Petunia
紫煙が漂うB棟2F-研究室21号に僕が初めて足を踏み入れたのは、大学生活にも慣れ始めた十二月の終わり、追試験の失敗でめちゃくちゃにされた感傷的な心臓を抱えながら半ば退学を心に決めた午後四時頃のことだった。
僕は唐突に、何の変哲もないはずのそのドアを発見した。苛立った心のせいで、冷静さや賢明さといったようなものたちは皆ひとつ残らず僕の中から追い出されていた。アメリカ映画の主人公にでもなったような、勇敢でありながら無謀さを併せ持った心持ちで、僕はそのドアを叩いた。
「ヘイ! 誰かいる?」
特に理由があったわけではない。強いて言えば、休日のこんな時間にB棟研究室の明かりがついているのは珍しかった。2Fは学生にあてがわれた部屋ばかりだから、突然偉い教授が出てきてお叱りを受けることも、おそらくはないだろうという軽薄な目算もあった。
何よりその部屋からは、ドアの隙間からもくもくと薄い紫煙が上がっていたのだ。
「……知り合いってわけじゃあなさそうだな」
出てきた男は、いかにも上級生のように見えた。口ひげと顎ひげが学生にしてはしっかりと生えていて、長い金髪は生来カールしているようだった。タイの色を確認しようとして、僕は自分の思いつきにうんざりして頭を振る――ここはもう、セント・グリントじゃない! タイの色や上着の種類で階級や身分を一目で知ることができてしまう、あるいは知られてしまう、そういった世界ではないのだ……僕は七年もそういう世界にいたのだから、癖が残っているのは仕方ないけれど、そろそろ慣れなくてはならない。
「なんか用か? 入会希望なら歓迎するぜ。まあ、そうじゃなくてもコーヒーぐらい出そう」
はっと、意識を目の前の男に戻す。喉が渇いていることに気づいたので、招待に応じることにした。
もくもく、と相変わらず部屋の中では紫煙がいっぱいに漂っていた。しかし匂いがそうひどくないことを鑑みると、すべてが喫煙によるものというわけでもなさそうだった。見れば、机の中央にドライアイスが鎮座している。二酸化炭素中毒になるんじゃないかと思ったが、幸いなことにドアはめいっぱいに開ききっていた。
「ここは? こんなクラブがあるなんて知らなかったな。喫煙オーケーなの?」
「そんなわけないだろ、勝手にやっているんだ。サ、椅子を出してやったからそこに座ってくれ。3F-21号のレイヴァン教授を知ってるか? 奴がこの上の階で吸っているから、それに紛れさせてるんだ。ドライアイスでもカモフラージュしながらね」
見れば、部屋の隅にある『ドライアイス&液体窒素研究所』と書かれた、学祭用であろう小さなパネルが目に入る。なるほど、これを隠れ蓑に、喫煙可能なカフェを学内に構築したというわけだ。
チョークで汚れた丸椅子をさっと手で払い、跨るように座る。男は電気ケトルで湯沸しをしていた。フレンドリーな人だ。彼は黄ばんだマグカップに湯を注ぐ。
「俺はヴァーナード。シュガーは必要か?」
「僕はイーモン。ミルクがあれば欲しいな」
自己紹介を終えると、アツアツのコーヒーとミルクカップが出てきた。
本当は紅茶が欲しかったが、まあ、贅沢は言わない。
「で、君は? 何学部だ。なんというか特徴がなくて、分かりづらいな」
「コーヒーまで淹れてもてなして、これからクラブに勧誘してくれるだろうところ悪いけど、僕もう大学を辞めるつもりなんだ」
「でも、いまは学生なんだろ。工学部か?」
「ううん。初めて言われた、それ」
「そう? 上下関係に慣れてなさそうだな、と思ったのが理由だったんだが。さて、うちは学部が多いからな。全く分からない」
「へえ? じゃあ、三択にしましょうか。法学部、理学部、医学部。さあどれだ」
慣れない敬語を使いながら、ワン、ツー、スリーと、一本ずつ指を立てる。
面倒な質問かなと思ったが、ヴァーナードは咳をするようにこほんと笑った。
「馬鹿だな」
「なに?」
「あのね、君のその台詞さえなければ、僕は絶対に君の学部なんて当てられなかったのに」
「分かったってこと?」
ああ分かった、とヴァーナードは鼻を鳴らした。
「君、あまりまじめなほうじゃないだろう。法学部なら、今日は持ち込み試験の日だ、もう少し大きい鞄を持っているはずなのに君のは貧弱。理学部でこの時間にここにいるということは、午後一番でアイゼン教授の講義を受けていそうだが、右手にも左手にもチョークの跡はない。そして、最後だが――ずいぶん馬鹿にしてくれるな。この大学に医学部はない」
「なにそれ。答えが分かったどころか、答えがなくなっちゃったみたいに聞こえますよ」
「いや、出題の時点で答えは分かっていた。しかし理論的に考えるなら、確かに現状ゼロ択だな。今のはあくまでも君がそこそこまじめな学生だった場合の仮定の話だ。ひょっとすると幻のフォース・チョイスがあるかもしれないが、しかしそうじゃない」
「どういうこと?」
「分かったってことだよ。理学部だろ」
一瞬、嘘をつこうかどうか迷ったけれど、結局僕は胸の前で大きな丸を作った。ヴァーナードは正解だ。
「どうして分かったの? 理学部らしいといわれたことなんて、一度もない。工学部と言われたのも初めてだ」
「たしかに、なんとなく文系のように思うな。法学部、似合ってるぞ」
僕は肩をすくめる。
「で? 君の推理が聞きたいよ」
「推理じゃなくて、直感さ。君は法学部と言うときと医学部と言うとき、明らかに声が震えていた」
「嘘をつくと人の声ってのは震えるのか、なるほどね」
「違う。嘘をつくとき、人の声は低くなったり高くなったり、高さが変わることが多い。もしくは言う速度が早くなったりね。震えたりはしない、個人差はあるかもしれないが」
「じゃあ、僕の声が震えたのはなにが理由?」
「羨望だ」
ガツンと大きな衝撃が落とされた。
羨望。うらやましく思うこと。妬むこと。やっかむこと。自分の持っていないものにたいし強い憧れと、それを持つものに対して負の感情をいだくこと。
「ヴァーナード先輩、君はやなやつだ」
「突然ドアをノックして学部を当てさせる君も、そう良い性格をしているわけじゃないって思うぜ、イーモン新入生君」
新入生君、という二人称が頭のなかでむず痒い痛みとなって響く。
結局、彼が言ったことはすべて当たっているのだ。僕は上下関係に疎くて、まじめでなく、法学部と医学部に羨望を持っていて、そして現状はまだ理学部の学生だ。
「でも、声の震えだけでそんなに自信満々に判断できるものなんだね。すごいや」
「まあ、必ずしもそれだけじゃない。一個一個は弱い根拠でも、膨大な判断材料があれば帰納的に判断を下すことも出来る。決定打を探すんじゃなくて、手がかりになりそうなものを出来るだけかき集めることが重要なんだよ。あー、たとえば俺が解説してたとき、法学部は違うと言ったときの君の失望具合だったり、アイゼン教授という見知らぬ名前を出しても君が動揺しなかったことだったりね」
「『分かった』とあなたが言った後じゃないか、ずるいな」
「答えあわせの過程でも、情報収集を怠っちゃいけない」
ヴァーナードはぱちりとウィンクした。僕はこのたった十五分の短い間で、彼のことをどっぷり気に入っていた。
こんな人が大学にいたんだ!
どうどうと煙草を吸い、突然現れた新入生の学部を当てる。まるでホームズみたいだ。
「僕、あなたのことホームズみたいだなと思ったよ」
「ああ、よく言われる」
「へえ、あだ名だったりするの? 『ホームズ』があだ名の人なんて、小説の中以外では初めて見たよ」
「あぁ、ちょっと君に対して良い印象を与えすぎたかもしれないな。ひとつ種明かししよう、悪いけど」
「なに?」
悪いけど、という語感の切なさに、僕はどこか後ろ寒い感じがした。
彼は僕の対面に腰掛け、僕の瞳を正面からまっすぐに見つめる。
「君は俺を見たとき、一瞬ひるんだだろう。俺はナルシティストじゃなくてね。俺は長身すぎるわけでも体格がよすぎるわけでもない。突然ドアを叩いて見せるかんじ、君もそこそこ度胸がありそうなのに、どうして君が怯えるような顔を見せたのか――」
「怯えてない!」
「もちろん、君は怯えてないだろうさ。俺にはね。だが、『上級生』という存在にはどこか恐怖心……ああ、悪い、悪い、そんな顔をするな、言い方を変えよう。反発心や抵抗心があるんじゃないかと思ったんだ。そしてそこで思い出した、後輩に、セント・グリントのお坊ちゃまが入ってきたって話をサ」
がっくりした。たしかに珍しいだろうが、噂になるほどとは思わなかったのだ。
「それ、あなたどこで聞いたの?」
「まあ、そんなに持ちきりの噂ってわけでもないぜ、自惚れずにいこう。入学当初はみんな結構話してたが、話題はすでに今年のミスや、主席候補生や……ほかの奴らに移ってる。もう終わった話だ、気にするな」
肩をドンと叩き励まされて、なんとなく自分が、ひどく惨めな生き物になったような気がした。初対面の上級生にこんな風に励まされるなんて、イギリスにいた頃にはなかったことだ。
「いや、もう辞めようかなと思っているよ。性に合わないんだ」
「そんなの、来る前から分かってたことなんじゃ?」
高い鼻をカップの飲み口にくぐらせるようにしてコーヒーを楽しみながら、ヴァーナードは笑った。
「そりゃあもちろん、セント・グリントとは違うだろうとは思ってたさ……イギリス英語のまま来たら馬鹿にされると思って言葉だって変えたし、苦労もそこそこしたけど……でも、やっぱりだめだ。イギリスが恋しいわけじゃないけど、アメリカが僕の居場所ってわけでもないみたい」
話しながら、少しずつブリティッシュが出ている自分に気づいた。
九月に入学してから三ヶ月、家にいるときの独り言ですらアメリカ訛りを使っていたのに。
「辞めるって、国に帰るってことか? もったいないな」
「もったいない、って……別に。辞めるよ、うん、辞める」
セント・グリントはなんとか卒業できたけれど、両親の望むイギリスの有名大には受からなかった。
もう六つの頃からずっと言われてきたことだ――パブリックスクールにはなんとか入れてやるから、そのあとは、名の通った大学の法学部か医学部に行ってくれ。現役で。それ以外は認めない、と。
結局両親の言いつけは、何ひとつ守れなかった。
「しかしそりゃないだろう。君さっき、俺の推理をすごい、って言っただろ。ああ、そうだ、そろそろ本来の目的を果たそうかな。なあ、入会してくれよ」
「『ドライアイス&液体窒素研究所』に? 冗談じゃない! 僕は物理だろうと化学だろうと、とにかく科学は好きじゃないんだ。コーヒーをありがとう、ヴァーナード。最後に君に会えてよかったよ、ほんと、お世辞じゃなく」
「『ドライアイス&液体窒素研究所』? ああ、あのお遊びの看板か! 誤解させて悪かったな。しかし、部屋番号を見なかったのか?」
部屋番号?
そんなの見てるわけないじゃないか、と思いながら立ち上がり、ドアから頭を出して廊下に出ている札を読む。
「2F-研究室21号。これが何か?」
「へえ? 分からないなら、いい。イギリス人だし、すぐに分かると思ったんだが。君の声は『医学部』と言うときにより震えていたしね。そうだな、これも三択にしてやろうか? だがまあどのみち、B-221が分からないんなら――」
「B-221! ホームズとワトスンの下宿じゃないか!」
この部屋に入ってから、もうすでに三度目のことだったが――ヴァーナードはまた僕に衝撃を、電気ショックを、天啓を与えた。本当に彼のもつ力はすごい。
シャーロック・ホームズ。イギリスの子供なら、もちろん誰もが読破している、完全で完璧な至上のエンターテイメント・ミステリー。正直なところ、僕はシャーロキアンだった。イギリスを離れるうえで耐え難く恋しかったのは、香り高いダージリンの紅茶、紫煙に満たされたパブ、そしてシャーロック・ホームズの三つだ。
「『ドライアイス&液体窒素研究所』じゃない。このクラブは、『シャーロック・なんでも・相談処』だ。実は、俺のワトスンが最近ポリクリで忙しくて来てくれなくてね。昨日ついに、そろそろお遊びは終わりだとまで言われてしまった。寂しいやつだよ。よかったら君がワトスンになってくれると嬉しい。もちろん、副賞として大学で煙草を吸える権利もついてくるぜ。ああ、もちろん、二十歳になってからだが」
僕に断る理由はなかった。
むしろこの日、十二月二十三日に、僕はようやく異国アメリカの大学に、本当の意味で精神的に、入学したと言ったって過言じゃない。この日何の気まぐれか、追試を受けずにそのままイギリスに帰っていたら――試験のあと大股でこの廊下にぶらりと立ち寄らなかったら――廊下を通ったところで、B-221号室のドアをやけくそにノックしなかったら――僕のホームズ、ヴァーナードとは出会えなかったのだ。
「よろしく、ヴァーナード。ここに足りないのはたぶん、紅茶だけだよ」
「ああ、すぐに入荷しよう。出会ったばかりだが、君のことをなんだかすごく気に入っているよ。よろしく、イーモン」
僕らはそうして、ドライアイスの昇華気体に満たされた部屋のなかでがっちりと強く握手を交わした。
僕は華麗な推理を繰り広げたヴァーナードに対しての好感と、ホームズへの深い深い愛情による懐かしさで、完全に舞い上がり我を忘れていた。コーヒーによる強いカフェインと、久しぶりの副流煙とで、なんなら酔っ払っていたのかもしれない。もう怖いものなんてなかったし、十五分前までの暗く暗鬱な気持ちなんて吹っ飛んでいた! たかだか彼が僕の学部や精神のうちがわについてほんの数個の真実を言い当てて、そして彼がホームズクラブを運営しているというだけで、ひどく運命的なものを勝手に感じてしまっていたのだ。
つまり、このときのイートン青年は正常な判断は出来ていなかったのだ、という言い訳を、ここに申し添えておく。
――さて、感動的な場面が終わったところで次に、僕の失望について厚い羊皮紙を広げよう。
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