*星空文庫

D×F

文生みすゐ 作

一週間だけの限定公開とします。転載、二次利用などはしないでください。

青が清々しさを装って、窓の外側に広がる天にへばりついている。朝が来た。
 いまだ瞼は重さを纏い、目覚めを拒んでいるが、いつまでも布団のぬくもりに甘んじている訳にはいかない。今日もまた、一日が始まるのだ――そう言い聞かせるように頬を軽く叩いてから、Dは起き上がる。
 何も履いていない足が床に触れると、冷たかった。躰を呼び覚ますには丁度いい。Dは暫く、靴を履かずにひたひたと歩き回りながら、寝間着を着替える。ひととおり着替え終わると、すっかり躰も平常の感覚を取り戻す。そうして最後に、彼は靴を履いた。
 自室の扉を開いて、ダイニングへむかう。朝食が出来ているのだろう、食欲を誘う匂いが漂ってくる。Dの起床は決して遅くはないが、母親は更に早く起きて朝食を作る。Dと父親のために、暖かい食事を用意して待っていてくれる。メニューはいつも決まったもので、豪勢なものでなくとも、その心遣いを嬉しく思う。
「お母さん、おはよう」
「おはよう、D。もうすぐ支度が出来るから、お父さんを呼んできてちょうだい」
「うん。わかったよ」
 Dは父の寝室の扉をノックして声をかけ、起きたことを確認してから配膳の手伝いをする。準備が整った頃、父はちょうどダイニングへとやって来る。
 食卓は賑やかでもない。時折、父の仕事やDの勉強のこと、近所であったこと、今日の夕食について――そういった話がぽつぽつと浮かぶだけだ。それでも、父と母は楽しそうだったし、Dもこの時間が好きだった。
 父が仕事へ向かうのを見送ってから、残った者はそれぞれが己のルーチンをこなす。母は洗濯や掃除、Dは自室で勉強に取り掛かる。
 Dは学校には行っていない。毎日、専用のタブレット端末に送られてくる課題に取り組んでいる。難しい問題もある。そういう時は、別の端末に入っている辞書や教科書で調べながらやる。午後には解答が届くため、答の確認作業をする。一連の作業を終えれば、大抵一日が過ぎている。そこに、楽しさや悦びはない。
 昔、子供たちは皆学校に行って勉強をしていたのだと、かつてDの祖父は言った。勉強だけではなく、運動をしたり、他愛もない話をしたりする〝楽しい〟場所があったのだと。今も、学校という機関は存在するし、実際に通っている者もいるようだが、大半の子供がDのように自宅学習の形をとっている。祖父の言っていた楽しさを知る者は、いないに等しいのだろう。
 また、祖父はこうも言った。そういう楽しさを知らないのは哀れだ、と。確かに、祖父の話す昔には、関心を惹かれるところはある。けれども、本当にDのような者たちは哀れなのだろうか。生まれた時からある環境、それを当たり前だと、普通であると、誰しもが思う。そして、その当たり前の物事の中で、人は満足することを覚える。だから、最初からない概念は理解のしようがなく、自分に向けられる哀れみへ同調することも不可能だ。井の中の蛙は、狭い暗がりの底が全てで、それ以外を知ることはできない。Dは、祖父のことばを真に理解することはなかった。
 単調な学習、音のない空間。時間の流れすら忘れてしまいそうになる。しかしDは、勉強自体は嫌いではなかった。学ぶことは、心をくすぐる快さのようなものがある。他の者がどんな気持ちを抱き、どんなふうに進めているのかは知らないが、恐らくルーチンを達成するスピードは速い方なのではないだろうか。決して少なくはない課題を、大抵は昼食の時間までには終えてしまう。
 今日も例によってさくさくと作業を進めて、やるべきことは全てやりきった。ちょうど昼食ができる時間帯だった。部屋を軽く掃除でもしていれば、きっとすぐに母の声が聞こえてくるだろう。
 机の周りを布巾で拭きながら、Dは午後のことを考える。机とベッド以外にはほとんど何もない殺風景な部屋の中で、できる事などない。ここで缶詰めになっていたところで、どうしようもなかった。
ふー、と息を吐いて、Dは顔を上げた。そして、その眼に真四角の窓が映る。正方形に切り取られた、たった一つの窓からは、真っ青でのっぺりとした空が覗いている。
「――散歩にでも、行こうかな」
  誰にともなく、小さく呟いた。午後からの指針は、これで決まりだ。
  拭き掃除がひと段落すると、母の呼ぶ声がした。もう一度、Dは息を吐いて部屋を出た。



 時たま、Dはこうして出歩く。何か目的があるわけではない。躰を動かしたいのでもない。ただなんとなく家を出て、そのついでのように、『あること』を確かめに行く。
 凪いだ木々の隙間を抜けて、ひっそりとした街を通り過ぎ、Dは歩く。歩き、歩いて、歩く。随分な距離を気まぐれに渡り歩いているように見えて、目指す場所は決まっている。活気のない小鳥に見向きもせず、歪に固まった奇妙なモニュメントを素通りし、Dはいつしかある場所へ辿り着く。
 そこは、行き止まりだった。
 ひと気がなく、建物は少ないところに、あの青い天をせき止めるもの――すなわち『壁』が高くそびえている。
 Dは、壁に触れた。まっすぐでかたい表面には温度がなく、掌からはDの体温が抜け出ていく以外には何の変化も示さない。次に、視線を壁に這わせてみる。色味のない表面は、どの部分もまるで同じ様子で、どこまでも続いている。
 この壁は境界線であり、世界の果てだった。無表情、無感動に、Dたち人間を囲い、隔てるもの。壁だけではない、この空だってそうだ。Dの見上げた先にある青色と、壁との衝突する地点――そこで、空は不自然なノイズに歪められている。その隙間から見えるのは、Dの正面にある壁とそっくりの『天井』。
 あの青は、にせものだ。世界とは、四方八方を阻まれた箱であった。粗末な加工を施された天井と、隠しもしない壁の中で密閉されて、人間は生きている。その昔、祖父は心の底から、人間は可哀想だと言った。Dには、祖父のことばがわからなかった。
「…………」
 Dと彼の父母が生まれた時には、世界は箱の中にあった――否、箱は世界そのものだった。祖父の幼い頃は違っていたらしい。世界はもっともっと広くて、天は透きとおるように青く、果てのない地平を持っていた。人々は今よりもずっといきいきとしていて、ホログラムではない本物の動植物(、、、、、、、、、、、、、、、)と共にあった。こんなに狭く、にせものが覆う世界に生きるだけの人生こそがなによりも可哀想なのだ、と。
 Dには、祖父の気持ちを理解できなかった。生まれつきの環境とは一切異なる環境を想像することは無理だ。それでも、祖父のことばをわかりたかったし、彼の語る世界に興味を持った。幼い頃は、何度も祖父に今はなき世界の話をせがんだ。成長して、祖父の亡くなったあとは、『果て』を巡ってみるようになった。
 なぜ、世界は箱詰めにされたのか。箱の外側はどうなっているのか。人間は可哀想なのだろうか。
疑問はふつふつと湧き出てやまない。これを明らかにする術(すべ)などないけれども、何もしないのは性に合わなかった。何もできなくとも、何かをしたかった。
 しかし、気概があったところで、成果は得られない。壁はどこまでも壁だった。期待していたわけではないが、残念だと思う。
 そろそろ家へ引き返そうと、Dが壁を離れようとしたとき、
 ビィ――――ッ、ビィ―――――ッ、ビィ――――ッ……。
 聞いたこともない、奇妙な電子音が響いた。鼓膜を打ち、全身を圧迫するような、不快な音だ。まだかなり遠くの方で鳴っているようだが、空間を切り裂くようにして音がこちらに近付いて来ている。
 どこか近辺で異変があったのだろうか。それとも、Dが壁に触れたことで不都合でも生じたのか――だが、今までにこのような反応があったことは一度もない。
 脈拍が変なリズムを刻み始めた。初めてのことに、Dの躰が強張っている。
 何があった?音はどこへ向かっている?その正体は?一体、どうすればいいのだろう…………――思考を必死に巡らせても、まともにめぼしい答は見当らない。どうにか……どうにかしなければ。
 訳も判らぬまま、Dは来た道を戻ろうとした。ここにいてはまずいのではないか。もし自分が原因なのだとしたら、と考えだすと恐ろしくてたまらない。
「――――おい、そこのボケッとつっ立っているやつ!邪魔だよ、退いてッ」
 Dに、不意に声をかける者があった。あの、妙な音の響く方向から、見知らぬ少年が随分と急いだ様子で駆けて来るのである。背格好は少し小柄の、Dと同じくらいの年代の少年――彼は、まるで音に追われるようにしてこちらへ向かって来る。
 少年は、急ぐあまりに勢いがついてしまって、開けた場所であるけれども、Dを避けるのも難しいのだろう。なおも退くようにと合図を送る。ところが、気が動転してしまっている今、Dの方も足が縺(もつ)れて上手く動けない。もたもたとしている間に、少年との距離は詰まっていく。
 ――ドザザァッ!
 Dは身構え、少年はなんとか踏みとどまろうとしたが、やはり間に合わずにぶつかって地面に倒れ込んだ。Dは躰の数カ所ほど打ったため、少し痛みを覚える。だが、特に怪我はないようだ。
「ああもう、痛いなぁ……」
 少年も痛む箇所をさすったりしているものの、目立った傷はない。
「ごめん。立てるか?」
 Dは起き上がって、少年に手を差し出した。しばらく少年はDの顔を見つめながらぼんやりしていたが、ふと我に返って差し出された手を頼りに立ち上がる。
「いや、悪かったよ。急に止まれなくってさ。……あんたこそ、怪我とかしてないの?」
「大丈夫、問題ない。それより、君は何故あんなに急いでいたんだ?あの妙な音はいったい何なんだ?」
 Dは、今なお止まらず、更に接近する音の正体を少年に訊く。音の方向から走ってきた彼ならば、きっとなにか知っているのではないか。
 Dの質問に、少年は眉をしかめた。音の雰囲気から判断しても、良くないことが起こっているのは明白だが、少年の表情の苦々しさがそのことを証明している。
「――たいしたことじゃないよ。少なくとも、あんたみたいなやつが気にする必要はない。でも、僕はもう行かなきゃならないから」
 そう言って少年が再び走り去ろうとするのを、Dは彼の上着のフードを掴んで引き止めた。
「うぐっ。何すんのさ、首が絞まるでしょ」
「さっきの、答になっていない。ちゃんと質問に答えてくれないか。君、住宅街の方から来ただろう?街で何かがあったのか?」
 一歩も引かないDに、少年は面倒そうな顔をした。
「だから、あんたには関係ないんだってば。放してよ。僕、急いでるんだから」
 少年は身体を捻ってDの手から抜け出そうとする。特別に話したくない理由があるわけでもないように思える。少年は、心から純粋に話す必要性を感じていないだけなのだろう。しかし、ここまで来たらDは知らないままでいるのは得心がいかなかった。生来の好奇心――とはまた違う。自分の人生を変えてしまう分岐点のような、いわば運命的なものがあるような気がしてならないのだ。
「――ほら、放せって。僕はあんたに構っている暇なんかないんだよっ。早くしないと……」
 少年の声はどこか切羽詰ったものがある。彼の焦りが色を濃くしていくにつれて、あの厭な音が近付いて来ている。先程までもっと遠くから響いていたものが――――そう、すぐ傍にあるような、例えば数メートル先に音の根源が存在しているような、そんな感覚だ。
「ちょっと……これはまずいんじゃないかなぁ……」
 少年は引きつった表情で、Dの背後の方をじっと見つめている。
「あのさ、アレに追いつかれると、僕だけじゃなくてあんたにも不都合なんじゃないかって思うんだけど」
 彼は顎をしゃくって、Dの背後を指し示す。振り向いて見ろ、ということか。
 Dは示された方向を見る。そこにあったのは、
「……清掃ロボ?」
 街路の清掃を行っているロボットだ。人の膝のあたり程の高さで、人の胴回りよりは少し小さい幅をしている。普段は静かに街を行ったり来たりしている、何ら無害なそれが、赤いライトを明滅させながらビィビィと奇妙な音で鳴いている。
「表向きは、そう。だけど本当は警備の機能も持っている――――たとえば、外から来た異物の排除(、、、、、、、、、、)とか」
 外から来た異物とは、どういう意味なのだろう。少年のことを指しているのか。彼の言葉の示すところはわからない。だが、この不穏な機械の様子を見れば、自分がすべきことはおのずからわかった。
「逃げないと」
「ん?今、なんて…………って、うわっ」
 Dは少年の腕を掴んで走り始めた。当てはなくとも今はただ走るしかないと、直感が告げていた。



 どこをどう走ったのか、憶えていない。建物の建ち並ぶところに出て、その間を縫うように逃げ回った。幸いなことに、清掃ロボはスピードがあまり早くなかったため、思っていたよりも簡単に撒くことが出来た。とはいえ、普段激しく動くことのないDの体力は限界だった。息はあがって喉をひゅうひゅうと鳴らし、足の筋肉は硬直して痛む。
「まあ、ここまで来たらもう大丈夫かな。あいつら、そんなに賢くないから、見失って暫くすれば諦めるだろうし」
 少年は、Dとは対照的に余裕があるようだった。Dのように、この箱の中の都市で生まれ育った子供たちはほとんど運動をしないので、体力などないに等しいはずである。だのに涼しい顔をしているこの少年は、一体何者なのか。
 そういえば、とふと思い出す。先程、彼は『外』という言葉を口にしていた。もしかすると――Dにある考えが浮かんだ。にわかに信じがたいが、もしかすると――。
「なあ、君はもしかして、この都市の外側から来たのか?」
 Dは少年に問うた。少年がにこりともせずにDの方を見る。

「そうだよ。僕はここの人間じゃない」

 少年の答に、Dは暫し言葉を失った。驚愕、納得、疑念、興奮、好奇心――そういったものがない交ぜになって、Dの心をくすぐった。総じて、感動とも呼べる感情だった。
「そうか、外から!都市の外側にはひとがいたんだ!でも、どうやって出入りするんだ?外の世界はどうなっている、こことどう違う?」
「待って、一度にたくさんのこと言われても答えられないよ」
 眸を輝かせて尋ねるDを、少年は困り顔で制した。
「……あんた、変わってるね。外に対して興味をもつなんてさ、このご時世じゃあ考えられないことでしょ。自分の周りの世界以外は視えないっていうのが、大抵の人間のさがだ」
 少年は、そう言いながらどこか残念そうに肩を竦(すく)めた。
「まあ、そんなことは別にいいんだよ。取り敢えず、お礼を言っておくよ。ロボットに追いつかれたのはあんたの所為だけど、その後逃げおおせられたのもあんたのおかげだし。ありがとう」
「いや、追われているとも知らずに引き止めて悪かった。……それで結局、君はなぜ追われていたんだ?」
 清掃ロボから逃げていた為に、聞くことができなかった理由。それは如何なるものか。少年は、あのロボットには警備の役割があるのだと言った。そして、それは外からの異物を排除するのだと。つまり、少年は正式に都市へ入ることを許可されてはいないのだろう。どこかから侵入した、ということか。だが、それが理由であんな風に追われたりするものなのだろうか。
「ううん、ここまで来たら言った方がいいのかな。形はどうあれ、巻き込んでしまったようなものだしなぁ」
 少年は、身に着けていた鞄の中からあるものを取り出した。
 持ち運び用の中型コンピュータ、いわゆるノートパソコンであった。『都市』ではタブレット型の端末が主流だが、少年の持ち出した型のものもある。
「これ自体は普通のコンピュータだから、まじまじと見たところで変わったことは何もないよ。――――ちょっと待ってて」
 カタカタと音を鳴らして、少年はコンピュータのキーを叩く。画面には読めない文字や知らない単語の羅列がびっしりと埋め尽くしている。
 ひととおりの作業を終えたのか、少年がエンターのキーを勢いよく押した。一見、画面上には何もない。
 ブツンッ。
 何かが切れたような音とともに、辺りの風景が一変した。先程まであった動かぬ木々や、張りのない声でさえずる鳥の声が消えた。それだけではない。空のあのべったりとした青色も今はすっかりなくなって、色のない無機質な天井だけが残っている。
「これは……」
「驚いた?都市の動植物はすべて、運営を行っている中央コンピュータが作り出した幻影(ホログラム)だ。だから、こうして中央の管理データベースに侵入すればシステムがダウンすることもある」
「……まさか」
 Dは、信じられない思いで少年を見た。少年は、いたずらを成功させたときのように口許を吊り上げて嗤った。
「さっきもこういう感じで、データベースにハッキングをかけていたら気づかれてしまったんだよ。あのロボットもちょっとデータを弄ったら動きを止められるんだけど、さすがにコード解析する時間はなかったんだよね」
 淡々と、何でもないことのように少年は語る。Dには、彼のことがますますわからなくなってきた。
 都市の運営は、すべてコンピュータによって行われている。空や生き物などの風景の映像を作り出し、空調を整え、各家庭に必要な電力・水・食糧を分配し、各個人のルーチンを振り分ける。人間は皆、そうして管理されているのだ。十年も前にこの世を去ったDの祖父の世代よりも後の人間は、ずっとこの環境の下で生かされてきた。この環境下での生活しか知らない。
 少年はハッキングによって、この一部をシステムダウンさせているのだと言う。もしも、そのせいで生活に欠かせない電力や、水、食料の分配が出来なくなった場合、人の生命に影響が出る。
「どうしてそんなことをするんだ……?」
「ああ、やっぱりわからないよね。この完全管理のもとで暮らしてきたやつには、この都市の歪さがわからないんだ。だから、そうやってここのシステムが崩れたら生きていけない――なんて、悲愴な顔をする」
 少年は、溜息を吐いた。そして、Dに向き直る。その眸は、睨みつけるかのように鋭い光を帯びていた。
「いいか、僕はこの都市が嫌いだ。楽園のフリをした、ただの行き止まりで、傲慢の塊。僕は都市を壊したい。その所為でここの人間が困ろうと知ったことじゃない。それで都市がどれ程間違っていたかを痛感できるなら、きっとそれは人間のためでもある」
 彼は面白半分で言っているわけではない。悪意があるわけでもない。表情はまさに真剣そのものだった。
「もういいかな。これ以上話すことはないし、いつまでもここにはいられない。さっきのハッキングに気づかれたら、またあのロボットが追ってくるだろうから、僕は行くよ」
「あっ、待って――」
 バイバイ、と少年は手を振って去って行く。こちらをふり向きもせずに遠ざかる背中を、Dは呆然と立ち尽くして見つめていた。
 少年を引き止めようとして足が動かなかったのは、単なる疲労だけではないだろう。



『かつて、空があった。どこまでも澄んでいて、果てを知らない。朝には莫大なエネルギーを孕み光り輝く太陽を抱き、夜には静かに浮かぶ月と寄り添う。大地があった。風に吹かれて波打つ、やわらかな草木が根を張っていて、鳥やたくさんの動物たちと共に生きていた。海があった。生命の原初の生まれ故郷で、神秘的な青色をしている』
 幼い頃の楽しみだった、祖父の昔話を思い出していた。
 ずっと以前、Dの祖父の若かりし時代。空と大地と、海と、たくさんの命あるものたちと、互いに傷つけ、畏怖し、慈しみ、敬愛しながら、人間は世界と共に生きていた。街を築き、愛を育み、ベンリな暮らしを求める中で自己中心的な争いや急激なハッテンを遂げても、時折、ふと後ろを振り返ってみて自らの暴虐を嘆いたりもした。人間は身勝手だが、決して愚かではなかったはずだった。しかし、ネットワークの発達やスタイルのシンプルさを求めるようになった姿勢が要因なのか、それ以外かは定かではないが――――科学のハッテンに伴って、いつの間にか人間の情も思考も、随分と稀薄になっていった。自分たちの快適な生活という最重要事項以外の〝余剰〟はすべて不要であると、思い込むようになった。
 行き過ぎた発展は、衰退である。頂点を過ぎれば、あとは下降があるのみ。祖父はそう言った。科学のハッテンと引き換えに、人間は共生するものへの配慮を失った。自らの行動の暴虐性を省みることなく、同じ人間の間でも幾つもの争いを繰り返した。空も大地も、海もいきものも――――世界のあらゆるものを利己心のままに利用し、傷つけ、蝕み続けた。そして、世界は病んでゆく。空は黒ずんだ。大地には荒野が広がった。海は濁りきってしまった。いきものたちは多く死に絶えた。ハッテン、汚染、ハッテン、枯渇、ハッテン、死滅――――。そうして衰退のサイクルが刻まれ、奇妙に発達した人間の暮らしとは裏腹に、環境とか、自然とかいうものはどうしようもないほどに汚れていく。だが、これは人間にまったく関連しないというはずがない。同じ地平で、人間も生活している。ならば世界の衰退は当然のごとく、人間にも等しく影響を及ぼしうる。人間とは、構想する力とそれを実行する精神を持っているだけで、別段、強いいきものでもなんでもない。空気が汚いと肺を悪くし、荒野では飢え渇き、水がなければ数日ともたない。そうと人間は知っていたはずだが、それでもハッテンをうち止めることを選択できなかった。
 Dや現在の人間が棲む世界は、汚染された環境からひとの居住区を完全に隔離された空間である。固い壁と天井が都市を覆い、いきものらしいいきものは人間以外には恐らく存在しない。空も動植物も、ホログラムで造られた偽物だ。人間のエイチのケッショウだとかいうコンピュータが中央に存在し、そいつが背景として動植物を生む。それだけではない。いつだって清浄で適温に保たれる空気も、毎日の食糧や水、電気を均等に配分もしている。箱のように閉じた空間での生活で、争いが起きるととんでもないことになる――――だから、利己心を持たない機械による完全な平等を創り出すという意味もあるらしい。
 Dのタブレット端末に送られてくる課題も、父の仕事の指示を出すのだって、コンピュータによるものだ。――――随分と無機質な生活になったものだよ。今の人間は生きているんじゃなくて生かされているんだ。自分たちの造り出したものに支配されて、滑稽だね――――祖父は繰り返し、哀れむように言った。そういう言葉はこの世界のシステムを瓦解させかねないものだから、時折、父や母のいないところでぽつりと呟いていた。
祖父が聞かせてくれた話の中の世界は、色鮮やかで生き生きとしていた。タブレット端末に配布された教材の中で、過去のものとして淡白に陳述されたものとは違って、美しく輝き、脈動しているようにすら錯覚した。もし、自分がそんな世界で暮らしていたら、楽しいだろうか、幸せだろうか――――幾度も思考を巡らせた。きっと、祖父のいう世界はおもしろいだろう。しかし、今Dが生きているこの場所と較べたとき、どちらが正しいのか、どちらが幸かなど、推し測りようもなかった。外を知らぬDには、現状が歪であるとは思えない。
 祖父の気持ちはわからない。あの、外から来たという少年の考えがわからない。それでも、Dの中にはこの箱型の狭苦しい都市の外側への興味はあった。タブレットの教材では、すっかり汚染されてしまった外の世界にはほとんど生物は残っておらず、人間が五分と平気でいられない有様だと書かれていた。けれども、それが実際にどんなものなのか、本当に生き生きとした世界は片鱗すら残っていないのか、興味は尽きない。現に、あの少年は外から来たのだと言っていた。教材にて述べられていたことが嘘でないとしても、状況は変わっているのかもしれない。
 Dの心の片隅にあった好奇心が、ぷくぷくと音を立てて膨らんでいく。外が見たい、外を知りたい、外へ行ってみたい。あの表情の欠落した壁の向こうへ。
 そう思ったとき、Dはいてもたってもいられなくなった。食事を適当に胃へ流し込んで、ルーチンも満足に終わらないうちに家を飛び出して、壁のある場所に向かった。今日も、母親の呼び掛けに空返事をして外に出る。少年と出会ってから三日が過ぎたが、その間のDはずっとこの調子だった。
壁を見て廻ったところで、何かが変わるわけではない。Dにわかることは、ないに等しい。だが、少年が都市の外からやって来たというのなら、どこかに外と通じている場所があるのだろう。それを探したかった。もしかしたら、そこに行けばあの少年に再び会えるかもしれない。そうしたら、彼の話を聞いてみたい――――。
 とはいえ、都市は広い。その外周をぐるりと囲む壁のすべてを廻れるわけではない。Dの家から、一日で往復できる範囲しか捜索は不可能だった。夜になってから外を出歩くのは、基本的には禁止されているらしい。この禁を犯せばどうなるのかは不明だが、少年を追っていたような清掃兼警備ロボによる警告でも来るのだろうか。そうでなくとも、夜に出歩くのは両親が心配するだろう。だから、タイムリミットは夕刻までだ。
 凪いだ木々の隙間を抜けて、ひっそりとした街を通り過ぎ、Dは歩く。歩き、歩いて、歩く。活気のない小鳥に見向きもせず、歪に固まった奇妙なモニュメントを素通りする。壁のある場所の周辺には、建物が少ないことが多い。コンピュータの影響力も薄まっているのか、ホログラムの背景も頼りなくなってゆく。ずんずんとモノの間をすり抜け、開けた場所に出れば、そこには行き止まり――――すなわち壁に突き当たる。周辺には何もなく、人気もない場所に、のっぺりとそびえる壁。Dは決して期待などはしない。今日がいつもとは違う何かがあるはずだ、と安易に希望を抱くことはない。ただ、自分の好奇心に応えるものがあったとしたらきっとすてきだろう、という仄かな諦めの色を滲ませた小さな夢想を携えているだけだ。ゆえに、今回も特に収穫はないだろうと当然の如く思っていた。
 しかし、Dの予想は裏切られる。そう、これは嬉しい誤算だ。殺風景な空間に、着古したフードの小柄な後ろ姿を見つけた。こんなにも早く、目的が叶うとは、いったい誰が想像できよう。
 ヘッドホンをつけて座り込み、地面に置いた小さなノートパソコンを凝視して作業に没頭する彼に近寄り、Dはその肩をポンと叩いた。
「うわああぁぁぁぁッ――――」
 少年は盛大に驚いて飛び退る。Dの方も予期せぬ彼の反応に呆然としながらも、小さく手を振って挨拶をした。
「やあ、どうも」
「どうも、じゃないよ!いきなりなにするんだ、集中しているときに背後から忍び寄るのは反則だろっ?心臓が飛び出るかと思ったよ……!」
「………うん、ごめん」
 別に忍び寄ったわけではない、という言葉は呑み込んで、Dは素直に少年に謝っておいた。ぜいぜいと息を荒くして捲し立てる彼を見ると、わざとではないにせよ、いくらか申し訳ない気持ちになった。
「ふー。それで、僕に何か用?これでも結構忙しいんだよ」
「前、君に会った時に結局訊きそびれたことがあったのを思い出して。どうやって都市の外から来たのかとか、外はどうなっているのか、とか」
「なにそれ。たかがそのためだけに僕を探していたわけ?…………どうだっていいでしょ、外のことなんてさ。あんたみたいに、ぬくぬくとこの歪な平穏の中で生きてきて、これからもそうやって生きていく人間が知る必要のないことだ。尤も、あんたがもっと成長して齢をとった頃には、都市はなくなってしまっているかもしれないけどね。僕が、このくだらない都市を、この気味の悪い壁を、打ち砕いてやるんだから」
「――そう、それだよ。俺はその気持ちが知りたいんだ」
「はぁ?」
 少しも笑みを浮かべることなく淡々と話す少年に、Dはすかさず言う。ここではぐらかされては意味がない。
「君は、都市の在り方に異議を唱えている。それがどうしてなのか、君が何を見ているのかが知りたい。……確かに俺みたいに、都市の生き方が定着した人間には無用な疑問なのかもしれない。でも、俺の祖父が君と似たようなことを言っていたんだ。『都市の人間は可哀想だ』と」
 Dは少年に祖父のことを話した。少年は、一瞬だけ僅かに目を丸くしながらも、祖父について黙って聞いていた。
「ふぅん。お祖父さんが、ね。…………あんたが外に関心を抱くに至った事情は、わかったよ。だけど、質問に答える気にはならない」
「どうして」
「都市の人間とは関わりたくないんだよ。考え方も、育った環境もまったく異なっている。お祖父さんから聞かされて外に興味を持っているあんただって、例外じゃない。根本が違うんだ。そういうやつと意思の疎通をはかれるとは思わないし、はかりたいとも思わない。それに正直、上手く説明できないだろうし……僕は人と話す機会も殆どなかったから、コミュニケーション能力は怪しいところだよ。あと、面倒だ」
 少年は頑なに拒むが、ここまでくればDも引き下がるわけにはいかない。
「じゃあ、説明はいらない。その代わりに、外に連れて行ってくれたらそれでいい」
「……何言ってんの、あんた?」
 彼は呆れたように眉間に皺を寄せて、頭を振った。
「どうしてもこればかりは諦めきれない。都市にとって、人間にとって、何が必要なのか、どうするのが正しいのか。それを見極めたい。俺ひとりが知ったところでどこかが変わることはないかもしれないけど、だからといって無知のままいることはよくないことだと思うんだ。だから、どうか外へ連れて行ってほしい」
 Dは、少年の眼を真っ直ぐに見て言った。
「嫌だと言ったら?」
「…………君がまだ強情に渋るのなら」

「俺は、君をあの清掃兼警備ロボに突き出す」

「――――」
 少年は絶句して、固まった。瞬きすらせず、暫し時が止まったかのようにその場で石化していた。
「ロボがどの辺りを循環しているかはある程度わかるから、君がどこに逃げたとしても外に出ない限りは追い込めることができる」
「それは、脅迫のつもりかな」
「お願い、だよ。どういう風に受け取るかは君の自由だ」
 Dはできるだけ好意的に見えるように微笑んだ。少年にはこの笑顔がどう映ったのかは定かではないが、彼は深々とした溜息をひとつ吐いて眼を伏せた。
「……わかったよ。僕の負けだ。連れて行くくらいならしてあげてもいい。だけど、何があっても自己責任だからね」
 睨みつけるようにして了解を告げる少年に、ありがとう、と礼を述べた。彼はもう一度、大きく嘆息した。



 少年は自らをFと名乗り、あとは余分な言葉を発することもなく歩き始めた。ついてこい、ということなのだろう。Dは早足で遠ざかってゆく彼の背中を追った。
 別段、変哲のない壁に沿って二人は進んでゆくが、似たような風景の連続から、どうにも同じところに留まっているような気分がして仕方がなかった。いくら足を動かせど、どこへも行けないとでもいうような感覚は、むなしいような恐ろしいような心地がして、Fよりも足は長いはずなのに自然と空いてしまう距離を、Dは慌てて詰めた。
 暫く、なにもない空間が続いた。街が遠い。音がない。なにもないのに、なにもないからこそ、迷子にでもなってしまいそうだった。
「これって、どこまで行くんだ?」
 Dは沈黙に耐えきれずに尋ねた。Fは、こんな空間にいて心細くなったりはしないのだろうか。
「……もう少しだよ。なに、ここまで来て引き返すって言うなら勝手に帰ったらいいさ」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
 Fは、言動のひとつひとつに棘のある少年だった。幾度か軽く声をかけてみても、淡白に一蹴されてしまう。早足を緩めることもなかった。彼は決して友好的ではなく、また親切でもないが、Dの問いかけに対して一応は言葉を返してくれるのだから、律儀な一面もあるようだ。
 それからもFとのつれないやりとりをぽつりぽつりと続けるうちに、周囲の様子が変わってきたことに気が付く。ホログラムすらも心許なかった壁の近辺に、木々やその他の植物の虚像が少しずつ現れてきたのである。そしてそれは、進むにつれて密度があがるのだが、街で見かけるものよりも随分と生きた感じのしない、いかにも造りものであるとでも主張せんばかりの出で立ちをしていた。
「こんな所があったのか」
 物珍しげに辺りを見回すDを余所に、Fは偽物の木々の隙間に分け入る。彼は、特に緑が密集している辺りでぴたりと立ち止まった。通常、ただただ平たく色みのない壁には、蔦までもが這っている。
 Fは肩に提げていた鞄の中から、愛用のノートパソコンを取り出して、なにやら作業を始めた。画面には、夥しい数字の羅列と、見たこともないような文字が並んでいた。Fはかろやかにキーを叩いているが、いったい何をしているのかはさっぱりわからない。
 Fが作業を終えると、べったりとした緑色の虚像が薄らいだ。微かなノイズを発しながら、消え入りそうに佇んでいる。壁を覆っていた蔦も同じく、稀薄に――――。
 否、同じではない。蔦は消え去ってしまっていた。それだけではない。蔦の下に存在したはずの壁すらも取り払われて、ぽっかりと穴が空いている。
「っ――――」
 Dは、思わず眼を瞑った。躰の内側すらも照らし出すような眩い光が、眸を貫いたのだ。都市や家の中で輝く灯りとはまったく異なるそれは、Dの躰になかなか馴染まないが、どこか暖かで心地よさを感じる。それから、空気には流動性が生まれた。風――――、そう、これは風というのだろう。都市ではほとんど存在しないに等しく、部屋の空気清浄器くらいでしかあじわったことがない。そよそよとやってきて、風はDの頬を撫でては去ってゆく。
「ほら、止まってないでさっさと行くよ。ばれないように細工はしてあるけど、長くは留まっていられないんだから」
 Fに手をひかれて、Dは穴をくぐり抜ける。

 Dは壁を越え、都市から、外に出た。

 ふと、Dは後ろを振り向いた。二人が通った穴がゆっくり閉じていくのが見えた。恐らく、暫くは都市に戻らない。戻れない。父母は心配するだろうけれども、今は申し訳なさにも勝る興奮が、感動が、心も脳髄も、頭の天辺からつま先まで満たしている。
 天を仰げば、深く深く透きとおる青い空。時折、ふわふわした雲が漂っていて、ぎらぎら輝く光の球を抱いている。地を見渡せば、果てなく続く白い荒野。風に吹かれて、細かい粒が身じろいだ。所々に、やわらかな本物の緑を宿す草が揺れている。
 箱の外。偽物のない、本物だけの世界。祖父が愛し、懐かしんだ過去を孕む場所。言葉は出ない。代わりに、大きく溜息が零れた。眼前にあるものは祖父に聞いた話の中にあったものの極一部でしかないが、十二分に感動できる光景だった。
 一方で、FはDを気にもかけず、穴があった位置から多少離れたところに置いてあるモノに向かった。
「それは?」
「んー、都市には乗り物ってあまりないんだっけ。これは、バイクっていう移動をするための手段だよ。歩いて数時間かかる場所でも、あっという間に駆け抜ける優れものだ」
 FやDの躰よりも大きくて重そうな機体をもつそれが、軽快に動く様を想像するのは難しい。台車や清掃ロボについている車輪にも似たものがついているが、それで移動するのだろうか。
「はい、これ被ってなよ。ヘルメットっていう、頭を保護するやつなんだけど、知ってる?バイクに乗せて怪我されても困るし、それは顔全体を覆うタイプだから、ちょっとは空気避けにもなるだろうし」
「空気避け」
「そう。今までおキレイな都市の空気の中で暮らしてきたんだから、いきなり外の空気を吸ったりすると流石に躰に障るんじゃないかな。途中で倒れられても困るから、慣れるまで着けといて」
 Fはそのヘルメットをひょいと投げて寄越した。確かに、呼吸をしていると若干違和感がある。Dはヘルメットをどうにか受け取り、装着した。息苦しさはあるが、眩しすぎる日差しをカットするのにも丁度いい。
 ブルル、ブルルッルル。妙な音とともにバイクが細かく振動し始めた。Fは椅子らしき箇所に座ると、すぐ後ろにある台のような部分を指し示した。
「そこ、乗って。これで僕の家まで行って、周辺くらいなら案内してあげるから、満足したらさっさと帰ってよね」
「うん。…………なんだか、意外だな」
「何が」
「結構渋ってたから、こうやって面倒みてくれるとは思ってなかった」
 Fはガシガシと頭を掻いてそっぽを向いた。
「別に、そういうつもりじゃない。誰が好き好んでワケの分からないやつの面倒なんかみるんだよ。……ただ、考えが変わっただけだよ。この世界を納得するまでみせてやったら、否応なしにあの都市の歪さに気が付くだろうからね。そうしたら、あわよくば内側から都市を瓦解させる一因になるかもしれないでしょ」
 真意はかなり物騒だった。とはいえ、厚意――とは違うのだろうが、ともかくとして彼の言葉に甘えるのが良いだろう。Fの心に触れるのは、祖父の考えに辿り着くための足掛かりになる。Dはよろしく、と言うとFの後部の台に跨った。
「危ないから、僕の腰の辺りにでもしっかり掴まってて。――――行くよ」
 ブオン、と合図のような音が響いて、バイクは進み出す。壁がどんどん遠ざかっていく様子が、Fが握っているハンドルの近くにあるミラーから窺えた。あまりにもまじまじとミラーを見つめていると、バランスを崩しそうになって、Fの背にしがみついた。しかし、彼は少しも動じることなくピンと背筋を伸ばし、真っ直ぐ前だけを向いていた。
 小柄だと思っていたFの背は、ずっと逞(たくま)しかった。



 見渡す限りに広がっていた荒野も、バイクはほんの一瞬であるかのように駆け抜けた。Dはすっかり感心して機体を撫でたりしたものだが、再びバランスを崩しかけてFの服を思い切り引っ掴んでしまった。これは、流石に怒られた。
 荒野が終わると、緑が増えた。まばらだった草木があちらこちらに生えていて、桃色や黄色の小さな花も咲いている。時たま風に揺られながらも、一心に太陽に向かって咲き誇る姿に愛おしさを感じる。都市のホログラムでは有り得なかった感情だ。
「あっ、あれ!」
「うんっ?なに?」
「鳥だ。鳥が飛んでる!」
「そんなの、都市にもあったでしょ!さっきから見るものすべてに大袈裟過ぎない?あと、あまり燥(はしゃ)いでると舌を噛むよっ」
 バイクの出す音にかき消されないように張り上げた声が、呆れたように注意をした。それを聞いてDは慌てて口を閉じたが、眼に映るものは何であれ美しかったり、物珍しかったりして心をくすぐられて仕方がなかった。チチチチチッ、と鳴きながら空を横切る鳥の歌に耳を澄ませ、植物や岩の陰に急いで身を隠す小さな何かのいきものを眺めたり、バイクとは逆方向に流れていく雲を見送ったりした。タブレット端末の教材ではとっくに外の世界は崩落していると書かれていたけれど、そんなのは嘘だった。呼吸ができる。いきものは生を謳歌している。せかいは、いきている!
 どれ程時間が経っただろうか。Fがバイクを走らせるためにできたのであろう、道のような箇所を辿るうちに、ひとつの小屋の前でバイクは停止した。都市の真四角の建物とは違って、屋根は三角だ。周りを背の高い木が囲っていて、日光の射す量は良い塩梅(あんばい)に調整されていた。
「まあまあ散らかってるけど、苦情は受け付けてないからね」
 Dはバイクから降りてヘルメットを外すと、Fについて屋内に入った。中はしんと静まり返り、二人のほかに人の気配はない。
「ああっ、普段はこうやって他人と喋ったりしないからどっと疲れたよ……。ちょっと休憩~」
 Fは、入ってすぐの居間の中央に置かれた三つの椅子の一つに、しなだれかかるようにして座った。Dも恐る恐る後に続き、Fの椅子からテーブルを挟んで向かい側の椅子に座った。そして、ふと部屋を見渡す。
 さほど大きくなさそうであった外観の通り、屋内も決して広くはない。建物の規模に合わせるように、家具も小さめで数は少ない。居間の中央の椅子とテーブル以外には、申し訳程度のキッチンと、部屋の隅の方にデスクが一セット、デスクにはFのものとは別のノートパソコンが設置されている。そして、その足元には工具やコードがごちゃごちゃ散乱していた。
 ひととおり観察し終えてから、Dは自分とFの座る椅子とテーブルに視点を戻した。ここで、気になることを発見する。
「F、君のお父さんとお母さんは……家族はどこにいるんだ?」
 椅子は三つある。つまり、Fはおおよそ三人家族であることは見当がつく。けれども、現在この部屋には誰もいない。家を出ているのだろう――――と、最初こそ考えていたものの、それにしてはDの座った椅子に積もった埃は不自然だった。
「いないよ。両方とも、もうどこにもいない」
 Fは、顔をテーブルに伏せたままの体勢で答えた。彼の表情はこちらからは窺えないが、声の調子に変化はない。
「父さんは五年前に、母さんはその二年ほど後に。二人とも、病気で死んだ。それからはずっと僕はひとりで暮らしてる。言ったでしょ。『他人と喋るのは久しい』ってさ」
「…………それは、なんというか、その……」
「やめてくれない、そういう辛気臭いの。たいして近しくもない人間の同情ほどつまらなくて無意味で、失礼なものはないよ」
 言葉の端を濁すDに、顔を上げたFが言う。そこには、やはり負の感情と呼べるものは浮かんでいない。
「でも、淋しくはないのか」
「さあ、どうだろう」
「どうだろう、って」
 自分のことなのに。Dは首を傾げた。仮令、どれほど素晴らしい世界に生きようとも、こうも広い場所にたったひとりでいることは、孤独だ。孤独に慣れることはまずないだろう。ひとりでいることが平気だというのは、自分を騙して思い込んでいるに過ぎない。
「気にしたことなんてないよ。こう見えて、毎日が忙しいんだ。あんたみたいな都市の人間と違って、食糧は自分で調達しないといけないし――――都市の陥落のための手立ても考えないといけないからねぇ。そうやって過ごしていたら、一日も一瞬で終わってしまう。特に、都市を崩壊させるためにいろいろ作戦を立てたり、準備したり、都市に近付いて実験してみたり……これが一番大変なんだ。頭を使うし、捕まりやしないかとか、当然ヒヤヒヤもする。日課が終わったらもう夜になって、あとは食事して眠るだけ。疲れるからぐっすり眠れるよ。夢だってみない。忙しくて、いちいち淋しいだのなんだのほざいている暇はない。――――そもそもさ、都市の陥落は父さんたちの悲願でもある。だから、その達成のために一日一日があるんだと考えれば、悲しいことも何もない。僕と父さんたちは繋がっている」
 このとき、Fは初めて微かに笑った。口角を微妙に吊り上げて、誇らしげに言い放った。揺るぎない意思だった。
「さて、話はこのくらいにしておいて、出掛けるよ。荷物積むのは手伝ってよね」
「出掛けるって、どこへ?」
 立ち上がって伸びをするFに尋ねる。彼はやれやれといったふうに肩を竦めた。
「なに言ってんのさ。都市の外の世界を知りたいって言ったのはあんただよ。これからその夢を実現するのを手伝おうってのに。せっかく壁を越えて来たのに、まさかしみったれた家に閉じ篭って終わりとか、そんなつもりないでしょ?」
 FはDを促してから、荷支度を始めた。愛用のノートパソコンの入っていた小型の鞄とは別の、ふたまわりほど大きなものに必要であるらしい道具などを詰め込んで、Dに渡した。
「これをバイクまで運んで」
「わかった…………ちょっと重くないか」
「文句でもある?」
 文句があるなら連れて行かないと脅迫しかねない調子だった。Dは首を横に振って、素直に従った。
「…………Fは、荷物はそれだけか?」
 Dが持たされたものに較べて、Fの鞄はさっきまで提げていたものと同じで、中身も変化がないようだった。
「そうだよ。僕はバイクを運転しないといけないんだから、イーブンでしょ。だいたい、あんたを乗せてる部分は、本来荷台なんだ。というわけで、あんたが持つのが道理だ。…………文句、ないんだよね」
 念押しされてしまえば、どうしようもない。Dは黙って頷くしかなかった。
 Fは扉を開いてDを急かした。Fの表情が心なしか楽しそうであったというのは、Dの思い過ごしであろうか。



 再びバイクを稼働させ、向かう先をFは教えてくれなかった。目的地に辿り着いてからわかる方が、予め知っているよりも楽しいのだとか。初めのうちはあれほどDを外に連れ出すことにノリ気ではなかったのが、この変わり様だ。Fは元来、意外と茶目っ気のある少年なのかもしれなかった。
 バイクが進むにつれて、更に都市からの距離は離れていく。今度は、道すがらに天へそびえる山を見た。植物で青々とした装いだが、所々に茶色い岩肌が覗いていた。堂々と大地に立つ姿は偉大だ。やっぱりせかいは、いきている!
 Fはまだバイクを走らせた。山を過ぎて、だんだん小さくなって、すっかり見えなくなった頃、ようやく稼働音は停止する。
「到着だよ」
 ゴツゴツした岩が幾重にも積み重なっている上に降りて、数歩歩く。岩がふいに途切れている傍で止まると、その先には壮観が待っていた。
「これは……!」
「海だよ。お祖父さんもよく話してくれたんでしょ」
 海。塩分のある巨大な水たまり、原初の生命の故郷。空とはまた異なる青さをたたえ、きらきらと絶え間なく陽の光を反射している。波打つ水面は、ずっとずっと彼方まで満ちている。
「海まで来たんだ、コレをやらないと意味がないよね」
 Fは、荷物がたくさん入った方の鞄から糸がついている折りたたまれた棒と、密閉された容器、バケツを取り出した。釣り、というらしい。祖父からも聞いた覚えがある。海の中にいる生物、サカナを餌にひっかけて捕獲する。餌は、密閉した容器の中で蠢いているムシだった。Dは、Fに教えられながら釣りをした。Dがなかなかサカナを捕まえられない一方で、Fは次々に獲物をバケツに放り込んだ。コツが要るのだと、Fは自慢げに笑った。
 時は経って、空が朱く染まっていくのを目にした。白っぽく輝いていた太陽がその色を変え、果てなき水平に沈む様子は荘厳だが、どこかもの哀しかった。その頃には釣りの道具は仕舞い、バイクで一寸移動する。
 太陽が沈み、薄暗くなってから次の場所へ到着した。そこは、壊れたような建物が並ぶ、いわゆる廃墟だった。ぼろぼろに崩れたコンクリートの残骸、罅割れた地面から生えた草、隅っこを駆けるネズミ――――どれをとってもやはり、せかいはいきていた。滅びたもののあとに、生けるものが精一杯暮らしている。
 崩れた街の中で、比較的家屋の様相を保っているところを見繕って、二人はそこに入って荷物を置いた。とはいえ、ひとが捨ててから随分と時が過ぎているため、ほかと同様に穴が空いていたりする。今夜はここで夜を明かす。
 Fは先程捕まえたサカナを串に刺し、火を点けた木の枝にくべた。火という原理は当然知っていたが、実際に目にしたのは初だった。都市はすべて電力で廻っている。また、サカナを食べるのも初めてだ。
「D、空を見て」
 Dは言われたとおりに空を仰ぎ見た。真っ黒に染まり、それでも尚透明感のある夜空には、たくさんの星が煌めいていた。都市の夜にも星は浮かぶが、等間隔に光の点が散りばめられているだけだ。本物の星は、ばらばらのようでいて何かしらの形を成していたり、それぞれが独自の色と点滅をしていた。
「星はさ、僕らのいるところからかなり離れたところにあるエネルギー体が燃えているものなんだ。その光は何百年、何千年、あるいはもっともっと昔に放たれたのが、こうやって僕らの眼に届いている。不思議なものだよ」
「本当に、そうだな。世界は、なにもかもが不思議で、面白く、奇麗だ」
 DはFに同意する。都市の人間が知らない世界は、言葉では表せないほどに素晴らしい。
 でも、とFは突然、緩んでいた頬を引き締めて真剣な顔になる。
「人間は、目先の欲のために世界を汚した。自分たちがその世界の一部だということを忘れて、身勝手に振る舞い続けた。幾万の種の生物を死に至らしめ、空も大地も海も傷つけた。結果、世界の一部に過ぎない人間は自らの棲む場所をも失う一歩手前まで来た。人間も多くのひとが死んだ。自業自得だよ。ひとは滅ぶしかなかったけれど、狡賢いいきものでもあったから、最後の悪あがきをしたんだ。それが、破壊してきたものを取り戻すとか、そんな考えだったらまだ良かった。だのに、人間が選択したのは逃避することだった。無駄に発達した科学技術を使って、腐りゆく世界と隔絶した空間を築き上げて移住した。ありったけの資源を自然から搾りつくして電力に変換し、都市で生活する者たちが生きていく最低限の設備をつくった。都市にいる限り、人間はどうにか生存できる。けれども、あくまでも延命療法でしかない。だって、いつか資源は底をつく。そうしたら、都市の全機関は停止、おキレイな暮らししか知らない、自ら生きるための術のない人間はどのみちおしまいだよ」
 都市を頑なに否定していた少年の吐露は、実に悲痛であった。
「ひとはせっかく、思考し、実現するという能力を持っているんだ。ちゃんと活用して、世界と分かち合って、幸せになれるはずなんだ。そのことに誰もが気付かない。誰も、本気で考えようとしない」
 DはFの主張を静かに聞いていた。都市の壁を越えなければ、あるいはFに出会わなければ聞くこともなかったであろう、ひとと世界の生の話だ。
「僕の父さんの家系は、一族で都市の中央コンピュータのシステムエンジニアをしていた。それこそ、祖父さんの代には都市の建設計画にも携わっていたみたい。だから中央コンピュータに蓄積された情報に触れる機会も多くて、たいていの人々の間で次第に薄れゆく外の世界についての認識とか、人間の置かれている状況・過去・未来――――そういうものへの配慮を忘れはしなかった。父さんは、警告しようとした。人間が過剰な発達をやめて、生きとし生けるものとの共生を模索すべきだって、ね。………D、あんたが見た外の世界はさ、きっと都市で植えつけられていたイメージとは違っていたはずだよ。これまでのあんたの認識がまるっきり違っていたんじゃあない。昔は、確かにそうだったんだ。だけど、人間が都市に篭ってから長い期間、目覚ましい開発はなかったでしょ。おかげで、自然のものはいくらか回復を遂げたんだ。世界は繊細だけど、全然弱くはない。むしろ、強いんだ。そう、父さんは伝えたかった。世界と一緒に生きて行こうって。箱の中の暮らしは、命があるっていう以外に、ほかの素敵なことは疎外されている。機械に支配されない自由も、他人と関わり助け合う慈しみも、いきものたちとふれあう歓びも、美しいものをみる感動もない。きっと、あんたのお祖父さんが言いたかったのも同じなんじゃないかな」
 ああ、きっとそういうことなのだろう。Dは確かに、祖父の気持ちがわかるような気がしていた。箱の中、ただ生かされるだけの人生が最高だとは、この世界を知った後には感じない。
しかし、全面的には肯定しがたいナニモノかが胸に引っかかっている。Dにはそいつを明確にする言葉が浮かばなかった。
「…………もちろん、コンピュータのエンジニアたちの中にも、父さんの主張を否定する者はいた。そもそもが、エンジニアのほとんどが、都市のシステムを支持していたみたい。エンジニアは、コンピュータの管理の過程に干渉して、自分にちょっとした利益が出るように細工も可能だ。都市の在り方を否定する父さんは迫害されて、最終的には僕たち一家は都市から追放され、現在は僕ひとりで使っているあの家を建てて、ひっそり暮らすようになった。これでもまだ諦めきれなかった父さんは、都市を去るときにくすねてきたコンピュータや電気部品を用いて、都市の機能を反停止状態にする強硬手段に出た。やりすぎだって、笑いたかったら笑えばいいよ。非難されたって構いやしない。いずれ必ず、都市は崩壊する。だったら、なるべく早い方がいい。都市以前の人間の生き方を知る人が皆この世を去って、過去のデータを蓄積したコンピュータが完璧に機能しなくなってからじゃ、遅いんだ。取り返しがつかなくなってしまう。――――父さんの目標は、エネルギーが尽きてコンピュータの電源が落ちてしまう前に、データ閲覧機能以外の機関を停止させて、否応なしに新しく人間の正しい道を模索していかなければならない状況にすること。実現すればきっと、人間は善く生きられる。正しい幸福を掴むことができる。誰よりもそんな未来を叶えたかったはずの父さんはもういないけど、僕が遺志を継いでいる。……僕の技術は父さんの見よう見真似なもので、まだまだだけど、必ずそういう未来をもたらしてみせる」
 真面目に人間と世界について想うFを、笑う権利も非難する権利もDは持ち得ない。きっと彼はある面では正しい。だが、またある面では間違っている――――何故かはわからない。Dは手放しにFを称賛することが出来なかった。



 翌朝、一旦Fの家に荷物を置いて、Dは都市の自宅に戻ることにした。Fのバイクの荷台に座って、感動の記憶を反芻した。家に帰って両親がどんな反応をするのかが恐ろしかったが、都市の外へ飛び出したことは良かったと、心底思う。
 昨日辿った景色の逆流の中で、えもいわれぬ寂しさに襲われながらも、あっという間に都市の壁まで帰ってきた。Fとの短い旅も終わり、一応はここで別れとなる。
「じゃあ、僕はこれで。……たくさん文句も言ったけど、案内も悪くなかったよ」
「こちらこそ、Fがいて良かった。ありがとう」
 壁を越えた時と同じく、Fのシステム干渉によって空いた穴に向かってDは急ぐ。穴は数十秒も経つと自動的に閉まってしまうらしい。中央のコンピュータに異変があったことを誤魔化せる最低限だという。別れの挨拶は、お互いに簡潔に済ませた。
 Dは壁の内側に入り、穴が閉じる直前のほんの一時だけ、Fの姿を見た。荒野をバイクで駆け往く背筋は、やはりしゃんと伸びていた。
 それから、Dは家路を急ぎながらも、街に視線をめぐらせた。ほんの短い間離れていただけなのに、とても懐かしく思った。相変わらず、偽物の空も、いきものも、大地も冷淡で平板な装いをしていた。いうまでもなく、外に息づいていた本物の方が魅力的であるに決まっている。両者は較べようもない。
 ―――――何故だろう。外の世界はどんなものにも代えがたい価値がある。だのに、F。俺はやっぱり君を肯定できない。
 ぱたぱたと無邪気に走り回る幼い兄弟や、すれ違いざまに挨拶を交わす女性たち、支え合いながら歩む老夫婦を、街でちらほら見かけた。自己保存こそが優先されるべき最たるもので、他は二の次であるかのような都市の中で、彼らは笑っていた。それは心の底からの笑顔だった。心臓の踊るほどの感動は、ここには存在しないかもしれない。しかし、都市に住まう人々が不幸だなどと、誰が決めつけられようか。彼らに指を突き付けて、お前たちは可哀想だとのたまう権利の所有者は存在すべきではない。
 街で人々の姿を目にして、Dは無性に家に帰りたくなった。息を切らして走り、家に着くと勢いよく玄関の扉を開けると、驚きと困惑と、安心とが綯交ぜの表情でDを凝視する両親にとびついた。暫し呆然としていたふたりだったが、優しい声でDを迎えた。
「おかえり」
「おかえりなさい」
 恐らく、何も言わずにいなくなったDを案じ、悩んだことだろう。けれども、厳しく問い詰めることもせず、あたたかく包みこんでくれるひとがいる。このことが、今はただ嬉しくて仕方がないように感じられた。ゆえにDも、とびきりの笑顔で言わなくてはならない。
「ただいま!」
 ここにだって、幸福は満ちている。



 父の語る話を聞き、母の心のこもった食事を食べて、一家は団欒を過ごした。Dは都市の外に出ていたことは告げなかったし、両親も彼の行動について言及しなかった。外のことを不用意に都市の住民に漏らしてよいものか、Dが迷ったのもあるが、父母の方もDを尊重してくれているのだ。
 夜、Dは自室の窓から空を仰いだ。星を自称する単調な光の点が散らばる黒を見つめながら、DはFの主張と祖父の哀れみをそっと否定した。
 密閉された偽物に満ちた歪な都市の中でも、人々はいきている。大きな感動や美しい世界をなくしても、ちいさな幸福感をちゃんと抱いている。その幸福は、決して何ものにも劣りはしないだろう。街の人のささやかな微笑みも、Dと両親との団欒も、一方的に不幸だと決めつけないでほしい――――そう思う。
 滅びを約束されたような空間で閉じ篭って奇妙な暮らしを続ける人間は、滑稽だとしても、傲慢だとしても、そこにわずかな幸せを見出して自分たちなりに懸命に生きているのなら、それがひととしての在り方なのだ。それが正しいか、正しくないかは何者にもわかるものではない。
 だから、Dは都市を否定しない。都市が存続するのも滅びるのも、人間が生きるのも死ぬのも、ひとの営み次第だ。ひとの在り方は、ひとが決め、ひとが生きるものに相違ない。ならば、Dはこの営みに従いたい。それが身勝手なものだったとしたら、相応しい制裁が待っているだろうから、甘んじて受けとめよう。だって、Dにとっての家族という幸福はここにしかないのだ。
「……F、都市だって捨てたものじゃないよ」
 Dは呟いて、布団に潜った。もし、今度Fに会うようなことがあったらそう言おう。そして、次は彼に都市内を案内してみるのも悪くないかもしれない。
 今夜は、良い夢が見られそうだ。

『D×F』

『D×F』 文生みすゐ 作

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2017-01-12
Copyrighted

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