アトランティスの王女、第四部。
ユリアの幼馴染、ヒッポリュテーが登場。ケンタウルスの王ケイローン、幼い、ヘラクレスも登場。壮大すぎる物語、第一シーズン完結!
この作品は、小説家になろう、以来、二度目のお目見えです。
アトランテイスの王女、第四部、『コーカーサスから来た王女』
プロローグ。
マザーシップの展望台でひと休みを終えた仲間達は、いよいよ最後のエピソードの回想に取り掛かった。
「最後のエピソード、と言ったってねえ。あたしは最後の頃にはクレタ島に来ていたしねえ」
ヒッポリュテーはすっかり、リラックスしていた。
フレイヤは、「クレタで最初に会ったのはあたしよ」
ダイアナは、「ヒッポリュテーの船に気付いたのは、私よ」
「ふん?低高度偵察衛星が発見したんでしょうが?」
「まあ、まあっ、喧嘩をしないで。飲みながら話をしょう」
涼子はワインをフレイヤとダイアナに勧めた。地上から転送したこの時代のワインだ。
パストゥールの教に従い、低音殺菌してある。
低音殺菌なんて古代人は知らないが、これでワインが腐敗する事は無い。
後世のワインに比べてアルコール度数が低く、極端に甘い、まるで乳酸菌飲料の原液みたいだが、馴れればなかなか美味い。絶品のワインのできあがりだ。
フレイヤとダイアナは大酒のみだ。アルコールが入ると口が軽くなる。涼子は二十歳を過ぎているが、あまり飲まない。フレイヤとダイアナとヒッポリュテーは語り始めた。
第一章。 クレタの海岸にて。
フレイヤはアムニソスの港で海岸を眺めていた。
本来のクレタ人の多くはパレステイナに流出しており、残ったクレタ人は島の西の方に移住している。 もうすぐ本土からアカイア人が大挙襲来してくる。
フレイヤはこの時代のクレタ人に化けて、成り行きを見守る役目を与えられていた。
フレイヤは絶世の美女だが、野蛮なアカイア人が彼女を犯すのは不可能に近い。
37世紀のテクノロジーには勝てない。女神の怒りを味わう事になる。
フレイヤの衛星携帯情報端末のチャイムが鳴った。
「フレイヤ?アムニソス港にガレー船が向かっているわよ。衛星からのデーターでは、アテネ(アテナイ)辺りの船で、トロイ辺りから乗り込んだ乗客が大勢乗っているわ。警戒を怠らないで頂戴」
「アテネの船?」
「船を乗り継ぎながらクレタに向かっている人物がいる。油断しないで、気を付けて頂戴」
「了解」
フレイヤは衛星携帯情報端末のスイッチを入れたままにしてアムニソス港を見た。
「あとで5分で水平線に現れるわよ。北の方をしっかり見て」
「わーったわよ」
フレイヤは双眼鏡を構えて水平線を見た。やがて一隻のガレー船が視界に入って来た。
「フレイヤ、あれがその船よ。気を付けて」
「わーったわよ」
アムニソスに上陸した一行は、ぞろぞろとクレタに上がりこんで来る。その中に奇妙な三人がいた。 一人は一見してロシア人。否、この時代にはロシアなんて無いのだから、一見してスラブ人の若い女、ユリアと同じぐらいの年頃か。
もう一人はギリシア本土のアカイア人とも、ドーリア人ともハッキリしない、10歳ぐらいの少年で、顔は幼ないが超マッチョ。 もう一人は30歳ぐらいのおっさんだ。
何処から見ても普通の人間だが、学者のような雰囲気がある。親戚が集まって気楽な家族旅行? 違う、家族や親戚とは思えない。
おっさんと少年はともかく、スラブ娘は親戚には見えない。
せいぜい友人ってとこね。
三人はてくてくと歩いてくる。スラブ娘が何か言っている。
フレイヤは翻訳機のスイッチを入れた。
「ユリアはどこ?どこにいるの?アマゾネスの王女ヒッポリュテーが会いに来たのよ。会わせなさい」
アマゾネス?ヒッポリュテー?聞いた事のある名前ね?
ヘラクレスに殺された、アマゾネスの女王の名前?
そういえば木馬で有名なトロイ戦争で、アマゾネス女王のペンテシレイヤがトロイの側に立って、ギリシア連合と戦い、壮絶な戦死をした。と言う話があった。
ペンテシレイヤは狩猟中の事故で妹を殺してしまい、自分が許せず、と言って自殺する気にもなれず、トロイ戦争に参加して、無気力な戦いでアキレウスに殺されて戦死した。その妹の名はヒポリタ。しかし、トロイ戦争はここから80年も未来の話なのだ。
この娘がペンテシレイアの妹の筈は無い。 ヒポリタとかヒッポリュテーというのは、よくある名前なのだろう。
日本人で言えば、洋子や涼子のような、平凡な名前なのだろう。
フレイヤは、「王女ユリアはここにはいないわ」と答えた。
「では、何処にいったのよ?」
「一旦エジプトに行って、それからフイニキュアの南、カナンの地よ」
「カナン?」
パレステイナなんて言葉はこの時代にはまだ無い。
「ええい!!このあたしが、ヒッポリュテー様が、コーカーサスから遙々やって来たのに、ユリアがいないなんて」
散々毒づくヒッポリュテー。
フレイヤは、『何よ?この勝気で下品な自称(笑)王女様は?あたしも口が悪いと言われるけど』と思った。
「そこの坊や、あなたの名前は何と言うの?」
「僕?僕の名前はアルカイオス。デバイの王女アルクメネとアンピトリュオンの息子だ」
『アルカイオス? アルカイオス?どこかで聞いた名前だわね?何だったかしら?』
ダイアナはこの会話をモニターしていた。
アルカイオスの身元はホストコンピューターが確かめてくれるだろう。
「そこのおじさん。あなたのお名前は?」
「ケイローン。 ケンタウロスの王ケイローン。ぺリオン山からやって来た。アルカイオスの教育係だ」
「ケイローン?ケンタウロスの王ケイローン???
おじさんが?」 そのおっさんは二本の足で立っていた。
どこからみてもノーマルな人間だった。 半人半馬の怪物では無かった。
「うっそーー!!???」
フレイヤは軽薄なギャルのように呻いた。(笑)
ケイローンの説明をフレイヤは聞かされた。
「ケンタウロスの一族は馬を自分の体のように操ることができるのです。
そしてぺリオン山の奥地にひっそりと暮らし、ギリシアの王族の教育係をしている。王族以外のギリシア人と殆ど接触しない。 そのうち変な俗説が生まれた。
ケンタウロスは半人半馬の醜悪な姿を人前にさらしたくないので、身を隠しているのだ。とね。しかしそれは大きな間違いです。ケンタウロスは人間です。単に馬を自分自身のようにのように操るというだけなのです」
フレイヤは、そういえばスペインがインカ帝国を侵略したときに、インカ人は馬を知らず、スペイン軍を化け物だと信じて、怖じ気付いて、ボロ負けしたのだ。(笑えない)と言う、アホな史実を思い出した。
「ケンタウロスが人間・・・只の人間ねえ?」
「ケイローンが半神半馬なら、あたしは戦争の神アレス(マルス。火星)の娘だよっ!」とヒッポリュテー。
この人が本当にケイローンだとゆーなら、このヒッポリュテーもヘラクレスに殺されたヒッポリュテーと同一人物?
まさかねえ? そんな筈は・・・?
そのときフレイヤの衛星携帯情報端末に、マザーシップのダイアナの声が飛び込んできた。
「フレイヤ!!大変よ!!アルカイオスと言うのは、あの、ヘラクレスの幼名なのよ!!!」
「ヘラクレス?あの坊やが?」
これが正しければヒッポリュテーは、あの筋肉坊やに殺される運命?
フレイヤはすっかりパニクった。
神話の神々は古代の英雄が神格化されたのだ。と言われている。 しかし、それにしても?
よりによって、ケイローンとヘラクレスと、ヒッポリュテーに会えるとは? この調子なら、ヘラクレスの家来でアテナイの王子の、 テーセウスが生きているだろうし、(年齢差を考えるならテーセウスは赤ん坊の筈だ)アキレウス(アキレス)の父親のペレウスも生きているし、イタケの島まで行けば、 オデュツセウス(ユリシーズ)の御先祖にだって会える筈。 ユリアはトロイの都でラオメドンの即位式に出席している。 しかし!ラオメドンはトロイ戦争の50年ぐらい前に、ヘラクレスに殺されたという伝説があるのだ。
ドケチで暴君のラオメドンは、ポセイドンが送ってくる海の怪物の退治をヘラクレスに依頼し、成功していながら報酬を踏み倒した。そしてヘラクレスに殺された。とされる。
ヒッポリュテーがヘラクレスに殺されたのも同じ頃だ。
あるいはもう少し後だったかな?
30年後にこのマッチョ坊やはヒッポリュテーを殺すのだろうか?
ヒッポリュテーは40歳代でヘラクレスに殺される?
ヒッポリュテーはヘラクレスが有名な12の難行で、父なる軍神アレスから贈られた金ピカで宝石を散りばめた帯を奪いに来たとき、争わず古い友人か何かのように、持て成して、素直に帯をプレゼントすると約束した。
しかしアマゾネスたちは女神ヘラの流したデマにより、外国人がヒッポリュテーをさらいに来た、(笑)と信じた。
集団でヒッポリュテーを守ろうとする女戦士の集団を見て、ヘラクレスは怒り、ヒッポリュテーに裏切られたと信じた。そしてヒッポリュテーを殺したのだ。
殺された方は気の毒だが、この娘は本当にあの、ヒッポリュテーなのだろうか?それとも同名異人? フレイヤはヒッポリュテーの腰を見た。
別に金ピカの帯はしていない。
「ねえ?ヒッポリュテーさん?あなたは金ピカの帯をしていないの?」
「あら?母のベルトを何で知っているの? そのうち母から貰う約束だけど、今回は実家の方に置いてきたわ」
『やっぱりー?!?しかしそれが本当ならどうすればいいのよ?』
ここにいる、10歳のマッチョボーイは、あのヘラクレスなのだろうか?
「ヒッポリュテーさん?そのお母さんのベルトは、軍神アレス(マルス)から授かったのかしら?」
「8年前に、クレタの外交使節団が錫の買い付けに来たときに、錫の代価として、ユリアからあたしの母に支払われたのよ。そのうち母からもらうわ。あたしが女王になったらの話だけど」
この答えにフレイヤは少々混乱した。金ピカのベルトというのは、オリジナルのギリシア神話では軍神アレスからの授かり物である。
しかし、実際にはクレタから贈られた贈答品らしい?
それとも?この娘はやはり、同名異人なのだろうか?
それを確かめるには、 まずアルカイオスの正体を確かめる事だ。
「坊や、アルカイオス君?君の家族の事を教えてくれないかしら?」
「両親の名前は話した筈だよ。」
「双子の弟がいなかったかしら?」
「何で知っている?」
「念の為の確認よ」
「双子の弟の名はイピクレスだよ」
イヤホーンの向こうからダイアナの声が聞こえる。かなり泡食っている。
「その名前の通りなら、その少年は、ヘラクレスで間違いないわよ」
『ゲゲッ?いよいよ話が変な方にいっちゃうわよ?』
ダイアナは、オリジナルのギリシア神話の知識を、マザーシップから送信してきた。
「アルクメネは婚約者のアンピトリュオンに化けたゼウスと同衾したという。
その後本物の婚約者と同衾した。そして二卵性双生児を産んだ。
一方はアンピトリュオンの子、イピクレス。
一方はゼウスの子、アルカイオス。(ヘラクレス)
アンピトリュオンはどちらがゼウスの子か判らず、二人とも大切に育てた。
しかし幼ないヘラクレスは、ゼウスの正妻ヘラが刺客として送り込んだ二匹の毒蛇を、赤ん坊でありながら、素手で絞め殺したという。
そしてアンピトリュオンは、 アルカイオスをゼウスの子と認めた。
一説にはアンピトリュオンが毒蛇を故意に投げ込んだが、イピクレスは逃げたが、アルカイオスは逃げなかった。そしてアルカイオスが神の子と認められた」
『アホな親父だわ』
フレイヤはアルカイオスの体をマジマジと見た。
うーむ???この少年なら毒蛇を絞め殺しても不思議じゃないわ。何か怖いわね?
『あなたのお母さんは、夫と似た人と不義をしましたか?』
マズイ!!こんな質問をしたら殺されるわ。
ちらりとケイローンを見て、『この人はヘラクレスの毒矢え殺される運命なのよねえ?そーなると後年に、ヘラクレスに殺される運命の人間が二人、ヘラクレスと行動を共にしているのかしら?』などと考えた。
『あなたたち二人は、その坊やに殺される運命なんですよ?』
いかん、いかん!!こんな事を話しても何も始まらないわ。
「僕の体に興味がありますか?」
「え?べ別にあたしは痴女なんかじゃなくて!!!」
「僕の体を見て筋骨に見とれない人は、まずいませんよ。」
「その体はどんなトレーニングで手に入れたのよ?」
「生れ付きですよ」
「生れ付き・・・」
「そういう体質なんです」
そういう体質なら、遺伝子工学で作りだせる。人間に限らず、動物には必要以上に筋肉が付かなくなる遺伝子がある。 いくら体を鍛えても必要以上の筋肉が付かない方が体には安全なのだ。 しかし生れ付きその遺伝子が働かない人間が、極稀に存在する。 最小の努力で最大限のマッチョな体が手に入る。
羨ましい? そうとも言い切れない。
体を壊すかもしれない。心臓麻痺を起こすかもしれない。危険な体質なのだ。
「その体は神々から授かったのかしら?」
「え?ええ。弟のイピクレスは、兄さんは大神ゼウスの胤だ。何て言ってます。
どうせやっかみ半分の冗談だけどね」
ヒッポリュテーが割り込む。
「だからあたしは、戦争の神、軍神アレスの娘だって言っているでしょうが!!!」
フレイヤは呆れて何もいえない。
ケイローンはケイローンで、「ミノア王家はゼウスの末裔だと聞いています。
それなら、アルカイオスと王女ユリア様は御親戚ですな」
「あたしも女神のような美女だと言われるけど、神々じゃないわ」
「それ嫌味?」
「あなたも充分に美人よ」
ヒッポリュテーは、フレイヤの目には、生粋のロシア人に見える。この時代のスキタイ人の子孫が大スラブ民族で、ロシア人もウクライナ人も、結局は同族なのだから、ヒッポリュテーが完璧なロシア人でも当然だ。
「あたし美人?」
「ミスコンのロシア代表になれるわ」
「ミスコン?ロシア?」
「失礼。今のは忘れて頂戴」
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
「あの筋肉坊やには、驚かされたわ」
ヒッポリュテーは革張りのシートに深く体を沈めた。
涼子は、「ヨシュアとヘラクレスが実在していて、しかも同じ年頃だったとはね。」
フレイヤは、「時間をうまくずらせば、かけ離れた時代の人間でも、同じ年頃で会える。しかし、あの二人が同じ時間の中で、同じ年頃だとはね」
ミネルヴァ女史は、「木馬で有名な第二次トロイ戦争は、クレタ島壊滅の80年後だわ。 その50年前にヘラクレスはラオメドンを殺している。つまり30年後ね。
それが第一次トロイ戦争。 余り有名じゃないけど。
ヨシュアがジェリコを攻め落としたのは、出エジプトの、40年後とされる。
ということは、出エジプトがクレタ壊滅のときなら、ヘラクレスとヨシュアは、だいたい同じ頃に生まれたのよ」
涼子は、「キリスト教化した後世のギリシア人なら、ビックリ仰天ですね」
ミネルヴァ女史は、「出エジプトがラメサス2世の時代ではなかっただけでも、驚きは大きかったわ」
ダイアナは、「ラメサス2世の時代なら、木馬で有名なトロイ戦争の時代だわ」と指摘した。
ユリアが、「十戒をリメイクするなら、大幅に内容を変更しないと。事実と伝説は違うのよ」
涼子は、「アトランテイスもね」
フレイヤが、「話を戻しましょう」
ケイローンとアルカイオスは、何やら内陸の方を気にしていた。
「ケイローンさん?何をしていらっしゃるの?」
フレイヤは自分でも驚くほど馬鹿丁寧な口調で尋ねた。
「ミノス王の宮殿に行ってみたいのです」
「クノッソス宮殿なら倒壊して丸焼けよ」
「ミノス王の御家族か親族に御会いしたい」
「残っている人がいなくも無いけど、傍流の王族よ」
しかしケイローンは食い下がった。
「傍流でもいいから御会いしたい」
「何の為に?」
「ギリシア本土とミノア王家の関係改善の為に」
しかしミケーネはもうすぐクレタに侵入してくるのだ。この二人は本土のスパイじゃないの?
「会わせてもいいけど御満足いただけるかどうか」
何と言っても、 ミノア王家の本流はカナンの地(パレステイナ)に行ってしまった。
現在残っているのは傍流の貴族で、勝手にミノス王を名乗っている。
ではヘラクレスが12の難行でクレタ島の凶暴な牛(笑)を退治したエピソードは何なのだろう?
その時ヘラクレスは大人だ。 新しい別のクレタ王家が成立しているのだろう。きっとそうなのだろう。
フレイヤはマザーシップに指示を求めた。
ダイアナは、「少し待っていて。ミネルヴァ女史の判断を仰ぐわ」と返答した。当然の話ではあるのだが。
さて、パレステイナにいるミネルヴァ女史は驚愕した。
ヘラクレスに殺されたアマゾネスの女王と、同じ名前の王女がクレタまでやって来た!!!
というだけでも驚きだが、その王女がユリアの友人で、
少年時代のヘラクレスと思われる人物と、行動を共にしている。というのも、ビックリさせられる。
ミネルヴァ女史はフレイヤに直接指示を出した。
「その3人をクレタの西部まで馬車で運びなさい。現時点で私達のテクノロジーを見せてはダメよっ!!」
「了解しました」
衛星携帯情報端末の通話モードをOFFにして、フレイヤは脱力した。ユリアに何と言えばいいのだ。
『あなたの御友達が少年時代のヘラクレスと共に、クレタ島までやって来たわ。30年後にヘラクレスに殺される運命だけどね』
いかん!いかん!ユリアが悩むだけだわ。
ユリアは自分の夫でもないのに、ツタンカーメンの死に涙したのだ。
ヒッポリュテーとヘラクレスの不幸な運命を知ったら、 おおいに悩むだろう。
アルカイオスがヘラクレスだという保証は、現在のところは無いが、ヒッポリュテーは何ともいえない。
ヒッポリュテーについては、三通りの異伝がある。
その1。ヘラクレスに殺された。
その2。テーセウスに殺された。
その3.テーセウスと結婚して嫡出の王子を儲けたが、産後の肥立ちが悪くて亡くなった。
ユリアの友人のヒッポリュテーは誰なのだ?
同名異人であって欲しいのだが・・・。
37世紀人は神頼みなどしないが、それでも、今回ばかりは神頼みをしたくなった。
フレイヤはクレタの海岸に沿って西へ、西へ、と進んだ。
スーダ湾まで行って、更に内陸まで行かなければ、残留組の貴族に会えない。
クレタ島は島と言うよりも小さいながらも、ひとつの大陸と呼ぶに相応しい。
鮮やかな起伏にとんだ、素晴らしい景観・・・。
しかし現在ではカリスト島のせいで荒地になっている。
これが再生するには50年もかかるのだ。
フレイヤはケイローンに、「カリスト島の近くは通りましたか?」と質問した。
「通りました。もっとも水平線の近くで噴煙を上げていましたけどね」
「カリスト島に上陸しなかった?」
「毒ガスだらけの島にどうやって上陸できるんですか?」
「失礼。無意味な質問ね」
ついつい37世紀のつもりで聞いてしまう。
ヒッポリュテーは、「カリスト島の領主は、ユリアのお兄さんはどうなったの?」と聞いてきた。
「アトルを知っているの?」
「8年前に会っているわ」
「生きているわ。カナンの地でユリアと暮らしているわ」
「良かった。でも会いにいくには少し遠いわね」
「あたしの上司が許したら、すぐ会えるわ」
「その方の名前は何と言うのですか?」とケイローン。
「ミネルヴァよ。ミネルヴァ。覚えておきなさい」
「ミネルヴァ・・・」
ミネルヴァが女神アテナのローマ名だなんて、現時点では教えられない。そこでフレイヤは愕然とした。
ヘラクレスは女神アテナの加護があったのだ。 と言う事実を思い出したのだ。
神話時代のギリシアの英雄豪傑たちは、女神アテナの加護の下で冒険の旅をしている。
ヘラクレスしかり、オデュッセウス(ユリシーズ)しかり。
ではミネルヴァ女史は、この時代で女神アテナになるのだろうか?そうなると自分は何者? 北欧神話のフレイヤは、ギリシア・ローマ神話のアフロデイテ(ビーナス)としばしば同一視される。そうなると自分はこの世界のアフロデイテ?そんな筈は無い。そんな筈は・・・。
「顔色悪いわよ」ヒッポリュテーが心配そうな顔をした。
「え?な、何でもないわ」
「心配事でもあるの?」
「たいした事は無いわ」
「ならいいけど」
あなたが心配なのよ。ヒッポリュテー。
アマゾネスの女王ヒッポリュテーは、ヘラクレスを旧知の友人のように持て成した。
一目惚れした(笑)というのが一般的な解釈だが、実は旧知の間柄だった。(?)なーんて事も考えられなくも無い。 では、自分はヒッポリュテーとヘラクレスが知り合った瞬間に出くわしている? そんな筈は無い・・・そんな筈は・・・
思い切って質問した。
「どこでその坊やと知り合ったんですか?」
「アテナイよ。船をチャーターして、何回も乗り継いでここまで来たんだけど、アテナイでこの坊やに、アルカイオスに会ったのよ」
「あなたの愛人かと思ったわ」
「恋人じゃないわ。知り合いと言う程度よ」
あと5年もすればヒッポリュテーは21歳ぐらいで、アルカイオスは15歳。それなりに御似合いだわ。
しかし・・・?
「ヒッポリュテーさん?トロイの都は通ったの?」
「通ったわ。ギリシア本土の交易船が黒海から帰るときに、ついでに乗船させてもらったわ」
「それで?」
「ラオメドンの奴、船の乗客全員から、あたしまで通行税を取ったわ」
「それは?これはまた強欲な王様ね」
「僕はそんな強欲な人は嫌いだね」
アルカイオスの言葉にフレイヤは戦慄した。こいつは絶対に!ヘラクレスに決まっている。
ラオメドンは強欲故に、ヘラクレスに殺されたのだから。
「アルカイオス君はトロイに行ったの?」
「行ってない」
ケイローンは、「アルカイオスは小アジア(トルコ)には行っていません。そのうちに行くとは思いますが」
と口を挟んだ。
それは行くでしょうね。ヘラクレスは12の難行では、トロイにもコーカーサスにも行くのだから。
しかし、ヒッポリュテーはヘラクレスに殺されるのだ。
ゼウスの正妻ヘラ、(その正体が何者であるにせよ)の悪意のデマから守る為に、事前に警告する?
ヘラクレスに? それともヒッポリュテーに? 歴史を変えてはいけない? それは無い無い。カリスト島の3万人を救っているではないか。
しかしヒッポリュテーがヘラクレスに殺されるのが、変えられない運命だとしたら? そこでフレイヤはゾッとした。
37世紀人の力を持ってしても、ジョンFケネデイ大統領を救えなかったのだ。
歴史の流れには慣性力のような物があるのだろうか?
質量の大小によって慣性にも大小があるように、大人物には歴史の慣性力があるのだろうか?
ヒッポリュテーは、ギリシア最大の英雄ヘラクレスとの係わり故に、歴史の中で巨大な慣性をもっているかもしれない。
ケイローンが、「どうしました?」と心配そうに聞いた。
フレイヤは、「何でもないです」と答えた。
「わたしには医術の心得があります。 診てあげましょうか?」
「ノーサンキュー。」ピーッと音を立てて翻訳機が混乱し、少し遅れて、ノーサンキューをミケーネ語に翻訳した。
「ケイローンは名医ですよ」とアルカイオスが薦めた。
「あたしの友人にケイローン以上の名医がいます」
別に病気じゃないけど、本当に病気なら涼子に診てもらった方がマシだわ。
ヒッポリュテーが、「そんな名医がホントにいるの?」
「この時代もとい、この世界の最高の名医よりも、腕は確かよ」
「それは凄い。是非御会いして、医術を教えていただきたい。会わせて貰えますか?」
「そ、そのうちにね。おホホホ・・」
「そー言えば、トロイの都でユリアが死に掛けて、神々が死から救った。何て話をトロイで聞いたわよ」
「それは、あたし達の事よ。あたしの仲間の涼子がユリアを、あなたの友人を救命したの。あたしもそのときトロイにいたわ。強欲なラオメドンが珍しく宝石をくれたわ。
あたしを女神と信じて貢物のつもりだったんでしょうけど、半分ユリアにあげたわ」
「ラオメドンと言えば、だいぶ前にライオンの毛皮を売ったわ。寝袋にする為に使うなんて言ってたわ。」
アルカイオスは、「そのうち自分でライオンを仕留めて、毛皮の服を作りたいです」などと言い出す。
そー言えば、ヘラクレス12の難行のひとつに、人食いライオンを退治する。というのがあったっけ。
やっぱりこの少年は、ヘラクレスで決まり?
ケイローンも気になる。トロイ戦争は、ここから80年後だ。 ギリシアの武将アキレウス(アキレス)はケイローンに教育されたのだ。 当然ながらケイローンが死んだ後の戦争だった。 しかもアキレウスの父のペレウスも、ケイローンに教育されたのだ。 ペレウスとヘラクレスは、『アルゴ船団の冒険』にも参加している。しかしそうなると・・・
この少年が本当にヘラクレスなら、王子イアソンも実在する?年齢差を考えると生まれたばかり? ってとこか?
ギリシア神話の英雄が実在するなら、それ以外の国の英雄はどうなっているのだ?
おまけにミケーネのクレタ侵入はもうすぐなのだ。
そんな時に、ヘラクレスとヒッポリュテーがやって来るなんて、何と言う皮肉だ。
37世紀人は神も来世も信じないが、 それでもフレイヤは神を呪いたくなった。 過去への旅を可能にする力は、場合によっては、余りに残酷だ。
ユリアはツタンカーメンの死に涙した。更に、ヒッポリュテーの運命に涙するのかもしれない。
厄介な事に、ミケーネのクレタ侵入は目前なのだ。その時何が起きるのだ?
「坊や、おねーさんが毛皮の服をあげよーか?」
フレイヤは思わず、「年下の男の子と、あまり親しくしない方がいいわよ!!!」と口走った。
「何で?」
「何でと言われても・・・」
ケイローンが、「フレイヤ様は年下の男の子と、トラブルを起こした事があるのですか?」と質問した。
「別にそういうわけでは・・」
「ユリアに会わせてよ。 その為にあたしはクレタに来たのよ」
「会わせるのは簡単よ。でもその前に、ケイローンの仕事を終わらせる必要があるのよ」
「必ず会わせてよ」
「ところで、ミノア王家の生き残りはどちらに?」
「本家はカナンの地に行ったわ。 傍流の貴族は残っているけどね」
「クレタに残っている貴族でも、会えればそれで結構です」
「どうなる事やら」フレイヤはぼやいた。
アルカイオスは地面をジロジロと見た。
「火山灰だらけですね。これで大丈夫なんですか?」
「え?ええ、クレタ島の東半分は灰を被りましたが、それでも西半分は被害が少ない。クレタ人の多くは西半分に移りました」
「ならば、何故ユリアはクレタから逃げたのよ?」
ヒッポリュテーの舌鋒は鋭い。
フレイヤは、「まあ、色々とね」とだけ答えた。
「まったく親友のあたしを無視して、母国から逃げ出すんだから、ぶっぶっ・・」
「母国ねえ・・」
「ねえ?ユリアに必ず会わせてよ」
「会わせるって!!」
「高価な御土産を持って来たのに、ユリアの奴はクレタにいないんだから、ぶっぶっ・・・」
「どんな土産?」
「ヒッタイトで買い求めた鉄の剣よ」
「鉄・・・」
「ヒッタイトもトロイも、王が強欲でまいったわ。ミノス王も強欲だと聞いているけど」
「権力者なんてそんなものよ」
その頃、高野涼子はミネルヴァ女史と相談をしていた。
「ユリアに何と言おう?」
「ヘラクレスの事は伏せておいて、とりあえず、ヒッポリュテーの事を知らせましょう」
「それしか無さそうね」
それにしても・・・・。ユリアはいったいどんな顔をするかしら?
そこでミネルヴァは笑った。
ユリアはTVスクリーンの前で喜びとショックを受けた。
『ヒッポリュテーが自分の故郷に来ている。
親友である、あたしの身を案じて、遙々やってきたのだ。
喜ばしい事だ。しかしあたしは、迂闊にも忘れていたのだ。
会わせる顔が無い。でも会いたいわ』
クレイトーが言葉を掛けてきた。
「ユリア、御友達に会うためにクレタに戻ったら?」
「どうやって?」
「ワームホールを使えば簡単でしょう?」
「そりゃまあ、そうだけど」
ミネルヴァ女史は、「いいわ、クレタにお帰りなさい。フォゲッターがあるけれど、それでも、 なるべく私達のテクノロジーの秘密を見せてはダメよ」
「はいはい、わーったわよ」
フレイヤはボヤいた。不可能ではないが、面倒臭い命令だ。 軍隊じゃあるまいし。
ヒッポリュテーは不審そうに、フレイヤを見た。
「何を一人でブッブツ話しているのよ?」
「喜びなさい。ユリアがクレタに帰ってくるわよ」
「何で?どーやって?」
「何でって言われても・・・」
「カナンからクレタまで帰って来るのは、決して楽ではないわ。あたしだって、コーカーサスからクレタまで来るのに苦労したわ」
「そりやあ、そうでしょう。でも・・・」
「でも?でも何?」ヒッポリュテーは鋭く突っ込む。
「とにかく会えるわよ。今頃は帰っているかもよ」
「ほほう?フレイヤさんは、千里眼でも使えるのかしら?」
「別に千里眼ではないわよ」
「それなら何故わかるのよ?」
『やり難い。20世紀後半の、1973年頃の人々がこの娘のように疑い深ければ、オカルトブームは起きなかったわね』 とフレイヤは思った。
『あのイスラエルの魔法使いの名前は何と言ったかしら?あの魔法使いの兄ちゃんはイスラエル人だったと言うけど、モーゼが見たら烈火のごとく怒るわね。きっと』
「ねえ?何故なのよ?」ヒッポリュテーはしつこい。
「魔法じゃないけど、魔法みたいな力で帰ってくるのよ」
この会話をケイローンは聞いていた。
「千里眼や魔法みたいなことができるんですね? 本物の魔法じゃないけど?」
「そうよ」
「あなたの上司が神々の様な力で、王女ユリアをカナンからクレタに連れ帰る?」とケイローンが問い質した。
「ユリアに会えれば、何でもいいわよ」
「疑い深いんだか、素直なんだか」
「ついでに、私も王女ユリア様に御会いしたい」
ケイローンはしつこい。
「何で?」
「ミノス王の息女ですから」
さて?どうなる事やら?・・・とフレイヤは思った。
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
ダイアナは赤ワインを一気に飲んだ。
見事な赤毛だが、本人はワインの飲みすぎで赤くなった。 などと、ホラを吹いている。
涼子は古い小説の、『赤毛のアン』を思い出した。
アンの友人でダイアナという女の子がいたが、同じ名前でも、こんな人物ではなかった筈だ。カナダ出身の日系人といいながら、全然日本人らしくない。ケイというミドルネームがあるが、それが無ければ、日系とは思えない。
ダイアナは、「まったく、ケイローンには散々振り回されたわね」とぼやいた。
フレイヤも、「同感」と言った。
ミネルヴァ女史は、「ケンタウロスがただの人間というのは、漠然と信じられていたわ。 何しろ半人半馬の怪物の化石が発見された事は一度も無いんだから」
ユリアが、「ケンタウロス族は怪物ではない。普通の人間だと、フレイヤに説明したのに、大酒を飲んで、聞き流すから悪いのよ」と言う。
「いいじゃない。万事丸く収まったんだから」
フレイヤは自分が責められたくないので、話を逸らした。
ユリアは、「ゼウス生誕の地、西部内陸高原のラクシイも、アカイア人の手に落ちた」と嘆いた。
涼子は、「クレタ島が丸ごとギリシア本土の手に落ちたのは、史実だよ」
「そういえば、日本人にも聖地が有ったわね」
「天孫降臨の事かな?ここから1700年も未来だよ」
(注。西暦3世紀)「そんなに遠い未来?」
「そうだよ。いまの質問は、20世紀人が70世紀人に37世紀の伝説について質問するような物だよ」
「伝説と言えば、ギリシア神話の映画では、ケイローンは半人半馬だわ」
「そのうちケイローンを人間にした映画が作られるさ」
涼子は、あっさりと言い放った。
「話を戻しましょう」とヒッポリュテーが言った。
涼子も、「戻そう」
ユリアと涼子はワームホールを潜って、クノッソスから少し離れた地点に到着した。
そこで衛星携帯情報端末が呼び出し音を鳴らした。
相手はフレイヤだ。
「あー、もしもし?こちらフレイヤ。アルカイオスとケイローンは、間もなくクノッソス宮殿に到着するわ。用意は済んでいるかしら?」
「取り合えず着いただけ。でもどうやって、二人の目を盗んで連絡したんだ?」
「トイレに託けたのよ。あたしは女だから、男は連れションしょう何て言わないわ」
「下品だな。 でも一つの真理だ」
そして涼子はユリアに顔を向けた。
「ヒッポリュテーが来るよ。心の準備はできているか?」
「いいわよ」
フレイヤはぶつくさ言いながら、クノッソス宮殿の近くまで来た。
ケイローンが、「これは?惨憺たる有様ですね?」
「そうよ。ぺっちゃんこよ。だから殆どのクレタ人はクレタを去って行ったわ。一部の人がクレタの西部に移ったのよ」
「そこまで行けば、ミノア王家の生き残りに御会いできる?」
「傍流の貴族がね」
ヒッポリュテーが、「でもユリアがいるでしょう?」
「そうよ。帰ってきたのよ」
「信じられないわ。それが本当なら、最初からカナンに行っていないのよ。きっと」
「あなたの懐疑精神には感服するわ」
『しかし、こーゆーのに限って、未来人のハイテクを見たら、あたしたちに全幅の信頼を寄せるのよ』
とフレイヤは思った。
「ちょっとクノッソスを覗いてみましょう」
とケイローンが提案した。
馬車から降りて、二本の足で大地を踏みしめて、宮殿へと進むケイローン。ヒッポリュテーは後に続いた。
「ここがユリアの実家?」
「そうよ」
ケイローンは「陶芸家のハンマーに打ち砕かれた、失敗作みたいに粉々ですね」と言った。
「なかなかの詩人ね」
「ありがとう」
フレイヤの御世辞をケイローンは聞き流した。そして焼け焦げた宮殿の中を覗き込んだ。
「少しは人の住めそうな所がありますね」
「少しはね」
「自分の領地を捨てるなんて、莫迦な娘ね」
「クレタの東半分が火山灰から回復するのには、50年はかかるのよ」
「何で50年なんてわかるのよ?」
「やり難い娘ね」
アルカイオスは、「ここにミノス王がおられたのですね?」
「そうよ、ミノス王は自分の子供達とクレタを去った。でも一部の、傍流の貴族が西半分に残っているけど」
「では、その方たちが新しいミノス王?」
フレイヤは「そーゆー事になるわね」と答えた。
クノッソス宮殿は、カリスト島の大噴火で火山灰塗れになってから一度再建されてから、トロイ戦争の後に改めて人為的に破壊された。と考えられている・・・。
「クノッソス宮殿を再建してどうするのよ?」
「ミノア王家とミケーネの関係を改善するのです」
トロイ戦争に協力させるために? そんな事は聞けない。しかしケイローンの本音はそこにあるような気がする。
フレイヤは宮殿から離れると、双眼鏡で周囲を見回した。
ヒッポリュテーは、「それは何?」と質問したが、フレイヤはさっとしまった。
「ユリアが、あなたの御友達がこちらに来るわよ」
「ユリアが?」
遠くを見ると、確かに誰かがやって来る。ヒッポリュテーは草原で生活しているから、視力には自信がある。相当遠くの人の顔が見分けられるのだ。
ヒッポリュテーは眼を凝らした。やたらと上背のある、ポニーテールの女がやって来る。
ミケーネ風のゆったりとしたドレスで胸を覆い、ウェストをギュッと引き締めている。 下半身はクレタの伝統の段付きスカートに近い。なかなか似合っている。
だいぶ大人びているが、間違いない。
「ユリア!!ユーリーアー!!」
「ヒッポリュテー!!ヒッポリュテー!!!」
二人は全力で走り寄り、抱き合った。
「何故クレタから逃げだしたのよ?心配したのよ?
死んだかと思ったわ」
「トロイで死に掛けたけどね。 救われたわ」
「誰に救われたって?」
「後ろにいるわ」
そこに涼子がいた。髪も眼も黒い、黄色い肌の大人の女性だ。
「初めまして、高野涼子です。涼子と呼んでください」
「リョーコ?」
「あたしの命の恩人で、主治医で、親友で、仲間よ」
「ユリアとは、人種が違うわね?」
「わかりますか?」
「わかるわよ」
「涼子だって肌を白くすれば、 アカイア人やクレタ人に化けられるわ」
「そんな事はしないよ」
「あなたはミネルヴァ様の仲間?」
「仲間と言うより部下ですね。 医学校に入学する前に、物理や化学を習ったから、恩師と教え子でもあるわけです」
ケイローンが会話に割り込んだ。
「あなたが世界一の名医なんですか?」
「こ、この時代とゆーかこの世界ではね」
「別に謙遜しなくてもいいわよ。涼子はあたしを救った。あの状況ではケイローンでもあたしを救えなかったわ」
ケイローンは興味津々といった感じで涼子を見た。
ユリアはヒッポリュテーに話を切り出した。
「涼子は名医よ。 信じて」
「証拠はあるの?」
「あるわよ」
ユリアはヒッポリュテーを連れてその場を離れた。
何をするつもりかは明白だ。
「女同士だからみせてあげるわよ」
そしてユリアはスカートをたくし上げた。
「それは!?何なの?その傷は?」
アルカイオスとケイローンがユリアの脇腹を見たがった。
「ケイローンはお医者だから見せるわよ」
「僕も見たい」
「エロガキはダメッ!!」
「ちえっ!ケチ!!」
ユリアは未来人の支給した下着を着用している。
この時代の女はパンテイなんか知らない。
しかしケイローンは、ユリアの脇腹の微かな傷跡を面白がった。
「随分見事な腕前ですね。 エジプトの外科医でもこんな手術はできない」
「それは、アトル兄さんも言っていたわ」
「ユリア、口の中を見せてあげなさい」
ユリアは涼子の指示通りに口を開けた。
「これは?」とケイローンは目を見張った。
「虫歯が一本も無いわねえ?」とヒッポリュテー。
今回はアルカイオスも見せてもらったが、 三人とも仰天していた。
「何故?何故虫歯が無いのよ?」
「全部の歯を抜いて再生したんだ」
「再生?永久歯なのに?」
「凄いのよ!魔法や奇跡みたいな事ができるわ。」
アルカイオスは、「僕も虫歯だらけだけど、治りますか?」
「虫歯を全部抜いて薬を入れる。それだけだよ」
「それは興味深い。どんな薬なんですかな?」とケイローンは質問した。
涼子は何処まで教えていいのか悩んだが、フォゲッターがあるから、まあいいか。と判断した。
「原理を説明しても理解できないでしょうね。どんなふうに効くかは教えられますが」
「どんなって?どんなふうにですか?」
ケイローンは年下の涼子にいやに丁重な口を利いた。
「トカゲの尻尾の再生と同じですよ」
ヒッポリュテーは、「そんなの信じられないわ」と気色ばんだ。
ユリアは、「でも真実なのよ」
フレイヤは、「ほらね、この娘は懐疑精神が旺盛で、人の話を鵜呑みにしないのよ」
涼子は、「少なくとも、詐欺には会わないね」と誉めた。
しかしケイローンは、「何かを学ぶときは、教官の言葉を素直に信じることが大切ですよ」と言う。
「確かにその通り、いちいち教官に逆らっていたら、試験で赤点をとるね」
涼子は発明王エジソンの小学校時代のエピソードを思い出した。1+1は何故2になるのだ? と言う質問をしつこく連発して、小学校を放校になっている。
では、ヒッポリュテーは? 以外に頭の良い娘なのかも知れないわね。
「私も歯を何本も失っている。虫歯もある。治せますか?」とケイローンが頼み込んだ。
涼子は思案したが、『ま、いいか、フォゲッターがある。いざとなったら、記憶をいくらでもいじれる』
一言、「できます」と答えた。
ヒッポリュテーは尚も疑わしそうな顔をした。
「三人とも治してあげますよ」
ヒッポリュテーは、「あたしは一番最後でいいわ」
アルカイオスは、「では僕がお先に」
ケイローンは、
「では私は、涼子様の仕事振りを見せてもらいましょう」
涼子は、「いいですよ」とだけ答えた。
第二章。クノッソスの廃墟にて。
涼子はクノッソス宮殿の一角、かつてクレイトーが御産をした部屋で、アルカイオスの虫歯の治療をしていた。
やりかたは至って簡単。虫歯を抜いてから幹細胞をいれるだけである。
クローン用の幹細胞は37世紀の産物だが、それでも道具さえあれば20世紀の新米医師にもできる、とても簡単な手術である。
「坊や、痛くない?」ヒッポリュテーは心配そうだ。
しかしアルカイオスは平然と手を振った。
ヒッポリュテーは、「本当に痛くないのかしら?」と疑問を感じた。
「痛み止めなら、良い薬がありますが、涼子様が使っている薬は何なのでしょうね?」
「後で聞きなさいよ。 もっとも何処まで教えてくれるかは、わからないけど」
ケイローンは好奇心の塊になっていた。しかしヒッポリュテーは、ビニールテントにも興味を示していた。
「これは何かしら?」
「クラゲなら解るけど、これは違うみたいですね?」とケイローンは答えた。
「こんなのでいちいち驚いていたら、身が持たないわ」
「そんなに涼子さんは凄いの?」
フレイヤは、「ユリアを信じなさい。涼子に命を救われたのだから。二人ともあなたに嘘はつかないわ」
アルカイオスの虫歯の治療が一段落付いたので、次はケイローンの番になった。 アルカイオスの虫歯をマザーシップに転送し、医学データーを取る為のサンプルにする積もりだが、他の二人もサンプルを取る積もりだ。
ケイローンは涼子の前で大きく口を開けた。
口に何かを入れられて、頭に何かを当てると、頭がボーッとなった。
『薬ではない?何かの力で口の中が麻痺している?』
そしてホイホイと歯が抜かれていった。
『歯を抜くのは珍しくないし、痛み止めの薬なら私も知っている。しかしこれは何だ?阿片も使わず感覚が部分的に遮断されたみたいだ?手や足は動く。
アルカイオスも手を動かしていた。 これが麻酔薬でなければ何なのだ?
虫歯を抜いた跡の穴に何か小さな粒のような物を入れた?』
「はいこれを飲んで」 そして何かを飲まされた。
「これで全ては終わったよ」
「これだけ?」とケイローン。
「痛み止めが効いてきたら、神経遮断機を止めるんだ」
「神経とは何です?」
「体の隅々にまで行き渡る、糸のような物です。
いろいろな感覚を伝えるんですよ」
「ふーむ?」
「酷い怪我で大手術になるときは、神経遮断機を全身モードにして、意識を失わせることもできます」
「痛み止めの薬は使わないのですか?」
「神経遮断機は阿片より安全だけど、長くは使えない。手術が終わったら、痛み止めを飲ませて、それが効いたら止めるのです」
「何とまあ」
「薬が効いてくる頃だね。 遮断機を止めます」
ケイローンの頭から機誡が外されて、口の中がズキーンとなった。しかし、すぐに楽になった。
「最後はあたしね」とヒッポリュテー。
そしてヒッポリュテーの虫歯の処置は、あっと言う間に終わった。
ユリアは、「どう?涼子は凄いでしょう?」
「いつもあんな手術をしているの?」
「この世界のどんな名医も、涼子に比べたら藪医者よ」
ケイローンのプライドは傷ついた。しかし真実だ。
涼子は三人に薬を与えた。
「これを飲みなさい。化膿止めです。飲み忘れると、後で痛い思いをする事になる」
ケイローンはその薬をまじまじと見た。薬というよりも菓子のようだった。
「糖衣錠ですよ」
「糖衣?」
「飲みやすくする為に工夫してあるんだ」
ユリアは、「涼子を信用して」と言う。
ケイローンは、「信用しなければ、虫歯の処置なんか頼みませんよ」と言ってから、薬を飲んだ。
ヒッポリュテーは、「薄甘いわ」と言い、ケイローンも、「確かに」と同意する。
アルカイオスは、「もっと飲みたい」と言い出した。
「これは薬なんだから、やたらと飲んじゃダメ」
「薬にしては美味すぎるよ」
ユリアは、「栄養ドリンクでもあげたら?」
涼子は、「悪い冗談は止めてくれ」と、ぼやいた。
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
ヒッポリュテーはマザーシップの展望台で栄養ドリンクを飲んだ。 未成年だから、アルコール飲料を飲ませられない。 という、涼子の配慮だった。
ユリアがワインの水割りを飲むからと言って、ヒッポリュテーに飲ませるわけには行かない。
「以外に美味い。アルカイオスに飲ませたかったなあ」
「少年時代のヘラクレスが、栄養ドリンクを飲んで、精を付けるなんて、最悪の冗談だ。マンガじゃあるまいし」
「アルカイオスはヘラクレスで間違いないんだね?」
フレイヤは念を押した。
「ああ、そうだよ。虫歯のDNA鑑定の結果は、常人ではない。という結果だった」 涼子は投げやりに答えた。
ユリアは、「しかし、ヒッポリュテーは本当にあのヒッポリュテーなのかしら?」と問い直した。
涼子は、「さあ?何とも言えない。 ヘラクレスより年上の筈が無いんだが?」
「うーん?」ヒッポリュテーは思案した。
フレイヤは、「あなたは自分がヘラクレスに殺される運命かもしれないと知っても、よく平然としていられるわね」
「ヒッポリュテーや、ヒポリュタなんてよくある名前よ。ヘラクレスに殺されるのは別人よ」
ヒッポリュテーは平然と言い切った。
そこで涼子は調子を合わせた。
「日本人にも平凡な名前というのはあるけどね。涼子はありきたりだし、Rが取れてヨーコなら、もっと平凡だし」
「ケイローンは結局はギリシア本土のスパイだった」
ユリアは忌々しそうに呟いた。
「でもあたしはスパイではないし、あの二人がクレタに何をしょうが、知った事ではないわ」とヒッポリュテーは胸を張った。
そこでユリアは、「あたしとヒッポリュテーの友情は不変よ」と言い切った。
涼子は、「話を戻そう」と言った。
「戻しましょう」とミネルヴァ女史。
クノッソス宮殿の中でフレイヤは涼子に詰め寄った。
「あの三人は信用できるのかしら?ヒッポリュテーはともかく、ケイローンは信用できない。絶対にミケーネの、ギリシア本土のスパイに決まっているわ」
涼子は少し考えていたが、やがて口を開いた。
「フレイヤの懸念は恐らく正しい。ケイローンはスパイだよ」
ユリアは、「親友を疑いたくないわ」と嘆いた。
しかし涼子は、「ケイローンとヒッポリュテーがグルなら、ヒッポリュテーがコーカーサスにいたときから、ケイローンと連絡を取り合っていた事になるね?」と宥めた。
「それにしても、アルカイオスは何者なのかしら?」
涼子とフレイヤは不愉快そうな顔をした。
ユリアが今までに何度も見た、あの顔だ。
涼子は苦悩を押し殺した顔で、「アルカイオスは特殊な体質かもしれない。確認の為に虫歯のDNA鑑定を行なうよ」
「そー言えば、ヘラクレスがどうとか言っていたわね?
ヘラクレスって誰よ?」
「ギリシア神話の英雄。 幼名はアルカイオス」
「あの筋肉坊や?」
「何とも言えない。同名異人かもしれないし」
「ヘラクラスにどんな秘密があるのよ?」
「大人になって、コーカーサスまで遠征してくる」
「で?それからどうなるの?」
「ヘラクレス12の難行というのがあって、アマゾネスの国にヒッポリュテーの金ピカのベルトを奪いに来る」
「金ピカのベルト?あたしが8歳の頃に錫の代金として、ヒッポリュテーの母に渡したわ?」
「後年のギリシア神話では軍神アレス(マルス)が、ヒッポリュテーに贈った事になっている」
「それで?」
「ヒッポリュテーはベルトを素直に、ヘラクレスにプレゼントすると言ったのに、女神ヘラが、―その正体が何者であるかは別として―、外国人が女王をさらいに来た!!
とデマを流した。 そしてアマゾネスの女戦士達は、ヒッポリュテーを守ろうとした」
「それで?」
「ヘラクレスはヒッポリュテーに裏切られたと思い込み、ヒッポリュテーを殺した」
「莫迦なー?」
ユリアは大ショックを受けた。 そしてヒッポリュテーとアルカイオスの方を見た。
二人は和気合い合いといった感じだ。
あの筋肉坊やがヒッポリュテーを殺す?まさか?
「同名異人かもしれないわよ。ヒッポリュテーというのは有り触れているし」とフレイヤは宥めた。
涼子は説明を始めた。
「後世のギリシア神話では似た名前の女性がしばしば登場するんだ。80年後のトロイ戦争では、アマゾン女王の、ペンテシレイヤがギリシアの武将アキレウスと戦って戦死したとされる。 ペンテシレイヤの妹の名はヒポリタ。狩猟中の事故で姉に殺されている。 ペンテシレイヤは妹を死なせた事を恥じて、自ら望んでアキレウスに殺された。とされる」
「80年後なら、あたしの友人の筈は無いわね?」
「もうひとつ、ヘラクレスとテーセウスの冒険には、重複する話が多いけど、ヒッポリュテーがテーセウスに殺された。と言う説があるんだ」
「何で?」
「英雄は強い女と戦わなくてはならない」
「わかるような気もするけど」
「ユリアの親友のヒッポリュテーには、アンテイオペという妹がいたのかな?」
「8年前には一人娘だったわ。 現在は知らないけど」
「ヘラクレスに殺されたヒッポリュテーには、アンテイオペという妹がいた。とされる」
「そんな?」
「アンテイオペはテーセウスが見初めて、アテナイに連れ帰り、最初の妻にした。とされる。」
「最初って事は、後妻もいるのね?」
「まあね。 テーセウスとその妻子は全員不幸な運命をたどるんだよ」
「アンテイオペ?アンテイオペ?
もしもそんな名前の妹が生まれていたら・・・・?」
「ユリアの御友達がアルカイオスに、将来のヘラクレスに殺される可能性は非常に大きいね」
「これが何かの間違いである可能性は無いの?」
「テーセウスが見初めたのは、ヒポリュタという名前だったという異伝がある。それでもヘラクレスに殺されるのがヒッポリュテーである事は、ほぼ間違いない」
「そんな?」
「あたしがどうかしたって?」
「ヒッポリュテー?何処から聞いていたの?」
「テーセウスがどうとか、その妻子がどうとか」
涼子は真剣な顔になった。
「ヒッポリュテーさん?」
「はい?」気圧されるヒッポリュテー。
「あなたには、アンテイオペ、あるいはヒポリュタという妹がいるのかな?」
ドキッ!!ユリアはヒッポリュテーの顔を見た。
「妹?妹なら、」そこでユリアはヒッポリュテーを止めた。
「まって!ヒッポリュテー!言わないで!怖いわ!ああ!でも知りたいわ!ヒッポリュテー、あなたは、あのヒッポリュテーなの?」
「何を言ってるの?あたしはあたしよ?」
涼子は、「ヒッポリュテーという名前は有り触れているね?あなたが僕達の知っているヒッポリュテーかどうか、確かめたいんだ」
「それって、つまり?」
「アンテイオペ、あるいはヒポリュタという妹がいれば、僕達が知っているヒッポリュテーだよ」
「妹ならいる。アンテイオペよ。アンテイオペ。それから従妹にヒポリュタというのがいるわ」
「アンテイオペ!!!」全員に衝撃が走った。
「妹なんていつ生まれたのよ?」
「あなたがクレタに帰った翌年ね。もう8歳よ」
「交易船が持ち帰った手紙には、妹の事は書いてなかったわね?」
「ユリアが来たら、いきなり会わせて、びっくりさせてあげようと思ったのよ」
「これで決まりだね。 ユリアの親友ヒッポリュテーは、あの、ヒッポリュテーで決まりだよ」
そしてユリアは打ちのめされた。 涼子は必死にフォローした。
「ユリア、ねえ、ユリア、落ち着いて。ヒッポリュテーがヘラクレスに殺されるのは何十年も先の話だよ。 あの筋肉坊やがヘラクレスの可能性が大きいとは言っても、まだ完全には決まっていないしね。だから心配しないで」
「何の慰めにもなっていないわよ」とフレイヤ。
ヒッポリュテーは例によって疑わしそうな顔で、「あたしが誰に殺されるって―?」
フレイヤは、「話しちゃおうか?」
涼子は、「ミネルヴァ女史の判断に任せよう」
最高司令官はミネルヴァ女史だ。だから全責任をミネルヴァ女史に押し付けることにする。
さて、ミネルヴァ女史はパレステイナで苦悩した。
アルカイオスは、後世のギリシア神話のヘラクレスである可能性は極めて大きい。
DNA検査の結果は、アルカイオスがある種の特異体質であることを示している。
DNAにストッパーが無く、最小のトレーニングで常人の5倍の、最大限の筋肉が得られる。
そういう体質は20世紀末から現実に知られていたが、 ここで御眼にかかれるとは思わなかった。
ネアンデルタール人なら会った事がある。少々ゴリラのような顔付きをしていたが、
それでも人間だった。ホモ・サピエンスと交配可能で、ホモ・サピエンスに吸収された。
成人男性で360キロの重量を持ち上げる力があった。
後世ではその血は殆ど消滅したが、アルカイオスにはネアンデルタール人の血が先祖がえりに残っていて、しかも!DNAのストッパーが無い!!ゴリラ並みの怪力!!
人間という条件では、史上最大の男である。プロレスの興行師の宣伝なんかではなくて、文字通り、物理的な意味で、人類史上最強の男。
しかもやたらと人殺しをする事で有名なのだ。
こんな男とどうすればうまく付き合えるのだ?
しかもヒッポリュテーが、 自分の運命を知ったらどうなるのだ?
ミネルヴァ女史は決断した。
『こうなったら自棄糞だ!!教えちゃえ!!!』
(語り手、高野涼子の一人称)
「え?ええ。わかりました」
僕はミネルヴァ女史の命令を受け取って、衛星携帯情報端末のスイッチを0FFにした。 そして大きく溜め息を吐いた。 フレイヤが、「どーすんのよ?」と質問した。
「洗い浚い話してしまえ。と命令されたよ」
「ああ!何て事なのかしら!!」
ユリアはおろおろとするばかり。
フレイヤは、「でもねえ?ヒッポリュテーは懐疑精神が旺盛なのよ?あたしたちの話を信じるかどうか?」
僕は、「懐疑精神が旺盛な人は、意外にも、ハッキリした証拠があれば、考えを変えるものなんだよ」
「そうなの?」
「そういうものだよ」
僕はヒッポリュテーの方を向きなおした。
「ヒッポリュテーさん?」
「はい?」
「あなたは数十年後に死にます」
ヒッポリュテーは笑い出した。
「そりゃあ人間はいつかは死ぬんだから、別に不思議ではないわよ。馬鹿みたい」
「あの坊やに殺されるんだよ」僕はアルカイオスを指差した。
アルカイオスはケイローンと部屋の中をうろついている。
「アルカイオスに?」
「そうだよ」
「なんで?」
「女神ヘラの呪いだよ」
「呪い―?」ヒッポリュテーは更に疑わしそうな顔をした。
「アルカイオスが後のヘラクレスなら、あなたはアルカイオスに殺される。アルカイオスが別人でも、その可能性は小さいが―、別のヘラクレスに殺される可能性は大きい」
ユリアは、「この人達は信用できるわ。だからヒッポリュテー、あなたも信用して」
「信じてもよいのかどうか?」
「信じてよ」
「そもそもヘラクレスって誰よ? あの筋骨逞しい坊やが何故あたしを殺すのよ?」
「アルカイオスは後年、ある理由でデルポイに赴き、神託を求めた処、最初の目的を達したうえに、アポロンの言葉を聞いた。 『アポロンは汝に、ヘラクレスなる新しい名を与えようぞ。人の世に奉仕(エーラ)を捧げ、不滅の誉れ(クレオス)を得るべき男なるゆえ』とね」
「奉仕と誉れ??」
「他にも、ゼウスの正妻のヘラに由来するとも言われている」
「ふんふん?それで?」
「ヘラクレスはテバイ王クレオンの娘の王女メガラを妻に迎え、平和で幸福な生活を送っていたが、執念深いヘラはどうしてもこれが許せず、ヘラクレスの正気を失わせた。
狂気に憑かれたヘラクレスは様々な狼藉を行い、 揚げ句の果てに妻子を弓矢で射殺し、弟イピクレスの二人の息子、ヘラクレスの甥に相当する、を火中に投げ込んで殺してしまった」
ヒッポリュテーはアルカイオスの方を向いて、ジロジロと見た。「それからどうしたの?」
「正気に戻ったヘラクレスは、自分の所業を深く恥じた。かって改名したデルボイに赴いて、どうすれば自分の罪を償えるか、アポロンの神託を問うた」
「それで?」
「巫女のピュテイアは、ヘラクレスにテイリュンスに行き、エウリュステウス王の元で12年間仕え、その間に王に命じられる仕事は全てやり遂げねばならないと告げた」
「まさかアマゾンの女王を殺して来い、なんて莫迦げた命令があったのかしら?」
「それは違う。9番目の難行で、エウリュステス王の娘アドメナはヒッポリュテーの金ピカのベルトを欲しがったので、それを奪う為にヘラクレスが出発した。
ヘラクレスは仲間と共にテミスキュラの港に到着し、アマゾネスたちは、ヘラクレスとその一行を大歓迎した」
「それはそうでしょう? ギリシア人は錫を買いによくやって来るし、満更知らない仲でもないし?」
「女王ヒッポリュテーは、恐らくあなたの事だよ、ヘラクレスの願いを聞き入れて、自分のベルトをプレゼントすると約束した。仕事がこれほど簡単に終わるとは、ヘラクレス自身が予想していなかった。」
ヒッポリュテーはアルカイオスの方を見た。
「あの坊やの願いならベルトをあげても良いわね」
「そうは行かないんだよ」
この先を教えてもいいのだろうか? ヒッポリュテーが自分の運命を知れば、歴史が変わるかもしれない? しかし教えてしまえ! とミネルヴァ女史は言っている。
僕は僕の時間で、何年も前の話になるが、1963年の、アメリカのテキサス州ダラスで、40世紀のタイムパトロールから、『あなた(涼子)は、あなたの未来で、古代世界で大発見をするのですよ。さよなら、37世紀の御姫様』
そのときは、何を言っているのか、御姫様の意味がわからなかったが、確かに僕は御姫様だった。 織田信長の御落胤だった。
あのタイムパトロールは、僕がここでヒッポリュテーに会う事を知っていた筈だ。
しかし僕を咎めるような事は、何も言わなかった。
とゆー事は、ヒッポリュテーに彼女自身の運命を教えても、一行に差し支えないんだ。 きっとそうだ。
ヒッポリュテーは僕に詰め寄る。
「ねえ?何故あたしがベルトをプレゼントしてもうまく行かないのよ?」
「ゼウスの正妻ヘラが、その正体が何者かは不明だけど、 外国人が女王ヒッポリュテーをさらいに来た、とデマを流した。そしてアマゾネスの女戦士たちは女王を守ろうとした」
「それで?」
「ヒッポリュテーに裏切られた、と思ったヘラクレスは、ヒッポリュテーを殺し、ベルトを奪ってギリシアに帰ったんだよ」
「そんな莫迦な!!?」とヒッポリュテー。
「でも、その伝説は確かに残っているんだよ」
「ちょっと待ってよ。あなたは何者なのよ?」
ユリアが話に割り込んだ。
「この人達は未来から来たのよ」
「未来?」
「5000年後から来たんだ。」
そしてヒッポリュテーは、ゲラゲラと笑い出した。
「信じられるか!そんな話!」
「それはそうだろうね。」
「でも信じてよ」とユリア。
「ユリア、あなたよくこんな変な人に命を預けたわね?」
僕は、『あんまりな言い方だが、無理も無い』と思った。
ユリアは、「あなただって虫歯の治療を任せたじゃない?」
「あ、あれは、どーせ酷い虫歯だし、いずれ抜くなら腕の良い医者に頼もうと思っていたし」しどろもどろになった。
「ユリアの歯に一本も虫歯が無いから、アルカイオスとケイローンの治療を見てから、任せてみようと思ったのよ」
僕は、「ユリアが中垂炎で開腹手術をしたときは、意識を失っていた。命を預けたというより、本人には選択の余地が無かったと言うべきだね」
「涼子さんに命を預けなければ死んでいたわけ?」
「僕達がこの時代に来るまでは、ユリアは死んでいた。僕が新しい命をユリアに吹き込んだとも言える」
「過去を改変できるの?」
「その通りだよ。 条件付で可能だよ」
「死者も蘇生する?」
「そうも言えるね。未来から見れば、過去の人間は全て死人だと言えるけどね」
ヒッポリュテーは何やら考えている。 何とか論破したいと思っているのだろう。
「全ての人間を死から蘇らせて、時間の果てまで送れば、この世の終わりまで誰も死なないわね?」
「うーん?」僕は答えに窮した。
フレイヤが話に割り込んできた。
「ヒッポリュテーちゃん?未来は確かに存在すると考えてちょーだい。わかるかしら?」
「わかるわよ。」
「そして未来では時間の中を前後に移動できるのだと。5000年後の人間が2000年程時間を遡り、ある幼い女の子を自分達の時代に連れ帰り、充分な教育を受けさせたのだと。それが涼子よ」
「そんな莫迦な?」
「本当だよ。 もっとも僕が未来世界に来たのは2歳だったけどね」
「あたしは信じないわよ。そんな話は」
「信じようと信じまいと、事実だよ」
ユリアが、「思い切って未来のテクノロジーを見せてみたらどうかしら?」と言った。
「虫歯を治療しただけでも充分だと思うけど」
フレイヤが、「ちょっと待って、ケイローンはミノア王家の生き残りに会いたがっているのよ?会わせなくてもいいのかしら?」
「うーん?ケイローンが何の為にクレタに来たか? それを確かめてからでも遅くないと思う。どうせ逃げるのは、あっと言う間なんだから。」
フレイヤは、「異議無し。そうよね、ユリア?」
ヒッポリュテーは不信感を露骨に顔に出した。
しかしケイローンが話しに割り込んできた。
「涼子様、話は終わりましたか?」
「終わったよ」
「ではユリア様、涼子様、ミノア王家の生き残りの貴族に会わせていただきたい」
僕は「それがあなたの目的なんだね」と言った。
「そうです。ミケーネとクレタの友情の為に」
『何処まで本当だか?それももうすぐ判明する筈』
と僕は思った。
(ここで作者の三人称に戻す)
第三章。再びクレタ島西部へ。
涼子たちは馬車に引かれて、クレタの西部へと向かった。
余りにのんびりとした、のんきな旅だ。
ケイローンとアルカイオスが変な気を起こしたら、
二人の記憶を消して放り出し、カナン(パレステイナ)に引き揚げるつもりだった。
殺すのはさすがに抵抗がある。 涼子は医師だし、相手が後世のギリシア神話の名士なら、 尚更だ。
ケイローンは馬の取り扱いに慣れており、フレイヤに代わって、御者の役割をしている。
「はいようっ!!」
「ケイローンが人間で良かったよ」と涼子が言った。
「それはまた何で?」
「半人半馬の怪物では怪我や病気を治せないよ」
「そんな生物が実在しないと、知っていたんでしょうに?」
「それはそうだけど、万一想像を絶する何かに遭遇したら、どうしょうと思っていたんだ」
「ヘラクレスはどうなのよ?」
「実在するとは思わなかったよ」
フレイヤは、「このちょーしなら、テーセウスが生きているわね」
涼子は涼子で、「それは僕も考えた。ラオメドンはヘラクレスに殺される運命。 ギリシア神話で御馴染みのキャラクターは全員生きている。と考えるべきだね」
「でも只の人間なのね?」とユリアは問い直した。
「だろうね。 アキレウスが実在しても、その母親のテテイスは海の女神じゃなくて、只の人間・・・」
ユリアは、「どうも話が見えないわ」
涼子は、「後世のギリシア神話は必要に応じて、その都度教えてあげるよ」
「楽しみね」とユリアは答えた。
さて、涼子は衛星携帯情報端末の液晶画面を注視し、 イヤホーンからのダイアナの音声を聞いていた。
「何なの?」とユリア。
「ギリシア本土の連中が怪しげな動きをしているよ」
「やっぱりね」
「ユリアは平気なのかい?」
「別に平気じゃないわ。 ただ涼子に言われていたから、ある程度の覚悟はしていたのよ」
フレイヤは、「逃げるのは、あっと言う間よ。一瞬で終わる。ギリギリまで待つべきね」と言った。
「クレタの西部にいる傍流の貴族達は・・・?
ひょっとしたら、いよいよというときは、 カナンに逃げるかもね」とユリア。
涼子は、「何とも言えないね」
フレイヤは、「クレタ人を逃がすなら早くしないとね。 大勢のギリシア兵の前で大勢のクレタ人が消えたら一大事。変な伝説になるし、大勢の人間の記憶をいじるのは面倒よ。早めに逃がすか、見棄てて逃げるか、どっちかね」
アルカイオス(ヘラクレス)が不安そうな顔で、「何語で話しているんですか?」と質問したが、ユリアはこの時代のギリシア語で、「あなたの知らない言葉よ」と答えた。
ユリアは37世紀人の翻訳機を使わなくても、この時代のギリシア語が話せるのだ。
元々この時代の人間で王族なのだから、それも当然。
しかし37世紀人との会話を盗み聞きされても、37世紀の言語なら、アルカイオスやケイローンには何の事かわかるまい。ヒッポリュテーには、涼子がこの時代のクレタ語で話しているのを聞かれたので、結果的に盗み聞きされてしまったが、少し注意が足りなかった。
アルカイオスは、「ミノア王家の貴族に会えるのが楽しみです」と言ったが、しかし涼子は、「優等生的な発言だね。本当は喧嘩っ早いくせに」と軽い皮肉を言った。
「何で知っているんですか?」
「君の名声はあちこちに広まっているんだよ」
「それは?何か嬉しいですね」
フレイヤは、アルカイオスに理解できない37世紀の標準英語で、「悪名も汚名も名声は名声ね」と言った。
涼子は、「冗談を言っている暇が有ったら、仕事をするの」
とこれまた37世紀の英語で言う。
ユリアは、「アルカイオスが不安がるから、この時代の言葉も使ったら? ケイローンの事もあるし」 と提案した。
フレイヤは、「それもそうね」
涼子はヒッポリュテーをチラリと見た。
『この娘にも未来の秘密を教えなければね』 と37世紀の日本語で独り呟いた。
『ケイローンは・・・。何十年か先にヘラクレスに殺される運命。しかし教えてはいけない。 学問の無い、一般のケンタウロス族は色欲に耽り、大酒を飲むが、ケイローンは立派な学者様だ。 少なくともオリジナルのギリシア神話では。
しかし、ケンタウロス族は神話と異なり、半人半馬ではなかった。となると、ケイローンは何処まで信用できるんだろう? こいつには未来のアイテムは渡せないね』
と涼子は思った。
イヤホーンからダイアナの声がした。
「ミケーネ軍団がクレタに向かっているわ。注意して」
涼子は「諒解」とメールで返事をした。
怪しげな動きは遂に具体的な動きになったか。
ついさっきまでは出撃の準備だったのに。
逃げるのは、ホンの一瞬で終わる。しかし? ギリシア本土のクレタ侵略は、トロイ戦争やキリストの磔刑に匹敵する、歴史上の一大事である。この眼で見ない手は無い。 ユリアには災難だが、それでもこの眼で見たい。
腕時計に眼を落とす。ミケーネ軍団の到着は二日後ぐらいか。
それまでにケイローンとアルカイオスは、傍流の貴族に会うのだろう。どうせろくな理由じゃないに決まっているが。
「はいようっ!!」ケイローンは気楽だ。どうせ、
『腹に一物、手に荷物』を持っているに決まっている。
あ?今、手に持っているのは、馬のたずなか。(笑)
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
「オリジナルのギリシア神話には、カリスト島壊滅の話は残っているのかい?」とヒッポリュテーが質問した。
「残っていないわ」とミネルヴァ女史は答えた。
「しかし、多少の似た話なら無くも無い。 大洪水に見舞われながら生き残ったデウカリオンとその妻の話。 アッテイカやアルゴリウスなど、ギリシアの各地に海神ポセイドンが大洪水を起こした話。 浮かぶ岩の話。クレタ島に近づく船に岩を投げつける、青銅の巨人タロスの物語など、様々な伝承の中に、カリスト島大噴火の微かな記憶を残していたのかも知れない。と言われているわ」
(注、ジョン・ルースの説)
「ふーん?」とヒッポリュテーは考えこんだ。
「ケイローンと言えば、」涼子は、ぼそっと話し出した。
「ギリシア神話には、医神アスクレピオスの故事があったね。 アスクレピオスは幼少のときに、ケイローンに預けられて素晴らしい医術を教わったので、死者を生き返らす事もできた。これを知った冥界の王ハーデス(プルートー)は、ゼウスを説得してアスクレピオスを殺してくれ、と願った。ゼウスはハーデスの願いを聞き入れて、この大胆な医師を雷で殺した。しかし死後、アスクレピオスを神々の列に加えたという。
アスクレピオスは恐らく実在の人物で、余りにも優れた医師なので、死後、神格化されたのだ。と考えられている」
ヒッポリュテーは一言、「面白いね」と言った。
「ケイローンは僕の医療技術に強い関心を示していた。37世紀の医学なら死者を蘇生させるのは不可能ではない・・・。ということは、アスクレピオスは37世紀の医学を、ケイローンを通じて僕達から学んだのだろうか?」
そこでヒッポリュテーは凄い事を言い出した。
「アスクレピオスは涼子さんじゃないのかい?」
「僕が???」
「神業みたいなことができるし、男装しているし。アスクレピオスが男でも、実は男装した涼子さんだった!! なんて事も充分考えられるぞ」
「ぼ、僕は男装なんかしていない。ボーイッシュで中性的な顔だけど、男装じゃない」
「タイムパラドックスですわ」
レダは鬼の首でも取ったように叫んだ。
「青銅の巨人タロスなんて、あたしたちは知らなかった。 あれは37世紀人の、作業ロボットのイメージが後世に残ったのですわ。 となると、ケイローンの弟子のアスクレピオスが実は涼子様で、ケイローンより若いから後世の伝説では師匠ではなく、弟子になってしまった。という可能性も、有り得なくは無いですわ!!!」
レダの鼻息は荒くなった。
「そんな莫迦な!?!?」
フレイヤは、「イソップ物語に女神アテナとヘラクレスの故事があったわね。ヘラクレスが実在するなら、アテナはミネルヴァ女史・・・。となるとアスクレピオスが涼子というのも、まんざら荒唐無稽な話ではないわ」
「ぼ、僕は雷で殺されたりはしない!!!」
普段冷静な涼子はパニクった。
涼子が珍しく見せた人間的な弱さをユリアは面白がった。
『涼子さんも人の子なんだわ』
そこで涼子はヒッポリュテーに反撃した。
「ヘラクレスに殺されたヒッポリュテーが、ヘラクレスよりも年上の筈が無いと思ったけど、辻褄が合うかもしれない。タイムトンネルで時間をずらすんだ。
成人したヒッポリュテーが、ヘラクレスの難行が始まるまで時間を前進して、それから王位に就くんだ。 そうすれば、年齢の辻褄は合うぞ!!」
しかしヒッポリュテーは、「ふん?何を莫迦なことを。20年後にヘラクレスがいい大人になるときには、あたしは36歳だ。あたしが若いままなら、16年は時間を前進しなければならない。16年も領地を留守にして王位に就けるものか。 それにあたしはヘラクレスがヒッポリュテーという名前の女王を殺す事を知っている。
だからあたしは殺されない。ヘラクレスが殺すのは、別のヒッポリュテーだ。同名異人に決まっているさ」
ミネルヴァ女史はこの会話を興味深く聞いていた。
ジョンFケネデイ大統領をどうしても救えなかった事を覚えていたからだった。
ユリアの友人ヒッポリュテーは、あの、ヒッポリュテーなのだろうか?
涼子はアスクレピオスなのだろうか?
それは確定済みの運命なのだろうか?
涼子もケネデイを救えなかった事を決して忘れない・・・
「話を戻しましょう。キリがないわ」
「戻そう」涼子もミネルヴァ女史に同意した。
第三章。クレタの西部にて。
一行は一日がかりでクレタの西部、クレタに残った人々の集落に到着した。
「ここがミノス王の御家族のおられる所?」
ケイローンの質問にユリアは、「一部の親戚が残っているだけよ」と答える。 アルカイオスは、「そのうちミノア王家の王侯貴族全員に御会いしたい」と言い出した。
ユリアが、「ヘラクレスがパレステイナに来た。なんて伝説があるの?」と聞くので涼子は、「そんな話は聞かないな」と答えた。
「そう言えばギリシア人のクレタ侵略は史実だけど、 何故かギリシア神話には残っていない。しかし、ヘラクレスやテーセウスがクレタに遠征した故事の中に、その痕跡がある。と考えられている。ヘラクレスが実在するなら、テーセウスは何処にいるんでしょうね?」とフレイヤが言った。
涼子はそれに対して、「年齢差を考えるなら、生まれていないか、ほんの赤ん坊だよ。あの少年がヘラクレスだと仮定した上の話だけど」と答えたがフレイヤは、
「ヘラクレスに決まっているわ。常人には無い特異体質だし、ケイローンが教育係なんだから」
「うーむ?」と思案する涼子。
ケイローンは、「さあ、王族に会わせて下さい」
ユリアは、「こちらです」と案内した。
そして涼子やフレイヤも後に続いた。
ユリアは、「あたしの父親の、ミノス王の遠縁にあたる方がいますわ」
「その御方の御名前はなんと言われるのですか?」
ユリアは、「アイアコス、と言います」
ケイローンは、「アイアコス様・・・」と呟いた。
アイアコスという名前は、オリジナルのギリシア神話では、ミノス王の弟の名前だ。
現実の過去の古代世界で、ミノス王の弟ではなく、遠縁の王族だとは思わなかった。
(作者の解釈です。それが正しいという保証は無い。念の為)
ユリアは、「アイアコスのおじ様は、パレステイナ、じゃ無かった、カナンの地に行かなかったのです」
「それはまた、何故ですか?」
「ちょっと答え難い」
ケイローンはそれでもユリアに、「アイアコス様に御会いしたい」と言う。
「会わせてあげますよ」とユリア。
あと一日でギリシア軍が上陸して来るとゆーのに、何と言う暢気な会話だ。と涼子は思った。
アイアコスの住み処はイダ洞窟の南の、小さな離宮とその周りにあった。
クレタでは大きな宮殿は東半分に集中しており、西半分には小さな離宮しかない。
しかもこういった離宮はアカイア人の侵入と、トロイ戦争後のドーリア人の侵入で完全に破壊されている。
20世紀のアーサー・エヴァンスも、アイアコスの離宮を発見していない。
涼子はユリアがクレタを離れる前に、アイアコスの離宮を何回も訪れている。
ユリアは離宮の門の前まで来た。
「おじ様!ユリアです。おじ様!」
そして門のゲートが開き、アイアコスが現れた。
「ユリアか、何の用だ?」
「この方がアイアコス様・・・」とケイローン。
涼子は何回も会っているから、何の感慨も湧かない。
後世の伝説では名君という事になっているが、風采の上がらない小男にしか見えない。
もっともこの時代の男性は押し並べて背が低く、成人でも160センチしか無い。
ユリアは例外だ。女だてらに180センチもあるのだ。
アイアコスはユリアを下から見上げるのが嫌なのか、やや高い庭石に乗っていた。いつもの事だが。
ユリアが、「ケンタウロスの王ケイローンが、ミケーネを代表してやってきました」と言った。
「ということは? アカイア人がいよいよやって来るのか?」とアイアコスが問い直した。
ケイローンの顔がさっと変わる。しかしポーカーフエイスで切り抜けた。
「クレタ人の窮状を救う為に、アカイア人が人道支援にやって来るのです」とケイローンの説明にアイアコスは、「ふーん」とだけ言った。
ミケーネが何の為にクレタに来るのかは、ヒッポリュテー以外は全員知っているぞ。 言わないけど。
アイアコスがユリアに、「いつ頃ミケーネは上陸するのだ?」と聞いたので、涼子は、「後一日ぐらいです」
と答えが、ケイローンはさすがに不安そうになった。
アイアコスに、「この方たちは未来が予見できるのですか?」と質問したので、アイアコスは答えた。
「まあそんな所だ。この方たちは神々の様な力が行使できる。未来を語り、魔法や奇跡のような医療行為ができる。 死ぬような怪我や病気でも癒す事ができるのだ」
「ユリア様の脇腹の傷跡は見せていただきました。 口の中の虫歯が無くなっているのも」
「虫歯なら、儂も治してもらった」
「私もです」ケイローンはまだ若いので、儂と言わず、 私と言った。
そして彼はフレイヤと涼子をチラッと見て、
「涼子様はアポロンの神から神通力でも授かったのですか?」とユリアに質問した。
「アポロンじゃないわ。ミネルヴァ様よ。ミネルヴァ。 神々の様な力を持った素晴らしい女性よ」
「それなら女神でしょう?」
「女神?女神といえば女神かもしれないわ。」
フレイヤは不安そうな顔になった。
これではミネルヴァ女史が、未来から来た女神アテナになってしまう。
『それともあたしはこの世界で、女神アフロデイテになるのだろうか?
ゲルマン神話のフレイヤがギリシア神話のアフロデイテに相当するからって?』
アイアコスはケイローンに警告した。
「この方々をどう考えようと勝手だがね。迂闊に逆らうと後々怖い思いをするぞ」
『そこまで言うなら、素直にクレタを去ってカナンの地まで来れば良かったのに』と涼子は思った。
ケイローンはフレイヤと涼子を見た。
『触らぬ神に祟りなし』と言う日本の諺に近い諺が、この時代のギリシアにあるかどうかは涼子は知らないが、それに近い事を考えているかもしれない。
ヒッポリュテーは、「ミネルヴァ様はどこにおられるの?」
とユリアに聞いた。ユリアはそれに答えて、
「カナンの地ね。 その気になれば簡単に来られるわ」
「じゃあ呼びつけて」
「うーん?」
如何すればいいのだ? 疑い深いヒッポリュテーは、ミネルヴァ女史がここに現れても納得ないかもしれない。
となれば、方法は一つしかない。ユリアはヒッポリュテーに、少しこの場を離れようと言った。
「何処に連れて行くのよ?」と聞かれたが、「いいところよ」とだけ答えた。
ケイローンとアルカイオスは、涼子とフレイヤが引き留めてくれる。何も無い野原のど真ん中で、ユリアは携帯端末を取り出した。
「ミネルヴァ様?準備完了です。ワームホールを作動させてください」そして目の前に大きな穴が開いた。
「こ?これは?」
「ワームホールよ」
「虫食い穴?」
「この向こうにカナンの地があって、ミネルヴァ様がいるわ」
「この向こうがあの世で、本物の女神がおられる。と言う方が信じられるわ」
「うまい事を言うわね。でも向こうはあの世じゃないわ」
ヒッポリュテーはさすがに怖じ気付いている。
それも無理は無いが、 しかしここを通らなければミネルヴァ様に会えない。
ヒッポリュテーが穴の前で迷っていると、ミネルヴァ女史の声が聞こえた。
「ユリア?早く御友達を連れてこちらに来なさい」
携帯端末ではない、拡声器の声だ。穴の向こうからマイクとスピーカーで呼びかけているのだ。
「今行きまーす」ユリアはヒッポリュテーの背中を押した。「ほら、行くわよ」
ヒッポリュテーは、8年前なら怖じ気付かなかっただろうが、今回は少し用心深くなっている。
ユリアはヒッポリュテーと腕を組んで、強引に潜った。
「いらっしゃーい」ミネルヴァ女史の妙に明るい声がした。ヒッポリュテーの緊張を解こうというのだろう。
ユリアの兄のアトルもミネルヴァ女史の隣に立っていた。
「あなたは?お兄さんのアトルさん?」
「覚えていてくれて嬉しいよ」
「去年カリスト島で死にかけたとか?」
「その前にクレタに帰れたけどね。ミネルヴァ様の御蔭だよ」
ヒッポリュテーはミネルヴァ女史の顔を見た。
「白人ですね」
「そうよ」
「すらっと背が高くて、灰色の眼をしていますね。
まるで女神アテナのように」
「よく言われるわ」
「女神様なの?人間なの?」
「あなたはどっちだと思う?」
「あなた様が自分が人間だと言わなければ、女神だと言われても信じます」
「何故?」
「こんな神業みたいな事は、神様でなければできっこないと思います」
「ここが何処だかわかるかしら?」
「クレタ島ではないですね。少なくともクレタにはこんな砂漠は無かった筈です」
ユリアは、「ここはカナンの地よ。後世にパレステイナと呼ばれる。あたしたちクレタ人はペルシデ人と呼ばれるようになるの」
「ペリシデ人? パレステイナ?」
「パレステイナとはペルシデ人の土地と言う意味で・・・」
ミネルヴァ女史は、「止しなさいユリア。そんな先の話よりも、現在が大事なのよ」
ヒッポリュテーは、「現在?」と聞きなおした。
「と言うより現在起こりつつある出来事と言うべきね」
「何が起きるんですか?」
「ギリシア本土がクレタを侵略する」
「侵略?」
「あなた気付いてないの?」
ユリアはヒッポリュテーを問い質した。
「アテナイ(アテネ)あたりに変な動きは無かったの?」
「いやに大勢の兵隊がいたけどね。 別に不自然だとは思わなかったわ」
「何故?何故?不自然だと思わないのよ?」
「だってギリシア人は敵がいなければ、仲間同士で戦争ばかりしているじゃない?」
「仲間同士で?」
「でも真実よ」
ミネルヴァ女史は決まりの悪そうな顔をした。
「やれやれ。 古代では地球人同士で戦争しただけでは無くて、同国人同士でも戦争したのよね」
「地球人?」
「この星の人間と言う意味よ」
「それは面白い。 天空の彼方に別の人間がいるとでも言うのかしら?」
「いろいろな生き物がいるけどね。その星に固有の生物で人間と似た生き物はいない。しかも人間に匹敵する知的生命体は銀河系には見つからなかったわ」
「それはつまり?天空に神々はいない。と言う事かしら?」
「そうよ。人間だけが、地球人だけが、宇宙の知的生命体よ」
「ではあなた様は、女神ではない?」
「そうよ。あなたと同じ人間よ」
「それなりの服装をすれば、女神でも通用しますよ」
「確かにそうかもしれないけど、現在の問題はギリシア本土のクレタ侵略よ」
「止めないんですか?」
「え?!?」
その場の全員が一瞬、虚を付かれた。
「ミネルヴァ様が命令すれば、ギリシア軍は侵略しないでしょう?」
ユリアはヒッポリュテーとミネルヴァ女史の顔を見た。
確かにこれは盲点だった。
ユリアは哀願するような顔をミネルヴァに向けた。
「駄目よ。歴史を必要以上に変えないわ。
カリスト島の住民3万人を、 クレタ島に送り返した以上の事は、あえてしないわ」
がっくりしたユリアにヒッポリュテーは、「この人たちは全知全能みたいに見えて、実はそうでもないのね?」と言った。それに対してミネルヴァ女史は、
「この娘は鋭いわね」としきりに感心している。
アトルはユリアに、「死ぬ筈のところを3万人も助けられたのだから、不満を言う道理は無いよ」と言った。
ヒッポリュテーは、「ギリシア軍がクレタを侵略する?そうかもね?それでミネルヴァ様は何をなさりたいんですか?」と聞きなおした。
「ユリアには気の毒だけど、クレタがアカイア人の傀儡になる所を確かめたいの」
「確かめる?」
「歴史の謎を解く為に未来から来たのよ。死すべき人間の命を救うのも、その為の手段なのよ」
「歴史の謎ねえ?」
ヒッポリュテーは未来人に敬意を払いつつも、未来人の力の限界を見極めようとしているようだった。
「あたしはアルカイオスに殺されるんですか?」
「アルカイオスと後世のヘラクレスが同一人物なら、可能性は大きいわ」
「アルカイオスが死ねば、全て解決ですか?」
「うーん?何とも言えないわ」
「何を弱気な事を言っているんです?」と涼子。
ユリアは、「ヒッポリュテーはアルカイオスが好きなの?」
「まだ、ガキんちょだけど、強くなりそうね」
「何十年か先にあの坊やが、コーカーサスまで来たら如何するのよ?」
「そうねえ?全ての女戦士に事情を話しておいて、女神ヘラのデマに引っ掛からないようにしとくわ」
これには未来人もビックリした。
これは最善の答えだ。これ以上の模範解答があるだろうか?
ヒッポリュテーは、「さあ、クレタ島がどうなるか、確かめようじゃないの? ヘラクレスなんて怖く無い。ギリシア人がクレタ島をどうするつもりか? この目で見届けましょう」
ユリアも何だか心強くなって来た。
「頼もしいですわ。ヒッポッリュテー様」この声は?
「初めまして。 あたくしはレダと申します。」
ユリアは、「レダ!!あなた、いつから聞いていたのよ?」
「ヒッポリュテー様がこっちに来てからずっとですわ」
「なんとまあ」ヒッポリュテーは呆れた。
「盗み聞きをしたなんて思わないでくださいませ。ヒッポリュテー様に御会いしてみたかったのですわ」
「それで? あなたはユリアの御友達なの?」
「とゆーか、従妹ですわ」
ユリアは、「憎まれ口ばかり言うけど、気を悪くしないで。」
と言ったが、しかしレダは、
「ヒッポリュテー様、美人ですね。ユリア様より御騎麗ですわ」としきりにゴマをすった。
「いい子じゃないの?」
「あたしに憎まれ口を言っているの」
しかしレダは、ヒッポリュテーの金髪にうっとりと見とれていた。金髪ならフレイヤのを見慣れているのに、レダはヒッポリュテーに憬れていたのだ。
何年も前に、御祭りの日にヒッポリュテーの話を聞かされて以来、ずっと憬れていたのだ。
もっともユリアもレダも、カリスト島の大噴火とクレタからの国外移住のどさくさで、迂闊にも度忘れしていたのだが。
レダは、「さあユリア様、気を取り直して、ヒッポリュテー様とクレタに戻りましょう。 どうせアカイア人はあたくしたちに、何もできませんわ」と強気な所を見せた。
ヒッポリュテーは、「そうよユリア。あなたにこんな心強い味方がいるなら、何の心配も無いわ」
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
ヒッポリュテーはレダの顔を見て苦笑した。
「これだけの力が有りながら、個人的なストーカー事件を解決する為に振り回されるんだから、運命は判らないものね」とヒッポリュテーが言った。
「ストーカーなんて言わないで。この時代にそんな言葉は無いんだから」と涼子は念を押した。
ヒッポリュテーは、「あたしは覚えちゃったわよ」
「地上では使わないで」とミネルヴァ女史。
「この時代なら、ストーカーとは言わないで、一途な純愛と言うんじゃないかな?」涼子は思案した。
「片思いを寄せられた方も、いい迷惑ですわ」とレダ。
ユリアも、「悪気が無いだけに始末が悪いわ」
涼子は、「ユリアは男に言い寄られた事は無いの?」と聞いてみたが、しかしユリアの答えは、「上背がありすぎて、男が言い寄ってこないわ」
涼子は「答えになっていないよ」と諌めた
フレイヤは、「37世紀ならタッパが有り過ぎと言うことは無いわ」と言った。
ミネルヴァ女史は、涼子やフレイヤを幼少期に37世紀に連れ去ったように、さっさとユリアを37世紀に連れて行きたかった。
しかし2歳で親元を離れた涼子や、4歳で未来人に拾われたフレイヤと違って、ユリアは人格が固まっている。 問答無用で未来に連れて行ってもうまく行かないだろう。 未来のアイテムを自由に使わせて恩恵を味わわせ、未来に行ってみたい。と思わせなければならない。
「未来世界に逃げれば、レダの従兄も追ってこないわ」
ミネルヴァ女史はレダを促した。
しかしユリアは、「全てのクレタ人を連れてって」
ミネルヴァは、「それは、ちょっとね」
「話を戻そう」と涼子。
「戻しましょう」ミネルヴァは話を戻した。
第五章。 再びクレタにて。
ユリアとヒッポリュテーは再びクレタに帰ってきた。
おまけに小生意気なレダまで同行している。
アイアコスは、「レダ!」と声をかけた。
「御久しぶりですわ。アイアコス様」
「戻ってきたのか」
「どーせ、あたくしたちに、アカイア人が危害を加えられる筈は無いのですから、何が起きるか見届けたいのですわ」
「お前の母はアテナイの出身なんだし、ここに残ってアカイア人が来るのを待ったら?」
「あたくしには、アカイア人より、涼子様やミネルヴァ様の方が魅力的ですわ」
「確かに。 しかしわしはアカイア人が来るのを期待しているのじゃよ」
レダは、「それでもあたくしは、たとえアテネ軍の中に従兄がいたとしても、アカイア人に投降したりしませんわ」
ユリアは涼子に、「あたしの先祖はあちこちからクレタに来たけど、あたしが知る限りアカイア人はいなかったわ」
涼子は、「ギリシア軍の中に顔馴染みがいた。何て事もありそうだね。いや、きっとあるよ」
ヒッポリュテーはユリアに、「親戚でなくても、顔見知りぐらいいるだろうに?」と言ったが、ユリアは、
「ギリシア本土は男尊女卑が強いから、本土の王族はあたしを煙たがっていたわ。もっともアトル兄さんなら本土の王族に顔見知りがいると思うけど」
涼子は、「ユリア、アトルもクレイトーも、ここには呼ばないよ。安全確保のためだ」
「どーせネイトの世話でこられないわよ」
そこにケイローンが割り込んできた。
「ユリア様? 他の王族はどちらに?」
「クレタにはいないわよっ!」
「アイアコス様に聞きました」
「じゃあなんで聞くのよ?」
「貴族ぐらいは残っているかな? と思って」
「それで?」
「ミケーネとクレタの友好と同盟を図るのです」
「ミケーネとクレタが力を合わせて、どこかと戦争でもしょうっての?」
涼子は反射的にユリアの口を塞いだ。 ユリアをケイローンから引き離してから、
「ユリア!!あんたって娘は!80年後のトロイ戦争の話をしょうってーの?
未来の情報をやたらと教えるなと言われているでしょう?」
「ケイローンの教育を受けた最後の一人は、アキレウスという人で、トロイ戦争で戦死した。と聞いたわ」
「ほーっ?誰に聞いたんだ?」
「フレイヤよ。 フレイヤが教えてくれたのよ」
涼子はフレイヤを睨んだ。
「話していない、話していない」
「この前お酒を飲んだときに、話していたわ」
「そーいえば話したかも」
「まったく・・・」
ユリアは、「あたしは、ケイローンは実在している、と話したのに、そこで酔いつぶれていたのよ」
「大酒のみのアル中っ!!」
ケイローンがやって来た。
「ユリア様、考え直してください。エジプト人はクレタ人とギリシア本土のアカイア人を区別せず、どちらもケフテイオウと呼んだ。 外国人から見れば、アカイア人もクレタ人も、同じ神々と同じ文化を持つ同族に見える。 両者は今こそ一つに為るべきなのです」
涼子は、「あなたの本音はそこにあるんだね」と言った。
ヒトラーが生まれ故郷のオーストリアを第三帝国に併合したように、ギリシア人はクレタが欲しいのだ。
あるいは、ロシア人がウクライナを征服して、帝政ロシアや、ソビエト連邦の中に組み込んだように・・・
ソ連が解体されたとき、ウクライナはロシアから独立したが、やがて地球連邦の一部になり、別々の行政区に為っている。しかしクレタ島は、37世紀の地球連邦の行政区では、ギリシアの一部とされる。
その第一歩はこれから始まる、アカイア人のクレタ征服だ。
しかし現時点ではホンの少ししかユリアには教えていなかった。
「本心?確かにそうかもしれない。しかしそれでも、クレタとミケーネはひとつに為るのが筋です」
ホメロスの名作、『イリヤッド』と『オデュッセイア』ではクレタはギリシアの都市国家のひとつになっている。 全ての37世紀人が知っている事だ。
「あなたの気が済むように。でもあたしは協力しないわよ」
「ユリア様」
「あたしはミノス王の娘であって、アイアコスの娘じゃないわ。ミノス王はカナンの地に去り、アトル兄さんが王位を継ぐ。 アイアコスのおじ様がアカイア人に阿って、クレタの王位を手に入れても、あたしの知った事では無いわ」
ユリアは涼子の背後にまわりこんだ。
ケイローンには従わない!!という明白な意思表示だ。
「仕方ありません。クレタを再び去りたければ、無理には止めません。しかしクレタ遠征の妨害はしないで下さい」
涼子は、「別に邪魔はしない。しかしアカイア人がクレタで何をするかは、見せてもらうけどね」
ケイローンはひたすら恐れ入っていた。しかし涼子はケイローンには、ワームホールを見せていない。 それを見たら戦意を喪失してしまうだろう。
逆にヒッポリュテーは強気になっている。
アカイア人がクレタで何をするかを、見届けてやろうという、意欲に溢れている。 その時涼子の携帯端末の呼び出しが鳴り、ダイアナの声がした。
「涼子?フレイヤ?ギリシア軍が上陸したわ。全員気を付けて」
「了解」 「了解」
ケイローンには、何が何だか判るまい。
ユリアの右脇腹の虫垂炎の手術痕を見せられたときから、ケイローンは未来人に敬意を払っていた。
ここで未来人が実力を見せ付けたり、歴史を変えるつもりは無い。歴史の介入は最小限でなくてはならない。
逆に歴史の介入が必要なら、躊躇無く行なう。
預言者モーゼに会ったときも、後世の歴史を守る為に、モーゼをヒッタイトの馬鹿王子から救い、おまけに考古学の知恵を付けてやった。モーゼの書き残した事柄が、その時代の知識では、絶対に知る筈が無かったからだ。
原因と結果が閉じたリングになっているが、それも仕方が無い。
レダなら、「タイムパラドックスですわ!」と言うのだろうが、歴史の無用な混乱を避ける為だ。
涼子の携帯端末に衛星からの映像が送られて来た。
「頭のてっぺんしか見えないわ」とユリアが言った。
甲冑の頭と肩しか見えない。あとは槍の切っ先ぐらいか。
涼子は、「空から見下ろしたんじゃ、どうしょうも無い。
アングルを変えよう」と言った。 アングルを変えると、アムニソス港に上陸する兵士の姿が現れた。空飛ぶ昆虫型の無人偵察機だ。人間が見ても蠅が飛んでいるぐらいにしか見えない。 唯一厄介なのは野鳥だ。 鳥が嫌う音を出すが、それでも食べられる事が有る。
兵士の姿は何とも物騒だ。鉄が貴重なので殆どが青銅の武具を付けている。それでも剣呑だ。
牛の革を張った盾、剣と槍、全部青銅製だった。
ゴテゴテした飾りが付いていて、本気で戦うというより、アクセサリーのような傾向がある。硬く尖った顎鬚は武器ではないが、何とも怖い。
ユリアは、「野蛮人ね」と言い放ち、ヒッポリュテーは、「この先どうなるのかしら?」
涼子は、「クノッソス宮殿を占拠するんだよ」と答えた。
ケイローンはこちらの様子を伺っていたが、涼子は携帯端末の映像を消した。ケイローンに見せたく無かったのだ。 フォゲッターがあるとは言え、見せたく無かった。
レダは自分の携帯端末に向かって、何かを叫んだ。
「如何したんだい?」
「従兄の顔を見つけたんですわ」
ケイローンが何事かと近づこうとしたが、涼子は止めた。
「年頃の娘の持ち物を見るものではないよっ!」
「では涼子様の持ち物を見せてください」
「今は見せたくない」
イヤホーンからダイアナの声がする。
「涼子?聞いてんの?映像を送ってんのよ?見てないの?」
「うるさいね。 この状況が見えないの?」
胸のブローチ型のTVカメラはケイローンの姿を送信していた。
ミネルヴァ女史もケイローンを見ている筈だ。
女史もケイローンに会って見たいだろう。
しかし現時点では無理なのだ。ということが涼子にはわかっていた。
クレタがミケーネの手中に収まるまでは、余計な事はすべきでは無いのだ。
さてその頃、アカイア人の戦士アイアスは、何年かぶりでクレタに上陸を果たし、感慨に耽っていた。
前回は貢物を持ってクノッソス宮殿に行き、ついでにザクロス宮殿まで、従妹のレダに会いに行ったのだ。
レダの母親、アイアスの叔母はアテナイの出身だが、レダは結構幸せに暮らしていて、レダはアイアスに向かって、『アテナイに行く積もりは無いですわ』とのたまいていた。 アイアスは悔しがったが、しかし現在は違う。
クレタは没落した。レダがクレタに残る理由は何も無い。
『俺は従妹のレダを何としてもアテナイに連れて帰る!』 とアイアスは誓った。
他の戦士達には、『レダを犯してはならない』と因果を含めてある。
もっとも誰もレダの顔を知らないのだが。
クレタの女は全員が似たような髪形をしているから困る。
「おい、アイアス! ザクロス宮殿はもぬけの殻だ。誰もいねーぞ。マリア宮殿にも誰もいねーよ」
「わかっているよ。クレタの東半分の人間は西半分に移住したんだ。ザクロスにレダはいねーよ」
「カナンの地にクレタ人が逃げて行った。何て話がエジプトから伝わっているけど、その中にお前の従妹がいるんじゃないかね?」
「そーなると面倒だな。どうかクレタに残っていて欲しい」とアイアスはぼやいた。
「クノッソス宮殿があの巨大地震で、どのくらいのダメージを受けたのかは不明だが、使用可能なら占領軍の総司令部にする筈だ」
「ケイローンからの連絡は?」
「まだ無い」
「半人半馬の渾名を持つ程の馬術の名人だ。馬に乗らなくても、戦車を駆ってクノッソスから、ここまで来られるだろうに。ぶつぶつ・・」とアイアス。
「あるいはクレタの西半分まで行って、クレタに残った人々を尋問でもしているんじゃないの?」
「ケイローンもレダの顔を知らないんだ。アルカイオスは10歳のガキだから、レダを犯したりはしないと思うけど、一目惚れするかもしれない。
『レダという名前の女には手を出すな。アイアスの女だ』と因果を含めてある」
「とにかくクノッソスに行こうぜ。途中でケイローンに会えるかもしれないし」
「えい、えい、おーっ!!」
戦争に勝ったわけでも無いのに、アイアスとその部下たちは勝ち鬨の声を上げて、クノッソス宮殿へと進んだ。重い武具に身を固めた重装備の兵が、徒歩で行軍するのは、何とも壮観だ。
アイアスとその部下は生の玉葱をバリバリと齧りながら歩き続けた。
アイアスはゼウスの神がクレタで生まれたという故事を思い出した。
ゼウスも今頃はオリンポスの山頂から俺たちを見守っているだろう。
オリンポスの神々も御照覧あれ。
さてその頃ミネルヴァ女史は、カナンの地でアトルと共にクレタ島に上陸するミケーネの軍団の映像を見ていた。
「今更ながら物凄いですね。女神アテナの、別の名前を持つ未来人が空から見下ろして、しかも僕が一緒になって見ているんだから、夢みたいな話です」
「そのうち高々度偵察機に乗せてあげるわよ。成層圏を飛ぶのは気持ちいいわよ。高度が上がりすぎると、昼間でも星が見えるのよ」
「神々になった気分ですね。それにしても、ミネルヴァ様が本当に女神ではないのが、不思議で納得できないですよ」
「よく言われるわ」
クレイトーは、「あの4人じゃなかった、ヒッポリュテーも入れて5人は、アカイア人に見咎められずに帰って来られるかしら?」と言った。
「逃げるのは別に難しくないわね。クレタには300人以上の未来人がいるけど、全員がGPSで位置を特定し、マザーシップに転送できるわ」
転送という言葉を使った後でミネルヴァは苦笑した。
『これではまるでスタートレックではないか。スタートレックには過去に行く話しが以外に多かったわね。 大抵は20世紀だった。20世紀の視聴者を念頭に置いていたのだわ。しかし?37世紀人が5000年前の、紀元前14世紀人に会うなんてのは、ジーン・ロッテンベリーもビックリだわ。 しかし私達は、会おうと思えば誰にでも会えるのだ。 HGウェルズだろうが、ジュール・ヴェルヌだろうが、アイザック・アシモフだろうが、アーサーCクラークにだって会えるのだ。
もっとも、クラークはタイムトラベルを信じてはいなかったのだが・・・・』
ミネルヴァ女史はTVの画面を見ながらそんな事を考えていた。
さてアイアスは戦車に乗り込んでクノッソスに向かっていた。二頭の馬は二輪の戦車を力強く引いていく。
仲間の多くは歩きだが、アイアスは一刻も早く、クノッソスにいきたいのだ。レダに再開するために。 全員分の馬が無いのが不便だが、仕方ない。 同乗している彼の部下が、「なあ、アイアス、お前の従妹は本当にクレタにいるのかね? ひょっとして例の海水の洪水で死んじゃったんじゃないか?」と言った。
「縁起の悪い事を言うな。きっと生きている。神々がクレタ人を救ったのだから、きっと生きている」
「お前の従妹がそんなに美人なら、俺が嫁さんにしたいよ」
「レダは俺の女だ。お前には渡さん」
「イトコ婚なんて王族では珍しく無いけどな」
「レダの母親は、俺の叔母はクレタの王族の一人によって強引に結婚させられた。 レダはそれなりに幸せだった。 少なくともカリスト島が大噴火を起こすまでは・・・
縁故を頼ってギリシア本土にやって来た、クレタ人によれば、カリスト島の全住民が助かり、クレタ島の死者も神々の助けで以外に少なかった。一部はクレタの西部に残り、 多くはエジプト方面へと向かった。
レダはどうなったか? 例えレダがエジプトに去ったとしてもクレタに残った王族を問い質せば、何とか手掛かりは得られる筈だ。世界中を探し回ってでもレダを見つけてアテナイに連れて帰るぞ!!」
「そこまで惚れられれば幸せだな」
「お兄様!ついに!クレタまで追いかけて来たのですね。ホントにしつこいんだから!!」
涼子は、「ミケーネ軍団に顔見知りがいたんだね?」
「そうですわ。従兄のお兄様があたくしを本土に連れ戻すべく、ここまで来たのですわ」
フレイヤは、「その人はレダが好きなのね?」と聞いた。
「そうですわ」
「そういうのをストーカーって言うのよ」
「ストーカー?」
「密かに忍び寄る、そっと後を付ける。 と言う意味の、ストークから来た言葉よ」
涼子は、「そこまで教えなくてもいいの」と止めた。
ケイローンは不思議そうな顔をしている。 この学者然としたおっさんは何か重要な役割が有る筈だ。 ここで退治するわけにはいかない。
ケイローンは、「わたしはこれからミケーネ軍のアイアス様に、会いに行きます」と丁寧にのべた。
「アイアス!!あたくしの従兄ですわ」
「それは結構。 御姫様が生きていると、知らせてあげますよ。御姫様の御名前はレダ様でよろしいのですね?」
「じょ、冗談じゃありませんわ。あのお兄様とアテナイで暮らしたくありませんわ」
「アイアス様は、レダ様がお好きで、お気に入りの従妹なのかもしれませんよ?
イトコ婚なんて王族では珍しくもないし。 一緒になったらいかが?」
「あたくしは、お従兄様が大嫌いですわ」
ヒッポリュテーは、「そー言うのってあるわよね。お気に入りの従姉の子供や、年の離れた従弟妹を可愛がっても、以外に懐かないものなのよ」
しかしレダは、「そういう問題では無いのですわ。 あのお従兄様は物凄く下品なのですわ」
「下品?」 ユリアが問い直した。
「お兄様は、鼻くそをほじくり、爪を噛むのですわ」
「確かに下品ね」とユリア。
「生のワインをがぶ飲みするのですわ」
「いいじゃないか。ワインを水で薄めるなんて、未来世界では大野暮な飲み方だよ」と涼子。
「その後が、御下劣なのですわ」
「下劣?」
「何年か前に、お従兄様がクレタに来たときに、ザクロス宮殿に泊めたら、生のワインをがぶ飲みして、全裸でごろ寝をしたのですわ。」
「デリカシーの無い男だな」
「デリカシーなんてレベルの問題ではないですわ。途中で起きて千鳥足でトイレまで行ったのですわ」
「それで?」
「大量に放尿して、『あー気持ちよかった』何て言っているのですわ。御下劣にも程がありますわ」
「変態だな」 涼子は相槌を打った。
「嫌われても当然ね」とフレイヤは納得した。
ケイローンは、これは困った。と言う顔をした。
「わかりました。アイアス様には、レダ様が生きている事を教えません」
「きっとですよ」とレダは念を押した。
クレタから逃げるのは簡単だが、レダとアイアスが会わない様にするほうが余程難しいのでは? と涼子は思った。
ケイローンは涼子に虫歯の治療の礼を言うと、アルカイオスを連れて馬車に乗り、クノッソス宮殿へと走り去った。
「レダ、すぐにカナンの地に帰ったら? 少なくとも従兄に会わずに済むよ?」と涼子は提案した。
「ケイローンがどう出るかが問題ですわ」
「確かにケイローンが約束を破る可能性は、皆無ではないわね」ユリアもレダと同意見だった。
「ケイローンはクノッソスでアイアスに会うわねえ・・」
「もしも、もしもアイアスが、クレタ人がカナンの地に向かったと知ったら、カナンまで追ってくるわねえ・・」
ヒッポリュテーとフレイヤはレダに同情した。
「会いたくないですわ」
「クノッソス宮殿でアイアスに会ってケリをつける?『もう付きまとわないで』と」
レダは、「うーん?少し怖い目に会わせないと、効き目が無いかもしれませんわ」
「まったく未来ならストーカー規制法があるのにね」 と涼子はボヤいた。
ユリアはユリアで、「笑い事じゃないわね」と言う。
ヒッポリュテーは、「よーし!!クノッソス宮殿まで行ってみよう。あたしがアイアスを打っ飛ばしてやるよ」
そしてヒッポリュテーは、ヒッタイトで買い求めた鋼鉄の剣を取り出して見せた。
「アイアスが青銅の剣を振り回したら、こいつでやっつけてやるよ」
ユリアは何かを言おうとしたが、涼子は無言で制した。
「アイアスを殺すべきではないよ」と涼子。
フレイヤは、「取り合えずケイローンとアイアスの動きを見張りましょう。アイアスの処置はその後よ」
「そうね賛成」
ユリアは王族のくせに敵に寛容すぎるのだ。37世紀に移住するのなら、好ましい資質ではあるのだが・・・。
さてミネルヴァ女史は、カナンの地で涼子やフレイヤ、
その他大勢の37世紀人の報告を聞いていた。
アカイア人のミケーネ軍団が通りそうなところは、
それこそ至る所に監視の為の、昆虫型のスパイカメラを飛ばしてある。アイアスの動きは逐一監視できる。
「ミケーネのクレタ侵入だって、歴史上の大事件なのに、
個人的なストーカー事件の解決の為に、37世紀のテクノロジーを使うとはね」
クレイトーは「人助けはいいことですよ」
「今までにも随分と人助けをしたけどね」
「しかしツタンカーメンを救わなかった・・・」
「と言うより救えなかったのよ。大物過ぎて」
「その事でユリアは悩んだのよ」
「大物であればあるほど、死すべき人間を救えないのよ」
クレイトーは、「知っています。リンカーンとケネデイを救えなかった。と聞いています」
「その二人がどんな人物か知っているの?」
「詳しい事情は知らないけど、偉い人だと聞いています」
「そのうち教えてあげるわ」
そしてミネルヴァはモニターTVを注視した。
ケイローンはアルカイオスを隣に乗せて、馬車を疾走させている。本人は戦車の積もりなのだろうが、未来人の目から見ればちゃちな馬車である。
アイアスも馬車の戦車でクノッソス宮殿に向かっている。
クノッソスが占領軍の総司令部になるのだ。と言う事実は、20世紀に確認されている。
一度は再建されて、木馬で有名なトロイ戦争にクレタが出征し、その後ドーリア人(スパルタ人)に徹底的に破壊される。 ドーリア人はミケーネ文明も破壊した。
アーサー・エヴァンスが1900年に発掘したのは、ドーリア人に破壊された遺跡だった。
その前に、ハインリッヒ・シュリーマンが発掘したミケーネの城門は、やはりドーリア人に滅ぼされているが、トロイの都はドーリア人の暴虐の以前に、ギリシア連合(クレタも含む)に滅ぼされているのだ。
クノッソス宮殿は、カリスト島大噴火の後に一度は再建されており、多少は栄えた。
それ故に、カリスト島の大噴火とクレタ文明の滅亡とは無関係で、クレタはアトランテイスではない。と言う意見もあったが、しかしそれは、アトランテイス=クレタ説を認めたくない人の詭弁でしかない。そういう人に限ってトンデモな説を唱えるのだ。
「アイアス・・・。こいつは占領軍の高官になるつもりね?」
ミネルヴァの呟きにアトルは、「そして高官の地位をちらつかせて、レダをアテナイに連れ帰り、強引に妻にする? レダの父がアイアスの叔母にしたように?」
「多分ね。それがアイアスの個人的な動機だと思われる」
「まったく大したストーカーですね」
「この時代の言葉に未来の語彙を入れないでよ」
「未来人を知らない人と話すときは、注意しますよ」
マザーシップからオペレーターのダイアナの声がする。
「ミネルヴァ女史、ギリシア軍は一部が島を南に抜けて、ファイストスに向かっています」
「了解」
『ファイストス・・・。例の円盤が発見されたところね』
とミネルヴァは思った。
(ここでマザーシップのシーンに戻る)
「ファイストスの円盤って何だ?」
ヒッポリュテーが不思議そうに質問したので、ミネルヴァはスクリーンに映像を映し出した。
ユリアが、「何これ?」
「ユリアも知らない?」とヒッポリュテー。
「ユリアが知らなくても無理は無い。クレタがミケーネに滅ぼされた直後に製作されたものだから」
「直後って事は、今現在ね?」
「そうね。遥か未来、西暦1908年7月3日、クレタ島のファイストスの宮殿跡で、イタリアの考古学者ルイジ・ペルニエールによって発見された。余りに有名な円盤。直径は約16センチ、厚さ2センチの素焼きの円盤で、表裏両面に象形文字が螺旋状に刻印されている。45の様々な記号は絵文字そのもの。
一方の面には、どちらが表で、どちらが裏かは不明だが、123個の文字が31の単語に分けて描かれており、逆の面には119個の文字が30の単語に分けられていて、
単語は縦線によって互いに区別されている」
「ヒッポリュテー、あなた読める?」とユリアは質問した。
「うーん? アナトリア(小アジア、トルコ)の言語みたいね?」
「クレタ島をミケーネで分割統治せよ。と書かれているのよ。ユリアには不愉快でしょうけど。」
「いつ解読されたのよ?」
「20世紀末よ。長い間この円盤は謎めいていた。そもそも20世紀初頭の考古学者を驚愕させたのは、これらの文字が引っかく事で書かれたのではなく、刻印されていた!!という事実よ。グーテンベルグの活字印刷が紀元前二千年頃には、既に知られていた!!と言うんだから、驚きよ」
「グーテンベルグ?」とユリアは聞きなおす。
涼子が口を挟んだ。「中国でも似た様な発明がされていましたよ。普及しなかったけど」
「話を戻しましょう」とミネルヴァ。
「戻そう」と涼子。
(そして再び回想シーン戻る)
ミネルヴァはダイアナに指示を出した。
「ファイストスに向かうギリシア軍の邪魔をしては駄目よ。マズイ事になるわ」
「了解」
さて、それから半日余りの時間が経って、ケイローンとアイアスはクノッソス宮殿の外で会合したのだった。そしてそれは盗撮されていた。
「アイアス!!」「ケイローン様!!」
二人は事前に打ち合わせををしてあったらしい、久しぶりとも言わずせいぜいひと月ぶりと言う感じだった。
『やっぱり、ケイローンは侵略者の手先だったか』
アルカイオスは平然と馬車を降りた。
「ケイローン様はミノス王に会えましたか?」
「ミノス王はクレタを去っていた。しかし弟のアイアコス様には会えた」
「それでも結構。 その方をクレタの王位に就ける事はできます」
クレイトーはモニターTVの前で立腹していた。
「やはりこいつらは、グルだったのね」
ミネルヴァは、「あなたたちがクレタを去っていなければ、アトルが傀儡の王にさせられていたわね」
「もしも拒否していたら?」
「殺されていたわね」
「怖い話ね。でもありそうな気がします」
ミネルヴァはカナンの地でモニターTVを凝視する。
アルカイオスはケロッとした顔でアイアスに会った。
「アイアス。あんたも涼子様に虫歯を治してもらったら?」
「涼子様?」
「凄い名医だ!!あんな名医は生まれて始めて見た」とケイローンは興奮した。
「トロイの都でミノス王の王女ユリアの命を救ったという、あの黄色い肌の女神?」
「女神じゃなくて人間だった。もっとも絶対に女神ではないとは言い切れないが」
「言っている意味がよくわからないが?」
「御本人は、自分は神ではないと言っていた。ユリア様も涼子様を人間の友人として我々に紹介した。しかし神業の様な名医だった。
ユリア様の右脇腹には、エジプトのどんな名医にもできないような外科手術の跡があった。
トロイの都から伝聞した話では、黄色い肌の女神が王女ユリアの命を救ったという。
しかも当のユリア様の口の中には、虫歯が一本も無かった。
そしてアルカイオスや、私の虫歯を治したのだ」
「口の中を見せて欲しい」
そしてケイローンはアイアスに口の中を見せた。
「歯を抜いただけじゃないか?」
「少し時間が経つと、歯が生えてくると言っていた」
「どうかね?それは?」
「しかしユリア様の口には虫歯が一本も無かった。歯は全部そろっていた。だから信用したのだ」
「抜歯は痛かっただろう?」
「全然痛くなかった。神業だった」
アルカイオスも、「僕も痛くなかったよ」とケイローンを支持する。
「ふーん?」とアイアス。
ミネルヴァ女史は彼らの会話をモニターTVで観察していた。
「神様扱いされるのは、変な気分ね」
アトルは、「自分達は神ではない。と言わなければ、僕達だって未来人を神だと信じたでしょう」と言う。
「それはそうでしょうけどね」
アルカイオスはクノッソス宮殿の中に入り込んだ。
「ここだよ。ここで歯を抜いたんだ」
「ここで?」アイアスは不信をあらわに宮殿に入り込んだ。
「この部屋で涼子様は、歯を抜いたんだ」
「ふーん?」アイアスは宮殿の中を調べまくった。
「こいつは?そのうち監視カメラを見つけますよ?」
アトルはアイアスの手ごわさに感心した。
「手強いわね。 20世紀のスパイ映画のヒーローみたいに用心深いわ。驚いたというか、何と言うか・・・・」
やがてアイアスはアトルの予想通りに、カメラを見つけた。
アイアスは、「何だこれは?」と質問した。
「さあ?何なんだろうね?」とケイローン。
TVスクリーンの画面いっぱいにアイアスの顔が映る。
小指の先程のサイズの監視カメラは、一見して昆虫にしか見えない筈だ。アイアスはカメラを踏み潰した。
アトルは、「カメラを壊しましたね?」と言ったが、ミネルヴァ女史は、「単に気味が悪い物を壊しただけかも知れないわ。不気味な生き物を殺すのは人間の本能みたいな物よ」と答えた。
別のカメラがアイアスとケイローンの姿を送信してきた。
「アイアコス様は、『迂闊に逆らうと、後々怖い思いをするぞ』と言っておられた」
アルカイオスはアルカイオスで、「涼子様の仲間に強い人がいたら、お手合わせ願いたい」などと言い出した。
アトルはTVスクリーンを見ながら呟いた。
「この坊やは本当に、ヘラクレスですかね?」
「多分ね。この調子ならテーセウスもどこかにいる。テーセウスはヘラクレスとの年齢差を考えると、ホンの赤ん坊の筈よ」
「テーセウス・・・」
ヘラクレスやテーセウスが活躍するのは、もう少し先の時代だ。
ユリアもアトルも、ヘラクレスやテーセウスを知らない。
アルカイオスは、「この部屋に透明なテントのような物があったんだよ」と力説する。
ケイローンも、「本当ですよ」と言う。
「ふーむ?」とアイアスは考え込む。
「アイアスの記憶を消して、ワームホールでアテナイに追い返しましょう。それしかない」
「ミケーネのクレタ侵略を頓挫させるわけには、行かないのよ」
「歴史を必要以上に変えない。ですか?」
「そうよ」
そしてミネルヴァは、クレタに侵入したギリシア軍の動きを分析すべく、スクリーンを分割して多くの画面を作り、あちこちの映像を映し出した。
「いつもの事ながら、魔法みたいですね」
「慣れれば如何と言う事は無いわ」
「確かに未来人が味方で心強いです」
「37世紀に移住しない限りは、無条件に味方だとは思わないで。」
フレイヤは涼子、レダ、ヒッポリュテーの4人を連れて、ワームホールを使ってクノッソス宮殿へと向かう用意を整えた。 レダは従兄に会いたくないという。
「全ての準備は整ったよ」と涼子が言った。
ユリアが、「トンネルを抜ければクノッソスね」
涼子が、「前にもそんな事を言ってたね」
レダは、「お従兄様には気を付けて、油断がならないですわ」
ヒッポリュテーは、「あたしが死なない程度に痛めつけてやるよ」と言ったが、涼子は釘を刺した。
「アイアスを殺すなよ」
そしてレダを除く4人はクノッソスへと戻ったのだった。
第六章。再びクノッソスにて。
フレイヤとその一行は再びユリアの実家の前に降り立った。
『ここに恐るべきストーカーがいる』 と一行は思った。
アカイア人の戦士アイアス。 レダの従兄。死なない程度に痛めつけるのだ。
今となっては、最初の目的などどうでも良くなっていた。
クノッソス宮殿は占領軍の総司令部に為る筈だが、ミケーネのクレタ占領を頓挫させないよう配慮しつつ、アイアスを痛めつけるのだ。
フレイヤは、「ケイローンはどこにいるのかしら?」と尋ねたが、ユリアは、嫌みったらしく、
「どーせ宮殿の中を歩き回っているのでしょう。二本の足で」と答えた。
ユリアは自分が、ケイローンが只の人間だと教えたのに、フレイヤが大酒を飲んで、酔い潰れて聞き忘れた事を、咎めるような言い方をした。
それは確かに咎められても仕方ない。
ヒッポリュテーはアイアスにまだ会っていない。
携帯端末の映像で顔を見ただけである。
「ストーカー出て来い!このヒッポリュテー様が退治してくれる!」
「だからストーカーなんて言わないで」
ケイローンはかったるそうに宮殿から出てきた。
「ヒッポリュテー?またここまできたのか?何の用だ?」
「レダの頼みだ。アイアスに会わせろ」
「私はレダ様との約束を破ってはいないぞ?」
ユリアは、「レダの方が不安に為っているのよ」と言った。
「レダ?レダがここにいるのか?」
アイアスは嬉々として宮殿から飛び出して来た。
ヒッポリュテーは、「いやがったな?このストーカー!!」
涼子は、「だからストーカーなんて言わないで」
ヒッポリュテーはレダが気に入っているようだ。
未来人たちがユリアを気に入っているように。
「お前を痛めつけてから、アテナイに送り返してやるぜ」
「痛めつける?お前が?笑わせるな?」
「あたいはユリアの親友で、ユリアの命を救った女神だか、未来人だかの助けがあるんだ。お前を殺さない方が逆に難しいぜ」
「何をぬかしやがる、けっ!!」
ケイローンはアイアスに、
「ま、待て、ヒッポリュテーが涼子様の力を借りられるなら、逆らわない方が懸命だぞ!?」
しかしアイアスは、「ヒッポリュテーとやら、お前の体から無理にでも聞き出す事もできるんだぜ?」
「その前にお前さんを、男でも女でもない、片輪者にする事だってできるんだぜ。」
涼子は、「下品な事は言わないで。」と言ったが、
ユリアは、「そーよ、そーよ、あたしだって自分の貞操の守り方ぐらい知っているわ」
涼子は呆れている。ケイローンも、アルカイオスも。
「ユリアの意外な一面を見たわね」とフレイヤは言った。
アイアスは強い態度に出た。
「レダに会わせろ。会わせないならユリアを捕えてアテナイに連行し、王族の妾にしてやる」
涼子は、「やれるものならやってごらん。僕たちはあなたを世界の果てに飛ばせるんだよ?」
と脅したら、ケイローンが割って入った。
「ま?待て?ここで涼子様に逆らうのは余りに危険だ」
しかしアイアスはケイローンを無視して、青銅の剣を取り出した。スラリ!と音を立てて剣を抜くアイアス。
ヒッポリュテーはヒッタイトで、鋼鉄の剣を買い求めていた。
ユリアも日本刀を抜こうとしたが、フレイヤは止めた。
「これはヒッポリュテーの戦いよ」
涼子は、「ヒッポリュテーが負けるはずは無い。そうだろう?ユリア?」
「負けないとは思うけど・・・」
レダはアイアコスの離宮の中で、モニターTVを見ていた。
レダはアイアスが嫌いで、ヒッポリュテーが好きだった。
そのヒッポリュテーが、 初対面の自分の為にアイアスと戦っている。正義感?義侠心?
アイアコスは、「アイアスには万に一つの勝ち目も無いなあ」などと暢気な事を言う。
「お従兄様を殺さない方が難しいですわ」
「ヒッポリュテーの剣は鋼鉄だから、アイアスよりは有利だ。黄金より高価な筈の鋼鉄の剣で戦っているんだから、面白いな」
「今となっては安物ですわ。あたしたちは鉄の作り方をミネルヴァ様から教わったんですから」
「後でヒッポリュテーに日本刀でも贈るんだな。おっ!アイアスの剣が折れたぞ!!」
レダは、「やったーっ!!!」
アイアスは、それでもめげない。折れた剣でヒッポリュテーに切り掛かる。
しかしヒッポリュテーはアイアスの腕をザックリと切りつけた。飛び散る血飛沫!!
「やった!!」 その場に居合わせた全員が同じ声を発した。 ユリアも、涼子も、ケイローンも、アルカイオスも。
レダはモニターTVで見ているだけで、現場(クノッソス)にはいなかったのだが、それでも同じ声を発した。
ケイローンと涼子は、どちらも医師なので、アイアスに走りよった。
涼子は、「傷は深い思ったより深いね。ちょっとした手術になるよ」
ケイローンは、「涼子様なら助けられると思います」
ユリアは、「あたしから見て他人でも、レダの従兄なんだから死なせたくないわ」
フレイヤは、「マザーシップ、この場の全員を転送して。ケイローンに見られたくない? 早くしないと手遅れになるわよ? レダの従兄を死なせたいの?」
ミネルヴァ女史はカナンの地で決断した。
「仕方無いわね。全員をマザーシップに収容しなさい」
そして全員がクノッソス宮殿から幽霊のように消えた。
アイアコスは自分の離宮でTVスクリーンを見詰ながら、
「相変わらず物凄い。あの方たちが人間であって神々ではない、と言うのが納得できないなあ」と呟いたが、
レダは、「それはあたくしも同じですわ」と答えた。
第七章。星々の世界にて。
アイアスは血塗れの右腕を押さえて呻いた。
涼子は、「しっかりしなさい。痛みを消してあげるから」
アイアスは、「どーやって消すんだ?」と言おうとしたが、その前に涼子は神経遮断機を頭に嵌めて作動させた。
「何だこれは?」
「神経遮断機だよ。麻酔光線と言ってもいいかな?」
ケイローンは、「私も虫歯を抜くときに使った。原理はよくわからないが」とアイアスに言った。
余りの出血に気が遠くなる。「血管が切れているね。輸血と縫合手術の準備はすんだ
かな?」と涼子は確認を取った。
「何の話だ?」
「いちいちうるさい患者だね。神経遮断機を全身モードに切り替えよう」
そしてアイアスは失神した。
夢も見ない、深い眠りだったが、やがて眼が覚めた。
目の前にはケイローンがいた。
「楽になったかね? アイアス?」
腕に眼を落とすと、包帯でグルグル巻きになっていた。
「丸々一日眠っていたんだ。もう大丈夫だ」
「あの女が治したのか?」
「口の中の虫歯もな」
アイアスが口の中に手を入れると、全ての虫歯が抜かれていた。
「そのうち歯が再生するとの事だ」
「なんとまあ」
「ハムラビ法典に、眼には眼を、歯には歯を、という記述があったが、無意味だな。体がグチャグチャになっても、頭が無事なら再生できる。と言っておられた」
「体を再生?」
「魔法や奇跡にも等しい、恐るべき技術だ」
(注。ハムラビ法典は紀元前17世紀の法典)
「ここはどこなんだ? クノッソスじゃないな?」
「ショックを受けるぞ」
アイアスが周りを見ると白ずくめの部屋だった。
不思議な素材でできていた。
「まるで天国だな?」
「天国?そうかも知れんな。 もっともまだ死んでいないが」とケイローンは呟いた。
ドアがスーッと開き、黄色い肌の女神が入って来た。
ケイローンは、「涼子様!」と最敬礼をした。
アイアスも、「助けてくれてありがとう」と礼を言った。
ケイローンは、「アルカイオスは例の所ですか?」
「夢中で外を見ているよ。ヒッポリュテーと一緒にね」
「外?」
「腰を抜かすぞ」
「俺は肝っ玉が据わっているんだ。平気だよ」
「じゃあ外を見せてあげるよ」
涼子はアイアスをアルカイオスの居場所まで連れてった。
「ショックを受けるぞ。気をしっかり持て」
「おい? アルカイオス?」
アルカイオスとヒッポリュテーは、夢中で外を見ていた。
そしてそこにあったのは、星の海だった。
「夜?」
アイアスが生まれてから一度も見た事の無い程の、大量の、星、星、星だった。
しかもその一角に、青い円盤があって、円盤の中にはミニチュアの陸地と海があった。
更にあさっての方向に、太陽があった。星空と太陽が同じ空に同居している?
空は暗いのに?? あれは太陽と言うより、巨大な星に見える。
しかし?あれが太陽だと言うなら、今までに見たどんな太陽よりも、強烈で眩しい?
太陽と少しずれた方向に月があった。青い円盤にはミニチュアの陸と海がある。
アイアスは自問した。『もしも、あれが地上で下界だと言うなら、俺が現在いる所は??』
「ここは宇宙空間だよ」と涼子が声をかけた。
「宇宙・・?」
「そしてあの円盤は地上だよ」
「あれが地上?大地は何処までも平坦で虚ろな筈だ? しかし、あの円盤には丸みがある??」
アルカイオスとヒッポリュテーは何かを覗いている。
「アルカイオス? 何を見ているんだ?」
「望遠鏡」
「そんな言葉は始めて聞くぞ?」
「あなたも見たら?」と涼子は提案した。
「太陽を見ないように、焦点を地上に合わせて」
アイアスには、何が何だか判らなかったが、それでも涼子の指示に従った。
すると信じられない事に、地中海と黒海が箱庭のように見えた。
クレタ島も、ギリシア本土も、アナトリア (小アジア・トルコ)も見える。
ヒッポリュテーは、
「コーカーサス山脈が見えるわよ。あたしが生まれた所だ」
と無邪気に喜んでいた。
「ここは天上界で、涼子様は女神様・・・・?」
アイアスの言葉に涼子は、「ここは宇宙空間だよ。地面から3万6千キロ上空。
地球は一周が4万キロだよ」
「どーいう意味だ?」
ケイローンは、「人間の住む大地の大きさから、一割だけ差し引いた高さ。と言う意味らしい」と答えた。
「そんなの理解不能だ。 大地は無限に広い筈なのに?」
「でも真実だよ」涼子はあっさりと言い切った。
「ここは天上界でオリンポスの神々が住んでいる。とでも言われた方がまだ信じられる」
「オリンポスの神々なら、同じ名前の惑星があるよ」
「何か嫌な予感がする。」
涼子は星空に眼を向けると、「あれがゼウス(ジュピター、木星)であれがクロノス(サターン、土星)だよ」 と説明した。
アイアスは反論して、「それは判るが、小さな光の点にしか見えない」
しかし涼子は、「光の点じゃないよ」と言い放った。
ケイローンは、「私は天体望遠鏡を見せていただいた」
「それで?」
「木星と土星の映像はショックだった」
「見たくないな」
「でも見るべきだね」
涼子は何やらガラス板の様な物を引っ張り出した。
そこには奇怪な球体が映っていた。
「何だ?これは?」
「赤い一つ眼の縞模様の星がゼウス。環があるのがクロノスだよ」
「ゼウスにも小さな環があるが?」
「巨大ガス惑星には大抵あるんだよ」
「ガス惑星とやらは、他にもあるのか?」
「ウラノス(天王星)とポセイドン(ネプチェーン、海王星)だよ。
もっとも、ちょっと見ただけでは両者の区別は付かないけど」
そしてガラス板にウラノスとポセイドンが現れた。
「こんな星は知らないなあ?」
涼子は、「3000年以上の未来で発見されるんだ」
「未来?」
「そうだよ」
「ではあなた様は何者?」
「5000年後から時間を飛び越えてやって来たんだ」
「神業だ。信じられない。そんな話を信じるくらいなら、あなた達が神々だと素直に信じた方がマシだ」
「唯一絶対の神を信じるヘブライ人は、僕達を未来人と信じたよ。神なら人間の姿をしている筈は無い。とね」
「ヘブライ人? あんなエジプトの下層民の奴隷どもに、何が判ると言うんだ?」
そこにユリアが入って来た。
「あたしは信じたわよ」
「ユリア様、レダは何処にいるのです?」
「レダに手を出さないと約束したら会わせてあげる」
「約束はしないが会わせろ」
ケイローンは、「無茶は言わない方が良いのでは?」
とアイアスを宥めたが、聞く耳持たない。
「仕方が無いわね。レダ、こっちに来なさい」
そしてドアが開き、レダが入って来た。
「レダ!!」
「お兄様」
しかしアイアスはレダに近付けなかった。 眼に見えない、何かに遮られたのだった。
「何だこれは??」
「バリアだよ。アイアスがレダを拉致できないようにね」
「バリア?何それ?」
「どうせ理解できないよ。 理解できても記憶を消してしまうよ」
ケイローンは、「私の記憶もですか?これだけの驚異を見せられたのに、記憶を消すとはもったいないです」
「また会えるよ。 何度でもね」
「あたくしはお従兄さまに会いたくないですわ」
「冷たい事を言うなよ。従兄妹だろうが」
「親しき仲にも礼儀あり。と言うけど、アイアスは程度を知らないんじゃない?」と涼子は咎めた。
アルカイオスは星々を見ながら、「またここに来たい。 月に降りてみたい」と言い出した。
フレイヤは、「その時は、消去した記憶を回復できるわよ」
と保証した。
「月にいける?」アイアスは思案した。『ここにいる白人たちは、実際にはオリンポスの神々ではないのだろうか?しかし?それなら何故?東の果ての黄色い人間がいるのだろうか? あるいは、もしかしたら、涼子様は東の国の女神なのだろうか?』
「腕の傷は、放って置いても完治するわね。記憶を消して、地上に戻しましょう」
『初めて聞く声だ?』アイアスはそちらの方を見た。
そこには、 すらっと背の高い灰色の眼の白人女性が立っていた。
「ミネルヴァ様」王女ユリアが最敬礼をした。
それにつられてアイアスも最敬礼した。
「もしや?あなた様は?女神アテナ様?」
アイアスの呼びかけに、しかし相手は、
「女神アテナじゃないわ。未来人のミネルヴァ博士よ」
そしてアイアスの意識はスーッと消えた。
第八章。クレタ陥落。
クノッソス宮殿は占領軍の総司令部になっていた。
クレタ全土はミケーネを盟主とする、ギリシア連合軍の手中に落ちつつある。
未来人たちは、クレタ人は抵抗するな、と言い含めてあるので、流血沙汰は少ない。
ギリシア連合軍は、アテナやアフロディーテの名を連呼しながら暴れているが、それらの女神の別の名を持つ未来人がクレタ人の味方なのだから、何とも皮肉な話だ。
やがてアイアコスの離宮にアテナイの兵士が乱入してきた。
「ミノス王の弟か?即座に無条件降伏していただきましょう」
「待っていたよ」 アイアコスは逆らわなかった。
第九章。 砂漠にて。
モーゼは同胞であるヘブライ人と共に、砂漠のど真ん中で夜空を見ていた。 彼はエジプトの王族と、ヘブライ人の女奴隷と両方の血を受けているが、今後はエジプトの血を忘れて、生粋のヘブライ人として生きる覚悟だった。
全知全能の神の御加護があったとは言え、何故?奴隷の子が王宮で育てられたのだ? などと疑う者もいるだろう。言いたい奴には言わせておけ。
それでも私はヘブライ人だ。 とモーゼは思った。
そこへ一人の男がやって来た。「モーゼ様、全知全能なる神は天空の何処におられるのでしょう? 太陽ですか? それなら夜は何処におられるのでしょう?」
「太陽ではない。 太陽は主の玉座ではあるが、神そのものではない。神は全宇宙に同時におられる」
そしてモーゼは天空の星々と闇を指で示してから、
「昼も夜も無い。人の道も行ないも、神は見ておられる」
全員が感慨深げに星々と月を見上げた。
第十章。再びマザーシップにて。
(語り手、高野涼子の一人称)
長い回想は全て終わった。 この二年間の思い出を語り尽したのだ。この二年間に出会った多くの人々や、エピソードを全員が感慨深く思い出した。
ユリアは、「いろいろあったわね」
僕は、「これからも楽しめるさ。 これで終わりではないんだから」
ヒッポリュテーは展望台の外の宇宙を気にしていた。
「ヘラクレス座というのがあるらしいが、どれなんだ?」
「あれだよ」と僕は示した。
「あれが、あの筋肉坊やの星座?」
レダは、「変な気分ですわ。あの坊やはまだ生きている。 なのに、ヘラクレス座なんてのがあるんだから」
「別に変ではない。星座の解釈は時代によって変わるんだよ。現在よりも600年以上昔の紀元前2000年頃には、あの星座は鎖に繋がれた神や天地の破壊者とされた。
ギリシアの詩人アトラスは紀元前250年頃、現在から1100年ぐらい未来に、星空でひざまずく者と考えた。 更に400年後、天文学者プトレマイオスが著書の中で、英雄ヘラクラスであると解釈した。 そしてキリスト教が普及してもこの解釈は変わらなかった」
「キリスト教と言えば、モーゼが地上にいるのよねえ?」とユリアが感慨深そうに話した。
僕は、「モーゼなら星々を、現在位置を知る為の標識ぐらいにしか思わないよ。
占星術を禁じたぐらいだから。でもフアンタジーとしてのギリシア神話は半永久的に、 人類の歴史が続く限り生き延びて、絵画や彫刻、映画や演劇のテーマになるんだよ」と説明した。
ミネルヴァ女史はヘラクレス座と逆の南の空を、指差した。
(そもそも宇宙では、北半球の空も、南半球の空も、区別する意味は無いのだが)
「あれがケンタウルス座よ」
ヒッポリュテーとレダは展望台の窓に身を乗り出した。
僕は星々を見回し、真っ赤に輝くシリウスを見つけた。
シリウスBは、20世紀初頭には白色矮星で、地球ぐらいのサイズで、太陽並みの質量であると判明していた。しかし古代には赤色巨星だった。数千年で矮星化したのだ。
僕は37世紀でシリウスに行っている。
しかしこの時代とでは、シリウスAはともかく、シリウスB(シリウスの伴星)の様相は一変している。
ユリアが、「どうしたの?シリウスが珍しいの?」
と聞くので、僕は、「シリウスは、この時代と5000年後では様相が変化しているんだよ」と教えた。
ユリアは、「それは面白い。シリウスに行って見たいわ。」
レダは、「あたくしは、思い切って、ケンタウルス座に行ってみたいですわ」とまで言う。
ユリアとレダが物怖じしないで、恒星間旅行をしてみたい、とまで言い出すのは、僕達に絶大な信頼を寄せているからだ。 しかし僕もフレイヤも、生来の37世紀人ではない。
僕は16世紀の日本人。フレイヤは紀元前160世紀の純粋クロマニヨン人。 フレイヤはここから見ても、超古代の人間だ。ユリアは37世紀でうまく適応できるだろうか?
たぶんできるだろう。 僕は自分の時間で何年か前に、 1963年のダラスで、40世紀のタイムパトロールから言われた事を思い出さずにはいられない。
『あなたは、あなたの未来で、古代で大発見をするのですよ。古代の御友達によろしく、さよなら、37世紀の御姫様』
そのときは判らなかったが、確かに僕は御姫様だった。
織田信長の御落胤だった。
ふと展望台を見ると、生来の37世紀人で日系人でもある、ダイアナが、飲み友達のフレイヤと酔いつぶれていた。
大酒飲みのアル中め。でもいいか。 時代はどうあれ、僕の仲間だ。得がたい友人達だ。 僕は古代の友人達と共に星々を眺め、地球を見下ろした。 青い宝石のような地球を。
エピローグ。
アイアスは焚き火で肉を炙りながら、ケイローンと話し込んだ。
「なあケイローン?俺はレダに会ったような気がするんだが、会っていないんだ。如何思う?」
「なら会っていないんだろう」
ケイローンは素っ気無く答えた。
「アルカイオスは如何思う?」
「さあ?僕には何とも言えないよ?」
アイアスは右腕の包帯を見た。
「こんな包帯を巻いた覚えはないし?」
口の中に手を入れてみた。
「永久歯が生え変わりつつある?」
「僕も?」
「私も?」
「何が何だかさっぱり判らん?」
右腕の包帯を外してみると、やたらとスッキリした傷があった。
糸で縫ってあるが非常に細く、糸は溶けかかっていた。
「ケイローン、あんた医者だろう?こんな傷を見た事あるか?
こんな怪我をした覚えは無いんだが?」
「うーむ?エジプトの外科医にもこんな処置はできない?」
「トロイの都で黄色い肌の女神が、クレタ人の王女ユリアを救った。何て話が伝わっているが、その女神に会ったのかな?」
アルカイオスは、「星が少ないね」と言い出した。
「何だって?」とアイアス。
「もっと大量の星を見た気がするんだ」
ケイローンは、「天上界に行ったかな」などと言いながら、粘土の円盤を作っていた。
「何だそれは?」
「アナトリアの王がアカイア王に宛てた手紙のコピーさ。この羊皮紙の手紙と同じ内容だ」
羊皮紙はバラバラの活字で書かれていたが、まったく同じ内容の手紙を、活字を押し付けて作っていた。
「羊皮紙やパピルスよりも長持ちしそうだな?」
「ああ、そうだな」
「どんな内容なんだ?」
「クレタ島をギリシア本土で分割統治せよ。だとさ」
「ふーん?」
「現在のところ、アナトリア(小アジア。)の大王の方が、ミケーネ王よりも高い地位にあるんだ。指示には従う。
そのうち力関係が逆転するかもしれないがね」
「何年ぐらい先の話だ?」
「さあ? 神のみぞ知る。だな」
アイアスはアルカイオスと一緒に星空を見上げ、
フアイストスの街を見下ろした。
あの粘土の円盤はフアイストスの宮殿に収められる筈だ。
その後どうなるかは、アイアスの知った事では無い。
レダがどうなったかは、ミノス王の弟のアイアコスも知らないらしい。生きていれば、またいつか会えるさ。
アイアスは焼肉に齧り付いた。
THE、END。
アトランティスの王女、第四部。
多くの謎が残りますが、第二シーズンに続く、ということで、いったん終了です。