ill
イルヴァレオ
それは、巨きな、大きな、"さいぼう"の、ひとつだと思う。まるく、単純で、端から端まで均しい性質で、唯一のまま完璧な姿をして、だけど、誰から見ても不完全体。たまごの黄身のような、薄い薄い透明の膜で、心許なく守られた、だけの。あたたかく、やわらかで。純粋な。無垢、で、神々しい、触れれば簡単に破れて弾けそうな、繊細な光球。
なんぴとも触れられぬ。わたしだけが、世界中でただひとり、断じることを科せられた、それ、は。
"いのち"というヒトの概念はわたしの永遠のテーマである。
恐らくこの身体が朽ちるまで、追究する。何故ならそれは、わたしたちものの人にはあってないもの。"いのち"とはヒトの言語で"命"と書き、我々の"生綱"とは似て非なるもの。
そもそもは生命あるものを生かす根源的な力そのものを表す単語らしいのだが、知れば知るほど、学べば学ぶほど、考えれば考えるほど、命の謎は深まるばかりであった。
どこからきたのか、なぜきたのか、どのような器官あるいは組織で、どのように成り立ち、どのような意図をもって生命を生命足らしめるのか。
そして、何故、わたしたちには、それが"ない"ということだけ、わかっているのか。擬似的に"生を綱ぐ"様に食事をし、働き、眠って起きて、流れる時間の長さは変わるものの同じように生活をしているのに。
本質的に何かが違う。明確な限りが無いからであろうか。ヒトから見て悠久ともとれる長い時間を、持つ、からだろうか。長く学び、どんな仮説をたて、どのように論証しても、これといった納得のいく答えは無かった。
全てを見通す魔の王にでも聞けば、わかるのだろうか。
簡単で単純な、何だそんなことか、といったたったひとつの答えが。わかるのかもしれない。けれど、かの王たる王に問いかける程の、然程の事由でないことも知っていた。
学問とは、即ち、魔界では、暇潰し、なのだ。現実的に。基本的に。だから別に答えが出ないことは、割と、問題ではない。
持て余す程の時間を埋める為の或る手段でしかない、それは、わたしでさえ例外とせず。…ふと、薄暗い部屋の壁にかけられた、学者に与えられる白亜の衣を見やった。
遠い蝋燭に微かに照らされて淡く朱みがかる衣と揃いの白亜の帽子は角が六つ。左右に尖る二つからぶら下がる絹紗の房の上に飾られるのは艶光る銀珠。玉付き房は学長の証。なんぴとも学ぶものの領域を侵してはならない、と、先先代あたりの、無垢なる白をその御髪に戴いていた王が決めた通りに、学問を職とするものの人達が須く純粹に纏う為の白衣。
先先代がかつて存在し、そう決めたのが云千年或いは云万年前の事かわからないけれど、以降、魔王の御髪禁色と並び学士の衣禁色と呼ばれることもある。
まあただ、純粹な白を好んで衣裳に択ぶものの人はそれまでもいなかったであろうけれど。
純粋さは、この世では、罪だ。白が想像させる無垢、無知という状態は、"力"が全てのこの世界においては弱さと同義。
弱きものは奪われようと、弑されようと、何の文句も言えず、そして、誰からも何からも守られもしない。
ヒトがヒトを統治する為に決めた法典のようなものは魔界には存在し得ず、唯一あるのは"魔王"という絶対。個々の力を主軸に、価値観の交換でのみ成り立つ、朧な世界。
幾つかの決まりごとがあるとはいえ、魔王の目の届かぬ(…という表現では誤解を生むが、便宜上そういうほかない。王たる王の目が届かないのではなくて、現実は、見る程の価値もないだけ。切り捨てられた世界の向こう側。)その端の端では王の目の無いのをよいことに暴力に明かすものの人達も多かろうと思う。
けれどそれがどうした、というのが、全ものの人の共通した考え方でもあった。
無論それは、わたしも例外ではなかった。ヒトのように、ちいさなことひとつ達成するにも皆々の協力が必要、といった事がわたしたちにはないのだから。
力があれば大抵のことはひとつ、ひとりで出来てしまう。
指を鳴らせば茶器は出るし、武器を持てば簡単に相手を弑すだろう。
魔族の世では、世界平和なんてものは夢物語どころか、誰ひとつにさえ求められもしていない。
各々が与えられた、或いは択んだ役目を日々浪費するだけが、ものの人の生。生まれながらに罪悪を背負わされた罪なる子は、裁く事でだけ赦される。
そう、わたしは…裁かなければ。それも重ねる罪として。積み上げて、永延と。
じじ・と手元を照らす蝋燭が鳴いた。その音にはっとして、硝子ペンの先からインクが落ちそうになるのに気付いて手をノートの上から避けた。
しがない楡の樹人ではやれることは限られる。はふ、と欠伸とため息を同時に吐き出した。暇潰しでしかなくても、本は好きだ。
綴られた文字を追い、欲しいだけ全部手に入れて。そうしたら、その知識がわたしの力になる。正しいかそうでないか、真っ当かそうでないかの判断はいついかようにも変化し得る。
ばりばしゃん!と唐突な破裂音が聞こえた。音の出処に緩慢に視線をやれば、本が焼けないために分厚く窓に掛かる緞帳が僅かに内側に盛り上がるように揺れて、その裾に飴玉のように色とりどりの硝子が散らばり淡い虹を幾つも浮かべ、絨毯の上に積み上げられた書物の海にちいさな空を作っていた。
てこてこと億劫な動作で窓に近寄って、落ちてくる硝子の破片で装丁が傷付かぬように周りに鎮座していた書物を抱えて移動させる。
ぽかりと床に穴のあいたようなスペースを作ってから、そうっと緞帳を避けると、パ!と強く差し込んでくる夜の光が目に痛い程飛び込んで来て、次に枠とその端にかすかに残された割れ残りの硝子の輪郭が見えた。
足元にごろり、落ちているのは重たい岩のような、赤児の頭程の大きさの何かであった。爪先まで柔らかい気に入りの絹の沓の先で蹴ってみれば、んギャオ!と騒々しく鳴くものだから、今度はそれをそうっと両手で拾い上げた。
くしゃくしゃに丸めた板が重なったような泥色に亀裂が走るように真っ赤な口が開いて、再度んギャ!オオン!と鳴いた。その耳障りな鳴き声に、この窓を割って飛び込んで来た岩マンドラゴラに、見覚えがあるなあ、とぼんやり思った。
しかしこんなものが何故窓を割って飛び込んでくるのだ、とすがめた目で外を見れば、噴水のある石畳の広場では何かはわからないがまだ幼生のものの子らがやいのわいのと騒いでいた。
細い手首に真っ新の絹紗の輝くような学章が着けられていて、ああ…と学院の新入生にあたる子たちかと納得する。
学院にあたる城の端、最も背の高い塔のてっぺんに据えた岩マンドラゴラを取って来た者がその歳の新入生代表に択ばれるといったある種の儀式。
その塔は、この書斎のすぐ隣に足を下ろしている。こんな事で代表が択ばれるのかと思わざるを得ないが、てっぺんまでは教授達が仕掛けた問題やトラップが待ち構えていて、建物の外部からでは向かえないようになっている。
誰かがこの岩マンドラゴラを獲得し、嬉しさに騒いだ結果ここに飛び込んで来たのだな、と無駄な考察をして。
この岩マンドラゴラは思いのほか、人界にある"ごむ"という素材で作った鞠のようによく跳ねるのだよな、と自分の代では獲得者がそのままてっぺんから地面へ投げ付けたものだから、垂直に跳ね飛んで見えなくなって数日落ちて来なかった為に入学式が遅れたものだった。
随分と昔の事だ。てこてこと小脇に岩マンドラゴラを抱えて窓から離れ、外套を片肩に掛けて部屋を出る。
近くの回廊から広場に繋がる小径に降りる際、柔らかい絹紗の気に入りの沓は猫足の踵の付いた外靴にすううと変わる。
文字を追う為の暗い部屋から出ると、久々に全身で浴びる光明に目の奥がじくりと痛んだ。
外套の裾を引いて岩マンドラゴラの行方を探しているものの人の子らに近寄り、声を掛ける。
「捜し物は此方かな」
「あ!」
「此方は思いのほかよく跳ねるので、気を付けて遊ぶのだぞ」
赤銅色の髪に尖った耳の特徴的なものの人の子に岩マンドラゴラを手渡す。
くれぐれも気を付けて、と再度の注意をしてからのろのろと来た道を戻った。
外は随分、暖かくなってきたものだなあ。
魔界に季節はないが、暖かいのは嫌いじゃない。咲くのをいつも楽しみにしている、ようようと唄う黄色い花が、微笑む為にふくふくと頬を膨らませているのが見てとれた。
ああ、夜陽の機嫌が良さそうだ、少し散歩でもしてみようか。
(今の誰?教授?)
(バッカ!学院で帽子被らないでいいの学長だけだ!)
(え!?今のが!?)
ヴァリアンテ
常夜の世界。
ゆるゆると流れる緩慢な時間に身を任せ、特に果たすべき事も無く手持ち無沙汰に本の頁を捲って見ていた。
忙しなく"城の"侍従が働いている。こともなげな或る一日。
幾百幾千幾万と繰り返す短い時間のひと区切り。
何をしようか、考えようと試みてはつまらなくてやめる。何もかも、わかってしまっていた。何も興味深いこともなければ、理解出来ないこともない。つまらない、わかりやす過ぎる、世界。どこも、かしこも。
終わり無く、不思議ばかりが横たわる世界のはずが、すべてを見通す"目"を持ち生まれて。その瞬間から、彼は彼であり、唯一無二の存在、王であった。
彼が王として発生した瞬間から魔界はがらりと色を変えた。かの髪の色、翡翠が禁色となり世から姿を消す。彼の身に纏うものだけがその色を許され、自然に存在した水の色さえ変えられて。
魔族の手により歪められ、歪んでいく世界。しかし、それで良かった。
魔界とは、有象無象の雑多な、有耶無耶であり曖昧かつ渾沌とした世界のことをいう。絶対不変の決まりごとは片手で数えられる程しかなく、全ては存在を許されて。その表色のひとつが禁じられたところで、そのひずみが何かに影響するということはない世界。
此処では、"力"がすべて。
持つものが正義。
とろり・と、猫脚の机に立てた肘のあたりに肩から落ちた羽織が溜まる。
その全体の重みにざばあと床に落ちていった羽織は揺蕩うように波紋を描き、そこでゆるやかに止まった。夜とはいえ明るい、今の時間帯では何も面白いことはない。
月も出ていなければ星も眠っていて、この白夜を喜ぶのは月の力を得る鉱石の一族くらいのものだろう。今それ以外で働いているものといえば夜の城の世話をする侍従ほどで、起きているものといえば夜狂の鳥と箒と奇特な胡桃くらいのものだ。
静かな、明るいままの、夜が更けていく。
さわさわさわ、と窓の外で規則正しい並木の枝が笑って揺れた。
ふと・茶が飲みたいと望んでのそり、立ち上がる。羽織は落としたまま。誰かが拾うまでそのままかもしれない。
熱いくらいの美味い茶と、それから少しの甘いもの。
唐突に欲しくなって、する・するとぶ厚い絨緞の上を歩き、重たい樫の樹の飴色の扉に手を掛ける。ドアノブに指先を軽く触れればすうと戸が押し開かれて、道があく。
いつものように膨大な本に埋れて眠っているのだろう南瓜を起こそうか。
しかしあれの淹れる茶はいつもやり過ぎ。なら蛇か。あれの淹れる茶は抜群に美味いが色々と喧しい。だったら狼か。…気に入りの茶器が破壊される。
ひとつひとり思い出してみるが、この静かな時間を歪めるものばかりで気が向かない。どうしようか、と回廊を歩きながら考える。
答えが出るまでこのままかもしれない。誰にするか、或いは、自らか。
「御珍しい。何か御探しか、殿上君」
「………、」
美しく整えられた庭に面した白亜の柱。二本の柱に挟まれて夜鳴き家鴨の形に刈り込まれた樹のある庭におりる為の短い階段の中程で、ちょこんと座るまるいもの。
もこもこの柔らかい羊毛のかたまりのような、それが微かに揺れながら喋る。
モグモグと動くのが口元かもしれないが、顔がわからないほどの被毛に覆われたそれは。傍らに置いたティーセットのポットに手を掛けた。
赤ん坊のような小さなふくふくとした手。弱そうな、力のなさそうなそれ。
しかしその手は危なげなくポットの取っ手を掴み、とふとふと浅いカップに鮮やかな水色の茶を注ぐ。
「御座りなされ、我が君」
「……………」
「御座りなされ」
二度促され、本来なら座る目的で作られてはいない階段に腰を降ろした。
南瓜の奴が煩い程羨むな、とぼんやり考えながら、目の前の淡い茶色の毛玉を見やる。毛玉に見えるのは豊か過ぎる髭であり、柔らかそうなそれは体毛というよりは繊維に近い。
何故ならこのまるいものは、歴史に名を刻む学者の最高峰、樹木か何かの魔人であるエフェトスロールー。学者達の憧れの的、魔学の祖とも言われる程のオーソリティー。権威とは程遠い容貌ではあるが。
ちまりと差し出されたティーカップをソーサーごと受け取って、ほあほあと緩く立ち昇る湯気と薫りを楽しんでから口を付けた。何を話すでもなく、こくりこくりと茶を飲む。
ゆるゆると過ぎ去る時間の冷たさは止み、夜の寂びしさも今は遠い。
何か問えば、どのように答えるのだろう。
何を問えば、欲しい答えが出てくるのだろう。とりとめのないことをつらつらと考えているうちに、白夜も和らぎ夜が更けていく。
植物系の魔人はその性質故か、学者が多い。肉食獣は軍人に、爬虫類は芸術に、鉱石達は音楽に、自然のものは幅広く。下界のヒトと同じように、大まかになら分けられる魔界のものものに、大声で問うてみたかった。
王が王足る理由が、その存在以外では誰も知じ得ず感じ得ない"目"の存在それだけで構わないのかと。
神託があったわけでも(魔界に神など存在しないけれど。)占いでそう言われたわけでも(そもそも占いなんて鉱石魔人の直感より信憑性に劣るけれど。)無いというのに。
誰もが当たり前のように王を享受する。
当たり前のようにそのままを手放しにしている。
それで、いいのか、と。
はあ。
「大きな溜息ですじゃの」
「そうか」
「然程御悩みになる事では無いと思いますがの」
「そうか」
「考えた所で無為に、御存知だと思いますじゃ」
「そうだな」
存在に理由など無いように。うまれてしまったものに先行する理由など有り得たことのないように。理由があってからうまれるものでは無いのだと。
鉱石魔人が植物魔人になる事はないし、獣魔人が自然魔人になる事もないのと同じで。誰も魔王にはなれない。
魔王としてたった一人、うまれたものが在る限り。それが、真理で答え。
わかっていた。誰に聞かずとも知っていた。"目"があるから。すべては。解りきって。
「まだまだ、御若いですじゃの」
ふぁっふぁっふぁ。エフェトスロールーは笑った。
答えのない問いなど、ここに座す王たる王には存在し得ぬと、知っているのだった。
ざぼざぼと適温の茶を二人で飲み干して、からになったティーセットは毛玉がぽんと指を鳴らしたのを合図にきれいさっぱりなくなった。
同時に視界から消えた毛玉、ややあって仰ぐように回廊の方へと視界を広げれば、しゃんと背を伸ばして白亜の衣をするすると引いて歩いてゆく背中があり、その背にかかる真っ直ぐの、穏やかな色をした木目の髪がさらさら揺れて、正面から見れば立派に蓄えた髭があるのだろう掴めない狸な魔人の背を見送った。
頭に載せているのは、学を職業とする魔人達の中で最も高位を現す七角の帽子と房飾りに混ざる、己が下賜した翡翠の玉。
食えないジジイだ、と彼の重ねてきた樹齢幾千幾百を想った。
エフェトスロール―
(身体のずっとずっと奥底、世界中のだれも知らない深部。真っ底からひかる、いのちの燈を、随分と長いことずっと探している。"存在する"と信じて。地に触れた足の裏から大地のもっと深くまで、いなづまの降るように、落ちるように、或いは昇る様に、核よりももっと深淵へ。魂の底の、パルスを。私は、欲する。きみは、どうする?)
魔物の生はある程度の道が決められている。獣なら軍へ、植物なら学へ、といったように。予め。抗うことが出来ない、というわけではないけれど、傾向や、特性として。それは、ずうっと昔々から続けられてきた。
利き腕でカトラリーを扱うのがさも自然で当たり前のように。
それは、特段構わなかった。学として生命を取り扱うのはとても、億劫な事であったが、何故だかそれが使命なのだと物心つくころから諦めたように私は識っていて、受け入れていた。
享受していたと言われても差し支えない。然程の反感も何も、特に思う事も無かった為だ。故に、その道に従事した。
私が一魔ひとりの学者として、管理も保護もなにもされていなかった先人達の遺物を集め始めたのは、時の魔王がお隠れになってしまった頃だった。
程なくして新たな魔王が立つのは、長い長い歴史の中で誰もが知ることなので、それについても特になにも思わなかったが、新たな王は奇特な人物で、獣中の獣、王たる王に相応しい立派な、純白の鬣に似た御髪を持ち、ヒトの血の色をした双眸が背筋を凍らせる程に清冽に耀く、その容貌は一見繊細そうにみえてどんな魔物より勇壮な獅子であった。
代々の魔王についての情報はその御隠の度にどこかへと隠匿されてしまうので(或いは消滅)、今はもう、私を含め数少ない長寿な魔人たちの記憶の片隅に仕舞われるだけである。
何代か続いた(らしい。私も、私の生まれる前の王の事は知らない)、王たる王の傍若無人な治世は世を荒らし続け、力だけが正義と謳われる魔界において弱者の立ち位置となる植物や、魚類、魔人以下妖精や小人たちの生命など塵程の価値にも思われなかった時代を、文字通り膨大な魔力を注ぎ込んで作り直したあの白亜の王は、平等ではないまでも機会の公平を謳い、自ら力ある獣や鉱物たちを諫め、安定した世界を作り上げた。
学院が構築され、学を執る者を公的に保護し、弱者が大事に持っていた"叡智"を力の一種だと認知させたのもこの頃である。
今でこそ温暖或いは寒冷の落ち着いた、穏やかで瑞々しく美しい魔境であるが、その昔は草木も生えぬ荒地であったことを今の魔人達は殆ど知らないのだろうなと思うと、世代を重ねる毎に、世界は残酷なほど、変わってゆくのだなと私でも時の冷たさを感じざるを得ない。
そうして長く問いかけてきた、"生命とは何ぞや?"という私の命題も漸く、淡緑の明滅するような不思議な色の御髪を持つ現代の王たる王、彼、Varianteと名の付いた暁闇によって息の吐ける、答えを得られそうな所である。
(きみは、死ぬまで、その答えを追うのだろうな。)
白亜の君が、あの、豊かに潤む血色の瞳を細めて笑いながら、白い可憐な花の咲く庭に隠した四阿でゆるりと茶を飲みながら零した何気無い預言を思い出した。
つまり、私の死期も、ようやっと目に見える、或いは、手の届く、または、感じ取れる場所まで、やってきているのだろうなということを実感する。
そして私は、この命題の重大な答えを、世に遺さずに消えるのであろうなと、確信していた。また、遺す必要は無い、とも思っている。何故なら、いずれ解るのであろうその答えは、私にとって重大なだけであり、また、死亡き生を謳歌する魔人達にとって、興味の対象ではないだろうからだ。
新たに学長を任されたあのちいさき南瓜でさえ、私の探し求めるものに食指を伸ばす事はない。あの南瓜にとって(或いは、魔界の凡ての魔人達個人にとって)の答えでなければ意味がなく、この答えはあくまで私にとって最も正しい答えに過ぎなく、それを不特定多数の他と共有する必要は無いのだ。
遺しておいても構わないが、この長い長い魔人の一生を、現代の学者として最も高齢な私でさえ知り得ぬ程、昔々まで溯る、膨大に積み重ねて来た歴史においてまだその"生命"や"魂"や"死について"が明かされていないという事はおかしい。
つまり、先人達もその答えを知りながら、遺さずにおいて来た、というのが確からしいのだと思う。
各人の答えに辿り着く為の助けは、歴史や書物が教えてくれる。けれど簡単な"こうである"という答えだけが幾ら探そうと出ないのは、恐らく、そうなのであろうことを裏付けている。
則ち、長い一生の暇潰しに、答えが必要なのは、本人だけ。
答えが何であろうと、欲しいのは本人の求むままの現実や納得であり、世にとって、魔界にとって、他者にとって、共通して"これが正しい"ということなど、欲するに足らず、ということだ。
学者とは、かくもエゴイズムの極まる職である。
最もらしい理由や原因を以って存在し得、尚且つ、最も自分勝手で誰の為にも為らぬ存在。世の為の価値の無い職である。
それを手放しにしている世界が悪いのであろう?とは、恐らく、賢明な学者たちが心の底に秘めた罪だと思う。無論、私も含めて。今までも、これからも。
また、荒廃して叡智の喪われた世界に時を戻さぬ限りは、平穏に根差す癌のように蔓延り続けるのであろう、ゆくゆくまでも。
賢明が故、廃除の手ものらりくらりと予知するように避けてしまえる憐れな者物よ。賢いというのも罪なものだ。ああ、早く、死神の足音が聴こえぬものかなあ。
平和過ぎて欠伸が止まらぬよ。
暁闇の王よ、私の見つけ出した文献によれば無形自然物の魔王は恐らく、長い魔界の歴史上でもお主が初代だ、よく務めなされ。
王たる王は、世の望む形に生まれ出でる。
その存在のかたちこそが、魔界の答えなのだ。
(まだ仕えろ、辞退は許さん)
(王命なら、仕方ありませんのお)
クトゥリウォオフ
ひう・ひう・と何処かで鳥が鳴いた。か細い、喉から呼気が勝手に逃げるような、そんな声。
かちん・かちん、と隣室にある時間を刻む置き時計の音はまだ起きる時間を弾いてはおらず、いつもより早くに目覚めてしまったようである。
紺碧の夜空にはまだ空高く煌く星と猫の口の赤い月。大気そのものが光る粒子でも抱えているように、どこもかしこも昼間のように明るい。
少し前から、魔界は白夜月に入っていた。
この為に屋敷も城もカーテンや緞帳の類は全部、強い光を遮る重たく厚いものに掛け変えられ、寝室は過ごしやすい暗闇を包んでいた。
ごろ、と褥の中で体勢を変える。
時計が弾く針の音が知らせる情報によれば、まだひと眠りできそうだ。―――――。
次に目を覚ました時、長針は時計をひと回りしているが、登城まではまだ余裕がある。
巣穴から出るように褥から降りて隣室へ移動すると、夜光を半分に遮るカーテンで窓から飛び込んでくる光量はうまく調節されていた。夜目が利き、あらゆる見る力において魔人随一を誇る自分の為か、有り難いことに屋敷の魔人達は窓辺の管理に多少うるさい。
ちょうど良く調整された部屋は明る過ぎず暗過ぎず(他の種族が共にいれば暗すぎると喚くのかもしれないが、特に南瓜は文字が読めぬだろう!と言って暗いと煩い)過ごしやすくされていた。
テーブルにつけば、待ってましたと言わんばかりに並べられるカトラリー、次々と供される朝食。
ヒトのように栄養素やエネルギーとしての食事を必要としない魔人にとっては形式的なものだが、気に入りの椅子に座って、火の通りを甘くした肉を口に運ぶ。
食事や、睡眠や、その他諸々の理知的行為をわざわざ必要もないのに踏襲するのは、ヒトに近付く為ではなく、ただ、自分達が意志ある存在だと裏付ける為の自己満足ではないだろうかと思う。
我々は鉱物であり鉱物でなく、或いは植物であり植物でなく、獣であり獣でないと。日々、魂に命令するように。いのちある存在なのだと信じたいがため。
その食事を終え、いつものように一風呂浴びて、それからはりはりと音でも立てそうなほどきちんと整えられた軍服に袖を通す。
鮮烈な紅は生命を主張し、左右の二の腕に縫い付けられるは天球儀と鏡を模した魔王の紋章。軍部は即ち禁軍をあらわし、衣に王たる王の紋章を授かる唯一の機関。
人界のように唯一絶対の魔界には他国や隣国という概念がない為、敵対するものなど一切ないとはいえ、軍部は必ず王たる王の為に存在する。
学者は学問を、軍人は訓練を、暇潰しのように日々を浪費するのが"役目"の意味もあって、延々と繰り返して来た愚かな程の日常を今日も、歴史をなぞるように過ごすのだ。
登城の正装を整え屋敷を出、屋敷の世話をしてくれる家人達に見送られて馬を駆る。
何気なく哨戒も兼ねて城までの道のりを遠くまで見通せば、今日も今日とて昨日と殆ど同じ様子で、木々は枝を揺らし、道端には花が咲いていた。
厩に愛馬を繋ぎ、番に世話を任せ労ってから門、牢、修練場と顔を出し様子をみてから執務室へ落ち着く。
何万年も昔あったらしい"戦争"に使われた兵法書や戦法の書物の集まった書斎はやはり薄暗くしてあり、その視界の端でもぞりと何かが動いたのと同時にため息が出た。
頻繁、故に既に慣れたもので、その視線の先では学者をあらわす長い白亜の衣の裾がデスクの影からちょろりと出ている。金色の房飾りが多数付いているそれがあらわす人物――もとい植物はただ一魔。
上から覗き見れば暗い手元をしょぼしょぼと燃える小さな燭台で照らし、もくもくと文字を追う小さなまるい背中と、それを中心に放射状に拡げられ雑然と開かれた書物の数々。
絨緞を敷いてあるとはいえ、何の気なしに床に直接坐るのは魔界ではこのチビくらいのもので、同時に何冊もの書物を広げて読む為に床の方が合理的という事由があるとはいえ、魔人としての"美しい生活様式"とはかけ離れている。
禁書も含むこの書斎は厳重に鍵を閉め呪も掛けてあるというのに、この南瓜は。
そこに書物あれば南瓜ありとは誰が言ったのだったか。
しかもよく見れば、小さな燭台の向こう側、暗がりに紛れるようにあるのはシルバーの丸盆にちいさな三段トレイとティーセット。サンドとスコーンは微かな欠片を残して姿を消しているあたり、計画的に侵入して大分前からここに居るらしい。
「おい」
何度繰り返されてもあきれ返る。鍵も呪も関係なく、欲する智識がそこにあると知ればいともたやすく侵入してくるこの南瓜。
軍部の役職以外に見せてはいけないと決まっているものもそうと知っていてなお手を出してくるものだからたちが悪い。
善悪などこの魔界にはあってないようなものだが、その中でもぶっちぎって頓着がなさ過ぎる。外部の者が触れるだけで極刑という本も無きにしも非ずというのも知っていて容易に触れ得る。
子供のつくった要塞のように積み上げられた蔵書の中にそれらも含まれているのを見やり、流石にべしっと頭を叩いた。
「むっ? おお、来たか。おはよう、随分遅い登城だな」
「遅くねえよ。いつからいるんだ」
「? 昨晩の…」
「バカ正直に言う奴があるか。俺は一応罰することもできるんだぞ。何度も言うがここの本はお前が見ていいもんじゃねえ」
「本は見る為に存在する。つまりわたしが見ても問題はない。しかもここ数百年何度となくこのやりとりをしているが、おまえがわたしを罰したことなど一度足りとないじゃないか?」
「うるせえな黙ってろ。そして何だそのお前ルール知るか。戻せ、本棚に。早く」
けち、とぶつぶつ文句を言いながらも素直に本を抱えてもとあった通りに戻していくあたり、南瓜も慣れたもの。
棚に返した書物の背表紙をまるで労うようにそうっと撫でる癖があるのも、もうずっと昔から知っている。
彼が大人しく従うのは、ごねれば怒られるのを知っていて、タイムリミットだと諦めているのだろう。
単純で扱いやすいが、学者のくせに馬鹿なのか?とたまに思わないこともない。が、本に夢中になるのは学者の性で、必要な場面ではそつ無くやっているのだろうということはわかる。
城が抱えている学院を統治する学長としての、この南瓜の役目は決して軽くはない。同じように、軍部を統べる己の役目も。
暗がりの中で、りる・とひかるグリーンの瞳。
金色を反射して、何か危うい恣意を孕んだような密かさでぱちり、瞬きをする。
南瓜の視線がデスクに置かれた羊皮紙の筒に注がれているのを不思議に思って、それを手にとった。
何だこれは。
封蝋を剥がし中を見る。
は・と二人して、同時に吐く息を止めた。
薄茶の紙面が真っ黒く見えるくらい精緻に書き込まれたその内容。
「ウォオフ…………それ、は……随分と…古い呪だ、早く…鑑査院へ、持って行くべきだな…。わたしは調呪院に術師を集めて待って居るから、急ぐのだぞ」
ぱむ、と軽い音がして、南瓜が両の手を叩き合わせた音によって命じられた呪で、床に積み上げられていた書物は全部時を戻したように一瞬で本棚に戻され、その次の瞬間には白亜の衣を摺る小さな背中はさっと回廊へと消えて行った。
ただの紙のくせ、ずっしりと重いような、冷たいような感触の手元の呪詛書を無駄だと知っていて再度巻き込み封蝋をもとあったように留め、自分も小さな背を追い掛けるように部屋を出た。
何百年と続く平穏に慣れて落ちぶれるような能力ではない。が、あまりにも自然に、完璧に、魔界でも指折りの力を持つ魔人二人の目を簡単に欺くほど巧妙に隠された呪を、自分たちの手で何気なく放ってしまったことを少しだけ悔いながら急ぐ。
強力で古い呪は開いた瞬間に発動してしまっていて、今はその対象者を襲っているだろう。精緻な紋に囲まれている、己の命賭して守護することが決まっている両腕に刻まれた、天球儀と鏡の紋章を持つ者を。
(つうか、鑑査行きたくねえな…)
ウィロウウィロー
ゆら・ゆら、り。
世は棚引く雲霞の如く在り絶えず変化を続けている。
同じように見えて違うもの、ただの一瞬さえも同一には成り得ない刹那の奇蹟の積み合わせ。
全宇宙は摩訶不思議な力に依って生み出され生み出され続けていて、同時に滅び消え死に絶えていく。
増えもしなければ減りもしない、総ては同等に均すよう一定を定められていて、絶対的に決められている。バランス。
それを自然の理だと享受するのが学者ども、常々傾きまわる不安定を安定などと云うのは不自然だと反論を探すのが芸術家ども、何方でもない興味が無いと我関せずを貫くのが軍人どもとその他、そして。
均衡の秤、それこそが己のみと殿上の頂点に悠々と座すのが王ただ一魔。
何方でもいいという訳でもなく何方かだという訳でもない価値の均等はゆらゆら、ゆらり。
揺れながら、何方かではない何方もを立てて。
揺れながら。何方ともなく加減して。
何方でもなく惹き合うもの。
自然がとりなす平衡に私は興味は無いけれど、その均衡に手心を加えるのを許されている、という役目を生まれながら負う。
そんなものにも興味は無いけれど、一魔である限り存在の意義と役目はどうしたって必要であって。
存在する、というだけである一定の居場所は必要不可欠で…自己肯定に理由なんて、本当は何ひとつも必要無いでしょう、と思わないでもないけれど。
自分とは?なんて馬鹿らしい。
均された世の約束事には抗わず、流されるのもまた一興。
長いものには巻かれておけば取り敢えず火傷はしないからね。
まあ…、単に、横たわる平穏を波立てるのは趣味ではない。
火に油を注ぐのは好きだけれど。
この一瞬一瞬でさえもう同じものは二度と得られない奇蹟の積み重ね。
私はその稀有な一生にこともなく身を任すのが嫌いではないんだ。
これ以上を求めるのも、これ以下を欲するのも愚かしい。
ただ、何というか。ちりちりと肌が灼けるように粟立つ。
何かが、私の視る天秤を揺らしたような、微かな衝撃の余韻。
何かが起きる、それは、予知にも近い。
前触れ。感覚。
何か、来る?ということが、事前に解ってしまうことの何と味気ない事か。
つまらない。つまらない。ハア。嫌な役目だ。
これよりももっと鋭敏で、もっともっと果てしなく聡く総て、先まで解ってしまうのがいるから、まあまだ私はマシなのだろうなあという位には思いはするけれど。
さて鬼が出るか蛇が出るか。
どっちも然程変わらないが、起こるなら、起こってしまったなら、精々面白おかしく私を、愉しませてくれ。
学院とは真反対側にある鑑査院の塔の天辺、大理石の床を鈍く重い足音の振動が伝う。
ここを目指して階段を登って近付いて来る。
その誰より重い足音が誰のものかなど、もう慣れっこでよく知っている。
ぎい、と歪んだ樹の重い扉を押す音が聞こえた。
「おい、いい加減直せよこの扉音が煩え。こっち見ろ怠惰蛇、来る前からわかってんだろうが」
「みにくいんだよ熱血狼、その体温をどうにかしてから訪ってくれたまえ。あと扉は好んで其の儘にしてあるんだ、私の自由だろう?」
「酔狂な。見ろ」
ぽさり。
手許に飛び込んできた羊皮紙の巻き紙。
軽い紙の筈なのにそれは、酷く冷たくて重たい。
呪が描かれているのだろうな、しかもかなり複雑な、面倒なものが、というのは直ぐにわかった。
こんな厄介そうなものを、この何だかんだで一番、問題事からは縁の遠い狼が持って来るのは珍しいなと思った。
魔王や阿呆な南瓜や、あとは軍部の毒蛾なら未だしも。
狼は彼のその名のあらわすとおり、まるで書類を押さえ強い風にも動じない文鎮のように重く動かない。
その重さ故、起きる問題の方が避けて通るものだというのに。
はらり、既に取ってある封蝋を開く。
緻密に描き込まれた呪の対象を見て、ほう、と思わず感嘆が洩れた。
平穏に溺れて久しいこの魔界に、王たる王にこのような喧嘩を真正面から突き付ける者がまだいたとは思わなかった。
強力な、悠久とも思える程の時間を掛けなければ完成しない呪。
古い、古い、旧時代とさえ呼ばれる何代も前の魔王の時代に流行った類の呪ではないか。
このような、それも現役のものを目にする機会に恵まれるなんて。
然しその喜びも束の間、じとりと眇めた眼で睨み付けて来る狼の視線に急かされて、仕方ないなあと窓辺に、寛ぐ為に置いたチェアから重い腰をあげた。
「あー、嫌だ嫌だ嫌だ面倒臭い部屋を出たくない歩きたくない眠い怠い」
「うるせえなお前はいつもいつも。黙って働け」
するするしゅる、と足音の代わりに衣擦れの音と、細く長い指先の鱗がりい・ると擦れる音。
ようやっと、どうしても仕方なく、といった重い足取りで部屋を後にする。
正直この呪の対象が王であれ他の誰かであれ別にどうでもいいけれど、この難しい呪を解いてしまうのは勿体無いなあと思う。
あの王たる王の為にこの呪を解く為に動く魔術師だったり学者だったりその筋の専門家は沢山いて、それこそ魔界屈指の者々を今集められるだけ集めているのだろう。
わざわざ私が動かなくたってどうせ解決できるだろうに。
けれど。普段は立ち入りの許されない調呪院に入れるのは面白い。
彼処は私も見た事のない呪や祈や様々な歴史が数多遺されていて、聖悪の遺物や鬼籍が大事に保管されている。
命の宮とも呼ばれる其処は、王たる王の為"だけの"事に、総てを操作する。
重大な有事の際以外は完全に封鎖されている場所が故、私でも何度も入った事はない。
彼処は、魂の刻印を保存している。
魂から刻印を切り離す為の鼎の小太刀もある。
無形の魂から、同じ無形の刻印を強制して物理的に顕現させる不思議な小太刀。
魔界の粋を集めても解読出来ぬ旧い文字を刻まれた、それ。
素材も由来も何も解らないまま鎮座するあれが見られるなら、この面倒な事態の解決に手を貸してもいいかな、位には、偉大な価値のある場所だ。
さて行こうか、ゆるりと。
人は待たせるくらいが丁度よいもの。
というか、あの完全で完璧で完成しきった王たる王は、少しの間くらい苦しめばいいのだ。
どうせ誰ぞの作った呪を解くのは不可能ではないのだから。
そうすれば、あの太々しい態度も少しくらい臣民に穏やかになるかもしれないし。
ああそれにしても嫌だなあ、こんなに美しいものを無に帰してしまわないといけないだなんて。
なんて不条理なんだろう。
全知といえど、全能ではないのが、あの王たる王の不便なところだね。
その能力は幾十にも砕かれて手足のようには自由に出来ない。
其々に意思を持った私やこの狼のように癖のある魔人となって、ひとりで全てを統べるくせ、ひとりでは何も出来ないように仕組まれている。
それもあの阿呆な南瓜は世の理だと享受するのかな。
この狼は何方でも構わないと宣うのかな。
だったら私は、何と言おうかな。
つらつらと答えなど求めてもいないことを考えて、御愁傷様、誰かは知らないけれど、この呪が解かれるのも時間の問題だよ。承知だろうけれど。
ああ、御愁傷様。
これを終らせたら、どうやってあの南瓜で遊ぼうかな。
この手の呪は、贈る方も受け取る方も、この怠惰な魔界の生活の中の気怠い暇潰しには、丁度いい遊びかもしれないな。
ユアバロシュロオル
赤子の泣き声の迫間、深々と突き刺さるような諦念と寂寥のため息を吐いた。
冷たい、冷たい、雨が。
降る。
しとり、しとり、静かに。
頭の中がひび割れて行くような叫び声にうんざりしながら、小さな生き物を片手で縊る。
きゅ・と呼吸と共に声も止み、腹の底に昏い気持ちが滲んだ。
ああ、今、私は、とても悪いことをしている。
誰も知らない内に、この手に収まる小さな生き物の生命はこの世から失われ、誰も知らない内に私はひとつ贖えぬ罪を負う。
そう考えて、喉の奥が酷く苦く感じた。
気管の内側で分厚いゴム製の風船が苛々する程ゆっくりと膨らんでいくような圧迫感、或いは破裂の予感。
苦しいのは、私ではないのに?
否、窒息の苦しみはきっとこんな程度ではないのだろう。
私のそれは、只の妄想なのだし。
ふと視線を落とした時、ことり、全ての機能を停止して、私の目の前で、私の手で、ひとつの生き物が只の肉塊へと成り果てた。
ひりん・と耳の奥で何かが鳴るのが聴こえた。
ああ、何と味気ない終りだろう。
心臓が止まり、その肉塊から緩やかに温度が脱けていく。
肉体か、精神か、どちらの方が先にその機能を止めたのだろう。
じいと観察してみるものの、目の前の肉塊は、私の知りたいことは何も教えてはくれない、只の死骸でしかなかった。
「何を思い出していたかわからんが、魂は死なぬよ」
「…、」
「魂に死は存在しない、と、私は考えている、と言った方が正しいかな」
「イルヴァレオ様…けれどそれは、」
「無論、証明しようはないが…。だが、魂にあるのは、その最期は、死ではなく、消滅だけだと思うのだ」
まるで。私の罪を識るように、彼はするすると手元の本に文字を書き綴る作業をやめないで、あおい羽根ペンを揺らして言った。
魂は死なない、とは。
私よりよっぽど小さく、然しよっぽど永く生きている彼は、魔界唯一の学術院の頂きに立つ、ひと魔の学者。
その専門は何かと聞かれても、彼の手の中の智識はそれこそ膨大で、何が専門ということはない。
エフェトスロールー様や、その世代の大師の幾魔かを含めて魔界屈指とされる学者のひと魔。
時間さえあれば本を読んでいて、そして忘れない。
「それではある意味、魂に死は存在しないのですね」
「然うとも言えるが、先ず魂に生死という概念を持つ事自体が…いや、止そう、こんな話は議論が尽きないな」
「構いません。言葉の上でただ、死はないと、そういうことであれば、いいのです」
「何を正解とするかは自由だと思うぞ。其方が納得出来るなら、それはそれでよい」
生死の概念に囚われるのは、然し、辛いな。と、独り言のようにおっしゃって、イルヴァレオ様はそれきり黙ってしまわれた。
ろうろうと手元を照らす燭台の灯はやわらかく、その幽玄の存在感はきっと、魂にも似ているのだろうなと考える。
見れる事なら見てみたい、そのひかりを。
永久なるこの魔生に朽ちるまでに、一度くらいは。
叶うだろうか。
例えば、この眼球のふたつを対価とするのだとしても、それなら安い、と思うほど、欲している。
私は私で、地理と古跡の知識なら余りあり、崩れた古跡を調査する程に思う、ここにあった嘗ての魔族達は、一体どこへ消えたのだろう、と。
移住ではなく、消滅だったかもしれない、その肉体は何処へ、魂は何処へ。
ヒトのように朽ち果て土や空に還るものなのだろうか。
植物が繁殖をするように、種を生むようにどこかで眠っているのではないだろうか。いつかまた、目覚める為に。
それならその種を掘り返してガラスに入れて、綺麗に飾ってみたいなと思った。
少し前の話。もうヒトの世では何世代と経るような前の話、私が罪を犯したあの日、あの死した肉塊をとっておけば良かったな、と邪に考える。
きれいに、土や空に還らぬようにとっておけば、あれは今頃死の眠りから醒めたかもしれないのに。
今度、いつか、ヒトの世にまた下りる事があれば、きっと、今度はそうしよう。
水っぽく揺れる眼の表面をうすく削ぐように、蒐めた鉱石を並べて管理するように、きれいなものを集めて。
罪を重ねて、そうして、私は。裁かれよう。
さある、と足元をやわらかい冷気が通って行った。
開いている窓から入り込んで来たらしいそれを止める為に立ち上がって、椅子から離れる。
日を遮る為の緞帳のそばにそうと静かに葉を垂れる、味気ない植物が鎮座している。蕾もない、当然花もない葉だけのそれがそよと揺れて、笑ったような気がした。
緞帳の向こう側の窓を閉める前に明るい外を見る。
日没も、夜も、滅多に訪れない魔界のいつも通りの見慣れた白々しさだけが横たわっていた。
学術院の殆どは白亜の石造りで、その石面に泳ぐマーブルが時折柄や色を変えるくらいしか目新しくはならない。
日を反射しあって、煌々と明るい窓辺は、眼の奥が酷く痛んだ。
「ユアー、其処に居るなら、その花にも日を当ててくれ」
「? はい」
「下界から持ち帰った花だ、光を食し酸素というものを吐くらしい」
「花ですか、これが」
「まだ咲いていないだけだ。魔界は真実の夜が少いから」
「夜にしか咲かないのですか」
「其方の祖先と同じだ、月下美人という。ひとの生よりもっと儚く美しい花をつける。たった数刻も咲かないのだそうだから、わたしもまだ見たことがないのだが」
「私と同じ? …しかし、私は植物の中では樹木なのですが」
「うむ。下界の月下美人も下部の茎は木質、上は葉でよく分枝し、我々の背丈よりは大きく育つらしいから、樹木ではないにせよ、それに近しくはあるのだろう。魔界では樹木と分けるだけで。然し、その花は其方の髪色のように、透けるような、仄かに光るような淡い白色を咲かせるそうだから、待ち遠しいな」
「花を付けたら、私も是非見てみたいです」
「何度でも好機はあるだろう、我々には、その花よりずっと永い時があるのだし」
しかしその永い時の中でも、夜は稀ですよ、という言葉は飲み込んだ。
稀とはいえ、無くはないのだ。
下界なら、十数時間毎に訪れる夜の度に花を付けるのかもしれないが、この魔界の、気の遠くなるくらい稀な夜に付けるその花はきっと、下界に咲くよりもっと尊く美しいのかもしれない。
その数刻も咲かない花が、少し楽しみになった。
ヒトよりもっと、儚く短い、それを。
この眼で見られるなら、魂の為に両眼を失うより、価値があるかもしれないと。
「約束ですよ」
「何なら世話を任せるが」
いいえ、と答えた。
赤子を縊るより難しそうな、そんな世話をしたくはありません、と答えたら、イルヴァレオ様は一瞬だけ手を止めて、二度瞬いてから小さく吐息して、それから文字を記すのを再開なさった。
窓を閉め、その未だ咲かぬ花を日に当たるように窓辺に置いて、鉢を倒さないように注意深く、夜よりも暗い室内と外を隔てる緞帳を引いた。
スルフォラファン
そ、レ、は、どろり、おも、重く、地を、這う様、に。
濁る、ふ、不透明、な、水銀。
朱金の髪、金砂、の眼、彼を彩る総て、から、何故なにゆえか、誰もが、変わらぬ毒性を認知する、えぐみ。近、付く、べからず。触る、べからず。
一切を。関わる、べから、ず、と。
あまりに強い毒性に頭を垂れて朽ち枯れる。
自我に気付いた時、既に独りだった。
触れるものは朽ち、吐息すれば枯れ、総てが、ぼろぼろになって終わり、崩壊していく。
そんな、よわい、ものものは、いっそ。
すべてすべて無くなってしまえと。
触れるだけで。
吐息するだけで。
滅ぶようなものなら全部無くなってしまえ。いっそ。
――――弱さは、罪だ。
強きに圧され無くなる位なら。
カンタンに、一瞬で、無くなってしまった方が、ラクでしょう?ねえ。
さ・ふん。
生まれて、初めて、聴く、おとが、耳を、掠めた。
裸足で、草を踏みしめる、瑞々しく、軟らかい、おと。
何もが触れる前の、ゆるゆらと揺蕩う湖の水のよう。
淡く、粒子の集まって光る、ような。
まろい翡翠の髪、同じ色の睫毛が縁取る眼は紫黒。ドュ・と不穏に光るような、どこまでも深く濃く透明な紫黒。
無感情な、眼が、真っ直ぐに。射る。
オレを。
ぞ。ぞ。ぞ。ぞ。
胸の下の辺りを、何かが微かに触れたような気味悪さが通る。
これは、何だ。
アレは、何だ。
イキモノ?
でも、違う。ナニカ。
得体の知れない、もの。キモチワルイ。
アレは剛つよい、モノ。そう直感する。
「何だ、一羽の蛾か」
ろう・と腹の底まで強く響くような、コエ。
つまらなそうな。
初めて耳にする、自分以外の、コエ。
ソレは酷く、温度の無い。
さふ、ん。
多く空気を含んだ草がやわらかくその足を受け止めて。
そのイキモノは、くるうりと踵を返した。
え。
まるで、何も無かったかのように。
オレに気付いた癖に。見すらしなかったもののように。
来た道を引き返して行く?
そんなの。…許さない。
いっそ崩してやる。底知れなさなど知らない。
ざあ、あ。ざぶ、と枯れる草を踏み付けて駆け寄ってぐいとその衣を引く。
透ける、薄い、紗の布を幾重にも重ねた衣が、手の表皮に滲む毒で融け………………な、い?
「おお我が君、ここにいらっしゃったか。いけませんのう、何もおっしゃらずに消え去られては。おや?おや、おや、珍しい。蛾の魔人ですじゃの」
ふぉっさり。続いて唐突に現れた、白くて丸い、毛玉が。
口があるらしい部位をもぐもぐ動かして喋った。
ナニコレ。こいつら、ナニ。ナ、ニ。
「宣言しておけば許すのか」
「まさか?」
「だろう」
「とはいえ、わたくしも体の良い言い訳ができまして、まあつまりはああいった諸侯は苦手で御座いましての。抜け出して来た先で面白い魔人も見られ、偶には遠出も良いですじゃの」
「王をだしにするな」
「それはそれは大層な。どやつがなさったので?」
フォフォと笑って転がるように、その毛玉は。
オレの足元でふぉす、と止まり、ちみっこい手をちょんと差し出した。
ソレには、アレが身に纏うのと同じ紗の布の手袋が乗っている。
「その鱗粉の毒、永久ではないぞ。大事に使わねば勿体無いというもの、この手袋を使いなさい」
「……オイ樫ジジィ、それは私の」
「全なる王がケチケチするない」
はふ・と呆れたような大きなため息を吐いて、淡緑のソレはゆったり去って行く。
立ち枯れた木々、茶色く染まったオレの毒の痕を、まるで最初からなかったことのように、ソレが歩いた所から、生命がどうどうと鼓動を吹き返す。
どこからそんな力が。
全てに否定されるオレと違って。
歓迎される、ソレは。
な、ぜ。な、ん、で。惨酷だ。何が違うと、いうのだ。同じイノチなのに。
「スロー学師!ここにおいでで…おやおやおや、珍しい!こんな色彩を持つ蛾がいるとは!」
「イールー、お前さんまで」
「アンは?折角面倒な会を抜けて花見でもしようと甘いものと茶を隠して持って来たというに!居ないとは!」
「やはりそうなのじゃな…ティーセット丸ごととは…ぐっじょーぶじゃの」
「まあよい、居ないものは。そこの!蛾の!折角だ、茶でも供してやるとしよう。さ、ここにお座り」
「敷物も持参か、お前さんその衣の下どうなっとるんじゃ?」
「ポケットが多いだけかな。…どうした?蛾の。おいで、毒など気にするな、そんな程度でこれらは朽ちやせぬぞ」
朗らかに笑う、新たに登場したそれはそれで。
不自然にエグいほど鮮やかな紫の髪と鮮緑の眼。
この手で朽ちさせてきたものとは違う。
弱くない、モノモノ。去ったアレも、コレも、ソレも。
オ、レ、は…独りじゃ、ない?
触れたあの衣に温度は無かったが、融けも振りほどきもされなかった。
ぶわり、ぶわわ。
腹の底で、ずっと遠くに見るしかなかった鮮やかな色が。
唐突にはじける。殖える。
鈍色、錆びて、色少なく平行線だったセカイが。
咲いて。咲いて、咲いて。花のよう。
「ラフ、私の書庫に入るなとあれほど!!本が汚れたらどうしてくれるんだ!呪が解けたら!」
「そんなにカリカリ怒りなさんなってェ。頭ポップコーンになっちまうぜ」
「ならぬわ!トウモロコシなどと一緒にしないでくれないか!!」
「同じ同じ。だって緑の皮と黄色くて甘い」
「ハンモックなぞ掛けおって!ウワアア本棚に傷ううう!!」
(あの日出会ったモノ達が、オレを引き上げた)
シンシャヘルウ
体内に。
大気を、空を、雲を、惑星を、恒星を、宇宙を、昊を、同時進行のまにまにを飼っているのです。
手足に。
喉に。
この瞼の瞬きのひとつにも。
土くれを、石を、硝子を、地層を、堆積した時間を、その下に煮え滾る岩漿を。
ろう・と。うたわせて。
血の躍りが、心の鼓動が、腹の唸りが、骨の軋みが、すべてを舁き鳴らせと煩くわたくしをせっつくのです。
早く、早く、速く、おとに換えてくれ、疾く、誰かに届けてくれ。と。
まるで生きもののように、意思を持って、わたくしに語り掛けてくるのです。
それらは。
とても、とてもじゃないですけれど、わたくしめの手に負えるようなものではないのです。
全なる王の様に、存在、そこに在るという事だけで印象強く、心の底を箆で引っくり返す様な、数多の指と鋭い爪で握り潰すような。
引力がある、もののように。
力強く、絶対。
王よ、あなたさまは途方も無くうつくしい。
このか弱い竪琴で、如何程のものをお届けできましょう。
それでもよいのなら、この魔生尽き果てる迄、わたくしは、此の世の楽を奏でましょう。
針の落ちて大理石マーブルに弾かれるような、固い蕾の綻ぶような、ひきりと悲鳴を上げる深い氷壁のひびのような、長い睫毛の、瞬きの、微かな歓声を、わたくしは世へと遺おくりましょう。
「美とは」
「…また、貴方ですか」
「大きな羊と書くでしょう。贄には、最も"美しい"ものを、と。古人は考えたのだろうねえ」
呼んでもいない、蛇が。
わたくしの忌む無音を連れて、侵入り込んで来ておりました。
同時に、先割れの蛇の舌が語るそれは、わたくしが此の世で最も忌み嫌うもののひとつでありました。
学と共に楽も嗜む彼の南瓜様も毛嫌う蛇は、くつくつと喉を鳴らして笑っております。
楽院は朗らかで庭もきらきらしく、いつも楽しげに光っておりますが、この招かれざる客の存在ひとつでまるで全てが突然の厳冬に息を潜め、災厄の過ぎ去るのを忍ぶかのように沈黙を守っています。
面白いのは本人ばかりなり、と、言えたらどんなに良いか。
楽院は、彼の蛇の指揮する監査の元に跪くように出来ております。
美術と工藝は全て彼の思うままなのです。
無論、このわたくしの身ひとつですら、彼の意に沿わねばぽんと王宮を追われるくらいには、楽師のひと魔には憐れな程、絶対的な存在であるのです。
生業として楽を嗜む者の出番はそうそうありませんが、しかし無くもなく、其々に王宮より独立した学院や軍部とは違って、楽団は他の何よりも立場の弱い所にいるのでした。
「君はどう思う? 美しい"モノ"について」
「恣意的です」
「だけど、真理だろう?絶えず変化し、ひとつとして同じものはない。それを君なら、識っていると思ったんだけどなあ」
「変わらない美しさは全なる王の…み……貴方、まさか、」
「フフ、帰るよ。またね」
緩やかな時の流れは、しかし我々魔人には堆積しない。
朽ちるのは物ばかりで、庭の花は枯れ、葉は落ち、自然と生命が静まり返る時もある。
種の短い生死と生殖を繰り返すシステムは下界と同じだが、その超常的な自然は下界のそれとは全く異なっている。
"その中"にある完全なる不変、それは。
唯一つ、全なる、王の御身。
まさか。まさか。
王の身を犠牲に我々の不死が在るのだとすれば、それは、なんて、なんて…。
どうして。
考えれば考える程深みへ墜ちていく。
確かにそうだ、魔物として"代替わり"があるのは王だけ。
我々は一代限り、寿命はないが、厳密には死亡がないわけでなく、猫の様に姿は消す。
此の世で現実的に唯一崩御する、王だけが。
そんなの。いやだ、!
犠牲の上に成り立つ自我に一体どんな価値があるというのか。
竪琴を置いて、ふらり、覚束ない足取りでわたくしは部屋を後にした。
こんな、こんな事実に気付かせて、あの蛇はわたくしを如何したいのか。
色鮮やかで賑々しい楽を、私が紡げなくなるのを観て愉しむつもりか。
くそ忌々しい。
胸糞悪い。
この心持ちどうしてくれよう。
一度気付いてしまったことを忘れる事など出来るはずもなく、しかし気を紛らわすしかないということでもあり。
ああ、本当に、あの蛇は。
ろくでもない。
ベルルシャローム
どぼん。
透明な青い翅がびびびびぶぶぶと小刻みに震えて視界を全て染め上げていた。まるで美しいごみ箱の底から天を仰ぐ様。空の青とも海の青とも違うどこまでも透明で奥行き深い程強く透ける不透明が幻想的な風景。それにしてはびびびびびぶぶぶぶぶ永続して終わり無く煩いけれど。翅の振動が大気を揺らして耳鳴りがして、大量過ぎる虫の羽音が近過ぎてそろそろ頭がおかしくなったのか地鳴りにも聴こえてきた。びびびびびぶぶぶごごごごご。びびびびごごごぶぶぶぶぶ。死の世界が例えば存在したとしたらこんな感じなのかなとぼんやり考える。混ざり合わない夜空の藍に空の青と海の青と水の青と雪の青と花の青に静脈の青も加えてマーブルにして美しく死んで破裂する。帰依往く様なささやかな死とは真反対の喧しくて騒がしく盛大なものなのじゃないだろうか。誰かの泣き叫ぶような声が聞こえるような気がする。ごみ箱の底で。そうっと最期のひと呼吸をぶくぶくと泡にして吐いて大気に溺れて。虫の羽音に掻き消されて。びびびぶぶ。ごうんどらう・と分厚いプロペラが雲を切る音にも似た、酷い頭痛。死んだ後も煩わしさからは開放されないのかな、なんて苦笑が漏れた。それから。まるで宇宙空間に一定の推進力を持ったまま永遠に減速しないでずうっとどこかへとランダムに楽しそうな螺旋を描きながら進んで征く、青い死。死は持続するものなのかなあとどこか醒めた気分で吐息したつもりでなあんだ、と思った。つまらないじゃないか、死んでも。生きていても。然程変わらない。死にながら生きているようなものだ、魔人なんて。魔なのか人なのか、物なのか。ヒトのカタチのモノじゃないのかな。無い物ねだりの愚かしいナマモノであった方がまだつまるものもあったかもしれないのじゃないのかな。永延とこんなつまらない孤独を抱えていなければいけないのが生きるということで、それらを手離すということが死ぬということなら、凡てがどんなに無意味と化すだろう。懸命に生きて、考えて、悩んで、選んで、捨てて、遺してきた凡ては清算されて最期遺るのが自我だけなら。それさえも死した後に消えるだけなら。その生の足掻きや死の経過は何かを成したと言えるのだろうか。生きるのも、考えるのも、悩むのも、選ぶのも、捨てるのも、残してきた総ては膨大な言葉を詰め込んだ辞書の何処かのたった一文にも満たない微かな出来事じゃないかと思って深くため息を吐いた。死んだからといって価値は深まらぬ。ごぼごぼと溺れていく。きらきら光る水面に僅かばかり手を伸ばしたのはー…、無意識?永い死に諦めもついたくせにまだ意味もなく生命を足掻こうとするのか、この肉体は。この諦めばかりの精神を宿すには幾分か健康過ぎるじゃないか。心体が不合致過ぎていっそ笑える。そして。伸ばした手は、誰かが取る。いつも。必ず。
「まだ死ぬな、早過ぎる」
「………っが、は!おえっ」
「焦ったじゃねえか、部下の死ぬところなんて見たかねえよ」
冷ややかに燃える金と薄氷の瞳がこちらを見降ろしていた。水に浸けて濡れて重い衣きぬ、この水が持つ恐ろしい力を知る。身体まるごと浸して眠るように死ねたのかもしれないけれど、ざば・と身体と衣にまとわりつく水を振り落とすように、力強い腕に引かれるまま身を起こした。垣間見た煩く永延と続くあの青い死の幻想は夢でも幻でも無く単純にこの泉の命の形だったのかもしれない。そこに同化していたかもしれない、私も、たったひとつ、植物の端くれとして。ああ、混乱。まだ死ぬことは叶わない、いいえ、寧ろ永延に叶わないのかもしれないのじゃないかな。魔族の生は擬態で、本当は生きてはないのかもしれないと思う。けれど、泉に意識を溶かさなくてよかった。擬似的な死なのだったとしても、そこに甘んじなくてよかった。私を引き上げる上司の、私のそれとは比較など出来ないくらい上質で貴重で稀な素材の袖口が、私の為に濡らされたのだと思うと。まだ、始まってさえいないのかもしれない、或いは既に終わっているのかもしれないこの魔生を己の独断で終わりには出来ないなと思った。あの青い生命みずは魔を喰らう力を持ち。そして或る状態をそのまま固定して終わらないだけの死の安寧は確かに、まだ早い。すみません、と水と共に吐いた息で謝ると、冷ややかに燃える金と薄氷の瞳がやわらかく揺れて、まるで赤子をあやす様に私の肩を叩く。何故だか、どうしようもないくらい胸の底がぎしぎし唸って、食いしばった歯の隙間から、再度、すみません、と溢した。
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