花たちが咲うとき 六

花たちが咲(わら)うとき

第六話 ~傘~

 バイクをいつもの場所に止めると、(まぐさ)はヘルメットを頭から引き抜いた
こう湿気が多いと、いちいちいろんなものが肌に張り付いてくるようで気分が悪い
邪魔くさい前髪をかき上げて、レザージャケットの雨粒を払った
―― ここ最近、(うばら)は音沙汰無い
それは最近が平和である証拠であり、とても喜ばしいことなのだが、艸には少し不気味に思えた
こちらから茨に連絡を取ろうとしても繋がらず、あの春の一件以降完全に雲隠れしている
今まで全く無かった出来事というわけではないのだが、この胸騒ぎのような違和感に答えをつけられないまま日にちが過ぎていく
こうなってくると、そもそもそんな男の存在など無かったのでないかと思えてくるから不思議なものだ
そんな事を考えていると危うく階段を上がりすぎるところだった
一段目に掛けていた足を戻し、回れ右で廊下を歩く
真っ白な床と壁に囲まれた通路を少し眩しく感じながら、一番奥の自分の部屋に向かっていると玄関横に立てかけてあるものに目が留まった
―― 傘か
女性物か、淡い浅緑の布地にレースで花があしらわれている傘が、止め具も外された状態でそこにあった
当然、艸には見覚えの無いものだ
誰かがこの近くに放置されていたものを適当に艸の部屋のドア横に立て掛けたのか。迷惑なことをしてくれたものだと思いながらも、このままにしておくわけにもいかないので、その傘の柄を持った時だった
掴まれた――
そう認識するまでに少し時間をくった
右手首に感じる圧迫感に思わず傘を取り落とす
傘と自分を繋ぐ黒いもの
それが腕であると気づいた瞬間
夜宵(やよい)』が一閃した
そのあとの行動は早かった
会計の電卓にも負けぬ速さで暗証番号を打ち込んで指紋を認証させると、艸は部屋に飛び込んだ
真っ暗な室内で背を預けたドアの平らな感覚だけが、ひんやりと伝わってくる
沈黙がやけに気味悪い
壁もドアも厚く頑丈に作られたこの部屋の中では、外でどのようなことが起こっているか判断できない
いつの間にか乱れた呼吸を慎重に整える
用心する癖が付いていて本当に良かった、と艸は嘆息した
うっかり利き手で傘を掴んでいればこう簡単に抜け出せはしなかっただろう
先ほど視た傘内部に広がる永遠のような漆黒とそこから覗いた眼光の生々しさが蘇り、未だ腕を掴まれているような感覚に襲われて右の手首をさする
真っ暗な室内から先ほどの瞳が覗いてくるような錯覚に身震いした体を鞭打って、艸は電気のスイッチに手を伸ばしたのであった


※※※


 寝たか寝ていないかも分からないうちに外は明るくなっていた
艸はベッドから重たい体を起こし、洗面台で髭を整えようとシェービングフォームを手に広げようとした時にふと気が付いた
右手首の色が違う
袖を少しまくってみると、手首を一周するように帯状の痣ができてしまっている
よくよく見ると指の痕までぼんやり残っているものだから、艸は舌打ちをして手首を水につけた
昨日の事がすぐ頭に浮かんだが、その時はそれほどの痛みは感じなかったはずとぼんやり考える
睡眠の足りない鈍った頭ではまともな判断はできそうになかった
この季節なら長袖を着れば隠せるものなので、今はそれ以上考えないようにした



 そっと隙間を作るようにドアを開いてみる
白いタイル床に朝日がさして鏡に光が反射しているように眩しい
左手に『夜宵』を構えたまま、もう少しドアを開いてみるが当然のようにいつもの通路が横切っているのみだ
十センチほど開いてみても何も出てくる様子はない
こうなると気になるのは扉の後ろだが、このままドアを開いていくのは得策ではないと考えた艸は、一旦ドアを閉めた
ふー、と息を吐きながらドアの正面に立ちなおすと、一拍置いたのちドアノブに手をかける
そして、思いっきり勢いをつけてドアを全開にしたのだ
開きすぎてドアが壁にぶつかりそうになる
しかし、ドアノブを掴む艸の掌には確かに何かがぶつかったような衝撃があった
何より――
「ギャッ!」
―― という声が聞こえたのだった
ぶつかった衝撃の重さから人ではないのは確かであるのに、声が聞こえたことに嫌気がさしながら艸は廊下を見渡す
あの傘が転がっていた
「一度ならズ、二度まデモ……」
そう呻きながら内側から黒い靄のようなものが這い出ている傘が、壁際にまで吹っ飛んでいた
これ幸いと、艸が階段のほうへ駆け出した時だ
「お前に呪いをかけタ!」
その言葉が背中から刺さった
思わず足を止めた艸の背後では、転がった傘から這い出すように黒い腕が伸びているが、その右腕は途中で無くなっている
「貴様の右腕に付けた痣ハ、いずレそこから腐っテ右腕を朽ちさせるダロウ!」
「……、そうか」
足を止めたままだった艸は踵を返して傘に歩み寄る
その様子に満足そうに蠢いた黒い靄は、揚々と話を続けた
「それが嫌なラ、言うことを――」
ガンッと鈍い音が廊下に沈んだ
艸が石突きの部分を踏みつけたのだ
傘が動かないように固定した艸は、だらりと垂れた左手に『夜宵』を握っていた
その左手がゆっくり振りかざされ、白刃の上を光が滑る
今にもその光が振り下ろされんとなって、靄は風に吹かれたように蠢きだした
「ギャァア! ゴメンナサイゴメンナサイ、それホントにイタイから! ゴメンナサイ!イタイイタイイタイ!」
まだ何もしていないというのに「痛い」と喚きだした傘に艸も動きを止めた
昨日、艸に切り落とされて不格好になった右腕をジタバタと振り回している様子に、艸は振りかざしていた腕をゆっくり下げた
ジタバタしている割にまったく逃げられていない傘を見下ろしながら、艸は尋ねる
「で? どうしたらこの痣は消えるんだ?」
落ち着きを取り戻したのか、騒ぐのをやめた靄は力を無くしたようにぐったり動かなくなったが、しばらくしてため息に近い声で囁いた
「……数日したラ消えるだろうヨ。呪いというのハ、嘘だからナ……」
「……そうか」
力なく答えた傘から踏みつけていた足を退かし、艸はさっさと階段に向かった
傘はもう、何も言ってこなかった



 しかし次の日も、その次の日も、傘は壁際に転がったままだった
もしかしたら只の傘に戻ったのでは、と思いながらも艸は再び声をかけてみる気にもなれず、かといって玄関先に留まり続ける傘をいい加減気味悪く思っていた


※※※


「なるほど。それで私のところに来たわけだね?」
「……あぁ」
 さすがにあったことをすべて話すわけにはいかず、艸は彼女にそれとなく傘の怪異について知りたいということだけを簡潔に伝えた
「傘といえば『からかさお化け』だよねぇ」
そう言って、るんるんと本棚を漁り始めた彼女の背中を艸は白い目で見送った
何冊か本を取ってくると、机の上に広がっていたてるてる坊主の材料を押しのけてそこにドンと置く
その衝撃で机の端に追いやられていた物の一つがポロリと落ちる
あ、と艸が手を伸ばそうとしたが、それより早く彼女がそれを受け止めた
「っと。危ない、危ない」
「……それ」
「ん?」
彼女が間一髪のところで落下から守ったそれは、艸がてるてる坊主よりも気になっていたものだった
さっきは、彼女が淡々とてるてる坊主について語りだしてしまったので聞き出せなかったのだが、それとなく艸が指差すと彼女は嬉しそうに笑った
「これ? おみやげ」
「みやげ?」
「そ」
そう言うと、彼女はそのシンプルながらもセンスのいい菓子袋を艸に見えるように突き出した
艸は改めてその菓子袋のデザインとブランドを確認する
「やっぱり有名どころじゃねぇか。しかもそこそこ値も張る。お前実は良いところの人間か?」
「おみやげって言ったじゃんか。私の地位は関係ないと思うけど?」
「貰い物はその人の地位も映す。一般人がみやげに高級品を貰えることがないように、有力者へのみやげがご当地ストラップじゃ駄目なのと一緒だ」
「……あー、なるほど。でも絶対じゃないでしょ? これくれた子が良い子だったんだよ」
「……」
「心配しなくてもここで食べたりしないよ。図書館内は飲食厳禁、本にも良くないしね」
そんなことより、と続けた彼女は本のページをパラパラとめくった
「これこれ。やっぱり『傘ばけ』と言えばこの絵だよねっ」
そう言って艸の正面に紙面を広げる
蛇腹傘の柄の部分が下駄を履いた一本足になっており、傘の部分に一つ目、ペロリと出した舌が愛嬌を感じさせる
彼女が次々に広げていく本には同じような傘のイラストがあるが、所々違う箇所も見受けられる
腕が生えているものや、足が二本生えているもの。足の形も、人の足もあれば鳥や獣のように見えるものもある。目が二つ付いているものもあるようだ。
艸が視たあの傘の目は一つに見えたが、目があるのは傘の内側。影がさしているのとは違う質の闇の中に浮き出るように目玉が見えた
足も無かったし腕なら艸が斬り落とした
それにしても和傘だから絵になるものだが、この絵を洋傘に当てはめると何とも間抜けだ
いっそそんな間抜けな格好で出てきてくれたら笑えただろうに、と艸は内心ため息をついた
そんな艸のことなど露知らず、彼女はいつもの説明口調で話を続けている
「『からかさお化け』は付喪神の一種と考えられている。ただ、有名なわりに文献や伝承が少なくて詳しいことは分からないんだよね。何か独特な悪さをしているというわけでもないし。ま、善行をしたとも無いけど
あまりにも名前だけが有名になっているから、偽怪なんじゃないかなぁって私は思っているんだけど……」
「偽怪?」
「妖怪分類の一つ。妖怪は大きく『実怪』と『虚怪』に分けられて、『虚怪』を更に二つに分けて『誤怪』と『偽怪』があるの。妖怪のほとんどが『偽怪』で、人によって作られた妖怪。要は嘘っぱちってこと」
「嘘……」
ではアレは妖怪とは違うのか
そもそも艸は『妖怪』といわれ残されている絵の姿形と同じものを、未だ視たことがない
獏鬼(ばくき)』はそこそこ似ていた気もするが、それくらいだ
所詮嘘ものと言うことなのか。それとも人の目が正しく捉えていないまま絵として残ったのか、それとも――
艸の目がおかしいのか
「あっても誤怪。言葉通り人の誤解が生み出したもの
傘が風に吹かれて飛ばされた姿が、ぴょんぴょん跳ねているように見えたとか」
「……そうか」
そこまで聞いた艸は、不意に違和感を覚えた
それがハッキリしないうちにも、彼女は話を続けている
「まあ、害があるものとは思えないし、放っておいても……。あ!」
「なんだよ」
急に声をあげた彼女は、うっとおしそうに見返した艸に興奮気味に詰め寄った
「その傘! まだ君の部屋の前にあるんならさ、ここに持ってきてよ!」
「はぁ!?」
「見てみたいんだよ! ね?」
「「ね?」じゃねぇよ! あんな不気味なもん持って来いっつうのか!?」
「うん」
「「うん」じゃねぇし……」
「現物見たら何か分かるかもしれないよー」
「……」
未だ興奮冷めやらぬ彼女から嫌々視線を逸らした艸は、肯定とも否定とも取れる沈黙を続けた
そんな艸の様子に、彼女は風船がしぼむかのごとく表情を変えた
すねたように唇を尖らせて、どことも無く視線を横に流した彼女は、不平を零す子供のようにいじけた声を出した
「ま、君がそこまでしてくれる必要は無いか。君には私なんかより頼りになる人が居るようだし」
「……は?」
思わず片眉を上げた艸の脳裏には茨の顔が浮かんでいたが、彼女にそのことを話した覚えは無い
艸はなるべく動揺を悟られぬように、言葉を紡いだ
「どうして、そう思う?」
「ん? 春にあった集団昏睡事件。君さ、私が「全く分からない」って言ってもそんなに焦ってなかったでしょ? それどころかさっさとどっか行っちゃうし。こりゃ、バックに誰かいるなぁって思ったわけ。違う?」
違う、とは当然言えなかった
あの時は最悪茨に会えれば何とかなると思っていたのも事実だ
妖怪なんて在るか無いかも分からないものにご執心している割には、中々現実的な部分を見ているものだと、艸はこっそり感心した
傘の件については茨にも連絡を取ろうと試みたが、相変わらす連絡は取れずじまい
何か参考になればと彼女を訪ねたことも事実だ
ストレートに言ってしまえば、金のかかる茨より彼女のほうがお手軽に情報を得られる。質は落ちるが簡易的な予防策のようなものだと思っている節はあった
何となく居心地悪そうにしだした艸の様子に、彼女はやっぱりと言いたげに笑った
「ま、いいけどね。君が私をどう思っていてもさ。私はこうして君から面白い話を聞けているわけだし」
艸から距離を取った彼女は、机のほうへ戻っていく
紫陽花を水晶に閉じ込めたような玉簪が、彼女の黒髪の流れに留まるように刺さっていた
「ま、気が向いたら明日もおいで」
暗に「傘を持ってくるなら明日も来い、そうでないなら来なくていい」と言うことだろう
もしかしたら怒らせてしまったのかもしれない。大人っぽい顔立ちのわりに中身が子供っぽいようだ
本を片付け始めた彼女の背中が、再び振り返る前に帰って。と言っているように感じ、艸はさっさと書庫の階段を下りていった


※※※


「まったく……、散々な目に会いましたよぉ。誰かさんのせいで」
 ボソリとつぶやいた声は雨音にかき消されそうに小さかったが、まっすぐ相手にまで届いたようだ
(こう)は障子戸を静かに閉めながら、背中越しに聞こえたその声に振り返る
茨の小声にあわせるように紅の声もいつもより囁くような声色で、情緒を感じさせるようなものがあった
「まさか貴方が黄色い方の傘をさして出て行くとは思わなかったので」
どこか皮肉を含んだ笑みを浮かべながらそう告げた紅に、茨は大げさにため息をついた
「黄色の方さしたっていいじゃないですか……」
「別に文句を言っているわけではありません。ただ、あの黄色一色の傘は児童用で白い傘に比べて長さも短かったはずだったので、白い方を使うと思ったんですよ」
「あ、そうなんですか」
「だそうですよ。ですから白い傘にはわざわざ『(はらい)』の札を貼って差し上げたというのに……」
「途中で気づいてさし替えましたよ
あらかじめ言ってくれたっていいじゃないですか……。おかげで『天司(あまつかさ)』に追い回されて、茱萸(しゅゆ)がそいつらを撃退するためにポスト一個を鉄クズに。田んぼ二畝分にクレーターを作った挙句、数ヵ所に道路陥没の被害が出たんですから……」
茨はその後の修繕作業の苦労を思い出したのか、思いため息を吐いた
「久しぶりに良い運動になったでしょう? 貴方は痩せすぎです。茱萸に任せてばかりおらず、少しは体を鍛えなさい」
「……」
梅雨時期以上にジットリとした視線を紅に向けた茨だったが、やがて諦めたように視線を庭に逸らせた
宵闇に覆われた庭は真っ黒に塗りつぶされた絵画のように、何も見せてはくれなかった
そんな茨の様子に流石の紅も問答が過ぎたな、と口元に笑みを浮かべる
「ふふ、ごめんなさい。また匿ってあげますから許してくれませんか?」
「……はぁ、どうも……」
なんとも力ない返事をする茨に紅はただただ笑みを浮かべるばかりだ
しかし、不意に視線を逸らして茨の横でちょこんと座っている茱萸に目をやった
彼女の手元には茨が捨てたはずの黄色い傘が握られていた
「茱萸はその傘がずいぶんお気に召したようですね」
「あぁ。ボクにも理由は分かりませんけど……」
「まぁ、元々差し上げるつもりで渡したので貰ってくれて構いませんが」
「……だってさ」
そう言うと茨は茱萸の頭をポンと叩いた
茱萸は相変わらずの無表情ながらも、少しだけ顎を引いたように見える
決して朱が入ることが無いはずの頬が、僅かに血色を取り戻したように見えたのは気のせいだろうか
紅はそんな二人を微笑ましそうに見ていると、ふと思い出したように呟いた
「……ところで、そろそろではありませんでしたか?」
「へ? 何がです?」
今日の仕事は終わったし、この後予定なんてあったっけかなぁ。と呟きながら首をかしげている茨を一瞥した紅は、短く息を吐くと焦らす様に言葉を並べた
「……あの方なら私がいくら匿おうとも、ここまで嗅ぎつけてくると思いますよ。自分の娘のためなら例え火の中水の中……、な方ですから……」
その言葉を聴いた瞬間に茨の表情が変わった
ただでさえ血色の悪い肌が青ざめ、煙草に伸ばしていた手が微かに震えている
茨はカタカタと出来の悪いからくり人形のようなぎこちない動きで紅へ向き直った
「き、来ますかね……、ここまで……」
「ええ。来るでしょうね」
紅の斬り捨てるような言葉に、茨は震える唇で煙草をくわえた
そのまましばらく、茨は煙草に火もつけず震えていたのだった


※※※


 あの後、書庫から出た艸はそのまま図書館でレポートに必要な本を探してから学校を後にした
夏が近づいてきているといっても、日が暮れるのもまだ早く、夜には冷えた風が吹く
おまけにこの天気ではなおさら暗く感じるものだ
目的の本を見つけ出し図書館を出たときには、灰色の空は夜の暗さに混ざって闇が落ちていた
借りた本を濡らさぬよう折り畳み傘を広げ、すっかり人気の無くなったキャンパス内を歩く
どこの学科専用校舎でもいくつか明かりがついているが、ほとんどが教員室だろう
五限目の授業をしているところもあるだろうが、五限に入っている授業は少なく、特殊な科目が目立つので取っている人も少ない
四限後に高確率で実験があるバイオサイエンス学科は別だが
義務教育の時期から部活等に所属していなかった艸にとっては、学校に遅く残るという経験が無い。ポツリポツリと四角く灯る教室の光を見上げながら駐輪場に向かった
「……また、お前か」
駐輪場に到着し、傘を畳んでいた艸の目の前に居たのはあの黒猫だった
艸のバイクが相当気に入ったらしいその猫は、座席の部分で丸くなっている
流石に今日は猫が退くまで学校で時間をつぶす気にもなれず、シッシと猫を掃うように手を振った
「にぎゃっ」
「って!」
急なことだった
急に目を見開いたその黒猫が艸の振っていた手の甲を引っ掻いたのだ
黒猫はあっという間にバイクから飛び降り、夜に紛れて見えなくなった
真っ赤な線が三本浮き出た右手の甲を抑えながら、艸は一つ大きなため息をついて肩を落とした



 いつも通りマンションの階段を上がっていた艸は、降ってくる様な話し声を聞いた
話の内容から、おそらくどこかの階を清掃している業者のようだ
その声は艸が階段を上がっていくほどに、大きく鮮明に聞こえてくる
「忘れ物にしてはずっとここにあるよなぁ」
「いい加減処分するか」
その会話は艸が階段を上りきって廊下に出た時に、清掃員の姿を視認すると同時に聞こえた
その清掃員二人に壁際に追い詰められるように囲まれているのは例の傘だった
「あ、それっ……」
艸が咄嗟にあげた声に、清掃員達の視線が集中する
しまったと思ってももう遅い
全身を刺す様な感覚に、艸の体は粘土固めにされてしまったように動かない。唯一動かせる視線だけが嫌な空気を振り払うかのように右往左往する
「えっと、貴方のですか? この傘」
清掃員の一人が手元の傘と艸とを見比べながら、疑惑の表情を浮かべている
当然だ。その傘はあからさまに女物、眼前の髭面強面男の私物には見えないだろう
艸は自分の手を必死の思いで持ち上げて長くうねった前髪を梳くと、自分の顔を隠すように位置を直した
「いや、その……」
どうもハッキリしない態度の艸に、傘を持った清掃員はさらに表情を疑惑のものに変えるが、その隣に居たもう一人がそんな同業者の脇を肘で突いて薄ら笑いを浮かべた
本人達はひそひそ話しをしているつもりなのだろうが、その会話は艸にもしっかり聞こえていた
「野暮ですよセンパイ。彼女っスよ、彼女」
「……、そうなんですか?」
「…………ハイ」
若干投げやりになった艸の返事に、これ以上時間をとられるのを面倒に思ったのか清掃員は艸に傘を手渡すと、さっさと下の階に下りていった
足音が階下へ遠ざかって聞こえなくなると、艸は思わず息を吐いてがんじがらめになった緊張の糸をほぐすように首を回した
「ナゼ?」
手元から聞こえてきた声に、艸はその傘をドア横に立て掛けた
「しらん。聞くな」
「知らなイって、自分でしたことだろウ……」
艸を覗き見るように、傘の内側から黒い靄が見え隠れした
暗証番号のボタンを押そうと人差し指を立てたまま、艸は傘を見下ろす
「お前、自分で動けないのか」
「動けていタラ、とっくに帰ってイル」
あの時、書庫で感じた違和感はこれだったのだ
もしこの傘が『傘化け』なるものだったならば、自分で動けていたはずだ
彼女いわく『傘化け』は傘が風か何かで動いている姿を妖怪視したもの。あの絵の全てに足、つまり動き回るための部位があるのがその証拠
つまり「動いている傘」がそう言われるのなら、この動けない傘はそうではないということになる
少なくともこの傘と『傘化け』は無関係なのだろう
「帰る……?」
「持ち主のところダ」
「……帰ろうが帰らまいが勝手だが、傘なんざ所詮消耗品だぞ」
「……分かってイル」
暗証番号を打ち始めた艸を、黒い靄からギョロリと瞳が覗く
「おマエ、人間が嫌イだろウ」
「……」
動いていた艸の指がピタリと動きを止めた
「私の持ち主モ、人間のクセに人が嫌いなようだっタ
我はあの日、彼女のくらすめーとなる者に学校から持ち出され、空き地に置いていかれタ。私はそこからいろんな人に拾われ、捨てられ……、ここまで来たノダ」
艸は再び番号の続きを打って、指紋を認証させる
「先程のお前ノ仕草は、彼女に似てイタ。彼女も人に見らレルといつもああして、長い前髪ヲいじっテ視線を下ゲテ、何かカラ逃げているように見エタ……」
ドアノブをひねった艸は眉間にシワを寄せて睨むように傘を見下した
苦々しそうに口元を歪めると吐き出すように口を開く
「……あぁそうだ。大っ嫌いだよ、人間も、――お前らもな」
バタンと荒々しくしまったドアに、傘は僅かにバランスを崩して倒れた
廊下の白に窓ガラス越しの夜黒が今にも溢れそうなまでに迫っている
靄はその闇から逃げるように傘の中に引っ込む
「……彼女は、無事に帰れただろうカ……
雨に濡れてしまわなかったろうカ……――」
ひとり言のようなその声は誰に聞かれることもなく、雨音に流されていった


※※※


 歌が聞こえる
雨を呼んでる
「雨の日はいいよね。この傘の下、居るのは私だけ
街は人も少なくて、静かで、嫌なもの全部洗い流してくれそうでしょ?」
少女は傷のついた両膝を抱えて、水溜りに躊躇無く手のひらを沈めた
「この傘の下だけは、私のだけの、私しかいない場所……」
波紋が一段と大きな円を描いて消えていく
「……でもね、いつか。いつかね」
水溜りに映った自分の顔を隠すように、水溜りの中の傷ついた手が開く
「私だけの場所に一緒にいてくれる人が、現れたら……」

―― 我が

 我がいる

 他の誰もがいなくとも、我は

 我だけは……

少女は知らない
その傷ついた手を慈しむように覆った
もう一つの手のひらを……――


※※※


 艸は昨夜のうちに見つけておいた黒い傘袋を手にしていた
流石に女性物の傘をそのまま持ち歩けば目立ってしまう
ちょうど今日の天気は曇りで、傘を畳んで持ち歩いていても問題はない。流石にバイクに乗って行くのは危険だと思い、バスの時刻表をスマートフォンで検索していた
本当のところバスは好きではないのだが、タクシーを使うと学校では目立つ。家の車を呼べば尚更だ
消去法でバスになった
傍らの鞄の中にはあの文庫本が入っている
夢の元凶だった本
バスを使うなら、その本を返す目的地を途中で通るのでいい機会だろう
狙ったかのように午後の授業も休講になって暇なので、あいつに鉢合うこともないはすだと自分にいい聞かせた艸は、スマートフォンをポケットに入れてソファから立ち上がった
玄関を開けると例の傘が倒れている
このような者たちに睡眠という概念があるかは知らないが、今見る限り黒い靄は出ておらず、静かにただの傘としてそこに転がっているのみだ
今のうちにと艸は傘を袋にさし入れ、マンションを後にした


※※※


 大学直行のバスは一限目開始前ということもあってか学生の乗客で埋め尽くされていた
艸はイモ洗い状態の通路に体を滑り込ませ、掴める吊革もないのでそれらを吊っている支柱を腕を持ち上げて掴んだ
こういう時に背が高いと得をする
それにしても前後左右に人がいて目のやりどころがないうえに、息が詰まる
バス酔いとも取れるような気持ち悪さを感じていたとき、バスが止まってまた客を入れようとドアを開いた
人がギュウと艸に詰めて寄ってくるのにうんざりしていた時だ
「あ」
聞き覚えのある声に艸が視線を上げる
前見た時以上に頭が金色になった葵だった
面倒なのに会ったな。と艸が内心毒つく
「お前、今イヤな奴に会ったとか思ったろ」
「……」
黙りこくった艸に合わせるように葵も口をつぐんだが、しばらくバスに揺られていると葵が小声で何事かつぶやいた
艸は自分に向けられたものでなないだろうと無視していたが、葵が憤怒の形相で小声のまま声を荒げた
「オレが嫌いだからって無視すんな!」
「あ?」
「あ、いや。だから……」
葵は少し周囲を気にするように視線を動かした後、小声でつぶやく
「あん時の、誰にも言うなよ……」
「あの時?」
「……春の」
春。といえばあの一件のことだろうが、艸には何を黙っていればいいのか見当もつかなくて、ボケッと人の合間から見える車窓の景色を眺めていた
それを否定の意にとったのか、葵は焦ったように声を荒げる
「言ったらぶん殴るからな!」
「……何を?」
「な、何って……。だから、春の……」
そういって再び黙ってしまった葵をよそに艸はポケットの中から小銭を漁った
狭い車内では腕を自由に動かすこともできず、乱暴な運転のせいで支柱から手を放すこともできないため、手探りで小銭を数える
「だから! オレが半ベソかいてたことだよっ!」
葵が嫌々吐き出した言葉とついでに出たかのような肘鉄が艸の左腕に当たって、せっかく数えていた小銭が分からなくなった
そのことに若干イラつきを覚えた艸だったが、葵に言われてあの日のことを思い出してみる
「……半ベソってか、マジ泣きしてたろ」
「してない! いいか!? 誰にも言うなよ! 」
肩を怒らせながらそっぽを向いた葵だったが、不意に目に止まったのは支柱に掴まっている艸の右手だった
「お前、それどうした? 真っ赤だぞ」
「あ? あぁ、猫にやられた」
艸の右手の甲には、昨日引っかかれた三本線が血の色か腫れのせいか赤く浮き出ていた
「猫?」
葵が不思議そうに首を傾けると同時に、終点の大学前についた
とっとと人の流れに身を任せて出口へ向かった艸の背後から、葵が何か言っていた気がするが、聞こえなかったことにした


※※※


「お久しぶりです」
 挨拶はよく交わすが、その挨拶はあまり聞き慣れないもので、管理人のおじいさんは不思議そうに振り向いた
「おお、にぃちゃんか!」
「はい。お忙しいところすみません」
白い頭を下げた香に、おじいさんはケタケタと笑った
「忙しいことなんかあるかいな。テレビ見ちょるだけじゃ。今日はどないした? 薊ちゃんなら学校じゃぞ?」
「いえ、以前お借りした傘をお返ししようと。遅くなってしまってすみません」
「おー、わざわざすまんの」
香が差し出した白い傘を受け取ると、おじいさんは脇にある何本もの傘がささった傘立てにそれを突き刺した
「そう言われればあれからだいぶ経つかの? 別にもらってくれても構わんかったが」
「本当はすぐに返すつもりだったんですが、弟が間違えて学校に持って行ってしまって、そのまま学校に置き忘れたり、……そんなことが重なってすっかり遅くなってしまったんですよ」
困ったように笑う香に、おじいさんも微笑ましそうに皺を刻んだ
「確かに傘の忘れ物は多いなぁ。ここも一ヶ月経って持ち主が現れん傘は、こうして貸し出し用に置いてあるんじゃ」
「いいですね」
「じゃろ? これなら返してくれんでも構わんし、私物にしてくれるなら傘もそれが嬉しいじゃろ」
「ですね……」
香は急に未練が出たように、傘立てに戻った白い傘のほうを一瞥すると思い出したように笑った
その笑顔があまりにも優しさに満ちていて、おじいさんもついつい笑顔になってしまう
「どうしたんじゃ?」
「あ、いえ。実はあの傘、知らない人に貸したんです」
「知らん人?」
「はい。雨の中を傘もささずに歩いていたので、つい……。すみません
だから、新しい傘を買ってお返しするつもりだったんですけど、所用でお邪魔した場所にあったんです。びっくりしちゃって」
口元を手の甲で隠すようにして笑い続ける香に、おじいさんは不思議なこともあるもんだ。と白い傘を横目に見る
「きっと、あの傘はここに帰ってきたかったのかなって……」
そう小さくつぶやいた香の瞳が、きゅっと細くなって年相応に笑って見えた
子供らしく、大人っぽいその笑みは香によく似合っている
「あ、それと……」
急に思い出したようにリュックの中を漁り始めた香に、おじいさんは身を乗り出した
「クロ……、以前ここに連れてきた黒猫なんですが、最近は俺の家によく来てくれるんです」
「ほお! あのクロ助は元気にやっとるのか!」
「はい! なので、このことを利根さんに伝えていただけませんか? 利根さんもクロのこと気にかけてくれていたようなので……」
そう言いながら取り出したノートをめくっている香を、おじいさんは口元をめいっぱい釣り上げてニヤニヤと笑みを零している
「なんじゃなんじゃ、そういうことは自分から伝えたほうがよいじゃろうに」
「そうかもしれませんけど……、俺が言うよりおじいさんから言われたほうが来やすいかなって、思ったんですけど……」
「素直じゃないからのぉ、薊ちゃんわのぉ」
顎をさすりながら絶えず歯を見せて笑うおじいさんは、香が差し出したメモを受け取る
住所と時間が書かれているようだ
「俺の家の住所と、クロがよく居る時間帯です。それを利根さんに」
「よし! この老いぼれ、及ばずながら若人のキューピット役にかって出よう!」
「え? えっと、よろしくお願いします」
急に出た「キューピット」という言葉に香は少し首をひねったが、とりあえず礼を言ってその場所を後にした
「若いって、いいのぉ……」
そんな声がロビーにしみじみと染み渡った


※※※


「へぇ、これが……」
 彼女の第一声はどこか期待外れ感を含んだものだった
いくら雨に濡れていないとはいっても傘を書庫に持ち込むのはそれなりに大変だったというのに、そんな対応をされると疲労感も一層増す
彼女は傘袋から例の傘を取り出すと、あからさまに女性ものの洋傘を見て艸も一瞥してから堪えるように笑った
「可愛い傘だね」
「はっ倒すぞ」
「ごめんごめん」
そう謝るなり傘をポンと開いた彼女の行動に、艸は思わず身構える
未だきちんと開いてみたことがなかったからだ
黒い靄がもくもくと出てきたり、目玉がボトリと落ちてきたり、傘の内側は真っ暗な闇が広がっているのではと、勝手に想像を膨らませていた艸はあまりにも簡単に開いてしまった傘に危機感を禁じ得なかった
彼女は開いた傘の表も内側も念入りに観察しているが、これといって反応を見せない
「穴も開いてないし、綺麗なものだね
でもしばらく使われてなかったのかも。少し内側に埃が……」
そう言うと彼女はその傘を自分のもののように肩にかけて、さして見せる
その傘の内側で目玉が一つ、彼女を見ていた
「いたっ」
咄嗟に傘を持つ彼女の手を叩いてたことで、傘は転がるように床へ落ちた
艸はつい遠慮無く叩いてしまったことに気づいて、小さく謝る
「悪い……」
「いや、いいけどさ」
艸は落ちた傘を拾うと、さっさと傘を閉じて机に立てかけた
艸は前々から薄々感づいていながら、あえて口にしないようにしていたことがあった
しかし、確信にまで近づいたこの際だから、聞いてしまおうと慎重に口を開いた
「お前は、視えないのか……?」
彼女は自分の手をさするのをやめて、まっすぐ艸を見た
艸も黙って彼女を見返していたが、不意に手元から声が聞こえる
「視えテハおらんヨ」
黙ってろ、という念を送るように艸は傘の柄を軽く叩いた
それっきり傘は何も言わなくなる
彼女は少し考えるように腕を組んでいたが、やがてそのポーズのまま胸を張るようにして艸を見返した
「例えばさ、答えが書いてある問題集に意味なんてある?」
やけにハキハキとそう問われて、艸は身じろいだ
予想外の言葉に驚いたのと、質問の意図が掴めないのとで、一瞬思考が止まったのだ
彼女はそんな艸に困ったように微笑むと、どこともなく視線を逸らせた
「見えてないから意味のあるものって、いっぱいあるよ
私にとって『妖怪』がそうであるように……」
彼女の静かな横顔を見ながら、「ああ、そうかもしれないな」と艸は素直に思った
もし艸も今と視る世界が変わったなら、周りの人間たちのように「もしかしたら」なんて思いをはせて笑っていたのかもしれない
そんな自分の姿をうまいこと想像することはできなかったが「いいかもしれない」と思ったのは事実だった
「君を羨んだりもしたけど、……きっと、つまらない」
「……あぁ」
彼女の言葉に小さくうなずいたとき、艸は右手首の痛みに小さく呻いた
「どした?」
「いや、痣が……」
少し袖を捲ってみるが、痣は昨日よりは若干薄くなっているように見えるし悪化しているとは思えなかった
彼女は艸の手元を覗いているが首をひねる
「痣?」
「あぁ、お前にはこれも視えねぇか」
「うん。ひっかき傷ならあるけど?」
そう言って面白そうに笑う彼女の顔をひと睨みして艸は袖を直す
そんな艸の様子に依然と笑みを消さない彼女は、机の上のポーチを漁ると艸に絆創膏を差し出した
「いる?」
「……いや」
「そ」
彼女は絆創膏をポーチに戻すと、改めて机に立てかけたままの傘を見つめた
「ねぇ、この傘少し貸してくれない?」
「……」
「心配しなくてもさして歩いたりしないよ。もう少し見ていたいだけ」
「……分かった。明日、取りに来る」
「あんがと」
彼女は本棚からいくつかの本を抜き取って持ってくると机の端に置いて、スケッチブックと鉛筆を取り出した
何を始める気だろうかと、彼女の背中越しに手元を眺めていた艸だったが、彼女が自身の腕時計を確認すると艸を見上げたので乗り出していた体を引いた
「そろそろ次の授業始まるよ。図書館はチャイム鳴らないから」
慌ててスマートフォンを確認した艸は階段へ駆けていった
彼女はいいのだろうか? などと思ったりもしたが、そもそも妖怪文化などという自称学科に所属しているような人間だ。気にすることもないだろうと艸は階段を駆け下りた


※※※


 昼の時間帯のバスは朝よりも混んでおらず、席に座ることができた
窓の外の景色は次々流れていき、見慣れたものから少しずつ懐かしいものへ変わっていく
田んぼや民家がほとんどになって、道路の舗装がきちんとなされていないのか座席からしきりにガタガタという振動が伝わってくる
危うく眠ってしまいそうになっていたが、そのアナウンスが告げた地名が胸を刺すような痛みと懐かしい感覚を伴って耳に入ってきたことで目が冴えた
慌てて停車ボタンを押す
押してから降りようか迷うなんて、なんて無駄なことを悩んでいるのかと自嘲した
バスを降りるといやに静かで、去っていくバスの排気音が虚しく遠ざかっていった
田畑が風に撫でられ嬉しそうに音を立てる
民家が永遠と向こうの山まで並ぶように立っている様子に一瞬不安を覚えた
―― たどり着けるだろうか
何せこの付近に来るのは随分と久しい。依然まではわざとこの付近には近づかないようにしていたくらいなのだから、今現在に至るまで行けることを確信していたことが不思議に思えた
記憶を手繰って道を進む
幾多の横道が艸を誘うように奥へ続いており、まっすぐ進んでいるはずなのに曲がっているような、いつの間にか戻ってきてしまっているような感覚がしてくる
次の角を曲がる
この角の家には犬がいたはず
―― 三年前は
その先にお化け屋敷のような空き家があって
―― 更地になっている
掲示板があるところを過ぎて
―― だいぶ色あせた
「んにゃ」
その声に一瞬自分は現実にいなかったのでないというくらい、鮮明に景色が晴れた
自分のたどってきた道をはっきり思い出せない
石塀の上に黒猫が居座っていた
じっと艸を見下ろしている
その金色の目に艸は「まさか」と思った
その石塀には投函口と表札
〝月下〟の二文字がきちんと記されていた
すっかり言葉を失ってしまった艸を猫は退屈そうに見つめている
家には誰もいないのか、玄関の引き戸の曇りガラスは暗い色を映している
元々玄関からチャイムを鳴らして手渡す気は毛頭なかった艸は、鞄から文庫本を取り出すと投函口にそっと当てた
このまま入れてしまえば今日一番の任務は完了するのだが、どうにも押しきれない
人通りが少ないからいいものの、今の艸の姿を誰かに見らえたら不審者もいいところだ
一つため息をついて本を半分ほど一気に押し込んだ
―― ガララッ
急に聞こえた引き戸を引きずる音に、本が艸の手元からすべり投函口に飲み込まれた
ゴトンと底に落ちた音がした
その音に気を取られつつも、慌てて顔を上げれば誰もいないと思っていた家から人が出てきたのだ
しかも、よりによって一番合わないと高をくくっていた人間だった
「月、下」
「え? 君影?」
驚いたのはお互い様
しばらく唖然とお互いを見交わしていたが、先に声をかけたのは香だった
「どうしたんだ? 急に」
「いや……」
一瞬投函口に目をやってしまった艸は、香に悟られないようにすぐ視線を戻した
「お前こそ、授業は?」
「休講になったんだ。君影は?」
「ん……」
「そっか」
少し顎を引いて頷いた艸に、香も真似るように頷いた
香の背後では相変わらずたくさんの植木鉢やプランターが並んでおり、青々とした葉をつけていた
―― 変わらない
艸は内心ほっとしたように肩の力を抜いた
香は大学に行くときのリュックとは違い、手さげ鞄を一つ肩にかけていた
その様子に艸は自分の予想を口にする
「出かけるのか」
「あ、うん。森林公園の方に……」
「森林公園?」
そんなところに何の用で行くのかという疑問が香に伝わったのか、香は慌てて話に付け足した
「森林公園の奥にお寺があるんだけど、そこの方と親しくなってな。おすそ分け」
そう言って手提げ鞄を指した香は楽しそうに笑っていたが、艸はその言葉に引っ掛かりを覚えていた
どこかで聞いたことのあるような
「森林公園、……寺。……」
口に出してみる
やっぱり聞き覚えがある
どこかで……
黒猫がひと鳴きした
―― 「儂の旦那はこの辺りの寺に住んでおられるのじゃが」 ――
ふとよみがえった言葉に背筋が凍った
―― 「旦那と茨殿は知り合いらしい」
   「茨殿は旦那のことを「先輩」と呼んでおった」 ――
香は何事か話しかけているようだが艸にその声は届いてなかった
―― 「旦那の名は『落霜 紅』殿という」 ――
「君影?」
少し困ったかのように眉尻を下げた香の顔があった
慌てて瞬きを繰り返す
「あ、あぁ。なんだ?」
「なんだじゃないだろ。俺は出かけるけど、急ぎなら聞くぞ?」
「い、いや……。特に……」
香は艸の口ごもった言葉に首をひねったが、その場で少し待ったのち「それじゃ」と微笑んで艸の横を通りすぎた
「ま、てっ」
「?」
艸が咄嗟に香の腕を掴むと、香はいとも簡単に動きを止めた
それでも何も言おうとしない艸に、香はただただ待っている
言い淀む艸の様子に首をかしげながら待っていた香だったが、ふいに両の手を打って納得したように頷いた
驚く君影に、香は嬉しそうに笑って言ってのけたのだ
「君影もいるか? おすそわけ」
「……、……いや」
急に脱力した艸に香は「あれ?」と更に首を傾げていたが、やがて艸の方から一緒に行きたいという旨を伝えることに成功した


※※※


 この山の緑は依然来た時より一層重みを増したように見えた
ここ最近雨続きのせいか土や草木の匂いが鼻をつく
香は時折休憩をはさみながら山を登っていたのだが、不意に横道にそれた
何とか土が踏まれて草がよけているその道は、道というには頼りなく高く伸びた雑草のせいで直ぐに見失ってしまいそうだった
それでも香の後をついて歩いていた艸だったが、不意に蜘蛛の巣に引っかかったような感覚がして顔を手で払う
少し落ち着いて顔を撫でてみるが、手のひらには特に何もついていないようなので、そのまま歩き続けた
しかし、歩みを進めるにつれて艸の右手が脈打つような痛みを訴えてきていた
我慢できないものでもないが、気に障る
また少し、色が濃くなったような感覚に空気までもが冷たく研ぎ澄まされてきたように感じた
呼吸を繰り返す肺が重いような感覚
「あ、ここだよ」
獣道を抜けた香に続いて足を踏み出すと固い地面を踏んだ
石畳の地面が横切っており、その先に石段が高く昇っていた
「この階段がなかなか辛くてなぁ」
なんて爺くさいことを言いながら階段を上っていく香の背中を眺めていた艸は、なんとなく石段と反対方向に目を向けた
石畳の道がどこまでも続いている
どこまで続いているのだろうか
そんなことを考えながらも、艸は階段を上り始めた



 そこまでつらいと思う階段ではなかったが、上りきったときの達成感のようなものは確かにあった
少し先に伸びた石畳の道、それに沿うように並ぶ石灯籠、真正面には水気を帯びて黒々とした建物が荘厳とそこにあった
艸は思わず息を吐く
少し遅れて香が階段を上りきってきた
「う~、着いたぁ」
息を弾ませ、両ひざに手をついた香は肩を上下させながら呼吸を整えている
香の運動音痴と体力の無さは相変わらずのようだ
「香君ではありませんか。いらっしゃい」
澄んだ声が聞こえて、引き寄せられるように二人が顔を向ける
浅葱色の扇子を顔の前で広げているため顔は伺えないが、白地に流水紋が描かれた着物を着こなしている長い銀髪の男が立っていた
その男の格好もそうだったが、背景に荘厳な建物があるため、より一層目の前の現実が浮世離れしているように感じる
艸は目の前の人物を、ネズが以前話していた『落霜』という男であると察した
聞いていた容姿が一致していたことも容認のする一因となったのはもちろんだが、何より艸が確信を持った理由は別にあった
―― なんだ、こいつ……
ついそう思ってしまうほどに正面に立つ人間からは威圧感を感じたのだ
威圧感、というのは正しい表現ではないのかもしれない。普通の人間のそれとは到底思えないほどの存在感。その場に何百万という人間が留まっているのでは錯覚するほどの圧迫感
今隠れているその顔が露わになり、その双眼に覗かれたらと思うと身動き一つ困難に思えた
「こんにちは、落霜さん。急にお邪魔してすみません」
すっかり雰囲気に気おされている艸の横を、香は何でもないようにすり抜けて紅の元へ歩いていく
「構いませんよ。こんな辺鄙な場所ですから、来客は大歓迎です
……特に、君なら尚更、ね」
見えていないはずなのに紅の口元が弧を描くさまがはっきり見えた気がした
香は手さげ袋を紅に差し出しながら楽しそうに微笑んでいる
「実は昨日この場所をお借りしたお礼もかねて、おすそ分けを……。お口に合うかは分かりませんが」
「私が頂いてよろしいのですか? ありがとうございます」
器用に扇子で顔を隠したまま手提げ袋を香から受け取った紅は、依然と石段の前で立ちすくんでいる艸に気が付いたように顔を上げた
「おや、君は……」
「あ、こいつは俺の友達で。君影 艸です」
「君が……、初めまして」
「……」
返事を返さない艸に香は少し慌てた様子で艸に駆け寄り、腕を引っ張っていく
「す、すみません。寡黙な奴なんです」
「いいえ、構いませんよ。どうぞ上がってください」
紅が背を向けて寺内に入っていく姿に、艸はようやく緊縛を逃れた気分になった
腕を掴んだままの香がそれに気付いたのか「どうした?」と声をかけてくるのが、どこか場違いで救いのように思えてくる
同時に恐怖した
この正体不明の男が、ただの人間である香に一体何の因果で関わっているのか
艸は胸元に持って行った手を、服ごときつく握りしめた



 懐紙の上の和菓子がおびえたように小刻みに震えている
武骨で大きな手のひらに小さな花が頼りなく咲いているような光景は、その菓子が運ばれてくる様子を見ている方も、運んでくる方もハラハラとさせた
慣れない手つきでようやっと菓子とお茶を三人の前に並べたネズは、ほぅと大きな息を吐いた
その額には汗を浮かべている
「ありがとうございます」
「いえ!」
紅が扇子越しに微笑むと、ネズも子供のように笑った
「急に来てしまってすみません」
「いえいえいえ! お気になさらず!」
香の言葉にネズが返したことにも、ネズが返した言葉に香が反応したことにも、艸は驚きを隠せなかった
―― 視えてる……!?
ネズが堂々と香の前に菓子を運んだ時点でおかしいことには薄々感づいていたが、ここまで普通に接せられるとどちらがおかしいのか分からなくなる
「今日の和菓子は花菖蒲を模しておりますじゃ。旦那がお選びになられた!」
「ネズ、後で敬語の復習ですね」
「なぬっ!?」
おろおろと先ほどの自分の言葉を思い出しているネズに、香がこそっと耳打ちしている
ネズはここでだいぶ鍛えられているようだ
ネズと香の気がそれている間、紅と艸は正面で向き合ってじっとしていた
艸は口にしていいものかと、菓子とお茶を睨んでいたが不意に紅が笑った
「ただの菓子ですよ」
「……」
艸はちらりと扇子の奥の顔を見返し、慎重に菓子を口に運んだ
口の中に甘すぎずさっぱりしながらも、しっかりと重量と触感のあるあんこの甘さが広がる
良い物だなと、内心快く思っているとパチパチと小枝がぶつかるような小さな音が聞こえた
ふと顔を上げた艸の目に飛び込んできたのは、血の珠のように鮮やかな赤だった
すっかり硬直してしまった艸の正面で、紅は畳み終えた扇子を帯にはさんでいる
急激に渇きを訴えてきた口で、艸が思わず零した
「どこかで、会ったことないか……?」
花菖蒲に菓子楊枝を入れていた紅の手がピタリと動きを止め、ゆっくりと真っ赤な双眸に艸をとらえた
一瞬周囲の全てが動きを止めたかのような感覚に、艸も身動きが取れない
なぜあんな言葉が口を衝いて出てきてしまったのか、艸自身も分からなかった
初対面のそれとも、常に顔を合わせているそれとも違う
ただ、確実に記憶の奥底にヒビが入ったかのような衝撃があったのだ
紅は十分に時間を取って艸の顔を凝視した後に、一度瞬きをして薄ら色づいた唇を開いた
「冗談を言っているようには思えないので、私も真剣に答えさせていただきますが……。こうしてお互いお会いするのは初めてです」
「……そうか」
ふっと空気が流れ始めた
香とネズも勉強会が終わったのか、ようやく空気の硬い二人に合流する
さっきまでの無表情はなんだったのか、途端に表情を変えた紅はネズに微笑みかける
「間違いは分かりましたか?」
「もちろんですじゃ! いやぁ香殿の教えは実に分かりやすい!」
「おや、それでは私の教えは下手ということですね」
「そそそ、そんなことはっ!!」
顔面蒼白で首を横に振り続けるネズに笑みを浮かべた紅は、香に視線を移した
「香君。今朝、ネズに頼んで庭に紫陽花を植えてもらったのです。よろしければご覧になってください」
「あ、はい! ……君影も――」
「いえ、艸君は先に中を案内してからお庭にお連れしますので、先にどうぞ」
紅の遮るような言葉に香は一瞬不安げな表情を見せたが、すぐに頷いて立ち上がった
紅はすかさずネズを呼ぶ
「ネズ、案内を」
「承知いたした!」
紅に命令されたネズが元気のよい返事をして、香の手を取ると仰々しく庭へ連れて行った
そこまで丁寧である必要はあるのかと疑問に思うところだが、ネズは真剣そのもので香も少し戸惑いながらも口出しせず庭へ連れられて降りて行った
「さて、私たちも行きましょう。こちらへ」
「……あぁ」
艸は喉を潤すようにお茶を一気に飲み干すと、紅の背中から目を離さないようにしながら、腰のベルト通しに挟んである『夜宵』をひと撫でした
右手がまた、痛みを強くした



「質問があればお答えしますよ。香君がいると聞きにくいこともあるでしょう」
一通り案内された艸は、建物同士をつなぐ渡り廊下の中腹で歩みを止めた紅につられて足を止める
外は相変わらず美しいばかりの緑が広がっており、いつの間に顔を出したのか青空がのぞいていた
少し先で庭にいるネズと香の姿が小さく見える
「香に、ネズの姿が見えているようだが……」
艸の言葉に紅は少し驚いたように目を瞬かせると、小さく頷いた
「この屋敷範囲に入っている間は一般の方にも視えるようにしてあります。茨から聞いていませんか?」
「いや」
「そうですか」
しん、と沈黙が降りて風が二人の間を通り過ぎていく
一拍沈黙に押された艸は、立て直そうと口を開いた
「お互いに顔を合わせるのは初めてだと言ったな」
「はい」
「じゃあ、一方的に僕に会うのは初めてか?」
紅の唇が微かに空気を震わせる
艸はここに入ってから気づいたことがあった
寺内を見渡し、ふと天井を見あげた際に見覚えがあると確信したのだ
ネズが現れて思い出した
あの時だ。ネズを追いかけて崖から転落した後、夢現に声を聞いた
ネズと茨の声
そこに紅がいたことを視認したわけでもなければ、声を聞いたわけでもなかったが、艸はあそこに紅がいたであろうと確信していた
「あの時妙な感じがしていたが、分かった。茨が敬語を使っていたことだ」
「……」
「茨が敬語を使って話しているところなんて聞いたことが無かったし、ネズに対しても使っていなかった。あの時、茨が話しかけたのはネズじゃなく、あんただったんじゃねぇか?」
紅も艸も視線は外に注いだままだった
紅はふっと口元を緩め、瞳を閉じた
「そのとおりです」
「あいつに会ったのはどういう経緯だ」
「香君ですね。春の昏睡事件の時、ネズが運んできたのですよ。どうやら以前に迷惑をかけてしまった方だったとかで……、ここに運んできました」
「それだけか?」
「そうですね……。それだけ、と言うと語弊が生じます」
ゆっくりと瞼を持ち上げた紅の瞳の先には、なにやら 話が盛り上がっているネズと香の姿が、正確には香の姿だけを捕えているのだろうか
「『運命』……ですかね」
「運命?」
「実は私、篤縒(とくさ)……。香君の父親と、知り合いなのですよ」
「月下の……!?」
艸は驚愕と疑念の表情を隠すこともできず紅の顔を睨みつけた
その素直な反応に紅は満足気に笑みを深める
「えぇ、香君もそれが目的でここに来ている節はあると思いますよ」
「……」
そう言った紅は嬉しそうでもあったが、寂しそうにも見えた
艸は何となく紅と香を見比べた
二人の似ているところといえば髪が白いことと、名前のニュアンスが似ていることくらいだ
しかし艸は、見た目だけではハッキリ言えない近いものを感じていた
紅の顔を見た時に初めて会った気がしなかったのは、香の存在があったからかもしれない
紅の香を見る瞳は、親子のそれのようで尊くも感じたが、不気味でもあった
「最後に、いいか?」
「はい。どうぞ」
風が雨の匂いを含んで流れてきた
雨が降るかもしれない
「お前は、何だ?」
艸を責めるように湿気た風が頬を叩いた
紅の白い髪がカーテンのように舞い上げられ、波打つように揺れる
波の音が聞こえてくるような錯覚があった
「……難しい質問ですね」
そうひとつ呟くと、紅は乱れた髪を整えるように長い指を髪に通した
「貴方の想像通りです……、というのはダメでしょうか?」
「……あぁ」
「……そうですね。あえて言うのならば……
私は、誰の敵でもなく誰の味方でもない。同時に誰かの敵であり誰かの味方である……。そういう存在、ということにしておいてください」
「……」
「そして、少なくとも今は――」
紅はそこまで言うと急に艸の右手を取り、そっと胸の前に持ち上げた
突然の事に咄嗟に手を引こうとした艸だったが、体は紅の手に逆らうことを忘れたように動かない
紅の唇が、ゆっくり動く
「―― 貴方がたの味方であると、お約束しましょう」
真っ赤な瞳に釘付けにされたように視線を逃がせない
いつの間にか袖を少しまくられて手首をやんわり包まれた時だった
静電気が走ったような痛みを感じた瞬間に、ようやく危機感が体の硬直を解いた
思いっきり手を振り払って、掴まれていた右手を庇うように手首を抑えようとした
なんともない自身の右手を見て、艸は寒気が走った
そう、あったはずの手の甲の引っかき傷も、それと同じくらい赤くなっていた手首の痣も全て跡形もなく消えていたのだ
「何か困っているなら、いつでも力をお貸ししますよ」
突然の事に呆然と自分の右手を凝視していた艸の横を、紅は風のごとく歩き去っていく
庭にいる二人の呑気な笑い声が、遠い意識の端に聞こえていた


※※※


 約束通り、次の日に艸は再び書庫を訪れた
三階へ続く階段の先、昨日つけていたはずのテルテル坊主が手すりの先から無くっていた
階段を登りきると丸まった背中が見える
頭に簪を突き立てた頭は机に乗っかるように伏せられて、肩が小さく上下している
寝ているようだ
まさかここで徹夜していたわけではないだろうと思いつつ、艸は机に立てかけられている傘を手に取った
わざわざ起こす必要も無いと、この場所を去ろうとした時、ふと机の上に広げられているスケッチブックに目が止まった
この傘の絵が書いてあるようだ
上手いのか下手なのかよくわからない傘の絵がさまざまな方向から描かれている
ページを遡ってパラパラとめくってみれば、やはりよくわからない絵が描き連ねてあった
四つ足の獣のようなもの、もじゃもじゃと髪の長い人のような黒い塊、紙面に大きく描かれた二重丸にしか見えないもの
抽象画のようなそれらを全く理解不能と判断した艸は、見なかったことにしてスケッチブックを閉じた
どこかの妖怪絵巻の真似事でもしているのだろうか。今思えば彼女に初めて会った時もよく分からない絵の描いてあった本を熱心に見ていた事を思い出す
「もでる、とかいうノモ、疲れルものダナ……」
まさに徹夜明けのような疲労感をあらわにした声を手元から聞きながらスケッチブックを机の上に戻し、艸は今度こそその場を後にした



「さて、お前をどうするか……」
 わざわざバスの混雑を避けるため一限目が始まるより早い時間に学校に来た艸は、ガランとしたラウンジの椅子に腰かけていた
「どうもするナ。その辺にデモ置いて行ってくれればいいノダ、そうしてマタ誰かに運んでモラウ。我の望む場所に辿り着くマデ……」
確かに今ここに忘れ物のように置いてこの場を去ることは簡単だろう
―― しかしこの学校には……
そこまで考えて、艸は頭を軽く振った
手放すなら一生手の届かない遠くへ、それが無理なら逆に何が起こってもいいように目が届くところに置いておきたい
中途半端が一番対処に困るのだ
本当ならゴミ捨て場に置いていけたら一番楽で安全だ
この傘は自身では身動きできないのだから
運よくゴミ捨て場から拾われることもあるだろうが、確率はその他の場所に比べれば確実に低いだろう
しかし、そんなことをすれば本当に呪われかねない
ふと、昨日の紅が見せた笑みが思いかえされた
試しに行ってみるのも手ではないか、と考える
成仏、という言葉が正しいのかはわからないが、あの男ならば正しい方法でこの傘を良いようにしてくれるのではないか
少なくとも茨よりは人間的に信用できそうだ
しかし、茨よりも恐ろしいものを隠している気もしている
茨のように目に見えて実感できる嘘は確かに恐ろしいのだが、そういう人間に対した時はある程度心構えができるものだ。しかし、紅のように綿密に隠された嘘は油断すると病魔のように入り込み、気づいた時には手遅れになってしまうような恐ろしさがある
―― 深入りしていいものか……
艸は自身の右手首を確かめるように左手でさすり、ぎゅっと握る
思わず出たため息に、体の重さを感じた時だ
「おはよう、君影」
「!?」
聞き覚えのある声に一瞬体が痙攣し、机に立てかけてあった傘が艸の起こした衝撃で床に倒れる
慌てて顔を上げた先の白い男が一瞬だけ紅の姿とかぶって見えたが、すぐに香に戻った
「ごめん、驚かせるつもりは……」
そう言って香が床に倒れた傘を拾おうとするものだから、思わず足が出た
艸が蹴り飛ばしたことで傘は床をこするように遠くまで飛んでいく
香は浮かべていた笑みを引っ込め、驚いたように目をしばたかせて艸を見上げた
「……」
「……」
「物を、蹴っちゃだめだぞ」
「……うるせ」
どこか間の抜けた短い会話の後に、艸は急いで席を立つと飛んで行った傘を拾いに行く
「モウ少し、丁寧にあつかわんカ……」
そんな声を無視して艸はすぐさまその場を後にしようとしたのだが、香がそれを止めた
「あ、待って君影!」
「……何だ」
「これ」
そういって慌てた様子でリュックから取り出してきたのは手のひらサイズの四角い風呂敷包みだった
怪訝そうにそれを見下ろす艸の様子に、香は少し目を伏せてからいつも以上にゆっくりな口調で話す
「昨日のおすそ分け、やっぱり欲しかったのかなぁなんて思ったからさ、詰めてきた
それに、本。返してもらったけどさ、もう貸してやれるような本が無いから……、代わりに……」
「……本の収集癖、治ったのか」
「……うん、まぁ……」
少し困ったように頭をかいた香に、艸はどうにもそれを受け取る気にはなれなかった
動きを見せない艸に香は諦めず話を振ってくる
「今日はバイクじゃないのか? その傘……」
「……ただの忘れ物だ」
「そう……、学校で?」
「……いや」
「じゃあさ! 学校の隣にある学生マンション、知ってる?」
「……、あぁ……」
一瞬何のことかと考えたが、艸はすぐに思い至った
かつては艸もそこに入居しようと考えていた一人だ。部屋もほどほどに広くて学校にも近いから悪くないと思ったのだが、いくつか他の場所を下見に行っているうちに空き部屋が全て埋まったと言われてしまった
しかし、実際はそうではなかったのだろう
同じように艸はいくつかのマンションを遠回しに入居拒否された。つい先ほどまで空き部屋が有ったはずのマンションが、次に来ると全て埋まったと言われるということが何十回
確実に親が手をまわしているのは明らかだった
そしてようやっと今現在の部屋に入居できたというわけだ
部屋も無駄にだだっ広く、セキュリティーや防犯も完璧で家賃も馬鹿みたいに高いあのマンションに……
「で? それが何だ?」
「あそこで忘れ物の傘を預かってくれるんだ。持ち主が取に来なかったら他の人にも貸し出したりするんだって。そこに預けたらどうだ?」
何がそんなに嬉しいのか、香は楽しそうにその場所について語り始める
なぜ実家暮らしの香が学生マンションについて詳しいのか艸には謎だったが、話を聞く限り香自体はその学生マンションにはちょっとした用が有ったので寄っただけらしいし、最悪目の届く範囲なので何かあってもすぐに対処できそうだった
知らぬ間にどこか遠くへ行ってしまえばそれに越したこともない
「なんだったら俺が届けてこようか?」
「いや、それはいい
あんまり部外者が出入りすんなよ、不審者に間違われるぞ」
「うん、わかった。
あ、じゃあ俺はそろそろ行かないと……」
そう言うと香は押し付けるようにおすそ分けの包みを艸の手に持たせ「栄養あるもの食べろよ」と笑うと、出入り口の方へ小走りで駆けて行った
「あ、雨降ってきたぞー!」
なんて、わざわざ振り返って間延びした声を出した香は、手に持っている緑色の傘を軽く振って見せ、外に出ると傘をさしてあっという間に去って行った
艸は両手に残された傘と、風呂敷包みを持ったまま少しの間棒立ちになっていた
「何なんダ、あの派手な男ハ……」
今まさに艸が内心思ったことを代弁してくれた傘を軽く持ち直した艸は、ため息を一つ吐いた後に小さく零した
「ただの阿保だ」


※※※


 外は確かに雨が降っていた
景色は灰色にどんよりけぶり、しとしとと地面を濡らしていく
周りに誰もいないことを確認した艸は、囁くような声で言った
「お前を学生マンションへ持っていく」
「……そうカ、好きにシロ」
「変なこと起こすんじゃねぇぞ」
「フン。生意気な小僧一人呪う力もナイのだ、何も起きんワ……」
艸はショルダーバックから折り畳みの傘を出そうと、チャックを開いた
半分ほど開いて、その手が止まる
辺りを見回しても、まだ少し時間が早いせいか、この天気のせいか、生徒の姿はまだ見えない
香の姿も今はどこにもない様だ
艸は鞄の中に見える折り畳み傘から目を背けた
「アホらし」
開きかけていたチャックを閉じる
傍らに立てかけておいた傘を乱暴に手に取った
カバーを引っぺがし、レースのお花たちを見ないふりをしながら傘を開く
驚いたようにむき出しになった目玉が視えた
そのまま艸は雨下のキャンパスを歩き出す
パタパタと雨を弾く音だけが籠ったように聞こえてくる
「傘忘れた……」
どこか面倒くさそうに呟かれた艸の声は、あっという間に雨に呑まれた
雨は先ほどよりも強くなってきたようだ
艸の頭を見下ろす一つの目玉が、小さく震えた
「たわけ……」
そう微かに聞こえた声は雨の弾く音に紛れて、艸の頭上から降ってきた
依然と雨を弾き続ける傘の下
艸の肩は、少しだけ濡れていた

花たちが咲うとき 六

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花たちが咲うとき 六

円の覆い、上手(かみて)からの断絶、簡易的空間 それは結界の如く――

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-17

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