青い恒星

 美恵の住む町では、毎年九月の頭になると祭りが行われる。
 仁がその祭りに行きたいと言い出したことは、少なからず美恵を驚かせた。
 仁は生まれつき肌の色が薄い子だった。彼を取り上げた医者は先天性白皮症だと言った。一般にアルビノといわれているのがそうだ。遺伝子の欠損により色素を作る能力が弱く、日本人としては嘘のように皮膚が白い。髪も眉も睫毛も、みな綺麗な白金色をしている。両親は漆黒の瞳なのに、仁の場合は快晴の日の海を思わせるように青く澄んでいる。
 美恵が仁を産み、助産師の腕に抱かれたその小さな姿を初めて見た時、彼女は乱れた呼吸を一拍止めて、思わず息を呑んだ。驚きより先にやってきたものは、味わったことのない深い感動だった。なんとこの子は清らかに美しいのだろうか。彼女の初めての出産は、忘れようのない強烈な感情とともに記憶に刻み付けられた。
 しかし仁が成長していくにつれ、次第に彼の置かれた状況が冷静に受け入れられてきた。その美しくも特異な容姿は、一歩世間に出れば人々の好奇の対象となった。表を歩けば擦れ違う人々が仁の顔をまじまじと眺める。まるで仁が、自我も意思も持たない作り物ででもあるかのように。美恵はわが子がそうして見られている事がだんだん耐えがたくなってきた。彼女はごく自然なように、仁をできるだけ隠そうという結論に辿り着いた。ベビーカーの屋根は仁を覆うようにせり出して行き、小さな子はいつでも毛布にくるまっていなければならなくなった。
 そして仁が三歳になる年のこと、最初の悲劇は思わぬ所からもたらされた。美恵と永遠の共同生活を契り、ともに息子を育てていこうと誓った彼女の夫が突然姿を消したのだ。後に遺されたのは「一切の連絡を取らないでくれ」という書き置きだけだった。美恵は残酷な裏切りに途方に暮れた。夫は仁の行く末を想像して、絶望したのだろうか。彼はそこまで薄情な男だったのだろうか。人間は、その気になれば妻や息子まで一息に捨ててしまえるものだろうか。深い悲しみが彼女を貫いたが、しかし一方で最後まで夫を責める気になれない自分がいた。そのことが彼女の悲しみを加速した。
 それ以来、美恵は働きながら一人息子を育てている。母や兄のもとに仁を預けることもあったが、その度にまだ幼い姪や甥たちに仁が気味悪がられていることに、美恵は気づいてしまった。回数を重ねていくうち、母や兄までもが嫌な顔をしているように思われてきた。そうして仁を家族に預けることはすっかりやめてしまった。
 かといって一人にするわけにもいかないから、どうしても面倒を見られない平日の日中だけは保育園に預けることにした。仁がいじめられるようなことのないよう、美恵は再三園長に頼み込んだ。白い髪を隠すため特別に帽子を被らせる許可も取り付けた。園長がどれだけ優しく応えていても、美恵は不安が拭えなかった。そんな自分が情けなくも感じられた。仁はただ黙って、そんな母の隣で立っているだけだった。
 仁も今年で小学校の三年生になった。毎日帽子とマスクを着けて学校に通い、美恵が帰るより先に家に帰ってひとりで待っている。学童は却って寂しい思いをさせると思い半年だけでやめさせた。仁が放課後や休日にどこかへ出かけることはほとんどなかった。
 担任の先生は三者面談で、仁くんは物静かだけどよく気が利いて優しい子ですよと言った。美恵はそれを聞くと不安が募ってきて、友達関係はどうですか、と思わず聞いてしまった。心配いりませんよ、と先生は微笑んで答えた。心配の拭いきれない思いがしたが、美恵は安心したふりをした。それを聞く仁の表情は微かな動きも見せなかった。
 そんな無口で大人しい子が、今日、突然祭りに行きたいと言い出したのだ。美恵は意外な主張に驚いた。希望を叶えてやりたい気もしたが、内心は不安でいっぱいだった。
「どうして急にお祭りになんか行きたくなったの?」
「何でって……。なんとなく。」
 美恵は反対しようと思った。何かあってからでは遅く、後悔だけはさせたくなかった。しかし、いくら考えてみても、仁を祭りに行かせてはならない理由が思い浮かばなかった。困り果てて仁を見つめると、その透明な青い目がまっすぐ母に向けられていた。美恵はその瞳に、何か懐かしい感動を覚えた。思えば、仁が何かをねだる言葉は初めて聞いた気がした。
 美恵はやはり行かせてやらなければならないと決意した。

 祭りは美恵の想像を超えて混雑していた。
 夏の盛りだったから、帽子にマスク姿の仁は異様に目立って見えた。練り歩く大勢の人々も、その服装が気になったのだろう、何気なく仁を見ては慌てて目を逸らしたり、逆に興味深げに眺めるような姿がちらほら目に付いた。中には指をさして言葉を交わす若者たちまでいた。美恵は彼らをきっと睨みつけ、仁の手を引いて足早に立ち去った。
 最初のうちは二人の間に会話もあったが、人混みに疲れてか次第に言葉の数は減っていき、いつしかとうとう無言のまま歩き回るだけになった。仁は何をねだるでもなく、どこかの屋台に興味を惹かれることもなさそうだった。美恵はいつの間にか、仁の様子を気にかけることさえやめてしまっていた。ただ小さな手を引っ張って人の隙間を縫うことしか考えなくなっていた。
 ふと気が付いたのは、屋台の並ぶ大通りの終端までやってきた時だった。そこはもう町の外れだったから、人気もまばらになっていた。このあたりで引き返そう。そう思ったときに初めて仁のことを思い出すと、気づかないうちに彼は帽子とマスクを外して、空いた左手にぶら提げていた。
 美恵の知る限り、人前で彼が素顔を露わにするのは初めての事だった。美恵は驚き、戸惑い、すぐにそれが怒りに変わった。気持ちを隠さなければという発想もなかった。
「何やってるの!」
 静かな町に響くような大声に仁は驚いたようだった。それでも怯むことはしなかった。美恵が左手のものを取り上げようとすると、仁は必死になって抵抗した。それに戸惑ったのは、むしろ美恵の方だった。
 従順な仁にそんな力があろうとは、美恵は少しも予想していなかった。
 やがて彼女は諦めた。何だか寂しくなった。自己嫌悪の気持ちがふつふつと湧いてきた。とにかく私が落ち着かなければ、と思った。
「帽子、いやだったの?」
 落とした声で問いかけた。仁は答えず、ただ俯くばかりだった。
 静かな時が流れる。
「本当は、つけたくないの?」
 仁は一瞬だけ上目遣いに母の目を見た。そしてまたすぐに俯いてしまった。美恵にはその沈黙が苦しかった。母を気遣って何も言えない仁の優しさが切に痛かった。そして自分という親が情けなかった。世界で自分だけは、仁の味方だと思っていたのに。仁を守れると思っていたのに。
 美恵はもう仁に全部を任せようと思った。自暴自棄というよりは、せめてもの優しさのつもりだった。
「……戻ろっか?」
 今度は仁はまっすぐ母を見つめた。そしてにっこり微笑んで大きく頷いた。薄暗い夜の下、マスクのない顔は透き通って綺麗だった。
 帰り道、仁は心から楽しそうな笑顔だった。白金の細い髪が風に吹かれてさらさらと揺れていた。たくさんの人に囲まれて、この子はこんなに幸せになれるのかと美恵は胸を打たれた。わが子の表情は、美恵にさえいつも帽子とマスクに隠されて見えていなかったのだ。
 母は、この子はいつも孤独なのだと思い込んできた。幼い時に父に見捨てられ、働く母からは愛情を満足に受けることもできず、友達からは奇異なものを見る目で見られ、いじめられないことくらいが幸運な悲劇の子なのだと思ってきた。しかしマスクの下の表情はそうではなかった。この子に孤独を押し付けていたのは、他でもない自分だったのかもしれない、と思えてきたのだ。本当は優しくて、みんなと仲良くできる仁に、誰にも理解されないという悲しみの刻印をあてがっているのは自分の方だった。仁は黙って、私の間違った愛情に付き合ってくれていただけなのだ、と。
 結局神輿を見るでもなく、的屋に立ち寄ることもないまま二人の祭りは終わった。家に帰ると、仁は母に向き直って、綺麗な笑顔を見せた。
「お祭り、楽しかった。また来年も行こうね。」
 その子は生まれた時のまま、青い瞳がよく澄んでいた。

青い恒星

青い恒星

3,445字。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-17

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