*星空文庫

籠の雲雀

樹咲サキ 作

  1. 夜明けは雲雀が告げる 壱


加護ヒバリと出会った日の事は、今でも私の脳に鮮明に焼き付いている。

あれはまだ私が若く、無数の可能性が目の前に開けていた、青く未熟な果実だった時代の事だ。
当時の私は十七歳、学年で言うなら高校三年生に上がったばかりで、その日は始業式とクラス替えという生徒にとっては退屈と魅力が入り混じったイベントが用意されていた。
校門から学び舎まで伸びる桜並木を、学生達が笑いさざめきながら歩いていく。
どの顔もこれから待ち受ける学校生活の受難など気にしていないようで、少し、羨ましかった。
私にとって学校は牢獄だった。
子供を閉じ込め、こちらの時間ばかり搾取していく、檻。
私はこの単調で無味乾燥した生活に飽き飽きしていた。
この、高校最後の年を乗り切れば、檻の外へと羽ばたいていける。
沈みかけた思考を無理矢理切り替えて、私は姿勢を正した。

玄関の、見飽きた下駄箱に貼られたクラス表に目を通す。
私の名前は三年四組の紙に印字されていた。
クラス表にある通りに階段を上がり、目的の教室の扉を開ける。
その時。
私の目に飛び込んできたのが加護ヒバリだったのである。

細く、華奢な肩。開け放たれた窓からそよぐ風が、腰まで伸びた黒髪を揺らす。
白い肌と、淡く色付いた唇。切り揃えられた前髪の下では、髪の色と同じ黒く澄んだ瞳が不思議な光を湛えていた。
私の脳は彼女を認識した途端、私の物では無くなってしまった。
クラスに渦巻く喧騒は遠去かり、世界には彼女と私の二人だけになった。
どれくらいの間そうしていたのだろう。
私の視線に気付いたのか、ヒバリは本を読む為に落としていた目線を自然な動作で上げた。
私と彼女の瞳がかち合う。
ヒバリは、そっと微笑んだ。
酷く純粋で、綺麗な笑みだった。
その笑みを見た瞬間、私の心は大きな音を立てて鳴いた。
私は彼女に恋をしたのである。

夜明けは雲雀が告げる 壱

「何を読んでいるの?」
目を通していた本に影が落ちる。私は伏せていた顔を上げた。
目の前には好奇心に満ちた眼差しを向ける愛らしい人。

「痴人の愛だよ、知ってる?」
「谷崎ね。私も最近になって読んだの。面白いわよね」
「君に谷崎を読むような茶目っ気があるとは思わなかったな」
「どういう事?」

首を傾げる動作に合わせて、さらり、長い髪が音を立てる。
まるで扇情的な衣擦れのようだ。

「君はいつも小難しい本ばかり読んでいるじゃないか。デカルトとかね」
「私だって、バタイユのようなものに興味くらい抱いているのよ。谷崎はよく読むの?」

私は軽く首を振って、

「いや」

と苦笑した。

「谷崎はこの痴人の愛しか読んだ事が無くてね。もう何回も読み返したから、表紙もだいぶ擦り切れてる」

ほら、と手に持った文庫本を掲げてみせる。所々に手垢が付いていて薄汚れているそれを、彼女はそっと手に取った。
その拍子に私の指と彼女の指が擦れ違うように触れ合う。
私は甘い痛みを感じて少女から目を逸らした。

「痴人の愛の何が良いの?」

もう何度も訊かれた問い。私はそれに対して、

「僕のバイブルだからさ」

努めて素っ気なく答えた。

「バイブル?」
「ああ。この本のような愛に憧れているんだ」

みんなには内緒だよ、片目を瞑って言うと、彼女は小さく微笑した。

「なら、私が貴方のナオミになるわ」

足に柔らかな感触。
私はそっと机の下にある自身の足元を見た。
細い、靴下に包まれた足先が私の脹脛(ふくらはぎ)を撫でている。
私は少女を見た。
彼女は笑う。淫らな聖女のように。

『籠の雲雀』

『籠の雲雀』 樹咲サキ 作

主人公の「私」と、加護ヒバリの何処か歪な愛の物語

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-12
Copyrighted

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