119番

 110番と119番、できればかけずに過ごしたい電話番号だ。しかし私はこれまでに三度、119番通報をしたことがある。
 まず一回目。ある土曜の朝九時ごろ。仕事が休みなので朝寝をきめこんでいたら、いきなりドアホンが鳴った。当時の住まいはワンルームマンションだったが、オートロックで、ドアホンが一度鳴ればエントランスからの呼び出し、二度鳴れば自室のドア前で、この時は二度鳴った。
 平素から隣室はおろか、同じマンションの住人との行き来はないので、爆睡していた事にしてやり過ごそうかとも思った。とはいえ、すぐそこに人が来ているのも事実なので、とりあえずドアホンの受話器をとってみる。すると若い女性の声が聞こえた。
「すみません、隣の部屋の者ですが、救急車を呼んで下さい」
 一気に目が覚めた。
「どうしたんですか?」と尋ねると、「熱が出て動けないんです」という答え。でもあなた、うちの部屋まで来てるじゃないですか、と突っ込むのも非情なので、「ちょっと待っていて下さい」と受話器を置き、大急ぎで寝間着から少しましな服に着替えると、ドアを開けた。
 しかし外には誰もいない。もしやと思い、隣室のドアをノックすると「はい」と先ほどの女性の声。開けてみると大学生ぐらいの女の子が蹲っていた。色白の頬が真っ赤に上気していて、確かに高熱が出ているようだ。
 私はすぐ自室に引き返すと、119番に通報した。
 電話はすぐにつながって、非常に冷静な声が「火災ですか?救急ですか?」とたずねてくる。急を要する事態にしか使わない番号である、パニック状態で通報する人もいるだろうし、ここは敢えての冷静な対応か。私が状況と所在地を伝えると、「ではすぐに救急車を向かわせますので、サイレンの音が聞こえたら建物の外に出て誘導して下さい」と指示して通話は切られた。
 ちょっと待て、外で誘導ですか?なんで私が?
 電話して救急車が来て終わり、じゃないんですか?
 しかし、駄々をこねても誰がきいてくれるわけでもないので、再び隣室へ行き「今、救急車呼びましたから」と伝える、その間にもサイレンの音が近づいてきた。実は当時の住まい、消防本部のすぐ近所だったのである。心の準備もできないままに「そうだ、誘導せねば」と一階まで降りると、すでに救急車がエントランスの真ん前に停まっていた。
 エレベータのないマンションだったので、ストレッチャーも使えず、女の子は救急隊員に背負われて救急車まで移動した。遠ざかるサイレンの音を聞きながら、ようやく冷静になって考えると、あれなら自分でも119番できたろうに、と思えた。ワンルームマンションという、ただでさえ人間関係の薄い環境で、どうして会ったこともない隣人に助けを求めたのだろう。
 その謎が少しとけたと感じたのは二日後のことである。仕事から帰って夕食を作っていたら、ドアホンが二度鳴った。もしや隣の女の子かとドアを開けると、中年の女性が立っている。彼女は女の子の母親だと名乗った。
「先日はお世話になりました。うちの娘は、奄美大島から出てきたばかりなんです」
 たぶん、ここいらの街なかに比べると、奄美大島では隣近所とのつながりがもっと深く、互いに助け合う関係なのだろう。だからこそ、たった一人で高熱が出て苦しい時、女の子は隣人を頼ったのだ。私は多少なりとも、彼女の助けになれたことが嬉しかった。

 そして二回目、とある日曜の午後、自転車で住宅地の細い道を走っていると、おじいさんが歩いていた。なんだか少しふらふらした足取りだと思いながらすれ違った直後、何かが勢いよく倒れる音が聞こえた。
 まさか、と思って自転車を停めて振り向くと、さっきのおじいさんが倒れている、しかも仰向け。手をつく等の回避行動一切なしの、大の字である。近づいてみると、目は開いているが、焦点が合っていなくて、何やら言っているが呂律が回っていない。何となく、脳梗塞とか、そっち系の病気に近いような状態である。
 ちょうど目の前に美容院があったので中に入ると、美容師さんが女性をカットしている最中だった。どちらもおばあさん、と呼んでいい年齢の方である。
「すみません、外で人が倒れたので、救急車を呼んでもらえませんか?」とお願いすると、美容師さんはおっとりした口調で「救急車・・・何番?」と首をかしげた。何かもう、無理な感じである。仕方ないので「電話を貸して下さい」と入っていったら、そこにあったのはダイヤル式の黒電話だった。人、建物、備品、全てにおいて年季の入った店だ。
 無事通報をすませて外に出ると、おじいさんの周囲には人が集まっていた。誰が呼んだのか自転車に乗った警察官までいて、これで安心と思ったら、おじいさんは何か言いながら起き上がろうとする、それをみんなで「とりあえずじっとして」となだめている内に、ようやく救急車が来た。隊員はおじいさんを見るなり、落ち着いた様子で「かなり酔ってますね」と一言。ただの酔っ払いだったらしい。

 更に三回目。この時、私はバス停に立っていた。時刻は夕方、少し暗くなってきた頃である。ふと見ると、向こうの方からおじいさんが歩いてくる。この界隈は高齢者が多いので、別に珍しくもない光景だが、彼は私の目の前まで来ると、いきなり転んだ。
 何かアピールしてるんですか!と突っ込みたくなるようなタイミングである。思わず「大丈夫ですか?」と声をかけると、座り込んでいるおじいさんの額から、一筋の血が流れ落ちた。点字ブロックにぶつけたらしくて、たんこぶになっている。はっきり言って大丈夫ではない状態。
 このまま放置してバスに乗るわけにもいかないので、「救急車、呼びましょうか?」とたずねると、頷いている。しかし、なぜ私がこんなところで通りすがりの爺様の面倒を、と思った瞬間、バス停前の店が目に入った。酒、食品系のディスカウントストアだ。よし、この店にバトンタッチだ、とよからぬ考えを起こして中に入ると、レジが混んでいて、店員に声をかけられるような状態ではなかった。
 というわけで三度目の119番通報。近くにあるファミレスの名前まで挙げての判りやすい所在地情報、救急車が見えれば両手を振っての誘導、手慣れたものである。が、しかし、このおじいさんも酔っ払いであった。しかも常習犯とでもいうのか、隊員に「○○病院に行ってくれんか」と搬送先指定。駄目押しとして、ジャンパーのポケットから転がり出たのはワンカップの酒。
「おじいちゃん、これ、入れとくよ」と隊員が拾って、持っていたレジ袋に収め、ストレッチャーに寝ているおじいさんの枕元に置いた。

 以上、これが私の三回にわたる119番通報である。うち二回が実は酔っ払いということで、「一勝二敗」的な感があるが、まあ自分や身内の急病や事故でなく、他人事、しかも重大ではないケースで場数を踏ませてもらえたのは、有り難いことかもしれない。

119番

119番

119番、かけたことありますか?

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-19

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