのよ。悩みの大きさを他人が決めるなんておこがましいってことを」
みどりちゃんがビーカーの上にメスのウニを乗せる。
「だから、私は鏡を見て『なんで私だけこんな醜い顔で生まれてしまったんだろう』って思ったら、その都度自分に言い聞かせていたのよ。私だけじゃないって。どんな顔の人だって悩みを抱えていて、『なんで私だけ』ってみんな思ってるって」
「うん」
「だけどさ、最近、同級生が子供を産んだとか、そんな話を聞いて、ちょっとおかしいって思っちゃって。なんでみんな子供を作ることが当たり前になってるのって。それだけ強いコンプレックスを抱いているなら、普通子供なんて生めないと思うんだけど」
「……そこがわかんないんだけどな。どうしてコンプレックスを持っている人は子供が産めないの?」
「だって、子供が自分と同じようにコンプレックスを抱えるかもしれないじゃない。どんな親だって、自分の子供には幸せになって欲しいって想ってると思う。自分の子供には、辛い思いをさせたくないって思うはずじゃない。でも、実際に自分が辛い思いをしたコンプレックスを、引き継がせるのよ」
「そこまで深く悩んでたってわけじゃないんじゃないの?」
「やっぱり、そうなのかな。なんか、そう思ったらものすごく裏切られた気分になっちゃって。なんなのよ、みんな。結局みんなの『なんで私だけ』って、その程度のものだったのかって。一ミリも後世に遺伝子を残したくないって、本気の本気で思ってる私がバカみたいじゃない」
さらさらと、食塩水の中に卵子がこぼれ落ちていく。それをみどりちゃんは眺めながら、
「私は子供が好き。めちゃくちゃ好き。だけど、——いや、だからこそ、私の遺伝子を次いで欲しくない。私に似たら、子供が苦しむって知ってるから。どっかのミュージシャンも歌ってたけど、全部相手の遺伝子であってほしい。私の遺伝子は一ミクロンも含まれて欲しくないの」
うーん、と私は首をかしげる。
「それってさ、単にみどりちゃんが責任を負いたくないだけじゃないの? 子供に責められるのが怖いっていうか」
「多分、それもあると思う。私だって両親を恨んだりしたこともあるから。どうしてそんな遺伝子で私を産んだんだって。——当然、自分の子供にまで恨まれたくないって気持ちもあると思う。だけど、やっぱり私みたいに苦しんで欲しくないって気持ちもあるのよ」
「どうなんだろうね。でも、実際に子供を産んだら、きっと気持ちも変わるんじゃないかな。ほら、子供を産んで初めて親のありがたみが分かるって言うし。子供を産んで、責任を負うことで、またみどりちゃん自身が成長するんだと思うし」
「成長ね」ふっとみどりちゃんが鼻で笑った。「私の成長のために、子供を生むって。子供からしたら良い迷惑だと思うわ。結局、それも私本位な考えだし」
相変わらず、口は立つ。
「でも、そんなこと言ってたら、少子化がますます進んじゃうよ。いつか人類は滅んじゃうよ」
「私もそれは考えたわ。私は人間という動物の集団の一要素であって、絶滅しないように命を紡ぎ続けなきゃいけないんだって。それは確かにその通りだし、生物学的にみれば、人間という種を守るために子孫を残すことは私たちに課せられた使命なんだってことも分かる。頭では理解できる。だけど、実際生活してると、身の回りのことを必死に処理するので精一杯で、人間という種の存続なんて漠然としすぎていて実感がわかないのよ。だいたい、世の中に存在する親は、人類の存続のため、なんてことを考えて子供を産んだりしてるのかしら」
「まあ、そんな理由ではないかもしれないけど」
「でしょ。本当に切実に聞いてみたいのよ。子を持つ全ての親に。どうして子供を産んだんですかって。できることならアンケートをとりたい」
「それは……、皮肉なの?」
「皮肉じゃない。本当に皮肉じゃないのよ。真剣に聞きたいの。自分の遺伝子を持った子供を産むことに、ちょっとでも抵抗はなかったのかって。自分のコンプレックスに悩むことはこれまでなかったの? どうして自分はこんなふうに生まれてしまったんだろうって、ベッドの中で何時間も寝返りを打つような、そんな経験は一度もないの? 無ければ良いのよ。佐倉みたいに、自分に似てくるのが楽しみって思うなら、別にいい。でも、コンプレックスを抱えてるのに、子供を産んだ人だって、必ずいる。それもかなり高い確率よ。だって、自分の遺伝子が完璧だって思ってる人は、少ないはずだもの。そういう親に聞きたい。そのコンプレックスを抱えた子供が生まれる恐怖を、感じたことなはないの? あるのなら、教えて欲しいの。どうやって、その恐怖心を取り除くことができたのか」
「そんなに恐怖を覚えるかな。コンプレックスを持ってる人だって、子供を産んでも良いと思うけど……」
私は呟いた。
「良いとか、悪いとかじゃないの。怖くないの? 生まれた子供がね、だんだん自分に似てくるのよ。それが怖いって、思わないの? そんな子を、愛することができるの? 私は怖い。出産とか妊娠とか、そんな話を聞くたびに、怖くて怖くて仕方なくなる。もしもね、もしも、夫の遺伝子が百パーセントそのまま子供に引き継がれたのであれば、私はその子にめちゃくちゃ愛情を注ぐわ。本当に心の底から愛でるし、その子が幸せになるように毎晩手を合わせる。私たちの子供に産まれてくれてありがとうって、一生感謝し続ける。それは間違いない。だけど、私に似てたら、どうするの? 私が憎んで、憎みに憎んだ自分の嫌いな場所を、持っている子供。そんな子供に、愛情を注げるのかしら」
「その子のことも、嫌いになるってこと?」
「ううん。ちがう。嫌いになるんじゃなくて、申し訳ないのよ。ごめんなさいって、思うの。だって、大きくなるにつれて、だんだん自分に似てくるのよ。顔が大きくて、目が細くて、信じられないくらい怒り肩な私によ。心のどこかで、私が産んでごめんなさいって思わないかしら。学校でいじめられたりしないかなって。『なんでこんな体なんだろう』って、私が悩んだように、私の子供が鏡を見ながら泣いてたら、どうしようって。そんな風に思ったら、私は自分の子供に純粋な愛情を注ぐことなんてできない。親としての誇りを、持つ自信が無い」
「たとえ純粋じゃなくてもさ、同情でもいいから愛情を注ぎ続けたら良いんじゃない?」
「できるのかな。もしもさ、『お母さんなんで、私を産んだの?』って聞かれたら、どうするの? よくもまあ、そんな遺伝子で私を産んだよね、って。私にこんなツラで人生八十年生き続けろなんて、残酷すぎるよって、そんなふうに言われたら、どうするの?」
「そんなこと言わない優しい子に育てたらいいんじゃない?」
「言わなかったら、良いってわけじゃないの。だって、不満を持ってても言わずにずっとため込んじゃう子になったら、それこそ可哀想よ。例え言わなくても、私に似てきた時点で、私はもう申し訳なくてしかたない」
——あれ?
私の頭に、一つの可能性が生まれた。
「みどりちゃんって、もしかして処女?」
「——えっ?」
みどりちゃんは虚を突かれた顔をした。そしてすぐに唇を噛み、黙りこんだ。しばらくして、
「なんで? いま関係ある?」
「いやあ。だって、そういう感情的なことって、理屈じゃないって思うもん。自分の大好きな人と、自分たちの子供を作る。そんな幸福って、ないと思う。だから、私は子供を産む親の気持ち、普通にわかる」
「でも、そうしたら子供の気持ちは置いてけぼりじゃない。親が勝手に幸せを感じるためにだしにしてるってことでしょ?」
「だしって……。そんなこと言われても、子供を作ってるときは、子供はいないんだもん。女の人と男の人。妻と、夫。私と、彼氏。現実は、それしかないんだよ」
みどりちゃんは顔をしかめている。
「やっぱり、そうなのかしら。子供を作ることの方に意識がいってて、生まれてくる子供がどんな思いをするのかって、考えたり想像したりしないのかな。自分たちが幸せを感じたらそれでいいのかな。世の中に存在する親って、無責任で、自分勝手なのかな」
「考えすぎな気がするよ。だって、どれだけ考えても、想像なわけじゃない」
「想像だけどさ。でも生を受ける子供の身になってみてよ。生まれてきたら、寿命が来るまで生き続けなきゃいけないのよ。平均寿命まで八十年間、そのスタートが私の顔なのよ。そんな可哀想なことある?」
「きっと、素敵な彼氏とかに会えたら、その『私の顔』も好きになれると思うよ」
みどりちゃんは黙り込んだ。
手元の顕微鏡でウニの精子と卵子と交わる様子を眺めていたけど、しばらくして、
「いつか、私も分かるのかしら。自分と同じコンプレックスを持つ子供が生まれるって分かった上で、それでも子供を産む気持ちが。理屈でじゃなくて、きちんと心で納得できるのかな。『お母さん、どうしてそんな遺伝子で私を産んだの?』って聞かれたとき、胸を張ってきちんと説明ができるように、なるのかな」
俯いてそう呟くみどりちゃんは、本当に可愛い。めちゃくちゃ可愛い。抱きしめたくなる。
「やっぱり、そんなみどりちゃんから生まれてくる子は、きっと幸せになると思うよ。だって、まだ見ない子供についてそれほどまでに真剣に考えて、苦しんでしまうほど気持ちを考えられるお母さんになるんだもん。子供はきっと、幸せだよ」
「でも私、ぶすだし。私みたいな顔の子供なんて、絶対に不幸になる」
にゃはは、と私は笑う。今日も卑屈なみどりちゃんは、健在だ。
卑屈なみどりちゃん!