黒煙踊猫之始末(くろけむりおどるねこのしまつ)
1 彫刻家の娘
大学で専攻したことを仕事にしてる人間って、実際のところどれくらいいるのだろう。もちろん医大を出ればほとんどが医者になるし、防衛大学を出れば自衛官になるのが多数派だろうけど、哲学を学んで哲学者になる人間はそう多くないはずだ。
俺はといえば、美大で彫刻を学んで大学院まで進み、ちょっとした賞もとったものの、今は彫刻家ではない。理由を問われると答えに窮するけれど、安くない授業料を納めて何年も学んだ結果がこれとは、自慢できる話じゃないとよく判ってる。
今は先輩の紹介で入った編集プロダクションでアルバイトをしているけれど、要するに雑用係で、取材用のレンタカーを運転したり、ゲラを届けに行ったり、ゴミの分別をしたりしている。ここでは、俺が彫刻をやっていたというのは完全にネタ扱いで、よその人との飲み会なんかに同席すると必ず「こいつ、美大で彫刻やってたんですよ。巨匠、イサム・ノグチ、じゃなくってイサム・ヒイラギ」と紹介される。
その流れを壊すのも大人げないので、俺は「すっかり落ちこぼれちゃって」と受け、その後は「モデルさんって本当に全裸なんですか?」的な、美大あるあるで盛り上がったりする。そういう点では俺の学歴も無駄ではなかったわけだ。
他に俺の美大生としての経験が生きる機会といえば、写真ぐらいだろうか。授業を受けたこともあるので、ある程度ならそれっぽく撮れたりするのだ。だから今回も「柊くん、写真お願い」と頼まれたのだろう。
俺を指名した野中さんは元高校教師で、今もどこか教育者めいた雰囲気がある。彼女は試験範囲を告げるように「猫の写真なのよね」と言って、にこりと笑った。
「猫?」
正直なところ、動物の写真は少し勝手が違う。物や風景と違ってじっとしていないし、人間のように言葉も通じないし。俺の当惑を見てとったのか、野中さんは「猫だけってわけじゃないのよ。実際には静物と猫、とでも言うべきかしら」とつけ加えた。
「柊くんなら、この人知ってるんじゃないかな」
そう言って彼女が差し出したのは雑誌記事のコピーで、「醒ヶ井鬼怒子インタビュー」というタイトルがついている。
「いや、知らないですけど」
「でも彫刻やってたなら、父親は知ってるはず。彼女は醒ヶ井守の娘よ」
「へえ、そうなんだ」と言いながら、俺は彼について知っている事を思い出してみる。近代日本彫刻の先駆者としてフランスに学び、日本古来の木彫を中心とした流れとは一線を画する石彫作品を次々と発表した。重厚な作風で知られるが、晩年は繊細かつ簡潔な表現を追求し、自らこれを「西洋にて旅立ち、東洋へ還る」と語った、なんてとこだろうか。
「醒ヶ井守なんて、歴史上の人物みたいに思ってましたけどね。娘さんって何してる人なんですか?」
「随筆家、ってとこかな。ずっと独身でピアノを教えていたのが、父親の回顧展の図録に載せたエッセイを評価されて、還暦を過ぎてから「魅也美」って女性誌に連載を持つようになって」
「それ、うちの母親が読んでました。年に一度は京都特集がある、なんか豪華な奴ですよね」
「セレブ御用達って感じね。でも彼女は連載開始から一年も経たないうちに、文才のあるピアノ教師というイメージを脱ぎ捨て、毒舌の老婦人という本性を顕したの。しかもそっちの方が人気で、週刊誌に活動の場を移して「歯に衣、鬼怒子!」ってコラムで世間を斬りまくったんだけど、父親が亡くなったのと同じ七十八歳で断筆宣言して、あとは隠居暮らし。そしてこの秋に大往生なさったわ」
「全然知らなかった」と言いながら、俺は受け取ったコピーをめくった。そこには、派手なターバンを巻き、太いフレームのサングラスをかけた、強情そうな顎の老婆が写っている。
「怖っ!」
正直いって、関わり合いたくないタイプ。挨拶しただけでイチャモンつけて説教してきそうだ。女性にしては骨太な指に煙草をはさみ、分厚い唇には不敵な笑みを浮かべている。
「まあ、初めて見る人はたいがいそう言うわよね。でも彼女って、童女がそのまま大きくなったような人で、そこが魅力であり、世間を騒がせたところでもあり。だから全六巻の「醒ヶ井鬼怒子全集」でも、「歯に衣、鬼怒子!」を収録した二巻から四巻は増刷してるのよ」
「毒舌タレントって案外、人気あったりするからなあ」
「彼女の場合、書いてた事が後々現実になったという、預言者的なところもあるからね。それで、訃報が出た途端にまた少し本が動いたから、「月刊しずく」が彼女の特集号を出すことになったの。で、柊君の出番」
「俺?」
「だから、猫よ。鬼怒子が飼ってた猫の写真を撮るの」
「ああ、そういう事か。猫は誰かが引き取ったんですか?」
「いいえ。彼女の遺言にはね、小梅、ってのが猫の名前なんだけど、小梅が天寿を全うするまでは自宅の売却を禁ずるって書かれてるらしいわ。だからこの猫は鬼怒子の家、つまり醒ヶ井守の建てたお屋敷にまだ住んでるの。住み込みの管理人が猫を世話してるらしいわ。柊君には、この猫と鬼怒子ゆかりの部屋や家具を一緒に撮ってほしいの。ほら、これが」そう言って、野中さんは別のコピーを差し出す。
「彼女の書いたものの中から抜粋した、猫や住まいに関する文章よ。父の肘掛椅子、母の嫌った大きな壺、兄と隠れた衣装箪笥。遺品はかなり整理したらしいけど、家具の一部は残ってるそうだから、できるだけ撮ってほしいの」
「なるほど。撮影は野中さんも一緒ですよね、もちろん」
「悪いけど、一人で行ってくれる?急に決まった企画だから、他と並行しての超過密スケジュールなの。アポ取りだけはしておくから」
そして彼女はまた、にこりと笑った。
住所から検索した地図を頼りに向かった先は、今でこそ立派な住宅街だけれど、醒ヶ井守が家を建てた頃は、人の住まいより畑と雑木林が多かったらしい。平日の午後だというのに、すれ違うのは犬の散歩ぐらいで、閑静という言葉がこれほど似合う場所もないだろう。
約束の三時少し前に目的地に着いたけれど、野中さんから聞かされた「個人のお宅を訪問する時は少し遅れた方がいいわよ」というアドバイスに従い、時間つぶしのためにぐるりと一周してみた。この屋敷は西側に門とガレージがあり、南は道路に面した庭で、東と北は隣家に接している。高い塀と植木のせいで全体は見えないけれど、クリーム色の外壁にテラコッタの屋根瓦を配した二階建ての洋館だ。
野中さんの話によると、醒ヶ井守は関東大震災の惨禍を目の当たりにして、自宅を堅牢な西洋建築にすると決めたらしい。幸いこの辺りは空襲の被害にも遭わなかったので、彼の住まいは今もその姿をとどめているわけだ。あまりうろうろして不審者と思われるのも嫌なので、俺はほぼ約束の時間に門のインターホンを押した。
「どうぞ、開いてます」という女性の声が聞こえ、俺は片開きの門扉をあけて中へ入った。敷石に導かれて進むと、正面に一段高くなったポーチがあり、鋳鉄のノッカーがついた分厚い木の扉が控えている。
さて、このドアをそのまま開いていいのか、こぶしで軽くノックぐらいはすべきなのか、ノッカーでガツンといくべきか。一瞬迷って、とりあえず声でもかけるかと思ったところへ、金属の触れ合う音がしてドアが開いた。俺は思わず一歩下がり、それから「どうも、お邪魔します」と声をかけた。
そこにいたのは、背の高い女の子だった。少し波打った髪をショートカットにしているのが、細い首筋を引き立てている。切れ長の眼が印象的で、こちらの考えを全て見通すような鋭さがあった。
「アミカプロダクションから撮影に伺ったんですが、お家の方はおられますか?」
女の子は高校生らしく、ブレザーの制服姿だったので俺はそう尋ねた。しかし彼女は俺の目を見たまま「私がお家の方、ですけど」と言った。
「あっ、じゃあ、あなたが夜久野さん?」
「はい、夜久野美蘭です。用件はうかがってますから、どうぞお入りになって」
どうやら親は留守らしい。愛想笑いの欠片も浮かべず、美蘭と名乗った女の子はドアを大きく開けると俺を招き入れた。玄関はホールになっていて、洋館とはいえやはり日本人の住まいというわけで、靴を脱ぐスペースが設けてある。彼女は庭に面した四畳半ほどの応接室に俺を案内すると、「お茶とか、お飲みになりますか?」と尋ねた。
「ああどうぞお構いなく。すぐに撮影にかかりますから。とりあえずは猫、ですかね。その前に、紹介が遅れましたが、柊と申します」
バイトでも名刺があると何かと便利だし、という理由で、俺を含めた長期のアルバイト三名は名刺を持っていた。まあ、名刺なんてすぐに作れるもんだけど、肩書きに「アルバイト」と明記されているのは微妙なところだ。おまけに俺はいまだに、こいつをうまいタイミングで人と交換するのに慣れていない。何だかカードゲームをしてるような感じで、気後れするのだ。俺のカードは一番点数が低いから。
「柊、勇武さん」
白い指で名刺を受け取り、美蘭は声に出して俺の名を呼んだ。
「なんか、トゥーマッチって感じの名前でしょ?イサムなんて一文字で十分なのに駄目押ししちゃって」
これはたまに使う「話のきっかけ」って奴だけれど、彼女はそれには答えず、「猫、探してきます」とだけ言って、部屋を出ていった。まあ、女子高生なんてどうせ、自分以外の存在に興味なんか持ってないんだろう。
じっと猫を待っていても仕方ないので、俺はバッグからカメラを取り出し、準備を始めた。野中さんから指示された「撮影リスト」にも目を通し、まずはこの応接間に何かないかと探してみる。布張りのソファも寄せ木細工のテーブルも年季が入っているけれど、リストにはない。とはいえ、房の擦り切れたペルシャ絨毯、アールデコ調のフロアスタンドといった調度品は、高値で売れそうなものばかりだ。
そして俺はこの部屋で一番値打ちのありそうな、壁にかけられた抽象画に歩み寄った。サイズは十号ほどだけれど、粘菌を思わせる有機的なモチーフからすると、たぶん大泊弘の作品。それを証明するように、右下にHとOを組み合わせた署名が入っている。一枚売っただけで、何年か贅沢に遊んで暮らせる金が手に入る代物だ。
「それ、偽物なの」
背後からいきなり声をかけられて、俺は跳び上がりそうになった。振り向くと、美蘭が立っている。
「正しくはレプリカっていうのかしら。本物はどこかの金庫に預けてるんですって」
「は、そうか。だよね、美術品だもんね」
俺は自分の鑑定力のなさに狼狽しながら、絵から離れる。
「鬼怒子さんはご不満だったらしいけど、親族会議でそう決めたらしいわ。泥棒に地震に火事に猫、何が災いするか判らないから」
「なるほど。あ、それで、猫は…」
「ちょっと機嫌が悪いみたい。見てみます?」
ついて来い、と言わんばかりに彼女は姿を消し、俺は慌ててその後を追った。暗い廊下を急ぎ足で通り抜け、突き当りのドアを開けるとそこはキッチン。建物の古さにそぐわず、ミントグリーンのタイルを張った明るい場所だけれど、妙に片付いていて、あまり使われている様子がない。
「ほら、あそこ」と、美蘭は背の高い冷蔵庫の、更に上にある吊棚を指さした。そこには飴色になった籐のバスケットが置かれていて、白とオレンジの毛皮のようなものが覗いている。
「知らない人が来たりすると、あそこに避難するんです。私がここに引っ越してきた時は、三日間あそこにいました。もちろん、こっそり食事やトイレに降りては来るんですけど」
「人見知りするんだ」と苦笑いしながら、俺は内心、何で先にそう言っといてくれないんだよ、と舌打ちしていた。これじゃ何のために来たのか判らない。
「あの、好きな食べ物とかで、おびき出したりできないかな」
「あんまり食い意地がはってないんです。柊さん、すみませんけど、明後日の土曜にまた来てもらえませんか?」
「え?でも、土曜もああして隠れてたら…」
「大丈夫です、土曜なら弟がいますから。弟は馬鹿ですけど、猫の扱いにかけては天才なんです」
だったら最初から弟も同席させろっての。俺は本気でむっとしていたけれど、相手が高校生じゃ仕方ない。写真の締切にはまだ日があるわけだし。
「じゃあ、土曜の、この時間にまた伺います。でも、差支えのない範囲で、他の部屋も今のうちに見せてもらっていいですか?大体のあたりをつけておきたいんで」
俺の密かな苛立ちなんて気づかない様子で、美蘭は事務的に「どうぞ」と言って、一階にある食堂と居間に案内してくれた。食堂には一枚板の頑丈そうなテーブルがあり、これは撮影リストにある鬼怒子の「父が拵えさせたテエブル」らしい。他にも「羊の柱飾り」だとか、「モロッコのラムプシェード」といった、リストに書かれた品が幾つか見つかったので、とりあえず全て撮っておく。
しかし、これらの品がうまい具合に猫と撮影できるかどうか、今ひとつ心もとない。確実に猫とセットにできそうなのは「天蓋つき寝台」と「門を見下ろす仏蘭西窓」あたりだろう。
「二階も見せてもらえますか?」
そう尋ねると、美蘭は「もちろん」と、俺を案内して階段を上がった。
「ここが鬼怒子さんの寝室兼書斎。といっても最後の三年ほどは、下の居間で寝起きしてたらしいけですけど」
彼女がドアを開けると、そこは八畳ほどの空間で、仏蘭西窓だ。部屋に入り、窓から外を覗くと、さっき通った門が見える。ビンゴ、と思いながらシャッターを切り、それから無骨な作りの書き物机も撮っておく。部屋の奥には件の「天蓋つき寝台」があったけれど、ベッドカバーの上には通学鞄が転がっていて、俺はようやく、ここが現在は彼女の部屋だという事に思い至った。
「すみません、勝手に写真撮っちゃって」
そう謝りながらも、俺は画像を消去すべきかどうか迷っていた。美蘭は入り口の柱にもたれたまま、「ご遠慮なく。撮影にいらしたんですから」と答える。この落ち着きと、部屋の片付き具合から察するに、見られたくないものは全て避難完了しているんだろう。しかし俺はこの期に及んで、ベッドのある部屋に女子高生と二人きり、という状況に慌てていた。
内心の動揺を悟られないよう、「他の部屋もいいですか」と、俺はほとんど後ずさりで彼女の部屋から出た。美蘭は「そっちは元々子供部屋で、鬼怒子の時代はお客様用の寝室。今は弟が使ってます」と、隣の部屋を指さし、俺は「仕事だから当然」という風を装ってドアを開けた。彼女の弟、ということは十代だろうけど、そこには雑多なものが足の踏み場もない状態で散乱していて、まさに絵に描いたような男子部屋だった。
シャッターを押さずにドアを閉めた俺に、美蘭は「あと、一番奥は書生さんの部屋で、鬼怒子はここも客用寝室にしていました。屋根裏もありますけど、見ますか?」と声をかけてきた。
「いや、もうこれで十分です」
撮影リストに書生部屋とか屋根裏のことは書かれていなかったし、俺はもう引き上げようと思った。ちょっと下準備しておくつもりが、図々しい闖入者になってしまったようで、居心地が悪くなってきたのだ。
「じゃあ、土曜にまた伺います」
階段を駆けるようにして一階のホールに降りると、俺は美蘭にそう声をかけた。しかし彼女は「まだ大事なところを見てないわ」と言って、応接室と反対側のドアを開けた。
「醒ヶ井守のアトリエです」
そこは二階まで吹き抜けの広々とした空間で、正面、つまり北側は天井近くまで窓が設けてある。西側にある大きな二枚扉は、作品を搬出するためのものだろう。しかしその他には、彫刻家のアトリエだったという名残はほとんどなく、木の床にあちこちに残された傷だけが、かろうじて何かを伝えている。
「彫刻の道具だとかデッサンとか習作とか、そういうのは全部、醒ヶ井の出身地に建てた記念館に移したんですって。町興しって奴みたいね」
「それで、ここは鬼怒子さんのピアノ教室になっていたわけ?」
ドアからそう遠くない場所にはグランドピアノが一台、ひんやりとした空気の中に佇んでいた。美蘭は「そう」と頷いてピアノの傍へ行き、埃が積もっていないか確かめるように指を這わせる。
「鬼が怒るっていう字の鬼怒子はペンネームで、彼女の本名は絹糸の絹子。お嬢様っぽいでしょ?醒ヶ井守が年をとってから授かった末娘で、とても可愛がられたの。小さい頃から一流の先生について、ピアニストを目指してたんですけど、身体が弱くて留学できなかったんです。それでもうお嫁に行くしかない、なんて話になったのに、婚約者が戦死しちゃって。結局、独身のままピアノを教えていたの。最初は女子校の音楽科、父親が亡くなってからはこのアトリエで、六十過ぎてブレイクするまでね。」
「なるほど」
俺は野中さんに見せてもらった鬼怒子の写真を思い出していた。見るからに偏屈ババアって感じだったけど、最初からそうではなかったのだ。当たり前だけど。
「文章で人気が出たけれど、鬼怒子さんはずっと音楽を愛していたの」と、美蘭はピアノの傍を離れ、アトリエの奥へと移動した。そこには年代もののオーディオセットが置かれ、大きな木製スピーカーの前には二人掛けのソファがあった。壁際の棚にはレコードがびっしりと並んでいる。
「ここで小梅、あの猫と音楽を聴くのが、鬼怒子さんの楽しみだったんですって」
「そうなんだ。色々と詳しいけど、彼女とは親戚なんですか?」
「赤の他人です。鬼怒子さんの話はネットで検索した程度」
何だか、俺がろくすっぽ下調べもせずに写真を撮りに来たことを、皮肉ってるようなお言葉。図星なのでさりげなく話題をそらす事にして、俺は窓際に移動した。すりガラス越しに、生垣の緑がぼんやりと目に入る。
「それにしても、親御さんがここの管理人になってくれた事には感謝すべきだろうね。普通、こんな立派なお屋敷には大金を払っても住めないよ」
「ここの管理人は私です。親は住んでないわ」
「え?でも君、まだ高校生じゃないの?」
予想外の答えに思わず振り向くと、美蘭はさして面白くもない、といった顔つきでソファのひじかけに座っていた。
「高校生でも管理人はできます。もう十八ですから。うちの両親は植物学者で、南極圏に生える苔の研究をしているので、年の大半は調査旅行で海外にいます」
「はあ、そう、なんだ。だから弟さんと二人で住んでるの」
「正確に言えば、私だけがここに住んでます。弟は猫の世話係として、住ませてやってるだけ」
「なるほど」
俺は彼女の弟に少し同情していた。きっと年が離れているんだろうけど、きょうだい間の序列というのは人格形成に影を落とす。これは一回り年上で秀才の兄を持つ、俺の実体験からの見解。美蘭はそんな俺の反応に気づいたのかどうか、「あと、ご覧になっていないのはバスルームですけど」と、立ち上がった。
俺は慌てて「いや、もうこれで結構です」と、カメラをバッグに入れ、アトリエから出ると玄関に向かった。そして猫のように足音もなくついてきた美蘭に「じゃあ、土曜にまたうかがいますから」と告げて、慌ただしく屋敷を後にした。
時計を見ると一時間も滞在していなかったのに、何だかとても長い時間を過ごしたような気がして、さっき歩いてきたはずの住宅地が別世界のように感じられる。それがあの屋敷のせいなのか、美蘭のせいなのか判らないけれど、また土曜に確かめてみよう。
そこまで考えた時、俺は土曜の午後に別の仕事が入っていたことを思い出した。
ダブルブッキング。情けないことに、俺はこいつをよくやらかす。「性格よね」とは、最もその被害をうけている麻子のコメント。でもまあ、これまで何とか切り抜けてきたんだから、多分どうにかなる。きっと。
2 ハカイ、ハカイ、ハカイ
「もし土曜にまた逃げたら、あんたを坊主にして後頭部にタコの刺青彫るからね」
美蘭はそう言うと、僕に猫缶を投げつけた。かろうじて左手で受け止め、続けて飛んできた餌入れは間一髪で避ける。派手な音をたてて転がった餌入れを足で止めると、僕はしゃがんでそこに猫缶の中身をあけた。「猫貴族」マイルド白身魚シニア用。召し上がるのは二十歳を越えた三毛猫、小梅だ。
この猫は最近ようやく僕と美蘭のきょうだい喧嘩にも慣れたらしくて、猫ドアをくぐってキッチンに入ると、僕の足元に寄ってきた。まずは餌の匂いを嗅ぎ、「本当にこれしかないのか?」と言いたげな目つきでこちらを一瞥し、それからようやく口をつける。
小梅は飽きっぽい性質で、「猫貴族」シリーズ四種類を順番に食べ、それから「キャットセレブ」と「にゃんヘルシー」をそれぞれ五種類。このローテーションを何度か繰り返し、それでも飽きたら駅前の商店街にある鶏肉屋で、プレミアムハーブ地鶏のささ身を買ってきてやらないといけない。病気になったりしたら、別のメニューがある。
たかが猫なんだけど、そうまでする必要があるのは、彼女が僕らの住む洋館の亡き女主人の飼い猫だからだ。遺言書には、小梅が天寿を全うするまで屋敷の売却および改装は厳禁、手厚く世話するようにとあり、別に用意されたマニュアルの「小梅覚書」で、餌のやり方はもとより、ブラシのかけ方、爪の切り方、果ては週に三度の音楽鑑賞まで、事細かに指示されているのだ。
僕と双子の姉、美蘭は少し前からここに住んでいる。なんせ古いから、あちこちにヒビだの穴だのあって、そんなに住み心地は良くない。でも小梅の世話をすることで、亡き女主人の管財人からちょっとした手当が出る仕組み。ただ、その金は僕らの後見人に流れて、こっちの懐には入らない。おまけに半月ごとに獣医の安田先生が来ては健康状態をチェックするので、手抜きをするわけにもいかない。
獣医の相手なんて面倒なので、僕はそういう役目は全て美蘭に任せている。今日も誰かが猫の写真を撮影しに来るという話だったので、避難していた次第。
「撮影なんか一瞬で終わらせればよかったのに。どうしてまた来させるんだよ」
僕は土曜も逃げる考えでいたけれど、美蘭の脅しは必ず実行されるので、その点では慎重にならざるを得ない。
「やろうと思えばできたけどさ、来たのがこいつだったんだもの」
そう言って、美蘭はポケットから出した名刺をカウンターに放り投げた。僕はそれを手にとってみる。
「柊勇武?アミカプロダクション?何この人」
「だからさ、その名字」
「え?柊、って、もしかして」
今更かよ、という美蘭の表情に、僕もようやく気がついた。
僕と美蘭は夜久野という名字だけれど、これは母方の姓で、僕らの母親はシングルマザーだ。といっても彼女は双子の僕らを産んだだけで、あとは完全放棄。おかげで僕らはベビーシッターとか寄宿学校とか、そういうものの手を借りて育ってきた。
とはいえ、聖母でもない限り処女懐胎は無理な話で、僕らにも父親はいる。彼の名は柊貴志。大学生の時に、高校生だった僕らの母親とほんのしばらくつき合って、別れた。相手の顔も忘れた頃に、じき双子が産まれると知らされ、彼は親に泣きついた。これは僕らにとって幸運な話で、何故なら貴志は閣僚経験者の柊源治を父にもつ政治家ファミリーの一員。資産もあれば体面にも気を遣う、というわけで養育費負担、認知せず、第三者への口外無用、で商談成立したのだ。
「この人、僕らの親戚とかなの?」
「貴志の弟だよ。つまり私たちの叔父さん」
いきなりそんな事言われても、どう反応していいか判らない。僕は名刺をもう一度よく見てみた。
「アルバイト、だって。まだ学生なのかな」
「もう二十九だよ。貴志とひと回り離れてるんだから。出来の悪い弟がいるって噂はつかんでたけどね。美大で彫刻なんかやってさ、モノにならずにぷらぷらしてやんの」
美蘭は心底馬鹿にしたように肩をすくめた。
「それにさ、鬼怒子関係の写真撮りに来てるのに、彼女の事なんか自分で一つも調べてないし。あれじゃ何やっても無理だわ。でもさ、おかげで助かったとも言える」
彼女は冷蔵庫の前に行くと、腕を伸ばしてその上にある吊棚から籐の籠を下ろした。中には小梅とよく似た毛色の、モルモットのぬいぐるみが入っている。
「この仕掛けにあっさりハマった。二十歳過ぎた猫があんな高い場所に登るわけないのに。馬鹿だよね」
そう言って、美蘭はぬいぐるみを手の中で転がした。元はといえば小梅のおもちゃだけど、これを本物と見間違えるのはたしかに馬鹿かもしれない。
「その間、小梅は?」
「屋根裏にね、ちょっとだけ」
獣医にばれたらまずい話だけど、僕らは小梅をまあまあ大事にはしている。
「でもさ、この人が本当に叔父さんだとして、土曜にまた来させてどうするの?」
「とりあえず、お金だね」
美蘭は空になった籠を吊棚に戻しながらそう言った。
「誕生祝いとお年玉と、入学祝いにその他いろいろ。本当だったら叔父さんから貰ってるはずのお金がずいぶん保留になってるからさ、まとめて受け取らなきゃ」
「でも、僕らのことって秘密だろ?」
「第三者にはね。でも勇武さんは身内だから問題なし。私みたいな可愛い姪っ子がいるって判ったら、きっと喜んでくれる。あんたの事は知らないけど。少なくとも、似てるとは思うだろうね。二人ともすごく間抜けだから」
そこまで言うと、美蘭は身を乗り出し、「もうごちそうさま?お腹いっぱい?」と小梅に話しかけた。立派な猫なで声だけど、人間には滅多にこんな声をかけない。小梅は餌入れにほんの少し食事を残して「ビャア」と鳴き、口元を舐めまわした。それからキッチンの隅に行くと、自動の水飲み器で「富士山の恵み」をゆっくりと味わい、猫ドアから出ていった。
そして土曜の午後、僕は逃走せずに柊勇武の訪問を待った。別に美蘭の脅しが怖いわけじゃなく、叔父さんってのがどんな奴か、見たかっただけだ。実のところ、父親の貴志は祖父である源二の秘書をしているから、たまにニュースの映像に映り込んだりして、その姿は知っている。細面に眼鏡をかけた秀才タイプで、何だか少しも自分の親だとは思えないけど、勇武はどうなんだろう。
約束の三時を少し過ぎた頃に、勇武は門のインターホンを鳴らした。それまで二階の自室にこもっていた美蘭は足早に降りてくると、居間のソファで寝ていた僕に「小梅連れてこい」と声をかけ、玄関に向かった。
僕は窓辺に行き、陽だまりで丸くなっている小梅を抱き上げる。細くて骨ばってるけど、毛並みはそう悪くなくて、まだ元気そうな感触。とりあえず応接間に行けばいいんだろうか、と思いながら居間を出ると、ちょうど外から勇武が入ってきたところだった。
彼は「どうも、お邪魔します。弟さん?」と、笑顔を僕と小梅に向けた。兄の貴志に比べると、全体的に丸みのある感じで、体つきはこちらの方がしっかりしている。僕は「あ、はい、亜蘭です」と、間の抜けた返事しかできなかったけれど、それはもう一人の来客が原因だった。
勇武の後ろに隠れるようにして立っていたのは、小学校の高学年らしい男の子だった。色が白くて、眼ばっかり大きく、まるで人形みたいな感じで、細い首が余計にその印象を強めている。彼は周囲を拒否するみたいに、自分の足元に視線を落としていた。
「すみません。急にベビーシッター頼まれちゃって。大人しい子なんで、邪魔はしませんから」なんて、勇武は高校生の僕ら相手に、やたらと腰が低い。美蘭は「気になさらないで」とか言ってるけど、目が笑ってないというか、明らかに「何だよこのガキ」と思ってる。勇武は「ほら、ゴウくんもごあいさつして」と促し、男の子はうつむいたまま、かすれた声で「ひいらぎ、ごうたです」と自己紹介した。
「同じ名字、って事は、ご兄弟?」と美蘭が尋ねると、勇武は「甥っ子なんです。人見知りなもんで」と、男の子の愛想のなさを肩代わりするように、あははと笑う。僕と美蘭は思わず顔を見合わせていた。
普段ほとんどお互いの目も見ない戦闘状態なのに、予想外の事が起きると何故かこういう反応になってしまう。もしかして、この男の子は僕らの弟って奴だろうか。美蘭はすぐに僕から目を逸らすと、人間向けの猫なで声で「ごうたくん、名前はどんな字書くの?何年生?」と質問した。
「質実剛健の剛に太い、で剛太。五年生です」という返事があり、美蘭は僕にだけ聞こえるように「名前負け」と呟いた。そして僕から小梅を抱き取ると「剛太くん、猫は好きかな?」と続けた。
「好きじゃない。意地悪そうだし」
「だよねえ」
美蘭はそのまま小梅を僕に突っ返し、勇武に向かって「じゃあ、撮影始めましょうか」と事務的に切り出した。勇武は剛太の素直すぎる発言に気をもんでいたらしく、勢いよく「はいっ!」と叫んでカメラを手にする。
「どこでも好きな場所で撮ってください。後は弟が猫をセットしますから。座るのも寝るのも、ご要望次第」
「ポーズまで決められるの?本当に?」
勇武は半信半疑だけど、簡単な事だ。何故なら僕は一度でも触れたことのある猫なら、思い通りに操ることができるから。もちろん猫によって相性はあるけど、写真撮影なんか楽勝だ。
「じゃあ、一階から始めていいですか?居間の、古い方のソファで撮りたいんですけど」
「わかりました」と頷いて、美蘭は勇武を居間に案内した。小梅を抱いた僕もそれに続き、後から剛太がついて来る。美蘭はソファの上にあったクッションをどけて場所をつくり、僕はそこに小梅を下ろすと、少し離れる。それから一度深呼吸して、この三毛猫の中に潜った。
お腹はそう空いてなくて、気分はまあまあ。少し眠いけれど、人間の相手が嫌な程じゃない。目の前では勇武がカメラのモニターをのぞいていて、上から美蘭の声が降ってくる。
「ポーズ、こんな感じでいいですか?」
「ちょっと頭を上げて、カメラの方なんて、向きますかね」と、勇武は半信半疑だ。
「大丈夫です」という返事を合図に、僕は小梅の身体を少し起こして首を持ち上げ、視線をカメラに合わせる。勇武は「おお?」なんて言いながら、慌ててシャッターを切った。
「丸くなったりもできますか?」
「もちろん」
そして僕は小梅の背筋から力を抜き、ソファの上で身体を丸めると、前足に顎をのせた。目を閉じるとそのまま寝てしまいそうなので、ずっとカメラを見ておく。勇武は心底驚いた様子で「すごいなあ」と声をあげた。その後ろでは剛太が、死ぬほど退屈そうな顔つきで立っている。
居間から始まった一階での撮影は順調に進み、僕らは二階へと移動した。勇武は剛太に「行くぞ」と声をかけたけれど、彼は「ここで待ってる」と言って窓辺の椅子に座り、リュックから取り出したゲーム機で遊び始めた。
階段を上りながら、美蘭が「大人しい子なのね」と言うと、勇武は「まあちょっと、心配なぐらい」と苦笑した。
「俺が小さい頃は、少しもじっとしてられなかったんだけど、あの子は本当に物静かなんです」
「でも心配するほどじゃないわ。うちの弟なんて、小学校の頃は、意識がないのかと思うほどぼんやりしてましたから」
「それは言い過ぎじゃないかな」
勇武はフォローしたけど、実際のところ僕はひどくぼんやりした子供だった。学校の授業なんかいつ始まっていつ終わるのか、てんで見当がつかなくて、周りの動きと美蘭の命令に従って行動していたし、忘れ物は日常茶飯事。上履きとかハンカチとか、身の回り品は面白いように失くしたから、僕の傍にはブラックホールがあると言われた。
そして極めつけは何と言っても「神隠し」。学校や寮に迷い込んできた猫をかまっていると、知らないうちに同調してしまって、自分と猫の区別がつかなくなる。で、百葉箱の下とか、下駄箱の裏とか、誰も気づかないような場所で、猫を抱えたまま半日ほど座り込み、最後は美蘭に「回収」された。
まあ、僕が猫と同調しやすいのは偶然であって、この動物に特別な思い入れはない。今のように、多少は役立つこともある能力ってところだ。
勇武の希望を聞きながら、僕は小梅を窓枠とかベッドの上にのせ、言われた通りの姿勢をとらせ、シャッターを切るのに十分な間、静止させた。小梅は年寄りだから、動き回りたいという欲求が極端に少なくて、簡単なことこの上ない。撮影なんかあっという間に終わってしまった。
「いやあ、こんなにうまく進むとは、ちょっと予想してませんでした」
仕事が片付いて安心したのか、勇武は来たときよりずっと寛いだ様子でソファに座り、美蘭が出した紅茶を飲んでいる。彼が一人だったら、ここからが勝負というか、叔父さんと僕らによる感動のご対面と、小遣いおねだり活動に展開するはずだったけど、予想外の客、剛太がいるのでそうもいかない。
「アップルパイ焼いたの、召し上がる?」なんて上品ぶって、美蘭はトレイを運んできた。ずっしりと中味の詰まったアップルパイが載ってるけど、もちろん彼女がそんなもの作るはずなくて、宗市さんに焼いてもらったに決まってる。
「すごいな、手作りか。遠慮なくいただきます」と、勇武は何も疑わずに皿を受け取る。美蘭が「剛太くんもどうぞ」と声をかけると、彼はこちらに背を向けたまま「アップルパイ嫌い。ピザとか酢豚のパイナップルも嫌い。果物の焼いたの、大嫌い」と言った。
「だよねえ」と頷いて、美蘭はトレイをテーブルに置き、勇武の隣に腰を下ろした。
「確かに、果物は加熱すると酵素が破壊されるって言いますものね」なんて言ってるけど、内心は「このクソガキ」だろう。勇武は慌てた様子で、「剛くん、人が出してくれたものに、そんな失礼な言い方しちゃ駄目だろう」とたしなめ、「すいません、あの子ちょっと偏食があるもんで」なんて言い繕ってる。
「気になさらないで。自分の意見をはっきり主張できる日本人なんて、むしろ頼もしいわ」
「いやいや。でもこれ、本当に美味しいね。お店で売れるよ」
勇武はさかんに褒め言葉を連発してるけど、それはまんざら嘘じゃないだろう。僕は抱いていた小梅をクッションの上に下ろすと、美蘭から一番遠い場所に座り、アップルパイを一切れとった。少し温めてあって、まず発酵バターとシナモンの香りが鼻をくすぐり、それから肉厚な林檎の甘さが噛むごとに舌に広がってゆく。美蘭も「自分で焼いた」とか嘯いてたくせに、陶然とした顔つきで味わっているんだから、説得力がない。
「それにしても弟さん、本当にこの猫のこと、思い通りに扱えるんだね。正直いって半信半疑だったけど、びっくりしたよ」
あっという間にアップルパイを平らげてしまった勇武は、手を伸ばして小梅の背中を軽く撫でた。
「あの程度の撮影なら、簡単すぎるくらい」と、美蘭は得意げに微笑んで紅茶を飲んだ。
「てことは、もっと色々できるのかな」
「そうね」と言って、彼女は立ち上がり、小梅を抱き寄せるとまた腰を下ろした。
「猫踊りなんかも得意かしら」
「猫、踊り?って、どんなの?」
「それはこうして」と、美蘭は小梅を膝にのせたまま手拍子を始め、僕に一瞬だけ視線を投げる。やれ、って合図だけど、何をどうすればいいんだか。仕方ないので僕は小梅に同調すると前足を持ち上げ、美蘭の手拍子に合わせて猫踊りらしきものを舞ってみせる。途端に勇武は「マジで踊ってる」とのけぞった。本当に単純な男だ。
「これ、犬みたいに調教したんですか?」
「まあ少し違いますけど。他にもあるの、お見せしましょうか」なんて、美蘭は次のネタに入ろうとしたけれど、僕はそういつまでも言いなりになる気はない。日頃の鬱憤を晴らすチャンスでもあるので、美蘭の鼻の孔に狙いを定め、思い切って猫パンチをお見舞いした。
「ふお!」という悲鳴が聞こえて、見事命中。爪は出してないから流血沙汰にはならないけど、これで美蘭は怒り狂ってるはずだ。勇武は「大丈夫?」なんて言いながら「やっぱり猫は猫だなあ」と納得してる。僕は反撃を逃れるため、何食わぬ顔をして席を立ったけれど、振り向いたところで、椅子から伸び上がってこちらを見ている剛太と目があった。どうやら僕たちの騒ぎが気になったらしい。というか、美蘭は彼の気を引くために猫踊りをやっていたのだ。
剛太はすぐに僕から目をそらし、また俯いてゲームを始めた。一体何のゲームをやってるんだか。さりげなく後ろから近づいて覗き込むと、ひっきりなしに小さな声が聞こえる。
「ハカイ、ハカイ、ハカイ」
彼はそう繰り返していた。かすれた、怒りを含んだ声で、彼が「ハカイ」と唱えてボタンを押す度に、小さな画面の中では赤と黄色の禍々しい炎が明滅する。
なるほど、と僕は思う。子供ってのは傍から見られてるほど気楽な商売じゃない。むしろ思い通りにならない事の方が多く、しかも自分では状況を変える力もなくて、ひたすら耐え忍ぶしかなかったりするのだ。剛太が一体どんな生活をしてるかは知らないけど、このひねくれ具合からすると、まあ色々あるんだろう。
「そのゲーム、面白い?」
別に興味もないんだけど、僕は何故かそう尋ねていた。剛太は一瞬びくんと肩を震わせ、それから恐る恐る、といった感じで僕の方を振り返ると「つまんない」と言った。
「ふうん。つまんなくても、やるんだ」
「だってしょうがないもの」
それだけ言うと、彼はまたゲームを覗き込み、「ハカイ、ハカイ」と唱え始めた。
3 お値段いくら
俺の撮った猫写真はかなり好評で、野中さんは社長に直談判して金一封をはずんでくれた。所詮バイトの身だから、大した金額が貰えるわけじゃないが、俺はその金で麻子にケーキを買って帰ることにした。
ケーキといってもその辺のじゃなくて、最近話題の、ネットで予約しないと買えないほどの人気店。ひと月ほど前に、情報誌に載せる写真撮影に行ったコネを利用して、取り置きしてもらったのだ。四種類も。
ところが予想に反して、麻子はこの贈り物に大喜びしなかった。
「気持ちは有難いんだけど」と、彼女は紙箱のふたを持ち上げたままで言った。
「こういう風に、ぱーっとお金を使っちゃう癖、やめた方がいいと思うのよね」
「でもさ、これは臨時収入だし、ふだんの給料とは違うから」
「だからこそ、でしょ。なかったはずのお金なんだから、とっておくとかさ。ケーキ買うにしても、一人に一つでいいもの」
全く、せっかくの好意に水をさすような発言。俺から見ればそんなの、わざわざ楽しみを減らして生きてるようにしか思えないんだけど、口にはせず「そっか」なんて、言葉を濁しておく。
一つ年下の麻子は看護師をしている。当然俺よりも年収が高く、家賃と光熱費と食費の大半を負担してくれて、俺はかなりヒモに近い状態で、彼女のマンションに同居している。友達の紹介で知り合ったんだけど、一緒に住むようになったきっかけは、俺がアトリエ兼下宿にしていた部屋を引き払って、そのまま実家に戻るのも面白くない、という理由での一時避難。それがなし崩し的に伸び続けているのだ。
麻子はとにかく倹約家だ。どうも富山の実家からして倹約家族らしいけど、まず衝動買いというものをしない。外食は極力避けて水筒持参、スーパーで買い物をすれば、かごの半分は値引き品といった具合。服も滅多に買わないし、外出するときは電気のブレーカーを落とす。それでも「東京ってなんでこんなにお金かかるんだろう」が口癖で、どうも物価水準が子供時代の富山に固定されてるみたいだ。
そこまで金銭にシビアな彼女がどうして俺のヒモ生活を容認してるのか、ずっと謎だった。敢えて聞くのは怖いから、気づかないふりで過ごしてきたけど、俺たちの共通の友人である理沙に言わせると、そこが鍵だったらしい。
「勇武って、感謝はするけど遠慮はしないもんね。つまりさ、ありがとう、いただきまーす、なんて堂々と言われちゃうと、何だかそれでいいような気になるのよ。それに、麻子って三人姉妹の長女でしょ?どうしたって相手に合わせるし、勇武みたいなダメ人間には、自分が支えなきゃって思っちゃうのよね。でもね、ずっと借りを作ってて大丈夫よ。たぶん麻子はその方が優越感が持てて、気楽なはずだから。で、最後にその借りを結婚って形で一括返済すればいいわけ。勇武の持ってる切り札は、政治家一族の坊ちゃまって事だもの。血統書つきだもんね。そうすれば麻子も実家に顔向けできるし」
酒が入っていたせいもあってか、理沙は遠慮なく俺たちの事を分析し、ガハガハ笑った。まあ当たっていなくもないようで、別に腹も立たないけど、俺は本当に麻子と結婚するのか?という事については、うまく想像できない、というのが正直なところだ。
「まあ、買っちゃったものはしょうがないか。野中さんに感謝して、いただきましょ」
麻子は決意を固めたようにそう言うと、ケーキを箱から出し、コーヒーをマグカップに注いだ。値段は馬鹿みたいに高いけど、その割に小さいから、二つぐらい食べないと絶対に満足しないだろう。
「この甘酸っぱさ、絶妙のバランスね」
麻子はカシスのムースを口に運ぶなり、そう言って少しだけ笑顔になった。俺も自分のモンブランを食べてみたけど、ほんの二口か三口で腹に収まってしまって、まあ確かにおいしいんだけど、という中途半端な気分にさせられる。
「でもさ、わざわざ金一封を出してくれたんだから、勇武の写真はかなり評価されたって事でしょ?」
「ある程度はね」
「だったらさ、もっと写真やってみたらどうかな。写真の仕事が来たら、全部回してもらえば?」
またか、と俺は思う。良かれと思っての事だろうけど、麻子は俺がちょっとした仕事をしただけで、そっちの方で頑張ってみたら?と押してくる。知り合って間もない頃、俺はまだ彫刻をやっていたし、その時はやっぱり、もっといい作品できるよ、と励まされていた。しかし残念なことに、麻子のエールは俺にはそう気持ちよくないというか、何だか見当外れで、むしろ黙っていてくれた方が有難いのだった。
「それよりさ、ここのケーキ屋って、フェイスブックに写真アップして感想コメントすればポイント貯まるんだよ。二十ポイントで五百円値引きしてくれる」
俺は話題をそらそうとスマホを取り出したけれど、ラインが来ていたので先にそっちを確認した。送ってきたのは兄の妻、俺にとっては義姉の春菜さん。
「剛太が猫飼いたいんだって。ペットショップつきあってあげて」ときた。
「ちょっと、本気かよ」
つい唸ってしまったら、麻子が心配そうに「どうしたの?」と覗き込む。「剛太が猫飼いたいらしくて」と説明した途端、彼女は「またか」って顔になり、「それで、すぐに飼ってあげるわけね」と、あからさまな皮肉をこめて言った。
「まあねえ、少しでも元気になってほしいんだと思うよ」
身内を贔屓するわけでもないけど、結果として俺は春菜さんを援護していた。甥っ子の剛太は有名私立小の五年生だけど、もう半年以上学校に行ってない。きっかけはクラスでのいじめで、その原因を作ったのは彼の父親、つまり俺の兄である貴志だった。
貴志は国会議員である父親、源治の後を継いで政治家になるつもりで、三年前に大手商社を退職してからは、源治の秘書として人脈作りに励んでいる。しかし何故か余計な人脈も作っていて、妻以外の女性と路上でキスしているところを週刊誌に載せられてしまった。
一介の議員秘書の不倫なんてネタにもならない、と言いたいところだが、相手が「元ヤン、シンママ、美人都議」で、しかも対立政党だったので、記事は「柊元農水相長男、路チューで父に叛旗?」として注目を集めた。そして騒ぎは剛太のクラスに飛び火し、彼は「路チュー」と呼んでからかわれた。
更に不運だったのは、同じクラスに父親が貴志と元同僚という子がいて、「剛太のパパとママ、デキ婚なんだ。その時もきっと路チューだぞ」と暴露した事。まあ「デキ婚」なんてうまく繕えば「授かり婚」で、大した問題じゃないが、タイミングが悪かった。週刊誌の発売から三日後に剛太は学校を休み、それからずっと登校していない。
そして剛太は学校だけでなく、スイミング、ピアノ、英会話、書道、器械体操といった習い事も全部行かなくなって、家にずっと引きこもり。一時は山村留学の話も出たけれど、これには祖父母から待ったがかかり、紆余曲折の末、先月からようやく、知人に紹介されたフリースクールに通いだしたのだ。
「剛太くんのママって、何でも先回りし過ぎじゃない?こないだも、色鉛筆欲しいって言ったらドイツ製の百二十色の奴を揃えたんでしょ?それって、全然剛太くんのためになってると思わないわ。欲しいのをずっと我慢して、努力して、やっと手に入ったっていう喜びを取り上げてるのと一緒じゃない」
この手の話になると、麻子はとにかくヒートアップするから、俺はできるだけのらりくらりと答える。どうやら春菜さんは同性に嫌われるタイプのようで、姑である俺の母親も「ハズレ嫁」と呼んで憚らないし、親戚連中にも評判が悪い。これが初めてじゃない貴志の女性問題についても、「春菜さんも原因の一つね」なんて言われている。俺から見ると自分に素直で、変な小細工をしない人なんだけど。
「彼女としては、剛太に一生懸命になれるものを見つけてほしいんだと思うよ。それにさあ、本当に欲しいものなんて、結局は手に入らないし」
俺は少しぬるくなったコーヒーを一気に飲み干すと、床に寝転がった。いつも目に入る、天井のクロスの継ぎが微妙にずれてるところをぼんやり眺めていると、麻子が硬い声で「本当に欲しいものって、何?」ときいてきた。
「さあね。それすら判んない」なんて答えながら、俺はスマホを手にとり、春菜さんに「了解。ちょっと調べとく」と返事していた。
そうやって調べてみたものの、猫ってのは案外高くつくらしい。下手すりゃ軽の新車でも買えそうな値段の奴もいる。
疲れているらしく、早々に寝息をたて始めた麻子の隣で、俺はようやくスマホの電源を切って目を閉じた。俺の周囲で猫を飼ってる人間はみんな、拾ったり貰ったりで、買ってくるという発想がない。しかしそういう猫では多分、春菜さんは納得しないだろう。剛太の飼う猫なんだから。
俺が最近になってようやく理解した春菜さんの哲学は、子供だからって適当なものを与えず、息子には常に上質な本物を、って事らしい。だから服や靴はもちろん、文房具や自転車、弁当箱にバスタオルまで、品質とブランドにこだわっていて、下手なプレゼントは却って悪影響、という理由でバザーかゴミ箱送りなのだ。
俺はかなり世間にうといので、何かあるとすぐに麻子に相談するんだけど、春菜さん関係の話は彼女の神経を逆なでするらしくて、今回の猫問題もそれ以上話はできなかった。とはいえ、彼女も春菜さんに興味がないわけじゃなく、何かあると数日後、思い出したように「で、あの話って結局どうなったの?」ときいてくる。「色々迷ったみたいだけどさ、新潟の工場で作ってる鋏を注文したって」なんて答えると、呆れ顔で「私のなんか百均で買った奴よ」と片づけるんだけど。
まあとにかく、麻子を頼る事はできないが、猫の事は考えなきゃならない。本来は貴志の役目だけど、兄はそういう話をされても「こっちは忙しいんだ」と不機嫌になるだけらしいし。それで春菜さんが不機嫌になったら、可哀相なのは剛太だ。それにしてもあいつ、なんでいきなり猫なんてほしくなったんだろう。嫌いだとか言ってたくせに。
そこまで考えてようやく、俺は三毛猫の小梅と、世話をしている美蘭と亜蘭の双子に思い至った。彼らなら、何かいい案を出してくれるかもしれない。
翌日はバイトだったので、昼休みを待って俺は美蘭に電話してみた。といっても番号を知らなかったので、まずは醒ヶ井鬼怒子の管財人に電話し、そこから彼女に連絡してもらって、俺の携帯にかけてもらったんだけど。幸いなことに、十五分ほどで彼女はつかまった。
「そういうご用件ですか」
美蘭の声を聞きながら、俺は彼女の涼しげな目元を思い出していた。あの顔は誰かに似てると感じたんだけど、やっぱりユディトだ。
ユディト、というのは旧約聖書に出てくる美しい未亡人だ。敵の将軍になびいたと見せかけてその寝首をかき、一族を危機から救った。この話は男にとってインパクトがあるみたいで、古来多くの画家が題材にしている。俺が彼女のことを知っているのも、美術史のクラスで習ったからで、今まさに男の首を斬り落とさんと剣をふるっているものもあれば、侍女に生首を担がせて、買い物帰りのように楽しげに闊歩しているのもある。
美蘭は色白だけど、欧米人らしい顔立ちというわけじゃない。しかしその雰囲気はやはりユディトだ。ほっそりして嫋やかにすら見えるのに、平然と男の寝首をかきそうな、胆の据わった気配がある。
「剛太くんが猫を飼うのなら。子猫はやめた方がいいわ。だからペットショップもお勧めしません」
「どうして?子猫の頃から飼った方が慣れるんじゃないの?」
「あんまり関係ないわ。子猫って確かに可愛いけど、世話がけっこう大変。食事の間隔も短いし、トイレのしつけもあるし、何より体力がないから病気が心配。それに、小さいうちに親兄弟から離すと、社会性が身に着かなくて、平気で人を噛んだり引っ掻いたりする事もあるし。大人ならまだしも、剛太くんみたいな子供だったら、猫のこと怖くなったりするかもしれないわ」
「へえ、そういうものなんだ。やっぱり猫のことよく知ってるなあ」と、俺はつくづく感心していた。
「じゃあ君と弟さんなら、どういう猫を選ぶ?」
「少なくとも、一歳にはなってる猫。それ位なら、もう性格がはっきりしているから。もちろん雄なら去勢済み、雌なら避妊手術済み。丈夫で、気立てがいい子かな。血統書なんかいらないし、短毛の方がお手入れが楽だわ」
「なるほど。でもさ、そんなに大きな猫だったら、もう誰かの飼い猫だろ?まさか野良猫を拾ってくるわけにもいかないし」
「大丈夫よ。三日ほど待っていただけたら、何匹か準備できるから、剛太くんとお見合いすればいいわ。うちは小梅がいるので無理だから、そちらまで連れていきましょうか」
「そうなの?じゃあええと、剛太の家でお見合いできるように、話つけておくよ」
「判りました。あと、猫を飼われるのが初めてなら、必要なもの一式そろえておきますね」
ちょっと情報収集するつもりだったのに、美蘭はさっさと話をまとめてしまった。高校生でこのレベルなら、社会人になる頃にはとんでもない事になりそうだ。おれはかなり気圧されながら「あの、その猫ってのは、お値段いくらぐらい」と肝心な質問をしていた。
「避妊か去勢の手術とワクチン代は実費で、ケージや何かは上代の八割をいただきます。そして猫本体ですけど」と、美蘭は言葉を切った。
「立ち入った事をうかがいますが、ご予算いくらほどで考えておられました?ペットショップの相場ぐらい?」
「う、まあ、そうかな」
「つまり剛太君のご両親は、それくらい出すつもりなのね」
「まあ多分、よっぽどの事がない限りは」
「そして柊さんは、間に立っておられるだけ」
「そうです」
「判りました。正直に申し上げますが、猫本体は無料です。ただし、柊さんも私も、いわば無報酬で動いてるわけですし、少しはお礼していただきたいですよね。ですから、剛太くんのご両親には、猫の本体価格として三十万円申し受けます。これを柊さんと私で折半しましょう。ちゃんとした請求書も領収書も出しますから、ご心配なさらないで。じゃあ、いつお伺いすればいいか、ご連絡をお待ちしています」
よどみなく流れる美蘭の言葉は、俺の頭の中でいつまでも回り続けていた。
「柊くん、大丈夫?」
後ろから野中さんに肩をたたかれ、俺はようやく我に返ってスマホを耳から離した。
「あれでしょ、どっかの採用面接とかうけたんだ。背中に緊張感みなぎってたもの」
「いやいや、そんなじゃないけど、ちょっと慣れない用件で」
「そう?でもさ、正社員の口とか、ちゃんと探した方がいいと思うよ」
そう言いながら、野中さんは「どうぞ。金田くんの草津温泉土産」と、饅頭の入った箱を差し出した。
「他のバイトの子と違って、柊くんはじき三十だし、彼女さんも心配してるでしょ」
「そうっすかね」とごまかしながら、俺は有難く饅頭を頬張った。
「柊くんて天邪鬼なところがあるからさあ、頑張れって言った途端にやる気なくしたりするもんね。なんかあれ?頑張ってもできなかったら恥ずかしいとか、そんな事先読みしてるの?」
「まさかまさか、励ましはいつだって嬉しいです。ところで野中さん、いきなり十五万円手に入ったら、何に使います?」
「十五万?大金なようで、そうでないような」と、彼女は大げさに首をひねった。
「家族四人で旅行いったら十五万なんか一瞬だしなあ。それなら予算三万円の外食五回の方がいいかな。それとも、こっそりパールのピアスでも買うか…でも、あんたその十五万、どうしたの?」
「いや、俺じゃなくて、友達が競馬で勝ったらしくて」
「そういう時は次のレースに突っ込むんだよ!他人の儲け話なんか面白くもない」なんて言いながら、彼女は二つ目とおぼしき饅頭を食べ始めた。俺はといえば、やっぱりこの十五万円、貯めるなんて夢にも思わず、春菜さんに「猫、見つかりそうです」とラインで送っていた。
4 噂の猫踊り
「さすが貴志の奴、いいとこ住んでるじゃん」
いつになく美蘭は上機嫌で、口元に笑みを浮かべて助手席にふんぞり返っている。僕らが目指すのは二十三区内の高級マンション。そこが会ったこともない父親、柊貴志と妻の春菜、息子の剛太の住まいだった。日曜の午後の日差しが眩しいほどに降り注ぐ中を、僕が運転する黒いGT-Rは場違いな感じで走り抜けてゆく。
美蘭は時々後部座席に目をやって、三つ並んだキャリーケースの様子を確かめた。中にいる猫たちは皆じっとして、目的地に着くのを待っている。その隣で狭いのも気にかけずに座っているのは宗市さんだ。
彼は僕らの偏屈な後見人の下で働いていて、私生活も共にしているという物好きな人で、年齢はたぶん三十代。しかし彼自身は至ってまともというか、僕らと関わっているのが不思議に思える穏やかな人物だ。僕と美蘭はまだ高校生だから、お金にからんだ書類の話が出てくると、彼が大人要員として手を貸してくれる。
「あの剛太って、本当に猫なんかほしいのかな。嫌いって言ってたのにさ」
「ガキなんてみんな気まぐれだもの。今更いらないって言ったって、押しつけちゃうもんね」と、美蘭は足を組み換え、「もうすぐ着くよ」と猫たちに声をかけた。
柊勇武から再び連絡があったのは、彼が三毛猫小梅の写真を撮りに来た次の週だ。電話を受けた美蘭は、「あのガキやっぱり引っかかった。猫飼いたいってさ。あんたの猫踊りは凄いねえ。効果抜群だねえ」と、小梅を撫でまわした。実際に猫踊りをやらせたのは僕なんだけど、まあそういう事は全てカウントされないんだから仕方ない。
「ちょっと調べてみたんだけど、剛太の奴、不登校で引きこもってるらしいよ。原因がまた笑っちゃうんだけど、貴志の不倫スクープでいじめられたの。あの人本当に節操ないよね。嫁さんともデキ婚らしいし、当時も二股で、もう一人には慰謝料払ってケリつけたって。あと、商社勤めの間は派遣社員に手をつけてて、議員秘書になってからは選挙事務所のアルバイトとか、銀座のホステスにもいったらしい」
美蘭は可笑しくてたまらないといった様子で父親の女遍歴を披露したけれど、僕自身はそこまで女の子に熱心じゃないので、本当に親子なんだろうかと、あらためて不思議になってきた。
「とりあえず猫、三匹ほど用意しなきゃ。野良でもいいから探してきて」
「それじゃ避妊手術とか、間に合わないよ」
「保護団体がつかまえて手術してる奴がいるじゃん。でも、耳に印ついてるし、さすがに野良上がりってばれるか」と考えて、美蘭は小梅の主治医である安田先生に電話した。五分ほどあれこれ話し込んでいたけれど、「八王子にある猫シェルターにいいのがいるらしいから、適当に見繕ってきて」という命令が出た。
というわけで僕は一人、車を走らせて猫を物色しに行った。猫シェルターはかなり郊外の、雑木林に隠れるように建てられたプレハブ住宅で、下手な猫屋敷に比べるとずっとすっきりした施設だった。僕が来ることは安田先生から伝わっていたらしくて、来意を告げるとスタッフの女性がすぐに案内してくれた。
猫は一匹ずつ壁際に並べられたケージに入っていて、病気や怪我をしている猫と子猫だけが、人間の事務所の一角で別に世話を受けている。ざっと見渡して猫の数は二十数匹。その中からまだ若く、避妊または去勢手術済で、気立てのいい健康な猫という条件で候補を選ぶ。
まあ、撫でてみれば大体のところは判るから、僕にとってそう時間のかかる仕事じゃなかった。一回目のチェックで選んだのは六匹。そこからもう一回、今度は抱き上げて、ちょっと入念に調べてみる。まずは人間のことを恐れてないか、神経質じゃないか、それなりに賢いか、僕との相性はどうか。
美蘭が剛太に猫を飼わせようとアプローチしたのは、何も情操教育とか、そんな優雅な目的じゃない。要するに、猫を送り込んでおけば、僕はその猫を通じて家の中の様子を知る事ができるし、猫を操って剛太を動かし、両親に働きかける事もできる。そうやって、今は途絶えた僕らの養育費に代わるものが手に入らないかと探りを入れるわけだ。
六匹の猫から、僕は最終候補として三匹を選んだ。一匹は茶トラの雄で、とにかく呑気だ。次が三毛の雌で、少し小梅に似ているから剛太にアピールするかもしれない。そして最後はブラックスモークの雄。こいつは人間でいえば健康優良児って奴だろうか。僕と相性がよさそうなのはブラックスモークだけれど、柊家の様子をモニターするぐらいなら三匹とも合格だった。
指定された書類に必要事項を書き込んで、僕はこの三匹を借り受けた。期限は三日で、選ばれなかった猫は返す必要があるけど、何だか面倒くさい。どうにかして三匹とも押しつけられたらいいのに。
マンションの近くにあるコインパーキングに車を停め、僕たち三人は猫の入ったキャリーケースを運んで柊家に向かった。といっても美蘭は手ぶらで、僕が二つ、宗市さんが一つだ。猫の飼育に必要なケージや何かも持参してるけど、こっちは帰りにもう一度運ぶことにして、今は置いていく。そしてエントランスでインターホンを押し、ドアを開けてもらうとエレベータに乗り込んだ。
「セキュリティはどうってことないよね」
防犯カメラを見上げながら、美蘭は呟いた。今日はタートルネックの白いセーターにジーンズ、キャメルのピーコートという極めて穏やかな服装。僕もパーカーとジーンズにモッズコートという格好で、要するに相手に警戒感を与えず、ただの高校生ですとアピールしてるわけだ。宗市さんはといえば、普段はイタリア生地でオーダーメイドのスーツなんかさりげなく着てるくせに、ペットショップの店長というキャラ設定で、マウンテンパーカーにフリースを合わせ、ジーンズにスニーカーというコスプレ状態だ。
エレベータを降り、廊下の突き当たりにある八〇三号室のインターホンを押すと、「はあい」と高い声の返事があって、すぐにドアが開いた。顔を出したのは栗色に髪を染めた目の大きな女性で、これが剛太の母親の春菜、つまり僕らの父親の配偶者らしい。まず宗市さんがにこやかに「ご依頼いただきました猫ちゃんをお連れしました、氷水と申します」と挨拶し、お供である僕と美蘭も頭を下げた。
「こちらこそ、わざわざ来ていただいてすみません。どうぞ上がって下さい」と、中に案内され、廊下を抜けてリビングに入ると、そこには勇武と剛太がいた。
「あ、どうも。今回は本当にお世話になっちゃって」
勇武はソファから立ち上がり、慌てて僕らに近づいてきた。剛太もそれに引っ張られるようについてくる。
「剛太くんこんにちは、猫、好きになってくれたの?」
美蘭が例によって人間向けの猫なで声を出すと、剛太はふてくされたような顔で「まだそんなに好きじゃない」と言った。
「大丈夫よ。きっと大好きになるから」
そして美蘭は早速、宗市さんが提げていたキャリーケースから三毛猫を取り出した。
「ほら、これは女の子。うちにいた小梅に似てるでしょ?」そう言って差し出されたけど、少し怖いのか、剛太は黙ってじっと見ている。代わりに勇武が腕を伸ばして「なかなかの美人じゃない?」と抱き取った。春菜は「なんか普通っぽいわね」とあからさまに首をかしげている。
「あと二匹いるんですよ」と宗市さんが話をつないだので、僕は急いで茶トラとブラックスモークも外に出す。茶トラはフロアに降りるなり、ソファの足元に敷かれたラグの上に移動すると昼寝を始めた。どうやらそこから向こうが床暖房エリアらしい。ブラックスモークは多少の警戒心があるのか、周囲の匂いをかぎ回っている。
「これって黒猫?でも縞模様があるみたいね」
春菜はそう言いながら、自分に近づいてきたブラックスモークから距離をとった。彼女は猫が苦手みたいだ。美蘭はしゃがんで「こういう毛色はブラックスモークっていうんです。真っ黒じゃなくて、一本の毛に濃淡があるから、縞みたいに見えるんです」と、猫の腹を撫でてみせた。
「あんまり見かけない柄だよなあ」と言いながら、勇武は三毛を床に下ろし、こんどはブラックスモークを抱き上げようとしたけれど、両手で触れるなり「うわ、何じゃこりゃ」と声を上げた。
「どうしたの?」と剛太が尋ねると、彼は「これ本当に猫?なんか異様に固太りだけど」とブラックスモークを抱え上げた。
「ほら、足もなんか太くて短いし、顔も大きくて丸いし、これで尻尾がなかったら熊だよ。エビ餃子みたいにプリップリ」
確かにこいつはシェルターにいる猫の中でずば抜けて元気だった。要するに筋肉質で一番体力があるのだ。美蘭は「足がちょっと短いのは、マンチカンって種類のミックスだからかしら。でも可愛いでしょ?」とフォローしている。剛太もさすがに気になったのか、「僕も触りたい」と腕を伸ばしている。勇武は「見た目より重いぞ」と剛太に手渡したけれど、そこで美蘭が声をかけた。
「剛太くんさあ、小梅の猫踊り、憶えてる?この子も少しだけできるかもよ」
「本当?」
「試してみようか」と言いながら、美蘭は素早く僕に目配せして、手拍子を取り始めた。仕方ないから僕は剛太の腕の中にいるブラックスモークに波長を合わせ、ほんの少しだけ猫踊りを舞ってみせた。といっても単に、手拍子に合わせて前足を交互に振るだけのことなんだけど。
「うっわ!なんで?」と、先に食いついたのは勇武だった。
「これこれ、春菜さん、これが噂の猫踊り。なんで初めてなのにできるんだろう。こいつは見た目も変わってるし。ちょっと特殊な猫かもしれない」
「本当に?でも三十万円もするんだから、やっぱりそういう事なの?」
春菜は半信半疑の顔つきで、息子が抱いているブラックスモークを覗き込んでいる。どうやら彼女にとって、特殊とか特別ってのは大事なキーワードらしい。美蘭はここぞとばかりに「やっぱり判っちゃいますよね。実はこの子、他に欲しいっていう人が何人かおられて、借りるのが大変だったんです。でもやっぱり剛太くんに一度会ってもらいたくて」とたたみかける。きっかけを作ったのは自分なのに、勇武は「そうなんだあ」とやけに感心していた。後になって「騙された」なんて騒ぐ人間は大体このパターンで、自分で作った夢の世界に自分で入り込んでしまうのだ。
「ね、剛太、この子本当にいいんじゃない?ママも気に入ったな」とか言われて、剛太もブラックスモークを抱いたまま黙り込んでいる。何せついさっき猫踊りを見たばかりだし、ここはあと一歩だけど、美蘭は敢えて沈黙を守った。三毛はいつの間にかソファの上で寛いでいるし、茶トラはまだ昼寝中だ。
リビングは一瞬静まりかえって、部屋の隅に置かれた加湿器の蒸気だけが呼吸音みたいに響いていた。僕は駄目押しの猫踊りをやるべきかどうか迷ったけど、美蘭の指示がないので静観する。そして、ようやく剛太が口を開き、「僕、これ、にする」と言った。
「全員、秒殺だね」
三毛と茶トラをキャリーケースに戻しながら、美蘭はそう囁いた。すでにブラックスモークはさっきまで茶トラのいた場所で丸くなっていて、ずっと前から飼われていたかのように寛いでいる。春菜はキッチンでお茶の用意をしているらしく、宗市さんは剛太に子供向けの「猫の飼い方」なんて本を手渡している。その横で勇武が「剛くん、猫に名前つけてやんなきゃ」と、こっちの方が浮かれていた。
「こいつ本当にプリプリだからさ、俺だったらプリ夫にするな。猫だからレオナルド・ネコプリオだ」
自分で言って自分でうけてるけど、この名づけの趣味の悪さは美蘭に通じるものがある。やっぱり血は争えないってとこだろうか。剛太はそれを無視して「名前、シャークにする」と言った。
「シャークって、猫なのに鮫か。どうして?」
「だって鮫は強いもん」
どうやら剛太は自分で先に名前を考えていたらしい。宗市さんは「そうだね、強い名前つけてあげたら、きっと元気に育つよ」と笑顔で賛成していた。
そして宗市さんは春菜と剛太を相手に猫の飼い方を一通りレクチャーし、僕はその間に車に残してきた猫飼育セットを運び込んだ。ケージを組み立て、トイレに砂を入れ、爪とぎもセットして、三年分ぐらいまとめて働いた感じだ。作業がようやく終わる頃には、春菜の手から封筒入りの現金が手渡され、宗市さんは僕らの後見人が作ったペーパーカンパニー名義で領収書を切った。宛先は柊源治の個人事務所になっていて、要するに孫の飼い猫を経費で落とすって奴だ。
僕らが立ち去る段になって、勇武はまあまあの演技力で「じゃ、俺ももう帰るわ」とか言って後をついてきた。殊勝にも茶トラが入ったキャリーケースを引き受け、「本当に色々お世話になりました」なんて言ってるけど、彼が待ってたのは本日の報酬だ。パーキングまで戻ってくると、美蘭は宗市さんから封筒を受け取り、中から万札を十五枚抜いて「じゃあこれ、お約束したお金です」と差し出した。
「くれぐれもこの事はご内密にお願いします」と彼女が念を押すと、勇武は「もちろん!」とつんのめりそうな勢いで答え、受け取った金を数えもせず、メッセンジャーバッグに突っ込んだ。
僕はその後も残った猫をシェルターに返しに行ったりして、ありえないほど働いたので、家に戻るとそのままベッドに直行して眠った。自慢じゃないけど僕の特技は寝る事で、暇さえあればいくらでも眠れてしまう。しかしそれを邪魔するのは三毛猫小梅だ。彼女は猫ドアから僕の部屋に入ってくると枕元に座り、ビャアビャア鳴いて夕食を催促した。
美蘭もどこかに出かけてしまったらしくて、仕方ないから僕は起き上がってキッチンに行き、今日の餌である「キャットセレブ 比内地鶏のスープ煮」を出してやる。鬼怒子が使っていた踏み台に腰掛けて、小梅がゆっくりと食事するのを見ていると、動物の世話は本当に面倒だと思えてくる。剛太の奴、子供のくせにこんな事の何が面白いんだろう。
そう考えると、今はどんな様子だろうかと少し気になって、僕は目を閉じると剛太に引き取られた猫、シャークに意識を飛ばしてみた。奴も寝ていたらしくて、僕に起こされてようやく起き上がるとケージの外に出る。マンションの探検はすでに一通り済ませたらしくて、少し水を飲んでから大きく伸びをした。ちょうど目の前を春菜が通り過ぎ、「剛くん!」と声を上げながら足早に廊下を歩いて行く。
これはきっと剛太の部屋に行くに違いない。僕とシャークは春菜のスリッパの後を、音も立てずにつけてゆく。すぐにドアの開く音がして、春菜の甲高い声が降ってきた。
「もう、いつまで怒ってるの?パパの前で芸をしないからって、猫に八つ当たりしてもしょうがないでしょ。今日はせっかくパパが早く帰ってきたんだから、ちゃんと一緒にごはん食べて!」
春菜の足のかげから覗いてみると、剛太は勉強机に向かい、手元のゲーム機を一心に操っていた。どうやらまた破壊活動に精を出しているらしい。
「もうあんな猫嫌いだ。いらない」
「剛くん!ちゃんと世話するって約束したでしょ?どうしてそんな無責任なこと言うの?」
爆発一歩手前、という苛立ちを含んだ声は、猫の耳にはこの上なく不快だ。シャークは急いで立ち去ろうとしたけれど、僕はそれを制した。ここで返品されては今までの苦労が水の泡だ。僕はシャークを操って部屋に駆け込み、ジャンプして剛太の机に飛び乗った。そして彼の正面に回り込むと、猫パンチでゲーム機をはたき落とし、後ろ足で立ち上がると前足を軽く振ってみせた。
「あ…」と剛太の口から声が漏れた。彼は涙の痕が残っている大きな目を更に見開くと、僕とシャークを抱え上げてリビングへと突進した。
「パパ、パパ見て!こいつやっぱり猫踊りするんだ!」
会心のトライ、と言わんばかりに、剛太は僕とシャークをコーヒーテーブルに下ろした。その正面、ソファに座っていたのは父親の貴志で、彼はいぶかしげな顔で手元のタブレットから視線を上げた。
「いい?見ててね」と言うなり、剛太は美蘭を真似て手を叩き始めた。これを無視するとまた何か騒ぎが起きそうだし、事なかれ主義者の僕は仕方なく猫踊りをひとくさり舞ってみせる。実の父親との初対面がこんな形になるとは夢にも思わなかったけど、まあ人生なんてそんなものだろう。
「ね、すごいでしょ?」
興奮のあまり肩で息をしている剛太に比べ、貴志は落ち着きはらって「最近のペット屋は大変だな。こんな事までさせて猫を売ってるのか」と、皮肉っぽい笑いを浮かべた。
彼は四十代に入ったところだと思うけれど、年の割に若く見える。でもその若さはどちらかというと頼りなさ、みたいな方向に振れていて、政治家としては損かもしれない。とはいえ、メタルフレームの眼鏡をかけた一重の目元は鋭くて、見るからに頭脳明晰な秀才といった感じ。これで不倫相手と路上でキスしてたというんだから、人というのは判らない。
「なんだ、剛くん、よかったじゃない。パパにも見てもらえて」
さっきとはうって変わって穏やかな様子で、春菜がリビングに戻ってきた。不倫騒動にどう落とし前をつけたのか知らないけど、剛太は父親が好きみたいだし、春菜もうわべは仲がよさそうに見える。
「じゃあ、ごはんにするから、猫はもう片付けてちょうだい」と言いながら、春菜はさっきまで僕とシャークがのっていたテーブルに除菌スプレーを吹きつけ、ペーパタオルで丹念に拭った。剛太はシャークを抱き上げはしたものの、腕が疲れてきたらしくて、ぶら下げるようにして運ぶと、ケージの中に「片付け」た。その後ろから春菜の「ちゃんと薬用せっけんで手洗いするのよ」という声が追いかけてきた。
5 もう一度会いたくて
「そういえば剛太くんの猫の話、どうなったの?」
麻子はやはり例の話が気になっていたらしく、テレビに映った猫動画十連発で思い出した、という風を装って尋ねた。
「どうもこうも、速攻で決まっちゃってさ、もう飼い始めてる」
「もう、って、飼いたいとか言ってたの先週よね?」
「だから、速攻って言ってるじゃん」
「それにしても…」と、麻子は明らかに非難めいた声を出し、豆腐の味噌汁に口をつける。今日の夕食は俺が作ったんだけど、言いつけを守ってちゃんと出汁をとったので、これについて文句は出ないはずだ。
「いいペットショップを紹介してもらってさ、元気な猫がきたんだ。ほら見てよ」
俺はスマホを取り出すと、剛太がシャークと名付けた猫の画像を出した。
「何この猫。狸みたいに丸顔ね。ずいぶん大きいし」
「なんか、やっぱり子供にいきなり子猫は難しいって話でね。でもさ、トイレの躾もすんでるし、すごく懐っこいし、ちゃんと芸もするんだよ。猫踊り」
「本当に?」
麻子は全く信じてない口調でそう言うと、豚の生姜焼きに箸をのばした。
「でも、相手は生き物よ。そんな風に簡単に飼い始めるなんて、ちょっと信じられない」
「まあ、剛太の奴もちゃんと世話してるみたいだし。ペットショップのフォローもよくて、判んない事があると、すぐに来てくれるっていうし」
「ふーん、お金持ち御用達のペットショップはやっぱり違うのね。ともあれ、結果オーライって事?」
「そういう事かな」と頷き、俺はスマホをポケットにしまう。
俺にとっての結果オーライは、この猫の裏取引で手にした十五万円だった。臨時収入は貯金しろ、なんて麻子のアドバイスが守れるわけもなく、受け取ったその足でまずスニーカーを新調し、映画を二本見て、前から気になっていた腕時計を買い、焼肉屋で理沙と旦那の文吾に奢り、もう一軒飲みに行ってタクシーで優雅に帰宅した。これだけで十五万円なんてほとんど消えてしまったけれど、残りはちゃんと麻子のために使った。
「ねえ、今日の生姜焼き、なんかおいしいんだけど。ムラタヤの肉だよね」
「うん。いつも通りだよ」
なんてのは嘘で、今日の豚肉は同じムラタヤでも鹿児島芋焼酎黒豚というブランドもの。贅沢に罪悪感すら持ちかねない麻子だから、俺はこうして密かに労っているのだ。塩も沖縄産の焼き塩を補充したし、コーヒー豆もブラジルの契約農場から直輸入という奴を専門店で買って、キャニスターに入れておいた。
「やっぱ疲れてると肉がおいしく感じるのかな」と、麻子は首をかしげながら黒豚を噛みしめているから、俺の好意も無駄ではなかったわけだ。
それにしても、今回の話で一番儲けたのは俺ではなく、ペットショップだったらしい。あの氷水とかいう男、顔立ちは整ってるし、人当りもいいし、春菜さんはすごく気に入ったみたいだ。餌の量が判らないだとか何だとか、もう三回も呼びつけたらしいし、知り合いにも猫を飼うように勧めて、二件ご成約で一件見合い待ちというから恐れ入る。
ただ、そこから透けて見えるのは、猫のあれこれは氷水に会うための口実らしいという事。まさかとは思うけど、こんどは春菜さんが不倫なんて展開は本気でシャレにならない。まあ、彼女を責めるのも酷というか、夫である貴志の女性問題は例の「路チュー」が初めてじゃない。離婚はともあれ別居も回避できているのは、たぶん政治家ファミリーという表看板を守るのと、剛太のためだろう。
弟である俺にはよく判るけど、貴志は自分に非があっても素直に認めるような性分じゃなくて、いつの間にか本題をすり替えて最終的には勝ち誇った顔つきで終わらせる、という男だ。おかげで何を話しても、こっちにはいつも「あれでよかったんだっけ?」という疑問が残る。頭の回転は速いんだろうけど、俺が女だったら、ああいう奴とは絶対に結婚したくない。
「もう、この醤油さし、やっぱりイマイチ」
豆腐に醤油をかけていた麻子は、垂れてきた滴を落とすまいと不自然なポーズで固まっている。急いで俺がティッシュを差し出すと、「サキちゃんの内祝いでもらったけど、見た目ばっかりなのよね」と、文句をいいながら底をぬぐっている。
「ちゃんとした奴、買えば?」
「冬のボーナスもらったら考える」
麻子はティッシュを丸めてごみ箱へ投げると、豆腐を食べ始めた。醤油さしなんて、大した値段もしないものを買うのにボーナスを待ち、日々の不自由は黙って耐え忍ぶ。見習うべきかもしれないが、俺にあまり理解できない話だ。
「私、明日の夕飯いらないからね。送別会なの」
「了解、実は俺も明日の夕方は用があるからちょうどいい。でもさ、送別会って、例の人ようやく辞めるんだ」
例の人、というのは麻子の二年先輩で、「お金に困ってるわけじゃないから、いつだって辞められるんだけどね」が口癖の既婚者だ。しかし麻子は「残念ながら、別の人。まだ三か月しか働いてないのに、婚約者の転勤が急に決まったとかって、嘘くさいのよ。まあ、みんなで寿退職と見做さないって協定結んだから、お祝いは出さないけど」と不満顔だ。
「嘘も方便って奴じゃないの?」
「だからさ、嘘つくにしても、ついていいのと悪いのがあるでしょ?こういう場合は、家庭の事情、ぐらいで十分。下手な芝居なんかいらないのよ」
「なるほどね」と素直に頷きながら、俺はこの話題をさっさと流そうとしていた。婚約者だとか寿退職だとか、そんな危険ワードが入った場合にはとにかく、同意して終わらせるのが鉄則。しかし麻子はそんな俺の思惑をものともせず、「だいたい何よ、婚約者って。勿体つけちゃってさ、どこの上流階級だか」と、まだぶつくさ言っていた。
翌日、麻子がその、気乗りのしない送別会に向かう頃、俺はバイト先の近くにあるカフェを目指していた。約束の時間に三十分ほど遅れてしまったけれど、美蘭は四人掛けの席に一人ぽつんと掛けて俺を待っていてくれた。
「ごめんごめん。帰る間際にプリンターがおかしくなって、直せる人が他にいなくてさ」
「お気遣いなく。こちらこそ、お忙しいのにお誘いしてすみません」
相変わらず大人みたいな口のきき方だけど、学校帰りらしくて制服姿だ。彼女は手にしていた文庫本を閉じると、あらためて微笑みかけてきた。なんか勘違いしそうだけど、俺がここに来たのにはまっとうな理由がある、というか彼女の方から「うちの小梅におもちゃを色々貰ったんですけど、もうお婆さんだから少しも遊ばなくって。よかったら剛太くんの猫ちゃんに使っていただけないかしら」と連絡してきたのだ。
俺がコーヒーを頼むのを待って、彼女は「猫ちゃん、元気にしてます?」と尋ねた。
「ああ、おかげさまで元気過ぎるぐらい。ペットショップの氷水さんも、よく相談にのってくれるらしくて。何より剛太がね、暇さえあれば遊んでるらしいから、おもちゃはすごく喜ぶと思うよ」
「だったら嬉しいわ」と、彼女は隣の椅子に置いていた紙バッグを手にとると、中から色々取り出した。
「このボールは中に鈴が入っていて、追いかけて遊ぶもの。こっちは手に持って、釣り竿みたいにして、猫ちゃんをじゃらしてあげるの。運動不足には一番いいと思うわ。あと、これは投げると回りながら落ちてくるから、それをキャッチして遊ぶの」
俺は知らなかったけど、世の中には猫用のおもちゃという市場が存在するのだ。友達んちの猫なんか、丸めたコンビニの袋とティッシュの空き箱ではしゃいでたのに。
「でもこれさ、買えば高いんじゃない?」
「もらい物ですから、気になさらないで。それより私、剛太くんが猫を好きになってくれたのが嬉しくて」
「そうなんだよね。いい猫を紹介してもらってありがとう。でもあのシャーク、たまに猫踊りとかするらしいんだけど、本当のところ、どうなってるんだろう。剛太の奴、シャークは言葉が判るって信じてるみたいで」
「もちろん、猫は人間の言葉ぐらい判ります」
俺のコーヒーが運ばれてきたので、美蘭は猫おもちゃを紙バッグに片づけた。
「ただ、判らない方が何かと好都合だから、普段は知らんぷりしているだけ。シャークの場合、剛太くんのことを大好きだから、彼が猫踊りをしてほしい時にするんです」
「マジで?」
「マジで」と答え、美蘭はコーヒーを飲んだ。
「もっと知りたい事があれば、弟に聞けばいいわ。もうそろそろ来るはずですから」
「え?弟さん、亜蘭くんも来るんだ」
正直いって、美蘭のように綺麗な子とデートごっこは悪くないと思っていたところなので、俺の声には落胆が混じっていたかもしれない。美蘭は軽く眉を上げると「あの子も柊さんに会いたがってるの。私と同じように」と言った。
「君と同じように?どういうこと?」
「だから、こんなのただの口実」
そう言って、美蘭は指先で猫おもちゃの入った紙バッグを弾いた。
「私、もう一度柊さんに会いたくて仕方なかったの。初めて会った時からずっとよ。柊さんの顔だとか声だとか、いつも思い出してしまうし、そうしたら胸が苦しくて息もできない感じ。夜も眠れなくなっちゃって、友達にはこのごろ少し変じゃない、なんて言われるし」
「あ、そう、なんだ」
美蘭の言葉を聞くうち、俺の頭の中は真っ白になった。切れ長の涼しい瞳はまっすぐにこちらを見ていて、心なしか潤んでいるような気がする。ほんのわずか、苦し気に寄せられた眉と、懇願するような声の響きが俺の理性を崩しにかかる。
「美蘭」
気がつくと俺は腕を伸ばし、彼女の冷たい指先に手を重ねていた。一瞬、怯えた小動物みたいな震えが伝わってきたけれど、すぐに静まってゆく。
「こんな気持ち、亜蘭には内緒ね。あの子は柊さんのこと、頼れるお兄さんみたいに思ってるだけだから」
「わかった。でも、何ていうか、話が突然過ぎて。こっちはいい年だけど、君まだ高校生だよね。」
「でも、もう十八歳だもの。言ってる意味、わかるでしょう?」
「え?」と、考えるふりをしたものの、霞がかかった俺の頭の中には「十八歳=犯罪じゃない」という公式が輪郭をとり始めていた。今夜いきなりは無理として、次の機会。麻子の夜勤は次いつだ?しかし相手は高校生だし、むしろ昼間の方がいいだろうか。とするとバイトを休めそうな日は…
「柊さん」
美蘭は自分の指先に置かれた俺の手にもう片方の掌を重ねると、息がかかるほど顔を寄せてきた。
「十八歳になったから、もう養育費も出なくって、正直すごく困ってるの。柊さんの家って、お金持ちなのに冷たいわよね」
「何?何の話?」
いきなり美蘭の声が低くなったのに驚いて、俺は思わず腕を引こうとした。しかし向こうはとても女と思えない力で押さえつけてくる。
「ねえ、誰からも聞いてない?お兄さんの貴志さんが、学生時代に女子高生ひっかけて双子産ませちゃった話。今から十八年ばかり前なんだけど」
「いや、きい、て、ない。けど双子って、もしかして」
「そのもしかして、よ。つまり勇武さんは私と亜蘭のおじさまって事。偶然とはいえ、そちらから会いにきて下さって、すごく嬉しいわ」
「いやちょっと待って。どこにもそんな証拠ないし」
「証拠って、DNA鑑定したらすぐに判るもの。ねえおじさま、私たちすごくお金に困ってるの。養育費が切られてからは、あちこちバイトを掛け持ちしてるんだけど、もうギリギリ。少し助けていただけないかしら」
「つまりその、要するにお金がほしいって事?」
俺は渾身の力を振りしぼって、ようやく美蘭の手から逃れた。彼女は獲物を前にした猫のように目を光らせ、「お小遣いでいいのよ」と言った。
「いや、悪いけど、そんなことできないから」
「だったらこないだあげた十五万円返して。今すぐ、利息つけてね」
「そんな、急に言われても」
「本当に嫌よね。いい年して、たったの十五万も用意できないなんて。今すぐママに電話でおねだりすれば?本人だからオレオレ詐欺にもならないし。代わってくれたら、初孫の私から、おばあさまに直接おねだりしてもいいけど」
美蘭は低くて鋭い声で、途切れることなく話しかけてくる。このままじゃ完全に向こうのペースだ。俺は思い切って席を立つと、走るようにして出口に向かった。三十六計逃げるに如かず、コーヒー代も踏み倒しだが、仕方ない。しかし急ぐあまり、ちょうど入ってきた客に軽くぶつかってしまった。
「すいません」と声だけかけてすり抜けようとしたけれど、相手はいきなり俺の腕をつかんだ。
「おじさん、もう帰るの?」
そう言って覗き込んだのは、亜蘭だった。途端に背筋を寒いものが走り、俺は奴を振り払って駈け出そうとした。その時、背後から美蘭の声が飛んだ。
「亜蘭、影踏め!」
突然、俺は動けなくなってしまった。
いや、腕も、肩も、動きはするんだけれど、肝心の足が上がらない。何かで床に貼り付けられたように固まっているのだ。一体何が起こっているのかと、視線を足元に落としても、例の金で新調したスニーカーが見えるだけ。ただ、そのすぐ傍で、亜蘭の爪先が俺の影を踏んでいる。
「おじさま、恥ずかしいから人前で大騒ぎしないで下さる?」
気がつくと美蘭が俺の肘に腕を回していた。彼女はそのまま耳元に唇を寄せると「大事な話があるから、うちに行きましょ」と囁いた。
これはもう完全に「拉致」だ。カフェを出るなり車に乗せられ、俺は醒ヶ井邸に連行されてしまった。周囲に人目がなかったわけじゃないし、大声で助けを求めたら何とかなったのかもしれない。しかし、立派な大人が高校生の男女に攫われるというのは、やはり信憑性に欠く。そこに芽生えたわずかな羞恥心が俺の敗因だった。
ついこの前、和やかに猫の写真を撮っていた居間で、俺は冷たい汗を流しながら一人でソファに座っていた。この隙に窓から脱出すればよさそうなものだが、ほぼ不可能。美蘭の奴、「お茶入れてくるわね」と出ていったけれど、去り際に「面白いもの見せてあげる」と、掌を差し出した。そこには見たこともない大きなスズメバチがのっていて、彼女が軽く息を吹きかけると、低い羽音を唸らせて宙に浮かんだ。
「変な事考えたら、すぐこの子に伝わるからね。たかが蜂一匹と思うでしょうけど、刺されたら三日三晩は眠れないわよ。目なんかやられたら、後遺症ものよね」
そしてスズメバチは今も俺の目の前に鬱陶しく浮遊している。その距離わずか数センチ。途切れることのない羽音の低い唸りと、時々感じるかすかな風が、この生き物が幻覚じゃないことを物語っていた。
6 考えない人
誰か来たらしい。間延びしたチャイムの音が玄関から響く。俺は一瞬身構えて、この隙に飛び出せないかと考えを巡らせる。スズメバチは相変わらず周囲を飛び回っていて、指一本動かせないけれど、声を張り上げるぐらいならできそうだ。
「助けてくれ!」
そう叫ぼうとして、最初の「た」も言いだせないうちに、スズメバチは俺の開いた口めがけて飛ぶ。慌てて唇を引き結び、うつむいてやり過ごすけれど、奴の周回軌道はさっきより狭まった気がする。またじわりと冷や汗がにじみ、部屋の空気が薄くなったように感じて、俺は肩で息をした。
「お待たせして悪いわね」
静かにドアが開いて、美蘭が戻ってきた。腕には三毛猫の小梅を抱いている。その後ろには亜蘭がいたけれど、彼は何故か寿司桶を捧げ持っていた。
「お腹すいたから、出前とっちゃった。鬼怒子さんがご贔屓にしてたお寿司屋さんがあってね、いつもすごいスピードで持ってきてくれるの」
美蘭はそう言って小梅をソファに下すと、俺の方へ腕を差し伸べた。スズメバチはすぐさまその指先にとまり、彼女はそのまま窓辺へ歩み寄ると、窓を少しだけ開けて、凶暴な従者を夜の中へと放った。
「鬼怒子さんの定番、特上の握りよ」
窓辺から戻ってきた美蘭は、亜蘭が運んできた寿司桶の一つを俺の前に置いた。こんなもの悠長に食ってられるか、と思ったのもつかの間、ウニにイクラ、大トロまでが艶々と光っているのを見ると、忘れていた食欲がこみ上げてきた。亜蘭は無言で食べ始めていたけれど、美蘭に「お茶入れたの、とってきな」と命令され、しぶしぶ立ち上がった。
「あと、これがいつもついてくる、小梅スペシャル」と言って、美蘭は小皿を手にとった。そこにはマグロの赤身にタイ、ヒラメ、ハマチといった刺身が花びらのように盛り付けてある。老猫小梅は当然といった顔つきで、自分の前に置かれたその小皿に口をつけ、ゆっくりと食べはじめた。
「おじさまもご遠慮なく」と、美蘭はまず大トロから頬張っている。ここで意地をはっても意味がなさそうだし、俺もヒラメに手をつけた。こんな状況でなければもう少し違った味がするんだろうけど、今の俺にはただそれが寿司だということしか感じられない。
亜蘭もいつの間にか戻ってきていて、俺たち三人と三毛猫は黙々と食事を続けた。やがて美蘭が思わせぶりな溜息をついて「やっぱり人におごってもらうのって最高ね」と言い、亜蘭も「確かに」と頷いた。にわかに嫌な予感が走り、美蘭がそれを裏付けるように「おじさまにつけとくから。十五万円と一緒に返して」と笑みを浮かべた。
「いや、俺は自分の分しか払わないから」とはねつけると、美蘭は打って変わって冷たい顔つきで「金持ちのお坊ちゃんのくせに、本当にケチくさい」と吐き捨てるように言った。そこまで馬鹿にされると俺もなんだか開き直った気になって、「図々しいのはどっちだよ」と反撃した。
「偉そうなこと言うじゃない。だったら十五万円と利息、それからさっきのカフェ代と寿司屋の出前、今すぐ払ってみせなさいよ。無理なんでしょ?図々しいのはそっちじゃないの。ほとんどヒモ状態で彼女んちに居候してるのも判ってるんだから。看護師さんって、ダメ男が好きな人多いのよね。職業病って奴かしら」
とっさに何も言い返せず、俺は不敵な笑みを浮かべた美蘭をにらみ返すしかなかった。一体どうやって俺の身辺を探ったんだろう。
「どうせ今のバイトも大した稼ぎじゃないんでしょ?だからさ、ちょっとしたお仕事を紹介してあげる。優しい姪っ子だと思わない?」
美蘭は立ち上がると、サイドボードからノートのようなものを取ってきて、俺の目の前に置いた。ずいぶん古びているけれど、スクラップブックらしい。
「おじさまって、彫刻の勉強してたのよね。大学院までいって、賞もとったことあるんでしょ?そのキャリアを十分に生かせる仕事よ」
言いながら、彼女はスクラップブックのページを繰った。貼ってあるのはどれも彫刻家、醒ヶ井守に関する記事で、作ったのは娘の鬼怒子らしい。
「ほら、これなんだけど」と美蘭は黄色く変色した新聞記事らしいものを指した。見出しには「幻の醒ヶ井作品どこに」とあり、粒子が荒いモノクロの写真もついている。
「数ある醒ヶ井守の作品の中で、これだけが所在不明なのよね。制作したのは戦時中で、いったんは美術展に出したんだけど、戦意高揚に全く寄与していないとかって出品拒否されて、それっきり所在不明」
美蘭の説明を聞きながら、俺は写真に目をこらした。白っぽい石彫の抽象作品だけれど、当時これを評価した人間は少なかったに違いない。
「これを探せとでもいうのかよ」
「まさか。そんな面倒くさいことするわけないし」
「じゃあ何だ」
「だからさ、腕に覚えありのおじさまに作っていただきたいの」
「は?レプリカ?」
「じゃなくて、これそのもの。実は戦後のどさくさで売り払われて、ほぼ七十年の間、温泉旅館の蔵に眠っていたのです!なんて具合に発見するのよ」
「それはつまり、贋作ってことか」
「贋作だなんて聞こえの悪い。行方不明だった醒ヶ井作品を作るの。今出てきたらいくらで売れるか、考えてみて。買い手は絶対つくもの。おじさまには製作費を払うわ。つまり、売れるのを待たずに、すぐお金がもらえるわけ」
美蘭は今にも電卓を叩き始めそうな勢いだ。
「何もこのショボい写真だけで作れってわけじゃないわよ。創作ノートやスケッチは残ってるし、美術展の記録から、ほぼ正確な大きさも判ってる。必要なら何度でも、醒ヶ井守記念館に行って、他の作品を好きなだけ見ればいいわ。そのためのお金はこっちで持つから」
よせばいいのに、俺はいつの間にか、すすけた写真の中に浮かんだ白い彫刻を作る段取りを考えていた。素材は大理石だろうか、人が膝を抱えてうずくまったような形で、今で言うなら、座ってスマホを覗き込んでいる人間のようにも見える。背筋にあたるラインは深く湾曲し、屈強な青年を思わせる太い腕や、広い肩甲骨のような隆起もある。しかし、肝心の首から上は存在しない。つまりこの「人物」には頭がないのだ。さしずめ「考えない人」とでも呼ぶべきだろうか。
「おじさまやっぱり芸術家よね。目を見てれば判るわ、その気になってるのが。心配する事は何もないわよ。おじさまの名前なんか絶対に出さないし、完成したからってすぐに売るわけでもない。こっちは時間をかけてやるつもりよ」
美蘭はさっきカフェで座っていた時のように、妖しく囁きながら俺を絡めとりにくる。気がつくと、三毛猫小梅も俺の隣に座り、じっとこちらを見ている。まるで両方から同時に口説かれているような具合だけれど、俺はふと我に返った。
こいつら一体何者だ。
兄貴の隠し子だとかいうけど、それはとりあえず保留。問題は、踊ってみせる猫だとか、人を監視するスズメバチだとか、影を踏んで動きを封じるとか、そういったトリックだ。ついでに、俺の身辺調査もそこに含めるべきかもしれない。
「おじさま、十万か二十万ぐらいしかもらえないと思ってる?私だってファインアートについてはちゃんと理解してるから、おじさまの才能と情熱にふさわしい金額は出すつもりよ」
美蘭はそこで言葉を切った。悔しいことに、俺はその続きを待っていたけれど、彼女が何か言おうとしたその時、誰かがドアをノックした。まさかこの双子以外に人がいるとは予想もしなかったので飛び上がりそうになったが、ドアを開けたのは美蘭たちと同じ年頃の青年だった。
「あ、こんばんは」
彼は俺と目が合うなり、にこやかにあいさつしたので、俺もつられて頭を下げた。美蘭は彼の方へ振り向くと「キッチンにお寿司あるわよ」と言い、こちらへ向き直って「全部で四人と一匹分払ってね」と微笑んだ。
「冗談じゃない。なんで君の彼氏にまでおごる必要があるんだ」
俺が言い返すと、美蘭は一瞬、面食らったような表情を浮かべた。しかしそれはすぐに優雅な笑みに塗り替えられる。
「残念ながら私はおじさまの彼女みたいに、ダメ男を餌付けする趣味はないの。あの子は幼馴染って奴。かわいそうに超貧乏学生なの」
高校生ふぜいにとことん馬鹿にされ、俺のプライドはズタボロだった。一刻も早くこの場を立ち去り、酒でも飲みたい。その思いからつい、「ちょっと、考えさせてもらえないか」という言葉を吐いてしまった。要するに、とりあえず退場するための逃げ口上だ。美蘭もそれは百も承知だろうけれど、「いいわよ」と頷いてみせた。
「返事はできるだけ早くちょうだいね。こっちにも予定ってもんがあるから」
「判った」とだけ言って、俺はようやく立ち上がり、できるだけ落ち着いた素振りで玄関に向かった。美蘭は「送りましょうか?交通費足りないんじゃない?」と言いながらついてきたけれど、俺はそれには答えず、後ろ手にドアを閉めた。
翌日の昼下がり、俺は鎌倉のとあるマンションにいた。バイト先には体調不良、なんて嘘をついたが、そうしてでも会う必要のある人物がいるのだ。政治家一族である我が家の大番頭ともいうべき存在、辻さん。
「勇武君が訪ねてくれるとは、本当にびっくりだよ。女房もいれば喜んだだろうけど、今ちょっと膝を悪くして病院に入っていてね」
そう言って彼は、自分で淹れたコーヒーを出してくれた。八十ちかい男性の独り暮らしにしては、家の中はすっきりと片付いていて、引退した今も万事こまめに働く性分は変わっていないらしい。俺は形ばかりの手土産を渡すと、ソファに深く座り、壁にかけられた集合写真を見上げた。
辻さんは群馬の農家の四男坊で、集団就職で上京して間もないころに参院議員だった俺の大伯父、柊欣造の事務所で雇われ、それからずっと、うちの父親に代替わりしても働き続けた功労者だ。壁の写真は大伯父が叙勲を受けた祝賀会のもので、彼の仕事人生における一つの到達点なのだろう。
「前に来たのは確か三年前だね。欣造先生の十三回忌の帰りに送ってもらった。あの時は春の嵐で大変だったねえ」
現役時代に手帳いらずと言われた記憶力は健在で、五十才ちかく若い俺よりずっとましだ。彼は「娘が持ってきてくれたんで、よかったら」と、焼き菓子の入った菓子鉢を出してくれた。
「どう、最近は。彫刻の方はまだ休んでるの」
「まあ、そんなとこかな」
「なるほど。しかし人の一生は、そうのんびりしていられるほど長くもないぞ。気がつけば私のような老いぼれになってしまう」
「辻さんは老いぼれなんかじゃないよ」
「そんな事言ってくれるのは勇武君だけだよ。で、今日はまたどういう風の吹き回しで?」
「ちょっと、確かめたい事があって。兄貴の事なんだけど」
「貴志君?例の週刊誌の話か?」
「いや、それは関係ないっていうか、もっと昔の話。あのさ、兄貴に隠し子がいるって、本当かな。学生時代につきあってた女の子との間に、双子がいるって」
俺がそう言ったとたん、にこやかだった辻さんの表情が、凍りついたように固まってしまった。
「その話、どうやって知った?」
「それはちょっと言えない。でも嘘だとも思えなくて。やっぱり本当なのかな」
返事の代わりに大きな溜息をつき、辻さんは右の耳たぶを何度も引っ張った。これは彼が思案するときの癖で、昔はよく「また耳が伸びちゃうよ」とからかわれていた。
「まあ、世の中というのはいつ何が起こるか判らない。勇武君も立派な大人だし、柊家の大切な一員だ。欣造先生や源治さんが築いてきたものを守るためにも、知っておいた方がいいかもしれない」
俺は黙って頷き、彼の話の続きを待った。
「もう二十年近く前になるな。貴志君が東日商事への就職も決まって、大学卒業を目前に控えた三月の事だよ。いきなり事務所に夜久野と名乗る人間から電話があって、お宅の息子さんがうちの身内を孕ませた、なんて言ってきたんだ。性質の悪い脅しかと思ったけれど、貴志君に話を聞くと、身に覚えがあるというわけだ。ちょうど選挙を控えていた頃で、とにかく表沙汰にするなという命令をうけて、私はその人物に会った 。
彼は何というか、あやしい、としか言いようのない相手だった。彼、と呼んではおくけれど、実際には男とも女ともつかない姿形と服装で、年の頃はまあ四十代だったと思う。夜がそのまま服を着て歩いているような、暗いというか、冷ややかな雰囲気の人物でね、しかも頭が切れそうだ。貴志君がつきあっていた女の子の親戚らしくて、彼女の親の代わりに自分が話をつけるという話だった。
正直いって途方に暮れたよ。貴志君がかなりの軟派で、大学のサークルやなんかで賑やかに遊んでるのは知っていたけれど、そこだけはうまくやっていると思ってたんだ。でもまあ、柊家の危機は何があっても回避するのが私の仕事だからね。欣造先生には内緒だし、源治さんは選挙前でそれどころじゃないし、若奥様はショックで寝込んでるという具合ではなおさらだ。
夜久野は色々と言ってきたけれど、話は結局のところ金の無心だった。お腹の子供は双子だと判ってるから、養育費も二人分出せ。母親は未成年なので慰謝料を払え。東京では育てられないから引っ越しの費用を出せ。帝王切開になるから病院代を払え。次から次へと要求を出してきたけれど、そのほとんどをきいてやったよ。
どうしてそんなに弱腰だったのか、不思議に思うかもしれないけれど、この夜久野って奴は普通じゃないんだ。政治の世界に身を置いていれば、ヤクザだとかそういう相手と関わりを持つこともあるし、私はそれにはある程度慣れている。しかし彼はもっと別の世界の人間だった。この世に実際に裏側というものがあるとすれば、まさにそこから現れたような、違う空気を漂わせていた。正直私は彼のことを恐れたし、貴志君の子供たちには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だってそうだろう?本当ならその双子は、柊家の一員として皆から祝福されて生まれてくるはずなのに、敢えて手放すという選択しかできないんだから。しかもきっと、この夜久野という奴と同じ、裏側の世界で育ってゆくんだ」
そこまで話すと、辻さんは一息ついてコーヒーを飲み干し、「もう一杯どうかな」と言って席を立った。俺はぼんやりと座ったまま、彼の話を何度も再生していた。
もしかすると辻さんも、その夜久野という人物に関わったおかげで、俺が見たスズメバチや猫のように奇妙なものに遭遇したのかもしれない。でなければ、温厚ではあっても臆病ではない彼がそこまで恐れをなす理由が判らない。
窓の外に目を向けると、辻さんが丹精こめて手入れをしているベランダの盆栽が見えた。彼はずいぶん昔にこのマンションを買っていたけれど、仕事のためにふだんは都内で独り暮らしをしていて、奥さんと一人娘だけがここに住んでいた。ようやく彼もこっちに移ったのは、ほんの十年ほど前で、その時にはもう一人娘は嫁いでいた。
どうしてそんな風に、自分の家族と離れてでもうちの一族に仕えてくれたのか、ありがたい話なんだけど、俺には未だに理解できない。男が男に惚れるって奴かもしれないけど、辻さんにとって俺の大伯父、「欣造先生」というのはほとんど神格化されていて、それ故に俺みたいな落ちこぼれでも「身内」というキーワードで大事にしてくれるのだ。彼がもし美蘭と亜蘭に会ったらどうするだろう。いや、もしかするとこっそり会いに行くか、少なくともその姿ぐらいは見たことがあるんじゃないだろうか。
「それ、遠慮しないで食べてよ」
サーバーを手に戻ってくると、辻さんは焼き菓子を勧め、俺のカップにコーヒーを注いでくれた。正直いって何か食べようという気がしないほど、頭の中がいっぱいだったけれど、せっかくだからフィナンシェを一つ口にした。
「ねえ、辻さんはその双子には会ったの?」
俺の質問に、彼は首を振った。
「何だか怖くてね。会ってしまったら、先生には内緒で私が育てよう、なんて気になって、連れて帰ってしまいそうで。それもあって、話し合いが片付いてからは、努めて思い出さないようにしていたんだよ。でも彼らももう十八になったから、養育費の支払いも終わった。認知はしていないから、何かの理由でこっちから接触しない限りは、完全に縁が切れた状態だよ」
「何かの理由って、極端な話だけど、兄貴が病気になったりして、骨髄移植が必要です、なんて場合?」
「まあ、それも一つの可能性ではあるね。でも私は貴志君が結婚して、剛太君が生まれたことで、気持ちとしてはずいぶん楽になったよ。これでとりあえず、柊家の跡継ぎは大丈夫だって」
「剛太は政治家ってキャラじゃないけどなあ」と、俺が苦笑すると、辻さんはそれを制するように「勇武君」と唸った。
「君は自分が柊家の一員だという自覚はあるか?私は君のその、自由で大らかな性格は本当に素晴らしいと思う。しかしだ、じき三十だというのに、まるで糸の切れた凧みたいにふわふわしているのはどうだろう。彫刻家になるために努力している最中というならまだ判る。でもあんなに打ち込んでいた事を投げ出したままで、しかも完全に辞めたという意思表明もしていない。
君は自分に教育を与えてくれた家族に対して、これからもそうやって態度保留のままでやり過ごすつもりなのか?若奥様からきいたところじゃ、今は女の人と住んでるらしいが、彼女と結婚する気はあるのか?」
ある程度覚悟はしていたけれど、辻さんはここぞとばかりにど真ん中のストレート球を次々と投げ込んできた。俺はとにかく「わかりました」「よく考えます」なんて言葉でひたすら逃げと守りの体勢。結局ここでもズタボロにされて、逃げるようにして別れを告げてきた。
この季節はとにかく日の落ちるのが早い。夕闇の坂道を下りながら、とりあえず手が空けば、といういつもの癖で、俺はスマホを取り出していた。三十分ほど前に麻子からの着信が一件。今日は非番のはずだけど、トイレットペーパー買って来いとか、そんな用だろうかとかけ直す。
いつになく長く待たされて、ようやく出た彼女は少し騒がしい場所にいた。
「さっき出られなくてごめん。何か急ぎの話?」と尋ねると、しばらく間があって、「急ぎってわけじゃないけど、簡単な話でもないわ」という答えがきた。明らかに、声が堅い。
「つまり難しい話?」
「難しくはないけど、私には面白くなかった話。勇武、こないだ理沙とブンちゃんに焼き肉おごったんだってね。大盤振る舞いで二軒めも行ったって」
「いや、あの」
なんで知ってるの?なんて言わない方がいいに決まってる。とにかく、情報は既に漏れてるのだ。
「そんなにお金があるんなら、今月から家賃と共益費半分出して。電気も水道もガスもね。あと食費もお願い。あんたの方がたくさん食べるんだから、割合は七三にしましょう。さかのぼって払ってくれてもいいわよ」
早口でそうまくし立てて、電話は切れた。俺は何だか足元からずぶずぶと地面に飲み込まれるような気がしたけれど、そんな都合のいい事は起こらず、とりあえず今夜どこに身を寄せるかを考えるしかなかった。
7 嘘つき美蘭
ろくすっぽ授業なんか聞いてないのに、どうしてわざわざ学校に行くのか?人によっては友達に会うため、という答えもあるだろうけど、あいにく僕は誰かに必要とされるタイプじゃない。出席日数を確保するのと、ちょっと外の空気を吸いに、というのが答えだろうか。
先生もそこは判ってるらしくて、僕のことは放っておいてくれる。だからこっちも邪魔しないように寝るか、本を読むか、寝るか、そんなところ。問題は授業が終わっても気づかないことがたまに、というかしょっちゅうあるって事だろうか。
「亜蘭」
いきなり誰かに軽く頭をはたかれて、僕は目を覚ました。顔を上げると風香が丸めたノートを片手に立っている。
「美蘭が呼んでるよ。あんた、またスマホ忘れてきたでしょ。人の迷惑少しは考えてね」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、彼女は足早に教室を出ていった。美蘭は学校ではとにかく僕と口をきかないから、用があってもスマホ経由。そして今日みたいにスマホを忘れると、誰か、たいがいは風香がメッセンジャーとして現れる。
僕は開きもしなかった教科書を鞄に突っ込み、教室を出るといつもの場所、屋上に向かった。美蘭は馬鹿だから、やたらと高い場所に上りたがるのだ。たとえ今日みたいに曇り空で寒い日でも関係なくて、フェンスにもたれてタブレットを見たりしている。
「何の用?」と、僕は今日初めて声を出した。
「用もないのに口なんかききたくない。スマホの置き場所、靴の中に変えたらどうなの?でもそしたら次は、靴はくの忘れて出かけるのよね。あんたってそういう奴だ」
美蘭はタブレットから視線を上げずにそう言った。
「必要な事だけ言ってくれるかな」
「剛太んとこの猫が逃げた」
「逃げた?マンションの八階から?」
「猫連れて公園に遊びに行ったら、逃げたって。昨日の話。あのガキ本当に馬鹿だよね、犬じゃあるまいし」
タブレットを足元の鞄に入れ、美蘭は風で乱れた髪をかき上げる。
「母親の春菜が宗市さんに泣きついてきた。今から公園まで探しに行くらしいから、ちゃんと回収してもらって」
「今から?間に合うかな」
「間に合わせるんだよ。何のために苦心してあの猫を送り込んだと思ってるの」
それだけ言うと、美蘭は僕の返事なんか聞こうともせずに立ち去ってしまった。僕は仕方なく階段を降り、一階の図書室に向かう。窓際の机を確保して、新着書のコーナーで手にとった「丸わかり進路シリーズ 航海士になるには」という本をとりあえず広げておく。ここなら七時まで開いてるから、これからの作業が多少長引いても大丈夫。やっぱり屋上は寒すぎるし。そして頬杖をつき、読書に没頭してるふりをして目を閉じる。
最初はゆっくり、やがて速度を上げて、僕は自分の触手を剛太の住まいであるマンションの方へと伸ばしてゆく。触手だなんてそんな面白いもの、実際に生えてるわけじゃないけど、感覚としては近いものがある。シャークはけっこう特徴のある波動を持った猫だから、見つけるのはそう難しくない。僕の中に何か、微妙にぶれていたものが重なりあうイメージが浮かんで、それが完全に一致した瞬間、僕はシャークの目や耳を借りて世界を感じている。
ここは一体どこだろう。見えるのはくすんだ色の壁で、シャークはどうやら家と家の隙間に隠れていたらしい。思い切り伸びをして、道路とおぼしき方向に出てみると、正面に剛太のマンションが見えた。そう遠くは離れていない。道路を渡り、ドラッグストアの軒下を抜けてマンションの方へと向かう。
家出中だというのに、そんなに空腹でもなくて、シャークはどこかで餌にありついたらしい。やたらと人なつこい性格だから、誰かにもらったのか、野良猫用の餌場を見つけたのか。とにかく、動き回る元気は十分に残っているので、僕らはかなりの速度で歩いた。走ればよさそうなもんだけど、猫は瞬発力の生き物だから、普段はなるべく省エネモード。こうして黙々と歩いているだけでも立派なことなのだ。
次の通りに出ると、この前車を停めたコインパーキングが目の前だった。買い物帰りのおばさんが僕らに向かって「にゃんこちゃーん」と呼んでるけど、それには答えず、車の下を次々にくぐって前進する。美蘭が言っていた公園、というのはこの近くだろうか。僕らはいったん高い場所から確かめることにした。
まずはパーキングのブロック塀に上り、そこから隣の歯科医院の看板に跳び移り、さらに見晴らしのよさそうな、一番端っこまで這ってゆく。風が吹くたびに看板は揺れたけれど、まあ落ちても怪我するほどの高さじゃない。首を伸ばして見回すと右前方、建物の隙間にすべり台らしきものが覗いている。あれだ。
僕らは後ずさりして看板の付け根に戻り、そこから植木を伝って地上に降りた。走ってくる自転車をかわし、段差をよじ上り、道を横切る。狭いフェンスをすり抜け、落ち葉の積もった側溝を匍匐前進して、ようやく公園を取り囲む植え込みにもぐりこんだ。首だけ出して、あたりの様子をうかがう。
すぐそばに桜の木があって、その下のベンチで中学生らしい女の子が二人、何かしゃべっている。その向こうにさっき見えていたすべり台があるけれど、誰もいない。僕らは植え込みから出ると、女の子たちを迂回して桜の根元に移動した。そこまで来ると、すべり台のほかにシーソーとジャングルジムが見え、傍にいる宗市さんと剛太が目に入った。
宗市さんはキャリーケースを片手に立っていたけれど、剛太はうつむいてしゃがんでいて、猫の目にも明らかなほど、ふてくされている。自業自得なんだよな、と呆れながら、僕らは二人の方へと走っていった。先に気づいたのは宗市さんで、「ほら、見てごらん」と声をかけた。剛太は半信半疑、という様子で顔を上げたけれど、僕とシャークが駆け寄ってくるのを見るなり、「うわあ」と叫び声をあげた。
あとは勢いってもので、僕らは剛太に飛びついてやった。奴は「帰ってきたあ!」なんて言いながら、もう泣いている。本当に情けないので、僕は「ばーか」と嘲り、それはシャークの口から「ニャーウ」という鳴き声で伝えられる。すると剛太は「シャークゥー!」と大泣きしながらぐいぐい締め上げてきた。
困る。こういうの、すごく苦手なのだ。
宗市さんはそんな僕の窮状を放置して、「よかったね。シャークは剛太くんのこと大好きだから、帰ってきたんだよ」なんて言うのだった。
僕とシャークはキャリーケースに揺られて、猫おやつのささみジャーキーを食べながらマンションに戻った。迎えに出た春菜は「やっぱり氷水さんにお願いしてよかった。絶対に何とかしてくれると思ってたのよ」と、剛太よりもはしゃいでいた。とはいえ「一晩でも外にいたんだから、この猫、汚れてるわよね」と冷静でもあり、「洗ってもらえるかしら」と言い出した。
宗市さんはもちろん、その程度のリクエストなら簡単にOKする。正直いって僕はもう疲れたから退散するつもりだったけれど、シャークが暴れて宗市さんに怪我でもさせたら、僕らの腹黒い後見人がぶち切れるので、もうしばらく協力するしかない。
僕とシャークは風呂場に連行され、宗市さんの手できれいに洗ってもらった。猫は基本的に濡れるのは大嫌いだけど、シャークは温かいシャワーを浴びながら終始ご機嫌。春菜がタオルの代わりに用意した雑巾で水気を拭き、もう捨てるから使っていいと渡されたドライヤーで乾かしてもらった頃には、夕方になっていた。
まるで実際にひと風呂浴びたような、妙な気怠さを引きずりながら、僕は図書室を出て醒ヶ井邸に帰った。玄関には見慣れたスニーカーが脱いであって、桜丸が来ていると判る。
ひとつ年上の彼は、僕や美蘭と同じ全寮制の小学校にいた幼馴染だ。父親が事業に失敗したせいで転校して、長いこと音信不通だったけれど、数か月前に偶然再会した。今の彼は奨学金とラーメン屋のバイトでやりくりする貧乏学生で、時々「三毛猫小梅のレコード鑑賞」という醒ヶ井鬼怒子の遺言履行を手伝ってくれる。
聞こえてくるのは、ベートーベンの交響曲第六番「田園」で、嵐も過ぎて第四楽章も半ば。僕はオーディオの置かれているアトリエに入ると、ソファにいるであろう桜丸の姿を探した。でも彼は一人じゃなくて、隣には美蘭がいた。しかも何故か、彼は美蘭の膝に頭をあずけている。
僕と目が合うと、桜丸は慌てて飛び起きようとしたけれど、美蘭はそれをねじ伏せるように押さえつけ、僕に向かって「ライト持ってきて!」と叫んだ。
「え?なんで?」
「いいから早く!耳に虫が入ってとれないんだって」
そう説明されて、僕は回れ右をするとライトを取りに走った。たしかキッチンだと思って探してみると、入り口の柱に取り付けてある。電池の寿命が怪しくて光は弱いけれど、耳をのぞくぐらいは大丈夫だろう。大急ぎでアトリエに戻ってみると、「田園」はもう終わっていて、桜丸はこちらに背を向け、レコード棚の前に立っている。美蘭は小梅を膝に抱き、僕を見るなり「遅い」と言った。
「すぐ見つからなくて。虫は?」
「勝手に出てった」
「じゃあ、よかったじゃないか」
「あんたがトロいせいよ。神の思し召しだね」
それだけ言うと、美蘭は小梅を膝から下して立ち上がり、アトリエを出ていった。仕方ないので僕はソファに座り、小梅の耳をライトでのぞいてみたけれど、「ビャア」と嫌がられただけだった。桜丸は棚から抜いたレコードを片手にこちらを向くと、「ごめん、悪かったね」と謝った。
「それはいいけど、耳、大丈夫なの?」
「うん」とだけ言って、桜丸は新しいレコードをターンテーブルに置くとアームを下した。今度もやっぱりベートーベンで、「皇帝」だ。彼は戻ってくると小梅を抱き上げて、僕の隣に座った。
「桜丸って、ベートーベン好きだよね」
「うん。何だか励まされてるような気分になるんだ」
「ふーん。そういえば、交響曲第五番って奴さ、僕はあれ、「ベートーベンの運命」ってのが正式なタイトルだと思ってた」
「誰か別な人の作曲だと思った?」
「そう。音楽家なのに耳が聞こえなくなって、それでも作曲を続けて、っていう、ベートーベンの伝記みたいなものだよね?って美蘭に確かめたら、あんたが弟だっていう運命から逃れたいって言われた」
桜丸は少しだけ笑うと、「嘘つき美蘭」と言った。
「本当のこと言うと、さっきのだって嘘だよ。虫なんて、いやしない」
「じゃあどうして、ライトなんか取ってこさせたの?」
「毛づくろいの時間が欲しかったんだよ」
桜丸は膝の上の小梅を何度か撫でた。彼の大きな手のせいで、年寄猫はふだんより一回り小さく見える。
「さっき僕は美蘭の隣に座ってて、レコードを聴くうちに眠くなってきた。だから、もたれていいかなってきいた。彼女はいつもの調子で、好きにすれば、なんてそっけなかったけど、僕は思い切って彼女の膝に頭をのせた。彼女は別に押しのけたりせずに、黙って僕の髪を撫でてくれた。怒ってはいなかったろうけど、困ってたかもしれない。どっちなのか聞こうかと迷ってたら、君が帰ってきた」
「つまり、僕が邪魔したって事かな」
「そういうわけじゃないけど、あのままってのもね」
「もし、まだ眠いんだったら、僕の膝で寝てもいいよ」
「大丈夫、もう眠くない。それに、申し訳ないけど男子の膝で寝るのは好きじゃないし。できれば女の子、っていうか、美蘭がいいんだ」
こういう時、なんて言うんだっけ。「お役に立てずにすみません」だろうか。たしかに、僕らが再会してしばらくの頃、桜丸は美蘭の事を好きだと言っていた。でも美蘭は妻帯者の三十代とつきあってて、なのに自分から桜丸をベッドに誘ってみたり、そのくせうまく行かなかったり、とことん支離滅裂。だから桜丸もすっかり愛想を尽かしたと思ってたんだけど。
「やっぱりやめといた方がいいよ。美蘭なんて狂暴なだけだし」
「悪いけどさ、僕に対しては狂暴じゃないから」
善意ってのは伝わらないものだ。なんだか面白くなくて、僕は立ち上がるとレコード棚へ行って、次にかける曲を探した。けっこうな枚数があり、ピアノ教師だった鬼怒子の好みは幅広い。バッハやモーツアルトはもちろん、ロマン派から近代まで、西洋古典音楽のスタンダードは一通り、ピアノ曲は勿論、オーケストラも室内楽もそろえてる。特に好きだったのはドビュッシーとラヴェルらしく、中でも「ダフニスとクロエ」は輸入盤も含めて十枚ほどあった。
彼女のコレクションは二十世紀前半で止まってるわけではなくて、そこから更に現代音楽という時代まで広がる。並行してジャズのアルバムが混じり、一方でビートルズ登場。他にもストーンズやキング・クリムゾンまであって、鬼怒子の年を考えると、かなり雑食性の新しいもの好きだったようだ。
僕が見た限り、彼女のコレクションで一番新しいのはYMOのアルバムだ。それと前後するようにCDも集めてはいるんだけど、どうやらこのメディアはお気に召さなかったらしくて、アナログ盤の流通が減るのにつれて蒐集をやめてしまったみたいだ。
「次はこれ聞こうかな」
僕がディープパープルのアルバムを引っ張り出すと、桜丸は「やめた方がいいんじゃない?セロ弾きのゴーシュみたいになったら困るだろ?」と言った。
「何それ」
「宮沢賢治の童話だよ。ちょっと腕前に自信のないセロ弾き、つまりチェロ奏者のゴーシュって青年がいてさ、彼が家でひとり練習してると、次々と動物が訪ねてくるんだ。その中に猫もいる。でもけっこう上から目線で、批評家めいた事を言うから、ゴーシュはむかついて、「インドの虎狩り」っていう、強烈な曲を爆音で弾いてやるんだ。猫はパニック状態で部屋じゅう走り回って、やっとの思いで逃げてゆく」
「それで終わり?」
「いや、物語はもっと続くけど、僕が心配してるのはその辺」
「なるほど。忠告ありがとう」と礼を言って、僕はレコードを棚に戻した。うかつな事をして小梅がひきつけでも起こしたら大騒ぎになる。
桜丸は「ディープパープルも悪くはないけどね」と笑って、小梅を膝から下すと立ち上がった。
「もう今日の音楽鑑賞は十分だと思うよ。僕もそろそろバイトに行かないと」
「美蘭に黙って帰るの?」
「そうだね。彼女がここに戻らないって事は、一人でいたいんだから、邪魔したくない」
「僕を避けてるだけかも。呼んでこようか?」
彼は黙って首を振ると、鞄を肩にかけて玄関に向かった。僕も後をついて行ったけれど、何だかすっきりしない。
「ねえ、桜丸には狂暴じゃないんだろ?だったら美蘭の部屋まで行っても、出てけ馬鹿とか怒鳴られたり、ものを投げられたりしないと思うよ」
そう言ってみると、桜丸は困ったような顔で「これも一つの駆け引きって事。なんだ帰っちゃったのか、残念、って思ってほしいんだ」と説明した。それから「今の、美蘭には秘密だよ」と付け加えた
「でもね、僕はここを出た瞬間から、次はいつ来れるだろうって、そればっかり考えるだろうな」
「だったらここに住めば?部屋なら空いてるし、小梅の世話してくれたら、家賃は別にいらないよ」
「そういう想像するのは楽しいけどね。じゃあ」
桜丸は軽く手を振って、ドアの向こうに消えてしまった。僕はアトリエに戻り、レコードをひっくり返して「皇帝」の続きを聴いたけど、何だか耳に入ってこない。僕が考えていたのは、どうして美蘭と桜丸はお互いに好きなようで、素直にそう振る舞わないのかって事だ。
桜丸はあけっぴろげだし、とにかくまっすぐ進む性格だから、問題は主に美蘭にあるみたいだ。でもそれは仕方ない。僕も美蘭も、母親から「本当にひねくれてて、死ぬほど憎たらしい」と言われ続けていたし、三つ子の魂百までって奴で、今もそんな感じなんだろう。まあ、じっさい百歳まで生きてみないと、証明はできないけど。
8 言葉がわかるんだ
人の脳は危機が迫ったことを感知するとアドレナリンを放出し、己のポテンシャルを限界以上に引き上げるらしいけど、俺の脳は今ひとつ感度がよくないらしく、かなりの危機だというのに、一時避難でお茶を濁している。
「秘密だなんて夢にも思わなかったのよ。だから、電話したついでに、こないだは勇武にごちそうしてもらって、なんて普通に言っちゃった」
予想通り、麻子に俺の散財をばらしたのは理沙だった。とりあえず泊めてくれ、と上がり込んでから、この話をするのはもう何度目だろう。
「俺ぜったい口止めしたはずだよ」
「それが記憶にないのよね。お酒が入ってたせいかな。でもまあ、お詫びのしるしに、好きなだけ泊まっていってよ」
電車の中だというのに声も落とさず、理沙はいつもの調子でガハガハ笑った。
彼女との付き合いは美大の頃からなので、ある意味で麻子よりずっと気心が知れている。何かにつけ豪快な女で、その分とんでもない失敗も多い。たぶん何かの発達障害、と自分で言ってるけれど、冗談にせよその要素ぐらいはあるかもしれない。細かくて地道な作業が大の苦手だけれど、独特な発想で一気に作品を仕上げるから、先生の評価は両極端だった。
卒業後はアーティスト生活に入るのかと思っていたら、なぜかダンスに開眼し、インストラクターとしてあちこちのスタジオを回っている。最近では空いた時間で契約農家からの無農薬野菜直販を立ち上げていて、思いついたら短期間で形にするスタイルは美大の頃と変わらない。
「でもさ、勇武、本当にお金で解決しようと思ってる?」
「だって仕方ないだろ、出せって言われたんだから。とりあえず家賃ぐらいは持参しないと、帰るに帰れないし」
「せっかくのチャンスだし、結婚しちゃえば?」
「ええ?」
つい声をあげたのと同時に電車が大きく揺れて、俺は理沙にぶつかりそうになった。
「だからさ、色々と迷惑かけて悪かった、けじめをつけるためにも結婚してくれってお願いするの」
「そんなバカな。どこの世の中にこんなきっかけでプロポーズする奴がいるんだよ」
「何であろうときっかけって大事よ。でなきゃずーっと長い春だもん。私と文吾だって、彼のアパートでボヤが出たから結婚したんだもんね。部屋が水浸しになって、引っ越すついでに一緒に住もうか、じゃあ籍も入れとく?みたいな感じ」
「麻子はそういう、ノリのいいタイプじゃないから」
「違うって、待ってるだけ。絶対そうよ」
理沙は自信満々だけれど、たとえそれが本当だったとして、俺はまだ結婚に踏み切る覚悟はない。先の生活も決まらないバイト暮らしなのに、家庭を持つなんてありえない話だ。
「ちょっと、何を暗くなんってんのよ」
「暗くなんかなってない」
「顔に出てるよ。せっかく可愛い甥っ子迎えに行くのに、もっとテンション上げていかなきゃ。ちょっと一緒にレッスンしてく?今日はラテンのクラスだからノリノリだよ」
だから電車の中だっていうのに、理沙はその場でステップを踏み始める。
「お前のレッスン受けるくらいなら、タイツはいて白鳥の湖でも踊る方がマシだよ」
「わかった。披露宴はそれで、麻子とパ・ド・ドゥね」
そう言って彼女は親指を立てると、満面の笑みを浮かべた。電車は緩やかに速度を落とし、俺は慌てて「じゃ、たぶん今日も泊めてもらうと思うから」と寝場所を確保してから電車を降りた。理沙はドアのガラス越しにまだ親指でグイグイやっている。
いい奴だけど勢いがありすぎて、こっちが消耗するんだよな。旦那の文吾は対照的な性格で極端に人見知り。とはいえIT企業の正社員なんだから、社会性はあるのだ。でもまあ、いくら理沙が「すっごい穏やかな人だから」と言っても、何日も泊まり続けるのは無理だろう。
駅前の商店街を抜け、数年前から共学になった元女子大の煉瓦塀を通り過ぎてしばらくゆくと、この大学の教育学部と提携しているフリースクールがある。建築雑誌に載りそうな外観だけれど、バブル期にレストランとして開業し、数年で潰れて幽霊屋敷になり、その後フリースクールとして復活したそうだ。
ガラス張りのドアを押して中に入ると正面にカウンターがある。俺はもう顔見知りになっているスタッフに「柊です」と声をかけ、脇にあるロビーを覗いた。黄色やオレンジといった明るい色のソファが壁際に並び、授業を終えた生徒が何人か座っている。学年が離れているせいか、互いに我関せず、といった顔つきで漫画を読んだりスマホをいじったり。そして剛太は窓際の席でゲームに精を出していたけれど、俺に気づくとすぐに立ち上がった。
「お待たせ」と声をかけると、「別に待たされてないよ」と殊勝な事を言う。ゲーム機はリュックにしまい、スタッフに挨拶すると、彼はさっさと外へ出る。俺も慌てて「失礼します」と後を追った。
「いつも歯医者の検診だとぐずぐずしてるのに、今日はずいぶん勢いがいいな」
「だって早く帰りたいんだもん。帰ってシャークと遊ぶんだ」
「なるほど。じゃあ、ママもOKしてるし、タクシーで行こう」
俺はその場で手を挙げるとタクシーを停めた。
剛太ももう五年生だし、フリースクールへの通学は一人でできるようになったけれど、歯医者だとか散髪だとか、付き添いが必要な時は俺の仕事として回ってくる。春菜さんは未来の代議士夫人としての付き合いその他で多忙らしいし、俺は俺で小銭が稼げれば有り難く、編集プロのバイトと並行して引き受けている。そして俺の給料やタクシーチケットは、親父の事務所の経費で落ちるのだ。
運転手に歯医者の住所を告げ、俺はシートに深くもたれた。
「そういえばあの猫、こないだ脱走したんだろ?」
「脱走じゃない、迷子になっただけ」
「でも、公園に連れてったら逃げたって、ママが言ってたぞ」
「だからさ、公園は広いから迷子になったんだよ」
剛太は頑として、飼い猫が自分を置き去りにしたとは認めたくないらしい。
「結局、ペット屋さんが見つけてくれたんだろ?」
「違うよ。僕が公園まで迎えに行ったら、シャークは自分で帰ってきた。ペット屋さんはついてきてくれただけ」
「なるほどなあ」
春菜さんから聞いた話とはずいぶん違ってるけど、終わった話だからまあいいか。タクシーの窓から外に目をやると、街のあちこちにクリスマスの飾りが咲き始めている。いつもプレゼントを渡す相手は剛太と麻子なんだけど、今年は剛太はともかく、麻子には難しそうだ。
「人間の言葉、わかるんだよ」
「えっ?」
ついぼんやりしていたので聞き返すと、剛太は当然、といった顔つきで「シャークは人間の言葉がわかるんだ」と言った。
「ああ、ごはんとか、トイレとか、そういう言葉だろ」
「違うよ。僕の言ってること全部わかるんだ。僕もシャークの言葉がわかる。こないだも、公園で帰ってきた時にさ、迷子になってごめんね、って言ったもん」
「何?人間の言葉をしゃべったって事?」
「そうじゃない。ニャーウって鳴いただけだけど、あれはごめんねって意味だったんだ」
「ふーん」と納得したふりをして、俺は腕を組んだ。
五年生にもなって、これは少々幼すぎるんじゃないかと思うんだけど、例の「路チュー」事件からの経緯を考えると、ファンタジーに逃避するのも仕方ないか。
「シャークは頭がいいからさ、ゲームもできるんだよ。ボタン一個しか押せないから、使えるゲーム機は決まってるけど、けっこう上手なんだ」
「ゲームねえ。そういえばあの、猫踊り。あれまだやってるのか?」
「猫踊りはパパの前で一回だけやった。あとは封印してるみたい」
「封印って、猫がそう言ったのか」
「ううん。でもそんな感じがする。シャークは普段はふつうの猫のふりをしてるけど、僕と二人だけの時は、色んな事するよ」
「へーえ」
さらっと聞き流したふりをしながらも、俺は何だか不穏な気分になった。シャークはそもそも美蘭が連れてきた猫だ。ゲーム云々はさておいて、何か怪しい正体を隠しているかもしれない。あの美蘭が何の下心もなく行動したとはどうしても思えない。彼女は剛太が腹違いの弟だと判っているのだ。
「剛太、もしもだけど、シャークのこと、飼えなくなったらどうする?」
恐る恐るきいてみると、一瞬で彼の表情はこわばった。
「そんな事、絶対にないよ」
「うん、いや、まあそうなんだけど。家の中で誰かが猫アレルギーになっちゃったり、シャークが病気になったり。本当にもしもの話…」
「シャークが飼えなくなったら、僕はシャークと家出する」そう答えた剛太の目にはもう涙があふれて決壊寸前。
「いやいやいや、だからさあ、もしもの話だから、な?」とフォローしたところで収まりそうもない。とりあえず「また今度、そのゲームを見せてよ」などと言って機嫌をとるしかなかった。
うっすらと消毒薬の匂いがする歯医者の待合室に座り、俺は剛太の検診が終わるのを待つ。別の診察室からは、あの鬱陶しいドリルの音が聞こえてくる。その音すら美蘭の差し金のように思えて、俺は大げさに溜息をついた。
今更シャークを剛太から引き離すことは不可能だし、あの氷水とかいうペット屋だって、人当たりはいいけど何を考えてるか判りはしない。つまり、美蘭は父親の妻とその息子にいつでも手が出せる状態というわけだ。そしてこの俺は、金をせびられたり、怪しげな儲け話を持ち掛けられたり。
目を閉じて椅子の背にもたれると、このあいだ辻さんから聞いた話がよみがえってくる。
「この世に実際に裏側というものがあるとすれば、まさにそこから現れたような」
とはいえこの言葉は、美蘭と亜蘭の身内である夜久野という人物についてのものだ。美蘭だってまだ高校生だし、亜蘭に至っては姉の使い走り程度。それに彼らに流れる血筋の半分は、俺と同じ柊家。そこまで恐れる相手だろうか。
見知らぬ誰かを苛むドリルの音がひときわ高まり、そしてまた低くなって、やがて消えてゆく。いくら不快でも、実際に痛いのはほんの一瞬。それがトータルで何秒だろう。一生続くってわけじゃないのだ。
俺が再び目を開いたのと、剛太が診察室から出てきたのはほぼ同時だった。ピンクの制服の衛生士が「剛太くんお疲れ。次も虫歯ゼロでがんばろうね」と手を振ってくれる。本当のことを言えば、春菜さんは近々矯正治療を始めるつもりらしいけれど、剛太はまだそんな事は知る由もなく、大きな声で「ありがとうございました」と頭を下げている。
受付で支払いを済ませて外に出ると、俺は再びタクシーを停めて行く先を告げ、剛太にチケットを渡した。
「悪いけどさ、一人で帰れるかな。ママはもう戻ってると思うから」
「いいけど、シャークに会っていかないの?」
「うん、また今度にするよ。今日はちょっと急ぎの用があるんで。ママにはちゃんと電話しとくから」
「わかった。じゃあね」
剛太はとにかく早くシャークと遊びたいらしくて、一人で帰ることは全く問題にしていない。さっさとタクシーに乗るとガラス越しに手を振って、行ってしまった。俺はスマホを取り出すと、春菜さんに電話する前に、美蘭の番号を呼び出す。
「やっとかけてきた」
それこそ猫をかぶっていた頃とはうってかわって、そっけない声が聞こえる。
「どう、仕事受ける気になった?」
「まあ、そうだな。条件次第っていうか…」
「せっかくやる気出したとこで悪いけど、もう他で決まっちゃったから」
「ええ?!」
情けないことに、俺はかなり大声で叫んでしまっていた。美蘭はその冷たい呆れ顔が浮かぶような声で「だから急いで返事してって言ったの。こっちは商売なんだから、おじさま一人に絞るなんて悠長なことしてられないのよ」
「つまり、誰か他に、贋作づくりを引き受けた奴がいるってことか」
「贋作じゃないし。何度も言うけど、行方不明だった幻の作品。誰がやるのか本当は秘密だけど、おじさまには教えてあげる。ベトナム人留学生のトランさんが、二つ返事で引き受けてくれた。勉強になります!頑張ります!ってね。ガッツが違うんだよ、情熱のある人間は。あれは大成するね」
それに引き換えあんたは、と言わんばかりの上から目線。更に彼女は「それはそうと、お金はいつ返してくれるの?」とたたみかける。
「俺が返すのは寿司一人前の代金だけだ」
「何を言ってんだか。上握り四人前とカフェ代と、あと猫のリベート十五万ね。この十五万を返せないなら、猫は没収するから」
「猫を返すのは無理だ」
「そうお。まあいいけど。ところでさ、あの猫が急に死んじゃったら、剛太くんきっと泣くよね。ギャーギャー唸りながら家じゅう走り回って、白目むいて血なんか吐いて倒れたら、一生トラウマだね」
「何が言いたい」
「別に」
俺の耳の底に、忘れかけていたスズメバチの羽音がよみがえる。それは歯医者のドリルのように、大きくなったり小さくなったりはするけれど、消えようとはしない。
「君は弟が可愛くないのか?」
「亜蘭のこと?」
「もう一人いるだろう」
「そんなの知らない。じゃあ聞くけど、おじさまが可愛がるのは小学生の甥っ子だけなの?」
そう言われると、俺は急に後ろめたくなって、辻さんの言葉を思い出してしまう。
「本当ならその双子は、柊家の一員として皆から祝福されて生まれてくるはずなのに」
しかし、と俺はその湿った考えを切り捨てる。美蘭が思わせぶりな事を口にするのは、はったりに過ぎない。親族の情に飢えた少女の擬態の陰には、獰猛な獣がいる。
「可愛がられるには、それに見合う理由が必要だからな」
「まあ意地悪なこと。ところでおじさま、幻の作品はこれで片が付いたけど、仕事はそれだけってわけじゃないのよ。このごろ亜蘭がちょっと忙しくて、小梅の世話係を誰かに頼もうと思ってるんだけど、おじさまどうかしら」
「小梅?あの三毛猫か」
「そうよ。朝晩の餌やりと、爪切りとか歯磨きとか。細かいことはマニュアルに書いてあるけど、これをやってくれたら家賃ただで住ませてあげる。いつまでもヒモ生活じゃしょうがないでしょ?他にも雑用なら色々あるし、ちょっとはお金貯めた方がいいんじゃない?」
「大きなお世話だ」と言いながらも、俺の頭にはある考えが浮かんでいた。毒を食らわば皿までって奴か。こうなったら、とことん美蘭に近づいて、彼女の弱みでも探り出してやろうじゃないか。
9 誰かと仲良し
近頃僕はやたらと図書館にこもっている。高三だから受験勉強も佳境、という事では全くなくて、剛太の飼い猫シャークの様子ばかり見ているからだ。美蘭が「とにかく貼りついとけ」とか言うから仕方ないんだけど、目的の一つはたぶん、春菜から宗市さんを守るためだろう。
今日は「紅楼夢 第一巻」なんてのをとってきて開いておく。司書の前田さんは僕を見かけると「夜久野くんはオールラウンドの読書家ね」と微笑んでくれるけど、そのうち「一緒に帰らない?」なんて言われないかと思ったりする。その時にいつものフレアスカートじゃなく、タイトスカートだったらもっといいんだけど。
とりあえず妄想に一区切りつけて、僕は窓際の席で目を閉じた。
こう何度も繰り返していると、本当に短い時間でシャークの波長を捉えられるようになる。昼寝から起きたばかりの猫は、何か動くものの上に乗っていて、それは春菜の押すフロアモップだった。
「ちょっと!どいてって言ってるでしょ」
彼女の声は相変わらず苛立ってるけど、シャークはこれをちょっとした遊びだと思っていて、なんとか乗り続けようとしている。
「もう、最低!」と叫ぶと、ついに春菜はフロアモップを手放し、リビングを出て行ってしまった。こっそり後をつけると、彼女はキッチンにいた。ビネガーやオリーブオイルと一緒の棚に並べたウィスキーのボトルを手にすると、洗いかごに伏せてあったグラスに注ぐ。それから冷凍庫の氷を三つばかり放り込み、炭酸水を注いでマドラーの代わりに人差し指で何度か回転させると、半分ほどを一気に飲んだ。
「本当にやってらんない。どこ見ても猫の毛が落ちてるんだから」
彼女はそう唸ってから、グラスをせわしなく揺すり、残りの半分ほどをまた飲んだ。僕がシャークを通して彼女の飲酒を目にするのは、これで四度目か五度目。一人の時にキッチンやリビングで、大体はハイボールを飲んでいる。一杯で終わる時もあれば、二、三杯の時もあるけれど、アルコールには強いらしくて、顔に全然出ないし、乱れもしない。
これが始まると次は長電話というのがお決まりのパターンで、何人かの女友達をローテーションで呼び出し、愛する息子のために猫を飼うのがいかに大変かを愚痴る。でも本当に言いたい事はさらけ出せないらしくて、話題はすぐに限りなく悪口に近い噂話へと流れ、「またランチしようね。私そんなに忙しいってわけじゃないの、お誘い待ってるわ」てなところで終わりになる。その後にまた「あーあ」なんて長い溜息が出て、もう一杯飲んだりするのだ。
でも今日は別バージョン。僕とシャークがキッチンのドアのかげで様子をうかがっていると、インターホンが鳴った。シャークは誰であろうと来客が大好きなので一目散に駆け出し、その後から春菜が「もう、いちいち飛び出さなくていいから」と、相変わらず不機嫌な声で歩いてくる。しかし、ドアを開ける頃には彼女の声と態度は一変していて、それは訪問者が他でもない宗市さんだからだった。
「細かいことでお呼びたてしちゃって、本当にごめんなさいね」
一気にキーを上げた「社交モード」の声と、口角を持ち上げた「勝負スマイル」で出迎えた春菜に、宗市さんはいつもの爽やかな笑顔で「とんでもない」、なんて応対してる。シャークも歓迎モードで床に寝ころび、腹丸出しで悶え狂っていた。
「シャーク、元気にしてるかい?」と、宗市さんは屈んで軽く頭を撫でると、「じゃあ、早いとこ済ませましょうか」と立ち上がった。今日は一体何しに来たんだろうと思いながら、僕はシャークを促し、「先にコーヒーでもどう?」なんて言ってる春菜の後についてリビングにった。
宗市さんは今日もまたペット屋コスプレで、マウンテンパーカにジーンズなんて格好。彼はしゃがみ込むと僕とシャークを抱き寄せ、しっかりホールドすると猫用爪切りを取り出した。なるほど、春菜の奴、今日はこれを口実に宗市さんを呼びつけたわけか。
僕は自分が来てることを伝えるために、宗市さんの手の甲を前足で三回軽くたたいた。彼は「判ってるよ」という合図に小さくウインクして、「さあ、いい子だからじっとしててね」と、まずは前足から爪を切り始める。
元々、シャークは人に触られるのが嫌いな性質じゃないし、爪切りだって問題ないんだけど、春菜は「引っかかれそうで怖いのよ。剛太にはまだ無理だし、主人に頼むわけにもいかないし」なんて、つべこべ言っている。
「この子はよく慣れてるから大丈夫ですよ。それに、一度に全部切ろうなんて思わないで、できる時に一本か二本やればいいんです。先の鋭いところを少し切るだけでね。深爪すると血が出たり、そこからばい菌が入ったりしますから、本当に少しだけ」
宗市さんって猫なんか飼ったことないのに、いかにもそれっぽい事を上手に言う。僕も彼の「カリスマペット屋」ぶりをアピールするため、死んだように静止して協力してみせたけれど、春菜は「そんなとこでしゃがんでるやるより、ソファにおかけになったら?」とか何とか、爪の切り方なんて憶える気がないのは見え見えだ。
「はい、これでおしまい」と解放されて、僕はしばらくの間、シャークに好きなように毛づくろいさせてやった。いくら人慣れしていても、やっぱり猫にとって楽しい時間というわけじゃないし、こうして手綱さばきにメリハリをつけるのが長く続けるコツだ。
「氷水さんって本当にすごいわね。ゴッドハンドってやつじゃない?お友達にも自慢しちゃおうかしら」
このテンションの高さ、たぶんさっきのハイボールも一役買ってるだろうけど、春菜はずっと一人でしゃべりながら、「どうぞお構いなく」という宗市さんの言葉を無視して、コーヒーとクッキーをテーブルに出した。
調子に乗って、春菜が宗市さんに迫ったりしたらまずいなあ、と心配しながら、僕はついこの前、美蘭と二人で後見人に呼び出された時の事を思い出していた。
そもそも、僕と美蘭がその姓を名乗る夜久野って一族は、大昔から獣や虫を操ったり、怪しげなわざばかり伝えてはきたけれど、とにかく怠惰なことこの上ない。何をするのも面倒くさいけど、死ぬのも面倒だから生きてるぐらいの考えで、当然のことながら自力で生活しようなんて気もない。
普通に考えたら、そんな連中は路頭に迷って世の中から消えるだろうけど、この怪しげなわざを見込んで、まとめて面倒を見ようという白塚なる一族がいるのだ。というわけで夜久野一族は寄生虫のように生き延びているけれど、メンタリティは変わらない。仕方がないからほんの一握り、白塚のために働く世話役を選んで、あとの連中はのらりくらりと過ごし続けている。
僕らの腹黒い後見人は名を玄蘭さんという。貧乏くじをひいて一族の世話役になったせいで、いつも機嫌が悪い人物だ。年は六十前後だと思うけど、変にミーハーなところがあるから、案外もっと若いかもしれない。救いようがなく気難しいおじさんと、果てしなく意地悪なおばさんをブレンドしたような外見で、年の割に真っ黒な髪を後ろに束ね、夏でも冬でも全身黒ずくめ。背も高くないし痩せてるのに、妙に通る声をしていて、会えば必ず僕らを罵倒する。
「あんたら、何の権利があって宗市のことをあれこれ引っ張りまわしてるんだい」
アンティークのソファにふんぞり返り、闇で調達しているシナモンのような香りの煙草をふかしながら、玄蘭さんは文句を言った。美蘭は「ご迷惑おかけしまーす」とセリフ棒読みの声で謝り、僕は黙って様子見のまま。
僕らがいるのは戦前からある外国人向けアパートメントの一室で、玄蘭さんはここに宗市さんと住んでいる。
「あんたらの父親ときたら、いかれた女にばっかり手を出すんだからね。あの春菜って嫁もどうしようもない馬鹿女だ。さかりのついた猫みたいに、宗市にすり寄ってるんだろうよ。あの子が帰ってきた途端に、ここの空気が濁るんだから全く」
「すいませんね、旦那に浮気されちゃったり、息子が不登校だったり、色々大変だから」なんてかばうような事を言うくせに、美蘭の口調は平坦そのもの。
「だいたい柊家の奴はケチくさくていけない。養育費だってどれだけ値切ってきたことか。あんたらがこれまでにやってのけた面倒の後始末を考えたら、完全に赤字なんだよ。それをまた猫だ何だと、ちまちま小細工して。まとまった金を取る算段はあるのかい?」
「それなりにね。まあ、玄蘭さんと宗市さんには素敵なクリスマスプレゼントを贈れると思うから」
「こっちは耶蘇教の信者でもないし、楽しみになんぞしてやしない。まあ、あとひと月もないけど、実は来年のクリスマスだった、なんて言い訳は聞かないよ」
玄蘭さんの言葉に、美蘭は肩をすくめただけだった。
「ねえねえ、爪切りのやり方、ちゃんと教えてもらっていいかしら」
気がつくと、春菜は宗市さんの隣に座り、上目遣いでにじり寄っている。どうせもっとくっつくための口実でしかないのに、宗市さんは笑顔のまま、床でくつろいでいた僕とシャークを抱き上げると「まずは猫が暴れないように、しっかりと抱くことが大事ですね。だからといって、不安がらせるような力の入れ方は駄目です」と説明した。
「そうなの?何だか女の人と一緒よね」と、春菜はとりあえずシャークを抱いてみよう、というふりをして、宗市さんの膝ごしに腕を伸ばしてきた。その甘えた声が不快らしくて、シャークは身をよじる。僕はそれに乗じてひと暴れしようと、テーブルに跳び移り、コーヒーカップに後足で蹴りを入れた。
誤算だったのは、空のはずのカップにまだ中身が残っていて、それが宗市さんの膝にぶちまけられた事だった。
「こらっ!」と、その瞬間だけ地声に戻った春菜は、立ち上がって僕とシャークの頭をはたいた。触るのが怖いだとか言ってるくせに、こういう時は何のためらいもない。
僕はひとまずシャークに逃げさせ、廊下の隅で毛づくろいをして気持ちを立て直した。春菜の奴、嬉しさを隠せない声で、「ごめんなさいね。すぐ洗うから、悪いけどその間、主人のジーンズをはいてて下さる?乾燥機でじきに乾くから、その間だけ我慢して」と迫ってる。
まずい事になったな、と思いながら、僕は一通り毛づくろいをすませたシャークを促してリビングに戻った。ちょうど強制的に着替えさせられた宗市さんも戻ったところで、彼はこっちを見ると「参ったよ」という風に首を振ってみせた。その後から現れた春菜は「あら、やっぱり主人より足が長いわね。そのくせウエストは細いんだから」と、獲物の品定めに余念がない。
さてこの魔の手からどうやって宗市さんを守ろうかと考えていると、シャークの耳が何かに反応した。遠くでエレベーターのドアが閉まる音、そして誰かが廊下を走ってくる足音。僕が引き留める前にシャークはもう駈け出していて、ドアの鍵が開けられる頃には玄関に滑り込んで寝転がっていた。
「ただいまあ、シャーク!」
剛太は靴を蹴散らかして上がると、リュックを背負ったままでシャークの腹に顔を埋めた。毎度のことながら、僕はこういう構われ方が好きじゃないので、接点を最小限に絞ってしばらくシャークだけに相手をさせておく。一通りの儀式が終わると、剛太は洗面所で手を洗い、うがいをしてからリビングに向かった。
「ただいま」という声の後に「氷水さん、来てたんだ」という歓声が響く。僕とシャークも剛太に続いて入ると、遠巻きに様子をうかがった。
「爪切りしてもらったんだけど、シャークったら氷水さんの膝にコーヒーこぼしちゃって、今乾かしてるとこなのよ」
「そうなんだ。ごめんなさい」
飼い主の責任だと思ったのか、剛太の奴、殊勝に頭を下げている。宗市さんは「謝ることじゃないよ。ちょっとびっくりして飛び跳ねたら、たまたまコーヒーカップがあっただけの話さ」と、完璧なフォロー。春菜は「剛くん、歯医者さんどうだった?虫歯は大丈夫?」と割り込んでゆく。
「うん。また頑張ろうねって、フッ素塗ってもらった」
「そっか、じゃあ安心ね。勇武さんから電話あったけど、途中で剛くん一人で帰ることになったの?」
「そう。急用って言ってた」
「全く。相変わらずいい加減なんだから」
勇武の奴、ベビーシッターを半端に放り出したみたいだけど、やっぱり春菜からも見下されてるようだ。アーティスト気質というより、後先考えない適当体質。それって僕がいつも美蘭から言われてる事に近いかもしれない。
「シャーク、来い!ゲームしよう!」
剛太は叔父の評判なんてどうでもいいらしくて、リュックを放り出して自室へと駆けてゆく。僕とシャークは大急ぎで後を追い、ゲーム機を手にしてベッドに座った剛太の向かいに跳びのった。
「行くぞ、今日は攻撃目標五万ポイントで天界軍のゾーン突破だ」
僕はたまにしかゲームにつきあわないので、一体どんな奴をどのステージまで進んでるんだかさっぱり判らないけど、とりあえず自分の前に置かれたコントローラの赤いボタンを前足で連打する。
どうやらこのゲームは二人の連携プレーでポイントが加算されるらしくて、剛太はせわしなくコントローラを操りながら「よし、いいぞシャーク、もう少しだけ盾になってくれ」とか言って仮想世界に浸りきっている。
シャークは画面のちらつきの方が気になるらしく、そっちを叩きたくて仕方ない。僕はそれを引き留めて赤ボタンを連打しながら、リビングの物音に耳をそばだてているんだから、かなり消耗する。しかもゲーム機から溢れ出す攻撃や爆発や被弾の電子音は途切れることがないから、宗市さんたちの会話は聞こえやしない。
「あーっ!シャーク、ダメじゃん」
気がつくと画面に「GAME OVER」の赤い文字が浮かび、「ごうた37000ポイント しゃーく9800ポイント」という得点が表示されていた。
「せっかく盾になってたのに、あそこで敵の攻撃よけちゃダメだろ」なんて悔しそうだけど、猫ながら9800ポイントもゲットしたんだから十分だ。
僕は反論の意味をこめて前足で剛太の鼻の頭を押し、「ふざけんな」と言ってやった。シャークの喉からは「ニャニャッ」と鋭い声が漏れたけど、剛太は「あやまっても、もう負けちゃったんだからな」と、てんで判ってない。
シャークの集中力もそろそろ限界だし、僕はゲームを切り上げ、宗市さんの無事を確認しに行くことにした。剛太の部屋のドアノブはぶら下がって開け閉めできるし、さっさと廊下に出てリビングへと走る。まずはケージ脇のボウルに残っていた水を飲んで、それからソファの方に目をやると、春菜が宗市さんにくっつかんばかりに身を寄せて座ってる。
僕はシャークを促し、勢いをつけて春菜の膝に飛び乗ってやった。彼女は案の定、悲鳴をあげて僕らを払い落そうとするから、スカートに思い切り爪を立てて逆らう。でもまあ、爪は切られたばかりだし、宗市さんが「シャーク、こっちおいで」と腕を伸ばしてきたので、僕らは大人しく彼の膝に収まり、ジーンズが乾くまでそこに居座ることにした。
「もうっ、いつもこうなの、この猫って、不意に現れて飛びついてくるのよ」
春菜は荒い息をしながら、忌々しげに僕らのことをにらんでるけど、宗市さんは「猫って狩りをする動物なので、ある程度仕方ないんです」と庇ってくれる。
そこへ剛太が「フッ素塗って一時間たってるから、おやつ食べて大丈夫だよね」とか言いながら入ってきたもんだから、春菜は仕方なくキッチンに向かった。それでも「猫と遊んだんだから、もう一回手を洗ってちょうだい」と言うのは忘れない。
剛太は素直に洗面所に行き、まだ湿り気の残る手を振りながら戻ると、宗市さんの隣に座る。僕とシャークに手を伸ばし、触れるか触れないかというところで「セーフ!」と言いながら引っ込めたり、ティッシュペーパーでじゃらしにかかったり。
「あのさ、こんどシャークと一緒にフリースクールに行きたいんだけど、大丈夫かな。キャリーケースに入れて、電車に乗って」
「フリースクール?どうして連れて行きたいの?」
「僕がシャークとすごく仲がいいって言っても、信じない奴がいるから」
「うーん、わざわざ連れていかなくても、写真でいいんじゃないかな」
「写真ならもう見せた。でも、そんなの合成で作れるし、とか言うから、ムカつくんだ」
剛太の奴、思い出しても腹が立つ、という感じで口を尖らせ、「本当にムカつくんだよ」と繰り返した。
「でもさあ、剛太くんとシャークが仲良しだって友達に信じてもらうのは、そんなに大事なことかな」
「すっごく重大だよ。あいつ僕のこと馬鹿にしてるから、見返してやる」
「じゃあよく考えてみて。猫っていうのは、いつも住んでる場所と違うところに行くのは苦手なんだ。そのためにキャリーケースに入って、電車に揺られたりするのも好きじゃない。猫は人の何倍も耳がいいから、電車のガタゴトいう音とか、車掌さんのアナウンスとかが怖いし、色んな人やモノの匂いがするのもびっくりする。剛太くんは友達を見返したいって理由で、そういう事を我慢してでも、シャークに来てほしい?」
「別にそこまでってわけじゃないけど、シャークは強いから、あんがい平気かもしれないと思って」
「なるほど。それで、友達にシャークのこと紹介して、そしたらどうなると思う?」
「きっと僕のこと羨ましがるよ。あいつの家、ペット飼えないし」
それを聞いて、僕は思わず失笑してしまった。といっても傍目にはシャークがくしゃみをした、ぐらいにしか見えない。宗市さんは僕の失笑に気づいたらしくて、シャークの喉を撫でながら「誰かと仲良しってのは、人に羨ましいと思わせても意味がないよ」と言った。
「きみたちが仲良しだって事は、シャークだけを見てもちゃんと判る。毛並みがつやつや光ってて、目がきれいに澄んでて、とても元気に動き回る。つまり剛太くんに飼われて幸せなんだ。その事を他の誰かが信じるかどうかなんて、別に大切じゃないだろう?」
「まあ別に、あいつなんかどうだっていいんだけど。でもさ、ママと氷水さんも仲良しだよね。氷水さんが来ると、ママすっごく楽しそうだし、帰った後も機嫌がいいんだ」
「そうかな?機嫌がいいのは剛太くんがいい子にしてるからじゃない?」
宗市さんはさすがにちょっと焦ってる感じで、にわかに膝の座り心地が悪くなる。そこへ春菜が戻ってきたもんだから、剛太は「ねえママ!ママは氷水さんが来ると嬉しいんだよね」と大声で叫んだ。
春菜は慌てるどころか「そうよぉ。だってママ、氷水さんの大ファンだから」なんて、余裕の返答。しかし「さっちゃんのママも氷水さんのファンなの。おかげで猫ちゃん飼うようになって、とても楽しいって」と煙幕をはるのも忘れない。
やっぱり春菜って相当したたかだ。僕は乾燥機が止まるまで絶対に宗市さんから離れまいと、切られたばかりの爪を少しだけ出してみた。剛太はというと「フリースクールはやめとくけど、じいじがホテルでやるパーティーには、シャークを連れてくよ。車だから絶対大丈夫」とか言っている。全く、さっきの話なんか少しも判ってない。
僕が「お前ほんとに馬鹿だな」と言ってやると、剛太は「ほら、シャークも行きたいって」と満面の笑みを浮かべた。
10 やらしい目で見てる
「水が空になってんだけど、なんで気づかないわけ?」
美蘭はノックもせずに部屋のドアを開けると、能面のような表情で腕組みして柱にもたれた。もう九時時過ぎなのに、いまごろ帰ってきたのか制服姿だ。俺は慌ててベッドから起き上がる。
「あれ、そうかな。判んなかった」
「判んなかった」
美蘭は俺の口調をそっくりまねて繰り返すと、「亜蘭でもやれるのに」と呟き、ドアを閉めもせずに出てゆく。これはまあ、ついて来いの合図で、俺は仕方なく後を追った。
年寄の三毛猫、小梅の世話をするだけで家賃無料、という話にのっかってこの屋敷に仮住まいしたものの、俺に課せられた仕事はけっこう面倒だった。というのもこの猫、やたらとわがままで、トイレの砂をちょっと替えなかっただけで、あてつけみたいにまき散らす。かと思えば、とんでもない場所に毛玉や何かを吐くし、食事の量は少ない割に、同じものは何日か間をおかないと食べない。そして時おり姿を消し、脱走でもしたのかと心配しだした頃に、悠然と居間のソファに寝ていたりする。
おまけに飲み水は水道水じゃなくて、銘柄指定「富士山の恵み」。これを一階と二階に置かれた自動の水飲み器に常時補充しておく必要があるけれど、まあ俺はルーティン作業を繰り返すのが苦手な性分なので、今回みたいに切れてしまったりするわけだ。
「だからさ、赤ランプが点灯してたら給水なの。小梅マニュアルにも書いてあるでしょ」
キッチンまで行くと、美蘭は隅に置かれた水飲み器をあごでしゃくった。
「ごめん、見えてなかった」
俺は素直に謝ってみせる。美蘭の小生意気な態度にいちいち反応していてはきりがないし、これも仕事だと割り切ってしまえばいいのだ。それでも彼女は「どれだけ時間たってんの。もう補充通り越して完全に干上がってるし」と、追い打ちをかけて俺に背を向けた。
正直いって、生き物の世話というのは俺に一番向いてない仕事だ。子供の頃から、捕まえてきた虫とか貰った金魚とか、次々と昇天させた実績があるし、麻子の部屋の鉢植えも、彼女が帰省している間に枯らしたことがある。
世話をされる相手には申し訳ないけど、時として頭からすっぽり存在が抜け落ちてしまう。だから俺は、まだ小学生の剛太が例のシャークという猫をちゃんと世話していることに心底驚いてもいた。
「富士の恵み」の新しいペットボトルを取ってきて、水飲み器に補充し、マニュアルに従って周囲の床を拭いておく。少しでも濡れていたりすると、小梅が寄り付かないからだ。全く、俺にとって小梅は、醒ヶ井鬼怒子という偏屈婆さんに我儘いっぱいに育てられた妖怪猫としか思えない。
ようやく任務完了して顔を上げると、美蘭の奴、制服を着替えもせず、ブレザーだけ脱いで夕食を作っている。といってもパスタを茹でて、瓶詰のトマトソースに和える程度みたいだが、マッシュルームなんか刻んでみたりして、包丁を持つ手つきはなかなか様になっている。
醒ヶ井作品の贋作は引き受け損ねたけれど、美蘭をモデルにちょっとした像を作れば、小遣い稼ぎになるかもしれない。成金系のコレクターに裸婦の小品はけっこう人気だし、俺は自分の作品が田舎の金ピカ御殿の、なんちゃってローマ風呂を飾っていたところで別に構いはしない。問題は、儲け話に乗って美蘭が脱ぐかどうかだけれど。
女の子にしては背が高いし、脚が特に綺麗だからこれを強調するポーズでいく。お尻の形もいいが、難を言えば胸が薄い。客受けを考慮して、Cカップぐらいに上積みしておけば大丈夫だろう。
「美蘭、おじさんがやらしい目つきで、舐めるように見てるよ」
いきなり、そう声をかけたのは亜蘭だった。いつの間に帰ってきたのか、俺のすぐそばに立っている。
「ひ、人聞きの悪いこと言うな。俺はただ、包丁扱いが慣れてると思って、感心してただけだ」
美蘭は黙って振り向き、俺はその手に握られた包丁が自分めがけて飛んでくるのを覚悟した。しかし彼女は冷たい目で俺をほんの一瞬見ただけで、無言のまま包丁をおき、椅子の背にかけていたブレザーを羽織ると、キッチンから出ていってしまった。ややあって、力任せに玄関のドアを閉める音が響いた。
「あーあ」と、呆れたような声を出し、亜蘭は湯気をたてているパスタの鍋に近づいて、トングで一本取り出して味見した。
「ちょっと茹で過ぎだけど、しょうがないな」
彼はパスタをフライパンに移すと、美蘭が刻んでいたマッシュルームとトマトソースを加え、適当に火を入れてからパスタ皿にあけた。そして窓際にある、朝食用の小さいテーブルに運び、冷蔵庫からパルメザンチーズを取ってくると、無造作に回しかけて食べ始める。
「そのパスタ、美蘭が作ってたんだけど」
「大丈夫だよ。彼女しばらく戻ってこないから」
「それって、俺のせい?」
亜蘭は無言のまま頷くと立ち上がり、俺が床に置いていた「富士の恵み」のペットボトルの残りをグラスに注いで飲んだ。
「言っとくけど、やらしい目つきだなんて、それは完全に君の誤解だからな」
「でもさ、料理してる女の子の後ろ姿を見てて、何も感じない男なんかいないもの。僕は弟だから、どうでもいいけど」
しれっとそう言ってのけて、亜蘭はまたパスタを食べ始める。俺は身の潔白を証明するために「そういう事じゃなく、彼女は綺麗だから、料理をしてても絵になると思っただけだ」と釈明した。
「美蘭に向かって、綺麗だなんて絶対言っちゃ駄目だよ」
「なんで。立派なほめ言葉だぞ」
「だから駄目なんだ。まだ、女の子どうしならいいけど、大人の男がそんな事言ったりしたら、本気で具合が悪くなる。で、怒り狂って、結局は僕が迷惑するから」
「具合が悪くなる?どういう意味だ」
「白雪姫みたいなもんだよ。毒りんご食べたのは僕だけどさ」
それだけ言うと、亜蘭は空になった食器をシンクに放り込み「これお願いしていい?代わりに後で小梅の猫ヨガやっとくから」と、出ていってしまった。何が白雪姫だ、意味不明な事ばっかり言いやがって。この双子はふだん喧嘩ばかりしているくせに、俺を陥れる時だけは強力タッグを披露するから腹が立つ。
力任せに食器やなんかを洗い、振り向くと小梅が水を飲みに来ていた。喉が渇いていたのか、ずいぶん長いことちゃりちゃりと舌を動かしている。結局のところ、美蘭も亜蘭もふた言めには「面倒くさい」と口にするくせに、小梅に関しては細かい事までちゃんと気配りしているみたいで、俺がいちばん怠慢という事か。それを駄目押しするかのように、小梅はこちらを一瞥し、口の周りをなめて「ビャア」と鳴いた。
昼の弁当は肉巻き野菜が二つとエビホタテコロッケ一つとロースカツが一つ。ドレッシングはイタリアン一つと和風ごまだれが三つ。味噌汁はわかめ二つとしじみ二つ。コンビニでキャラメルポップコーンの大袋を買うのも忘れずに。
俺は頼まれた買い物を両手に提げて事務所に戻ると、ミーティングルームのテーブルに並べた。そこへ待ってましたとばかりに野中さんたちが入ってくる。
「悪いわね。私もお弁当ぐらい買いにいって、ちょっとは外の空気を吸いたいんだけど」
年末に向けてスケジュールは押しまくっていて、正規のスタッフは連日の深夜残業らしい。家が遠い男性社員は寝袋持参で泊まることもあるけれど、女子はとりあえず帰宅して、タッチアンドゴーで出社。俺を含めた長期のバイトは、そこまで忙しいってわけでもなく、こうして修羅場で戦う社員たちの後方支援に努めている。
「電子レンジでチンしたんじゃなくて、できたてで温かい食事って嬉しいよねえ」
「私、昨日の帰りにコンビニ寄ったら何もなくて、おつまみコーナーのくん玉とシリアルバーで我慢したの」
口を開けば悲惨なエピソードしか出てこない彼女たちだが、とりあえず化粧はしているものの、顔もずいぶん疲れている。夜勤明けの麻子もこういう感じで帰ってきたよな、と思いながら、俺は自分のロースカツ弁当のふたを開けた。脂ののった肉とソースの香りが一気に押し寄せてきて、頭に居座る数々の面倒に霞をかけてしまう。
まずはしじみの味噌汁を一口飲み、カツと白ごはんを交互に半分ほど食べ、ケチャップをまとったスパゲティを味わう。それからようやくサラダにごまだれドレッシングをかけて、こちらも半分ほど食べる。ここで少しペースダウンして、後半戦はより味わって同じパターンを繰り返すのが俺のやり方。
「柊君て、最近引っ越した?」
野菜巻きフライを食べていた野中さんは、思い出したように声をかけてきた。
「いや…なんでそんな事を?」
「新田さんが言ってたの。今週になってから柊君を毎朝駅で見かけるって。バイトでも引っ越したら住所変更の届けがいるの、知ってる?」
「あ、はあ。でも引っ越したわけじゃなくて、マンションの水道設備を修理することになって、友達んとこに避難してるんです」
「あらそうなんだ。私てっきり、彼女と喧嘩して追い出されたのかと思った」
冗談だろうが、まさかのホールインワン。俺は内心冷や汗もので「そんな恐ろしい事言わないで下さい」と苦笑していた。俺が麻子と住んでるのは別に秘密じゃないけれど、ほぼヒモ状態というのはさすがに言ってない。しかしこのまま何日もいけばさすがに怪しまれるし、新田さんに会わないルートを早いとこ見つけるしかない。
「でもあれよね、こういう時にこそ、新居探して籍も入れようか、なんて話になるんじゃないの?」
なぜだか、野中さんは理沙と同じことを言いだした。他の二人も「いいタイミングかもね」なんて口をはさんでくる。
「ならないっすよ。向こうは今すごく忙しくて、そんな事を考えてる場合じゃない」
「やーねえ、すごく忙しいからこそ、そういう事を考えたくなるの。ね?」
「そうそう、もし今プロポーズしてくれたら、誰が相手でも受け入れちゃうと思う」
「灰色の現実よさようなら、バラ色の未来よこんにちは」
女たちは口々に好きなことを言って、盛り上がっている。俺は矛先をそらすため「野中さんが結婚を決めたのって、どのタイミングだったんですか?」と尋ねてみた。
「まあ、成り行き」と、さっきまでの盛り上がりが嘘のようにそっけない。
「それは、相手任せってこと?」
「じゃなくてさ、子供」
普段は自信満々の野中さんが、妙に伏し目がちになってそう言うと、女子二人が「授かり婚?!」と悲鳴のような声を上げた。
「ていうかさ、お互いけっこう年とってるし、急ぐ理由もないし、もし子供できたら籍だけは入れようって話になってたの」
ぶっきらぼうに説明して、彼女は味噌汁を飲んだ。残る女子二人は俺と同じく三十前後だけど「それって、経済的に余裕があるから、いつでも来いって事ですよね。旦那さんかっこいい!」などと、俺には耳の痛いことを言って騒ぐのだった。
「遅くなってごめん」
午後の作業を始めようと席につくと、食後の歯磨きを終えた野中さんが、千円札を手にしてやってきた。
「おつりはスイーツ貯金に入れといて」と、二、三百円の話ながらいつも気前がいい。俺は「どうも」と紙幣を受け取ると、角の擦り切れた薄い財布にしまい込む。野中さんは、「私が有閑マダムだったら、新しい財布をプレゼントしたいな」と言って、俺の机にもたれた。
「あのさ、まだ来年の話だけど、うちの会社が吸収合併されるらしいの」
「どっかに移転するんですか?」
「場所はここのまま。ただ、経営母体が変わるっていうか、別会社の一部門になって、業務縮小。今いる社員の半分ほどは、親会社が経営する派遣会社との契約に切り替えるらしいわ」
「バイトはどうなるんですかね」
「何も聞いてないけど、たぶん、もうバイトを使う余裕はないと思うの」
「え、でもこないだ金一封なんか出たのに」
「柊君」
野中さんは素早く周囲を見回してから、空いていた隣の席に座った。
「まずは社長が切られるの。経費の使い方が適当だって指摘は前からあったんだけどさ、経理がとうとうオーナーに直訴したの。で、こないだ臨時の役員会議よ」
「はあ」と相槌をうってはみたものの、どうも実感が伴わない。そんな俺の様子に苛立ったように、野中さんは声を低くして「たぶんバイトは全員、年内いっぱいよ。他の二人は実家住まいだし、一人はまだ院生だからいいけど、柊君はちゃんと身の振り方を考えないと」と言った。
「正社員の口を探すのか、本腰入れて彫刻やり直すか、それとも他のこと考えてるのか」
いきなりきかれても、そんな事思いつくはずがない。「野中さんは残るつもりなんですか?」と尋ねると、彼女は首を振って「たぶん無理」と答えた。
「だって私、社長と大学のサークルが一緒で、その引きで入ったからさ、色んな意味で社長派なの。彼が切られるのに残れるはずないし、うまくいっても派遣じゃあね」
「じゃあ、辞めるんですか?」
「そうね。とりあえずフリーランスになると思う。うちは旦那が勤め人だからそういう選択もあるけど、他の子たちは厳しいわよね。でもこの話、まだ黙っててね」
「はあ」と頷いてはみたものの、言えるわけがない。
「私もまだ聞いたばっかりで、ここしばらく馬鹿みたいにきついスケジュールで仕事してたのが空しくなっちゃった。今年はボーナス出ないらしい、ってのが、話の発端だったんだけどさ。柊君も、クリスマスパーティーとか、予定入れすぎると後で財布が苦しくなるから、気をつけた方がいいわよ」
「パーティーって言っても、俺の仲間内はみんな、持ち寄りで飲み食いするぐらいですから」と、野中さん世代が持つ「若者」イメージを訂正したその時、俺はもっと重大なパーティーの予定を思い出していた。野中さんが自席に戻ってから、慌ててスマホを取り出し予定を確かめる。ヤバい、もう来週だ。
絶対に抜けられないそのパーティーの名前は「頌亥会」といって、元々は十二月の一日が命日である大伯父、柊欣造を偲ぶ集いだった。彼の干支がイノシシだったので、こんな堅苦しい名がついているが、今は親父の事務所が主催する、政治資金集めの催しになっている。他のパーティーの招待客が政財界中心なのに比べると、この集いは血縁や地縁といったプライベートな色合いが濃くて、一族は全員集合。海外赴任か法定伝染病でもない限りは強制参加だ。欠席すれば勘当もの。
仕方ない。もう毎年の事だから顔は出すけれど、問題は麻子の部屋に置いたままの、スーツと革靴だった。去年も同じのを着たんだし、一式新調すればいいか、と言える余裕はどこにもない。俺はスマホを片手に背中を丸めると、慌ててメッセージを打っていた。
「いきなりで申し訳ないけど、荷物とりに行きます。都合のいい時間おしえて」
それから気もそぞろで午後の仕事を片づけ、帰り際にスマホを見てみると「今日は夜勤だから、いつでもどうぞ。家賃と共益費はテーブルに置いといてください」という返事が来ていた。
11 君らはろくでなし
今夜のシャークは少し機嫌が悪い。剛太がフリースクールに行っている間に、母親の春菜に叱られたからだ。どうもソファの上で用を足したらしくて、濡れたクッションを思いっきり鼻面に押し付け、金切り声で罵倒された記憶がぼんやりと残ってる。
そのせいで彼はまだケージに丸くなったまま、みんなが寝静まって平和が訪れるのを待っているのだった。僕はシャークの耳を少し動かし、周囲の様子をうかがう。珍しく父親の貴志がもう帰宅していて、キッチンからは水音が聞こえるから、食事は終わったんだろう。空気の湿り具合によると、剛太はお風呂に入ってるみたいだ。僕はシャークの体の向きを変え、片目で外を覗いた。
食後のコーヒーを飲みながら、貴志はタブレットを見ていて、これは新聞の電子版を読んでるらしい。彼はけっこう自分の見た目を重視していて、特にカロリーの過剰摂取には気を遣っている。そのせいか、酒を飲んでいるところは見たことがないけど、もしかしたら例の事件以来、家では禁酒を装ってるのかもしれない。
他に面白いこともなさそうだし、キッチンに潜入して春菜に昼間の仕返しでもしてやろうかと考えていると、当の本人がマグカップと、チョコレートを盛った小皿を運んできた。彼女は貴志から少し離れた場所に座ると、リモコンでテレビのスイッチを入れた。相手が宗市さんならキャバクラ並みの距離感なんだから、やっぱりこの夫婦はかなり冷えた関係かもしれない。
春菜のマグカップに入ってるのは、キャラメルフレーバーラテとでも呼ぶべきもので、その甘い香りにシャークの鼻は反応してる。彼女の体重はこの半年で八キロ増えていて、その事実はスマホアプリにだけ記録されている。たぶん隠れハイボールの効果もあるんだろう。あんまり値打ちのない情報だけど、猫の肉球でスマホを覗き見するのはそう簡単じゃないし、まあこれも僕の努力の成果だ。
しばらくチャンネルをザッピングし、健康関連のバラエティを選ぶと、春菜はラテを一口飲んでからチョコレートを頬張った。それが溶けきらないうちに「ねえ、今度のパーティーなんだけど」と貴志に話しかけるもんだから、部屋には一瞬でカカオの香りが広がる。
「何だよ。時間とか、全部聞いてるだろ?俺は事務所から直行するからな。忙しいんだ」
貴志はタブレットから顔も上げず、そう答えた。玄蘭さんといい勝負の愛想のなさだけど、春菜は気にもかけずに話を続ける。
「それはいいんだけど、剛太がじいじに猫を見せたいって言ってるのよ」
「猫?馬鹿を言うな」
「でもね、あの、シャークを買ったお金って、お義父さんの事務所で出してもらったじゃない?だからやっぱり、一度は見せるべきじゃないかしら。うちに来てもらう時間はないし、あちらはお義母さんがインコを飼ってらっしゃるから、猫は駄目だし」
「だからって、パーティーに猫を連れてく馬鹿がどこにいる」
貴志はようやく顔を上げて、春菜を睨んだ。この人を馬鹿にした目つき、ちょっと美蘭に似ている。
「ほら、控え室があるじゃない。キャリーケースに入れて、あそこに置いとくの。お義父さんにはパーティーの前にちょっと見せればいいと思うのよ。あとね、万一に備えて、ペットショップの人にも来てもらおうと思って」
「ペットショップ?わざわざ金を払って来させるのか」
「いつもお友達枠でもらってるパーティーの招待券があるでしょ?あれを一枚回すつもりよ。ねえ、お義父さんだって、剛太が猫を飼ってからずいぶん元気になったって、実際に見れば安心すると思うわ。どうせ剛太はいつも最後までいないし、先に猫を連れて勇武さんと帰ればいいじゃない」
「ったく。頌亥会は本来、資金集めが目的なんだからな。仲良しパーティーと勘違いするなよ」
「ちゃんと判ってます。じゃ、控え室の事だけ、事務所の人に言っておいてね」
春菜は夫の顔を覗き込むようにして念押しすると、チョコレートをもう一つ口に放り込んだ。剛太の不登校の原因が自分にあるせいで、貴志もそれ以上文句は言えないらしく、苛ついた空気を眉間に残したまま、再びタブレットに視線を落とした。
これでどうやら、シャークがパーティーに参加する事は確定か。もちろん僕も憑いていくだろうし、そうなると祖父、場合によっては祖母ともご対面ってわけだ。今度の出し物もまた猫踊りか、と考えていると、軽い足音が近づいてきた。
「シャーク!まだ隠れてんのかよ」
濡れた髪も乾かさず、タオルを首にかけたまま、パジャマ姿の剛太がケージの外から覗き込む。後ろから春菜が「剛くん、お風呂入ったんだから、猫なんか触らないで」と悲鳴をあげているので、僕とシャークは前足を伸ばすと剛太の手をつかみ、大げさに嘗め回してやった。
「すごい!シャークの舌ってザラザラだ」とはしゃぐ剛太の肩越しに、「早く!すぐに洗ってきて」と目を三角にしている春菜の顔が見える。貴志はといえば、そんな騒ぎはどこ吹く風で、タブレットの画面を触っているのだった。
シャークとの接触を切った僕は、ソファから立ち上がると、軽く伸びをした。春菜のせいで、僕もチョコレートだとか、キャラメルポップコーンだとかを食べたくなってきた。実際のところ、猫を操ると頭が疲れて、やたらと甘いものが欲しくなるのだ。
キッチンに行って冷蔵庫を開けてみるけど、こないだ宗市さんがくれた柚子のママレードも、美蘭がむさぼり食ってほとんど残っていない。わざわざ何か買いに出かけるのも面倒だし、他に甘いものといったら、蜂蜜ぐらいか。僕はスパイスの入っている棚を覗き、そこから蜂蜜の瓶を二本取り出した。一つはマヌカハニーで、これは鬼怒子指定のもの。マニュアルによると、小梅に口内炎ができたらこれを塗るらしいけど、僕らがここに来てからはまだ使ってない。なのでたまに僕が食べるから、最近目に見えて減ってきた。値が張るらしいし、ばれるといけないので、今日は手を出さない。
もう一つは美蘭が買った奴で、イタリア産ヒマワリ蜜。ほとんどオレンジに近い鮮やかな黄色で、透き通っていないのは、花粉がいっぱい入ってる証拠らしい。僕はティースプーンを手にすると、このヒマワリ蜜を山盛りすくいとって、少し舐めてみた。まっすぐな甘さと同時に、めまいがするほど濃厚な花の風味が広がって、やがて跡形もなく消えてゆく。
僕はティースプーンから蜂蜜が垂れないように注意しながら、瓶の蓋を閉めて元の場所に戻した。それから心おきなく蜂蜜を舐めつくし、水を飲んでいると、キッチンの入り口に小梅が姿を見せた。彼女は水飲み器のそばまで行くと、「ビャア」と鳴いてこちらを見上げる。水はなくて、赤ランプ点灯。仕方なく僕は、自分が飲んでいた水の残りを分け与えた。
後は勇武にやってもらおうと思って廊下に出ると、アトリエの明かりがついている。音楽は聞こえないけど、小梅のレコード鑑賞だろうか。ドアを開け、中をのぞくと、勇武がソファでいびきをかいていた。足元にはチューハイの空き缶が三本転がっていて、傍にディスカウントストアのポリ袋が落ちている。
僕は近くに寄って、彼の顔をしげしげと眺めた。なんか印象が違うと思ったら、髪型だ。外で飲むお金はないけど、髪は切った。たぶん何か理由があるだろうと周囲を見ると、ソファの後ろにガーメントバッグが置いてある。
髪を切って、スーツを着る。もしかして、就活する気になったんだろうか。僕は彼の心境を推し量るために、電源が入ったままのターンテーブルにのっているレコードを確かめた。ショスタコーヴィチの「交響曲第5番 革命」。
なんかこういうとこ、勇武ってつくづく単純な感じがする。しかし彼は途中で寝落ちしたらしくて、レコードはA面のままだ。「革命」の一番大事なとこは最後だから、僕はB面に返すと第四楽章に針を落とし、イントロのクレシェンドに合わせて音量を上げてみた。やがて戦闘開始を思わせる、トロンボーンの角張った雄叫びが轟き渡り、勇武は「んあ?」と呻いて目を開いた。
「なんだ、亜蘭か。おどかすなよ」
彼はゆっくりと身体を起こすと、両手で何度か顔をこすり、「あのさ、一生のお願いだから、冷たい水持ってきてくれない?」と言った。
小梅に口がきけたら、さっきこれと同じ事を言ったかもしれないな、なんて思いながら、僕はキッチンに引き返し、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取ってきた。勇武はすごい勢いで水を飲み、濡れた口元を袖でぬぐいながら、「君は美蘭よりずっと親切だな」と言った。
「美蘭は僕より親切だよ。相手によるけど」
「なるほど。いいよ、判ってる。俺は嫌われてるってことだな。君にこないだ、濡れ衣きせられたもんな。俺のこと、スケベオヤジみたいに言いやがって」
彼はまだ酔いが醒めてないらしくて、妙に饒舌だった。アルコールなんて自白剤みたいなものだ、というのが美蘭の持論で、僕もそれに従って様子をみる事にした。「革命」は重々しいティンパニの響きを残して終結し、アトリエにはまた静けさが戻ってくる。
「おじさん、今日はどうしてこんなに飲んでるの?」
「そりゃあ、大人の事情ってこと。子供に判るか」
「僕もう十八だけど」
「でも君は彼女なんかいないだろう」
「彼女のいない大人だって、山ほどいるじゃない」
僕が事実を指摘すると、勇武はしばらく考えるような顔になって、それから「俺もそっちかもしれない」と呟いた。
「おじさんは彼女…」いるんでしょ?と続ける前に、勇武は「いいかあ、亜蘭」と、急に大声をあげた。
「女と住んでた部屋に、何日かぶりに帰ってみたら、男もののパジャマが干してあったんだぞ。これはどういう事だ。しかも俺より一回り大きいサイズだ」
「サイズはあんまり関係ないらしいよ」
「お前は一体何の話をしてる。俺はだな」と言って、勇武はまた考え込む。そして再び顔をこすり、「あれだ、ぶら下げる防虫剤」と言った。
「俺が戻ってこないように、わざわざあんなもの干しておきやがったんだ。いいか、ちょっと金の事で行き違いがあったからって、俺がいない隙に新しい男を引っ張り込むってのはひどすぎる」
「しかも一回り大きいサイズ」
「だからそれはいいんだって!」
サイズにこだわってたのは自分なのに、勇武は僕の言葉にかぶせるように大声をあげた。
「あのまま荷物だけ持って帰ってもよかったんだ。でもな、いいか、俺はそんなしみったれた男じゃない。金は用意したんだ。理沙に頼み込んで三万も借りたんだぞ。そこに銀行の残高ありったけ、二万を足して五万円、バーンと置いてきてやった」
バーンと、のところでソファの座面を思い切りたたくと、勇武は床に置かれていたチューハイの缶を拾い上げて口をつけた。もちろん何も出てこない。
「おじさん、本当にお金がないんだね」
「ない。バイトも今月いっぱいで打ち切りらしい」
「だから就活のために、髪を切ったの?」
「これは、あれだ。柊欣造を称える、年に一度の大パーティーのために切ったんだ。柊家の奴らはみんな来るぞ。勇武くん、彫刻のお勉強は進んでる?なんて、俺がもうとっくの昔に制作なんか辞めたのを判ってて言いやがる。本心では、いつまで親のすねをかじって芸術家ぶってるのかしら、なんて思ってるくせに。楽しいぞ、そういうパーティーは。君と美蘭も来ればいい。みんなに紹介してやろう。兄貴は大学時代に、優秀な成績と隠し子を残しました、ってな」
「その優秀って言葉、成績だけじゃなくて、隠し子にもかかってる?」
「優秀なのは兄貴の成績だけ。君らは二人はどうしようもない、ろくでなしだ」
さっき僕のことを親切だと持ち上げたくせに、勇武は面と向かってひどい事を言ってくれた。そして、すっきりしたと言わんばかりに、再びソファに横になって目を閉じる。まあ確かに、自分はろくでなしかもしれないと思いながら、僕はインタビューを切り上げることにした。でも最後にあと一つだけ、聞いていない事がある。
「おじさん、どうして彫刻をやめちゃったの?」
「んむ」と低い返事があって、勇武は明かりが目に入らないように、額に腕をのせた。
「もしかして、3Dプリンターと関係ある?」
「んむ」ともう一度唸ってから、勇武は低い寝息をたて始めた。この質問に対するガードは、もっと深いところにあるらしい。これ以上は無理だな、と思って彼をその場に残し、ドアを開けると、小梅を抱いた美蘭が立っていた。
「面白い話、してたじゃない」
「立ち聞きしてたんだ」
「爆音で革命なんか流すからよ。小梅が慌てて逃げ込んできたから、何かと思って」
「彼、僕らのことは本気で嫌いみたいだよ」
「当たり前よ」
何を判り切ったことを、といった風に眉を上げ、美蘭は「小梅の飲み水、ちゃんと補充しといてね。あの馬鹿、いくら言っても出来ないんだから」とため息をついた。
「バイトもクビで、彼女にもふられたみたいだよ。本当に色んなこと、駄目な人なのかな」
「あんたのおじさんだからね」
美蘭はわずかに口角を持ち上げる。
「ねえ、なんか一族で大集合するパーティーに誘われたの、どうする?」
「あんた本気で言ってる?あれ皮肉だからね」
「そうなんだ。でも僕は、剛太が猫を連れてくから、一緒に行かないと」
「まあせいぜい楽しんでくればいいわ」
「美蘭も行きたいなら、勇武に頼んでみれば?」
「余計なお世話。招かれなくても、ちゃんと行くのが隠し子なりの礼儀ってものよ」
そして彼女は「小梅、お前今夜も私と寝る?」と言いながら、三毛猫を抱き寄せると、僕に背を向けて階段を上がっていった。
12 絶対言っちゃ駄目
夏休みの宿題は先に済ませるか、最後に決死の追い込みをかけるか。俺はもちろん後者で、場合によっては未提出のまま新学期を迎えた。そういう真似をしても、別に恐ろしい事なんて起きなかったからだ。とにかく面倒な事、苦しい事は後回しで、うまくすれば逃げ切り、というのが俺の行動パターン。ほめられたものじゃないって事は、十分わかってる。
とはいえ、今日はそうもいかない。大伯父である柊欣造の命日にかこつけ、一族郎党と地元愛媛からの支援者が集結し、年に一度の安否確認パーティー。万事順調に過ごしている者にとっては、楽しい集いなのかもしれないが、俺のようにほぼドロップアウトしている人間には、針の筵としか言いようがない。だからといって欠席などしようものなら、これは本人だけではなく、親兄弟にも累が及ぶ不祥事と見做されるし、たとえ参加しても、壁の花を決め込んで死んだふりをしていれば、これもよろしくない。
そういうわけで、俺は例年のパーティーには必ず出席してきた。なんせホスト側の一員でもあるし。彫刻に明け暮れていた頃には、時間ぎりぎりまでアトリエにいて、自転車でホテルに滑り込み、また帰って作業再開、なんて具合だったのだ。とにかく最初の一時間のうちに、親戚全てに挨拶と近況報告をし、棘のある質問にもにこやかに答えてしまえば、あとは何もかもが一年後まで遠ざかる。
「んまあ勇武ちゃん、お元気そうね。彫刻頑張ってる?今度はどんな賞をとるのか、いつも楽しみにしてるのよ」
毎年この集いのために、京都で和服を新調しているという苑子さん。欣造の四女で、美容室を三つも経営しているやり手だ。着物がよく似合う太めの体型で、手足が短いせいか、どこか土偶を思わせる。傍らにいるこちらも着物姿の女性は、一人娘の百代さんだ。
「この子もようやく片付いたんだけどね、なんせもう四十代でしょ?披露宴なんて恥ずかしくってできなかったの。この場を借りて皆さまにご挨拶だけさせていただこうと思って。でも婿殿がねえ、渋滞に巻き込まれたとかって、とんでもなく遅れてるのよ。本当に、なんでもかんでも遅くてねえ、みっともないわねえ」
「今時、四十代で結婚なんてざらですよ」と、俺は百代さんを援護射撃。しかし苑子さんだって、本音では恥ずかしいなんて思ってないはずだ。なんせ婿殿は華族を先祖に持ち、高校時代から海外で教育を受けてきたエリートらしい。先端医療の研究者で、忙しすぎて結婚するヒマがなかったという噂だ。
続いて挨拶したのは、またいとこの克哉。兄貴と同い年だけれど、年々貫禄を増しているせいで、五つは上に見える。彼はメガバンクに勤めていて、うちの親父の後を継いで政治家になりたいと名乗りを上げたことがある。結局、それがきっかけで兄貴が転職したんだけれど、克哉は自分が外されたことを根に持ってるらしくて、兄貴の「路チュー」騒動の時は、「だから言わないこっちゃない」と、鼻息が荒かったらしい。
「どう?仕事の方は」と、のっけからハードルの高い質問。とはいえ、克哉にとって俺は完全にライバル圏外の存在で、扱いとしては未婚女子と同じフォルダに入っているようだ。
「まあ、そこそこかな」と、適当に返すけど、お互いに何か内容のある話をする気すらない状態。彼は不動産会社に勤めている従兄の正明を見つけると、「じゃ」と片手を上げ、さっさと俺から離れていった。
俺が言うのも変な話だけど、柊家の人間は自己主張の強い奴が多い。まあ、そんな遺伝子でもない限り、政治家になろうなんて思いつかないのかもしれないけれど、とにかく人より自分、目立ってなんぼ、なのだ。そしてそれなりに有能だし、ちょっとやそっとの事では落ち込まない。図太い、というよりも鈍感、という言葉が似合うし、そういう自分が大好きだったりする。俺はどうも彼らの中では浮いてしまうけれど、その理由は、あんな風になりたくないと密かに考えているせいだろう。要するに俺は、柊家の「黒い羊」なのだ。
「勇武君、今年もちゃんと出席したな」
いきなり背中を叩かれ、我に返って振り向くと、辻さんが立っていた。この前会いに行った時は、ご隠居という感じだったのに、今日はスーツにネクタイ姿で、現役の大番頭と言っても通りそうだ。
「辻さんは、今年もツアーにつき合ったの?」
「もちろんさ。この機会しかお目にかかれない人もいるからな」
ツアー、というのは、地元である愛媛から来ている後援会員のための、日帰りバス旅行だ。彼らは朝早く愛媛を出発して空路東京入りし、日中はこの「ツアー」で都内の話題スポットを回る。それからパーティー会場であるこのホテルに来て、一泊して帰る、というのがいつもの行程。「ツアー」は毎年内容が変わるし、女性向け、男性向け、家族向けの三コースあるので、後援会員にはちょっとした楽しみになっているらしい。
「勇武君も事務所に入って、こっちの仕事を手伝わないか?君ならあちこち面白いところも知っているだろうし、地元の皆さんも喜んでくれるんじゃないかな」
「俺なんかお呼びじゃないですよ。ちゃんと旅行会社の人がついてるんでしょ?」
「しかしねえ、事務所の人間は頭が古くて、旅行会社が出す企画も、どれがいいのかよく判らないらしいよ。特に女性向けなんてのはねえ」
「それは俺も判らないな」
俺の返事に、辻さんは声をあげて笑うと「期待してるんだよ」と、なかなかに重たい言葉を残して、後援会員の集まっている方へと移動していった。そして俺はようやく、挨拶もこれで八割くらいは終わったかな、と思いながらあたりを見回す。
パーティーの内容はほぼ決まっていて、いつも立食形式。最初に親父が挨拶して、全員で乾杯、その後しばらくは食事をしながら歓談。合間に来賓のスピーチがいくつか入って、そろそろ食べ物も少なくなってきたか、という頃にアトラクションが出て、あとはお開き、という形だ。このアトラクションも毎年変わるけれど、マジックあり、落語あり。今年は美人音大生のアンサンブルユニットらしいけど、数年前に使い古されたネタのような気もする。
身内の集いとはいえ、俺は自分の家族、つまり親父と母親、そして兄の貴志と言葉を交わしていないし、会わずじまいかもしれない。こういう家族イベントの時は「散開」しろ、というのが親父の命令で、各自ができるだけ多くの親戚および支援者と言葉を交わすことを求められている。二人一組なんて効率の悪いことは許されないのだ。
正直言って俺はこんなパーティーなんて大の苦手だけれど、それでも子供の頃から真似事のように続けていると、形だけは取り繕えるようになったりする。名前を思い出せない相手でも、適当に調子を合わせておけばいいし、その気はなくても「また、そのうち」と言っておけばいいのだ。ただ、間違っても本音を漏らしたり、相手の話を真に受けないこと。でないとやっぱり、精神的にはきついものがある。
まあ、こんなところで冷静にあれこれ考えても意味がないし、何か食べてワインでも飲もうかと思っていると、目の前の男から「勇武さん」と声をかけられた。一瞬、誰だか判らなかったんだけれど、よく見ると相手は猫のシャークを連れてきたペットショップの氷水だった。
「雰囲気がちょっと違うから、判らなかった」とごまかしてみたものの、ちょっとどころか全然違う。前に会った時はフリースジャケットにジーンズという格好だったのに、今日はどう見てもオーダーメイドの三つ揃えで、しかも生地はかなり上質だ。ネクタイも靴も、それに劣らないものばかり。
「剛太くんのお母さまにご招待いただいたので」と、彼は相変わらずにこやかだけれど、ペットショップという職業が嘘くさく思えるほど、スーツ姿の方が板についている。俺は「ゆっくり楽しんでいって下さい」と言いながらも、こいつはやっぱり油断ならないと考えていた。氷水は「ありがとうございます」と会釈して、「君もご挨拶したら」と誰かに声をかけた。パーティー券は一枚で同伴一名だし、女友達でも連れてきたのかと思ったけれど、彼の後ろから姿を現した人物を目にして、俺は思わず固まってしまった。
「美蘭…」
彼女はサファイアブルーのパーティードレスに身を包んでいた。ベルベットのシンプルなデザインで、彼女の肌の白さと、手足の長さを十分に引き立てている。喉元にはパールをあしらった、同じ素材のチョーカーが結ばれ、長身の彼女が大人っぽくなり過ぎないよう、年相応の少女らしさを醸し出していた。化粧は最小限で、耳にはパールのピアス。指先は目立たない桜色のエナメルで彩られている。
「こんばんは、勇武さん」
彼女はあのわざとらしい「おじさま」という言葉を避けて、愛想のよい笑みを浮かべた。嘘だと判っていても、気持ちがぐらつく程の破壊力。
「驚いたな」
うかつにも俺は、美蘭が警戒すべき相手だという事を忘れそうになっていた。だって本当に綺麗だったからだ。プロポーションが良いのに加えて、身のこなしに隙がない。指の先までコントロールがきいているのは、身体の芯が強くて、運動神経が優れていることの証だ。素直に称賛しそうになったその時、亜蘭の言葉がよみがえった。
「美蘭に向かって、綺麗だなんて絶対言っちゃ駄目だよ」
言えば具合が悪くなる、とかいう話だったけれど、あれは亜蘭が俺をはめようとしたのかもしれない。それにもし美蘭の具合が悪くなるとして、俺にとっては敵を弱らせたという戦績に他ならないし。
「君は本当に美人だな。ドレスアップするとモデルか女優。たぶん今夜ここにいる誰よりも綺麗だよ」
さてこの言葉にどう反応するのか?俺の期待とは裏腹に、美蘭の顔に大した表情というものは浮かばなかった。ただ何度かまばたきをして、「ご冗談を」と小声で返しただけだ。これも何かの策略か、と訝しんでいると、「勇武ちゃーん!」と、勢いよく背中を叩かれた。振り向くと、従姉の和歌子が旦那と息子を従えて立ちはだかっている。
「あんた、今年もツアー来いひんかったやろ?去年あんだけ言うたやん、うちの専属ガイドやってって。思いっきりブッチされたし、わろたわ!」
いやそんな約束してませんけど、なんて言い訳は通用しない。彼女は一族でも指折りの超マイペース人間なのだ。
「あんたかて、たまには大阪来たらええねん。めっちゃおいしい店紹介するし」と、一方的に話を進める彼女に翻弄されるうち、氷水と美蘭は姿を消してしまった。
「はあ、大阪。またそのうち」
「何がそのうちやねんな。いつ来るか言うてみ」
酒も入ってないのにこのテンション。これで茶道教室の講師が務まるというのだから、大阪というのは寛容な街だ。産婦人科を開業している旦那は、人の好さそうな笑顔で立っているだけ。今年進学校に入ったという息子の明宏は右に倣えでじっとしている。柊家のもう一つの特徴は、女性上位。何故か男が極端に少なく、そのせいもあってうちの親父が伯父の地盤を引き継いだわけで、男兄弟で二人という我が家の構成は、一族の中では珍しい方なのだ。
和歌子の大声に引き寄せられたのか、その姉である由香子まで現れて、「ほな、ぜったい正月には来るんやで。みんなで白浜温泉行ってパンダ見よな」という話にまとめられそうになったところで、来賓のスピーチが始まった。俺はこれ幸いと脱出し、ようやくサンドイッチとワインにありついた。
壁際に避難して、スピーチを聞くふりをしながら一息ついていると、「勇武ちゃん」という声がした。剛太だ。紺色のブレザーにグレンチェックのパンツで、足元は革靴という立派なパーティースタイル。春菜さんの気合の入れっぷりがよく判る。
「ねえ、シャーク見に行かない?」
「シャーク?剛くん、猫連れてきたのか?」
「そうだよ。じいじに見てほしいから。キャリーケースに入れて、タクシーで連れてきた。今は控室にいるよ」
「本当に?いつ見せるんだよ」
「パーティーの前に、見に来てくれた。立派な猫だなあって、ほめてくれたよ」
「そっか。まあ、よかったじゃないか」
パーティー会場に猫を帯同とは、春菜さんも思い切ったことをするもんだ。どうやら剛太は来賓のスピーチに退屈しているらしくて、シャークのところに逃げたいようだ。俺も一通りの挨拶回りは終わったことだし、つき合うことにした。
パーティー会場を抜け出し、廊下を曲がって「柊家様控室」というスタンドの出ている部屋のドアを開ける。中へと一歩入ったとき、壁際のソファに女性が寝ているのに気がついた。悪酔いでもしたんだろうか。「すいません、失礼しました」と、剛太を促して出て行こうとした時、彼女が身を起こした。
「どうぞ、お構いなく」と、物憂げに答えながらこちらに向き直ったのは、美蘭だった。裸?と一瞬目を疑ったけれど、よく見るとベージュのブラスリップ姿で、ドレスはソファの背にかけてある。足元の絨毯には、ドレスと同じサファイアブルーのハイヒールが無造作に脱ぎ捨てられていた。
「は、びっくりした。何してるの」
剛太の手前、彼女に対してあまりつっけんどんにもなれず、俺は微妙に腰が引けた状態だった。美蘭はさっきパーティー会場で見かけた時に比べると、なんだか青ざめた感じで、「眠くなったから、ちょっと休んでたの」と説明した。そして剛太に向かって「ねえ、私が誰か判る?」と声をかける。
剛太は少しためらってから、「美蘭」と答え、彼女は満足そうに「憶えててくれたんだ」と笑みを浮かべた。
「シャーク連れてきたの、見る?」と、剛太の頭には猫の事しかないようで、美蘭は「見たいわ」と立ち上がると、恥じらう様子もなく、下着姿のままでこっちに寄ってきた。これじゃ俺の身の置き所がない。仕方がないから剛太に「ちょっとママに帰る時間きいてくるからさ、ここで待ってて」と声だけかけて、目を伏せたまま退散した。
それでも、美蘭の滑らかな肌と長い手足は俺の脳裏に焼き付いたままだ。貧弱だと思っていた胸元だって、十分に柔らかな曲線を描いていて、呼吸にあわせて匂い立つような熱を放散させていた。あれが若さって奴だろうか。
自分が三十近くになってようやく、俺には十代の肉体に湛えられた生命の勢いが見えてきたような気がする。自分があの年頃の時には、「君たち若い人は」なんて言われても、まるでぴんと来なかったけれど、近頃は本当にはっとするような瞬間があって、それは結局のところ、自分が死への距離を縮めているという現実の裏返しなのだろう。
ふらふらと廊下を歩いていると、いつの間にかロビーを見下ろす吹き抜けに来ていた。正面にある二基のシースルーエレベーターはひっきりなしに夜の街に遊びに出る人々と、遊び疲れて戻った旅人を運び続けている。ここでもうしばらく時間をつぶしてから春菜さんを探そうか。そう思いながら手すりに身を預けていると、同じように所在なげに、手すりに肘をかけている人物が目に入った。氷水だ。向こうはとっくに俺に気づいていたみたいで、目が合うと軽く会釈してみせた。
その穏やかな様子に俺は何となく気が大きくなって、彼に近づくと「美蘭だったら、うちの控室にいましたよ」と声をかけた。
「すみません、軽い貧血らしくて。春菜さんにお願いして、休ませていただいたんです」
「まあ、元々そういう人のために用意した部屋ですから、ご遠慮なく」
そうは言ってみたものの、やはり何か引っかかるものがある。
「貧血って、もしかして彼女、俺の言ったことが気に障ったとか?」
思わずそう言ったら、彼の目はほんの一瞬だけれど険しい光を放った。
「それはどういう意味です?」
「いや、美蘭に向かって綺麗だとか言うと、具合が悪くなるって。確か亜蘭が…」
俺が語尾を濁したところで、氷水は「もしそれを判っていて、あんな言葉をかけたのなら、僕はあなたの事を軽蔑します」と言い放った。予想外の反応に、俺は何だか引っ込みがつかず、「氷水さん、あなたは美蘭たちとは、どういう関係なんですか?」と聞き返していた。
彼は全く動じる素振りも見せず、手すりから身を離してこちらに向き直ると、「美蘭と亜蘭は、僕にとっては姪と甥みたいなものです。血はつながっていませんが」と答えた。
「姪と、甥、ですか」
「つまり、何かあれば、僕は我が身に代えてでも彼らを守るということ。勇武さんにもそういう人はいるでしょう?僕とあの子たちの関係は、それが全てです」
聞きようによっては宣戦布告ともとれるその言葉を、彼はさらりと口にした。それからまるでルネサンス絵画の天使みたいに微笑んでみせると、「今夜はお招きいただいて、ありがとうございました」と頭を下げ、控室の方へと歩み去った。
彼の目には迷いやためらいというものが一瞬たりとも浮かばなかったし、己を守ろうという警戒心めいたものも感じさせなかった。それは、何も恐れていないという事ではないだろうか。
途端に俺は何だか不安になって、大急ぎで彼の後を追った。まさかとは思うけど、剛太の身に何か起きはしないか、或いは、シャークに何か小細工でもされはしないか、ありえないような考えばかりが浮かんできたのだ。
「剛太!」
控室のドアを開けると、彼は一人でシャークに水筒の水を飲ませていた。
「美蘭は?どこ行った?」
「さっき氷水さんと出てったよ。会わなかった?」
「いや、会ってないけど、何か言ってた?」
「もう帰るってさ。あとね、シャークとしゃべる方法を教えてもらったよ」
「猫としゃべる?何言ってるんだ、あいつ」
「本当だよ。でも他の人には秘密」
剛太は得意そうに「秘密」を強調すると、水筒の蓋を閉め、「ママ、もう帰っていいって言った?」と尋ねた。
「ああ、たぶん大丈夫だから、行こうか。さっさと帰ってバーガーマニアのデリバリーを頼もう。ママからお金は預かってるから」
「僕、サニーサイドバーガーにする。ポテトは細い方で、チキンバーもつけたい」
剛太ははしゃいだ声をあげて、シャークをキャリーケースに入れると、両手でぶら下げた。けっこうな重さとは思うけれど、そこは自分の飼い猫という責任感のなせる業だろうか。何かあれば、我が身に代えてでも守るということ。もしかすると、剛太はシャークに対して、それくらいの気持ちでいるかもしれない。俺はといえば、どうなんだろう。そんな風に誰かを守るなんて、今まで考えたことがあっただろうか。
13 右の前足を上げたら
ちょっと喉乾いたんだけど。
何とかしてこのメッセージを伝える術はないかと考えながら、僕とシャークはキャリーケースの中で寝そべっていた。
出発前に春菜から、ストッキングを伝線させたという濡れ衣を着せられ、金切り声で小言を食らうというアクシデントはあったけれど、ホテルまでのタクシーの乗り心地はそう悪くなかったし、この部屋は静かで暖かくて、まあ快適だ。
剛太はキャリーケースの外から「シャーク、今、じいじ呼んでくるからな」と、弾んだ声で呼びかけてくるけれど、先に水を飲ませてほしい。試しに「水だよ、水」と声をあげてみると、「判ってるって」と、例によって何も判ってない二つ返事で、部屋を出ていった。
パーティーは六時からって言ってたけど、みんなもう集まってるんだろうか。ここは控室らしくて、広さはワンルームマンションほど。僕らのキャリーケースが置かれているテーブルには、剛太のリュックサックに、土産物らしい紙袋や、着替えの入ったバッグなんかものっている。傍には椅子が四脚並び、テーブルの向かい側には三人がけのソファ。その向こう、ドアのすぐ脇には小さいテーブルがあり、トレーの上にグラスと魔法瓶が置いてある。グラスの一つには誰かが飲み残した水が入っていて、あれを狙うのも手だ。
とはいえ、僕らが自力でキャリーケースを脱出できるのが判ったら、面倒な事になるかもしれない。そこまでリスクを冒すべきかどうか思案していると、ドアの外に人の気配がした。絨毯のせいで足音が判りにくいけど、剛太が戻ってきたらしい。
「シャーク、じいじが来たぞ!」
大声で呼びかけながら、剛太が全身でぶら下がるようにドアを開けて入ってくる。その後ろに続くのは、祖父で国会議員の柊源治。そしてあと一人、着物姿のおばさんは妻の照枝だろう。剛太は大急ぎでキャリーケースを開けると、僕とシャークを抱え上げ、「ほらね、大きいでしょ?」と祖父母に披露した。
源治は「これはまた、立派な猫だな。何ていう種類だ」と、大げさに驚いてみせる。
「血統書はないけどさ、マンチカンていう種類が混じってて、だから足がちょっと短いんだ。でもって、すごく頭がいいんだよ」
小鼻を膨らませて説明しながら、剛太はずり落ちてきた僕とシャークを引っ張り上げると、そのままテーブルにのせて一息つく。願ってもないチャンスなので、僕とシャークは剛太のリュックサックに近づくと、フラップを持ち上げて前足を突っ込んだ。
「おいおい、いたずらされてるぞ」
後ろで源治が声をあげてるけど、ここは無視。リュックの中には水筒が入ってるはずだ。僕らは目当ての品を探り当てると、そのまま前足でかき出し、テーブルを転がっていきそうになるのを腹で押さえ込んだ。
「シャーク、水が飲みたかったんだ。言えば飲ませてやるのに」と、剛太は僕とシャークから水筒を取り上げると、蓋をとって水を注ぎ、テーブルに置いた。取り急ぎ、シャークの好きにさせて渇きをいやしてから、僕は「だから、さっきから言ってただろ」と、文句をつけた。しかし剛太は「ほら、おいしかったってさ」と、得意顔で、本当に察しが悪い。
「ねえ、じいじもシャーク抱いてみる?絶対ひっかいたりしないから」
「そうか」と、源治はどうやら動物嫌いじゃなさそうだけど、横から照枝が「お父さん、毛がついたら大変よ」と釘を刺している。剛太は「コロコロ持ってきたから大丈夫だよ」と、リュックから粘着テープのクリーナーを取り出した。
「さすが剛くんは準備がいいな」
源治はまたしても大げさに感心してみせると、スーツに毛がつかないように腕を伸ばして、僕とシャークを両脇から抱え上げた。僕は初めて間近に見る祖父という人物を、じっくり観察する。年相応に薄くなってるけど、まあ善戦してるって感じの髪。かなり日焼けしてるのは、ゴルフのせいだろうか。テレビじゃいつも、背中に変な虫が入って出て行かない、という感じの、少し苛ついたような顔つきなのに、今日は手放しで笑っている。これが孫パワーって奴かもしれない。
そして彼の太い眉の下、ぎょろっとした両の目には、興味津々な顔つきのシャーク、つまり僕が映っていた。ここで猫踊りの一つでも披露しておくべきだろうかと考えていると、いきなり照枝が脇から顔をのぞかせ、派手なエメラルドの指輪をはめた手を伸ばして、僕とシャークの頭を押さえるように、ゆっくりと何度か撫でた。
「猫ちゃん、剛くんと仲良くしてあげてね」
まるで人間に頼むみたいに、照枝はそう言いながら目を細めた。年の割に真っ赤な口紅と、厚塗りの化粧がちょっと怖いんだけど、彼女の掌はなんだか気持ちいい。
「仲良くしてあげてるのは、僕の方だよ」と、剛太が割って入ると、照枝は「そうなの?剛くん、えらいね」と、ほめちぎった。親馬鹿ならぬ婆馬鹿ってとこだ。そこへ、ドアをノックして男が顔を覗かせ、「先生、そろそろお時間です」と声をかけた。
パーティーが始まり、みんなが出て行ったら、控室に残っているのは僕とシャークだけ。水もたっぷり飲んだし、猫おやつも食べたし、心ゆくまで毛づくろいをして、あとはのんびり過ごせそうだ。
かく言う僕本人はどこにいるかといえば、醒ヶ井邸の居間でソファに寝転がっている。いつもと違うのは、時々シャークとの接触を切って、コーヒーを飲んだり、チョコレートを食べたりして、長期戦の構えという点だ。忘れちゃいけないのは、三毛猫小梅の様子も時々見るって事。今日は勇武も件のパーティーで留守だから仕方ない。
それにしても、と、僕とシャークは前足の肉球を舐めながら考える。祖父母ってのは奇妙なものだ。もちろん、いくら世間知らずの僕だって今までに何度も、同級生とその祖父母を見たことがある。彼らは親とはまた違うスタンスで、大体において孫に甘いというか、過大評価の傾向がある。まあ、身内なんだから当然なのかな、と思いながら、僕はそれを眺めていた。
だからやっぱり、源治と照枝が剛太にやたらと甘いのは、普通の事なんだろう。でも僕にとって驚きなのは、剛太の飼い猫って理由だけで、彼らが僕とシャークにも優しくしてくれた事だった。
パーティーが始まって、どのくらい経っただろう。醒ヶ井邸にいる僕は、小梅に夕食の「猫貴族 烏骨鶏の黄金ジュレ」をやってから、居間のソファに戻ると、ホテルの控室にいるシャークに再び接触した。彼は寝ていたらしくて、僕の呼びかけに目を覚ますと、大きく伸びをして後ろ足で耳を掻いた。少し退屈だけれど、気分はそう悪くない。
もうしばらく寝ようかと、重ねた前足に顎をのせていると、人の気配がした。首をもたげて外の様子をうかがうと、ドアが開く。入ってきたのは美蘭だった。彼女は青ざめて見えたけれど、それはサファイアブルーのドレスのせいではなさそうだった。後ろ手にドアを閉めると、蹴るようにして靴を絨毯の上に転がし、首のチョーカーを外してバッグに入れる。それから器用に背中のファスナーを下すと、ドレスを脱いでソファの背にかけた。そしてブラスリップ姿でドア脇のテーブルに近づき、魔法瓶からグラスに水を注ぐと、勢いよく飲み干した。
それから彼女はようやく僕とシャークに気づいたらしくて、口元の雫を手の甲で拭いながら「何よう」と唸った。僕にしてみれば、そっちこそ「何よう」だ。声を出すのも面倒くさいので、口だけ開けて「うるさい」と威嚇してやると、向こうは「けっ」と馬鹿にした声だけ出して、ソファに腰を下ろした。
「ちょっと寝るから。誰か来たら起こして」
そんなの知らないし、と思いながら、僕とシャークはキャリーケースの中で蹲る。美蘭はソファの肘掛に脇を預けて横になると、眉間にうっすらと不快そうな影を浮かべて目を閉じた。今夜は宗市さんにくっついて紛れ込むって話だったけど、この様子じゃきっと、誰かに不意打ちで口説かれたに違いない。
また後で機嫌が悪くなって、こっちにも八つ当たりが来るんだろうな、と憂鬱な気分に浸りながら、僕とシャークは美蘭の脇腹が浅い呼吸を繰り返すのを見ていた。寝るなんて言ってるけど寝てないし、たぶん心臓はせわしなく打ち続けてる。
子供の頃から、それは変わらない。誰かが、大体において大人の男なんだけど、美蘭や僕の事を可愛いだとか綺麗だとか言うのを耳にすると、僕らの母親は一気に機嫌が悪くなった。そして後からこっそり僕らだけを呼び出し、僕らがどれだけ醜くて根性がひねくれてて、誰からも好かれないかって事を繰り返し叩き込んだ。
特に美蘭の事は同性でライバル視したのか、言葉だけじゃなくて、髪を一束指に絡めとって、血がにじむほど引っ張ったり、爪と肌の間に針を突き刺したりして、身体で憶え込むように仕向けた。
その甲斐あって、美蘭はいまだに男から口説かれたりすると、具合が悪くなる。学校モードだとか夜遊びモードだとか、キャラを作っていれば大丈夫なのに、今夜は宗市さんがいるからって油断してたんだろうか。僕はと言えば、今は別に誰からも褒められたりしないので、毎日を平和に暮らしている。
僕とシャークは少しずつ穏やかになってきた彼女の呼吸を数えながら、尻尾の位置を変えた。それから顔でも洗おうかと前足を上げると、聞きなれた声が耳に入った。剛太と勇武だ。この部屋に近づいてる。
思わず「美蘭」と声をかけると、彼女は面倒くさそうに眼を開き、「邪魔しに来やがって」と呟いた。その言葉がまだ終わらないうちにドアが開いて、剛太が入ってきた。後に続く勇武は美蘭の姿に気づくと、「すいません、失礼しました」と早口で詫びて、剛太の肩を押すようにして回れ右の体勢をとった。
「どうぞ、お構いなく」
美蘭はゆっくりと起き上がって、二人の方に向き直る。勇武はそこでようやく相手が誰か気づいたらしくて、「は、びっくりした。何してるの」と声をかけた。
「眠くなったから、ちょっと休んでたの」
どうやらスイッチが入ったらしくて、美蘭は下着姿なのも気にかけていない。そして剛太に「ねえ、私が誰か判る?」と尋ねた。彼はうつむき加減に「美蘭」と答え、彼女は「憶えててくれたんだ」と獲物を前にした笑みを浮かべる。
「シャーク連れてきたの、見る?」
美蘭が「見たいわ」と返事するのも待たずに、剛太はキャリーケースを開けて僕とシャークを抱き上げた。勇武はどうやら居心地が悪いらしく、その隙に部屋から出ていってしまった。
「こないだより少し大きくなったみたいね」と言って、美蘭は僕とシャークの喉元を冷たい指先で掻いた。剛太は「こいつ、すっごく大食いなんだ」と、得意げだ。
「猫の大食い選手権とか、あればいいのにね」
「ぜったい優勝するよ」
馬鹿な会話してるなあ、と呆れながら、僕は美蘭が僕とシャークを抱くかどうか考えていた。剛太の前で、フレンドリーな演技をするなら、抱く。でも僕のことは嫌いだから、やっぱり抱かない。
「ねえ、この子とお話しする方法、教えてあげようか」
美蘭はそう言うと腕を伸ばし、剛太から僕とシャークを引き取ってテーブルの上にのせた。剛太は何が起こるんだろうと、大きな目をさらに丸く見開いて彼女を見ている。たんに露出が多くて、目が離せないだけかもしれないけど。
「いい?まずは最初にこう質問して。今日はお話しする日?しない日?」
「わかった」
「この子はね、イエスの時は右の前足を上げる。ノーの時は左」と言いながら、美蘭は僕とシャークの前足を交互に触った。
「もしイエス、つまり右の前足を上げたら、お話しを続けても大丈夫。でも左の前足を上げたり、何の答えもない時は、それでおしまい」
「わかった」
「じゃあいくわね。シャーク、今日はお話しする日?しない日?」
こういう展開は予想してなかったけど、無視なんかしたら後で何をされるか判らない。僕らは素直に右の前足を持ち上げた。
「わあ、イエスだって!」と、剛太は興奮を隠せない様子で叫ぶ。
「お話しできるみたいね。続けるわよ。シャーク、今、お水飲みたい?」
正直あんまり喉は乾いてないけど、ここは流れとしてイエスの選択。僕は再び右の前足を持ち上げ、剛太は「うわあ」と口を開いたままだ。美蘭は「ね、これでお話しできたでしょ?」と彼の肩に手を置く。
「本当だ。じゃあ水飲ませてやらなきゃ」と、剛太は慌ててリュックから水筒を取り出した。その時、ドアの外に人の気配がしたので、僕は美蘭に「誰か来た」と声をかけた。まあ実際には「ニャニャ」ぐらいだけど。
軽いノックが響き、顔を覗かせたのは宗市さんだった。彼は「気分どう?」と美蘭に声をかけ、剛太には「シャークはいい子にしてる?」と尋ねた。
「うん。水が飲みたいんだってさ。ちゃんとしゃべれるんだよ」
「美蘭が教えてくれた?よかったね」
二人が話をしているうちに、美蘭はドレスを身に着けて靴を履くと、バッグからチョーカーを取り出し、宗市さんに「お願い」と声をかけて背中を向けた。
「猫って、チーズ食べても大丈夫なのかな」
勇武の奴、心配してるような事を言う割にガードが甘い。シャークはテーブルに彼が放り出したハンバーガーの包み紙に首を伸ばすと、へばりついているチーズを舌でせっせとこそげ落とした。
「でもさ、氷水さんが言ってたけど、猫に人間の食べ物あげるの、駄目なんだって」
剛太はフライドポテトにケチャップをつけながら、訳知り顔で言う。
「なんで?」と、勇武もフライドポテトを頬張り、二本目の缶ビールに口をつける。
「塩が多すぎるんだって。人間だと塩は汗と一緒に出ていくけど、猫はほとんど汗をかかないから、身体に溜まって病気の原因になるんだよ」
「へーえ」と、猫のことなんか全く心配してない空返事。勇武はよほどパーティーが重荷だったらしくて、剛太に便乗してホテルを脱出した途端に、腑抜けみたいになってる。
タクシーに乗り、途中でコンビニに寄ってビールとコーラを買い、更にハンバーガーショップに宅配オーダー。剛太のマンションにたどりついたらスーツも脱ぎ捨て、Tシャツにジーンズで我が家のようにリラックス。剛太も似たような格好で、そこへシャークも加わり、春菜が見たら絶叫するような、人畜入り乱れての二次会だ。
「やっぱり、シャークはカリカリだな」
剛太は立ち上がってリビングを出ていくと、しばらくして戻って来た。そして握りしめていた左の拳をテーブルの上で開く。中からこぼれ落ちたのはキャットフードだ。彼はそれを一粒ずつ、ケチャップの入った小さな器の周囲に並べていった。
「剛くん、人間の食べ物と一緒はちょっとまずいんじゃないか?」
「いいんだ。このカリカリはきれいだよ。シャークも僕らと一緒に食べたがってるし」
別に人間と会食したいとは思わないけど、気持ちだけは有り難く頂戴して、僕とシャークはテーブルの中央に進み出ると、剛太が並べたキャットフードを一粒ずつ食べた。勇武は二本目の缶ビールを飲み干すと、「ふああ」と声をあげて大きな欠伸をする。そしてしばらく僕らの食事を見ていたけれど、ふいに「剛くん、美蘭のことどう思う?」と尋ねた。
「美蘭?猫みたいだ」
彼は手にしていたフライドポテトでキャットフードをつつくと、僕とシャークの鼻先に転がした。
「猫みたい?どういう意味だよ」
「最初ちょっと意地悪に思えたけど、そうじゃなかった」
「なるほど。じゃあ、亜蘭は?」
「亜蘭って?」
「美蘭の弟だよ、双子の。あの、三毛猫の写真を撮りにいった時に会っただろ?ここにシャーク連れてきた時もいた」
「あんまり憶えてない」
やっぱり。我ながら感心するほど、僕という人間は影が薄い。まあ、下手に目をつけられるよりいいよな、と思いながら、僕とシャークはキャットフードの最後の一粒を食べ終えた。さて少し髭の手入れでもするか、と身体を起こすと、勇武が「なあ、さっき、シャークとしゃべる方法を教えてもらったって、言ったよな」と尋ねた。
「うん。でも他の人には秘密」
「俺はさ、剛くんにシャークを紹介した人間だから、他の人とはちょっと違うぞ」
「そっか」と、剛太はあっさり言いくるめられて、「あのね、最初にこう聞くんだ。今日はお話しする日?しない日?」と口走っていた。仕方ないので僕とシャークは右の前足を持ち上げる。この際、ちょっと驚かせてやるか、という気持ち半分。
「ほらね。右足はイエスで左足はノーだから、お話しするよ。勇武ちゃんは何を聞きたい?」
「ええと、じゃあ、剛くんのことは好きですか?」
勇武は半信半疑といった顔つきで、酒臭い息を吐きながら質問する。答えはもちろん右足。剛太は「当然だよな」と得意げだ。こんどは彼が「じゃあ、パパのこと好き?」と聞く。実際は微妙なとこだけれど、流れで右足。
「じゃあ、ママは?」
少しだけ右足を浮かせてから、大きく左足。これは「いつも怒られてるもんな」と、結構うけた。勢いづいた剛太は「じゃあさ、勇武ちゃんのこと好き?」と聞いてくる。本人を前にして、空気を読むべきかもしれないけど、馬鹿らしいので、体勢を変えて後ろ足を大きく持ち上げ、尻の穴周辺を毛づくろい。勇武は「はあ?」とか言ってるし、剛太はソファから床に転げ落ち、息を切らせて大笑いしている。
全く、猫って奴は「猫だから」という理由だけで、何をやっても五割増しの評価を受ける得な生き物だ。僕とシャークは素知らぬ顔で毛づくろいを続けた。背中も綺麗に舐め終わったところで様子をうかがうと、勇武はもう寝入っていた。
こいつ、すぐ潰れるんだよな。テーブルからソファに飛び移り、僕とシャークは彼の寝顔を覗き込む。酒臭いし、軽くいびきもかいてるし、全てが間抜けだ。出来心で、開きっぱなしの口に前足を突っ込もうとしたら、剛太が「起こしちゃ駄目だよ」と制止した。
そして彼は僕とシャークを抱え上げ、テーブルの上に戻す。フライドポテトはほとんどなくなり、パン屑みたいな破片だけが散らばっている。それを指先で一つまた一つとつまんで口に運びながら、剛太は囁くような声で「ねえ、シャーク、弓野先生が、今度の団体鑑賞に来ませんかって、電話してきたんだって」と言った。いきなりそんな話されても、何のことかさっぱり判らないんだけど、まあ大人しく耳を傾けておく。
「ほら、僕いまフリースクールに行ってるだろ?でも本当は、小学校に戻った方がいいんだ。そうしたら、大学まで受験勉強せずにすんで、パパやママも安心するから。だけど明日から急に戻るとか、そんなの無理だからさ、とりあえず団体鑑賞で半日だけ来てみたらって。狂言やるらしくて、先生はすっごく面白いって言うんだけど、どう思う?」
なるほど、だんだん話が見えてきた。要するに不登校の復学工作ってことか。たしかに私立小とフリースクールの学費、両方払うのはけっこうな出費だろうし、不登校のままだとそのうち除籍されて、大学までエスカレーターという目論見も崩れるわけか。
「ねえ、シャーク、行った方がいい?行かない方がいい?」
こうきかれて、僕は我に返る。さっきの流れからして、シャークと剛太の会話はまだ続いてるらしい。面倒な事になったな、と思いながらも僕は、まあ、狂言ぐらいならそう退屈しないし、行っとけば?と、軽い気持ちで右の前足を上げていた。
14 一種の十字架
ノストラダムスを始めとして、俺の知ってる終末関係の予言は悉く外れてるけど、唯一の例外は野中さんだ。彼女の予言通り、三月一日よりうちの編集プロは他社に吸収合併され、社長は退任。社員の半数は派遣登録となり、俺を含めた三名のアルバイトは年内を以て契約終了となる事が発表された。
社内の雰囲気は目に見えて沈み込み、電話の呼出音さえくぐもって聞こえるようになった。気がつけば、みんなあちこちで内緒話をしていて、話題はもちろん、誰が正社員で残って、だれが派遣になるのかという予想だ。互いに疑心暗鬼というか、相手は自分より情報を握ってるんじゃないか、自分がつかんだ噂は本当なのか、誰もがそんな事を勘ぐっているようで、クリスマスや年末年始の予定なんて別世界の出来事扱いだ。
それでも、締め切りだけはじわじわと近づいてくる。
「柊くん、この資料に目を通して。書き出してあることをチェックしてもらっていい?慌てなくていいから、確実にね」
野中さんはデスク越しに腕をのばし、紙の束を差し出す。俺はそれを受け取ると、「わかりました」と作業にかかる。沢村の沢の字は旧字体か?名前はセツとセツコのどちらか?入社年度は昭和三十八年か昭和四十年か?その他色々。
はっきり言って、よくこんな細かいことまで突き合わせる気になるもんだと、半ば呆れてしまう。まあそれが野中さんたちの仕事といえばそれまでだけど、俺の率直な見解は、まあ大体合ってりゃいいんじゃない?だ。まあ、その詰めの甘さすなわち社会人としての適性の低さ、という指摘は麻子からたまに受けたけど。
確認事項は山ほどあって、いちいち資料を読み直して確かめるから時間がかかる。気がつくと退社時間の五時半を回っていた。といってもここで帰るのはバイトだけで、他のスタッフはこの後が正念場。俺はできただけの仕事をまとめて、野中さんのデスクに向かった。
「終わったところまで、印つけてます」
「ありがと。最近、ちまちました仕事ばっかりで悪いわね」
「いや別に、大丈夫ですけど」
「よく言うわ。ここから見てたら丸わかりよ。つまんねー!もっとメリハリのある事させてくれ!って顔しながら作業してるの」
そりゃ確かに、取材の運転手とか、カメラマンとか、そういう仕事の方が刺激はあるが、そこまで退屈そうな顔をしていたという自覚はまるでなかった。野中さんは少し困ったような笑顔を浮かべて「ねえ、柊君って本当のところ、どんな仕事がしたいの?」と尋ねた。
「俺は別に選り好みしないです。そこそこ稼げて、基本八時間労働で、週休二日がキープできたら、何でも」
「やだあ、一番難しい要求してる。でもさ、例えばの話、お給料は安くてもいいから、絶対これがしたい、なんて仕事はないの?美大に行ってたぐらいだから、職人とかになるの、向いてるんじゃないかと思うのよね。ぶっちゃけ、柊君ってもう三十でしょ?技の世界に入るんだったら、年齢的にはラストチャンスだし」
「職人、向いてる風に見えますか?俺かなりいい加減ですけど」
「でも絶対、事務職とか営業職ではないでしょ?」
そこまで言って、野中さんはふいに力が抜けたような顔つきになった。
「ごめんね、なんか余計なこと言っちゃって。うちの中三息子とだぶってきて、黙ってらんないのよ。本当にもう、受験生の自覚ゼロで、ちょっと目を離すとゲームしてるし」
「でも、俺より息子さんの方がしっかりしてるかもなあ」
「何言ってんの。引き留めて悪かったわ。お疲れさま」
俺も「お先に失礼します」と挨拶して、事務所を後にした。そうなんだよな、傍から見れば立派にいい年した男が、平気な顔で「仕事は選り好みしない」とかほざいて、先の心配もしてないんだから、どうしようもない。
そして俺は堅気の勤め人のふりをして通勤電車に乗り、居候先の醒ヶ井邸へと帰路についた。まずは三毛猫小梅の世話を手早く済ませ、それから何か食べに出かけよう。あの家の不便なところは、なまじ格上の住宅地なだけに、牛丼とかラーメンといった、ガッツリ格安系の店が近所に皆無という点だ。
本音を言えば、今の俺はむしょうに麻子の手料理が食べたかった。料理自慢ってほどの腕前でもないし、納豆オムレツとか、おからハンバーグとか、節約時短メニューのローテーションだったのに、不思議と飽きがこなかった。むしろ俺の方が、変に凝った料理に挑戦しては、そのまま封印レシピに終わらせていたような気がする。
いや、いけない。こんな事を考えるのは気持ちが弱ってる証拠だ。麻子より料理のうまい女なんて、掃いて捨てるほどいる。たぶん俺たちは、この先どうにもならないんだから、幻みたいなものを懐かしんでいる場合じゃない。何より、麻子はもう、別の男を見つけているんだ。
「全く、何度言ったらわかるんだか」
相変わらず、相手が大人だという事を全く気にかけていない口調で、美蘭は猫の餌入れを指さした。俺は醒ヶ井邸に戻るなり、「おじさま、ちょっと」と、キッチンに連行されていた。
「これさあ、猫貴族の烏骨鶏の黄金ジュレじゃん。ついこないだ食べたとこだし、まだ出番じゃないのよ。順番はマニュアルに載ってるから、普通にしてたら間違うはずないんだけど」
なるほど、餌入れの中には、俺が朝出かける前にパックから出した餌が手つかずで残っていた。要するに、小梅様はお気に召さなかったらしい。俺は素直に「ごめん、うっかりしてた」と謝る。
「うっかり」
美蘭は俺の口調をまねて繰り返すと、「じゃあ聞くけど、水もうっかり、ですか?また赤ランプ点灯してんだけど」と追及してくる。傍の水飲み器に視線を向けてみると、たしかに赤ランプが点いている。
「ごめん、そっちも、気がつか…」
「あーそう」と美蘭は俺の言葉を遮る。
「そうやって何でも、その場は素直に非を認めてやり過ごせばいいって思ってるんでしょ?で、何も改めない。だってそんな事する必要ないから。俺は俺だもん」
彼女はそこでいったん黙った。外で見せている様子からは想像もつかない、無表情な顔つきで、これが彼女の怒りって奴なんだろうか。女というのはうるさく喚いてる方が、まだこっちの出方次第でどうにかなる。こういう、氷のような冷たさが、一番扱いにくい。
「立派な大人の方に向かってあれこれ言いたくないけど、こんな事されると、小梅の寿命に響くのよ。人間ならゆうに百歳超えてるし、一食抜いたとか、ちょっとしたきっかけで調子悪くなるの。で、死んじゃったりしたら、私たちここを出なきゃならいから。せっかく醒ヶ井守ネタで儲け話が進んでるのに、困るの」
仕方ない、とにかくここは大人のプライドは置いて謝っとけ。俺なりの経験則に従って口を開こうとした時、「美蘭、これでいいの?」という声がした。とっさに振り向くと、キッチンの入り口にあの、桜丸とかいう名の大学生が立っている。彼は「キャットセレブ ホロホロ鳥のコンソメ仕立て」のパウチを手にしていて、俺と目が合うと「こんばんは」とにこやかに挨拶した。つられて俺も挨拶してしまう。
「ありがと。餌入れを洗って、それと替えてあげて。古いのは庭に出しとけば、野良猫が食べにくるわ」
美蘭の指示に「了解」と答えて、桜丸は餌入れを片手にキッチンを出ていった。美蘭は腕を組むと「おじさまには悪いけど、勤務評価は五段階で一。いいかげん過ぎるわ。だからもう、辞めてもらえる?あとは亜蘭と桜丸にやらせるから」と言った。
「いや、ちょっと待って。言ってなかったけど、ここんとこ色々と忙しかったんだ。そのせいでまあ、至らないところはあったと思うけど、これからは大丈夫だから。それに、いまのバイトは年内で終わることにしたから、時間的にも余裕ができるし」
どの口がそう言うんだか、という調子で俺は弁解を続けていた。しかしここでいきなり、バイトに続いて住む場所まで失うわけにはいかない。
「無理。行いを改めるんだったら、もっと早くにすべきだったわね。こっちだっておじさまが何考えてるかはお見通しよ。でも、どうしてもここに居座りたいんだったら、家賃払ってちょうだい。一日千円。水道代と光熱費込みだから格安でしょ?」
全く、取りつく島もない。美蘭は少しだけ口角を上げると、「賄いつきにしてあげましょうか。小梅と同じキャットフード。日替わりで豪華よ」と言った。
「遠慮しとく」
「あらそう。おじさまってキャットフード召し上がったことないの?」
「んなもん食うわけないだろ」
「私と亜蘭は小さいころ、たまに食べたわ。缶詰とか、カリカリとか、あと、ドッグフードもね。案外いけるわよ。かなり薄味だけど、お腹が空いてると気にならないの」
「お前ら本当にいかれてるな。子供のいたずらでも、普通はそんなもの食べないぞ」
俺はこの間の、剛太がシャークの餌をフレンチフライと一緒に並べていた様子を思い出していた。いくら飼い猫を溺愛している剛太でも、さすがに餌まで口にしてはいない。
「だってしょうがないじゃない、親が何も食べさせてくれない時には。でもさ、猫や犬も気前のいい奴ばかりとは限らないのよね。ひっかかれたりして、けっこう大変なのよ」
美蘭はまるでそこに傷があるように、右手の甲を何度かさすった。そして急に俺の目をまっすぐ見ると、「今日のところはまけとくから、明日から家賃払ってね。払えなくなった時点でアウト。期限は夜の十二時にしましょう」と宣言した。
「いや、ちょっと待てよ」
このままではまた、一方的に借金を増やされてしまう。俺は一か八かの勝負に出ることにした。
「君が金儲けしか考えてないのはよく判ってる。でも俺から家賃をとるより、儲かる話があるんだ」
「どんな話よ」
美蘭の視線がほんのわずか動いた。
「彫刻つくって売るんだよ。量産できるから、ブロンズでいこうと思うんだ。裸婦の小品だと、値段も手頃だからよく売れる。伝手はあるから、売り先のことは心配しなくていいし、君の方でルートがあるなら、任せてもいい。とりあえず製作費を用意してもらうけど、これは後で売り上げから返す。で、借金がチャラになった時点で終わりだ」
「なるほど、おじさま、ようやくエンジンかかったのね。だったらここのアトリエを使えばいいじゃない」
美蘭はかなり乗り気らしく、うっすらと狡猾な笑みを浮かべている。
「それなら有り難い。で、一番大事なのはモデルだ。モデルの良し悪しが作品の出来を左右するからな」
「それは、おじさまの好きにすればいいわ」
「うん。だから、君を使おうと思う」
俺がそう言った途端、美蘭はフリーズしてしまった。といってもほんの数秒だけれど、とにかく意識がとんだかのように、目がうつろになった。それからすぐに、彼女は無理やり、といった感じで笑顔になり「そんな事したら、逆に売れなくなるわよ」とちゃかした。 「そうじゃない。君でないと売れないんだ。少なくとも、いま俺がやろうと思ってるのは君がモデルの作品だ。自分じゃ判らないだろうけど、君には独特な魅力がある。たんに綺麗って表現で済ませられない何かだ。そりゃ、性格はかなりひどいというか、えげつないけど、とにかく君自身は作品として残すに値する美しさなんだよ」
三十にもなって、もう少し理路整然とした説得ができないものかと思うけれど、行きがかり上こうなったんだから仕方ない。俺がヒートアップするのとは逆に、美蘭はまた無表情になり、カウンターに置いてあったグラスを手にすると、いきなり床に叩きつけた。
「うるさい」
低い声でそう言うと、彼女は苛立ちを抑えるように、グラスを投げた右腕を左手で握りしめた。その時、「どうしたの?」と言いながら、桜丸が入ってきた。
「何か割れる音がしたけど」
けげんそうな表情の彼は、床で砕け散ったグラスと、俺と、美蘭を交互に見て、この状況についての答えを百通りぐらい考えているみたいだった。ふいに、美蘭は身を翻すと彼の首に腕を回し、唇を重ねた。それは何か、親愛の情を示すというよりは、飢えをしのぐ行為に見えたけれど、桜丸の方はまさに虚を突かれた獲物のように固まっていた。
それが一体どのくらいの長さだったのか、よく判らない。ただ、しばらくすると美蘭はこちらを振り向き、馬鹿にしきった目で「少しは気をきかせたら?」と言ってのけた。とんでもなく無粋な野郎に仕立て上げられた俺は、黙って立ち去る以外になく、彼女は背中ごしに「さっきの事、考えてあげてもいいわ。どうして彫刻辞めたのか、教えてくれたらね」という言葉を投げてきた。
ちょっと外の空気が吸いたくなって、俺は居間からテラスを通って庭に出た。真冬にはまだ少しあるけれど、夜気は十分に冷えていて、冬枯れの立ち木を通して見える夜空には明るい星が懸かっている。わざと白い息がたちこめるように長い息を吐きながら、俺はなるべく何も考えないようにして立っていた。
テラスの脇に目をやると、アルミのボウルが置かれていて、小梅が手を付けなかった烏骨鶏の黄金ジュレが入っている。よく見ると、植え込みの影で野良猫が目を光らせていて、どうやら俺はここでも邪魔者らしかった。
とりあえず、晩飯を食べに出るか。そう考えて中に戻ると、キッチンにはまだ明かりが灯っている。ついつい覗いてみると、桜丸が掃除機を片手に、割れたコップの後始末をしていた。
「悪いな、君は関係ないのに」
目が合ったのでそう言うと、彼は「いいんです」と笑った。
「小梅が踏んで怪我なんかしたら、大変だから」
「君たち、本当にあの猫のこと可愛がってるんだな」
「まあ、僕も美蘭たちも、動物は嫌いじゃないし」と言い、床を軽く撫でて破片が残っていないのを確かめると、彼は掃除機のプラグを抜いてコードを巻き取った。
「美蘭は?」
「部屋にいると思いますけど、あの…」
「何?」
「柊さんって、美蘭とどういう関係なんですか?知り合い、って彼女言ってましたけど、何だか違うような気がして。大人の男の人で、こんな風に一緒に住む人なんて、今までいなかったから」
明らかに、彼は俺の事を疑ってる。ただ人がよすぎて単刀直入に言えないだけなのだ。
「まあ、ちょっとした親戚みたいなもんかな。甲斐性がなさ過ぎて貧乏だから、居候してるだけだよ。美蘭が君に夢中だって事は、心配しなくても保証する」
「いや、僕たちそんなじゃ、ないです」
急にさっきの事を思い出したように、桜丸は頬を赤らめて俺の視線を避けた。
「別に隠す必要もないだろ。お似合いのカップルだよ。まあ、君の好みはちょっと変わってるけど」
「僕はいいんです。美蘭のこと好きだから。でも彼女はそうじゃない」
「いやいや、誰が見てもさっきのはそうだよ」
「違います。あれは、困った事から逃げようとしただけ。彼女は時々そういう事をするんです。柊さんは、美蘭に彫刻のモデルになってほしいんですか?」
「まあ、そうだね」
「それって、服は着ずにって事ですか?」
「作品によるけど、今回は脱いでもらいたい」
俺の返事に、やっぱり、という顔つきになって、桜丸はしばらく黙っていた。それから、恐る恐るという感じで「あの、僕が代わりにやるんじゃ駄目ですか?あと、亜蘭だったら彼女によく似てますけど」ときいた。
「まあ、亜蘭か君かというなら、君の方が向いてるけど、狙ってる市場はそこじゃないんで。残念ながら頼めない」
「そうですか」
彼にもし尻尾があったら、だらりと垂れ下がってるという状態で、俺はさすがに罪悪感に襲われた。しかしそもそも、美蘭が金の亡者だからこういう事になるのだ。そう自分に言い聞かせて、「心配しなくても、彼女はたぶん断ると思うよ。君に内緒ならともかく、知られちゃったんだから」とフォローだけは入れておく。
「どうだろう。美蘭は天邪鬼だから。見た目をほめられたりすると、本気で切れちゃうし」
桜丸は思案顔で、大きな溜息をついた。
「あれは彼女、切れてるの?いや、ちょっと前に亜蘭からも、美蘭に綺麗って言わないように釘をさされたから」
本音を言えば、俺が一番気になっていたのは、パーティー会場での氷水の言葉だった。
「判っていて、あんな言葉をかけたのなら、僕はあなたの事を軽蔑します」
美蘭のような馬鹿娘に多少の暴言を吐かれても受け流せるが、氷水みたいに良識のありそうな相手に真っ向から「軽蔑します」なんて言われたのは、いきなり横っ面をはられた程の衝撃だったのだ。
「僕にもよく判らないですけど」と、桜丸は言葉を選びながら答えた。
「たぶん何か、嫌な事を思い出すんじゃないかな。彼女、小学校の時から切れてたから、もっと小さい頃の事かもしれない」
「でもなあ、女の子に綺麗だって言っちゃうのは仕方ないよな。特に美蘭みたいな子には」
「だけど彼女は放っておいてほしいんだと思います。それに、見た目以外にも、他に数えきれないほど素敵なところはあるし」
「それはちょっと、君にしか見えない幻だと思うよ。あばたもえくぼって奴で」
俺の冷静なコメントに、桜丸はただ、はにかんだように笑った。
それから俺はキッチンを後にして、食事に出た。夜道は静かで、たまに犬の散歩とすれ違ったり、自転車に追い抜かれたりする。どこからか煮魚の匂いが漂ってきたかと思うと、家の中で子供の駆け回る足音が聞こえてきたり。窓から漏れる明かりは暖かくて、平穏な暮らしというものがこの街には満ち溢れている。ただ、自分だけはそこから排斥されているのを実感しながら歩くうち、俺の気持ちはさっきの出来事に巻き戻されていった。
どうやら美蘭にとって、見た目の美しさというのは一種の十字架らしい。でもそれを利用せずにおくほど、頭の鈍い彼女ではないし、実際のところ存分に使いこなしている。にもかかわらず、自分でどうにもならない瞬間があるのだろう。
それでも、彼女はモデルを「考えてもいい」と言った。はったりだろうが、天邪鬼だろうが、言ったことに変わりはない。だから、後は結局、俺次第なのだ。彼女に話すか、話さないか。俺自身の十字架のことを。
15 い、ま、か、ら、は、な、す
勇武の奴、また美蘭と何かあったらしい。
不穏な気配を感じながら、僕は階段を降りていった。ちょっと昼寝をしたつもりが、気がつくとすっかり夜で、まあいつもの事ではあるんだけど、お腹が空いて仕方ない。キッチンが明るいので勇武がいるのかと覗くと、桜丸がカウンターにもたれて三毛猫小梅の食事を見守っていた。
「来てたんだ。今日はレコード鑑賞の日?」
「のはずだったけど、色々あってさ」と、彼は何だか憂い顔だ。
「どうせまた、柊さんが美蘭を怒らせたんだろ?あの人、地雷ばっかり踏むから」
僕はしゃがんで、食事を終えた小梅が、口の周りを嘗め回すのを眺めた。今日も食欲は普通にあるらしくて、ビャア、と一声鳴き、隣の水飲み器で涼しげな音をたて始めた。
「何かね、柊さんは美蘭に彫刻のモデルを頼んだみたいなんだ」
「ふーん。だから切れたんだね。無理に決まってる」
「じゃなくて、条件次第でやるって」
それを聞いて、僕は思わず彼の方を見上げた。なるほど、憂い顔の原因はこれか。
「条件って?」
「よく判らないけど、柊さんが彫刻を辞めた理由が知りたいらしいよ」
「そうなんだ」と言ってはみたものの、僕には美蘭の真意がよく判らなかった。まあ、彼女の発言なんて、大半が口から出まかせなんだけど。
「ねえ、もし柊さんが条件をのんだら、美蘭は本当にモデルをすると思う?服は着ないで、って事らしいんだよ。しかも彼女じゃないと駄目って」
僕はずっと、桜丸のことを超がつく楽観主義者だと思ってきたけど、その彼がこんなに不安そうにしているのを初めて見た。目が泳いでるし、息が荒いし、何だか酸欠の金魚みたいだ。
「美蘭は、やる時はやるからね。思い切りがよすぎるのも、いつもの事だし。でもまあ、桜丸が何か被害受けるわけじゃないから、放っておけば?」
そう言って立ち上がった僕に、彼は「被害も何も、とにかく無理だよ」と訴えた。
「僕は絶対に嫌なんだ。美蘭が誰か他の男の人の前で服を脱ぐなんて。芸術だから大丈夫とか、そんな理由どうでもいいんだ。彼女にそう言ったけど、あんたに関係ないじゃない、でおしまいだったよ。ねえ亜蘭、君からも言ってもらえないかな」
「彼女が桜丸より僕の意見をきいたなんてこと、今までに一度もないよ」
「でも、やってみないと判らない」
ここへ来てやっぱり超ポジティブな桜丸。彼は「じゃあね、頼んだからね」と念を押すと、これから朝の四時まで続くラーメン屋のバイトのために、大急ぎで出て行った。
冷蔵庫にめぼしいものは何もなくて、仕方ないから僕は朝と同じ、グラノラと牛乳という夕食ですませた。人間の偉いところは、同じ内容の食事が続いても理性で克服できるという点だ。小梅のような猫では、こうはいかない。
それから僕はコーヒーを淹れると、マグカップを片手に部屋に戻った。さすがにあとしばらくは起きてるつもりだけど、さっき桜丸に頼まれた事なんて、鎌首もたげてる毒蛇に手を差し出すような行為なので、さらさらやる気はない。だから代わりに剛太の飼い猫、シャークの様子をみることにした。
シャークは柊家のリビングに置かれたケージの中にいた。人間の食事時間はいつもここに監禁されてるけど、今夜は食事が終わってもまだ閉じ込められたままだ。剛太はどうやら自室にいるらしくて、母親の春菜はハイボールを飲みながら韓流ドラマのDVDを見ている。たぶん貴志は今夜、帰ってこないんだろう。いま画面に映ってる俳優、何だか宗市さんに似てるんだけど、そういう基準で選んだのかもしれない。
僕とシャークはケージの隙間から前足を伸ばすと、人間には秘密のやり方でロックを外した。そして春菜に気づかれないように脱出すると、剛太の部屋に向かう。こないだ、狂言の鑑賞会だとかって学校に行くような話をしてたけど、どうだったんだろう。うっすら聞こえてくる電子音から察するに、彼はまた破壊活動に精を出していて、それはつまり、状況が芳しくないって事だ。
ジャンプしてドアノブにぶら下がり、ドアの隙間に前足を差し入れて押し広げる。そして部屋に忍び込むと、僕とシャークはベッドに腹ばいになっている剛太の様子をうかがった。彼は「くっそぉ!死ね!死ね!」と、呪詛の言葉を吐きながらゲーム機を操っている。半ば呆れた気分でベッドに跳び乗り、「相変わらずだな」と前足でゲーム機をはたき飛ばしてやると、彼はきょとんとした顔で「シャーク」と僕らを見た。
「ママに出してもらったの?僕だって忘れてたわけじゃないよ。ただ、ちょっとだけゲームしてからって思ったんだ」
言い訳はどうでもいいけど、飼い主としてはイマイチだな。僕とシャークはちょっと上から目線で剛太の前に座ると、尻尾を前足に巻きつけた。
「だってさ、今日はすっごくムカついたんだ。狂言の鑑賞会に、一日だけ来てみないって、弓野先生が誘ったから行ったのに。シャークだって、行く方がいいって言ったよね?」
そこまで言うと彼は苛立った様子で口をとがらせ、「シャーク、今日はおしゃべりする日?」と尋ねた。仕方ないから僕らは右の前足を上げる。
「よし、わかった。それでさ、僕は学校に行ったんだよ。超久しぶりだったけど、けっこう大丈夫だった。ママが送ってきてくれたし、弓野先生が門のとこまで迎えに来てくれて、一緒に体育館まで行ったんだ。僕の席は一番端っこにとってあって、そこに座った。クラスのみんなはちょっと僕の事見たり、おはようって言ったりしたけど、別に嫌じゃなかった。
それで、すぐに狂言が始まって、それはけっこう面白かったんだ。クラスの代表の子が、舞台に上がって、みんなで一緒に練習したりとかさ。全部終わったらお昼になってて、弓野先生が、給食も食べて行ったら?って言うから、そうした。豆腐ハンバーグのカレーソースで、マンゴープリンもついてたから、まあよかったんだ。
でもさ、先に食べ終わったヒデオミとヤスシが僕のとこに来て、剛太のでんでんむし、出てきたんだーって、騒ぎだしたんだ。僕はやめろって言ったけど、そんなの聞いてなくて、でーんーでーんーむっしむしーって、さっき狂言で練習した台詞ばっかり繰り返してさ」
剛太は少し黙ると、洟をすすった。なんか怪しい雲行き。でんでんむしって、狂言の演目は「蝸牛」だったわけか。今さら文句のつけようもないけど、「棒縛り」とか、もう少し無難な奴ならよかったのに。
「青山さんとかさ、女子の何人かは、やめなさいよって言ってくれたんだけど、あいつらそんなの聞かないし、僕もすごくムカついたから、立ってヒデオミの肩のところを手でちょっと押したんだ。そしたらあいつ、暴力暴力、逮捕されるぞ!週刊誌に写真撮られるぞ!路チュー第二弾!って騒ぎ出したんだ。
剛太、ネットのニュースになったら、もう永遠に削除できないんだぞ。何年たっても検索できるんだからな。これからずっと、剛太のパパの名前打ったら、自動的に路チューって出るんだぞって。
そこで弓野先生が教室に戻って来て、あいつらに注意してくれたけど、僕はそのまま帰ってきた。だって超ムカついたから。判るよな?」
僕とシャークは素直に右の前足を上げた。
「ねえシャーク、ネットのニュースは永遠に削除できないって本当?」
一説によるとそうらしいけど、断言もできないので、じっとしておく。
「パパの名前を検索したら、ずっとずっと、路チューって出るの?僕もう、ヒデオミたちかにからかわれるのは嫌だ。でも公立の学校に変わるのも嫌だ。新しい学校に行っても、柊って変わった苗字だから、誰かが検索するかもしれないだろ?そしたらまた、何か言われるに決まってる。そういうの、もう絶対に嫌なんだ。ねえシャーク、僕どうすればいい?」
この問いかけの答えは、どちらの前足でもできない。さてどうしようか、そう思案するうちにも剛太の目には涙があふれてきて、あっという間にぽろぽろとこぼれ落ちた。こういうのが一番困る。正直いって僕は怯んでしまった。そのせいでシャークを操る手加減が緩くなったけど、この猫はいきなり後ろ足で立ち上がると、こぼれる剛太の涙を、両方の前足でせっせと押さえはじめた。
ついつい動くものに反応したような気もするし、別の考え、つまりあふれてくる涙をせき止めようとしたような気もする。でも猫がそんな真似するだろうか。とにかく絶対に、僕の意思じゃないはずだ。何だかわけがわからず、僕はシャークとの接触を切ってしまった。
自分の部屋で、ベッドに腰を下ろしたまま、僕はしばらくぼんやりしていた。それから冷めてしまったコーヒーを飲んだけど、気分はすっきりしない。原因は、まだ指に残っている剛太の涙の、濡れた感触のせいだった。
面倒くさいけど一階の洗面所まで行って、手を洗ってみる。でもやっぱり僕の指というか、シャークの肉球が抑えた剛太の涙と柔らかな頬の感触は消えない。また部屋に戻って、僕としてはずいぶん長い時間考えて、それから一つの結論に達した。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。美蘭の部屋はまさに虎の穴だけど、今夜の彼女はその奥、天蓋つきのベッドに寝そべって本を読んでいた。礼儀正しくノックして、了解も得た上で入ったものの、不意の攻撃に備えて、僕の警戒心は決して緩んだりしない。
「何よ、用があるならさっさと言えば?ないなら速攻出てって」
視線も上げずにそう言って、彼女はページを繰る。
「あのさ、あれ貸してくれないかな。二匹ほど」
「何に使う気?」
「ちょっと、剛太のクラスの友達に見せてやろうかなって」
「あの子、友達なんていないんじゃないの?」
馬鹿にしたように言うと、美蘭は本を閉じて肘をつき、身体を起こした。
「でもまあ、ガキどもは喜ぶかもね。何であろうと本物に触れるのはやっぱり大事なことよ」
「じゃあ、貸してくれる?」
「私の言う通りに段取りつけるならね。ちょうどいい機会だし、色々まとめて片づけるわ」
虎の穴での作戦会議が終わると、僕はまたシャークのところに戻った。思ったより時間をとられたせいで、剛太はもうベッドで寝息をたてていて、シャークもその足元で丸くなっていた。本当ならケージに戻らずこんな場所で寝ていると、春菜が怒り狂うんだけど、どうやら彼女はまだ韓流ドラマに夢中らしい。
僕はシャークを起こすと、思い切り伸びをさせた。それから剛太の枕元まで移動すると、頬に何度か猫パンチを入れる。剛太はそれを腕ではらいのけ、寝返りを打っては背を向けてしまうけれど、ここは起きてもらわないと話にならない。僕とシャークは最終手段として肩のあたりをパジャマの上から軽く噛んだ。
さすがにこれには剛太も驚いたらしくて、「何?シャーク?」と寝ぼけた声を出しながら、ようやく目を開く。僕らは彼の真ん前に頭を突き出すと、「ちょっと話があるんだけど」ともちかける。察しの悪い剛太だから、僕らの「ニャニャー、ニャッ!」的な声も「起こしてごめん」に解釈されかねないので、大きく右足を上げてみせる。
「どうしたの?」と、訝し気に剛太は枕元のスタンドを点けた。僕とシャークはベッドを飛び降り、本棚の前に移動する。役に立ちそうなのはここらあたりか、と見当をつけて、ほとんど使ってない「国語辞典」に爪を立てて引っ張り出す。しかしこれがケースに入ってるから困るのだ。僕らが剛太に向かって「これ出して」と命令すると、彼はふらふらとベッドを降り、本をケースから出して床に置いた。
「シャーク、これで何するつもり?」
大体予想できてもよさそうなもんなのに、剛太はまだ呆気にとられている。僕とシャークは前足で本を開いてページを繰ると、やっとの思いで「五十音図」を見つけ出し、一文字ずつ押さえていった。剛太はその後をたどりながら、声に出す。
「い、ま、か、ら、は、な、す。今から話す?」
「ニャッ」
とりあえず通じたので、僕は話を続けようとした。しかし子供向けでも国語辞典ってのはそれなりの厚みがあるし、ページを抑えながら肉球で文字を拾うのは骨が折れる。何文字か進んだところで、剛太にもさすがに察しがついたらしく、「待って、こっちの方がいい」と言うなり、ベッドの下から収納ケースを引き出すと、その中から古い絵本を次々と床の上に放り出した。
「あった、これだ」と、鼻息も荒く僕とシャークの前に置いてみせたのは、「あいうえおの本」という一冊で、カラフルな五十音図が見開きになっている。
たまにはこいつも気の利いた事を思いつくんだな、と考えながら、僕とシャークは床の上で剛太と向かい合い、あらためて文字を押さえ始めた。
「が、つこ、う、なんか、い、くひつ、よ、うな、い。で、もさい、ごにい、ちどだ、けい、く。ま、まがでか、けるひ、がい、い」
これはもうほとんど祝詞だ。それでも他に方法がないから、僕は死ぬほど面倒なのをこらえながら、一字ずつ押さえ続ける。祝詞ってのは人が神様にメッセージを伝えるための様式ではあるけど、結局のところ、違う種類の生き物どうしが意思疎通を試みれば、こういう形に落ち着くってことなんだろうか。
本当に長い時間をかけて、僕とシャークは美蘭の決めた段取りを含む、計画の全てを伝えた。あとは剛太がこれをちゃんと理解し、記憶した上で実行するかどうかだけれど、それは五分五分ぐらいか。何と言っても、その結果どういう事態になるかは伝えていないから。
しかし剛太は何だか心配らしくて、「そんな事して本当に大丈夫?おまじないの鍵はちゃんとつけるけど、迷子になったりしないの?」と食い下がる。正直いってもうこれ以上祝詞はあげたくないんだけど、仕方ないから僕らは「だいじょうぶ」と請け合った。
「本当?約束する?じゃあ指切りしよう」と剛太はまだ納得してない様子で、手を出して小指をたててみせるけど、猫の前足が指切りに向いてないの、判らないんだろうか。文句を言ってる時間もないので、僕とシャークは代わりに尻尾を伸ばすと、その先を剛太の小指に絡めた。本当はあんまり触られたくない場所なんだけど、ここは我慢するしかない。
それから僕とシャークは「もうねる」とだけ伝えて、口が裂けるほど大きなあくびをしてみせた。あくびがうつるってのは本当らしくて、剛太もつられてあくびをすると、絵本やなんかは放り出したままで、ベッドにもぐりこんだ。
「シャークもここで寝ろよ。あったかいから」と布団を叩いてみせるけど、僕らは左の前足を持ち上げた。こんな長話は後にも先にもこれっきりだ。剛太には夢だと思ってもらった方が都合がいいので、僕らは部屋を出て、眠そうな「おやすみ」の声を聞きながら、後ずさりでドアを閉めた。
リビングに戻ると明かりはもう消えていて、ソファでは酔いつぶれた春菜が眠っていた。テーブルにはDVDが散乱し、グラスには薄くなったハイボールが半分ほど残っている。今ここに宗市さんが現れたら、彼女はどんな反応をするだろう。まあそんな想像、するだけ無駄かと思いながら、僕とシャークはケージの中に戻り、前足を伸ばしてロックをかける。
これで完全にアリバイ成立。今夜、シャークはずっとケージの中にいて、剛太はとても奇妙で長い夢を見た。そして春菜は韓流ドラマの世界で、浮世の憂さをつかの間忘れ果てた。
16 貝塚さん
俺が店のカウンターに腰を下ろすと、彼はすぐに気づいて親しげな笑顔を向けてきた。といっても、これまでとはやはり違う、どこか痛みを隠したような笑顔を。
「いらっしゃい。美蘭にきいたんですか?ここの場所」
「まあそんなとこ」
これは嘘で、それとなく亜蘭から探り出したのだ、桜丸がバイトしてる店はどこなのか。
古びてるし、そう広くもないし、夜の十一時半というこの時間は、九割がた男の客が占めているラーメン屋。引きもきらずに客が入ってくるんだから、味は評判なんだろう。
「美蘭がいつも食べるのって、どれ?」
「青龍メガ盛りスペシャルが多いかな。この時間だとちょっとヘビーかもしれないですけど」と、彼は壁の古びた時計を見上げる。俺は早めの夕食がコンビニのおにぎり二つだったので、「じゃあ、それで」と注文を入れた。そして彼が背中を向ける前に「今日、何時まで?」と尋ねる。
「早番だから十二時で上がりますけど、何か?」
「ちょっと話があるんだ。交差点のとこにカリメーラってファミレスがあるだろう?あそこに来てくれないかな」
彼はほんの少し考えるような顔つきになったけれど、すぐに「判りました」と答えて、厨房に向き直ると「メガ盛り一丁!」と叫んだ。」
正直なところ、青龍メガ盛りスペシャルは半端なくヘビーだった。美蘭があの細い身体のどこにこれを収めているのか、納得がいかないほどの麺とチャーシューが投入されていて、それを凶悪なほどに真っ赤なラー油が彩っているという代物で、食べるには食べたけれど、消化に軽く半日はかかりそうな気がする。
外は息が白いほどの寒さだというのに、俺はメガ盛りの余韻で額に汗をにじませながら深夜のファミレスに入った。客の入りはまばらで、四人掛けのテーブルに一人で陣取り、コーヒーを飲みながらほぼ無意識のうちにスマホを取り出す。しかし今は麻子とラインでやりとりするわけでもなく、形ばかりニュースサイトをチェックして、あとはゲームを始めてしまう。結局のところこれが一番落ち着くのだ。ともすれば騒ぎ立てようとする胸の内を、時間の浪費でしかないはずの単純作業が鎮めてくれる。
今夜の俺はかなり冴えてるのか、珍しく第四ステージまで進んだところで、桜丸が現れた。少し名残惜しい気持ちのままゲームを終え、「お疲れのとこ、悪いね」と、まずは謝る。彼は「この時間なら全然大丈夫です」と言って、パーカーを脱ぐと腰を下ろした。
「好きなもの頼んで。おごるから」とメニューを差し出すと、「じゃあ、遠慮なく」と、屈託がない。彼が選んだのはチョコレートパフェだった。
「食事は賄いがあるからいいんですけど、こういうの、食べられないから」
「甘いもの好きなの?」
「そうですね。特にチョコレート関係」
桜丸はウエイトレスに注文を入れると、改めて俺の方を見て「それで、話って何ですか?」と、少し神妙な顔つきで尋ねた。
「いや、まあ大体の予想はついてると思うけどさ」
少し落ち着こうとコーヒーを口に運んだけれど、いつの間にか飲み干してしまっている。俺は「ちょっと失礼」と席を立つと、ドリンクバーに向かった。こういう店のコーヒーも馬鹿にできない味だったりするけれど、麻子の部屋に残してきた、かなりお高いコーヒー豆、結局自分ではほとんど飲まずじまいだったのが心残りだ。そんな未練がましいことを考えながら席に戻ると、ちょうど桜丸のチョコレートパフェが運ばれてきたところだった。
「早いなあ。厨房よっぽどヒマなのかな」
「かもしれない。柊さんって、飲食関係でバイトとかしたことあるんですか?」
「なくはないけどさ、すぐ辞めちゃったよ」
「どうして?」
「俺ってさ、すっごく気がきかないんだ。自分から動けないっていうか、人に言われないと、やるべき事が判んないの。そういう奴は飲食関係、ちょっと厳しいだろ?」
「まあ、最初は誰でもそうじゃないかな」
「いや、俺はかなりひどい方。美蘭にもずっと文句言われてるし。あの婆さん猫、小梅の水とかエサとか、ちゃんとやれないんだよね。こないだも、見ただろ?」
桜丸は曖昧にうなずくと、パフェを食べ始めた。やっぱり話はそこに行きつくのか、と不安げな面持ちで。
「それで、だ」
俺もここまで来たからには、やるべき事はさっさと終わらせたい。まだ十分に熱いコーヒーを半分ほど飲んでから、本題に入ることにした。
それで、この間の話なんだけど、例の、美蘭に彫刻のモデルを頼んだって奴。彼女が出した交換条件は聞いてたかな。そう、俺が彫刻を辞めた理由。それを教えたら、モデルを考えてもいいって言ってただろう?だから俺も肚を決めて、話すつもりにはなったんだ。けどやっぱり、美蘭と二人きりで、面と向かって話すだけの度胸がない。何か思いがけないことを突っ込まれたらどうしようって、びびってるんだよ。
だから俺は、誰かにこの話をして、そっくりそのまま美蘭に伝えてもらおうと考えた。まず頭に浮かんだのは亜蘭だ。あいつはとにかくぼんやりしてるけど、馬鹿ってほどではない。でも嘘がつけるほど頭の回転がよくない。だから聞いた話に脚色を加えず、一言一句そのまま伝えるだろう。問題は、美蘭には彼の話をじっくり聞くほどの忍耐がないって事だ。彼女は亜蘭が口を開いても、途中でたいてい「で、結論は?」てな具合に強制終了だし。
そこで次に候補にあがったのが君だ。君は真面目そうだから、俺の話を端折ったり、飛ばしたりせずに全部伝えてくれるだろう。何より、君の話なら美蘭もちゃんと聞くだろうし。ただ、問題は、君は美蘭がモデルをすることに反対だって事だ。まあ、その気持ちは十分に判るよ。同じ立場なら俺も一緒だと思うから。
それで、この点について俺は譲歩する事にした。美蘭と直接話したくない、という逃げを打ってるんだから、そこは仕方ないってわけだ。つまり、君が俺の話をどれだけ誇張しようが、私的見解を加えようが、敢えて容認する。その上で、美蘭に話をしてほしいんだ。うん、別に後からどうこう言ったりはしないからさ。
さて、ここからようやく肝心の話に入らせてもらうよ。
俺は今でこそ定職もなければ定住所もないという、あやふやな生活を送ってるけど、何年か前までは彫刻家の端くれだった。始めたきっかけ?まあ、小さい頃から絵は好きだったけど、平面よりも立体で作る方が面白くて。でも数学が苦手で建築関係は無理だったから、消去法ってとこかな。それにさ、よそは知らないけど、うちの大学の彫刻科はちょっと倍率低いんだよね。
幸い、本格的にやってみると彫刻ってのはすごく面白かった。先生に恵まれたのもあるし、思ってたより奥が深くて、けっこう身体を使うところも悪くない。学科の雰囲気も小人数でのんびりしてたしね。大体が、彫刻を専攻しようなんて奴が将来をまともに考えてるわけないんだよ。仕事どうしようとか、そういう事を。まあ、一番ちゃんとした奴で教員免許をとるぐらいかな。
こんな話すると嫌味に聞こえるかもしれないけど、俺の実家はけっこう裕福だ。おまけに一回り上の兄貴が家業を継ぐ事になってて、俺はどんな進路を選択しても構わないって空気だった。実際は、兄貴ほど勉強ができなかったから、アーティストにでもなればそれなりに体裁がいいって感じかな。
ともあれ、俺は四年間を楽しく過ごして、就職する気なんかさらさらなかったから、ちょっと頑張って大学院に進んだ。その間に、小さな賞をいくつかもらったりしてさ。どんな作品かって?いや、俺は世間の大多数が「彫刻」って言葉で思い浮かべるタイプのものは作ってない。いわゆる抽象って奴をずっとやってた。石だったり金属だったり、素材は色々でさ、タイトルも記号だけにしてみたりね。
もちろん、彫刻の基本はギリシャ美術というか、ミロのヴィーナスみたいなところにあるから、そういうのも勉強したし、作れはするよ。美蘭をモデルにしようと思ってるのは、まさにそっちの方だ。
まあそんな感じで、大学院にいた頃の俺は、このままそれなりに進んで、彫刻で細々とやっていければいいか、なんて事を呑気に考えてた。しかし周りは俺ほど悠長な人間ばっかりじゃなくて、彼女に子供ができたからって、介護職につく奴がいたり、親に勧められたからって、公務員試験うけて地元の役場に就職する奴が現れたり。何ていうのかな、一緒に楽しく遊んでたのに、気がつけば日が暮れて、みんな家に帰ってた、みたいな感じになっていった。
皮肉なことに、制作から遠ざかった人間の方が、だらだら続けてる俺より才能があったりするんだ。まあ、先生は「続けるのも芸のうち」って言ってはくれたけどね。特に俺が一目置いてたのが、貝塚さんっていう、二年上の先輩だ。一浪してたから実際には三つ年上なのかな。
貝塚さんはちょっと職人肌の無口なタイプで、とっつきにくい印象があるんだけど、本当のところはすごくシャイで、誠実な人だった。何ていうか、女の子に受けようと思ってしゃべりまくってるのに、全然相手にされない奴がいるとしたら、ちょうどその正反対。何も狙ってないのに、話すことが面白いっていうか、ずっと聞いていたくなるような話をするんだよな。だから女の子からもすごく慕われてたし。作品もやっぱりそういう性格が出るっていうか、繊細なんだけど、じわっと底力がある、独特の雰囲気で、他の誰にも作れない、不思議な魅力があった。
しかし残念なことに、貝塚さんは経済的にかなり苦労してた。本気で制作に集中しようとしたら、バイトも思うようにできないし、色々とお金もかかる。何より、そういうのをうまく両立できるほど要領のいい人じゃないんだ。制作にもすごく時間をかけたし。もちろん奨学金はもらってたけど、しょせんは借金だからね。
実家は岩手で、お父さんは宅配の下請けドライバー、お母さんはクリーニング屋のパートだから、収入も限られてる。出すのは授業料で精いっぱい、仕送りなんて無理な話だった。でもまあ、貝塚さんは制作さえできればそれで幸せって人だったから、食費もギリギリまで削って、服なんか年に一度買うか買わないか、って感じの生活で平気そうだった。
なんで貝塚さんの話ばっかりしてるかって?うん、まあ、もう少ししたら話がつながるから。別に脱線してるわけじゃないんだ。
で、貝塚さんはそうやって黙々と頑張ってたんだけど、お父さんがもらい事故で首を痛めちゃってさ、ドライバーができなくなったんだ。運が悪いよな。まだ年金出るまではしばらくあるし、お母さんの収入だけじゃたかが知れてる。で、結局彼は実家に戻ることにした。
君の出身は?神奈川?でも長野に住んでたのか。だったら判ると思うけど、地方って本当に仕事が限られてるらしいんだよな。特に、いきなりUターンなんかした日には、選択肢が少ない。結局貝塚さんは、市の嘱託職員になって、屎尿処理の仕事についた。いわゆる汲み取りって奴だ。東京にいたら想像しにくいんだけど、水洗トイレじゃないとこって、今もけっこうあるらしいんだ。きつい仕事って話だよな。
それでも、貝塚さんはきちんと働いて、夜だとか週末は制作に励むという生活を始めた。俺は一度、親戚の結婚式が盛岡であって、そのついでに訪ねた事があるんだけど、東京にいた時と全然変わらない感じで、今こんなの彫ってるんだよ、なんて見せてくれた。お父さんのトラックを置いてたガレージを、そのままアトリエにしててさ、田舎だと石を削ったりして音をたてても、気を遣わなくていいから楽だよ、とかってね。
俺が来たこと、すごく喜んでくれて、地元で一番うまい店でおごってくれた。これまでの人生で一番お金持ってるからさあ、とか言って、絶対に払わせてくれないんだよ。でも着てる服なんか、東京時代のままだったりしてさ。まあ、別にみすぼらしいとか、そういうんじゃないんだよ。あの人はアルマーニのスーツなんか着ても、たぶん同じような感じだと思うし。
そんな事があってから、ひと月ほど後だった。あの地震と津波が来たのは。
そう。貝塚さんの実家は海沿いの町にあったんだ。海岸からはずいぶん離れてたはずだけど、それでも辺りの家やなんか、ほとんど流されたらしい。地震が起きた時、貝塚さんは外での仕事が終わって、事務所に戻ったところだった。たまたまお父さんのリハビリの日だったから、両親は隣町の病院にいて無事だった。だから貝塚さんはそのまま、消防団の詰め所に向かった。
これも東京にいると実感薄いんだけど、いっぱしの男は消防団に入って防災活動に携わるってのは、地方じゃ当たり前らしいんだな。特にあの辺は何度も津波を経験してるから、地震が来たらすぐに出動だ。貝塚さんの担当は、逃げ遅れた人がいないか、確認して回る仕事だった。二人一組で車に乗ってたんだけど、この辺まで水が来たことは一度もないとかって、家にじっとしてる人もいるんだ。そういうのを何とか説得して、さあ俺らも逃げようってなった時に、誰もいないはずの家からお婆さんが出てきたんだ。うちの爺ちゃんが腰ぬかして動けない、助けてくれ、って。
とりあえずお婆さんを車に乗せて、爺ちゃんは俺が背負って来るからって、貝塚さんはその家に向かった。ところがその時、後ろからいきなり水が押し寄せてきた。本当に何の前触れもなく、気がついたら辺り一面を取り囲まれてたような感じだったらしい。貝塚さんと組んでた消防団の人は、とにかく大急ぎで車を出すしかなかった。貝塚さんとお爺さんが、家の二階か屋根に逃げて、何とか助かるように祈りながら。
いや、俺は直接この話を聞いたわけじゃない。友達が一人、ボランティアに行って、彼女が消防団の人から聞いたんだ。貝塚さんはやっぱり逃げきれなかったらしくて、十日ほどしてから、隣町の浜で見つかった。
結局、俺はあれから一度も岩手に行ってない。何かしなきゃ、とは思ったけど、一体どういう気持ちで行けばいいのか、何を話せばいいのか、見当もつかなかったし、何より、怖かった。取返しもつかないほど、傷つくような目に遭ったらどうしよう、なんてね。
実を言うとその頃、つまり震災のあった頃、俺はかなりのスランプで苦しんでた。大学院は前の年に出てたから、肩書としては彫刻家、だったんだけど、納得のいく仕事は何もせずに一年ほどを過ごしてた。変な話、生活には困ってなかった。親父の伝手で、俺の作品を買ってくれる人が何人かいて、それが結構いい収入になったんだ。向こうは別に、作品に芸術的価値を見出してるとかそういうんじゃなく、親父の歓心を買うためだよな。ある種の賄賂みたいなもんだ。
でもまあ、作れば売れるんだから、俺はほぼ惰性で、過去の自作のコピーみたいなのを彫り続けていた。しかもそのコピーは、回を重ねるごとに劣化してゆく。判る人間には明らかな事だから、俺は友達だとか先生だとか、そういう相手にはなるべく知られないようにして、作品を売った。でもその一方で、これじゃまずいという気持ちは抱えてて、全く新しい作品を、名のある展覧会に出したいと、焦り続けていた。
それなのに、どれだけ考えても、手を動かしても、俺は次の段階に進めずにいた。人に聞くとさ、そんな事って結構あるらしいんだ。確かに、生身の人間なんだから調子の良い時も悪い時もあるし、スランプなんてどれだけ続くか予想もできない。でも、人の話だと、ああ、そんなもんだな、って思えることが、自分じゃどうしても納得できない。だって俺はそれなりに才能がある彫刻家だと、本気で思ってたから。
で、さすがにもう制作にかからないと展覧会に間に合わない、という時期になって、俺はある決心をした。この一度だけ、特別な手を使おう。それがあの、貝塚さんに見せてもらった作品を彫る事だった。
作者はもうこの世にいないし、ガレージにあった彼の作品は周囲の家もろとも、津波にさらわれてしまった。だから俺があの作品を彫ったところで、誰かに知られるという可能性はほぼない。貝塚さんの両親は、彫刻やなんかには疎くて、息子が何を作ってるかも全然知らずにいたし。
罪悪感?それはもちろん。でも、あの時は何故かこう思った。このままあの作品をなかった事にするくらいなら、俺が作った方がいいんじゃないかって。まあ、詭弁だよな。それに、本気でそうしたいなら、まず貝塚さんの両親に申し入れをして、堂々と彫ればいいわけだし。
とにかく、俺はそのまま制作にかかった。そりゃ、細かいところは違ってたとは思うけど、出来上がったのは貝塚さんの、あの作品だ。そして何食わぬ顔でそれを展覧会に出して、賞を獲った。
周りは喜んでくれたよ。家族はもちろんだけど、友達も、新境地だね、なんて褒めてくれたし。ただ、一人か二人、貝塚さんの作品を思い出した、って言う奴がいて、どきりとさせられたけど。
でもまあ、そんなんでスランプが収まるわけないんだ。だって自分じゃ何も解決してないもの。だから次に俺が作り始めたのは、この盗作の複製だった。似た感じの、俺という存在が全く宿ってない、奇妙な物体。気分はもちろん最低。その頃になると自分でも判ってた。俺は彫刻を続けたいんじゃなくて、彫刻家を名乗り続けていたいんだ。才能ある若手彫刻家だと、周囲に認識され続けたいんだって。
気持ちは日に日に落ち込んでいったし、苛立つことも増えた。眠れなくて、金遣いばっかり荒くなって、付き合いが忙しいから制作の時間がとれない、なんてふりをした。でもある日、幸いなことに、というべきかもしれない、一つのニュースを友達が教えてくれた。岩手の地方紙の記事で、がれきの中から彫刻が発見された、っていう内容だった。
その彫刻は割れていて、全体の三分の一ほどしか残っていないけれど、作品の底部に作者のサインが彫られていた。近隣で彫刻を所蔵、または制作していた居住者は限られるので、調べたところ、東京の美術大学を卒業した貝塚良明さんが、自宅アトリエで制作していたものと判った、なんてね。記事には写真もついていて、白っぽい石の塊にしか見えなかったけど、俺にははっきりと、例の彫刻のどの部分かが判った。
彫刻は貝塚さんの両親に引き渡されて、彼らはそれを仮設住宅に持ち帰った。大学の友達の間では、残りの部分を探しに行こうっていう話もあったんだけど、現地じゃそんな悠長なこと言えるような状況じゃなくて、結局立ち消えになってしまった。
そして徐々に、貝塚さんのことも、見つかった彫刻のことも、皆の記憶から薄れていったけれど、俺は却って、日がたつにつれて、不安が増していった。そう、あの彫刻の残りが出てくるんじゃないかって。
冷静な俺は、いや待て、もうがれきの撤去もほとんど終わってるし、見つかったとしても、ただの石だと思われるに違いない。鉄筋の建物でも、土台から剥ぎ取って、引きずり込んでいった津波だ。あの彫刻も粉々に砕けたに違いない、なんて自分に言い聞かせる。けれどもう一人の俺は、きっといつか、欠けた部分が出てくる、と確信している。そうなったら、世間からどう思われるだろう。
偽善者、盗作者、卑怯者、臆病者、虚栄心の塊。
実際のところ、俺はすでにそういう人間だった。ただ、皆がそれを知らないだけだ。これを知られずにいる方法、或いは、そこから逃げ切る方法はないか?
大して考える必要もなく、俺は結論を出した。彫刻家という肩書を自ら外して、存在を消すこと。そうすれば、貝塚さんのあの作品が再び姿を現したところで、消えた彫刻家の事なんて誰も気にかけないだろうから。
「僕がこういう事言うのも、変だとは思うんですけど」
桜丸はグラスの水を半分ほど飲んでから、口を開いた。
「柊さん、今からでもその、貝塚さんの両親にだけでも、本当のことを打ち明けたらどうですか?それで、賞を獲った作品を、ちゃんと見てもらうとか」
「今更、ね。それに、作品は売ってしまったんだ。愛媛の水産会社が買ってくれて、たぶんそこの会長の家の、倉庫にでも置いてあるんじゃないかな」
俺の言葉に軽い溜息で返事して、桜丸は再び水を飲んだ。
「とにかく、話すべきことはこれで全部だ。言っとくけど、美蘭の彫刻について、俺は自分の名前を出さないし、今後また制作を始めるつもりもない。今回の事はあくまで、借金返済の手段だから。情けないけど、俺にはこれ以外、まとまった金を稼げる技能ってのがないんだ」
「僕は、立派な才能だと思います」
そう言って、桜丸は席を立つとパーカーを羽織った。
「どうも、ごちそうさまでした。今日の話、美蘭にはできるだけ早く伝えますから」
「ありがとう。遅くまで引き留めて悪かったね」
軽く会釈をしてから立ち去る桜丸の背中を見送りながら、俺は自分の背負った十字架の重さを量っていた。少しは軽くなったのか?いやそもそも、十字架なんて、聞こえのいいものなんだろうか。
17 五年A組
「じゃあな、シャーク、ちゃんと帰ってくるんだぞ。約束したんだからな」
剛太は念を押すようにそう言うと、首輪にぶら下げた鍵を軽く引っ張った。これは無事に戻れるようにとのおまじない。僕とシャークは大丈夫、と右の前足を上げ、彼に別れを告げてマンションのエントランスを出ると、傍の植え込みに潜り込む。後はここでしばらく、美蘭が来るまで待機だ。
時間は朝の七時半。植え込みから歩道の様子をうかがうと、通勤や通学に出かける住人が数分おきに通ってゆく。剛太はといえば、一人で小学校へと向かったはずだ。
この前、久しぶりの登校で彼がまた同級生にいじめられた話は、もちろん春菜に伝わっていた。だから剛太がもう一度学校に行くと言い出した時には、彼女も半信半疑だったらしい。
「ママったらさ、剛くん、無理してるんじゃないの?ママは剛くんにどうしても学校行ってほしいなんて、全然思ってないんだからね、なんて言うんだ」
昨日の夜、剛太は僕とシャークにそんな打ち明け話をした。
「でも僕はやるよ。シャークが言った通りにする。学校に行くのは来週とかでもいいんじゃない?って言われたけど、ママは明日、お友達と歌舞伎を見に行くって前から決まってたし、わざわざ着物も買ったし、絶対キャンセルしないよ。だから、やるなら明日しかない。それで、もう二度と学校なんか行かないんだ」
まあ、そんな感じでいいんじゃないかな。あとは公立に転校した形にして、適当に過ごしとけば、中学までは卒業したって扱いになるだろうし。その先はまあ、うまく学校を選べば大卒の肩書も手に入るだろうから。
植え込みで蹲ったまま、僕とシャークは大あくびをした。剛太が張り切って朝ごはんのカリカリを大量にくれたもんだから、何だか眠くなってきたのだ。まあ、美蘭が来るのはもっと後だし、しばらく休ませておくとするか。
そして僕はシャークとの接触を切ると、ベッドから起き上がった。シャークの影響で満腹だという気もするけど、実際にはまだ何も食べてない、というか、ただの寝起き。顔を洗って、とりあえず学校の制服を着て階下のキッチンに行くと、小梅が朝ごはんを食べている最中だった。
「餌やり代わるの、今朝だけだからね」
隅のテーブルでシリアルを食べている美蘭は、恩着せがましい台詞を吐くと立ち上がり、サーバーのコーヒーをマグカップに注いだ。もちろん僕の分なんか淹れてるはずもない。
「あんたさあ、なんで制服なんか着てんのよ」
「なんでって、なんで?」
「違和感ありありなんだよ」
そういう彼女はグレーのパーカーにジーンズという格好で、要するにそういう服装が今日の活動にはふさわしいらしい。
「ったく、TPOも判んないんだから」という嫌味を背に受けて、僕も似たような服に着替えて戻ると、美蘭は既に車のキーを片手に出かけようとしていた。
「朝ごはん食べたいんだけど」
「知らないわよそんなの。小梅の食べ残しでももらえば?」
冷たく言い放つと、美蘭は屈みこんで、髭の手入れをしていた小梅を抱き上げた。ボウルにはまだ半分近く餌が残ってる。
「これも飽きちゃった?いい子でお留守番してたら、夜は小梅スペシャルとってあげようか。居間のヒーターはつけとくから、寒かったらソファの上の、膝掛けの中にいてね。夕方になったら桜丸が来るからね」
言われなくても、猫なんて家で一番居心地のいい場所を占領するに決まってるのに。美蘭の奴、小梅を甘やかし過ぎだ。僕はその隙に大急ぎでシリアルを掻き込むと、水で流し込んだ。養鶏場の鶏でも、もう少しましな食事をしてるんじゃないかって感じで。
今日の運転手は美蘭だけど、それはつまり僕が猫専従だから。冷静に考えると、高校の制服で、朝っぱらから黒のGT-Rを乗り回してるのは、かなり違和感がある。着替えたのは正解だったと納得した。美蘭はキャスケットを目深にかぶり、あまり顔を見られないようにしている。
剛太の住むマンション、前に来た時は週末だったけど、今回は平日で、しかも道が混んでいたので、けっこう時間がかかった。美蘭は「庶民のくせに、お前ら車で出勤かよ」とか、悪態をつきながら運転してるけど、まあそこはお互いさまってレベルだろう。
そろそろ目的地に近づいてきたあたりで、助手席の僕は再びシャークに接触した。猫はさっきと同じ場所でうとうと眠っていたけれど、僕に起こされると大きく伸びをして、植え込みの下から顔だけ覗かせた。周囲に誰もいないのを確かめ、マンション前のアプローチを駆け抜ける。ちょうど車道に出たところで、美蘭の運転する車が視界に入った。
車は速度を落としながら近づいてくると、後部座席のウィンドウを下げる。僕とシャークは少し助走をつけてジャンプすると、中に転がり込んだ。後ろ足が少し引っかかったけれど、どうにか着地。美蘭はすぐに速度を上げると、次の目的地に向かった。
目標時間は十時半で、その五分前に美蘭は剛太の学校の斜め向かいにある、郵便局の駐車場に車を停めた。
「それじゃ、後はよろしく」
僕とシャークは、彼女の腕にぶら下げられ、半ば放り投げるようにしてドアの隙間から外に出された。着地と同時に走り出し、学校沿いの歩道に向かって車道を渡る。学校の敷地はさして広くもないけれど、まるで刑務所みたいに高い塀で囲まれていて、唯一の突破口は門扉の下の隙間だ。用心のため、僕とシャークは守衛のいる表門を避けて裏門にまわった。
灰色に塗られれた鉄の扉には、「ご用の方は表門へお回り下さい」というプレートがかけられ、堅く施錠されているけど、まあ猫には関係ない。門柱から見下ろしている防犯カメラも意味のない事で、僕らは扉の下をすり抜けて学校の敷地に入り込んだ。
目の前には倉庫と思しき小さな建物。秋植えの球根をまいたばかりらしい、殺風景な花壇を横目に急ぎ足で進んでゆくと、ようやく校舎にたどり着く。壁際に回り込んで窓の下を通り、ちょうど体育の授業を終えて戻ってきた生徒たちの後に続く。スライド式の重いドアが閉まる寸前に校舎の中へ滑り込むと、そのまま誰もいない階段を駆け上がる。
二階に上がり、右に折れて一番奥の教室。五年A組のプレートを確認して、僕とシャークは廊下に置かれた消火器の陰に身を潜めた。ちょうどそのタイミングで十時半、二限目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
まるで地震の前触れみたいに、机や椅子を動かすガタゴトという音が響き、それから全ての教室の引き戸が一斉に開いて、子供たちが声をあげながら飛び出してくる。全くの混沌。子供って、なんでこんなに無駄にうるさくて、無駄に暴れまわるんだろう。僕はシャークの軽い恐怖心を宥めながら、担任の弓野先生らしき女性がゆったりした足取りで教室を出ていくのを見送った。年は三十前後で、綺麗な脚をしてる。まあそれはいいとして、僕らは彼女を追いかけていった女の子とすれ違いに教室へ入った。
さて、五年A組の皆さん初めまして。壁際をすり抜け、机と椅子の足元に潜り込んで、僕とシャークは息をひそめる。教室の後ろに集まって、ダンスの振り付けをしている女の子、カードゲームで対戦している男の子、交代でノートに何か描いては笑ってる女の子、その向こう、窓際の一番後ろの席に剛太が座っていた。
ちょっと緊張した感じのこわばった背中で、彼は読書に没頭してるふりをしていたけど、一文字も頭に入ってないのは誰の目にも明らかだ。それに気づいたらしい男子が二人、ゆっくりと近づいてゆく。こいつらがヒデオミとヤスシだな、と、僕は剛太が見せてくれた集合写真の記憶と照合する。
色黒で眉のはっきりした、小太りなのがヒデオミ。眼鏡をかけてて、耳が大きいのがヤスシ。主導権はヒデオミが握ってるらしくて、彼が「剛太、お前が来るの、ずっと待ってたんだぞ」と言うのを待って、ヤスシが「俺ら、友達だもんな」と続けた。
「なあ剛太、お前、こないだ来た時のこと、弓野先生に色々チクっただろ。でも許してやるよ。友達だから」
ヒデオミはにやにや笑いながら剛太の傍まで行くと、背中から腕を回した。剛太が無言で払いのけると、「何だよ、人が仲良くしてやってるのに」と、また腕を絡める。ヤスシは剛太の前の席に座ると、彼の手から本を奪い取った。
「ライオンと魔女、だって。ナルニア国なんか、俺とっくにDVDで映画見たし。最後どうなるか教えてやろうか」
剛太の奴、何でこんな時に児童文学なんか持って来るんだろう。ハッタリでいいから、横溝正史あたりにしとけばいいのに。
「なあ剛太、今日帰ったら俺、パパのフェイスブックに、柊剛太がまた学校に来ました!って書いてもらうからな。彼と友達になりたい人は、柊、路チューで検索して下さい!って」
ヒデオミは執拗に絡んでいたけれど、剛太はじっと耐えていた。というか、彼は待っているのだ。僕とシャークが約束した事を。僕らは机の陰から首を伸ばすと、軽く身震いした。実を言うと、この教室に忍び込んだのは僕らだけじゃなくて、背中には二匹のスズメバチがじっと貼りついていたのだ。
僕らが身震いしたのを合図に、背中のスズメバチはふわりと宙に舞い、いったん天井近くまで上昇してから、ヒデオミとヤスシ目がけて急降下した。
「わっ!わっ、何、これ!」
先に悲鳴を上げたのはヤスシだ。彼は突然目の前に現れた二匹の大きなスズメバチに驚き、反射的に立ち上がったけれど、勢い余って尻もちをついてしまった。続いてヒデオミも、「うわああ!」と叫びながら、腕を振り回して蜂を追い払おうとした。そして剛太もまた、女の子みたいに甲高い悲鳴を上げて、ヤスシの放り出した「ライオンと魔女」で頭をかばいながら机に伏せている。
この前の夜、僕とシャークは、教室で何が起こるかを剛太に教えていなかった。ただ、ママに気づかれないように僕らをマンションの植え込みまで連れて行って、自分は学校に行く。そして二限目の後の休み時間を待つこと、とだけ指示しておいたのだ。何が起こるか判っていて、その上で驚いてみせるのは演技力がいるし、剛太にはそういうの、全く期待していなかったから。とにかく、一緒になってスズメバチに驚き騒いでいれば、後で疑われることもないだろうし。
そうする間にも、ヒデオミとヤスシの大声に驚いて、他の子どもたちも彼らに注意を向け始めた。最初は訝しげに、奇声を発しながら跳んだりはねたりを繰り返す二人を見ていた子たちも、ようやくスズメバチの存在に気づいたらしい。まず、女の子がひとり、非常ベルもかくやという鋭い悲鳴をあげ、それに誘発された連中が次々と叫び始めた。
「刺される!刺される!」と繰り返す子もいれば、泣き出す子もいる。一方で、窓を開けて何とか蜂を追い出そうとする子や、非常袋から防災頭巾を出してかぶってる子までいた。
でもまあ、そんな出来のいいのはごくわずかで、大半の子は逃げ惑うだけだ。しかし子供たちも徐々に、標的にされているのはヒデオミとヤスシだけだという事に勘づいたらしくて、二人と他の子たちの間に距離が開き始めた。
「こっち来るなよ!」とあからさまに拒絶されても、ヒデオミとヤスシはそれどころではない。耳障りな羽音を唸らせながら、自分たちの周囲を飛び続ける毒虫に翻弄されて、よたよたと逃げ続けるしかない。
さてそろそろショーも終盤だな。僕とシャークは机の陰から歩み出ると、わざと子供たちの足元をこすりながら走り、窓枠に跳び乗った。僕らの後を追うように悲鳴が上がり、「猫!」「猫だ!」という声がする。僕らは後ろ足で立ち上がると、教室を見回した。ヒデオミとヤスシ以外の子供たちは、号令でもかけられたように動きを止めてこちらを見ている。そこで僕とシャークは久しぶりに、猫踊りを舞ってみせた。
「あの猫、踊ってる」
学級委員のバッヂをつけた女の子が、僕らを指さして、うわごとみたいに呟く。それを聞きながら、僕らはまず、右の前足を高く上げて、見得を切るように静止する。するとそこへ、ヒデオミをねらい続けていたスズメバチが飛んできてとまった。蜂はそのまま前足を伝い、背中に移動するとぴたりと動きを止める。続いて上げるのは左の前足。こちらに飛んでくるのはヤスシを襲った一匹で、こいつも前足伝いに背中へ移る。
そして僕とシャークは反転し、子供たちに背を向けてもう一度猫踊りを舞うと、そのまま外へと跳躍した。
「落ちたあ!」という悲鳴が降ってくるけど、それは完全に的外れなコメントで、僕とシャークはくるりと回ってきれいに着地すると、グランドで遊んでいる子供たちの間を縫い、正門前まで一気に駆け抜けた。そこでようやく後ろを振り向くと、五年A組の窓には子供が鈴なりだった。中にはもちろん剛太もいて、彼は窓から落ちそうなほど身を乗り出してこちらを見ていた。
「ちょっとやり過ぎたかな」
言葉の割に反省のかけらも感じさせない口調で、美蘭は車の速度を上げた。シャークは後ろのシートで眠っていて、一仕事終えた僕はお腹が空いて仕方がない。
「コンビニとか、寄ってくれないかな」
「そんな時間ないし」と、美蘭は嫌がらせのようにアクセルを踏み込む。まあ確かに、肝心なのはここから先だけど。僕はこの後解放されたらどこで何を食べるかを考えるのに専念して、空腹をやり過ごすことにした。
そして僕らは大急ぎで、剛太のマンションの傍にあるコインパーキングまで戻った。美蘭はそこからしばらく別行動。彼女は予定していた一時間ちょうどで戻ってくると、車には乗らず、窓から顔だけ覗かせた。
「じゃあ、ちゃんと猫返しといてね。まだまだ使えそうだから」
「今からどこ行くの?」
「あんたのいないとこ」
それから僕は、シャークをマンションの植え込みに戻らせた。僕本人はといえば、コインパーキングで車に籠城したまま、この状態で剛太の帰りを待ち続ける。とりあえずコンビニのおにぎりを二つ食べはしたけど、既に自由の身の美蘭に比べて、なんか不公平すぎる。
しかしまあ、天気もいいし、寒くもないし、こうして待機するのはさして苦痛じゃない。眠っていれば時間は過ぎるから、猫と同じ要領で、ごくごく浅い睡眠モードに意識をセットしておけばいいのだ。僕とシャークは車と植え込みというそれぞれの場所で、同じ深さでまどろみ続けた。
どのくらい経ったころだろう、聞きなれた足音が近づいてきて、シャークが目を覚ました。目の前の小枝が不自然に揺れ動き、それから剛太が顔を出す。四つん這いで、心なしか不安そうな顔つきで。
「シャーク!」
彼はそのまま植え込みに潜り込もうとしたけれど、ランドセルが引っかかり、中途半端なところで止まる。ずっと走ってきたのか、息を弾ませながら、「お前、本当に学校に来たよな。それで、ちゃんと戻ってきたんだ」と言った。僕とシャークは身体を起こし、右足を軽く上げてみせる。
「そうだよな。約束したもんな、絶対に帰ってくるって」
そして剛太は左手を地面についたまま、右手で僕とシャークをしっかりと抱き寄せて、脇腹に顔を埋めた。ああ、こういうのやっぱり苦手なんだよな。仕事も全て終わったし、僕は早々にシャークとの接触を切って引き上げることにした。やっぱりお腹が空いてるから、美蘭行きつけの白梅庵で、季節限定ルレクチェと安納芋のクリームパフェでも食べるとしよう。
18 喜んでるんじゃないかな
美蘭が待ち合わせ場所に指定したのは、いつぞや俺を騙し討ちにしてくれた、バイト先近くのカフェだった。それだけでもう、幸先がよくない感じがするんだけれど、俺はもう年内いっぱいは不運が続く覚悟を決めていたので、却ってさばさばした気分だった。
相変わらず沈んだ雰囲気の職場をそそくさと出て、一番安いブレンドコーヒーを飲みながら、窓際の二人がけの席でスマホを弄ぶ。もう何日、麻子と連絡をとっていないだろう。こうして俺は、逃げるようにして一人、また一人とつながりを断ち、より薄い生活へと舵を切って行くのかもしれない。
「待たせてごめんなさい」
やけにしおらしい台詞とともに、美蘭が現れた。今日はパーカーとジーンズ、頭にはキャスケットという格好だ。
「学校は?サボったのか」
「自主的に休み。色々と忙しくって」と言いながら、彼女は腰を下ろすとキャスケットを脱ぎ、「別に遊んでるわけじゃないのよ。こんど鎖鎌の昇段試験があるから、その練習」と付け加えた。
「く、鎖鎌?あの、忍者とかが使ってる奴?」
「そう。まあ、実際に使う機会なんて少ないと思うけど」
美蘭は事もなげにそう言うと、運ばれてきたホットチョコレートを飲んだ。白い頬にほんのりと赤みがさす。
「他にも色々習ってるわけ?その、手裏剣とかさ」
「言っとくけど私、忍者じゃないから」
「いや、それは判ってるけど」
変な話ふってきたのはそっちだろ、と思いながら、俺はスマホをポケットに入れる。美蘭は両手でカップを包みこむようにして、ホットチョコレートをまた少し飲むと、「さっさと本題に入りましょうか」と言った。
全く、どちらも醒ヶ井邸に住んでるんだから、用があるならそこで話せばよさそうなもんだけど、互いに何となく、それはちょっと、という気持ちがあるから、こんな場所で会っているのだ。俺は覚悟を決めて「桜丸から、話は聞いてくれた?」と尋ねた。例の、俺が彫刻を辞めた理由って奴だ。
「聞いたわ」
「まあそういう事なんだけど、質問とか、あるかな」
「特にないわ。今のところ」
なんだか肩透かし食らったような、そっけない答え。美蘭は視線を手元のカップに落としたまま、「そんなに気に病むほどの事でもないじゃない、なんて思ったりもしたけど、そこは見解の相違よね」と言った。
「俺ってけっこう小心者だから。で、君の答えは?モデルやってくれる気はある?」
「それなんだけど」と、彼女にしては随分と歯切れの悪い口調で、美蘭は言葉を続けた。
「私としては、おじさまが質問に答えてくれたし、引き受けるのが筋だと思ったの。でも、桜丸が、どうしても止めてほしいとかって言うのよね。私の勝手だし、関係ないじゃない、って普通にそう言ったら、なんか黙っちゃってさ、よく見たら泣いてんの。頭おかしくなったのかも」
彼女は何か、怪奇現象について報告するような、自分の見たものが信じられないとでも言いたげな顔つきだ。
「美蘭、そういうの、世間じゃ何て言うか知ってるか?」
「何のことよ」
「君の言ってることだよ。それは立派なノロケ話だ」
俺がそう言った途端、美蘭は全面否定の勢いで「はあ?」とやり返してきた。
「だから、ノロケ話。誰が聞いたってそう思うぞ。私がモデルやろうとしたらさあ、彼氏が絶対駄目とかって、拗ねちゃってぇ、もう愛され過ぎて困っちゃう、って奴だ」
「私はそんな馬鹿女みたいな話はしてないから。大体さ、モデルやって脱いだぐらいで、何が減るもんでなし、ぐだぐだ言うなって話よ」
「いや、本当に減るんだ」
「減る?何が?」
「多分、だけど、桜丸の中の夜久野美蘭が減ってしまう。自分だけのものだと思ってる彼女の、何かが欠けてしまう」
「あはは、抽象的すぎる」
美蘭は俺の言葉を笑い飛ばそうとしたけれど、その声にはいくらか硬さがあった。
「男ってロマンチストだし、ものすごく繊細だからな。女には判らないよ、そういう気持ち。特に君みたいに図太いタイプには。君がもし、この先もモデルで稼ごうとか、これを何かの転機にしようとか思ってる女の子なら、そんな男は放っておけと言うところだけど、今回はそういうわけじゃない。俺はむしろ、桜丸サイドだ」
「何よそれ。桜丸の考えが理解できるってこと?じゃあ聞くけど、あの人、クリスマスに長野で一緒に星見ようって言ったんだけど、どうしてそれに亜蘭まで誘おうとするわけ?」
「知るかそんな事。弟が邪魔なら、二人っきりで行きたいって、素直に言えばすむ話だろ」
「だからそういう話とは違うっていうの!」
美蘭は意味不明な方向にブチ切れていたけれど、冗談抜きで桜丸の気持ちを量りかねているらしかった。ふだんあれだけ大人ぶって判ったような口をきいてるくせに、肝心なところが致命的に鈍い。
彼女は自分を落ち着かせようとするかのように背筋を伸ばし、ホットチョコレートをゆっくりと飲んでから、「とにかく」と言った。
「なんかケチがついちゃったから、この話、なかった事にしたいの」
「なかった事?」
つまり、俺からネタだけ引っ張り出しておいて、白紙に戻そうというわけか。馬鹿にするにも程がある。何か言い返してやろうと息を吸い込んだところへ、彼女が言葉を続けた。
「だからさ、モデルの話だけじゃなくて、おじさまの借金もチャラにしてあげるわ」
「ほ、本気で言ってる?」
「冗談だと思うなら、今すぐ借金返して。本当の事を言えば、家賃ぐらい払ってほしいんだけど」
「いや、まあ、家賃ぐらいは」と、もごもご言いながら、俺は頭の中で美蘭から請求されていた借金の額を計算していた。猫の斡旋料がらみのリベート十五万円、前にこのカフェで踏み倒したコーヒー代、その後押し付けられた寿司の出前と…
美蘭はいつの間にか、お得意の冷たい表情に戻ってこちらを観察していたけれど、ふいに「あのさ、その、死んじゃった先輩って人だけど」と言った。
「貝塚さん?」
「別におじさまの事、悪く思ってないわよ、きっと」
「何だよいきなり。気休めなんか言ってくれなくていいよ」
「気休めってわけじゃないわ。その気があれば、イタコ紹介するけどね。けっこう当たるって評判だし。それで、貝塚さん呼び出してみたらさ、喜んでるんじゃないかな。俺の彫刻、憶えててくれたんだあ、なんて言うと思う。だってさ…」
美蘭はまっすぐ俺の目を見たまま、尚も続けようとした。
「悪いけど、それ以上言わないでくれる?」
思いがけない言葉をかけられ、俺は不覚にも泣いてしまいそうだった。美蘭は気づかないふりして口をつぐむと、目を伏せてカップを手にしたけれど、電話が入ったらしくて、「失礼」と、ポケットからスマホを取り出した。
「どうしたの?いないって、ちゃんと探した?屋根裏とかもよ。ソファの下とか」
電話の相手は桜丸らしい。
「私の部屋は見た?そんなのいいから、ベッドの中までちゃんと探して。あと、亜蘭のゴミ部屋もね。今からすぐ戻るわ」
電話を切ると、美蘭は「じゃあ、ま、そういう事で決まりね」と立ち上がった。
「いやあの、これから帰るの?」
「そうよ。桜丸が小梅のごはんあげに来たんだけど、見つからないって。探さなきゃ」
「だったら俺も一緒に帰るよ。探す人間は多い方がいいだろ?」
あの婆さん猫は底意地の悪いところがあるから、たぶん嫌がらせで隠れているのだ。美蘭はうさんくさそうに「交通費浮かせたいだけじゃないの?」と言ったけれど、俺がタクシーに便乗するのを拒みはしなかった。
「家の中ぜんぶ、一通り探してみたんだけど、いないんだ」
桜丸は困り果てた顔つきで、醒ヶ井邸に戻った俺たちを出迎えた。美蘭は「ご機嫌斜めかな」と、肩をすくめてから、正真正銘の猫撫で声で小梅の名を連呼しながら、家の中を探し始めた。俺はとりあえず、自分が小梅を呼ぶのは逆効果かな、と思いながら、声はあげずに家具の下だとか、カーテンの陰をのぞいて回る。しかし猫の姿はどこにも見当たらなかった。
にわか作りの捜索本部は醒ヶ井邸の居間で、早々に作業を諦めた俺は一人、窓際に立ったままで美蘭と桜丸が戻るのを待った。本来なら小梅は、ヒーターをつけてあるこの部屋で、ソファに置かれたひざ掛けの辺りに鎮座しているはずだった。雲隠れの理由は餌に飽きたか、留守番に怒ったか、他のわがままか。
「本当に、どこ行っちゃったんだろう」
収穫もなく家探しを終えた美蘭と、庭に出ていた桜丸が相次いで居間に戻った頃、亜蘭も帰ってきた。どうやら美蘭が呼び戻したらしくて、「どこほっつき歩いてたのよ、この役立たず」と、いきなり悪態でお出迎えだ。彼は姉の文句を軽く受け流すと、「アトリエの辺りにいるみたいだよ」と言った。小梅の居場所らしい。
「でも、あそこは全部探したわよ。ピアノの中も開けてみたし」
「アトリエ辺りの、なんか暗い場所」
亜蘭はそれだけ言うと、居間を出ていった。アトリエに向かうらしい。すぐに美蘭と桜丸が後に続き、俺もとりあえずついて行く。小梅を探すために、家中の明かりは点けたままで、アトリエも例外ではない。だから亜蘭の言う「なんか暗い場所」じたい存在しないのだけれど、大体どうして外から戻ったばかりの彼に、小梅の居場所が判るのだろう。
亜蘭は夢遊病者みたいな、ふわふわとした足取りでアトリエに入ると、まっすぐオーディオセットの方に向かった。そしてその向こう、鬼怒子婆さんのレコードコレクションを入れた棚の前まで行くと、しゃがみこんで床に膝をつく。そして棚の下、壁板の隙間を覗き込むと「この中」と言った。
美蘭は慌てて駆け寄ると、床に頭をつけて中を覗くなり「いた!」と叫んだ。中は真っ暗なはずなのに、よく見えるものだ。彼女は「小梅?そんなとこで何してるの、出ておいで」声をかけたけれど、反応はないようだ。俺はつい「猫ってさ、自分で死期を悟ると身を隠すって言うけど」と口走ってしまった。
美蘭は無言でこちらを睨み、亜蘭は「寝てるっていうか、すごく疲れてるみたいだけど」と言ってから、「やってみる?」と提案した。一体どういう意味だろう。それを美蘭は厳しい声で「駄目」と却下する。
「あんたが引っ張られるとまずい。離れて」
美蘭は再び床に腹ばいになると、その細い腕を壁板の隙間に突っ込んだ。リーチは亜蘭や桜丸の方が長いだろうけれど、男の腕では入らない狭さだ。しかし彼女はすぐに腕を引っ込めると、「ぎりぎり触れはするんだけど、なんか体温が低い」と唸った。
「ったく、なんでこんなとこに穴なんかあるのよ。この棚の裏って、元は物置でしょ?ちゃんと塞いどけっての」
俺は内心、やっぱりこれは小梅のご臨終だよな、と確信した。もう二十年も生きた猫だし、大往生の準備に入っているに違いない。しかし美蘭はまた隙間を覗き込んで「小梅!しっかりして!そんな寒いとこにいちゃ駄目よ。今すぐ出してあげるからね」と叫んでから、亜蘭に「工具箱取って来い」と命じた。
一体どうしてこの双子は高校生のくせに車なんぞ乗り回しているのか、おまけにやたらと中味の充実した工具箱まで積み込んでいて、どう考えても学校サボってよからぬ作業に精出しているとしか思えない。
美蘭は亜蘭が運んできた工具箱をひったくるようにして開けると、バールを取り出して壁の隙間に突っ込み、体重をかけて壁板を割ろうとした。
「ちょっと、美蘭、それまずいんじゃない?」
見かねた桜丸が慌てて止めに入っても、彼女は意に介さない。
「壊しちゃったら、修理代とか請求されるかもしれないよ」
「だから何よ、こんな家バラバラにぶっ壊してやる」と、更に力をこめると、木の割れる鈍い音が響いたけれど、どうやら裂け目が入っただけらしくて、隙間は広がらない。桜丸は美蘭の腕に手をかけて「どうしてもやるなら、鋸を使う方がいい。時間はかかるけど」と言った。彼はそして工具箱から折りたたみの細い鋸を取り出すと、ためらいもせずに分厚い壁板を切り始めた。
美蘭は何も言わずにいったんアトリエを出て行ったけれど、すぐにドライヤーと延長コードを片手に戻ってきた。そして彼女が延長コードのプラグを放り投げると、亜蘭がそれをコンセントにつなぎ、ドライヤーからは小梅の居場所に向かって温風が送り込まれる。俺はといえば、このにわかレスキュー隊の傍で傍観を続ける、ただの役立たずというところ。
「ちょっとうるさいけど我慢してね」と声をかけながら、美蘭は床に這いつくばってドライヤーを握り続けている。その間に亜蘭は居間にあった膝掛を持ってきて、桜丸は工具を糸鋸に持ち替えていた。たかだか猫一匹、しかも超高齢でいつお迎えがきてもおかしくない婆さん猫にこの騒ぎ。俺は心底呆れていたはずなのに、それと同時に妙な切なさを感じていた。この三人が、まるで小さな子供みたいに思えてきたのだ。
「あと少しだ」
糸鋸を引いている桜丸が声をかけると、美蘭は亜蘭に向かって「車!」と叫ぶ。
「よし、切れた」という声を合図に、美蘭はドライヤーを置いて壁の穴へ頭を突っ込み、ぐったりと動かない小梅を引っ張り出して膝掛の中に包み込んだ。そして桜丸に「あんたが抱いて!体温高いから」と引き渡すと、すぐさま玄関へと向かった。慌てて俺も後を追うと、門の外にはもう亜蘭が車で待機している。美蘭は助手席に飛び込み、桜丸は後ろだ。
「ちょっと、どこ行くんだよ」
美蘭の「獣医さん!後片付けお願いね」という返事だけを残して、黒のGT-Rは急発進していった。
別にこれ、自分がやる必要ないんだけど、と何度も思いながら、俺は美蘭たちがアトリエに放り出していったバールや鋸を工具箱に戻し、散らかった木屑を掃除した。壁の大穴と切り取られた木片はどうしようもないので、その場に残しておくけれど、醒ヶ井鬼怒子の管財人がこれを知ったらどうするだろう。
美蘭たちが猫の世話を任されているのはあくまで、鬼怒子の遺言を履行するためであって、超高齢猫の寿命と屋敷の価値を天秤にかけたら答えは明らか、賠償を請求されたら半端な額では収まらないはずだ。
子供なんだよな、結局。
金の亡者かと思えば、変なところで損得勘定が破綻している。俺はここしばらくの、美蘭に振り回された日々を思い返しながら、アトリエの明かりを消してドアを閉めた。よく考えたら夕食もまだだけれど、ちょっと今夜は外に出る気がしない。たしかまだカップラーメンの買い置きがあったはずだと思いながら、俺は美蘭たちの帰りを待つことにした。
19 後生ノ諸賢ニヨリ
「お腹すいたんだけど」
「じゃあ降りれば?運転代わるから」
美蘭は助手席にふんぞり返ったまま、そう言ってヒーターの風向を調節した。
「判った。でも財布持ってないから、お金貸してくれる?」
「嫌」
僕は溜息をついて、少しだけアクセルを踏み込んだ。後ろから桜丸が「亜蘭、千円でよければ貸すけど」と声をかけてくる。美蘭は「踏み倒されるわよ」と釘をさしてから、「そっちまで風いってる?」と確かめた。
「うん。ちゃんと暖かいよ」
答える桜丸の腕には、膝掛に包まれた三毛猫の小梅が抱かれている。壁の隙間にもぐりこんで、動かなくなってたのを引っ張り出して、主治医の安田先生のところへ担ぎ込んで。あれから何時間経っただろう。勇武は小梅が死にかけてる、というような事を言ったけど、あながち外れでもなくて、診断によると初期の肺炎らしかった。
点滴を何本か打たれ、身体を温められている小梅の傍で、美蘭はずっとその背中を撫で続けていた。時おり「小梅、頑張れ」と声をかけたけれど、僕には傍へ寄らせてくれなかった。理由は判ってる。もし僕がうっかり小梅と接触してしまったら、そのまま引っ張られる可能性があるからだ。下手をすると、あの世まで。
でも、美蘭の励ましが届いたのか、この世にまだまだ未練があるのか、徐々にではあるけれど、弱かった小梅の心拍は力強くなり、安定を増していった。そしてうっすらと目を開くと、かすかに聞こえる声でビャアと鳴いた。
小梅はとにかく病院嫌いで、ずっと昔、避妊手術を受けた時の入院でストレスが昂じて死にかけたことがあるらしい。だから安田先生は、何かあればすぐ往診するという約束で、醒ヶ井邸に連れ帰ることを許してくれた。もうとっくに日付は変わっていたけれど、僕らは飲まず食わずのままで、正直いって車に乗るまで空腹すら忘れてしまっていた。
なんだかんだ言っても、美蘭の機嫌はそう悪くなくて、僕らはどうにかコンビニに寄ることができた。一番品薄の時間ではあったけど、文句は言えない。売れ残りのおにぎりと、出汁の煮詰まったおでんが僕らの遅すぎる夕食、或いは早すぎる朝食だ。そして醒ヶ井邸に戻ると、美蘭は桜丸が抱いてきた小梅を自分のベッドに寝かせ、ペットボトルで作った即席の湯たんぽもタオルに包んで入れてやった。
「元は鬼怒子さんのベッドだしさ、やっぱりこの子が一番好きな場所だからね」
美蘭は疲れた、と口には出さないけれど、長い溜息をついてからベッドに腰を下ろして「おでん」と言った。
「え、下に置いてあるけど」
「あんた私が今、この状態で、小梅ほったらかして、おでん食べに降りてくと思ってんの?」
まあそれも正論なんだけど、としぶしぶ納得しながら、僕は玄関に置きっぱなしにしていたコンビニの袋をとりに行った。居間から明かりが漏れているので覗いてみると、ソファで勇武がいびきをかいていた。僕らのこと、待ってたんだろうか。よく判らないけど、ここで目を覚まされるとおでんの取り分が減りそうなので、僕は傍に畳んであった小梅用の毛布を広げると、彼が安眠できるように肩までかけておいた。
それから三日ばかりすると、小梅は嘘のように復活した。もちろん安田先生は何度か往診してくれたし、僕は小梅マニュアルに従って、小田原まで極上の干物を買いに行かされたりしたんだけど、それでもやっぱりこの三毛猫自身の生命力が半端ない気がして、こういうのを猫又と呼ぶんじゃないかと思った。
桜丸はバイトと学校の合間を縫って、毎日小梅の様子を見にきたけど、もしかしたらそれは口実で、美蘭の部屋に入るのが目的だったのかもしれない。何故なら、小梅が復活して、あちこちうろつくようになった途端に、見舞いに来なくなったからだ。まあ単に、安心したのかもしれないけど。
僕がここまで二人の仲を疑うのには理由がある。どうも桜丸は、クリスマスに長野に星を見に行こうと、美蘭を誘ったらしいのだ。「だから、小梅の世話はよろしく」と、当然のように言われても納得がいかない。
ともかく、小梅が元気でいてくれると、わけもない安心感がある。僕は彼女が再び食べるようになった、「猫貴族」の「マグロ赤身とトロの饗宴」を餌入れに移してから、自分も朝食のグラノラをボウルに入れた。そして冷蔵庫を開けると、牛乳がない。隅のテーブルでは制服姿の美蘭が、ボウルになみなみと注がれたカフェオレを飲んでいるところだった。
「牛乳、全部使ったの?」
「文句があるなら、もっと早起きすることね」
文句も何も、と僕が口を開こうとしたところへいきなり、けたたましい音をたてて何かが窓にぶつかった。朝食に口をつけようとしていた小梅は、老猫とは思えない勢いで飛び上がると、物陰に身を潜めた。
すりガラスの向こうの、黒いシルエット。思わず美蘭の方を見ると、苦々しい顔つきで「開ければ」と言わんばかりに顎をしゃくってみせる。仕方なく窓を開けると、大きな鴉が羽音も高らかに舞い込んで、冷蔵庫の上にとまった。相変わらず、人を見下す場所が好きなのだ。僕らが何も言わずにいると、鴉は「ご挨拶はなしかい?」と不機嫌な声をあげた。
「おはようございます」と美蘭が平坦な口調で言い、僕もその後に続く。鴉は「相変わらず礼儀正しいことだよ」と呟き、「あんたたち、またひと騒動やってくれたらしいね」と言った。
「何かしら、心当たりないけど」
「じゃあ聞くけどね、小学校の教室をスズメバチが襲撃して、それを猫が踊りながら操ってたなんていう学校の怪談めいた話が、どうしていきなり広まったりするんだい」
「今時の子供ってさ、色々とストレス多いから、集団ヒステリーみたいなもんじゃない?」
美蘭は頬杖をついて鴉を見上げながらそう言うと、スプーンにとっていた蜂蜜をゆっくりと舐めた。
「なるほどね。ところがその騒ぎ、柊貴志の息子のクラスで起きたらしいじゃないか」
「あら、すごい偶然」
わざとらしくそう言うと、美蘭は舐め終わったスプーンをボウルに入れた。
「柊貴志といえばさ、玄蘭さんにけっこう値のはるシャンパン、贈るつもりみたいよ」
鴉は勿体つけて首をかしげると、「それはまた、有り難い話だこと」と返す。
「あんたらの父親も、政治家を目指してるだけあって、気がきくようになってきたじゃないか」
僕はこの、作為的な会話を聞きながら、この前のことを思い出していた。
帰ってくるためのおまじない、なんて名目で剛太のマンションの鍵をシャークの首輪につけさせたけど、「五年A組襲撃」なんてのはただの遊びで、本来の目的はこっちだったのだ。
美蘭は剛太が戻る前にマンションへ上がり込んで、貴志と春菜、それぞれのパソコンの履歴にあるパスワードやID、カード番号にセキュリティコード、更には使っていない商品券までちゃっかり頂戴してきた。僕には何もくれなかったけど。
「まあ、色々お世話になってますって、お礼かしらね。シャンパンは今、フランスから空輸の手配をしてるらしいから、クリスマス頃には届くと思うわ」
「それは大いに結構。それじゃ、あの家に送り込んだ猫はさっさと捨てておいで。用済みだし、あいつを口実に、事あるごとに馬鹿女が宗市を呼び出すんだから、鬱陶しいったらない」
「まだ使い道はあると思うからさ、もうしばらくは置いとくつもり。宗市さんの事は何とかするわ。とりあえず、ダミーの結婚指輪でもさせとこうか」
「趣味の悪い話をするんじゃないよ」
鴉は心底不愉快そうに嘴を開き、翼を広げてみせた。美蘭は「あら失礼」と肩をすくめてから「ねえ、ついでなんだけど、ちょっと見てほしいものがあるの」と立ち上がり、キッチンを出て行った。鴉は「こっちはそんなに暇じゃないんだよ」と言いながら後に続き、なんとなく僕もついて行った。
美蘭は廊下を急ぎ足で進み、アトリエに入ると、まっすぐにあの、壁に開けた穴のところまで行く。鴉はスピーカーの上にとまり、穴を凝視するように首を伸ばしてから、抑揚のない声で「何の真似だい、これは」と言った。
「だってしょうがなかったのよ。小梅が入り込んで、出てこなかったから」
「あんな年寄り猫なんざ放っておけばいいんだよ。遅かれ早かれ死ぬんだから。それを何だい、こんな馬鹿やらかして」
「まあそれが、馬鹿ってほどでもなかったのよ。ちょっと中のぞいてみてくれる?」
美蘭は穴の傍に膝をつき、壁に立てかけていた木片を少しずらした。鴉はふわりと舞い降りてくると、「あんたまさか、それで私を閉じ込めようってんじゃないだろうね」と、うさんくさそうに言った。
「玄蘭さん本人がくたばるならやる価値ありだけど、鴉だけじゃ意味ないわ」
「口の減らないガキだ。だいたいこっちは暗いところは得意じゃないんだ、明かりぐらい用意できないかい」
「アポなしで来るんだから、しょうがないじゃない」
鴉はしぶしぶ、といった足取りで穴の中に入り、しばらく黙っていたけれど、「全く、驚いたこと」と、首を振りながら出てきて美蘭に向き直った。
「ありゃ一体、何だい」
「醒ヶ井守の、幻の作品って奴」
そう言って、美蘭は穴に頭と腕を突っ込むと、何か取り出してきた。
「この紙が一緒に置いてあった」と、手にした便箋のようなものを披いて床に置く。鴉はそれを覗き込むと、面白そうに読み上げた。
「後生ノ諸賢ニヨリ吾ガ作品ノ真ニ理解サレルヲ欲ス。随分と買い被ってらっしゃるようだねえ」
「出品拒否されたの、よっぽど悔しかったのかな。壁の裏に隠しちゃったりしてさ」
美蘭は便箋をたたむと、穴の中に戻した。
「でさ、この彫刻、管財人に内緒で運び出して、しばらく隠しとこうと思うんだけど」
「ほとぼりがさめた頃に売りに出す、か」
「だからさ、まずここから運び出すのと、外した壁を綺麗に修理するのと。仕事する人間はこっちで探すから、費用の方をお願いしたいんだけど」
美蘭の依頼を聞いて、鴉は嘴をこれでもかと開いて大袈裟な威嚇のポーズをとった。
「結局また金の無心かい。ま、利息はたんまりつけて返してもらうからね。それにあんた、誰かにこの彫刻を作らせてただろう。そっちはどうするんだい」
「ベトナム人のトランさんね。まあ、ちょっと路線変更してもらって、オリジナル作品として現代アートのオークションに出すつもり。けっこう行けるんじゃないかな」
この二人は金儲けの相談をする時だけは、何とか穏やかに話ができるみたいだ。僕は自分にとっていい話が全く出てこないので、馬鹿らしくなってその場を離れた。キッチンに戻ると、すでに朝食を終えた小梅が念入りに髭の手入れをしていて、僕をちらりと見上げると、「ビャア」と鳴いてみせた。
20 猫とスズメバチ
インターホンを鳴らしてドアを開けると、俺の足音を聞きつけていたのか、シャークは既に玄関に滑り込み、腹を見せて転がり回っていた。その後から剛太が「勇武ちゃん、遅かったね」と飛び出してくる。俺はちょっと屈んでシャークの相手をしてから、剛太の後についてリビングに向かった。
金曜の夜だけど、この家の主、貴志はもちろんまだ帰っていない。春菜さんは「本当に晩ごはん食べていかない?ピザのデリバリーでもいいじゃない」と言ってくれたけれど、急に来たのはこっちなので遠慮しておく。
「すぐ帰るからさ。これを渡しに来ただけなんだ」
そして俺は、手にしていた紙バッグから、猫用のおもちゃを取り出した。これはいつぞや、美蘭が俺を釣るのに使った囮だけれど、それを今、俺が持っているのには理由がある。
きっかけは先週、昼休みにかかってきた理沙からの電話だった。いつもの彼女らしく、全く唐突に、しかも半端ない話を持ち掛けてくる。
「勇武さあ、今月いっぱいで失業するって言ってたわよね」
「まあ、そうだけど」
いきなり微妙な話題をふってくるので、周りの人間に聞かれないよう、俺は事務所から非常階段の踊り場へと移動した。
「で?その後どこ行くかは決まってる?」
「決まってない」
「よかった!じゃあ決まりだ」
「決まりって、何が」
「うちのダンススクールやってる会社がさあ、子供向けのアート教室を立ち上げるんだって。来年の四月開講で準備してるんだけど、講師が足りないらしくて」
「それで?」
「だからさ、あんた講師にならないかって話よ。お絵かきだけじゃなくて、全身を使って表現するってのがコンセプトだから、立体やってた人間がドンピシャ」
「でも俺、教員免許持ってないし」
「大丈夫よ、ちびっこ相手は免許よりもノリの良さが大事なんだから。あんたぐらい能天気なら絶対いける。年明けから企画を詰めるから、すぐにでも来てほしいって話よ。それとさ、あんた今どっかに居候してるじゃない?麻子のところに戻る気はないの?」
「そんなの、戻れるわけないだろ」
「そっか」
「そっかじゃないよ、戻ったら殺される」
「それは考え過ぎじゃない?でもまあ、この件は私にも責任あるし、物件見つけてきたのよ。といっても、旦那が前に住んでたアパート。火事のせいで結局建て直しになったんだけど、まだ一部屋空いてるんだって。大家さんにお願いして、半年間だけ家賃半額で了解してもらったし、年内の家賃は私が持つ。破格の待遇でしょ?すぐ入れるから、この週末に引っ越しでいいかな。あんた荷物なんかほとんどないでしょ?土曜か日曜どっちがいい?」
「どっちって、俺まだ何も返事してないだろ?」
「やるしかないでしょ。そいでしっかりお金ためて、麻子にプロポーズ」
「いやだから、麻子とはもう終わってるし」
「そうかなあ。まあとにかく、この仕事はやるよね?引っ越しは土曜か日曜、どっち?」
で、結局俺は土曜に引っ越した。色々と勿体つけたところで、理沙のオファーは俺にとって渡りに船としか言いようのないものだったから。
彫刻モデルの話が流れてから、俺と美蘭の間には何となく気まずい空気があって、暗黙のうちにお互いを避けていたし、だからこそ俺は、一日も早く醒ヶ井邸を出ていかなければと考えていた。
しばらく居候させてくれそうな友達もいるにはいて、一人は飛騨高山、もう一人は奄美大島。こうなったらどちらかを頼って東京脱出か、或いは宿舎完備の派遣労働。最悪の場合はネットカフェ。とりあえず住む場所の心配が先にあって、仕事についてはイメージすら浮かばずに、ただ、どうにかしないと、という何かに追われるような感覚だけがつきまとっていたのだ。
引っ越し、といっても荷物なんてたかがしれていて、理沙が借りてきた軽バンの荷台はスカスカだった。まるで夜逃げみたいに慌ただしい作業を、美蘭はまるで面白い見世物であるかのように、壁にもたれて腕組みで見物していた。
「どうも!うちの勇武が世話になりました!」
立ち去る間際に理沙が大声であいさつすると、美蘭はとっておきの笑顔を浮かべ、「お世話だなんてとんでもない。勇武さんがいなくなると本当に寂しいわ」と、歯の浮くような台詞を吐いた。
理沙は調子に乗って「また、ちょくちょく遊びに来させますから」なんて言っている。もういい加減にそこらで、という気持ちをこめて俺が「じゃあ」と声をかけると、美蘭は「ちょっと待ってて」と二階へ上がっていった。
「高校生って言ってたよね。ずいぶんと大人びた子だけど、うちの野菜の仕事でバイトしないか、きいてみていい?」
理沙は美蘭に興味津々だったけれど、俺はもちろん「やめといた方がいい」としか言わない。その会話が聞こえたかどうか、美蘭はすぐに戻ってくると、手にしていた紙バッグを差し出して「これ、お餞別」と言った。
「いや、そんなに気を遣っていただかなくていいのよ」と、先に理沙が答えたけれど、美蘭は「勇武さんに、というより剛太くんに」と微笑むだけだ。仕方なくその紙バッグを受け取り、中を覗いてみると、猫用のおもちゃが入っていた。
「シャーク、ジャンプ!連続ジャーンプ!」
剛太は息を切らせながら手にした猫じゃらしを振り回し、シャークは疲れた様子など全く見せずに、紐の先ついたピンクの羽飾りめがけて力強い跳躍を繰り返している。剛太が腕を振るたびに、羽毛につけられた小さな鈴がチリチリと鳴った。
「剛くん、やり過ぎて、どこかぶつけたりしないでね」
春菜さんは呆れた様子で注意しながら、俺にコーヒーとバタークッキーを出してくれると、ソファに腰を下ろした。俺の知ってる彼女なら、家の中で猫がここまで大暴れするのを許すはずもないんだけど、今日はどこか様子が違う。彼女はただ、空気清浄器のリモコンを手にして「ターボ」に切り替えただけで、「シャーク嬉しそうね、よかったじゃない」と言った。
「ねえ、春菜さん、剛太がまた学校行くようになったって、本当?フリースクールじゃなくて?」
俺は剛太本人からきいていた近況を確かめるべく、思い切って尋ねてみた。
「そうなの。冬休みまであと少しだけだから、行く、とかって」
俺たちの会話は、猫じゃらしに夢中になっている剛太の耳には届いてなさそうだ。
「何か、きっかけでもあったの?」
「思い当たることは何もないんだけど、このまえ急に、この日学校に行く、って言い出したのよね。でもその日は私、お友達と歌舞伎を見に行く約束があって、送り迎えできないから別の日にすれば、って言ったのよ。だって、その少し前に狂言鑑賞会で登校して、からかわれちゃったから、また同じかもしれないと思って」
「まあねえ」
「でも何故だか絶対その日に行く、一人で大丈夫、って言い張るから、先生にもちゃんとお願いしておいて、登校させたのよ。そしたら、休み時間に教室にスズメバチが入って来たとかで、すごい騒ぎになったの。刺されてはいないけど、追い回されてパニックみたいになった子がいたりして。でも、その襲われた子っていうのが、例の事件で剛太のこといじめてた相手なのよ」
例の事件、というのはあの、貴志の「路チュー」記事だ。
「つまり、剛太としてはそれで溜飲を下げたというか、ざまあみろ、みたいな?」
「よく判らないけどね。剛太は自分じゃ全然その話をしなくて、私は学級委員をしてる子のママから詳しく教えてもらったのよ。でさ、変な話なんだけど、子供たちはそのスズメバチを、猫が操ってたって言ってるらしいの」
「猫が?どうやって?」
「なんかこう、前足を」と言いながら、春菜さんは両手を軽く握りこぶしにして、前後に振ってみせたけれど、それはまさに「猫踊り」だった。
「その猫ってね、黒猫じゃないけど、黒っぽい縞模様っていうか、シャークみたいな猫だったらしいの」
「つまり、シャークが学校に現れた?」
「でも絶対そんなはずないわよ。朝はちゃんとケージの中にいたし、私が帰った時はここで剛太と遊んでたし」
「そうだよなあ。第一、猫がスズメバチを操るなんてそんな」と言いながら、俺は頭の中で何かがパズルのように嵌まるのを感じていた。猫とスズメバチ、このキーワードに共通する…
「ねえ勇武ちゃん!」
ようやく立ち上がった俺の思考をぶった切るように、剛太が勢いよくソファに飛び乗ってきた。
「じいじにクリスマスプレゼント作りたいんだけど、手伝ってもらっていい?」
「いいけど、何を作るんだよ」
「シャーク。紙粘土で作って色も塗る。じいじはシャークのこと、立派な猫だなあって言ったから、本物と同じ大きさで作るんだ」
「なるほど。作り方は色々あるけど、まずはスケッチからだな。どういうポーズにするか、実物をよく見て、絵に描くんだ。正面だけじゃなくて、横とか、後ろから見たところも。気に入ったのが描けるまで、何枚も。それができてから、次に粘土を使おう」
「わかった。じゃあスケッチができたら電話するね」
とはいえ、俺という失敗例もあるし、剛太が気合の入った猫の粘土細工なんか贈ったら、親父は却って孫の進路を心配するかもしれない。春菜さんはそこまで深読みしてないらしくて、「今から作って間に合うかしらね」なんて言っている。
剛太の頭はとにかくシャーク一色らしくて、プレゼント計画の後にはパーティーの話が続いた。
「ねえねえ、今年はシャークが来て初めてのクリスマスだから、ちゃんとパーティーしようと思ってるんだ。ママはうちみたいに猫を飼うようになったお友達と、ペットショップの氷水さんを招待しようって言うんだけど、勇武ちゃんも来る?」
「そうだな、土日か夜なら大丈夫だけど」
「じゃあ、来る方に入れとくね。あと、美蘭も来るかな」
「どうだろう。クリスマスは友達と約束してるんじゃないかな。代わりに亜蘭を誘ってみたら?」
正直なところ、この家に再び美蘭を上げるのは危険な気がする。でもまあ、亜蘭は人畜無害だし、頭数を増やすだけならちょうどいい。
「亜蘭って誰だっけ」
「ほら、美蘭の双子の弟だよ。シャークがここに来たとき、一緒にいただろう?前もそんな話、したよな」
「あんまり憶えてない」
剛太はそう言うと、テーブルに手を伸ばし、バタークッキーを頬張った。
「全く、あいつ本当に影が薄いな」
そんな独り言を呟きながら、何気なくシャークの方を見ると、後ろ足で立ち上がり、左右の前足で優雅に舞っている。
「あーっ!」と思わず声を上げると、猫は俺を一瞥してから踊りを止め、何事もなかったかのように寝そべって前足の肉球を舐め始めた。
黒煙踊猫之始末(くろけむりおどるねこのしまつ)