役目
一
花ばかりが咲いた庭園だった。蝶々も舞い込んできて,一匹だって帰らない。息を吸い込めば,知らない名前の香りで満たされる。一枚一枚,内側から着飾られる気分になる。立派なレディ,生まれてから一度も言われた事がないそんな扱いに,最初は覚えた緊張も日差しと共にすっかり和らいで,地面に届かない足は交互に,磨かれた革靴の赤い色をぶらぶらさせて,楽しんでいる。背もたれが長い椅子と,同じ色をした一本脚の丸いテーブル に,彫り込まれた蔦は縁を走って,途切れることを知らないでいる。それはどこからか始まって,どこかで終わったのだった。ただ,そのことを尋ねたいと思うような人はどこにもいなくて,用意された答えは暇を持て余していた。空いた陶器が並べられていた。ナイフやスプーンは見当たらなかった。それは要らない,というより忘れられた組み合わせだった。現れる,背もたれの長い,もう一脚の椅子に座る姿が頬杖をつきながら,目の前の者に訊く。
「どうする?それも願って叶えておくか?サービスで付けておくぞ。」
うーん,と悩む言葉で傾げる首は,それだけで時間を正しく進ませるように左右に動き,答えを導き出した。
「うん,要らない。今はいいよ。」
そう告げられたにも関わらず,頬杖をついた姿からはすぐに返事がこない。言葉の意味を隅から隅まで点検するかのように,動かない視線が目の前の者を捉えている。その真剣味を加えれば,それは果たすべき義務を履行している姿だ。しかしそれもやがて納得をして,確かに返事をする。
「承った。では,そのままにしておくとしよう。他に願いは?」
これには目の前の者がすぐに反応した。
「早く教えて!あなたの秘密!」
そう言われた途端,両の目が大きく開いて,顔が困ったように歪み,喜びと共に笑顔になっていった。望み続けたものが突如,これ以上ないほどに理想的な形で現れたために,起きてしまった変化とでもいうべきなのだろう。頬杖をついた姿は消えていき,嬉々とした声は踊り,形を変えて,目の前の者に対面する。隠すべきことなどない。望みを叶えるのがすべてと言わんばかりの姿は,灯されたように揺らめき,結ぶ。
「鏡を知っているな。対象物を写す,あれだ。それを磨いた後を思い浮かべればいい。」
目の前の者は頷く。それを認める姿は,満足した頷きを返す。翅を動かす蝶々が,その間を横切る。丸いテーブルの上で配置された,食器たちが数と種類を揃えている。たった一つ,細長い口のティーポットは,立つ湯気を徐々に逃していく。辺りの景色が変わっていく。花弁が散って,舞っていく。螺旋を描いて咲いていく。幼い姿が目の前にある。望みがそれに対面する。
「それを磨いただろう?」
大きく頷く姿。
「そうするとよく写る。隅から隅まで,好きなものだろうと嫌なものだろうと,分け隔てない。鏡に意思はないからな。何でも写す。意思すら写す。だから反映される。理屈はこれと一緒なんだ。だから,磨かなきゃいけない。分かるか?」
首が少し傾く姿,でも,大きく頷く。とにかく写ると分かったのだろう。それに応じて,望みは形を変える。竜,魔人,化け物。騎士に女神に,輝く光。
「見たいものが見えるだろう?欲も写るのさ。意思と一緒にな。だから,これもお前のだ。」
縮んでいく姿,背格好まで同じになっていく。「わぁっ!」と喜び,口に手を当てる動作に続いて,お腹を抱えて笑う姿まで,すべてが同じになっていく。問われるのは,目の前にいるのは?
「わたし?」
「わたしだね。」
揃う姿が恥ずかしがる。ティーポットはカタカタ揺れる。奥の屋敷の扉のひとつが中から押されて,左右に開く。こちらに歩いてくるのは姿。姿。姿。
その小さな子供が手に取った,その目の前に座る女の子も見ている通りに真似をして,カップは飲み干される振りに使われた。傍に控える執事が順番に,底に少しずつ注いでいく。数枚のお皿が片付けられ,残りの二枚に,平たい焼き菓子が重ねられていく。お腹を満たしていく。女の子が笑顔になり,目の前の姿が心を無くす。それは果たすべき義務を,果たそうとしている姿だ。テーブルの真ん中に手を伸ばし,蓋を開け,中身を確認する。興味を示した女の子が近付こうとすると,落として蓋を閉じた。見ることは叶わなかった。その子は不満を口にした。
「なんで?教えてくれるって言ったじゃない!」
対面する姿は,もう同じ子ではないまま,呼び出されたときに聞き取り,成し遂げた願いを復唱した。時刻はちょうど正午をさす。女の子の黙りとともに,大人の姿の,フォーマルな格好で,腕時計は袖口に引っ込んだ。ひとつ目の願いはこうして叶えられた。お茶会の準備は整った。
「さて,残りはひとつだ。何を願う?」
背もたれが長い椅子に座る女の子は,座椅子の余ったスペースに手を乗せて,むくれた顔をしていた。しかし視線は外さない。意思をもって,「じゃあ」と言って,主張をした。
「まだ言わない。言わない限り,逃げられないでしょ?まだお茶してないし。だからあなたはそこにいて,私が退屈しないように,話し続けなきゃ。それがお茶会よ。」
前のめりになった女の子が返事を待たず,伸ばした手で一枚,二枚と手前のお皿に分けていくのを止めない精(ジン)は,襟元を正すような仕草を見せた。自身を呼び出した主人の抜け目のなさを確認して,小さな姿を認めた。願いを言わない自由に関して,呼び出された者に出来ることはない。背もたれが長い椅子に座って,失礼のないよう,『彼』はおもてなしの務めを果たす覚悟を決める。玉乗りピエロのような,曲解,誤解は脇に置いて,『彼』は立ち上がり,改めて名乗った。立派なレディとして扱う儀式。女の子も真似をする。裾とともに,ドレスがふわっと元に戻る。
「ねえ,ランプの中って真っ暗なの?呼び出されないときって,何してるの?あなたを閉じ込めた人って誰?どれだけの願いを叶えてきた?自分の願いは叶えないの?」
ねえ?と呼び掛けられた『彼』は,長くなりそうな先を見据えて,宙にため息を漏らした。新しい雲になればいいと密かに願っていたが,見事に庭園を照らす日差しに阻まれた。恐らくはそれも,叶った願い故。お茶会は既に行われている。
蝶々を羽ばたかせ,花を咲かせて,冷めないときを待っている。
役目