うたかたの鳥

うたかたの鳥


「この町の五時のサイレンはね、半音狂っているんです」

この港町に越してきたとき、わたしはまだ化粧もろくにしたことのない十六歳のむすめで、先生は五十をゆうにこえていた。

放課後、先生とふたりで堤防のそばを歩く。
「この道は、いい道だと思いませんか」
言いながら、先生が白い外套から煙草を一本取りだした。
海があって、駄菓子屋さんがあって、港があって先生がいる。いい道だ。いい町だ。
「そうですね」
わたしの相槌は、たちまち冬の外気に溶けてしまう。
煙草をくわえている先生は、黒板になにか書き付けているときとはちがった顔をしていた。
なんだかずっと遠くのほうを見ているような目だ、と思う。
先生は髪をまっしろに染めていて、わたしが「初雪みたいですね」と言うと、「あなたの髪は、朝の海のようですね」と先生が笑った。
この色を褒められることなんか一度もなかったから、なんとなくこそばゆい。そういえば先生は、
はじめてわたしと会ったとき髪についてなにも言わなかった。「疲れたでしょう」と言って、栗ようかんの包みをくれただけだ。

転校するまえ、思い立って髪を真っ青に染めた。
「絵の具をかぶろうとしていたら、父に止められました。いつもは放任主義なのに」
あきらめて染髪料をつかったのがなつかしい。
「あなたは、愉快なひとだ」
先生が目を細める。
「そうですか?」
「そうですよ」
「そうですか」
じんわりとうれしくなって、わたしは鼻歌をうた
った。いまはやりのドラマの主題歌だ。
「へたっぴですね」
うれしそうに先生が言う。
「じゃあ、先生もなにかうたってください」
むっとして返すと、ほがらかに笑われた。
「では、いきますよ」
先生がうたうカントリーロードは、いままで聴いたどの歌よりもすきだと思った。 やさしい声だ。まっすぐな声だ。
なんにもかなしくなんかなかったのに、ぽろぽろぽろぽろ、ばかみたいに涙がこぼれた。
先生、泣かすなんか、ずるいです。
海のはるかむこうで、鳥がしずかに鳴いていた。


半音狂っているんです。 そう話す先生の顔はなぜか得意げで、 わたしはすこし笑って、それからふと先生の背中を見た。
「何年も何年もここにいて、狂っているのはじつは先生のほうなんじゃないですか」
おどけて訊くと、先生はめずらしく悩んだそぶりを見せてから、「そうかもしれませんね」と答えた。
夕日が山に隠れて、空が濃い橙に熟れる。海の温度はうんと冷めて、浅い夜が訪れる。
さみしい時間ですね。わたしがそう言うと、先生がかすかに微笑んだ。気がした。
「夜はどうしても、こころもとなくなっていけません」
先生の輪郭が、ぼやけて見えない。


家に帰ると、おばあちゃんが泣いていた。
ちいさな手を合わせてさめざめ泣いていた。
今日はおばあちゃんのつがいの命日だ。
つやつやした栗ようかんをお供えされて、写真のなかの彼はしあわせそうに笑っている。
お線香の匂いが、セーラー服についた先生の煙草の匂いとまざって、ふわりと鼻先をくすぐった。
こころもとないです、とわたしはつぶやいた。
こころもとないですよ、先生。

うたかたの鳥

春の陽炎のように、あなたは傍にいるのでしょう。

うたかたの鳥

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-13

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