幻の砂

幻の砂

中東で出会ったオランダ人のキラと日本人のタツオの国際恋愛不倫物語。随所に強い性的表現がありますので予めご了承ください。

第一話 美女と野獣

第一話 美女と野獣

「また砂嵐になるな」
高層アパート9階からの視界はほぼゼロ、黄土色の不毛な原色風景が眼下に広がる。時折、ビュービューと吹く強風が砂粒と一緒にベランダの窓に当たり、カチカチと小さい音を立てる。ベッドでオレの腕の中で寝息をたてているキラも、心なしか眉間にシワを寄せている。

中東砂漠国へ単身赴任して今月で丸3年になった。赴任当初は大いに戸惑ったものだ。なにせ日本とは真逆なワンダーワールド。夜明け前に街中のデカいスピーカーでアザーンと呼ばれる大音響のコーランでたたき起こされ、事務所の運転手は所長のオレの勤務とはお構いなしに道中でマットを地面に置いてメッカに向かって拝礼し始める。それにこの国は中東諸国でも酒は厳しく取り締まられる国、酒好きな自分は本当に困った。ついでに言えば戒律で豚肉も厳禁なので好物のトンカツも口にできない悲しさ。もちろん赴任してしばらくは友人や知人もいない、家族は子供の受験があったので日本に置き去り。事務所から帰るとドカッとソファに身を投げ出し、「あ~、早く日本に帰してくれよぉ」と叫ぶ毎日であった。

しかし「石の上にも3年」だ。イスラム流の生活様式にも慣れ、また交渉相手のアラブ商人、折衝先の役人とも顔なじみになってきた。買い物だって一人でできる。日本のような贅沢を言わなければ食料品や日用雑貨品は手に入る。床屋や洗濯屋、薬局も馴染みのお兄さんやお姉さんがいる、彼らはかなり英語ができる、きっとオレなんかより使い慣れているんだろう。もちろん生活費は日本に比べて格段に安い。ただし、そこは日本人の悲しさでどうしても日本のB級食料品(カップ麺やキューピー調味料、冷凍餃子やタコ焼きなど)が欲しくなる。その当時、中東に駐在する社員に対してハードシップ手当として輸送料金は会社で負担してくれるシステムになっていた。日本食料品調達に駐在費の三分の一くらい投じていたと思う、それくらい日本が恋しかった。

駐在4年目に入ったオレの生活に大きな不自由はなかったし、次第に日本人会の知人たちとノンアルビールを片手に羊料理をつつくこともしばしば、また会社から輸送してもらったB級日本食料品パーティーは好評だった。「このたこ焼き、本当にウマイですねぇ」とお世辞でなくて褒めくれた。日本人たちは皆、同じ思いで日々暮らしていたのだ。ある日、若い青年協力隊の隊員がポータブルのカラオケマイクを持ってきた。あとの熱狂的盛り上がりは推して測るべしである。アフターファイブや休日は日本人仲間中心で過ごしたが、丸3年が経ちオレも仲間では古株の部類に入っていたし、結構でかいツラしていた。

しかし単身赴任で妻を同伴していないというのもみすぼらしい。もっとも単身を良いことに大抵の男は現地国で遊びまくるし、オレも30代まではそうだった。だが幸か不幸かオレの赴任したこの国は男女完全分離という不可思議な戒律がある。たとえば結婚式に招かれて驚くのは、花嫁と花婿がそれぞれ別々に式を挙げることだ。父親といえども花嫁となった娘の部屋に入ることができない。父親は花婿となる義理の息子を囲み、親戚やら友人たち男の招待客たちだけの披露宴に臨む。そう、この国では性犯罪も厳罰だ。痴漢で懲役、強姦なら間違いなく死刑である。われわれ外国人に対してであっても例外でなく、日本大使館からは口酸っぱく「とくに現地の異性にだけは気を付けてください」とお達しが廻っていた。以前に邦人男性がえらいことをやらかして大使館はひどい目にあったとのウワサを聞いたことがある。
「窮屈だよな、禁酒だけでも東南アジアや欧米の駐在員にワリを食っているのに、女にまでキビシイのかよ…」とボヤキたくもなる。これはオレだけのボヤキではない、この国に住む世界中の外国人男性、特にオレみたいな現役の男は多かれ少なかれ同じ思いを抱いていたはずだ。

ボヤキの日々が金太郎飴のように過ぎてゆくある日、オランダ大使館のチャリティーバザーの代理出席を本社からメールで命ぜられた。「冗談じゃねぇ、いくら社長命令とはいえバザーなんてガキやオンナじゃあるまいしオッサンの顔出すどこじゃねぇだろ、ったく秘書室も気が利かねぇな、そんなインヴィテーションなんか握りつぶしゃいいのによ!」と呟きながらも大使館まで来ると受付オネエサンには精一杯のつくり笑顔で「このたび御招待頂いたのは我が社の名誉でありまして」とかなんとか大げさな挨拶している自分がいた。

会場に入るとわが日本国の紳士淑女の皆さん負けず虎屋羊羹のような笑顔を振りまきながらあちらこちらのブースへ挨拶廻りしている。やれやれ、オレも一周挨拶して自腹30ドルの購入はノルマだな、その前にちょいと腹ごしらえを、と思って立食用のテーブルで一呼吸。たまたま空いていたオレの隣に腰かけてきたのが、一人のオランダ女性であった。彼女もバザーに興味などないことは明らかだった。紙皿に盛ったパスタとサザンアイランドを思いっきりぶっかけたサラダをオランダ語のファッション雑誌を流し読みしながら口に運んでいたが、オレも同様にひたすら食っていた。とにかく30ドルのポケットマネー、せめてメシで取り返してやらねば、というさもしい根性だった。さて腹も8分目になったし、そろそろ出陣するかな、と一応礼儀として隣で雑誌を読んでいる女性に「それでは失礼」と言って立ち去ろうとした。


「ねえあなた、この前のゴルフコンペにいらした方でしょう?」

そのとおりだ。毎月一回、各国持ち回り幹事でこの国に一ヵ所だけあるゴルフ場で国際親善と銘打ってコンペが開催される。先月はオランダが幹事だった。でもこんな女性いたかな?思い出せないでいると、
「私ったらコンペの前日にね、アパートの階段を踏み外して捻挫してしまって出場できなかったのよ。それを耳にした大使館から電話があって、大使のキャディを頼めないかって言うのよ、そうすれば一人分キャディ代が助かるって言われたの。それでね、バッグ担いで歩くだけではあまりにミジメだから皆さんのスウィングを拝見していたってわけ」ケロッと言いのけている。他国の悪口は言いたくないがオランダ人はケチだって評判だぜ。英語でも「Go Dutch」(割り勘)という表現もあるしな。

「そうですか、それで貴女のような美女(Beauty)の目に思いがけず私ごとき野獣(Beast)のスウィングが止まったというわけですな、男と女の国際親善ができて光栄です、それでは私はこれにて失礼」と踵を返した背後で彼女の笑い声が聞こえた。あまりに素っ頓狂な大笑いにオレも振り返って「どうかしましたか?」とマジ声できいた。

「東洋人のあなたの口からまさか“Beauty & Beastなんて言葉が出て来るとは思わなかったのよ、ごめんなさい、久しぶりに大笑いしちゃった」と予期せぬ答え。ふーん、こんなオヤジギャグのどこがオモシロイのかね、と呆れつつも次第に二人は打ち解けていった。

「私の名前はキラ。ロッテルダムの貿易会社からここに派遣されて半年になるの。あなたってなんだか面白そうな人だわ」といきなりケラケラとぬかしやがるが悪い気はしない。オレよりちょい若いルックス、オランダ人にしては小柄な金髪だ。オレも「名前はタツオ、年齢は46歳、出身は東京」と自己紹介した、ここで余計な家族情報を交換するのも野暮ってなもんでしょ、お互いに申し合わせたようにそこは触れない。意気投合したオレとキラは大使館会場のバザーを終了時ギリギリまで嬉々として廻った、2時間があっという間に過ぎて行く。運転手を帰して会場を出てたどり着いたヌール公園で、どちらからともなく手を繋いでいた。キラもオレに好意を寄せ始めているらしいが、やっぱりちょっと気になるな、彼女もオレと同じ単身赴任なのか、いや独身かバツイチかもしれんぞ。それにしてもあの時キラが「美女と野獣」で大笑いしなかったらオレは再びキラに会うことはなく、そして最後に待ち構えていた彼女の壮絶な運命もなかっただろうと思うと神妙な気持ちに今はなっている(続く)。

第二話 「バイアグラ」

第二話 「バイアグラ」

イスラム国では金曜日が休日、礼拝の日でもある。敬虔なムスリムたちはそれぞれのモスクを訪れ、祈りを捧げる。金曜日の午前10時、キラは9階のオレの部屋の玄関ベルを鳴らした。約束の時間ピッタリだ。女を自分の部屋に招き入れるのは初めてでもない。しかしドキドキするもんだな。緊張気味に笑顔を作り、迎え入れた。その直後のキラのセリフは今でも忘れられない。

「もぉ~、クルマから降りたら砂嵐で体中ジャリジャリだわ。シャワールームはどこ?」

オレなんかガキだわ。
今日はアパートに初めて来る日だから、まずお茶でも飲んでソファで音楽を聴きながら、あわよくばキスくらいできるかも。この前ヌール公園で手は握ったんだから、それくらいは良いだろう…こんな中学生みたいな妄想していたオレはキラのストレートパンチに玄関で一発ダウンだ。キラも女盛りの39歳、男に慣れているのは服装や化粧でなんとなくわかってはいたが、思った通りのバツイチだと昨夜ラインで告白。

ウレシイ誤算とはこのことか。シャワーを浴びたキラはガウン姿でいきなりオレに抱きついてきた。強い香水を付けているのも男のツボをよく心得ている。そのままキラとオレは純白のシーツのベッドで猛烈に求め合った。外で砂嵐が吹き荒れていたことも今日の二人の気持ちを昂ぶらせたと思う。映画シーンに喩えるならば波しぶきを浴びながら抱き合うデスパレートな二人といったところか。

キラも久しぶりだったのかもしれない。オレなんかもっと久しぶりだ。二人とも極限にまでエクスタシーに達していた。キラはさっきからずっとオレの腕の中、優しい愛撫に夢見心地のご様子。ここはミドルのオレの腕の見せどころだと心得ていた。若い男はデリカシーが無いんだよね。終わったらサッサとベッドから出て着替えて、パソコンに向かって仕事を始めるヤツまでいる。女はセックスの中にもロマンスを感じたい動物、それを知らないジコチュウな男は二度と相手にしてくれない。

愛撫が一段落して、二人はダイニングで遅いランチをとった。今日のキラはクルマでいろいろと食材を持ち込んでくれた。キッシュやサラダ、それにローストビーフも作ってくれた。それに驚いたことにハイネケンビールまで2ダース箱で持ってきてくれたのだ。さすがオランダの貿易会社に勤務するキラ、彼女のアパートには密輸したオランダビールがゴッソリとストックしてあるそうだ。まぁきっとお役所にもそれなりにご挨拶しているんだろうけどね。久々の冷えたビール、しかも大好きなハイネケンを目の前にしてキラが魔術師のようにありがたく思えた。それと彼女の作る料理はものすごくウマイ、やはり女がいるとこんなにも食生活が違うものか。さっきまで吹き荒れていた砂嵐はいつのまのかウソのように過ぎ去っていた。陽当たりのよいダイニングルームで窓を開けると、中東特有の乾燥した微風が愛欲で火照った二人の肌に心地よく当たった。

食事が始まると二人が最初に出会った大使館バザーに話は遡った。ゴルフコンペの前日に「捻挫して不参加」というのは彼女の作り話だったことをまず彼女は告白した。実はキラはプロ級の腕前で、過去3回の親善コンペでは3連覇、しかもツワモノの男子たちを蹴落としてベスグロまで3連覇しちまった。先回も出場すればまた優勝はほぼ間違いないところであったが、彼女に考えるところがあって出場をスキップしたらしい。三度のメシより好きなゴルフのコンペに出場しないのもツラかったに違いない。

アツアツのキッシュを取り分けながらキラは喋り始めた。
「ねえタツオ、アタシってまだガキね。前回、3連覇なんてしちゃいけなかった。皆が本当に祝福してくれたのは最初だけ。二回目以降は拍手はしてくれても心の中で「何だい、このアマ、新参者のクセに」と思われていたのよ。3連覇目の優勝トロフィー授与の時「あんまり調子に乗るんじゃないよ、お嬢ちゃん」という目つきで痛いほどオランダ大使から強く握手された。それで気づいたの、これは国際親善試合なんだ。順番に優勝者、優勝国を廻すのが暗黙のルール、毎回オランダだけ優勝者を出していたら国際秩序が乱れるんだってね」

オレ自身はここ半年、出張やら外国客の接待やらに忙殺され、親善コンペどころではなく、キラの勇姿は見る機会がなかった。しかしこんなウワサが日本人会で流れていたのは知っていた。

「最近オランダからとてつもない女ゴルファーがやって来た。ドライバーを握れば軽く250ヤード。バンカー、アプローチ、パットも素人離れしている。前回のオランダコンペではワンアンダーでホールアウト、ドラコン・ニアピンはほぼ総ナメ。」

オレもキッシュを頬張りハイネケンを流し込みながら、
「おいおい、キラ。たかがコンペで国際秩序というのも大袈裟だろう。だいたいそんな狭い料簡のゴルファーは少なくともわがサムライ日本にはいないね。考え過ぎだよ」。実際、日本人駐在員はオレを除いて(いや、オレですら表面上は)紳士ぞろいだ。公の場は言うに及ばず私的なパーティーでも皆お行儀が良い。社交辞令ではあるが、外国の奥さまたちから「日本のサムライ、ウラヤマシイです。オランダ男も見習って欲しいわ」と言われていた。そんなこともあって日本人は礼儀正しく、寛容であると自惚れていた。

しばし不自然な沈黙があったが、キラは思い切ったように言った。
「カトウさんって名前だったかしら。アタシと同じでハンディがゼロの関西銀行の方ね、先週ハイアットホテルで国連主催の会議があった時にお目にかかったの。会議が終わってレセプションの時、カトウさんたら真っ先アタシに近寄ってきて
“オランダ国は素晴らしい女性ゴルファーをお持ちですな。日本は19世紀まで鎖国していましたが、貴国とだけは通商関係にあり、様々な西洋文化や学術を学んでまいりました。21世紀も然り、今後ともよろしくご指導ください”
とだけ言い放ってニコリともせず立ち去ったわ。アタシもタツオと同じこと思った。たかがゴルフで負けたくらいくらいで何が文化、学術よ、大人げないわね、って。でもね、同じハンディゼロの日本のゴルファーから見れば、アタシは煙ったい存在なのよ。しかも相手はガイジンの女、生意気なヤツ。理屈では分かっていても男のプライドがついていけないのよね」。

あれぇ~関銀の加藤さんって温厚で知性溢れる爽やかな紳士だと思っていたんだけど、意外とネチネチしているんだな。そりゃ失言だぜ加藤さん、キラだって気を悪くするにきまっているじゃないか。それにしてもこんな同胞の陰口を聞かされところがカラダの関係に入った男女ならではだ。知りたくないことまで知らされるハメになる。お互いの隅々まで知り尽くしまうと気が緩み、あれこれと喋ってしまうのは男も同じだ。

「国際間の紛争ってこんなツマラナイことから始まることがよくあると思うの。嫉妬や誤解、不寛容とかが引き金になる。宗教でも一緒じゃないかしら。アタシはカトリックだけれどプロテスタントやギリシャ正教もあって、宗教戦争も同じキリスト教徒の間で起きた歴史をヨーロッパは持っている。イスラムでもスンニーとシーア、元を正せばムハンマドの後継者を誰にするか、という問題で二派に分かれて今なお対立してテロ攻撃を相互に繰り返している。アタシ、大袈裟かもしれないけど。たとえ小さなことでもひとりよがりの言動をしていると嫉妬や誤解を生み、それが国際紛争の火ダネになるんだっていうことをよくよく頭に叩き込んでおかないといけないことが分かったわ。民族や国家を背負うと小さい蟻みたいな話でも巨象のような大問題になることがあるのよ。だからね、カトウさんには感謝しているのよ」

マジかよ。さっきまで日本男児自慢の竹刀にベッドでヨガリまくっていたオンナとは思えない殊勝な演説。目を見張ってキラの顔を見る。キラ、オマエってそんなこと考えていたのか。それに憎いはずの加藤さんにまで感謝するとはさすがキリスト教徒だな「汝の敵を愛せよ」か。女一匹、ヨーロッパから中東駐在なんてちょっと変わりダネだとは思っていたが、やはりタダ者ではさそうだ。

キラの演説、全部を理解したわけでもないけど、なんだかちょっと見直した。
「なぁ、オレたちこんな灼熱の地で偶然知り合った外人同士だけど、互いに刺激し合って、それにさ…」
とオレなりに答辞を始めたら、いきなり隣に飛んできてオレの口を柔らかなバラのような唇でふさいだ。

「フェンシングのツキよりタツオの剣道の突きが好きになっちゃったの。ね、互いに刺激し合うんでしょ!」

え~、もう今日はもう「ご馳走さま」したんじゃないの?と憂鬱な顔を待っていたかのように彼女のバッグから手品のように取り出したのがあの「バイアグラ」。おいおい、オレこんなの使ったことねぇぞ。プライドがやや傷つく。しかもオランダ語のパッケージだし、なんかムカツクわ。

「お願い、もう一回だけ」。小柄なキラがオレのアゴあたりから甘えた目線を送ってくる。「ヤレヤレ、これも国際親善か」と自虐的な気分でグラスを取りに裸でキッチンへ足を向けた。

キラを「お姫様だっこ」して真昼の寝室に戻る。こういうクサイ芝居も大事だ。レースのカーテンを開けると、ぬけるような青い空が頭上に広がった。大窓からはギラギラした午後の陽ざしが差し込み、明るい部屋のベッドの上でスポットライトを浴びているような現実離れした空間が支配する。あのダリの描いた砂漠・溶けた時計の絵「記憶の固執」が脳裡に浮かんだ。

第三話 ブルーモスク

第三話 ブルーモスク

夜明け前。
突如としてモスクから流れるアザーンが鳴り響く。

モスクとは、イスラム教の礼拝堂のことである。オレのアパート徒歩圏内にも通称「ブルーモスク」と呼ばれる美しいアラベスク模様の大寺院があった。このモスク内の「ミナレット」と呼ばれる尖塔に備え付けられたスピーカーからアザーンという礼拝の呼びかけ「神は偉大なり アッラーフ・アクバル」の調べが地響きのように街中に流れる。熟睡していたキラがオレに飛びつき、その勢いで目覚まし時計がフロアに落ちた。

「もぉ~、なんとかしてよ!あの呪文のような声で毎朝起こされるのは御免だわ」

アザーンは礼拝にあわせて毎日5回流される。オレだって最初は「ウザイなぁ」と思っていたが、今ではその荘重な調べを聞くと心が落ち着いてくるから不思議だ。きっと3年住んでいるうちに少しずつ現地化してきたんだろうな。でもキラは赴任してまだ半年ちょっとだし、こんな間近で大音量がいきなり鳴り響いてビックリしたんだろう。さんざん悪態をついたキラだったが、気がつけば小股開いてもう眠っている。寝つきが良いのはいいが、おかげで一緒に起こされたこっちは目が冴えちまった。時計を見ると朝の5時をちょっと回ったところだ。所在無くバルコニーに出てみると空気はひんやりとしている。この国では日中は40℃にも気温が上がるが、朝晩は肌寒いくらいに急激に冷える。ふと日本から持ち込んだ洗濯物干しハンガーに目をやるとキラの下着が4組キチンと洗濯バサミに挟まれている。思えばオレの赴任前、妻が地元のダイソーで購入してくれた8個干せる吊るしタイプだ。「今度はお父さん、単身赴任だから小型が便利ね」と用意してくれたが、まさかオランダのバツイチ女の下着に全部占領されるとは夢想だにしなかった。「事実は小説より奇なり、とはこのことだな」とうそぶいてみたものの、やはり気が引けて妻の住む薄明るい遥か東の空を見つめながら深々と頭を下げた。

この国は長い夏と短い冬しか季節がない。冬は意外なほど多く雨が降る。夏は毎日100%晴天が続く。したがって天気予報は不要となる。大暑ではあるが大気が乾燥しているので不快指数は低く意外なほど過ごしやすい。洗濯物もバルコニーに干せば30分でカラカラに乾くのが有難い。アパートの部屋も空調が不要なくらいカラッとしていて快適だ。初めてバザーで会ってから2ヶ月、オレのアパートに潜り込み、バルコニーで遠慮なく下着を干すまでに居ついてしまったキラ。自然と二人の役割分担みたいなものができてくる。朝食のセットは早起きのオレの分担になっていた。キラは朝が弱く、彼女を毎朝起こすことが大変だった。ついでに言えば寝ぞうもかなり悪く、オレはいつもベッドの端のほうで彼女に蹴飛ばされながら毛布にくるまっていた。

テーブルを挟んでベーコンエッグとジャムたっぷりのマフィンを食べながらキラは、呟くように言った。

「バルコニーから見えるブルーモスク、ここから歩いて行けるわよね。私ってモスクに行ったことないのよ。タツオは行ったことあるでしょ、ねぇ連れてってよ」

オレだってモスクなんて行ったことない、というか宗教施設なのだから、信者でもない東洋人が物見遊山で出かけるべきところではないと思っていた。しかしあの美しいアラベスク模様のドームやアザーンの源となっているミナレットには常々興味があった。3年もイスラム国に住みながら一度もモスクを訪れたことがない、というのも少し偏屈なような気もする。ダイニングルーム東向きの窓からは、太陽を背にキラキラ輝くブルーモスクのドームが見える。よし、今日は行ってみるかな。

「でもさぁ、モスクって女人禁制なんじゃないの?」とオレは無知をさらけ出してしまった。
「あのね、タツオ。モスクには男女別の礼拝堂があるのよ。だから女も大丈夫なの。もちろん信者でなくても入れるわ」と解説してくれた。考えてみればイスタンブールやカイロだってイスラム大寺院を訪れる外人観光客の落とすカネが国家の重要な収入源。異教徒とか性別関係なく受け入れていることを今更のように思い出した。但し女性は寺院内ではヒジャブと呼ばれるスカーフで髪を覆わなければならないらしい。そうだと分かると急に観光客気分になってきた。しかも今回は味気ないオッサンの一人礼拝ではなく、熟女一人同伴となれば楽しくないはずがない。目と鼻の先にあるブルーモスク、ここをデートスポットに選んだキラの奇抜さに、また一つ惚れ直した。この女、行儀はよろしくないし、突拍子のないことを時々する。この前も突然バイアグラをオレに突きつけやがった。でもそういうキャラに不思議と惹きつけられるんだよな。

強烈な真昼の陽射しを頭上に受けながら、二人は緩やかな坂を上りブルーモスクの正門前に到着した。イスラム教徒ではないとはいえ、寺院訪問は気持ちが厳かになる。いつもはイチャつく二人も道中言葉も少なく、もちろん手も繋がない。モスクでもキリスト教会でも仏教寺院でも神聖な場所であることに変わりはない。ここブルーモスクは20世紀に建立された比較的新しい寺院で、近代的な造りである。教科書などで良く見る古い荘厳な寺院を想像していたが、ちょっと拍子抜けした。キラの言う通り寺院の入り口は男女別になっていた。男女それぞれ別の礼拝場で祈るわけだが、オランダや日本から来たオレたちからすると違和感がある。「聖ニコラス教会だって東大寺だって男女一緒に祈るよね、なんでイスラムは厳格に男女分けるんだろう?」とオレは首をひねった。キラは「ヒジャブを外人の女にまで強制するのっていかがなものかしらね。まぁいいわ、郷に入れば郷に従えと言うしね、それじゃ3時にここでまた会いましょう」。そう言って、近くの露店で買ったヒジャブを頭に巻きつけながら女専用の入り口から中に消えて行った。

オレも初めてモスクの中へ足を踏み入れた。まず驚いたのは土足禁止であること、おおっ!わが日本の仏教寺と同じだ、と緊張が和らいだ。入り口で熱いほうじ茶を差し出されたような安堵感。しばらく裸足で大理石の廊下を歩いてゆくと、礼拝場付近は赤い絨毯が敷き詰められていて、寺院全体に柔らか味を与える。ここでは昼寝をしているように見える人もいたりして、結構皆さんくつろいでいる。あれれ、思いのほかゆるいんだなぁ、よし、オレもちょっと横になってみるか。天井を見上げると、とてつもなく高く「青の世界」が広がる。壁一面にあの美しいアラベスク(幾何学)模様の装飾が施されている。この高い天井とアラベスクを見上げていると宇宙を感じる。寝転んだ自分がフワフワと宇宙空間を遊泳しているような錯覚に陥る。しかし不思議だな、イスラムのことなど実はほとんど何も知らないオレでも、こうやって寺院の中で寝転んでいるだけで心が浄化されてゆく気がする。オレも京都の寺やヨーロッパの教会は観光で何ヶ所か廻ったことがあるし、それなりに美しいとは思った。しかし今回のブルーモスクのように心が浄化されるようなピュアな気持ちになったのは初めての経験でちょっと自分でも驚いた。

しばらくすると地底から沸いてきたかのように大勢の信者が集まり始め、集団礼拝が始まった。ざっと数えたところ300人くらいの男たちがメッカの方向に向かって跪いている。すると正面の演壇のような場所に小柄な老人が上り、マイクの前に立つなりあのアザーンのような礼拝の調べを口上し始めた。てっきりこの老人、イスラムの長老かなんかだろうと思っていたが、そうではなく調べを訓練し声が良く通るという一般の教徒だということであった。そういえばイスラム教には聖職者とか神父というような階級は存在しない、と聞いたことがある。それに偶像崇拝も禁じていたんだよね。さてさて、この集団礼拝、実際に見ると壮観である。300人もの男たちが一糸乱れずコーランの調べとともにメッカに向かって立ったり跪いたりする姿は、純朴で敬虔な砂漠の民の心を覗くようだ。そもそもイスラム教は中東という気候風土の厳しい場所で誕生した。生き抜くための知恵も満載されていると聞く。イスラムに帰依した男たちはひたすらムハンマドの教えを守り、厳しい土地で家族や血族を守ってゆくべき義務を幼いころから叩きこまれているらしい。日本も戦前は小学校でも「修身」という道徳の時間があったが、今ではそういう日本伝統の道徳教育は前近代的として否定されているのと対照的ではある。

壮観な集団礼拝を見物したのち、一人中庭を歩いてみた。回廊に囲まれ、真ん中に噴水が設置された中庭はイスラム寺院の中でも美しい場所の一つである。スペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿の中庭は特に有名である。眩いばかりの太陽光線と噴き上げる水との交差を、回廊の木製長椅子から眺めていると、屋外美術館にでもいるような錯覚に陥る。中庭には涼しげに青葉が茂っており、さながら砂漠のオアシス、人もまばらで静かな時間を噴水のせせらぎを聞いていた。「一人だけになりたい、キラに邪魔されたくないなぁ」、などと自分勝手なことを思いながら中庭入口の方をチラチラ見ていた。

午後3時。
モスク正面入り口に戻るとキラは土産屋でなにやら売り場のオバサンと値段交渉をしているようだ。こちらでは値札なんか意味がない、いや値札すらついてないことが多い。早い話が交渉で値段が決まるのだが、オレなんか面倒くさいから言い値で買ってしまう。そこへ行くとキラは粘る、というか横にいて恥ずかしくなるほどシツコイ。一度キラにそれをからかい半分で言ったらマジ切れした。「ワタシはね、タツオみたいな金持ちじゃないから!」と思いっきり皮肉を言われた。見るところキラだってそんなにカネに困っているとは思えないのだが、要するにオンナっていうのは言い値で買うことに一種の罪悪感を覚えるのだと結論づけてみた。これは経済の話ではなく、一種の宗教である。たとえ家計は痛まなくても値切ることは主婦としての当然の義務である、という確固たる信念は祖母、母、娘と引き継がれて行く。

「ねぇ、見てよ!こういうショール、前から欲しかったの。このレース部分がブルーの幾何学模様でステキでしょ、しかもね、言い値の半分に値切ってやったわ」馬鹿ににキラはご機嫌である。オレはショールなんか興味ないが一応「あぁ、それはキラに似合いそうだ」と答えておいた。余計なことを言うとまた反撃をくらう。
「中庭では見かけなかったな、ずっと礼拝堂にいたのか?」ときいた。静寂な時間をキラに邪魔されなかったのは良かったが、ずっと彼女が礼拝堂で一人何をしていたのか気になった。
「あぁ、地元の女性とおしゃべりしていたのよ。集団礼拝の時にね、何人かの小さい子供たちが親から離されて出口あたりで遊んでいたんだけどね、可哀想だからちょっと遊んであげたら子供たちはもう大喜びでさ。礼拝の最中にあんまりはしゃぐものだから、皆に睨まれちゃったわよ。それで礼拝が終わってね、お母さんたちがそれぞれ子供を引き取りにきたんだけど、そのうちの一人がなんと日本人。こちら中東の男性に嫁いで20年になるんですって。そのお母さんから、この国で生活する外国人妻の苦労話を聞かせてもらっていたのよ。タツオのこともよっぽど話してやろうかと思ったけれど、あとで誤解されると困るからやめといた。ミユキっていう名前だって言っていたわ。実はアタシもね、前の夫がブラジル人で、リオデジャネイロに一緒に住んでいたから、ミユキの外国人妻の苦労が肌で分かるのよ」。

だからこういう狭い中東の街で悪いことはできないのだ。ミユキさんのご主人はサイード氏、ウチの精密機械を収めているお得意先のオーナー社長だ。オレもサイードさんのお宅で何度かミユキさんの手作り料理をご馳走になったことがある。ご主人のサイードさんはムハンマドの生まれ変わりかと思うほど厳格なイスラム教徒。もしオレがアパートにオンナを引っ張り込んでいるなどという噂が彼の耳にでも入ったら、冗談じゃなくて取引中止になるかもしれない。
そんな詳細までキラには説明できないから、ただ「おい、頼むからオレたちのことは内緒にしておいてくれよ」
と哀願するしかない。
キラもしたり顔で
「へへっ、それはねぇ、こっちからもお願いしたいもんだわよ、タツオ」
と来たところで共犯は見事に成立した。それにしてもキラの前夫はブラジル人だったのか、知らなかった。まぁいいや、昔のことで突っ込むのはやめとこっと。

アパートに戻りシャワーを浴びてひと息つくと、二人はワイングラスを片手に白いガウン姿のままバルコニーに出た。キラの倉庫にはハイネケンだけでなくワインもストックしているのだ。巨大な夕陽がくすんだ色の街を鮮やかな朱色で徐々に染めてゆく風景は、まるで映画でも観ているような気分にさせてくれる。本日最後のアザーンが響き始めた。石造りのこの街に哀愁を帯びた調べがコダマする。バルコニーからの霞んだ眺めは世界のどこよりもロマンチックに思えてくる。冷えた白ワインは仕事を忘れさせ旅情を掻き立ててくれる。

珍しくキラはオレから離れて木製の手すりにアゴを乗せて遠くを見ている。
「タツオ、アタシはね、あなたに奥さんがいるとかいないとか、そんなことはどうでもいいのよ。でもあなたの心に負担がかかるなら申し訳なくって…」
夕陽で真紅に染められたキラの横顔は少し憂いている。
おっ、いきなりどうした?やけにしおらしいじゃないか。
「何を言っているのさ、キラ。オレは今のキミだけを愛している。キミのことしかアタマにない」と演歌のセリフをそのままパクって手を肩に乗せた。即座にキラが返した言葉が

「そんな男が東の空に向かっていつまでもアタマを下げるものかしらね」

コノヤロー、見ていやがったのか。
コイツもいっぱしに嫉妬するらしいわ。でもオマエだってブラジルの前夫の話なんか今までしなかったじゃないか。

まあいいさ、お互い「今だけを猛烈に生きる」、これだけ考えような。
不倫のイロハだと思うんだけどね(続く)。

第4話 エメロンの失態

第4話 エメロンの失態

なし崩し的にキラとの同棲が始まって4ヶ月が経った。義理で顔を出したオランダ大使館バザーで偶然に出会ったキラと、まさか同棲するなんてオレもキラも思いも寄らなかった。よく「人生万事塞翁が馬」とか「一寸先は闇」などなど正反対のことわざがあるが、今のオレたちは仕方なしに行ったバザーが幸いして、嵐のような恋に落ちたのだから「塞翁が馬」のクチだと思うね。

単身生活も一変した。
まずは食生活。キラは驚くほどの料理上手である。それもそのはず、キラの実家は地元ロッテルダムで家庭料理屋を営む名店である。イタリア、スペインなどのメジャー料理は言うに及ばず、ブルガリア料理やハンガリー料理といった日本人にはあまり馴染みのない料理まで得意であった。10歳くらいの頃から店の調理場に立っていた彼女は、料理の基本を祖母や母に叩き込まれたそうである。結局は大学で経営学を収め貿易会社に勤務することになり、今は兄夫婦が料理店を継いでいる。ヨーロッパ産の食材も彼女の貿易会社経由で仕入れているらしい。さすがキラの厳しい目をパスしただけあって、調味料からドレッシングまで一流品揃いである。もちろん安くはない食材だから「食費はオレに負担させてくれよ。キラの調理代はベッドでお返しするから」と冗談めかして言うと、「食費は収入が多いタツオにお願いするわ、調理代はもうちょっとはずんでもらうけどね」。気持のいいお返事だ。スパッと「あとはアンタが払ってよ」と言ってくる女、好感が持てる。それにしても調理代はもっとはずんで、というのも不気味ではある。
彼女の自慢料理の中でも「グヤーシュスープ」は最高であった。ハンガリーの伝統料理なのだが、牛肉、玉葱、ジャガイモなどをラードで煮込んだピリ辛の素朴なスープで、真夏の暑い季節に食べると滋養強壮になり、またドバッと汗もかけてクセになりそうな料理である。料理もさることながらオランダ密輸のビールやワインが飲めるようになったのは、もう天にも昇る幸せだった。この気持ちは日本で普通の生活をしていいる人には分かるまい。

お次はお待ちかねの性生活。ベッドでは相性の良かった二人だが、オレは一つだけキラに不満があった。これは当然と言えばトーゼンなのだが、ヨガリ声がオランダ語なのでオレには理解不能であることだった。男というのは女のヨガリ声「イヤ~ン、もっと奥までぇ」とか「あっ、そこソコ~ん、もっとぉ~」とかいう声でエンジン全開するもだが、これを英語ならまだしもオランダ語で言われるのもツライところだ。キラにしてみても、ヨガりくらいオランダ語でのびのびとやらせてよ、というところだろうな。でもやっぱり片言でいいから日本語でヨガらせたいというワガママな願望はは日々強まる一方だ。そんなある日、意を決して「あのさ~キラ、ベッドのセリフ、日本語がいいんだよねぇ、ローマ字で表記したからあの最中に言ってみてくんない?これってウィンウィンだと思うけど」と遠慮がちにメモを見せた。キラは黙って受け取ってしばらく見ていたが、突然烈火の如く怒り始めた。「あのねぇタツオ。アタシはアムステルダムの“飾り窓”で日本人の客引きしている女じゃないんだからね、バカにしないでよ!」いやごもっともです、オレの失言だったと謝ったけどしばらくキラは不機嫌にベッドで背を向けていたな。あ~、国際恋愛っていうのは思うようにならないわ。ここでも言葉の壁にブチ当たった。でもね、キラさん、「日本人の客」っておっしゃいますが、昨今は隣国アジア諸国のお客様が多いようにお見受けしましたがね。まあいいや、ここは突っ込まないでおこう。

もう一つ大きな失敗、いや失態があった。日本男児のオレとしては女の香りは花王エメロンシャンプーとビオレ石鹸が良いと常々思っていた。実は先月、東京から若手社員が出張して来るというので2本ずつ持ってきてもらった。いやいや、懐かしくて思いっきりクンクンしたね、これこれ、この微香性の庶民的な香りがとてつもなくソソる。例えるならば、銭湯から出てきた湯上りの乙女のような香りだな。キラはアメリカ製のPANTENEを愛用しているが、ハッキリ言って殺虫剤のような強い香りで意欲も萎えるね。早速オレはエメロンとビオレのプラスチックボトルをシャワールームに運びPANTENEの横に置いた。あのローマ字表記事件から一週間、ようやくキラの機嫌も治り、今夜はイソイソとキッチンで夕食の準備をしている。オレもキラのご機嫌を取るように、隣でジャガイモの皮を剥いたり、レタスやトマトを洗ったりと健気な態度をアピールした。キラもオレが反省を認め「タツオ、上の戸棚から鍋とフライパンを取って」などとテキパキと指示を出す。一方のオレ、今夜はエメロンとビオレの香りに包まれたキラを抱けるかもしれないと思うと、アホらしいとは思いつつも心が躍る。食事が終わって何気ないフリをしてオレはキラに「あっ、そうだ。日本のシャンプーと石鹸を出張者に持ってきてもらっていたんだ。キラも試しに使ってみない?」内心ドキドキものだった。オレの心を見抜いてこの前のローマ字の時のように怒声を浴びたらヤバいなぁ、と思っていたが、そこはさすが世界に冠たるメイド・イン・ジャパン、キラは「あら、日本製は使ったことないわ。ぜひ試してみたい」と答えてくれて、ホッとしたな。シャワーから出てきたキラからは「これ、すっごくいいわあ、滑らかな泡立ちだし微香性なところも気に入った」という言葉、内心オレは飛び上がるほど喜んだ。

一週間ぶりのセックス。二人とも燃えないはずはない。エメロン&ビオレという日本の王道を行く香りに咽びながら砂漠の国で西洋の女を抱けるなんて望外の歓びであった。キラはキラでミステリアスでオリエンタルなオレに抱かれるのを新鮮に思っているようだ。お互いのこの意外感が二人のセックスをファンタジックに仕立て、エンドレスな性の饗宴に二人は溺れた。蛇足だが、小柄なキラには長身のオランダ男たちのサイズは合わないのではなかったか?と邪推もした。オランダは世界一の長身国、男性の平均身長は184センチだそうな。オレは175センチだから160センチのキラにはちょうどよいサイズなのかもしれない。そんな恍惚とした性生活の日々が続いたある日、キラが突然ベッドで覆いかぶさっていたオレを突き飛ばした。あまりのことにオレも驚いて「どうしたんだ?」と問い詰める。

「あなた、日本の奥さんのことを思い重ねてアタシを抱いているわね!」

と思いも寄らぬ金切り声を上げた。
「おいおい、何を言っているんだよ。どうかしているぞ、キラ。」
とオレもちょっとムッとして言い返した。するとキラは、

「今さっき、タツオは奥さんの名前を呼びながらアタシの首筋に唇を這わしていたわ…」
キラは恨めしそうに涙を浮かべながらオレを睨んだ。

あっ、マズい!白状すればカミサンの名前ではなく、なぜか初カノのリカの名前を呼んでいた。でもそんなのキラは気づかないだろうと思っていた。いつもは「キラ、また乳首が立っている、カワイイね」とか「キラ、すご~、もうグショグショになっているよ」とか卑猥な言葉を耳元で囁きながら指で愛撫しキラを燃え上がらせていたのに、突然耳慣れない日本人の女の名前を連呼されればカンのスルドいキラなら気づかないはずがない。

エメロンの香りに油断していた。大失態だ。
キラは背を向けてシクシク泣いている。そりゃそうだよな、誰だって自分以外の女の名前を呼ばれながら抱かれたら侮辱されたと思う。挽回せねば、と気は焦る。下手な言い訳や慰めはむしろ逆効果だ。そうかと言ってそのまま放ってはおけない…その夜、キラは毛布を持ってソファのある隣室に行って鍵までかけて閉じこもってしまった。「なんだってキラのヤツ、これくらいのことで泣いたりするんだよ。オレがこれまでキラに経済的にどれだけ尽くしてきたのか、わかっているだろうに」と弁解してみる。いや、それは男のエゴってもんだ。オレが愛していたのはキラのカラダであって心まで完全には愛していなかったのだ。口先だけで「キミだけを愛している」と言っていたんだ。キラはオレのウソに全身で気が付いて悲しんでいる。隣の部屋から彼女の咽び泣くような声が途切れ途切れに聞こえてくる。彼女はオレのことを一人の人間として愛してくれていたのに、タツオ、オマエはいったい何様のつもりなんだよ!押し寄せる自己嫌悪、その晩は朝までオレは眠れなかった。

第5話 キラの告白

第5話 キラの告白

ソファで毛布をかぶりながらジッと天井を見つめている。今夜は近所の結婚式場の馬鹿うるさい野外パーテイーもなく、やけに静かだわ。隣室のベッドでタツオから受けた仕打ちが悔しくて思わず泣いてしまった。それはね、何もタツオがアタシを“飾り窓”の女みたいに扱ったからではない。実はタツオには秘密にしていることがあった。さっきタツオがアタシの耳元で連呼した「リカ」という名の女、アタシから最愛の前夫を奪った憎きカタキ、他の女の名前を言われて抱かれるならガマンできたけれど、リカだけは絶対に許せない。本当はね-、あのエメロンとかいう日本のシャンプーは体臭の強い西洋人のアタシには香りが弱すぎるし、ゼンゼン使えないわ。でもタツオがアタシに使わせたくて日本からわざわざ取り寄せたことはミエミエだったし、男が昔の女のことを懐かしむくらい許してあげたかった。それに下世話な話だけど、自分のアパートを引き払ってここに来て以来、家賃から食費まで全部タツオが払ってくれていたしね。だからあの時シャワーから上がって「このシャンプーいいわね」なんて心にもないことを言って笑顔を見せたのもタツオのご機嫌を取るためだった。こんなこと、タツオに言えやしないわ。

アタシの前夫は日系ブラジル3世、ニコラス・タニグチ。年齢はアタシよりも5歳若かったけど、リオデジャネイロで手広く飲食業や観光業を経営する実業家、しかも自分一代でビジネスを立ち上げた苦労人で地元ではちょっとした名士だった。アタシもちょうどそのころオランダからリオに駐在していてね、当時コーヒー豆の相場が乱高下していたこともあって、ひとり事務所のアタシはてんてこ舞い、寝る暇もないほど忙しかった。ロッテルダム本社なんて、現地の仕事は上手くいって当たり前、何か不具合があれば全部責任を現地事務所に押し付けてくるんだからね。まぁ、それはタツオの会社でも同じらしいけど。

夏の暑いある日、やっと半日だけヒマができて、イパネマ海岸の「エレーナ」という入江にある静かなカフェにフラッと入ってみた。初めて入る店だったけれどアタリだった。潮風が心地好く海岸から吹いてくるテラス席には、大きくて白い木製のパラソルが贅沢な配置で並んでいる。その一つのパラソル席に腰を掛けカイピリーニャを注文した。これね、カシャーサと呼ばれるブラジル原産の蒸留酒にブツ切りのライムを入れたカクテルなんだけど、スッキリした飲み口で人気があるのよ。テラスのテーブルに運ばれた冷えたカイピリーニャを味わいながら、コルコバードの丘に沈む太陽と有名なキリストの巨像を眺めていた、でもやっぱり仕事のことが頭から離れない。もう~、イヤになっちゃう!こんなクールなカフェにまで来てなんでロッテルダムのムカツク上司の顔とメールまで反芻しなきゃいけないのよ。情けない思いでイッキにカイピリーニャを飲み干し、おかわりを注文しようとしたらちょっと離れて一人で座っていた男が右手で指を鳴らし「あちらのセニョーラにカイピリーニャを」と、頼みもしないのに勝手にボーイに注文した。

あ~、アタシの嫌いなタイプだ。プレイボーイぶって一杯おごって尻軽女だったらそのままナンパしちゃえって輩だわ。こういう男、イパネマやコバカパーナのビーチにウヨウヨしている。もっともそういう男たちを誘惑するかのようなキレキレの水着で海岸をモンローウォークしている女たちも女たちだけどね。まぁいいや、アタシも30をとうに過ぎていたし、ナンパできるもんならしてみれば、オネエサンが相手してあげるわ、と気持ちを切り替え「オブリガーダ、セニョール」と笑顔を見せた。ところがその男、こっちの笑顔に返事をしないで新聞を読み続けている。ヘンなヤツだわ、こっちはナンパされたらどうやって反撃してやろうかと考えていたのに、ちょっと肩すかしを食らった。ボーイが運んで来たカイピリーニャを飲みながらもやはり気になる。よく見ると東洋人の顔立ち、成金趣味な腕時計やら指輪をしている。年齢はアタシより若いかなぁ、いや東洋人だから若く見えるだけかも。そんな勝手な想像をしていたら、彼はさっと席を立ちアタシの方に近づいてきた。「来たっ!」とドキドキしていたのはアタシだけ、彼は「それではまた、ごゆっくり」とだけ言って立ち去った。「なんだ、なんだ?」ちょっとガッカリ、ナンパ目的でもないのになぜアタシに奢ってくれたのかわからない。彼はそのままBMWのドアを開け、あっという間に消えてしまった。

帰り際店員に「さっきテラスで新聞を読んでいた方はどなたかしら?ご馳走になったのにちゃんとご挨拶もできなかったのよ」とちょっとカマをかけてみた。すると店員は「セニョール・タニグチ、この店のオーナーです。きっと貴女はこの店は初めてだったので、名刺替わりにご馳走して差し上げたのだと思いますよ」と意外な答えが返ってきた。心の中で「な~んだ、ナンパじゃなかったのね」と言いつつ、それでもアタシは好奇心が止まらなかった。「セニョールは若いのに、こんな立派な店を経営されているんですね。お幾つなのかしら?」とシレっときいてみた。「セニョールはリオだけでも6軒のレストランを経営されています。お年は確か28歳だと思います。日系移民の子孫ですけど、貧乏な家庭に生まれながらも苦労に苦労を重ねて、成功した立志伝中のひとです」と日系らしい彼女もちょっと胸を張って答えた。そして「セニョール・タニグチは時々この店にも巡回でお立ち寄りします。もしご興味があれば」といたずらっぽい目をしてこちらを見た。アタシは慌てて「いえいえ、興味なんか持っていませんよ。それに奥さまがいらっしゃる立派な実業家の方とこのトシでまだ独身の女なんかとは月とスッポンです。それではまた」とあわてて返事して帰ろうとすると「セニョールは去年離婚しましたのよ。毎週この時間には必ずいらっしゃいます」と背中からからかうような声がした。「離婚」という言葉にアタシの心はざわついていた。
ナンパされたかったわけではない、でも素通りするってどうよ。もし「ねぇ、カノジョー」と近寄ってきたら慇懃無礼に反撃して、ロッテルダムの鬱憤晴らしをしてやろうと身構えていたのにな。それにしても気になる年下のアイツ、来週もエレーナに来るって店員は言っていたけれど。離婚したってことは今はフリーってことかしら、若いし金持ちだから、女なんか「よりどりみどり」なんだろうねぇ。相手はナンパ師どころか地元の若手実業家かぁ、あれ、アタシってなに考えてんだろ?

翌週、思い切ってエレーナに行った。「この前ちゃんと挨拶とお礼ができなかったから」と何度も自分に言い訳した。「だから挨拶が終わったらサッサと帰るのよ、キラ」と言い聞かせて心を落ち着かせようとした。店に着くとテラスにあのセニョールが海を背に夕陽を浴び新聞を読みながらこちらを向いている。まだ時間が早いのでテラスで客は誰もいない。ここまで来たんだからあとは一言だけ挨拶して帰るだけだわ、と深呼吸をしてセニョールのテーブルまでの木の床をハイヒールでツカツカと歩み寄った。彼も新聞を置いてアタシを見上げた。夕陽が波に反射して彼の顔が逆光気味に浮かぶ。
「セニョール、先週はカクテルをご馳走になりありがとうございました。今日はそのお礼にだけ参りました。それでは失礼致します」とあらかじめ用意していたセリフを一気に言い放ち、くるっと踵を返した。「そう、これでいいのよキラ、上出来だったわ」と胸をなで下ろしながら立ち去ろうとすると、いきなりセニョーラの大笑いが聞こえた。あまりの大きな笑い声にビックリして「わたくし、何かヘンなこと申し上げまして?」とちょっと目を吊り上げた。精一杯に礼を尽くしているつもりなのに大笑いするって、正直愉快ではなかった。

「いやいや、失礼しました。でもこれが笑わずにおられますか?カクテルは初めて私の店にいらっしゃった女性の皆様に差し上げているのです。そうすれば半数くらいのお客様が気を良くしてリピーターになって頂けますから。私の祖国では「損して得とれ」と言いますけどね。それをまた、なんですな、店が下心丸出しでやっているサービスに対して貴女のように日を改めて律儀にお礼にお見えになって、しかもすぐにお帰りになるなんて、このエレーナ開店以来の珍事です。もう笑いが止まりません、いや失礼、でも可笑しい、ワハハ~!」
アタシ、この年下の男に一発コロリだった。別にイケメンでもないんだけど、親に頼らずたたき上げで商売を立ち上げた男だけが放つ力強いオーラみたいなものを感じる。きっといろんな苦労もしてきたはずだし失敗もあったに違いない。離婚したって聞いたけど、女でも失敗したみたいね。渡る世間の酸いも甘いも嗅ぎ分けられる男、しかも28歳ってどんなヤツなのかって好奇心は膨らむばかり。もっといろいろ話がしたいけど、さっき「それではこれで失礼します」と言ってしまった手前、長居はしたくてもできない。アタシだって女の端くれだわ、プライドもあるのよ。本心は彼から「どうぞ、こちらにお座りになりませんか」と優しく言われるのを待っていたけどそんな気配もない。悔しいけど「それではまた」と言って彼の眼を見つめた。もうこれで終わりだわ、彼と会うことはないかもしれない。黒い澄んだ瞳は西洋人の青い瞳とは違って奥深い。セニョールは「私もこれから出かけるところがあるので失礼しますが、またこの店に是非いらしてくださいね。そうだ、ご主人もお連れになってください。大歓迎です」と言って笑みを浮かべた。アタシは「ありがとうございます、でも私は貴方と同じでシングルですのよ」と言ってから「シマッタ!」と口を塞いだ。思わず口走った店員から仕入れた個人情報。彼は一瞬ひるんだ表情を見せたが、すぐに「いやぁCIA並みの情報収集力ですな、恐れ入りました。あなたって面白い人だな、観光でリオにいらした方ではなさそうですね。お名前はなんとおっしゃいますか?お国はどちらですか?」矢継ぎ早に彼から質問が飛んでくる、野球に例えれば9回裏、二死満塁の逆転チャンスで右打席に立っている自分がいる。

「名前はキラ・オルヘルス、オランダのロッテルダム出身です。あ、どうせバレるから今のウチに言いますけど私、あなたより5歳年上の33歳です」。

これも先週入手した個人情報だけど、これはアタシが彼に興味ありというサインのつもりで賭けに出たの。彼は気を悪くするかもしれない、でもイチかバチかの土壇場、レフトスタンドにホームランをたたき込か空振り三振して試合終了か、二つに一つと腹をくくった。

「僕はニコラス・タニグチ、リオ生まれの日系三世です。どうせバレるから今のウチに白状しますけど昨年妻と離婚しました。あぁ、こんなのCIAのオルヘルスさんはもうご存知だろうけどね。そうだ、シングル同士で今度どこかでゆっくり食事でもしながら話がしたいですね。断っておきますけど社交辞令じゃありませんよ」とアタシの顔をあの澄んだ黒い瞳で見つめた。

アタシの個人情報漏洩作戦は見事に的中した。満塁サヨナラホームランを放ったアタシは勝利者インタビューに答えた。

「えぇ、セニョールさえよければ喜んでお供させていただきます」

今日ニコラスに会うまで、アタシは頑なに意地を張っていた。でも彼の巧みでユーモア溢れる応対で小さな意地なんか霧のように吹き飛んだわ。それから半年後、ニコラスと結婚して3年間の幸せな結婚生活を送った。でもアタシの知らないところでニコラスはリオ在住の日本人妻のリカと恋に落ちたのよ。リカはリオの実業家サントスの妻で日本婦人会の会長をここ10年以上務めているいわば日本人会の女ドン。アタシも一度日本大使館のパーティーで会ったことがある。ある日リカの旦那サントスに二人の逢引きの現場を押さえられてしまったの。サントスは怒りにまかせて自宅にチンピラたちを送り込み「ウチの親分のオクサマをかわいがってくれたんだってな」とすごませたの。アタシもう怖くて震え上がったけど、ニコラスはこういう修羅場は慣れているようで「お努めご苦労様です。親分さんにお伝えください、親分さんの夜の帝王ぶり、オクサマからよくうかがっていますよ、とね」。ニコラスもウラ社会のことは精通していたし、アタシには決して言わなかったけれど彼だって用心棒も抱えていたのよね。
でもニコラスとリカはリオに留まることは得策ではないと判断したようで、結局サンパウロに行ってそこで結婚したらしいわ。そこにもニコラスのビジネス拠点があるから経済的には問題ないのかもしれない。サンパウロに行く前「離婚してくれないか」とニコラスに懇願されてアタシは呆然とした。離婚には応じたけどいつかきっと目を覚まして戻ってくれると信じていた。未練と言われてもそれがアタシの本心、「ニコラスは一回り年上のあの年増女に騙されているんだ、アタシのニコラスを返しなさいよ、この泥棒猫!」毎日リカを呪う日々が続いたけど、最後までニコラスには会うことはなかったし、メール連絡も一切なかった。失意の日々をリオで過ごすこと3年、ロッテルダムから転勤を命ぜられてこの中東国にやって来た。そしてオランダ大使館のバザーで今度はアタシがタツオの背中で大笑いしてこうやって同棲することになっちゃうなんてさ。思えば人生なんて偶然の連続なのかもしれないわね。

第6話 不覚の涙

第6話 不覚の涙

夜明けまでウトウトしていたオレは、早朝のアザーンで目が覚めた。今日は金曜日、礼拝の日である。昨夜はオレの不注意でとんでもない失態を演じてしまった。気の強いキラが泣くなんて驚いた、よほど悔しかったんだろうな。そもそもエメロンなんか用意してキラに使わせようとする根性が浅ましい。女を道具にしか見ていない、と彼女に言われても仕方ない、それに… オレの反省と悔悟は止まるところを知らず、夜明け前のボーっとした頭の中を駆け巡る。とにかくキラに誠意をもって謝ろう、それしかないと心に決めたが自信がない。こんなことで二人は終わってしまうのか…

午前七時。
朝陽がカーテンレース越しに差し込むリビングに入った。なぜか奥のキッチンでキラがフライパンを動かしている。うん、いい匂いだ、ソーセージを焼いているんだな。しばらくキラの様子を窺っていたが思い切ってキッチンに入ると、キラは満面笑顔で「おはよう、タツオ!」と言った。明るく透き通るような声だ。あれれ、一体どうしたんだ?昨夜は泣きながらオレのことをなじっていた彼女が一変してこの笑顔。キラの思いがけない笑顔に甘えず、ここはしっかり謝罪するのが男としてのケジメだと肩に力が入った。
「キラ、昨夜はごめんな。ついついエメロンの香りにつられてカミサンの名前を呼んじゃったよ。キミを傷つけるつもりなんてなかった。なんと詫びたらいいのか…」とこの期に及んでまたちょっとウソを使ったオレに対して、キラはこう返してきた。

「いいの、アタシが愛しているのはタツオだけなんだから。今日会社は休みだしアタシが朝ごはん作るね。後でハイアットのジムにも行こうね」

欺瞞と狡猾、利己心しかないようなオレになんでそんな優しい言葉をかけてくれるのか。感謝する前に驚きだった。

朝の食卓について、すごく幸せな気持ちでエッグマフィンにかじりついた。東窓のカーテンレースの向こうには朝陽に輝くブルーモスク、バルコニーの鉢植えではヒヨドリが啼いている。朝食作りの腕もキラとオレとでは比べものにならない。久しぶりに優雅な朝、シューベルトの室内楽CDを聴きながらほろ苦いアラビックコーヒーのカップを手に取る。このカップはオランダのロイヤル・モサ社製の白を基調としたシンプルなデザインで、キラが持ち込んで来たものだ。今では二人の使う食器はほとんどロイヤル・モサになっているが、オレももちろん気に入っている。

「なぁ、キラ。オレみたいなワガママな男のどこがいいのかねぇ。もっと誠実な男は世間にいくらでもいるはずだぜ」

オレの素朴な疑問、特に昨夜みたいなことがあれば彼女から三行半をつきつけられても仕方がない。
「アタシもタツオにはまだ話していないことや隠し事もいっぱい抱えているの。アナタのことをなじるようなエラい女じゃないってね、昨夜ソファで毛布をかぶって天井を見上げながら思ったのよ。そりゃ昨夜は悔しかったし初めてアナタの前で泣いた。でもそういう自分はタツオを責める資格があるのかって自問した。そうしたらドジで不器用なタツオが急に愛おしくなってきたのよ。あのね、アタシの前の夫、ブラジル日系3世だったんだけどね、他の女に奪われた経験があるのよ。奪われても彼の事が忘れられなかった。白状しちゃうとね、彼のことをベッドで思い出す長い夜もあったのよ。だからタツオのことは責められないわ」。

なるほど、そういうことか。前の夫がブラジル人とは聞いていたけど日系だったとはな。キラはオリエンタル・フェチのようだ。でも昨夜みたいなことが突発的に起こるとお互いパニックになる。オレも相当パニックってたけど、キラはキラで自分自身と隣の部屋で向き合っていたみたいだな。でもこうやってキラの昔話を聞けば、気持がスーッと楽になる。なんだ、キラもオレとあまり変わらないじゃないかとね。これって「雨降って地固まる」ってことだな。オレもキラも正面から向き合わなきゃいけないんだよな。こんなオレもキラに誠実に向き合うことができるだろうか、いやそうしなければならない。キラに「愛している」とシンプルに言われてそう心に誓った。キラも自分の芳しくない過去をオレに話したことで、少し気が楽になった様子でもある。今朝の二人はいつもと違って、安堵したような表情を浮かべながら向き合っている。

毎週金曜日は二人でハイアット5階のスポーツジムに通うことにしていた。中東国ではあったが、外人客が多く宿泊するホテルなのでプールやスタジオなどのすべての運動施設は男女共同で利用していた。女性たちもヒジャブ着用は免除されていた。ゴルフでハンディゼロのキラの運動神経はさすがである。クロールでは人魚かと思わせるような華麗な泳ぎを見せ、プールサイドで無言の喝采を浴びていた。ダンススタジオに入ればエアロビクスではインストラクターたちの嫉妬を買うほどの動き。あぁ、キラは汗を飛び散らせながら輝いている。軽快なユーロビートに乗って縦横無尽にダンスの歓びを表現している。幼稚だけれど「この女を毎晩抱いているのがこのオレなんだよ」、とオッサンたちに自慢したくなろうというものだ。

プログラムの一コマ目を終え、キラが皆と一緒にスタジオから出てきた。フゥフゥ言いながらバーベルを持ち上げているオレに「ねぇ、タツオ。筋トレばかりしてないでエアロビクスに挑戦してみたら? 楽しいわよ」とけしかけてくる。冗談じゃないよ、オレみたいなオッサンが若い女性たちの中に入ってタコ踊りなんかこっ恥ずかしくてできねぇ。第一そのエアロビクスとやら、やったことないしムリだ。無視していたらキラのやつ、開始直前に無理やりスタジオにオレを押し込んだ。「次のレッスンはビギナークラスだから大丈夫、タツオだってついて行けるわ」とウィンクなんかしやがってこっちを見る、オレも「キラが隣にいてくれるなら、一回だけやってみるか」と金魚のフンのように真横に陣取った。そのとたん、スピーカーからアースウィンド&ファイアーの「セプテンバー」が轟音と共に響いた。うわっ!オレの大好きな70年代のヒット曲、これはイケるかと思ったのも束の間、ウォーミングアップから苦戦を強いられた。そのうちクラップ、そしてグレープヴァイン…もうアカンわぁ、足がもつれて隣のキラに衝突しそうになるが、キラはオレの動きを事前に察知しているが如く、サッとかわす。プログラム中盤になると腕の動きがこれに加わってもうアウト、息も切れて苦しいし一刻も早くスタジオから退出したい気分だった。隣のキラは相変わらず満面笑顔で余裕シャクシャクのステップを踏みながら跳ねている。別にキラと張り合うつもりなどないが、スポーツ万能なキラが少し妬ましい。しかし後半になってくるとやっとステップの基本パターンを覚えてられた。するとあれまぁ不思議、オレのカラダが弾み始めた。さっきまでの呼吸困難もウソのように消えている。へぇ~、慣れてくるとエアロビクスって結構楽しいもんだね、われながら少し驚いた。ラスト曲マドンナのマテリアルガールでは隣のキラとリズミカルにステップだけは踏めたので、シアワセな気持ちになって30分を終えることができた。

オレにとって初体験のスタジオプログラムから二人で出てきて、レセプション横の長椅子に並んでゲータレードを飲みながら腰かけた・
「どう?意外と楽しいでしょ?」とまるでオレの心を見透かしていたようにキラは笑う。「最初は皆、息が切れるし早く終わらないかってそればかり考えているの、アタシもそうだった。でもね、エアロビクスのような有酸素運動を続けていると、ランナーズハイと言ってね、ある時間から突然カラダが楽になってとっても良い気分になるのよ。βエンドルフィンという脳内麻薬物質が作用しているらしいのだけどね。ニコラスもすぐにエアロビクスのファンになったわ」と解説してくれた。ニコラスという名前は初めて聞くが、キラの前夫であることはこのオレにも分かった。あの理佳とかいうオレの初カノと同じ名前の熟女にかっぱらわれたリオのお兄さんのことね。ますますオレもニコニコしながら、
「キラはよく知っているね。確かに後半になって突然気分がハイになってきたのは不思議だったよ。それとオレはあのアースウィンドとかオリビアニュートンジョン、それにやっぱマイケルとマドンナの懐かしのラインアップにシビれたな」とちょっと興奮気味に話した。「よし。オレもニコラスみたいに頑張るかな!」
と最後はチクリとしてやったつもりだったけど、キラはゼンゼン意に介していない。
「アタシはやっぱり定番のカイリー・ミノーグかしら。チャカ・カーンのクールダウン曲もよかったし。それにね、」
キラの機関銃のように飛び出てくるシンガーたちの名前を耳にしながら「ウム、これだ。オランダと日本、育った国が違っても二人は同時代のアメリカ製のポップスや映画を完全に共有している。だから外国人同士で一緒にいても話が噛みあう、まるで何十年も前の高校時代の友人のようにね。アメリカってやっぱり世界中に影響を与える中心国、すげえなぁ。」と勝手に納得してみた。

それにしても不思議ではある。言葉も文化もそれぞれ異なった環境で育ったキラとオレが、嵐のように突然恋に落ち、そしてぶつかり合いながらもまたこうして肩肘張らずに長椅子で並んでここに座っている。日本に残してきた妻には申し訳ないが、キラは今では最も近しい存在だ。オレもキラもお互いに何を考えているのかわかる。それは言葉ではない。言ってみればボディだ。相手の表情だったり笑い方だったりキスや抱擁の長さだったりする。こういうボディランゲージを日本人はあまりしないんじゃないかな。ヨーロッパ人や中東人はかなり派手にしているように少なくとも東洋人のオレには見える。オレも中東に長いこと住むうちに現地化してボディランを身についてしまったらしい。キラとの会話は英語だか、お互い第二外国語で意思疎通するのには限界がある。そこをボディランが補ってくれているとは思う。いや、補っているなんてもんじゃない、ボディランのほうが言葉より真意が伝わることが多いと思う。これはオレがオランダ人というキラと生活して初めて発見したことだ。いや、前夫が外国人だったキラからむしろ今教わっていることなのかもしれない。

ハイアット5階のバルコニーには縦横10メートルくらいの小さなプールがある。オレとキラは白いガウンをまとってプールサイドのデッキチェアに寝そべった。地元らしい子供たちがプールの浅瀬でパパとビーチボールで遊んでいる。夕方の暖まった空気と運動を終えた心地好い疲れが二人を包んだ。ここは二人の憩いの場所だ。正面に古代ローマ遺跡の城壁と劇場跡を見下ろし、ずっと先の丘の斜面にはオリーブ畑がどこまでも続いている。赤茶色の街並みは朱色の夕陽に照らされ、徐々にベージュに染まってゆく。ここでアメリカンポップスは似合わない、アザーンこそ響き渡って欲しいねとキラもオレも異口同音に言って笑った。あれだけアザーンを嫌っていたキラもようやくアラビア人になってきたようだ。

珍しく今日は朝からプラトニックな二人だった。キスもしなければ手すらも握ってない。別にキラを避けていたわけではないが、朝イチでキラから「愛しているわ」と言われたこと、彼女が前夫のことや夫を略奪されたことを告白したこと、そしていきなりエアロビクスにオレを押し込んでくれたおかげで楽しめたことなど、雑多なことではあるがキラがオレよりエラく思えてきた。こうなると男は女に弱い。女にコンプレックスを覚えると性的には萎えるものだ。「なんだか今日はキラがエラく見える。いかに海外とはいえ、妻のいる男と同棲して炊事洗濯までしてくれること自体、オレには身に余る光栄なんだよな。キラはオレにとってはいわゆる外人、だけれど不思議に隔てが無い。いや、むしろ日本にいる妻とオレにはよそよそしいところがあった。でも今さらお互い面倒だから踏み込むのはやめようという暗黙の了解があった気がする。キラはオレに正面からぶつかってくる、言いたいことはストレートに言う。こういうキラが結局オレの性格に合っていると思うね。そういえばキラのやつ、ニコラスのことが忘れられないとかなんとかぬかしていたな。ってことはもしかしてオレのことをニコラスに重ねて抱かれているのか?彼も日系だったというしあり得るな」エメロンを強要した挙句、初カノの名前を耳元で連呼したクセにオレもよく言うわ。しかしキラを愛すれば愛するほどに嫉妬心が沸々と湧いてくる。もしかしてオランダ語でニコラスのことを呼んでんじゃねぇか、などと邪推が始まった。ヤバい、自己崩壊が始まりつつある。

食後酒のグラッパのグラスを掴み、急に不機嫌な顔をしてバルコニーにオレは出てしまった。この自己崩壊、オレの悪い癖なんだな、勝手にネガティブな想像して勝手に不機嫌になる。今夜は何も悪いことをしていないキラに矛先が向かいそうだ。そうなる前にバルコニーでちょっとアタマを冷やすか。
しばらくそこでボケッとしていた。夜の冷気が急に足元を襲った。そのうちキラも心配してやって来るだろうとなんとなく待っていたのに中を覗くとダイニングにはいない。しびれを切らしてオレも中に入ったが誰もいない。あれぇ、かくれんぼじゃあるまいしどこ行ったんだ?キッチンやバスルームにもいない、クローゼットの中まで覗き込んだがいない。

なんのマネだ、急に消えちまいやがって。まぁいいや、それならこっちも寝ちまえ!
時間はまだ早かったがオレは寝室に入り、ベッドにドカッと身を投げ出し毛布をかぶろうとしたその瞬間、
「コラー、タツオ。今日は何の日だか知っているの!」とベッドの脇の隙間からキラが大声で這い上がってきた。これはマジでビックらこいたわ。まさかこんなところからキラがゾンビのように湧きあがってくるとは夢にも思わなかったのでベッドの上で飛び上がった。
「おい、キラ、なんだよ、オレに恨みでもあるのかよ、こんなマネしやがって!」と思わず怒鳴った。そしてオレの倍の怒鳴り声で言い放ったキラの言葉はこれだった。

「恨み?大ありよ。愛人の誕生日を忘れるなんて、アンタそれでもアタシの愛人のつもりなの?」

なるほど、そういうことか。しかしキラ、本当のことを言うとキミの誕生日を忘れていたのではなく知らなかったんだよ。キミはオレに教えてくれていたのかもしれないが、記念日に疎い日本人の男は右耳から左耳に素通りするんだな。

「そうだったなぁ、いやゴメンゴメン。ついうっかりしていた。ほら、何せ昨夜はエメロン騒動で気が動転していたしね。いや、そうだ、今日はキミのちょうど40歳の記念すべき誕生日だな、オレと同じ40代になるわけだ。いやぁめでたい、めでたい」

もう完全にシドロモドロ、でもキラの機嫌を取り戻すため必死だった。

「アハハ、冗談よ。40の誕生日なんて全然めでたくないわよ。名実ともにオバンになったってわけだし。こんなオバンだけど、アタシのこと愛してくれるわよね、タツオ」とのたまうではないか。
はぁ~、さっすがオレの愛するキラ、言うことが奮っている。それにベッドの側溝に隠れていて、オレに飛びかかってくるなんて、奇想天外を好むオレとしては悪くないイタズラだよ。
「もちろんだよ、キラ。改めて誕生日おめでとう。この国の過酷な駐在生活もキラがいるからこそ耐えられる。それにな、今日も思ったけどいろいろとキミに教わることも多いしな、それにさ…」とせめて称賛の文句だけでも誕生日に捧げようと思って出た言葉ではあったが、自分でも意外なほど滑らかに出てくる。
しばらくオレのクサいセリフを聞いていたキラだが、突然遮って

「さっきまでベッドの側溝で隠れていたワケが分かって?」とあの斜め下から見上げる潤んだ目が光った。

うはっ、いつものキラのサインだ。しかも今日は誕生日、フルセットでお相手せにゃいかんだろうな。
まずはいつもの「お姫様抱っこ」で抱きかかえてベッド上に横たえる。お姫様は女の永遠の憧れ、この芝居から入るのが常道だな。キラはキラでエメロンでシャンプーしている。白いレースの下着はオレが指定した。男はまず下着で燃えることをキラもよーく知っている。日本人のオレはどっちかというと清楚な白、しかもスケスケのレースがいいんだよね。余談ながら女性の下着はこの中東国でも意外なほど豊富な品揃えだとキラが言っていた。なるへそ、世界どこの国へ行っても男どもの注文は変わりませんな。
キラを押し倒す(正確には押し倒す演技)と、もうあとはルーティンに入るだけ。ブラのホックを外し、乳首を右に左へと軽く舐めまわす。ここでキラは小さく声を上げる。さて、ここからいきなり下半身に突進するのはガツガツしたガキがすることだ。唇を喉元に這わせながら耳たぶを噛む。もちろんここでは「愛しているよ、キラ」という単純明快な言葉を囁きまくるのが正解。余計なことを言うと墓穴を掘る。いいですか、タツオ君。ここで間違っても初カノの名前「理佳」なんて囁いたら、いかに寛大なキラでもジ・エンドだからね。

こうしてキラを夢心地にしておいてから、念のため白いレースのパンティに指を入れて探ってみる。うん、十分感じているな。今夜はいつもより増して溢れているぞよ、と勇気づけられながら腰を浮かせながらパンティを下に降ろす。ゆっくり下半身へ唇を這わせヘソの周りを3周してからあの金髪の園へと顔をうずめた。コレしてもらうの、キラは大好きなんだな。速く遅く、リズミカルに舌の先を動かすワザは男人生を長く歩んできた証でもある。それがまたキラにもわかるだけに彼女もメラメラと燃えてゆく。いつものように園の奥へ奥へと舌を入れていると、突然なにか舌の上に異物感を覚えた。あれ?なんだろう。なんかザラッとしたけど、と思いつつもオレも奥の細道をひたすら歩んだ。しかし歩むごとに異物感を覚えてくる。たまらなくなり、ちょっと止めて舌を手でなぞってみると、な、なんと砂ではないか!でもなんでキラの金髪の園に砂が?と思ったがすぐに気づいた。キラのやつ、バルコニーで干していたパンティ、砂嵐でかぶった砂を払わずに履いたんだな。それでジャリジャリしていたわけだ。
まぁいいや、今夜は彼女の誕生日なんだし、文句は言わずに後半戦で頑張って彼女をイカせないと、またあのバイアグラが飛び出してきそうだ。そう覚悟して舌に着いた砂を手で取りのけて、何もなかったかのように金髪の園に戻った。さて、そこで驚くべき彼女の言葉を耳にしたのだった。

「タツオ、ソコソコ、モットォ~」

マジかよ、オレがずっと前に渡したあのローマ字日本語メモ、まだ持ってたんだ。しかも発音もネイティブ日本人に近い。どこで練習していたんだろう?。彼女がオレを日本語で悦ばせようとしているのは愛しているからとか、そんな単純なことじゃない。それくらいのことくらい、ニブいオレにもわかる。“飾り窓女”扱いされて怒ったキラだけど、生活費のほとんどを面倒見てもらっている。彼女はオランダにいる大学生の弟に仕送りをしていることを、あるオランダの知人から聞いたことがある。だからオレにおもねるようにこんな振る舞いをしている。さっきまで「キラはエライ」とか言っていたくせに、心の中ではカネで女を自由にしようとする浅ましく傲慢なオレがいる。キラは結局おれの傲慢さに屈した、いや屈しているフリをしているだけで心までは屈していない、そういう女だ。ただただ自分が情けない、情けなくて泣けてくる。ベッドの上で突然嗚咽し始めたオレの顔を、キラは何も言わずに腕の中で抱きしめた。キラも泣いていた。

第7話 慟哭

第7話 慟哭

ベッドで抱き合いながら泣いたあの日からちょうど1年の月日が流れた。今日はキラの41歳の誕生日。そうだ、先月オープンしたハイアットのイタリア料理屋で祝うのがいいな。東京出張者たちを連れて行ったあの店、中東のイタリア料理屋にしては良かった。よし、ここはちょっと奮発して予約してやろう。キラはきっと「いいのよ。いつものようにウチのアパートの部屋でね」と言うかもしれないが、出会って2年間の感謝の気持ちを表するため、オレは是が非でも盛大にキラの誕生日会をやりたかったのだ。

夕刻、事務所から帰宅するなりキラに勢いよく言った。
「来週はキミの41歳の誕生日だね。二人でどこかでたまには食事にでも出ないか?」
キラは予想通り、
「ありがとう、タツオ。でも外で食事するのもちょっと億劫だし、このトシの誕生日なんてめでたくもないしねぇ」と口を濁した。「ウチで食事でもするのがいいわ」とオレの提案に消極的な姿勢。
オレはちょっと居ずまいを正して、提案を繰り返した。
「いや、誕生日祝いだけじゃなくってさ、これまで2年間キラに支えてきてもらった感謝も込めているんだよ」
そこまで言われて、キラも敢えてオレの気分を害したくなかったんだろうな。
「感謝するのはこちらの方かもしれないけど、お勘定をあなたが持ってくれるならいいわ」
と冗談半分で切り返した。
「いや実はね、ハイアットの2階に最近オープンした“カルミネ”、このあいだ東京の連中を連れて行ったらわりと好評だったんだよ。どうだろう?」オレのグルメぶりもちょっと自慢したい気分もあった。
「うん、タツオのおメガネに適った店は全部良かったし、その“カルミネ”にしましょう」とオレの心を読み切った答えをした。2年も一緒に住んでいるとツーカーになる。オレもキラもお互い事前に用意した問答集をそのまま喋っているようなものだ。

キラの誕生日の朝、オレは出勤前のキスを玄関ホールでした後、
「じゃあ今夜はハイアットのロビーで6時に待ち合わせしようか。オレも早いところ仕事切り上げて行くけど遅れるようだったら携帯に電話入れるよ」と言ってエレベーターに乗り込んだ。
「うん、アタシも今日はアムステルダムから取引先が来るけど、あまりムズカシイ話ではなさそうだから時間通りにホテルに行けるわ。それじゃ楽しみにしているから。あ、それとね、アタシはオバサンなんだから他に気を使わないでよね」とイタズラっぽく笑って手を振って見送った。

事務所までは車で10分くらいだが、今日はなぜかひどい渋滞だ。運転手が「この先の交差点で衝突事故があったみたいですね。さっき警察のバイクが車道の脇をすっ飛ばして行きましたから」助手席の座るオレに向かってボヤイた。因みにこの国ではタクシーでも社用車でも一人目は必ず助手席に座らせる。大抵の日本人の所長さんはこの慣習に慣れず、日本流に後部座席にドッカリと座るが、現地人から見ればきっと異様な座り方なんだろうなぁ、と内心思っていた。結局事務所まで30分遅れで到着、本社からのメールをチェックする。東京は現在午後6時、今日だけはややこしい指示メールはよこさないでくれよ~、と祈りながら一つ一つチェックする。10個くらいのメールを全部チェックが終わり、とりあえず胸をなで下ろした。こちらでも急を要する業務はないし。よし、午後にでもちょっと事務所を抜け出してキラへの誕生日プレゼントでも買いにいくかな。普段コキ使われているんだから、たまには1時間くらいサボってもバチは当たらないだろう。

事務所近くにあるスワロフスキーの店に昼食の後に立ち寄ってみた。ショーケースに宝物のように置かれているが、値札も貼ってないしどれを買っていいのか皆目見当がつかない。所在なく店内をウロウロしていると、男性店員がうやうやしく「何かお手伝いして差し上げましょうか?」といつの間にか背後に控えていた。こういう高級ブランド店での店員の服装や身のこなしは、英国貴族の館に仕える執事を思わせるような慇懃さ。こういう慇懃な態度で出られるとこちらもそれなりに慇懃になるからオモシロイ。「いや、妻に日頃の感謝を込めて何か贈りたいのだがね」声に抑揚をつけて答えてみた。すると店員は満面に笑みを浮かべ「なんという高貴でお優しいご主人様でしょう。こういうご立派な方に今日お仕えできることは私の喜び、いえスワロフスキーの栄光であります」。あぁ、アホらしくなるこのやりとり、しかしそう言いながらもこの店員の魔術にかかって来ている自分がわかる。
「ご主人様、こちらのネックレスなどいかがでございましょう。24金を清楚なアラベスク模様に仕上げた、当店自慢の一品でございます」と店員は自分の両手の上にネックレスを置き、お辞儀をしながらオレの前にうやうやしく差し出した。
そう言われてもなぁ、24金って何だ?というレベルのオレが来る店ではなかったようだが、もうこの店から手ぶらで出られる雰囲気ではなくなっている。ガラガラな店内のあちらこちらで笑みを浮かべながら店員たちがオレの方に目を向けている。完全に包囲されているわ。品物が高級品なのはわかっているが問題は値段だよと思ったとたん、それを見越していたかのように
「はい、お値段は800ディナールでございます。もちろん米ドルでもクレジットカードでも結構でございます」。と言ってきた。うーん、日本円にして約12万円かぁ、安くはないな。しかしスワロフスキーで12万円というのはピンキリの中ではキリなんだろう。店員はオレの身なりを見てすぐ、「この男にはキリの品物から」と思ったんだろう。一瞥して見抜く力はさすがとしか言いようがない。勝負は最初から決まっていた。オレは潔くクレジットカードで支払いを済ませて店を出た。まぁいいか、キラが喜んでくれるなら12万円だって高くないな。それにこれまで彼女にプレゼントしたとモノと言えばあのレースの下着くらいなものじゃないか。彼女の誕生日に今までのツケを払うと思えば納得もいくし…くだらないことを考えながらもキラの喜ぶ顔が目に浮かびスキップしながら事務所まで歩くオレもわれながらカワイイものだ。

事務所に戻ってからも頭の中はキラに渡すプレゼントのことだけだ。アイツはプレゼントなんか期待していないな。でもさぁ、この世のどこの女がプレゼントもらって悪い気がするって言うんだい。きっとオレのサプライズ品に感激して飛びついてくる。そこでオレの決めゼリフ「ずっと前から君への贈り物のことを考えていて、ちょっと安物だけどこんなのがいいかなって自分で決めたんだよ」。これ、ちょっとウソが入っているけど、心がこもっていればいいんじゃね、みたいなノリで今夜は行こうとニヤニヤしていた。

一人でニヤけながメールを流し読みしていたが、最後に入っていた本社からのメールに目が留まった。5分前に入っている。
「貴所からの情報によれば、日本からの化学製品の関税率を上げる検討を貴国のアッバース国王が指示したとのことである。ついては貴所にても当該情報の真偽を至急確認し….」さぁてやって来たぞ、本社の押し付けメール。きっと社長の命令を受けてこっちに丸投げしてきたのであろうが、こっちの商務省の役人だって忙しい。ウチみたいな小さい会社が突然商務省に行ってまともな面談などできるはずねぇだろ! 言っておくけど、オレだってこれまで夜討ち朝駆けで狙った役人を随分と追いかけまわしたよ。でもことごとく空振りだった。他の国の駐在員たちは便宜を図ってもらうため、抜け目なくいろいろと役人のご機嫌を取ってそれなりの成果を上げているけどね。たいしたことないウチみたいな会社に限ってコンプライアンスだとか法令順守とかなんとか言ってお高く止まって手を汚さない。中東のことをよく知らないくせに、社長から指示があると、そのまま現地に丸投げしてくるのはオレがここに赴任した時から変わってない。

とはいえサラリーマンの悲しさ、とりあえず本社指示に従ったフリはしておかなければならない。これを駐在員仲間では「アリバイ作り」と呼んでいる。とりあえず秘書に命じて商務省にアポをトライさせてみる。ムダなことは分かっているがこれもアリバイ作りの一環だ。秘書も能面のように無表情な顔をして電話をかけている。彼女だってこれがアリバイ作りであることは百も承知している。案の定「今日は先約がギッシリで残念ながらお会いできない、また別の日にお申込みください、とのお答えでした」と言ってきた。しかしここで「あ、そうですか」ではガキの使いになってしまう。ここは念入りにアリバイを作るため、運転手を呼んで商務省へクルマを飛ばした。

電話ではアポが取れなかったが、商務省にクルマを飛ばし狙った役人を捕まえるため役所の退庁時間まで粘った、というシナリオにしておかなければ、本社だって社長に報告ができないことはオレにもよくわかる。考えてみれば本社と現地事務所、立場が変われば正反対のことをそれぞれ言い出すんだよな。だから本社のヤツらが悪いってわけじゃない、オレだって帰国すれば同じだ。

退庁時間の5時まで役所内をウロウロしながら時間でも潰すか、と思いつつ商務所の階段を上った。とりあえず受付係りにウチの社名と要件をメモで渡した。あと一時間の辛抱だ、そしたらサッと事務所に戻ってアリバイ・レポートを本社に送って、それからハイアットへ、などと算段をし始めていた。今日は意外なほどに役所内は静かだな、いつもロビーに陣取っている環境保護団体の姿も見えない。珍しいこともあるもんだ、と思って時計を見るともうすぐ5時だ。さぁて虚しい任務終了だ、引き上げるぞ!と革製の長椅子から立ち上がったところでさっきの受付係がやって来た。「ミスター・スガワラですね。関税課長のムバラクがお会いするそうなのでこちらの部屋へどうぞ」と想定外かつ迷惑な答えをしてきた。しかしこちらから面談を申し込んでおきながら帰るわけにもいかず、受付係の後について課長の小部屋まで足を運んだ。ドアを開けるとムバラク氏は笑顔で両手を広げオレを抱擁した。信じられない、現地事務所長とはいえ、なぜオレみたいなペーペーの外国人を歓待してくれるのか?この男には何度か会ったことはあるが、いつも冷淡すぎるくらい冷淡だった。
「ミスター・スガワラ、お待たせして申し訳なかった。今日はベストタイミングでいらっしゃった。実は昨日、御社の社長、えーと、お名前は、ミスター・シゲムラ、そうシゲムラさんからご連絡を頂き、200万ドルのご寄附のお申し出があったのです。いや、もちろん円借款でもヒモ付きローンでもなくご自由にお使いくださいとの有難いお話しでした。シゲムラ社長は一方で化学品の関税引き上げについても関心はおありのようで、現地事務所のスガワラという者に近日中に説明を拝聴させに行かせるので、どうかよろしく、というお話でした」

なるほど、そういうことだったのか。社長は寄付という合法手段を使ってわが社の取り扱う製品の関税引き上げに手心を加えてもらおうという魂胆なのだ。やはりトップに立つ人間は修羅場をいくつも乗り越えてきているだけあって抜け目がない。それにしても寄付の話は聞いてないぞ、社長が独断で決め、側近にも話していないのかもしれない。
「ミスター・スガワラ。わが政府も日本から輸入されるすべての石油化学製品の税率を上げようとは考えていません。わが国の産業に影響が小さいものについては引き上げを猶予することも検討しています。そこでですな….」
他の日ならともかく、今日だけは早く結論だけ聞いてさっさと帰りたい、キラとの約束の時間も迫っている。
「ありがとうございますミスター・ムバラク。貴殿のように大所高所から二国間の貿易を見て頂き光栄です。社長に代わり御礼申し上げます。さて、如何でしょう、弊社が貴国に輸出させて頂いている製品の中で、今回の引き上げに該当するものはどれでしょうか?それに関連する製品として…」とオレは畳み掛けた。拙速なことは分かっているが、でも今日はキラの誕生日、なんとか早く切り上げたい一心でオレの気持ちは焦るばかりだ。そんな気持ちが相手にわかるはずはない。200万ドルの寄付、もしかしたら一部は役所の懐に入るかもしれないその金を手に入れて相手は上機嫌、ゆっくりと親切に説明してやろうという表情が表れている。
「ミスター・スガワラ。そう急いではいけませんな。引き上げ方針は決まってはいるものの、各論に入ると喧々諤々の議論が起こるのは商務省の伝統ですからね、ワハハ~」

こんなやりとりが1時間にも及び、やっと解放された。時計を見るともう6時半、既に30分の遅刻だ。キラのヤツ、ハイアットのロビーでふてくされているに違いない。まずは釈明を、と思い携帯を取り出してキラの番号に掛けた。すると「相手の携帯はオフ、或いは電波の届かないところにあります」という音声案内が聞こえた。何度掛けなおしても同じ応答、ヘンだなとは思いつつもとにかくハイアットまでクルマを飛ばすよう運転手に命じた。しかしホテルに近づくに従って異様な雰囲気が漂ってきた。警察車や覆面をした兵士たちを乗せた装甲車、その後に救急車が猛スピードでオレたちのクルマを追い抜いてゆく。運転手も「装甲車なんか普通は街の中を走りませんぜ」と訝しげな表情をする。街で何か大事故でも起きたのだろうか、さっきキラの電話が不通だったことを思いだし不吉な気持ちになってきた。
やっとハイアットの付近までたどり着いたが、なぜかその先は進入禁止。驚いたことに機関銃を携えた何人かの兵士たちがホテルの周りを取り囲んでいる。物々しい様子にためらいながらも、とにかくキラの無事を確かめないことには生きた心地がしない。意を決して兵士の目をかすめながら、ホテルの方角へ早足で向かっていると一人のホテルスタッフにつかまってしまった。
「ホテル内には絶対に入ってはいけません。危険です!」とオレを遮った。
「一体何があったんだ?」と興奮したオレも怒鳴り返した。
「ホテル内で爆発がありました。とにかく危険ですから近寄らないでください!」と負けずに怒鳴り返してくる。彼の必至の形相からも異常事態が起きたことはすぐにわかった。
「爆発?ホテルのどこで?何時に?身内はロビーに待っているはずなんだ!」オレも気が狂ったかのようにスタッフに詰め寄った。
「まだよくわかりませんが、どうも6時頃にロビーで起きたらしく…」
スタッフの言葉が終わらぬうちにオレは彼を突き飛ばしてロビーの方へ猛然と走った。ウソだ、そんなことはあり得ない、キラが爆発に巻き込まれることなんかあり得ない…
ロビー前に駆け込んだが誰もいなかった。この世のものとは思えない惨憺たる光景、テロ爆破だということは一目瞭然だった。天井は崩れ落ち、壁は倒壊、そして窓ガラスは粉々に砕けてフロア中に飛び散っている。まだあちこちで火災後の煙がくすぶっている。思わずキラの名前を何度も叫んだが人の気配はない。煙の中思い切って2階の渡り廊下まで行ってみると、負傷者たちが従業員に背負われて中庭の方まで運ばれている。中庭では宿泊客たちが缶詰のように収容されている。キラがそこで無事にしていてくれることを天に祈りながら階段を駆け降りた。

パニックだった。中庭では恐怖で震える人たち、気が動転してメチャクチャな指示を出すホテルスタッフたち、そのうちにけたたましいサイレンを鳴らした救急車が次々とやってくる。オレは必死でキラの名を呼びながら彼女を探したが見つからない。中庭の人ごみの中、キラの名前を声が枯れるほど何回も呼び続けた。そして中庭の一角に負傷人たちが横たわっているのを見つけた、慌ただしく救護隊が手当てをして救急車の到着を待っているのだ。まさかキラはそこにいない、いないはずだ、と祈りつつ近寄るとキラが横たわっているのが見えた。ゼッタイに起きて欲しくなかったことだった。キラは救護人の介護を受けてはいたが、かなりの重傷であることは明らかだった。頭からは血を流し、顔面は蒼白、息をしているのかどうかもわからない状態だ。救護人の止めるのを払いのけてキラに抱きかぶさった。
「キラ、オレだよ、タツオだ!わかるか!」
キラは虚ろな目をしてオレを見上げた。キラはもう肩で息をしている。
「キラ、今日はキミの誕生日だから、ネックレスまで用意したんだぞ!」
キラは目を開け一瞬だけ微笑んだように見えた、虚ろな目でしばらくオレを見つめて
「ダンキュ・ウェル(ありがとう)タツオ」とオランダ語で言った。
「バカヤロー!それはオレの言うセリフじゃないか!」
オレは血で塗られたキラの顔を抱きしめながら「死ぬな、死ぬんじゃないぞ、キラ!」と狂人のように繰り返した。
間もなくキラはオレの耳元でやっと聴きとれる小さな声で、
「トツィーンス(さよなら)」と言って目を閉じた。
オレは救護人に「早く、早く病院へ!」彼の前にひれ伏して哀願し続けた。キラが死ぬなんてありえない、「さよなら」なんて許さないからな!
救護人はしばらくキラの瞳孔にペンライトを当てていたが静かに
「お気の毒ですがご臨終です。出血多量でした。救急車があと30分早く到着していれば見込みもあったのですが残念です」と言い「ご遺体は検査もあるので、これより市内の警察病院へ運ばれることになるでしょう」とだけ言った。間もなく到着した救急車にキラは担架で運ばれて行った。

これでキラとタツオの物語は終わる。
彼女の死後、もちろんオレは猛烈に後悔した。彼女の誕生日の日にテロ事件が起きるハイアットで食事に誘ってしまったこと、そしてキラのいうとおりアパートで祝っていれば彼女は死なずに済んだ。せめて待ち合わせの時間を7時にしておけばキラは生きていたはずだ。
そしてオレは偶然生き残った。商務省であの役人に引き止められていなかったら6時にキラと一緒にハイアットのロビーにいたはずだ。運命と言えばそれまでだが、人は知らず知らず運命に翻弄されつつ、しかしそれを受け入れなければならない過酷な現実を背負っているのだ。

最後にオレに言った言葉「トツィーンス(さよなら)」。
キミはオレの心の中で永遠に生き続ける。キミはオレに真正面からぶつかってきてくれた。オレたちは国籍や言語、異文化の壁を乗り越えて愛し合った。キミのあの笑顔、泣き顔、怒り顔、決して忘れない。

ありがとう、キラ。

バルコニーから二人で眺めた夕陽を見つめながらオレの慟哭は止まらなかった。

終わり

幻の砂

人の運命とは何か、という根源的な問いに答えは見つからない。筆者のこれまでの人生を思い返すとき、ほんの偶然によって様々な事柄が決定されてきている。進学、就職、恋愛、結婚、そしてこの物語にあるような不倫も然りであろう。これらの偶然は時として悲劇的結果をもたらすことがある。タツオは偶然キラと出会い、そして彼女を不可抗力とはいえ結果的に死へと追いやってしまった。これを彼女の運命と呼ぶにはあまりにも過酷であるが、人は知らず知らずこの運命という重い石を背負って歩んでいるのかもしれない。生き残ったタツオが慟哭する姿はわれわれを映す鏡である。

幻の砂

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
更新日
登録日
2017-01-06

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自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

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  1. 第一話 美女と野獣
  2. 第二話 「バイアグラ」
  3. 第三話 ブルーモスク
  4. 第4話 エメロンの失態
  5. 第5話 キラの告白
  6. 第6話 不覚の涙
  7. 第7話 慟哭