〖第二章〗眠れぬ夜は君のせい

〖第二章〗眠れぬ夜は君のせい

■第75話 1年後

 
 
 
そして、時が経ち・・・
 
  
 
リコが少し緊張の面持ちで玄関先に立ち、ドアノブに手を伸ばす。
そしてそっと目を閉じて小さくひとつ息をつき、心を鎮めた。

するとリビング奥から母ハルコの呼び掛ける声と共に、パタパタと玄関先
まで駆け寄る足音が廊下に響いた。 
 
 
 
 『リコ、忘れ物は無い? 余分に筆記用具持った??』
 
 
 
ハルコがまるで自分の事のように、むしろそれ以上の感じでソワソワと落ち
着かない表情を向ける。そのぽっちゃりとやわらかい手でリコのマフラーの
襟元を正し、コートの両肩に手を置いてぎゅっと力を込め、真っ直ぐ目を見
て再度訊く。 『・・・大丈夫??』
  
 
 
 『大丈夫! 何度も確認したよ。

  ・・・じゃぁ、いってきま~す!!』
 
 
 
 
 
リコはアスファルトにうっすら雪が積もった坂道を、転ばないよう慎重に
歩みを進めた。肌に刺さるような冷たい冬風を頬に感じ、少し肩をすくめ
て襟元のマフラーを巻き直す。手袋をしても冷える両手を口許にあてて、
吐く白い息で凍えるそれを温めた。
 
 
その時、コートのポケットに入れたケータイにラインの着信メロディが響
いた。リコはケータイを取り出し、右手の手袋だけはずして凍える指先で
画面をタップする。
 
 
  
  ”リコなら大丈夫だよ!

   私が保証する。絶っっ対に大丈夫!

   だから、いつも通りのリコでね。” 
 
  
 
ナチからの激励メッセージに、冬風で真っ赤な頬で微笑み小さく拳を握っ
てリコはひとりガッツポーズをした。
 
 
そう。今日は、美術短大の入試日だった。
  
 
 
高2の夏にコースケ達と出会い、皆で腹を抱えて笑い合い、泣き、怒り、
そして想いの強さ故に、結果、バラバラになってしまったリコ達5人。
 
 
ナチはリュータへの想いを封印するため離れる事を決心し、リコはコース
ケへ想いを伝えたが、ひどく困惑させてしまって二度と逢えなくなった。
 
 
でもそれは、そういう ”時期 ”だったのだとリコは考えていた。
 
 
各々が自分の道を見付け歩き出し、その道筋をしっかり確保するその時
までは一人一人が自分と向き合い、一歩ずつ進む努力をしなければいけな
い ”時期 ”だったのだと。足元を固めたその時にもう一度 ”気持ち ”
と向き合おうと。
  
 
あれから、リコはそれまでにも増して絵を描いた。
 
 
境内でのスケッチや、園でのイラスト描きは出来なくなってしまったけれ
どその穴を埋めるように自室にこもっては筆を握り、少しでも時間が出来
るとスケッチブックを抱えて出掛け、日が暮れるまで戻らなかった。
 
 
気が付くと、リコのスケッチブックはゆうに20冊を超えていた。
 
 
リコの微妙な気持ちの変化は、その描く絵にも表れていた。

どうしようもなく落ち込み泣いていた時期は、寒色の雨や心寂しい夜闇。
少しずつ元気を取り戻しかけてきた時には、暖色の日差しや笑顔で駆ける
子供。そして、どうしてもコースケに逢いたくて恋しくて切ない時には、
小さな女の子のイラストを描いていた。その子は寂しそうに一人、傘を差
してどこか遠くを見つめていた。
  
 
遂に、今日がこれまでの頑張りを発揮する日。
  
  
リコはケータイの画像データフォルダを開き、1枚のデータを選択する。
待受画面の画像設定をすると、そこには困ったように笑う情けない笑顔が
表示された。

リコは目を細めて画面を見つめ、そしてぎゅっと胸に抱いてコクリ頷く。 
 
 
  
  (コーチャン先生・・・ 私、頑張ってくるねっ!!)
 
 
 

■第76話 固い意志の瞳

 
 
 
試験は、滞りなく終了した。
 
 
筆記試験も実技に於いても、緊張せず自信を持って取り組めたのは、
やはり日々スケッチブックと共に生活してきた成果か、ケータイ画面の
中で微笑むコースケの笑顔に癒されたからだろうか。
 
 
試験会場を出ると、リコは軽快な足取りでいつものファミレスへ向かっ
て駆けた。レンガ風の建物に赤い屋根の、そこ。いつも来ている場所な
のになんだか今日はそれが目に入った瞬間、リコは嬉しそうに頬を緩め
て出入口へと飛び込む。
 
 
リコ達の指定席、店内奥の窓際4人掛け席に既にナチの姿がある。

一足早く着いて待っていてくれた学校帰りのナチは、慌てて立ち上がり
大きく手を振って合図をした。
 
 
 
 『・・・ど、どうだった? リコ・・・。』
 
 
 
ナチは少し身構え眉根をひそめ小さく訊ねる。
”保証する ”って宣言した割には、人一倍不安げな強張ったその表情。

リコが親指を立て ”good! ”と満面の笑みで合図をすると、ナチ
は万歳するように両手を上げて『ヤッタじゃんっ!!』と叫んで飛び上
がってしまい、周りの客の若干冷たい視線を浴びてバツが悪そうに席に
腰を下ろした。

そしてナチはすぐさま片手を上げウエイトレスを呼ぶと、メニューを指
差しケーキセットを二人分注文した。
 
 
『今日はおごっちゃうっ!!』 リコの試験の手ごたえを、自分の事の
ように心から喜び、頬を高揚させた。
  
 
 
 
次は、ナチの入試が1週間後に迫っていた。

懸命に勉強してきたナチだが、実は今の成績での合格はギリギリだと担任
から言われていて、それでも志望校は変更せず第一志望の短大を受験しよ
うとしていた。
 
 
ウエイトレスが運んで来たケーキを前に、フォークを握った手元に目を落
としナチはぽつりと話し始める。その目はどこか遠く、想い続ける人の顔
をそっと見つめるようなそれで。
 
 
 
 『私ね・・・

  今まで生きてて、こんっなに勉強したのはじめてだよ。
 
 
  でも・・・ なんか、目標がね 欲しかったの・・・
  
  
  難しい目標を立てて、それに向かっていっぱいいっぱい頑張って、

  それで結果が出たら・・・
 
 
  ・・・いい結果が出たら・・・ 私ね・・・。』

 
 
リコには、ナチの言いたい事が痛いほど分かった。
なんだか胸の奥がきゅぅっと狭くなるような痛みを憶える。
 
 
ナチはリュータに逢いたかったのだ。

逢いたくて逢いたくて、何度泣いたことだろう。
何度、ケータイの通話ボタンに触れようとしただろう。
 
 
でも、この1年の間、ナチは決してリュータに連絡をしなかった。
もしも逢えない間に気持ちが弱まったのなら、それはそれだけの事だった
のだと諦めようとしていたのだ。
 
 
そして、それはリコも同じだった。

合格出来たら、その時は一番にコースケに知らせたい。
コースケのお陰でこんなに頑張れた、自分に自信が持てたと伝えたい。
 
 
 
  逢いたい・・・

  あの、困ったような情けない笑顔を見たい・・・
 
 
 
そればかり思う日々だった。
 
 
リコの合格発表は2週間後。そしてナチは1週間後の試験で、その2週
間後に発表だった。
 
 
二人の目は真っ直ぐと前を見据え、固い意志の光が宿っていた。
  
 
 
  
 
するとその時、ナチのケータイがけたたましく鳴った。
いつもの着信音と変わらないはずのそれが、何故か鋭く胸に突き刺さる。
 
 
ナチはなんとも言えない嫌な感覚に襲われ、慌ててカバンからケータイを
取り出し画面に目を落とす。そして一瞬不安そうな顔をすると、勢いよく
立ち上がり慌てて小走りで店の外に出て行った。
 
 
リコは何かあったのかと、店外でケータイに耳を当て立ち竦んでいるナチ
を心配そうに見つめる。ガラス越しに見えるナチの強張った表情に胸騒ぎ
を感じた。
 
 
 
  (家族か誰かに、なんかあったのかな・・・?)
 
 
 
すると、ナチが青ざめた顔で戻ってきた。

その足取りは小さく、心許なく。目は真っ赤に潤んで、瞬きという行為を
忘れてしまったかのよう。
 
 
『ナチ・・・? どうしたの??』 リコは立ち上がって駆け寄り、ナチ
の肩を抱き不安気に覗き込んで訊く。
 
 
ナチのぎゅっとつぐんだ唇が小さく小さく震えて動いた。
それは、弱々しくかすれてこぼれる。 
 
 
 
 『リ、リュータさんが・・・・ 事故った・・・・・・・・・。』 
 
 
 

■第77話 事故

 
 
 
 『ど、どうしよう・・・ 私、・・・どうしよう・・・。』
 
 
ナチが今にも倒れてしまいそうな血の気の引いた顔で、オロオロと立ち
竦んでいる。
ガタガタと全身で震え、握りしめたケータイはその手から滑り落ちた。

リコは息を呑んで呆然とするも、瞬時にぎゅっと目をつぶって早鐘を打
つ鼓動から気を逸らし、ナチをしっかり支えなければと自分をいなす。
自分のカバンとナチのそれを掴むと、いまだ狼狽えるナチの手を引いて
店を飛び出した。
 
 
バスに飛び乗って、リュータが運ばれたという病院へ向かう二人。

二人掛けの席に並んで座るも、その間、ナチはガックリと俯いたまま
一言も声を発しなかった。膝の上で手の平に爪が食い込む程ぎゅっと
拳を握りしめ、それは小刻みに震えて。
 
 
不安と恐怖に押し潰されて、消えてしまいそうだった。

必死に ”最悪なパターン ”を頭から追い出そうとするが、なにをどう
したって最も恐ろしい状況が脳内を占める。いつでも思い出すのはあの
リュータの調子いいお気楽な笑顔だったはずなのに。
 
 
リュータはバイクに乗っていて誤って横転したという。
安否など詳しい状況は何ひとつ分からなかった。
 
 
病院関係者からリュータの実家へ連絡が行き、電話に出たアカリが、
遠方の為すぐには向かえないので、ナチに連絡をして来たのだった。
  
 
 
 『大丈夫・・・ 絶対、大丈夫だよ・・・。』
 
  
 
リコはナチに繰り返し繰り返し低く呟く。それは必死に自分に言い聞か
せるようでもあった。いまだ震え続けるナチの手をリコはそっと握る。

ナチの拳はリコに握られた事にも反応せずに、まるで首が折れてしまっ
たかのように、足元だけ見つめ俯いたまま。
 
 
そして、小さく小さく繰り返した。
  
 
 
 『神様・・・ どうか神様、お願いします・・・

  どうか・・・ どうかどうかリュータさんを助けて下さい・・・
 
 
  私の分の運は全部、リュータさんに・・・ どうか・・・。』
 
  
 
 
 
 
バスは病院の敷地内のロータリーへ進入し、正面出入口前で停車した。
二人はよろけながらも走って総合受付へ行き、病院職員に詰め寄る。
 
  
すると、『今、手術中です。』
 
 
たった一言のそれ。
勿論、端的で明確なのだけれど、なんて簡素で冷たい言葉なのだろう。
 
 
待合室のイスに座って、リコとナチは手を握り合いただひたすら祈っ
ていた。互いの触れ合う手がじっとりと汗ばむが何故か酷く冷たい。
 
 
30分後。連絡を受けたリコの母ハルコが、弟リクを連れて慌ててや
って来た。おにぎりや飲み物を持って来たという母の声にも、リコと
ナチは強張った表情で首を横に振るだけで応じようとしなかった。
 
 
そこへ、病院廊下をバタバタと走る靴音が遠くから段々こちらへと響
き近付いてきた。

コースケが凄い勢いで駆けて来て、そこにいるリコ達を見止める。
  
 
 
 『・・・リュータは・・・?』
 
  
 
その問い掛けるあまりに至極冷静な声のトーンが、逆にコースケの心の
動揺を表していた。
 
 
  
 
 
みんなで、待合室でどのくらい待ったのだろう。

誰一人声を発せず、泣くこともせず、ただただリュータの安否だけ願い
続けてその場に佇んでいた。
 
 
その時、
処置室の扉が開き、ストレッチャーに乗ったリュータが運ばれてきた。
 
 
『大丈夫ですよ。』 ストレッチャーを押す看護士の抑揚のない声。
 
 
しかし、その ”大丈夫 ”とは裏腹に、包帯だらけのリュータは体の
あちこちから管が延び、青白い顔をして弱々しく目をつぶったまま。
  
 
 
 『・・・・・・・リュータさん・・・

  リュータ、さん・・・・・・・・・・・』
  
  
  
ナチがストレッチャーを追いかけながら必死に声を掛ける。

しかし足がもつれ途中で躓き、病院の冷たい床にぺたんと座り込んで
しまった。その瞬間、堪えて堪えてパンクしそうだった胸の内がまる
でダムが決壊したかのように溢れだした。ナチは天井を仰ぎ大きな声
を上げて泣きじゃくる。
 
  
それは、悲鳴のような泣き声だった。
 
 

■第78話 髪の毛

 
 
 
リュータが目を覚ました時、一番最初に目に入ったのはナチの顔だった。
 
 
なんだか長い眠りについていた気がして目をしばしばと瞬かせながら、
ここが何処なのか分からずキョトンとして見渡す。あちこち痛む体に苦い
顔を作りつつも、今置かれている状況を把握しようと脳内フル回転させる。
 
 
目の前のナチは目に涙をいっぱい溜めて、怒ったような今にも泣き崩れそ
うな顔をしてリュータの手を握り締めていた。あまりに強く握られて少し
すり傷が痛んだけれど、じんわり伝わる温度とナチの息遣いに、リュータ
は自分がバイクで転倒したことをぼんやり思い出した。
 
 
  
  『髪・・・ 伸びたなぁ・・・。』
  
 
 
リュータがたどたどしく口を開き発した第一声は、それだった。
 
 
1年ぶりのナチは髪の毛が伸びたという、全く以ってこの状況に相応しく
ない緊張感の欠片もないお気楽なその言葉。言い方も苦しそうにツラそう
なものではなく、なんだかあまりに呑気で聞いてる方が拍子抜けするそれ。
 
 
それを聞いてナチが激怒した。

泣きはらした後の真っ赤な顔がますます赤くなり、握り締めていた手を乱
暴に振りほどき、体の横でその手をグーにして振り回す。
 
  
 
 『な・・・ 何言ってんのよ、バカっ!!

  ほんと・・・ もう本当に、

  死んじゃったらどうしようって・・・
 
 
  リュータさんが・・・ リュータさんが死んじゃったら・・・

  どうしようって・・・・・・・・ 私・・・。』
 
  
 
そうリュータに怒鳴り散らすと、ナチは病室のドアを大きな音を立てて開
け放ち飛び出して行った。その様子を驚いて見ていたリコが、慌てて追い
かけ廊下へと出る。

先程までリュータが眠っていた時の静まり返った病室内が一瞬騒然とし、
そして今、再び水を打ったように気まずくて重い沈黙に包まれた。
 
 
その現場を見ていたコースケが苦笑いしながら、言う。
 
  
 
 『第一声がアレかよ・・・

  お前・・・ ほんっと、バカだな・・・・。』
 
 
 
呆れるも、無事にリュータが目覚めてくれてコースケはホっとした様子で
頬を緩める。ベッド脇に置いた丸イスから少し身を乗り出して、リュータ
をからかうように覗き込み笑った。
 
 
すると、リュータが小さく呟いた。
 
 
 
 『いや。

  ・・・そうじゃなくて。
 
 
  そうゆう意味じゃなくて・・・。』
 
  
  
 
 
 
病室を飛び出し、病院1階の待合室のイスに腰掛けていたリコとナチ。

外来患者で騒々しいそこは、受診の順番を待つ人や会計を待つ人でいっ
ぱいだ。看護師が患者の名を呼ぶ声がひっきりなしに響いている。

何はともあれ、リュータが目覚めたことに安堵しかなく、変わらない
調子のいい姿に一時の怒りが治まると次第に呆れ笑いが出始めていた。
 
 
しかし、1年ぶりにやっと念願かなって彼らに逢えたというのに感動も
感激もないこの再会に、正直肩透かしを喰らった気分だ。
 
 
二人はぼうっと呆けたように背を丸めて待合イスに座り、互いに一言も
発しない。なんだかふわふわしたすわりの悪い状況に、夢を見ているの
ではないかと同時に自分の頬をきゅっと指先でつねって確かめる。

しかし突然の予想だにしない再会だったからこそ、あの頃のまま自然に
顔を合わせられたのも事実だった。自分たちの間にこんなに時間が経っ
ているなんて思えないほど、肩に力を入れずに。
 
 
 
ナチが今日はこれで帰りたいと言うので、リコが病室に二人分のカバンを
取りに戻った。

小さく2回ノックして静かに病室引き戸をスライドして開けると、それに
振り返ったコースケと目が合った。リュータは再び眠ったようだった。
 
 
再会した実感が沸くのと同時に、本当にコースケがここがいるという事に
リコは途端に心臓がバクバクと打ち付け、熱いものが喉元まで込み上げる。
 
 
思わず、反射的に目を伏せてしまったリコ。
 
 
 
 (ダメだ・・・ 泣いちゃう・・・。)
 
 
 
すると、 『・・・・元気だった・・・?』

静かな病室に、あの、やわらかい声。
 
  
逢いたくて逢いたくて仕方なかったコースケの、聞きたくて聞きたくて仕
方なかった優しい愛しい声。
リコはちょっとでも気を抜くと涙が溢れそうだった。
 
 
コースケに話したい事がいっぱいあった。

美大受験を決意してたくさん一人で絵を描いてきた事も、受験に手ごたえ
があった事も、たくさんたくさん。
コースケに聞いてほしい事が、いっぱいあった。
 
 
でも、リコの中では ”合格 ”という二文字を手に入れてからと決めてい
た。自分で作った約束を最後まで守ろうと、きゅっと口を堅くつぐむ。

泣きそうな顔を見られないよう慌ててカバンに目を向け、『元気です。』
と小さく返した。震える声に気付かれないか逸らしたその目はせわしなく
瞬きを繰り返す。
 
 
すると、コースケが丸イスから立ち上がって手招きをし、リコをリュータ
から見えない死角になった位置へ呼んで小さく小さく耳打ちした。

想像だにしなかった突然の至近距離にリコは息が止まりそうだったけれど、
コースケが耳元で囁いたそれに目を見張り驚いた表情になる。声を上げそ
うになった口を自分でいなすように、手を当てて覆った。
 
  
 
 『この話、ナッチャンには言わないでおいて・・・

  気にしたら可哀想だしさ・・・。』
 
  
 
リコはナチに ”この話 ”を今すぐ伝えてあげたい反面、試験を間近に控
えた今は言うべきではないのかもと、ぐっと言葉をのむ。

ベットに横たわるリュータへ、リコはそっと泣きそうに潤んだ優しい目を
向けた。
 
 
そして、待合室で一人待つナチの元へ急いだ。

『ナチ、追い込みの時期だもん。 ほら、帰ろう・・・。』
 
  
 
思い切り後ろ髪を引かれながら、リコはナチの背中を押し病院を後にした。
 
 
 

■第79話 病室

 
 
 
それからというもの、ナチは毎日リュータの病室へ通った。
 
 
放課後、自習室で勉強した後ほんのわずかな時間だったとしても欠かさず
に病院を訪れてはリュータの様子を見舞っていた。

しかしだからといって特に何をする訳でもなく、顔を合わせては悪態つい
てまるで小学生の喧嘩のように『バカ』だの『アホ』だの罵り合う二人。
 
 
 
 『もう帰るからね! バカっ。』
 
 
 『さっさと帰れ! バカっ。』
 
 
 
決まってこの言葉で締め、また翌日・・・という繰り返しだった。
 
 
リュータは風の噂で、ナチがレベルの高い志望校を目指している話は
聞いていたので、見舞なんかいいから勉強に集中するよう何度も何度
も言ったのだが、ナチは頑として受け入れなかった。
 
 
ナチはナチで、一度リュータの顔を見てしまったら途端に今までの我
慢が崩れ溢れ出し、見舞にかこつけてただ逢いたい一心で病室に通っ
ていた。

しかしそれによって、逢えない間に無我夢中で頑張って来た努力が水
の泡になっては元も子もないのは充分わかっている。だから、毎日放
課後にはすぐにでもリュータの元へ飛んで来たい気持ちを必死に抑え
受験勉強をしてから足を運んでいたのだった。

病院へと全速力で駆ける時のナチの顔は、ほんのりと桜色に染まって
その口元は嬉しそうにきゅっと上がり、病室で待つその人を1秒でも
早く見つめたい瞳は潤んで輝いた。

ナチはまるで羽根が生えた妖精のように全身でキラキラ煌めいていた。
 
  
しかし実際に顔を見合わせると、二人は互いに自分の本当の気持ちは
隠して、まるで1年前の事なんて何もなかったように接していた。
 
 
ナチはそれでいいと思っていた。

もう二度と自分の一方的な想いを押し付けたりしたくない。勝手に想
ってるだけのくせに、それに見返りがない事にもがき苛立つなんて。
また皆で集まる事が出来て、騒いで笑い合えるだけで充分だと思った。
 
 
それとは逆に、自分の ”ナチへの気持ち ”に気付いてしまったリュ
ータは、伝えたいのに伝えられない状況を歯がゆくもどかしく感じて
いた。
 
 
 
 (もう・・・ 誰か他に、好きな奴できたかな・・・。)
 
 
 
珍しくリュータはウジウジと悩んでいた。
幸か不幸か事故によって再びナチに逢うことが出来て嬉しくて仕方な
い反面、あの無邪気な笑顔を見ていると胸が締め付けられる。

病室のベッドで一人、天井の継ぎ目をぼんやり眺めては溜息をついた。

リュータの中にも、せっかく戻りかけたあの頃の関係をまたギクシャク
させたくないという思いもやはりあった。
 
 
1年前にナチが感じていた思いを、リュータが全く同じように感じ、
焦り、不安にかられながらジリジリと時間だけが過ぎていった。
 
  
 
 
 
そして、明日に入試を控えた夕方。

いつもより少し遅い時間にナチが緊張し強張った面持ちで病室へやって
来た。リュータはいつもの様にベッド背部を背上げし、上半身を起こし
て雑誌を読みながらその姿を待っていた。

ナチは翌日の試験にガチガチに緊張しているのを、何とか必死に隠そう
としている。リュータに話し聞かせるたわいない雑談も、心此処に在ら
ずで全く身が入っていない。
 
 
すると、
 
 
 
  『・・・そこの引出しあけてくんない?』
 
 
 
ベッド脇に設置された小さなテレビ台の棚を差し、リュータが言った。

『ここ?』 ナチは言われたままにそっとその引出しを開けると、乱雑
に入院書類などが入ったそこの奥にボロボロの御守りが出て来た。
 
 
 
  『お前に、貸す。

   バイク引っくり返っても死ななかった、強力な御守りだ。
  
 
   ・・・お前に、貸す。』
 
 
 
リュータが、ナチの手の平に優しく乗せその小さな手をぎゅっと握る。
やけに熱くて汗ばんだ、リュータの大きなゴツい手。
 
  
ナチは、それを両手で包むとギュっと胸に抱き目を伏せて微笑んだ。
 
 
 

■第80話 アカリとの再会

 
 
 
 『リュータさんっ! リュータさんっ!!!』
 
 
ナチがもの凄い勢いで病室に飛び込んで来た。

スライド式のドアが思い切り右に移動し開け放たれ、そのあまりの勢い
に少し戻って閉まりかける。
 
 
全速力で走ってやって来たのだろう。ナチはゼェゼェと肩で息をし苦し
そうに顔を歪めるも、その表情は興奮して頬は真っ赤でまるで全力で駆
け回り遊ぶ夏休みの小学生のようだ。
 
 
ベッド脇でぴょこぴょこ飛び跳ね興奮冷めやらぬ様子のナチを、リュー
タは愛おしそうに見つめ頬を緩める。
 
  
 
  『おぅ! どうだった?

   うまくいったかぁ?試験・・・。』
 
  
 
まるで幼い子供を見るように、優しく優しく微笑んで。
 
  
すると、
  
 
 
  『私、天才かもっ?! もぉぉ完璧っ! 超ぉぉおお完璧っ!!』
 
  
 
そう言い放ってナチはリュータの両手を掴み、ブンブン振り回す。

まだその手は包帯を巻かれケガ人だという証拠がハッキリ見て取れると
いうのに、そんなのお構いなしな目の前の小柄な暴れん坊。
そんなナチの無邪気な様子がおかしくて笑いながら、リュータはナチを
心から愛しく思っていた。
 
 
そして、掴まれている片手を静かに離すと、ナチの頭にそっと手の平を
乗せる。それはぽんと頭の上で一度跳ねると、ゆっくり優しく左右にず
らしてナチの小振りな頭を撫でた。
 
 
 
 (・・・・・・・・。)
 
 
 
ナチを真っ直ぐ見つめるリュータ。
瞬きをする時間すら惜しいくらいに、真っ直ぐ。
 
 
本当は、そのままナチを抱き締めたかった。

急速に鼓動を打つ心臓がナチに伝わる程強く、ナチを胸に感じたかった。
確かな重みをもった熱いものが胸に迫り上げ、息をするのでさえ苦しい。
 
 
 
  (ナチ・・・。) 
 
 
 
しかし、そう出来ずにいた。

そうしたい気持ちをギリギリの所でぐっと堪え、その代わりナチのプニ
プニした頬をつねって両端に引っ張る。
  
 
 
  『よく頑張ったなっ! エライぞ、ナチっ!!!』
 
  
 
そう、思いっきり褒めた。

ナチも頬を引っ張られカエルのような無様な顔のまま、うんうんと嬉し
そうに赤くなって頷いた。
 
  
 
 
 
リュータは奇跡的に左足の単純骨折と打撲で済み、数日間の入院の後は
自宅療養をすることになった。
経過もすこぶる順調で、少しずつ松葉杖で歩く練習も始まっていた。
 
 
試験が終わったナチは卒業まで自由登校になっていたので、弁当を持参
して毎日朝から晩までリュータの傍にいた。

松葉杖での歩行練習に付き添ったり相変わらず悪態つき合ったり、時に
は何もしゃべらず二人で片方ずつイヤフォンをして病室の小さいテレビ
を見ていたり。
それでもナチは、そんな時間が幸せで涙が出そうになるくらいだった。
 
  
 
とある日。

病室のドアがノックされゆっくりと開き、二人が目を向けるとそこには
リュータの両親とアカリがいた。
 
 
ナチは一目でリュータの家族と気付き、慌てて立ち上がって両親に挨拶
をする。一気に緊張してやけにアタフタする滑稽なナチの小さな背中。

アカリとはあの日、嫌な別れ方をして以来だったが、ナチには何故か嫌
悪感など何も無かった。
 
 
しかしアカリは相変わらず不機嫌そうな様子で、ナチの方は見ようとも
しない。そんな様子にナチはこっそり呆れて笑うと、肩をすくめた。
 
 
ぶすっとして俯いたままだったアカリが、やっと重い口を開く。
それは低くふてぶてしさ滲む声色で。
 
 
 
 『・・・ちょっと、いい?』
 
  
 
『ぇ? ・・・ぅん。』 ナチが訝しげに目を細め、頷いた。
 
 
ナチとアカリが、微妙な距離をあけながら病室を出て行く。
その二人の背中をかなり心配そうにリュータがじっと見つめていた。
 
 
 

■第81話 ナチとアカリの

 
 
 
ナチとアカリは、手術室がある入院棟の3階へと向かう。

今は手術室も使用されていなくてそこは全くひと気もなく、二人の立てる
足音だけが床に天井に跳ねて響く。それは相変わらず不機嫌そうなアカリ
のニーハイブーツのヒールが立てる硬い音と、ナチのムートンブーツの靴
底のなんだか気乗りせず擦り歩くそれ。
 
 
手術室前の廊下に設置された長イスに腰掛けた二人。

ナチが先に長イスの右端に腰掛けると、アカリはそれを横目に左端ギリギ
リの所になんだか居心地悪そうにちょこんと腰を下ろした。
 
 
 
 『・・・。』
  
 『・・・。』
 
 
 
二人の間に、どうしようもなく重く気まずい空気が流れる。
どちらも口を真一文字につぐんだまま何も言わない。
 
 
すると、暫く黙っていたアカリが急に立ち上がり、ガバっとナチに向け
て頭を下げた。上半身が90度に曲がり、長いツヤツヤの髪の毛が垂直
に垂れ揺れる。
 
 
 
 『ぁ、あの時・・・ もうだいぶ前だけど・・・

  私、 ・・・イタズラして、ファミレスで・・・
 
 
  ごめん・・・

  ・・・本当に。 悪かったと、思ってる・・・・・・。』
 
 
 
ナチはそんな直角に腰を折って謝るアカリをキョトンと目を見張り見つめ
る。まさかアカリの口からそんな言葉が出て来るとは思ってもいなかった
ので、心の底から驚いていた。

呼び出されたのだって、またきっと嫌味か意地悪でも言われるものだと思
って疑わなかったのだから。
 
 
暫し驚き固まっていたナチが、思わずプっと吹き出た。
 
 
 
 『いつの話よっ?! もっと早く謝りなさいよね~。』
 
 
 
と、いまだ下げたままのアカリの後頭部をポンと小突く。
 
 
アカリは、ナチから散々恨み事を言われることを覚悟していたので、笑い
を含んだ軽い感じのそれに、なんだか拍子抜けしてしまっていた。

アカリが怖々頭を上げる。そして潤んだ上目遣いでナチを見ると、強張っ
たアカリの表情があまりに滑稽で、ナチは更に吹き出し声を上げてケラケ
ラと笑った。
 
 
 
 
 
二人、長イスに並んで座る。
その距離は最初の右端と左端だったそれより、少しだけ近付いて。

遠く、誰も見ていない待合室の付けっ放しのテレビから、明日の天気予報
が細く小さく流れている。
 
 
まだ俯き加減だったアカリが、ポツリポツリと話し始めた。
  
 
 
リュータの父親と、今の母親は再婚だという事。
アカリはその両親の間の子供だという事。
そのアカリの母親とリュータは少しギクシャクしている事。
それを気にして一人、リュータは高校から家を離れた事。
リュータはおちゃらけていそうに見えて、人一倍寂しがり屋な事。
そのくせ小さな頃から妹アカリの事ばかり気にして心配して、自分の事は
いつも後回しだった事。

アカリがそんな兄に本当は心から幸せになってほしいと願っている事。
 
 
ナチがその話を聞きながら、ポロリと涙をこぼした。

リュータの優しさの原点が、そんな寂しい環境にあったなんてなんにも
知らなかった。リュータが大口開けて笑う顔が浮かぶ。いつもいつも元気
で明るいお日様みたいなその笑顔は、人に見えない所で雨雲がかかってい
たのだ。ナチは胸がぎゅうっと締め付けられ、息苦しくて声が出なかった。
 
 
ふと隣を見ると、アカリも涙が流れている。
 
 
 
 『アンタに・・・ リュータの傍にいてほしかったの・・・
 
 
  だから、事故った時・・・

  リカコさんにアンタの連絡先きいて、
 
 
  アンタに・・・

  ・・・アンタに、 連絡したの・・・・・・。』
 
 
 
アカリが涙で詰まりながら呟く。
 
  
 
 『ん・・・ ありがと・・・。』
 
 
 
ナチが俯いて答える。

二人の頬は涙でぐっしょり濡れ、顎から雫がしたたっている。
並んで座る二人の膝にはぽつぽつと幾つもの雫跡が付いていた。
 
  
すると、アカリがカバンからおもむろにティッシュを取り出して、ナチの
手に乱暴に押し付けた。
 
 
 
 『アンタ、めっちゃハナ垂れてる・・・

  小学生かよ!

  ・・・超ぉおお最悪なんですけど・・・。』
 
 
 
すると、ナチも
 
 
 
 『アカリだって、

  マスカラ取れて、めっちゃパンダだよ・・・。』
 
  
 
不器用な互いの顔を見合い、同時に吹き出して笑った。

笑って、笑って、段々それが止んでゆく。
笑い声が震えて揺れて、すすり泣きに変わる。
 
 
すると、どちらからともなく自然に、ちょっとだけ手を握り合った。
相手の手のぬくもりに、なんだか初めて友達が出来た幼い日を思い出して
いた。
 
 
 
    友達になれた瞬間だった・・・
 
  
 
 
 
ナチとアカリが病室へ戻ると、心配そうにリュータが松葉杖でオロオロと
病室内を歩き回っていた。ハイスピードで動き回ったせいでその額には汗
がにじみ、真っ赤な顔をして。
 
 
しかし、二人がなんだか心なしか仲良さそうで、やわらかい空気を醸し出
していて、リュータは何があったのか分からず眉根寄せ、不思議そうに首
を傾げる。
 
 
それでも二人は相変わらず言い合いばかりしている。片方のやる事にイチ
イチいちゃもんを付け、他方はそれに意気揚々と応戦して。
某アニメの猫とねずみの、それ。仲がいいのか悪いのか全く判別が付かな
いリュータだった。
 
  
 
アカリが両親と地元へ戻る時間になった。

なんだか名残惜しそうに、後ろ髪引かれる感じを隠そうともせずチラチラ
とナチに視線を向けるアカリ。
 
 
すると、ナチが言った。
 
 
 
 『今度、ウチ泊まりおいでよ。 リコと3人で女子会しよ?』
 
 
 
その瞬間、アカリが珍しく嬉しそうな泣いてしまいそうな顔を向けた。

そして、慌てて俯き目元を潤ませる雫を指で拭うと、ツンとアゴを上げ目
をすがめ、ナチに向かってピースサインを突き出して帰って行った。
 
 
その顔はちょっと照れ臭そうに赤く染まり、そしてこの上ない最高の笑み
を湛えていた。
 
 
 

■第82話 コースケの考え事


 
 
コースケは自宅の自室でひとり、考え事をしていた。
  
 
ベッドに腰掛けるコースケのその膝の上には、リュータの愛猫あおいが丸
くなって眠っている。最近やっとこの部屋に慣れてきたあおいだが、最初
はエサも口にしてくれずコースケを焦らせた。リュータが入院して世話が
出来ない為、コースケがあおいを預かっていたのだった。
 
 
小さな寝息を立てるあおいを優しく優しく撫でながら、コースケは考えて
いた。久しぶりに再会したリコの事を。
 
 
1年前、ふいにリコから気持ちを打ち明けられ、今までそんなこと想像だ
にしていなかったコースケは激しく動揺してしまった。ただただ呆然とし
て声を失い、リコのことを気に掛ける心の余裕など全くなくて。

その動揺はあまりに分かり易かった為、あっさりとリコに伝わった。
 
 
そして、リコを傷つけた・・・
 
 
 
あの時コースケはなんと返事をすればよかったのか、未だに分からない。

”ありがとう ”でもない、”ごめん ”という言葉は違う。
ただただ、そんなリコの気持ちに全く気付けずにいた脳天気な自分に対し
腹が立ち自己嫌悪に陥った。
 
 
例え無自覚だったにせよ、リコの気持ちを利用してイラスト描きの手伝い
をさせていた事になるのかもしれないと思うと、もうどうしていいか分か
らなくなった。

リコが言わないのをいいことに ”気持ち ”に胡坐をかいて、都合よく使
っていただけなのではないかと。
 
 
それからリコからは連絡が来なくなり、こちらから連絡なんて出来るはず
もなく長い時間が過ぎ、気付くともう1年も経っていた。

しかし、コースケはリコの事をいつも気に掛けていたのだった。
  
 
 
  志望校は絞り込んだのかな・・・

  そろそろ受験かな・・・

  元気にやってるかな・・・
 
 
 
すると、先日病院で思いもしなかった再会を果たした。
 
 
リコは何も変わらず、1年前のまま笑顔だった。
むしろ、一本芯の通った凛とした顔になっていたようにも見えた。
 
 
また言葉を交わせた事がコースケは嬉しかった。
リコが明るく前を向いてくれていて嬉しかった。
 
 
 
  (また、みんなで集まって騒げたらいいのにな・・・。)
 
 
 
あおいに目を落とし、弱々しく微笑んだその時。
 
 
ジーンズの尻ポケットに突っ込んだままのケータイにメール着信のメロディ
が響き、突然の騒がしいそれにあおいがビクっと反応する。
 
  
 
  ◆From:リコちゃん

  ◆Title:美大合格しました!

  ◆今、掲示板で確認してきました!

   嬉しくて思わずメールしちゃいました(笑)
  
 
 
ケータイの画面を見つめ、コースケは目を見張って固まる。

そして一拍遅れて押し寄せた驚きと喜びに、思いっきりガッツポーズをして
腰掛けていたベッドから飛び上がった。その勢いに、膝の上のあおいがビッ
クリして毛を逆立て飛び退く。
 
 
すると、
  
  
  
  『もしもし・・・ 俺・・・。』 
  
 
  『・・・?

   ・・・コ・・・ コーチャン、先生・・・??』
 
  
 
ケータイを当てた耳がやけにジリジリと熱い。
  
コースケはリコに電話をしていた・・・
 
 
 

■第83話 コースケとの待合せ

 
 
 
 『今、どこ・・・?』
 
 
急に電話をかけてきたコースケが、そっと訊ねる。

リコは思ってもみなかった突然の電話に、絵に描いたようにただただ慌て
狼狽えた。
  
 
 
 『今・・・ えぇと。 合格発表の、帰りで・・・

  ・・・道を、歩いて、ます・・・。
 
 
  えーぇっと・・・

  ここ、何処・・・だろ・・・・・・・

  なんて説明したら、いいのかな・・・
 
 
  駅の近く・・・? そんな近くもないのかな・・・。』
 
 
 
あまりのシドロモドロ具合に、コースケが電話口で吹き出し大笑いした。
リコもそれにつられて恥ずかしそうにケラケラと笑い出す。 
 
 
 
 『ほんとに、おめでとう・・・

  リコちゃん、すげぇな。 頑張ったんだな・・・。』
 
 
 
コースケにそんな風に褒められて、リコは嬉しくて嬉しくてたまらなかっ
た。別にコースケの為に美術学校に進んだわけでも、コースケに褒めても
らう為でも無かったけれど、純粋に真っ直ぐその言葉は胸に響く。
 
 
すると、ケータイを当てたまま目を細め嬉しそうに俯くリコに、コースケ
が急に先程までとはまるで違う真面目な声色で言った。
 
  
 
  『今から少し時間ある・・・?』
 
  
 
その一言に、リコの胸が途端にギュっと痛み縮み上がる。

ケータイを握る手に無意識に力が入り、押し寄せる言いえぬ不安にリコは
哀しげに目を伏せた。
 
  
 
 
 
待合せた場所は、いつものファミレスだった。

先に到着したリコは、窓際の席でコースケを待つ。ため息がちに窓からの
景色をぼんやり眺めた。まだ昼前の街並みは、仕事中のサラリーマンの姿
や荷物を運ぶ作業着の男性など、気忙しくどこか苛立っている様に見える。
 
 
これからコースケに逢えるというのに、リコの胸は切なく痛んだ。
 
 
コースケの言いたい事は分かっていた。

生真面目なコースケのことだから、”あの時 ”の事をきちんと謝まろう
とでも思っているに違いない。困ったような情けない顔を向け、申し訳な
さそうにリコに哀しい目を向けるコースケが頭に浮かんだ。
 
 
しかし、リコはもうあの時の話はして欲しくなかった。

あの時、胸に秘め続けた素直な想いを伝えられてスッキリと心が軽くなっ
てそれで良かったのだ。勇気を出して伝えられただけで、それだけで。
 
 
次第に憂鬱になってゆくリコ。 
窓の外へ目を向けるも、その目はコースケの姿が見付からないことを願い
胸の中はチグハグに揺れる。
 
 
 
 (謝ってほしくなんか、ないのにな・・・。)
 
 
 
すると、20分ほどしてコースケが走って店にやって来た。

なんだか思ったより時間がかかった様に感じる。保育園からならここまで
そんなに時間は要しないはずなのに。
何か用事でもあり忙しいのなら話は後日でも構わないのにと、内心逃げた
い気持ちが見え隠れするリコの手首をぎゅっと掴んで立たせ、コースケは
『行こう!』と店の出口へと再び駆ける。
 
 
何がなんだか分からず、リコは手を引かれるままにコースケについて走っ
た。店を出ても変わらずコースケは何も言わずに小走りで進む。
 
  
 
 『ね、ねぇ・・・

  コーチャン先生・・・? どこに行くの・・・?』
 
  
 
息を切らせながら問いかけるリコのそれにも答えず、ただ、商店街を駆け
抜けるコースケ。逃げたりしないというのにその大きな手はしっかりリコ
の細い手首を掴んだまま。やけに力強いその手に、照れくさい反面なんだ
か若干の恐怖すら感じるほど。
 
  
  
 
そして、走り続けてやって来たのはひまわり保育園だった。

今は平日の昼前なため、グラウンドにまで園児の賑やかな声が色とりどり
のスーパーボールのように跳ねて響いている。

コースケに続いて裏口に回り、久しぶりに園に入った。
懐かしさと嬉しさが込み上げるも、あの頃の思い出に胸が少しだけ苦しい。
 
 
園児たちは各教室で絵本の読み聞かせの時間らしく、扉向こうから愉しげ
な幼い声がくぐもって聴こえる。二人がそっと足を踏み入れた中央の遊戯
室は、ひと気もなくひっそりとしていた。
 
 
リコが顔をあげ、懐かしそうに目を細めて遊戯室内をゆっくり見渡す。

すると壁一面に、四季のイラストとそれに伴った立体的なキャラクターの
数々が優しく佇んでいた。
 
  
 
 『あれから、俺も・・・

  ・・・実は、 ケッコー頑張ってたんだぁ・・・。』
 
  
 
そう言ってコースケが笑う。

優しく目尻を下げ、照れくさくて緩む口元を手の甲で隠すように当てて。
1年前には見るも無残だった絵の腕前が、たった一人で頑張ってここまで
仕上げられる程に進歩していたのだった。
 
  
瞬きを忘れ壁のイラストに見入るリコが、瞳にゆらゆらと涙をいっぱい
溜めてやわらかく微笑んだ。
 
 
 

■第84話 あれから

 
 
 
 『すごい・・・ すごいね・・・・・・・。』
 
  
リコが今にも涙の雫が落ちそうな瞳で、一面の壁のイラスト画を見つめる。
愛おしそうにゆっくり瞬きをした瞬間、大きな雫が頬を伝ってこぼれた。
  
 
 
 『俺もずっとバイトして、結構金も貯まったから、

  この春から夜間の保育士学校通う事にしたんだ。
 
 
  ほら、大学4年て殆ど講義ないし。

  まぁ、普通は就活でみんな飛び回る時期だし・・・ 
 
 
  バイトは昼間にして、夜に学校。
  
 
  なんか、それを・・・

  ・・・どうしても、リコちゃんに話したくて・・・。』
  
 
 
照れくさそうに、でもどこか誇らしげにコースケが頬を緩める。
 
 
リコは、心の底から嬉しかった。

コースケが確実に前に進んでいる事が、まっすぐ前を向いている事が、
その揺るぎ無い信念が、そんなコースケが・・・。
 
 
すると、思い出したようにコースケは再びリコの手首を掴み引っ張る。

そして園児用の小さなテーブル前まで連れて行き、リコの肩をそっと押し
て座らせると、『一足早く、おめでとう会しよう!』

そう言って、自宅のキッチンに駆け込みその奥からケーキを持ってきた。
待合せのファミレスに遅れて来たのは、このケーキを用意していたからだ
ったのだ。
 
 
2~3人用の丸いデコレーションケーキには ”リコちゃんおめでとう ”
と書かれたチョコレートプレートが真っ白い生クリームの上に在る。

まるで幼い子供の誕生会用のような、リスやうさぎのマジパンが乗った
ケーキがいかにもコースケらしくて、リコはぷっと吹き出し笑った。
  
 
 
 『この次は・・・

  ナッチャンのおめでとう会とぉ・・・ リュータの退院祝いだな!』
 
 
 
コースケがやけに得意気に口角を上げる。
  
 
『3人分あわせても良かったのに・・・。』 そう、リコが呟くと
 
 
 
 『だってさぁ、合格するとは限らないだろぉ~?

  アイツが無事退院できるかも分かんねぇ~し・・・。』
 
 
 
コースケがイタズラした子供のようにニヤリと笑う。
そして、困ったような情けないような眉尻を下げたやさしい顔をリコに
向けた。
 
 
 
  (コーチャン先生・・・。)
 
 
 
その笑顔を瞬きもせず見つめるリコ。

すると、自分でもよく分からないうちに勝手に言葉が溢れだした。
 
 
 
 『コーチャン先生・・・

  あの時・・・ 私・・・ 困らせてごめんね・・・。
 
   
  急に、あんな事言われて驚いただろうし、迷惑だったよね・・・?
 
 
  私も、あんなタイミングで言うつもりなんか、

  ・・・全然、 無かったのに・・・。』
 
  
 
申し訳なさそうにうな垂れて呟くリコを、コースケは先程までとは別人の
ような真剣な眼差しで真っ直ぐ見つめる。

そしてリコと正面から向かい合うと、ゆっくりと言葉を選んで話し始めた。
  
  
 
 『あの時の事は・・・ 正直、ほんと・・・ 俺・・・。
 
 
  でも、迷惑とかそんな事・・・ 1ミリも思ってないよ!!

  ほんとに驚きすぎて、バカみたいに動揺して、

  あんな別れ方しちゃって・・・
 
 
  ・・・我ながら、ほんと。 情け無いよ・・・。』
 
 
 
リコは黙ってコースケを見つめていた。

コースケが小さく俯きなにか覚悟を決めたように、再び話し始めた。
 
 
 

■第85話 2人の新たなる一歩

 
 
 
コースケは真っ直ぐリコを見つめたまま、話を続けた。
 
  
 『マリの事が好きなのか・・・ 前にリコちゃん、訊いたろ・・・?

  俺とアニキとマリの事も、知ってんだよな・・・?
 
 
  長い付き合いだし、もう家族みたいなもんだし、

  どうしても放っておけないんだ・・・ マリも、たっくんも・・・
 
 
  それが、どんな意味なのかも正直分かんねぇ・・・
 
 
 
  でも、きっと、俺は。
 
 
  マリが泣いてたら、慰めに行く・・・

  マリが困ってたら、助けに行く・・・
 
 
 
  そんな状態で誰かと向き合ったって、傷つけるだけだと思う・・・

  例え、それが ”家族愛 ”だとしても。
 
 
  それを理解しようと必死に誰かが我慢する姿は、

  俺は見たくないし、そんな事させたくない・・・
 
 
  だから。

  今は誰とも付き合えない・・・ 付き合わないんだ・・・。』
 
  
 
コースケの真剣な言葉を、リコは最後まで黙って聞いていた。

真っ白い頬を透明な雫が伝い流れる。
しかしそれは哀しい涙というよりは、どこか頼もしく誇らしいそれだった。
 
 
リコは心の中で、やはりコースケを好きになって良かったと痛感していた。
  
 
 
 『ちゃんと話してくれて、ありがとう・・・。』
  
 
 
そう言って、リコは微笑む。

そして、ゆっくりゆっくり大きく深呼吸をするとコースケを真正面から真っ
直ぐ見つめて胸を張って言った。
 
 
 
 『やっぱり私は、あなたが好きです。

  1年経っても、その気持ちはなにひとつ変わらない。
  
  
  ・・・このまま、好きでいさせて下さい・・・・・・。』
 
 
 
その凛とした透き通るような声音に、コースケは少し哀し気に眉根をひそめ
何かを言いかけ、リコが慌ててその口許を手で塞ぎそれを遮る。
 
  
 
 『私がそうしたいから、勝手にそうするだけっ!

  別に、コーチャン先生にそれを止める権利なんて無いからねっ!』
 
 
 
明るく頬を緩めて言い放つリコに、コースケは少し泣き出しそうな目を向
ける。そこまでしてもまだ想い続けてもらえる価値など、自分自身にある
のか分からず、ただただ不甲斐なさだけ募って。 
 
 
しかし、目の前のリコは眩しいくらいに明るく笑っている。
まっすぐ笑ってくれている。
 
 
コースケは、リコの手の平で口を塞がれ ”降参 ”とばかりに両手を上げる
とコクリコクリと首を数回縦に振り頷いた。

そして、『苦しい~~! 殺す気か~~ぁ!!』 と大袈裟に肩で息をする。
 
 
リコは、敢えて大仰に茶化してその場を和ませようとするコースケの優し
さと温かさを感じ、鼻の奥にツンと込み上げる熱いものを必死に堪えた。
 
 
そして二人、顔を見合わせ声を上げて笑った。
 
新たなる一歩を踏み出したリコとコースケだった。
 
  
 
 
 
その後は二人でケーキを食べながら、互いのこの1年間の色々な話をした。

コースケが子供たちにバカにされながら必死に絵の練習をしていた事。
リカコは休学届を出して、たった一行だけの素っ気ないメールを寄越し海外
に行ってしまった事。
リュータがナチの去った後、廃人のようになっていた事。
 
 
そして、
 
 
ナチに似た子に思わず見惚れて余所見をし、バイクで横転して事故った事を。
 
 
 

■第86話 2週間前のこと

 
 
 
それは、今から2週間前のこと・・・ 
  
 
その日、リュータはいつもの様にバイト先へ向かう為にバイクに乗って出
掛けた。あまり積もるほど雪は降らないこの街の風景が、今シーズン初め
てうっすら白くやわらかく包まれていた。

玄関ドアを開けた瞬間、忌々しくさえ思える初雪にバイクに跨るのは諦め
ようか迷い、しかしこの程度ならすぐ溶けるだろうと予定通りキーを回し
てエンジンをかけた。
 
 
あれからコースケは毎日忙しく、リカコもさっさと一人で海外に旅立って
しまった。仲間達がどんどん自分の道を見付けて前進する姿を目の当たり
にして、焦りが無かったといえば嘘になる。

少しでも何かしなければと躍起になり、知人の紹介で好きな車やバイク修理
のバイトを始めていたリュータ。
 
 
少しずつ日が傾きはじめていた夕暮れ前の時間帯、街は帰宅ラッシュには
まだ早かったが学校終わりの学生の姿は多く見受けられた。
 
 
信号待ちで止まっていると、ナチと同じ学校の制服を着た女子高生が数名
で楽しそうにしゃべって笑いながら歩いているのが向かいの歩道に見える。
何がそんなに楽しいのか、道端で肩を小突き合ってお腹を抱えて笑って。
 
 
 
  ふと、ナチの事を考えていた・・・
 
 
 
ナチもリコと二人でよく、何が面白いんだかさっぱり分からないような話
をしては涙を流して大袈裟に笑い転げていた。お日様みたいにキラキラに
眩しく、豪快に口を開けて笑うナチの顔が心に浮かんだ。

そんな事を思い出して、自然に頬は緩む。切なげに小さくついたため息が
ヘルメットの中で行き場なくくぐもった。
 
 
そっと顔を上げると信号が青に変わったのが目に入った。
リュータは握り締めるグリップをひねり、バイクを進めようとした、その時。
  
  
  
  (ナチ・・・・・?!)
 
  
  
何気なく流した視線の先、遠く斜向かいの歩道にナチの姿が見えた気がした。
ナチの、あの、栗色で癖っ毛のクリクリの髪が。 
 
 
 
  (今の・・・ ナチじゃ・・・・??)
 
  
  
そう思い気を取られて余所見をしていた時、後続車から進行を急かすクラク
ションを鳴らされ慌てたリュータは、グリップを思い切り回して急発進。

リュータを乗せたバイクは空回りする低いエンジン音を轟かせ、真っ直ぐ吸
い寄せられるように道路脇の電柱めがけ突っ込んで行った。

『ヤバイ』と思った瞬間ハンドルを切った為、真正面からの衝突は防げたが
左半身は強打し、鈍い痛みを感じた瞬間・・・その後の記憶はとんだ。
 
  
 
  
 
  『リュータさん? リュータさん?!』
  
  
 
次に目を開けた時、一番最初に飛びこんで来たのはナチの顔だった。

あんなに逢いたくて逢いたくて、でもほんの少しの勇気がなくて逢いに行け
なかったナチが目の前に。
 
 
1年ぶりのナチは、以前より髪の毛が伸びていた。

栗色の癖っ毛はそのままだけれど、顎あたりの長さだった毛先は今は肩に触
れて優しく揺れている。ほんの少しだけ大人っぽくなった、ナチ。
 
 
 
 (さっきの子は、人違いだったんだなぁ・・・。)
 
 
 
リュータは、いまだぼんやりする頭で思っていた。
一瞬の余所見なんかでこんな事になってしまって、自分に呆れ情けなく眉根
をひそめる。
 
 
あちこち体中は痛むけれど、それよりなによりナチがあまりに強く握り締め
てくれる手が正直なところ結構痛くて、しかしその何百倍もあたたかい。
 
 
 
 (俺。 まさか、死んだわけじゃねぇよな・・・。)
  
  
  
 
  
 
   『髪・・・ 伸びたなぁ・・・。』
 
  
  
 
たどたどしく口を開き第一声そう呟くと、ナチがぽろぽろ涙をこぼしながら
真っ赤な顔で猛烈に激怒した。全身で怒って、ぐしゃぐしゃになって泣くそ
の姿を見て、リュータは改めて思った。
  
  
 
  (やっぱ、本物のナチだ・・・。)
  
  
 
怒って弾かれたように病室を飛び出したナチの、小さく遠ざかるブーツが立てる
足音を聴きながら、リュータは目を細めて口元を緩める。
 
 
 
  (・・・初雪も、悪くねぇなぁ・・・。) 
  
 
 
ジーンズのポケットから、ボロボロになった御守りが出て来た。
 
 
 

■第87話 退院

 
 
 
リュータは無事、退院する日を迎えた。
 
 
人生初の入院は、引っ切り無しに見舞ってくれる友人たちのお陰で寂しい事もな
かった。なにより、無事志望校に合格したナチが毎日毎日やって来ては、朝から
晩まで笑わせてくれたのがリュータにとって本当に大きかった。
 
 
骨折してしまった脚をギブスで固め、まだ暫くは松葉杖での生活になる。

しかし、リュータは一人暮らしでしかも自宅は坂の上にある。唯一の公共交通機
関であるバスも坂下の大きな車道までしか通っていなかった為、松葉杖でそれを
上り下りして自活するのはどう考えても不可能に近かった。

一時的に実家にでも戻るしかないかと、本当は一番選びたくないその選択肢に苦
い顔をつくってうな垂れたリュータへ、退院の付添でやって来てくれたコースケ
がさも当たり前という感じで言った。
 
 
 
 『俺ん家に、暫く生活する為のお前の私物。 もう運んであるから。』
 
 
 
耳に聴こえたその言葉に、リュータは呆気にとられていた。

『俺ん家へ来ないか?』でもなく『私物運ぼうか?』でもなく、なんの断りも
相談もなく『運んであるから。』
 
 
思わず吹き出して笑ってしまった。

心の底から有難くて嬉しくて、でもその遠慮なしの距離がどこか照れくさくて
リュータは緩む頬を隠しポツリと呟いた。 『佐川男子か、お前。』
 
 
 
 
 
その日から、松葉杖がとれるまでの間コースケとリュータの奇妙な同居生活が
始まった。元々愛猫あおいもコースケの所で預かってもらっていたので、なん
の心配も無かったというのが正直なところだった。
 
 
2階の6畳の部屋にコースケはベット、リュータはその足元に布団を敷いて寝
起きし食事はコースケの家族と一緒に居間で食べた。バイトもこの足では行け
ないので、コースケの留守の間もリュータは家の中にいる事になる。

歩行練習も兼ねて、リュータは園の手伝いが出来ないかとふと園児がいる昼間
の時間帯に遊戯室に行ってみた。
 
 
丁度そこは紙芝居の時間だったようで、保育士が園児の輪の中心で話を聞かせ
ているところだった。キャラクターのエプロンをしたジャージ姿の若い保育士
が少し大仰な程に感情豊かに、紙芝居をめくり昔話を繰り広げる。

その園児の輪から少し離れた所にぺたんと座り込み、なんとなくリュータも話
を聞いていた。
 
  
すると、 『ねぇ。 あし、いたいの?』 男児が一人、紙芝居の輪から抜け
てリュータの元へ近寄り、小首を傾げてギブスの足を不思議そうに見ている。

その子はリュータの目の前でしゃがみ込むと、紅葉のような小さな手をギブス
にのせて優しく優しく撫ではじめた。
 
  
 
 『いたいの いたいの とんでけ~ぇ!』
 
 
 
そう言って一生懸命に幾度も撫でる男児。リュータはやわらかく微笑んでサラ
サラの髪の毛が天使の輪を作る頭を撫でると、『ありがとな。』と呟いた。
 
 
褒められて得意気な男児は、リュータの脚と脚の間にちょこんと座る。
思わずリュータもその子が愛しくなってしまって、後ろから抱っこするように
手を回して抱え込み、一緒に紙芝居を見ていた。
 
 
しかし、男児は紙芝居そっちのけで顔だけ振り返り、リュータに質問をする。
 
 
 
 『なんで、あし いたくしたの?』

 『ないた?』

 『ちゅうしゃ した?』
 
 
 
矢継ぎ早なそれにリュータは我慢しきれずぷっと吹き出し、頭をガシガシ撫で
ながら事故の話を男児に聞かせた。
 
  
リュータがコースケの所に居候している話を聞いたリコとナチが訪ねて来ている
事など何も知らないリュータだった。
 
 

■第88話 秘密の話

 
 
 
 『そのこは、ここにいる?』
 
 
事故の話を聞いた男児が、リュータを曇りひとつない真っ直ぐな瞳で見つめて訊
ねる。リュータが ”見間違えた女の子 ”が、この園児の中にいるかどうか訊い
ているようだった。

リュータは吹き出しながら、声をひそめて真面目に答える。
 
 
 
 『ここの4歳児がその子だったら、犯罪になるんだよ。』
 
 
 
男児はなんの事だかサッパリ分からず、下唇を突き出し首を傾げる。
 
 
 
 『ぼくはね、アイちゃんがすきぃ。 ・・・おにーちゃんは?』
 
 
 
紙芝居に全く興味を示さない男児の質問攻めは止むことを知らない。

”好きな子の名前 ”を訊かれ、ちょっと困った顔をして照れながらリュータは
少し悩んで口をつぐみ、前傾して小さな小さな声でこっそり耳打ちした。
 
 
そして、
 
 
 
 『ゼッタイ内緒だぞっ! 分かったか?!

  男は大事な秘密は、守らなきゃダメなんだからなっ!!』
 
 
 
男児が真剣な顔でリュータへと向け自信満々に大きくコクリと頷いた。

すると、コースケの母親が遊戯室にリュータを呼びにやって来た。
 
 
 
 『リュータ君、お友達来てるわよ~。』
 
 
 
呼ばれた遊戯室出入口へ目をやると、そこにはナチとリコの姿がある。

片手で体重を支えながら松葉杖を使って立ち上がろうとしたその時、さっきまで
話をしていた男児がナチ達の元へ嬉しそうにパタパタと走って行った。
 
 
リュータは軽く手を上げ合図し、ゆっくり足を引きずりながら二人の元へと向か
うとその耳には信じられない一言が・・・
 
 
 
 『ねぇねぇ。 おねえちゃん、ナチ?』
 
 
 
初対面の男児に急にそんな事を訊かれ、ナチもリコもキョトンとハテナ顔。

目を見張ってそんな二人と男児に交互に視線を泳がせるリュータ。座っていた場
所から出入口までの距離なんて普段ならなんてことないそれなのに、松葉杖では
それがやけに遠く遠く感じる。
男児が更に余計なことを言うのではないかと、大慌てでリュータが声を張り遮る。
 
 
 
 『おいおいおい! バカっ、お前・・・

  ・・・こ、こっち戻って来いっ!!』
 
 
 
しかし、男児は自信満々に。 『だいじょうぶ! ぼくひみつ まもれるよっ!』
 
そう言い切って、尚もナチとリコに話し掛ける。
 
 
 
 『おにーちゃん、びょういんでも さみしくなかったんだって。』
 
 
 
一生懸命話す男児が可愛くて、しゃがみ込んで笑いながら相手をするナチとリコ。
すると、ナチが気になって仕方ない先程の件を訊いてみた。
 
 
 
 『ナチは私だよ。 さっき私の事なんか言ってたの?』
 
 
 
そこへ松葉杖を付き不自由そうに、しかしやけに慌てふためいて早歩きしてきた
リュータが話に割って入った。まだノロノロとしたペースでの歩行練習しかして
いないというのに、まるで競歩のように早く歩いたせいで心臓はバクバク打ち付
け顔は真っ赤で汗だくになって。
 
 
そんなリュータを不思議そうに見つめるナチ。
 
 
 
 『どうしたの・・・ なに焦ってんの・・・?』
 
 
 
『ハ、ハハハー・・・。』 あからさまにぎこちなく笑ってごまかすリュータ。

毛穴という毛穴から一気に汗が吹き出し、背筋は凍ってゾクゾク嫌な感覚が走る。
 
  
すると、男児が純真無垢にトドメの一撃を放った。
 
 
 
 『おにーちゃんね。

  ナチとまちがえて ころんじゃったけど なかなかったって。

  えらいね~ぇ・・・。』
 
 
 
『・・・。』 リュータがしてやられた顔をして、頭を抱え込んだ。

スルリとその手から滑り落ちた松葉杖が、磨き上げられた床にカツンと音を立て
転がる。それは丁度小さくバウンドして、ギブスの痛めた爪先に乗った。
『痛って・・・。』 情けなく声を漏らしたリュータに、男児が心配して駆け寄
り『いたい?』と、小さい手で爪先をさする。
 
  
ナチが目を見開いて立ち尽くしていた。
 
 
 

■第89話 瞬きもせずに

 
 
 
 『・・・・・・・・・。』

 『・・・・・・・・・。』
 
 
リュータとナチの間に、暫しジリジリとした息苦しい沈黙の時間が流れた。

事情を察したリコが、男児の背中を押して『紙芝居見ようか』とその場から
そっと離れる。そして横目でリュータとナチを見て ”頑張れっ! ”と心の
中で叫んだ。
 
 
  
 『ねぇ・・・ 今のどうゆう事?』
 
 
 
ナチが目をすがめ睨むような真剣な顔で訊く。

その声色は抑揚なくどこか冷淡なそれ。フツフツと沸き起こる怒りに似た感情
が胸の中を占め、立ち尽くすナチの体の横で垂れた拳にぎゅっと力がこもって。
 
 
『んぁあ? ・・・な、なにが??』 はぐらかしてその場から逃げようと方
向転換しかけたリュータの松葉杖を、ナチの伸ばした手が一拍早くギュっと押
さえもう一度静かに訊く。
 
 
 
 『事故と私・・・ なんか関係あんの?』
 
 
 
リュータはナチから目を逸らすも、ガッチリ押さえられている松葉杖は自由が
効かず、二度も問われたそれをなんとか誤魔化そうと『えへへ』とあからさま
な作り笑いを浮かべてナチの様子をこっそり盗み見る。

すると、あまりに煮え切らないリュータの態度に痺れを切らし、ナチは乱暴に
腕を引っ張ると、コースケの母親に『お邪魔します。』と一言だけ伝え、コー
スケの2階の部屋へと向かった。
 
 
 
 
 
家主のいないコースケ自室のベットに、ギブスの足を投げ出すように腰掛けた
リュータ。腰の横に後ろ手を付き、顎を上げて天井を見上げる。そこには見つ
め続ける意味があるものなど何もないけれど、そうでもしていなければ目線の
落とし処が定まらない。

ナチはというと、ベッド脇のラグを敷いた床に正しい姿勢で正座をし真っ直ぐ
にリュータを睨み続けている。
 
 
また暫くの間、二人は一言も話さずにいた。
壁掛け時計の秒針だけが、嫌味なほど静まり返った部屋にその音をおとす。
 
 
地獄のような沈黙に先にギブアップしたのはリュータだった。

覚悟を決めたように大きな大きなため息をひとつ付く。痩せた喉に浮き上がる
喉仏がゴクリと息を呑むタイミングでわずかに上下した。
 
 
 
 『髪が・・・ こんなに伸びてるとは思わなかったんだよ・・・。』
 
  
 
リュータが再びやや暫く口ごもり、やっとの事でそれが言葉になってこぼれた。

いまだナチに視線を向けられず顔を上げたまま。ナチの座る位置からは見えな
いその目はこれから告げようとしている事実に、不安で緊張して潤んでいる。
 
 
ナチはそれでもただ黙って睨んだまま微動だにしない。
  
 
 
 『俺ん中のお前は、1年前のお前のままで・・・

  アゴくらいの長さの~ぉ? クリクリの~ぉ? お前のままで、さ。
 
 
  ・・・で。

  この間、制服姿のお前見かけて~ぇ・・・
 
 
  つぅか、人違いだったんだけど。

  前のお前と・・・ そっくりな髪の子で・・・。』
 
  
 
そこで初めてナチの表情筋がピクリと動いた。
眉根をひそめ口をきゅっと結んで、怪訝な顔を向ける。
  
 
 
 『それでぇ・・・
 
 
  ぁの。 ちょっと、それに、見とれた?っつうか・・・

  うっかり、余所見?してぇ・・・
 
 
  ・・・で。
 
  気が付いたら、電柱に突っ込んでたってだけ! そんだけの話っ!!』
  
 
 
最後まで話を聞いて、ナチが大袈裟に全身で大きな溜息を付いた。

呆れて物が言えない。否、なにをどう辛辣な言葉でケチョンケチョンに責め立
ててやろうかと、腹の中では鬼が胡坐をかいて出番を待っている状態。
 
 
そしてもう一度深く息を吐くと、爆発するようにナチは怒鳴った。
  
 
 
 『何やってんのよっ!! バカじゃないのっ?! そんな事ぐら・・・』
  
 
 
『そんな事、じゃねぇよっ!!!』 リュータがナチの言葉を遮って声を張る。

無意味に天井を見つめ続けていたその目は、まっすぐナチを捉えて。
 
  
 
 『そんな事、とか簡単なことじゃねぇよ!!
 
 
  1年だぞぉ?! 

  1年も音沙汰なくて・・・ 連絡もしちゃいけない空気で
 
 
  何してるかなぁ、元気にしてるかなぁ、受験頑張ってんのかなぁって・・・

  そりゃ・・・ 考えるだろ、普通・・・。』
 
 
 
ナチに逆切れするように怒鳴ってしまって、リュータは気まずそうに俯く。
手持無沙汰で指先で引っ張った前髪が、居心地悪そうに揺れる。
 
  
ナチは不機嫌そうな仏頂面のまま俯いていた。
あの頃より伸びた癖っ毛の髪の毛先が、呼吸に合わせて静かにたゆたう。

ぎゅっと目を閉じると胸の中に響き渡ったリュータの言葉が、まるで津波のよう
に幾度も幾度も押し寄せて来る。その波に溺れ、上手に呼吸が出来ないでいた。
 
 
そして、
  
 
 
 『だから・・・

  第一声が、 ”髪伸びたな ”だったんだ・・・。』
 
 
 
震えて響いたその一言は、心許なく足元にこぼれて落ちた。

ナチは正座の体勢から立ち上がり、ベットに腰掛けるリュータの足元へ移動す
る。そこで立ち膝になり真正面に向かい合った。
 
  
真っ直ぐ、瞬きもせずにリュータを見つめるナチ。最初はきまり悪そうに視線
を泳がせていたリュータも、しっかりと見つめ返した。
 
 
 

■第90話 スタート

 
 
 
ただ、黙って見つめ合う二人。

もうきまり悪そうに不安気に目を逸らしたりはしない。互いの瞳の奥の揺らめ
きがハッキリ分かる程に、まっすぐ淀みなくその視線は絡み合う。 
 
 
『嫌い・・・。』 ナチが真っ直ぐ睨んで呟く。

その顔は少しだけ唇を尖らせ、眉根をひそめ。しかしその頬はまるで目映い春
の桜のように染まって。
  
 
 
 『誰にでも優しくするし・・・

  その気にさせるし・・・

  ・・・そのくせ ”妹 ”とか言うし。
 
 
  すぐバカとかアホとか言うし・・・

  セクハラもするし、ガサツだし・・・。
  
  
  人の気も、知らないで・・・

  今更、 ・・・髪・・・ 伸びた、とか・・・ 言・・・・・』
 
 
 
ナチが最後まで言い終わらないうちに、リュータが腰掛けるベッドから身を乗
り出し腕を伸ばしてナチの背中をそっと引き寄せる。
ギュっと抱き締められたその華奢な体。
 
 
 
 『大っ嫌い・・・。』
 
 
 
ナチがリュータのTシャツの胸に手を置き、しがみ付いて呟く。

その瞳にはゆらゆらと透明なものが込み上げ、長い下まつ毛にギリギリの所で
とどまっている。
 
 
『ん・・・。』 リュータが頷き、更に抱き締める腕に力を込める。

愛しい栗色の癖っ毛から香る甘いシャンプーのにおいが、リュータの鼻先を霞め
Tシャツの奥の奥の心臓が眩暈がしそうにドクンドクンと早鐘を打つ。
 
  
 
 『大っっ嫌い・・・。』
 
 
 『ん・・・。』
 
 
 
リュータがナチの頭を両腕で抱え込むように抱きすくめ、頬を寄せる。

リュータの左頬とナチの右頬がわずかに触れ合い、互いのそれの熱さに一気に
照れくささが募る。やわらかいぷにぷにの桜色した頬にもっともっと触れたく
てリュータは目を瞑って更に顔を寄せた。
 
  
 
 『ホントに・・・ ホントに、大っ嫌いなんだからね・・・。』
 
 
 
ナチのそれは涙声になっていた。
胸が苦しくて切なくて、呼吸の仕方が分からなくて、喉の奥がジンジン熱くて。

耳に響いたその声音に、リュータは少し体を離しナチを覗き込む。
涙で潤んだ瞳を見てリュータは小さく微笑む。涙袋がぷっくり膨らんでまつ毛が
濡れて、涙をこらえる鼻の頭が真っ赤になって。

大きな両手をそっと伸ばして、ナチのまあるい赤い頬を包み込んだ。
 
  
 
   優しく優しく微笑んだまま、ナチを見つめるリュータ
 
 
 
ナチの心臓が、ドキン・ドキン・ドキン・ドキン。 大きく打ち付ける。
体全部が心臓になってしまったんじゃないかと思うほどの、全身での高鳴り。
 
 
そして、ナチがもう一度。
 
 
 『大っっっっっ嫌・・・・・・・・・』
 
 
  
 
 
         。。。。。。
  
   
  
  
  
 
   リュータは手の平で包んでいるナチの頬を引き寄せると、

        優しく優しく、キスをした・・・
 
  
  
 
 
静かに名残惜しそうにそっと唇を離すと、目を見開いて呼吸すら止めて固まって
いるナチ。まるで一時停止ボタンでも押したように、微動だにしない。
  
 
思わずリュータが吹き出し笑った。 『目ぇ、閉じれよ~ぉ!!』
 
肩をすくめてご機嫌にケラケラ笑いながら、再びナチをギューっと抱き締める。
愛おしくて愛おしくて、もうこの腕の中から逃がしてなどやりたくなくなる。
しかし、当のナチはいまだ全く反応がない。
背中の乾電池でも切れたのかと思うほど、無反応なその姿。
 
 
『ぉ、おい・・・ ナチ・・・??』 さすがに心配になりかけたリュータ。
 
 
すると、
 
  
 
 『・・・やっと。

  私の、こと・・・ す、好きに・・・ なったの・・・??』
 
 
 
相変わらず瞬きもしないまま、ナチが呟く。
なんだかその顔は、青いような赤いような、哀しそうな嬉しそうな。
  
 
  
 『・・・いや、 ぁ。 うん・・・

  好き、だった みた・・・・・・・・・・』
  
 
 
 
  
        。。。。。
  
 
 
 
 
そう言いかけたリュータの唇を遮って、ナチはリュータにキスをした。
ギュっとキツくつぶったナチの瞳から、涙の雫がとめどなく流れて落ちる。
  
 
甘く触れ合う唇をそっと離し、もう一度二人見つめ合う。そして微笑んで再び
きつく抱き締め合うと、優しく目を瞑って長い長いキスをした。
  
   
 
 『あっ! 痛ぇえ・・・ 

  ・・・ナチっ! お前、足!! 踏んでるっつーの!!』
 
  
 
リュータとナチの新たな日々がスタートした。
 
 
 

■第91話 宣言

 
 
 
 『あれっ?! リ、リコちゃ・・・』
 
 
バイトから帰宅したコースケが実家の階段下で縮まるリコに呼びかけた。

リコが自分不在の実家に居ることも謎だが、身を潜めるように階段の踏面
に手を掛け2階に行こうか行くまいか悩んでいるような、その中腰姿。

名前を呼び掛け終わる前に大きな声を出さぬよう『シッ!』と、リコが唇
に人差し指を当てて遮られたそれにも、コースケは小首を傾げた。
 
 
 
 (どぉ~した~のぉ~?)
 
 
 
コースケが大仰に口を大きく開けて、クチパクでリコに問い掛ける。
 
 
すると、
 
 
 
 (い~まぁ~、 リュータさんとぉ~、 ナ・・・)
 
 
 
目の前のリコもクチパクで説明しようとし、その唇の動きを解読しようと
したコースケが、それの無意味さに気付いて少しだけリコの耳に近付き耳
打ちする。
  
 
 
 『えっ?! 話し合いしてんの・・・?』
 
  
 
リコはリュータとナチ二人が神妙な面持ちで2階へ上がって行った話を
した。リュータは困り果てて眉根をひそめ、ナチは顔面蒼白だったそれ
を思い出し、暫く経っても一向に二人が戻って来ないので、リコは大喧
嘩でもして泣いたりしているんじゃないかと心配になってきていたのだ。
 
 
部屋に入って行って二人の間に割って入るのもどうかと思い、ただ一人
オロオロと階段を上ろうか止めようか中腰状態で狼狽えていたのだった。
 
 
 
 『・・・ねぇ、どうしたらいいと思う?』
 
 
 『取り敢えず、行ってみよう!

  ・・・ってゆうか、俺の部屋だし・・・。』
 
  
 
コースケとリコは、なるべく足音を立てないように四つん這いで階段を上
がる。そして2階廊下の奥にある部屋の前まで来て、二人は顔を見合わせ
どちらからともなくコクリと頷き合うと、部屋のドアに耳を当てて中の様
子を伺った。
 
 
すると、
 
 
 
 『うはははっ・・・!』

 『あはは~・・・・!』
 
 
 
薄いドアの数センチの厚み越しにリュータとナチの笑い声が聴こえる。

コースケとリコはドアから耳を離すと再び顔を見合わせて首を傾げた。
そして互い確認し合う様に視線だけ交わすと、恐る恐るドアをノックする。
 
 
 
  コンコン・・・
 
 
 
それはやけに他人行儀に、やけに律儀に、まるで入社試験の面接会場にでも
入室しようとしているリクルートスーツ姿のように。
 
 
 
 『・・・し、失礼しま~ぁ・・・す・・・。』
 
 
 
しずしずとドアの奥から覗き込んだコースケとリコに、リュータとナチが不
思議そうに小首を傾げ呟いた。 『何やってんの? お前ら・・・。』
 
 
至って普通に、むしろ和やかな雰囲気を醸し出すリュータとナチ。

リュータはコースケのベッドにギブスの脚を投げ出して腰掛け、ナチはその
足元に体育座りをしてベッドに背をもたれ、並んで座っている訳でもないけ
れど心なしかその二人の距離は近付いている様な気がしないでもない。
 
 
 
 『・・・イヤ。

  ぁ、あの・・・ ケンカとかしてんじゃないかと・・・。 なぁ?』
 
 
 『・・・ねぇ?』
 
 
 
慌ててコースケとリコが顔を見合わせ相槌を打ち合う。

その頬は下手くそな愛想笑いを浮かべ、なんだか仲良さそうなリュータと
ナチへと交互に視線を走らせて。
 
 
『ケンカ? ・・・なんで??』 ナチも、ハテナ顔で返した。
 
  
その全く以って不安に思う必要の無さそうな二人を目の当たりにし、正直
拍子抜けしたようにコースケとリコは気の抜けたように笑って誤魔化す。
 
 
 
 『ぁ、あはは・・・

  ・・・まぁ。 とにかく、仲良さそうで良かった良かった。

  仲良きことは美しきこと哉? あははー・・・。』
  
 
 
すると、リュータが急に真面目な顔を向け、だらしなくベッドから投げ出
していた脚を正す。
 
  
 
 『俺たち、決めた。

  もう誤魔化すの、やめた。
 
 
  これからは、ずっと一緒にいる事にしたから。』
 
  
 
リュータが高らかと宣言をした。

『付き合おう』という明確な意思確認をし合った訳ではなかったのに、
こんなにハッキリと友人の前で宣言されて、ナチは途端に頬が高揚し照れ
臭そうに俯いたが、そのほころぶ顔はとても嬉しそうだった。
 
 
 
 『ナチっ!!! 良かったねぇ・・・。』
 
 
 
リコが思い切りナチに抱きついた。

リコの胸の中で、ナチはコクリコクリと無言で頷く。嬉しすぎて幸せすぎて
声が出ないナチの頬の熱が、リコの洋服へ沁み込みじんわり熱い。
そして顔がとろけそうなくらい、二人は微笑み合った。
 
 
『リュータ・・・。』 コースケが珍しく真顔でその名を呼び掛ける。
  
 
 
 『お前・・・ なんか、格好いいなぁ・・・。』
 
  
 
すると、リュータが嫌味たっぷりに言い放った。
 
 
 
 『今頃気付いたかっ! この、ニブ男がぁあああああ!!』
 
  
 
みんなの優しい笑い声が響く。
心が温かくて温かくて、頬が火照るくらいだった。
 
 
 

■第92話 幸せの行方

 
 
 
リコは保育園のグラウンド隅にあるタイヤ型の跳び箱に腰掛け、スケッチ
ブックを広げて素描していた。
 
 
卒業式までの数日間は登校する必要も無かったが、ただ黙って家にいるの
も退屈でスケッチブック片手に出歩いていたのだった。

平日の昼間、園児がグラウンドで走り回る姿を見かけて、思わず吸い寄せ
られるようにひまわり保育園にやって来たリコ。
暫しウロウロと歩き回り、丁度園児が見渡せる位置にある、そのグラウン
ドに半分埋まったタイヤを見付け腰かけて、微笑みながら描き始めていた。
  
 
リコは鉛筆を優しく傾けながら、リュータとナチの事を考えていた。
 
 
不安や恐怖に負けずに自分の気持ちに正直に向き合って、ちゃんと互いに
真正面からぶつかって、紆余曲折ありながらも二人は幸せを手に入れた。
 
 
 
  (私は、いつか幸せになれるのかな・・・。)
 
  
 
自分ひとりで頑張ったってどうにかなる問題ではない。

どんなに気持ちが強くても、誰より想ってる自信があっても、相手ある事
だから思い通りになんかいかない。待ってみたってなんの意味もないし、
一人よがりに押したって迷惑になるし。
 
 
気が付くとリコの手は止まり、遠くを見てぼんやり考え事ばかりしていた。
その目は特になにを見るでもなく、ただ意識のない瞬きだけを繰り返して。 
 
 
その時、 『おーい、リコーー!』
 
 
名前を呼ぶ声が聴こえ辺りを見回すと、松葉杖のリュータが近付いて来た。

コースケはバイトに行き不在で一人で部屋にいた所、窓の向こうにリコの
姿が見え出て来たのだった。
 
 
 
 『相変わらず描いてんだなぁ~。』
 
 
 
リコの隣のタイヤに腰掛け、上半身を傾けてスケッチブックを覗き込む。

『ん? ・・・と、思ったら。 ゼンゼン進んでねーなぁ。』と笑った。
 
 
グラウンドを駆け回る園児たちは ”寒い ”という感覚を知らないかの様
に元気いっぱいにはしゃいでいる。その赤くまるい頬には一縷の不安も悩
みも無くて、ただただ希望だけを見つめている輝く瞳で。リコはそんな姿
が眩しすぎて少しだけ目を逸らしてしまった。
 
 
リュータが『くぅうう!!』と両腕を空に突き上げ、ひとつ伸びをする。

タイヤに腰掛け投げ出した左脚には、まだギブスが填められている。
その少し汚れて薄いねずみ色になりかけてきたギブスに、黒マジックで
書かれた ”アホ ”とか ”バカ ”の文字が目に入った。見慣れたナチ
のその癖のある丸い文字。小学生のイタズラ書きのようなそれに、リコ
は目を細めて口元を緩めた。
 
 
暫し口をつぐんだまま。

園児の笑い声だけが、晴れた高い白藍空に吸い込まれてゆく。 
少し遠くを見つめたまま、リコがポツリと呟いた。
 
 
 
 『リュータさん・・・

  どうしたら、好きな人から好きになってもらえるのかな・・・。』
 
 
 
その呟きはあまりに弱々しいそれで、一瞬泣いているのかとリュータは
小さく目線を流し、リコの頬に雫がないか確認する。

雫はなかったけれど、その代わりにあまりに寂しい笑顔がそこに。
 
 
リュータは小さく笑ってため息を落とした。
 
 
 
 『いっそのこと、ぶつかってみたら・・・?』
 
 
 
すると、リコが可笑しそうにクスクスと笑い出した。
 
 
  
 『私ね・・・

  もう、2回もぶつかって玉砕してるの・・・。』
  
 
 
口元に細い指先を当て、まるで言ってしまった自分をいなすように。
その笑い声が次第に乾いたそれに変わり、わずかな風に掻き消される。
 
 
リコは、コースケに気持ちを打ち明けた話を実は誰にも話してなかった。

自分から告白なんて出来るタイプだとは思っていなかったリュータは、
ものすごく驚き、そしてそんなリコを思って胸が痛くなった。
誰にも言わず、言えずに。たった一人でその痛みを抱え込んでいたのかと
ぎゅうっと締め付けられる胸が切なく熱を帯びる。
 
 
  
 『・・・アイツ。

  ・・・・・・・・なんてった・・・?』
 
 
 
リュータがギブスの脚をさすりながら、さり気なく訊く。
リコの方は見られなかった。なんだか自分の事のように苦しくてつらい。

すると、リコは顎を上げて天を仰ぐように雲ひとつない空を見上げる。
小さく息をつくと、哀しすぎて耳が痛くなるような声音で言った。
 
 
  
 『マリさんが泣いてたら慰めに行くし、

  困ってたら助けに行く・・・
 
 
  それを、

  誰かに我慢させたり、悲しませたりするくらいなら、

  ・・・誰とも、付き合わない・・・って。』
 
  
  
『はぁ・・・。』 リュータが膝を抱えるように体を屈め、ため息をつい
た。リコになんて声をかけていいか全く分からない。リコの顔を見られな
い代わりに耳だけはそばだてて、その気配を必死にさぐった。
 
 
 
 『ナチ、すっっごく嬉しそうだったね・・・
 
 
  私・・・

  あの、この間のリュータさんの言葉きいて、

  なんか・・・ 泣きそうになっちゃった・・・。』
 
 
 
リコが遠く遠くそこにいない人の面影を想い見つめる。

長いまつ毛は瞬きの揺らめきを止め、その奥の瞳がゆらゆらと潤って。
一度でも瞬きをしたらこぼれそうな涙を、リコは必死にそうならないよう
堪えていた。
 
 
リュータはただ黙ってリコの隣に座り、元気に笑い走り回る子供たちを
見つめていた。
 
 
 

■第93話 懐かしい顔

 
 
 
 『・・・リコ、だよな?』
 
 
駅で電車を降り少し混雑するホームを歩くリコに背後から呼びかけて来た
その低い声。それは聞き覚えのある、なんだかやけに懐かしいそれで。

人が行き交うホームの真ん中で立ち止まり、リコは一瞬その声の思い出を
さぐると、息を呑んで目を見張り声の主へと大きく振り返る。
 
  
 
 『・・・タケっ!!!』
 
 
 
リコは少し声が裏返りながらそう呼び返すと、あまりの驚きで鳩が豆鉄砲
を食ったような顔で固まり、じわじわ後から込み上げる喜びで顔をくしゃ
くしゃにして頬を高揚させた。

駆け寄って来たリコに思いっきり腕をつかまれ、興奮気味に揺らされて、
タケのオリーブ色のアウターのラクーンファーが付いたフードまでがその
振動で揺れる。そして、矢継ぎ早な質問攻めが始まった。
 
 
 
 『どうしたのっ? こっちにはなんか用があって来たのっ?』
 『今、なにしてるのっ? 進学っ? もしかして就職っ?』
 『って言うか、何してたのよぉ~。 連絡くらいしなさいよ~!』
 『私は今も、ナチとしょっちゅう会っ・・・』
 
 
 
息継ぎも忘れたかのようにその口から飛び出す質問が止まらないリコを、
やわらかく笑いながらタケが制した。

リコに掴まれた腕を優しくほどいて、その懐かしい華奢な指先を少しだけ
握り返すと、もう一度微笑んでそっと手を離す。
 
 
 
 『そんな一気に訊かれても答えられないよ・・・

  ってゆうか。 答える隙を与えてくれよ、少しは・・・。』
 
 
 
そう言って、タケが愉しそうに声を上げて笑った。

あの頃のまま、穏やかで優しくて心地のよいその佇まい。
あまりにまっしぐら過ぎた自分の見境ない行動に、リコもちょっと照れ臭
そうに微笑んだ。
 
 
タケは中学時代の友達だった。

当時、リコとナチそしてタケの三人でいつも一緒にいた。
男とか女とか関係なく、毎日三人でよく笑い合っていたのだった。
 
 
しかし中3の終わりに突然タケが転校をする事になり、手紙を書くという
約束も果たされないまま連絡が取れなくなり、それ以来一度も会えずにい
た。複雑な家庭の事情があったタケを、リコもナチもずっと心配していた
が何も出来ないまま時間だけが経っていたのだった。
 
 
 
 『ねぇ、タケ。 ・・・時間ある?』
 
 
 
リコは嬉しくて仕方ないほころんだ顔で小首を傾げ訊ねると、まるでタケの
答えなど最初から聞くつもりなど無かったかのように、ぎゅっとその腕を取
り引っ張るように足早に歩き出した。
 
 
  
 
 
 
 『ただいまぁ~・・・

  お母さぁぁああああん、タケだよ! タケっ!!』
 
 
  
リコはタケを自宅に連れて帰った。

玄関で叫ぶその声に、母ハルコが菜箸片手にバタバタと慌ててキッチンから
走って来る。甘辛い匂いがほんのり漂っているという事は、今晩は煮物かな
にかだろうか。タケは数年ぶりのリコ自宅のその家庭的なにおいと雰囲気に
泣き出してしまいそうになる胸の震えを必死に堪えていた。
 
 
 
 『タケ君なのっ?!

  ほんとにほんとに、本物のタケ君??

  ・・・あら、やだもぉ・・・ 元気だったのぉ??』
 
 
 
まくし立てるように一気に言い切ると、ハルコは少しの迷いもなくギュっ
とタケをその胸に抱き締めた。

それはまるで久々に会った息子のように、強く優しく。
ハルコの肉付きのよい柔らかい二の腕が、タケの痩せた体をあたたかく包み
込んでその優しい温度に溶けてしまいそうで。
 
 
そして、小さく呟いた。 『心配してたのよ・・・。』

ハルコの声には、ほんの少し涙がはらんでいた。
 
  
 
タケは当時ナチとよくリコの家に遊びに来ていて、母ハルコには特に可愛が
られていた。複雑な家庭環境のため、家庭の温かさを渇望していたタケにと
ってハルコは理想に描く母親像だった。

そんなタケを、ハルコもまるで本当の息子のように気にかけていたのだった。
 
 
 
 『こっちにはなんか用があって来たの?』
 
 
 
タケを抱き締めて離そうとしなかったハルコが、タケの頬に浮かぶ困ったよ
うな照れ笑いに気付き、そっと寄り添った体を離して覗き込むようにその男
っぽくなった顔をまじまじと見つめ、訊く。

それはリコが聞いた質問と全く同じで、リコとタケが顔を見合わせて笑った。
 
  
 
 
 
丁度夕飯時だった為、嬉しい来客タケをまじえてみんなで夕飯を食べながら
あの頃の懐かしい話に花が咲く。

時間を忘れ、たくさん喋ってたくさん笑った。
 
 
しかし楽しい時間なはずなのに、どことなくタケが沈んでいるような気がし
てならない。

リコはチラっとタケの様子を横目で盗み見る。
 
 
 
 (何か、あったのかな・・・。)
 
 
 
すると、リコの心配そうなその視線に気付いたタケが、寂しげに少し笑い
ながら呟いた。
 
 
 
 『こっちに戻って来たいんだ・・・ 僕。』
 
 
 

■第94話 タケ

 
 
 
タケが、こっちに戻って来た・・・
 
 
本来なら飛び上がりたいくらい嬉しい事なはずなのに、タケの様子から
無条件で喜ばしい事ではないと直感的に感じる。
俯いたままのタケが二の句を継ぐのを、リコも母ハルコもただ黙ってそ
っと待っていた。
 
 
リビングの付けっ放しにしたテレビからバラエティ番組の大袈裟な笑い
声が流れている。場違いな大仰なそれに、リコは立ち上がってリモコン
を手に取るとテレビの電源をオフにした。
 
 
タケはそんなリコの背中を流し見ると、静かに口を開いた。
  
 
 
 『母さんが、また別の男と暮らすらしくて・・・
 
 
  家、出てきたんだ・・・ 

  ・・・働いて、僕一人でやってこうと思って・・・。』
 
  
 
そう言うタケの顔は笑っていた。
なんだか泣いているみたいに、哀しく笑っていた。
 
 
タケが中学の時に引越したのも、母親の問題からだった。
『母さんを一人には出来ない』と、タケは大好きなこの街を離れたのだ。
  
 
しかしそんなタケも18歳になり、いい加減母親の犠牲にならず自分の
人生を歩もうとして真っ先に強く思ったのが ”あの街に戻ろう ”とい
う事だった。リコ達と過ごした街に・・・
 
 
ただ戻りたいという気持ちだけで、カバンにほんの少しの洋服を詰めて
飛び出して来たタケ。

これからの事などまだ何一つ決まっていない状態で、ただただこの街へ
向かう電車に飛び乗った。車窓から見える景色がだんだん懐かしいそれ
に変わる頃、不安だらけのざわざわする胸は少しずつあの温かさに包ま
れていった。
  
 
すると、眉根を寄せ口をつぐんで考え込んでいたハルコが、自分自身で
納得するようにコクリとひとつ頷くと、静かに口を開いた。
 
 
  
 『お母さんとは、ちゃんと話し合って来たの・・・?』
 
  
 
タケがゆっくり首を縦に振る。
 
 
  
 『もう18なんだから、

  後は好きに生きてけって言われたよ・・・。』
  
 
 
そう呟いて、どこか投げやりに小さく笑う。
 
 
リコは今にも泣きそうな顔で、タケを見つめる。

やり場のない思いに、膝の上で握り締めた手に力がこもる。
タケに何かしてあげられる事はないか、必死に考えていた。
必死に、懸命に、タケが少しでも幸せになれる方法を。
 
 
しかしタケ同様、まだたった18歳のリコには最善の策など何も浮かび
はしない。ただ近くにいて一緒に笑い合うことぐらいしか。無力な自分
を痛感し、リコは途方に暮れたように情けなく目を伏せる。
 
 
すると、
 
 
 
 『そう・・・ ぅん、分かったわ。

  じゃぁ、タケ君。 暫くウチに下宿しなさい!』
  
 
 
暫く黙っていたハルコが、いつもの大らかな全てを包み込む笑顔で言っ
た。両の手の平を叩いてパチンと鳴らすと、まるで夕飯のメニューが決
まったぐらいの軽快なトーンで。

リコもタケも、驚いて目を見張り声も出ない。
 
 
そんなハルコは続ける。
  
 
 
 『いくら18になったからって、身ひとつで出て来て、

  住む所も仕事もまだ何も決まってないのに、

  何が出来るって言うのよ?!
 
 
  取り敢えず、ウチで寝泊まりして、先の事を考えたらいいわ。
 
 
  ウチには使ってない部屋がひとつあるから、そこを使いなさい。

  もちろん食事も一緒よ。
 
 
  タケ君は、元々家族みたいなもんなんだから・・・。』
 
 
 
自信満々に言うハルコ。

それは押しつけがましさなど無いのに、何故か有無を言わせない説得力が
ある。リコは母のこういう豪快であたたかい性分が大好きだった。
  
 
 
 『リクも、一緒にゲーム出来るお兄ちゃんが出来たって喜ぶわ!』
  
 
 
そう言ってチラリと弟リクへと視線を流す。

三人の話し合いの輪から少し離れた所で漫画を読んでいたリクが、盗み
聞きしていた訳ではないけれど聞こえていた話に、照れくさそうに笑う。

リコもハルコも、理屈なしにタケが帰って来た事を純粋に喜んでいた。
  
 
  
タケは下を向いたまま、暫く動かなかった。

鼻をすする音が、不規則に小さく響きはじめる。
そんなタケの心許なく丸まった背中が小刻みに震えると、ハルコはそっ
と温かい手を添え、優しく優しく撫でた。
 
 
ジーンズの膝のあたりに雫が落ちて、小さく濃紺の跡を付けた。
 
 
 

■第95話 リコとナチとタケ

 
 
 
 『えっ?! タケが・・・?

  ・・・ぁ、あのタケ・・・ だよねっ???』
 
 
 
リコがナチに電話をし、タケがこの街に戻って来た経緯を簡単に話す。

電話の向こうのナチの荒い息遣いで、驚きと喜びが笑ってしまうくらい
に伝わる。まるで今にも飛んで来そうな勢いの、身を乗り出すナチが目
に浮かんだ。
 
 
明日いつものファミレスで三人で会う約束をしたのだが、タケが出た電
話を中々切ろうとしないナチは、いつまでも一方的に興奮冷めやらぬ感
じで喋りまくり、いい加減ケータイの充電が切れそうで内心焦るタケを
照れくさそうに困らせた。
 
 
 
タケは一人、思い詰めた顔で佇んでいた。
 
 
まずは仕事を探さなければならない。
のんびりしてる時間など1秒だってなかった。一日でも早く仕事を決め
て大好きなこの家に迷惑をかける状況から脱しなければ。

取り敢えずまずは求人誌を掻き集めて、とにかく土方仕事でも新聞配達
でも何かしらの働き口を見つけなければと、焦る気持ちとヤル気が胸で
膨れ上がっていた。
 
 
 
 
タケはリコの家の1階の和室に寝泊りさせてもらう事になった。

和室の戸を静かに引くと、母ハルコが用意してくれた真っ新なカバーがか
かった布団が敷いてあった。それは、きちんと手入れされてふかふかで清
潔な感じが一目で分かる。

今まで自分が寝ていた薄っぺらく冷たいそれを思い出し、なんだか夢の中
にいるように立ち竦んだまま布団を見つめるタケに、後ろからハルコがパ
ジャマを差し出しながら声を掛ける。
 
 
 
 『これ、うちのお父さんのだけど我慢してね。』
 
 
 『おばさん・・・

  本当に・・・ 僕。 なんてお礼を言ったらいいのか・・・
 
 
  本当に、本当に・・・。』
 
 
 
うな垂れ言葉に詰まるタケの肩に手をおいて、ハルコは笑って言う。
 
 
 
 『大袈裟な子ねぇ~・・・

  タケ君は私のもう一人の息子みたいなもんなんだから。

  そんな事、気にしないの!
 
 
  でもね、ここから先はタケ君次第よ!

  しっかり自分の人生を、自分の足で進みなさいねっ!』
 
 
 
そう言って、『おやすみ』とハルコは自室へ戻って行った。

『おやすみなさい』と腰を90度に曲げ頭を下げると、タケはそっとパジ
ャマに顔をうずめる。それは、柔軟剤のいいにおいがした。
ハルコから微かに香る、優しいにおいが。
 
 
タケがひとつ、罪悪感にも似たため息を付いた・・・
 
  
  
 
 
翌昼、リコとタケがファミレスに着くと、既にナチがいつもの窓側の席で
待っていた。

タケの姿を入り口に見つけるなりナチは慌てて走って駆け寄り、タケの背
中を少し乱暴にバンバン叩きながら顔を真っ赤にして喜びの声を上げる。
 
 
 
 『背、だいぶ伸びたんじゃない?』
 『ちょっと痩せた~?』
 『でも、やっぱ変わってないか~?』
 
 
 
ナチの口撃は昨夜に引き続き繰り返され、タケの嬉しい苦笑いがその頬か
ら消える事はなかった。
 
 
席につき改めてタケの今回の事情を聞くと、ナチは泣き出しそうな顔を向
けた。先程の矢継ぎ早の口撃が嘘のように、肩をすくめ小さく縮まり口を
つぐむ。潤んだ瞳でせわしなく瞬きを繰り返している。今までのタケを思
いこぼれそうな涙を必死に堪えていた。
 
 
そして、ポツリ呟いた。
 
 
 
 『タケはこっちに戻ってくる運命だったんだよ。

  これからは、きっと、全てが良い方に向かう一方だよ。
 
 
  ・・・ゼッタイ・・・。』
 
 
 
ナチのそれは、まるでそう願うかように乞うように。
 
 
その後は、離れていた間の尽きない話が続いた。

リコとナチの進学の話をし、あんなに勉強が嫌いだったナチが難関の短大
に合格した話に驚きを隠しきれないタケ。あまりに信じられなくて二度聞
きしてしまう程。
 
 
 
 『 ”恋の力 ”ってやつなのよ・・・。』
 
 
 
リコが、わざとイタズラっぽく目線を流し天を仰ぐように言う。
 
 
 
 『えっ!!! ナチ・・・

  ・・・も、もしかして???』
 
  
 
ナチの嬉しそうなノロケ話がその後3時間は続いた。

タケは何年かぶりに心の底から笑った気がした。
 
 
 

■第96話 リュータと合流

 
 
 
その夜はリコの家でみんなでご飯を食べる事になった。

ファミレスで時間を忘れて盛り上がっていたリコ達の元へ、母ハルコから
手巻き寿司にするからみんなで集まるようにと連絡があったのだ。
 
 
ナチがすぐさまリュータに電話をする。

まだ少し照れが見え隠れする、耳にケータイを当て愛しい相手の声に頷く
ナチの横顔。リコとタケはその甘い熱がこちらにまで伝染してきそうで、
互いに顔を見合わせて口元を緩め肩をすくめる。

いまだコースケの所に居候していたリュータに、出来ればコースケも誘っ
て二人で来てくれるよう伝えるナチ。
 
 
すると、
 
 
 
 『リコっ!! 

  コースケさん、バイトだから少し遅れるけど参加できるって!!』
 
 
 
ナチが目をキラキラさせて身を乗り出すと、リコの顔が瞬時にパっと明るく
輝いた。明らかに今までとは違う様相のその表情を、タケが横目で見ていた。
 
  
 
ファミレスを出てリコの自宅に三人で向かう途中で、ひまわり保育園に寄り
リュータと合流した。

見知らぬ顔がそこに居ることに、リュータが少し不思議そうにリコとナチに
視線を向ける。すっかりタケの紹介を忘れていた事に気付き、リコが簡単に
事情を説明すると、少し人見知りをして堅い笑顔を作ったタケとは対照的に
リュータは持ち前の人懐こさですぐに打ち解けた。
 
 
すると、リュータが思い出したようにリコを呼ぶ。 『ぁ、リコ・・・。』

そしてなにやらこそこそと耳打ちすると、リコは弾かれたように園の遊戯室
へと駆けて行った。
そのなんだか嬉しそうなリコの背中に、タケが不思議そうに小首を傾げる。
 
 
リュータはそんなタケに、『新しい絵を見に行ったんだよ。』と、色んな事
を端折って説明した。
 
 
 
 『コースケさん、バイトもしながら頑張って描いてるんだ~?』
 
 
 
ナチが胸の前で腕組みをし、感心しながらそれに続く。
 
 
 
 『本当、頑張る人だよねぇ・・・ 努力家だよね。

  ・・・リコの、あの嬉しそうな顔ったら・・・。』 
 
 
 
ナチの呟きに、リュータも微笑んで頷いた。
 
 
タケはなんだか ”コースケ ”という人物にモヤモヤしたものを感じそっと
不安気に目を伏せた。
 
  
 
 
 
四人がリコの家に到着すると、母ハルコが和室に座卓を用意して手巻き寿司
の準備をしてくれていた。

すし桶のツヤツヤした酢飯と、新鮮な寿司ネタの舟盛。煮物やサラダもテー
ブルの上に所狭しと並ぶ。
リコにとっては然程珍しくもないその食卓の光景だったが、タケは目を丸く
してそれを穴が開くほど見つめていた。
 
 
すると、
 
 
 
 『あっ!大変。
 
 
  なんか飲み物、買って来てもらえば良かった・・・

  お茶ぐらいしか無いのよ・・・

  ・・・ジュースとかあった方がいいでしょ?』
 
 
 
困り顔のハルコの言葉に、すぐさまタケが立ち上がり御遣いに出る役を
買って出る。

『じゃぁ、私も!』 リコも上着を羽織るとタケに小さく目を遣り微笑
んで二人でスーパーへ買い物に行くことにした。
 
  
玄関を出ると、もうそこは夜のとばりが下りた藍色の住宅街に変わって
いた。あの頃よくこの家の前の坂道を、ナチも含め三人で歩いた記憶が
甦るタケ。
 
 
 
  思い出深い、この坂道。

  タケの胸を痛くする、この坂道。
 
 
 
タケは、上機嫌にパタパタと隣を歩くリコをそっと盗み見た。
 
 
リコはなにか凛とした空気をまとい、キレイになったように見える。
ナチは、彼氏が出来てあの頃より少しだけ女らしくなった。
 
 
 
 (僕だけが、成長が止まったままみたいに思えるな・・・。)
 
 
 
タケの中に小さな焦りのようなものが生まれた。

自分だけ川の真ん中でぼうっと立ち止まって、その流れはどんどん脚元を
すり抜けて先へ行ってしまうというのに。ただその脚は濡れて汚れるだけ
で一歩も前へ踏み出すこともせず。だからと言ってそこから抜け出す勇気
もなかった今までの自分。
 
 
 
 『・・・コースケって人も、来るの・・・?』
 
 
 
タケはちょっと気になっていた名前を、思い切ってリコに訊いてみた。
 
 
すると、
 
 
 
 『ぅ、うん。 コーチャン先生はちょっと遅れて来るみたい・・・。』
 
 
 
リコが ”その名 ”に少し微笑んで、嬉しそうに目を伏せた。
その一瞬のうちにほんのり染まったその頬を、タケは見逃さなかった。
 
  
川の流れが微妙に変わりはじめた瞬間だった。
 
 
 

■第97話 タケの気持ち?

 
 
 
 『あのさ・・・ タケって、リコのこと好きだったりした?』
 
 
リュータがぼそっと、ナチに訊いた。

リコとタケが買出しに行き、二人はリコの家で母ハルコの手伝いをしていた
時のこと。まだ松葉杖のリュータは座卓の前でイスに腰かけ、最大限に手を
伸ばして割り箸を人数分置き、ナチはキッチンと和室を行き来して取り皿を
運び並べていた。
 
 
突然のそれに、ナチがプっと吹き出す。
 
 
 
 『・・・中学の時ってこと??
 
 
  ないないな~い!!

  私達はそうゆう好きとか嫌いとか、そんな仲じゃないの!

  タケがリコを・・・? 有り得ない、有り得な~いっ!!』
 
 
 
ナチが一笑に付した。
何をどう考えても、思い当たる節はなかった。

当時から男女の垣根を越えて常に三人でいて、タケがナチとリコへ態度に差
を付けて接したことなど、どんなに頭をひねっても思い出せない。
互いを異性だなんて意識したことは一度だって無かったのだから。
 
 
リュータが『そっか。』と、あっさり引き下がり『ぁ、そう言えば』とすぐ
さま別の話題に切り替わったので、その話はそれ以上掘り下げることはなか
った。
 
  
その頃、リコとタケはスーパーで飲み物を選んでいた。

夕飯の買い物時を少し過ぎたスーパーはあまり客はいず、どこか寂しげ。
照明もいつものそれと同じはずなのに、なんだか若干薄暗く感じる気もする。

ドリンクが並ぶ冷蔵コーナー前でジュースのペットボトルを睨むリコの後ろ
でタケがカゴを持ちそれを見ていた。
 
 
 
 『相っ変わらず優柔不断だなぁ~・・・。』
 
 
 
たかがジュースなどどれでもいいのに全く決められない真剣な表情のリコを
タケが可笑しそうにクククと笑う。

笑われてリコは振り返り、ちょっと不満そうに唇を突き出して目を眇める。
 
 
 
 『タケは、いまだにコーラばっかり飲んでるわけ~?』
 
 
 
中学時代、いつもコーラばかり飲んでたタケをリコは覚えていた。
『体に悪いよ』『平気だってば』という遣り取りを何百回繰り返したろう。

なにかひとつのキーワードが出ると、当時の懐かしい思い出が次々溢れ出し
て『あの頃・・・』と二人は夢中でしゃべり、笑い合い、あっという間に時
間は過ぎていた。
 
 
すると、いつまでもドリンクコーナー前で笑い続け、一向に空のままのカゴ
を提げている二人の耳に、ケータイの着信音が響いた。
 
 
  
 『ちょっと、二人でいつまでジュース選んでんのよっ!

  みんなお腹空いて死にそうなんだからっ!!』
 
 
 
不機嫌そうなヤキモチを妬いているようなナチの声に、リコとタケが顔を見
合わせて再び笑った。
 
  
  
 
 
リコ、ナチ、リュータ、タケ、そして母ハルコと弟リクの6名で囲む食卓は
とても賑やかで一瞬も静かになる瞬間などなく、笑い声が家中に響き渡って
いた。
 
 
中学時代の恥ずかしい話の暴露大会になり、リコ・ナチ・タケの三人は競っ
て告げ口し合い、みんなで爆笑する。それに加勢するようにハルコも今だか
ら言える裏エピソードを付け足して大笑いしたりして、なんだか室温が数度
上がったのではないかと思う程だった。
 
  
その時、
 
  
 
  ピンポーン・・・
 
  
 
みんなの笑い声で、押されたドアチャイムに誰も気付けずにいた所、リコが
もの凄い勢いで立ち上がり、玄関へ駆けてゆく。

慌てて手から離した箸が、畳の上にポトリと落ち転がった。
 
  
 
 『お。 コーチャン先生のお出ましかっ?』
 
 
 
リコの慌てようを横目に、リュータがナチに目配せした。
タケはその様子をじっと目で追っていた。
  
 
 
 『お邪魔します・・・。 ぁ、こんばんはぁ~!』
 
 
 
コースケが1時間遅れで、遂にやって来た。
既に盛り上がり熱気が凄い家の中へと、礼儀正しく会釈しながらリコに続く。

コンビニのバイトが終わってからやって来たコースケは、両手にぶら下げた
大きな袋2つをリコに渡した。
 
 
 
 『これ、バイト先のなんだけど・・・

  アイス。

  ・・・ちょっと買い過ぎた~!』
 
 
 
コンビニのアイスコーナーにあるそれを全種類買ってきたような、凄い数の
アイス。たった7人しかいないのに、ゆうに20個は入って袋は重い。
 
 
『どれにしようか迷いまくっちゃった~・・・。』と、照れ臭そうに眉尻を
下げ笑うコースケに、リコは嬉しそうに幸せそうに微笑み返した。
  
 
コースケの皿や箸を準備し甲斐甲斐しく動き回るリコを、タケがひとり冷静
に見つめていた。
 
 
 

■第98話 全員集合

 
 
 
コースケが揃い、更に賑やかな夕食となった。

和室に準備した座卓はみんなが肩を寄せ合って座り、少し狭いけれどそれが
より活気を生み、和やかで明るいムードが助長される。
 
 
リコが改めてタケを紹介する。

コースケは笑顔で『よろしくー。』と手を出し、タケもそれに応えて二人は
”はじめまして ”の握手をした。

コースケの手が友好の意を込めぎゅっと掴むも、タケのそれは力なくただ前
に差し出されただけで握り返すこともない。一瞬コースケはタケに目を遣る
とまるで感情の無い空虚な視線が送られ、すぐさま逸らされた。
 
 
タケが、まだ聞いていなかったリコ・ナチとコースケ達の出会いの経緯を訊
ねる。高校生と大学生が、どういう流れでこんな風に自宅に遊びに来るまで
親しくなるのか正直腑に落ちない。これがバイトをしていてその先輩後輩と
かなら分からないでもないが、リコもナチもバイト禁止の女子高なのだ。
 
 
すると、コースケが懐かしそうに微笑みながら話し始めた。
 
 
 
 『俺が本屋にいるところを、リコちゃんに逆ナンされたんだよ。』
 
 
 
リコは一瞬驚いて恥ずかしそうに言葉に詰まり、しかしどうしても緩んでし
まう頬を必死にいなし、更に誇張して話に乗る。
 
 
 
 『そうそう!

  イケメンが困ってそうだなぁ~と思って、声かけたのっ!!』
 
 
 
そしてリュータ達も話を合わせ始めた。
 
 
 
 『コースケがJKから逆ナンされたってゆーから、

  学祭さそって~ぇ、飯行って~ぇ、
 
 
  俺たちは付き合い始めちゃって、・・・みたいな?』
 
 
 
リュータがナチに馬鹿みたいに大袈裟に甘いウインクを投げる。

ナチは白けた顔で『バカじゃないの?』と返しながらも、堪え切れずに
ぷっと吹き出した。
 
 
それが津波のように伝染し、リコ・ナチ・コースケ・リュータ4人で盛り
上がり爆笑する。愉しそうな高音と低音の笑い声はカルテットとなり部屋
中に小気味よく響き渡った。

そんな中、タケだけが話が分からず、四人に合わせてなんとなく作り笑顔
を浮かべていた。
 
 
すると、小さく乾いた笑い声で暫しその場の空気に合わせていたタケが、
急に昔の話をし始めた。

中学時代のリコがああだった、こうだった。
ナチがあんな事した、こんな事した。

タケはがむしゃらになって自分とリコ・ナチだけの思い出話をやや大袈裟に
身振り手振りを付けて披露している。時間で言えばコースケ達よりもタケの
方が長く二人と一緒にいたのだから、まだまだ語りつくせない思い出はある
のだ。

そのどこか必死なタケの姿に、コースケがなんとなく気配を察した。
 
 
 
 『タケ達の話、もっと聞かしてくれよ~!』
 
 
 
コースケが笑ってタケに話を振る。

タケは少しだけ顎を上げ見ようによっては挑発的に、少し得意気に話し始め
再び恥ずかしい暴露大会になってみんなで笑い転げた。
 
  
  
 
 
散々しゃべって笑って、そしてお腹がはち切れそうに美味しいものを食べて
飲んで、和室で各々まったりと休息を取っていた。
 
 
コースケは笑い過ぎた火照った頬で少し涼もうと和室を抜け出し、外の玄関ポ
ーチの段差に腰掛けてひとり休んでいた。

視界からコースケの姿が消えた事にリコが気付き、キョロキョロと探し回ると
玄関ドアを開けた先にその大きな背中を見付け、嬉しそうに玄関履きを爪先に
引っ掛け、そっとその隣に座った。
 
 
 
 『久しぶりにこうやってみんなで騒いだなぁ~・・・。』
 
 
 
嬉しそうに笑うコースケを、リコは横目でチラリ見て笑顔で『うん。』と頷く。
 
 
『リカコさんにもいてほしかったけどね~。』と、海外のリカコを思った。
 
 
すると、『タケは、イイ奴だな。』 

コースケはタケがどれだけリコやナチを大切に思っているか、このたった数時
間という短い時間でもハッキリ分かり、優しく呟く。 
 
 
コースケの言葉に、『ナチと同じくらい親友だからね!』とリコが嬉しそうに
誇らしげに返した。

自分の友達をコースケに紹介出来て、おまけに褒められてリコは素直に嬉しか
った。その分かり易いリコの得意気な横顔を見て、コースケは中学時代の恥ず
かしいエピソードを蒸し返して、からかう。
 
 
まだ3月の夜風はたいぶ冷たくて、ふたりの笑い声は白く煙って静かに流れた。

羽織るものを持ってきていなかったので、どんどん体は冷えていく。
しかしそれでも、リコはこのままコースケの隣で並んで座っていたかった。
 
 
すると二人で笑い合っていたところに、タケがやって来た。
中々戻らないリコを探して、和室を抜け出して来ていたのだった。
 
 
 
 『こんな所で2人で何してんの?』
 
 
 
それはどこか少し棘がある口調に聞こえ、コースケがさっと立ち上がる。
 
 
 
 『ちょっと涼んでただけだよ。

  タケも気持ち良いから座れば?
 
 
  俺はまた、中に入って飲んでくるからさ~。』
 
 
 
微妙な空気を察し、コースケは玄関内へと戻って行く。

リコは玄関ポーチの段差に腰掛けたまま上半身だけ振り返り、その姿を目で
追うと慌てて立ち上がり後をついて中に入ろうとした。

その腕を、タケが咄嗟にギュっと掴む。そしてリコの腕を引き寄せて隣に座
らせようと力を入れる。
 
 
 
 『タケ・・・ 痛いよ。 力、入れ過ぎ・・・。』
  
 
 
タケが尚も腕を強く掴んだまま、黙ってリコを睨みつけた。
 
 
 

■第99話 散歩

 
 
 
 『タケ・・・? どしたの?』
 
 
なんとなく様子が可笑しいタケを、リコが玄関ポーチの段差に座り直して覗き
込む。先程までコースケ達と一緒にビールを飲んでいたタケの背中を、そっと
さすってみるリコ。
 
 
 
 『もしかして、酔っぱらった?

  ・・・気持ち悪い・・・?』
 
 
 
すると、タケが背中をさするリコの白く細い手を優しくほどいた。

『大丈夫だよ』と微笑むその顔は、なんだか心からは笑っていない感じがして
リコは増々心配になり、その目の奥の本心をさぐろうとじっと見つめる。
真っ直ぐ見られてタケは弱々しく目を逸らした。

リコは『お水、持ってくるね。』と一旦室内に戻ろうと、段差に手をついて立
ち上がろうとしたその時、一拍早くタケがその手を掴み立ち上がった。
 
 
 
  (リコは・・・ 中に戻ったら、どうせ・・・。)
 
 
 
1秒もリコから離れたくなくて、タケは咄嗟にリコの手を引くと室内に戻さな
い口実を必死に考えあぐねる。

そして、ふと目を上げた時に広がった藍色の夜空に目を細めた。
 
 
 
 『ちょっと散歩行かない? ふたりで・・・。』
 
  
 
 
 
 
星が満天の高い夜空を仰ぎながら、リコとタケは住宅街を散歩していた。
上着を羽織っていない二人が寒さに体を震わせながら、辿り着いた場所。

それは丘の上のお寺の境内だった。

リコがスケッチをした場所。コースケに気持ちを打ち明けた場所。
そしてコースケを困らせて逢えなくなったその場所は、中学時代にタケとナチ
の三人でよく来た思い出の場所だった。
 
 
 
 『夏はよくここで花火したよなぁ~・・・。』
 
 
 
タケが懐かしそうに目を細めて呟く。
 
 
三人で手持ち花火をした夏のはじめの夜。

コバルトブルーの紫陽花が咲き誇るその境内に、3人、顔を揃えてしゃがみ込み
ロウソクに火を灯すと、3人の嬉しそうに笑う顔がほんのり浮かび上がった。 
生ぬるくそよぐ風に、花火の煙が白く優しく流れる。

火薬のにおいは煙とともに、そこかしこにまとわりついた。
手持ち花火の閃光に、リコのはしゃぐ顔が暗闇に浮かび上がる。
リコもナチも、子供のように花火を振り回し、煙の残影でハートの形を作っては
笑い合った、あの夜。
 
 
  
 『落ち葉集めて焼き芋焼こうとして、住職さんに怒られたよね?』
 
 
 
リコも思い出し笑いをした。肩をすくめてクスクスと愉しそうに笑う。

目を細め遠い過去の話をするようなその横顔が、なんだかとても寂しく感じる。
タケはそのリコの微笑む顔を見ながら、ポツリと呟いた。
 
 
 
 『リコは、少し変わったな・・・。』
 
 
 
そう言われ、驚いてパチクリと瞬きをしてタケの顔を見るリコ。

確かにあれから3年経ったけれど、自分では然程変わったつもりなどなかった
のだから。
 
 
 
 『どんな風に~?

  大人になったとか?

  ・・・ぁ、キレイになったとか~ぁ??』
 
 
 
リコが敢えて大仰にふざけて返すと、タケが少し寂しそうに目を伏せた。
 
 
 
 『確かに・・・

  あの頃より、キレイになったな・・・。』
 
 
 
急に真面目な口調でそんな事を言われて、リコが少し狼狽える。
昔はお互い絶対に褒めたりなんかせず、邪険にけなし合っては笑っていた仲だ
ったのに。
 
 
 
 『ちょっと、タケ・・・

  どうしたのよ~? ・・・さっきから、なんか変だよ??』
 
 
 
リコが眉尻を下げ困り顔の笑顔を作って、タケに努めて明るく話し掛ける。

しかし、タケは寂しげな視線で虚空を見つめて黙ったまま。
ふたりの間に妙な空気が流れるまま、ただ時間が過ぎた。
 
 
 
  (僕は、リコのことが・・・。)
 
 
 
タケの胸の中に今にも溢れそうな想いが込み上げる。

喉の奥がつかえて息苦しくて、熱い飲み物を飲んだ時のようにみぞおちの辺りが
ジリジリと熱を持つ。
 
 
 
  (言ったら、どんな顔するのかな・・・

   ビックリして、困った顔して・・・ 最後は謝るのかな・・・。)
 
 
 
タケがひとつ息を呑む。そして重い口を開いた。『リコ・・・ 僕・・・』
 
 
その時、
 
 
 
 『リーーコォォオオ! ターーケェエエエ!!』
 
 
 
ナチが二人の名を叫ぶ声が暗い住宅街にこだました。
何処かに行ったまま戻らない二人を、ナチが心配して探しに来たのだった。
 
 
境内にその姿を見つけるとナチが猛ダッシュで走ってやって来て、二人の間に
突進しリコとタケの間に無理矢理割って入る。そしてナチは二人の腕をガッチ
リ腕組みすると、ぎゅぅっと力を込めて決して離さなかった。
 
 
 
 『ズルいじゃ~ん、ふたりで~ぇ!

  ・・・私も輪に入れてよねぇ~~!!』
 
 
 
そう言ってリコとタケの顔を交互に睨む、ナチ。

『ふたりでナンの話してたのよぉ~?』と、子供のように駄々捏ねて絡むナチ
にタケが笑って言った。
 
 
 
 『ナチの悪口言ってたんだよ。 ・・・なぁ?』
 
 
 
イタズラな笑みでリコに同意を求める。リコも、慌てて笑顔を作り『うんうん』
と頷いた。
 
  
タケが言い掛けた言葉が無性に気になっていた。

何かモヤモヤしたものが、リコの心に生まれていた。
 
 
 

■第100話 棘

  
 
  
 『モテる男はツライねぇ~。』
 
  
月明りに照らされた静かな夜道を歩きながら、リュータはコースケにわざと聞こ
えよがしに言う。
 
  
手巻き寿司パーティはお開きとなり、二人はコースケの自宅へ帰るために坂道を
下っていた。
 
ナチはそのままリコの家に泊まり、引き続きタケを交えた三人で夜通し語り合う
んだと鼻息も荒く張り切っていた。
 
  
リュータの松葉杖の歩行スピードに合わせて、ゆっくり慎重に進む帰り道。
 
杖の先端ゴム部分がアスファルトに擦れた音と、コースケのスニーカーの靴底の
それが歯がゆいくらいにのんびりと住宅街に響き渡る。
  
   
 
 『・・・なんだよそれ?』
 
  
 
コースケが少しムっとしてリュータに聞き返す。
 
普段リュータに対してもあまり負の感情を表すことがないコースケの、その明ら
かに苛ついた反応に、リュータは内心一瞬驚きそして呆れたように眉根を寄せた。
 
そして小さく鼻で笑うと、肩をすくめながら『別っに~ぃ。』と、はぐらかして
松葉杖を付き片脚を前に出してノロノロと気怠く歩く。
 
  
 
 『・・・タケのことだろ?』
 
  
 
コースケが実はあまり口にしたくなかったその固有名詞をこぼす。
 
コースケは気付いていた。タケの自分への棘のある攻撃を、気付いていてなんと
か巧くかわそうとしていたのだった。
 
  
いつもは鈍くて鈍くて呆れるくらいのコースケが、タケのそれに気付いていた事
にリュータは驚いていた。そして驚くと同時に、そこに ”リコ ”が関わってい
ることに対してはどう感じているのか、気になって仕方が無かった。
 
  
 
 『・・・タケ、大丈夫なのかね?』
 
  
 
リュータが真顔で呟いた。
そしてチラリ横目でコースケの様子を盗み見ながら、続ける。
 
  
 
 『まぁ。 お前に敵対心ムキ出しなのは、別にアレだけどよ~・・・
 
  
  好きな女とひとつ屋根の下で暮らすって、
 
  実際、ケッコーォしんどいと思うけど。
 
  ・・・俺なら。』
 
  
 
コースケは黙って前を向いたまま歩き続ける。
 
  
 
 『リコは、お前の事しか見えてなくて~・・・
 
  
  ・・・タケ。 あの調子ならきっと、中学ん時からだぞ?』
 
  
 
『・・・。』 尚も黙ったままのコースケ。
 
リュータが目線を遣るも、その横顔は必死に感情を出すまいと堪えている様な
それ。しかしせわしなく繰り返す瞬きが、心中の動揺を表している。
 
  
 
 『これが。
 
  リコがお前と付き合ってるとかなら、まだ諦めも付くだろうけど・・・
 
  
  お前は、イイ奴ぶってニコニコしてるだけで
 
  リコをゼンゼン好きじゃない、と来ちゃあ~
 
  
  ・・・そりゃあ。 タケの心中、穏やかじゃねぇよなぁ??』
 
  
 
その言葉に、コースケが即座に反論した。
 
ゆっくり前進していたスニーカーがピタリと止まり、ガバっとリュータへ向く。
奥歯の食いしばる強さが、その引き締まった頬に強張りとなって現れる。
 
  
 
 『別に、好きじゃないなんて言ってな・・・』
 
 『なら、好きなわけっ?! 受け止める気持ちあるわけっ?!』
 
  
 
間髪いれず、リュータが強い口調で突っ込んだ。
コースケを睨むように目を眇めると、互いの鋭い視線が火花を散らしぶつかる。
 
リュータの脳裏に、リコの ”もう、2回もぶつかって玉砕してるのよ・・・ ”
と寂しそうに呟く横顔がよぎっていた。
 
  
コースケはまたしても黙ってしまった。
 
そのやり切れない感じのコースケの眼差しを目に、リュータは一気に切なさが
込み上げる。
 
コースケの諸々の事情は誰より知っている。
知っているけれど、知ってるからこそ、コースケ自身ラクになって欲しいと
リュータは一番近くで見ていてそう願っているのだ。
 
  
 
 『タケが押しまくってリコの気持ちを動かしたとしても、
 
  お前には、なんにも言う権利は無いんだからな?
 
  
  俺は・・・ リコにも、いっつも笑っててほしい。
 
  ・・・ちゃんと幸せになってほしいんだよ・・・。』
 
  
 
リュータが真剣な口調で言った。
 
敢えて ”リコにも ”と言った。その後にもう一人の名前が続くことに鈍い
本人は気付いているのだろうか。
 
(気付いてねぇだろうな。) かぶりを振ってリュータは哀しげに微笑む。
 
  
コースケはしかめっ面で考え込むように、それから一言も発せず歩き続けた。
 
  
 
  
 
  
その頃、リコの部屋で三人は尚もしゃべり笑い合っていた。
 
話しても話しても話し足りない。一向に話は尽きない。
寝る時間も惜しいくらい、懐かしい三人の時間を楽しんでいたのだった。
 
  
 
 『ねぇねぇ! タケは、彼女とかいなかったの?』
 
  
 
ナチが懐かしい思い出話から突如方向転換し、身を乗り出して訊く。
 
突然のそれに、タケは少し照れながら困り顔を向ける。
『・・・な、なんだよ。 急に・・・。』と、あからさまに戸惑って濁した。
 
  
逃げたところでどこまでも追及するナチは、更に前のめりになって同じ質問を
繰り返した。仕舞にはタケの肩を掴んでぐわんぐわんと揺らして、強硬手段で。
 
   
すると、観念したようにひとつ息をついたタケ。
 
  
 
 『・・・もうずっと前から、好きな子がいるよ。』
 
   

真っ直ぐリコを射るように睨んで、タケが静かに言った。
その刺さるような視線と抑揚のない声色に、リコは慌てて目を逸らす。
 
  
リコの胸が急に、棘が刺さったように痛みを発した。
  
 

■第101話 留守の部屋

 
 
 
 『今日は取り敢えず履歴書かいて、片っ端から連絡してみるよ。』
 
 
 
タケが求人誌片手に、張り切った様子を見せる。

片手で丸めて握ったそれを上げて肩に当て、ポンポンと叩いて少しイタズラに
頬を緩めて。

リコは短大が始まるまでのあと数日間、相変わらずスケッチブック片手に出歩
くつもりだったので、タケの相手が出来ない事を少し気にして申し訳なさそう
に眉根をひそめる。
 
 
 
 『じゃぁ、ずっと家にいるの? ・・・一人で平気?』
 
 
 
リコの過保護な一言に『子供じゃないんだからさぁ~!』と、タケが笑った。

それでもなんだか後ろ髪を引かれた様子のリコに、タケは可笑しそうに眉尻
を下げ『描いて来いっ!描いて来いっ!』と、その細い背中を両手で押して
玄関ドアから出すと、手をひらひら振って送り出す。
 
 
『なんかあったら連絡して!』とリコがケータイを持った手を笑顔で振り返
し坂道を下って絵の練習に出掛けて行った。
 
  
 
 
 
キッチンで朝食後の食器洗いをしているリコの母ハルコの背中が目に入る。

背は小さいけれど丸くて柔らかそうな、まるでドラマや漫画にでも描かれる
ような典型的な ”お母さん ”の背中。
タケはそっと嬉しそうに微笑むと、静かに隣に立つ。そしてすばやく布巾を
取ると、洗い終わってカゴに伏せられた濡れた食器を拭きはじめた。
 
 
 
 『あら! 手馴れたもんねぇ~。』
 
 
 
ハルコは何も言わずに手伝ってくれるタケに優しく目を向けると、嬉しそう
に微笑んで褒める。

ハルコの言葉には、嘘も大袈裟な感じもない。真っ直ぐ染み入るようにタケ
の弱く柔らかい部分を包み込む。
 
 
タケは肩をすくめると、『ずっと家事もやって来たからね。』と、どこか寂
しそうに小さく笑って呟いた。かすかに震えた、色褪せたような声色。

すると、ハルコは濡れた手の水気をエプロンで拭くとタケの背中に手を当て
る。そしてすっかり男っぽくなったそれを、手の平でポンポンと叩いた。
 
 
 
 『タケ君はいい経験をしてきたわね。
 
 
  お茶碗を洗う大変さを知ってる人と知らない人とでは、

  ご飯を食べる時の感謝の気持ちが全然違うものよ。
 
 
  タケ君のお母さんに感謝しなきゃね・・・。』
 
 
 
そう言って微笑むハルコが、タケは大好きだった。
この家族の一員になれたらどんなに良いだろうと、心から思った。

もし願いがひとつだけ叶うのならば、迷いもせずにハルコの子供になる事
を選ぶだろう。幼い自分がハルコに溢れるほどの愛情で包まれるそれを思
い浮かべ、決して叶うことのない夢のまた夢に小さく苦笑いをした。
 
 
午後からハルコがクリーニングを取りに出かけると言うので、タケが代わ
りに行こうかと申し出る。なにか少しでも役に立てることがないか、タケ
は常に目を凝らして、自分でも気付かぬうちに神経を張り巡らせていた。
 
 
すると、『そんなに気を使わなくていいのよ。』とハルコはやさしく諭す。
 
 
 
 『タケ君はもっと自分のことを頑張っていいのよ。

  もっと、自分を大切にしていいの・・・。』
 
 
 
そう言って微笑んだハルコをタケは玄関先で見送った。

バタンと玄関ドアが閉まると突然閉塞感が込み上げ、家にひとりぼっちだ
と感じた。
 
 
 
  (自分ん家だとひとりに慣れ過ぎて、

   こんな風に感じたことなんか無かったのにな・・・。)
 
 
 
タケは、ひとり留守番をしながら、履歴書がきを進めることにした。

誰もいない物音ひとつしない静かなリビングに、ペンが紙面の上を進む小さ
な音だけが響く。

しかし、その音はすぐにやんだ。
高卒のタケには書くほどの履歴もたいして無かった。
 
 
 
  (こんなんで何の仕事が出来るって言うんだよ・・・。)
 
 
 
改めて自分の履歴を目にし窒息しそうな程の絶望感と焦燥感に、気付かぬうち
に溜息が漏れ、ダラリと力無く頭をうな垂れる。

かと思うと苛ついたように握ったペンをカツカツと高速で紙にノックし、今ま
で丁寧に書き進めていたそれに意味の無い黒点が付けられた。
 
 
ふと我に返ったようにペンを持つ手を置くと、フラフラと家の中を歩き回りは
じめたタケ。なんとなくその足は2階のリコの部屋へ向かっていた。
 
 
2階の廊下に並ぶ、リコの部屋のドアノブに手をかける。

一瞬、罪悪感が顔を出し手を離した。
しかし、リコがコースケに微笑みかける柔らかい表情を思い出し、再びドアノ
ブを握った手をゆっくり回した。
 
 
主の居ない部屋はシーンと静まり返っていた。

キレイに掃除されきちんと整頓された、リコらしい可愛い部屋。
ほんの少しリコの甘いにおいがする気がして、タケは沓摺で立ち竦んだまま
目をつぶって鼻から息を吸った。
 
 
ゆっくり慎重に室内へ進むと真っ直ぐリコのベットへと向かう。
そしてそれに静かに腰掛けた。花柄のベッドカバーがタケの重みで軋んで沈む。
部屋をゆっくりと見渡した。

すると、机の上に飾ってある3つの写真立が目に入る。
 
 
ひとつは、家族写真。
ひとつは、中学時代のタケ達との写真。
 
 
コースケ達との写真が目に入り、タケはベッドから立ち上がって机の前に移動
すると、そっとそれを手に取った。
 
 
 

■第102話 タケの想い

 
 
 
 『えっ?! 

  ・・・タケ、好きな子なんかいたのぉ~??』
 
 
 
タケの照れくさそうに呟いたその言葉に、ナチが食い付いた。

飛び上がる程にやけに嬉しそうに身を乗り出すと、隣のリコの肩を乱暴に揺ら
して、ナチは『ねぇ、知ってたぁ~?』と興奮気味にリコを覗き込む。

リコはなんだかこの話題はこれ以上掘り下げたくない気がした。一拍遅れて慌
てて首を横に振ると、小さくナチに続いた。 『・・・いたんだ?』
 
 
するとタケが相変わらず真っ直ぐリコを射るように見眇めたまま、言う。
 
 
 
 『子供ん時からずっとね・・・

  気持ちは伝えてはいない。

  今まではそれでいいと思ってたから。
 
  
  ・・・でも・・・。』
 
 
 『でもっ?! でも、何っ?!

  ついに、告白する気になったのっ?!』
 
 
 
タケの二の句をせっかちに急かす割りには、言わせない様な威圧感が溢れて
いるナチ。駄々を捏ねる子供のように手足をバタつかせては、人一倍顔を赤
く染めて息を荒げた。
 
 
リコはいまだタケに真っ直ぐ睨まれて、居心地が悪くなり目を逸らす。

何故そんな目で見るのか聞きたくて聞きたくない。なんだか重く息苦しくて
1秒でも早くこの話題を終わらせてほしかった。
 
 
 
 『まぁ、チャンスがあれば・・・って事。』
 
 
 
タケが明るくおどけるように言った。

リコを見眇めていた視線をはずすと、大仰に照れた顔で笑い首の後ろをガシ
ガシと無意味に掻き毟って。
ナチは想う相手が誰かを聞きだそうと躍起になっていたが、タケは決して口
を割らなかった。

まるでリコだけがその場に取り残されたように、神妙な面持ちできゅっと口
をつぐみ、黙りこくっていた。
 
  
 
 
 
その時のリコの顔を、タケは一人、断りもなく入ったリコの部屋で思い出し
ていた。
 
 
手にとった写真立の中のリコは、隣に立つコースケにほんの少し肩が触れ合
っていて、ちょっとはにかんだ様に微笑んで写っている。その四角い光沢紙
に閉じ込められた引きで撮られたリコは、表情の詳細など分からない小さい
サイズなのにも関わらず、ほんのり頬がさくら色なのはすぐ分かる。
 
 
思わず手に力が入る。

指先が真っ白になり、手の甲の筋が浮き上がる程、タケは写真立を強く掴ん
でいた。
 
 
すると力が入り過ぎた為にミシっと少し軋む音が静黙なそこに響き、ハっと
我に返って指先を緩めた。そして何気なく写真立の裏側を見た、タケ。

そこには何かメモ用紙のような白い紙が挟まり、ほんの少し顔を出している。
 
 
小首を傾げるも何故か妙にそれが気になり、ゆっくりと引っ張り出してみた。
  
 
 
   ”リコちゃんが来てくれないと、

    俺の壊滅的に下手くそなイラストで

    園の壁が埋め尽くされちゃうよ~。

    戻ってくるの待ってるからな!! ”
 
 
  
それが誰からのメモかはすぐに分かった。

たった4行の手書きのそれ。第三者の目には、これがそんなに大切に隠し持
つ価値があるものには到底思えない。
しかしリコはこんなノートの切れ端に書いたような薄汚いメモを、大切に大
切に誰にも見られないように仕舞っているのだ。
 
 
タケの心が一瞬にしてドス黒いものでいっぱいになった。

こんなくだらないメモを大切にするリコへの嫌悪。
そして、こんなメモをリコへ渡したコースケへの憤怒。
  
 
 
 (ずっと前からリコの傍にいるのは僕なんだ・・・。)
  
 
 
気が付くとタケは、一心不乱にそのメモを破いていた。

縦に横にメモ紙の向きを変え破き、その手書きの文字がひとつも識別出来な
いほどに細かく細かく散り散りにした。
そして、それを握り潰すと乱暴にジーンズのポケットに残骸を押し込めた。
 
 
体が沸騰しそうに苛つく気持ちが何をどうしても止められなくなり、尚もリ
コの部屋の物色をする。

この部屋には、自分と一緒にいた中学時代の思い出より、今のコースケ達と
のそれの方が色濃い気がして、何もかも壊したくなる衝動に駆られた。
  
 
 
 『あんな奴に絶対にリコを渡すもんか・・・。』
 
 
 
タケの歪んだ愛情が、どんどん形を成して膨らんでいくのだった。
 
 
 

■第103話 疑惑

 
 
 
昼下がりのコースケの部屋に、ケラケラと愉しそうな笑い声がシンクロする。

居候のリュータの元へ、ナチが遊びに来ていた。
短大が始まるまでの間、ナチは何もする事がないという口実でいまだ松葉杖の
リュータが世話になるコースケの部屋を毎日訪れていたのだった。
コースケはバイトで留守だった為、正直なところ余計にナチには嬉しい日々だ
った。
 
 
 
 『・・・タケって、どんな奴だった?』
 
 
 
突然なにかを思い出したような顔で、リュータは隣で体育座りするナチを見る。

リュータがする質問の意図がさっぱり分からないナチ。
眉根をひそめて目を眇め、ついでに唇も尖らせる。そして質問には答えずに
逆に質問返しをした。
 
 
 
 『ねぇ。 随分この間から、タケのこと気にしてない?』
 
 
 
ナチが訝しがってリュータの顔を覗き込む。

ナチにとって、タケはリコと同じくらい大切な友達なのだ。なにか物言いた
げに含みを持つリュータのそれがどうしても納得いかなかった。
 
 
 
 『好みのタイプなんだよ。』
 
 
 
ナチの不満気な表情を横目に、リュータが慌てておどけてはぐらかす。

タケはリコを好いているように見えるし、コースケを敵視しているんじゃない
かなんてナチに言ったところで、どうしようもない事は分かっているのだ。
むしろ、ナチを板挟みにして苦しめてしまうかもしれない可能性だってある。
 
 
ナチは一瞥すると『バカじゃないの。』とアッサリ一蹴して相手にしない。
 
 
しかし、それから少し黙りこくって体育座りをする曲げた膝におでこを付けて
考え込んでいた。

そして、ポツリポツリと静かに話し始めた。
 
  
 
 『タケはねぇ・・・

  基本的には凄い優等生タイプだったよ。 真面目だしね。

  家庭環境がちょっと複雑で、親の犠牲になってた感じ・・・
  
  
  よくリコの家に3人で遊びに行ってたんだけど、

  リコのお母さんにすっごい懐いてたかな。 息子みたいにね・・・
 
 
  リコとはまるで兄妹みたいだったなぁ~・・・。』
 
 
 
リュータが『ふぅ~ん。』と相槌を打つ。
フローリングに直に座って投げ出したギブスの脚をゆらゆらと揺らしながら。
 
 
 
 『当時と今と、リコに対する接し方は変わってねぇの?』
 
 
 
リュータの ”その手の質問 ”の意図がやはり分からないナチ。

自分達の関係性を男女のそれで一絡げにされたくない。当時からそんな垣根
を越えて信頼し合っている自信があるのだ。3人のバランスを乱すような事
は例えリュータでも言ってほしくなかった。
 
 
 
 『なんなの??

  あのふたりは、全然そうゆうんじゃないってばぁ!!
 
 
  それに・・・

  タケは、子供の頃から好きな子がいるって言ってたし。』
  
  
  
『それがリコなんじゃ・・・?』 ナチへと身を乗り出すリュータ。
 
 
しかしナチが最後まで言わせず制する。
 
 
 
 『私達は中学からの仲なの。

  ”子供の頃 ”ってゆうのは違うよ。』
 
 
 
そう言い切ってしかめ面をした。ナチにはリュータが思うところがやはり分から
ない。なんだか自分一人取り残されているような気持ちになって、ナチの不満気
な顔が少しずつ寂しげなそれに変わる。

『なに考えてんのか教えてよ・・・。』 ちょっと不貞腐れたように呟いた。
 
 
リュータが少し無言で考え込み、斜め上をぼんやり見つめたまま瞬きを繰り返す。
そして、口を開いた。 『・・・いや。 俺の考え過ぎだ、きっと。』
 
 
そう言ってナチに向かって優しく微笑み両手を広げた。

ナチは一瞬睨む様に見眇め、しかし我慢出来ずにその頬ははにかんで微笑み返す。
そして、リュータの胸にぎゅっと抱きついた。
二人の胸がピッタリくっ付き、互いの心臓が嬉しそうに跳ねる音が鳴り響く。
言葉に出さなくても溢れそうなほどの想いが相手に伝わっている気がした。
 
 
リュータがそっとナチの肩に手を置き名残惜しそうに体を離す。そして顔を傾け
ナチの薄い唇に触れようとしたその瞬間。ナチが中指をパチンと弾いてリュータ
のおでこにデコピンをした。
 
 
 
 『ここ、コースケさんの部屋!!

  ・・・ってゆうか、昼間っから何しようとしてんのよ、まったく・・・。』
 
 
 
照れくさそうに膨れっ面を向けるナチを、リュータは愛おしそうに見つめ笑った。 
  
  
 
 
 
リコは外出先のスケッチをしていた公園からタケにメールを送信した。

電話にしようか少し迷い、しかし集中して履歴書がきをしていたとしたらメール
の方が後から都合いい時に返信出来るし良いかと、まどろっこしく気を回して。
すると、すぐにリコのケータイに返信が来たメロディが響いた。
 
 
 
  ◆From:タケ

  ◆Title:まったく・・・

  ◆僕は子供じゃないんだから(笑)

   心配しないで思いっきりスケッチしておいで!
 
 
 
この返信メールを見つめ、リコはどこかホっとしたように大きく息をついた。

小さな画面の中のタケは、リコが知っている大切な友達のタケだった。
昨夜のあの怖い表情は、自分の思い違いだと。タケはあの頃のままの、優しく
穏やかなタケのままだと、必死にそう思おうとしていたのだった。
 
 
 

■第104話 ふたりきりのピクニック

 
 
 
 『リコ~。 明日ちょっと遠出してみない?

  ナチにも声掛けて、3人で・・・
 
 
  リコはスケッチブック持参で行けばいいし、

  僕も久しぶりに出掛けたいし・・・。 どう?』
 
 
 
タケからの突然の誘いに、リコが喜んで『いいねっ!!』と賛同した。
胸の前で手の平をパチンと合わせ、嬉しそうに頬を高揚させてまるで子供の様で。

リビングのローテーブル上に置いていたケータイを掴むと、ナチに連絡しようと
画面をタップしかけたリコをタケが優しく制した。
 
 
 
 『ナチには僕が連絡しとくよ。
 
 
  せっかくだから、弁当とか持ってピクニックにしたくない?

  おばさんに弁当のおかずになる物あるか訊いてくれない?』
 
 
 
タケの案に大賛成のリコが弾かれたようにキッチンの母の元へ走って行った。

『お母さぁぁああんっ!!』と、声を張って呼び掛けている。リビングとキッチ
ンなんて然程離れてはいないのだから、そんな大声出す必要などないのに。
明朝用のお米を研いでいた母ハルコは、リコのそれに驚いてビクっと体が跳ねた。
 
 
そんなリコの分かり易く浮かれた後ろ姿を、タケは満足気に微笑んで見ていた。
 
 
 
 
 
 『・・・で。 ナチは、なんて?』
 
 
弟リクのゲームの相手をし、コントローラーを握り画面に見入っているタケへ
リコがしずしずと訊ねる。ゲームは今一番盛り上がっているところらしく、リク
がその邪魔をする姉へと明らかに不満そうに目を眇める。
 
 
すると、タケが至極残念そうに眉根をひそめ言った。
 
 
 
 『なんか明日はリュータさんと約束があるみたいだよ。
 
 
  付き合い悪いよなぁ、ナチも。

  友達よりカレシかよ~、まったく・・・
 
 
  まぁ、幸せそうだから邪魔したくないけどな。』
 
 
 
タケがナチの幸せを心から喜ぶやわらかい笑顔を向ける。

器用になんでもこなすタケは、リコの相手をしながらもその指先は高速でコント
ローラーを操り、弟リクのモンスター狩りの援護を完璧にやってのけていた。
 
 
リコも『そっか。 なら仕方ないね。』と肩をすくめて小さく笑う。
そしてゲームの邪魔をしないように、その話題は切り上げてその場から離れた。
 
 
  
 
 
翌朝。
上着をしっかり着込み、弁当とスケッチブックを抱えて二人は出発した。

冬でも積もるほど雪が降ることがないこの街では、この季節でも自転車に乗れた。
玄関前でリコが自転車に跨ってタケへと目を遣る。タケは弟リクの自転車を借り、
少し低いサドルを丁度良いそれに調整して跨ると、リコへと親指を立てて準備が
出来た合図を送った。

寒空の下、二人はのんびり自転車のペダルを漕ぎ始めた。
 
 
平日昼間の少しゆとりがある国道をゆっくり進むと、大きな公園に着いた。

周りを樹々で覆われた自然が溢れるそこはハイキングにピッタリで、そこを進ん
だ先にある中央の広場は、スケッチするにも弁当を広げるにも最適の場所だった。
 
 
公園の入口の駐輪場に自転車を停めると、リュックを背負って奥へ進む二人。
足元の枯れた葉を踏み進む乾いた音が、なんだかやけに耳に心地よい。

背の高い樹々の隙間から陽が差して、少し息が上がったリコの顔を優しく照らす。

途中の足場が悪い荒れた道に差し掛かり、先を歩くタケが振り返ってリコに手を
伸ばす。細く華奢なリコのそれをぎゅっと握って引っ張り上げると、タケはしっ
かりその手を握ったまま、奥へ奥へと進んだ。
 
 
 
 『・・・もう大丈夫だよ?』
 
 
 
”手を引いてもらわなくても ”という意味を込め、リコはそう言ったがタケは
手を離そうとはしない。
リコが手を離そうとすればする程、タケは掴んだ手に力を入れる。
 
 
そして、当時のことを思い返しているような遠い目をして笑った。
 
 
 
 『リコは昔っから、一人じゃ危なっかしいからな~・・・。』
 
 
 
やっと中央の広場に辿り着き、並んでベンチに腰掛けた。

互いにリュックから水筒を出して、持参した温かい紅茶を飲む。
水筒のコップになる蓋部分に口を付けると、白い湯気が立ち込め流れて消える。
平日の昼間なだけあってあまり人がいず閑散としている広場を、紅茶で温まった
白い息を吐いて二人はぼんやり眺めていた。
 
 
リコがふと思い出したようにベンチの座面に水筒のコップを置く。そして再びガ
サゴソとリュックに手を差し入れ、その奥からスケッチブックを取り出した。
膝の上に置いて、嬉しそうにその硬い表紙を指先で撫でるリコ。

『見せて!見せて!!』と、タケはリコの絵を見たがり、わざと子供のように脚
をバタバタとバタつかせる。

”見せて ”と改めてねだられるとなんだか照れくさくて、リコはスケッチブック
を胸に抱いてそれを死守しようとした。タケはふざけてリコの脇腹をくすぐった
りしながら、奪い取るようにそれを掴むと勢いよく開いた。
 
 
すると、そこには小さな子供が遊ぶ姿が何枚も何枚も描かれていた。
 
 
 
 『・・・これ、コーチャン先生の所の園児なの。』
 
 
 
リコが照れくさそうに目を細めて呟いた。

その目の奥はまるで、紙上の大勢の園児を通り越して、ここに描かれてはいない
その人を見ているようなやわらかい眼差しで。
それを真っ直ぐ見つめると、タケが少し真顔になった。
 
 
 
 『そんなに、しょっちゅうコースケさんの所に通ってるの?』
 
 
 
タケのどこか少し冷たい口調に、リコの体が瞬時に固くなり息を呑む。

この声色は、先日のタケの睨むような視線を思い出させるそれだった。
俯いて少し黙りこくるも、顔色を伺うようにタケに弱々しい視線を向けたリコへ
タケが慌てたように即座に謝った。
 
 
 
 『ごめん・・・ ちょっとヤキモチ。

  あの頃は僕達がいっつも一緒だったのにさ・・・。』
 
 
 

■第105話 お弁当

 
 
 
 『リコは、コースケさん達が今は一番なんだろ?』
 
 
 
タケがまるで感情が読み取れない能面のような真顔でリコに訊いた。

少し背中を丸めてベンチに並んで腰掛け、膝の上に置いた拳を苛ついたように
落ち着きなくトントンとバウンドさせて。
 
 
『ぃ、一番も二番もないよ・・・。』と、困り顔で笑うリコのその返事にも、
タケは首を左右に振り一笑に付すだけで、その全身からはなんだか近寄りがたい
冷淡な空気が溢れている。
 
 
すると、暫く黙っていたタケが丸めた背中を更に深く曲げ頭を下げて謝った。
 
 
 
 『ご、ごめん・・・

  なんか・・・ 僕だけあの頃のままで止まってて。
 
 
  ・・・でもリコ達は、別の・・・

  僕の、知らないトコに。 進んじゃってるような、気がして・・・
 
 
  この間から僕、なんか変だったよな?

  ほんと、ごめん・・・ ごめんな・・・。』
 
 
 
膝の上で両の指を組み、居場所無げに目を伏せるタケ。

なんだか迷子の子供のようなその視線に、リコは胸の奥がきゅうっと痛んだ。
色々なことが巧くいかずに、傷つき、逃げるように自分達がいるこの街に戻って
来たタケの気持ちをもっと汲んで思い遣るべきだったと、リコは内心反省する。

いまだ頭を下げ続けるタケに、リコはそっとその肩に手を当ててそれをやめさせ
ると、『タケも、大事な大事な友達に決まってるじゃないっ!』と少し涙ぐんで
微笑んだ。
 
  
それから二人はなにも話さずにいた。

黙ってベンチに並んで腰掛け、リコはスケッチをしタケはそれをただ隣で見てい
た。先程タケの本音を聞けたことで、リコの中にあった小さなわだかまりが消え
あの頃のように心休まる友人だと再確認出来ていた。ホッとするリコから思わず
ご機嫌な鼻歌が出る。それはどこか調子がはずれていて、タケはニヤけそうな頬
を必死にいなしていた。
 
  
暫く夢中になってスケッチブックに向かい、昼になって一旦手を止めて弁当を広
げた二人。
 
 
今までずっと家事をしてきたタケが作った弁当は、とても上手でリコはただただ
驚くばかりだった。然程、手間ヒマかけた訳でもないのにタケのそれは彩豊かで
四角い弁当箱に美しく並び、握ったおにぎりも売り物のようにきちんと三角で。

リコが担当した玉子焼きは、砂糖を入れすぎたようで少し焦げて形悪くくたびれ
て見えた。
 
 
 
 『あぁ・・・ もぉ・・・。 失敗だ。』
 
 
 
割り箸で玉子焼きを持ち上げ、明らかに焦げて失敗作なそれにリコがしょんぼり
とうな垂れると、タケが可笑しそうに笑う。『玉子焼きは甘い方がいいんだよ。』

そして見る見るうちにパクパクと口に入れ、弁当箱のおかずの中でいち早く玉子
焼きが消えて無くなった。困った顔をして視線を向けるリコに、優しく微笑んで
『美味しいよ。』と安心するまで何度も繰り返した。
  
 
 
 『小学校の時の運動会でさ~・・・

  母さん、その日も来てくんなくて。
 
 
  もちろん、弁当なんか無くってさ。

  500円玉一枚渡されただけで・・・
 
 
  僕、一人で体育館の隅っこで泣きそうなの我慢してしゃがんでたら、

  あるお母さんが、僕におにぎりくれたんだ・・・
 
 
  ”あなたはとっても勇敢で強い子になるわ ”って言って。
 
 
  そのお母さんの娘も、おんなじように強くて優しい子でさ・・・。』
  
 
 
タケが弁当のおかずを摘む手を止め、遠い目をして少し寂しそうに呟いた。 
その時、リコの脳裏に先日のナチと三人の時の会話が浮かぶ。
 
 
 
 『もしかして・・・

  ・・・ずっと好きな子、って・・・?』
 
 
 
リコの問い掛けに、タケが照れくさそうに頬を緩めコクリと頷いた。

”その子 ”を思い出しているのか、かすかに染まった頬は嬉しそうにしかし
どこか寂しそうに緩んでいる。
 
 
正直、リコは内心ホっとしていた。

タケとは中学から一緒なのだ。自意識過剰だったかもしれないが、これでタケが
想う相手は自分ではないと判明した。
今までのように友達として仲良くしていくには、”相手 ”は自分では困るのだ。
 
 
 
 『その子とは・・・?

  ・・・連絡とか、取り合ってないの?』
 
 
 
リコの言葉にタケが首を振って小さく笑った。
それは、諦めているようなそんな乾いた色のない声音で。
 
  
 
 『僕のことなんて、きっと覚えてないよ・・・。』
 
  
  
また、リコが恐れるあの目で真っ直ぐ見眇め、タケがぽつりと呟いた。
 
 
 

■第106話 幼少時代

 
 
 
  ◆From:コーチャン先生

  ◆Title:頼みがあるんだけど

  ◆リコちゃん、明日って時間ある?

   ちょっとイラストの事で頼みがあるんだ。
 
  
 
遠出から帰ったリコとタケは、自転車で長距離走行してぐったり疲れてい
た。もう夕刻になっていた為、玄関ドアを開けた途端に夕飯のいい匂いが
流れ、帰宅した安心感と共にドっと一気に疲れが出る。

”ただいま ”の挨拶もそこそこに、リコはリビングに荷物を放り出した
まま怠そうに足を引き摺って浴室に向かった。
 
 
タケはまっすぐキッチンに向かい、母ハルコの隣に立つ。

今日の自転車での遠出について嬉しそうに身振り手振りを付けてハルコに
話して聞かせる姿は、まるで母と息子にしか見えない。
ハルコも微笑んで相槌を打ちながらタケの横顔をそっと見つめ、包丁で玉
ねぎをみじん切りにした。
 
 
二人で和やかに話をしながら、タケは率先して夕飯の支度を手伝っていた。

ハルコに頼まれた茶碗や皿を食器棚から出し、食卓テーブルへ運ぼうとし
たところ、リビングのローテーブルの上でリコのケータイが点滅している
事に気付いたタケ。
 
 
両手に持っていた皿を食卓テーブルに置くと、さり気なくリビングに移動
しリコのケ-タイを手に取る。その点滅がメール受信のそれだということ
はすぐ分かった。タケはそれを感情のない空虚な目で黙って見下ろしてい
た。誰からのメールからは、何故か直感的に分かる。

そっとリビングを抜けて廊下に出ると、ケータイ画面をタップして受信し
たメールを開く。そこに表示された送信者名に思わず舌打ちが出る。
思った通り、それはコースケからのメールだった。
 
 
 
 『迷惑なんだよ・・・。』
 
 
 
そう小さく呟くと、削除ボタンを押して一瞬の迷いも見せずにメールを消去
した。薄暗い廊下でケータイ画面からのわずかな光に照らされるタケの顔は、
ゾっとするくらいに冷たい目で嗤っていた。

そして何も無かったようにリビングに戻ると、ローテーブルの上にリコの
ケータイを戻した。
 
 
リコがお風呂から上がったのを待って、次にタケが浴室へ向かう。
リコとすれ違いざま、タケは嬉しそうに鼻歌を歌って上機嫌な様子だった。
 
  
 
長距離走行でクタクタに疲れたリコは、夕飯後に早目に自室へ戻って行っ
た。しかしタケは弟リクと今夜もゲームをして遊び、その後は母ハルコと
お茶を飲んで世間話も付き合った。
 
 
 
 『・・・タケ君? 無理してるんじゃない?』
 
 
 
ハルコが気を遣い頑張りすぎるタケを心配して顔を覗き込む。

空になったハルコの湯呑に、すかさずにおかわりのお茶を淹れようと手を
伸ばしていたタケが大きく首を横に振った。
 
 
『今が一番幸せなんだ。』 かみ締めるように呟いたその声色は、泣いて
いるみたいに震えてこぼれる。
 
 
 
 『子供の頃からあんまりこうゆう家庭っぽい感じとか、

  ある生活じゃなかったから・・・
 
 
  本当に今、幸せで・・・
 
 
  ・・・なんか、全部夢なんじゃないかって思うくらいで・・・。』
 
 
 
俯いて両手で湯呑を包み、泣きそうになるのを必死に堪えるタケの喉元は
強張って筋が浮き上がっている。

そんなタケを少し哀しそうにハルコは見つめると、小さく微笑んで言った。
 
 
  
 『あなたは、とっても強い子ね・・・。』
 
 
  
タケがその言葉を聞いて、俯いた。

ぎゅっと目をつぶり、奥歯を噛み締める。すっかり男っぽくなったはずの肩
がまるで子供のそれのように小さく震えていた。
 
 
 
  
 
タケは子供の頃のことを思い出していた。

母親のお陰で転校ばかり繰り返していた小学校時代。
苗字だって何度変わった事だろう。何度転校したかも分からない程だった。
 
 
小学5年の時、その街の小学校に3ヶ月だけ通っていた。

転入してすぐ運動会でまだ友達すらままならないのに、母親は運動会には
来ずグラウンドでみんなが家族仲良くお弁当を食べる姿を、体育館の窓か
ら一人見つめていたタケ。
 
 
そこへ、おにぎりをくれたとある母親。
その母親の娘は、同じクラスの斜め前の席に座るとても優しい子だった。
  
  
  
リコ、という名の子だった・・・
 
 
 

■第107話 対峙


 
 
コースケはケータイを片手で握り、その画面をじっと見つめていた。

かと思うと、なんだか納得いかないような面持ちで指先でポチポチとボタンを
押しなにか確認している。そして再び、画面に穴があくほど見眇める。
 
 
 
 『んぁ? どした~??』
 
 
 
コースケの狭い部屋で、ベッドに背をあずけフローリングに直座りするリュータ
がその姿を不思議そうに見ている。膝の上に乗っている愛猫あおいの喉を指先で
撫でながら。あおいは満足気にゴロゴロと喉を鳴らして目を細める。
 
 
勉強机のキャスター付き椅子に背中を丸めて腰掛けるコースケが、腑に落ちない
様子で首を傾げながら、イスをリュータの方へくるり回転させて言った。キャス
ターが軋む音が小さく響き、それと同時に正面に見えたコースケの顔はやはり横
顔と同じ、なにか納得いかないそれ。
 
 
 
 『リコちゃんにさ、メールしたんだけど・・・

  ・・・返事が、こないんだよな・・・。』
 
 
 
リコは几帳面な性格なので、来たメールに返信しないなんて事は今まで一度も
無かった。すぐに返信できない事情がある時は、 ”後で連絡しますね ”と、
律儀にそんな一文を取り敢えず送信してくるくらいキッチリしているのだから。
 
 
コースケとリュータがなんとなく顔を見合わせる。

そして同じ事を言い掛けようとしているような、頬を歪めた互いの苦い表情に
『まさかな?』と同時に呟いた。
 
 
 
  (なんだろう・・・

   なんか、嫌な予感がする・・・。)
 
 
 
コースケはどうしても釈然とせずモヤモヤ感がくすぶって、他の何も手が付か
ない。もう何度確認したか分からない ”新着メール問合せ ”を、往生際悪く
再び問い合わせる。

しかし結果はやはり ”新着メール0件 ”の表示に、思い切ってリコに電話し
てみる事にした。耳に当てたケータイがひんやり冷たい。自分の耳が異様に熱
くなっていたことに、ケータイのその感触で初めて気付く。

しかしまだ夜10時前だっていうのに、コースケの耳にはコール音が延々響く
ばかりで、リコが電話に出る気配はない。
 
 
 
 『寝るにしては早いだろ・・・。』
 
 
 
眉根をひそめ真剣にブツブツと呟くと無性に気になって仕方なくて、コースケ
はナチにも連絡をしてみた。
すると、ナチも今日一日リコから電話もラインもなかったと言う。
 
 
コースケのケータイを握る手に、思わずぎゅっと力が入る。
以前、暗い坂道でリコが暴漢に遭ったあの時の不安と恐怖が甦った。
 
 
 
  (なんかあったんじゃないのか・・・。)
 
 
 
コースケは乱暴にハンガーから上着をはずし、慌ててそれに片腕ずつ突っ込み着
込むと『ちょっと様子見てくる。』と、血相変えて部屋を飛び出して行った。

大急ぎで階段を駆け下りるその足音が段々遠く小さくなり、バタンと乱雑に玄関
ドアが開閉しコースケがリコの元へと駆けて行った音を、リュータは一人取り残
されたコースケの部屋で聴いていた。
 
 
 
 『充~ぅ分、気になってるくせに・・・

  ・・・ニっブい男だねぇ~、まったく。』
 
 
 
膝の上で丸まって眠る愛猫あおいの柔らかい背中を撫でながら、リュータは嬉し
そうに可笑しくて堪らなそうに肩をすくめて笑っていた。
 
  
 
 
 
もう暗くて車の走行量も少なくなったバス通りの道を、コースケは目を眇め必死
に腕を大きく振って走りリコの家へ向かう。

リコに何かあったんじゃないかという疑念がどうしても頭から離れず、居ても立
ってもいられなかった。タケが現れるまでは、そんな風に思うことなんか無かっ
たのに。タケの、あの冷酷な目を思い出す。コースケを睨み付けるそれなど別に
気にはしないけれど、歪んた形でそれがリコに影響を及ぼしていないだろうかと
そればかりが頭をかすめた。
 
 
コースケは長い上り坂を一度も休まず、駆け上がった。

そして花の鉢植えが溢れるリコの自宅の明かりが見えると、更に大きく脚を踏み
出し蹴り上げて玄関先へと滑り込んだ。 
 
 
 
  ピンポーン・・・
 
 
 
腰を曲げ膝に手を置いて、ゼェゼェと爆発しそうな呼吸を必死に整えながらドア
チャイムを鳴らす。それを押す指先は、かすかに震えていた。

額には汗が滲み、顔は真っ赤になって。猛烈に走り続けた脚のふくらはぎが痙攣
しそうに張って熱を持っているのが分かる。
 
 
すると玄関ドアの向こうに人の気配があり、静かに少しだけ開けられたドアの向
こうにタケの姿が現れた。
 
 
 
 『・・・なんですか? こんな時間に。』
  
 
 
タケは不機嫌そうに片頬を歪め、目を眇めて冷たく言い放つ。
熱を感じないその空虚な目は、必死に走って来たのであろうコースケのその荒い
息遣いをバカにするように鼻で嗤った。

まだ苦しそうに息切れしたまま、肩を大きく上下してむせて咳をしながらもコー
スケが真剣な面持ちで訊ねる。
 
 
 
 『リ、リコちゃんは・・・?』
 
 
 
その一言にタケは嘲笑した。

わざわざこんな時間に馬鹿みたいに走って訪ねて来たかと思ったら、口から出た
第一声が ”リコ ”だった事に呆れ果て、そして怒りにも似たそれに変わる。
 
 
 
  (なんなんだよ、コイツ・・・。)
 
 
 
『寝てますけど。』 それだけ素っ気なく言うと、タケはあからさまに目を逸ら
しドアを閉めようとした。

すると、閉まりかけたドアを瞬時に手で押さえ、コースケが強い口調で言った。
 
 
 
 『・・・リコちゃんに何かしてないだろうな?』
 
 
 
その切羽詰まったような低く真剣な声色に、タケはコースケを鋭く睨む。

閉めかけたドアの隙間から、暫し身の毛がよだつような冷酷な視線を向け続ける
とドアを開けて静かに玄関ポーチへと出て来たタケ。
 
 
コースケがすがるような願うような熱を持つ口調で、もう一度タケに訊いた。
 
 
 
 『リコちゃんに・・・ 何もしてないよな・・・?』
 
 
 
すると、タケは軽く前屈みになり手の甲で口元を隠すようにして鼻で笑った。

それはやけに耳の奥に残る神経を逆なでする嫌な笑い声で、今までのそれより更
に鋭い目つきの非情な表情を向けて。
 
 
 
 『っつうか。
 
  ・・・アンタ、誰だよ?

  なんの権利があってそんな事ゆってんだ??』
 
 
 『権利とか、そうゆう問題じゃないだろ・・・

  ・・・ただ俺は、リコちゃんが心配な・・』
 
 
 
言い掛けたそれを遮り、コースケの胸倉をタケが勢いよく掴み上げた。

コースケより少し背が低いタケだが、顎の真下で上着を握り締めるその拳は力が
入り過ぎて白んで震えている。
突然のそれに目を白黒させながら、苦しげに顔を歪め必死にもがいてそれから逃
れようとするコースケに、タケは低く唸るように言った。
 
 
 
 『思わせぶりな態度取ってんじゃねぇよ。

  どうせ、リコに好かれてる状況をただ楽しんでるだけなんだろっ?!
 
 
  リコを・・・

  ・・・僕のリコを、これ以上馬鹿にすんじゃねぇよ・・・。』
 
 
 

■第108話 ビンゴ

 
 
 
両者は鋭い目付きで睨み合っていた。

タケはコースケの胸倉を掴んだまま。コースケはそのタケの拳をほどこうと
手首が鬱血しそうなほどに握り、互いのそれは力が入り過ぎて震えている。
苦々しく噛み締める奥歯の引き攣りが、その引き締まった頬に表れていた。
 
 
その時、タケの背中の玄関ドアから小さく音がした。レバーハンドルが上下
して静かに開き、リコの母ハルコが遠慮がちにどこか不安気に顔を出した。
  
 
 
 『どうしたの? こんな時間に・・・。』
 
 
 
咄嗟にコースケの襟元から手を離し、距離をあけるタケ。コースケもやっと
息苦しさから解放され背中を丸めて暫し咳き込むも、ハルコには必死に何も
なかった体を装おうとしている。
 
 
心配そうな顔をして二人を見つめるハルコ。それは泣いてしまいそうな目で。

どう見ても一触即発な雰囲気のそれを必死に隠そうとしている姿に、ケンカ
の理由は分からないけれど、暴力でなど問題は解決しないと訴えるように哀
しそうに眉根をひそめ、きゅっと口をつぐんで無言の抗議をしていた。
  
 
 
 『な、なんでもないよ・・・

  コースケさんがリコの心配して来てくれたみたいで。
 
 
  ほら。

  今日遠出して疲れて、

  リコ、早く寝ちゃったから・・・。』
 
 
 
タケが、懸命に穏やかな優しい口調でハルコを諭すように笑う。

ハルコのそんな哀しそうな顔は見たくない。コースケへの嫌悪と同じくらい
否、それ以上にハルコへの愛情は深いのだ。逆にタケが泣いてしまうのでは
ないかと思う程に、切なげにハルコを見つめて必死に平静を取り繕っていた。
 
 
すると、ハルコはいまだ心配そうに少し訝しがりながらもコースケへと呟く。
  
  
 
 『あの子。

  タケ君と出掛けて、はしゃぎ過ぎて疲れちゃったみたいなのよ。』
 
 
 
そしてハルコは背の高いコースケを見上げるように見つめ、優しく微笑んだ。
 
 
 
 『もし急用だったら、起こしてくるわよ・・・?』
 
 
 
その声色があまりに温かすぎて、コースケは情けない顔で俯いてしまった。

そして口の端に力を入れつぐむと、なにも言わずに首を大きく横に振る。
ガバっと腰を90度折ると深々と頭を下げて、暫くそのまま動かなくなった。

ハルコが慌ててその大きな背中にそっと手を当て、頭を上げさせようとした時
コースケは上半身を戻しもう一度深く頭を下げると『失礼します。』とか細く
呟いて来た道を走って戻って行った。
 
 
結局タケが関わっているのどうかは何も分からないまま、ただモヤモヤしたも
のだけ拭いきれないまま。

コースケは胸の中に広がりつつある想いに、必死に目を背けるように全力で夜
の静まり返った坂道を駆けていた。
  
 
 
翌日、コースケにリコからメールがあった。
それは新規作成のメール。コースケへの返信REメール表示がない、それで。
 
 
 
  ◆ごめんなさい。

   昨日、電話くれてたんですね。

   何かありました?
  
 
 
そのケータイ画面を神妙な面持ちで暫し見つめ、やはりどうしても腑に落ちな
いコースケはそのままリコに電話した。
 
 
  
 『昨日、メールもしてるんだけど・・・

  ・・・届いてない?』
 
 
 
リコは慌ててメール受信フォルダを確認するも、その履歴は無かった。

タイムラグでセンターに保管されていないかと ”受信問合せ ”もしてみるも
それは ”0件 ”の表示で、リコはなんだか申し訳なくなってきてケータイ越
しにコースケにしょんぼりと謝った。
 
 
そんなリコに、コースケが逆に慌てる。

リコが悪い訳ではないし、もしかしたら送信したつもりがちゃんと送れていな
かっただけなのかもしれないと必死にリコをなだめ、そして自分自身を納得さ
せようとモヤモヤを無理やり呑み込んだ。

取り敢えず、伝えたかった用件をそのまま口頭で伝えると、コースケはリコに
『気にしないで。』と最後に付け加えた。心の中で自分へも同じそれを小さく
繰り返して。
 
 
  
リコは自室でトートバッグに画材を詰めていた。

少し調子がはずれたご機嫌な鼻歌が小さく2階の廊下に漏れていて、リコの部屋
を訪ねようとやって来たタケが、リコの愛しいそれに頬を緩めて微笑み部屋のド
アを右手中指の関節で控え目にノックしながらニヤつく頬をいなす。

『どうぞ~!』というリコの返事にゆっくりドアを開けると、沓摺に立つタケは
荷物が詰め込まれているバッグを見つめ『どこか出掛けるの?』と静かに訊いた。
 
  
 
 『保育園の、イラストの手伝いなの!』
 
 
 
嬉しそうに微笑むリコの明るい表情に、立ち竦んだままのタケは苛立ちを隠せな
かった。後ろ手に組んだ両の拳が、その瞬間ぎゅっと力がこもる。

リコに気付かれないように俯いて深い深い息をひとつ吐き、急激に上がる血の気
をなんとかコントロールしようとした。
 
 
そして、
 
 
 
 『僕も一緒に行ってみてもいいかな? 

  ・・・保育園の中に、一度入ってみたいんだ。』
 
 
 
何処か違和感のあるタケの言葉を、リコは真っ直ぐ受け取り無邪気に喜んだ。
 
  
 
 『きっとナチもリュータさんのトコにいるだろうから、

  また、みんなで集まれていいかもねっ!!』
  
   
  
  
 
 
約束の時間にリコが訪ねると、園にはコースケ・リュータ・ナチ三人の姿があっ
た。やって来たのがリコ一人ではない事に、コースケは分かり易く怪訝な顔にな
りリコの手前慌ててそれを隠す。チラリとタケに視線を向けるも、タケは見られ
ている事に気付いていて、決してコースケと目を合わせようとしなかった。

飄々した感情を読めない表情で、昨夜のことなど何も無かったように笑うタケが
そこにいた。
 
 
リコはナチの元へパタパタと駆け寄り、からかうようにニヤけて訊く。
 
 
 
 『昨日は何処でデートだったのよ~ぉ?!』
 
 
 
その言葉にナチが『ぇ?』と、身に覚えがないハテナ顔を向ける。
 
  
『デートだったんじゃないの? リュータさんと・・・。』最初はナチの照れ
隠しかと思ったリコだが、なんだか話が噛み合っていない空気にリコとナチは
互いに顔を見合わせ小首を傾げる。
  
 
 
 『タケから昨日電話いったんだよね・・・?』
  
 
 
リコの言葉に、ナチは首を傾げキョトンとした顔で瞬きをした。

すると、ナチの隣に座っていたリュータがその会話を耳にボソっと一言呟いた。
 
  
  
 『ビンゴ・・・。』
 
 
 

■第109話 兄妹

 
 
 
 『タケ~ 

  ・・・昨日、私に電話くれた~?』
 
 
 
ナチは怪訝そうな顔で自分のケータイ画面を指先でタップして確認しながら、
タケの傍に近寄って行った。指先でスススとスライドして上下に行ったり来た
りするも、何度確認してもタケからの着信履歴は見付けられなかった。
 
 
先程まで穏やかな顔を向けていたタケが、一瞬能面のような真顔になる。
そしてすぐさま困ったように笑いながら、再び穏やかな表情で言った。
  
 
 
 『あぁ・・・

  昨日リコと遠出するのに誘おうと思ったんだけど、

  なんか繋がらなかったからさ・・・
 
 
  きっとリュータさんとデートでもしてるんだろうなぁ~って思ってた。』
 
 
 
スラスラと流暢に流れるタケのその言葉を聞いて、ナチは安心したように笑う。

『なんだ、そうゆう事かぁ~。』
 
 
そしてリコとの遠出話に羨ましがり、子供のように不貞腐れてジタバタと足掻い
たナチ。タケも愉しそうに昨日の遠出の件を話し、すっかり話題はそれへとシフ
トしていった。
 
 
しかし、隣で話を聞いていたリュータは冷静にタケを見つめていた。

するとタケがナチに上機嫌に話を聞かせていたその一瞬リュータと目が合った。
タケはほんの少し嘲笑するような色をその頬に作って、冷たく目を逸らした。
 
  
  
 
 
リコとコースケは保育園の遊戯室中央に模造紙を広げて、二人でイラストを描
き始めていた。
休日のそこは園児の賑やかな声も響かないため静かでなんだか寂しげなそれ。

嬉しそうに紙の上を走らせるリコの鉛筆の音が小気味よく響くだけのそこで、
コースケは一瞬後ろを振り返り、タケがここから少し離れた壁側の場所にナチ
たちと座っている事を確認する。
 
 
そして、コースケは小さな小さな声でリコに訊いてみた。
  
 
 
 『最近、なんか変わったことない?』
 
 
 
リコは『えっ?』と聞き返す。

模造紙に覆いかぶさるように夢中になって描いていたその下を向いていた顔が
意味不明なその一言に不思議そうにコースケを真っ直ぐ捉える。

コースケは ”タケに気をつけろ ”と言いたい気持ちをぐっと堪え、適当な言
葉を探すもなんて言ったらいいのか分からずに、結局は『何かあったらすぐ言
うんだよ。』と、それだけ念を押した。
 
 
リコにはさっぱり意味が分からなかったが、そんなコースケの言葉は嬉しくな
いはずがなく、『ぅ、うん・・・。』とはにかんで頷いた。
 
  
しゃがみ込んで床の上で絵筆を走らせるリコを、タケは少し離れた所で黙って
見ていた。

夢中になって描いている凛とした横顔。
またあの調子の外れた歌を小さく口ずさんでいるのだろうか。薄くて形のよい
ピンク色の唇がわずかに動いている。

あのコースケがリコのすぐ隣で同じように鉛筆を握っていることに嫌悪感は募
るも、目の前で監視できるこの状況ならばまだマシに思えた。
 
 
すると、ふと視線を流した先にリコのシャツの背中の裾が少しめくれ上がって
いる事に気付いたタケ。
  
 
 
 『めくれてるじゃないか・・・。』
 
 
 
タケが慌てて駆け寄り、しゃがみ込んでリコのシャツの裾を軽く引っ張り身な
りを正す。

突然引っ張られた感覚にリコが少し驚いて、慌ててアタフタと自分でもそれを
直す。恥ずかしそうに眉根をひそめ、照れ隠しのように耳に髪の毛をかけて。
 
 
それを離れて見ていたナチが、隣に座るリュータにポツリと言った。
  
 
 
 『昔から、ああなの。

  タケは、いっつもああやってリコの世話焼いてた。
 
 
  ・・・兄妹、みたいにね・・・。』
 
 
 
リュータは『へぇ~。』と軽く相槌を打つ。

心の中では ”兄妹? ”というクエッションマークが浮かぶも、それはナチ
には言葉にしなかった。
  
 
 
 『そう言えば・・・
 
 
  リコの事を好きだって噂が立つ人は、

  なんか知らないけど、ケガしたりしてさ・・・
 
 
  ”サゲマン ”とか、一時期言われてたことあるんだよ、リコ!』
 
 
 
ナチが懐かしそうに思い出して、吹き出し笑う。『バっカバカしい~!』

一度思い出したら次々と関連する思い出が甦り、ナチは中学の頃を愛おしむ
ように遠い目をして何処ともなく見つめ、続ける。
  
 
 
 『それに・・・

  リコが、ちょっといいなー。とか思う人も、

  な~んか気が付けば疎遠になるっていうかぁ・・・
 
 
  うまくいかない、ってゆうかぁ・・・
 
 
  ・・・なんなんだろうね?

  男運ないのかなぁ~、リコって・・・。』
  
 
 
黙ってナチの話を聞いていたリュータの顔色が、少し変わった瞬間だった。
 
 
 

■第110話 本音

 
 
 
 『お前もさ~・・・

  姑息なマネしてないで、正々堂々ぶつかってみればぁ~?』
 
 
 
ナチがリコ達の方へ行き周りには自分達だけなのを確認して、リュータは
ぼそりとタケに聞こえよがしに呟いた。
  
 
 
 『・・・なんの話ですか?』
 
 
 
タケが笑って訊き返す。しかし、その目の奥は笑ってなどいない。

リュータのそれが、諸々見抜いて上から物を言っているように感じ、タケは
一気に込み上げるイライラをなんとか鎮めようとするも、それは顕著に表情
に出てしまっている。
 
 
リュータはまだ少し不自由な脚で壁に寄り掛かり立っていたが、ゆっくりと
壁に背中を付けてしゃがむと、足を投げ出して床に座った。

そしてポンポンと床を叩き、タケも隣に座るようジェスチャーで促す。
 
 
しかしタケはそれを無視し、頑なにその場に立ち壁に寄りかかったままだっ
た。まるで反抗期のようなその態度。表情も強張っているのを必死に冷笑に
変えようとしているその姿は、大人ぶろうと躍起になる小学生のようで。
 
 
その様子を見て、リュータが少し頬を緩め笑った。

しかしそれは馬鹿にした笑いではなく、少し気の毒なような切なさが込み上
げるような。何故かタケに対して腹は立たなかった。ただただもっと肩の力
を抜く方法を見付けてあげたいという一心だった。
 
 
リュータは確信を突いていいものかどうか悩み、少し口をつぐむ。

そして、チラリと一瞬タケに目を遣り出来るだけ穏やかに呟いた。
  
 
 
 『・・・好きなんだろ?』
 
 
 
『・・・。』 タケはそれが聴こえているくせに、返事をしない。
 
  
リュータは聴こえているはずだという前提の元、例え反応はなくとも続ける。
 
 
 
 『お前見てりゃー、分かるっつうの。

  リコの事しか見えてないし、常に目で追ってるし、気にしてるし。
 
 
  ・・・中学ん時だって、

  本当は、離れたくなかったんだろ・・・?』
 
 
 
その柔らかい声色に、タケはぐっと胸が息苦しくなり慌てて冷静になろうと
視線を泳がす。体の横で垂れた手の指は落ち着きなく爪をはじいて。
  
 
 
 『つうかさ。 

  なんで、ちゃんとぶつかんねぇーんだよ?
 
 
  仲良しこよしのお友達関係が壊れるのが怖いのかぁ?

  フラれんのが怖いのかぁ?
 
 
  今のまま、ただ近くにいられればいいって訳じゃねぇーんだろ?』
 
 
 
それはまるで兄のような言葉で、今まで年上の同性にこんな風に親身になっ
てもらったことがないタケは、どう反応したらいいのか分からず俯く。

しかし、ほんの少しだけ気を許したようにタケは静かに静かに、ゆっくり
リュータの隣の床にしゃがみ込んだ。
 
 
リュータは横目でそんなタケを見るも、答えを急かしたりはしない。

ただ黙ってリコ達を見つめながらタケの口から出る言葉を待つも、聞こえた
のは苦しげな溜息だけだった。
 
 
やや暫く、沈黙が続く。

しかしその沈黙は嫌なそれではなかった。タケの心の氷がじんわり溶けるの
をひたすら待つような、のんびりした時間だった。
 
 
すると、『本当の僕を知ったら、離れてくに決まってる・・・。』

タケのそれは、まるで涙を堪えるような小さな小さな呟きだった。
  
 
 
 『僕は・・・

  親に愛されて育ってないから、

  どうやって人を大切にすればいいのか、分からない・・・
 
 
  上辺だけでもニコニコして、いい奴のフリ続けてなきゃ

  みんな・・・
 
  あっという間に、僕の傍から居なくなるに決まってる・・・。』
 
 
 
そんなタケは、まるでいじける子供のように小さく見えた。

床にしゃがみ込むその身体は膝を抱えて顔を突っ伏して、覗いた耳は真っ赤
に染まり痛々しいほどで。
 
 
リュータは、そんなタケの心許なく縮まる肩をポンと叩く。
  
 
 
 『まずは、自分の足で一歩前に出るとっから始めれば~?』
 
 
 
タケが顔を上げて、はじめて真っ直ぐリュータを見た。
  
 
 
 『早く仕事見つけて、自活はじめて、ちゃんと自分の足で立って。

  自分に自信もたないと・・・
 
 
  それからじゃないと、お前の卑屈な感じは抜けきんねえんじゃねぇ?
 
 
  ・・・てゆうか。

  別に、上辺だけのいい奴なんかじゃないと思うけど。
 
 
  ・・・その一番の証拠が、

  アイツらがお前の事を親友だと思ってるって事だろ・・・。』
 
 
 
ぎゅっと口を真一文字につぐんで、タケは膝にうずめていた顔を少しだけ上げ
た。眇めた目だけ出して、じっと真っ直ぐ先を睨んでいる。
 
 
そして、リュータに宣言するように低い声で言い放った。
  
  
 
 『リコを・・・

  ・・・リコを一番に大切にしようとしない、アイツだけは・・・
 
 
  ・・・アイツにだけは・・・ ゼッタイに渡したくない・・・。』
  
  
 
タケが睨むその先には、リコと笑い合うコースケがいた。
 
 
 

■第111話 不器用な奴

 
 
 
 『まぁ・・・

  お前の気持ちは、分からんくもないけどなぁ・・・。』
 
 
 
リュータは、タケが睨むその先のコースケに目を遣りながら溜息の様に呟く。
 
 
曖昧なコースケの態度がいつまでもリコを苦しめているのは、周りにいる人
間の方が辛いくらいだった。

最近のコースケの態度で、リコのことを少なからず気にしているのは分かる。
しかしマリ絡みで一歩進めずにいるそのもどかしさは、一番近くで見ている
リュータが最も歯がゆく感じる部分だった。
 
 
 
 『でもな、

  リコは、ちゃんとコースケに堂々と正面からぶつかってってんだぞ。』
 
 
 
その一言に、タケが驚いてガバっと顔を上げリュータを振り返った。
信じられないとばかりに目を見張り、せわしなく瞬きを繰り返す。 
 
 
 
 『あのリコが?、って感じだろぉ~?

  俺もすっげービックリしたんだけど・・・
 
 
  リコはちゃんと自分の気持ちに嘘つかずに頑張ったんだよ。

  そのこと誰にもナチにも言わずに、一人で抱え込んでさ・・・
 
 
  まぁ確かに、答えは ”No ”だったけど。

  それでもリコがコースケの傍にいたいって思ってんだったら、

  それを引き離す権利は俺らには無いだろ・・・
 
 
  あいつはさぁ・・・

  周りが思ってるよりも、ずっと、強いんだよなぁ・・・。』
 
 
 
リュータは目を細めて微笑みながら、コースケと笑い合うリコを見つめた。

嬉しそうにはにかむその笑顔を、なんとか本物の幸せなそれに出来ないか、
リュータの胸はざわざわと歯がゆく軋む。
 
 
 
 『アイツはそんな奴なんだから、

  真正面から戦わない人間を、一番嫌がるんじゃねぇ・・・?』
 
 
 
タケが苦い顔で俯いた。

今まで18年間信じてきた生き方を諭され、なにが正しいのか間違いなのかも
分からない。もうどうしていいか分からなくて、途方に暮れる迷子ような泣き
そうな顔をしていた。
 
  
 
 『なんで、アイツはリコを受け入れないんだよ・・・?
 
 
  リコのこと・・・ 

  ・・・別に、好きじゃない訳じゃないんだろ・・・?』
 
 
 
タケは込み上げるやり場のない想いに、喉がつかえて巧く呼吸が出来ない。
辛そうな苦しそうな顔で、震える声はか細くこぼれる。
  
 
 
 『いっその事、ふたりが付き合ってるんなら

  僕だって、それを壊そうなんて思わない・・・
 
 
  でも、アイツは思わせぶりな態度ばっかで、

  結局リコに ”No ”って言ったんだろ?
 
 
  なんでだよ・・・ 

  なんでリコにそんな態度とって平気でいるんだよ・・・。』
 
 
 
すると、リュータは可笑しそうにケラケラ笑いながらタケを見た。
笑っているくせにそれは諦めているような色合いが濃い、微妙なそれで。
 
  
 
 『お前と一緒なんだよ・・・
 
 
  コースケにはさ、 

  子供ん時から、もう長いこと想い続ける相手がいてさ・・・

  その人のこと守ろうと、自分のことなんかそっちのけで。
 
 
  お前よりもずっと状況は複雑で、

  望みなんか、全っ然薄いのに・・・
 
 
  頑固な奴ばっかだよ、ほんと・・・

  ・・・どいつもこいつも、不器用な奴ばっか・・・。』
 
  
 
タケは再び心許なく抱えた膝に顔をうずめた。

リコはそんな事情を知っての上で、それでも尚コースケを想い続けているの
だろう。何故こんなにもベクトルは違う方向を向いてしまうのか、何故想う
相手は同じように自分のことを見てはくれないのか、咄嗟に頭を抱えると大
きな大きな溜息がこぼれる。
 
 
その時。 
  
 
 
 
  ガラガラガラガラ・・・
 
 
 
 
突然、何かを引き摺る乾いた音がして、遊戯室にいたみんなが一斉にその音
がする方向を見眇める。
 
 
すると、
  
 
 
 『なんなのよ~、まったく・・・

  ・・・ケータイの充電切れるってどうゆう事ぉ~??』
 
 
 
 
一同、唖然・・・
 
  
  
 『リカコっ!!!』

 『リカコさんっ!!!』

 『お前っ・・・』

 『リカコさんだっ!!!』
 
  
  
そこには、大きなスーツケースを気怠そうに引き摺るリカコが立っていた。
 
  
 
 『なに?

  保育園に全員集合して、お遊戯会かなんかすんの??』
 
  
 
サングラスをはずして長い黒髪をかき上げ、ダルそうに言うその人は片脚に
重心をかけて立ち、顎をツンと上げて目を眇めた。
 
 
 
 『ってゆーか。

  ・・・アンタ達、”おかえり ”は??』
 
 
 

■第112話 リカコ帰国

 
 
 
 『リカコっ!!!』

 『リカコさんっ!!!』

 『お前っ・・・』

 『リカコさんだっ!!!』
 
 
 
コースケ・リコ・リュータ・ナチが同時にその名を呼んだ。
 
 
 
 『せ~の!で、一緒に言いなさいよ。』
 
 
 
数か月ぶりの再会だというのに、リカコは事前に帰国の連絡ひとつ寄越さず、
おまけにケータイは充電が切れた為になんとなくフラっとコースケの実家に
立ち寄ってみたという。
 
 
リカコは相変わらずクールで男前だった。

モデルのように細く長い脚はスキニーパンツにより更に美しく強調され、
以前よりバッチリメイクのその顔はつけまつ毛とぽってり厚いグロスの唇で
普通ならフェロモンが充ち充ちているはずなのに、そう感じないのは内面か
ら溢れる男っぽさが所以か。
 
 
一同が興奮するそんな空気の中、タケだけが事態が把握できずキョロキョロ
していた。自分だけが取り残され、しかし皆はいまだ赤い顔をして喜んだり
呆れたりで、タケのことなどすっかり忘れ盛り上がり続けている。
 
 
すると、リカコがスリッパの気怠く擦る足音を立てて真っ直ぐ近付いて来た。
 
 
 
 『どーも。 私、リカコ。』
 
 
 
握手の手を出す。

それは真っ白で細くてネイルが煌びやかで、タケは触れることに一瞬ためらう
も、リカコは有無を言わせずにむんずとその手をしっかり握ってブンブンと乱
暴に振って握手した。
 
 
 
 『タ、タケ・・・です。 

  ぁ、あの・・・ リコと、ナチの・・・ 中学の、同級・・・』
 
 
 『どっちかの元カレ?』
 
 
 
タケのシドロモドロな自己紹介を途中で遮り、リカコが口を挟んだ。

グングン距離を詰めて来るその勢いに気圧されるも、何故か不思議とそれは嫌
じゃない。裏表がないそのストレートな感じが、タケには逆に小気味よかった。
 
 
 
 『ちちちち違いますよっ!!』
 
 
 
取り敢えず、タケは目を白黒させ赤くなってリカコの発言を全否定する。

しかし、『ん~??』と尚もタケを下から横から覗き込むように表情を読み取
ろうとするリカコに、タケはタジタジで数歩後退りする。
 
 
そんな様子に、リュータがタケに申し訳なさそうに言った。

呆れたように目を眇め胸の前で腕を組んで、『リカコっ!!』と声を張り、
性急すぎるタケへの距離の詰め方を諭して。
 
 
 
 『コレ、大学の仲間のリカコ。

  海外に行ってたんだけど・・・
 
 
  っつうか。 お前、帰って来たの??』
 
 
 
すると、遊戯室の園児のイスを引き無理矢理お尻を押し込めて座って長く細い
脚を組み、リカコは怠そうに言った。
 
 
 
 『ちょっと一回戻っただけ。
 
 
  むこうの方がイイ男が多くて楽しいから、

  一週間くらいしたらまた行く。』
 
 
 
なんだか海外に行ったら、リカコのサバサバ具合がより増した気がする。
シレっと言い放つリカコを、ナチは嬉しくて堪らなそうにウルウルに潤む目で
見つめ、咄嗟に駆け寄って抱き付いた。
 
 
 
 『久しぶり~・・・

  ・・・リカコさん、会いたかったよぉ~・・・。』
 
 
 
ナチは母親に全身で愛情表現する幼子のように、リカコに強く抱き付いて離れ
ない。暫し、スリスリと擦り寄りリカコの高級そうな香水の香りを堪能すると、
照れくさそうに頬を緩めコソコソとリカコに耳打ちしたナチ。

それを報告するその顔は、嬉しそうに頬がほんのりさくら色に染まって。
 
 
 
 『ふぅ~ん・・・

  やーぁっと、まとまったかっ?! 良かったじゃん!!』
 
 
 
そう言ってナチの頭を撫でハグをしながら、リカコは横目でリュータを見て厭
らしくニヤつき言った。
 
 
 
 『リュータさぁ~ん!

  若くて可愛い子ゲットして、幸せ者ねぇ~?』
 
 
 
リカコにからかわれ、『うっせ!』と眉根をひそめ一蹴するリュータ。

改めて言われると照れくさくて仕方がなくて、リュータは不機嫌そうに舌打ち
を打った。そんなリュータを、リカコは嬉しそうに見つめる。
 
 
次に、リカコはチラっとリコに視線を流す。

しかしリコは笑顔で肩をすくめ、目を伏せて小さく小さく首を横に振った。
きっと状況は変わっていないだろうとは思いつつも、リコにも幸せになってほ
しいリカコは溜息のようにひとつ息を吐く。
 
 
 
 『コースケ・・・

  ・・・アンタは、相っ変わらずみたいね。』
 
 
 
チクっと嫌味を言ってみたが、コースケは『おぉ、元気だよ!』と満面の情け
ない笑みを返し、嫌味だという事に気付く気配は微塵もなかった。
  
 
  
 
 
せっかく数か月ぶりに全員が集まったので、皆でいつものファミレスに行って
お茶でもしようという話になった。

リコとコースケはイラスト描きの片付けをはじめ、リュータとナチは荷物を持
ってもうさっさと玄関先へと向かってしまった。
タケだけが一人、自分は部外者な気がして参加していいものかどうか悩んでい
た。すると、そんなタケの少し寂しげな背中に気付いたのはリカコだった。
 
 
 
 『タケ! 来ないなんて言わせないよっ!』
 
 
 
リカコは拒否権など与える隙もなくタケの腕を掴んでグングン引っ張る。
そのあまりに強引な、しかし温かいリカコの手の強さにタケは困り顔で眉尻を
下げ笑う。
 
 
 
 (もし僕に姉さんがいたとしたら・・・

  リカコさんみたいな、こんな感じなのかなぁ・・・。)
 
 
 
タケは心の中で呟き、小さく小さく照れくさそうに頬を緩めた。

すると、リカコは急にタケの耳元に顔を寄せコソコソと耳打ちする。
 
 
 
 『・・・で? どっち?』
 
 
 
言われている意味が分からずタケがハテナ顔をしてリカコを見返すと、
『リコか・・・。』と小声で囁き覗き込まれる。

意味が分かったタケがちょっと苦い顔を向け目を逸らすと、リカコは天を仰い
で大きな大きな溜息を付いた。
  
 
 
 『片想いばっかだねぇ~ ここの仲間って・・・。』
 
 
 
そんな仲間を愛おしくて仕方なさそうに、リカコは目を細め情けなく笑った。
 
 
 

■第113話 おかえりパーティー

 
 
 
 『ねぇ、やっぱ飲み行かな~い?』
 
 
 
急に気が変わったリカコが、ファミレスに向かう途中で言い出した。
 
 
先頭をコースケが歩き、その後ろをリコとナチ・タケ。松葉杖でノロノロ歩く
リュータを転ばそうとちょっかい掛けながら、リカコが突然立ち止まって満天
の星空を見上げ、その美しさに目を細めながら上機嫌に口角をニヤリと上げて。
 
 
しかしリコ達は高校を卒業はしたが、一応まだ未成年なので店で飲むのはマズ
いという話になり、みんなで買出しをしてコースケのところで部屋飲みをする
事になった。
 
 
 
 『ぁ、もしもしお母さん?

  今日リカコさんが帰国したから、みんなで・・・。』
 
 
 
踵を返してファミレスからコンビニへ方向転換しながら、リコは自宅に連絡を
入れる。ナチも同じように親に電話をするも、それを渋り中々了承しないナチ
の母親にリカコが電話を代わって ”優等生ボイス ”でいとも簡単に話をつけ
た。今夜はコースケの家で、泊まりでのリカコおかえりパーティになった。
 
 
みんなでする買出しは相も変わらずまとまりがなく、全員が全員飲みたい物も
食べたい物もバラバラで、コンビニ袋を一人2袋抱えるという有り得ない買出
し量になっていた。
 
 
6人でギューギュー詰めの、コースケの部屋。

でも、それがやたら楽しくて嬉しくて、みんなが笑顔だった。
 
  
 
コースケとリュータは同居生活をしている為しょっちゅう二人で飲んでいるけ
れど、久々の大人数での部屋飲みにテンションが上がっていた。

タケはリカコにすっかり気に入られやたらと可愛がられて、アルコールが入っ
たせいもあり、気が付くと ”リカコ先生のお悩み相談室 ”が始まっていた。

ナチは全くアルコールが受け付けない体質らしく、甘ったるいチューハイを少
し飲んだだけで真っ赤な顔になっている。リュータは心配そうにまるで保護者
のようにナチに気を配り、飲めないくせに飲もうとするナチの手から缶を奪っ
てお茶のペットボトルを渡す。ナチはそれに不満気に膨れながらも、わずかな
アルコールで普段の3割増で大きな声でよく喋るようになっていた。

リコは、意外とアルコールに強いらしくチューハイを何本飲んでも顔色ひとつ
変わらなかった。それを面白がり、リュータとリカコがどんどん飲ませるも、
平気な顔をしてペースを合わせて飲んでいるリコ。

コースケだけが困った顔を向け、そんなリコを心配そうに見ていた。
 
 
 
 
 
それは、飲み始めてから数時間立ち、深夜2時を過ぎた頃。

さすがに飲み過ぎて各々床にごろ寝したり、コースケのベットに横になったり
ソファーにもたれていたり。
深夜の部屋には、みんなの幸せそうな寝息が不規則に響いていた。
 
 
すると、さすがに飲み過ぎて酷く酔っ払ったリコがよろけながら起き上り、
ふらふらと心許無い足取りでコースケの部屋を出て行く。

階段の手摺りにしがみ付くようにしながら、踏面を一歩ずつ一歩ずつ下りる。
途中挫けたように踏面にちょこんと座り、暫し膝に顔を突っ伏して休憩した。
そうやって長い時間を掛け、リコの脚はふらつきながら真っ直ぐ目指す園の遊
戯室へと辿り着いた。
 
 
静かに遊戯室の扉を右にスライドして開け、月明かりだけが差し込む暗いそこ
へと脚を踏み入れる。年季が入りキレイに磨かれたオークの床を一歩ずつ進む
とそれに合わせてミシっと小さな小さな小気味よい音が響いた。

リコは酔って焦点が定まらない目で、壁一面のイラストの数々を眺める。
コースケ一人で頑張ったもの、リコとふたりで描いたもの、どれもこれも愛し
くて仕方なかった。
 
 
ヨロヨロと心許無い足取りで進み、そっと壁に寄り添ったリコ。

そこにはコースケが描いた ”腹黒顔の花さかじいさん ”のイラストがある。
それは怪我をしたリコを待つ間に、コースケが懸命にひとりで描いたものだ
った。
 
 
酔ってほんのり熱を帯びた細い指先で、そっと絵に触れる。
ひんやり冷たくて、気持ちがいい。
 
 
静かに目を閉じる。
そしてそっとおでこを付けて、愛おしくて仕方なさそうにリコは壁のイラスト
に寄り添っていた。

ほんの小さく笑い、そして口をつぐむ。

すると、震える心の奥底から抑え切れない感情が溢れ出した。
お酒が入っていたせいもあるのだろう。心が言葉となって、後から後からこぼ
れ落ちる。
 
 
 
 『・・・・好き・・。
  
 
  好き・・・ 好きぃ・・・・。
  
  
  コーチャン、先生・・・が・・・

  ・・・大好き・・・・・・・・・・
 
 
  ・・・く、苦しいなぁ・・・
 
 
  好き、って・・・

  苦し、い・・・なぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・。』
 
 
 
ぎゅっと閉じたままの瞳から、一筋の涙が流れ頬のカーブを伝って零れる。
 
 
 
その時、ふっと背中に温かさを感じた。
 
 
背後からリコの両肩に大きな手が添えられ、突然のそれにリコが驚いて振り
返ると、壁に背中をつけ寄り掛かったままその人と向き合う形になった。
 
 
 
  (・・・・・・・・・・・・・・誰?)
 
 
 
暗くて、よく見えない。
 
 
酔っ払っているリコが必死に目をこらすが、暗がりに視界がぼやけて輪郭しか
分からない。
 
 
 
その瞬間。
 
 
 
      。。。。。
 
  
  
 
リコのおでこに優しく優しく唇が押し当てられ、ぎゅっと抱き締められた。
  
  
 
その瞬間、リコはヨロヨロとその場に崩れ落ちた。

遠のく意識の中で、リコはその見慣れた輪郭を確かに感じていた。
 
 
 

■第114話 おでこ

 
 
 
 『リコ?! ねぇ、リコ大丈夫っ?!』
 
  
 
まだ朦朧とする意識の奥、遠くの遠くで名前を呼ぶ声がする。
それはいつも聞いている、少し甲高くてよく通る・・・そう、あれはナチの声。
 
 
 
  (ん・・・? ナチ・・・・・・・・・・?)
 
 
 
頭がズキズキ痛くて、胸や喉元や胃まで全身で気持ち悪い。
目を開けなくても天井がグルグル回っている感覚がある。
 
 
怠くてしんどそうにうっすら目を開けると、ナチが心配そうにリコを覗き込んで
いる。目に飛び込んで来たその顔は青ざめていて、今はほんの少しの振動も感じ
たくないほど気分が悪いリコをお構いなしにグラグラと揺さぶって。
 
 
まだ全く酔いが醒めていない頭で、リコが呟く。

酔って体調が絶不調ということと、目の前にいるのがそれを心配するナチだと
いうこと以外、リコには何がなんだかサッパリ分からなかった。
 
 
  
 『私・・・ あれ? 

  ・・・ここ、って・・・・・・・・・・・・?』
 
  
 
リコは泥酔して、一人で園の遊戯室へ行ったはいいが気分が悪くなり倒れて、
コースケのベットに横になっていたのだった。

おでこには冷やしたタオルがのっている。何度も冷たいそれに換えてくれたの
だろう。いまだにそれは心地良い冷たさだった。
ゆっくり慎重に視線を流すと、みんなが心配そうにリコを見ていた。
 
 
リコは慌てて体を起こそうと体の横に手をつき、一気に上半身を上げようとして
『ぅう・・・ 気持ち、悪い・・・。』 口元を押さえて、切れ切れに俯く。

ナチがリコの肩を抱いて付き添い、覚束ない足取りでよろめきながらトイレへ向
かった。
 
 
気持ち悪くて気分が悪くて一向に回らない頭で、それでも必死にリコはあの暗闇
での出来事を思い返していた。
あれは確かに現実だったはず、絶対に夢なんかじゃない。
 
 
リコは暫し考え込み、しかしやはりどうしても気になって恐る恐るナチに訊ねる。
  
 
 
 『ねぇ、ナチ・・・
 
 
  ・・・私を、 

  部屋に・・・ 運んでくれたのって・・・?』
 
 
 『コースケさんとタケがふたりで、大慌てで担ぎ込んだんだよ!!』
 
 
  
ナチはリコの背中を優しいリズムでさすりながら言った。

しかしその顔は ”そんな心配しなくていいから ”とでも言いたそうなそれ。
きっとナチは、リコが自分を運び込んでくれた恩義を感じてそれを訊いたのだ
とでも思っているのだろう。
 
  
『そ、そっか・・・。』 リコの頭の中は、”あの事 ”でいっぱいだった。
月明りの逆光で浮かび上がった、あの輪郭。

あの時の酷く酔っぱらっていて立っている事でさえ覚束ないリコには、見慣れた
輪郭だとしか思えなかった。より深く思い出そうとすればする程、それを意地悪
く遮るかのように、頭の芯がズキズキと痛みを発して邪魔をする。
 
  
  
 『コーチャン先生と、タケ・・・。』
  
 
 
  
 
夜があけ空が白んで明るくなってきた頃、再び、みんなは眠りについた。

リコはコースケのベットを借り、その隣にナチが一緒に横になった。
リュータは床にゴロ寝して、リカコはソファにもたれ掛かって寝ている。

タケは床に直座りし壁にもたれかかって目を閉じていたが、延々考え事をして
いて実際は眠ってはいなかった。目をつぶったまま、更にぎゅっと力を込めて
まぶたを閉じる。そして頭をブンブンと振ってうな垂れ、細々と溜息を付いた。
 
 
コースケはなんだか眠れなくなってしまい、ひとり、外の空気を吸いに部屋を
出ていた。

園のグラウンドのタイヤ型の跳び箱に腰掛け、自宅の冷蔵庫から持ってきた缶
コーヒーに口を付けると、コースケはひとり深く深く溜息を付く。
朝靄けむる早朝の街。目の前の車道には殆ど車も走っていない。それをただぼ
んやりと見ていた。空虚な目でただただ、ぼんやりと。
 
 
頭の中を、色々なことがグルグル巡る。
 
 
ギュっと目をつぶって、両手で頭を抱えた。
そうかと思えば、頭を左右に振り何かを振り払おうとでもするかのよう。
 
 
そしてまた、コースケは大きな大きな溜息を付いた・・・
  
  
  
  
 
リコは自宅に帰ると、真っ直ぐに浴室に向かいシャワーに入って自室にこもった。

きっとあれだけお酒を飲んだのだから、随分お酒の匂いは残っているはずだ。
母ハルコに知れたら、さすがに相当叱られるに違いない。
 
 
まだ酔いが残って少し気持ち悪いリコは、すぐさまパジャマに着替えるとベット
に潜り込んだ。

頭まで布団をかぶり、その息苦しい狭く暗い空間で浅い呼吸を繰り返す。

結局はまた、あの出来事を思い返していた。
考えないようにしようとしても、考えてしまう。
しっかり思い出そうとしてみても、頭がズキズキして朧げにしか思い出せない。
 
 
微かに震える指先で、そっと、おでこに触れた。
ほんの少しだけ感じたあたたかい唇の感触。
  
   
 
 (コーチャン先生・・・か、 タケ・・・。)
 
  
  
リコの頬はじりじりと熱くなり、また頭がズキっと痛んだ。
 
  
リコの、はじめてのキスだった・・・
 
 
 

■第115話 タケの旅立ち

 
 
 
 『採用になった! 

  今、採用通知が来た・・・ 採用されたよっ!!』
 
 
タケがリビングに凄い勢いで飛び込んで来た。
 
 
興奮気味なその手には、ギュっとひしゃげた封書が握り締められている。
頬は高揚し目は潤んで、その口元は ”信じられない ”とばかりにワナワナと
震えて。

ふと我に返ると、リコ達に一番に見せたかった採用通知があまりに強く握り締
めすぎシワクチャになっていることに気付き、慌てて広げてシワを伸ばす。

そのタケの勢いに驚きたじろぎながら、リコと母ハルコは同時に立ち上がり、
タケに抱き付き三人で喜び合った。
 
 
 
 『・・・で? ど、どこの会社なの??』
 
 
 
ハルコが詳細を急かす。

嬉しくて嬉しくてその顔は真っ赤に染まり、涙の雫が下まつ毛にギリギリの所
で留まっている。目を見張っているけれど、一度でも瞬きしたらその雫はすぐ
にでも頬を伝うだろう。
 
 
タケはそんなハルコをじっと見つめると、小さく切なげに目を伏せ呟いた。
 
 
 
 『・・・隣町の、自動車工場なんだ。』
 
 
 
”隣町 ”と聞き、ハルコは胸の前でパチンと手の平を打ち目を細める。

『それならウチから電車ですぐじゃない! 通いやすいわね!!』と大喜びし
もうその頭の中ではかなり気が早く、仕事へ向かうタケへ作って持たせる弁当
のことを考え、今日にでも大き目の弁当箱を買いに行こうと胸は高鳴っていた。
 
 
すると、タケが少し寂しげに笑って首を横に振った。
 
 
 
 『寮がある会社を選んだんだ・・・

  ・・・寮に入るよ、僕・・・。』
 
 
 
その一言にリコも母ハルコも言葉を失う。 『・・・ぇ?』

この瞬間までは飛び上がりそうに喜んで幸せそうに上がっていた口角が、一瞬
にして真顔に戻りそして静かに哀しそうに沈む。
タケは、寮に入るなんてこと一言も言っていなかったのだ。
 
 
 
 『だって、いつまでも迷惑かけらんないよ・・・
 
 
  僕もちゃんと自立しなきゃ。

  一人でやってくのが自立の第一歩だろ・・・?』
 
 
 
ハルコはあからさまに落胆し、訴えるような目でタケを見つめる。

タケのことを、本当に息子のように大切に思っていた。あまり言葉にはしない
ようにしていたが、本当はタケが心配で心配で仕方がなかった。
仕事を決めたところですぐ一人暮らしなんて出来る訳はないから、まだ暫くの
間は下宿を続けてくれるだろうと信じて疑っていなかったのだ。
 
 
寂しがって落ち込むハルコは肉付きのよい背中をしょんぼりと丸め、まるで子
供のように俯く。そんな母の姿は今まで見たことがなくて、リコは慌ててその
背中を優しく優しくさすりながら、慰めるようにハルコを説く。
 
 
 
 『隣町でしょ? 

  電車ですぐだもん・・・ 寂しくなんかないよ!
 
 
  タケも、お休みの日はウチに帰って来てくれるよね??』
 
 
 
なるべく明るく、落ち込んでなどいない声色で言うリコの言葉に、タケは満面
の笑みで胸を張って答える。
 
 
 
 『来るなって言われても押しかけるよ。』
 
 
 
そう言ってハルコの肩を優しく撫でたタケは、本当は泣き出してしまいそうな
顔を隠し横を向いて必死にそれを見られないようにしていた。
 
 
 
 
  
夕暮れ。タケはリコを散歩に誘った。

夕飯前の橙色の街は優しい夕餉のにおいが家々から流れ、なんだか穏やかな気
持ちになり自然と頬が緩む。
二人はのんびり歩きながら、いつものお寺の境内へ向かっていた。
 
 
たった数週間の同居だったけれど、もっともっと長い時間一緒にいたように感
じる。ほんの少しの間だが、いい思い出が出来たことをリコは嬉しく思ってい
た。そして、これからだっていい関係を築いていけると確信していた。
 
 
やって来たお寺の境内には人影もなく、タケとリコの二人しかいない。
陽が暮れかけ、空気がピンと張り詰めたような冷たい風が頬を過ぎてゆく。
 
 
すると暫く口を閉ざしていたタケが、静かに静かに話し始めた。
 
  
 
 『・・・僕。

  子供の頃、母さんの色んな事情のお陰で何度も転校したんだ・・・。』
 
 
 
タケが見晴らしのよい丘の上からの街並をまっすぐ眺めながら、呟く。
 
 
 
 『もう、転校ばっかでさ・・・
 
 
  中々友達も出来なくて、出来てもすぐにサヨナラだし

  学校なんか大っ嫌いだった・・・。』
 
 
 
リコは黙って聞いていた。

タケの声色がどこかかすかに震えている気がしたが、視線は真っ直ぐ前の街並に
向けたままで。
 
 
 
 『小学5年の時に転入したある学校で、転校早々に運動会があったんだ。

  友達は一人もいないし、なんの練習にも参加できてないのにさ・・・
 
 
  それでなくても、そんな運動会いきたくないっていうのに
  当日、母さんすら来てくれなくて・・・
 
 
  ・・・ひとりぼっちで、弁当も無い最悪な状況で・・・。』
 
 
 
『・・・前に言ってた話だよね?』 リコがそっとタケを見つめる。

何度聞いても胸が痛む。その時の幼いタケを思うと胸が詰まる思いがして苦しげ
にリコはそっと瞬きを繰り返した。
 
 
コクリと頷き、タケが小さく微笑む。
 
 
 
 『そう。 この話には続きがあるんだ・・・。』
 
  
 
タケがリコを真っ直ぐ見つめた・・・
 
 
 

■第116話 タケの告白

 
 
 
 『僕の名前、

  ”岳 ”って書くから ”タケ ”って呼ばれてるけど、

  本当は ”マナブ ”だってこと、よく忘れられるんだよなぁ~。』
 
 
 
タケが可笑しそうに肩をすくめて小さく笑う。
まっすぐリコを見つめる目はなんだか哀しいくらいに穏やかなそれ。
 
 
 
 『その運動会の当時は、今と苗字も違った・・・
 
 
  それにたった3ヶ月しかあの学校にはいなかったし

  学校に馴染めずに休みがちだったから・・・
 
 
  ・・・覚えてないのは、当然なんだけど・・・。』
 
 
 
リコを見て寂しそうに微笑む、タケ。

その笑顔に、なんだか急にリコの胸はザワザワと騒ぎ出した。
 
 
 
 『あの時、

  お母さんに ”友達がお弁当ないから ”って

  言ってくれたのは・・・ リコなんだよ・・・。』
 
 
 
そう言って泣き出しそうに顔を歪めたタケを、リコは呆然と見つめていた。
言葉を失くし、一歩も動けずにその場に立ち尽くす。
 
 
当時の薄れた思い出を、必死に頭の奥の奥から呼び起こす。
頭の中で、遠く幼い記憶が猛スピードで駆け巡る。
 
 
 
  5年生・・・

  同じクラスにやってきた転校生・・・

  小さくて細くてまるで低学年くらいにしか見えない黒いランドセル・・・ 

  少し汚れた半ズボン・・・

  腕の擦り傷・・・

  寂しそうな諦めたような仄暗い瞳・・・

  運動会・・・

  マナブという名前・・・
 
 
 
  マナブ・・・

  マナブ・・・・・・?
 
 
 
 『私の・・・ 斜め、後ろの・・・ 席・・・・・・?』
 
 
 
朧げに浮かんできた記憶の断片を繋ぎ合わせ眉根をひそめるリコに、タケが言う。
 
 
 
 『そう。

  僕はリコの斜め後ろに座ってた・・・
 
 
  リコは ”おはよう ”って笑ってくれた・・・
 
 
  僕に、

  他のクラスメイトと同じように接してくれた、

  たった一人の・・・ 唯一の人だった・・・・・・。』
 
 
 
リコは目を見張ったまま動けないでいた。

あの時の、小さくて常になにかに怯えているような少年が、今目の前にいるタケ
だったなんて想像だにしていなかったし、何より今の今まであの少年のことなど
思い出しもしなかったのだから。
 
 
 
 『中学で一緒になった時、僕はすぐリコだって分かったんだ・・・
 
 
  でも当時と苗字も違うし、背も伸びたし、声だって低くなって

  リコは、全然僕だってことに気付かなくって。
 
 
  それでも良かった・・・

  ナチとも仲良くなれて、いっつも一緒に笑っていられて、

  ほんとに、嬉しかったんだ・・・
  
 
  それに、また ”お母さん ”に会えた・・・

  僕を ”勇敢な子 ”だと褒めてくれた、あのお母さんに・・・。』
 
 
 
タケの瞳にみるみるうちに涙が込み上げ揺れている。

あの日の少年は自分だと気付いてほしくて、しかしあの情けない姿を思い出され
たくないという思いもあって、随分歯がゆい時間を過ごして来た。
 
 
最後の最後に、きちんとリコに全てを伝えようと心に決めていた。

全て、を・・・
  
 
 
 
涙で揺らぐ目で真っ直ぐリコを見つめて、タケはひとつ大きく息をつく。
緊張で喉の奥がつかえて苦しくて、巧く言葉に出来るか不安が込み上げる。

しかし、覚悟を決めるとタケはゆっくりゆっくり話し始めた。
 
  
 
 『僕は・・・

  リコに、謝らなきゃいけない事があるんだ・・・
 
 
  1年くらい前、

  どうしてもどうしてもリコに逢いたくなって、

  夜に家を抜け出して、リコの家の前まで来たことがあるんだ・・・
 
 
  ただ家の前でリコの部屋の灯りを眺めて帰ろうと思ってた。

  離れててもちゃんといつもリコがここにいるって、確かめられればって。
 
 
  だけど、リコが急に玄関飛び出して出て来て、

  僕、凄いビックリして・・・
 
 
  ・・・そうしたら、どうしてもリコに声を掛けたくなって

  リコの顔・・・ 笑う顔が見たくなっちゃって・・・

  リコの声が・・・ 聞きたくなっちゃって・・・
 
 
  ただ・・・ ただ、肩を叩こうと・・・

  ・・・近寄った、 つもり、が・・・・・・・・・・
 
 
  ・・・リコを、 リコを、驚かせてしまった・・・・・・・・・・・。』
 
  
 
リコは思ってもいなかった告白に、何も言えずに立ち尽くす。

驚きすぎて、呼吸さえ忘れて。
ただただ目を見張り、体の横で垂れた手はまるで人形のように力無いそれで。
 
 

 『ケガを・・・させるつもり、 なんて・・・

  ほんとに・・・ ほんとに、無かったんだ・・・
 
 
  ただ、リコに逢いたかっただけだったんだ・・・

  一目だけ、でも・・・

  ・・・たった一瞬、でも・・・
 
 
  ただ・・・ リコに、

  リコに・・・ 逢いたかった・・・
 
 
  リコの顔見れたら・・・ また、ひとりでも頑張れると思ったから・・・
 
 
  ごめん・・・ 本当に、ごめん・・・・・・・・・・・・・・・・。』
 
  
 
タケの頬に、幾筋もの涙が伝い落ちた。
 
 
 

■第117話 タケの真実

 
 
 
 『あの夜の、あれは・・・ 僕だったんだ・・・。』
 
  
 
あの夜の恐怖がフラッシュバックし、リコは息をのんで体を固くする。

暗闇で突然近寄って来た男のシルエットと、乱暴に掴まれ揺さぶられた腕の感触
を思い出し、後から後から津波のように押し寄せる恐怖心で、ガタガタ震える。
あの夜痛めた左手をかばうように抱きすくめ、まるで必死に隠れようとでもして
いるみたいに細い体をより細く小さく縮め、声も出せずにリコは目を見張った。
 
 
そんなショック状態のリコを見つめ、タケはゆっくりと砂利の道路に膝をつき、
崩れるようにしゃがみ込んだ。 
 
 
 
 『ただ・・・ リコに逢いたかった・・・

  一目だけも、ただ遠くから見るだけでも良かった・・・
 
 
  リコに・・・ 逢いたかったんだ・・・
 
 
  あの頃からずっと・・・

  リコが、 リコのことが・・・ 好きなんだ・・・
 
 
  ・・・今でも、リコが・・・ 大好きだ・・・・・・・・・・。』
 
 
 
呆然と立ち竦みあの夜の恐怖に震えながら、リコは足元に崩れ落ちたタケを
見つめる。

そんなリコの頬にも、次々と涙の雫が伝っていた。
 
 
 
 
  あの夜、タケが先に声を掛けてくれていたら・・・

  名乗ってくれていたら・・・

  あんな暗闇でさえなければ・・・
 
 
 
 
リコはこんなに怯えずに済んだし、タケはこんなに罪悪感に苛まれることは
なかったというのに。
 
 
タケが今までたった一人で抱え続けていた痛みを思い、リコは胸が張り裂け
そうでなんだか息苦しい。

そっとタケを見つめると、リコも膝をついてその隣にしゃがみ込んだ。
 
 
 
 『ごめんね・・・ タケ。

  ほんと、ごめんね・・・
 
 
  ・・・私・・・ 全然、気が付けなくて・・・。』
 
 
 
リコがタケの顔を覗き込み、細く白い指で泣きじゃくるタケの頬の涙を拭う。
 
 
好きな人を想い続ける気持ちは、リコにも痛いほど分かる。

ただその姿を見るだけで嬉しくて、声を聞けるだけで切なくて、届かない想い
に胸を焦がし、眠れない夜を幾夜も過ごすのだ。
  
 
 
 『タケ・・・ ありがとう。』
 
 
 
リコが涙でぐしゃぐしゃに頬をぬらしながら笑顔で言う。
タケは真っ直ぐリコを見つめる。

このまま見つめていたい。
目を離したくない。
本音を言えば壊してしまうほどに強く抱きしめたいし、誰にも渡したくない。
 
 
タケは答えは分かっているけれど、それでもリコへと訴えるように呟いた。
 
 
 
 『僕なら・・・ リコのことだけを見てるよ・・・
 
 
  ・・・他の人のことなんて考えたりしない
 
 
  リコだけを・・・ ずっと、ずっと・・・

  死ぬまで・・・ 死んでも、
  
 
  ・・・ゼッタイに幸せにするって、誓うよ・・・?』
 
 
 
すると、そのストレートな言葉にリコが目を伏せて寂しげに微笑む。
ひとつ瞬きした瞬間、リコの瞳から大粒の涙がまた伝い落ちた。
  
 
 
 『それでも・・・
 
 
  ・・・やっぱり、

  アイツが・・・ 好き、なんだよな・・・?』
 
 
 
そのタケの言葉に、リコが笑って頷いた。

それは迷いなどひとつもない凛とした笑顔であまりに美しくて、タケは思わず
目を逸らしてしまった。
リコの頬は、微笑みながらも涙はとどまることを知らない。
 
  
  
 『今まで通り、仲間でいられるよな?』
 
 
 
タケの柔らかい声色に、『もちろんよ!』 リコは眩しいほど微笑んで返す。
 
 
二人はかたい握手を交わした。

その瞬間、もう卑屈で弱いタケの面影は無かった。
 
  
  
 
 
それから5日後、タケは会社の寮に入るため荷造りをしていた。

実際、身ひとつで家を飛び出していたので、まとめる程の荷物も無い。
小さなカバンにほんの少しの荷物を詰めるタケの背中を、母ハルコが寂しそう
に物言いたげに見つめている。
 
 
支度が整うと、タケはおもむろにハルコの前に正座をして姿勢を正した。
 
 
 
 『短い間でしたが、本当にお世話になりました・・・
 
 
  本当に本当に、ありがとうございました・・・

  ・・・この恩は、一生・・・ なにがあっても、忘れません・・・。』
 
 
 
深々と頭を下げるタケ。

カーペットに額を付けて、中々顔を上げようとはしない。
どれだけ感謝の気持ちを言葉にしたって頭を下げたって、足りない気がした。
 
 
すると、ハルコがタケの傍にひざまずき肩に手を当て頭を上げさせる。
そして、しずしずと上半身を起こしたタケをぎゅっと抱き締めた。
 
 
 
 『いつでも帰ってらっしゃい・・・

  ・・・いつも、ここで待ってるからね・・・。』
 
 
 
ハルコの優しい香りがタケを包み込む。
大好きな大好きなハルコ。

この人の子供に生まれたかった。この人に叱られて褒められて微笑みかけられ
て成長出来たらどんなに幸福だろうと、何度夢見たことだろう。
このぬくもりから離れたくない。ずっと包まれていたい。

しかし、進まなければ。自分の足で、一歩踏み出さなければ。
 
 
ハルコはタケから体を離すと、その手にそっとおにぎりの包みを渡した。
そして、タケの手をしっかり握りながら強くて優しいお日様みたいな笑顔でハ
ルコは言った。
 
 
 
 『あなたは、やっぱり勇敢で強い子になったわね・・・。』
 
 
 
タケが言葉を失くし目を見張ってこぼれんばかりの涙をいっぱいその瞳に溜め、
ハルコを見つめる。

急激に心臓が早鐘を打ち、まるで水中で溺れているように息が出来ない。
 
 
 
 『あの時から、タケ君は全然変わってないわよ・・・。』
 
 
 
ハルコは最初からタケに気付いていたのだった。
 
 
中学当時、タケがはじめてリコの家に遊びに行った時、『こんにちは』 と言
い掛けてやめ、『はじめまして。』 と挨拶した際、ハルコはニコっと微笑み
『こんにちは。』 と返していた。ハルコが『はじめまして』と返さなかった
のは、初顔合わせではない事をちゃんと気付いていたから・・・
 
 
タケが下を向き、声を殺して泣く。

たくましくなったはずの大きな肩がブルブルと震える。
正座する膝に、涙の雫が幾粒も幾粒も夕立のようにこぼれ落ちた。
 
  
 
 『いっぱい、いっぱい・・・

  ・・・あり、がとう・・・ ご、ざい・・・ました・・・。』
 
 
 
最後のそれはあまりに切れ切れで拙くて、塩辛い味がした。 
 
 
 
 
 
 
夕暮れの坂道を下ってゆくタケに、リコはいつまでも手を振り見送る。

すると、タケが足を止め振り返り遠くから真っ直ぐリコを見つめた。
一度俯いて足元を見眇めると、突然ブンブンと頭を振り邪念を追い払う。
 
 
タケは大きく大きく胸に息を吸い、ゆっくり吐いた。

そして、リコに向かって大きく叫んだ。
 
  
 
 『あれは、アイツだよ・・・ 僕じゃない。』
  
 
 

■第118話 あの夜のキス

 
 
 
みんなでコースケの家で飲んだ夜。
 
 
酔ったリコがフラフラと覚束ない足取りで部屋を出て行った事に、最初に気付
いたのはタケだった。

それはあまりに危なっかしくて心配でタケが起き上がろうとしたが、それより
先にコースケが飛び起きすぐ後を追いかけていった。
 
 
 
そして、園の遊戯室の壁にもたれ掛かってリコは泣いた。
 
 
酔いも回っていた為、リコは自分が思うよりもずっと切ない泣き声も『好き』
と呟く悲痛な叫びも、静かなそこに木霊し響いていたのだった。
 
 
すると咄嗟にコースケがリコの元へ駆けつけ寄り添った。
きっと、頭で考えるより先に真っ直ぐに心が動いたのだろう。
 
 
リコとコースケを追って遊戯室の入り口に佇むタケの目に映ったのは、リコに
キスをし、愛おしくて仕方なさそうに抱き締めるコースケの姿だった。
 
 
それは決して酔った勢いや軽い気持ちなどではなく、抑えて抑えて、それでも
尚抑えきれない想いが溢れてしまったかのような姿だった。

リコを抱き締めるその姿は、まるで雛を包み込む親鳥のように愛情が溢れてい
て抱き締める事によってなんだか自分自身を傷つけているようにも見えた。
 
 
 
その瞬間、タケはハッキリと思い知らされた。
  
 
  
 
  コースケも、リコを心から想っているという事を・・・
 
  
  
 
しかし、色んな事情が絡んでリコの全てを受け止める事が出来ずにもがいて
いるのだと。きっと生真面目なコースケの事だから、リコの事を考えすぎる
余り気持ちを伝える事を躊躇い想いに蓋をして必死に抑えているのだろう。
 
 
それは、タケの気持ちが固まった瞬間でもあった。
 
 
 
  ”リコにきちんと自分の気持ちを伝えよう ”と・・・
 
 
 
いつだって気持ちを伝えられる状況の自分と、リコと気持ちが通じているのに
本当の気持ちを抑え続けなければいけないコースケ。

その時、大嫌いだったはずのコースケをどこか身近に感じたタケ。
 
 
  
  『あれは、アイツだよ・・・ 僕じゃない。』
 
 
  
そうリコに伝えたのは、今までしてきた数々の過ちの侘びのつもりだった。
この一言で全てが帳消しになるなんて思ってなどいないけれど、これがリコが
一番知りたい事なはずだから。
 
 
 
しかし、タケは最後の最後にリコにひとつだけ隠し事をした。
 
 
あの夜、タケの耳にそれは小さく小さく聴こえていた。
苦しそうにうめくように喉の奥から漏れた、コースケの震えるその一言を。
 
 
 
 
     『好きだよ・・・。』
 
 
 
 
 
 
しかし、それは、それだけはリコに言えなかった。
最後の最後で、嫉妬心がその一言だけは伝える事をギリギリの所で拒んだ。  
 
 
 
  (本当にアイツがリコの運命の相手なら、

   僕から伝える必要なんてないはずだ・・・。)
  
 
 
タケが大きく手を振って遠ざかってゆくのを、リコはいつまでも見つめていた。

坂道の桜が、突然吹いた大きな風にそよいでパッと雪のように舞い上がる。
  
 
 
 
全てが新しく動き出す、春がやって来た・・・。
 
 
 
 
                          ≪第三章へつづく≫
 
 
 

〖第二章〗眠れぬ夜は君のせい

〖第二章〗眠れぬ夜は君のせい

時は経って1年後。 リコもナチも高校3年生となり受験をむかえていた。 そんな時に急に入ったリュータ交通事故の報せ。それがナチとリュータの恋を急加速させてゆく。 リコもコースケや旧友との再会により、歯車が少しずつ動き出してゆく。好転したかのように見えて、気付かぬうちに狂ってゆく運命の歯車。 届かぬ想い、胸に秘めた気持ち。溢れてしまいそうな心の内を行動に移した時、それが思わぬ結果へと繋がって・・・。 【眠れぬ夜は君のせい】の続編 第二章。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ■第75話 1年後
  2. ■第76話 固い意志の瞳
  3. ■第77話 事故
  4. ■第78話 髪の毛
  5. ■第79話 病室
  6. ■第80話 アカリとの再会
  7. ■第81話 ナチとアカリの
  8. ■第82話 コースケの考え事
  9. ■第83話 コースケとの待合せ
  10. ■第84話 あれから
  11. ■第85話 2人の新たなる一歩
  12. ■第86話 2週間前のこと
  13. ■第87話 退院
  14. ■第88話 秘密の話
  15. ■第89話 瞬きもせずに
  16. ■第90話 スタート
  17. ■第91話 宣言
  18. ■第92話 幸せの行方
  19. ■第93話 懐かしい顔
  20. ■第94話 タケ
  21. ■第95話 リコとナチとタケ
  22. ■第96話 リュータと合流
  23. ■第97話 タケの気持ち?
  24. ■第98話 全員集合
  25. ■第99話 散歩
  26. ■第100話 棘
  27. ■第101話 留守の部屋
  28. ■第102話 タケの想い
  29. ■第103話 疑惑
  30. ■第104話 ふたりきりのピクニック
  31. ■第105話 お弁当
  32. ■第106話 幼少時代
  33. ■第107話 対峙
  34. ■第108話 ビンゴ
  35. ■第109話 兄妹
  36. ■第110話 本音
  37. ■第111話 不器用な奴
  38. ■第112話 リカコ帰国
  39. ■第113話 おかえりパーティー
  40. ■第114話 おでこ
  41. ■第115話 タケの旅立ち
  42. ■第116話 タケの告白
  43. ■第117話 タケの真実
  44. ■第118話 あの夜のキス