規則
一
地図の上に引かれた蛍光マーカーの痕跡は,最後まで大通りに沿って,目的地である国立公園の入り口まで続いている。寄り道なし,ひと休みなし。色は赤で目立っている。付箋紙でメモが書かれている。『ここまではいつも順調』。ペリッと剥がすと,そこには一台も走っていないT字路があって,開かれてから一度も渋滞したことなんてないんだろうと,簡単に推測できる。そこに付箋紙を再び貼り付けると,道の途中,今度はマジックペンで紙面に直接,二桁の数字が書かれている。矢印が伸びて,今も在るのか分からない建物のシルエットの真ん前を指す。緯度?経度?ううん,どちらでもないと否定する。これは個人的な足取りだから,視野は狭くしなきゃいけないルールだ。なら,と座椅子が回転する事務用のイスを活用して,後ろの棚と対面する。本があれば各大型家電の説明書,更新し続けている家計簿の数十冊,収められたファイル群,アルバム,ある有名人のサイン本, そして日記。何十年分に及ぶ日記。
どの年代の,どの頁のことを指示しているのかまでは分からないから,十代の頃を中心にして十冊ずつを棚から取り出し積み上げて,どの日記のどの頁にも,数字がきちんと書き込まれているのも確かめて,地図の数字と合致する頁を開いていった。それを読んでいく。詳細に書かれている,その日,その時またはその時までにあった事,思った事は,他人が読んでも面白くなるように意識されて記されていた。くすくす笑ったり,眉をひそめて疑ったり,目を開いて驚いたり,忙しい思いをさせられた。けれど,目的は見失わなかったから,この地図と関係がある箇所をきちんと見つけた。十代後半と,二十代前半。それと,八十代前半。該当箇所に書かれていたのは,目的地に向かう動機と経緯,例えば発掘仲間と約束した化石のスケッチやラケットを使った軽い運動,二人っきりになったあとの語らい,そこで会う約束,一人で向かった日。唯一,挿絵がある頁に短く書かれている数行だけが,すべての日記の中で書いた本人にしか分からない気持ちで締められている。それから空いた六十年近く,書き出しが『日時と場所を間違えていた』で始まるその両開きの,半頁には一匹のみつばちが描かれてあって,そのお尻を横に振っている。八の字ダンス。蜜や餌場などがある場所の時間と距離を仲間に教える。養蜂家でなくても調べれば分かる。でも,そこにはシャレがたっぷりと塗り込められている。ストレート過ぎて呆れてしまう。下手くそなウインクが頭に浮かぶ。途中でやめない,それが引き受けたルールだった。だから口もとを引き締めて,再び地図に戻る。頁に戻る。地図に戻る,それから数えて指でなぞる。区画,通り,歩道,時間。
公園に着いた後の徒歩の数。八の倍数。左右の確認を怠るな。
ルールを一歩はみ出して,地図の頁を一枚捲ると,丁度,目的地の真裏にあたるところには,生まれたことのある病院,住んでいた住所,通っていた学校,遊んでいた空き地,今いるここが配置される地域があった。昔とそれほど変わっていないんだと分かった。それなら,辿れるはずだと確信できた。地図を閉じて,足下に置いてあったリュックを取って,手帳とタブレットの間に挟んで入れて,チャックを閉じて,イスから立ち上がり,鍵を手にして,電気を消して,靴を履いて,扉を開けた。カチャッと鳴るまで回した。ロックをしていなかった自転車に足をかけて,力を入れて,漕いで進んだ。ライトを点ける。まずは右。
設定していた音声案内を切って,下り坂に任せる。お店が消えて,お店が現れて,ルールを守ってブレーキをかける。突っ張る頬っぺたを両手でほぐす。鼻をすする。標識を見上げる。同じルートを辿っている。あと少しで到着する。
地図を渡されたときに預かった伝言には,新しい内容が加えられた。『お元気そうで何より』,堅苦しいかと思い直して,『やあ』。短すぎると指摘をした結果,「お前に任せる,失礼のないように」。刈り込まれた園内の広場に代理人二人して,実際に会って交わした言葉が一致した。
「大変でしたね,お互い。」
それぞれ持参していた地図を広げあって,ヒントの拾い方,活かし方,通った筋の面白さを披露しあって,伝言を伝えた。それから別れた。方向は反対だった。園内には,出入口が二つある。ここに来るまでに鉢合わせることがなかった理由だった。自転車を押しながら,一人納得した。
倍数を刻まない園内は広くて,コースは長かった。入り口に戻って来たらペダルに足をかけて,立ち漕ぎをした。進んだ。もう自由に変えられるルートだった。だから,それを守るのも自由だった。開いているお店が明るくて,開いているお店が後ろに遠ざかった。また,開いているお店。
覚えた名前を書けると思った。
規則