八咫烏(2)
第二話「烏平次の酒」
荒れ寺正面の腐りかけた階段に腰を下ろしながら、隼助 は蒼い空をボーッと眺めていた。
ここひと月ばかり、八咫烏は〝お勤め〟をしていない。貯えも、そろそろ底を尽きかけていた。盗んだ金は、ほとんどは病人や貧しい者たちに配ってしまったのだ。金は天下の回り物。悪党の蔵の中で塞き止められた金を、ふたたび世に流してやるのも八咫烏の仕事なのだ。
「オレたちゃ八咫烏、か」
ひとつ吐息をつくと、隼助は天を仰いで陽の光に目を細めた。
「おう、隼助。昼めし食いに行くぞ」
庭のほうから烏平次が顔を見せた。雷蔵も一緒である。
「カシラ。ですが、まだ九ツの鐘は――」
隼助が言い終わらないうちに、遠くのほうから昼九ツ(十二時)の鐘が聞こえてきた。同時に、烏平次の腹の虫も鳴くのであった。
「おれの腹時計は正確なんだよ」
黄色い歯を見せながら烏平次が笑った。
「一両二分、か」
人通りの多い広小路を歩きながら烏平次が紙入れを覗き込んでつぶやいた。
「今夜あたり、やりやすかい?」
雷蔵が〝烏の鼾〟で烏平次と話しはじめた。これは、自分が話したい相手にだけ聞こえるように話すという会話術で、関係のない第三者には、となりの部屋から聞こえてくるような、くぐもった唸り声にしか聞こえないのである。人混みの中や飯屋などで〝お勤め〟の話をするときは、いつもこの会話術で話すのだ。
「桔梗屋利兵衛。あんまり評判のよくねえ男だ」
雷蔵のよこを歩きながら烏平次も烏の鼾で話している。
「桔梗屋……」
懐手をして歩きながら雷蔵が相槌を打った。
「わかりやした。昼めしを済ませたら、ちょっくら下見をしてきやす」
久々のお勤めは桔梗屋に決まった。
桔梗屋は酒問屋である。そして、桔梗屋利兵衛は悪党だった。利兵衛は水で薄めた安い酒を〝花筏〟や〝男山〟などと偽って売りさばき、あこぎに儲けているのだ。
「雷蔵、船を用意しといてくれ。それと大八車もだ」
まえを向いたまま烏平次が言った。
「するってえと、カシラは桔梗屋の蔵ん中をカラッポにするおつもりで?」
雷蔵が襟元から片方の手を出してアゴ先をさすった。
「そうともよ。桔梗屋のすぐ裏手には、大川(隅田川)が流れている。千両箱を船につみこんで川を下り、途中で大八車につみかえるんだ」
ふたりは互いに話しているだけでなく、うしろを歩く隼助にも聞こえるように話していた。だが、隼助にはまだそこまでの技術はなく、ひとりを相手に話すのが精いっぱいだった。
腕組みをして歩きながら烏兵衛がつづける。
「おめえのことだ。ぬかりはねえとは思うが、逃げ道の下見も忘れずに、な」
「へい」
烏平次にうなずき、雷蔵が肩越しにふり向いた。
「隼助、昼めしが済んだら下見に行くぜ」
隼助は雷蔵の横顔に無言でうなずいた。
お勤めの話が終わった。
烏の鼾で話している内容は、たとえ目のまえで聞いていようとも、関係のない者には絶対に聞き取ることはできないのである。いつだったか、飯屋で酒を飲んでいるとき、となりに同心が座っている状況でお勤めの話をしたことがあった。もちろん、最後まで同心に気づかれることはなかった。烏の鼾は、八咫烏の初代頭目から代々受け継がれている特殊な会話術なのである。
一軒の飯屋のまえで雷蔵が立ち止まった。
「カシラ、ここにしやしょう」
三人で店に入ると、いちばん左端の席に向かった。格子窓のある壁際の席だ。烏平次が壁際に座り、雷蔵は卓をはさんで烏平次と向かい合う形で座った。そして隼助は、いつも雷蔵のとなりに座るのであった。
「いらっしゃいませ」
下働きの娘が注文をとりにきた。
「茶づけと天ぷら。それと銚子を三本だ」
烏平次が注文した。
「それと飯二人前。適当に見繕ってくれ」
雷蔵が隼助の分も一緒に注文した。
調理場のほうに戻って行く下働きの娘を、烏平次と雷蔵はいやらしい目つきで見送っていた。
「明日の昼は、八百善でウナギでも食いやしょうか?」
雷蔵が烏の鼾をつかいながら烏平次に言った。
「ウナギか」
烏平次がアゴにたくわえた無精ヒゲをじょりじょりとさすっている。ふたりとも、なにかを企むような目つきでニヤニヤしていた。
「オレは蕎麦でいいです」
隼助は卓の上に目を落としながらため息をつくのであった。
ほどなく、料理が運ばれてきた。烏平次はお猪口を一杯呷ってから、茶づけをかき込みはじめた。雷蔵は漬物をつまみながら、白いめしを頬張っている。隼助も汁をひと口すすってから白いめしに箸を伸ばした。
そのとき、隼助のうしろの席から左官職人らしき男たちの会話が聞こえてきた。
「清太郎のやつ、まだ立ち直れねえのか?」
「まあな。励ましちゃあいるんだが、なかなかねえ」
雷蔵の箸が、にわかに止まった。隼助も箸を止めると、茶碗越しに烏平次の顔をちらりと見やった。
烏平次の浪人髷はヅラである。ゆえに、烏平次のまえで〝励ます(ハゲます)〟などのヅラを連想させる言葉を遣ったり、額から上の話をしてはならないのだ。
隼助は雷蔵のほうにそ~っと視線を動かした。マユが〝ハの字〟になっている。メザシをギリギリと前歯でかみしめながら、血走った眼の下で涙堂をピクピクさせていた。
烏平次は気づいているのかいないのか、なにくわぬ顔で茶づけをかき込んでいた。
隼助は気を取りなおしてふたたび箸を動かした。うしろの席では、まだ職人たちの会話はつづいている。そして、雷蔵が辣韭に箸をのばしたとき、ふたたび事件は起こった。
「んでよォ、そこでちょうど手が滑っちまってさあ。ズレちまったってわけよ」
左官職人のひとりが大きな声で笑うと、隼助は箸を止めてゴクリとめしをのみこんだ。
――パチン!
辣韭をはさんだ雷蔵の箸が大きな音を立てた。勢いよく弾かれた辣韭は天井をはね返り、隼助の味噌汁の中に飛び込んでくるのであった。
「どうした、雷蔵」
烏平次が不思議そうな表情でマユをひそめた。
「へ、へい。ちょいと手元が狂ったようで」
雷蔵は額に冷や汗をにじませながら、必死につくり笑いを浮かべていた。
そう。まちがっても〝滑った〟や〝ズレた〟などという言葉は烏平次のまえで遣ってはならないのだ。
ようやく左官職人たちが店を出て行った。隼助は安堵のため息をもらすと、辣韭の浮かんだ味噌汁をひとくちすすった。
だが、事件はまだ終わってはいなかった。こんどは烏平次のうしろの席で、数人の町人たちが信じられない会話をはじめるのであった。
「よお、聞いたかい? 弥五郎のとっつぁん、とうとう髷が結えなくなったってよ」
「あの人、若いころから薄かったもんなあ。とっつぁんも、いよいよ〝ヅラびと〟ってわけか」
「いや、ヅラは被らないってよ。ハゲを気にするどころか、髪結い代が浮いて助かる、とか言ってさ。なんか、もう開き直っちゃってるよ」
隼助は目の端からそっと雷蔵の様子をうかがった。うんざりした顔で涙堂をピクピクさせている。殺気を帯びた冷たい眼で、舐めるように町人たちをにらんでいる。強くにぎりしめた徳利には、まるでクモの巣のようなヒビが走っているのであった。
烏平次の顔は――だめだ。恐ろしくて見れない。隼助は卓の上に目を落としながら、静かにお猪口をかたむけた。
「なんか、おもしれえ話してんな」
隼助は「はっ」として顔を上げた。ヒゲ面が黄色い歯を見せている。烏平次は、不気味なぐらい穏やかな表情で笑っていた。
「そっ、そうですね」
隼助が愛想笑いをすると、雷蔵がすかさず咳払いをした。
「すっ、すんません」
隼助は気まずそうな顔で雷蔵にアゴをしゃくった。
「なかなかおもしれえ話だよな? 雷蔵」
「え? へ、へい」
雷蔵も戸惑いつつ愛想笑いをした。
隼助も小首をかしげた。なにか様子が変だ。烏平次は怒るどころか、うっとうしいヒゲ面に穏やかな笑みを浮かべているのであった。
「もともと薄毛だったんだとよ。ほんと、かわいそうなとっつぁんだよな」
愉快そうに笑いながら烏平次がお猪口をかたむける。
あんたもな――隼助も胸の中でつぶやきながらお猪口をかたむけた。
「カシラ。そろそろ行きやしょうか」
これ以上この場にとどまるのは危険だと思ったのだろう。雷蔵は卓の上に勘定を置きながら立ちあがった。
「おまえら、先に帰ってろ。おれはもう少し飲んでるから」
烏平次は笑みを浮かべているが、声の調子はどことなく元気がない。雷蔵も、戸惑った表情にむりやり笑みを浮かべているようだった。
「わ、わかりやした。アッシらは、これから桔梗屋の下見に行ってまいりやす。それじゃ、ごめんなすって」
烏平次は笑顔でうなずいた。だが、烏平次はけっして雷蔵と目を合わせようとはしなかった。
「それじゃ、カシラ」
隼助もあいさつしたが、烏平次はやはり無言でうなずくだけだった。うっとうしいヒゲ面に寂し気な笑みをたたえながら……。
店を出たところで、隼助はふと足を止めた。暖簾越しに、そっと烏平次をふり返る。お猪口をもったまま、烏平次は格子窓の外をながめている。頬が、きらきらと光っている。うっとうしいヒゲ面に笑みを浮かべたまま、烏平次は泣いていた。
「カシラ……」
ふり返ったことを後悔しながら、隼助は店をあとにするのであった。
次回、第三話「笑う門には福来たる」
おたのしみに!!
八咫烏(2)