一億万光年のマシュマロ

 僕は、粋がってこちらを威圧する灰色の雲を睨む。ただの水蒸気の塊の癖に、その存在のみで世界を不安で覆い尽くせるとでも言いたげな顔をしているのが腹立たしい。
 あれの隠れ家だった工場は今日も薄汚い錆にまみれていて僕は吐き気がした。常識的に考えて、わざわざ僕みたいな人間が訪れたくなるような場所ではない。僕は防災訓練の真似事でもするように、清潔なタオルハンカチを鼻に添えながら工場の隅っこに座り込んだ。ここは、ちょうどあれがよく鉄屑を弄んでた位置の隣、僕がいつもいた場所だ。
 あれがいなくなってどのくらい経つだろうか。
 あれには、偶然学校の席替えで隣になって以来しつこく付きまとわれていた。いい迷惑だ、僕はその辺の子どもとは違って遊んでいる暇などなかったのに。今ではすっかり見る事のなくなった少し浅黒い肌にテラテラと光る白い歯を思い浮かべる。あれは、時を経て思い返してもちっとも美化されない程度の顔をしていた。人の話を聞かず、こちらが聞いてもいない事をまくしたて、勝手に一人で楽しくなって、勝手に一人で笑っていた。あんなに鬱陶しく思ってたのに、どうしてあんなに一緒にいたのか考えてみた事は何度もある。きっと、僕はあの時手を引いて貰えた事に舞い上がってしまっただけで、あれの事を少しでも気を留める必要は微塵もなかったはずなのに。
 あれが突然いなくなる少し前、僕はあれの足が白黒漫画のロボットのようになっているのを見ていた。でも僕は、指摘すれば間違いなくあれが喜び勇んで語り出すことが目に見えてたので、敢えてその事には触れなかった。たぶん、その時言ってやればよかったんだ。そしたら、こんな事にもならなかった。悪いのはきっと、他人事を決め込んだ僕だったんだ。
 そういえばあれは、この工場のように鉄錆まみれの体をしていた。もしかしたらお風呂にでも入れてやれば真っ白になったのかもしれない。今更そんなことを考えながら、いつかあれにそっと手をとられた時の感触を思い出そうとした。ここは一人でいるには少し肌寒い。僕は一体こんなとこで何をやっているんだろう。
 あれはある日、僕だけをこの工場前に呼び出して、自分は今から宇宙人になるなんて宣言したんだった。僕には考える頭があったから、人の体は宇宙に行くと風船になってしまう事や、太陽は想像以上に危険なこと、星のほとんどは自力で輝かないことや、その他あれの脳みその足りなさについて多方面に罵詈雑言を浴びせた。あれは頭がいかれているが、工学的な事についてだけは悔しいけれど、僕より一歩も二歩も前に出ていた。きっと宇宙には出られるのだろう、ただきっと、あれのことだから、自分の体の脆さまでは考慮にいれていない。
 僕は情けないけど、やつに引きずられても泣きついて離さなかった。一度何かを決めた後のあれはなんと言われようとテコでも動かない事は知っていたけど、それでも離さなかった。お父さんが悲しむよと言えば、お父さんはきっと誇りに思ってくれるよなんて返してきた。とんだバカ親子だ。あれの父は今現在目玉がとろけ落ちても泣き止みそうにない。
 あれは漫画みたいに間抜けな様相で空を抜けていった。もしも他人事なら、あまりの馬鹿馬鹿しい光景に笑っていただろう。自分で言うのもなんだが、僕は親の言う事を聞くよい子供だったから、漫画のことをよく知らなかった。それに、あれが漫画を見せてきたその一瞬だけで、そんな不条理ですっからかんな物がどれだけ僕に不必要なのかなどと、容易に理解できたつもりでいた。それなのに、あれは実際にそれを浅黒い手の内に具現化してみせたのだ。そして、僕はうっかりそれに感動してしまったんだった。それからは、お父さんにもお母さんにも隠れて漫画を買いためるような悪い子供になってしまった。全部あれのせいだ。僕はあれの目に宿るきらきらの正体を掴みたくなってしまったんだ。
 それはあれがいなくなってからも続いてて、僕はついにあれが宇宙の片隅で呑気に暮らしている妄想に取り憑かれてしまって、その構想を勉強用に買い与えられたノートに描き殴ってしまったりしていた。あれのことを思いだせなくなる前に、忘れてしまう前に、急いで形にしないといけない。
 僕がずっと一人で工場の入口付近で座って俯いていると、ほわほわの何かが頭の上をぽてんと跳ねた。忍び込んだのがばれてしまったのかもしれないと、焦って顔を上げると側にマシュマロだけが転がっていた。僕はマシュマロの食感が大嫌いだが、あれはマシュマロが大好きだった。淡いピンク色をしているそれを口に含む。落ちたものを食べたなんてお母さんが知ったら悲鳴を上げてぶっ倒れるかもしれない。そう考えると不思議と愉快な気分になってしまっていた。マシュマロはやっぱり美味しくなかったけど、心のどこかであれの笑い声が聞こえたような気がして、胸が大きく一度だけ弾んでしまった。
 なんだか一人で恥ずかしくなって空を見上げると、たくさんのマシュマロが降り注いでいた。雪のようにしんしんと、優しく静かに次々とマシュマロは地表に着地する。古いマシュマロの柔らかさが、新しいマシュマロの落ちた衝撃を吸収して、世界はより一層静けさに支配されていく。
 これはどう考えてもあれの仕業に違いない。マシュマロ好きの中でもとびきり頭の狂ってるあれが面白がって、遥か上空からふわふわの菓子を摘んではこちらへ放り投げているのだ。そう考えると先程までの妙な不安感は柔らかく溶けていき、この状況を楽しむだけの余裕がでてきた。
 きっと僕も、あれと過ごしているうちに感化されて頭がおかしくなってしまったんだ。でもそれも悪くないと今では思う。この夢のような状態が、どこから夢なのかについて遡ろうとするならば、あれの存在自体まで怪しめてしまうのが恐ろしい。目を瞑って、深呼吸をする。マシュマロの甘ったるい後味はきっと、嘘なんかじゃない。
 そのうち余りに余ったマシュマロは、水道を詰まらせ、人を溺れさせ、そうして地球に汚染されたマシュマロが動物を絶滅させるのだろう。この世界はいつか、マシュマロに殺される。それでもマシュマロは降り止まない。生き物の屍を埋めながら、音の消えた地球を永遠に包み込むのだろう。
 僕は世界滅亡が迫っているというのに可笑しくなって一人笑った。なんて無様で滑稽な死に様なんだろう。あれはきっと僕を救い出す事なんてせずに、他の生き物同様にマシュマロで包み込むのだろう。それでいい、その方がよっぽど気が楽だ。僕がもしまたあれに再会できたなら、平静を保てる自信がない。僕の膨らみに膨らみきった妄想のせいで、あれが一体何者であったのかがもう分からなくなってしまっている。もしかしたらもう、あれを見ても自分はなんとも思えなくなってしまう所まで来ているのかもしれない。それが、世界滅亡なんかよりどうしようもなく怖く感じられたのだ。
 
 廃工場の前で座り込んだ少年は、今にも降り出しそうな雨雲のその先を、ずっとずっと見上げ続けていた。

一億万光年のマシュマロ

二千十六年一月十六日に書いた文に少し修正を加えたものです。
浅黒いあれやマシュマロが、その世界に本当に存在してるのか怪しい感じにしたかったような気がします。

一億万光年のマシュマロ

少年と、宇宙人になった友達の話

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-14

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