れいぞうこのなか

 れいぞうこ、のなかでねむっているのは、ぼくのおかあさんと、友だちと、それから一頭のカマイルカであることを知っているのは、ぼくと、おかあさんが通っていた絵画教室の先生と、しろくまのヒト、だけであった。ぼくは、いつも、テレビを観て、呼吸をしている。絵画教室の先生は、生徒さんのいない教室でひとり絵を描いて、文庫本を三ページほど読み進めて、鉢植えに水をやっている。しろくまのヒトは、そのへんにいる小動物をたべて、ウイスキーグラス一杯のウイスキーをのんで、ああ、アザラシがたべたいなと思いながら、ねむりにつく。
 光の矢が、空から降ってきた日に、れいぞうこ、も降ってきた。ぼくのおとうさんは、光の矢に打たれて、石となった。ぼくのおとうさんだけでなく、街のほとんどの人が、光の矢にからだを射ぬかれ、石となった。おとうさんには、赤く光る矢が、となりの家の猫ばあさん(いつ、いかなるときも、猫を抱いている)には緑色に光る矢が、ケーキ屋さんの小さいおばさん(身長が一四〇センチメートルしかない)には水色に光る矢が、そのケーキ屋さんで働いているシュークリーム作り専門のおにいさん(元ヤンキー)には黄色く光る矢が、頭に、胸に、背中に、脚にと、突き刺さっているのだった。
 生き物が減ったせいか、さいきん、息苦しいわねえと、絵画教室の先生が言う。
 ほとんどの人が石となり、酸素をとりいれ、二酸化炭素を吐き出しているのは、ぼくと、絵画教室の先生と、しろくまのヒトと、それから家に引きこもりがちの目が三つある人と、ぼくが通っている高校で日本史を教えている、おじいちゃん先生くらいなものだった。もっといるかもしれないけれど、ぼくが知っているのは、それくらいだった。で、れいぞうこでねむっているのが、ぼくのおかあさんと、友だちのKと、Tと、一頭のカマイルカ、で、れいぞうこのなかは、とても広くて、扉を閉めると真っ暗で、ねむろうと思えば、ぼくだってねむれるくらい、さむい。
 生き物が減っているのは、まちがいなく、しろくまのヒトのせいだった。しろくまのヒトは、なんでもたべた。ときどき、花もたべた。雑草も。虫も。さすがに、石となった人たちは、たべていないようだったけれど。
 なんだか、ぼくも、再放送しかやっていないテレビばかりを観るのは、ほとほと厭きてきたので、絵画教室で絵を描くようになって、しろくまのヒトに、たべられる植物、たべられない植物、たべてはいけない虫、たべてもいいけれどおいしくない虫、なんかを教わるようになって、テレビを観ること、と、呼吸をすること、以外に、絵を描くこと、動物ではない生き物をたべること、を覚えた。それから、ときどき、れいぞうこのなかに入って、つめたくなったおかあさんの腕と、Kの頬と、Tの髪と、カマイルカの尾っぽをさわって、れいぞうこを出る、ということを、やった。
 もう、何十回と観た恋愛ドラマのなかに、男の人と、女の人の、ベッドシーンがあって、ぼくはそれを観た後は、かならず、絵画教室の先生のところか、しろくまのヒトのところに行って、いっしょにねむってくれとお願いするのだった。
 絵画教室の先生のからだはしわしわで、水っ気がなくて、たまにお線香のにおいがして、しろくまのヒトのからだは毛むくじゃらで、毛はあまりやわらかくなくて、どこもかしこも血なまぐさかった。

れいぞうこのなか

れいぞうこのなか

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-08

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND