さよならジェニー

「さよならサーシャ」という短編小説が「民主文学に載ったのは二月(ふたつき)くらい前のことだ。

「さよならサーシャ」という短編小説が「民主文学に載ったのは二月(ふたつき)くらい前のことだ。この短編は、ロシア文学の好きな作者の娘が拾ってきた仔犬にサーシャと名付け、その死について書いたものだ。
 サーシャというのは、ロシア名のアレクサンドルの愛称だそうで、かの有名なプーシキンも正確に言えば、アレクサンドル・セルゲービッチ・プーシキンと言うのだそうだ。
 「さよならサーシャ」は、題名のとおり愛犬サーシャが老衰のために死んでいく一カ月余りの容子を詳細に書いてある。家族の一員として楽しい日々を過ごした思い出、そうした過去を共有した生きものが先立つことの寂寥や、一種の諦観の入り混じった、しかし決して暗い筆致でないこの作品を、私は好感を持って読んだ。
 この作品を読んで、斎場の裏に犬猫の焼場があることをわたしは初めて知った。おそらく、どこの斎場もそうなっているのだろうと思った。
 実は、私の家(うち)にも十三歳になる雌の中型犬がいたのだ。まだ元気で、散歩に出るときには私の乗った自転車を曳張って走るほどの若さだ。
 サーシャと同じで家の犬も娘がジェニイと名づけた。元気だといっても十三歳という年齢は、犬としては高齢で人間なら七十歳くらいだというから、定年を過ぎて四年余りを経た私と、ほぼ同じくらいの余生を残しているのかもしれない。時たま、ジェニイの死について考えたことがあったせいなのか、斎場の裏手に犬猫の焼場があるという記述が印象に残った。
 ところが、「さよならサーシャ」を読んで二月(ふたつき)とたたないうちにジェニイは急に元気をなくし、自転車を曳張るどころか、やたらにしゃがんでは小便をする。それがまた、ひどく時間がかかるので「ジェニイ!ずいぶんひまが取れるな。お前は雌だから俺と違って前立腺肥大症ってことはないだろう…」と声をかけたりした。
 その後、うちの狭い庭でジェニイが嘔吐するのを見た。「やっぱりどこか悪いんだ」わたしは妻が仕事を終えて帰宅するのを待って動物病院へジェニイを連れていった。
 「どうしました?」
 「食べた物を吐いてしまうんです」
 「何を食べさせました?」
 「鰺のひらきをほぐして骨ごとご飯にまぶしてやりました」
 「骨もやったんですか、太い骨でも犬はよく噛まずに呑みこみますからネ、消化しきれないんですよ」
 そうか、ジェニイはもう年寄りなんだし、今年はもう何度も雪が降って寒いし……それなのにジェニイは犬小屋を嫌って滅多に入らない。小屋は陽当りのいい向きで、厚いタオルケットを敷いてやっているのに、家の裏の、隣家との仕切りになっているブロックとわが家の外壁との狭い空間に寝ていることが多い。わが家の庇で直接雨に濡れることはないが、細長い空間を寒い風が吹き抜けている。
 でも偶には犬小屋へ這入っいっているのを見かけるのだから、我慢できないほど寒ければ自分で小屋に入るだろう。そう思って無理に小屋へ押し込めることはしなかった。
 医者は注射をし、薬の飲ませ方などを説明した後、「寒いですから腹巻をさせ、ホカロンを下腹に当ててやって下さい。外はだめですよ」と言った。  
 わたしは、ジェニイが躯に布などを纏われるのをひどく嫌がることを思い出し、咄嗟に今夜一晩だけ入院させようと思いついた。
 「先生、今晩だけ此処に置いて下さい。これから帰ってジェニイの寝場所を、寒くないように毛布を敷いたり、湯たんぽを買ったりして明日迎えに来ますから…」
 「そうですか、それじゃ今夜は入院ということにして他に悪いところがないかよく診ておきましょう」
 わたしは帰宅すると透明で厚めのビニールや湯たんぽの他、人工芝などを買ってきた。ジェニイの小屋は、窮屈でないようにと大型犬用の物を仔犬のときに買ってやった。側面と背後は鉄板だが、正面は鉄格子になっている。床は地上十センチくらいの高さがあり簀子を敷いて風通しをよくしてある。夏はこのままでいいが冬は寒いだろう。わたしは鉄格子の間に、買ってきたビニールを互い違いに通して左右の端をガムテープで固定した。これで風に吹きさらされることはない。陽の当たる時間帯は、扉を閉めれば温室のようになるだろう。さらにタオルケットを簀子の上に敷いて「これでよし!明日はジェニイの退院だ」

 翌日、病院から電話があった。「昨夜レントゲンを撮って解ったのですが、ジェニイちゃんは尿管結石です。とても退院できる状態ではありません。尿道にゴム管を通して採ってやらないと自力では容易に排尿できません。投薬で快くなるか、手術をすることになるか二、三日容態を見てみませんと…」と言われた。これでは医者の言うとおりにするしかない。
 わたしは、電話で毎日様子を訊いた。三日目に「カテーテルを通したせいでしょう、石が少し砕けておしっこが出るようになったんですよ。このまま結石がなくなればいいんですが、また詰まることがあるかもしれませんからもう少し様子を見ましょう…」
 そうか、小便が出るようになったのか、よかったなジェニイ!
 散歩のときお前の小便の長いのを病気と気付かず俺は迂闊だったよ、俺自身が入院したことがあるのにな、あれは死ぬかと思うほど痛いんだよな。わたしは心のうちでジェニイに詫びた。

 一週間ほどしてジェニイは退院を許された。但し食事は病院から出る脂肪の少ない専用のフードにし、それ以外のものは与えないこと、最初は食べなくても食べるまで与え続けること。朝晩二回錠剤を飲ませることなどが指示された。
 退院したジェニイは再び元気にわたしの自転車を曳張って地面を蹴って走った。小便のたびにその量を気にかけた。先ずは順調のようだった。しかし病院のフードはよほど不味いのか、ほんの少し口をつけるだけで頑として食おうとしない。ましてや薬など口に入れても吐き出してしまう。無理に口を開かせようとすると牙をむいて唸り声を出す。仕方がないので好物のチーズや肉に錠剤を埋め込んで与えると一口でパクリと呑みこむ。こうして少量でも好きな食べ物を与えてしまうと、病院のフードを一層食べなくなるようだ。
 食器の中のフードは、食べ残したまま、まる一日を経過するといかにもまずまずしく乾いて遂には捨ててしまう。わたしはジェニイの頑固さに負けて、いままで好んで食べた市販のフードと病院のものとを半々に混ぜ合わせて与えたが、これも殆ど食おうとしない。
 晴天の日の昼間は、玄関わきの犬小屋の前で日向ぼっこをしているが、陽が落ちて暗くなると家の裏に姿を消す。餌をやるときは、ホーローびきの容器を、小さな棒でたたいて、カン、カン、カーンと音をたてると、食事の合図と知っていて、裏の暗がりから走って出てくる。出てきたところを捕えて小屋に押し込んだ。これを二、三度繰り返しているうちに、ジェニイは、食器を叩いても出て来なくなってしまった。
 わたしは、毎晩寝る前に湯たんぽを犬小屋に入れてから、懐中電灯を点けて家の裏へ廻り、ジェニイを表に追い立てた。ジェニイは決して自分から小屋へ這入ろうとはしなかったが、何度も裏から表へ追い立てているうちに、迎えに行きさえすれば躊いながらも自分から小屋へ這入るようになった。這入ってしまえば湯たんぽの温もりで心地よく、朝になれば必ず小屋から解放されることを覚えたのだろう。
 退院して間もないころ、今年二度目の雪が降った。
最初の雪が積もった時は、ジェニイは年寄りらしくなくはしゃいで飛び跳ねていたが、今度は幾分元気がない。やっぱり具合が良くないのか、そう思って小便の出具合や量にも注意し続けた。四、五日は晴天が続きジェニイは割合元気だった。然し病院から貰った餌は、ほとんど食べなかった。
 わたしは、いつも行く店にドッグフードを買いに行った。今迄は安い物を選んで買っていたが、脂肪の少ない物でないと結石の原因になるのではないかと思い、いろいろと袋に印刷された説明を読んでみた。
幼犬に適した餌、成犬や老犬のためのフードがそれぞれあることに初めて気づいた。わたしは、喜んで食べてくれれば何でもいい。そう思っていた。安い餌を食べさせ続けたのが結石につながったのだろうか・・・
ふとそう思って気が咎めた。
 わたしは、高齢犬用のフードを買った。値段は結構高かったが、この時は金を惜しまなかった。高価なフードだからジェニイはきっと喜んで食べるだろうと思っていた。だがジェニイは少し口をつけただけで殆ど食べなかった。
 米飯に白身の魚をまぶしてやると旨そうに食った。然し散歩の時は元気なく、病院のフードを全く与えずにいてもいいものかという心配もある。小便も出てはいるが勢いは弱く時間もかかる。退院してから十日余り経っているが、とに角もう一度入院させて精密検査をして貰おう。

再入院した翌日の病院からの電話は、わたしたち家族の心を暗くした。
「ジェニイちゃんは胸水という病気に罹っています。
今日一リットルも水を抜きました」
 「キョウスイ?」
 「ええ、肺を格納している部屋に水の溜まる病気です。水が沢山溜まると肺が圧迫されて、放っておけば、呼吸困難になって死んでしまいます。それに癌が全身に転移しているかも知しれません。今の状態では尿管結石の手術どころではありません」 おそらく「胸水」も「尿管結石」も併発していて同時に進行していたのかも知れない。ただ発見の順序が、消化不良から結石、そして胸水に至ったということなのか。
 再び、ジェニイは入院し続けることになった。一度退院したときに清算した病院への支払いは、一日の平均で二万円余りだった。
 この先、どの位金がかかるのかが頭をよぎった。
然し手を尽せば快くなるのか、尽しても見込みがないのか、その判断がつくまでは最善をつくすしかあるまい。

 四、五日を経て、娘と二人で病院へ行った。何匹もの犬や猫がそれぞれ鉄格子の檻に入れられている。ジェニィは二段に重ねた下の檻に横たわっていた。娘とわたしが近づいても気がつかない。
 胴体の毛は短く刈られ、剥きだしにになった肌には晒が厚く巻きつけられ、その晒の背中に当たるところからビニールの管の先端が露出していてネジ蓋が付いている。前肢の、手首の部分にも固く包帯が巻かれ、点滴の針が固定されている。ジェニイは見るからに痩せて、その上に包帯やビニール管が躯全体に纏りついているので痛々しい。刈り込んだ背中に包帯しても、刈ってない部分の毛並みと包帯の隙間に見える地肌が一層病気を重いものに見せている。
  「ジェニイちゃん、ジェニイちゃん」獣医が声をかけた。 
ジェニイは、わたしと娘に気づくと、それでも尻尾をふり起ち上がった。獣医が扉を開くとジェニイは、点滴のビニール管を引きずったまま、わたしの足もとへ近づいてきた。
娘とわたしは、しゃがんでジェニイの頭を撫でた。わたしはジェニイを励まそうと声をかけた。娘は無言のまま、しきりにジェニイの頭を撫でていたが、突然「バイバイ、ジェニイ」と潤んだ声を出して起ち上った。
思わずわたしは娘の顔を見た。娘は口唇をみにくく歪めて踵を返して部屋を出ていった。
普段は遊びに夢中で犬の看病もろくにしない娘だが、目のあたりに痛々しいジェニイの姿を見て、さすがにショックを受けたのだろう。娘は泣き顔を見られまいと外に出たのだ

ジェニイが我が家の一員に加わったのは、娘が小学校一年生のときだ。娘が欲しがるので、妻が仔犬の貰い手を探している人を見つけてきたのだった。
貰いに行った時に仔犬は三匹いた。どれを貰おうかと迷ったが、一番温和しそうな犬を選んだ。それがジェニイだった。
 ジェニイは温和しいと思ったが、実は臆病だと言った方が正確かも知れない。門扉の前に他人が来るとしきりに吠えるのだが、その人が強引に入って来るとジェニイは裏の方へ逃げてしまう。知らない人でも何か餌を与えられると、すぐ尻尾をふって仲良しになってしまう。その人が再び現れると、餌を貰わぬ先に吠えもしないで尻尾をふる。わたしのまったく知らない人が来て、ジェニイが尻尾を振っている時は、大体以前に餌を与えられていると見ていい。
 ジェニイが我が家に来て数カ月の頃、門扉を閉め忘れたちょっとの隙に道路へ跳び出した。丁度そこへ自動車が疾走して来てジェニイをはねた。自動車はブレーキをかけた様子もなく通過したが、ジェニイはキャンキャン・・・と甲高く啼いた。わたしが玄関から出て見ると、ジェニイは庭先でくるくると廻りながら啼きわめいている。そこへ娘も出て来て大声で泣きながら叫んだ。
 「ワーン、ジェニイがひかれたぁ・・・ジェニイが若いのに死んだら可哀そうだぁ・・・ジェニイが死んだらあたしも死ぬぅ・・・」
 これには、わたしも狼狽した。近所の人たちが何事かとみんな道路に出てきた。
 わたしは娘を宥めながら、同時に犬のケガの様子を見ようとしたが、ジェニイは極度に興奮していて、とても手が出せない。先隣りの小畑さんのご主人が来て、犬の扱いは慣れているといった素振りだが、しゃがんで「ジェニイさん、ジェニイさん」とやたらに「さん」づけで声をかけている。がやはり手を出せない。それでも二、三分も経つとジェニイも大興奮から醒めて、さほどのケガはなさそうだと判った。
病院に連れていくと、「骨折もしていませんから元通りになりますよ。ただし精神的なショックが非常に大きいですから、なにかにつけて優しくしてやって下さい」と言った。
二、三週間でジェニイは跛をひかなくなった。この事件以来、ジェニイは門扉をあけ放しておいても決して道路へ跳び出したりはしなくなった。門を出て溝板に足をかけてもそれより先へは出なかった。

娘が中学三年生になった頃、我が家は増改築をした。
フエンスで囲まれた狭い庭で大勢の職人が起ち働らき、ジェニイはおそらくみんなに邪魔にされ、居場所がなかったに違いない。わたしも妻も働きに出て、娘も学校へ行ってしまった後、ジェニイは職人達に追い立てられ、蹴飛ばされていたのかも知れない。上からは瓦礫が落ちて来て、ジェニイは毎日脅え切っていたのだろう。だが、昼間は家にいないわたしには、その状況を察する事が出来なかった。
 そのときは夏で、わたしも娘も風呂から出て、わたしは晩酌も終わりかけていて、いい気分になっていた。娘は犬に餌をやりに行っていたらしい。突然「お父さん痛いよう…」という娘の泣き声に、わたしは玄関に飛び出した。見ると湯上りで白いパジャマを着た娘が棒立ちのまま泣いている。白いパジャマが鮮血で真っ赤に染まっている。わたしは度肝をぬかれてしまった。
 「どうしたんだッ!」
 「ジェニイに噛まれた・・」
わたしはジェニイを殴り殺してやろうと思った、が「救急車が先だ」と考えた。酔いはいっぺんに醒めてしまった。救急車の中でわたしは、ガタガタと震えた。こんな状況のなかで、娘が犬に餌をやることの危険に思い至らなかった親としての責任をどうとればいいのかと思うと、救急車の動きがのろく、気持は苛立ち、震えで歯がカチカチとなった。
 娘は、下唇の左右同じ位置を噛まれ、犬歯が貫通していて幾針か縫って手術は終わった。
 その傷痕は今も盛りあがっていて、よく見ると手術をしたと分かる。
 病院から帰ったわたしは、娘の手当てが一応無事に済んだこともあって、撲殺の意志は大分萎えてしまっていたが、犬は保健所に渡すつもりで、妻とその話をしていた。
 と、娘が突然叫んだ。
「ジェニイを保健所にやっちゃ嫌だッ・・ジェニイは家においておくぅ・・」
 「だってお前、ジェニイはお前に噛みついたんだよ」
 「でも、保健所にやったら殺されちゃうんでしょ、そんなの嫌だよ、ジェニイが可哀そうだよ…」と、わたしと妻の話合いに強く反発した。
 わたしはこれからのジェニイの世話はすべて自分でやろうと心に決めて、娘の意見に同意した。

 飼い犬が娘に噛みついて、下唇の左右に裂傷ができ、幾針もの手術をした当座は、わたしはジェニイを憎んだが、冷静になってみれば、毎日職人達に足蹴にされ、天井からは瓦礫が落ちて来て、居場所もなく脅え切っていたジェニイの方こそ被害者だったのだと思う様になった。
 その後再びわたしたち家族は、昔と同じようにジェニイを可愛がって何年も暮らした。

 娘が高校生になって、受験勉強から解放された時、執拗に海外旅行をせがんだ。「高校に入ったら旅行でもなんでもお前の好きなようにしてやるから…」と言い続けて勉強させてきたのだから、いまさら金がないの、時間がないのと逸らそうとしても娘は承知せず、わたし達一家は生まれて初めての海外旅行をする事にした。
 十日余りの、田舎者まる出しのわたし達のヨーロッパの旅は、東海道膝栗毛そのものの珍旅行だったが、この間ジェニイは農業している妻の実家に預けておいた。
 海外旅行を終えてジェニイを迎えに行くと、実家ではジェニイは餌をあまり食べなかったという。わたし は、家族が長く不在だったことや、環境がかわったせいだろうと軽く考えていた。
 庭は狭くとも、我が家に帰り、いつもの散歩道を歩けば直ぐ元気になるだろうと考えていた。ところが家へ帰ってからもジェニイはあまり元気にはならなかった。散歩に出る時は尻尾をふって喜ぶのだが、外へ出るといままでのようには、自転車を曳張って走ろうとしない。
 やっぱりどこか悪いところがあるのだろうと思って医者に連れて行った。
 なんと、ジェニイは「子宮蓄膿症」という病気に罹っていた。この病気は、妊娠したことのない犬に多く発病するのだという。
子宮を摘出したのだから、擦傷や切傷の治療とは違って、一応は大手術というべきであろう。それでも、その当時のジェニイはまだ中年婦人といったところだった。手術は無事に済んで必ず元気になると確信していた。何の不安をもたず退院の日を待った。

こうしてジェニイは永久に妊娠の経験をもたぬまま、一生を終る運命と定った。母親になったことのない彼女は、いつまでも若かった。躯も、心も若かった。
定年退職後、数年を経ているわたしと同じ年代になっている筈なのに、彼女は散歩に出て公園で綱を解ぐと、わたしに向かって攻撃的な前屈姿勢をとり、右に左に躯を振って挑発をかけてくる。わたしもそれに応じて既に胴輪から外して金具の方を掌に握っている綱をふってジェニイの背中に鞭を当てる。ジェニイは心得たりとさっと身を躱す。わたしは綱を鎖鎌のようにぶん回してジェニイを追う。ジェニイは綱の先端が届くか届かぬかの距離をとって逃げ廻る。けして真直には走らない。真直に走れば、わたしはジェニイを追い切れず、ゲームは一瞬にして終わってしまうからだ。わたしは円の中心に居て鎖鎌を振り廻す。ジェニイはわたしの周囲を円を描いて逃げ廻る。そして狼のように疾駆するジェニイを充分に楽しませることの出来るのはせいぜい二分か、三分のものだ。わたしは直ぐに疲れてベンチに腰をおろしてしまう。それでもジェニイは満足しているのだった。

話がいつしかジェニイの思い出にそれてしまったので元に戻すことにしよう。
一旦は退院したものの、ジェニイは食欲も回復せず、次第に衰弱していくのが分かった。
医者も「絶望的だ…」と言い切った。
「それでも入院させて栄養剤でも点滴しますか?」と尋いた。
「先生、率直に言ってお金が続きません」
「そうですね、私の方も治療のかいがないのを分かっていて
ご負担をかけるのは心苦しいのです。
お家へ連れて帰って、なんでも好きなものを食べさせてやって下さい。そして三日に一度位は胸の水を抜きに来て下さい」
所詮は助からぬ命なのだから食べてくれるものがあるのなら何をやってもいいということなのか・・・

病院の指定したフードを与えなくともよくなったので、鮪のさしみを千切ってご飯にまぶしてやると旨そうに食った。久しぶりに病院食でなく旨かったのだろう。さしみなら食えるのかと、朝も鮪のなかおちを与えた。しかし、その日の夕方は同じものを与えても残してしまった。二月十五日だった。この日は通院して胸水を二百ミリリットルを抜いた。その後、月末にかけて雨や雪の日が続いた。犬小屋へ湯タンポを入れてやっても、夜明けは冷え込むだろう。
そう何回も湯たんぽを取り替えることも出来ないので、玄関に人工芝を敷き、その上に新聞紙を厚く並べタイルの冷えを遮断して更にタオルケットを広げてからオイルヒーターを壁際に置いた。玄関の空気が流れない様に天井から床までカーテンで仕切った。
 わたしたち家族は玄関からの出入りをやめて、洋室のガラス戸を開閉して、室内にマットや新聞を敷いてそこへ靴をぬいだ。
 折角温まった玄関の扉を開けてはジェニイが寒いし、人の出入りの都度狭い玄関を通っては、ジェニイもおちおち横になっていられまい。だから玄関はジェニイに占拠させるつもりでいたのだが、わたしがそれを言い出す前に娘が提案した。妻もわたしも無論、異論のあろう筈がない。

 次の日曜日に娘の意見で、ジェニイを少し離れた貝塚公園に連れて行った。ここへは幼犬のとき家族で遊びに来たことがある。
 その頃のことを娘は思い出していたのだろう。晴天の下の芝生の丘陵を弱々しい足どりだが、それでも嬉しそうに歩いた。わたしは、そっと用意しておいたチーズをジェニイの鼻先にさし出した。
 パクリ、とジェニイは、一口で呑み込んだ。もう
一つ与えた。これも食べた。しかし三個目は食べようとしなかった。芝生の上で写真も撮った。
 小一時間ほど公園で遊び、妻の運転する車にわたしがジェニイを抱いて乗り、帰ってきた。
 晴れた日は玄関を開け放ってジェニイは外の陽だまりで横臥していた。その間にわたしは玄関内の排泄物を掃除した。最初は汚れたタオルケットなど、そのまま捨てていたが、やがて専用のバケツを買ってきて洗濯をして使うことにした。家の周囲のフェンスには、タオルケットがズラリ掛けられ、夕方までには乾いて、たたむと陽のぬくもりでふかふかしていた。
 雨が続くと、その間は狭い玄関の中に寝たきりで、外気にも触れられず憂うつだったに違いない。
 週に二度の通院は、妻の勤務が終えて帰宅してから、わたしがジェニイを抱いて病院へ直行し、午後七時迄の診察時間にやっと間に合うせわしいものだ。
 胸水を二OOミリリットル位抜くだけの処置で、もう薬も不要な状態になった。
 食べ物も殆ど口にしないので大便は全然出ない。それでも小便は猫のトイレに使う砂をやや大きめの箱に入れて傍に置いてやってあるので、尿意を催すと、ジェニイは力をふりしぼって起ち上がり、尻をトイレにもって行く。巧くいくこともあるが殆ど外に出てしまう。用を足し終って寝床に戻りタオルケットの上に立ったまま失禁していることもあった。
わたしは泪が出た。ジェニイがそこへ座らぬうちに急いでタオルを交換してやった。
 寝ているときでも、四、六時中、ジェニイの後脚は小刻みに震え続けている。
 「痛々しくてとても見ていられない」と医者に言うと「端で見ているほど苦しくはないんですよ、ほんとうに苦しいときは動物はもがいたりしますよ」と言った。

 三月十八日だった。ジェニイは小さなミートボールのような大便を四個排出した。何日も排便していないので便は石の様に硬くなっていて容易に出て来ない。姿勢も健康時のような排便の姿勢はとれず、横臥の姿勢のままで力んでいる。わたしは肛門をマッサージしてやり、ボール状の固い便が出かかったところで直腸を食指と母指ではさむようにしてしごいた。ぽくり、ぽくりと固い便が出た後から下痢便が出た。わたしは、ぬるま湯でタオルをしぼり尻を拭いてやった。肛門が裂けて血が滲んでいた。
 ジェニイは横臥の状態から伏せの姿勢に戻るのにも、わたしが手を貸さねばならなかった。それほどの衰弱のなかにも、排便の苦痛を乗り越えた安堵の表情がよみとれた。
 この頃から、ジェニイは水も飲まなくなった。スポイトで無理に水を流し込むと幾らかの水を飲んだ。
 庭先にタオルケットを広げ、その上に躯を横たえ、陽光が充ちて風もなく温暖なのだが、ジェニイの後脚はいつも震えている。
 わたしは、ジェニイをバスタオルで包むようにして抱いて公園に行った。かっては十六キログラムあった体重も十キロ前後にまで痩せてしまった。しかし、どこにも力の入らない生き物を両腕に抱えて歩くのは腕が疲れる。僅かに三〇〇メートル程の道程を行くのに、わたしは腕の疲れにたえなければならなかった。
 「公園だよ、ジェニイ」そう言ってジェニイの顔を覗いたが、ジェニイは無表情だ。ついこの間まで、わたしにふざけっこを挑んで遊んだその公園に来ても、ジェニイは無感動のままで小刻みに震え続けている。わたしは泪がこみあげて来た。野球帽の庇を掴んでまぶかに冠り直した。

 水を飲むだけになってから大分たった。近頃は、それも自力では出来ず、わたしが、スポイトで飲ませてやっている。しかしその水さえも一時間くらいで黒褐色の下痢便となって出てしまう。ジェニイは起つことも出来ず腹ばったままのたれ流しだから、下腹部から尻尾の周りは便にまみれる。気のついた都度、わたしはおしぼり拭いてやった。
 ジェニイの衰弱は更に進んで、蛙が自動車に轢かれたような恰好で臥るようになった。わたしは安楽死を考えた。だが娘が強く反対した。一旦は娘の意見に同意するものの、常時ジェニイの苦痛を見続けているわたしの心は何べんも揺れた。妻と相談して娘には「自然死を装って、今日は医者に頼んでみよう」と話合って行くのだが、病院へ行くと何にも言えず、治療を済ませては帰宅することになった。これを二、三度繰り返した。
 がま蛙の干物のような姿になったジェニイは、もうそれ以上の姿勢をとることさえ出来なくなった。わたしの「もう楽にしてやりたい」という気持ちは一層募った「もう死んだのでは・・・」時々そう思って玄関に来てみると、オイルヒーターの下に鼻先を突込んで動かない。「死んだか」じっと見つめていると例の右脚の痙攣がビビッと傅波する。
 こんな状況が何日か続いた。わたしは決意した。娘や妻とも、もう一度話合った。
 「ジェニイは単に生存しているだけだ。この先、何日もつか解らないが、もう楽しいことなどないだろう。いや生存している事の方が苦痛なのかも知れないよ。してあげられるだけのことは、してやったと思っている。どうだろう楽にしてやっては…」
娘もそのときは強く反対しなかった。
 三月二十日、妻とわたしの二人が病院へ行った。医者もわたしの意見に同意した。
 「そうですねぇ。この犬もそれを望んでいるかも知れません」とわたしに向って言った後、小刻みに震えているジェニイの頭を撫でながら「ジェニイちゃんよく頑張ったね!」と声をかけた。わたしは、目深に冠った野球帽の庇の下の顔が、涙でぐしゃぐしゃになったが、医者がいる間は拭おうとはしなかった。

心臓の停止したジェニイを抱いてわたしは車に乗った。ジェニイはまだ温かだった。わたしの体温とジェニイの体温が流れ合っているようだった。
ジェニイは優しい表情をしていた。生きていて眠っているような顔だった。
                                    (完)               

さよならジェニー

さよならジェニー

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted