ハリネズミ

ハリネズミ

初出:13年 戦車と少女アンソロジー小説集「"Yes, Ma'am!" 」

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 訓練と実戦で研ぎ澄まされた体は、照準(レティコロ)に丸みを帯びた金属を捉えると、必要な修正を加えた上で、ほぼ反射ともいえる早さでトリガーを押し込んだ。
「おい。後方陣地に下がる命令が出たぞ」
 眼鏡をかけた相棒に肩を叩かれ、突然、音の暴力に耳が塞がれたような気がした。
「うるさい。あと五発だ。やらせろ」
 狙撃手は相棒に顔を向ける時間すら惜しむように、声の限り叫ぶ。
「馬鹿死ぬきか」
 眼鏡の相棒も声の限り叫んでいた。
 尾を引く炸裂音、地響きを起こす爆発音、空気を切り裂く銃弾の音が混じる中。狙撃手は、再び、照準に八百メートル先の目標を捉えた。その集中力は外界の音を一切通さない。無音の中、頭脳で命令するよりも速くトリガーを押し込む。目標となった鉄帽に穴が開くのを見ることなく、次の目標を定め、撃つ。
 その口径と給弾ベルトの長さから、はちの愛称がある八ミリ機関銃は、この戦場において単発射撃に調整され遠距離狙撃に用いられることが多く。この陣地もまたそうした一つだった。
「馬鹿来るぞ」
 相棒の声をなおも無視して狙撃手はトリガーを押し込む。四人目の目標に移ろうとした瞬間、炸裂音と共に目前の土砂が吹き上げられ、泥と破片が容赦なく襲った。
「クソ、潮時か」
 憎々しげに、まだマッチ棒の先よりも小さく見える独裁者のカヌレを睨み付けた。敵は、戦車(クリバナリウス)の装甲と火力を頼みに突破を図ろうとし、それは成功しつつあった。
 一瞬、後方から聞こえた三七ミリ砲の発砲音に気が逸れた。次の瞬間、スコープを見ないでも、先頭を走る敵戦車がオレンジ色の炎に包まれたのがわかった。
 歓声が、銃声や爆音に混じって聞こえてくる。
 独裁者のカヌレと同型戦車でありながら、溶鉱炉の銑鉄と若葉の緑を表すオレンジと黄緑のライン、二重王国(ドゥオテルラ)の意匠が入った戦車が、まるで獲物を見つけた肉食獣のように猛然と視界に飛び込んできた。前進を続けながら再び発砲する。
「無理だ」と言葉を発する前に、爆音が鈍く響く。
「あんなに振れているのに当てるのか」
 戦車は、さらにもう一輌喰らうと、遅れて突入した僚車と共に、機銃掃射で戦車の影に隠れていた歩兵を食い散らかしはじめた。
「危なかった」
 手で泥を払いながら眼鏡の相棒が体を起こした。
「無事か」
「この馬鹿が」
 眼鏡の相棒は声の限り叫ぶと、そばでひっくり返っていた箱から給弾ベルトを取り出した。
 狙撃手は気にした様子もなく。
「あの戦車は何だ?」
「ワイリー大尉だ。砲手はエリナ准尉」
「エリナ?」
「五日前、工廠から派遣されてきた技術将校だ。たった五日で、十四輌撃破。今ここで三輌追加。壊した火砲(オービチェ)は数知れず。今じゃ「外さず(クーサリオン)」と呼ばれてるらしい」
 狙撃手の顔を見ずに給弾ベルトをセットする。
「あんなのありか」
 狙撃手は、移動している戦車の射撃精度が格段に落ちることを身をもって知っていた。戦車はその動きを止めたときが一番恐ろしい。それなのに、あの戦車は、全速力と言ってもいい速度を出していたにもかかわらず敵戦車を次々に仕留めたのだ。
純血種(ノビレス)らしい。前進射なんて英雄(エローエ)には朝飯前だろ」
「馬鹿な」
「装填完了。馬鹿はお前だ。純血種にでもなったつもりか。俺たちは移動命令に従い損なってるんだ。せめて、戦車隊の食い残しを皿まで綺麗にしないと、中隊長殿にどやされるぞ」
 眼鏡の兵士は、ぶん殴ってやろうと思っていたのも忘れ、首から提げていた単眼鏡を手に取った。
 大陸東方の果て、弧状列島を祖とする人類優位主義は、数世紀を経て、西の果てにほど近い二重王国及び西方十五ヶ国(ディーシパーシオ)にまで影響を及ぼしていた。
 人類優位主義者との内戦に勝利した二重王国は、南で衛星国家と国境を接し、外交圧力を強めていた人類共和連邦(以下、連邦)と、北では国境を巡り五世紀にわたる闘争を続けてきたクルゼメ人国家、クルゼメ人民共和国(以下、共和国)に、南北二正面戦争を余儀なくされた。
 その年の九月。前年、連邦の提唱する汎世界軍事同盟に加盟した共和国は、大部分の兵士を彼らが領有権を主張する「死の床(ヘルヘイム)」と呼ぶ低湿地帯に振り向けた。
 先祖代々、夥しい量の血を吸わせた大地を自らの手でもぎ取ることで、歴史にその名を刻もうとしたとも、自治権の及ぶ不凍港を欲したとも、ニッケルなどの資源を欲したとも言われている。
 共和国側が四個戦車旅団を含む十三万の動員に対し、二重王国北部守備軍側が用意できたのは、北極探検から戻ったばかりの二重王国の盾ことグリム中将が指揮を執る臨時編成の二個歩兵師団(レギオー)四万。連邦から供与された百輌を超える新鋭戦車大連(オオムラジ)に対し、対戦車戦を想定していない時代遅れの二型歩兵戦車が八輌。全ては、連邦主力と相対する南部守備軍に割かれていた。
 だが、寡兵であったはずの北部守備軍は、一週間で二重王国首都ルゥムまで進撃できるとした共和国首脳の楽観論を強かに打ち据えた。地形、気候を知り尽くした遅滞戦術を用いて、共和国軍に大量出血を強いたのだ。
 後に、その名が守護者を表すことになる純血種グリム中将の采配や、一晩で百輌盗んだと吹聴する戦車泥棒と呼ばれた小人族(ペリア)部隊のこぼれ話。三倍、時には十倍に届く敵に包囲を敷かれてもなお屈しなかった名もなき兵士達の逸話など、題材には事欠かない。ここでは「外さず」と呼ばれた純血種のエルフを追いたいと思う。
 ただし、当時の新聞やラジオに度々登場し多くの人に誤解を招いた笑顔の青年ではなく、横顔の素描しか残されていない本物の「外さず」を。
 このとき彼女は、まだ十六にも満たない少女であった。


   1

 暖流と寒流が織りなす采配は、高緯度に版図を広げる二重王国に豊かな秋をもたらしていた。色づく葉は、木々の種類、生える場所、葉の一枚一枚でその様相が異なる。天を指す剣のような山嶺を背景に、万年雪を抱くほどではないゆるやかな山々は様々な色彩に溢れかえっていた。
 そうした森の一部。森に慣れていない目であれば、秋に色づく景色が突然動き出したかのように見えたことだろう。
 腕っこきで鳴らした老狩人ですら、悲痛な犬たちの断末魔を聞いて初めて、その存在に気がついたのだ。
 森の支配者であるその獣は、荒い息と、その巨躯に比べて余りに小さな瞳を獰猛に光らせ、暴れ馬のごとく老狩人と幼い弟子目がけて襲いかかってきた。
 見方を変えれば、銃を油断なく構えた老狩人の目にも、その隣で小さく座り込んだエリナの目にも、はっきりとクヌギの実ほどの白目のない瞳が見えていた。
 全身を覆う毛皮は人が手にする刃を容易に弾く。筋肉は五百キロにも届く巨体を走ることに特化した馬のように加速させ、至近で放った散弾さえ止める。心臓を一撃しようにも、四つ足で疾走する体勢は、心臓のある胸部を筋肉と強固な骨の奥に隠し込んでしまう。もはや、明らかな殺気を発し加速し続ける装甲車のようなものだ。
 対し、狩人達の優位な点は、得物が鹿撃ちを目的にするライフルであり、弓や葉の形をした穂先の槍ではなかったことくらいだろうか。
 老狩人とエリナの手にある二八(ドゥオオクト)と呼ばれる小口径の単発ライフルは、元々旧式化した軍用銃の払い下げ品だった。蛮用に耐え、修理、改造も容易とあって、狩人に愛された品である。二八の部品同様、弾丸も手作りされていたため、火薬を多く必要としない滑空銃に改造されることが多く。エリナとその師である無口な老狩人が構える二八も放出時代の部品が残っているのかすら怪しい代物であった。それでも、五十キロを超えることがない鹿撃ちでは事が足り得た。
 エリナは、しっかりお尻を地面に据えて膝の間から狙うように構えたまま、老人の言いつけ通り、石のように固まっていた。もう逃げることはできないはずであったが、その顔に恐れはない。あえて言えば、厳しい老人の言いつけを生真面目に守る幼子の厳しさしかなかった。
 本来、このように座射をする狩人はいない。単純に、素早く次の行動に移れないからだ。一発当た後、逃げ去る獲物を追いながら排莢から発射までの流れをこなさなければいけない狩人たちにとって、わずかな遅れが獲物を取り逃す原因となってしまう。でも、まだ五才にもならない子どもにとって、先端を切り落として全長を短くしたとはいえ、自分の身の丈ほどのボルトアクションライフルを十分に取り回すことはできない。座射は、今のエリナが二八を扱える唯一の体勢なのだ。
 老狩人は、勢子に追われて飛び出してくる兎を待つときのように、数十年を経た狩人が為しえる自然さで二八を構えていた。
 現軍用ライフルでさえ荷が勝ちすぎる相手に、老狩人もエリナもまだ一発も撃ってはいない。二人とも、恐怖に支配されているからではない。二八は単発式のボルトアクション小銃であり、一発撃った後、次を撃つまでの時間がないと、老人は判断し、その弟子のエリナもまた同じように判断したのだ。
 老人は、一発で仕留めることだけに全てを集中する。
 獣の前足が地面を容赦なく踏みしだき、壁のごとき重圧が迫ってくる。
 逃げようもない。だが、獣自身避けようのない間合いで、老人の指が引き金を引いた。
 発砲音と同時に、老人の目には獣の額の毛が弾けたように見えたが、その突進を何ら掣肘するものではなかった。 
 もう声にすらならない。死の感触に、全ての感情が奔流となって老人の目と口を大きく開かせていく瞬間。
 獣の右眼球全体が赤く染まり爆ぜた。
 エリナは何ら感情なく、排莢、頭が赤く塗られた弾を装填し、眼前に崩れ落ちた獣の頭に合わせて、引き金を引き絞る。
 頭だけでもエリナより大きな熊が、怒声から、救いを求めるような喉を鳴らす声に移り変わり、やがて弱々しく小さな喘ぎ声を上げるようになるまで、エリナは排莢、装填、発砲を続けた。
 エリナは老人の言いつけ通り、熱を帯びた二八を片手に持ったまま、不器用に立ち上がると、初めてその幼い目を丸くした。
 老狩人が、自分の二八を幼いエリナの前に捧げ、両膝をつき。最初は記憶の奥底から紡ぐかのようにたどたどしく、やがて朗々と。老人が幼い日、曾祖父から教えられたエルフ語の祝詞(カンティウム)をあげはじめた。
 熊を撃ち倒した手応えは、成長してゆくに従って、誕生日の食事の味や、出かけの母親の抱擁のように、記憶の海で幾分曖昧になってしまったが、この歌だけは違っていた。
 初めて聴く歌声が静けさを取り戻した秋の森の中、青い空の彼方に吸い込まれていくかのように思えた。
 実に、心地のいい歌だった。
 このときの歌が、森の英霊や、英雄に捧げるものだと言うことをエリナはだいぶ後になってから知ることになる。


   2

 尻の冷たさが幼き日の記憶を呼び覚ましたことにエリナは気がついた。熊撃ちをした時と同じように湿った地面に腰掛けている。
 瞼が重い。
 沼に沈むような睡眠の誘惑と、鼻をくすぐっていた食欲の綱引きは、食欲に軍配が上がった。
 瞼を開くと、人懐っこそうな笑顔と恭しく差し出された飯盒が見えた。
「准尉殿お食事です」
「ありがとう。エルクルト伍長」
 エリナはわざと名前を付けて呼んだ。自分より年上の青年にかしずかれることに未だ慣れない。わずかな休息時の食事、コーヒー、煙草などなど、そっと差し出してくれる。照れはなどないはずだが、少しぎこちない自分を感じたりする。
 受け取った飯盒がいつもより重たいことに気がついた。
「一人分?」
「少ないですか? 勘弁して下さいよ。これでも、最後の晩餐の時ぐらいと飯炊きの連中がおまけしてくれたのに」
 わざとらしい咳払いと共に、
「縁起でもないことを言うな」 
 その、いかにもドワーフを祖先に持つ者のらしい低い声に、エリナは顔を向けると。飯盒を片手に、もう片方の手を履帯にかけたライリー軍曹がいた。
「軍曹ちょっと待って下さい」
「なんだ」
「我々は敵軍に打ち込まれる楔でしょ?」
「それがどうした」
「楔が砕けたって話は私聞いたことないですよ。だから我々は絶対に死なない。第一、軍曹殿だって死ぬ気なんかさらさらないでしょ」
 エルクルト伍長は肩をすかしてみせる。その容姿はエルフの血が濃く出ているが、中身は糞の付く小人と言われることが少なくない。実に軽快だ。
「少しは、真面目にやれ」
 石臼が重く唸るような言い方に、伍長は引き際を感じたのか、「わかってますよ」と肩をすかした。
 彼らを見ていると、自分が何も知らないことを思い知らされる。自分が数週間前までいた工廠の方がよほど軍隊らしかったのではないかとさえ思える。軍隊というものは、上から下まで序列がきっちりしていて、無駄口叩けばハンマーの代わりに鉄拳が飛ぶと、つい十日前までは信じていたからだ。
 尤も、戦車兵それ自体が他の兵科と比べ、階級や、士官と下士官の間に横たわる空気が緩やかなものに見えた。道理はわかる。それこそ砲弾を喰らえば、乗員は皆等しく、骨の一片すら残すことができないのだ。整備士を煩わせるまでもない日常整備や補給など、士官も含め乗員総出で行い。狭い車内で寝食を共にすることも少なくないのだから、他の兵科よりも親密になるのも当然と言える。
 エルフの伍長とドワーフの軍曹は指定席のようにエリナの近くに腰を下ろした。
「准尉殿、今晩大丈夫ですか? 昨晩からこっち寝てないでしょ」
「睡眠は昔からあまり取らないでも平気だ」
「へー、すごいや。ふらふらしたりしないんですか?」
「しないな。目を閉じて昔のことを思い出すことの方が、ベッドで眠るより疲れがとれる」
 エリナは淡々と答えた。
「純血種って便利なもんなんですね。それで、どんなこと思い出すんですか? 准尉殿の子どもの頃って、ちょっと想像つかないなぁ」
 こういうことを平然と言うから、容姿端麗にもかかわらず小人などというありがたくない渾名ばかりか、そこに糞まで付いているのだ。
「お前」
 ライリーがいきり立って襟首を掴む。エリナ自身、戦車長のワイリー大尉や、ライリー軍曹の勧めに従って、一度思いっきりぶん殴ってしまおうか? という耐えがたい誘惑があったが。
「軍曹まぁ待て。過去は想像に任せる。ところで大尉はまだか?」
「まだです。食事を取るよう命令が出ました。もう二十分以上、中隊長達と話し込んでおられます」
 ライリーはエルクルトの襟首を離し腕時計を見た。
「こいつはいけない。悪い兆候だな」
 懲りないエルクルトの言葉にエリナは顔を向け、心の中だけで賛成した。
「何だ。問題でもあるのか?」
「もう決まってしまったことじゃないですか。だったら、さっさとやる。一度決めたら後からぐずぐず考えたって意味ないじゃないでしょ。……えーと、どうしたんです? お二人とも」
「お前にしては正しい」
 エリナが口にしようとした言葉そのままをライリーが口にした。
「え。酷いよ軍曹殿。私は普段から……」
「四号車はどうなった」
 エリナはその抗議を遮った。
「え? あっ……准尉殿が寝ぼけた変速機に活を入れた後、履帯を履かせて。そうそうオルダールの旦那(四号戦車長)から准尉に」
 エルクルトはポケットの中から未開封の煙草を二つ差し出した。
「ん?」
 エリナはその意味が分からない。
「直らなかったら、五号車を奪って参加する気だったので、助かったと」
「おい」
「何ですか? 軍曹殿」
「五号と六号の連中からも貰ってるだろ」
「へーい」
 まさに悪ガキのベロ出しと共に、キャラメルと牛の缶詰を差し出した。
 エリナは苦笑いをしながら、
「キャラメルは普段からの駄賃だ。牛缶は私の居眠りを見逃してくれた軍曹殿に」
「ありがたく頂きます」
 軍曹はエルクルトからひったくるように牛缶を取り上げた。
「飯、冷めちまいましたね」
「お前が無駄口叩くからだ」
「軍曹殿だっておしゃべりにつきあったくせに」
「食べてしまおう」
 エリナは飯盒の底をかき混ぜると、豆の粉で作ったスープの底に燻製にしたハムの塊が沈んでいるのに気がついた。
 目を輝かせてしまったかはわからない。でも、うれしさを隠すことが出来なかったことはわかる。
 先割れスプーンで一口大に刻んでから口に運ぶ。久しい肉の旨み。塩気と脂を味わい尽くすかのように反芻すると、生きていることに感謝をするかのようなため息が漏れた。ここまでしておきながら、エリナは、それぞれドワーフとエルフの血をひく男たちの視線が気になった。
 ニヤニヤしすぎだ。二人とも。
 エリナは頬に熱いものを感じながら心の中でぼやいた。
「そこまで美味しそうに食われれば、肉も肉に生まれた冥利に尽きるでしょう」
「肉に生まれるわけないだろう」
 と軍曹は冷静に切り返す。
「それもそうです」
「肉は本当に久しぶりだ」
 エルクルトの軽口を遮るように静かな感想を漏らした。
「配給滞ってますからね。肉なんてこっちに来てから初めてですよ。決死隊というのも悪くないですね。これから毎週決死隊というのはどうですか」
「馬鹿言うのはどの口だ」と軍曹が言葉と実力行使に出る前に、エリナが静かに口火を切っていた。
「この湿地にいる味方全員が決死隊なのに申し訳なく思う。だから、勝とう」
 ライリーは力強く頷き。
「純血種であらせられる准尉殿の言葉は、我らに力を与えてくれます」
「軍曹殿。そういうときはですね。心強いの一言でいいじゃないですか」
「お前はいい加減にしろ」
「エルクルト伍長。こいつで沼を渡るのはギリギリだ。先頭を切れるのは戦車隊でお前だけだ」
 エリナは背にしていた鹵獲戦車を見上げた。
 幅広い履帯と傾斜させた装甲が特徴的な、連邦の新鋭戦車大連。優れた設計が全てに勝る夢のような戦車であり、同時に悪夢の戦車との評価にエリナは賛成したことがある。わずか一ヶ月前まで、まさかこれに乗って戦うとは思ってもみなかった。
「准尉殿! それって褒めてるんですよね?」
 犬だったら尻尾を振っている目の輝かせ方だった。
「お前、分かってるのか」
 ライリーは苦虫をかみつぶしたような顔になる。
「戻しておいてくれ」
 エリナは飯盒をエルクルトに押しつけた。
「早っ」
「准尉殿何処へ」
 エリナは手のひらで示した。
 その先にには、兵たちにいいようにこき使われている従軍画家の少女が、泥濘に足を取られながら走ってくる姿が見えた。
「また整備屋ですか?」
「さぁ? 整備なら十分で戻る」
 でも、私はその整備屋なのだが。その言葉を飲み込みつつ、他に、細かく答える気にもなれずに立ち上がった。


 使いの従軍画家の後を追うようにエリナは、泥濘に気をつけながら戦車の車列を抜けた。
 二号車の操縦手で頑固者で鳴らす団子っ鼻のドワーフや、三号車の乗員が堅苦しく敬礼をして表情をさっと崩す。
 絵図らとしては、おかしなものだなと、今さらながらにエリナは思う。男達は皆、エリナより年上で壮健な男達だ。でも、形ばかりではない敬礼は、自分の為したことに対する返礼だと思えば、心地の悪い物ではなかった。
 整備兵、とくに大連戦車に精通した者は希少だ。この部隊はおろか、この低湿地を守備する北守備軍の中にも、自国の戦車ですら整備した経験を持つ者が乏しい。大半が、トラックや自動車などのライン工、整備士などが徴発されたものだ。
 それでも、エリナはこの急拵えの整備兵たちもまた前線の兵士達と同様、良くやっていると思う。
 それを示すような、意地の悪い笑みがこぼれる事件が起こったのは四日ほど前だ。日中の戦闘で十八輌の戦車が擱座、もしくは放棄された。整備兵や、工兵、戦車泥棒総出で翌朝までに全車回収し、その全てを午前中の内に前線へ送り出していた。敵にしてみれば悪夢のような光景だったに違いない。
 その一方で、敵戦車の稼働率は目に見えて下がってきた。理由と予測はいくつも立つ。最大の理由は、敵は歴史的に塹壕戦を経験していないため、戦車を機動戦力ではなく、弾よけか、移動できるトーチカとして使う。歩兵戦車が登場した時代なら有効であった古めかしい戦術から抜け出せないでいるために、消耗し過ぎた。
 元々、戦車を自力開発できなかった国が最新鋭の戦車を突然得たところで、長くは支えることができない。
 戦車は、根気を要する乗り物だ。運用や乗り込む兵士の質も問われるが、人命と戦車を使い捨てにしない限りにおいて、整備の質も問われる。戦闘している時間よりも整備している時間の方がはるかに長い兵器なのだ。
 機械(マキナ)というものは存在し使用した瞬間に、消耗するよう運命づけられている。一例としてエンジンを挙げると、エンジンに火を入れた瞬間、内部回転の摩擦と振動、熱、発するエネルギーで、ピストン、シリンダー、クランクすべてが消耗してしまう。そこでエンジン内をオイルで満たし、潤滑、防振、冷却、清浄、防錆、防食を担わせることで、エンジンそのものの消耗を最小限に食い止める。そのオイル自体も、酸化、砂ぼこり、金属摩耗粉、スス、水分の混入、未燃焼燃料の混入などにより、やがては消耗していく。定期的にオイルを交換する整備をしなければ、エンジンそのものにダメージが及ぶことになる。
 エンジンの他にも、履帯、軌道輪、懸架装置、変速機など、様々な構成部品が何らかの整備を必要とし、そこに、二キロに近い砲弾を音速の倍以上の早さで撃ち出す大砲(カンノーネ)と、四十五ミリを超える装甲がもたらす三十トンを超える車重が、全ての消耗に拍車をかけるのだ。
 技術よりも、根気だとエリナは思う。
 戦車は整備しなければただの鉄の塊でしかないのだ。この戦争の決着はまだ見えないが、少なくとも整備の質は勝ったとエリナは考えていた。その、ささやかな勝利が、膠着状態を作り出すのに寄与したのだ。
「エリナ准尉、出頭しました」
「ご苦労。まぁ面倒だ。くつろいでくれ」
 幕舎の奥、上座に座る威厳という言葉そのもののドワーフが葉巻を勧めた。初対面でも誰だかわかる。額から顎にかけて白く残る生々しい疵と力のある眼もまた、この人物が誰であるのか、その襟章を見るまでもなく主張していた。
「エルフのお嬢さんに葉巻とは無粋に思えるが」
 そう髭を動かした白髪を丹念に編み上げた大佐の襟章を付けたドワーフに、エリナが搭乗する戦車の車長で、戦車隊の指揮官でもあるワイリーが、
「うちで一番(敵も煙草も)灰にしますよ」
 隊ではまったく理解されない冗談のセンスに、何人かのドワーフが腹を揺するように嗤った。
 差し出された美しい細工の為された紫檀製の葉巻ケースから、見慣れない葉巻を取ると、ポケットに入っていた銀のギロチンカッターで吸口を切り、幕舎を照らすランプの一つから火を拝借する。
 その態度に、場の空気が変わる。上座に座る男の口が真横に広がり、孫でも見るような細めた目から老人にしては力のありすぎる目になった。
 独特なフレーバーの紫煙煙る幕舎の中に、五人のドワーフがいた。軍服さえ着ていなければ、きっと龍退治の相談をするドワーフの英雄達のように見えたことだろう。
 上座に座るグリム中将を再び見るまでもなく、エリナは心の中でため息をついた。
 何かが変わるのか。
 これは、まずいことになるかもしれん。
 あまり長くもない人生を振り返ると、似たような場面が多かった。


   3

 エリナの父親は、信心深さだけが取り柄の農夫だった。産婆から自分の娘が純血種として生を受けたことを告げられると、その足で、隣の集落に暮らす魔女の家に駆け込んだ。
 最初、魔女は夜遅いからと断った。今の世の中「瞳の色より、見える色」という格言が広く出回っていて、左右の瞳の色違いだけで純血種自体に特別な意味はないと信じる者が多かった。魔女自身、もし意味があったとしても、生まれたばかりの赤子が天を崩すはずもなく、本当に天が崩れるなら、何をしても無駄だと考えていた。
 が、農夫は娘の大事とあって退かなかった。最後には根負けして、魔女は農夫の家までやって来た。木箱で眠る赤子を一目見て、エリナケウスの名前を与え、静かに語った。
「この子は、やがて英雄となるでしょう。まずは狩りを覚えなければいけませんね。長耳(エルフ)が狩りができないというのは、どうかと思いますが。家族、一族は慌てず騒がず。この子のしたいことをさせてあげて下さい。英雄の歩みは人の歩みとは違うもの。遠回りをしているように見えても、自分の道は必ず自分で切り開くことでしょう。多くの出会いと成長の先に、さて、何が起こるか。祝詞を」
 魔女は楽しげに語り、祝詞を上げると、振る舞い酒を全て空けてから朝方帰っていった。
 エリナが三歳を迎えた年、魔女が老狩人を伴って農夫の家に訪れて、老狩人に預けられることになった。
 五歳の年、五百キロを超える熊を撃ち倒し、魔女の予言通り英雄の片鱗を見せつけたエリナを村長が放っておかなかった。村から離れた鉄道が通る街の大きな学校に入れるべきだと熱弁を振るった。
「この娘は、お前達の娘であってお前達の娘ではない。国のため、ひいてはエルフやドワーフが千年の太平を得るための宝だ。今の時代、学を与えてやられねばならない」
 内戦の戦火が、この村落にまで強く影響していたとは思えないが、この熱弁は金を工面して隣村の小学校にやるつもりでいたエリナの父親を強く動かした。
 この頃のエリナは熊撃ちを成し遂げたことが嘘のような、酷くおとなしい子どもだったようだ。だからといって男の子に泣かされるような弱さは微塵もなく。ときには、蒼玉と翠玉が一つずつ溶け込んだような瞳の一睨みで、村の子ども達を震え上がらせたという。
 エリナが預けられることになった村長の知り合いの家は、家の隣に大きな工房(ボテッガ)を持つ、この街の名士であった。七十を超えるドワーフの血が濃い老主人と、その子どもの歳くらいの住み込みの飯炊き女、父親が誰だか解らないというエリナと同い年の娘、オキがいた。
 工房では、毎日、十人前後のエルフやドワーフたちが、車や機械の修繕に追われていて、食事は食欲旺盛な大人達とのちょっとした戦争だった。
 オキとは同い年で同じ屋根の下で暮らす子ども同士、直ぐに打ち解けた。二人の遊び場は、もっぱら工房の裏に積み上げられた廃部品の数々だった。
 ネジと歯車で、おままごとや、ネックレスを作ってみたり。廃エンジンをばらしてみたり。同じくらいの歳の子どもを集めて隠れん坊をしたり、秘密の隠れ家を作ってみたりと、このときはまだ他の子どもと変わったことは何もなかった。
 あるとき、オキがエリナを誘った。
 街はずれの堰きに放置され、錆びて土に帰りかけている発動機を秘密の隠れ家に運び込もうというのだ。
 子どもの力ではどうにもならないはずの発動機を、二人は、てこと台車を使って、とうとう秘密の隠れ家に運び込んでしまった。
 素養があったのか、二人は工房の大人達の見まねて、発動機を分解し、掃除をし、組み立てた。仕上げとばかりに、工房から盗んできた燃料を注ぎ入れ、クランクを回した。
 最初は、全身の力を込めるようにしてどうにか回わったクランクが、やがてくるくると回り出し。最後には燃料を盛大な黒煙に変えながら、発動機は息を吹き返えした。
 エリナ一人だったのなら、輝かしい子どもの頃の思い出で、終わっていたのかも知れない。
 オキは学校の成績こそ今ひとつだったが知恵があった。修理した発動機を工房の名を騙り街の大人に正価で売り払ってしまったのだ。しかも、その手にした金をそのまま使うようなことはしなかった。動かなくなったバイクを三台買ってきて、それをエリナと二人で同じように直した。同じようなことを幾度も繰り返すと、やがて、オキをリーダーとする愚連隊のようなものができあがっていった。
 エリナ自身はおとなしいというか、終始無口で、オキの隣で黙々とバイクを直すか、本を読むか、工房に入り浸るかしていたが、試験の成績だけは良かった。
 大人からは、純血種の左右の瞳と同じで、他とは違う子ども。何を考えているのかわからない不思議な子どもとして見られていた。一方子どもからは一目置かれていた。純血種の左右で違う色の瞳をしていること、オキの相棒で、成績が良く、バイク修理の腕はオキよりずっと優れていたこと。何よりも、数を頼みに手を出してきた上級生の男の子たちを、たった一人でひねってしまったのが強烈だった。三歳の頃から狩人として野山をかけずり回り、五歳で熊撃ちを成し遂げるような場数を踏んだ子どもに、例え上背があって力でも勝っていても、子どもが叶うはずがないのだ。しかも、そのことを鼻にかけることもしない。人気が出ないはずがなかった。
 当のエリナは、何も言わない金属部品同士が正確に組み合わされることで、生き物のように動き、力を発することに魅了されていた。工房に置いてあった工業系の雑誌を読み、科学にのめり込んでいった。
 エリナとオキの運が良かったことは、子どもが持つには多すぎるお金が、無用のいざこざを呼ぶ前に、ドワーフの老主人の耳に届いたことだ。
 小学校を落第したオキから、貯めたお金を全て取り上げて、代わりに工房の一番下っ端として働かせた。
 逆に、飛び級で小学校を出ようとするエリナには、一筆執って首都ルゥムへとやった。
 大都会に出てきたエリナは、老主人の援助でウルヴァ社のトラックを生産している工場で下っ端として働きながら、夜間の上等学校で学んだ。四年が経って、上級学校を卒業しても、まだ子どものような年齢だったが、仕事の速さと丁寧さで熟練工達からも一目置かれる存在になっていた。そんなエリナに、転機が訪れることになる。
 使いの少年に呼ばれて、工場長の部屋に入ると、ドワーフたちが紫煙をくゆらせていた。葉巻を勧められ、作法を教わりながら、初めて口にする葉巻の味をよく味わう前にウルヴァ社が管理している戦車工廠への異動が命じられた。
 エリナに不満はなかった。実家に送る給金が単純に倍に増えるのだ。さらに、本を買うことも出来る。しかも、工廠に入って半日で戦車という機械の虜になっていた。
 工廠の印象で、エリナの印象に一番焼き付いているのは、自動車工場で飛んでくるのがスパナなら、工廠で飛んでくるのはハンマーだったことだ。エルフもドワーフも、その他も皆総じて目つきが悪い。喧嘩という意味でも仕事の意味でも手が早い。もっともエリナは、最初の半日で自分が使い物になることを示せたので、何があってもハンマーだけは飛んでこなかったが。
 最初の三ヶ月間、輸出型の三型戦車を主に組み立てた。先代の二型歩兵戦車に比べ、大型で強力でありながら部品点数を減らし、機械としての堅牢性、整備性ともに良好。二百キロ先の戦場まで自走し、戦闘の後、最低限の整備のみを受け、自走で帰還した逸話が、この戦車のすべてを物語っている。まだ若く、課題と学習するべきことが多いエリナにとって、将来を考えたことなど一度もなかった。が、このような優れた機械に携わっていける仕事をしたいと思った。その夢は直ぐに叶うことになる。
 ウルヴァ社の総責任者であった棟梁(ドミネ)と呼ばれるドワーフに、目を付けられたのだ。
 溶接を済ませ顔を上げたエリナに「おい」と声け、棟梁は、まだ完全な形を得ていない最新の四型戦車のラインへと彼女を招待した。
 四型戦車は傾斜装甲に覆われた実に美しい戦車だった。装甲を傾けることで跳弾を狙ったり、砲弾に対して貫徹する装甲厚を増す効果を狙った装甲は、溶接接合部が鋳造と見間違えるような精度溶接され、今までのリベットに覆われた戦車とは全くその姿が異なっていた。
 ここで働くことを言い渡されると、エリナはますます戦車にのめり込んでいった。
 一年ほどして、初めてもらった休暇で帰った実家から再び工廠に戻った日。一番下っ端の、学校出の青年に呼ばれ、工廠の立ち入り禁止区域に入った。
 ドワーフを中心とするウルヴァ社の重鎮たちと、エルフの陸軍将校の姿が見えた。
 が、それ以上にエリナの目を引きつけたのは、敵にも味方にもオオムラジ――連邦の言葉で執政官を指す。――今や、連邦を掌握する独裁者を指す単語で名付けられた戦車だった。
 全長約六m、全高二m半強、幅広い履帯、四型戦車よりも鋭利な傾斜装甲。
 背筋の奥が震えた。戦車そのものは見慣れていたが、言いようのない圧迫感を感じた。
「みんな集まったな。こいつは、連邦の新戦車だ。南方(オーストラリス)で、我々の三型戦車を落ち葉のように蹴散らした。こいつ自身八輌食ったらしい。一昨日、特殊潜航艇でここまで持って来た」
 棟梁は、この国の重鎮でありながら、まるで小さな工房の親方のように柑橘を詰める木箱の上に立ち、ハンマーを振り回しながら、石臼を回すような低い声を上げた。
「お前らがやることは、二つある。一つ、この戦車をネジの一本に至るまで調べ尽くし、四型戦車の大胆な改修案を出すこと。二つ、五型戦車の青焼きを全て破棄し、また一から新たに描き出すことだ。期間は一週間。飯と酒、煙草は運んでやるが、ここから出ること一切まかりならん」
 空気と共に、集まった技師や熟練工達の体温が下がっていくのを感じた。突然呼び出されて一週間の缶詰が決まったことがではない。四型戦車は、先日、先行量産型が教導大隊に納品されたばかりだった。本格生産を前に、ラインの改良を行うため、歳はまだ子どもだが技量を認められたエリナにも意見が求められていた。それを装甲板を追加する程度の手直しではどうにもならないことを棟梁は告げているのだ。
 ざわめきの中で、棟梁の顎をしゃくる動作と唸るような声に、エリナは反応した。戦車をばらすのだ。
 オオムラジは酷い戦車だった。
 ここまで酷い機械を見たことがなかった。品質の悪さから数十年経たように劣化したゴム部品、気泡が映り込む照準器。どうして組み上がっているのか不思議なほどのいい加減な溶接に、スが入った装甲板。粗末で低い技術がパレードをしていた。
 どうして動くのか不思議なのと同時に、なぜ、このような造形になったのか、エリナは答えを見つけて、瞬間、ゑづいた。
 誰も信用していないのだ。レンズ技術も、冶金技術も、鋼板を加工する技術も、それらを溶接する人、整備する人、実際に扱う兵士まで、設計者は、徹底して信用しない。
 低い技術で鋳造された部品は、前面にあたる部分を下側に流し込むことで、前面の比重を高め、スが集まることを避けていた。二重王国では公差とは認められない、いい加減な部品同士の当たりも、余裕のある設計と頑強さはそれを許してしまう。
 生産ラインさえ形になっていれば、わずかな訓練だけで、とりあえず動く物ができてしまうだろう。そのできあがった物は、職人技の極地のような四型戦車を寄せ付けない。
 エリナは、こういうものを作る相手と戦っているのか、と独りごちした。


   4

 幕舎から出たとき、自分では苦り切った顔になっているつもりはなかった。
「不服そうだなエリナ少尉」
 共に幕舎を辞した戦車隊長だった。ワイリー少佐が声をかけてきた。
「不服」
 その言葉がかすれてしまう。
「不服ではないのに、実に不服そうだ。腹を割って話せ。戦車に蹴りを入れても骨折するだけだぞ」
 その軽い口調が呼び水となったように、
「私は、整備監督の役目を帯びてこの場に来たつもりでした」
 不服と言うより事実を事実として言った。エリナは技術准尉扱いの徴用技術者ではなく、陸軍少尉に昇進し、脇に抱えているのはその命令書であった。
「私は十五のときから四半世紀歩兵一筋だった。ここで戦車に乗るとは思わなかったし、まさかそれで勲章を頂くとは思ってもみなかったよ」
 エリナは逡巡したが、思ったことを包み隠さなかった。
「私に命を預けるのは平気ですか?」
 ドワーフの茶色の瞳を見下ろす。
 古強者のワイリーは毛ほども動じた様子もなく。
「今さら嫌とは言わん。戦車隊の隊長のことを言っているのなら、正直、君より適任者がいない。オルダールは君の人生よりも長く軍人をやっているが、戦車隊を指揮するにはちと頭が固い。今から南の教導大隊から人を分けて貰ってくる余裕もない。ここにいる急拵えの戦車隊全員が知っていると思うが」
 ワイリーの言っている言葉に誇張がないことは、エリナがこの十日で示した実績が証明している。
 けれど、ここで黙ってしまいたくはなかった。全てに抗うように。
「私は兵士ではありません」
「うん。だが、君は別格だ」
「純血種だから」
 それ以外の答えがなかった。自分の人生を振り返ると、すべて純血種がゆえの優遇であり道筋のように思えた。
「そうだ。純血種は、過去の偉大な英雄の生まれかわりという迷信を信じる気はないが、英雄に純血種が多いのは事実だ」
「英雄になれと言うのですか」
「これは、言葉を誤ったな。私は、持てる者の義務を果たせと言いたい」
「義務?」
「ここにいる整備士達は、わずか一ヶ月前は街の工房で自慢の腕を振るっていた者達だと聞いているが本当か?」
「はい」
「戦車が自分の重さで勝手に壊れていくと聞いたがそれも本当か?」
「はい」
 質問を図りかねて、声は怪訝さを隠せなかった。
「トラックやトラクターの修理をしていた者達が、自重だけで壊れていくようなふざけた乗り物を文句も言わずに整備している。それはなぜかわかるか?」
 老いも若きもいる整備士の姿が思い出される。彼らが睡眠も食事もろくに取らずにがんばっているのは、単純な理由だった。
「守りたいから」
 エリナは口元でつぶやくように答えた。
「そうだ。守りたいからだ。鉄砲を撃つかわりに自分の持っている物で、自分の親兄弟、愛する人。そして自分の故郷を守ろうとしている……などとかっこよく言って見せても、私は、故郷にいい思い出はなかった。少しだけ、いいかね」
 歩みを止めたワイリーに勧められて、煙草を受け取りオイルライターから火を貰う。
 エリナは紫煙を吐き出した。煙草がこれほどありがたく思えたことがない。
「私は殺し以外の犯罪には、ほとんど手を染めた悪ガキでね。仲間内では、路上で殺されるのが先か、刑務所で殺されるのが先か賭の対象になっていたよ。軍隊に入ったのも、見つかってはまずい敵から逃げるための実にわかりやすい理由だった。だが、ここで私は初めて自分というものを見つけた」
「自分?」
「ああ、そうだとも自分だ。軍隊での生活で、いつも心の奥底で燻っていた理由も分からない、焦り、苛立ち、怒りといったものが嘘のように晴れていくのを感じた。ここでは、世界にただ一人のワイリーとして扱われている気になったのだ。皮肉に映るか? 殺し以外の犯罪に手を染めなかった私が、敵とはいえ大量に殺し、最も個というものを否定する組織にいるにもかかわらず個を感じる。でも、私は感じたのだ。私は誰が何と言おうと、ワイリーだと。気がつけば任期を何度も更新し続け、家族を持ち、今度、孫が生まれる」
 十五歳の少女らしい感情が「おめでとうございます」と自然に言わせていた。
 ワイリーは見たことのないような表情の崩し方をして「ああ」と答えた。
「私は、ウルヴァ社で戦車という機械に触れているときにそれを感じました」
 泥の中の発動機を隠れ家に運び込んだ頃と何も変わらない。仲間と協力して、物言わぬ金属の塊を組み合わせ、巨大な力を生み出す。精緻な部品同士の重なりに、ヘトヘトになるまで自分の中ものを出し切る。
「そうか、やはり君は不服ではなく、怒りを感じているのだ。もう二度とウルヴァ社へは戻れないことに対する怒りを」
 エリナは目を見開いた。
 思いもしなかったが、それは事実だ。この作戦が成功すれば、数少ない戦車隊指揮官として昇進もするだろう。例え昇進しなくとも、この戦争が終わる日まで、戦車の専門家という希少性から軍という組織から抜けられなくなる。逆に失敗は、己の死を示しているだけの話だ。
 ワイリーは気にせず続けた。
「自分の居場所を奪われ追いやられた者の怒り。ならば、今だけはここを自分の居場所にしてみてはどうだ」
 何かを言おうとして口を開けたが言葉が出ない。諦めなのか? 何も言葉が出てこない自分にいらつきを感じながら、煙草を踏み消した。
「人生というものは、川だと言った男がいた。そいつはすでに死んでしまったがね。何でも、自分の周りに無数の他人が流れる川だと。その川の中で溺れないよう、みな一生懸命悪あがきをし、自分を失わない者だけが、流されるにしても、逆らうにしても、どこかへ泳いでいくことが出来る」
 ワイリーはエリナの表情を伺うように、ここで一度言葉を切った。ちびた煙草を最後まで味わうように吸い込み、言葉を続けた。
「エリナ少尉。君なら自分だけの岸辺(エリジウム)に泳ぎ着けるはずだ。例えどんなに時間が掛かろうとも絶対に。おい、少尉、頭を垂れろ」
 ワイリーはちびた煙草を捨てた。
「はい」
 何が始まるのか解らず頭を下げる。瞬間、頭が灼熱し視界がぶれた。拳骨を喰らったのだ。
「もう、ごちゃごちゃ考えるな。ごちゃごちゃ考える奴は死ぬ。そうだろう? 少尉。考えるのは勝って生き残ってからでいい」
 エリナは痛みの中、ワイリーの言葉の正しさを認めた。まだ何かが心の奥底で燻ろうとしていたが、言葉にならない全てを小さな「はい」という返事に込めた。
 生き残らなければならない。それは、今、一番確かなことだった。
「これは昇進祝いだ。少尉を丸腰のまま戦場に送り出すことはできないからな」
 ワイリーはホルスターから拳銃を抜くとエリナに銃把を向けた。
 受け取ったエリナの手にやや余るような、大砲の愛称で呼ばれている自動式拳銃だった。半世紀ほど前、南方植民地の鉱山や地下に巣くうゴブリンを駆逐する際。現場で、斧か盾を持つ都合上、片手でゴブリン達の突進を止める効果がある銃が求められた。そうして作られたのが、当時の回転式拳銃に比べて大口径の十一番であった。
 エリナはとっさに言葉が出てこない。戦闘を前にして遺書を書く者の姿がよぎってしまったのだ。それを察したのか。
「安心しろ私は死なん。グリム中将直々に大砲を賜ったのだ。いわば、お古の玉突きだ(玉と弾をかけている)」
 笑い声と共に豪快に背中を叩かれた。
「ところで、編成はどうする」
「私は三号車に下がり、オルダール少尉に一号車を担って貰います」
 半ば反射的に答えたものの、深く考えても同じ答えに辿り着いただろう。
 ワイリーが並ならぬ指揮官だったことの一つに、隊の戦車を全て使い切りたいとの思惑から、鹵獲した大連に備わっていた通信機性能に目を付けた点にある。通常、大連は、戦車長が砲手も兼ねていたが、ワイリーは戦車隊全体の指揮が執れないことを嫌い装填手を兼ねていた。時には、エリナに戦車を取り仕切らせ、自分は中隊の指揮と装填手に専念することも少なくなかった。
 そのエリナが戦車隊全体の指揮を執らなければならないため、古参のオルダールに小隊を任せる考えでいた。
 ワイリーは満足げに表情を崩すと。
「よし、お前達に歩兵中隊の命を預けた。ところで、装填手はどうする?」
「そうですね」
 目の前を通った従軍画家の少女を、ワイリーが目で追った。狩人が目の前を横切る若鹿を見る眼差しだった。
 まさか。
 とエリナは心の中で呟きつつ、ワイリーが声をかけるのを見て、やむなしかと言葉を続けた。


   5

 火花が出るほどの痛みに頭を押さえたとき、フェノの頭の中をあの恐ろしい白蝋化死体がよぎった。この低湿地に来た最初の日、整備兵達が何やら騒いでいた。沼で二世紀前のクルゼメ騎士の死体を見つけたというのだ。よせばいいのに騒ぎの輪の中へ覗きに行くと、錆び一つ浮いていない黒ずんだ鎖帷子に、深々と突き刺さる槍だったとおぼしき破片、今にも怨嗟の呻き声を上げそうな開かれた口、手には堅く握られた折れた剣。そのときは死など意識したことはなかったが、今は、はっきりとした死を意識できる。ここで死んでしまうかも知れない。声に挙げることのできない思いに突き動かされて見上げた搭乗口は、堅く閉じられていた。
 フェノは酷く狭く真っ暗な場所にいた。一切灯りがなくとも、エルフの血が混じるおかげで見えてはいた。左手前に真っ黒な搭載砲の閉鎖機。その向こう側に眼光の鋭い女性の横顔があった。白雪のような前髪を眉のところで真横に切り、他の髪も顎の高さですべて真横に切り落としているので、エルフの特徴でもある耳が髪のカーテンを突き破っているように見える。
 視線に気がついたのか、エリナ少尉がこちらを向いた。澄んだ青と緑の左右で異なる瞳をしている。それは、彼女が純血種であることを示していた。フェノと同じ十五歳だという。金属のような冴え冴えとした雰囲気と、十日間で三十輌近い戦車を屠ったという戦績は、とても同じ歳とは思えない。しかも、今はフェノの上官だった。
「大丈夫か? さっきから盛大に頭をぶつけているが」
 女学校にはいなかった酷く落ち着いた静かな声だ。
「だ、大丈夫です。揺れますね」
「もう少しの辛抱だよ。あと少しで沼を渡りきれる。何でも訊いてよ。まだ何も訊いてないじゃん」
 前の方から陽気な声がした。操縦手のエルクルト伍長だ。
 やはり前の方から大きなため息が聞こえたような気がした。無線手兼機銃手のライリー軍曹に違いない。
 ライリー軍曹だけは、この戦車の中で唯一、フェノが装填手になることを反対したようだ。フェノとしても、軍人になったつもりはなかったし、まして戦車に搭乗する気もなかった。
 フェノは、その土地では名の知られた豪農の生まれだった。そうした娘は、寮制の女学校に押し込められ、卒業までに親が決めてくる結婚相手と所帯を持つものだと相場が決まっていた。でも、彼女は周りにいた箱入り娘達とは違っていた。絵が好きで、幼いときから絵を描き続け、自分の筆で暮らしてゆきたいという夢があったのだ。
 度々その事で親と衝突してきたが、この夏の帰省時にとうとう大喧嘩にまで発展して家を飛び出してしまった。その足で寮に戻ることも出来ず、道ばたに落ちていた新聞の求人広告を頼りに、中堅新聞社の一つグワイヒ社の門を叩いた。(この時代、まだ写真記事はあまり一般的ではなく、挿絵を写真代わりに差し込むことが一般的だった。)
「月に何人も売り込みに来るんだよ」
 と軽くいなそうとした社員を、持っていたスケッチブックに描き出した絵の力で黙らせ。運良くその場に通りかかった社主の目にも留まり、結果、記者見習いとして採用された。見習いの薄給ではとても部屋なんか借りられなかったが、応接ソファーで寝起きするのも悪くはなかった。見るもの聞くものすべてが新しく、常に刺激が溢れ、忙しくも充実した日々を送った。
 南北国境で挟撃されるように衝突が避けられなくなった八月最終週。フェノは社主命令で北部守備軍に、先輩記者達の付き添いとして、行くことになった。
 一緒に取材に来た先輩達は、こちらに着いたと同時に有無を言わさず徴発されてしまった。あれから三週間が経つが、生きているのか死んでいるのかすらわからない。生きていて欲しいと願ってはいるものの、八世紀前の旧跡に設営された司令部には、連日、怪我人よりも死体の方が多く運ばれてきた。フェノはこのまま帰ることは出来ず。かといって、戦場に放り出されることもなく。今まで使いっ走りとして、この戦場に居続けてきた。
 兵士達はフェノを従軍画家だと勘違いしていた。結果、戦車を鹵獲する様子や、塹壕の様子など、ニュースでは取り上げられなかった北部守備軍をスケッチすることが多く。また、家族に送るという兵士達の似顔絵を描くのが日課になっていた。これらが、後に評価されるのだが、それは別の話だ。
 フェノはエリナのことを知っていた。ウルヴァ社が管理している陸軍工廠から来た技術者で、将校待遇で整備兵の指導に当たるはずだったのに、フェノと同じように、戦車隊長のワイリー大尉に目を付けられ、砲手にさせられてしまったのだ。だが、ここからが凄い。純血種のエリナ准尉は数々の戦果を挙げた。たった十日で戦車中隊長にまでなってしまったのだ。グワイヒに連載している小説家先生でさえ書けないような、まさに、現実は小説より奇なりそのものであった。
 純血と言えば、総司令官のグリム中将もまた純血種である。後世においても意外に知られていないことだが、現在進行中の「猟犬作戦(カッシア)」は、グリム中将にとって北部防衛戦の総仕上げであった。
 北部守備軍側に突出し、ジャガイモ袋のように膨らんだ共和国軍の口の部分を機動戦力で分断し、包囲網を構築する。
 敵がそのような陣形に陥ってしまった理由は、戦車ばかりか歩兵をも阻む低湿地の地形的特性があったためだが、北部守備軍が取った遅滞戦術の結果。つまり当初から決められていた作戦でもあったのだ。
 騎馬で戦っていた時代より、この地を治めていたエルフ達は自分たちの軍用道路を、人の足でさえ飲み込む湿潤の大地に構築していた。枯の葉が甘く香り、けして朽ちることのない桂の巨木を数百キロ南の森林地帯から運び込み、沈め、基礎として、この湿地帯に網の目のような道路網を築いたのだ。その中で一番条件の揃っていた場所が今現在、戦車やトラックが行き交う道となり、クルゼメ人の進撃ルートとなり、逆に進撃ルートが限られることで、二重王国側の守りを容易にしたのだ。
 逆に、条件が悪かった場所は沼に没しその機能は失われたはずだった。それをグリム中将は古文書から読み解くと、まず工兵隊と現地農民を使って徹底的に調べさせた。
 やがて、生きてはいるが、沼に沈んでいる道をいくつも探し当てた。まるで、沼に果敢に飛び込む猟犬のように、雨天時には数キロにも広がる沼の中心に向かって進むルートだった。
「作戦成功しますよね?」
「さっきから同じ質問ばかりだな。成功しないと思っている者はこの隊にはいない。成功しないのなら最初からやらなければいい」
 苦笑いなのだろうか? エリナは目を細めた。
「えっと、それじゃ別の質問をします」
 これがフェノがワイリー少佐に出した条件だった。エリナにインタビューをする代わりに装填手を引き受ける。記者としての本分ではなく、とっさに口が開いてしまったのであって、考えあっての発言ではなかった。しかし、エリナ少尉は受けてくれたし、それ以上に操縦手のエルクルト伍長が乗り気だった。
「どうぞ。ただし戦闘が開始したら頼むぞ」
「は、はい」
「色さえ間違えずに装填してくれればいい」
「金色の徹甲弾なのに七色の榴弾をセットしたら、俺たちあっという間に燃え尽きちゃう」
 エルクルト伍長が陽気な声を上げた。
「え?」
 七色? 金色? そんな風に言われただろうか? フェノの記憶にはない。
「伍長洒落にならなくなる冗談はやめろ。徹甲弾は黒。榴弾は赤だ。オリーブ色が葡萄弾。間違えると次を撃つ暇はおそらくないだろうな」
「どういうことです? こんなに頑丈なのにダメなんですか?」
「ダメだな。私は、こいつの三七ミリを八百メートルで当てたこともあるが、二百メートル内外で殴り合うことが多い」
「え?」
 二百メートルと言えば相当な距離がある気がしたが、すぐに、砲弾を音速の倍以上の速さで飛ばし、時速六十キロまで出せる戦車であることを思い出した。
「粗末な装甲だが、搭載砲の威力も足らないのだ。だから接近して叩く。二百メートルの間合いは、ちょうど古代の剣奴達のように鎖でお互いを繋いで、斧を持たせて殴り合うのと似ている」
「逃げ場がないってことですか?」
「そうだな。発砲から着弾まで一秒の三分の一もかからない。ただ、注意しないといけないのが弾も造りが相当荒い。鉄製薬莢だから引きちぎれて排莢されないことがある。衝撃式雷管だからどうも信用に足らない」
「え? え?」
「戦車長殿いつになく饒舌ですね」
「まあな」
 フェノは気がつかなかったが、エリナの頬が上気していた。
「フェノさん、少尉殿はクルゼメ人の技術のなさを嘆いてるんですよ。この戦車の大砲は野砲をほぼそのまんま乗せてるんですよね?」
「ああ、搭載砲は野砲そのままで拉縄を引いて撃つ。戦車は供与されたようだが搭載砲までは供与されなかったらしい。
 命を預けるのなら四型戦車の方がいいな。新開発の七五ミリ硬芯徹甲弾なら、千二百で一方的に叩ける」
 エリナの表情に変化はなかったが四型戦車の名を挙げたとき、まるで親しい友人の名を挙げたように思えた。
「じゃ、南の連中は俺たちよりも楽な戦いをしてるんですか?」
「まさか。敵は本国仕様の大連戦車だろうから、おそらく七五ミリを積んでいるだろう。装甲の鋳造が均一ならば、一方的にはならない。第一、装甲の組成自体が違うはずだ」
「えーと、えーと」
「この戦場は、少し特異なんだ。本来の戦車戦とは違う戦い方になる。後にも先にもこんな戦いはないだろう。ところで、閉鎖機の説明はしたか?」
「えーと」
「弾を押し込めるときは絶対にグーだぞ。お兄さんとの約束だ」
「エルクルト伍長の言うとおり、弾を入れる際に拳で押し込めて直ぐに退け。閉鎖機の鎖栓が自動で閉じるから手を失う」
 フェノはつばを飲み込んだ。
「さっきも話したが、排莢は詰まることが多い。そこのレバーをここにあるハンマーで叩け」 
「あの」
 フェノは一つだけ気になった。
「ん。ああ、インタビューになっていないな。すまない」
「いえ、その。なんか、何となくですが、この戦車の悪口ばかり言ってませんか?」
「悪口は言っていない。これで戦うしかないのだ。敵も同じだからな」
「あ! 敵が慌てて、本国仕様の大連を持ってきたらまずくないですか?」
 エルクルト伍長が大声を挙げた。
「最初の何輌かは食われるだろうな。だが、敵がわかっていれば戦い様はあるさ。おい伍長。フェノのインタビューになってないぞ」
「申し訳ございません」
 エルクルト伍長の声は言葉とは裏腹に陽気なままだった。
「質問を三つくらいにしぼってくれ」
 エリナは搭乗ハッチに手をかけると、外に顔を出した。
「何か見えますか?」
「思ったより早いな。岸まであと十分ぐらいか。今襲われたらひとたまりもない」
 エリナは単眼鏡で周辺を見渡した。
「まさか、敵がいるんですか?」
「見える範囲にはいない。沼を渡ったポイントから、東に十キロほど行くと最初の攻撃目標があるとは話したな」
「はい」
「鐘楼の屋根がはっきりと見える」
「え? 敵にも見えているんじゃ」
「人間は夜目が利かないらしい。雲の厚い夜だ。ライトで照らさない限り一キロ先の様子も見えないという言葉を信じる他ない」
 エリナは砲手の座席に戻った。
「人間は本当に見えないんですか?」
「ちょっとすまない。軍曹、全車伝達。対岸まであと十分。以上。
 クルゼメ人との戦争は、こちらが寡兵の場合、夜間に決することが多い。今日は雨雲で月も見えない。故事に習えば向こうは最大の警戒を敷いてくるだろうな。すまないフェノこれ以上はインタビューにはつきあえない」
 エリナの眼差しが厳しさを増し、フェノはつばを飲み込んだ。
 この夜。天は厚い雲に覆われて、大河のような星々も月も見えなかった。その中、インク壺を倒したかのように闇に沈み込む沼の上を小さな森が一列になって動き、やがて辿り着いた森の中へ入っていくのを見たものはいなかった。
 鹵獲大連戦車九輌、二型歩兵戦車四輌、鹵獲七五ミリ砲を牽引するトラックが六輌続いた。先に行く三輌以外全て兵士を乗せ、すべて無灯火だった。
「よし、全車敵中に入った。軍曹、各車に伝達。時速八キロ、十メートル間隔。一号、二号車は目をこらせ」
 搭乗口から顔を出していたエリナ少尉が、ライリー軍曹に声をかける。
 フェノのいる位置からは見えないが、無線手兼機銃手のライリー軍曹は通信をはじめた。
「あまり堅くなるな」
 エリナは視線を前に向けたまま声をかけてきた。
「が、がんばります」
「よし。エルクルト伍長、今のライト見えたか」
「はい」
 フェノが初めて聞くような、腰の据わった返事だった。
「一号車に伝達。一時の方角にトラックの灯りが見えるか?」
 何が起きたのか、エリナが何を言っているのか、フェノには一瞬解らなかった。
「見えたとのことです」
 とライリー軍曹。
「全車伝達。千メートル先にトラック八輌。一号車、二号車は、三十メートルまで引きつけ全てを食らえ。それ以外は別命あるまで一切の発砲を禁じる。以上」
 エリナは声高にならず。いつものように淡々と命令を発した。
 フェノは、つばを飲み込む音が周りに聞こえるんじゃないかと思った。
 戦車のエンジンの音と振動が、いつもより大きく伝わってくる気がする。妙に時間を長く感じる。
 敵が気がついて先に発砲してきたら、向こうにも戦車がいたら、次々に最悪の状況が思い浮かび、めまいがしそうだった。
 それは唐突にやってきた。低く響く音が、一発、二発。間を空けて、ほぼ同時の二発。さらに、同時の二発。甲高い機銃の音が遠くで響く。
「一号車より入電。八輌全て撃破、以上」
 ライリー軍曹は何ら感情を込めずに伝えた。
「全車伝達。速度を落とすな。駆け抜けろ。食べ残しは相手にするな、以上」
「少し揺れるよ」
 エルクルトが柄にもない真面目な声を立てると、車体が大きく揺れた。
「何、今の」
 思わず出てしまった。でも、何を轢いているのか半ば理解している。
「トラックを轢きつぶした」
 エリナは何でも無いことのように言うと、座面を足がかりに搭乗口から身を乗り出した。
 フェノはエリナを見上げながら、唾を飲み込もうとして飲み込めなかった。装填手の位置からでは、真上の搭乗口から身を乗り出さない限り何も見えない。何もわからない。
 戦車はその後何事もなかったように進んだ。
 時間を長く感じた。こんなにも時間が経たないことを恐ろしく感じたことはなかった。
 一時間、それとも二時間、もしくは、わずかな時間しか経っていないのか。
 この狭い空間で誰も言葉を発しないのが辛い。
 先ほどから搭乗口から外をうかがっていたエリナが戻った。
「フェノ。今だけ外が見ることが出来る」
 エリナに促され、おっかなびっくりの体で搭乗口から顔を覗かせると、星も月もない空の下、遠くに見える灯りの見える、なだらかな丘を目指して進んでいた。
「全車伝達、全車停止。歩兵を下ろせ。すまないフェノ通してくれ」
 エリナ少尉は搭乗口から降りていった。
「あれ? 少尉。どちらへ?」
「ここから、歩兵を下ろして一気に前進するんだ。その歩兵中隊は、この戦車の元戦車長ワイリー少佐が指揮しているんだ。挨拶ぐらいはするだろう? 緊張してる?」
 エルクルト伍長はまたあの陽気な声に戻っていた。
「はい」
 フェノはうんとうなずいた。
「少尉殿の言う弾を間違えずに詰めれば、無事に帰れるさ。ただあまり頭をぶつけすぎないようにね。戦闘帽を被ってても痛いものは痛いから」
 まるで今までのフェノを見ていたかのような口ぶりにフェノは顔を真っ赤にした。


   6

 トタンに雨粒が当たる音よりも、ずっと小さな音が断続的に響いた。これは機銃によるものだと後から聞いて知った。
 フェノには外の様子が分からない。二キロを少し超えるという榴弾を手に固まっているだけだ。
 熱を帯びた空薬莢がゴトリと落ちる。
「よし、赤装填」
「はい」
 フェノは時が動き出したように拳で榴弾を押し込めると、首を落とす刃のように鎖栓が降りてくる。
 エリナ少尉は照準器を覗き込むと迷うことなく拉縄を引いた。戦車が小さく揺れたような気がした。熱と火薬の臭いが酷い。時間を惜しむように、エリナ少尉は搭乗口を開けて外を見る。
「くそ、増援か」
 エリナ少尉は直ぐに砲手席に戻り。
「黒装填。伍長戦車が見えているか?」
「いえ」
「十一時の方向に回すぞ。軍曹、二号車伝達。後ろは私がやる。前は任せた。以上」
 戦車という恐ろしげな言葉よりも、黒装填という言葉に弾かれたように、フェノは徹甲弾を装填した。エリナ少尉は射向を変えると、照準をのぞき込んだ瞬間、発砲した。
 フェノは自軍が有利なのか不利なのさえかわからなかった。それ以前に、砲塔の中では、敵兵の姿はおろか閃光すら見えず。爆音も家で聞く雷ほど恐ろしげな音ではなかった。
 戦場にいる実感が薄かったのかもしれない。逆にその手触りを感じていたら、このときの自分に、砲弾の装填など出来なかっただろうと、後になってから思うのだ。
 突然、金属音と共に戦車が揺れ、頭を強かにぶつけてしまう。何かが辺りを跳ね、崩れる音が響き、戦車帽を被っているのに目から火花飛んで一瞬目の前が真っ白になった。
「大丈夫か?」
 エリナ少尉の声が響く。
「操縦席問題なし」
「通信席も問題なし」
「こりゃ、五十じゃなくて七十五ミリだ。本国仕様かも」
「三時の方角、五百メートル先だ。五メートルだけ下がれ。撃破した戦車の影と起伏に隠れる」
「了解。荒く行きますよ。少尉、頭、頭。消し飛んじゃいますよ」
 エルクルトが柄にもなく叫んでいた。次の瞬間、フェノは後ろから突き飛ばされるような衝撃を受け、次の瞬間、前へ飛び出しそうになる。
「諌言は向こう岸で受ける。フェノ大丈夫か? やれるか」
「やれます」
 やせ我慢でも、無理でもなく。フェノは自分自身の体内に、夜の森を疾走し、高位である獣を百発百中の矢で狩った祖先の血が確かに流れているのを自覚した。
「二号車にも警戒を伝達」
 照準を覗き込むと、一息置いてエリナ少尉は発砲した。
「遠いいな。弾かれた」
「行きますか少尉。向こう岸までお供します」
「敵は三輌だ……本来軍人なら、部下に大量出血を強いることになっても、指揮する者が自ら前へ出ることはないだろうな」
「お言葉ながら、少尉、我々は正規の戦車兵ではありません。私は無線技士、そこの操縦手は装甲車部隊のお調子者。そこのお嬢は従軍絵師で、少尉の星は、歩兵のそれです。繰り返しますが、正規の戦車兵ではありません。歩兵指揮官はワイリー大尉……」
「少佐に昇進されてますよ。軍曹殿。私も軍曹と同じ気持ちと思惟するものであります。行きましょう」
 エルクルトはライリーの言葉を取り上げてしまう。でも、ライリーは笑うかのように鼻を鳴らしただけだった。
 エリナはフェノの方を見やった。
 フェノは具体的に何が起きているのか理解できなかったが、ピンチであることだけは察した。でも、恐怖心はない。静かに頷いて見せた。
「二号車に伝達。一号車が五百メートル先の敵を獲りにいく。支援無用以上だ。この近辺の食い残しをオルダール車と協力して片づけてくれ。伍長、射線を合わせられるなよ。行くぞ」
「了解」
 車体そのものが唸るようなエンジン音が鳴り響き、戦車が動き始めた。エリナが上半身を出す搭乗口から物凄い爆音が響き渡る。
「フェノ、今のうちに射向を変える。そのハンドルを右に回せ」
 重いモノはせいぜい水の入ったバケツくらいしか持ったことのない手が、この夜、音速の数倍の速さで飛ぶ砲弾を撃ち出す砲塔を回わしていた。
 何が起きているのか、これからどうなるのか、フェノにはわからないし、すべてが確かではない。少なくとも確かだと口に出して言葉で言えることは、エリナの言う通りにすれば生き残れるということだけだ。
 今までの会話から、この今乗っている鹵獲戦車は、共和国に供与された劣等版で、三輌いる敵は連邦の本国仕様を満たしたものかもしれないということ。
 でも、前進は止まらない。恐くもない。エリナと一緒ならどこへでも行けそうな気がした。
「一つ目」
 まるで手にした斧で首を刎ねたかのように、叫ぶ。
 それに答えるかのように、開け放たれたままの搭乗口から爆音が降り注ぐ。
「一、二、三、急停止」
「恐すぎです。敵の操縦手の顔にパンチできそう」
 エルクルト伍長の声はどこか嬉しそうだ。
「フェノ左に回せ」
 腕が悲鳴を上げていたが、フェノはハンドルを回し続けた。
「歩兵多数接近」
 ライリー軍曹は、いつもの声で警告を発する。
「わかってる。伍長発砲後全速前進、中央を突っ切れ。軍曹頼む取り憑かせるな。これで二つ」
 エリナが拉縄を引き、薬莢が排出され駐退機が元に戻るよりも早く、フェノは加速した勢いに後ろに頭をぶつけた。
 まるで夢の中かオルゴールの中にでもいるのかのような情景が広がる。目に見えるものに実感がなく、耳で聞く音は遠い国の音楽のようだった。
 あれ? 何をしているんだろう私。
 フェノがそう独りごちした瞬間。
「フェノ。黒だ」
 絶対に従わなければいけない天啓のように、エリナの声が響く。
「はい」
 ラックの蓋を開けると黒の砲弾掴み、拳で押し込んだ。
 エリナが拉縄を引く。その横顔、その姿が神々しく思えた。
「よし。伍長このまま逃げるぞ。軍曹全車に伝達。第三小隊は一時方向の陣地に食らいつけ。西側が手薄だぞ。オルダールは前進して歩兵を掃討しろ。以上。伍長、オルダールと歩調を合わせて逆襲だ。雪が降ってきた足元をすくわれるな」
 その言葉で、開いていた搭乗口から入り込んだのだろう。白い雪が落ちていることに気が付いた。
「さぁ、全てを平らげよう」
 エリナの声は、叫んだり、感情を込めすぎるということがまったくない。いつもと変わらない淡々としたものだ。
 その横顔は、初めて指揮を執る同じ世代の少女ではなく、戦争をいくつも超えてきた英雄のように思えた。この横顔だけで安心できるのだ。この人の言うとおりにしていれば生き残れる。
 この横顔をなんとしても絵にする。
 フェノは心の中で強く誓った。
「了解。勝てますね」
 エルクルト伍長は陽気な声を上げた。
「どうしてです?」
 思わずフェノは聞いた。
「雪はライトを反射する。相手は視力を奪われたようなものだ」
 エリナは、目を細め凄みの利きいた表情になった。
 夜半を越えた頃、降り出した雪は、吹雪を伴って低湿地を襲った。共和国軍は、失った視界にライトを使おうとしても、目の前の雪に反射して見通すことが出来ず。夜目の利く北部守備軍の兵士達にとって、そうした敵軍車輌は、白い雪に浮き出た的でしかなかった。また、零下に落ちた気温は、本来なら助かるはずのわずかな傷を致命傷へと変え、湿地で濡れた体からは容赦なく体力を奪ったという。
 夜明け前。共和国軍は撤退を開始した。車輌、火砲を放棄し、身一つで撤退する共和国軍を敵中深く入り込んだ戦車隊と火砲が容赦なく削り取っていった。灰色の世界に降り積もる雪が血によって黒い沼になったとも言われている。
 クルゼメ人達に、「外さず」の名が悪鬼のごとく語られる由来でもある。
 地の利を最初から最後まで生かし切ったグリム中将がもぎ取った勝利であった。と歴史家達は見てきたように語るが、実際に戦った兵士達には、実感が伴わない戦いであったらしい。夜襲を警戒していた共和国軍に対し、包囲網を敷いた北部守備軍の被害は大きかった。また、あらゆる場所から砲弾が飛び込んでこようとも、無名の共和国軍士官や下士官達が自陣堅守を厳命したことが無残な潰走を防ぎ、北部守備軍にも大量出血を強いたのだ。
 フェノは、北部守備軍に取材に行った記者の中で、唯一グワイヒ社に戻れた。そこで見聞きしたことをまとめて記事にし、グワイヒの売り上げにいくらか貢献した。が、エリナのことは素描を一点上げただけで、それ以上は文字にも絵にもしなかった。ただ、社主に求められ、ある戦車操縦手の伝聞という形で、「外さず」について、当たり障りのない記事をまとめただけである。同じ歳の少女のことは一言も触れなかった。
 何かを書けば、エリナのそばでずっと装填手をしていたい誘惑に負けてしまったと、夫となったかつての戦友に語ったという。



 参考文献
 「装甲の乙女達」RAD http://www.radweb.jp/
 「流血の夏」梅本弘
 「雪中の奇跡」梅本弘
 「泥まみれの虎―宮崎駿の妄想ノート」宮崎駿
 「宮崎駿の雑想ノート」宮崎駿
 「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」高橋慶史
 「8月17日、ソ連軍上陸す―最果ての要衝・占守島攻防記」大野芳
 「サムライ戦車隊長―島田戦車隊奮戦す」島田豊作
 「ウィキペディア」http://ja.wikipedia.org/wiki/

ハリネズミ

イラストレーション 影守俊也「FORBIDDEN RESORT」

ハリネズミ

英雄と呼ばれた少女の半生と戦い。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-08

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