愛してるよ、と言ってください。

0.イントロダクション


'私のこと愛してる? '
昔の彼女に聞かれたことがあるでござる。面と向かって愛してる、など言える男が何処にいる? どれもこれもが昔の話でございます。どろん。

突然、真に突然だが、よく逃げる。で候。 
何から逃げるって? そんなの知ったこっちゃねーよってぐらいによく逃げる。とにかく何もかもから逃げ腰でなのです。渇愛する餓鬼の様な心を見てみないフリをしながら、慈悲、満ち溢れる笑顔の仮面で自分を飾って、外れぬほどに今時時分の大衆心理に則ってaction。 は?これでもマジメに生きて、考えて、悩んでるんすよ(笑) って誰にでもなく逃げ笑いを仮面の下で作りながら、ストリートをエヘラエヘラ闊歩する日々。言葉のリズムなんて知ったこっちゃねーよ、っていうこのスタイル。Yes。語りのルールなんてフリーダムっすよ、っていうこのスタイル。Yes。
 今日、ウンコを踏んだ。何年振りだってぐらいに思いっきり踏んだ。ああ、そういえば「蛇を踏む」って小説があったなあ、って頭のどっかで考えながらブーツの底からハミでた糞を眺めておりました。卸して三日のブーツでウンコを踏んだっちゅーrealな事実に慄きながら、とりあえず右足を上げてみたのでありますが。って、突然だけど、アナタは最近ウンコを踏んだのはいつですか? って新京極を歩く、カップルに尋ねてみたいよ、乱口御免。最高ですか? って尋ねてみたいよ、乱文御免。 それでも候。私はウンコを踏んでいる。蛇を踏む。ウンコ踏む。ちょめちょめぱっぱの、御候。どうにもならないウンコの死骸を見つめながら、そんなことを考えてたよ、My brain。壊れたらしいよ、My brain。
ここは古都、京都。人の行きかう休日の繁華街、そんな所でウンコを殺すなんて。(笑)。って。むしろ不幸なのはこのウンコなんじゃないだろうかでござろうか。もしかしたら一日、のんびりと往生できたかも知れぬのに、踏まれたせいでお命を終にすることになったウンコ、ああ、無情。神はこの世におられるのですか? 無神論者ではないにしろ、宗教家でもないこの身分で出てくる言葉は、ただ、ただ、無情。ただ無情。
 ねぇねぇ、私は、どこから来たの? 
って脈絡なく続けてみたで候。候。言い過ぎると、鼻に付くで候。毒にも薬にもならない生き方よりも、誰かにとっては毒になっても大事な誰かにとっては妙薬になりたいと切に願う、近頃でござる(爆)。
 踏んだウンコはどこから来たの? 唐突に思い浮かんだのでこうして語っている次第。思いついたのは大学の2限、語学の講義を受けている真っ最中でございました。中国(チャイ)語の授業の最中に……って(またしても爆)。誰も私がどの第二言語を取っているかなんて興味が無いっつーの(さらなる笑)。誰も私の個人的な悩みとかプロフィールなんかに興味が無いっつーの(卑しいほどに自ら哂)。酒の席なんかで真顔で自分語りなんて始めようもんなら、あっという間に嘲笑もんでございまして、これが高校生なら良いのです、ノリが悪い、楽しい場でシリアスなことを語り始める男なんて、ノリが悪い。その一言で済むんでありますが、ところが、私、もう二十と五になった次第で、もう、とうに自我を確立して社会の中で働くお年頃。そんな人間が飲みの席で悩みなんてブチマケようなものなら、どうなるかは想像に易いでござろうよ。悩みの無い人間なんておらんとです。皆、一様にそれぞれの誰にも理解できぬ悩みを持ちながら立派に笑うヒマワリなのです。他人に真摯に悩みを打ち明けるということは幼稚さの象徴なのでございます。
未熟でござる。この股間にぶら下がった仮性包茎のチンコが象徴、未熟でござる。それでも神に問うてみたい夜もあるのです。
「傷つくことを恐れて自分を隠すことと、誰かのために無理繰りに笑うことは違うなりや?」 自重。まるで高校生が夜中に書いたポエムのようになってきたので然るべき対応として自重。
こんなことに悩み、躓く、私は未熟。汗水垂らして毎日を過ごす同年代に比べたら此の身の未熟は何たるや? 果たして未熟は罪なりや? 未熟と純粋の境界線を探しながらいつの間にか夢を見ていた。
逃げ腰で暮らしながら、大海の針を探し当てるような確率で新京極でウンコを踏む。私はそんな男で候。今日のところはこれにて候。乱口御免、乱文御免、これにて候。どろん、どろん。

           ◆

1. 我が家の肖像
 

「キンジ、話を聞いて欲しいの。あ、座ってて。あのね、驚かないでね? 絶対だよ? じゃあ、言うね。ああ、緊張する、ってお母さんが緊張しても仕方がないか。離婚。うん、離婚。お母さん、離婚しようと思うの……」
 実の母から、そんなことを言われたら。どうリアクションするのが正解ですかぁ

 やあ、って始めてみたで候。
 前触れもなく、またしても始めてみたで候。
拙者、現在、夏期休暇にて実家に帰ってきているで候。で。実家のドアを開けて母と何ヶ月か振りに言葉を交わし、私の部屋に荷物を置いて小便を済まし台所兼リビングに置いてあるテーブルセットに腰掛けたところで、母が、飲む? と開いた冷蔵庫の扉の脇からひょい、と顔を出し、ビール(私は決まってスーパードライ、ちなみに父は決まってラガー)を開けながらこちらへ向かって来たのです、ええい、冷えたスーパードライが否応なしに喉を鳴らじゃございませんか。 で、話って?  と、慣れ切った京都の大学生が使う京都弁以下大阪弁以上の関西弁で、一応、興味深げに、私もちょっと飲んじゃおうかな、と缶に直接、口を付けて喉を上下させながら私の横のソファーに座った母に向かって尋ねてみたのです。
先ほど、つい、先ほどのことだった。牧野の駅を降りてタクシーに乗り、この家の住所を告げた所で、ほい、と一息つけ、さてさて今は何時だろうと腕時計の代わりになっている携帯電話を見たところ、メールを受信している事に気が付いた。送り主は母で、お帰りなさい、今どこ? とあった。駅でタクシーに乗ったとこ、と返信すると、了解!気をつけてね! あと、お母さんは話があるので後で真面目に聞いてねと笑顔の絵文字で結ばれたメールが少しの間を置いて帰ってきたのである。
で、話しって? 母はこんなにすぐに息子の方から話を振られるとは思っていなかったのだろうか、鳩が空砲を食らったような顔をして喉を鳴らし口に残ったビールを飲み干した。もしかしたらさ、と、私が続けようとしたところ、母は、たらたたっとスムーズなブラインドタッチのような小走りで寄ってきて私の隣に座り、不肖キンジ、この一口の為に生きてます! と言わんばかりに口を付けようとしたビールの缶を私の手からかっぱらった次第。スーパードライ受け入れOK!な喉が一斉にサッカーのサポーターよろしくブーイングを鳴らしたようだった、そりゃないよ、ママン。母はかっぱらった缶ビールを、その黄金色に輝くその液体を、まるで自らに勢いを付けるように胃に流し込んでいく。喉が上下、上下と動きまくっている、確か、母は酒はあまり強くないはずでありんすが、ここから見ても大分、中身が減ったと分かる程の時間の後、告白する少女のような顔で母はこちらをお向きになった。デジャブな目線、年の割りには張った目元で、きゅ、とこちらを向いて、ふぁさっ、と下を向き、こくっ、と唾を飲み込んだ後に、告白するために男子を呼び出した女子のような目でこちらを向き大根役者が下手な回しで必死に覚えてきた台詞をまくし立てるように口を動かした。  
……キンジ、話を聞いて欲しいの。あ、座ってて。あのね、驚かないでね? 絶対だよ? じゃあ、言うね。ああ、緊張する、ってお母さんが緊張しても仕方がないか。離婚。うん、離婚。つまりはね、お母さんは離婚しようと思うの…と目線をまた下ろした。
 母、齢、確か…五十と、もとい、六十から少し引いた時分、一世一代の大見得を切る、といった感、窓の上に取り付けられたエアコンが全力でまた、気持ちよい風を送り始めたでござる。どろん、リアクションに困るよ、ママン、どろん。白髪染めした髪が健気にエアコンの風に揺れていたでござる。どろん。

 半年振りの私の部屋は定期的に掃除をされているのが分かる、小学校入学の時に買ってもらった学習机にほこりは積もっていない。本棚に並べられた見慣れたようで懐かしいコミックス、辞典、卒業アルバム。高校時代の卒業アルバムの寄せ書きをしばらく読んだ。それから飼い犬のダーウインの散歩のために家を出た。
受話器の向こうにカヲリちゃんの姿を想像する、この初秋の太陽の下、紋切り型の夕の涼しい風を待つカヲリちゃんの姿を想像する。呼び出し音が聞こえる、アナログな胸が高鳴りそうになり、これまでの月日を確かめるように脳みそが大丈夫だ、とデジタル表示の指示をだす、先ほど一気に注ぎ込んだビールが少し回って気持ちが良い。七回目のコールでカヲリちゃんは、どちら様ですかあ? とおどけた声色で電話に出た。 夏だけに? と私は返すが、何の返答も無く、電話が切られたで候。慌てて掛けなおすと、 サムい。 と、真剣な声色でカヲリちゃんが言う。 いや、どちら様の様と、夏のsummerを掛けてみてんけど。 と、苦笑交じりに言うと、うわ、サムっ、とカヲリちゃんがまた言うでござる。少し頭に来たので、この前のこと彼氏に言うで? と、みね打ち刃で脅すと、ぎゃあああああ、ごめん! と携帯電話のプラスチックの本体が震えそうな大声でカヲリちゃんは謝った。それからしばらく、他愛のない話をした。ちょうど話題が枚方パークの話になった所で、先ほどの母から聞いた離婚の話を相談してみた。 好きにさせてあげれば? タカイちゃんのファミリーだってもうみんな大人やねんから。ってか人の家庭のことだからあまり突っ込んだこと言えないんだけど。 それがカヲリちゃんの答えだった。電話を切ったのは高校の前だった。門の前の広場では女子が地べたに座り紙パックのジュースを飲んでいる。電話を掛けてから三十分ぐらいがあっという間に経っていた。歩き疲れたダーウインは尻尾を力無く振っていた。秋の始まりの始まりの匂いがした。夏の終わりの匂いがした。この季節が好きだ。
 
 女の勘を欺くのは不可能、と歌ったのはアムロでござる。ところがどっこい、この男女平等のご時世、勘は野郎にもインストールされているで御候。言うなれば左右の質の違いか、はてな、女の勘はハイ・アベレージヒッター、男の勘はスーパースラッガー。いつであったか、姉と二人で酒を飲んでいる時に姉の口から聞いたことがあった。何故だかは分からないが良く覚えている。
 その晩は、さしぶりに家族四人と、ちっちゃい一人で酒を飲み、旨い物を食らった次第。自分の部屋に戻り、洗剤と太陽の良い匂いがする枕に涎を垂らしながらいつの間にか寝ておりました、と。
乱文、御免。乱口、御免。不肖タカキン、これにて候。
 夢を見なかったでござる。夢を。

 夢についてでござる。夢の効果を誰かご存知ないか? 誰か! 夢の効能をご存知ないか? 何故、人は夢を見るのだ? 何故、人は夢を見るのだ! 起きている間は夢と現実を近づけようと苦心しながら寝ている間は覚めたら忘れるような夢を見る! 何故だ。何故、この頭は夢を見る! 自重。どろん。
 この頃、よく、うなされる。

 とりあえず目覚めてみたで候。何の予告もなく目覚めてみたで候。
 寝汗をかいていた。手元を見るとエアコンのリモコンに何も表示されていなかった。寝ている間に寒くなって無意識に消したのだろう。
 洗面所に向かうと、父がいた。どろん。幽霊に出くわしたように驚いた。小生、まだ、この目が覚めた時にもう誰かが起きているという久しぶりの生活に慣れていないようでござる。小便を済ますと、出かけんの? と聞いてみた。おう、ちょっとチャリでな。 と父は電気髭剃りを洗面所横のラックに戻しながら答えた。行ってらっしゃい、と言うと、おう、まあ、ゆっくりせえよ、と相変わらず優しそうに笑い、玄関の壁のフックに掛けてあった帽子をかぶって父は出て行った。
 卵とベーコンが焼ける匂いがする。二日酔いをするほど飲んではいないが、寝起きなことも加え、胃がむかつく。冷蔵庫から牛乳を取って子供の頃から使っている懐かしいグラスに勢い良く注ぎ一気に飲み干す、目覚めの食道に冷たい液体が流れていく感触が心地良い。深呼吸をする、カヲリちゃんを頭に浮かべる。もう一度、深呼吸をする。時計を見る、もう昼過ぎだ。
「あら、お早いお目覚めで」
母が穏やかに皮肉めいたことを言う。
「ああ、全く以ってその通りやね、おはようさん」
「おはよう」
「タカコはお友達とランチして、カラオケ行ってくるらしいよ」
「ああ、そうなんや」
「寂しいねえ、キンちゃん」
「別に寂しくないから」
 反射的に答えた私の声を聞いていたのかいないのか、母は携帯ラジオから伸びたイヤホンを耳にかけ洗濯物を抱えベランダに向かった。おはよう、シスコンキンちゃん、と耳元で誰かが囁いたような気がして思わず頭を振った。振った頭に小さな手が当たる感触がした、ライムちゃんだ。ライムちゃんの方を振り返ると、おはよう、と小さなお口で言う。可愛くてたまらない。思わずぎゅう、と抱きしめたくなったけれど、そんな溺愛するキャラでもないので、おはよう、と寝起きでまだ弛緩した表情筋を精一杯に使って返した。ウフッ、と意味ありげにライムちゃんは笑い、テレビの方へ走っていく。
オジちゃん、ライム、シンデレラ見たい! と、DVDのデッキの前でアメリカ調なパッケージの絵のシンデレラのDVDをこちらに持ってこようとする顔を見て、年々、姉に似てくるな、と思う。DNAの設計図どおりに進行していく姪っ子の成長がなんだか最近、羨ましい。だって私は、もうこの年にもなると目に見えて成長することが期待できない代わりに、ぎっくり腰とかメタボリック症候群とかの目に見える老化も期待できない、その上に、精神的には急激に社会化を始めるもんだからアンバランスなことこの上ない。若年の時分には、今の自分が若いのか、もう老い始めたのかも分からんとです。どろん。
 
 姉は水商売をしている。所謂、チーママと呼ばれる類の職業で、年が三つ、離れている。
 私は要領が良いで候。それが悩みの種で候。
 良く、二番目の子供は上の兄弟が怒られている姿を良く見ているおかげで要領が良くなるという俗説があるございますが、ご他聞に漏れず、この私めの姉弟もそんな感じのブラザーズでありまして、向こう見ずで行動在りきの姉に比べて、思索という名のぐずり癖がある弟といった次第でございます。会う人、会う人に、タカイ君って絶対、お姉ちゃんいるよね?! って言われ続けて育ってきたましたが、これでも姉、私と順繰りに産んだ両親に感謝している次第でありまして、小さな頃から姉という女性と寝食を共にしてきたおかげで女性に対して現実的な見方をする癖が付き、その癖のせいで女子の間からハブられることもなければ、女性という現実を生きる動物に博愛女神的な理想を抱いて失望することもなかったからでございます。一姫、二太郎、三なすび。どろん。
 
 私と逆の人間を知っています。安西といって長兄に生まれ、男兄弟に育った男です。
 「今やから言うけど、お前は絶対、タラシって奴やんな!」
 確かに私の女癖は決して良いものではありませんでした。酔った安西の顔は同じ男から見てもハンサムで色っぽく、流行遅れの服と端整な顔立ちのギャップから、良くは無い育ちと貧乏が顔を出してきます。それが無駄にセクシイでした。いつものように酒の肴は私の女性遍歴でした。「日本酒。と砂肝。銀シャリ食う?タカイ。」「何、銀シャリって」「白い飯のことや」そんなことも知らないのか、とでも言いたげに安西はカウンターの向こうで洗物をするいーちゃんに向かって、日本酒と砂肝ね、と愛想良く笑い、またこちらに顔を向けました。はいよ、と元気よく返事するいーちゃんの声が聞こえます。
 私と安西は高校時代に知り合いました。仲良くなったのは理由がありました。ギブ・アンド・テイクク。
 安西は(高校時代にはその時代遅れの髪型で気が付きませんでしたが、私は同じ大学の女性に、安西君って格好良いよねー、と言われて初めて安西の顔を真剣に眺めてみたのです。)大阪の大東と云う垢抜けない地に住みながら、確かになる程、モデルのような、というよりはコンピュウタ・グラフィックで書いたゲームキャラのような顔をしています。
 「お前は、やっぱ話を聞いてない」「だから仲野さんのことやろ?」「やっぱお前は話を聞いている!」酔っ払い独特のテンションで安西はまた終わった恋について私見を述べ続けます。恋愛のワーキングプア。政治思想のワーキングプア。
「何でさ、俺と仲野さんが上手くいかんかったらか分かる? 答えてみ?」「だから。安西の愛が足りんかったからやろ?」「お前はやっぱアホやな」「何が」「それ俺が言ったこと、そのままや。何でお前みたいなのが島内さんみたいな良い女に惚れられたんやろうな」「さあ」と言って私は笑い、砂肝と日本酒を持って来たいーちゃんに、烏龍ハイ、と一言だけ告げ、グラスに残ったビールを飲み干し、開いたグラスをいーちゃんに手渡しました。はいよ、と小気味良くいーちゃんは笑い、ふいに私の頬に意味あり気に手を当てました。
 熱い。だいぶ回ってきたやろ? うん。と私は笑いました。いーちゃんは何も言わず向こうのカウンターに引っ込みました。「自分の頭と言葉で考えなあかんで? ええか? 本を読め。本を。ニッポン好きか?タカイ」「ん?好きでも嫌いでもないなあ」「やっぱりお前はアホや」ぎゃはは、と安西は笑い、何が可笑しいのでしょうか、畳を叩きながら腹を押さえています。
「いや、俺、頭悪いし」「そ、そうやな、いたた腹痛いわ! やっぱ高校ん時の勉強なんて役に立たんな。ニッポン好きか、なんて質問に大学生にもなって即答できんようなんて男として恥やぞ。」「そうか?安西は?」「ん?俺か?俺は、好き通り越して愛してもーたわ」「そう」「愛してもーた」今度は私の方が笑いを堪えるのに必死でした。童貞に政治思想の何が分かるのでしょう(安西はもう二十を過ぎているのに童貞なのです)? 神よ、安西曰く(その言説から察するに安西は無神論者でした。私は人生に於いては無神論者かも知れないが恋愛に於いてはキューピッドなる神と天使を信じているかも知れない、と答えました。安西はロマンチックやな、と私の答えを笑いました。ロマンチック。それはどう考えても安西の方にお似合いの言葉でした。政治思想を全国チェーンの安居酒屋で語り、挙句の果てには童貞と来ている。童貞の語る思想に魂が宿るか? 童貞の語る恋愛のイロハに精神が宿るか? 童貞の語る愛は果たして愛か?)、十代で左翼に走らぬ者は情熱が足りず二十歳を過ぎて右翼に走らない者は知能が足りないとのことでした。なるほど、安西の目には私は情熱も知能も持たない海月のように映っていたのでしょう。蔑視する必要もないほど下尚な生き物。
 安西は賢いが故に阿呆なのです。己の金玉に垢が溜まるのと同様な現象が女性にも起こることを想像すら出来ない。詰まる所、女性というのは、何かを求めなければ自然と何かを与えようとし、そして、常に優秀なオスの方に尻尾を振り、残酷なまでに二者を天秤に掛け、沈んだ方に淫靡なキッスを与える生き物なのだと、割り切れば良かったのですが恋愛経験の少ない安西には到底、無理な話です。結局は何も知らずに安西は悲しいまでに仲野さんと云う女を美化し、期待過剰になり、その底の浅さを見抜いた仲野さんという女は酷なまでに安西という劣性の男に愛想を尽かしただけのことなのですが、それを安西の言葉を借りて表現するなら、男の愛が足りなかったからと云う、何とも形容し難いナルシズムに塗れて気色の悪い男の都合に沿った終わり方をしてしまった悲恋の二人、と云う事になるのでした。
 私は安西に対して何処かで軽蔑の念を抱いていました。恐らく安西の方もそうだったでしょう。安西は恋愛という点で、私は思想という点で、互いに塩を送らせてやったつもりで、良く考えてるな。とこいつは俺に言わせたいんだろう、ほら、そんな顔をしてやるよ、と言った調子で白木屋の泥水のような安酒で酔い、大学生活と云う人生の中で最も暇に満ち溢れた日々を費やしたのでした。いつの間にか、安西とは疎遠になりました。風の噂によると安西は車のディーラーショップに就職をしたとの事です。この秋で安西と連絡を取らなくなってから三年が経とうとしています。
 神よ、一度だけ問うて見る。お里を知るとは罪なりや? 生まれと育ちによって予め分相応な配偶者と分相応な幸せを設定されて生まれてくるなりや?
 今となっては昔の話でです。シンデレラを眺めながらいつの間にか眠っていたおりました。間睡。どろん。差別と偏見、氏か育ちか、生まれ持ったもの、男の性、女の性、己の性、ナルシズム、自己、自重。どろん。

「ちっとな、言いたいことがある」
 そんなことを父から言われたのは初めてだったで候。と始めてみたで候。
九月の牧野は、まだ暑い。川辺の散歩道を歩いている時だった。この散歩道は、退職してからの父のお決まりの散歩コースだった。父の名は啓という。今治の生まれで大阪の寝屋川の企業に就職し、私が生まれる前にまだ幼い姉と母と牧野に転勤で移って来た。私が大学二回生の時に定年退職を迎え、少なくとも私から見れば悠々自適な毎日を過ごしている。
「もう一回、働こうと思うんや」
 父は続けてそう言った。え、どういうこと? と私は答えた。
「何て言うかな、まだ力が余ってるんや。父さん、まだ六十四やろ、リタイアするにはまだ早い感じがするんや」
「そりゃお父さんがしたいんやったらしたらいいけど雇ってくれるとこあるん」
「それが問題や」
「そうやな」
「そうや」
 このままテレビばっか見とったら粗大ゴミやからな、と父は言った。それきり父は黙った。それから川辺を通り過ぎ、最近出来たばかりのこの辺りで二つ目のコンビニエンスストアを通り過ぎた頃、父はいつものように野球の話をし始めた。私の母校である高校の野球部が来年は強いかどうか、父の母校が不祥事を起こして三年生が出場停止になったこと、父は独り言のように話続けた。私は相槌を打つだけだった。いつものやり取りだった。途中の公園にベンチがあった。父が、少し休もう、と言い私と父は腰掛けた。父が煙草を一本吸い終えた頃、帰ろうか、と言うと、まだ早い。こんな早く帰ったら母さん、休まらんぞ、と父は言った。それからしばらく話していると「やっぱり外に出てくると、せいせいするな、キン」と父は言った。せいせい。
 父は定年退職してから散歩が趣味になった。私と父は仲良くなかった訳ではなかった。どこか照れがあった。距離までとはいかない程にむず痒い居心地の悪さがあった。
 風が涼しかった。もう秋の匂いがした。
 家に帰ると姉と母の声がした。キッチンで夕食を作っていたところだった。野菜を切る手馴れた音がする。 

 親と軋轢が生じることは無かった。しかし家庭全体が軋むことはあった。一応、私の家庭は傍から見れば平和で和気藹々としているらしい。キンジの家は幸せそうだよね、と元彼女に言われたことがある。それでも二十何年も家族をやっていれば所々に無理が生じてくる訳で、我が家も大なり小なり幾度か崩壊の危機を迎えたことがあった。今となっては若気の至りという奴で済ましてしまえるけれど、小さかった私には鮮明に思い出される事件がある。父が母を殴ったのだ。小学三年生の時だった、父は酔って帰ってきた。そして母と喧嘩になった。私と姉はいつもの事かと思って見て見ない振りをしていた。夫婦喧嘩など日常茶飯事だった。近所迷惑な程、父が大声を張り上げた。しばらくして、ぴしゃん、という乾いた音がした。何の音かは分からなかった。それが母が殴られた、正確にはビンタされた音だと気が付いたのは、お母さんを殴らんといて! という姉の叫び声を聞いた時だった。生まれて最初で最後のことだった。それきり父と母はいわゆる普通の仲の普通の夫婦らしい、それでも姉曰く、父が退職してずっと家にいるようになって半年程たった頃から、母はため息が増えたらしい。夫婦とはいえ他人は他人、自分以外の誰かと四六時中を共にするというのはどうしてもストレスが溜まるということぐらいは未婚の私でも想像できた。
 
 今年に入ってから、日記を書いているで候。日記というのは不思議なもので候。何もない一日でも日記帳に2ページも3ページも書けることもあれば、悩みに悩む若き男の独白に近い文章を書きたい日に限って二、三行で終わってしまうこともある。私にとっては文章を書くというのは実に難しいことのようだった。今日は何だか頭が重い。酒が残っているのか、否か。才能出がらしの作詞家のように何も言葉が出てこない、とまでは行かないないけれど近いものがある。あれやこれやと脳細胞に電気を流すばかりで、これだ! というキャッチー且つ独創的な言葉が浮かんでこない。真っ白の原稿用紙を前にして粗筋と寄せられた推薦文を参考に自分でも良く分からないままに読書感想文を書こうとしている気分でござる。乱文、御免。乱口、御免。これにて候。アイ、ワント、ドライブ感、I want great 文才。どろん。どろん。

 母と姉が晩御飯を作っている間、父は風呂に行った。私は部屋へ戻りカヲリちゃんに電話を掛けた。
「もしもし」
「ああ、どうそっちの様子は?」
 いつものカヲリちゃんの声だった。カヲリちゃんの声が好きだ。少し鼻にかかる甘い声、ストロベリーの飴玉の匂いのしそうな声。
「まあ、久しぶりに家族全員集合やからみんなテンション高めかな」
「マミー喜んでるでしょ?」
「喜んでるかは分からんけど、あんな事言われたし、親父と散歩してる時どんな顔していいか分からんかったわ」
「そりゃそーだね」
「うん」
「そっか」 
それからまた、他愛の無い話をした。テレビで何を見たか、誰の音楽を聞きながら電話をしているか。さっきと同じような内容だけれどさっきと同じようなテンションで話し続けた。楽しいのかつまらないのかの境界線を縫いながらデュエットするようなテンション。その間中、ずっと気にかかっている事があった。
「なあ、カヲリちゃん、この前のこと考えてくれた?」
「え、あーもうちょっと時間ほしいな」
「そっか」「うん」「わかった」

 テーブルを囲みながら家族四人で夕食を食べている時だったで。突然、母がとんでもないことを、とても自然な言い回しで父に聞いた。 
 ねえ、お父さん。私のこと今でも愛してますか?
母を除いた三人が同時に咳き込んだ。急にどうした? 父は訝しげに返した。いえ、なんでもありませんよ、と母はこれまた自然な表情で笑って何事も無かったように空になった私のグラスにビールを注いだ。テーブルの上にはまだ汗をかいたビール瓶が五本、乗っかっていた。

「お母さんやって女なんちゃうかな」
 姉は煙草をふかしながら言う。何が? と尋ねると、さっきの愛してる?って聞いたこと。と、鼻から煙を吹き出しながら答えた。縁側に座っている私たちにダーウインが近寄ってって来ようとする、鎖が伸びきる金属音が夕食後のゆるい時間に混じる。
「そりゃ離婚ってなるかもな」
「あ、知ってたんや?」
「あんたが知ってることは私も知ってるわ、そら。女同士なめたらあかんで」
「ってか何で?! というよりさ、普通の男やったら子供の前でマジで愛してるよ、はあと。なんて言わへんやん」
「キンジは分かってないなあ」
と、姉は少し馬鹿にしたように言った。
「世間体とか常識よりもたった一言の方がよっぽど女心って言うルールん中じゃ重要なタイミングもあるねん。なんてな。まあ、そんなんやからあれちゃう?」
「うっさいな!大体、振られたんは四年も前の話やろ!」
「なんも言うてないやん、だいたい嘘」
「何が」
「あんたはまだ振られてへん。どっかで続いてるんやろな。勝手に女を自分に都合良い距離に置いてるだけやで、現実逃避」
「分かりにくいわ」
「いい大学行ってるくせに、お前の頭が悪いねん、ほらお母さん呼んでるで、行ってあげ」
 姉のどこか達観したような話し方がたまに癪に障る。母に呼ばれてキッチンに行くと何てことのない用事だった、皿を拭くのを手伝って欲しいようだった。母は濡れた皿を拭く。可愛らしい、と言っても大げさではない顔には不釣合いな程に手には年相応の皺が浮かんでいる。黙って皿を拭いていると、「好きな人はできた? 」と母が聞いた。母はいつも唐突に話題を振る。どこか突拍子のない人。掴めそうで掴めない、童話の世界に住んでるような、浮世離れしそうでしない人。幼子のようにこちらを見つめる目は、皺の浮かんだ手に比べ若く見える。内面から滲み出る若さ、そんなものがこの女の人には有るのだと思う。
「まだ、出来てへんよ」
「嘘」と母は、子供がかくれんぼで隠れていた友達を見つけたような表情でいう。嘘、嘘、嘘?、と母はハミングしながら拭いた皿を渡してくる。私は渡された皿を食器棚にしまっていく。作業が終わるまでの間、母はずっと、嘘?嘘?嘘?と歌い続けていた。作業が済み、部屋に戻ろうとした私に冷蔵庫から缶ビールを出して渡して母は言った。
「いい、キンちゃん。みんな生きるから恋をするんじゃなくて、恋をするため生きるのよ」
 そう臆面も無く下手な恋愛家のようなことを言い、母は、じゃあ、おやすみ、ベイベーと笑いソファーの方へ向かった。
 部屋に戻って缶ビールのプルタブを引くと、炭酸の缶が開く独特の音が気持ち良く聞こえた。それから日記帳をバッグからだして今日の日付のページを開いた。昨日の記入スペースには何も書いていない。ビールを飲みながら何を書こうか考えていたけれど、ネタはあるのに言葉が弾けてこない。カヲリちゃんに電話で返事を促したこと、昨日聞いた母の離婚決意、父がもう一度、就職しようとしていること、姉に女心がわかっていないと少し馬鹿にされたこと、書くことはあるはずだ。そもそも日記なんて教授に提出するレポートと違って自身で分かってさえいれば内容なんて大したものは必要のないはずなのだ。大体、日記なんて何のために書くのだろう、とビールを飲みながら考えるばかりだった。物を書く、例え不特定多数に向けてであっても自分ひとりに向けてであってもそこに意義を見出すことは簡単でも意味を見出すことは難しい。なんて、それらしいことを考えながら酔いに任せて、「ビールをだいぶ飲んだ」とだけ書いた。
 結局、コンタクトも外さないまま眠っていたでござる。どろん。

 乱文御免、乱口御免。タカイでござる、タカイでござる。とみに悩みの種とは絶えないものでこの私めも人並み程度は悩むでござる。就職活動。就職活動。この言葉の響きがもたらす脂汗と言ったら! 
 私は逃げるでござる。現実問題からも夢からも逃げるでござる。寿命の果てまで逃げるでござる。一般的には大学生の就職活動というのは早い者で三回生の夏から始め、平均的には四回生の春には大抵が内定をゲットするという仕組みになっておりますが、ところがどっこい、このタカイめはもう九月も半ばを過ぎようとするのに内定どころか企業の説明会にも言ったことが無い次第。現実逃避、夢にも見なかった、夢にも見なかった、己がこんなにも情けない人間だとは! しかし現実は容赦なく迫って来る、時間は少しも止まらない。それでも拙者は逃げるで候。この世の果てまで逃げるで候。

 実家に帰ってきて三日目にもなるとだいぶ飽きてきたでござる。ただ、家事、飯作りから、掃除、洗濯までいっさいがっさいを母に任せてのんびりできることは良いことでござる。らくちんらくちん、ちょめちょめぱあぱあ。どろん。
 起きてトイレを済まし、歯を磨いてリビングに行くと父と母が楽しそうに談笑していた。女の人はどういう性根をしているんだろうと、不思議に思う。離婚するつもりの相手とどうしてこんなに楽しそうにお話できるのだろうか、常々、思っていることがある。玉の輿に乗る女性はセックス観がどうなっているのだろうか。人生の安泰のためなら経済力を持つ男性と一緒になることができる、それは金のために股を開く売春婦と違うなりや? 恋愛と結婚は同一ベクトルでは無いなりや? 昔、カヲリちゃんが言っていた。
「やっぱり私は結婚相手は四大卒の人がいいな。高卒の人ってどうしても話が合わなさそうだし」
 こう見えても現実的に物を考える方だと自覚している。しかし、そのカヲリちゃんの恋愛に対する考えには違和感があったであります。好きになった人が高卒だったらどうするの? と尋ねると、ふふ、タカイちゃんは一応四大卒予定だね、とカヲリちゃんは答えた。意味があるのか無いのか、カヲリちゃんは時折、誰に対しても思わせぶりな素振りを無自覚にする。そういうところに嫉妬する。友達だけれど、抱いてるものは友情ではない。と考えていたところで母がコーヒーを入れてくれたで候。母と父は玉の輿でも逆玉でもないことを思い出し、この話題、自重。苦味が口の中に広がって目が覚めていく。 
「お姉は?」
「タカコ? タカコはまだ寝てるよ、寂しいね、キンちゃん、早く起きてこればいいのに」
「だから寂しくないし」
「嘘?嘘?嘘、それは嘘?」
 母は好きな人の名前を出して子供をからかうように私に向かって言い、また変なメロディーの歌を歌う。嘘?嘘?嘘?。やけに耳に残るキャッチーなメロディーだ。
 テレビを見ていた父が、ふいにこちらを向いた。
「久しぶりにキャッチボールでもするかキン」
 父は私の名前のキンジを略してキンと呼ぶ。
「ああ。いいね。やろか」
「おう。母さんグローブどこかな?」
「たしか、ガレージのボックスの中だと思いますよ」
「よし、キンジ、ゆっくり飯食べててえーぞ。父さんがグリス塗ってくるから」
父は、そう言ってリビングを出ていった。美味しいとまではいかなくてもさ、母がおもむろに口を開く。ごちそうさま、ぐらいは言って欲しいな。そう言って母は父の残したサラダを取り、ため息混じりに口に運ぶ。 
 お父さんだって照れがあるんじゃないの? 後ろのほうで声がしたと思ったら姉だった。 あらおはようタカコ、ご飯食べる? うん。食べる、姉はあくびをしながら私の横に座って煙草に火を付けた。あんたもさ、たまにはごちそうさまぐらい言ってやりいよ、一人暮らししてるんだったら食事の用意、毎日するのがどれだけ大変か分かってるやろ、そう囁く姉に、わかってるよ、と返した後、残っていたコーヒーを一息に飲み干して私は言った。
「ごちそうさま」
母はやわらかい表情をして、しばらくこっちを眺めたあとで、お粗末さまでした、と言って軽く頭を下げた。
 部屋に戻ると携帯電話が点滅していた。カヲリちゃんからの着信履歴があった。掛けなおそうかと思いながらメールをチェックすると、また夜にかけなおします、とメールが来ていた。義務のように机に座り、日記帳を開いた。改めて日記を読み直してみると、実に内容の無い日記が多いことに驚く。と同時に、今年も自分が悩みまくっていることを改めて実感する。ぱらぱらとページをめくると愚痴以上カウンセリング未満の文字列がとばしとばしに書いてある。今となってはその意味を取れないような文字の羅列もある。毎日、日記をつけるのは向いていないらしい。今週に入って書いたのは昨日書いた'ビールをだいぶ飲んだ'という幼稚園児の絵日記みたいな一文だけだ。まったくの意味無しな一文。 九月二十一日と印刷されたスペースをしげしげと眺めてみる。それからその上の行、九月二十日と印刷されたスペース、さらにその上の九月十九日のスペースを眺めた。日記帳は毎日、三百六十五日、等間隔で文字列の記入すべきスペースを振り分けられている。それがこの日記帳の気に食わないところだ。そもそも人間、そんな簡単に三百六十五日、日記に書くほどの出来事が起こる訳がない。ぱらぱらと日記帳をめくりながら五月のページまできたところで、この頃はまだ頑張って毎日、日記を書いていたことを思い出した。日記のためにネタを探していた頃だ。本末転倒。生活のために日記を付けるはずなのに日記のために生活する日々、何て虚しい暮らしだろう。何だか日記を付けるのが無駄な行為に思えて来たので、日記帳を閉じてベッドの上に放り投げた。日記帳は静かにぼふん、と音を立てた。時計を見るとまだ午前九時だ。この時計に付いた傷が懐かしい、昔、姉と喧嘩した時に私が投げた筆箱が当たって文字盤のカバーのガラスにひびが入った。小学校の入学祝いに父が買ってくれたセンスのいい壁時計だ。
 物思いにふけりながら、最近のことを思い出す。といっても考えるのは定番メニューで、これからの人生と、カヲリちゃんのことだ。これから私はどうなるのだろう。と誰かに聞いてみたい。昔のことを知っている人たちは私のことを頭が良く行儀のいい、お坊ちゃんだという。手前味噌になるけれど、確かに私は頭がよかった。だけれども持って生まれた要領の良さが災いして、ついにその才能が開花することは無かった。この年になると自分というのは否応なしに凡人で、パイロットだとか建築家だとか'なにもの'かにはなれやしないという現実を受け入れなければいけない。それでも私はまだ逃げている。皆が会社員だとかOLとか一応の'なにもの'かになっていく中で、未だ学生という身分を免罪符にちっぽけな井戸の中で、届きもしない空を物欲しそうに眺めながら、もう蜘蛛の巣が貼りそうな青春というカゴの中でため息をつきながら何かを待っている。この頃、年をひとつとる度に少しづつ自分のことしか考えなってきた。どろん。

 父と母が結婚してからもう三十年になる。結婚してから三年目に姉が生まれ、それから三年後に私が生まれた。物心ついたころから父は酒呑みだった。私は酒呑みと酔っ払いという言葉の響きが嫌いだ。それはきっと父のせいだろう。子供の頃、父はよくキッチンで一人、酒を飲んではくだを巻いていた。幼心にどうしようもない嫌悪感を抱いていたことを覚えている。しかし私も大学に入り、飲み会などで酒を飲むようなった。父譲りのざる体質が憎らしかった。酒を飲む父のことを嫌いながらも、酒癖が悪いという点を除いては嫌いではないが、酒というものを好んでいく自分がどうしようもなく嫌で落ち込むことがある。今回、実家に帰って来てからも父は一人でキッチンで酒を飲んでいる。いつだったか父の晩酌に母が苦言を呈したことがあった。それが父が初めて母を殴った日だった。最初で最後の母が殴られた日。父の名誉のためにも言っておくと、父は本当に優しい人だ。だけどいかんせん不器用だった。世渡りのためにおべんちゃらを言えるような人ではなかった。上司の悪口を言うためだけの呑み友達なんてもっての外だったのだろう。父が友人と休日に出掛けたことは記憶にない。二十歳を過ぎた頃から少しずつ分かるようになってきたのは、大人でいるには酒の力を借りたくなる日もあるという事だ。父は誰にも理解出来ない寂しさや、悩み、辛さを一人、夜中のキッチンで酒を飲むことによって必死に消化していたのだろう。大事な大事な私たちを養うために。
 
 ドアをノックする音がする。父のこもった声が遠慮がちに聞こえてくる。私は父に殴られたことがない。
「キン、用意できたぞ」
「うん、用意するわ」
「ドア開けていいか」
「いいよ」
 と返事をすると父は気を遣っている様子で部屋に入ってきた。部屋を見回した後、キンがこの部屋おった頃にはこうやって二人っきりで話すことんもなかったな、と言った。  そうやね、と私は言った。

 外に出ると曇っていた。灰色の雲が風に流れてはどこかへ行く。家を出て中学時代の通学路を通り、私と父は近くの市民球場に向かった。
 市民球場は週末になると少年野球の子供達で賑わう。今日は平日だからか、人っこ一人いない。ただでさえ少子化が叫ばれているこのご時世に、いくら平日とは言え、これだけ人っけがしないとこの牧野という町の将来が不安になる。金網の切れ目から私達はグラウンドに入った。本当は平日は開放されていないが、だからと言って勝手に中に入ってキャッチボールをしたぐらいで怒られることはない。のどかな町だ。
「キン、ほら」
「うわ、懐かしいな。これ甲子園行った時に買ったマスコットボールやん」
「そうや。海安が出た時買ったやつや。今日はこれでええやろ。たまには硬球もええぞ」
「どっちでもえーけどな」
「硬球のほうが変化球曲がるぞ」
「ならやろか」
「おう。ほらキンもうちょい下がれや」
 父は赤いナップザックから使い込んだグローブを出した。ぱすん、という音が誰もいないグラウンドに軽快に響く。それから、しばらく二人とも何も話さずにボールを投げあった。。
「ほらフォーク投げてみ。キン、昔は投げれたやろ」
 父はフォークの握りをして投げる真似をして見せる。私は思い切ってフォークを投げてみた。ボールは上手いことに父の二メートルほど手前ですとんと落ち、バウンドするかしないかぎりぎりのところで父のミットに納まった。
「キン! いけるやないか!」
父は嬉しそうに笑い、今度はカーブをこちらへ投げてきた。
「お父さんのも曲がってるで」
「あたりまえや、元、高校球児や」
それから父は少しづつ話し始めた。孫、つまりは私の姪にあたるライムちゃんの運動会が来週にあること、ライムちゃんが最近、ハムちゃんに教えられたプロレスの技を父に掛けようとすること、ライムちゃんの話題がほとんどだった。幸せそうな表情だった。
「母さん、ぼけてきたのかもしれんな」
話題が無くなってきた頃、父が切り出した。
「なんで? 普通やん」
「いや、昨日、晩飯ん時いきなり変なこと聞いてきおったやろ?」
「ああ、そのことね」
父はスライダーを投げてきた。
「どないしたんやろな。急にのろけおって」
離婚を考えているんでしょう、とは言えなかった。

 一時間ほどキャッチボールをしてグラウンドを出た。帰りの道中、父はライムちゃんの話題で間を埋めようとしたが話が続かなかった。気まずい雰囲気では無かった。どうも父と息子という間には饒舌より沈黙の方がしっくりくるらしい。
「あら、おかえり」
姉がキッチンで昼食を作っていた。父はシャワー浴びてくるわ、と言って風呂場へ行っていた。
「お母さんは?」
「エーコープまで麺ツユ買いに行った」
姉は加え煙草で卵を焼いている。
「そうめん?」
「そうめん。ほらキンジも手洗ってき」
姉は蝿を追い払うように言い、また手を動かしはじめた。手を洗ってキッチンへ戻ってくると姉がビールをグラスに注いでいた。
「ほら」
「いや、まだ昼間やで」
「ええやん、せっかく帰ってきてんから。たまには可愛い姉に付き合いや、シスコン君」
「まあ、ええけど。ってかシスコンっていうなや」
「なあ、どう思う?」
「シスコンちゃうわ」
「あほか。離婚のこと。り、こ、ん」
「ああ。そりゃ嫌やけど」
そうか、と言って笑うと、ライムちゃんの頭をなでるように私の頭を撫でた。 でも、お母さんも本気じゃなくて言葉のあやというか、一時の感情やろ? というと姉は、まあ、後で。 と、忙しそうに手を動かし始めた。
 ビールを持って部屋に戻るとちょうど、携帯電話が鳴っていた。知らない番号だ。留守番電話が作動するまで待って誰かを確かめるとスピーカーから意外な声がした。安西だ。
もしもし、安西です。気がついたら電話ください。ツーツーと、電話が切れた音が聞こえる。心当たりが無かった。同窓会なら学級委員長をしていた坂本から電話が来るはずだし、もう安西と連絡を取らなくなってから三年が経つ。今更、用件などというものが思い付かなかった。スピーカーのから呼び出す音がする。 もしもし。タカイ? 安西は愛想の無い声で電話にでた。 うん、タカイ。どうしたん? いや、特に用事はないねんけど。 安西はそう言ったあと、黙った。私も会話のきっかけを掴めず黙った。奇妙な沈黙が続いた。その間中、頭の中で何か話さねば、と考えていた。何も思いつかなかった。ああ、安西との縁は切れていたんだと、実感したのはその時だった。近況を聞きたいとも思わなかった。安西の全てに対して興味を失っていた。 仲野さんと連絡とってる?良かったら番号かアドレス教えて欲しいねんけど。  口を開いたのは安西だった。意外な名前が出てきた。仲野さん。安西が高校三年生から大学に入って半年経つまでの間、付き合っていた女性だ。私の友人でもあった。 連絡とってない、っていうか、番号自体、知らんなあ。     そうか。 そう言うと安西はまた黙った。今度は本格的な沈黙だった。何分続いただろう、ふいに安西は、 また掛けるわ。 と言った。私も、 分かった。またね。 とだけ言って電話を切った。何の盛り上がりもない会話だった。電話に付いた耳の油を袖で拭きながら、安西はどういうつもりで連絡をしてきたのだろうと思った。仲野さんのことをまだ引きずっているのだろうか。あの二人は別れてもう五年以上経つ。今さら何を期待して安西は仲野さんの番号を教えてもらうつもりだったのだろう。もしも私が仲野さんと今でも連絡を取っていたらどうなっていたのだろうかと考える。五年の空白。少なくとも安西という恋愛べたには埋められそうもない空白期間だった。
「キンジ!」
ドアを開けて急に姉が部屋に入ってきた。さっきから呼んでいたらしい。そうめんが出来たようだ。 あのさ、別れて五年ぐらい経った元彼から連絡あったらどんな気持ちになる? と、部屋を出て行こうとする姉に尋ねると、 今更、気持ち悪いだけ。 と男心をメッタ斬るような答えが返ってきた。 やっぱりそうやんな。 と言うと、 まさかキンジ、五年もレナちゃん引きずってんの?キモッ! と姉が言った。 いや、俺じゃなくて友達の話やねんけどな。 なんや、そうなんや。どっちにしろ五年も経ったら元カノだって変わってるで。連絡取らんで引きずってるほうが幸せ。その友達もいい加減、現実見な。とにかくそうめん出来たから。早くおいでや。 そう言い残して姉は部屋を出て行った。
 
そうめんを食べ、昼寝をしていたら部屋に予期せぬ訪問者があった。ライムちゃんだ。ライムちゃんはしばらく見ない間に背がだいぶ伸びていた。トミーの洋服を着たその体をぎゅうっと抱いてかぷっと食べてしまいたい。
「どうしたん」
「シンデレラ。おじちゃんと一緒に見たい」
「ああ、そうなんや。なら下行くから待って。」
「ねえ、おじちゃん。みんな恋ってするもんなん?」
「へ?」
「おじちゃん恋してる?今まで何回ぐらい恋した?」
面食らった私を無視してライムちゃんは矢継ぎ早に恋についての質問をぶつけてくる。どれも小学一年生の口から出てくるとは思えないような質問ばかりだ。何も答えられないでいると、 下で待ってるから早く、来てよ。 と、言ってライムちゃんは部屋を出て行ってしまった。階段を下りる元気な音が開けっ放しのドアの向こうに聞こえる。
 折りたたみ形の携帯電話を開いて、着信履歴を確認した。番号だけの安西からの着信、その前はカヲリちゃんからの着信。その前もカヲリちゃんからの着信。携帯電話をたたみながら携帯電話の何たるかを考えてみる。私にとってはカヲリちゃんと繋がっていられるツール、肌の温もりもその白い肌の匂いも嗅ぐこともできないけれど、スピーカーから聞こえる甘い声でカヲリちゃんの存在を感じることが出来る魔法の道具。いつかカヲリちゃんと電話しながら勃起したことがあった。性欲の高ぶりでは無かった。人間としての欲だった。誰かと繋がっていたい、他人を親しい関係にしてしまいたい、ベッドで抱き合ってひとつになってみたい。カヲリちゃんで自慰行為をしたことはない。
カヲリちゃんはただただ優しい。悩んでいる時は何でも話しを聞いてくれるし、テスト前になると一緒に勉強しよう、と何の用心も無く私を一人暮らしの部屋に上げる。越えてしまいたい。理性の壁を、友情を壊してしまいたい。優しさしか見せないカヲリちゃんは誰の前で怒るのだろう。今は冷戦状態と言っていた彼氏の前では取り乱すのだろうか。淫らに体を求めるのだろうか。その細く均整の取れた体の男と絡ませ、汗を浮かべあえぐのだろうか。カヲリちゃんはいつでも優しく笑いかけてくれる。優しいカヲリちゃん以外のカヲリちゃんを見てみたい。もっとどろどろして、マグマみたいに嫉妬深くて、タンポポの綿毛のように脆い心を、この手でしっかり掴んでみたい。恋とは呼べない、愛でもない、この感情を何と言おう。あの男になら見せるのだろうか。タールのように粘ついた人間特有の黒い感情を。あの男は知っているのだろうか。私の見たことのないカヲリちゃんの汚れて卑怯な心の欠片を。胸をかきむしりたくなる。心臓を取り出して潰したくなる。私はカヲリちゃんの何も知らないのだ、という現実から逃げるように携帯電話をもう一度開き、カヲリちゃんに、 着信いま気がついたわ。夜なったらこっちからます。 とメールをした。電波に乗せて言葉はカヲリちゃんの下へ届いただろう。センチメンタルな気分になってきたので自重。どろん。
短い夢を見た。カヲリちゃんが男の前で泣き喚いていた。
「あ。おじちゃん泣いてる?」
ライムちゃんの声で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。ああ、あくびしたからやで、と答え、下に下りて一緒にシンデレラを見た。緑の帽子をかぶったキャラクターが、どうしてみんな恋をするの? という台詞を言った。
「ライムちゃん、さっきのこれの真似?」
「うん、そうやで。ねえ、おじちゃん。なんでみんな恋するん?」
「なんでやろね」
「おじちゃん、知らんの?」
「うん、知らんわ」
「つまんないの」
「ごめんな」
 子供の質問は時々、哲学的だ。この前はどうして男と女がいるの? と聞かれた。どうして男と女がいるのか、小学一年生相手に答えられる大人はいない。男と女、恋をし、交わり子を産む二つの存在。その始まりはひとつの受精卵だったはずなのに、感情を持ち、苦悩し、葛藤する。たったひとつの細胞から始まった人類の歴史は、不思議と矛盾に満ちている。なんて格好付けた事を考えながら、 なんで恋なんてするんやろうね? と小さな声でライムちゃんに言うと、ライムちゃんはシンデレラに夢中らしく私の話しを無視して、ぎゃははは! と笑い声を上げるだけだった。シンデレラ、王子と結ばれる物語。今の私にはガラスの靴がない。横恋慕。どろん。
 二時間ほどでシンデレラは終わった。ライムちゃんは、キキョウちゃんと遊んでくる! とこっちまで元気になるような声を残したかと思うとすぐに出かけていった。姪っ子の生活が羨ましい。私は現在、大学生でいわゆるモラトリアムという奴だけれど、考えてみれば義務教育の期間のほうがよほどモラトリアムではないのか、起きて学校へ行き、帰ってくれば友達と遊び、風呂に入って、歯を磨いて寝る。その一日には何のプレッシャーも責任感もない。夢と現実、自分の描く自己像と実際の自己能力の違いに歯軋りすることもない、と馬鹿げたことを考える私はまだまだ未熟でござる。自重。
 
夕食の間まで一人で川辺を散歩していた。フェンスに肘掛けて流れる川を見ているとどうしようもなく死にたくなる。つまるところ一生なんてこの川のようなものなのだ。海という果てしない大きなものは人、先祖が築いてきたルーツ、来る波は若さ、帰っていく波は老い、そして川が海に混ざってただの大海の一滴になるように、私もいつかは死んでいく。そう考えると生きていることの意味が分からなくなる。この右手に何の意味があるのだろう。この肉体に何の意味があるのだろう。この精神に何の意味があるのだろう。どうしてみんな、恋をするの? ライムちゃんの他意の無い質問が波のように心に寄せては海へと戻っていく。死んでしまいたい。もしもカヲリちゃんからいい返事をもらえなかったら。このままマグマのようにどろりとした恋心を抱いたまま、凪の海のように停滞していたい。返事をしてほしくない。返事が来なければ始まることもない、それは終わりもないということだ。午後五時の風は秋の臭いを乗せてどこかへ向かっていく。川に向かって鼻歌を歌ってみた。静かに流れるだけだった。夕日が川面に反射している。とてもきれいだと思う。私はどこから来たのだろう。そしてどこへいくのだろう。解のない問をずっと考えていた。
 途中で自販機でコーラを買い、川沿いをコーラを飲みながら帰っていると私を呼ぶ声がした。振り返るとペンキまみれのニッカポッカを穿き紺色のタオルを頭に巻いた小太りな男が親しげに手を振っている。横にはプリンになった汚い茶髪にスエットでキティちゃんのサンダルを履いた同じ年ぐらいの女がいた。最初は誰か分からなかった。キージ! キージ! と昔のあだ名で呼ぶその男をしばらく見ているとようやく思い出した。小、中と同じ学校だった同級生だ。名前は思い出せない。
「おう、キージ! こっち帰ってきてたんか、さしぶり!」
「あ、うん。そっちは元気そうやね」
「おう、あ、俺、結婚した。子供生まれたんだ。キージは、何やってんの?」
「まだ大学生してるで」
「あーそうなんや、お前、頭よかったもんな。俺なんて中卒やで」
同級生は聞いてもいない身の上話を始めた。私は適当に相槌を打っていた。話題がパチスロに差しかかった頃、耐えられなくなった。同級生に向かって、 とにかく子供おめでとう、ちょっと急いでるから! と申し訳なさそうなフリをしながら祝いの言葉を残して、その場を後にした。もう、さっきの同級生ともう会うことはないだろう。違う人種。親を持つもの、親である者、その違いは大きい。それ以上に大きいのは中卒と大卒の間にある壁。世間話から垣間見える生涯の差、いつかカヲリちゃんの言っていたことが思い出された。やっぱり結婚相手は四大卒がいい。いつから私達は身分の区分を敷くのだろう。年収、職業、学歴、異性経験の多寡。私も無意識の内に色々な定規で友人や初対面の人を測り、距離感を設定する。いつの間にか私も現実という逆らいようがない渦の中で悩んでいるフリをしながら優雅に中卒を見下しながら大卒というメリーゴーラウンドに乗っているようだった。中卒と高卒。この先、交わることのない二本の線。生まれも育ちも同じこの牧野なのにあの違和感は何だろう。さっきの男は一生、スーツを着ることもなく、ニッカポッカを穿いてペンキに塗れて死んでいく。せいぜいドンキホーテで買った貧乏人のセンス丸出しのブランドものの財布を抱えた妻を相手に、小じんまりとした食事に舌鼓を打つ。ブルーカラー、そんな言葉さえ知らないかもしれない。そうやって人を見下すお前はホワイトカラーになれるかどうかも分からないくせに、と自分で自分を笑ってみた。良くない年の取り方をしているな、と思った。弱い人間が、さらに弱い人間を見て安心する心理が理解できた気がした。まだ若いのに人間の善も悪も知ったような気になっている自分を醜いと思う。さっきのオヤジ体形の同級生と私のどちらが負け組みか分からなくなった。コーラの空き缶を踏み潰してみた。缶は形をひしゃげた。その形を見て、この前の新京極で踏んだウンコを思い出した。あのウンコはどこから来たのだろう。ブーツに踏まれたウンコ。ウンコの死骸は、あの後どうなった。場違いな下の話、自重。どろん。
 
今日の夕食は焼肉だ。スーパーで買ってきた値の張る肉がホットプレートの上で景気よく焼けている。ビールを飲みながら皆、話が弾み、肉を平らげていく。焼けた肉とタレの匂いがさらに食欲をそそるで候。
「明日の夕方キンちゃん帰るんだよね、お母さん寂しいな」
肉をひっくり返しながら母が言う。頬はビールで少し赤らんでいる。
「次、帰ってくる時は彼女でも連れて来てもらわなね」
姉が冷やかすように母に続く。父は幸せそうにビールを飲みながら母特製の生ハムとベビーリーフのサラダをつまみながらビールをぐびぐびやっている。 いや、そんな話はええから… とお茶を濁しながら、話題をライムちゃんのことに変えた。昔から家族の前で恋愛沙汰を話すのは苦手だ。
「そういや、今日ライムちゃんに、なんでみんな恋すんのって聞かれてびっくりしたけどあれシンデレラの台詞やってんな」
「ああ、そうやで」
姉は肉をレタスに巻いてライムちゃんに渡しながら答えた。
「最近、ライム、シンデレラとアムロの歌、お気に入り。ね、ライム?」
うん! とライムちゃんは返事をし、姉にレタスで包んでもらった肉をほおばりながら椅子の上に立ちダンスの真似事をする。お尻をくねらせるその姿がたまらなく可愛い。食事を終えた後、姉に言われ洗物を手伝った。母は向こうのソファーで眠ってしまっている。姉が言う。
「お母さんがあんな顔すんの久しぶりやわ」
「ん? 最近、何かあったん?」
「何もないけど。いくら家族とは言えひとつ屋根の下にずっとおったら息もつまるんちゃうかな」
「そりゃ分かるけど。なんか気分転換でもすればいいやん」
姉は手を動かしながら、ご正論、と言った。洗物が終わり、煙草に火を付けながら姉が良く分からないことを言った。
「お母さん、明日の朝、審判、仰ぐらしいで」
「何? ああ、離婚? 話、進んでるんや?」
ガールズ・トークやから言われへん。大体、アンタに男と女の話は早いどすえ? と姉は変な京都弁で質問を退け、 ほな、ゆっくり。 と寝息を立てる母のいるソファーに行きテレビをザッピングし始めた。ガールズトーク。どこか居心地の悪い言葉だ。その時、父が風呂から出てきた。おう、風呂空いたぞ。 私に向かって父は言い、冷蔵庫から今日、もう何本目になるだろう、ビールの缶を開けグラスに注ぐ。 飲むか? と言う父に、 風呂上がってからにするわ。 と言って風呂に向かった。
知らない間に湯船の蓋の上に赤い象さんのジョウロやスーパーボールで風呂場が占領されている。ライムちゃんのオモチャだ。湯船に体を沈めながら姉の話を思い出していた。最後の審判、ガールズ・トーク。父は何も知らない。姉のように男と女の話だと理解するのも無理に思えた。男と女、父と母、私とカヲリちゃん、と独り言を言いながら、姪っ子の赤いジョウロに浴槽のお湯を入れては出し、入れては出しという何とも子供っぽいことをしながらしばらく考え事をしていた。ビールの酔いが回って心地よかった。
 
風呂から出ると午後十一時を回った頃だった。父はもう寝ているらしい。その代わりに母が起きていた。 まだ飲むの? 明日、大丈夫? 母が心配している。 大丈夫やで。出発するの昼からやし。 そう。飲みすぎないようにね。お母さんも眠たいから寝るね。 母は、ふあああ、とあくびをして寝室へ向かおうとする。
「明日、何かあんの?」
「え? キンちゃんが京都帰る日でしょ?」
「ん…ああ、そうやね」
「なに? 変なの。」
と母は笑った。おやすみ、と互いに言い、母は寝室へ、私は姉の部屋に向かった。ガールズトーク。男の私に入る余地はないようだった。
 姉の部屋をノックするとすぐにドアが開いた。
「なに?どないしたん」
「いや、飲むかなと思って」
「あーまあどっちどもいいけど。まあ入りいな」
ライムちゃんは寝ている。姉はクッションをフローリングに置いてくれた。 あんた、気になってんのやろ。お母さんとお父さんのこと。 そりゃ気になるやろ。お姉は気にならへんの?  ならへん。かな。 え?  男と女のやしに他人が口出ししたって無駄やと思うで? 話し始めてすぐに、姉はぐずり始めたライムちゃんをあやし始めた。私は自分の部屋へ戻って日記帳を開いた。何かしら書いてみたい気分だった。ページをめくっていると携帯電話が鳴った。  
 
  ◆

2. 星はゲロを照らす

 もしもし… 電話の向こうのカヲリちゃんの声が息を切らしたように乱れている。はいはい、と返事をするとマッサージを受けている人のような息を漏らす。 どうしたん?外? と聞く私に、しばらく間が開いてから、ううん。中だよ。 とカヲリちゃんは答えた。それから雑談をした。今日テレビを見たかどうか、夏休みにどこへ行ったか、酒は飲んでいるか、部屋の掃除はしたか。その間、ずっとカヲリちゃんの息は乱れていた。一瞬、喘ぎ声に聞こえる声が聞こえた。気のせいかと思った。同時に嫌な予感がした。心臓がずきりと鳴った。 今、誰かと一緒? カヲリちゃんの返事はない。 もしもし、もしもし? bああ、ごめん、ちょっと電話離してた。ごめんね。 ああ、忙しいんやったらかけなおそうか? ううん、いいよ。かけたのこっちからだし。 そう言う息は乱れている。予感は増殖していった。しばらく黙っている間もカヲリちゃんは話題を探そうとする。息は切れ切れだ。 この間の返事なんだけどさ… 適当に返事をしていた私はその言葉を聞いて我に返ったように、ああ。と真面目な口調で返した。その時、向こうで、 ちょっとやめてよ。 と手を当てた受話器越しに聞こえた気がした。聞こえた気ではなかった。確かにカヲリちゃんは傍にいる誰かに向って言った。点と点が繋がり線を形成していくように今の状況が次第に輪郭を浮かび上がらせてくる。 ひとつ確認したいんだけどさ。 カヲリちゃんは言う。不定期に、あ、と息が漏れる。電話の向こうのカヲリちゃんを想像する。股間に血が向かっていくのが分かる。この前見た、キャミソール越しの豊かな胸を思いだす。 私、彼氏いるじゃん? この前見たローライズのジーンズのお尻の所から覗いたピンクの下着を思い出す。頭に冷たい血が上っていくのが分かる。不思議なぐらいに冷静だ。
 聞いてる? 無言だった私にカヲリちゃんが聞く。 うん、聞いてるで?彼氏いることは知ってるよ。上手くいってないのも知ってる。 そうだよね。 息がさっきよりも乱れている。携帯電話を耳に強く押し当てる。耳元で喘いでいるように聞こえる。 でさ、この前タカイちゃん告ってくれたじゃん?その返事しようと思ってかけたんだけど…  いつもの甘い声が少し掠れ気味だ。体に汗がじわりとにじむ。 ああ、考えてくれてたんやね。言ったこっちが忘れてたわ。 そう笑って嘘を言った。で、どうなん…という私の声を遮るように、 ごめんね。 とカヲリちゃんが言った。息は乱れたままだ。そっか、と私が言うと、ごめん。 とカヲリちゃんは言った。私の体は汗で濡れ始めた。それから沈黙が続いた。沈黙では無かったかもしれない。カヲリちゃんはずっと息を切らしたままで傍にいるらしい誰かに向かって聞き取れないほどの大きさの声で時々、囁いていた。その間、私はカヲリちゃんの顔を思い出していた。私の知ってるカヲリちゃん、優しい笑い方をするカヲリちゃん、森山達と行った海で見た水着姿、ビキニの胸元で揺れる大きな胸、すらりと伸びた細い足。右目は欲情の目で、左目は理性の目でカヲリちゃんを見ていたあの日を思い出す。
「お前みたいな優男は趣味じゃないってよ!アハッ!」
突然、電話のスピーカーから野太い男の声が聞こえた。 ちょっと、やめてよ! 今度は
囁きではないカヲリちゃんのはっきりとした叫び声が聞こえた。 もしもし?ヤマイちゃんだったけ?ああタカイちゃんか、ど?も?カヲリの彼氏です! 語尾にかっこ笑いが付きそうな声で男が言う。 カヲリに告ったんだって?ごめんな?そりゃ無理だわヤマイちゃん、じゃねーや、タカイちゃん?カヲリは俺の女だからさ?。 男は大の大人が中学生をからかうように続ける。 んでさ、今、俺ら何してると思う?分かるっしょ?セックスしてんだあはっ! ちょっと、やめ、あっ、やめてってば! 今度はカヲリちゃんの声だ。言葉の途中に、もうはっきりとした喘ぎ声が聞こえる。 それからカヲリちゃんはごめんね、ごめんね、と私に謝り続けながら喘ぎ続けた。私は勃起していた。じゃあ、と言って電話を切ったのはカヲリちゃんの男だった。ことが終わったらしかった。
 夜の川辺は少し肌寒かった。長袖のシャツが潮風を受けてなび2く。少し歩いたところにある公園のベンチに座った。滑り台の周りに片付けられていない花火が散らばっている。
しばらくベンチに座った後、ブランコに乗った。顎を上げてブランコを漕ぐと夜空が上下に揺れる。何回か漕いでいると酔いのせいで気分が悪くなった。
「どうした青年。というかいつの間に外出てたん」
聞き慣れた声がした。ブランコを止めて振り返るとダーウインを連れた姉が立っていた。
「いや、ちょっと散歩に」
「ふーん、そう」
「お姉は何してんの、こんな時間に」
「見て分かるやろ、ダーウインの散歩や」
姉はそう言うと、こちらに歩いてきて隣のブランコに腰掛けた。ダーウインは尻尾を振りながら姉の足元でぐるぐる回っている。
「なにがあったん」
煙草に火を付けながら、姉がぶっきらぼうに言った。
「何もないよ」
「あっそ。せっかく枚方イチのチ―ママがただで人生相談乗ってやろうと思ったのに」
「困ってへん」
「ふーん。」
姉はキーキー鳴らしがらブランコを漕ぎ始めた。揺れの頂点ではいていたスニーカーを蹴飛ばした。スニーカーは夜空に向かって放物線を描いて上下逆さまに土に落ちた。
「ほら、見てみ。明日、雨やわ。」
「懐かしいな」
「ふられでもしたんやろ」
「ちゃうわ」
「あ、そう」
どちらともなくブランコを降りた。噴水の近くに犬を連れたおじさんが歩いている。ダーウインはおじさんの連れたチワワに向かっていこうとする。
「なあ、お姉、優しい男ってあかんの」
ふいに話し始めた私の方を振り向く訳でもなく、姉はダーウインのリードを引っ張る。
「なに? それでふられたん?」
「いや、う、ん、まあそんなもん。かもしれん」
「そうやな」
珍しく姉が真剣な眼差しでこちらを向いた。そういえば姉の顔をこうしてまじまじと見るのは久しぶりだ。男受けしそうな顔立ちは母そっくりで。話をする時に男好きする上目使いは仕事のせいだろうか、自分の姉ながら小悪魔風に魅力的だと思う。
「あんた、サイン見逃したんちゃう?」
「サイン?」
「サイン。女はな、百回許しても、百一回目が許せんこともあるねん」
「何それ」
「そういう生き物やねん。後は自分で傷ついて思い知り。一万回フラレタって人間死なへんで」
 姉はそう言うと、じゃあ、散歩行ってくるわ! と言った。ついていくわ、と言うと、そんな辛気臭い顔したやつと歩いたらこっちまで辛気臭くなるわ。 と言い残してジョギングしながら行ってしまった。
 私は姉が好きだ。小さい時は姉のお尻を追いかけてこの公園で日が暮れても遊んでいた。
 一人になった私はまたブランコに腰掛けた。さっきのおじさんが犬の糞の処理をしている。空を見た。星がいくつか見えた。あの星のどれか一つでもいいから落ちてきて欲しい気分だった。落ちてこないか、落ちてくれないか星。立ち上がると急に地面が揺れた。急いで歩き、ごみ箱に吐いた。ゲロは弁当の空き箱にまみれていった。急に涙が溢れ出した。何の涙かは分からなかった。ひどく気持ち悪かった。
家に向かいながら姉の言ったことを考えていた。サイン。カヲリちゃんは何のサインを出していたのだろう。確証のない節だけがいくつか浮かんだ。あれは森山の家で飲み会を開いた日だった。酒に強いカヲリちゃんが珍しく酔った日だ。カヲリちゃんはしこたま彼氏の悪口を言った私に聞かせた後で、タカイちゃんみたいに優しくて浮気しない人が彼氏だったら幸せだろうな、と言った。その考えもすぐに消えた。百一回目の許せないこととは何だろう、カヲリちゃんが私に許した百回のこと。雲を掴むような話だった。もう一度吐いた。また満天の星がゲロを照らしていた。胃液もなんもかんも、蒸発すれば空に昇って、雨で降るのだろうか、なんて小学生みたいなことを考えていた。考える。それは時として悩むと似ている。考えることが好きだ。考えている間は何も行動しなくていい。現実から逃げることのアリバイとして悩む、考える、時間が過ぎる、過去になる。この年まで生きてきて習得した技だ。家の門の前まで来て、また吐いた。ゲロは星の光を淡く反射してアスファルトに流れ落ちていく。鼻まで逆流してきた胃液は九月の風に混じりすっぱい臭いがする。空を見た。気持ちが悪かった。あの星の名前はなんだろうかと考えた。名前のない星から見た私のゲロはそれでも輝いているだろう。また吐いた。九月の風に体が拒絶反応を起こしたように胃から夕食とビールが溢れてくる。涙が止まらなかった。このゲロはこの目に見えている。星がゲロを照らしていた。空を見た。星の輪郭がにじんだ。きれいだった。申し訳ない程にきれいな夜空だった。遠くに輝くあの星の名前を私は知らない。
 
父と母を起こさないように忍び足で廊下を歩いた。麦茶でも飲もうと冷蔵庫に向かうと母がちょうどお茶を飲んでいるところだった。 あら、おかえり。散歩? うん。 今日は外寒かったでしょ?暖かくして寝なさいね。 母は眠そうで、優しい声で言う。 分かったと答えると、母は麦茶を注いでくれた。母の顔を見る。年の割りには綺麗、というより可愛らしいという表現がしっくりくる顔だ。一目見て姉を生んだ人だと分かる顔。 なあ、お母さん、恋してる? 私の突然の言葉に母は驚いた様子だった。 どうしたの、キンちゃん、酔ってるね?  母はお腹を抱えて笑いだした。 別に意味なんてないよ。  あ、分かった。キンちゃんフラれたんでしょ? 近寄ってきた母はいたずらっ子のように私の顔を覗きこみ、空になった湯飲みにもう一杯、麦茶を注いだ。 何で? 私が尋ねると、 お母さん、名探偵だから。とふざけた調子の声で、ふざけた答が返ってきた。それ以上ことを母は聞いて来なかった。母は昔から私の恋愛沙汰に干渉することはなかった。母親と息子、その間に恋バナは存在しない。 ごちそうさま、とだけ言って部屋に戻った。リビングのドアを閉める私に向かって、がんばれ男の子。 と母はつぶやいた。聞こえない振りをした。
 しばらくベッドで休んでから日記帳を開いた。ペンを握って一文字目を探してみるけれど、勉強していない講義の論述試験を受けているように、書き出しが決まらない。日記帳の背表紙を眺めてみた。プリクラが貼ってある。私と森山と吉田とユキチちゃんと四人で枚方パークに遊びに行った時に撮ったプリクラだ。手前の列にユキチちゃんとカヲリちゃん、奥の列に私と森山が写っている。日付がデコレートされている。半年前の日付だ。酔った頭で考えごとをするのは心地がよかった。ふわふわとした綿飴のような思考を捕まえようとするたびに、言葉が指の間をすり抜けて感情になる、その感情は心臓を駆け巡り、痛みと変わって、涙となり頬を伝う。こんなに泣いたのは久しぶりだった。大人になってから泣いた日を思い出してみる、最後に泣いたのは、いつだったかも思いだせなかった。悔しかったのかもしれなかった。恋に破れて悲しかったのかも知れなかった。ただ単にゲロを吐きすぎて気持ちが悪く泣いていたのかも知れなかった。その全部かも知れなかった。涙にひとつの意味をつけるにはあまりに年をとりすぎていた。私たちはひとつの感情でなくほど弱くはない。さっきの電話を思い出した。野太い男の声、キャンディーのようなカヲリちゃんの声、男の口から聞いたフラレ言葉。こういう時に限ってカヲリちゃんの顔は霞んではっきりと浮かんでくれない。今日の日付のページを開いた。カヲリちゃんに振られた、カヲリちゃんの男に振られた、そう書けばいい。嫌だった。いまの私が考えていること、感じていること、それは名前を知らない星の光芒のようにどうでもよくしょーもない出来事だけれど、この脳みそから出てくるしょうもない言葉で、この感情をパッキングしてしまうことは嫌だった。書いてしまえば気持ちは落ち着くだろうし、客観的に落ち着けるかもしれない、だけどそれはズルをしている気がする。私たちは宇宙に生きる者はみな、小さな小さな星の誕生、その滅亡まで想像する義務がある。何故か、そんな言葉が頭に浮かんで消えていった。感情と思考は互いによく形を似せながら瞼の裏の暗闇を右往左往する。泣いていた、胸が痛かった、生きているのだと思った。電話越しに喘ぎ声を聞いた時に勃起して自分がオスであることを実感したように、自分はヒトなのだと思った。二人が憎らしかった。この命を生んだ、昔の二人の恋物語まで憎らしかった。でも、愛おしかった。だけど、愛おしかった。防波堤で見た海を思い出す、寄せては返すだけの波、そこに感傷はあっても意味はない。
 涙も乾き、眠気が襲ってきた頃に姉はやってきた。
「昨日と今日、店、休みやねん。だから飲みたりん」
姉は昔から部屋に入ってくる時にドアをノックしない。姉は私と正反対で、何事にもオープンだった。がさつではないけれど開けっぴろげ、だけど母ゆずりの品がある。そんな人だ。
「で。付き合え少年」
姉はウイスキーのボトルとグラス二つをもっている。
「今日はもうええわ。気持ち悪い」
「よし、下、おいで。庭で飲も。涼しいで」
「いや、だから…」
「飲むやろ?」
姉はふざけて甘えるように首を傾ける。
「分かったわ」
「んなおいでや」
昔から姉に逆らえなかった。強要する訳じゃないのにどこか強引さがある、そんな姉の誘い方が、公園で鬼ごっこをしていた頃から好きだ。

「どんな子やったん?」
ウイスキーをグラスに注ぎながら姉が聞いた。デリカシーというものがないのだろうか。と考える程、若くない。姉なりの気遣いなのだろう。
「え、そうやな。とりあえず目が大きい。」
「それから」
「スタイルもいいな」
「それから」
「明るい。けど、結構繊細。」
「名前は?」
「カヲリちゃん」
「そうか」
「そう」
「乾杯、少年!」
姉はグラスを無理やり持たせ、グラスをぶつけた。ガラスがぶつかる心地よい高い音が夜中の庭に響いた。琥珀色のウイスキーが姉の喉に向かって勢い良く流れていく。
「この頃あかんわ」
「なにが?」
「酒、弱くなってきた。年かな」
「ああ、そりゃ二十歳と同じようには飲めへんやろ」
「そういう時は、まだまだ若いやん!って言うのがマナーや、少年」
「あ、ごめん」
 それから姉は働く店の話をした。最近、二人の新人が入ってきたこと、一人の十代の子が店の中で客とキスをしたこと、それを注意したら逆ギレされたこと。もう一人の子が客に対しての礼儀がなっていないこと、姉が注意するとマスターはその子に味方についたこと、怒った姉はストライキを起こして一週間店に出なかったこと。話している間、ずっとグラスの手を動かしつづけていた。姉はグラスに口を付ける度、口を付けた所をいちいち指で拭う。
しばらく二人して寝息を立てるダーウインを眺めていると姉が言った。

「昼の仕事しよかな」
「スーパーででも働いたら? お姉の性格やったらどこでもやってけるやろ?」
「でも夜の方が稼げるしなあ」
「ああ、ライムちゃんも育てなあかんもんな」
「ハムちゃんのからの養育費もっとならんかな」
ハムちゃんというのは私にとっての元・義理の兄だ。姉とハムちゃんはライムちゃんが保育園の年長組に進級した頃に離婚した。
「より戻したら? 今でも仲よさそうらしいやん。キャッチボールしてた時、お父さんが言ってたで」
「それはないわ」
姉は手を振りながら、可笑しそうにこっちを見た。
「そういうもんちゃうねん」
「女心って奴は良くわからんわ」
「そうやなあ。私も自分でも分からんわ。で、カヲリちゃんとはどこまでヤったん?」
「ヤってへん」
「正直に言ってみ? 別に誰にも言わんから」
「キス、一回した」
「それだけ?」
「うん」
「そうか」
カヲリちゃんと一度だけキスをしたことがあった。森山たちと枚方パークへ行った日だ。夕方の観覧車の中、私とカヲリちゃんはキスをした。観覧車のてっぺんから見えた夕日がきれいだったことは覚えている。
それから姉がボトルを開けるまで付き合った。私もかなりのハイペースで飲み続けた。姉は止めなかった。ただ飲み続けた。グラスに一センチほど残ったウイスキーを飲み干した頃、姉が言った。
「明日やな」
「え?」
「お母さんが離婚するかどうか」
「マジなんかな?」
「マジやで。どう考えてもマジ」
「なんで今更?」
「お母さんもお母さんじゃなくなったからちゃう?」
「どういう意味?」
「フラレタぐらいでやけ酒するような僕ちゃんには十年早いわ。ほんならおやすみ。」
姉はそう言って笑うと、少し寒そうに二の腕をさすり部屋に戻ろうとした。そのとき私は勢いよく庭に向かって吐いた。姉は急いで水をコップに入れてきてくれた。
 なんでみんな恋をするん? 
姉に背中をさすられながらライムちゃんに聞かれたことを思い出した。酔った今なら答を見つけられそうだった。傷つくために恋をする、一人じゃないから恋をする、キスをしたいから恋をする、セックスをしたいから恋をする。どれもが正解でどれもが不正解だった。それから何回か吐いた。その間、姉は背中を諭すようにさすりつづけていてくれた。
「百万回、フラレタって明日になったら目覚めて、お腹すくわ」
と姉は言って煙草に火をつけた。
それからお互いに危なっかしい足取りで部屋に戻った。千鳥足、とまではいかないまでも少し揺れながら自分の部屋に向かう姉を見ながら年月を思う。頭が痛かった。
 どうして私は電話に向かって何も言わなかったのだろう。階段を上りながらそんなことを考えていた。どうして。どうしてカヲリちゃんはセックスする声を聞かせたのだろう、どうして男は告白したことを知っていたのだろう、サイン。サイン、姉が言っていた言葉。あの電話は何かのサインだったのか、何を言えばよかったのだろう。喘ぐカヲリちゃんの顔を想像しようとする、私が知っている笑顔のカヲリちゃんに顔がコラージュのように苦しそうな表情を浮かべる。想像と妄想と現実の間にある、天の川のような薄い膜、薄いけれども強力な膜、カヲリちゃんと男と私の間にある関係性の膜。カヲリちゃんの処女膜を破ったのは誰なのだろう。体をよじらせてシーツの冷たい部分を探した。白いレースのカーテンがクーラーのような九月の風に揺れていた。ベッドから起き上がりコンタクトをはずして、日記帳を開いた。プリクラを見た。私とカヲリちゃんが写っていた。寝た。
 みんな恋しているで候。私も恋をしているで候。何のために? 
どうして人は恋をするのだろう。生きとし生ける人、皆、例外なく恋をする。そして恋は成功するとは限らない。夢を見る、恋をする。それはもしかしたら無意味なことかも知れない。

 ◆

3.愛してるよ、と言ってください。

 目が覚めたで候。もう十時で候。賞味、八時間も寝ていたで候。フラレタ夜に泣きぬれて夜を明かすこともなく、熟睡していたようだ。二日酔いの気配は無いけれど、しこたま呑んだ次の日特有の腹の減り方をしている、カップの焼きそばでもかっ食らいたい気分で候。
 リビングに向かうと父が新聞を読んでいたでござる。離婚の離の字も知らない男、家族の中で今日、何が起こるか唯一知らない人。
「おう、キン」
「おはよう。」
「ほら朝日」
と言って父は新聞を投げてよこす。テレビ欄を眺めていると父が話しかけて来た。
「飯食ったら、散歩でも行くか」
「あー別にいいよ。出発するの二時ぐらいでえーし」
「あらおはよう、うわお酒臭い!」
振り返ると母がいた。どろん。
「昨日、お姉とちょっと飲んでん。あれから」
「ああ、そうなんだ。タカコもほんとお酒好きよね。あ、パンとご飯どっちがいい?」
パン。 と答えると母は、 は?い。と鼻から抜ける声で言い冷蔵庫から卵を取り出した。
フライパンが熱される音とパンがトースターの中で焼けていく匂いが休みの午前中の穏やかな雰囲気を引き立てる。トイレから出て洗面所でひげを剃っていると姉がやってきた。 そこ邪魔。 姉は髪の毛をセットしたいようだ。 ちょっと待って、あと五秒。 と言うと姉は早口で、5,4、3、2、1、はい。 とカウントした。姉が思いがけないことを口にする。 昨日は付き合わせてごめんな。 え? いいよ。こっちこそ話聞いてくれてありがと。 いやん、そんなんマジで言われたらお姉、照れるわ。 そういうと姉は鏡に向かって髪の毛を弄りはじめた。
 晴れていた。父は年季の入ったキャップを被りなおして自転車に乗ると、ついて来いよ、 といって自転車をこぎ始めた。父の後ろを走っていると、秋間近の風がさわさわと当たって気分が良い。十五分ほどで神社のある山のふもとの駐輪場に着いた。父は自転車に鍵をかけながら、小さな子に言うように、 鍵、かけとけよ。 と言った。私は父を父という冠を外し一人の男として見れるようになってきたけれど。父から見れば、もう二十を迎えた私も、まだ学生ということを差し引いても子供なのだ。父はロープウエイ乗り場の方を指差しながら言う。
「どうする? 歩いて登るか?」
「せっかくやから歩こうか」
よっしゃ。 と言い父は鳥居の下で少しストレッチしてから、頂上に続く石段の方へ歩き始めた。遅れないように私も父の後を追いかけた。石段は近代的に整備された感じではなく、一段一段の幅がばらばらだ。中腹に差しかかった所、ちょうど石段の踊り場のようになっている木陰にベンチがあった。父はそのベンチを指指し、 ちょっと一服。 と胸ポケットから煙草を取り出し火を付けながらベンチに腰掛けた。 まあ、座れや。急がば回れって昔から言うやろ。 と適切なんだか適切ではないんだか分からないことをいい父は石で出来たベンチを手で払ってくれた。 キンとこのこの山、上るの何年ぶりやろな。 父が煙草を吸いながら独り言のように話す。 タカコの七五三以来かな、キンの七五三の時はどうやったかな。 厄払いん時、ここ来たやん、と言うと、 ああ、そうやったそうやった。 と、父は言った。煙草を吸い終えた父に促されまた石段を登り始めた。息が上がってくる。十五分程で頂上についた。赤い大きな鳥居が見えた。
「今日は賽銭、ええやろ。この前、母さんと来た時、五百円もあげたからな」
「あ、来たんや?」
「おう、七月にな」
「へえ」
 しばらく境内を見回しながら深呼吸した後、鳥居の横の休憩所に設置されている自販機で私はコーヒーを、父はお茶を買い、歩いて三分ほどの展望台の方へ向かった。途中に馬小屋があった。昔は白い馬がいた馬小屋だ。 馬、おらんくなってんな。と父に言うと、 おう、死んだんちゃうか。 と父は言った。展望台にはカップルと家族連れがいた。父は一番、見晴らしのいいところに設置されている望遠鏡の方に近寄って行き、大きく伸びをした。
「見てみ、気分ええやろ?」
確かに気分が良かった。牧野の町がミニチュアのように見える。
「写メとろか」
突然の提案に父は驚いたようだった。
「照れ臭いな」
「ええやん。たまには記念写真」
「遠足の気分や」
家族連れの男の人に声を掛けて携帯電話を渡した。気の良さそうな男の人は、イチたすイチは? とシャッターのボタンを押した、カシャリ、と音がした。男の人に二人で礼を言い、携帯電話の画面を確認した。父と私が少しカッコつけて映っている。
「これ母さんに送ったれや」
まだ恥ずかしそうな父の言う通りに画像を添付して母に、今から帰ります、とメールをした。
 山を降りながら父は珍しく色々な話をした。私はその笑いどころのない話になるべく愛想のよい返事をした。
 家に帰ると昼食の用意が出来ていた。 おかえり、シャワーでも浴びてきたら? 母が言う。 キン、先、浴びてこいや。 父が私に向かって言った。 分かった、と私は答えた。冷たいシャワーが山登りと、サイクリングで少し火照った体に気持ちいい。ボディスポンジで体を洗いながら、まだカヲリちゃんのことを考えていた。今頃、カヲリちゃんは彼氏と昼飯でも食べているのだろうか、そんなことを想像すると、こうしている自分がひどく幼稚に思えた。まだカヲリちゃんのあえぎ声が耳にこびりついて離れない。シャワーの水が風呂場のマットに弾けて雨のような音を立てる、このまま感情の何もかもを流していってくれないか、水。出しっぱなしの水を見ていると不思議な気分になる、この水はどれも最小単位は球状の元素なのだ、それが群れとなり液体状になる。昨日、見た星のようだと思う。宇宙のどこかの最果てのこの地球もどこか果ての星から見れば排水溝に流れていく一滴と変わりはしない。私の感情や道徳観、人生の全てに至るまで何もかもが星の歴史から見れば白いの飛行機雲のように消えていくように。
 一旦、部屋に戻ると携帯電話が点滅している。着信履歴があるらしい。ディスプレイを見た。カヲリちゃんだ。携帯電話を閉じ、ベッドの上に放り投げた。タオルで拭いたばかりの体に嫌な汗が滲む。色々な考えが頭をよぎる。
 姉の部屋のドアをノックすると返事がない。静かにドアを開けると部屋に姉はいなかった。階段を下りてリビングに行くと姉はソファーに座りテレビを見ていた。姉を呼ぶと、ダルそうにこっちを見た。リビングに続いているキッチンのテーブルで雑誌を読んでいる母に気が付かれないように、もう一度、手招きをする。
私の部屋に入ってきた姉は何かしら真剣味のある話を私がすることをわかっているような様子だった。
「電話きてた」
「誰から?」
「カヲリちゃん」
「カヲリちゃん?」
「あー昨日の話の子」
「あー。かけなおしたらええんちゃうの?」
姉は電話越しにセックスの一部始終を聞かせてきたことを知らない。説明することも出来ないので遠まわしに探ることにした。
「女の人ってさ、コクられたら彼氏に相談する?」
「え? そんなん普通はせえへんやろ。ちょっとでも気持ちが揺らいだら別やろうけど」
「揺らいだら?」
「私はカヲリちゃん違うから分からんけど」
姉は笑って続ける。
「でも、彼氏に相談したんやったらカヲリちゃんて子はずるいな」
ずるい、という言葉を聞いて少し腹が立った。けれど、すぐに収まった。怒る義理ではない。結局、カヲリちゃんはずるい、という示唆だけを残して姉は出て行ってしまった。どうするべきかと考えていると姉が、またやってきた。何か助け舟を出してくれるかと思ったら、昼食を食べるから降りてこいとの用件を伝えに来ただけだった。携帯電話をもう一度見てみる。シイナ カヲリという文字と11桁の数字が表示されている。通話ボタンを押してみた。コールが鳴る。二度なったところ電話を切った。逃げた。

食卓の上にはホットプレートが置いてある。その脇には皿に盛られた肉や野菜が色とりどりに並んでいる。
「キンちゃん、お肉ばっかり食べてないでギョーザも食べてね
母が言う。分かってるよ、と私は餃子に箸を伸ばし口に運ぶ。母も父と同様、いつまで経っても親なのだ。私と姉と母と父、その距離はアキレスと亀のようにいつまで経っても追いつくことがない。私が今の親の年になれば、二人は今の年齢差を保ったまま同じ分だけ親のまま年を取る。親であることと男であること、女であることは違うのだろうか。だとしたらこの二人はいつ男と女になるのだろう。
「お父さん」
ホットプレートの餃子が半分ほど無くなった頃、ふいに母が口を開いた。父は、どうした、お茶か? とお茶の入ったボトルを渡そうとする。母は、そのボトルを受けとり言った。
「私のこと愛してますか?」
口元は笑っていた。だけど目は疑うことを知らない少女のようで、まっすぐと父を見つめていた。父は、 何を言ってるんや。 とお茶を飲んだ。母がまた口を開く。傷つくことを恐れない処女のような芯のある眼差しで凛と笑った。
「私は愛してます」

 見送る姉と母と父がだんだんと小さくなっていく。私を乗せたタクシーは速度を上げていく。出発前にこっそりと私に向かって姉が言った言葉が思い出される。
私たちが大人になったからお母さんはお母さんじゃなくなったんやって。何年経ったと思う?お母さんがお母さんになってから。
揺れるタクシーの中で私は日記帳を取り出して、今日のページを開いて、インクペンを握った。タクシーは家から遠ざかっていく。窓を開けた。秋の匂いがする。携帯電話が鳴った。シイナ カヲリとディスプレイに表示されている。

窓から顔を出し振り返ると、母が手を振っていた。優しい仕草で手を振っていた。


                              



  

愛してるよ、と言ってください。

愛してるよ、と言ってください。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-01-30

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