不変の空殻
ルースエテメナンキ
とてつもなく広いけれど同じ程とても狭い、この魔界という世界で俺の看るこの監獄ほど無駄なものは無いな、と永年思っている。
何故なら、明らかな罪人など滅多に存在しないし(大抵は、永い魔生に於いて裁かれるべき罪を犯す事の愚かしさを、皆知っているし、逆に犯すならばと大罪をして直ぐに処刑されるかの何方か。或いは、盲目的な王への信仰や畏怖から、そのような事を行う勇気は無い。)、監獄とはいえ優雅なもので、不粋で醜い鉄格子や有刺鉄線などは存在せず(有刺鉄線などあったところで、魔力を縛るより有効な鎖など無ければ、逆に魔法で縛らない魔人に有刺鉄線の効力など高が知れている。)、むしろ貴族級の魔人の屋敷なんかよりはよっぽど豪華で美しい城塞だった。
一応この世界では、人の世にあるような裁きのルールなんてものは無くて、それは何故かというと、世界そのものが魔王を中心として成り立っているから、魔王が悪といえば悪、善といえば善となるわけで。
時の魔王がアタマの悪い奴だったらと思うとゾッとする。
魔王は、神と同義だ。
そんな大したものでもないけれど…でも今回の魔王は、あれはあれで、…まあ良くはないかなと俺個人では思うなあ。優し過ぎるというか、無関心過ぎるというか、まあ、俺の知ったことではないか。
魔界全土からその崩御と同時に次王が立つ迄の間に緩やかに滅失する前王の情報は、集約されて此処に集まる。この監獄が収容するのは、罪人ではなく前時代の遺物。それらの一切が此処に幽閉してあり凡てが門外不出であり、そして同時に、一切を管理する俺も此処からは出られない。
世界で一番複雑な呪術に依って、ここに縛られている。全く、狭い世界。
表向きは罪人を裁く為の、庇護し贖罪の為に囲う目的で在る監獄だけれど、その実は前時代の歴史や遺物を保護し隠蔽する為の施設だなんて誰が思うだろう。
まるで前王達の軌跡の全てが罪だとでも言いたげなシステムだな、と考えない事もない。しかし、この監獄で何を囲っているのかというのは全魔界の魔人たちに聞き尽くしても"知らない"と云う。そのように世界は成っている。
呪術に囲われたこの敷地の中でいくら外に持って出ようとあらゆる前王たちの史実を憶えても、門を出た瞬間に奪われる。文字に記したものも、形の無い、記憶ですら。魔力の形が見えぬように、呪いは全てを網羅する。物質も、非物質も関係なく。
そしてこれらを保護し保存する事に何の必要があるのだろうとも考える。答えは当然、出ないままだけれど…。
けれど、同じ毎日を延々、終わりなく続けるのは然程苦ではなかった。城塞の在る狭い敷地内しか知らずとも、生きてはいける。そしていつか死にもする。
この城塞を訪れる皆が口を揃えて云う。こんなにも美しい庭に小妖精がいないなんて、と。小妖精。当たり前のように、瑞々しい草葉の影に隠れている小さな生き物らしい、というのを識ったのも、もうずうっと前のこと。
世界中に存在しても、ここにはいない。
この城塞、牢獄の揺るぎなき主として在るというのに、世界中に当たり前に存在する小妖精を一度も見た事が無い。これからも、それを目にすることはないまま、俺は死を歓迎するのだろう。
魔人たちが当たり前のように毎日を享受する中に存在するものが、俺の生活の中には沢山欠けていた。だけど、世界中の誰もが持つものを持たずとも、俺は世界中でただ一人、あの全なる王でさえ持たぬモノを持つ事を許されていて、持てぬモノをも持っている。その為の存在でもある。だから、いい。
日が登り、沈むまでの間に三周出来るくらいの狭い敷地が俺の全世界でも。この中は全てに充ち満ちているから。小妖精はいなくても、草葉が露を落として音を奏でるし、手を掛けている果樹は季節になればたわわに実を垂らす。風が吹けば樹々も唄うし、時折敷地の外で鳴く鳥の声だって聴こえる。
逆にいえば、そうだな、神に等しい全なる王、彼の手に入らぬ世界を、俺は永劫与えられている。この敷地の中だけは、凡ゆる彼の支配を寄せ付けない。それに、何の反撥や不満があろうや。この敷地内は不可侵の場所。
魔界のあらゆる権力や規律や理の全てを拒否する。この敷地内のヒエラルキーでは絶対神は俺、その他はそれ以下。全なる王でさえ、この中では唯の魔人。それも、俺が出迎えなければ、何人足りとて門より内側には踏み込むことすら叶わない。
永い時間を、此処で過ごしてきた。一日、一日と時が嵩む程、日毎に数えるのが億劫になって、まるで世界中でただ一人だけ、自分だけには時間の経過は存在しないのではないんじゃないかなあ、とさえ思う程、時間という概念から、この世界は遠い。
外界たる魔界と、この敷地内を区切る一枚の壁と門とがあるだけで、その同じ青い太陽や滅多にない夜は共有しているものなのに。まるでこの世界にはこの世界の太陽や、夜や、星や、黄昏や、早朝、様々な季節や、空気感が独立してあるようにさえ感じる。そんなわけはないのに。
それ程までに、"隔てる"という呪術は強力かつ窮屈なのだろうな、という事なんだろうけれど。だから、此処には、俺一人で十分。他は要らない。数日滞在したつもりが、外の魔界では何ヶ月と経っているような時もあり、即ち、この世界では魔人が自我を得て生まれ、自然と共存して生きてきた時間という感覚が喪われてしまう為、此処に骨を埋める気の魔人以外は、こんなところに来させるのは、かわいそうだ。と、常々思っているし、魔王やその近辺や王の城に巣食う老獪共にも散散伝えて来ているのに、興味の無さげな王は兎も角として、老獪共は納得しない。
微かにながら前王時代を知るものは、その時代の事物が表へ出てこないように見張りを立てたがる。前王時代に犯した罪でも恐れているんだろうな、と思う。俺がそれを暴露するのを、恐れているのだと。馬鹿だな。この敷地の外へ出てしまえば、前時代の全てのものは奪われると言っているのに。言葉など、信じられないのだろうな。
使い古された信頼とか、そういうものに、価値を見出せないのだろうな。薄っぺらの、刹那的な、無価値なものにしか、思えないんだろうな。年を食う程、周りを怖れるのは愚かな事だ。明るみに出て困るような事を、しなきゃ良かったのに。一生表に出ない彼らの罪悪の為に、何故誰かが俺の見張りとして犠牲にならなければいけないのだろう。
かわいそうだから、いつもすぐに返す。痛みは少ない方がいいから。数日滞在したということを、今迄の実績に照らして外界では数ヶ月や数年と数えることに罪を覚えはしない。そしてまたすぐ新しい誰かが、派遣されてくるのだけど。まあ、長い旅行だとでも思ってくれれば。…そう都合よくもいかない事も多いけれど。そういえば、あのコはどうしてるだろう、うまくやっているのだろうか。
「何をお考えですか」
「お前が来た日のこととか…思い出してた。こんなに長い付き合いになるとは思ってもいなかったよ」
「それは私もです」
「だよね。でも、…うん、嬉しいよ。独りはやっぱり寂しいんだなっていうのがわかって、嬉しい」
「いい加減長い付き合いですし、この際だから聞きたいのですが、貴方一体何の魔人なんです?」
「あれ、言ってなかったっけ。ギベオンだよ。鉄隕石」
「ああ、道理で」
「なんかやだな、その納得のされ方」
「自然な魔人っぽくないですから」
「それ誉めてないね」
「そうですか?」
「でも貴金属同士、仲良くやろうね」
本当に。こんなに長い付き合いになるとは思いもよらなかった。
此処に骨を埋める気なの?イオ。
それなら俺は、花を添えよう。お前の為に。
不便極まり、退屈極まるこんな所にずっと、その気持ちひとつで此処に居る事を選択してくれたことへの感謝として。あおい紫陽花を咲かせてあげる。
ありがとう、言わないけれど。ずっと感謝してる。生きてるって、俺に実感を与えてくれてありがとう。大好きだよ。
ジルファイオル
全く、難儀なものだ。
軍部の所属であった私はある日から王命により魔界唯一の監獄へと異動を任ぜられた。
まるで世界を隔てたような距離、意図的に隔離でもしているのだろう長い距離を旅して来て、ようやっと到着したそこには、とても旧い、私の短くはない魔生でも見たことのない建築様式の美しい城塞が庭園の奥に聳え立っているのが見えた。
私の背丈の何倍もある淡い金色の観音開きの門の内側。
ゆるゆると歩いてやって来た、その人は、このような僻地に在るには勿体無いとさえ思うほどの麗人であった。
門には近寄らず、私の脚でも十歩ほど距離をおいて彼は止まり、目を合わせてふと与えられた微笑みに、迂闊ながらほろりと心が溶けるような思いがした。
魔人は皆、余程でなければ見目の整ったものが殆どだが、彼(或いは彼女)の美しさというのは、世で唯一の全なる王に負けずとも劣らない程で、歩く度、ひるひらとその身から光の粒子を散らすような。異質感。
しかしながら、儚さとは無縁の、線は細いが強い存在感があった。
「監視など要らないと重々に言っているのになあ」
はふ、とため息を吐いて彼は遠くで小声で言う。
普通なら聞こえなかったであろうそれは、私の耳には届いてしまった。
それから、すうと指先を此方に向けると、こしゃん、と軽い金属が落ちる音がして、門の鍵が開いたのだと気付く。ひい、と鳴いて微かに門が口を開けた。
「悪いけど、俺はその門に近寄れないし、触れられないから、自分で開けて中に入って。内側から鍵も閉めてね」
「……あの…?」
「なあに、出迎えが少なくて不満?」
「あ、いえ、そんなのは構いませんが…」
「…?」
こて、と首を傾げた麗人は、城で散々聞かされた噂の人物像を大きく裏切るものだった。"何"の魔人なのかは本人に聞く以外には見た目でわからない、ということだけは、合っているけれど。
大体が会った時、ああ此奴は植物だなとか石だなとか、まるで生まれつきに持っている知識の引き出しを覗くが如くわかるものなのに。正体は不明なものの、鬼か妖か、アレは存在を抹消すべきと云われ呪われるような人物には、見た目では到底思えなかった。
立ち尽くす私を、じつと見つめる天藍色の瞳。
それが、鈍く、きろりと光った。
「ああ、都での俺の噂を聞いて来たんだね。何を驚いているの? こんな見た目だけど、あれらは強ち間違いではないよ」
お茶くらいご馳走するよ、と言って踵を返して庭の向こうへとその人は戻って行く。
慌てて金の門を押し、その敷地へと踏み込んだ。
とふ、ん。門を跨いだ瞬間、とてもやわらかな水の中へ入ったような感覚がして、緩慢な程ゆったりと歩くその人の後ろへ追い付くと、ちらりと視線だけ寄越して私を確認する。
とても、穏やかそうな人だった。
監獄というネガティヴな場所には到底似つかない。魔界唯一の監獄(とはいえ、それにさえ見えない場所の)、その所長とは思えないくらい。
軍部の長、あのクトゥリウォオフ様が「可能な限り会いたくない相手だ。悪いな、お前をそんな所へやってしまって」とおっしゃるくらいだ、どんなにか酷い場所なのだろうと思ったが、全ての想像は目の前の現実に裏切られた。
ここはまるで、王の別荘と言っても差し支えない程、あらゆるものに満ちている。芝生は刈り揃えられ瑞々しく、庭園は草木や花、香草に溢れてどこを見てもバランス良く整って、キラキラしていた。
しかし、その鮮やかな草葉の影を好み絶対という程潜んでいるはずの小妖精や、虫の類が一切居ないのは、変だと思った。
「此処は…魔界であり、そうでない所だから。小さく弱い生き物は、どれも存在出来ないんだ。俺の他には、生物は何もいない」
まるで私の思考を読んだように返事を寄越すその人は、今はお前がいるけどね、と小さく笑って続け、それからどうぞと城の門扉を指した。
おかしなことに、扉も窓も、およそ開閉するものは全て、開け放たれているまま。何か意味でも、あるのだろうか。
天井の高いホールの中央には丁寧に織られた模様の見事な絨緞、調度品は重々しい飴色で、どれもパッと見た限りでは王都のものよりも上質に感じる。
此処が監獄などとは、世界がひっくり返っても誰も思わないだろうと思えた。一体、何の為に、こんな場所が?
「聞きたいことは聞いて。お茶いれて来るから、そこの部屋で待っててくれる?」
人がいないから、ごめんね。と言ってからやはりゆったりと歩いていくその人は、特異に逸脱した私の聴覚でも聞き取れないくらい、微かな足音もしなかった。
衣擦れの音だけが、しゃらしゃらと、さざれの水晶を混ぜるようなそれだけが聞こえる。
魔界の現代からは外れた存在なのは、この城塞やあの人そのもの、この敷地自体が特殊な何かがあるのだろうということはわかる。
けれど、何がこの違和感の原因なのかまでは、はっきりしない。モヤモヤした何かが胸の下のあたりに渦巻く、気持ち悪さ。これが、無くなることは、あるのだろうか。
「お待たせ、座ってくれて良かったのに」
「…私は客では無いですから」
「あらそう、良い心がけね。でもこの敷地内では、魔界の全ての規律や不文律、約束事、条理、世界の理の何もかもが意味を成さないんだけど、まあ取り敢えず座りなよ。…それに、俺は王都から来たお前を部下として認めないし、そもそも罪人のひとりすら幽閉してもいないのに部下なんて要らないし。王宮の老獪共が形式上だとしても誰かを置いて俺を監視したいだけなんだと思うけど、この地に呪われ縛られていて、あの全なる王でさえその呪縛を解けやしないのに、何故俺が逃げ出さないか見張る必要があるのかな。不合理だよね」
「貴方は"何"なんですか?」
「それはどの質問?俺が何の魔人なのか?牢獄や魔界の"何"なのか?それとも、」
「全部ですよ。私も納得してのこのこと此処へやって来たわけじゃありませんから。話して下さい」
「あらあらそれは大変面倒くさい質問だね。この世界の成り立ちと歴史の有り様から全部説明しなきゃならなくなる。お前の一生では足りないよ」
「城での貴方の噂が、貴方が言ったとおり強ち間違いでないということを今実感しています」
「そうだね、本当に………残念なことだね。お茶を飲んで何日か休んだら、大人しく王都へお帰り。書状はしたためておくから。此処には本当に…哀しいくらいなんにも、することがないんだ。する仕事も無いし。ああ、ホールの階段を上がって右手側にある、二階の青い壁の部屋、好きに使って。来客がおよそ必要とするものは全部揃ってるから」
柔和な口振りのくせ、有無を言わさない強い物言いに呆れ、この日は大人しく充てがわれた部屋に退散する事にした。
城塞の中は魔法でコントロールされているのか、塵ひとつ見当たらず、部屋も今しがた掃除したばかりのような清々しさがあった。そしてやはり窓も扉も全てが開け放たれていて、これに何の理由があるのか聞けば良かったと思った。
ただ、迂闊に触れてはいけない気もしたので開け放たれたままで過ごした。不思議な事に、気持ちの良いそよ風は入ってくるが、外の樹々がごうごうと揺れるような強い風は一切入って来ない。何かの魔法が掛けてあるのかもしれなかった。
夜が来ないのは王城と同じ。
代わりに重たい光を遮る緞帳が窓にあり、それは左右に引くタイプではなく紐でするすると落ちて来る初めてみる形だったが、部屋を暗くすると直ぐに眠くなって、ベッドに横になった。
魔人とはいえ疲れないわけでもない。ここまでは本当に長い道のりだったなと王城を出てからのことを思い返しながら、眠りに就いた。
***
イオと彼の邂逅の話。
ディオネアティアーレ
「おやおや珍しい、子供が紛れているなんて。フュリドフェルト監獄有史以来初めての事だな」
その、ひとは。
まっくらやみのあたしのセカイにとうとつにあらわれて、ヒカリをもたらした。きらきら、夜の星のようにヒカリを撒き散らす、きれいなひと。
草葉の影で蹲っていたあたしを、どうするでもなくすぐそばに座って。
雨に濡れた草葉の露が、汚れひとつない、うすらと虹色を反射する衣に次々とすいこまれていく。
まだ、晴れた隙間から霧のような雨露は注がれ続けているのに、そのひとは。
何を言うでも、するでもなく、ただただ、そばにいてくれた。
時々鼻歌を歌って、かすかに聞こえる唄声もきれいなんだなと考えていたら、胸の中に抱えている暗闇が襲ってくる感覚を少しだけ忘れられた。
あたしはなんなの。
この胸の中の暗闇はどうしてあたしをたべようとするの?
不安に咽ぶように、けほこほと咳をすると、柔らかな草も牙を剥いてあたしの頬を軽く切った。ここはどこなの、あたしは何なの、どうしていけばいいの。
何も、何もかも、わからなかった。
後に、あれが「魔族の誕生」なのだと識ったけれど、あんなに恐ろしい思いをしなければならないなら、産まれて来たくはなかった、と、今でも少し思う。
突如として存在を余儀無くされた「自我」が、己を誰だとか何だとか知る前に"世界"が迫って来る、あんな思いは。二度としたくない。
「おはよう、気分はどう?」
ゆったりと伸ばされた冷たい手が髪を梳く。蹲ったあたしの頭と、首の後ろと、それから背中をゆっくり、ゆっくり、撫でてくれた。
それはまるで、生まれて来たことを許されて、いっそ歓迎され喜ばれているのだと錯覚するほどに(あの方は、そこまで、優しくはない。)暖かかった。
その手の実際の温度はイキモノではないみたいに冷たくても、暖かかったの。お日さまみたいに、燦々と降り注ぐヒカリだったのよ、あたしにとって。
漸く、自分と他人との区別が付く。
話しかけているのは誰かで、話しかけられているのが自分なのだと。
触れられた手から、掛けられる声から、少しずつ、セカイを知り始めた。
「どうしよう、よっぽど特殊な生まれの魔人でなければ、通常は発見者がその魔人に名前を付けてあげないといけないんだけれど」
さあ、起きたならこちらを見なさい。お前の名前を考えようね、と再度梳かれた髪が、ぱらぱらと背に落ちた時に初めて、蹲った体勢から顔を上げた。
その手と声色の暖かさを裏切る、冴え冴えとした見た目のひとだった。
衣が汚れるのを気にもしないで柔らかい布で包まれる。
そうっと大事に大事に抱き寄せられて、視界が高く伸びた。そのひとがあたしを抱き上げて、来た道を戻る。
草葉がまるで避けるように細い道を作っていって、それを追うように薄暗く靄に紛れた城塞へ戻って行く。
室内はどこもかしこも開け放たれたままでとても寒かったけれど、そのひとは、暖炉の前にあたしを置くと自分の衣を変えてから色々なことをしてくれた。
あたしを包む布を剥がして別の衣服を与えてくれて、しとしとと雨粒を吸い込んだ髪や肌をふわふわの綿でぽふぽふ叩いて拭ってくれる。
毛皮の敷物を敷いた上に分厚いクッションを幾つも置いて居場所を作ってくれた。それから、きらきら輝く氷の粒の混ざった水を飲ませてくれた。
ひとつひとつを鮮明に憶えている。それを、人の世の数えで何百年と前の事となっても、忘れない。
革張りの本を持って来ては積み上げて、広げて閉じてを繰り返していた。
何も話さないまま、暖かな暖炉の前で焔の燃える音と紙の頁の捲られる音だけ聞いていた。
扉や窓は全部開け放たれているのに、不思議な事に、外の雨の音は一切聞こえず、また、雨の冷気が侵入してくる事も無かった。
「蠅取り草の魔人だとわかるように前名はディオネア、それから、あの植物は女王の宝冠と云われる事があるから、後名はティアーレにしよう。ディオネアティアーレ、それがお前の名前だよ。大事におし」
与えられた名前はとても美しくて、気に入っている。
大人になる前にそこから王都へ引き取られた。あれ以来、あの人には一度も会っていない。あの人は、あの場所から、一切外に出られないのだと知ったのは、王都に来て随分経ったあとだった。
大人になって、軍部では精鋭の中に上り詰めた。そこから選ばれる、最果ての監獄の副所長(という名の生贄)に我こそはと上司にも言っておいたのに。
あの方のお側へ、戻れるならと、これほど賑々しく煩く不快な軍部の中でやってきたというのにどうして。望まぬ人物がそこへ飛ばされ、望んでいたあたしが取り残されるの。
がん、と打ち付けた手甲がみきりと修練場の柱にヒビを作る。
まだ寒さに霧が立つ程の早朝、いの一番に修錬場へとやって来た銀の鬣を持つ狼に視線を飛ばした。
「そう怒るな、ディオ」
言いたい事は解る、と言ってあたしを宥めに掛かる軍部の長に。
棘のある手甲を両手でぶつけ合ってがちがち鳴らしてから飛び掛かった。
掛ける言葉は無いし、あたしには発せられる声も無い。
明言して約束したわけじゃなかったから、今回の異動が希望通りじゃないことは仕方ないとわかっている。けれど、だからといって納得出来るわけじゃない。あたしは、まだ子供なのかもしれなかった。
「あいつの数少ないオネガイゴトなんだ、聞けよ、ディオ。本当は誰一人要らない、しかし寄越すのであればお前は寄越すなと名指しであいつが言ってんだ、わかってくれ」
知ってる。あのひとが、優しいだけじゃないってこと。
短い期間に、おとぎ話のように語ってくれた物語は、私が声を持たないから話してくれたのだということや、魔人としてあたしが発生した場所があの人の元であったということ、諸々の理由が特殊過ぎて。
ずっと、想像もつかないくらい長くあの城塞で独りでいるあの人、ルース様が、あの寂しい場所の犠牲になるのは自分だけで十分だと、考えているのだろうことや、短期間であれ可能な限り慈しんでくれたあたしをそんな所へまた閉じ込めないようにとそう言ってくれているのだということも。
わかっているの。
だからこそ、今回あの寂しく美しい城塞への異動が決まったのが、あたしでなかったということ。わからなくないの。わからなくもないのよ。会いたかっただけなの、本当は。会いたかっただけなの…。あの人に。会いたい。
「お前の世界を狭めたくねえんだろ、あそこは残酷な場所だが、全てに充ちた楽園でもある」
何という言葉で取り繕っても、異動が決まったのがあたしじゃなかった。それだけは確か。
それだけわかっていたら、この胸のモヤモヤを怒りに変える事が出来る。あの人は親じゃない、何でもない。
大人として認められるまで育ててくれたわけでもない。
名前をくれただけ。
でも、愛してくれた。声を持たないあたしをそのままで良いのだと全部まるごと許して、喜んでくれた。
だからただ、会いたかった。
それだけなのに。簡単に会いに行ける場所でも無い。
行って帰ってくるだけで人の世の半年程かかる。その間仕事を放っていると、流石にまずいし、情報の方が足より早い。そんな事をするあたしをあの人は迎えに出て来てはくれないだろうし、つまりそれは、あの敷地へと踏み込む事すら出来ないという事。
簡単に会える人じゃない。あの人のいる所は、遠過ぎる。
(ディオ、お前近接戦も強くなったな)
(………)
(スネんな、またチャンスは来る)
シエレンファ
あの時、わたしは、わたしを自覚した。
薄く濁る浅い池の端で、泥の中で一生懸命根を張り広げている蓮の花の中で、唐突に。ここは、どこだろう、寒い。と、思って見上げた空は今にも降り出しそうな様子で暗く灰色に沈み込んでいた。
そこに、銀色が差した。それはとても、幸福な出会いだったと思う。
黒鹿毛の巨大な馬を操っていたのは、立派な鬣を持つ狼の魔人。
わたしは、彼が、どうやらただならぬ人ではないかとうっすら気付いたけれど、この世界に唐突に投げ出され、唐突に自分を知った今、一切何もわからない身の上に混乱するのが先で、そこまでは、考えられなかった。その当時は。
けれど今は、少しくらい、時間が戻せるものならば、或いは、過去に声を届けられるならば、そう、少しくらい、その方がどんな方なのか少しでいい、考えて。と、切に伝えたい。
その人は、魔界唯一の全なる王の身を護る絶対の刃。
わたしが名を頂くにはあまりにも、偉大すぎる人なのよ。と、過去に言っても仕方が無いのはわかっているのだけど。
蓮の幼生か、仕方ねえ。彼の方はわたしを見てそう言って、とても上質な布を惜しげも無く使った外套で水辺から引き上げたわたしを包んで馬の背に乗せた。
かぽかぽとゆったり歩く馬の背で、ぶ厚い外套に包まれて寒さの遠退いた後、わたしはすぐに眠ってしまった。
初めての世界、初めての他人、初めての乗馬、何もかもが初めてで、とても疲れていたのだと思う。
次に目を開けた時、目の前には荘厳な城塞が美しい淡い金色の門扉越しに見えた。然しそこは、何故だか、とてつもなく寂しげにも見えた。
立派なのに、どこか、儚げな気配がする。
その城塞の足元にちろりと白いものが見えて、それは徐々に大きくなって。漸くそれが、また別の誰かなのだと気付くのには少し時間が要った。
門まであと十歩程の距離で止まったその人と、わたしを支えるこの方の間にひりりと乾いた緊張が走ったような気がする。
しかしそれはすぐに、門の内側のその人のため息によって打ち消された。
「俺の城は託児所じゃないんだけどな、クトゥリウォオフ」
「拾っちまったんだから仕方ねえだろうが」
「大変ねえお前さまも。神は優しくないというか。フハッ!何か、…イケないモノを見てる気がしてくる。笑わせてくれるなよ、幼女趣味とか」
「違えよボケ!!早く入れろ」
「鍵ならもう開けた。足踏みしてるのはお前の方だろう?」
身体の大きな狼と較べると、小柄ながらしなやかなその人はわたしたちが門扉を越えるより前に踵を返して細い道を戻って行く。
その背を追うように、馬の背にわたしを残したこの方は手綱を引いて門を押し開き、その中へと踏み込んだ。
すぐに温かい部屋へと運ばれ、わたしは暖炉の前の毛足の長い絨毯の上へと転がされる。肌や髪に滴っていた池の水はすっかり乾いていたが、同じ銀色なのに全然違う色合いの館の主から温かい湯と手巾を与えられたので有難く受け取ってそれで身を清めた。
「ディオ、手伝っておやり。お前の服も貸してあげなさい」
「…………」
お湯を持ってきてくれたその人の背に隠れていた子が顔を覗かせて、こっくり大きく頷くと、その子はほてほてとわたしに近寄ってきた。同じくらいの年の頃で、きっと、"幼生"と呼ばれるわたしと同じ。
大人の二人はソファに向かい合って何やら深刻そうに話している。
わたしの長い髪を、もうひとつ持ってきた手巾をお湯に浸し、毛先から丁寧に拭ってくれるその子は、ぞっとするような眼をしていた。どろりと濁る粘膜のような濃い赤色の中に、瞳孔が幾つも並んでいる。
どこを見ているのかわからない。けれど、その手つきはとても優しくて、穏やかで。きれいにされた髪を今度はブラシで梳いてから、かわいく編んでくれた。
その子の頭もかわいく編まれていることから、この子もあの人にそれをしてもらったか、教わったかしたのだろう。
「あの…ありがとう」
「………………」
眼を見て言うと、す・とその目を細めてこっくり頷く。
「ディオネアティアーレ、この子の名だよ。宜しくしてやってくれるかな?声がないんだ」
使った手巾を片付けに離れたディオネアを見送って、その人を見上げる。
藍とも青とも紫ともつかぬとても深いあおいろの瞳はディオネアの瞳の中の複眼よりもゾッと肝が冷えた。それには、触れては、いけない。と、直感的に悟る。
あとから、その色が天藍色てんらんしょくと呼ぶのだと知った。王の御髪と同じで、それその人の一個体にだけしか存在しない、柱のあかしの色なのだと。
戻ってきたディオネアは何か問うようにその人を見上げたが、ふか色の瞳はまだわたしを見ていた。
ゆったり緩慢に瞬いて、それから腰にまとわりつくディオネアのみどりの髪を撫でつけ、二人が何か言葉を交わしたわけじゃないのに、ディオネアは承知したといった様子で、暖炉で暖まって新しい衣に袖を通したわたしの手を引いてその部屋を出た。
「あの子を連れ帰ってくれるの」
「無論だ。その為に来た。オマエが嫌だと言っても連れ帰る」
「……そうだね、良かったよ」
幼生二人が部屋から出て行った後、そいつはソファに戻るなり俺に問うた。
同時に何が良いものか、と思った。こいつは、いつもこうだ。何も拒否せず、ただ、目の前の現実だけ受け入れるフリで何をも、ものともしない様子で。
魔物の生きる時にしても何百何千と独り、この何もない狭い城塞の中で、一切他人を欲しない。
それを俺はオカシイと思う。魔物の心すら無いのかと不思議になる。少しも、寂しいとか悲しいとか、一人は嫌だとか、思わないのかと。
だけどそれを聞くのは、とても、残酷だ。聞いたところで、きいてやれぬものだと分かりきっていた。
「憐みは要らないよ。腹が立つからね」
ひう、と腹の底に冷気が差し込む。
その冷たい声は、まるで魔王の絶対服従の呪を含んだ命声と同じ。
天藍色の瞳は鉄の様に重く、冷たいが、その奥に何を思っているのかは見えなかった。あーやっぱ、俺はこいつが嫌いだな。
「…。名を、与えるのを、長く、躊躇した…。あの子も、お前も、あの門を超えたら、俺の与えた名など、忘れてしまうかもしれないと……この地で、俺がつくったものなど、お前たちの世界では、存在できないのかもしれないと、考えて」
仮にそうだったとしても、良かった。むしろ、そうであれとすら、思った。
あの子は二度とここへは戻って来ないし、来れない。
あの子が後々に名付け親に会えぬと泣くくらいなら、いっそ皆がきれいに忘れ去ってくれていた方が幾らかマシだろう。
僻地に在する俺より、中央に在するこの狼の方が、名付け親としては、まだ。その方が。俺の中にだけ、与えたその名が遺れば。
短い、時間の記憶が残っていればそれだけで。充分。
「ディオネア、いいな、名前があって」
連れ出された庭はとってもきれいだった。瑞々しくて柔らかく、ひんやりとした冷たさもあった。それはとても心地がよかった。
声を持たぬというディオネアはやっぱり何も答えはしなかったけれど、ぽんとわたしの肩を叩いて、それから開いている窓の中に見える二人を指差す。
何を言いたいのかはわからなかったけれど、何も心配することはないのだと思えた。
暫く二人で庭の探検をした。知らない花が沢山咲いていて、レースのように繊細に向こう側の透ける花弁の花を摘んで、ディオネアが編んでくれた髪に飾ってくれた。触れるのを躊躇う程美しい花も、ディオネアにとってはありふれたものなのかな。
庭の中でも一際大きな樹の後ろには手作りの梯子が掛けてあって、それを登ると、樹の中腹にあるウロの中がちいさな部屋になっていた。
柔らかい枯れ草を敷き詰めたそこは、ディオネアの秘密基地なのだとわかる。
シィ、と人差し指を唇に当てて、声の代わりに。秘密だよ、と言い合う。
遊び疲れて城の中へ戻ろうかとウロを出て庭を歩いていると、先に中にいた二人が出てきた。
大きな絨毯を庭の中央、芝生の上に敷いて、ランチを広げて。グラスを渡してくれたふか色のその人は、もう怖くはなかった。
「ディオの事、よろしくね」
華奢で、だけど大きな手がわたしの頭を愛しむようにそうっと撫でた。
結局、その人の名をわたしが知る事はなかった。
ウォオフ様は一度も呼ばなかったし、ディオネアは当然声がないから。わざわざ聞くことでもないかと、聞かなかった。
「わかるね、ディオ。さよならだよ」
カーテンを引いただけの手製の夜を明かした次の日に、ウォオフ様は馬を引いて出てきた。帰るのだ(どこかへ、)と直感する。
そしてそれは、ディオネアも共になのだとその人の言葉でわかって、わたしは嬉しかった。
だけど、その人の腰にくっついて、細い腕でぎゅうっと強く抱きついているディオネアは、ここを離れたくないと全身であらわしていた。悲壮なほど、必死で。
その人は、とても優しい手つきでその腕を解き、しゃがみ込む。ディオネアの顔を見て、ぼとぼとと落ちる大きな雫を拭って今度はその人が、離したくない、といった様子でディオネアを抱きしめた。とても、とても、とてつもなく、大事そうに。
「ディオ、忘れないでね。お前の幸福を俺はいつも願ってるよ。世がどんなに残酷でも、折れることなく、強く、美しく、生きるんだよ。かわいい子」
髪と、頬を撫でるその手つきが。その人がディオネアをどれほど想っているのかあらわしていた。
けれど、その腕を解いて離れるその時にはもう、見ているこちらが胸を痛めるくらいの大事そうな様子はなくなって、まるで他人にするような何気なさで数歩離れた。
「お行き。…道中、難あらぬよう」
頼んだよ、とウォオフ様に言ってその人はニコと笑って馬に乗せられたわたしたちに手を振った。
誰も何も言わなかった。ディオネアが声もなくすすり泣く音だけ続いていた。
開いた門に向かってぽくぽくと黒鹿毛が歩く。振り返らない。開いた門を通る前、ウォオフ様がぽつり。
「ディオネアティアーレ、お前の名を、忘れてくれるなよ」
と、静かに言った。
何を今更、名を忘れる事など、と思ったが、わたしやディオネアがその意味を知るのは、もっとずっと、わたしたちが大きくなってからだった。
(然様なら。かわいい子、元気で)
(ああそうだ、お前の名前をやっと決めた。センスがないとかゴネるなよ。シエレンファ)
(ルース様、ルース様、いやだ、はなれたくない。いやだ)
不変の空殻