きこえるか、ピーターパン

きこえるか、ピーターパン

「今晩から明日にかけて、曇りのち晴れの予報です」

ポータブルラジオから垂れ流される天気予報を惰性で聞いていた私は、ふ、と息をついた。
うまく、話せるだろうか。
片耳を塞いだ携帯電話は、いまだ沈黙を守ったままだ。
私が電話に出ると、掛けてきたのは彼の方のはずなのに、叱られた子どものように、あのね、と言ってから何も話し出さない。


テーブルに放ったらかしで飲まずにすっかり冷めてしまったコーヒーを、シンクにどぼどぼと流す。
ひとりきりのアパートの一室に、その音は思ったより大きく響く。
混じりけのない黒の液体は、弧を描いてしゅるるるる、と排水溝にのみ込まれてゆく。
ごめんよ、コーヒー。

「……で、今夜も君は帰らない、と」

この台詞言うの、今日で通算何回目だろう。
結局、彼の黙秘に負けて口火を切るのはいつも私だ。誰かが数えててくれれば、ちょっとは報われる気がするんだけどな。
百回記念、とかで。祝ってくれるんじゃなくて、できれば労うかたちで。
屋台でビールとおでん奢ってほしいなあ。
あ、屋台とか行ったことないや。意外とああいうのって、勇気がいる。
一歩踏み出す、勇気。
屋台にだから、暖簾をくぐる勇気?


からからから。暇をもて余した私は乾いた音を立てて戸を開けると、煙草を吸うためにベランダに出る。
瞬間、冷気。
身体がぶるりと震える。


十一月の夜は、なめきっててごめんねと言いたくなる程に、もう随分と寒い。 ショールを羽織ればよかった。
そう思うけれど引き返すのも面倒くさくて、私は煙草を咥えたまま首筋にふれる。
無造作に結んだポニーテールとうなじの隙間に、夜風がどろぼうのように忍び込んでくる。
やだな、もう。入るなら、堂々と入ってきなよ。こんなに、
戸、あけてんだからさ。

「なつー、なつぅ」

うるさいな、どこの誰だ。訳の分からぬことをのたまっているのは。
そうか。冷静に考えれば、電話からだ。
焦ったような、上擦った声が聞こえる。
そういや、さっきから何かもごもご言ってた気もする。誰とは彼だ。
ごめんよ、彼氏。
そしてのたまっている内容はといえば、私の名前だ。

「ごめん、ごめんって、奈都?あー待って待ってほんとごめん、怒んないでって。分かってって。出張、長引きそうでさあ。一ヶ月ほど延長なんだ」


私が一言も発していないというのに、この畳み掛けるような弁明。
無言の圧力の裏に隠されたなにかを察する能力でも身に付いたんだろう。裏なんて失礼な。
当の私は今しがた、君に謝っていたというのに。


── きみきみ、しっかりしたまえよ。そんな暗いところをひとり、
歩いていちゃあいけないよ。


突拍子もなく、抑揚のつきすぎた、という表現がしっくりくるダミ声。びっくりして声のする方を見ると、その正体は、ベランダのそばに置いていたつけっぱなしのラジオだった。
いつのまにか天気予報は終わったようで、童話コーナーか何かに切り替わっていたらしい。ダミ声は話す。


── 夜道はあぶないのだから、このおひさまで、お照らしなさい。


細い、煙を吐く。
目の前が白く覆われる。
おひさま。
私のおひさまは、彼だ。
私の唯一のおひさまは今、よその国を照らしに行ってしまっている。
こういう場合、どうすればいいんだろう。
おひさま、不在。


私は、夜風にあたって冷やされた携帯電話を、強く、強く耳に押し当てる。
「ふうん。どこの国行ってんだっけ、今回は」

さして興味のないふうを装って訊ねてみる。 いつの間にか身に付いた、望まない習慣。

彼は数秒逡巡してから、
「……あー。あれだ、ネバーランド?」

電話越しに漏れ聞こえるのは、甘えた声で彼の名を呼ぶ、しらない女の人の声。

ショールくらい、手間を惜しまずに羽織ればよかった、と思う。
寒さと相まって、あんまりにもみじめだ。
節電仕様になっているスマートフォンの画面は真っ暗闇で、ちかちかと頼りなげに、上の部分だけがかろうじて光っている。

「不合格、もっと新鮮味にあふれるやつ期待してまーす」

湿っぽい気分を振り払うと、最大限明るい声で捨て台詞を吐いて、ぶちりと電話を切ってやった。

電話口でまだわあとかうぅとかいう声が聞こえていたけれど、すべて無視した。大体、他の女の人といるときに電話するなんて、無神経すぎる。私と彼女に失礼だ。そっちをまず謝れ、バカ。

彼は、控えめにいっても極度の阿呆だ。いつもしょうもない嘘をつく。 どうせばれると分かっていながら、こちらもいつものことだと思いながら、繰り返し繰り返し。嘘とも呼べない作り話を、既に世間話と化したようなやりとりを、週に一度の割合で。
くだらない。至極くだらないけれど、私には必要だった。今はない昔に縋るように。


──まーつーわ、いつーまでーもまーつーわ。


唐突に、懐かしげな歌が聞こえた。
童話の挿入歌にしてはえらく渋い選曲だな。
そう思いつつ、煙草の吸い殻を灰皿に落とす。
いや、違う。耳を澄ますと、どうやらお隣さんの部屋からのようだ。
待つわ、か。
確かに良い女になるには、待つということは必須事項だ。
でもなあ。考えが頭をもたげる。

待つには、忍耐力ってものがいる。
相手の言うことを、一ミリの誤差も生まれないように信じ抜く力がいる。 でも、私は彼のことを一体どうやって信じたらいいのだろう。
私は彼のことを微塵も信じていない。信じたくないからだ。
ただ、目を背けたいだけ。
彼が、他の女性のところに行くなど。

──私が。
煙草を吸うのは、苦いだけのコーヒーを飲むのは、彼を思い出したいからだ。
彼が好んでいたものを同じように愛おしむことができたならば、彼が帰って来るかもしれない。そういう淡い期待からの行動だ。なのに。
火を点けるとお湯を注ぐと、彼のあどけない笑顔が面影が、もうもう煙のなかに湯気のなかに鮮やかに蘇って、途端に胸が締めつけられるのだ。現実逃避の副作用。


隣の部屋からふっと、待つわの歌が途切れた。示し合わせたように、ラジオから陽気なメロディーが流れ始める。続くダミ声。

「こんな日は、あります。こんなふうにおひさまがやってこない日も、あるのです。そんなときは、ごはんを食べましょう」

ごはん。 文脈にそぐわない、半ばねじ込むように入れられた単語。
ぽかんと聞いていると、

──ごはんは明日の活力です!


そう締めくくられて、時報が鳴った。
ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽーん。
ほにゃららが、九時をお知らせします。
なんだ、と拍子抜けする。
いくらなんでも、唐突すぎる。
これは童話じゃなくて、毎日ごはんを食べよう とか、三食ごはん推進課とか、多分そんな類いのものだ。
なにかしらの、販促のようなもの。
そう気づいたとたん、ふは、と力の抜けたような笑いがこみあげてきた。
言い逃げに近いそのコマーシャルは、適当さが妙に心地よくて、適度に私の心を軽くした。


なるほど、と合点がいく。
ごはん、ごはんか。
そうだ、良い女になるのにも、彼のしょうもない話を未来永劫聞き続けるか決めるのも、
まずはごはんを食べてからだ。普段もてあましている頭をフル回転させたら、お腹が空いた。


さっきのなげやりなコマーシャルは、神様からの思し召しかもしれない。 それならば、ちゃんとまっとうしなくては。うん、何を食べようか。
ふあぁ、と炭酸の抜けたコーラのような欠伸をすると、夜の空気がいっぺんに飛び込んできた。
ついでに目に映るのは、めいっぱいのきらめく星々。
そして、お腹を空かせるおいしい匂い。
思わず、いい匂いのする方角をきょろきょろと見渡す。
欠伸のせいで出た涙を拭ってベランダから覗くと視界に入る、赤いちょうちんの灯り。


思い立ったが吉日は、私の信条だ。
今決めた。それでいい。ものぐさな性分の私にはぴったりだ。ごはんを食べて帰ってきたら、彼にさよならの手紙を書こう。
電話でもいい、なんでも。
なにせ、思い立ったが吉日なんだ。


ようし、飲むぞお。部屋に戻ってショールを羽織ると、私は意気揚々とらせん階段を駆け降りた。

月は、彼のいるネバーランドにもきっと、光を投げかけてくれているはずだ。

── 拝啓、ピーターパンさま。
君がどこかの国で、誰かのおひさまになっていることを願って。

きこえるか、ピーターパン

――いとしいひとが、幸せでありますように。

1年前、はじめて書いたお話です。あのころ読んでくださったみなさまに、たくさんの感謝を。

きこえるか、ピーターパン

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted