おつかれ!
高校の時に初めて書いたものです。
夢のために…私は…
四月上旬、満開に咲き乱れている桜の花が、一枚一枚、風になびかれながら舞っている。学校では新年度がスタートし、春の香りに酔いしれながら、通学路を歩く学生たち。どの顔を見ても、新しい学園生活に胸を踊らせているのが分かる。たまたま同じ時間帯に通学していた友達を見つけ、はしゃいでいる小学生の声が響き渡る中、ある民家の寝室に置かれたテーブルの上に、一滴の涙が零れ落ちた。柴咲胡桃美は一ヶ月前のあの出来事を思い出しながら感傷に浸っていた。手に持ったいる仲間からの寄せ書きも、ところどころ涙で滲んでいる部分がある。バラエティ番組では絶対に見ることのできない、彼女の裏の顔であった。
胡桃美は一ヶ月ほど前に、アイドルグループの『スマイリーズ』を卒業した。胡桃美はスマイリーズのムードメーカーで、愛称は『クルリン』だ。自身の持つその天真爛漫な性格で、国民からは絶大な人気を勝ち取り、バラエティ番組でも引っ張り凧であった。彼女がテレビに映らない日などほぼ皆無。それだけに、「クルリン、スマイリーズ卒業」は日本中に衝撃を与えた。どの新聞会社も『青天の霹靂!クルリン卒業』という見出しがトップ記事だった。
クルリンがアイドルを辞めることにしたのは、彼女には絶対に譲れない夢があったからだ。その夢を叶えるために、アイドルという活動をしながら大学に通っていた。過労で入院することもあったが、アイドルとしての活動を辞めることはなかった。それは自分を慕ってくれる沢山の人々に感謝の気持ちを込めて、多くの笑顔を届けたかったからだ。それがスマイリーズの信念でもあった。胡桃美はそんなスマイリーズの信念を最も強く受け継いでいた。
胡桃美は卒業会見を今でも鮮明に思い出すことができる。あの時言った言葉も、一字一句違うことなく。目を閉じれば再び、あの時の様子が瞼の裏に映し出される。
「お忙しい中、お集まりいただいてありがとうございます。今日は皆さんに言わなければならないことがあって会見を開かせていただきました」
会場は、千人を優に超える人々の声でざわめいている。
「まず初めに。皆さんには夢がありますか?私にはあります。小学校の時からの夢です。それは私にとって何よりも大切なものです。私は、その夢に何度も支えられてきました。夢を持つことって、すごく強いことだと思う。人は夢を持つから…それを叶えたいと思うから、努力できるんだと私は思う。私自身、アイドル活動と学業の両立が難しくなって、逃げ出そうとしたこともあります。私が入院した時、叶えられるかどうかも分からない夢を追い続けるくらいなら、いっそこのまま大学なんてやめて、アイドル活動だけに専念しようと何度も思いました。私の夢は大学に行かないと叶えられません。なので大学を辞めることは、そのまま夢を諦めることになります。結果的に、私にはその選択ができなかった。しかし、それは幸運だった。だって、今でもこうして大切な夢を失わずにすんだのだから。今までどんなに過酷なスケジュールでも乗り越えてこられたのは、私に夢があったからです。自分でも驚くくらい頑固に、自分の夢に執着してきました。そして今も…」
すると会場から一人の男性が「まさか、クルリン、アイドルやめるんじゃ…」という声がした。それは会場にいる誰もが感じていたこと。胡桃美の声に触発され、徐々に熱せられた人々の感情は、一人の男性の声により、一斉に爆ぜた。何千という人々が集まる会場の中に、無数の人々の声が轟く。「クルリンやめないで」と皆が叫んでいた。同じ気持ちを共有する人々の声が合わさり、とてつもない地鳴りが生まれた。しかし胡桃美は、気圧されることもなく声を張り上げた。
「皆さんには!!」
胡桃美の声が響き渡るのと同時に、あたりは静まり返った。
「私にとって、かけがえのない、大事なファンの皆さんには…私の話を最後まで聞いて欲しい」
会場にいる全員が落ち着きを取り戻したところで、再び胡桃美は話し始める。
「夢は人を成長させます。強くさせます。私は、私のファンの中に夢を持たない人がいるとしたら、これから見つかることを心の底から願います。夢って…自分が今までやってきたことの中から、生まれるものではないでしょうか?例え何かしたいと思っても、行動に移さなければ意味がありません。そんなものは夢ではなく願望です。願望には行動が伴わない。ただ望むだけで終わる。だから願望はいつまで経っても願望のまま。でも、夢には行動が伴う。何かを望むだけではなく、何かに挑みます。行動すれば、もしかしたら現実になるかもしれない。私はそう思って生きてきました」ここまで話して、胡桃美はいったん水を飲んだ。そして、これまで以上にはっきりとした口調で続けた。
「皆さん!どうか…やりたいことがあるなら、行動に移してください!願望を夢に変えて下さい!失敗を恐れて、自分の気持ちを抑え込まないで下さい!皆さんなら…私のファンになってくれた皆さんならきっとできる!私はこれから先、夢を追い続ける皆さんの、先駆けとなります!」
胡桃美は自分の荒くなった息を整えるために、話を停止した。そして、意を決したかのように続ける。
「私の夢は…アイドルと両立することができません。だから……私は…もう一度…一般人に戻らなければなりません。皆さんとは……ここで…お別れすることに…」
そのとき、会場から何人かの男性が「ウソだ!」と叫んだ。それを無視して胡桃美は続ける。
「私の最後のメッセージとお願いを聞いて頂けないでしょうか?」
それでも、泣き叫ぶ男性たちの声は途絶えることはない。横に座っていたスタッフが、食い止めようとしたが、胡桃美はそれを止めた。そしてファンの声が飛び交う中、再び胡桃美は話し始める。
「聞いて頂けないのならば、仕方ありません。そもそもこの場でお願いすること自体が厚かましいことでした。お伝えすべきことだけを、お伝えします。私は、本日をもちまして、スマイリーズを卒…」
「待って!」
一人の男性が一際目立つ声で叫んだ。
「お前ら!!それでもファンかよ!クルリンの最後の言葉くらい、聞いてやれよ!もう二度と…」
男性はここで声を詰まらせた。しかし、いつの間にか会場は再び静寂を取り戻していた。そして、胡桃美は口を開く。
「皆さんともっと長く関わっていたかった。もう会えないかもしれない。それは私もツライ。でも…私は夢を叶えたい!こんな自分勝手なわがままで、皆さんとお別れすることになってしまって、申し訳ございません。でも、先程も申し上げましたが、私は皆さんが夢を追い続ける先駆けになりたい!」
「さっきから…わがままばっかだ…私……」
胡桃美の目からは大粒の涙が溢れ出ていた。
「でも…そんな…わがまま…な私に…最後に…」
言葉が上手く繋がらない。
「おつ…かれと…言って…もらえ…な…いで…」
もはや声にならない。胡桃美は、ここで深々と頭を下げた。それと同時に自らの厚かましさも恥じる。胡桃美に続いて関係者たちも、一緒に頭を下げた。
人は何かを終えたとき、その相手の労をねぎらって「おつかれ」と声をかける。何も終わってないのに「おつかれ」と声をかけるられることはない。今ここでファンが胡桃美に「おつかれ」と声を掛けることは、胡桃美のアイドル人生の終わりを意味する。胡桃美はその言葉を、ファンの口から言ってもらうことで、本当の意味で「皆のアイドル、クルリン」から決別しようとしていた。自分の夢を貫くことを、ファンに認めて欲しかった。
祈るように目を瞑って、頭を下げている胡桃美は、大波が押し寄せてくるかのような、巨大な声の塊に包み込まれた。それは、会場のファン全員が作り出したものだった。会場の至る所から「クルリンおつかれ!」「今までありがとう!」「夢叶えろよ!」という声が飛び交った。全ての人を見終わる頃には、ようやく声が出せるようになった。十分以上も途絶えることのない、ファンの声援の中、凛とした態度で最後の言葉を言い放った。
「私、柴崎胡桃美は、本日、二月二十七日をもちまして、スマイリーズを卒業します!!」
胡桃美が言い終えた後も、ファンの声は止まらなかった。それは、胡桃美が退場した後も、警備員が止めに入るまで果てしなく続いたという。
卒業会見の一部始終を思い返し終えたときには、胡桃美は大粒の涙を流していた。一粒だったテーブルの上の涙の跡は、今や十センチを超える水溜まりとなっていた。
今日から胡桃美はアイドルではなく、また別の新しい人生への第一歩を踏み出すことになる。そう、小学校の時からの夢だった教師としての…
ー私は、生徒たちに夢を与える先駆けになる!
あの日、何千人ものファンの目の前で言った気持ちは、今もなお、あの時の新鮮度を保ったまま、胡桃美の心の中に保存されていた。
私はもうアイドルじゃない。でもその経験は、私の記憶を辿る物語の1ページになる。何かが終われば、それは心の大切などこかで更新される。そのときの合言葉。それが「おつかれ」
ーもしも…私が教師としての人生を終えたとき…もう一度私に言ってもらえないでしょうか?
クルリン、おつかれ!!
と。
おつかれ!