Spring has  come

Spring has come

「あれ、死ぬんじゃなかったの?」私の部屋に入るなり、彼は不思議そうにそう言った。
午前零時ぴったりに缶ビールの入った袋を提げて帰ってくるその人は、簡潔に言うと私の精神安定剤だ。
「いや、そのつもりだったんだけどさ。明日でもいい?」
「ああうん、俺はいつでもいいよ。いつでも死んでくれてかまわないから」
「ありがと。春くん、優しいね」
「まあ仕事だからね、そこはね」
春くんは「おみやげ」と言って缶ビールを枕元に置くと、私の布団に転がってぐうぐうと眠ってしまった。
「寝るの早いねえ」
彼のほっぺたを触ると、ひやりと冷たかった。
冬はこのまえ終わったばかりなのに、ジャージなんかで出かけるからだ。
もっと話したかったな。そう思いつつも、しかたなく豆電球を消して布団に潜った。
せまい。尋常じゃなくせまい。
やっぱり大人ふたりが一組の布団で寝るのは無理がある。けれど彼の体温はあたたかくて、それはとても幸福だと思う。


春くんが経営しているこの旅館で、私は数週間前から暮らしている。窓からは大きくて立派な川が見える。きれいな橋が架かっていて、その奥に満開の桜が鎮座している。
死ぬまでの日にちを費やす用途にはまったくもってそぐわない、素敵な部屋だ。
チェックインしたその当日に「自殺志願者です。死ぬ決心がつくまでここに置いてください」と宣言し、前払金として数十万を払った。どうせ死ぬのだし、素寒貧になったっていい。この部屋で死ぬつもりだ。そうなれば事後処理になんだかんだ迷惑をかけるだろう。そのぶんのお金だ。

彼はなにを詮索するでもなく、いいっすよとふたつ返事で了承してくれた。
こんな優しいひとはいない、と私は一瞬で春くんを好きになってしまった。
なにぶん惚れやすいのだ。それが私の、二十六年という短い人生における敗因である。


ほんの数か月前まで、私は底無し沼のような闇の中にいた。
彼は付き合っている頃から荒っぽい性格ではあっ
たが、同棲を始めるようになってそれは顕著にな
った。
彼の暴言はいつも雪崩のように襲ってきた。毎晩のように暴力をふるわれて、私はずいぶん疲弊していた。
お風呂に入って鏡を見るたび、身体じゅうの痛々しい痣がいくつも映った。

好きだからどうしようもない。へらへら笑って、すべてを受け入れるしかない。そう思い込んで、事実そうしていた。
だがある日、これではだめだとふと気付いた。
このままこの人といたところで、私はくたびれて消耗して死ぬだけだ。どうせ死ぬなら、自分の好きなように死にたい。
前向きなようでちっとも前向きじゃない目標を掲げたのはそのころだ。


「――DVねえ」
はじめてその話をしたとき、春くんはさして興味なさそうにそう言った。が、すぐに「クソだなあ
」と鼻で笑った。
「んで、なんで朱鷺子はそんなやつを愛しちゃったわけ」
素面で愛するとか言っちゃうんだこの男は。
はい好き、春くん素敵。いや馬鹿野郎。私は秒速で阿呆な思考回路を遮断して、彼に向き直った。
「めちゃくちゃ好きだったんだよ」
「ふうん、めちゃくちゃアホだったんだな」
毒舌。そういうところも好きだ。こほん。
私はひとつ咳払いをしてから宣言した。
「というわけで、私はあなたが好きです」
あ、まちがえた。
その言葉は、埃っぽい宙にむなしく舞った。


「朱鷺子ー、起きた?」
「んー、やだ……永眠する」
春の朝はまだまだ冬の名残をじゅうぶんに含んで寒い。
「自殺志願者ジョークはいいから、起きなってば。一時間前に作ったコーンスープ、おしゃれ冷製スープのごとく冷めちゃってつらいんだけど」
春くんはだいたい毎朝なにかを用意してくれる。お湯を淹れれば完成、みたいなお味噌汁やカップスープが多い。
それにしても、「なぜ一時間前に……!?」
布団のなかで思わず高らかに問うと、掛け布団をかっさらわれた。
「はい起きた起きた。おはよ」
寝癖がひどい。でもまあ春くんの髪もあっちこっちにはねていて似たようなものだし、安心して着替えることにする。今日はお花見だ。


「朱鷺子は今晩も生きてますなあ」
午前零時をふたまわりほどしたころ、春くんがするめを齧りながら、のんびりとそう言った。
責めるでも肯定するでもない、いつものトーン。
「春くんはさ、死んでほしい?」
答えを聞くのがこわい。落ち着くためにアーモンドチョコの包みをひとつ剥いて口に入れると、優しい甘さが広がった。
「朱鷺子の好きなほうにしたらいいよ。俺はどっちでもいい」
春くんはあいかわらず穏やかにそこにいる。
そっか、と私は笑って答える。軽薄な答えが心地よい。以前までならそう思っていたはずなのに、急に物足りなくなってしまった。

というより、さみしい。かなしい。せつない。
そのあたりの気持ちがないまぜになって、心の奥のほうで渦巻いている。
「……生きててもいいかな」
ためらいがちに、しかしきっぱりそう訊ねると、なんで俺に訊くの、と春くんが首を傾げた。
心底わからない、という顔だ。
「いいにきまってる。朱鷺子が生きてるほうが俺は楽しいし、なんかいいなって思う」
ていうか、朱鷺子が死ぬなら俺も死のうかな。

窓の外で大きな風が吹いて、しんと冴え渡った夜空に桜が舞った。散り絵みたいだ。
それはとてもいとおしくて、美しい。
たまらず春くんに抱きついた。
私の髪に遠慮がちにふれる春くんの手が優しい。
いつのまにか、こどもみたいに泣いていた。
なんのしがらみもなく涙を流すのはいつぶりだろうか。気持ちがいいな、と思う。
春くんはお酒くさくて、私はすこし距離を保ってから素直に「くさい」と言い放った。
「大人の香りだよ」と返されて、なんだかよく分からないけど笑いが込み上げてくる。
「朱鷺子は忙しいなあ。泣くか笑うかにしたほうがよさそう」
「むりだよ」
「なら俺が笑っとこうか」
春くんがビールを片手ににこにこしはじめた。
かわいいな。ばっかみたいだ。
春くんがいたら、なんでもいいや。死ぬのはいつでもできるし、とりあえず生きてみようかな。
桜のスコールのなかで、私はそんなことを思った。

Spring has come

春は巡る。あなたがいるから、私は幸福だ。

Spring has come

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-15

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