銀行の顧客
銀行の顧客
第一話 インテリ・やくざ
その日は、午前十時から地域の金融機関の防犯会議があった。場所はC銀行駅前支店。
インテリーやくざ
その日は、午前十時から地域の金融機関の防犯会議があった。場所はC銀行駅前支店。そこまでの所要時間と途中の交通事情も考えて、私は九時二十分頃自店を出た。
会議は予定通り正午に終えて、私が店に帰って自席に着いたのは十二時半頃だった。机上には未決済の伝票が山積みされたまま。支店長も私のほかにいるもう一人の次長の姿も見えない。二人とも応接室にでもいるのであろう。
店内の客数はまばらだが、机上に山積むみされた伝票は一時混雑した事を示している。行員たちの表情もまだ緊張から解放されていない。
私は、昼食は後にしてとりあえず準備している伝票を捌くために自席に着いた。その途端、電話のベルが鳴った。
「もしもし、次長さんにアド・マイルドさんとおっしゃるお客様からお電話です」
女子行員は早口でそう告げた。「アド・マイルド?聴いた事のない名前だな」と思いながら受話器をとる。
「お待たせ致しました。お電話替わりました」
「あ、もしもし、わたくしアド・マイルドと申しますが、店長さんでしょうか?」
「いえ、次長の大谷と申します」
「ああ、そうですか。実はですね。今朝九時半に御行に伺って、北海道銀行○○支店の山田商事に百三十万送金したんですがね、その時の受付嬢の説明では、正午までには先方の口座に入金になりますとのことでしたが、いま問い合わせましたら未着だと言ってますけど、どうなっているんでしょう・・・」
私は慌てて、未決済の箱から、為替の送信伝票の一連を取りだし先端の方から目を通した。件の伝票はすぐ目についた。まだ発信していないのだ。
「もしもし大変失礼いたしました。既に電信でおくってありますのでまもなく入金されると存じます」
「もしもし送信してあるものなら、なぜ先方の口座に入っていないんですか?」
「その辺の事情はちょっと調べてみないと解りませんが・少々お時間を頂けませんか?」
「調べるって言ったって、大谷さん、これは山田商事の今日の手形決済資金なんですよッ。わたしは山田商事にお昼までには必ず入金すると断言したんですよ、わが社は信用を著しく傷つけられたんですよ」
「誠に申し訳ありません、数分後に顛末をご報告申し上げますので・・・」と言いながら、私は為替係に当該伝票の発信を手振りで指示した。その後急いでコンピューターセンターに電話し、いましがた発信した北海道銀行○○支店宛ての電信送金が先方の口座入金する迄に何分位かかるかを確かめた。三十分もあれば確実だとの返事を聴いて時計を見た。十二時五十分だ。一時三十分までには確実に入金になる。手形交換のタイム・リミットの三時には十分間に合うから手形事故には繋がる事はない。という見通しが立って、私は安堵の胸を
撫でおろした。
さて、それにしてもアド・マイルドには、なんと釈明するか、思案した。
コンピューターの故障となると、社会的ニュースになることもある。調べられれば嘘だと知れてしまうだろう。一時為替取引が集中してコンピューターが飽和状態となった為に、本部での処理が遅れた、という事にしよう。とその時電話のベルが鳴った。こちらからの報告を待ち切れず、アド・マイルドからの催促だ。
「もしもし、大谷さん、原因わかったの」
私は、あらかじめ考えておいたうその説明をした。その途端、先方の態度はがらりと変わった。
「ようよう、オオタニさんよう。午前中に入ると約束した金が、いまだに入ってねえんだぜ。わが社の信用を台なしにしてくれたなぁ。それに、金は着いちぁいねえんだ。不渡りになったらその責任はきちんと取ってくれるんだろうな」
「はい、万一そのような事態になった場合は、私どもに責任があるのは当然でございます」
「そんなら、いますぐ百参拾万送れよ」
「ですから、送金の手続きは既に済んでおりますのでー」
「いいから、すぐ送れと言ってんだよ」
「でも、それでは二重送金になりますので・・・」
「なに言ってんだ。金はまだ着いちゃいねえんだぜ」
こんなやり取りを三十分も続けただろうか。私は、この相手は堅気の人間ではないことを悟っていた。なんとか一旦電話を切る事が出来た。時計に目をやると一時二十分だ。この間隙に私は北海道の山田商事に直接電話を入れた。
「こちらは○○銀行ですが、今朝そちらさまにアド・マイルドさんからのご依頼で百参拾万のご送金を承りましたが、アド・マイルドさんはまだ未着だとご心配になっておられますので私どもも心配になり確認のお電話を差し上げた次第でございます」
「ああ、それはもう入っていますよ」
これでよし。このあとどんなに横車を押されようと毅然と対応できるとという確信を得た。
午後二時半頃、またもやアド・マイルドからの電話だ。私が山田商事と電話で直接話し合ったことを、アド・マイルドは知らないのだ。
「オオタニさん、金は送ってくれたかねー」
「今朝承ったご送金は処理済みでごいます」
「ございます、って あんた、昼までに着くって約束をたがえて当社の名誉が傷つけられたっていってんだよ。どうしてくれんだよ」
「どうしてと言われても、私どもは承った送金の手続きは済ませておりますので」
「おうおう、オオタニさんよぉ。あんたひらきなおるのかい」
「別に、ひらきなおるつもりなど・・・」
「だって、あんた、さっき謝ったじゃねえか」
「それは、正午までに着かなったことにおわび申しあげております。
「だから、それで迷惑を蒙っているといってんだよ」
「しかし、三時までに入金すれば、先方さまに実害は生じないと思いますが」
「オオタニさんよ。百参拾で落とし前をつけてやろう、そう言ってんだよ」
「正午までに入金しますと言う約束をたがえたことは、おわびしますが落し前云々というのは応じかねます」
「ほう・・・いい度胸してんじゃねえか。そんなら家族ぐるみで一生付き合ってやるぜ」
そう言われて、私は咄嗟に中学生の娘の事が脳裏を掠めた。
しかし、私は決然と言った。
「あなたは、私を脅迫するんですか」
と突然相手の電話のトーンが変わった。
「キョウハク、そんなつもりなんかないよー」
「でもあなたの言葉は脅迫じゃありませんか、実害のないのに金銭で決着をつけようとか家族に危険が及ぶことを示唆しているんですから、わたしは山田商事さんに直接電話して既に入金していることを確認してあるんです。これ以上あなたがわたしに言いたいことがあるんなら、出るところへ出て決着をつけましょう」
「ほうー。立派だねぇ、参った。私の負けだよ。わが社にも、あなたのような立派な人材が欲しかったなぁ」
そう言われたら、私は緊張感がどっと解けて、思わず言ってしまった。
「いや、私どもにも手落ちがありました。それを許して下さる社長さんに感謝します。改めてこれからお詫びに御社に伺いたいと思っています」
この私の言葉を、先方は慌てて遮った。
「いやあ、それには及びませんよ。これでも、こちらは、ちゃんと店を張ってやってるんだからー」
私は、オヤッと思った。語るに落ちるというが、実はアド・マイルドは、このマンモス団地の一隅に電話一本だけを設置した、実体のない企業なのだと気づいた。
洗練された商社マンから突如やくざに豹変したアド・マイルドとの舌戦は十二時三十分から断続的に五時間に及んだ。
電話器を握り放しの私とアド・マイルドとの攻防の様子を見聞きしていた支店長も、私のほかのもう一人の次長も、それぞれに来客があったにせよ、私の出張中の手当を全くしなかったことへの反省の弁は一言もなかった。いや、そもそも、わたしの仕事をカヴァするという基本さえ守っていれば、この事件は、発生することがなかったのだ。ただ、決着のついた直後に店長だけが「大変でしたねー」と言ったきりだった。
銀行の顧客