薄橙色の記憶
葬式のあとで
僕の父が亡くなったのはちょうど十年前の一月だった。
父は末期の肝臓転移癌だった。
原発は食道癌だった。
手術は一応成功したということだったが、癌は半年後に肝臓に転移した。
そしてそれから半年、自宅で最期を迎えようとしていた。
実家のそばのたった一軒の医院の若い医師が素晴らしい人物で、病院のベッド並みの設備をうちに持ち込んでくれた上に往診でずっと父を看てくれていた。
「父ちゃんがもう危ないみたいよ」
という妹からの連絡を受けたのとき僕は仕事中だった。
昼頃だっただろうか。
僕は連絡を受けてすぐ家族を連れて実家へ帰った。
父が亡くなったのは次の日の早朝だった。
一晩父を看取ることができて「案外こんな幸運はないのかな?」とか思ったりしたのを覚えている。
その日はお通夜と葬儀の準備に追いまくられようやくお通夜に漕ぎつけた。
あとで思い出そうとしても、僕にはこのときの記憶がほとんどない。
父が亡くなって泣いていたという記憶の次はもうお通夜の場で一番前の席で座っていたという記憶しかないのだった。
前日はずっと父のそばにいたので一睡もせずこの日はお通夜で一睡もしていなかった。
そして次の日の葬儀の時にはさすがに疲れが出て、なんと僕は葬儀の最中に僕は眠ってしまった。
人一人送るってことはそれほど心身ともに疲れきってしまうことなんだと思った。
そして、不思議なことが起きたのはその葬儀のあった夜だった。
僕は母と妹と三人で川の字になって父の祭壇の前で眠っていた。
こちらの風習で本葬の前に火葬にするのだが、出棺前に自宅で身内だけで簡単な葬式をする。
そのためにお寺から祭壇を借りてきてそこに遺影を飾っているのだ。
三人ともほとんど丸二日眠っていなかったのでその夜は当然のように爆睡していた。
母などはぶつぶつ父の妹の態度に文句を言っていたのだが、最後は「ほんとに腹立つぅ・・・」といいながら次の瞬間には眠ってしまったほどだった。
何時頃か記憶はないのだが突然、
「痛いっ!」
と妹が声を出した。
「なんや・・・」
「誰かが足を踏んだんよ。誰よ・・・?」
もちろんそこには僕たち三人しかいない。
妹が寝ぼけただけかもしれないが妹は父がさ迷っているとか言っていた。
次の日。
うちの実家は玄関のタタキからすぐ居間になっている。
玄関のガラスの引き戸から居間のガラス戸までは一メートルくらいしかないすごく狭い造りになっていた。
僕が居間の椅子に座っているとガラガラーと玄関の引き戸が開く音がした。
「だれか来たよ」と母に言うと、みんな怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「玄関の戸が開いたやろ」
と僕が言ったが誰も音を聞いていない。
僕は自分で居間の戸を開けて玄関を見た。
・・・・・・・誰もいなかった。
当然玄関の引き戸も開いていなかった。
こういうことはその後も何度もあった。
あるときは妹だけが、あるときは妻だけが、玄関の戸が開くガラガラーという音を聞いたのである。
そしてあるとき、また僕はガラガラーという音を聞いた。。
このときの音は特に大きかった。
一瞬僕は妹と妻のほうを見た。
「いま音したよな。間違いなくしたよな」
「うん。した」
二人も聞いたようだった。
そして居間の戸を開けて玄関を見た。
・・・・・やっぱり誰もいない。
もちろん戸も開いていなかった。
「やっぱり父ちゃんがうろうろしとるんかな?」
妹がつぶやいた。
僕もなんとなくそう思った。
というのも、こんなに頻繫にこういうことが起きるのに全然怖くなかったのだ。
それはやはりうろついているものが父だったからじゃないだろうか?
しかしこういうことは年を追うごとに少なくなっていき、七回忌の頃にはほとんどなくなった。
「そういや最近、玄関が開かないね」
妻が言った。
「お父さん、ように(しっかり)成仏してしまったんかな・・・?」
「そうかもしれんなあ。だんだん遠くなっていくな」
僕はちょっと寂しくなってそうつぶやいた。
北海道への思い
父が中学校を卒業したのはたぶん昭和20年代の中頃だ。
日本は戦後間もない頃で、誰も彼もが貧しくて、貧しいのが当たり前の時代だった。
父は中学卒業と同時に松山市の小さな医薬品卸の会社に就職したらしい。
中卒ということで、たいした仕事は与えられずバカにされる日々が続きすぐ退職したらしい。
「これからの時代、高校出てないと話にならない」
父は一念発起し、北海道の函館で酒屋を経営している母方の叔父の元へいくことにした。
わが家は江戸時代から代々石屋だったのだが、父の父親は戦争好きな人で、
支那事変以来ずっと海軍に従軍していていた人だった。
だから戦後もまともに仕事なんかしないので、わが家は大変貧しかったようだ。
父は「函館の叔父さんちで働いて高校を出してもらおう」と考えたようだ。
父が辿った函館までの道程を思ってみる。
わが家があるのは四国・愛媛県の中でも南の方の漁村だった。
まずここから船で宇和島市まで出るのだが、ここまで約1時間。
宇和島市から鈍行列車で高松市まで出る。この間がたぶん約5~6時間。
高松から宇高連絡船で岡山宇野へ。
このへんからの時間経過は父から細かく聞いていなかったので曖昧になる。
次に岡山から汽車で東京まで行く。
そして上野から青森まで夜行列車で行ったらしい。
青森からはもちろん青函連絡船に乗ってついに函館へ到着する。
「丸二日かかったぞ」
中学校出たばかりの子供がたった一人でよくここまで行ったものだ。
父によると、函館は雪が積もっていたとか・・・
父は足元がぐしょぐしょになっていたらしい。
「まだ16歳の子供やったんや。北海道がこんなに雪積もるなんか知らんもんな。運動靴しかもっとらんかったしな・・・」
まる二日かかってようやく辿り着いた北海道。
連絡船や夜汽車を乗り継ぎ乗り継ぎして16歳になるかならないかの父が北へ北へとひたすらに向かっている。
どんなに心細かっただろう。
どんなに怖かっただろう。
「さみしかったなあ。怖くてたまらんかったなあ」
あるとき酒を飲みながらそうつぶやいたことがあった。
この話はなんどもなんども聞かされていた話だが、そのたびに父の眼には涙が浮かんでいたように思う。
父の北海道での暮らしはどうだったのだろうか?
叔父さんという人は「おんさん」と呼ばれていたが、酒屋の商売が成功してかなり羽振りが良かったようだ。
父はそこで配達の仕事を与えられ、また時間があるときは叔父さんの子供の家庭教師もしていたようだ。
「あのバカが今は学校の先生やっとるらしい。わしが教えたんや・・・」
ちょっと自慢げにそういったことがあった。
しかし配達の仕事はきつかったようだ。
南国育ちの父には冬の北海道のきつさは耐え難いものだったようだ。
「寒いなんてもんやないで。凍った五稜郭の堀を酒瓶積んだリヤカー引いて渡るんや。 近道やからな・・・」
「牛や馬と一緒やな・・・つらかったな・・・」
そういいながら、こみ上げる涙を拭っていたことがあった。
「うっかり素手でリヤカーの取っ手を握ったら『バチッ』いうて手が焼きつくんや」
「寒かったなあ。辛かったなあ。お前らなんかにゃ絶対耐えられん」
父は屋根裏部屋をあてがわれていたらしいがこれがまたきつかったみたいだ。
「隙間風が入ってきてなあ。寒かったなあ」
「朝起きたらな、布団の首の周りが凍っとるんや。寝とる間に息が凍るんやな・・・」
「下ではみんな暖かい部屋で寝とるのにわしは屋根裏部屋や」
「嫌やったなあ。情けなかったなあ。でも金はないしな・・・」
父は酔うとこういう話を聞かせてくれた。
父は大変な照れ屋だったから誰に言うともなくつぶやくのだ。
僕が結婚してからは妻のことが気に入っていて、妻を相手に北海道での苦労話を饒舌に話していた。
「この人がこんなに話をするとこ初めて見た・・・」
と母がいうほど僕の妻にはよくしゃべっていた。
父は高校を出ると北海道で自衛隊に入隊したらしい。
ただ、どういうわけで除隊して実家に帰ってきたのか?その辺の経緯は僕は知らない。
僕が覚えていないだけなのかもしれないけど僕は知らない。
父は僕が小さい頃、一度北海道を訪ねている。
「おんさん」こと叔父さんが亡くなった時だ。
この人物は親戚中の面倒を見た人なので親戚一同で北海道へ行った。
「遺産を勝手に持ち帰ったヤツラがいたぞ」
といって憤慨していたが、父も一個だけ金の指輪を持ち帰っていた。
「『ちょっとはめてみたら抜けんようになった』と言ってもらってきたんや」
とちょっと嬉しそうに話していた。
二度目に行ったのはもう晩年になってからだった。
還暦の祝いとして、僕と弟妹と三人でお金を出し合い、両親に北海道旅行をプレゼントした。
母によると、父は函館工業高校の同級生に連絡を取り何人かに会ったらしい。
ただ、肝心の母校には立ち寄る時間がなかったらしい。
父は母に「この坂を上ったとこに高校があったがもう建て替えしとるんや」とか話していたらしい。
二人はこのあと北海道を一週間以上かけてほぼ一周してきたようだった。
帰ってきてからも父は折々に
「北海道はいいなあ。また行きたいなあ」
とつぶやくように言っていた。
「また行きましょう。今度は子供たちも一緒にみんなで行きましょう」
相手をしていた妻がそう言っていた。
しかしそれから間もなくして父は食道癌を患った。
手術はしたものの、翌年肝臓に転移。
二週間おきに病院で検査していたというのに、転移が確認されたときはもう「末期であと半年」とか言われた。
最後はみんなで自宅で看取った。
このあとの経緯は別の章に書いた通りである。
僕は泣きに泣いたけど、しかし一番泣いたのは「もう余命がない」と妹に電話で告げられた時だった。
たしか僕は
「どうして?なんでや?僕はまだあの人に何もしてあげとらんのに」
と言った。
「あんちゃんは、あんなにしてあげたやん。十分したやん。父ちゃんはすごく喜んどったよ」
妹にそう言われた瞬間、何かが切れたように感情が溢れた。
堰を切ったように涙が溢れてきて言葉が出せないほど嗚咽した。
電話口で兄妹でおいおい号泣した。
あんなに泣いたのはたぶん生まれて初めてだった。
孫と酒と北海道が大好きな父だった。
僕が心の底から尊敬し慕う人物はこの人くらいだ。
無口だけど暖かい男らしい男だった。
酒が好きでよく飲んで暴れたりしたけど、誰よりも家族のことを考えてくれていた。
どんなにつらくても愚痴をいうこともなくひたすら働いた人だった。
できればあと一回、父が大好きだった孫と一緒に北海道へ行かせてあげたかったな。
もっともっとたくさんたくさん話をしてくれただろうな。
嬉しそうに湯飲みで酒を呑みながら孫に苦労話を聞かせている姿がはっきりと眼に浮かぶ。
薄橙色の記憶
お盆の少し前の夜。
僕はこんな夢を見た。
遠くから盆踊りの練習をする太鼓の音が聞こえている。
小学校低学年の僕は石屋で残業をしている父に麦茶を持って行った。
石屋は石粉で真っ白なボロのほったて小屋だった。
外の道路にぼうっと薄橙色の灯りがもれている。
中をのぞくと、扇風機の風で舞い上がる真っ白な石粉に
裸電球の橙色の灯りが反射して橙色の霧がかかったように見えた。
父はこちらに背をむけて石の前に座っている。
頭は石粉で真っ白・・・
ランニングシャツからのぞいている筋肉が盛り上がった両腕も真っ白・・・
グレーの作業ズボンも真っ白・・・
何もかもが石粉で真っ白だった。
「父ちゃん、麦茶!」
僕は声をかけたが父は振り返らなかった。
「父ちゃん!麦茶持ってきた!!」
僕は大声で叫んだ。
『おー、そこへおいとけ!』
父は一瞬振り返ってそう言った。
振り返った父は、眼に跳ね石避けのゴーグルをかけ、口には緑色の防塵マスクをはめていた。
それらのもの全部が石粉で真っ白だった・・・
父はまるで石と格闘しているように見えた。
僕は、そばのまだ成型されていない石塔の材料の上に麦茶がいっぱい入ったプラスチックの容器をおいた。
「じゃあ帰るよ、父ちゃん」
「おー、気をつけて帰れよー」
父はこちらに背を向けたまま答えた。
作業場の外へ出るとまた盆踊りの太鼓の音が遠くに聞こえている・・・
道路にぼうっと薄橙色の灯りがもれていた・・・
僕は無性にありがたかった。
わけもなく感謝の気持ちでいっぱいになった。
遺影の秘密
実家に帰省すると僕はいつも居間の指定席の椅子に座る。
元々は父が座っていた位置だ。
そこに座るとちょうど正面に作り付けの仏壇がある。
仏壇の中の位牌の後ろに父の遺影が見える。
父の遺影に「帰ったよ」と心の中でいう。
遺影の父は少しはにかんだような笑顔でこっちを見ている。
僕の父親は石の職人だった。
昔ながらの職人気質そのままの人で、僕が子供の頃は笑顔なんか滅多に見たことがなかった。
すぐに怒るし、しょっちゅう酔っ払ってるし、怒って酔っ払ってたらテレビをブン投げたこともあった。
強くて怖くて近づきがたい人だった。
そういう父だったから笑顔の写真なんてあるはずもなく・・・
七年前の正月すぎ。父が亡くなったとき、遺影にする写真がなくて困った。
写真といえば、白いシャツ着て作業ズボンはいて石粉で真っ白になってるような写真ばかり・・・。
「いい顔しとるなあ。ようこんな写真があったなあ」
葬式の時、親戚の人達が遺影を見てみなそう言った。
しかし父のこの写真には秘密があった。
この写真は僕の妹の結婚式のときのものだった。
まだ二歳だった僕の長男を横抱きにしている写真だった。
父はほかの誰よりも僕の長男を愛していた。
周りの人たちから「人間が変わった」といわれるほど孫にべったりのおじいちゃんになっていた。
父は初孫ということもあってか、長男をしょっちゅう抱っこしていた。
この遺影には本当は父と抱っこされている長男が写っている。
僕はどうしてもこの写真を遺影にしたかった。
父にいつまでも孫と一緒にいてもらいたかった。
そこで業者の人に頼んで父の写真から長男だけを消してもらって遺影にしたのだった。
こうして一見して消したようには見えない素敵な写真ができあがった。
このはにかんだような笑顔はいつ見ても素敵だ。
僕は実家に帰省していつもの椅子に座るたびにそのことを想い出す。
鬼のように怖かった父。
岩のように強かった父。
しかし誰よりも僕達のことを思っていてくれた優しかった父。
父が座っていたその椅子に腰掛けて僕は、父に心の中で話しかける。
「よかったな父ちゃん。いつまでもかずくんと一緒やな」
写真の父は少しはにかんで笑っていた。
「灯し上げ」と僕の後悔
僕の実家がある地方では非常に奇妙なお盆の風習がありその行事は現在もちゃんと行われている。
地元の人達は「とぼしあげ」と呼んでいる。
「灯し上げ」と書くのかも知れないがそのへんのことを僕は詳しく知らない。
それはお盆が終わったあとの8月17日頃、初盆の家で行われる。
まず家に飾っていた廻り灯篭や吊灯篭などをお墓に持ち込む。
お墓にはお経が書かれた白い紙の幟旗を竹につけてその廻りを灯篭で飾る。
そして昔なら大太鼓を用意する。
最近ではカラオケのセットなども準備したりする。
親戚や知人から届けられた果物や缶詰などのお供え物の盛り籠をお供えする。
そして、真っ暗に日が落ちた8時頃、照明を点けてそこ(墓地)でがんがん酒を飲み、太鼓を打ちながら唄を唄うのだ。
唄は、伝統的に伝えられてきた曲で「くどき(口説・詢と書く)」というものだ。
この唄を太鼓の音と手拍子で唄い、それに廻りの者の合いの手が入り実に哀愁が漂ういい感じになる。
子供たちにとってもお菓子食べ放題、ジュース飲み放題、そしてなにより夜中までうろつき放題ということですごく楽しい行事である。。
他の地域にこういう行事はあるだろうか?
お盆が終わり夏休みも終わりに近づく頃、山の斜面の墓地のあちこちに灯りが灯り太鼓の音が鳴り響き「くどき」の声が哀愁を帯びて流れていく。
どうしてこういう変わった風習が廃れず残っているのだろう?
ちゃんと分析すると、家人を亡くした家の者が初めてのお盆を終えて残された者たちが空虚な感覚を持つこの時期に、
その人たちを慰めるために始まったのだろうな・・・とは想像できる。
そしておそらく仏教の世界には本来こういう行事はあったのだけれど、だんだん廃れて行われなくなったんじゃないのかな?とも思う。
僕の故郷はとんでもない田舎だけれど、なんだかずいぶんあったかくていい場土地柄だなと思う。
祖母の初盆のとき、父が太鼓を叩きながら大きな声で唄っていたことが思い出される。
山間の墓地。辺りは濃い闇。弱い裸電球の明かりの中、太い腕で力強く太鼓にバチを叩きつけていた父。
典型的な職人気質で、普段はほとんど口をきかない無口な男だった父。
その父が何のてらいもなく天に向かって大きな声を張り上げて唄っていた光景。
いま、このエッセイを書いているこの瞬間も、その夜の光景がはっきりと浮かび上がってくる。
光。
音。
匂い。
いろいろなものが父の唄う声と太鼓の音、人々の嬌声と一緒になって僕に押し寄せてくる。
あの日、あの夜、あの場所にいた人たち、あの場所で唄い踊っていた人たちの大部分はもう鬼籍に入っている。
あの日、子供だった僕でさえ彼岸に渡っても不思議ではない歳になっている。
だが、この歳になっても、あの頃の光景がよみがえるとどうしても涙が溢れて止めることができない。
そして僕は後悔する。
父の初盆のとき、父が祖父母のときにしたことと同じことができなかったのかということを僕は後悔する。
どうして僕は太鼓を叩いてあげられなかったのか?
どうして僕は大きな声で唄ってあげられなかったのか?
こっそり歌詞を手に入れて一人で練習までしていたのにどうして僕は唄わなかったのか?
あるいは唄うことができなかったのか?
こういう後悔を何度も何度も繰り返しているというのに・・・
どうして僕はいつも・・・
伝えたかったこと・伝えられなかった言葉
今年もまた父の命日がやってきた。
毎年、正月休みが終わると僕は父のことを思い出す。
父が末期の転移ガンで余命3ヶ月との宣告を受けてからというもの僕は
父にずっとあることを伝えようと思っていた。
いつもいつも言いたくてたまらないのに男同士の照れから伝えられないでいた。
伝えることができず、次の機会にでも・・・と思い伝えられない日が続いていた。
正月休み明けで、だらだらしつつもなんとなく仕事が軌道に乗り始めた頃、
実家の近くに嫁いでいる妹が泣きながら電話をかけてきた。
「父ちゃんが意識がないよ。もうもたないと先生が言ってる。早く帰ってきて」
と言う。
僕は驚いて家族を乗せて急ぎ帰宅した。
情けない話だが、車には当然のように家族全員分の喪服を積み込んでいた。
実家に帰ってみると父は冗談みたいな異常な呼吸を繰り返していた。
一分間に5~6回しか息を吸わない。
ひと目で「残された時間はそれほど長くはない」とわかった。
それなのにそのときに至っても僕はその言葉を父に伝えることができないでいた。
その晩、僕はそばにずっといた。
何をするでもなく父のそばに座りずっと父の顔を見、父の息をする音を聞いていた。
やがて長い夜が明け、次の日の朝日が射し始めたころ父はすっと息をひきとった。
長い長い息継ぎの間がふっと途切れたかと思ったとき、看護士さんが父の名を叫んだ。
その次の瞬間にはもう父の顔色はいわゆる土気色に変わっていた。
今思えば、若い頃苦労して建てた思い出のこもったこの家で死ぬことができた父は幸せだったのかな?
いやそうではないだろう。
まだ60代半ばでの死はさぞ心残りだっただろう。
そして僕は、とうとう伝えたかったことを父に伝えることができなかった・・・
翌朝、火葬場で・・・
菩提寺の住職の読経と親族の泣き声や鼻を啜る音が響いていた。
やがて父の棺が霊柩車で運び込まれ鉄の扉の中へ入れられた。
白衣を着た係員の合掌と共に扉が閉じられた。
この後に及んでもまだ僕は父の【死】というものを実感していないように感じていた。
白衣の係員が僕にそっと近づき言った。
「喪主様、こちらへどうぞ」
信じられないことだが、この地方の風習で火葬の点火スイッチは喪主が押すことになっていた。
係員から小声でそのことを告げられ、僕は
「う、うそやろ・・・」
とつぶやいたのを覚えている。
僕はもつれる足でよろよろと前へ歩み出た。
赤い丸い押しボタンスイッチが示される。
「僕がこの手で父を灰にするのか?そんなこと・・・」
指の震えを止めることができないままスイッチへ手を伸ばす。
そのとき・・・
ようやく僕は今まで伝えよう伝えようと思いながら伝えることが出来なかった言葉を何のてらいもためらいもなく口にすることができた。
僕は父の遺影に真正面から向きあい、言った。
『今まで・・・今まで本当にありがとうございました!』
その声は泣き声まじりだったが室内に大きく響いた。
深く深く、長く長く、頭を下げて、そして僕は
「スイッチを押した・・・」
薄橙色の記憶