竹馬之友

建康

 建康(現在の南京市)は、まったく独特な都である。
 建康では、呉から陳の歴代の南朝の拠り所にして、六朝の特称を受ける漢詩文・画・書道・老荘思想などの文化が発達し、隋の煬帝も父楊堅が禎明三年(西暦五八九年)に北方から南朝陳を降して天下統一を成し遂げた際にはその江南文化の豊かさに溺れてしまったと伝えられる。
 しかし文化面だけを見るのは、光だけに見惚れてその陰影を無視することと同義である。その統一から約二百五十年前、東晋の永和元年の建康は風雅とは程遠く、本来の都で、江北に位置する洛陽を棄てる理由となった騎馬民族の外患と、帝権と貴族の力の削ぎ合いに気力をすり減らしていた。六朝文化は、軍政の憂いから目を背けた人々が生み出したというのが実態である。陳郡(安徽省)にもまた、清談で美名を馳せた青年が中央で官職に就こうともせずに膝を抱えて屈託なく笑っていた。
 年の頃は三十、白面にして眉目秀麗な痩身漢である。山河を眺めながら叔父と談義するときの語気など、明快で論点の高尚を感じさせないが、妙に意固地で幼稚なところを含めて可愛がられていた。この日も談詠を好む知識人の聴衆が集い、青年の涼やかな語り口に耳を傾けていた。
「淵源」
青年の話を遮り、聴いていた男が口を開いた。あざなを呼ばれてきくりとした青年は、男のほうを振り返って笑みを浮かべた。
「ああ、王さんですか。どうしました?」
「前々から不思議に思っていたのですよ。淵源なら分かりますかね?なぜ官職に就こうとすると夢に棺桶出てきたり、財産を得ようとすると夢にウンチが出てくるのか・・・」
衆は男が言い終えるころにはどっと爆笑しており、青年も身を乗り出して意味ありげな表情で破顔した。
「それはね、官というものじたいが腐臭がするからですよ。だから、フフ、腐った屍を夢に見るんです。銭にしたって、ごみみたいなものだから糞を見るんですね」
衆はどよめいて喜んだ。実は、この青年の回答を時の人が名言だとはやし立てたという話は正史の『晋書』に記載されている。
「うわあ、これは参ったな。しかしなんだ、淵源は官職に就くつもりはないのか?」
この質問を受けると、青年は今までの堂々を捨てて戸惑った。青年が過去に複数回、推薦され官への誘いを受けては断っていることを知っての質問だから、反応に困ったのだろう。やっと否の意を示すと、知識人達は落胆の表情を露わにし、さきの男が説得に身を乗り出した。
「そんな、勿体ない。たしかに淵源の言うとおり、いま官は腐っています。しかし、だからこそ淵源のような有能な人材が必要なのですよ。私達もくだらない政治を捨てた身ですが、淵源は特別です」
「・・・にしてもです。私を官に就かせる気にさせるには建康が不安定過ぎます」
青年は愉しまずにぶっきらぼうに吐き捨てた。
「しかし。今年に即位された皇帝陛下など、まだ乳児です。どうせ皇太后あたりの外戚が出しゃばるのでしょう。この乱世にそのような憂いを抱える気にはなれません」
饒舌を増した青年を見てもまだ聴衆は難儀を示していた。しかし青年の言うことも揺るぎようのない事実である。

 この年、永和元年に、五代目皇帝の穆帝が褚太后の腕に抱かれて即位した。二歳の赤坊で泣くことしか能がない皇帝を抱えた東晋は、会稽(浙江省周辺)王の司馬昱の練達な補佐により成り立っていたとはいえ、青年の言うとおり、外戚、つまり皇室の親戚が政治を乗っ取ってしまう可能性は大いにあったのだ。外戚は漢の呂氏を筆頭に国に害を成すことの多さで有名だから、その警戒は当を得たものと言える。
 だが褚太后の外戚にかぎってそれはまったくの的外れであった。
 褚太后の父親である褚裒は当初、金城(甘粛省・蘭州市)で務めており、外戚の権力を使って中央の重職に就くことも可能だったのだが、褚裒は固辞したのだ。のちに吏部尚書が褚裒を訪ねると、
「会稽王の政治の蔭で中央も安定してきているというのに、なぜあなたは政権を輔けてくださらんのか」
と問いつめられた。しかし褚裒は眉一つ動かさずに語った。
「以前、上疏したのだ。とくにその方面の才能もない私が要職に就いてはいけないと。皇太后の父だからといってそのような雇用をするようなら晋朝もおしまいだとな」
毒舌である。だがその素直さがすなわち褚裒の真面目さでもあった。

 翌年、褚裒は征北大将軍となったが、開府となることは断った。同様の意図を持っての判断なのだが、征北の肩書が楽なわけもない。晋の軍事は北府と西府に分かれているが、常の認識として、北西方の国の襲撃を防ぐこと、そしてあわよくば併合しての旧晋領の奪還が期待されている。北府と西府に二分されていることは先に触れたが、西方の巴蜀(四川省)の漢国はさほど危ぶまれていない。それは無論、北方の趙に比べた場合の話であるが、落ちぶれている漢に比べ、趙の君主は老いてもなお暴虐さを保っている。
 趙は、晋を南に追いやった匈奴の国から下克上して生まれた北方民族の国家で、長安・洛陽の両都を抑えた上に、華北のほとんどを猛将石虎が駈けずり回って制圧した国である。かつての猛将ももはや戦場には出る気配は無かったが、その威と血臭さは衰えること無く玉座を共にしていた。老体を鞭打って金城からの早馬の報を受け取ると、石虎は刹那的に気性の激しさを発揮し、怒鳴り散らした。
「麻秋がまた涼軍に敗けたか。あやつは二度目だろう」
拳を静かに握り、石虎の声が金で埋め尽くされた宮内に乾いた響きをもたらした。
「主上、失礼ながら涼軍を率いていたのはあの謝艾で、到底ーー」
石虎は象のような身体を起こし、麻秋を庇いはじめた伝者を睨んだ。無言で侍臣に目配せをすると、伝者は奇声を上げながら左右を掴まれて連れ出された。まだ鼻息荒い石虎はため息を吐いて玉座に沈み込んだ。
「・・・謝艾だから何なのだ?わしであったら涼のような小国はとっくに滅んでいる」
「ふふっおかしいな。昔のわしであったら・・・でしょう」
無遠慮な言葉が聞こえ、石虎は瞼をぱたつかせて声の主を探した。やがて膝上の男子を見つけると自身の鈍った感覚に苦笑した。
「お前か・・・」
「うん。陛下、もう怒らないよね?」
老暴君は、膝に乗った孫を前に怒気を飲み込んで頬を緩めた。
「ああ。思い出した、お前はたしか麻秋が好きなのだったな。よし喜べ、麻秋は罰しないからな」
「よかった。麻将軍は僕に優しいんだ。それに、また涼と戦うときのために麻将軍がいたほうが良いでしょう?」
膝の子は小さい頭を必死で働かせているようだった。石虎の子でほぼ実務を任せている石宣の息子だけあって軍事に興味があるようだ。石虎は子の頭を撫でた。
「賢い子だな。だが心配に及ばん、涼はおそらくわしを恐れて近づかない」
「なんで?陛下はもう戦場に出ないんでしょう?」
老人は月光に照らされてにやりと戯けて見せた。
「戦場になど出なくても、存在だけで心を震わす人物はいるものだ」

「趙軍の襲撃だ!!」
 夜更け、見張りの叫びに叩き起こされた褚裒は、蹴倒した酒杯に目もくれず武装した。酒を飲まなかったのが正しい判断だったことに密かに感謝し、寝ぼけ眼の兵を叱咤してまとめた。城壁から暗闇の戦況を落ち着いて見れば、何の事はない、かがり火の数こそ多いが指揮官がどうも頼りない。頭上の褚裒を、敵の指揮官はでたらめを濁声で喚きかけた。匈奴の言葉である可能性はあったが、どのみち褚裒相手には意味を成さない。
「あやつ、酔っ払っているのか?気が大きくなって出陣してきたのだな。お前たち、こんな敵は放っておいても無害だが、せっかく趙軍を叩きのめせる機会だしな、思いっ切りやらないか」
兵が興奮を示し始めたので、褚裒は嬉しそうに頷いた。石や矢を持ってこさせ、関の城壁から真下の敵に降り注がせると、あっという間に、さながら蛍の光のようにかがり火が乱れて消えたり、目を疑う勢いで検討違いの方向へと走っていった。ごうごうと叩き落す音に負けぬよう褚裒は声を張り上げ、追撃の用意をさせた。褚裒自身、愛馬に跨り関門を開かせて、雄叫び声を挙げると、背後の騎兵も奮い立ち戟をぴんと立てた。乱戦と化した闇に突っ込むと、面白いように敵隊崩れた。それでも褚裒は冷静に敵隊に侵食し、後方に逃げた指揮官にたどり着かんと剣を振るった。逃げ惑う兵にうまく退却できない指揮官との距離が徐々に詰まっていく。指揮官は思考が停止したように目を泳がせ、しきりに太腕で汗を拭いた。その腕にも剣先が届こうとする刹那、剣が弾き飛ばされた。
 今まで熱烈な表情をしていた褚裒も、状況が飲み込めずにいると、指揮官は罵るように怒鳴って逃げる軍の向きを反転させた。あまりに無謀な指揮なので褚裒は隊の進撃を続けさせたが、指揮官がえいえいと乱暴に大馬を叩いて駆り立てるので、血が飛んで被害が続出した。褚裒は目を血走らせ、歯ぎしりをして素早く判断を下した。
「退けーッ、退くのだ」
隊はひとりの指揮官の暴走のために退くのを悔しがったが、褚裒が文句を言った兵を斬りつけてしまうと、真っ青になって関門へ走り帰った。
 事後、褚裒の幕営に訪問者があった。それに褚裒が気づいたのは、机の上でか細く揺れていた蝋燭が乱れたからだった。褚裒は咄嗟に白線の増えた髪を引っこ抜き、火に与えて光源を蘇生させた。
「褚征北、お話を伺いたく・・・」
一人で酒を嗜んでいた褚裒は特に驚いたふうもなく、男を横に座らせた。
「徐龕ではないか。伺いたいというのは今夜のことか?」
徐龕と呼ばれた男は座を正して答えた。
「はい、征北がなぜあの状況で隊を引き返させたのかと。あのまま進んでいれば戦果も大きかったでしょうに・・・」
「なに、単純なことだ。あの指揮官の力量を恐れた」
徐龕が何か言いたげに膝をさすったのを見て、褚裒は微笑んだ。
「なんだ?私が過剰に恐れていると思うのか?」
「いえ、ただ、いくら石虎下の軍とはいえそのような怯懦に襲われるとは・・・」
「ははは。怯懦ではなく、慎重なのだと言って欲しいな」
褚裒は顔をわずかに俯け、徐龕から目を逸らした。
「分かるか?私とて、可能なことなら趙に攻め込んで都市のひとつも奪還したいのだ。だが如何せん私や今の晋では及ばない・・・今は我慢しろ。勝機をつかむための尽力はしている」

「淵源、本当ですかい!?会稽王様に召しだされたってえのは」
「やあ、王さん」
顔を赤らめた青年は、常の通り書を広げていた。長平県は未だ平和だったが、勘のいい者はどこか不穏な空気を感じ取っているようだった。そんな中、青年はいつに増して能力的な期待をされていた。管仲のようだと輝かせた目を向けられたり、諸葛亮のようだと囃し立てられるのだ。そのように歴代の名宰相と比べられても、当の青年は宰相になど興味すら無かった。
「はい、先日。どうやら褚征北の推薦だったようで・・・しつこく晋に仕えてくれと打診されました」
「へえ、征北大将軍様の推薦ですかあ。でも、なぜ淵源はまだここにいるんですか。建康へ行かないんですか?」
「いやいや、私は一生ここに居ますよ。仕官の件はきっぱり断らせていただきました」
「えっ、そんな、なあ淵源」
男は髪をかきむしった。青年が士官するというのはもはや輪内では既成事実なのだ。密かに喜んでいた仲間のことを思うと、まさか早合点だったとは言えない。
「考え直してくださいよ・・・仕官だってやってみればそこまで悪くないですよきっと!」
「いや、以前に仕官したことはあるのですよ。しかしすぐに辞めてしまってね」
涼しい表情をした青年に、男はいよいよ頭を抱えた。

 青年はその後、幾度と打診されても揺るぐことはは無かったが、三月も経つと、荷をまとめ始めて遠くを見つめる様な仕草を時折見せた。王という男も仲間の変化に気付いており、青年のもとを訪ねては、
「淵源、行くのですか?」
と、背中を押すことに躍起になっていた。通常なら一笑に付して話題を逸らしてしまうところだったが、ある日ついに「行くかもしれん」とこぼした。
その心境の変化に男が驚嘆してると、その反応を青年はけらけらと面白がった。
「なぜだか知りたいですか?私の幼馴染に桓温という者がおりましてね。彼は荊州刺史なのですが・・・」
「へえ、それは随分と大物ですな」
「その桓温が、西方の漢へ攻め込むと上表したそうなのですよ。それがどうしたかというと、桓温はね、ふざけることが好きな少年でした。そんな桓温がいまや国家の大事を引率しているだなんて我慢できなくて」
「ははあ、つまり旧友の活躍に対抗心が芽生えたのですね」
「まあそうですね。褚征北に直接説得されたことも大きかったのですが。本当に外戚らしからぬお方だ・・・」
「そうかもしれないですね。いやしかし良かった、淵源が中央へ行けばその友人より出世しますよきっと」
青年は舞い上がる仲間に意味深な視線を投げかけて、呟いた。
「桓温か。どうでしょうかね?」

 さて、桓温は冬の遠征に備えていたが、責任の重圧にも関わらず、恐れは抱いていなかった。巴蜀の漢国は、十年前の李雄の死去以降、安定したことがない。今の君主の李勢も衰退し続ける政治になどは目もくれない。要するに国としては恐れるほどのこともないのだが、何にせよ山奥で天然の要塞なのでまず攻め込むことが難しい。朝廷はそれを指摘したが露骨に反対するものはなかった。桓温は皇帝の婿となって荊州刺史にまでなった実力者だからだ。豪快な性格であることも関係しただろうか。
 桓温は出陣の際、弓を弾き絞った。全身を程良く緊張させて、矢が手を離れた瞬間の反動を受け止めた。矢は勢いよく弾け飛び、空気を切りながら西北へと流れて行った。
「これは・・・」
桓温は戸惑いながら凶兆かどうか訊くと、晋が漢を滅ぼすことを意味していることを聞かされて目を輝かせた。翌年、成立から四十年、桓温が李勢を捕えたことにより漢の領土は晋のものになっていた。征西大将軍に昇格した桓温は江陵に戻り、将を成都に留めて度々起こる元漢将の反抗を平定させた。
 これは近頃、常に防御に回っていた保守的な晋にとっては快挙である。さらに、その年のうちには、趙の混乱のうちに独立した苻氏の秦が趙の勢いを削いでいた。その趙の混乱というのは、石虎にとって凄惨な事件であった。
 石虎は息子の石宣が寵愛していた子を殺した上に、自身さえも殺そうと企んでいることを知ってしまい、石宣とその宗族や臣下をほぼ殺しつくしてしまったのだ。石宣などは燃やされる前に身体をズタズタに斬られて惨殺された。その灰を認めると、石虎はその妻子十人を処刑させた。これも幼少からの持前の残忍さを発揮した結果といえる。しかし最後の子が処刑されようという時、石虎はふと興奮状態から覚めて、呟いた。
「おい、あの子供は・・・」
「へいか!」
いつも石虎の膝に乗って遊んでいた少年である。少年は石虎に駆け寄って鼻をすすり始めた。
「ねえ陛下、なんで殺されちゃうの?僕に罪は無いでしょ?ねえ」
「あ、ああ・・・そうだな」
石虎は少年を抱きあげて常のように膝に乗せた。それだけで涙目になり、情に負けた石虎は赦さなければいけないと思った。それを宣言をしようとした瞬間、大臣が飛び出してきた。少年を処刑するために来たのだと分かると、石虎はにじり寄る大臣に、
「まあ待ってくれ。わしはこの子が可愛いから・・・」
と説明に乗り出した。しかし大臣は聞こえないかのように少年の脇を抱えて石虎から取り上げてしまった。石虎は叱りつけようと立ち上がったが、大臣の凄まじい形相に老体がひるんでしまった。
「情に動かされるなど、昔の陛下であったら考えられませんね」
そう言い放たれると、石虎は茫然としたが、身をよじって逃げた少年が石虎にしがみつくと我に帰った。引きはがされまいと石虎の衣にしがみつき泣き叫ぶ子供に、左右も同情していたが、石虎は目を瞑ったきりぴくりとも動かなかった。やがて少年が抱えられて引き離されると、石虎は無言のまま寝室に引きこもった。その後、石虎は鄴に都を移したが、間もなく息を引き取った。病死である。幼い子が処刑されるのを見て、歴戦の猛将が致死の病を発してしまったのだ。

ーー石虎、死す。
この報は各国を走り抜け、晋を揺るがした。これを受けていちはやく趙国の征伐を上表したのは、褚裒であった。
「今しか機はありませぬ!」
険しい表情で建康へ駆けつけた褚裒の言葉は、控えていた会稽王含む全員を緊張させた。みな石虎の死により華北が弱っていることは重々承知であったが、昨日までの襲撃の獰猛を考えると足がすくむのであった。皆の反応と同様、褚裒の娘にあたる褚太后は口元に手を当てた。
「・・・何を申します。我が父にそのようなことをさせるわけにはいきません。分かっていますでしょ?朝議も同意見です」
「構っていられません。華北を奪還したくはないのですか」
褚裒は娘のその仕草にさえ苛立った。なぜ皆、国事を軽視する。
「それは・・・」
「私は国のためと北を守ったり、殷淵源などの賢人を採用するのに努めました。まさか私を信じていないとでも言いたいのですか」
これに、褚太后ではなく会稽王が折れて疲れた声で短く答えた。
「太后、臣はお父上に任せるほうがよいと存じますが・・・」
会稽王に全面的な信頼を寄せている褚太后は仕方なく褚裒に許可を与えた。

 桓温もまた北伐をしたいと考える一人であった。安陸に駐屯して様子を窺った。褚裒を意識していないわけはなかっただろう。
「桓温は凄いよなあ」
呑気に呟いていたのは、殷淵源である。この青年が抜擢した王羲之は、かの有名な「書聖」で、青年に懇願されて部下となったのであった。王羲之はこれを聞きつけて常のような朗らかに語った。
「淵源殿はよく桓征西とご自分を比べられますね」
「・・・む、そうだな。桓温は幼馴染だからな」
「比べなくとも優劣はすぐ分かるでしょうに」
青年は頬を膨らませて机に突っ伏した。どちらの意味とも取れる巧妙な返事だ。
「優劣か。それは今回の北伐では分からないだろうな。何せ今回の北伐の花形は何といっても褚征北なのだから・・・」

 褚裒は、彭城(江蘇省)へ向かっていた。既に将の王頤之を遣わして通路は確保してある。褚裒の軍は兵数実に三万、荘厳に甲冑を纏って表情に緊張をほとばしらせていた。石虎不在とはいえ、趙はやはり大国なのだ。幸先が良いのは、下邳城を攻めさせた麋嶷が速攻に趙軍を潰走させたことだ。さらに、彭城へ向かう先々で、石虎の暴政に苦しんでいたのだと士人や庶民が投降していた。『晋書』には一日に千人とあるほどである。
「徐龕、これは勝てそうではないか?」
褚裒は特に信頼している徐龕と馬を並べた。
「征北・・・実は私もそう考えております。石虎の暴政のせいでしょうか、趙の命脈はもう長くないような空気を感じる」
「そうだな。趙の支配下の者たちが可哀想だ。早いところ華北を救いたい」
褚裒は天を仰いだ。石虎を失った鄴は混乱を極めていた。石虎の子の石生が帝位を継いだが、わずか三十三日後には兄の石遵に弑逆されていた。これは晋を除いた五胡十六国時代の国にはよく見られることで、皇帝の死後、武力で勝る者が後継となる。漢民族の国である前涼でさえ主君位をめぐる殺し合いがあったから、何も胡族のみの風習というわけでもない。弱肉強食の世界である。そういう経緯であったが、石遵が石虎以上の統率力を見せることは無かった。
 ここにおいて徐龕は別行動を取ることとなった。士人や農民などの非戦闘員を多数抱えた褚裒軍は、機動力を著しく失っていたからだ。褚裒等を先回りして沛を討たせた。沛での徐龕の活躍は、目を見張るものがあった。敵軍を分断して各個撃破し、難なく沛国相を捕らえた。改めて褚裒軍と合流する頃には、投降者がさらに二千増えていた。
「石虎亡き趙がここまであっけないとは」
褚裒は目を丸くしていた。この朗報が晋に届くと、殷淵源はふと不安に襲われていた。
「なあおい王羲之、褚征北はすごいな」
「何です、いきなり」
王羲之は書を書き留めていた手を止めて振り返った。
「いや、いくら石虎抜きとはいえ趙が征北の侵攻をここまで許すとは思わなかったのだ。王羲之もそうだろう」
「私ですか。いや、征北は情熱的なお方ですからね、天は見ていたということでしょう」
「天か。まあ大事にはならないだろう。何せ晋には桓温と、このおれがいる」
王羲之には青年が褚裒を暗に批判していることを悟ったのか、無言のまま元の作業に戻った。

「魯郡が可哀想だ」
褚裒は近頃、そんな言葉を吐くようになっていた。魯郡は確かに五百余家を持つ大域である。すぐ近くにあるにも関わらず、未だ趙の支配下にあるのが不憫になったのだろうか。
「救わねばなるまい。徐龕はどう思う」
褚裒の視線は意見を求めるものではなく、自分の発言の裏付けを欲しているようだった。
「いえ、お気持ちは分かりますが、戦略的には代陂を攻めたほうがよろしいかと」
「確かにそうだ。しかし今魯郡を救わねばいつ救うのだ。ここは正道を取って代陂は後にするべきなのではないか」
「いやしかし」
徐龕は食い下がった。徐龕は感情論が嫌いで、理性的な行動を取る褚裒に憧れた部分もある。褚裒の口調に怒気が混ざり始めた頃から徐龕は妥協したと見せかけた。しかし歩兵の三千ばかりを連れ数日かけて魯郡に進軍すると決まったが、徐龕は魯郡に行くつもりはなかった。命を逆らったわけだが、徐含はむしろこの行動が正しいと信じていたらしく、代陂に向かった。
 代陂で、石遵の守将の李菟は、これを知ると先手を取って騎馬で迎撃に動いた。斥候の陰で奇襲に気付いた徐龕は急いで兵に戦闘の構えを取らせた。徐龕としては、ここで一気に叩き潰してしまえば手間が省けるところだった。しかし、それとほぼ同時に李菟自身が槍を手に徐龕のいる中軍に突っ込んできた。大胆な攻撃に驚いた徐龕は応えて趙兵を斬り倒して道を開け、李菟を討ち取らんとした。しかし李菟の槍は確かで、徐龕は彼の一撃を跳ね返すのが精いっぱいであった。たまらずに引き返して中軍をまとめようと馬を返した瞬間、徐龕徐含は軍がすっかり蹴散らせていることに気付いた。自分は今まで主将と戦っていたはずなのに、趙兵は統率者なしでここまで戦えるのかと混乱したが、冷静に戦況を見ると、将軍らしき男が指揮をしている。
「貴様ッ!李菟ではないな。偽物か」
徐龕は唾を吐きかけると、指揮をして着々と晋兵を斬り伏せていた本物の李菟に向かって馬を走らせた。だが、周りに味方はなく、たちまち趙兵に囲まれたので徐含は仕方なく生き残った兵を集めて、李菟の騎兵が通用しない密林に逃げ込んだ。しかし騎兵は竹を斬り払いつつ執拗に追いかけてくる。血を吐く思いでかなり奥まで走ると、馬蹄が聞こえなくなった。
「助かったか」
と思い、何とか着いてこれた兵数を数えた。脱落者も多く、大半が戦死したと判明すると徐龕はさすがに落胆し、褚裒の命令を聞かなかったことを悔やんで案内役に褚裒と合流する術を聞いたが、案内役にも分からないようであった。憤慨して案内役を蹴り倒す。
「どうしてくれるのだ。面目も何もあったものではない」
そう叫んだかと思うと、馬に飛び乗って来た道を引き返した。取り残された兵は茫然とその後ろ姿を眺めていたが、やがてぼそぼそと話し始め、趙軍に投降するとの意見を一致させた。
 最初の敗報を聞いたとき、褚裒は徐龕の命令違反をひたすら怒って怒鳴り散らしたが、さすがに早急な判断で援軍を送ることを決めた。しかし今度は徐龕が敗れて死んだと知ると虚脱した。
「徐龕が殺された・・・?」
「はい。徐将軍の名誉のために言いますと、徐将軍は趙賊に襲われながらも指揮官の象徴である節を離さなかったそうです。立派な最期だったと自分は思いますね」
褚裒は聞こえないかのようにふらふらと去り、幕営にいた者は微かにすすり泣きを聞いた。

 褚裒はこの敗戦の後、建康の朝廷に降格を願い出た。が、朝廷はこれを許さず、代わりにこれ以上留まることを許さなかった。京口(江蘇省)へ南下するときの褚裒は、声も発さずただただ沈鬱を胸に閉じ込めているようであった。少しづつ咳をすることが増えたことにも、気づかなかった者は多い。褚裒としては、降格してでも留まって徐龕の無念を晴らしてやりたかったことだろう。
 京口に近づくごとに、すすり泣く声が大きくなっていた。無論兵のものである。到着するまでになると、褚裒の左右まで涙を流していた。もらい泣きして涙目になっていた褚裒は、分かっていながら何故泣いているのかを訊いた。
「それは・・・もし代陂で勝っていれば・・・と・・・」
しゃくりあげながら答えられると、褚裒は涙さえ止まって死人の眼になった。この年発病した褚裒は、翌年静かに息を引き取った。外戚としては珍しく慎み深く、むしろその熱情は人一倍だった褚裒は多くの人に慕われて追悼された。代陂の敗退は惜しまれた。石遵は石虎ほど優秀な統率者ではなかったから、あのまま勝ち進んでいれば恐らく華北の大部分を晋が切り取ることができたのではないか、と思われたからだ。

 このとき、石遵は弟に趙の帝位を奪われていた。だが、その弟も石閔という石虎の養子に奪われた。石閔はかなり特徴的な人物で、本来は冉閔といって漢民族である。石虎が支配下の漢民族から税金に留まらない物資を搾り取るのを近くでつぶさに見ていたからだろうか、冉閔は驚きの行動に出る。冉閔は当初は幼帝を担ぎ上げて実権を自分で握ろうとしていた。しかし幼帝がそれを疎ましく思って殺そうとすると、激昂して趙室数十人を殺してしまい、胡人のみを殺すという歴史上に残る大虐殺を行ったのだ。姓を「石」から「冉」に戻した冉閔は鄴で「魏」の国を建てて皇帝を自称した。

「なあ、王羲之」
青年は相変わらずのんびりとした口調でもはや友のようになっている部下に呼びかけた。
「はい、ご用でしょうか」
王羲之はもはや作業しながらでも受け答えできるようになったので、振り向かずに手を動かし続けた。
「冉閔はすごいと思うかい」
「凄い、というより凄まじいですね」
「そうだな。あ、王羲之は桓温に会ったことが無いんだっけか」
「左様です」
「桓温はな、冉閔に似てると思うよ。べらぼうに強いところとか、少し短絡的なところがな」
「短絡的?そうでしょうか」
王羲之は含み笑いをした。青年が反応して振り返ると、王羲之は楽しそうに呟いた。
「冉閔が短絡的なのに間違いは無いでしょう。国の人口を減らして良いことなどない。一方で桓征西は、元穆さま(褚裒)が逝去した陰で着々と荊州の勢力を伸ばしているではありませんか?・・・」
青年はにやにやと聞いていたが、からかうように王羲之に笑いかけた。
「なんだ、頭は働いても王羲之も若いな。だからこそ、桓温は短絡的なんだよ」
王羲之は面食らって思わず筆を止めたが、青年はとうに元の作業に戻っていた王羲之は俯き、先ほどまでの問答を再生して殷淵源の意図がどこにあったのか探ろうとしたが、掴めなかった。それとなく殷淵源の背中を眺めていると、彼は突然立ち上がった。どうやら廊下の騒ぎを聞きつけたらしい。
「王羲之!おい!ちょっと来なさい」
殷淵源はドタバタと屋外へ行く準備を済ませて王羲之を手招きした。仕方なく何十に上着を羽織て冷たい外の空気に触れると、月明かりに空模様がどこかおかしいのが分かった。殷淵源は輝いた眼差しで人差し指を夜空に向け、ある一点に集中させた。王羲之もつられてその先を見つめると、すっと青い光が現れた。
「あっ」
殷淵源含む、騒いでいた全員が色めき立った。青い光は直視できないほど眩しく、また月より大きく見えた。王羲之の耳にも雷のように燃える音がした。
「あの彗星は、私たちに何を伝えようとしているのでしょう・・・」
皆が驚嘆の声を挙げる間、ふと口にすると、殷淵源がきゅっと目を細めた。

「さぁ、何であろうな・・・」

襄国

「殷都督、昇格おめでとうございます!」
王義之は本心から拝礼した。永和六年、殷淵源は中軍将軍・都督五州軍事となったのだ。
「お前に都督などと言われると恥ずかしいな。公の場以外では今まで通り『淵源』でいいぞ」
殷淵源は眉をひそめた。これが照れ隠しのようで可愛らしい、と王義之は思っていた。今年の初めに共に彗星を見て以来、殷淵源がどこかよそよそしい、と考えていた王義之にとっては珍しく打ち解けられる機会だった。
「都督などと御大層な官職名を賜ったが、正直私は複雑な気分だよ」
殷淵源がぶつぶつと文句を言うのも、照れ隠しのようにも解釈できたが、実際に殷淵源の昇格はあまり穏やかな背景を持たない。要は、陰で着々と力を蓄えている桓温の対抗馬なのだ。晋の朝廷も、盲目なようでいて見るべきところは見ているのだろう。
 石虎亡きあとの趙にはもはやかつての繁栄の欠片も見当たらず、残骸が所々に見えるだけであった。その最大の残骸こそが冉閔であった。今や華北の大勢力は冉閔の魏と、それに関中で苻洪が建てた秦である。苻洪はもともと趙の支配下にあったチベット系の氐族であるが、石虎の生前に反乱を起こして独立した。この二大勢力が、今では晋の悩みの種であった。
 冉閔は漢民族として晋に好意的なはずだったが、今や趙室の再興を図った残党と激しい攻防を繰り広げている。これに巻き込まれれば、北伐どころではなくなる。秦のほうは苻洪直々に援助を求める使者となったが、早々に部下の将に毒を盛られて死に、後継の苻健が晋に好意的に動く様子は無かった。

「桓征西、困ったことですね」
江陵にて。桓温の将がすり寄っていた。桓温はこの将がごますりが好きなことを知っているので、長話はしないつもりで訊き返した。
「何がだ」
「冉閔ですよ。冉閔。彼のせいで北伐を目論んでいたのが台無しになったではありませんか」
「ふむ、確かにな」
桓温は、嫌な記憶を掘り返されたので苛立った。石虎が死んだ直後に桓温は北伐を上表したのに、朝廷はうやむやにしたまま、冉閔がいるから駄目だという言い訳ができてしまうまで待ったのだ。
「しかしなぁ、まさかお前はおれが冉閔に似ているだなんて言わないよな」
「はい?」
いきなりの話題転換に将は困惑していた。桓温は苦笑して説明をした。
「いや、前にそういう話を偶然耳に入れてな。何でもないんだが」

竹馬之友

竹馬之友

中国東晋時代、竹馬の友の語源となった2人の奇妙な北伐。随時更新。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-01-05

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