秘密

先生と僕には他人には言えない二人だけの秘密がある。
僕らの出会いは診察室だった。
彼は机と椅子とパソコンだけの簡素な部屋で突然訪れた僕の話を時折相槌を打ちながら淡々とパソコンで記録していた。
僕は室内に響くクラシック音楽と彼の指のリズムが心地よくてついついうとうとしてしまう。
そして彼のその長い指は虫を殺したこともないくらい白くて綺麗でそのまま眺めていたくなる程だった。
近況を話し終えると彼は必ずこう聞く。
「次はいつ会える?」
僕はその言葉をこの二週間ずっと心待ちにしていた。
彼が唯一僕を求めてくれる瞬間だからだ。
僕はもったいつけるように考え込んで口を開く。
「そうですね…二週間後でしたら…大丈夫かと」
嘘だ。本当は毎日でも通いたいがぐっとこらえておよそ好ましいと思われる数字を並び立てる。
「わかりました。では二週間後に」
すると先生はそれを聞いてにっこりと笑う。
約15分。この診察の為だけに僕は生きている。
僕がこの不治の病にかかってから約10年が経とうとしている。
その間ずっと先生は僕のかかりつけ医だ。
お互い10年を歳をとったが先生の見た目はあまり変わることがなく相変わらず縁のない眼鏡と少し白髪混じった黒髪と目尻にできた皺が知的に見えた。
僕はずっと先生に恋をしていた。
彼を好きになった理由は単純だと言われるかもしれないが初対面にも関わらず僕のくだらない身の上話を親身に聞いてくれたからだ。
こんなに優しい人間が存在するのか、とこのとき僕は驚いた。
僕の周りはいつも要領が悪くドンくさい僕を馬鹿にするか見下すか、僕のたどたどしい日本語を鼻で笑う人間しかいなかった。
先生は今まで出会った人間と違う。
僕を一人の人間として扱ってくれる。
僕の見た目や学歴や生い立ちなどで差別するような人間じゃなかった。
でも僕の恋は報われる日は永遠にやってこない。
何故なら彼は既婚者で僕は患者だからだ。
そんな僕の気持ちに気づいていても変わらず先生は優しく接してくれる。
僕の途方もない話を真摯に聞いてくれる。
だから先生が毎回決まって出す薬を僕は何の疑いもなく飲み続けた。
でも僕の病気は一向に治ることはなかった。
寧ろ酷くなるばかりだった。
相変わらず日中は起き上がれないくらいだるいし、幻覚ばかり見てしまう。食事の仕方も睡眠方法もとうの昔に忘れてしまった。
そしてとうとう朝起きると僕の右手が動かなくなってしまった。
でも先生に心配をかけたくないから僕は症状のことは言わず病院に通い続けた。
しかし今度は左手が言うことを聞かなくなった。
そして左足、右足、下半身、上半身と次々と体が麻痺していった。
けれど僕は這いずってでも病院に通った。先生にどうしても会いたかったから。
そんな僕に気づいているのか気づいていないのか先生はこう言い続けた。
「次はいつ会える?」
僕は答えにつまった。次会える保証なんてない。もしかしたらこれが先生に会える最後かもしれない。そうすると生きる希望が湧いた。
生きていると実感できた。
先生に会うために僕は生きている。
だからこう答えた。
「二週間後なら、だいじょうぶです」
「そうか、なら二週間後にね」
その言葉に先生は爛々と目を輝かせ嬉しさを隠さず微笑んだ。
僕は嬉しかった。
少なくとも彼が僕を必要としてくれている。
それだけで生きる活力が湧いた。生きようと思えた。
しかしその翌日とうとう僕は目が開かなくなった。
暗闇の中手探りで先生に貰った薬を探す。
毎日服用するように。
それが先生と僕との約束だった。
その薬は飲み続ける度寿命を縮める薬だった。
僕は解っていてそれを服薬し続けた。
彼も僕が何の薬か知っていて服用するのを止めなかった。
僕はこの不治の病にかかってからずっと死にたかった。
彼はそれを知っていたからこそわざわざ医者のルールを犯して徐々に僕の体壊す薬を処方してくれた。
これは彼の僕に対する愛情なのだ。
奥さんや子供にかけることのない、僕だけの特別な思いやりだ。
唯一悔やまれるのは二週間後に先生と会う約束が守れなかったことだ。
先生はきっと残念な顔をするだろう。
そしてパソコンに記録する。
僕がどれくらい薬に耐えられたかを。
彼の担当する患者の中でここまで長生きできたのは自分だけだったのだから。
だけど本当はずっと待っていた。
先生のこの手で僕を殺してくれる日を。
出会ったときから決めていた。この人になら命を捧げても良いと。
例え先生の僕に対する愛情が、新薬の実験動物に対するそれだったとしても。
先生と僕の秘密は墓場まで持っていく。
やがて体内に蓄積された薬が毒に変わり僕は幸福の溜め息をついた。

秘密

秘密

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-07

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