かすみ草の花束
本編
東京の一等地に店を構える高級フランス料理店「Anne-Marie」。私がここに勤めて五年になるこの日、不思議なお客様が来店された。その二人は、お世辞にも仕立てが良いとは言えない安物のスーツと上品で落ち着いた色のドレスを着た五十代後半の老夫婦だった。彼らは、テーブルに案内しようとする新人のウェーターに二言三言戸惑いを見せながら囁くと、ウェーターは快く頷いて、予約の立て札がある店の中央の席へと二人を案内した。
「ご予約の高橋様です。」
新人のウェーターは私はそういうと、いそいそと厨房の中へと入って行った。私は手元のバインダーの予約表に目を通す。確かに一時間前に高橋様のお名前で大人二名様分のフルコースの予約が入っている。お客様が予約時間ぴったりに店へ来てくれることはまずない。しかし、連絡もなしにこれほどまで遅れるというのもこの店では珍しいことだった。私は少し違和感を感じながらも、水の入ったグラスを乗せたトレー片手に、彼らのテーブルへと向った。すると、男性の方がかわいらしいドット柄のリングノートを大事そうに胸に抱え、肩を震わせて泣いている。向かいに座る女性も神妙な顔つきで、男性の抱えるノートを見ていた。
「失礼いたします。本日はAnne-Marieにおこし下さいまして誠にありがとうございます。本日のメニューはフレンチのフルコースとなっております。お飲み物はどうなさいましょうか?」
女性がはにかんだ笑顔を見せながら言った。
「私たち、こういうお店は初めてなの。飲み物は貴方にお任せするわ。適当なワインを選んでほしいわ。」
「かしこまりました。」
一礼して、テーブルを離れようとした私だったが、ふと目の端に映る男性の抱えたノートはボロボロで、泥まみれだった。そんなノートを大事そうに抱える男性に、私は少しの恐ろしさを感じた。
男性は次第に落ち着きを見せ、二人は運ばれてくるコース料理を美味しそうに食べていた。時折、何かを思い出したように手が止まり、二人は懐かしい思い出話をするように、その顔は幸福で満ち溢れていたけれど、どこか寂しげだった。
コースの最後の品が運ばれ、二人の表情は夢の終わりを覚悟したように硬くなっていた。
夢の始まりは絶望だった。
二十歳の時に、家出同然で東京に行ってしまった娘が八年ぶりに帰ってきた。妻は張り切って、その日の晩飯に娘の大好きな唐揚げを揚げた。何とも健康を害しそうな揚げものだらけの晩飯に私はため息をつきながらも、八年ぶりに会い、すっかり大人の女の顔をになった娘を少なからず誇らしく思っていた。しかし一泊して娘が高速バスで東京へ帰る日、そんな娘の顔が幼い少女のように不安に歪んでいた。昔から、頑固で一度決めたらてこでも動かないような子だった娘が、何かを言いたげに私の顔をまっすぐと見ていたのだ。その時、私が無理にでも娘を引きとめて、話を聞いてやっていれば、娘は今も自分の力でつかみ取った幸せの場所で、私たちの知らない幸せな生活を送っていたのかもしれない。乗車場に響く、客たちを急かすアナウンスに背を押され、娘は私たちを残して逝ってしまった。
テレビから流れるそのニュースに私たちは愕然とした。娘の乗っていたバスが高速道路で事故を起こした。居眠り運転のトラックが原因の玉突き事故だった。バスの運転手と乗客の過半数が死に、残った乗客たちも皆ひどい怪我を負ったという。
タクシーで病院に向かう途中、私たちは祈った。娘が、数時間前に別れた娘がその「過半数」に含まれていないようにと。
しかし、病院の霊安室に横たわる娘を見た時、妻は泣き崩れた。そんな妻を支えながら、私もいつぶりかの涙を流した。この世にこんなにも苦しく辛いものがあるのかと、私は冷たくなった娘にすがる妻を見ながら思った。
三十分もしないうちに葬儀社の連中が現れ、葬儀の段取りの説明を受けた。ボロボロの妻に変わり、私が説明を受けた。葬儀の日程、かかる費用、そんな現実的な話をするうちに、「あぁ、娘は本当に死んでしまったのだ」と、そんな思いが私の心を締め付けた。
そんな事務的な作業から解放されると、今度は何とも言えない喪失感が私を襲う。霊安室で横たわる娘を見たときの嵐のような感情はどこかに消え去り、まるで穏やかな凪のような、静かでさっきよりもずっと深い、それは今まで味わったどんな感情とも違った。
時刻は午後十一時を回り、病院内は薄暗く、そんな中でナースステーションだけがぼーっと光を放っていた。私はその明かりを頼りに、手にしたノートを眺めてた。水玉模様のかわいらしいリングノートだった。
「変わってないな……。」
八年前と変わらない娘の好み。大人びた今でもそれは変わっていなかったんだと思うと、また涙がこみ上げてくる。ボロボロになったノートを撫でながら、私は私の知らない娘の八年を思った。
ノートの表紙をめくった私は驚いた。娘はこんなにも達筆な字を書くということを私は今まで知らなかった。思えば、いつも仕事ばかりで家庭を顧みないひどい父親だった。社長とは名ばかり、小さな町工場は、いつも人手不足で経営は火の車だった。そんな時に授かった娘に私は煩わしさを感じていたのかもしれない。子育てと家事の合間を縫って家計を助けるために働きに出た妻に労いの言葉をかけてやったことがあっただろうか。それでも妻は嫌な顔一つせず、娘を立派に育ててくれた。そんな娘はもうこの世にいないのだと思うと、ノートは涙で滲んで、娘の書き綴った思いを読むことさえままならなかった。
ノートには、ここから東京までの往復の交通費、東京にある高級ホテルやレストランの名前が書かれていた。娘が行くはずだったホテルやレストランに後悔の気持がこみ上げた。町から出た事もない私たち夫婦は、娘に何をしてやれたんだろう。若くして死んでいった娘に何をしてやれたというんだろう。
ページをめくる指が震えた。恐れていたのかもしれない。ページをめくる度に自分は不甲斐ない父親だと娘に責められているような気がした。しかし、そこに書かれていたのは私の想像をはるかに超える娘の思いだった。
カラーペンで大きく書かれたその文字は、娘が私たち夫婦の結婚三十周年を祝おうとしてくれていた事を物語っていた。
これまで、私たち夫婦は結婚記念日だからと言って食事に行くわけでもなければ、お互いに感謝の言葉を伝える事さえしてこなかった。いいや、毎年訪れる変わり映えしない日常を送るだけの記念日を気にも留めずにいたのは私だけだったのかもしれない。結婚記念日、いつもとは違う洒落た食器が並んだ食卓に、妻は毎年、花を飾った。小さく白い花を雪のように散らしたその花は、妻の大好きな花だった。
そしてノートは、私たち夫婦に対する感謝と、二十歳で家を飛び出してしまったことへの後悔の言葉であふれていた。娘も今の私と同じような後悔の思いでこのノートに向かっていたのかと思うと、たまらなく愛おしく、たまらなく情けなかった。
私はたまらずノートに顔を埋めて人目も憚らずに涙した。夜の病院に響く足音が私の前で立ち止まり、しばらくしてそっと私から遠のいて行った。
娘の葬儀が終わり、年が明け、厳しい冬も過ぎた。
そして春、私たち夫婦の三十回目の結婚記念日の食卓に、花が飾られる事はなかった。
「おい。いい加減、塞ぎ込むのはやめたらどうだ。」
和室の仏壇の前で四六時中、魂が抜けてしまったかのように座ったままの妻に私は少しきつい口調で言った。あと数年で定年退職を迎える私は、会社を若い連中に任せ、日のほとんどを会社の裏手にある自宅で過ごしていた。妻を気遣い、この年になって初めて包丁を握り、料理をした。しかし妻はその料理には手をつけようとはせず、すぐに和室の仏壇の前へ行ってしまう。
「しっかりしろ! 京香がいなくなって悲しいのはお前だけじゃないんだ!」
私の心ないその一言に妻は震えあがり、絶望にも似た表情で私を振り返った。心が無かったわけではない。私なりにほとんど飲まず食わずで、悲しみに暮れている妻を心配していた。しかし、当時の妻は私のその言葉に怒りと、憎しみしか見出してはくれなかったのだ。
妻と口を利かなくなって半月が経ったころ、私はある場所に電話をかけた。塞ぎ込む妻を外に連れ出すのは苦労したが、私も一張羅のスーツを着て、何とか東京行きの新幹線に妻を乗せる事が出来た。こんな状態の妻を、娘の死の原因となった高速バスには乗せられない。新幹線の中で浮かない顔の妻を私は励まし続けた。
「すまなかったな。」
妻にそんな言葉をかけたのはこれが初めてだった。汗水たらして働き、家族を養っている、俺についてくるのが当たり前と、後ろを振り向く事さえしなかった。それでも妻は、こんな身勝手な夫についてきてくれた。どう言葉にしたらいいのか分からないこの思い、娘が最後のチャンスをくれたのだと思っていた。
妻は驚いて私を見ていたが、すぐに虚ろな目をして、外の流れる景色をボーっと見ていた。そんな妻に私は平然を装っていたけれど、内心ではショックを受けていた。しかし、妻は言った。「大丈夫よ。」と。
私は目を丸くして驚いた。その言葉は優しく私の心を包み込み、温めてくれる。
「ありがとう。」
その言葉しか見つからなかった。妻もそんな私の気持ちを汲んでくれているかのように、その表情は心なしか誇らしげに見えた。
東京の地に降り立ち、私は鞄から娘が書いたノートを取り出した。これをもとに新幹線もホテルもレストランも予約した。妻の喜びそうな娘お勧めの雑貨屋や洒落た名前の服屋、私の趣味のレコード店までピックアップされていた。この計画書通りに事を運べば何も問題はないはずだ。
「あなた。それ、なんですか?」
今まで見た事のないような東京の壮大な街並みに圧巻されていた妻が、不意にこちらを向いて、不思議そうに尋ねた。還暦まじかの男が水玉模様のかわいらしいノートを真剣な眼差しで見つめていれば、それは不自然以外の何物でもない。しかもそのノートはボロボロで泥だらけだ。別のノートに書き写してくれば良かったのかもしれないが、このノートを持っている事で、妻と娘と私、三人の初めての家族旅行をしているような気がした。何とも身勝手な思い込みなのだろうと、自分が情けなくもあり、少しだけ心が満たされたような気がした。
「なんでもない。それより、せっかくの東京なんだ。どこか行きたい所はないのか?」
「そんなこと、急に言われても。私、東京なんて……。」
妻は戸惑ったようにそう言ったけれど、私は妻のその言葉を待っていたかのように、満足げに言った。
「よし。じゃぁ、まずはお前の好きなアンティークの食器を見に行くぞ。」
私は少し得意げになって、歩きだした。慌てて私の後ろをついてくる妻に私はハッとして立ち止まった。私の背にぶつかりそうになる妻の歩幅に合わせながらゆっくりと目的の食器屋に向かう。妻は不思議そうに首をかしげていたが、まんざらでもないようにその顔は晴れやかだった。
「変な人……。」
食器屋は大通りから少し離れた閑静な住宅街の手前にあった。店内は落ち着いた雰囲気で、四方の壁際に置かれたガラスケースには色彩豊かな食器の数々が並べられ、それを嬉しそうに見つめる妻の瞳は少女のようにきらきらと輝いていた。しかし、不意にその妻の瞳に影が落ちる。ここに娘がいればと思っているに違いない。私も絶えずそう思っている。ここに娘がいたならばどんなに楽しい家族旅行になっただろうか。私は再び鞄からノートを取り出し、妻を連れ、店を出た。
次に向かったのは服屋だった。
婦人向けの上品な服が店の中いっぱいに吊るされている。品の良さそうな店員が、戸惑う私たちのもとへやってきてどんな服を求めているのかと尋ねてきたが、妻は見ているだけだからと言って、店員に申し訳なさそうに頭を下げた。
「たまには流行りの服でも買ってみたらいいじゃないか。」
「流行りなんていう歳じゃありませんよ。」
妻はそう言って、吊るしてある服を手にとってはみるものの結局、一着も買おうとはしなかった。私に気を使っているのだろうか。それとも娘が亡くなったというのに自分だけが、こんな良い思いをしてはいけないと心を痛めているのだろうか。どちらにしても、いらないというものを無理に買うことは出来ない。私は少し寂しい思いをしていた。
店を出て、次の目的地であるホテルに向かう。もうすっかり日は暮れて、あたりはうす暗かった。大通りまで出てタクシーを拾った。タクシーの中でもやはり私たちの中にあるのは娘の事ばかりだった。しかし、私も妻もその話題にはあえて触れないようにしていたのかもしれない。無言のタクシーがホテルに到着し、私たちは疲れ切った体を休めた。
「それにしても、どういう風の吹きまわしですか? あなたが旅行に連れてきてくれるなんて。」
部屋で懐石料理に舌鼓を打ちながら、妻は私に尋ねた。妻にはまだ娘のノートの事を言っていない。旅行の間中、しきりに見ているノートを気には留めているもののあえて詮索しようとはしてこなかった。
「あのノートだが……、あれは京香のノートなんだ。」
その言葉に妻は箸を止め、私の顔をじっと見つめていた。しかし、その表情に驚きの色は見えなかった。疑いが確信に変わったような、意味深な笑みを浮かべた妻は、再び懐石料理に箸を伸ばした。
「やっぱり。」
「気づいてたのか?」
「そりゃ、三十年も一緒にいるんですもの。それにそのノート、一目見て京香のものだって気づきましたよ。」
妻はいたずらっぽく笑うと、感慨深そうに「あの子の好みは昔から変わっていない……。」と呟いた。
「明日は、フランス料理の店を予約してある。」
「それじゃぁ、おしゃれをしていかないとバチが当たってしまいますね。」
妻はくすくすと笑い、壁にかけてある私の一張羅のスーツに目をやった。
「たまにはお前も洒落た服でも着ろ。買ってやるから。」
普段言い慣れていない言葉はどうしてこうも照れくさいものなのだろうか。照れくさいからこそ、普段はなかなか言えないのかも知れない。妻の嬉しそうな顔に私はそれだけで満足だった。
翌日、私たちは昨日訪れた服屋に足を運んだ。ホテルを出て五分も歩けば、いまどきの店はいくらでもあったが、どうせなら娘の選んでくれた店で、服を買ってみようと思った。
昨日と同じ店員が私たちの顔を見て満面の笑みで近寄ってきた。
「いらっしゃいませ。またお越しくださったんですね! 今日は何をお探しですか?」
「妻に似合うドレスを用立ててもらいたい。」
「かしこまりました。奥に紳士物もございますが、ご主人様もいかがですか?」
すかさず店員は私にも服を勧めてきたので私はきっぱりと断った。私は洋服になんか興味はないし、こんな高級な店で服を二着も買えるほどの金は持ち合わせていなかった。妻は、そんな私を気遣うように振り向いたけれど、私は「行って来い。」とだけ言って、店の外でタバコをふかしていた。店員がそんな私を呼びに来たのは十分と少し経ってからだった。
試着室の前で恥ずかしそうに私の言葉を待っている妻は、体のラインが隠れる長い丈の桔梗色のドレスを着ていた。
「……こんな高価なもの今まで着たことないから、なんか緊張しちゃうわ。」
いつまでも無言の私に、妻ははにかんだような笑顔を見せた。
「とってもお似合いですよ。」
「そう?」
店員からの賛辞にまんざらでもない妻に、私は頷いた。
「そしたら、これをもらおうか。」
その言葉に店員は分かりやすく顔色を変えると、それを悟らせぬようにくっと顔に力を込める様子が見て取れた。再び試着室へと促す店員に妻は慌てた様子で言った。
「これから主人と食事に行くの。このまま着て行ってもいいかしら?」
「かしこまりました。では、一緒に肩に掛けるストールなどいかがでしょう。」
店員からの勧めに困ったように私の顔を見る妻に私は頷いた。
「日も暮れてきたし、その格好では風邪を引く。選んでもらえ。」
「……じゃぁ、お願いします。」
「かしこまりました。」
そう言って店員が用意した薄い色の肩掛けとドレス、そしてそれに合わせた靴を購入した。
東京の一流店で購入した妻のドレスと、田舎の古着屋で買った安物のスーツを着た私。妻は私の後ろを申し訳なさそうにとぼとぼと歩いていた。そんな妻に私はなんと声をかけていいか分からなかった。正直なところ見栄えなど気にしてはいなかった。今まで満足に妻への贈り物などしてこなかった私だったから、妻の戸惑いながらも嬉しそうな顔を見れただけで満足に思っていたが、妻はそうではなかった。やはり自分だけが高価な洋服を着ている事を心苦しく思っているに違いない。私はふと立ち止まり、妻を振り返った。
「私は気にしていないから、堂々と私の横を歩け。」
すると妻はキョトンとした表情で私を見ていた。次第に顔を赤く染める妻に私は訝しげに妻を睨んだ。
「どうした。」
「いえ。もちろんそれもあるんですが……、あの、慣れない靴で、足が痛くて……。」
私はとんだ赤っ恥に顔がカアっと熱くなった。私は妻の隣まで行くと、ぎこちない動きで妻の方へ腕を差し出した。妻も妻で恥ずかしげに私の腕につかまると私たちはゆっくりと旅行の最後の目的地であるフランス料理店「Anne-Marie」に向かった。
しかし、行けども行けども目的にのAnne-Marieにはたどり着く事は出来ない。妻は足が痛いのを我慢して黙々と歩き続けていたがついに限界が来たように、その重い口を開いた。
「あの…。もしかして私たち、迷ったんじゃありませんか?」
「……。」
「タクシーを拾いましょうか。」
そう言って私の腕を離れ、大通りに目を向ける妻だったが、こんな時に限ってタクシーは一台も通らない。妻はため息をつくと私を振り返った。
「ノートを見せてください。誰かに道を尋ねてきますから。」
「……大丈夫だ。迷ってなどいない。」
「でも、さっきから歩き通しですし、もう時間もとっくに過ぎてしまっていますよ。」
「大丈夫だと言っているだろう! お前は黙って俺に付いてくればいいんだ!」
その言葉に妻は驚いたように目を丸くしていた。
それは娘が死んだあの日から、二度と口にしまいと心に誓っていた言葉。しかし、口から出てしまった言葉はいくら後悔しても取り消す事は出来ない。
「……す、すまない。もう二度と言うまいと思っていたんだが……。」
その言葉に妻はにこりと微笑んだ。
「そんなの、もう慣れっこですよ。貴方が気にする事ではありません。」
その時、通りの向こうからタクシーがやってきて、私たちは慌ててそのタクシーへと乗り込んだ。あとで分かった事だが、あの時の私たちはまるっきり店とは反対方向に延々と歩いていたらしかった。
道が混んでいたせいもあり、店に到着したのは予約していた時刻を一時間も過ぎた頃だった。まるで外国の映画に出てきそうな異国情緒漂うその店は、こんな田舎者の私たちも快く受け入れてくれた。席に案内された私は、そのテーブルにだけ花を生けた花瓶が置いてある事に驚いた。それは毎年結婚記念日に妻が生けていた花だった。
席に着き、運ばれてくる料理を口に運びながら、私たちは自然と笑顔になった。娘を亡くし、今はまだ悲しいだけだったはずの思い出話も、不思議と色鮮やかな楽しい思い出となって目の前に広がっているようだった。
「そう言えば、覚えてますか? あの子が初めて摘んできてくれた花の事。」
「花……?」
慣れないフォークとナイフを持つ手を動かしながら妻は言うので、私はドキリとした。
「覚えていませんか、あの子が三つか四つの時、近くの土手に咲いてたカスミソウを摘んできてくれたんですよ?」
「そうだったか。」
私は努めて平静を装っていたけれど、妻のいつにない皮肉めいたその言葉に、内心では冷や汗が止まらない思いだった。
「それが、たまたま私たちの結婚記念日で。それから毎年、結婚記念日にはカスミソウを飾るようにしてるんです。」
そんな妻の懐かしいものを見ているような口調に私は視線を上げた。テーブルに飾られた小さな白い花。まるで雪を散らしたようなその花を、何とも愛おしそうに見つめる妻の瞳に、私は柄にでもなく見惚れてしまっていた。そして不覚にも私はこれがカスミソウという名の花だということ今の今まで知らなかった。
コース料理の最後の品が私たちのテーブルへと運ばれてきた。神妙な表情でその料理を味わいながら、ふと妻が言った。
「……でも、誰が用意してくれたのかしら? 他のテーブルには花なんて飾られてないのに。」
その妻の言葉に、私は周りを見渡した。確かに他のテーブルには花は飾られていない。それにたまたま私たちに思い入れがあるこの花を用意できるわけがない。誰が用意してくれたのだろうか。
「私ですよ。」
不意に聞こえた若い男の声に、私と妻は顔を見合わせた。私たちのもとに現れたのは三十代後半の痩せた男だった。突如現れた男は、物腰の柔らかそうな紳士的な笑みを浮かべると、私たちに深々と頭を下げた。
「お会いしたかったです。お義父さん、お義母さん。」
その言葉には、さすがの私も目を丸くした。妻に至っては持っていたフォークを皿の上に落とし、大きな音を立ててしまった。
「えっと……。貴方は?」
「京香の夫の近藤優と言います。」
「近藤、さん……?」
「夫……?」
私たちは再び顔を見合わせた。何が何だかわけが分からない。
「あいつ、結婚してたのか?」
「そう、みたいね……。」
いきなりの事で、逆に落ち着いたような態度を取ってしまう私たちに優くんは申し訳なさそうに続けた。
「もっと早くご挨拶がしたかったのですが京香さんがお義父さんたちには自分からちゃんと話すからと、なかなか聞き入れてもらえず……。事故のあった日も本当は、お義父さんたちを東京にお迎えするための話をしに行ったはずだったんですが……。」
私たちは耳を疑った。しかし、それを聞いて納得する部分も多かった。八年ぶりに返ってきた娘、別れ際の何か言いたげだった娘の顔が、まるで昨日の事であったかのように鮮明に思い出された。
「結局、何も言えなかったみたいですけど……。」
呆れたように笑う優くんは、とても悲しげで、とても幸せそうだった。それだけで、彼がどれだけ娘の事を愛してくれているのかということがが分かったような気がした。
「あ、それと。今日はこんなカッコですいません。本当はちゃんとスーツで来るつもりだったんですけど、家を出る前に娘がぐずっちゃって。」
私たちは驚いた。自分たちの娘に子供がいたなんて思いもよらなかった。そして、知らぬ間に私たちは爺さんと婆さんになっていたのだ。
「ほら、優香。おじいちゃんとおばあちゃんに挨拶して。」
そう言って優くんは自分の足元に隠れる小さな女の子の肩にそっと手を置いた。赤いワンピースのよく似合うその女の子は緊張しているようにおびえた目で私たちを見上げていたが、やがてにっこりとほほ笑んだ。そのほほ笑みは、私が今まで名前も知らなかったカスミソウのように無垢で幸福に満ち溢れた小さな宝物のように光り輝いていた。
かすみ草の花束