表裏
一
ショーウインドの向こうにあるブラウン管のテレビはまだ生きていて,繋げられたビデオテープでは,昔のアニメの,五話目が二度目の再生を迎えていた。覚えている内容の通り,主人公は強力なライバルとの邂逅を終え,決意を新たにして次回へ続こうとしている。それが正しく繋がるのなら,六話目は主人公の過去と絡めた新展開を見せる。主人公の父親と,弟の消失の原因が主人公にあるのではないかという謎を匂わせ,スーパーパワーの暴走と,それに苦しむ主人公とその仲間達との苦闘が見事に描かれる。人間劇としての深み。当時の小さな視聴者の一人として,とても衝撃を受けた。懐古の念を抱くものとして,今の子にだって勧めたい。ウケるはずだ,現に今日一日預かっている従兄弟の子供も,ガラスに額をくっ付けて視聴している。さあ!と期待を込めたくなる。しかし,このブラウン管のアニメは六話目には続かない。予告の前のCMを挟んで,その予告もされずに一番最初まで巻き戻る。しかも停止されずに。便利なリモコンを操る高齢の店主は,姿を見せずにそれを行なっているのだろう,と推測する。従兄弟の子供はそれを見て,ゲラゲラ笑っている。あの胸が熱くなったライバルとの激闘も,ピンチのヒロインを助けに駆けつけた瞬間も,不自然な逆回転によって,各話のOPまで戻り前回のEDを通り過ぎ,その手前で繰り広げられた,その回のクライマックスを乗り越えていく。消し忘れたCMが入り込み,当時の人気のアイドルがいなくなって,主人公が戻って来て,成したことの全てを不自然に解消して,そして最後には一話目。篭っていても聞こえて来る,ナレーションの声が秘密結社の存在を紹介する。いつだって諳んじられる,あの名文句が最後を締める。私はそれを懐かしがって,従兄弟の子供と同じように,ショーウインドの前に屈み込む。ブラウン管にかじりついて,夢中になろうとする。そこに写る姿は立派な大人になって,人が歩く,背後の大通りを背負っている。
二
大教室の講義の後ろに座る私の列の前には,またあの子がいる。サラサラで長い髪を,黒の髪留めで一つにまとめているだけ,なぜならその方が動きやすいから,長ったらしい板書を写すのに便利だから,と言わんばかりの熱心さで顔を上げては,ノートに意識を落としている。服だってシンプル。白いシャツにTシャツか,スキニーのジーンズで中々重そうなリュックか,幅が広いトートバッグを持ってくる。チェックした足下は,動きやすそうなシューズばかり。スポーツメーカーばかりが並んでいる。ピアスなし。ていうか,時計以外の何かを身につけているのを見たことがない。下着だって至って真面目だろうし、筆記用具は個人的に興味が湧かない。字は綺麗なのは知っている。出席カードを出す時とか,施設見学の参加者を募る名簿に書かれたそれを見たことがある。話せば素敵なハスキーボイスだとか,なら,歌はすごく上手いのかもしれないとか。茶髪の髪も似合いそうじゃない?とか,隣のキョウコは私に向かってワザとらしく訊いてくるけど,その色にムラなく染め切った私の髪をかき上げて,彼氏に褒められる小ぶりな耳を触りながら,私は「かもねー」と関心なさげに答えるように努める。できる限りの個人的感情を排除して,至って冷静に自己省察を行なってみても,これは憧れなんていう感情でなく,恋愛に近い感情にもならない。あらぬ噂を流しまくって,貶めてやりたいぐらいにムカつく訳でもなく,盗み撮りの限りを尽くして,一枚五十円ぐらいに売りたいぐらいに利用したい訳でもない。したがって,この関心の淵源を仮に名付けるのなら,それは彼女は同士という,直感に近い私の推測によるのだろうと思う。あれはきっと彼女に違いない。見た目が真面目な彼女と,世間一般の評価としてはチャラいと言われる私とは,ある一点で共通している。それは大学内の講義の最中には見えない,秘密のバイトに由来する。いけないこと?はしたないこと?そんなこと,私は知らない。
板書を終えた教授が教卓の方に戻って来て,テキストを読み上げようとした,そこで彼女が手を上げて,教授に質問した。毎回,一回はする彼女の質問は,簡にして要を得たものと教授に褒められる。今回もそうなるんだろう,と予測していた。なのに,それは大きく激しい着信音に阻まれて,途絶えてしまった。もちろん発信源はすぐに特定された,けれど,白い目をもって,誰もそれを責め立てることはしなかった。その理由は,発信源は彼女の持つスマホだったからだけじゃなくて,流れるその音楽に誰もが気を取られたからだった。その音楽が所属しているジャンルは知っている。そして,その音楽のタイトルも,ボーカルも,ギターも,ベースも,ドラムも,多分誰一人として知らない。私を除いては。それはあまりにも彼女には似合わない。シンプルな彼女が激しいメイクを施して,長い黒髪を振り回して,高度なフレーズに酔いしれ,あるいは高度なフレーズを駆使して,走り回って,壊しまくって,観客を酔わせる演奏者の一人であるなんて,誰も思えない。だから私はただ一人違う。想像できない彼女と同じことをして,ヘルプとして参加して,バイト代を稼いでいる私だから。チャラかろうが何だろうが,私はヘヴィに生きるのだから。
その音を冷静に切った彼女は,教授に失礼を詫びながら,その引いた顔つきを前にして,途絶えた質問を再開した。当然周りはざわつき始め,案の定,キョウコはニヤケながら,私に「何あれー!?」と訊いてきた。その準備をしていた私は,だからキョウコに答えてあげた。外国語の名前,曲名から何から何まで。キョウコは言う。
「え?なに?」
「だから。」
名前よ,名前。あんたが訊きたがっていた。
三
食卓の上,ナイフにフォークにお箸を置いて,お父さんはたとえ話を始めた。
「これらのものも,ただの道具と見れば,どんな使い方だってできる。ナイフは切る,フォークは刺す。お箸は突く。そういう使い方が可能だ。物理的な方法だな。これに毒なんて塗ったら,効果は増すだろう。ただ,その場合,爪楊枝あたりでも十分だろうな。むしろ,そっちの方が暗器としての性格を活かせる。ナイフに毒なんて,ただの無駄遣いだ。」
熱々の湯気が上るお皿が並んでる。お母さんがそれを追加してくる。その日は怖い映画を観た後で,レビューにあった通り,すごく怖かった。お父さんも怖がっていた。僕は今もドキドキしているし,お父さんもそうだと思う。いつものお父さんは言葉とともに話題を選ぶし,いつもこんなに長く,早く話さない。そのことを,お母さんも分かっているから,こんな事をお父さんが僕に向かって話していても,お母さんはお父さんを怒らない。そして,そのことにお父さんは全く気付いていない。だからまだまだ話す。決して良いことだとは言えないと思うことを,僕に向かって話す。
「隠すのは,だから大事なんだな。その点,集団性はやっぱり有効だ。計画的に実行できるだけじゃなくて,口裏を合わせれば,事実を隠すことも誤魔化すこともできる。しかし一方で,単独犯より足がつきやすいのも事実だな。関係者が増える分だけ,バレやすい。集団丸ごと捕まってしまえば,隠すも何もあったもんじゃない。あった事それ自体を誰も知らない完全性と比べると,集団性で確保できる完全性には穴がある。バレないように,永遠にそれをし続けなきゃいけないなんて,負担が大きすぎるんだ。大変だよ。メンドくさい。」
ひどい二日酔いを昨日,経験したお父さんは,今日は飲まないって宣言したとおりに,お酒ものは飲んでいない。急須に入ったお茶を傾けて,すごく熱そうに飲んでいる。食卓を挟んで,真向かいに座る僕は,コップに入ったりんごジュースを半分飲んで,半分残す。りんごジュースはいっぱい飲み過ぎると,いつもお腹が痛くなるから。今日は大好きな唐揚げが山盛りだし,味噌汁は豆腐だし,お代わりもしたい。
「あとは,そうだなー。間接的手法に関してだな。それについては,」
とお父さんはすごく大事なことのように話し出そうとしたところで,お母さんは最後の温野菜を持って来て,エプロンを外して,椅子を引いて,お父さんの隣に座った。ご飯はもう三人分,みんなのお椀に入れられて,待っていた。あとはいただきます,を言うだけだ。いつもなら,お母さんに肘で突っつかれたお父さんが,みんなを見回してそう言うんだけれど,その日は僕と,怖い映画を観た後だったから,お父さんは興奮していた。だからお父さんはお母さんの方を向いて,普段なら言わないような事を言ってしまった。
「お,毒でも入ってんじゃないだろうな?」
いつもなら怒るだろう,ふざけた真似が嫌いなお母さんは,けれどその日,すごく驚いて答えた。
「ええ,そうよ。よく分かったわね!」
冷たい水を続けて飲むばかりで,お箸を持たないお母さんを見てしまって,最初は笑っていたお父さんも何ひとつ持つことが出来なくなってしまって,それを見ていた僕は二人に気を使ってしまって,じっとしていた。ご飯も味噌汁も,お皿のどのおかずも,湯気を立てている。チクタクチクタク,と時計が針を進めている。だから,どんどん,どんどん逃げていく。美味しそうな匂い。
お腹が鳴ったらいいのにな,ときっと誰かがお願いしたんだと思う。
四
神経衰弱を十戦十勝,そうして,簡単な手品に失敗した。やり直したら,成功した。彼女は拍手をして,そして僕を疑った。
「あ,最初の失敗もワザとでしょー!?」
不敵な笑みを浮かべた。カードを片付ける,いいキッカケになった。
五
「それで?」
私がそう言って,先を促すと,少しの間が空いて彼の返事があった。部屋からここまでは距離がある。私は耳を傾ける。でも,しながらの作業。手に取った軽い重み。裏返す。
カップのそこは汚れてなかった。
「うん。」
それは思わず出た返事。元の場所に戻して,仕舞う。流しっぱなしの水を止める。
六
手の平を返して,返した。
表裏