ソーダ水の如き午睡
光は零れる。あなたの瞳から、私の心から。
二時間前に向かいに座った、背の高い青年。
最終便の宇宙船はがらんどうなのに、わざわざ人の前に座るなんて物好きにも程がある。
くせっ毛らしい彼の蜂蜜色の髪は、車窓に映る月に照らされて淡く光っていた。宇宙船は音もたてずにゆっくりと上昇している。ぐわりと襲ってくる浮遊感には乗っているうちにもう慣れた。
暦上ではたぶん今日は八月の最後の日。
夏の終わり。
この船には空調がない。もともとないのか、
たんに壊れたのかは不明だが、蒸し暑いのには敵わない。二時間をこえた沈黙にも、そろそろ耐えられなかった。
「窓、開けていいですか。暑くて」
楕円の窓を指差してそう訊ねると、彼は本から顔を上げて「お願いします」と微笑んだ。
はじめてまともに顔を見て私の心はすこし波
打った。月みたいに笑う人だな、と思う。
穏やかさと冴え冴えとしたつめたさ、両方を孕んだ笑顔だ。
窓を開けると、鋭い夜風が飛び込んできた。
彼が膝に載せている本は、強い風でばさばさと激しくなびく。「ああ、涼しい」
彼がうれしそうに伸びをした。私はそれを無視して髪の毛をかきあげた。眠い。
そろそろ午前零時か。いや、午後だったか。
曜日感覚はもとより、時間の感覚までうしなわれてしまった。とくに支障はないから、まあどちらでもいい。
「──あなたも逃避行でしょう」
わかりきっているふうに言われたのが癪で、
私は「そんなもんです」とわざと素っ気なく返した。違うけどね。あなたと私は違う。
「今日の零時で、世界はうまれかわるんですよね」
彼のくせっ毛が、綿毛のように風に吹かれている。横顔は外の闇にさらされて見えない。
どんな表情でそれを言っているのかわからないから、仕方なく私は心の温度をオフにして言った。
「……そうですよ。みんな世界がかわるまえに、自分から死んじゃいましたけどね」
彼のとなりに置いてある深緑のキャリーバックが、急な揺れで剣呑な音をたてた。
私はシートベルトをし忘れていたことに気づいて、かちりと金具を挿し込む。
彼の瞳には星が流れている。
対して私の目は、たとえるならば濁流だ。
地球で死ぬことも宇宙でうまれかわることも
しない。あわよくばここに留まっていようだなんて、虫のいいことを考えている。
「──なんでみんな、宇宙に行こうとは思わなかったんでしょうか」
ぽつりと彼が呟く。なんとなくその顔が寂しそうに見えて、私は無性にいらいらした。
「宇宙に行ったらうまれかわるでしょう。みんな、それがいやなんじゃないですか」
ふと彼を見ると、彼はしゅるしゅると落ち込んでいた。
「僕は、おかしいんでしょうか。うまれかわるのが、怖くないんです」
分かりやすく項垂れているのがちょっとかわいくて、からかってみることにする。
「その論法でいくと、ここにいる私もおかしいってことになりますね?」
「ああ、すみません! そういうつもりじゃなくて、あの」
忙しいひとだ。素直というか憎めないというか、直視するのが眩しい。
窓からは、光が差す。やさしい光だ。
「うまれかわったら、記憶が抜け落ちるでし
ょう。まっさらになる。つまり、今まで過ごしてきた時間が、ぜんぶ失われてしまう」
なるべくやさしい声で。彼が安心してうまれかわれるように。私みたいにはならないで。
「寂しいじゃないですか。愛してきた人たちを忘れるのは」
彼のようにうまれかわることを潔く決断できる人は、きっとごく少数だ。顔を上げてそう言おうとしたその瞬間、「寂しいです!」と彼が立ち上がった。
瞬間、宇宙船が大きく傾ぐ。
え、なに。どうした。ていうか立ち上がるってちょっと。
「あの、シートベルト 外れてますよ! 危ない!」
意味が分からないなりに私も叫ぶ。
必死の制止も聞き入れずに、彼はまっすぐ前を見据えたままでいる。
「あなたと別れるのは寂しい。だから、ここに残ります」
ばかじゃないの。意味がわからない。しかも
会ったばっかりだし。浮かんだ言葉はからま
って声にならない。
「なに言ってるんですか、ここにいる気ですか。 あなたは生きたいんでしょ、 ここにいたらいつ死ぬかもわからないのに、そんなの」
だめですよ、と続けた声はかすれた。
「そんなの関係ないです、僕が言うんだから間違いない」
そう言って、はい、と渡された物体に、私は今度こそ「ばかじゃないの」と呟いた。
闇に浮かぶセブンアップの緑色はきれいだ。
「いま何時ですか」
「……あと一分で零時です」
かち、かち、彼の懐中時計が鳴っている。
「逃避行に乾杯」
違うけどね。二度めのその想いは、泡に溶けて消える。こつんと缶を重ねる。
「行きましょうよ」
彼の瞳に、また星が流れる。
ちかちかと光って、瞬く。
「夏ですよ、いま。一度きりの夏です」
「……春夏秋冬なんて概念、もうないじゃないですか」
「うまれかわりましょう」
穏やかに笑う彼に、私は深くため息をついた
ぷしゅ、と彼がプルタブに手をかけた。私もそれに倣う。
「いきますよ、せえの」
彼が指を鳴らすと、扉が開いた。
ぷしゅ、と炭酸が弾けて夏の夜空に流れる。
私たちの体は舞う。星が瞬く。月は手にふれて、うさぎは柔らかく白い。夢か。現実か。
空の彼方に投げ出されて、私たちは今日、うまれかわる。
ソーダ水の如き午睡
ふたりなら、何処へでもゆける。
とある素敵な企画に参加した際の作品です。
お題「この夏の終わりに」