綴り
一
建物の壁に立てかけた梯子の天辺にある一段に腰を落ち着ける青年は,傍から見上げていると,即席の階段を利用して,そこから見える見事な景色を楽しんでいるように見える。手をかざして庇を作り,例えば,遠い地平の彼方,波に割れる陽の光の向こうから登ってくる,白いマストを見つけている。旅をする代わりに,旅を迎えている。誰も迷うことのないように,灯台の務めを果たしている。青年は照らすのだ。ここまでの道を,正しい道を。
と,その青年のことを本当に傍から見上げて,彼の『内なる紙面』に次回作の出だしを書き出している劇作家のそれらの言葉は,しかし青年の何ひとつも正確に捉えていなかった。確かに青年は壁を背にして,器用にも,上りきった梯子の一段に腰掛けて,椅子のように座って,手で作った庇を当てて,遠くを見つめているようである。口もとで驚きを表現したりして,それを楽しんでいるように見える。見張り台の上で遊んでいるようである。しかし,青年が置かれている状況は,まるで違うと首を振る。青年が直面している問題は,青年の傍に寄り添い,長年の友のように青年と肩を組んでいる。青年がひねり出したアイデアは,泡と弾けるか,宙に浮かんで飛び去る。青年はそれを見届けている。青年が驚いたのは,大きな翼を広げて,惚れ惚れする飛び姿を見せていた一羽の鷹が,鳶の真似をして,くるくるっと旋回し始めたからで,興味のない人からすればどうでもいい(現に劇作家は何ひとつ気付いていない),観察に逃げている最中のことだった。青年は困っていたのだ。布はある。鋏もある。糸もあるし,針もある。そして,それを扱える技術もある。なのに,必要な長さを測るすべがない。足りないことが宜しくない,ということは誰でも想像がつく。反対に,大は小を兼ねる,ということで,長めに作るのが良いかといえば,決してそうではない。なぜなら,青年がその作製の依頼を受けた夜の帳については,この世界にぴったり合うことが厳しく求められる。そうでないと,夜が正しく訪れない。夜が正しく訪れないから,ランプも用無し,絨毯も飛べず,語るべき事も失われていく。それらが失われていけば,悲劇が起こりうる。取り返しのつかない悲劇。したがって、夜の帳に伴う責任は極めて重大である。青年はそれを正しく理解している。だからこそ,青年は困っている。青年は魔法を信じていない。しかしながら,青年は魔法が使われることを拒みはしない。だから青年はその内心で唱える。箒に乗った魔法使いが,たまたまここに通りかかって,偶然にも測定していた,覆うべき世界の長さを手短に教えてくれ,何の見返りを要求することもなく,親切だけを残して去っていってくれる,便利な魔法でも降ってきてくれないか,と。もちろん,そんなことは起こりはしない。青年の前に,世界はどこまでも広がっている。
世界を渡り歩いてきた,といえば,通りをまっすぐに歩くその踊り子,彫り込まれた顔つき,一目で分かる黒目がち,歩く力を見事に伝えるシルエット,いつもは左右に揺れる長い髪を,今は綺麗にまとめて,結んで,日が高いということもあってか,腕輪に指輪を一つずつ身に付けるに留めているその人である。幼少の頃に一座に拾われ,飲み込みの良さから,一座の長で,一座で最も優れた踊り子から,手取り足取りで,厳しく踊りのイロハを叩き込まれてきた。十の頃には技術,魅せ方という点でその師を超え,客にも受け,二十を迎えるひとつ前の現在,名実ともに一座を代表する踊り子になった。恐らくこれからもそうである,と一座の長を始め,一座の皆が口を揃える。本人もそのつもりである。切磋琢磨の日々,その苦労のひとつ足りとも表に出さない。楽しんでもらうのは見事な踊りと,翳りのない美しさだけで十分である。だから踊り子はまっすぐ歩く。同じく踊り子に魅入られた天上の神から,立ち止まる必要を未だ教えて貰えていないのである。
と,彼がいう『天上の神』と同じように,視界に入れてしまった踊り子から,目が離せなくなった劇作家の即席の恋心を謳った言葉の数々は,しかし梯子の上の青年の時とは違い,概ね当たっていた。ただ一点,大いに違うのは,踊り子の彼女は今,一座から逃げている最中だということである。記すまでもない程にありふれた事で(例えばお菓子の盗み食い),一座の長に叱られた彼女は,今なお持ち続ける幼い気持ちに突き動かされ,「もう大キライ!」と言い放って,興行のために,街の宿屋に留まっている一座から家出をした。そういうことだから,今の彼女は「なによ,なによ!」という言葉の度に刺激されて,跳ね回る憤りに内心が満たされて,ささくれている。実は,通りに転がる小石をひとつ蹴って,蹴って,歩いている。したがって,彼女はなかなか通りの角を曲がることが出来ない。蹴られる小石がコロコロと,その先を行く。小石なんて放っておけばいいじゃない,という助言ないし指摘を,今の彼女にしても無駄である理由は言うまでもない。意地は彼女の良さでもある。その意地が,常に彼女に良く作用する訳でもないのもまた,当然である。そうであるからこそ,彼女は意識の片隅で,いつものようにしっかりと,ここまで歩いてきた数を数えている。繰り返しになるが,概ね当たっていた劇作家が勝手に評した通り,踊り子である彼女は,今まで世界を渡り歩いてきた。だから彼女は知っている。より正確に言えば,日頃の訓練として,差し出す足の歩幅ですら律してここまで歩いてきた彼女のそれをもってすれば,世界のそれを推し量ることができる。それを基に裁断し,針に糸を通し,その針で縫い付けていき,ひとまず完成したのなら,それを広げて寸法を確かめ,ぴったり合うならそれでよし。そうでないなら,布が尽きるまで,同じことを繰り返し,同じことを繰り返して,完成させる。夜の帳。落ちれば物語が始まる。
ここにきて,通りに突っ立っている劇作家の彼が見惚れている真っ最中であるために,その内心においても何ひとつ記すことをしないため,何の前置きもなくしゃしゃり出てきて,代わりに述べておかなければならないのは,さて,二人はどうやって出会うのだろうか,という極めて重要な点についてである。実に悩ましい。その経緯が千通りあってもおかしくはない。どれもウソで本当となる。どこでどう転がっていっても,文句のひとつも言えそうにない。さてどうするか。魔法のひとつでも使ってみるか。
とふざけた真似をして,間を持たせる必要が無かったとここで記せるのは,劇作家の彼,ではなく,その背後の建物の壁に立てかけられた梯子のおかげである。劇作家の彼も目に止めた。高さは目立つ要素である。人だかりは興味を引く事態である。劇作家の彼は,だからその場を立ち去れなかった。ささくれている彼女も,幼い気持ちを持っている。それに動かされて,泣いて笑い,悲しみ喜ぶ。彼女は世界の一つひとつを思い,手に取り,放り投げ,また拾う。つま先の加減を間違えて,まるで舞台からの退場を申し付けられたように,蹴られた小石の姿が見えなくなってしまった所で,彼女は顔を上げた。耳に入ってきてはいたが,確かめる気持ちを持てなかった彼女はそこで,梯子に気付いた。その一段,一段を追うことなく,天辺に座るのは例の青年。
その手で庇を作ることをすっかり止めて,青年はそこからの景色をただ見つめている。すべきことがある彼だから,周囲の集まりを気にしていない。彼は悩んでいる。依頼人から頼まれたことを,世界にぴったり合うように夜の帳を作製して欲しいと,作製したいと,足りないものを補う術を探っている。遠い景色,一直線。都合よく頼ろうとしたことも含めて,魔法のことなど彼はすっかり忘れていたが,目の前のことについてはそうではない。彼のそれを追っていけば,目の前,視線を動かして眼下,意識して足下,再び戻って街並み,その整然とした美しさ,再度戻って,人だかりから少し離れた所に立つ人。女の子?
遠くて見えないとすぐに関心を移す青年は,しかしもう一度,関心を持つ。(大きな声で)声をかけられた訳ではない。踊り子の彼女にしたって,梯子の天辺に腰かける青年の意図に興味を持っていない。気になったのはその先だった。周囲の建物に阻まれて,通りからでは決して見えるはずがない。なのに。
だから,青年の方からは,踊り子の彼女の姿は目立って見えた。つま先立ちに続いて,その場で二,三回跳んで,庇を手で作り,向こうを見ようとしている姿。こっちを見ている人だかりと,見比べてしまう姿。青年がそっちを見ていないことに気付いていない姿。しかし,それも長く持たない。見えやしないのだから,彼女の興味もすぐに失せる。だから彼女は立ち去ろうとする。だからもう一度,その姿を見てやろうと思い,そちらの方を見る。彼女は見る。
だからやっと,安心して綴ることができる。千通りのひとつ。また聞かせて欲しいと望まれる前に,帳を忘れて。
朝を迎える。
綴り